海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2015年

製作:松竹ブロードキャスティング
公開:2015年11月14日
監督:橋口亮輔 製作:井田寛、上野廣幸 脚本:橋口亮輔 撮影:上野彰吾 美術:安宅紀史 音楽:Akeboshi
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

エンタテイメントを求める人には辛い作品
 タイトルから連想されるイメージとは大きく異なる辛口でシリアスな物語。
 3組のカップルのエピソードが並行して進むが、1組目は通り魔事件で死んだ亡妻と残された夫(篠原篤)、2組目は平凡な日常を送る人妻(成嶋瞳子)と詐欺師の男(光石研)、3組目はゲイの弁護士(池田良)と既婚の学生時代の親友(山中聡)、と世相を映した社会派のドラマとなっている。
 本作の優れている点は、この3組の人物描写が精細であることで、とりわけ妻を亡くした夫と浮気する人妻の台詞と演技はリアルで、生々しい存在感に目を背けたくなるほど。どこにでもいそうな平凡で愚かで誠実な等身大の人物像で、俳優も美女でも美男でもないごく普通の容姿。そうしたありふれた人間のありふれた日常に起きた波紋を通して、番う相手の存在への洞察がテーマとなっている。
 非常によくできた作品だが、この洞察にどこまで迫り得たかというと不消化は否めず、妻を亡くした夫は情けない自分への絶望の中から再出発を図るものの、平凡な日常に回帰する人妻と弁護士に前進はなく、それが現実だと割り切るには余りに悲しすぎる。
 弁護士のエピソードにも不満があって、他のエピソードの人物像が明確に描かれているのに対し、ゲイである男には高慢で人間性のない印象だけが残り、思慕していた同級生と同棲相手に対する思いが伝わって来ず、番う相手に何を求めていたのかがわからない。
 詐欺師の男の愛人に安藤玉恵と美女は一人も登場しない。商業的ヒットは狙ってなく、映画にエンタテイメントを求める人には辛い作品。 (評価:2.5)

さようなら

製作:ファントム・フィルム
公開:2015年11月21日
監督:深田晃司 脚本:深田晃司 撮影:芦澤明子 美術:鈴木健介 音楽:小野川浩幸

人間よりも人間らしいジェミノイドFの演技力
 平田オリザの同名戯曲が原作。
 原子力発電所の火災によって全土が放射能汚染された近未来の日本が舞台のSF。
 全国民が世界各地に移住して行く中で、最後まで日本に残る白人女性(ブライアリー・ロング)とアンドロイドの交流を描く。
 アンドロイドは阪大が開発したジェミノイドFと呼ばれるロボットで、人間の女性に見える反面、人工物の無機質さを備えていて、逆に人間では演じられない演技力を発揮する。
 白人女性は幼少にアパルトヘイトが廃止され黒人暴動を逃れて家族とともに日本に移住した難民で、病弱だったために両親からヘルパーのアンドロイドを与えられ友としていているが、死期が近づいている。
 在日韓国人の恋人(新井浩文)がいて結婚を望んでいるが、難民であることを告白した途端、恋人は難民と結婚して海外移住の順番が下がるのを嫌って結婚を拒否、家族とともに韓国に移住してしまう。
 物語のベースには、原発事故によって難民となる日本人と本来グローバルであるべき在日外国人が、差別される側・差別する側に関係なく、エゴイズムによって簡単にその立場が入れ替わってしまうという、悲しい人間不信が描かれる。
 南アで黒人を差別していた白人が、立場が入れ替わって差別される側となり、同じ立場のはずの日本で差別されている韓国人からも裏切られてしまう。
 彼女が唯一友とするのは人間ではなくアンドロイドで、生も死もないアンドロイドは彼女の思い出だけを胸に、彼女が心の支えにしてきた数十年に一度だけ花を咲かすという竹の開花を、彼女の代わりに待ち続ける。
 人間に尽くすことだけを使命とするアンドロイドは、彼女の思考や感情を学び取るうちに彼女そのものとなったというラストで、白骨化していくシーンに無常と転生を見ることもできる。
 女性とアンドロイドの間で幸福についての詩が交わされるが、彼女にとっての幸福が今ひとつ明確になっていない。 (評価:2.5)

脳内ポイズンベリー

製作:フジテレビジョン、集英社、東宝
公開:2015年5月9日
監督:佐藤祐市 製作:石原隆、渡辺直樹、市川南 脚本:相沢友子 撮影:清久素延 美術:相馬直樹 音楽:井筒昭雄

軽いタッチのラブコメだが、独身女性の重いテーマがシリアス
 水城せとなの同名漫画が原作。
 なかなかパートナーが見つからない独身30女の恋愛を描く物語で、自分の中にある様々なキャラクターが自問自答する様子を、脳内にいる6人のキャラクターの問答として描く。
 設定的にはキワモノめいているが、この6人のキャラクターが上手く描き分けられていて、恋に揺れる女の自己分析や男に対する観察眼が結構マトを得ていて、リアル。結婚したいのに良い相手が見つからない独身女性には、少々リアルに過ぎるかもしれない。
 物語は30歳になる携帯小説作家が23歳の芸術家の卵に夢中になってしまい、それが婚期を逃しつつある自分にとって現実的ではない恋愛だと煩悶する。一方で、いい人だけど恋愛対象にはならない編集者に恋を打ち明けられて、それを現実的な道だと受け入れようとして、結局現状を変えることができない。
 そうした中で、人生にとって最も大切なことは、自分自身を大切にすることだと気付き、良い結果を招かない恋愛を捨てる決意をするという、独身30女の自立の物語。
 物語そのものは携帯小説風に、軽いタッチのラブコメとして描かれるが、結婚という人生最大の問題を前にして、どのように生きるべきかという独身女性の重いテーマを取り上げた、シリアスな作品となっている。
 この6人のキャラクターの問答に揺れ動く、ピュアな心の女を真木よう子が好演。脳内キャラクターに西島秀俊、神木隆之介など。 (評価:2.5)

ヤクザと憲法

no image
製作:東海テレビ放送
公開:2016年1月2日
監督:土方宏史 撮影:中根芳樹 音楽:村井秀清

虎穴に入っての突撃取材だが、虎子を得たかは疑問
 大阪・西成の暴力団、二代目清勇会の協力を得て、暴力団事務所の日常生活を記録したもので、ヤクザ映画とは違う暴力団の実態が垣間見られるのが興味深い。
 指のない如何にもな風采の組員や入門仕立ての青年もいて、不法行為によってシノギを立ながらも、共同生活による一種のコミュニティ、生活互助会のような雰囲気が漂う。
 21歳の青年は事務所の掃除から道路の清掃、料理などの雑務をしながら、事務所内に個室を与えられ、住み込みの事務員のようにして生活をしている。
 その共同生活を支えるのがシノギで、みんなで稼いできた金で共同生活をし、小遣いも分配される。
 直接には語られないが、彼らの多くは社会から落ち零れた者たちで、一人では生計を立てられない者たちが寄り集まって互いを支え合っている。
 西成で商売をする人々を含めて出自や貧困で社会から疎外された者たち同士が支え合うが、その中に山口組の弁護士も加わり、社会から切り捨てられた人たち、犯罪に手を染めざるを得ない人たちには人権がないのか、と主張する。
 清勇会会長の川口和秀は、本人によれば冤罪だという約20年間の服役を経た筋金入りのヤクザだが、一見、有能なエリートビジネスマン。話も理路整然としていて、切れ者であることが伝わってくる。
 もちろんカメラには彼らの暗部は映らないわけで、撮影されたものだけで彼らの主張を真に受けてはならず、彼らに正当性があるわけではないが、角度を変えて見れば社会のもう一つの断面を覗くことができる。
 虎穴に入らずんば虎子を得ずの突撃ドキュメンタリーだが、川口の掌の上で転がされた感はあって、虎子を得たかは疑問。 (評価:2.5)

さよなら歌舞伎町

製作:ギャンビット、パピネット
公開:2015年1月24日
監督:廣木隆一 製作:藤岡修 脚本:荒井晴彦、中野太 撮影:鍋島淳裕 美術:山本直輝 音楽:つじあやの

ピンク全開の中で前田敦子の演技が痛々しい
 歌舞伎町のラブホテルの一日を描く、グランドホテル形式の群像劇だが、ラブホの店長(染谷将太)がストーリーの中心。恋人役の前田敦子は、ピンク出身の廣木隆一では活躍の場がなく、ヒロインはむしろラブホを中心にデリヘル嬢をしている韓国人娘(イ・ウンウ)となっている。
 店長とその恋人・妹(樋井明日香)のエピソード、デリヘル嬢のエピソード、ホテルの清掃婦(南果歩)のエピソード、風俗のスカウト(忍成修吾)のエピソードが中心となるが、いずれも人生の掃き溜めの歌舞伎町に別れを告げて、人生をやり直す再出発でラストシーンを迎える。
 家族と恋人に台場の一流ホテルマンと偽っていた店長は、嘘がばれて、同じくAV嬢を隠していた妹と郷里の塩釜に帰るが、このエピソードに3.11を絡ませていて、津波で人生に痛手を受けた人々と重ね合わせた制作意図もあったのかもしれない。
 本作で最も輝いているのは韓国人のデリヘル嬢で、この日が引退の日で、帰国して母とブティックの店を開く予定。恋人(ロイ)が最後の客となり、デリヘル嬢の体を洗ってやるエピソードは、さすがピンクで鍛えた泣かせどころで、日本的ウエットが満開となる。
 これにベテランらしい味で作品全体を締めるのが南果歩と松重豊で、指名手配犯ながら今日一日で時効を迎えるという設定。そこに不倫刑事がラブホにやってきたことから正体がばれるという、コミカルなエピソードで終盤を盛り上げる。
 よくできた作品で、せっかく前田敦子を起用したのだから、セックスシーンを抑え気味すれば観客層が広がっただろうにというのが残念なところ。イ・ウンウ、樋井明日香、女刑事の河井青葉が果敢なベッドシーンを繰り広げる中で、音楽プロデューサーとの枕営業でラブホを訪れる前田敦子の演技が痛々しい。 (評価:2.5)

映画 ビリギャル

製作:映画「ビリギャル」製作委員会(TBSテレビ、KADOKAWA、東宝、CBCテレビ、電通、WOWOW、毎日放送、KDDI、RKB毎日放送、朝日新聞社、FLaMme、北海道放送)
公開:2015年5月1日
監督:土井裕泰 脚本:橋本裕志 撮影:花村也寸志 美術:五辻圭 音楽:瀬川英史

誰でも努力すれば夢を叶えられるという心地よい錯覚
 坪田信貴のノンフィクションが原作。
 眉唾な話題性だけの作品と期待しないで見たら、意外と面白い。
 茶髪で遊んでばかりいて、成績は学校でビリ、聖徳太子も読めず、東西南北がわからず、日本列島を丸でしか描けなかったのは事実らしく、その彼女が猛勉の末に慶應湘南に入学できたのも事実。脚色はあるものの、本作を見ている限りは、落ちこぼれでも頑張れば慶應に入れるんだと、勇気づけられる。
 その一番は、ビリギャルを演じる有村架純のキャスティングで、真面目そうな容姿が物語にリアリティを与えている。
 彼女が合格できた秘訣は予備校教師の入試指導にあって、学力のない彼女が入試科目を英語と小論文と日本史だけに絞って、1年半で猛特訓したことにある。中学から始まる英語と、暗記がすべての日本史は短期錬成が可能で、おそらく国語力のあった彼女は漢字と知識だけ学べば良く、それ以外の教科の授業中に睡眠をとり、他の時間は勉強に充てた。
 寸暇を惜しんで勉強したという彼女の努力と精神力が最も大きく、この点だけを見れば、誰でも頑張れば慶應に合格できると錯覚する。しかしネグレクトされている点があって、中高一貫の私立進学校に入学した時点で、彼女が学力的な潜在能力を持っていたといえる。
 誰でも努力すれば夢を叶えられるという錯覚を観客に与えること、それ自体は悪いことではなく、見終わって心地よい気分になれる。そうした点ではハッピーエンドの青春映画で、有村架純のビリギャルぶりもなかなかいいが、途中からは『巨人の星』ばりのバタ臭い感動物語になってしまって、ビリギャルの天衣無縫な爽快感が薄くなってしまったのが残念。
 塾教師の伊藤淳史の熱血ぶりもよく、ほぼこの二人が中心の展開。両親の田中哲司、吉田羊はいささか漫画的だがキャラクターが立っている。塾長のあがた森魚が、そこはかとない存在感。 (評価:2.5)

製作:神戸ワークショップシネマプロジェクト
公開:2015年12月12日
監督:濱口竜介 脚本:濱口竜介、野原位、高橋知由 撮影:北川喜雄 音楽:阿部海太郎
キネマ旬報:3位

すべての要素は5時間17分に拡散し集中力を保てない
 5時間17分、3部に分かれるという、とんでもなく長尺の作品で、かなり冗長で退屈するが、不思議と最後まで見れてしまう。途中でトイレに立っても筋がわかるくらいのテレビドラマと同じ緩いテンポだが、4人の女たちの日常を眺めているドキュメンタリー手法と出演者を素人で固めたことがフィクション性を希薄にし、描写に生活感とリアリティを与えている。
 冒頭で人間関係のバランスを如何に保つかというテーマが提示され、その後はそのバランスが微妙に変化し、崩れたり調和したりを繰り返す様が描かれていくが、人々が思っている以上に人と人との距離感を保つことの難しさが示される。
 もっともそのテーマを描くだけならば5時間17分の長さは要らないわけで、5時間17分をかけて何を描きたかったのかということが重要になる。おそらくは、4人の女たちのキャラクター性を掘り下げることで、コミュニケーションの相貌を捕まえようとしたのだろうが、必ずしも成功していない。
 バツイチの自我の強い看護婦を中心に、離婚調停中の別居妻、子供が妊娠騒ぎを起こす専業主婦、編集者を夫に持つイベントプランナーの女の仲良し4人組が物語の進行役となるが、それぞれに秘密を抱え、その秘密が次第に露呈してくる中で4人の関係性と距離感が揺れ動く。
 しかし5時間17分掛けた割にはそれぞれの人物像は描き切れてなく、ただの自己中心的で我儘な女たちにしか見えず、これをもって女たちのアイデンティティの問題とするには単なるフェミニズムでしかない。
 この4人にワークショップの講師が絡むが、これがとんだ食わせ者だということは終盤になって明らかとなり、別居妻の逃げ込み寺となって手引きし、裁判を起こさせ、敗訴確定となると失踪の手助けをしていたという隠れたストーリーも、5時間17分の倦怠の中ではぼやけてしまって作品に占める意味合いも曖昧。
 コミュニケーション、そのバランス、男女の関係性、女たちのアイデンティティなどといった要素は、すべて5時間17分に拡散し、見る側は集中力を保つことができない。 (評価:2.5)

製作:アークエンタテインメント、日活
公開:2015年6月27日
監督:呉美保 製作:川村英己 脚本:高田亮 撮影:月永雄太 美術:井上心平 音楽:田中拓人
キネマ旬報:10位

ハグだけでは解決しない結末の描けないテーマ
 中脇初枝の同名短編連作小説が原作。
 児童虐待がテーマの作品で、幼児を虐待している母親(尾野真千子)とそのママ友(池脇千鶴)、義父に虐待を受けている児童と担任教師(高良健吾)、知的障害を持つ児童と母親(富田靖子)・老女(喜多道枝)の3つのエピソードが並行して描かれる。
 呉美保らしいリアルな演技と演出は、『そこのみにて光輝く』(2014)同様に非常に沈鬱で、生々しい。このリアリズムを肯定的に捉えればよくできた作品だが、誰にでもある攻撃性を白日の下に晒されると、少なからず深層にある傷をえぐられる思いがして落ち着かない。
 本作では救いのあるラストが用意されていて、多少はホッとするが、5時前に帰ることを許さない義父に担任教師が会いに行くシーンで終わり、おそらくは学童保育の提案を持って行くのだろうが、はたして義父が承知するかまでは描かれてなく、現実が甘くないことを示唆するラストとなっている。
 幼児虐待のエピソードと知的障害児のエピソードはそれなりの希望を残して終わるが、その話も2時間の作品の中での一応の解決に過ぎず、それに続く物語が示されていないという点からは、不完全感は否めない。
 そうした中で唯一、呉美保が示すのは、家族や友達を抱きしめること=スキンシップこそが、解決のためのはじめの一歩だということで、それだけ結末の描けないテーマだということを呉自身が告白したに等しい。
 幼児虐待エピソードでは、二人の母親も幼児虐待を受けていたという設定はいささかご都合主義で、知的障害児エピソードの戦争話と義父虐待エピソードの担任教師のクラス崩壊も作り過ぎの感があるが、池脇千鶴の母親の演技は見応えがある。 (評価:2.5)

製作:「海街diary」製作委員会(フジテレビジョン、小学館、東宝、ギャガ)
公開:2015年6月13日
監督:是枝裕和 製作:石原隆、都築伸一郎、市川南、依田巽 脚本:是枝裕和 撮影:瀧本幹也 美術:三ツ松けいこ 音楽:菅野よう子
キネマ旬報:4位

2時間で都合3回の葬式・法事という喪服だけが目立つ作品
 吉田秋生の同名漫画が原作。
 映画はほぼ原作通りに作られていて、4姉妹のスケッチ風なエピソードをスケッチ風に淡々と描いている。
 映像的にもくすんだ色彩加工で昭和レトロ感を醸し出して効果的だが、逆光シーンが霞がかかったように露出オーバーに見えてしまうのはいただけない。
 スケッチの雰囲気を出すために、観客が眺めているような視点を与えようとしてゆっくりと動くパンを多用しているが、必要性のないシーンや、編集でカットされたのか数秒しかないシーンもあって、却って落ち着かない気分を与え、逆効果。
 原作通りに作られているために誰の話なのかはっきりせず、テーマが家族であることはわかっても茫洋としていて、何が描きたかったのかはっきりしない。とりわけ是枝のこれまでの作品同様に父性がやや強調されるが、原作は父性を殊更に描いているわけではなく、本作では家族の何を描きたかったのかがよくわからないままに、雰囲気だけのラストになっている。
 物語は、家族を捨てて女と逃げた父が亡くなり、男を頼るしか能のない母を持つ異母妹すずを3姉妹が引き取って同居を始めるが、映画では肝腎のその事情がきちんと描かれない。
 そのため、すずの立ち位置がよくわからないままに新しい家族のドラマがあれよあれよという間に始まってしまい、すずの葛藤も姉たちの微妙な心理も描かれないままに仲良し4姉妹となってしまう。
 すずを演じる広瀬すずが新人で演技力不足なのは致し方ないとしても、それを補う演出がなく、山形の田舎娘という設定にも拘らず、鎌倉の中学校の級友以上に都会的で垢抜けているのがどうにもいただけない。
 風吹ジュンの熱演にも関わらず、終末ケアも煮え切らないままに葬式になってしまい、2時間で都合3回の葬式・法事という喪服だけが目立つ作品になってしまった。
 樹木希林、加瀬亮、大竹しのぶ、堤真一、リリー・フランキーと配役だけは豪華。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆もそれぞれに個性的な姉妹を好演。天然・綾瀬のしっかり者の長女役は見どころ。 (評価:2.5)

製作:「ソロモンの偽証」製作委員会(松竹、木下グループ、博報堂DYメディアパートナーズ、朝日新聞社、GYAO!、KDDI)
公開:2015年3月7日(前篇)、2015年4月11日(後篇)
監督:成島出 脚本:真辺克彦 撮影:藤澤順一 美術:西村貴志 音楽:安川午朗
キネマ旬報:8位

家電屋のお爺ちゃん・津川雅彦と定年教師・松重豊がおいしい役
 宮部みゆきの同名小説が原作。
 サスペンス仕立てのイジメがテーマの作品で、前後編併せて4時間半の長尺だが、後編最初の裁判シーンの冒頭が退屈なだけで、全体は飽きずに楽しめる。
 中学校の屋上から男子生徒(望月歩)が飛び降り、警察も学校も自殺と断定するが、同級生男子(清水尋也)に殺されたという告発状が、父親(佐々木蔵之介)が警察官の主人公の少女(藤野涼子)と学校、担任教師(黒木華)に送られ、さらに担任教師がそれを破り捨てたとする手紙がテレビ局に届く。主人公の少女はクラスメート共に、事件解明のために告発状の犯人とされた同級生男子を被告とする公開裁判を行うことを決め、検察・弁護側に分れて調査を進め、関係者を証人として裁判に出廷させるという物語。
 後編はその裁判の模様となるが、刑事(田畑智子)や校長(小日向文世)まで証人台に立つという、荒唐無稽で突っ込みどころの多い設定だが、それなりに説得力を持った話となっている。
 とりわけイジメをテーマにしながらも、安っぽいヒューマニズムに陥っていないところがよく、死んだ男子生徒の思考が今ひとつ不明なのを除けば、イジメの加害者、被害者、周囲の者すべてを被告席に立たせ、解決策を持たないイジメ問題についての偽善そのものを告発する。
 主要キャストは中学生役の若手の面々だが、それぞれに頑張った演技をしている。石井杏奈と富田望生がイジメられっ子を演じるが、富田望生がいい。黒木華が新人のダメ女教師を演じて相変わらず上手い。  全体は回想の形をとっていて、成長して教師となって母校に赴任してきた主人公(尾野真千子)が現在の校長(余貴美子)に当時の事件を語るが、この枠形式は不要。
 松重豊が生徒に協力する定年間際の体育教師。証人に立つ家電屋のおじいちゃん、津川雅彦とともにおいしい役となっている。刑事の一人、嶋田久作はうっかりしていると見逃す。 (評価:2.5)

幕が上がる

製作:「幕が上がる」製作委員会(フジテレビジョン、東映、ROBOT、電通、講談社、パルコ)
公開:2015年2月28日
監督:本広克行 脚本:喜安浩平 撮影:佐光朗 音楽:菅野祐悟

教室の窓から夜空を見上げるシーンが感動的だが
 平田オリザの同名小説が原作。
 地方の高校演劇部が舞台で、部長以下メンバーが全国大会出場を目指すというもの。
 その演劇部員をももいろクローバーZの5人が演じるが、アイドル映画だと思って見ると意外と普通の青春映画で、よくできている。
 類似作品に『櫻の園』(1990)があるが、方向性は違うものの、『銀河鉄道の夜』をキーワードに、ハッブルの法則、事象の地平線と彼女たちの宇宙=未来をアナロジーさせて描く。
 彼女たちの未来は膨張する宇宙のように到達点がないということを、当初はペシミスティックな限界論として、最後は無限の可能性として希望的に描く。
 彼女たちを導くのが元学生演劇の女王で、新任美術教師の黒木華。挫折した彼女が逆に演劇部員に導かれて、再び舞台を目指すというストーリーが定番といえば定番だが、黒木の好演もあって清々しい。裏切りにも近い別れが、黒木の再出発、女子高生の巣立ちという未来志向へと変わる、教室の窓から夜空を見上げるシーンが感動的。
 映画としてはここで終わるべきで、タイトルに引っ張られたのか、エンディングにももクロの曲とメイキングを入れるのが制作条件だったのか、県大会のラストシーンは余計なゲスト出演者もいて蛇足。せめてラストシーンをエンディングクレジットに回して、余韻を残したまま終わらせるべきだったが、アイドル映画の悪いところが出てしまった。ももクロの曲とエンディングは、それまでの映画全体を台無しにした。
 ももクロの演技は結構頑張っていて、部長役の百田夏菜子が時々はっとする演技を見せる。 (評価:2.5)

映画 深夜食堂

製作:映画「深夜食堂」製作委員会(アミューズ、小学館、木下グループ、東映、ギークピクチュアズ、MBS、RKB)
公開:2015年1月31日
監督:松岡錠司 脚本:真辺克彦、小嶋健作、松岡錠司 撮影:大塚亮 美術:原田満生 音楽:鈴木常吉、福原希己江、日南京佐、スーマー

新宿ファンタジーは過去への懐かしみと慰撫しか残さない
 安倍夜郎の同名漫画が原作。MBSのテレビドラマからの映画化。
 舞台は新宿ゴールデン街あたりをイメージした路地裏。深夜だけ営業する食堂を舞台に、寡黙なマスターと常連客達の織り成すグランドホテル形式の人情ドラマという、よく目にするタイプの設定だが、マスター役に小林薫というのが本作の決め手。
 店に置き忘れられた骨壺、パトロンに死なれた女(高岡早紀)、無銭飲食の娘(多部未華子)、震災で妻を亡くした福島の男(筒井道隆)のエピソードが絡み合いながらの展開で、最後に骨壺の主(田中裕子)が現れて、それぞれが一件落着する。
 シナリオ的にはよくまとまっているが、舞台が舞台だけにいささか地味で、ちょっといい話的な感傷に訴える話が中心。そのためエピソードに作り過ぎの嫌いがあって、ややウザい。
 いわば『三丁目の夕日』のオトナ版的な半世紀前の新宿へのノスタルジーに浸るための作品で、風鈴売りの屋台引きまで出てくると、さすがに半世紀前にタイムスリップした異空間であることが明らかとなる。
 地域に密着したお巡りさん、どこにあるとも知れない古い八百屋、昔気質のヤクザやストリッパーが登場する新宿ファンタジー世界は、失われた人情への哀惜に溢れているが、過去への懐かしみと慰撫しか残さない。 (評価:2.5)

製作:「日本のいちばん長い日」製作委員会
公開:2015年8月8日
監督:原田眞人 脚本:原田眞人 撮影:柴主高秀 美術:原田哲男 音楽:富貴晴美
ブルーリボン作品賞

1967年版と比較することはナンセンス
 大宅壮一のノンフィクション『日本のいちばん長い日』が原作で、2度目の映画化。
 岡本喜八の1967年版とは異なり、宮城事件を歴史的に描くというよりは阿南陸軍大臣(役所広司)を主人公とする人間ドラマになっていて、前半は鈴木貫太郎首相(山崎努)がむしろ主役。首相就任から組閣、ポツダム宣言受諾までを軍部の反対を如何に乗り切って、天皇の聖断を切り札として戦争を終結させたかという物語で、戦争映画というよりは政治ドラマになっている。戦争映画を期待すると肩透かしを食らう。
 一方の阿南陸相も和平派として描かれていて、東条英機ら陸軍の強硬派を如何に騙して、鈴木貫太郎に協力したかという内容。クーデター派は完全なる悪役で、終戦に尽力した人々を讃えるという、戦後の平和主義に則った作品になっている。
 宮城事件の描写は時間的にも内容的にも1967年版に比べて不十分で、作品的には「日本のいちばん長い日」になっていないことから、原作のタイトルに拘らなかった方が良かったのではないかという印象を受ける。
 将校たちの描写や台詞、口調などを含め、いささか現代劇風で、とりわけ阿南陸相の自害の理由がよくわからないという点で、1967年版と比較すると不満が多い。
 しかし原田眞人は、戦争を知る世代のために本作を監督したわけでもなく、リアリズムや現代史的作品を求めるならすでに立派な岡本喜八版があるわけで、むしろ戦後70年を経て、戦争の片鱗すらも知らない世代に、彼らに伝わる現代的な映画手法で終戦の経緯を描いたと考えた方が納得がいく。
 その点について1967年版と比較するすることはナンセンスだが、それでも、昔こんな事件があったよと事実を伝える以上のメッセージを感じ取ることができないのが残念。 (評価:2.5)

あん

製作:映画『あん』製作委員会
公開:2015年5月30日
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美 撮影:穐山茂樹 美術:部谷京子

小豆餡を作るプロのレシピ動画が一番の見どころか
 ドリアン助川の同名小説が原作。
 ハンセン病の老女(樹木希林)が療養所の外に出て働き、生きる意味を見出すという物語。
 老女は小豆餡作りの名人で、永瀬正敏が店長のどら焼き屋で働き、町中の評判を得るが、ハンセン病だということが知れて客が寄り付かなくなる。
 この手の作品を批評するのは誤解を招きやすいが、本来は社会から隔離されて生きてきたハンセン病患者の人生観や人としての尊厳といったものが描かれるべきだが、それを社会の無理解に苦しめられるハンセン病患者というステレオタイプのわかりやすいドラマにしたことが、作品をつまらなくした。
 老女にしても自分が店に出る事で客足が遠のくことは予想できたはずで、敢えてそうした理由が語られなければ、彼女の内面は見えてこない。差別する側が一方的に悪いという正義感だけでは問題の本質を描くことはできず、ハンセン病患者を通した人生の意味も見えてこない。
 そのため、金のために仕方なくどら焼き屋の店長をしていた辛党の永瀬が、老女との交流の結果、自らの意志でどら焼きを作り続ける理由がわからないままに、老女とのセンチメンタルな思い出だけで締めくくる情緒的なラストとなっている。
 老女の生き方を大切に、彼女の生き方から学ぶとすれば、小豆餡作りの技術を継承するのではなく、自らの意思で新しい生き方を選択する物語でなければならない。
 老女の療養所の友人に市原悦子、どら焼き屋の常連客の中学生に内田伽羅、店のオーナーに浅田美代子。
 それにしても、毎日やってくる女子中学生たちが取って付けたようで不自然。
 プロが小豆餡を作る過程が詳細に描かれるのが一番の見どころか。 (評価:2.5)

百日紅 Miss HOKUSAI

製作:「百日紅」製作委員会
公開:2015年5月9日
監督:原恵一 脚本:丸尾みほ 作画監督:板津匡覧 美術:大野広司 音楽:富貴晴美、辻陽

浮世絵師の哀愁というセンチメントしか残らない
 杉浦日向子の同名漫画が原作のアニメーション。葛飾北斎の三女・お栄が主人公で、文化11年夏というから北斎54歳のエピソードということになる。
 お栄23歳で、北斎と同居して代筆しているという設定。北斎の家に出入りする浮世絵師の池田善次郎(渓斎英泉)、歌川国直、岩窪初五郎(魚屋北渓)も登場し、実伝とされるエピソードを絡めたフィクションとなっている。
 物語は、お栄と盲目で尼寺に預けられている妹・お猶との交流が軸になっていて、お猶が死ぬまでが描かれる。
 つまらなくはないが面白くもないという作品で、何が描きたかったのかよくわからない散漫な印象。お猶の死が中心となり、妖怪話や地獄絵、仏画、極楽と地獄などがモチーフとして登場するものの、雰囲気だけで終わっていて、お栄の画家としての成長物語でも、まして北斎の作家論でもなく、浮世絵師の哀愁というセンチメントしか残らない。
 ラストが現在の東京で終わるが、意図のよくわからない雰囲気作品。
 アニメなのでパースの誇張は仕方がないが、長屋なのに部屋がやけに広く感じられたり、両国橋が巨大で、隅田川が大河のように見えてしまうのも、江戸ものだけに気になって仕方がない。 (評価:2)

製作:「岸辺の旅」製作委員会(アミューズ、WOWOW、ショウゲート、ポニーキャニオン、博報堂、オフィス・シロウズ)
公開:2015年10月1日
監督:黒沢清 脚本:宇治田隆史、黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 音楽:大友良英、江藤直子
キネマ旬報:5位

成仏できない夫の召喚に油揚げは要らないのか?
 湯本香樹実の同名小説が原作。
 3年前に失踪した夫が幽霊となって現われ、妻と共に3年間の出来事を追体験する、此岸と河岸の幽明境を旅する物語。
 幽霊とはいっても実体を持っていて、黒沢清らしいホラー演出もあるが、夢と現実と幻覚とがいささか整合性に欠けていて混乱する。
 合理的思考からは、妻の夢と幻覚、ないしはイマジネーションではないかとか、夫は成仏できない死者なのかとか、はたまた実は死んでいるのは妻の方なのではないかとか、いろいろ想像して整合性を求めてしまうが、制作者はそうした合理性をまったく無視。その結果、情念だけの夫婦の愛の物語、ないしは情緒だけの死者との別れの物語にしかなっていない。
 浮気していた夫の本心を確かめるという発端の割には、最後はそんなことはどうだっていいじゃないという、ベッドインであやふやにしてしまうという何とも締まらない結末で、成仏できなかったのは夫に現世への未練があったからではなく、たんに妻が成仏させなかったからというラスト。
 それにしても妻がイタコのように夫を召喚した方法が、神社の宮司に言われて書いた御百度参りならぬ100枚の祈願書。この神社というのが五穀豊穣の神である稲荷というのが笑え、油揚げ100枚は要らないのか? という突っ込みが頭から払えない。
 女性向け原作とはいえ、超常ものとしては設定は大甘で、作為的な強いストーリーが堪らない。
 夫を浅野忠信、妻を深津絵里、愛人を蒼井優。岸辺の旅先に小松政夫、柄本明。 (評価:2)

花とアリス殺人事件

製作:花とアリス製作委員会(日本テレビ放送網、ロックウェルアイズ、スティーブンスティーブン、東映、ポニーキャニオン、小学館)
公開:2015年2月20日
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二 美術監督:滝口比呂志 音楽:岩井俊二、ヘクとパスカル ロトスコープアニメーションディレクター:久野遥子

アニメーションのアリスに蒼井優を演じさせる岩井の少女幻想
 『花とアリス』(2004)の続編だが、時系列では前作より前、花とアリスの出会いを描いている。
 前作より10年経ち、現実的に実写は無理で、アニメーションでの制作となったが、声は前作のキャストが担当。ただ、どことなく大人びた声で、子供らしくない台詞もあって年齢的に遡った感じがしない。
 花の学校に転校してきたアリスが、学校の怪談話に巻き込まれ、その真相を探るうちに登校拒否で家に閉じこもっている花と出会う。標題の殺人事件は、花が好きな男の子の転校する日に毒蜂で刺したことが由来で、男の子の生死は不明となっている。
 アリスは花にいわれるままに男の子の生死を確かめるが、その過程で二人が友情の絆で結ばれ、『花とアリス』へと引き継がれる物語になっている。恋多き女の花と、何となく花に付き合うアリスというキャラクター設定はそのまま生きていて、番外エピソードとしては面白いが、敢えて本作を作った意味は感じられない。
 本作の見どころは、作品内容よりはアニメーションの作画技法にあって、実写で撮影したフィルムをトレースしてキャラクターを描いて動かすロトスコープという技法が用いられている。このため、通常のアニメーションの動きとは違った人物の動きの妙があって、リアルで自然な仕草が面白い。
 アニメーションでありながら、アリスの動きは蒼井優そのものであって、ある種、ぞくぞくする存在感を示す。
 岩井俊二は『花とアリス』をアニメーションにしたかったのではなく、アニメーション・キャラクターのアリスに蒼井優を演じてほしかったことがわかる。アニメーションでも、少女の仕草・振る舞いに美化された少女幻想を追い求める岩井の本領が発揮されていて、岩井俊二ファンには必見の作品。 (評価:2)

製作:海獣シアター
公開:2015年7月25日
監督:塚本晋也 製作:塚本晋也 脚本:塚本晋也 撮影:塚本晋也、林啓史 音楽:石川忠
キネマ旬報:2位

ホラー映画としては凡作、戦争映画としては駄作
 大岡昇平の同名小説が原作。市川崑の1959年版以来、2度目の映画化。
 フィリピン・ミンドロ島で敗走する日本兵の飢餓を描いた作品で、飢えのために人肉を食うというカニバリズムが話題となった。
 作品のテーマからは、人肉を食うほどに追い詰められた戦争の悲惨と、人間の精神の脆さということになるが、本作ではそのどちらも描けていない。
 冒頭から俳優たちの台詞回しはヤンキーな言葉遣いの現代劇で、戦争と飢餓に追い詰められた兵士の葛藤からは遠いドラマとなっている。戦場で放置された凄惨な死体や殺し合いなど、ホラー映画と見紛うばかりの過激な描写は、何がテーマなのかを不明瞭にしていて、戦争の悲惨はおろか人間精神の内面などはドラマから完全に吹き飛ばしてしまっている。
 残酷描写をよりハードにすれば戦争の悲惨さを描けると考えているのだとしたら甚だしい勘違いで、死体に生きていた時のドラマを語らせるか、生きている兵士に内面のドラマを語らせなければ、戦争の悲惨さは描けない。
 そうした点で、本作は戦争を描いているようで戦争の本質は全く描けてなく、戦争に対する洞察に欠けているばかりでなく、戦争について知識不足で、単に戦争を題材として扱っただけの猟奇作品に終わっている。
 主人公に監督の塚本晋也自身が出演。
 評点はホラー映画としてのもので、戦争映画としては駄作。残酷描写だけでなく戦争の実相について誤解を生むので、子供には見せない方が良い。 (評価:2)

駆込み女と駆出し男

製作:「駆込み女と駆出し男」製作委員会(松竹、バンダイビジュアル、ポニーキャニオン、アスミック・エース、こまつ座、松竹ブロードキャスティング、博報堂、ワコー、朝日新聞社、ぴあ)
公開:2015年5月16日
監督:原田眞人 脚本:原田眞人 撮影:柴主高秀 美術:原田哲男 音楽:富貴晴美

江戸風俗を井上ひさし風に軽妙なタッチで描くが・・・
 井上ひさしの『東慶寺花だより』が原案。江戸後期の天保年間の時代設定で、冒頭、天保の改革にまつわる綱紀粛正の話が出てくるが、本筋とはほとんど関係しない。
 井上ひさしが原案ということで、饒舌な背景説明や言葉遊びも登場するが、前者はただ煩いだけ、後者は空回りしていて、制作者の自己満足に終わっている。
 幕府公認の鎌倉の駆け込み寺・東慶寺が舞台で、妾宅から戻らない夫を持つ女(戸田恵梨香)と、盗賊(堤真一)の内縁の妻で、労咳で死期を悟って身を引こうとする女(満島ひかり)が、偶然出会って駆けこむ。2年が明ければ離婚成立となり、その2年間の物語が描かれる。
 駆け込み寺の門前で、駆け込み女たちの事情聴取をする役目の宿に居候している若い医者(大泉洋)が主人公で、滝沢馬琴(山崎努)に心酔して戯作者の真似事をしていることから、タイトルの駆け出し男となっている。
 東慶寺に駆け込んだ女たちの生態を描きながら、大泉洋と戸田恵梨香のラブストーリーが主軸となる。宿の女主人の樹木希林が脇を固め、原田眞人らしく本格的な作品になっているのだが、今ひとつ何を描いているのかよくわからないところがあって、江戸風俗を井上ひさし風に軽妙なタッチで描こうとして、ただ風俗を撫でただけで終わってしまった感がある。
 大泉洋と戸田恵梨香が好演。 (評価:2)

製作:『GONIN サーガ』製作委員会(KADOKAWA、ポニーキャニオン、電通、ファムファタル、ソニーPCL)
公開:2015年9月26日
監督:石井隆 脚本:石井隆 撮影:佐々木原保志、山本圭昭 美術:鈴木隆之 音楽:安川午朗
キネマ旬報:6位

見どころは翌年に死んだ根津甚八の決死の出演
 1995年公開の『GONIN』の19年後を描く続編映画。
 冒頭、続編の前提となる前作のあらましがダイジェストとテロップで説明されるが、人物関係が煩雑なためよくわからない。おまけにテロップも読みにくい書体を使っていて甚だ不親切。そうした、独りよがりが作品全体を貫いていて、20年も経っているのに観客にわかるように作ろうという姿勢が見られないのが残念。
 物語自体も、前作で親が死んだ組員と警官の息子3人(東出昌大、桐谷健太、柄本佑)、プラス組長の愛人にされた元アイドル(土屋アンナ)の復讐戦で、事務所から金をふんだくって、最後は全員死んでしまうというタランティーノもどき。登場人物が多い上にヤクザ物というバイオレンスなアクションものなので、そこそこ見てはいられるが、死んだのか死ななかったのかよくわからないようなゾンビ戦で、重傷のはずなのに長距離をテレポーテーションしてしまうという石井隆ならではの劇画チック。
 もっとも石井隆カラーは健在なので、70年代に浸りたい人には向いているかも。
 本作がなぜキネ旬6位に入ったのかは謎だが、翌年に死んだ根津甚八が決死の出演をしていて、彼への手向けと考えれば納得はいく。  他に、前作の佐藤浩市、竹中直人が出演している。 (評価:2)

リアル鬼ごっこ

製作:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン、高尾、松竹、アスミック・エース
公開:2015年7月11日
監督:園子温 脚本:園子温 撮影:伊藤麻樹 美術:松塚隆史 音楽:カナイヒロアキ、秋月須清

商品化される女とそれを消費する男社会を描くが…
 山田悠介の同名ホラー小説が原作。
 これまでに5作映画化されていて、UHFながらテレビドラマにまでなっているものを何故、園子温が映画化したのかが先ずわからない。
 かまいたちでバス毎女子高生の胴体がちょん切られるという残虐シーンを描きたかったのか、はたまた突風で女子高生のスカート捲りを盛大にやりたかったのか、はたまた女教師がマシンガンを乱射して女子高生を大量殺戮するシーンが描きたかったのか、とにかく生意気で色気づいたノータリンな女子高生という名のゴブリンを徹底的に甚振りたいという熱意と、何でもアリのアナーキーな映画を作りたいという思いだけは十二分に伝わってくるが、はっきり言ってスクリーンが暴走する割には退屈する。
 トリンドル玲奈が走り回っていたと思ったら、主役が入れ替わって篠田麻里子となり、さらに真野恵里菜に入れ替わるというのが、なかなかアナーキーで良いが、ストーリーはあるのかないのかよくわからない展開で、とにかく突っ走る。
 シュールこそが現実という台詞や、世界はゲーム、主人公たちはDNAで量産されるゲームの中を生きているキャラという設定の中にヒントを探れば、商品化される女とそれを消費する男社会がテーマなのかもしれない。
 最後はシュールなゲーム世界を生きる主人公たちが、自らの命を絶つことでゲームオーバー、つまりはゲームを強制終了させるが、果たしてそのメッセージは自ら商品化を望む現実世界の女たちに届くのか?
 エログロ満載の本作もまた、女を商品化し消費しているという自己矛盾が残る。 (評価:2)

寄生獣 完結編

製作:映画「寄生獣」製作委員会(東宝、日本テレビ放送網、講談社、電通、讀賣テレビ放送、バップ、ROBOT、白組、阿部秀司事務所、日本出版販売、KDDI、GyaO!、札幌テレビ放送、宮城テレビ放送、静岡第一テレビ、中京テレビ放送、広島テレビ放送、福岡放送)
公開:2015年4月25日
監督:山崎貴 製作:市川南、中山良夫 脚本:古沢良太、山崎貴 撮影:阿藤正一 美術:林田裕至、佐久嶋依里 音楽:佐藤直紀

唐突にラブ・ストーリーじゃ前篇は何だったんだ
 岩明均の同名漫画が原作。
 半年前に公開された『寄生獣』の後篇で、併せて制作されているのでCGとVFXを含めて、基本は同じような出来。白組のクオリティの高いVFXなど映像的には遜色ないが、シナリオは崩れてくるので、前篇に比べて見劣りがする。
 前篇のダイジェストから始まり、新キャラとしてパラサイトを見分ける能力のある殺人鬼(新井浩文)と、シングル・ファザーのフリー記者(大森南朋)が登場する。
 当選した市長(北村一輝)を中心にパラサイトが拠点づくりを始めるが、察知したSATが襲撃。壊滅するものの5体が寄生した最強の寄生獣(浅野忠信、一部ピエール瀧)がラスボス化する。パラサイトを駆逐する主人公の新一(染谷将太)は、ラスボスから戦いを挑まれるが、勝てないとみて逃走。追い詰められてミギーを切断、殺され、独力で戦うがミギーが生きていて逆転勝利。ミギーが右手に戻って眠りにつくが、殺人鬼にガールフレンド(橋本愛)を殺されそうになり、間一髪助けたかに見えたが・・・というのが後篇の流れ。
 人間との共存を図る女教師(深津絵里)は娘を殺されたフリー記者の恨みを買って産んだ赤ん坊を奪われ、身を挺して救うというエピソードが挟まれ、パラサイトもまた他者への愛情を持つようになるというのが一つの軸。同様シーンはラストにも登場する。
 もう一つは、本当のパラサイトは、地球に寄生して地上の生命や資源・環境を根絶やしにしている人間だ、という青臭いテーマで、原作はともかく、映画でこれを声高に主張されると若干白ける。
 奇想天外な設定も、新一とラスボスが核廃棄場で戦うことになると、ハリウッドが作った核映画のように無茶苦茶で、放射能でラスボスを倒したのに被爆したはずの新一はミギーが守ったから大丈夫だとか、そこで一晩明かしたガールフレンドは被爆しなかったのかとか、そもそも核廃棄場に簡単に入れるのかとか、業火のような炎は核の火なのかとか、シナリオが雪崩のように崩れていく。
 新一とガールフレンドの初夜のシーンも見ていて恥ずかしいくらいに橋本愛の演技が下手で、そもそもこの映画に橋本愛の役は必要だったのかとか、原作キャラだし、深津絵里や余貴美子のオバサンじゃヒロインにならないから、一人くらい若い女の子がいないと殺伐とし過ぎるだろうとか、それでも唐突にラブ・ストーリーじゃ前篇は何だったんだとか、橋本愛は何を演じてもワンパターンだとか、いろいろ考えているうちにエンドマークとなって、クレジットが下から上がってくる。 (評価:2)

製作:「ローリング」製作委員会(ぽてんひっと、スタイルジャム、カラーバード、マグネタイズ)
公開:2015年6月13日
監督:冨永昌敬 製作:木滝和幸、冨永昌敬 脚本:冨永昌敬 撮影:三村和弘 美術:仲前智治 音楽:渡邊琢磨
キネマ旬報:10位

オープニングとエンディングのクレジットが一番の見どころ
 女子更衣室を盗撮したために失業した高校教師(川瀬陽太)と元教え子たちの物語。
 盗撮ビデオにタレントになった教え子がレズっているのが映っていたことから芸能事務所に映像を買い取らせるもの、その映像が流出してしまい、賠償金を払うために生命保険に入って死んでしまうというのが大筋。タレントが、レズの相手が若死にしたことから彼女の存在を残したいと映像を流出させたのが真相で、盗撮ダメ教師でも一つぐらいは役に立ったというオチ。
 死んだ教師の小骨が小鳥の巣作りの材料になったことから、なぜ鳥の巣になったかという倒置法で物語が進むが、冒頭から教師のナレーションが被っていくのが、却って話をわかりにくくしている。
 シナリオと登場人物の描写が粗雑なこともあって、ストーリーにわかりにくさが多く、教師が賠償金で土地を手に入れる過程、その土地で隣家の主婦と死に至る過程がすっぽり抜け落ちていて、とりわけ終盤が不完全。
 水戸が舞台になっていて、教師がもっとも信頼を寄せる教え子(三浦貴大)が茨城大学を卒業して、おしぼりサービス会社の従業員というのも説明がなく、全体に不思議系。
 オープニングとエンディングのクレジットが、風景に張り付いたままパンしていくのが映像的に不思議な効果を発揮していて、本作で一番の見どころ。 (評価:2)

味園ユニバース

製作:ジェイ・ストーム、ギャガ、マッチポイント
公開:2015年2月14日
監督:山下敦弘 製作:藤島ジュリーK. 脚本:菅野友恵 撮影:高木風太 美術:岩本浩典、安宅紀史 音楽:池永正二

2015年の映画とは思えないタイムスリップ感が凄い
 タイトルは大阪・千日前にある貸ホールの名。
 記憶喪失になった青年を保護した音楽スタジオを経営する娘(二階堂ふみ)が、マネージャーをしているバンド・赤犬のボーカルに青年を起用。一方、記憶を取り戻した青年は娘に迷惑を掛けるのを嫌って、昔の犯罪グループに復帰するものの逆に罠に嵌められ、娘に呼び戻されてボーカル復帰というのがストーリーの骨子。
 シナリオは相当に不出来で、第一に娘が青年を保護した理由が、主人公で歌が上手いからという以外に見つからない。娘の心情に常に?が付きまとうので、どうにもドラマに入れないまま、ストーリーだけが進行して、豆腐屋の姉が弟を勘当した心情も、赤犬のメンバーが青年を客人のように余所余所しく扱いながら、それでも一緒に歌う心情も、犯罪グループが青年を抹殺しようとする理由も理解できない。
 そもそもの始まりとして、手ぶらで出所してくるシーンからして演出が粗雑で、金属バットで殴られてもかすり傷程度。しかも都合よく記憶喪失という、シナリオと演出のハーモニーが堪らない。
 出来が良いのか悪いのかわからないという境目を歩き続けてきた山下敦弘ならではのダークゾーンに寄った出来栄えで、エンドクレジットを眺めていると、先ごろSMAP解散騒動で話題になったメリーさんの娘と彼女が社長をしているジェイ・ストームの製作。
 主人公の青年を演じる渋谷すばるは、所属タレントの関ジャニ∞のメンバーと知って、合点がいく。もっとも、渋谷すばるはなかなかいい喉をしていて、ほう!という感じ。
 結局、頑張っているのは二階堂ふみだけで、彼女がいなかったら★1.5は免れなかった。
 味園ユニバースを含め、大阪の下町感、昭和感が半端ないが、実在のバンド・赤犬の歌う歌がまた昭和感に溢れていて、2015年の映画とは思えないくらいのタイムスリップ感が凄い。 (評価:2)

杉原千畝 スギハラチウネ

製作:「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会
公開:2015年12月5日
監督:チェリン・グラック 脚本:鎌田哲郎、松尾浩道 撮影:ゲイリー・ウォーラー 美術:金勝浩一、プジェミスワフ・コヴァルスキ 音楽:佐藤直紀

偉人伝でもヒーロードラマでもヒューマンドラマでもない中途半端さ
 英題は"Persona Non Grata"で、好ましからざる人物の意味の外交用語。リトアニアの在カウナス領事としてユダヤ人に大量のビザを発行したことで知られる杉原の半生を描いた伝記映画。
 満州国外交部の役人だった杉原(唐沢寿明)が、ソ連合弁の北満鉄道の買収をめぐって関東軍が起こしたトラブルから辞職。在モスクワ大使館勤務を命じられるも英題の好ましからざる人物として拒否され、リトアニアに赴任。ドイツの迫害を逃れてきたカナウスのユダヤ人たちは、リトアニアのソ連併合を前に杉原に日本の通過ビザの発給を要望。領事館閉鎖まで独断でビザを発給し、多くのユダヤ人を救う。
 ドイツ、ルーマニアを経て日本の敗戦。戦後は外務省をクビになり、ソ連の貿易会社勤務を経た一生が描かれる。  当然ながら、ビザ発給の美談が中心となるが、冒頭のスパイ戦もどきの満州でのエピソード、イリーナ(アグニシュカ・グロコウスカ)との関係が不明瞭で、軍人嫌いという点を含めて杉原の人物像そのものは描けていない。
 ドイツ軍の動きを探るために国境にピクニックと称して偵察活動を行い、ドイツ軍とのカーチェイスを演じるなど、スパイ映画さながらのエンタテイメントも加えられているが、杉原の偉人伝でも、ヒーロードラマでも、ヒューマンドラマでもなく、中途半端さが漂う。
 イリーナは杉原の白系ロシア人妻がモデルなのだろうが、ポーランド人俳優のアグニシュカ・グロコウスカが美人。もっとロマンスが見たかった。
 杉原の二番目の妻に小雪。和服がとことん似合わない。 (評価:2)

製作:よしもとクリエイティブ・エージェンシー、チームオクヤマ
公開:2015年8月8日
監督:荒井晴彦 製作:奥山和由 脚本:荒井晴彦 撮影:川上皓市 美術:松宮敏之
キネマ旬報:7位

正妻に宣戦布告する不倫娘の非国民な物語
 高井有一の同名小説が原作。
 東京大空襲後の半年間を描くもので、舞台は杉並区。19歳の里子(二階堂ふみ)が、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトの演奏に魅せられて、隣家の丙種合格で徴兵を逃れた中年男(長谷川博己)と不倫をしてしまうという非国民な物語。
 銃後のもう一つの姿を描いたという点ではそれなりに意味があるが、生きるか死ぬかの瀬戸際での色恋沙汰の話はリアリティに乏しい。生きるか死ぬかの時だからこそ、現実逃避をして、刹那的に不倫に救いを求めたのだというテーマ設定も成り立つが、残念ながら二階堂と長谷川の演技からはそうした精神の飢餓感は伝わってこず、単なる肉欲に溺れるカップルにしか見えない。
 それもまた銃後の一側面として非国民的に描かれればそれなりの説得力を持ったかもしれないが、空襲シーンを含めてすべてに臨場感がなく、まるで戦争末期の東京とは思えないくらいに現実感に乏しい。配給やら灯火管制やらといった細かいエピソードは説明的すぎるくらいに過剰だが、制作費が足りなかったのかB29の編隊や空襲シーンに至っては安手のCGか書割で済ませるといった、いささか手抜きともいえる描写。
 終戦となって中年男の妻が帰ってくることを予見して、里子の顔がクローズアップになり、「里子は、私の戦争がこれから始まるのだ、と思った」という字幕が被る。おそらくは、終戦後の里子の人生を示すのだろうが、流れからは私の戦争は中年男の妻との戦いにしか受け取れず、300万人以上が死んだ戦争と正妻に宣戦布告する不倫娘との戦いを同列にされると、改めて非国民な娘としか感じられない。
 エンディングに茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』の詩が読み上げられるが、この詩に里子を同定されると、白々とした気持ちになる。 (評価:1.5)

製作:「母と暮せば」製作委員会
公開:2015年12月12日
監督:山田洋次 脚本:山田洋次、平松恵美子 撮影:近森眞史 美術:出川三男 音楽:坂本龍一
キネマ旬報:9位

戦中戦後を描く本作のリアリティのなさは驚くばかり
 井上ひさしの戯曲『父と暮せば』を原案として対を成す作品で、広島原爆に対して長崎原爆がテーマ。父が死に娘が生き残ったのに対し、息子が死に母が生き残るという対をなしている。
 長崎に原爆が落ち、医学生だった青年(二宮和也)が瞬時に消滅する。物語はその3年後から始まり、息子の死を確認できない母(吉永小百合)がその死を受け入れた時、初めて霊となった息子が現れて会話を交わすが、それはおそらく妄想であり、そしておそらく原爆症によって母が死ぬまでが描かれる。
 会話の中心となるのは息子の恋人(黒木華)で、勤労奉仕の友人が原爆死した際にたまたま腹痛で休んだことで死を逃れたことに苛まれて結婚できないでいる。母は妄想の中で息子への思いから娘に結婚を許すべきか煩悶し、死の直前に結婚を希望、娘は婚約者(浅野忠信)を連れて挨拶に来る。
 ここでよくわからないのが、娘が結婚しない理由が元恋人への貞節ではないのになぜ結婚を決意したかで、人間心理の機微が描けない山田洋次の朴念仁ぶりが現れる。
 そもそも昭和6年生まれでありながら、戦中戦後を描く本作のリアリティのなさは驚くばかりで、山田のプチブル体質が如実に作品に現れているだけでなく、戦中戦後を描いた先達の映画監督から何も学べなかったとしか思えない。
 冒頭から辟易するほどの吉永と二宮のお涙頂戴演技を見せられ、原爆の悲劇を感傷でしか描けないウエットなだけの演出に、山田の頭でっかちな進歩派文化人ぶりを見る気がする。
 エンドロールは狂信的な宗教の信者たちの合唱をみているようで気味が悪い。
 唯一の救いは、黒木華のセーラー服姿。  (評価:1.5)

神様はバリにいる

製作:「神様はバリにいる」フィルムパートナーズ
公開:2015年1月17日
監督:李闘士男 脚本:森ハヤシ 撮影:神田創 美術:飯塚優子 音楽:安達練

アニキを美化すればするほど嘘くさくなる
 バリ島にいる実在の日本人実業家をモデルにした作品で、日本で事業に失敗して自殺するためにバリに渡った女社長(尾野真千子)が、日本人大富豪のアニキ(堤真一)に出合い、彼に教えを乞い、その言葉をまとめた本を日本で出版するというのが大筋のコメディ。
 女社長は語り手で、内容的にはアニキが主人公。ヴィラを建設する予定を変更して幼稚園建設に漕ぎ着けるまでの話を縦軸に、バリ島の人たちのために雇用を作り、貧しい子供たちに靴をプレゼントするといったエピソードを交えながら、彼がバリ島で成功した単なる成金ではなく、篤志家であるという美談を並べていく。
 アニキはヤクザと見紛うばかりの風体をしていてやることなす事破天荒だが、実在の人物はともかく、本作で描かれるアニキは相当に胡散臭い。
 胡散臭い映画に仕上げてしまったのは制作者の失敗で、並べたてた美談にしても、アニキの語録にしても、胡散臭さを否定するために美化すればするほど、ますます嘘くさくなっていく。
 アニキの人物像を描くには余りに偶像化しすぎ、コメディにするには毒がなく、そもそも何を描くかという点がないままに企画されてしまった印象。製作委員会メンバーの雑多さからも方向性のなさが窺える。
 観光映画としてはそれなりで、堤真一のメーキャップと演技が一つの見どころではあるが、『欲動』(2014)同様、スタッフがバリ島ロケに行きたいというのが最大の目的だったんじゃないかと思えてしまうのが残念なところ。 (評価:1.5)

ストレイヤーズ・クロニクル

製作:映画「ストレイヤーズ・クロニクル」製作委員会(日本テレビ放送網、ワーナー・ブラザース映画、讀賣テレビ放送、バップ、ツインズジャパン、D.N.ドリームパートナーズ、電通、集英社、札幌テレビ放送、宮城テレビ放送、静岡第一テレビ、中京テレビ放送、広島テレビ放送、福岡放送)
公開:2015年6月27日
監督:瀬々敬久 脚本:喜安浩平、瀬々敬久 撮影:近藤龍人 美術:磯見俊裕

今の邦画界の深淵を覗ける究極の駄作
 本多孝好の同名小説が原作。Strayer's Chronicleは、おそらく迷子の年代記という意味。
 原作を知らないと冒頭から話がピーマン(という流行語が昔あったが、まさしくソレ)。子どもたちを被験者に、ストレスホルモンで超能力化させたグループと、遺伝子操作で超能力化させたグループの少年少女たちが、おそらく抗争をしているが、その理由がてんでわからない。
 研究者同士の争いなのか、両被験者グループでどちらが優性なのかを調べるためなのか、どちらにしても双方が殺し合う理由がよくわからない。しかも、ホルモングループは20歳前に破綻して死んでしまい、遺伝子グループも寿命が短く生殖能力に欠くという欠点を持ち、結果的に実験は失敗している。自分たちの運命に対する復讐ならば、敵は研究者なのに・・・というのもどうでもいいくらいに彼らの目的が描かれない。
 結果、大方の登場人物が死んでしまうが、結局何の話だったのかわからないまま。
 想像するに、勝手な大人たちに育てられた超能力少年たちが苦悩する姿を、大人たちが作った世の中に放り出されて右往左往する現代の若者世代の苦悩に置き換えて、どう生きるべきかという青春映画にしたかったのだろうが、設定は大友克洋『アキラ』の亜流で、『アキラ』の超能力少年たちの苦悩は微塵も描かれず、ただ物語だけが・・・というよりはアクションだけが進行していく。
 映像加工による超能力シーンのSFXだけは手が込んでいるが、かといって目を見張るほどのものでもなく、企画段階ではきっとそれが売りで出資集めをしたんだろうと想像のつく製作委員会メンバー。
 原作が悪かったのか、シナリオが悪かったのか、演出が悪かったのか、作品は主人公の少年たち同様に破綻していて、究極の駄作ともいうべきもので、今の邦画界の深淵を覗く思いがする。
 岡田将生、成海璃子等の超能力少年たちは学芸会レベル。石橋蓮司、伊原剛志は作品を選ばない。 (評価:1.5)

ホワイトリリー

製作:日活
公開:2017年2月11日
監督:中田秀夫 製作:由里敬三 脚本:加藤淳也、三宅隆太 撮影:近藤龍人 美術:西渕浩祐 音楽:坂本秀一

ポルノホラーにするくらいの開き直りが欲しかった
 日活ロマンポルノ45周年記念リブート作品。
 高校生の家出娘(飛鳥凛)が陶芸家夫婦に助けられて住み込みの弟子となり、夫亡きあとレズビアンの関係になり、先生命と絶対服従してきたという設定。
 有名になった先生(山口香緒里)は男を連れ込み始め、遂には若い男(町井祥真)と同棲を始める。弟子は若い男を追い出そうとするが、そこに逆上した男の恋人(西川カナコ)がやってきて包丁で先生を刺そうとしたため、庇った弟子が負傷。半年後、退院した弟子を先生が引き止めるが、立場が逆転して弟子が先生を振るという物語。
 先生と男たちのセックスシーン、若い男と恋人のセックスシーン、弟子のオナニーシーン、弟子と先生のレズシーン、弟子と若い男のセックスシーンはあるものの、どれも10分に1回の絡みというルールに従っただけのおざなりで、ポルノに徹しているわけでもなく、作品にテーマがあるわけでもなく、中田秀夫にポルノに対する思想もスタンスも感じられない。
 ポルノないしは性について中田に描きたいものがないか、あっても描く能力がないかのどちらかで、ロマンポルノ・リブート作品の監督に選定したこと自体が間違い。中田が仕事を受けたことが間違い。
 ポルノについての思想も技もないのなら、せめてポルノホラーにするくらいの開き直りが欲しかった。 (評価:1)


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