海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2016年

人生フルーツ

no image
製作:東海テレビ放送
公開:2017年1月2日
監督:伏原健之 撮影:村田敦崇 音楽:村井秀清

造成地を50年をかけて里山に戻した努力に感服するのみ
 キネ旬文化映画第1位に選ばれたドキュメンタリー映画。
 建築家の津端修一と妻・英子の自然とともに暮らす生活を描く。
 二人は春日井市の高蔵寺ニュータウンに暮らすが、1959年の伊勢湾台風被害後にニュータウンの計画に携わったのが津端自身で、山を崩し谷を埋めて造成し、自然と共生する団地を目指したものの、コスト面から計画通りにはならなかった。
 建築家は雇われ仕事ではないというポリシーの津端は、造成地に家を建て周囲に木を植える。敷地は50年を経て雑木林に囲まれた家となり、数々の果実、農作物、野鳥たちの棲み処をもたらす。そうした自然と共に暮らす夫婦の自給自足生活を追い、伊万里市の医療福祉施設計画に携わる最中、津端は90歳で自然に還る。
 ドキュメンタリーは津端亡き後、英子が今まで通りの生活を送る姿で終わるが、自然の実りは生活だけでなく人生の実りにも及ぶというのが作品の趣旨。
 都会に暮らす者からは理想的な生活に映るが、現実には夢物語で、50年をかけた生活の積み重ねが既に取り返しのつかない時間であることに気付くとき、羨望とともに今の生活に哀れを感じることになる。
 あくまで理想を追って、造成地を50年をかけて里山に戻す努力をした津端に感服するのみ。 (評価:2.5)

製作:「怒り」製作委員会(東宝、電通、ジェイアール東日本企画、ケイダッシュ、KDDI、読売新聞社、中央公論新社、日本出版販売、ソニー・ミュージックエンタテインメント、GYAO、中日新聞社)
公開:2016年9月17日
監督:李相日 製作:市川南 脚本:李相日 撮影:笠松則通 美術:都築雄二、坂原文子 音楽:坂本龍一
キネマ旬報:10位

麦茶をサービスしてくれた主婦を殺した何故がない
 吉田修一の同名小説が原作。
 住宅街で起きた殺人事件の指名手配犯をめぐる物語で、人相がよく似た3人のストーリーが並行して進む、いわば犯人は誰か? のミステリー仕立て。もっとも、作品的にはミステリーというよりはテーマ性が強く、正体不明の3人とそれに絡む人たちとの絆の物語になっている。
 犯行現場には「怒」の血文字が残されていて殺害の動機がミステリーの一つとなるが、明確には描けてなく、人間同士の信頼という分りやすいテーマに逃げている印象は否めない。
 仲間にからかわれて騙された日雇い労働者が真夏の住宅街で休んでいたところ、親切な主婦が麦茶をサービスしてくれる。社会からも仲間からも疎外された男は、持って行き場のない不満や怒りを親切な主婦に向けてしまうが、その何故がない。
 正体不明の3人のストーリーは、千葉の漁港で働くアルバイト(松山ケンイチ)、東京で失業中のゲイ(綾野剛)、沖縄の無人島に住むヒッピー(森山未來)で、それぞれに頭の足りない女(宮崎あおい)、住まいを提供して同棲するゲイ(妻夫木聡)、民宿の少年(佐久本宝)とのカップルになる。
 犯人同様、3組のカップルはそれぞれに社会から疎外されていて、諦めに近い無力感がある。低能であるが故に幸せは求められないという諦め、ゲイであることを公にはできないという諦め、そして基地の島・沖縄は何も変えられないという諦め。
 そうした諦めの中で3組のカップルは人の絆と信頼を相手に求めていくが、千葉と東京のカップルは指名手配犯の写真を見て、相手に不審と不信を抱く。一方、沖縄のカップルは少年のガールフレンド(広瀬すず)が米兵にレイプされた事件をきっかけに信頼と不信の間で相手への怒りを増幅させるが、このエピソードだけが政治的でやや類型的なのに違和感がある。
 なぜ簡単に相手を信用できるのか、なぜ簡単に相手を裏切れるのか、という人間の孤独と不安・無力を描きながらも、ある種の感動とハッピーエンドも用意されている。
 全体に演出・編集もよく、俳優も揃っている。メイン・キャストでは宮崎あおい、妻夫木聡、とりわけ森山未來がいい。 (評価:2.5)

製作:「永い言い訳」製作委員会(バンダイビジュアル、AOI Pro.、テレビ東京、アスミック・エース、文藝春秋、テレビ大阪)
公開:2016年10月14日
監督:西川美和 製作:川城和実、中江康人、太田哲夫、長澤修一、松井清人、岩村卓 脚本:西川美和 撮影:山崎裕 美術:三ツ松けいこ
キネマ旬報:5位

月並みな結論で終わるが見ごたえのある作品
 西川美和自身の同名小説が原作。
 観光バスの事故で妻(深津絵里)を失った小説家が主人公(本木雅弘)で、同じ事故で死んだ妻の親友(堀内敬子)の夫(竹原ピストル)と遺児の兄妹との交流を描く。
 主人公、妻、親友とその夫の4人は学校の同級生。トラック運転手の夫のために遺児の面倒を主人公が見ることになるが、虚構を生業とする主人公には妻の死さえも素直に悲しむことのできず、人を愛することができないという偽善からスランプに陥ってしまう。
 その事に気づくのは悲しみの涙も流れず、弔辞さえも創作することからで、妻の死に負い目を持つ愛人(黒木華)とのセックスの最中にそれを指摘される。
 一方、同級生のトラック運転手は主人公とは対照的に人を愛することしかできない人間で、妻の死後、子どもへの愛情が支えとなる。
 主人公は遺児の世話をすることで自らの非人間性への代償とするが、それさえもが虚構のためのマテリアルであることに気づいている。その主人公を深追いするのが死んだ妻の遺したメッセージで、自分が人を愛せないだけでなく、誰からも愛されていないことに愕然とし、妻が絶望だけを遺していったことに気づく。
 ラストは愛する人がいることの大切さという月並みな結論で終わるが、そこに至るプロセスがよくできていて、本木と竹原の熱演もあって、見ごたえのある作品になっている。
 もっとも、導入の本木と深津の冷えた夫婦の会話は類型的で、本木が竹原の子供たちの世話を見る動機も曖昧で、西川美和のシナリオのご都合主義と粗さは相変わらずだが、本木と竹原の熱演が有無を言わさない。
 ラストのハッピーエンドも嫌味がなく、主人公が冷静で頭の良い遺児の兄に、「お母さんではなくお父さんが死ねば良かったと思っているだろうけど、そう思っているのはお父さん自身なんだ」という台詞が泣かせる。
 兄妹の演技が自然で子供らしいのも好演出。 (評価:2.5)

モヒカン故郷に帰る

製作:「モヒカン故郷に帰る」製作委員会(関西テレビ放送、バンダイビジュアル、ポニーキャニオン、アスミック・エース、東京テアトル、テレビ新広島、オフィス・シロウズ)
公開:2016年4月9日
監督:沖田修一 脚本:沖田修一 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 音楽:池永正二

沖田修一らしいハートウォーミングな余韻
 父子ものの人情コメディで、柄本明と松田龍平が好演している。
 プロローグは東京のライブハウスでボーカルする松田龍平から始まるが、人気は今ひとつでバンド解散、それぞれが田舎に帰ることになる。松田が同棲相手の前田敦子を連れて広島の両親の家に帰郷し、数カ月を過ごす。両親を柄本明ともたいまさこが演じるが、柄本は広島出身の矢沢永吉の大ファンで、コーチを務める中学校の吹奏楽部には「アイ・ラヴ・ユー、OK」を演奏させ、息子には永吉と命名している。
 要はロッカーな父と、その志を継いでビッグになることを目指し上京した息子の物語で、夢破れた息子が癌になった父の闘病を見守りながら、初心を取り戻し、再び上京するまでが描かれる。
 妊娠した前田との結婚式、父の葬式でクライマックスを迎えるが、沖田修一監督らしいハートウォーミングな余韻を残す。もっとも、結末とそれに至るまでのドラマが比較的よくある予定調和のため、既視感が拭えないのが残念なところ。
 柄本明が嫌味のない出色の演技で、松田龍平も従来の役どころながらそれに応え、もたいまさこは芸達者なところを見せる。前田敦子は頭が軽いながらも気のいい良い子という役で、妊婦まで演じて頑張ってはいるものの、バカになり切れないところが見えてしまうのが課題。 (評価:2.5)

牝猫たち

製作:日活
公開:1972年5月17日
監督:白石和彌 製作:由里敬三 撮影:灰原隆裕 美術:田村隆司 音楽:野村卓史

デリヘル嬢3人の貧乳が薄いポルノ色を尚更薄くしている
 日活ロマンポルノ45周年記念リブート作品。
 池袋のデリヘル店で働く3人の女とそれぞれの常連客、関係者を描く風俗もので、濡れ場を含めてポルノ映画としての必要条件は満たしているが、内容的には現代人の孤立の諸相を描く社会ものとなっていて、成人指定であることを除けば一般映画と変わらない。
 かつてもロマンポルノとは名ばかりの頭でっかちな作品はあったが、本作はそれとも異なっていて、『さよなら歌舞伎町』(2014)、『愛の新世界』(1994)とどう違うのか、『さよなら渓谷』(2013)、『私の男』(2014)よりはポルノでない。
 印象的なのは妻を亡くした老人の話し相手に呼ばれる里枝(美知枝)で、老人も孤独なら里枝も夫に不倫され、わずかな人間関係を同僚のデリヘル嬢と結ぶ。預金を使い果たした老人は最後に里枝と心中を図ろうとするが果たせず、逆に里枝に絞殺してもらう。直後、硬直したペニスで里枝は老人との初めての性交を果たす。
 邪魔な子供を虐待している結依(真上さつき)、フリーター然としたベビーシッターの青年、漫喫を泊り歩くホームレスの雅子(井端珠里)、10年間引き籠りのネット青年と、現代を象徴する孤立した人々が頼りなく池袋の街を浮遊する。
 意図的なのかデリヘル嬢3人のいずれも貧乳で、ただでさえ薄いポルノ色をなおさら薄くしている。
 現代人の孤立を描くものの、それが虚無的な描写だけに終わって、その先にあるものが見えてこないのが惜しい。 (評価:2.5)

製作:ディストラクション・ベイビーズ」製作委員会
公開:2016年5月21日
監督:真利子哲也 脚本:真利子哲也、喜安浩平 撮影:佐々木靖之 美術:岩本浩典 音楽:向井秀徳
キネマ旬報:4位

目新しさがなければ古くて古いだけのテーマ
 タイトルは、destruction(破壊)とdistraction(気晴らし・乱心)を引っかけたとのことで、そんな若者たちのことか。
 松山市を舞台にした兄弟の物語で、人間の持つ暴力性がテーマになっている。理由なき暴力がテーマの作品は洋の東西を問わず古くからあり、古くて新しいともいえるが、目新しさがなければ古くて古いだけ。
 本作にどれだけ新しいものがあるかといえば、通り魔だとかそれがSNSで報じられるくらいで、見終わって周囲に対する鬱憤という「理由なき反抗」以外のものはない。
 暴力の中心となるのは母親に捨てられ、港町の造船所の親爺(でんでん)に育てられた喧嘩以外に生き甲斐を見出せない青年(柳楽優弥)で、出奔して松山市内で誰彼構わず殴りかかり、その強烈なパンチを見て憧れた軟弱高校生(菅田将暉)が虎の威を借りてコンビを組み、女を撲るという最低男ぶりを発揮する。
 さらにはキャバ嬢(小松菜奈)を車ごと拉致して連れ回すが、女が老人を轢いて殺してしまい、逆上して交通事故を起こした挙句、高校生を殺す。
 人間に内在する暴力性と、きっかけによって男女の別なく暴走してしまうという特段新しくもないテーマで、出奔した兄を探し続ける優しい弟(村上虹郎)がSNSで事件を知った友達から苛められ、バットを持って暴力に走るという暴力が暴力を呼ぶスパイラル。兄は最後には警官まで殺してしまう。
 造船所の親爺を始め、弟が港町の喧嘩神輿に魅了されるシーンもあって、若者たちだけでなく社会そのものが暴力を黙認・礼賛していることが背景に描かれるが、だからどうだという展開もなく、単に暴力を描いただけに終わる。 (評価:2.5)

製作:「この世界の片隅に」製作委員会
公開:2016年11月12日
監督:片渕須直 脚本:片渕須直 作画監督:松原秀典 美術:林孝輔 音楽:コトリンゴ
キネマ旬報:1位

『悲しくてやりきれない』が象徴する戦争ファンタジー
 こうの史代の同名漫画が原作。
 広島の少女すずを主人公にした昭和8年から21年までの戦争を挟んだ物語で、原爆投下の広島市に生れ、軍港のあった呉に嫁ぐという少女と戦争がテーマのアニメ作品。
 すずが絵が上手いというのが映像上のポイントになっていて、すずが頭の中で描く絵がそのまま実景にとって代わるという、アニメならではの映像表現となっていて、これが最大の見どころ。
 とりわけ空襲シーンでの砲火が絵の具に変るシーンは、戦争という現実がすずにとっては絵画の情景に見えてしまうという非現実的なファンタジーで、それが爆弾によって、姪とこれまで現実をファンタジーに変えていた自らの右手を失うという、リアルな現実に直面することになる。
 すずにとっての戦争は、周囲の男たちが出征したり無敵戦艦の勇姿といった銃後の虚構でしかなく、すずが右腕と引き換えに現実の戦争を手に入れることになる。
 ストーリーそのものは、すずの個人史を年表風に並べていくだけで、各シーンは途切れ途切れでシークエンスを構成できていない。
 そのため細切れカットのダイジェストを見せられているだけで、各シーンの説明は不完全なままに台詞で繋ぐものの、『シン・ゴジラ』のように展開が早すぎて粗筋を追うだけでは、ストーリーにもドラマにもならない。
 結婚も親の言いなりで、絵を描く以外に主体性もなく、流れに身を任せていただけのすずが、玉音放送を聞いて戦争への怒りを爆発させ、それまでなかった政治的な台詞を口にするのが、どうにも唐突。
 少女の成長も描けていないと気づいて、これではノンポリ少女の単なる戦争体験記に終わってしまい中身がないと悟ったのか、玉音放送以降、無理矢理、反戦映画に仕立てた感がある。
 すずの声にのん(能年玲奈)、茫洋とした感じが合っている。
 誰の趣味なのかが、劇中流れる掠れたような歌声があざとくて悪趣味。とりわけ冒頭の既存曲『悲しくてやりきれない』は時代性も異なり太平洋戦争のBGMとしては違和感が大きいが、反戦歌のつもりだったのか? (評価:2.5)

製作:東宝
公開:2016年7月29日
監督:庵野秀明 特技監督:樋口真嗣 製作:市川南 脚本:庵野秀明 撮影:山田康介 美術:林田裕至、佐久嶋依里 音楽:鷺巣詩郎
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

新「ゴジラ」は、良くも悪くもアニメ的
 『ゴジラ FINAL WARS』(2004)から12年ぶりに制作されたシリーズ第28作。
 庵野秀明を総監督に迎えたが、アニメーションっぽい細切れのカット割りやレイアウト・演出、切り口上の台詞とスピーディなテンポ、オタクっぽいシナリオで、ドラマやストーリー性よりも流れで見せるという、ジャパニメーション世代による新しいゴジラ映画となっている。
 早口で無感情の台詞回しや画面に入る字幕は、基本的に記号として、観客に意味を理解することを求めていない。
 東京に未確認巨大生物が現れ、それに対処する日本政府との攻防戦というシンプルなストーリーで、ゴジラの誕生の悲劇、迎える人々の葛藤といったドラマはなく、あくまでもニュークリア対国家という記号的対立の図式に落とし込まれていて、政府・自衛隊は華々しく登場するが、一般国民は登場しない。
 そうした点で本作のテーマは、福島第一原発事故をモデルにした政治シミュレーションであり、ゴジラそのものを人間が生み出した絶対悪とする反核映画であり、それはラストシーンのゴジラの尻尾の地獄図に象徴される。
 政治シミュレーションとしては、ディティールは稚拙で、観客に理解する間を与えない高速の台詞とカットの切り替え、ストーリー展開で、襤褸が出ないようにしている。自衛隊出動の決断を首相に促すシーンも、防衛出動ではなく災害出動であるのは明らかで、核攻撃などありようがなく、自衛隊・米軍の描写、科学設定など、数え上げればきりがない。
 むしろ本作の見どころはVFXにあって、CGと実写の特撮・合成シーンは、かつての特撮映画のテイストを意図的に残すためか粗くなっていて、ミニチュアセットによる破壊王ゴジラの魅力という、ハリウッドゴジラとは一線を画す元祖の真髄を残していて、樋口真嗣ら特撮チームのこだわりを感じさせる。
 1シーンだけの出演を含め、バラエティに富んだキャスティングも見どころのひとつ。 (評価:2.5)

no image
製作:空族、FLYING PILLOW FILMS、トリクスタ、LES FILMS DE L’ÉTRANGER、BANGKOK PLANNING、LAO ART MEDIA
公開:2017年2月25日
監督:富田克也 脚本:相澤虎之助、富田克也 撮影:スタジオ石
キネマ旬報:6位

タイに行ったことのない者には理解できない
 バンコク・タニヤ通りの出稼ぎ娼婦と日本人の元恋人の物語で、ナンバーワン娼婦ラックを現役からスカウトしたスベンジャ・ポンコン、日本人・オザワを監督の富田克也自信が演じる。
 ラックは貧しいタイ北東部の出身で、弟妹たちに仕送りして養っているという黄金パターン。オザワは1992年にPKOでカンボジアに派遣された自衛官で、現在は根無し草。5年ぶりにタニヤで出会い、交際が復活。バンコクで事業を営む元上官に頼まれて、ラオスのヴィエンチャンの不動産調査に赴くが、途中までラックが同行、故郷の家族たちに紹介し結婚する気になるが、最後に二人は別れ、オザワはポン引きに、ラックは故郷に帰る。
 3時間の長尺で、よく言えば淡々と話は進むが、登場人物たちの心情は伝わって来ない。
 人間の考えや行動は、非連続的で非論理的で説明不能という実際に従えばその通りで、二人の行動も考えも説明がつかないと終わらせる点では、本作は画期的な作品で、アンチ劇映画、アンチ・ドキュメンタリーといえる。
 実際、バンコクで暮らす日本人たち同士の会話でも、タイは地上の楽園と言い合いながら、その真意が掴めないと正直に言わせている。
 ベトナム戦争後のインドシナ戦争、PKO、買春、麻薬、地方の貧困、等々のキーワードを展開し、タイが抱える問題そのものは万華鏡のように覗けるが、どれも食い散らかしている感があって、本質的な事柄はどれも描かれていない。
 人間の考えや行動同様、社会は有象無象で本質など見えないということなら、それを作品にすることの意義がよくわからない。
 問題提起をして、あとは観客に投げ出すにしても提供される材料に乏しく、制作者が漠然とタイの問題を考え、消化できないままに映画にしたとしか思えない。
 タイに行った者にしかこの映画を理解できないということなら、制作者としてあまりに未熟。 (評価:2.5)

製作:RVWフィルムパートナーズ(ロックウェルアイズ、日本映画専門チャンネル、東映、ポニーキャニオン、ひかりTV、木下グループ、BSフジ、パパドゥ音楽出版)
公開:2016年3月26日
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二 撮影:神戸千木 美術:部谷京子 音楽:桑原まこ
キネマ旬報:6位

わかりやすいメタファーに岩井俊二の老いを感じる
 リップヴァンウィンクルは本作に登場するAV女優・真白(Cocco)のSNSでのハンドル名で、元ネタはワシントン・アーヴィングの短編小説『リップ・ヴァン・ウィンクル』の基となったオランダ人移民の伝説の主人公の木樵の名。山奥で妖精とともに楽しい時を過ごし、町に戻ると20年の時が過ぎていたというもの。
 映画の方は、癌で死期を悟った真白が、最期の時を過ごす友達がほしいと願い、主人公の七海(黒木華)と現実離れした共同生活を送るというもので、真白がリップヴァンウィンクル、七海がその花嫁という関係になる。
 二人が知り合うきっかけは、なんでも屋の安室(綾野剛)の紹介で始めた結婚式代理出席のバイトで、真白の依頼で七海が心中相手に選ばれる。その理由はおそらく七海が自分というものを持たず、流されやすく騙されやすいことに安室が目を付けたからだが、この計画がいつ始まったのかや、前半の七海の夫の浮気にまつわるエピソードの真相が不明なままに物語が終わってしまうので、消化不良のもやもや感が残る。
 なんせ岩井俊二なのでその辺はどうでもよくて、黒木華のプロモ映像が撮れればそれでいい感はあって、演技のデパート・黒木華の友達いない内気な主体性のない女から、友達できて明るく前向きな女に成長するまでが楽しめる。もっとも、共同生活でのメイド服からウエディングドレスまでのファッションショーは少女嗜好的に可愛いが、いささか長すぎる。
 岩井俊二は黒木華のプロモ映像以外に何が描きたかったのかといえば、SNSで何でも手に入れられ生活できてしまうという簡便さの中にある孤独で、一方でAV女優になったことで金と引き換えに真白が手にした孤独を対比させる。結婚式代理出席のバイトの面々はそれぞれが孤独でありながら、似非家族という絆で結ばれていて、結局は人間同士の血の通った繋がりこそが大切だという保守的な価値観に回帰する。
 真白の遺骨を母に届けるエピソードにテーマが集約されていて、人前に裸を晒すことにこそ人間同士の繋がりがあるという、裸に体と心の両方を引っかけたわかりやすいメタファーに、岩井俊二の老いを感じさせるが、一方、母親役のりりィがいい。
 それにしても3時間は長い。 (評価:2.5)

聖の青春

製作:KADOKAWA、日本映画投資、朝日新聞社、電通、WOWOW、RIKIプロジェクト、日本経済新聞社、毎日新聞社
公開:2016年11月19日
監督:森義隆 脚本:向井康介 撮影:柳島克己 美術:安宅紀史 音楽:半野喜弘

年長の奨励会員が少年たちと三段戦を戦う姿が悲しい
 大崎善生の同名ノンフィクション小説が原作。
 幼い時にネフローゼに罹ったことがきっかけで将棋を始め、プロ棋士となって29歳、癌で早逝した村山聖八段の生涯を描く。
 いわゆる難病ものの闘病物語だが、目標の名人位の獲得、ライバル・羽生善治との盤上の戦いと友情がもう一つの物語の軸となっていて、村山を演じる松山ケンイチと羽生を演じる東出昌大の演技対決もみどころ。
 松山はネフローゼ患者・村山の体型作りのためにぶくぶくに太る奮闘ぶり、東出は羽生の風貌だけでなく仕草も似せて違和感がない。
 将棋棋士を描いた作品といえば伊藤大輔の『王将』(1948)が思い出されるが、本作は難病と闘う村山の生涯を追うだけの感動物語に流れていて、人間ドラマとしての厚みに欠け、村山聖の人間像には迫れていない。
 母の竹下景子、師匠のリリー・フランキーも単なる脇役に留まり、村山の生き方には絡まない。唯一、プロになれず出版部に入る村山の兄弟弟子(染谷将太)の挫折がドラマチックで、少年たちと三段戦を戦う姿が悲しい。
 タイトル戦以外のリーグ戦の様子や天井カメラなど、普段目にすることのできないものが見られる。 (評価:2.5)

天国はまだ遠い

no image
製作:神戸ワークショップシネマプロジェクト社
公開:2016年12月10日
監督:濱口竜介 脚本:濱口竜介 撮影:北川喜雄

ドキュメンタリーは作者の意図を離れて記録される
 霊能力のある男を介して、死んだ姉と遺された妹が会話をするという男イタコ版、38分の短編映画。
 17歳の時に殺された姉(玄理)は、事件現場を通り過ぎた同級生・雄三(岡部尚)に取り憑き、雄三の口寄せでボーイフレンドに電話をしたことから、それを耳にした妹(小川あん)が卒業制作のドキュメンタリー映画を思い立ち、事件から15年後に雄三にインタビューするという設定。
 初めは雄三を疑いながら、口寄せで二人しか知らないことを語る雄三に姉の存在を感じて抱き締めるというラストの小品で、姉と妹の年齢が逆転しているというのが映像的には面白い。
 口寄せ前では、妹が姉の死を卒業制作のために利用しているという雄三の問い詰めがあり、ドキュメンタリー制作における作者の目的の利己性への問いかけがある。
 結果として、利己的な目的から始まるドキュメンタリーが作者の意図を離れて記録されることを描くことで、濱口自身は一応の結論に導くが、オカルトチックな短編というだけでも楽しめる内容になっている。
 俳優は演技臭さを排した自然な演技という濱口らしい演出。
 プロローグとエンディングは天国に行けない浮遊霊の妹の物語となっているが、そこに何かテーマがあるのかは不明。 (評価:2.5)

ヒメアノ~ル

製作:日活、ハピネット、ジェイ・ストーム
公開:2016年5月28日
監督:吉田恵輔 製作:由里敬、藤岡修、藤島ジュリーK. 脚本:吉田恵輔 撮影:志田貴之 美術:龍田哲児 音楽:野村卓史

ゲームと麦茶好きのいい奴のラストシーンがズッコケる
 古谷実の同名漫画が原作。アノールはトカゲの種類で、ヒメアノールは造語。
 高校時代、苛めに遭っていた青年(森田剛)が卒業後、かつて苛めていた級友たちに復讐するという、社会弱者のためのストレス解消作品。
 主人公(濱田岳)は青年の元級友で、苛めグループではないが、最初は仲良くしていたのに苛められるのを見て離れていったという軟弱君。職場の先輩(ムロツヨシ)の天使(佐津川愛美)が働くカフェに付き合ったところ、たまたま青年と再会。天使は青年にストーカーされていて、相談に乗っているうちに軟弱君が天使とデキてしまう。
 ラブコメパターンかと思いきや、二人がデキたことを知った青年が殺意を抱き、同じ苛められ仲間だった元級友を殺してしまったことから歯止めがなくなり、連続殺人に走るという殺伐バイオレンスパターンに。
 失うものがない者の暴走は天使へと向かい、軟弱男との対決となるがラストは警察も加わって御用となる。
 結論は「イジメはやめましょう」で、青年もイジメさえなければ犬も車で轢けない、ゲームと麦茶好きのいい奴なんだという、とってつけたラストシーンがズッコケる。
 バイオレンスよりはラブコメパートの方がよく出来ていて、淫乱な天使を演じる佐津川愛美がいい。
 それにしてもタケシ以来、バイオレンスが売りの殺伐とした作品が多くなった。 (評価:2.5)

製作:「クリーピー」製作委員会(松竹、木下グループ、アスミック・エース、光文社、朝日新聞社、KDDI)
公開:2016年6月18日
監督:黒沢清 脚本:黒沢清、池田千尋 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 音楽:羽深由理
キネマ旬報:8位

意外性がなく隣人の怖さが実感されないのが痛い
 前川裕のミステリー小説が原作。
 犯罪心理学者の主人公が転居先で隣人の不可思議な事件に巻き込まれるというミステリーで、犯人はサイコパスの設定。
 地域の繋がりの薄れ、モザイク状に空家や空地、アパートが建ち並ぶ現代では、隣人が本当に隣人その人であるかもわからないような社会になっている、というのがコンセプトで、その中で起きる「偽りの隣人」による犯罪を描く。
 犯人は家を乗っ取り、隣人になりすましてその家の財産を食いつぶすと、また新しい家に移り住むが、本来ならミステリーであるはずの本作は、黒沢清カラーのサイコ・ホラーに脚色されているために、ミステリーになっていない。
 ラストでは、精神を支配する薬が効いていなかったのか、犯人は企てに失敗してしまうが、その理由が明確に描かれていないばかりが、合理的な推論をするとあまりに凡庸な解決法で、それまでのサイコ・ホラーの緊張から一気に力が抜けてしまう。
 ミステリーは謎解きが重要で、それが不十分なばかりか、サイコ・ホラーに傾斜したためにミステリーの筋立てがシンプルになり過ぎ、面白味を欠いている。
 サイコ・ホラーとしては、香川照之の演技はそれなりだが、もともと壊れかかった人格の役と演技が多いために、意外性も怖さもなく、シーンと演出も表面的で、『CURE』(1997)には遠く及ばない。
 強引な設定とストーリー運びにも気分を削がれ、犯人が注射する薬品が何かも説明されないままモヤモヤだけが残り、テーマである肝心の隣人の怖さが実感されないのが何とも痛い。
 主人公に西島秀俊、その妻に竹内結子。隣人の娘に藤野涼子、刑事に東出昌大、笹野高史。 (評価:2)

蜜のあわれ

製作:『蜜のあわれ』製作委員会
公開:2016年4月1日
監督:石井岳龍 脚本:港岳彦 撮影:笠松則通 美術:齋藤佐都子 音楽:森俊之、勝本道哲

創作論を語られても好きになれず楽しくない
 室生犀星の同名小説が原作。
 金魚を飼っている小説家が、その金魚が17歳の少女に実体化した幻想を語るファンタジーで、「小説の虚構性」をファンタジーという形でとことん追及していく。金魚の化身である少女同様に、小説の中で造形されるもっともらしい女も幽霊のごとき虚構であるという主張の中で他愛もない話が進んでいくが、それは小説や映画の制作者にとっての自問でしかなく、それを受け取る観客にとってはそのような創作論を語られても唖然とするだけで、面白くもおかしくもない。
 幻想の中に芥川龍之介が登場し、室生犀星が目標としていた作家だったと語られるのを含め、総じて室生の作品論、ないしは石井岳龍の創作論になっている。
 石井は最後にこの観客にとってはどうでもいい物語に一つの結論めいた「好きになることは楽しいこと」というメッセージを織り込むが、残念ながら創作論を語るこの作品から楽しいことは得られない。
 主人公の小説家を大杉漣、金魚を二階堂ふみが演じ、二階堂は赤いひらひらの金魚コスチュームで身を包み、コケティッシュな役柄をそこそこに演じるが、本来ファンタジーであるべき舞いやポーズの決めシーンが学芸会的で幻想的でなく、演出の粗さが出ている。
 小説家が生み出した虚構の女に真木よう子、芥川龍之介を演じる高良健吾が似ている。 (評価:2)

君の名は。

製作:「君の名は。」製作委員会
公開:2016年8月26日
監督:新海誠 製作:市川南、川口典孝、大田圭二 脚本:新海誠 作画監督:安藤雅司 美術:丹治匠、馬島亮子、渡邉丞 音楽:RADWIMPS

一言でいえば『転校生』+『時をかける少女』だが・・・
 一言でいえば、大林宣彦の『転校生』(1982)と『時をかける少女』(1983)をミックスしてアニメにした作品。
 シナリオは矛盾点もわからないほどにかなりこんがらがっていて、タイムスリップものとしてはわかりにくくなっている。
 男女の人格入れ替わりも、タイムスリップも手垢がつくほどにありきたりで、それを補うだけの物語性があるわけでもないが、唯一オリジナリティがあるとすれば、人格入れ替わりとタイムスリップを組み合わせて、3年の時間差を加えたこと。もっとも、これがストーリーをわかりにくくしたともいえ、『転校生』にも『時をかける少女』にもなれなかった。
 本作で出色なのは、田舎町に住む女子高生の三葉が巫女の舞を舞うシーン。モーション・キャプチャーを使用したか、素晴らしいシーンに仕上がっている。
 物語は飛騨に住む女子高生と東京に住む男子高生の心と体が日替わりで入れ替わってしまうというもので、突然それが途絶えて、男子高生が女子高生に会いたくなり、いろいろあって彗星の隕石落下で全滅した女子高生の村を男子高生が救うというもの。
 タイムパラドックスについて制作側は一切気にかけていないので、あくまでもこの二人のラブ・ストーリーということになる。
 その割には設定の面白さ頼みで二人の恋愛感情が描かれてなく、なぜ二人が魅かれ合うようになったかの説得力が皆無。ラストシーンもケン・ソゴルと芳山和子が互いの記憶を失ってすれ違うという切なさよりも、互いに記憶が蘇ってハッピーエンドという何とも目出度い作品になっている。 (評価:2)

海よりもまだ深く

製作:フジテレビ、バンダイビジュアル、AOI Pro.、ギャガ
公開:2016年5月21日
監督:是枝裕和 製作:石原隆、川城和実、藤原次彦、依田巽 脚本:是枝裕和 撮影:山崎裕 美術:三ツ松けいこ 音楽:ハナレグミ

父親も監督もノスタルジーを語るようになったらお終い
 是枝が住んでいた清瀬市旭が丘団地を舞台にした作品で、おそらくは是枝の様々な思いが詰まっているのだろう。そのためかストーリー的にもテーマ的にもまとまり切らず、完成しないジグソーパズルを見せられた気がする。
 主人公(阿部寛)は売れない小説家で、大黒柱となれなかったためか妻(真木よう子)と離婚。興信所のバイトをしているが給料を博打に注ぎ込み養育費も払えない。
 月1回の面会の日に息子になけなしの金でスポーツシューズを買ってやり、モスでハンバーガーを食べさせてやり、旭が丘団地の実家の母(樹木希林)の家に行って夕食をたかる。折からの台風接近で、迎えに来た元妻と久しぶりの家族の一夜を過ごし心を通わせるが、かといって復縁するでもなく、息子に夢を持つことの大切さを父として息子に教えるという、ストーリー的にもテーマ的にも陳腐なラストとなる。
 描かれるのは夢を叶えられなかった男の哀愁のみで、誰もが夢を叶えられるわけではないけれど、それでも夢を持って生きるのが男だということで、生活破綻・人格破綻が許されるなら、真木よう子ならずとも、父親失格の男が何を夢ばかり語っているんだということになる。
 その哀愁を語るに相応しいのが高度成長期の始めに建てられた旭が丘団地で、老朽化したかつての規格化された団地の部屋や、一人入るのがやっとのコンパクトな風呂、児童遊園などが情けない一生を過ごした男の心を慰撫する。
 息子と過去の遺物である遊具の秘密基地で台風の一夜を過ごすなど、息子にノスタルジーを強要するようになったら父親もお終いだということを実感させる。 (評価:2)

団地

製作:キノフィルムズ
公開:2016年6月4日
監督:阪本順治 脚本:阪本順治 撮影:大塚亮 美術:原田満生 音楽:安川午朗

なんでこんな作品を作ってしまったのだろう
 70年代に建てられた昭和の団地を舞台にした、SFファンタジーコメディ。
 2年前に一人息子を交通事故で亡くした初老の夫妻(岸部一徳、藤山直美)が、老舗の漢方薬局を廃業して団地に引っ越してくる。そこに宇宙人(斎藤工)が現れ、彼らの生存に漢方薬が必要と特注し、団地の人間関係に疲れた夫は失踪した振りをして部屋に閉じこもって製造する。宇宙人の見返りは死んだ息子(中山卓也)に会わせるというもので、『未知との遭遇』よろしく夫婦は宇宙船に乗り込むが、肝腎の臍の緒を忘れたために宇宙人が地球にやってきた日に時空を巻き戻すと、何事もなかったように息子が一緒に生活しているという不条理な結末。
 宇宙人曰く、空蝉の世はかりそめで、人は生も死もなく本来あるべき世界にいる。それが涅槃の世界なのかはともかく、阪本の世界観は極私的で、それを理解しようという気が起きるかどうかが第一の問題。
 第二の問題は、なんで今更、昭和の団地を舞台にする必要があったのか全く理解できないこと。しかも登場するのは自治会長夫妻(石橋蓮司、大楠道代)と、虐待一家と、主婦が2、3人と団地の割には少世帯。
 エピソードの中心は団地の噂話と人間関係という半世紀前のテーマで、半世紀前に作られた作品ならともかく、全く時代性が感じられないこと。
 問題の第三は、ラストシーンは全く理解不可能で、意図もよくわからない。
 コメディも半世紀前のセンスで、なんでこんな作品を作ってしまったのだろうというのが率直な感想。 (評価:2)

製作:「オーバー・フェンス」製作委員会
公開:2016年9月17日
監督:山下敦弘 製作:永田守 脚本:高田亮 撮影:近藤龍人 美術:井上心平 音楽:田中拓人
キネマ旬報:9位

これは自殺しない明るい佐藤泰志のための映画
 佐藤泰志の同名短編小説が原作。
 佐藤泰志原作ということで『海炭市叙景』(2010、熊切和嘉)、『そこのみにて光輝く』(2014年、呉美保)と同じ文芸作品を期待すると肩透かしを食う。佐藤泰志独特のあの暗さはなく、むしろ現代的でポップ。「魚見せようか」といって刺青を見せるといった吉本のノリも織り交ぜて、明るい佐藤泰志を目指しているところが、大阪芸大出身の山下敦弘らしさか。
 職業訓練校で大工の技術を学ぶ失業者たちの物語で、主人公をオダギリジョーが演じるのが、明るい佐藤泰志の第一歩。妻子と別れて故郷の函館に帰ってくるが、その理由が「壊し屋」というだけで、オダギリジョーらしい軽薄な曖昧さのままで、ドラマの核心を大きく欠く。
 これに対するのが「壊れた女」蒼井優で、演技的には頑張っているが、そこは明るくて良い子の蒼井優が顔を見せてしまって、佐藤泰志描くところの寂れた函館の陰影は一筋も差さない。
 おつむの軽い女の子たちを相手に、若いうちに笑っておけ、すぐに生きるためだけに生きるつまらない人生になるからとオダギリジョーが説教するシーンが見せ場といえば見せ場だが、スネ夫の捨て台詞的なところがあって、苦悩よりも厭世に見えてしまうのも佐藤泰志の暗さにならない。
 「壊れた女」のためにホームランを打つクライマックスも、明るい佐藤泰志のハッピーエンドで、これは自殺しない佐藤泰志のための映画で、原作と映画は別物と割り切って観るしかない。 (評価:2)

製作:「淵に立つ」製作委員会、Comme des Cinémas
公開:2016年10月8日
監督:深田晃司 脚本:深田晃司 撮影:根岸憲一 美術:鈴木健介 音楽:小野川浩幸
キネマ旬報:3位

よろめき主婦を演じる筒井真理子のよろめき方がリアル
 殺人により11年の刑期を終えて出所した男(浅野忠信)が町工場を経営する友人(古舘寛治)の一家に住み込みで転がり込むという物語。
 工場主は実は共犯で、男がすべての罪を被ったという弱みから受け入れるが、男は妻(筒井真理子)を誘惑して失敗すると、娘を半身不随にしてしまう。後半の物語は8年後で、父も事件も知らない男の息子が従業員となっていて、素性を知った工場主夫妻が男を探すものの空振り、妻の心中未遂でラストとなる。
 男と工場主が起こした殺人事件というのが全く説明なしで、ご都合主義の設定の粗さが物語を薄くしている。全体にシーンが無駄に長く、編集も良くないので無茶苦茶眠くなる。これに退屈で方向性もテーマもないアイディアだけのストーリーが輪をかけるため、思い切って寝るか観るのを止めるかの決断を迫られる。
 脳損傷で車いす生活になってしまった娘の描写が必要だったのかどうか。演技も下手糞なので、健常人が障碍者を演じる後味の悪さだけが残る。
 唯一の見どころは、よろめき主婦を演じる筒井真理子のよろめき方がリアル。 (評価:2)

製作:「湯を沸かすほどの熱い愛」製作委員会
公開:2016年10月29日
監督:中野量太 脚本:中野量太 撮影:池内義浩 美術:黒川通利 音楽:渡邊崇
キネマ旬報:7位

タイトルに反し寒い演技・脚本・演出に体が冷えてくる
 湯を沸かすほどの熱い愛を捧げるのが、本作で肝っ玉母さんを演じる宮沢りえで、夫の連れ子、夫の隠し子かどうかもよくわからない子、蒸発・出戻りのしょうもない夫、道で拾ったヒッチハイカーの青年に、その愛情を注ぎ込む・・・というのが作品のコンセプト。
 学校で苛められている娘に登校を強要し、強く生き抜くことを求め、癌で余命3カ月と宣告されると、その娘を実母に会わせ、帰ってきた夫と家族総出で家業の銭湯を再開するという女丈夫に、湯を沸かすほどの熱い愛を感じることができればいいのだが、宮沢りえの演技が悪いのか、はたまた中野量太のシナリオ・演出が悪いのか、映画ののっけからの空々しさに気持ちが離れ、終始作品に入り込めない。
 公然と苛められているのに、なんで教師は無関心なの? とか宮沢りえは何で黙ってるのとか、まるでガンジーのようなストイックな無抵抗主義に???が頭に浮かぶばかり。
 優しさだけが取り柄の無責任ヒモ夫役のオダギリジョーの役どころと演技には絶えず既視感が付きまとい、こんな役しかできないのか、いや、こんな人物像でしか男の理想像を描けないのかと、シナリオ・演出のレベルの低さにため息が出る。
 そもそも、妻・母が末期癌と明かされたのに、一家団欒、何事もなかったように旨そうにしゃぶしゃぶやタカアシガニ食ってる場合か?
 湯を沸かすほどの熱い愛のタイトルの意味がラストで具象化され、それが本作で唯一の見どころというか意外性に繋がってくるが、タイトルに反し、終始寒い演技と寒いシナリオ・演出に体が冷えてくる。 (評価:2)

風に濡れた女

製作:日活
公開:2016年12月17日
監督:塩田明彦 製作:由里敬三 脚本:塩田明彦 撮影:四宮秀俊 美術:竹内公一 音楽:きだしゅんすけ

男も女も野良犬になって交尾しましょうというオチ
 日活ロマンポルノ45周年記念リブート作品。
   古紙回収のリアカーを引いて隠遁するように山中の小屋で暮らす男が、海辺で出逢った女に付き纏われるという話で、追い返す男に女がロック・オンしたと言い、この言葉を頼りにラストのセックスシーンへ繋げるという作品。
 女は誰とでも寝る雌の野良犬で、興奮した青年が交尾しようとするとすると噛みついて拒絶するというじゃじゃ馬(犬?)。結局わけがわからずラストシーンに至るが、取り敢えず予測不能なストーリー展開で興味を引っ張り、セックスシーンもきちんきちんと入れていくというポルノとしては必要条件を満たしている。
 雌犬を演じるのがグラビアアイドル系の間宮夕貴、男の元彼女に熟女系の鈴木美智子、劇団付脚本家にロリ系の中谷仁美とキャスティングも考えられていて、あとは物語は好きなように解釈して下さいという放り出し型。
 山小屋男は元劇団員で女にモテモテで都会が嫌になったという、男には羨ましい厭世的人間。毒蛇と野犬がうろうろしているという山中のボロ小屋に住むが、見たところは神奈川か千葉の片田舎。都会生活が捨てきれず、里のコーヒーショップで買い入れた豆をミルで挽いて、ハンドドリップで入れるというシャレ者。女の虜となって交尾した後、おまえが野良犬と言われるが、要は男も女も社会の束縛から自由になって野生に帰り、野良犬になって交尾しましょうというオチ。 (評価:2)

ジムノペディに乱れる

製作:日活
公開:2016年11月26日
監督:行定勲 製作:由里敬三 脚本:行定勲、堀泉杏 撮影:今井孝博 美術:相馬直樹 音楽:めいなCo.

下半身だけでなく脳内も刺激を受けることがない
 日活ロマンポルノ45周年記念リブート作品。
   今の日本の監督には満足なポルノ映画も撮れないということを実感する作品。翻れば、かつてのロマンポルノの監督たちは、満足に映画を撮れない状況下でロマンポルノに活路を見出したが、テレビの多チャンネルやビデオもインターネットもミニシアターもあって、ないのは金だけという今の監督には、そのような精神面での飢餓感が欠如しているのか。
 主人公はベルリン映画祭でしか受けないような映画を撮る監督(板尾創路)で、人気もなく仕事も中止。スタッフ、女優、映画学校の生徒と手当たり次第に女に手を出し、それが原因か車の運転中に妻に心中を図られ、妻だけが重体に。そんな男が愛とは何かを問い詰められ、妻の死に際に虫の知らせを感じて病院へ。愛とは何かがわかったようなわからないような。
 ポルノ映画ならストーリーのアイディアと濡れ場が勝負なのに、つまらない内輪の話しか書けず、気の抜けた男の気の抜けたセックスシーンでは誰も見る気がしない。まさに劇中の映画監督が撮る映画そのもののように魅力がなく、下半身だけでなく脳内も刺激を受けることがない。
 日活ロマンポルノの時代は遠くなり、その精神は忘れられてしまったことを実感する。ジムノペディもただのBGMでしかなく、気だるさだけがマッチしている。 (評価:2)

64 ロクヨン

製作:「64」製作委員会
公開:2016年5月7日(前編)、2016年6月11日(後編)
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久、久松真一 撮影:斉藤幸一 美術:磯見俊裕 音楽:村松崇継

あらゆる点がファンタジーな間の抜けた警察ドラマ
 横山秀夫の同名小説が原作。
 7日間しかなかった昭和64年に起きた少女誘拐殺害事件が未解決のまま時効を迎えようとしていて、この7日間、ロクヨンに取り残されたままの元捜査員、被害者の父が平成の世を生きてきたというのが設定上のアイディア。
 警察庁長官が県警奮励のために被害者宅を訪れることになり、県警広報官となっていた元捜査員の三上(佐藤浩市)が、アポのために被害者の父・雨宮(永瀬正敏)を訪れたことから事件が動き出す。
 警察庁長官の訪問当日、64とそっくりの誘拐事件が発生。ネタ晴らしをすれば、この事件の犯人は元捜査員で県警を退職した幸田(吉岡秀隆)、被害者は64犯人の目崎(緒形直人)。目崎が犯人と割り出したのは雨宮で、その意を受けて幸田が狂言誘拐を図るが、それが復讐でも犯罪証明でもなく、単なる嫌がらせにすぎず、犯行動機が今一つわからない。
 雨宮が電話帳総当たりで電話をかけて声から目崎を割り出すのも、それで特定できるのかというツッコミはともかく、1日100件電話しても1年で3.6万件、10年で36万件と、不可能ではないがファンタジーに近い。
 64と同じところを走らされて、目崎が途中で不審に思わないのも変で、最後に64犯行現場で何一つ証拠がないのに逮捕されるのも警察ドラマとしては間が抜けている。
 劇中の鍵となる幸田メモにしても、捜査員の録音ミスが隠蔽に関わる重大内容だったかは説明されず、雨宮はこれ以外にも犯人の電話に出ているのに、この声を頼りに犯人を捜したという描かれ方をしているのも筋が通らない。
 長編の原作を整理しきれてなく、そもそも冒頭の県警記者クラブの描き方がリアリティに欠けていてズッコケるのだが、県警内部の荒んだ人間関係や人事を巡る刑事部のボイコットなど、あらゆる描写がファンタジーで、前後編併せた4時間を見るのが辛い。 (評価:1.5)


イメージは商品紹介にリンクしています