日本映画レビュー──1999年
製作:シネカノン・東宝・日活・ポニーキャニオン
公開:1999年1月15日
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸、安倍照男 撮影:浜田毅 音楽:藤野浩一
キネマ旬報:6位
歌があれば人は希望に向って歩いていける
群馬県桐生市を舞台に、NHKのど自慢への出場を目指す人たちの悲喜こもごものドラマを描く人情喜劇。
中心となるのは、のど自慢が開かれるときにたまたまドサ廻りで故郷にやってきた売れない演歌歌手(室井滋)、転職を繰り返しながらも家族とともに明るい家庭を築いている失業中の40歳男(大友康平)で、これに妻帯者の男の子を妊娠してしまって家を出て行く姉を持つ女子高生(伊藤歩)、転勤族の息子夫婦の子と暮らす病気持ちの老人(北村和夫)らのエピソードが絡む。
のど自慢出場者たちの姿を通して描かれるのは、歌とは何か? ということで、人類が歌というツールを手に入れたことは、火という道具を手に入れたのと同じくらいに、重要なファクターだったことに気づかされる。
太古の昔から、そして民族の別なく人間は例外なく歌を道具として生きてきて、自らを奮い立たせ、慰め、他人とのコミュニケーションを図ってきた。
歌を生業としてきた演歌歌手は、誰も自分の歌を聞いてくれないことに絶望し、歌への道を絶つことさえ覚悟する。その運命をのど自慢に託し、自らが歌う「Tomorrow」に勇気づけられ、自分にとって歌がなくてはならないものであることを知る。
失業男は失敗を何度も繰り返しながらも、歌を通して家族との信頼の絆を保ち、自らを奮い立たせる糧として再就職に挑む。
女子高生は母と喧嘩して家を出て行く姉への思いを歌に託し、老人はどんな時にでも涙を堪え「上を向いて歩こう」とみんなに呼びかける。
歌があれば人は希望に向って歩いていけるという、笑いとともに迎えるラストが外連なく清々しくて気持ちが良い。
司会に金子辰雄、ゲストに坂本冬美、大川栄策と、のど自慢のフォーマットをそのまま再現。メインの俳優陣はみな歌が上手くて合格するが、プロ歌手の大友康平は途中でズッコケて鐘二つという愛敬を見せ、演歌歌手のマネージャーの尾藤イサオは鼻歌程度、女子高生の母りりィは歌わないという味のある演出。 (評価:3.5)
公開:1999年1月15日
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸、安倍照男 撮影:浜田毅 音楽:藤野浩一
キネマ旬報:6位
群馬県桐生市を舞台に、NHKのど自慢への出場を目指す人たちの悲喜こもごものドラマを描く人情喜劇。
中心となるのは、のど自慢が開かれるときにたまたまドサ廻りで故郷にやってきた売れない演歌歌手(室井滋)、転職を繰り返しながらも家族とともに明るい家庭を築いている失業中の40歳男(大友康平)で、これに妻帯者の男の子を妊娠してしまって家を出て行く姉を持つ女子高生(伊藤歩)、転勤族の息子夫婦の子と暮らす病気持ちの老人(北村和夫)らのエピソードが絡む。
のど自慢出場者たちの姿を通して描かれるのは、歌とは何か? ということで、人類が歌というツールを手に入れたことは、火という道具を手に入れたのと同じくらいに、重要なファクターだったことに気づかされる。
太古の昔から、そして民族の別なく人間は例外なく歌を道具として生きてきて、自らを奮い立たせ、慰め、他人とのコミュニケーションを図ってきた。
歌を生業としてきた演歌歌手は、誰も自分の歌を聞いてくれないことに絶望し、歌への道を絶つことさえ覚悟する。その運命をのど自慢に託し、自らが歌う「Tomorrow」に勇気づけられ、自分にとって歌がなくてはならないものであることを知る。
失業男は失敗を何度も繰り返しながらも、歌を通して家族との信頼の絆を保ち、自らを奮い立たせる糧として再就職に挑む。
女子高生は母と喧嘩して家を出て行く姉への思いを歌に託し、老人はどんな時にでも涙を堪え「上を向いて歩こう」とみんなに呼びかける。
歌があれば人は希望に向って歩いていけるという、笑いとともに迎えるラストが外連なく清々しくて気持ちが良い。
司会に金子辰雄、ゲストに坂本冬美、大川栄策と、のど自慢のフォーマットをそのまま再現。メインの俳優陣はみな歌が上手くて合格するが、プロ歌手の大友康平は途中でズッコケて鐘二つという愛敬を見せ、演歌歌手のマネージャーの尾藤イサオは鼻歌程度、女子高生の母りりィは歌わないという味のある演出。 (評価:3.5)
公開:1999年3月27日
監督:市川準 製作:泉正隆、中澤隆司、勝田祥三 脚本:犬童一心 撮影:小林達比古、蔦井孝洋 美術:山口修 音楽:朝川朋之
キネマ旬報:8位
池脇千鶴の映画デビュー主演作。童顔18歳の池脇が中学生を演じて違和感がない。
大阪の売れない夫婦漫才・はる美&りゅう介(田中裕子、沢田研二)を両親に持つ娘・若菜の物語で、女癖の悪い隆介が外に子を作り、挙句に女に逃げられてしまう。
この件をきっかけに隆介は賭け事と酒に溺れ、若菜にカスとまで蔑まれて出奔。しかし害虫の如き父がいなくなり、初めて家族の大切さを知った若菜は外泊しながら父を探す。
ここからは若菜の成長物語で、父の知己を訪ね、父もまた若い時には悩みながら試行錯誤を繰り返していた真の姿を知ることで、自らもまた大人への一歩を踏み出していく。
大阪という虚飾のない生身の人間たちが生活する街を舞台に、カメラは猥雑な街の風景を切り取っていくが、パッチワークのように編集された映像が素晴らしく、その撮影・演出・編集が秀逸。とりわけ人々の生活を俯瞰するように大阪の街を舐めていく空撮がいい。
隆介は交通事故に遭って家族のもとに帰るが、ほどなく他界。家族の絆を残して、若菜が自らの道を歩み出してラストとなる。
池脇をフューチャーした映像は美少女PVのようだが、それを超えた池脇の演技が光る。作品全体を支える田中裕子の演技力も見もの。大阪の漫才師が数多く登場するのも見どころ。 (評価:3)
製作:イエス・ビジョンズ、オフィス・シロウズ
公開:1999年12月4日
監督:中江裕司 製作:竹中功、佐々木史朗 脚本:中江裕司、中江素子 美術:真喜屋力 撮影:高間賢治 音楽:磯田健一郎
キネマ旬報:2位
謡によって語られる悲恋とニライカナイの物語
沖縄・粟国島が舞台。
帰島した娘(西田尚美)と同じ船でやってきたダンディな男(平良進)を巡るドラマで、実は男は60年前に島を追放になった、娘の祖母ナビィ(平良とみ)の恋人で、その時に交わしたナビィとの再会の約束を果たしに来たというのが真相。
ナビィの夫は健在で、いまさら60年前の恋に胸ふるわせる歳でもあるまいに、というのは都会のリアリストの考え方で、舞台が沖縄の神の島となればすべてはメルヘンになる。
娘はこの二人の恋の行方を見届ける役回りで、可哀想なのはナビィの夫のオジイ。もっとも、そうしたシリアスな設定を超越してしまうのも沖縄の風土ならではで、60年前、傷心のナビィにプロボーズした幼い少年がオジイで、元の恋人が現れればナビィの恋の成就を願ってそっと身を引くナイトでもある。
現実離れしたこの物語を彩るのは琉球民謡などの音楽で、これは謡によって語られる琉球民話ないしは神話でもある。
ナビィの恋は劇中で歌われる「十九の春」に沿っていて、ナビィは60年前の恋人とともに小舟に乗って島を去るというのが結末。
沖縄民話的解釈を施せば、人生の黄昏に近づいたナビィは、迎えに来た恋人の魂に導かれて海の彼方のニライカナイに向かったのであり、オジイはそれを優しく見送ったということになる。
その点で、中江は悲恋物語を基に新たな民話を描き出すことに成功していて、ナビィの恋はニライカナイ(楽土)で成就するというハッピーエンドとなる。 (評価:2.5)
公開:1999年12月4日
監督:中江裕司 製作:竹中功、佐々木史朗 脚本:中江裕司、中江素子 美術:真喜屋力 撮影:高間賢治 音楽:磯田健一郎
キネマ旬報:2位
沖縄・粟国島が舞台。
帰島した娘(西田尚美)と同じ船でやってきたダンディな男(平良進)を巡るドラマで、実は男は60年前に島を追放になった、娘の祖母ナビィ(平良とみ)の恋人で、その時に交わしたナビィとの再会の約束を果たしに来たというのが真相。
ナビィの夫は健在で、いまさら60年前の恋に胸ふるわせる歳でもあるまいに、というのは都会のリアリストの考え方で、舞台が沖縄の神の島となればすべてはメルヘンになる。
娘はこの二人の恋の行方を見届ける役回りで、可哀想なのはナビィの夫のオジイ。もっとも、そうしたシリアスな設定を超越してしまうのも沖縄の風土ならではで、60年前、傷心のナビィにプロボーズした幼い少年がオジイで、元の恋人が現れればナビィの恋の成就を願ってそっと身を引くナイトでもある。
現実離れしたこの物語を彩るのは琉球民謡などの音楽で、これは謡によって語られる琉球民話ないしは神話でもある。
ナビィの恋は劇中で歌われる「十九の春」に沿っていて、ナビィは60年前の恋人とともに小舟に乗って島を去るというのが結末。
沖縄民話的解釈を施せば、人生の黄昏に近づいたナビィは、迎えに来た恋人の魂に導かれて海の彼方のニライカナイに向かったのであり、オジイはそれを優しく見送ったということになる。
その点で、中江は悲恋物語を基に新たな民話を描き出すことに成功していて、ナビィの恋はニライカナイ(楽土)で成就するというハッピーエンドとなる。 (評価:2.5)
製作:松竹、角川書店、IMAGICA、BS朝日、衛星劇場
公開:1999年12月18日
監督:大島渚 製作:大谷信義 脚本:大島渚 撮影:栗田豊通 音楽:坂本龍一 美術:西岡善信
キネマ旬報:3位
ブルーリボン作品賞
腐女子が喜びそうな近藤隊長も疼く衆道新撰組
司馬遼太郎の短編集『新選組血風録』の「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」が原作。大島渚の遺作。
新撰組内の衆道(男色)の話で、美少年役が16歳の松田龍平で本作がデビュー作。松田は人を斬るために新撰組に入るが、その男を誘う魅力に惹かれて関係するのが浅野忠信、田口トモロヲ。近藤勇(崔洋一)、土方歳三(ビートたけし)も内心穏やかではない。
土方は近藤と仲が精神的にホモセクシュアルであることを沖田総司(武田真治)に示唆され、沖田が松田の相手だという幻想を見る。土方もまた松田に妖しく幻惑される中、それを振り払うように桜の木を斬る。
映画全体にホモセクシュアルの雰囲気が漂い、耽美的な世界が展開されるが、大昔の少女漫画のヤオイ、最近でいえばボーイズラブの腐女子が喜びそうな作品。その世界を妖しく描きだした大島の演出ははさすがだが、ヤオイ新撰組、ないしはBL新撰組を描くことにどんな意味があるのか、と問いたくなる。
人を斬ることのエロチシズム、男同士の友情はホモセクシュアルということか? そういえば『戦場のメリークリスマス』もそんな話だった。
山崎蒸のトミーズ雅、井上源三郎の坂上二郎がなかなかいい。松田龍平もちょっかいを出したくなるくらいにちょっと可愛い。 (評価:2.5)
公開:1999年12月18日
監督:大島渚 製作:大谷信義 脚本:大島渚 撮影:栗田豊通 音楽:坂本龍一 美術:西岡善信
キネマ旬報:3位
ブルーリボン作品賞
司馬遼太郎の短編集『新選組血風録』の「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」が原作。大島渚の遺作。
新撰組内の衆道(男色)の話で、美少年役が16歳の松田龍平で本作がデビュー作。松田は人を斬るために新撰組に入るが、その男を誘う魅力に惹かれて関係するのが浅野忠信、田口トモロヲ。近藤勇(崔洋一)、土方歳三(ビートたけし)も内心穏やかではない。
土方は近藤と仲が精神的にホモセクシュアルであることを沖田総司(武田真治)に示唆され、沖田が松田の相手だという幻想を見る。土方もまた松田に妖しく幻惑される中、それを振り払うように桜の木を斬る。
映画全体にホモセクシュアルの雰囲気が漂い、耽美的な世界が展開されるが、大昔の少女漫画のヤオイ、最近でいえばボーイズラブの腐女子が喜びそうな作品。その世界を妖しく描きだした大島の演出ははさすがだが、ヤオイ新撰組、ないしはBL新撰組を描くことにどんな意味があるのか、と問いたくなる。
人を斬ることのエロチシズム、男同士の友情はホモセクシュアルということか? そういえば『戦場のメリークリスマス』もそんな話だった。
山崎蒸のトミーズ雅、井上源三郎の坂上二郎がなかなかいい。松田龍平もちょっかいを出したくなるくらいにちょっと可愛い。 (評価:2.5)
製作:光和インターナショナル、松竹
公開:1999年5月1日
監督:森田芳光 製作:鈴木光、幸甫、大森寿美男、三沢和子 脚本:大森寿美男 撮影:高瀬比呂志 美術:小澤秀高
キネマ旬報:3位
ミステリーなのか社会派ドラマなのかが中途半端
永井泰宇の同名小説が原作。
衝動的に夫婦を刺殺した犯人を巡り、刑法39条の規定、心神喪失者及び心神耗弱者の責任能力について争う法廷劇。
被告に堤真一、弁護人に樹木希林、検事に江守徹という強力な布陣で、精神鑑定を行う心理学者に鈴木京香と杉浦直樹、刑事に岸部一徳、被告の父に國村隼、心理学者の母に吉田日出子ほかで固め、森田芳光の本格的な演出の見応えある作品になっている。
社会派ドラマだが、多重人格者を装う被告が仕掛けた犯行の動機と犯人の正体がラストで明かされるといった、ミステリーの要素が強い。
それもあって、犯人の妻が犯行に協力する設定はいささか強引でリアリティを欠き、ミステリーとしてはともかく、社会派ドラマとしては大きなマイナス要因になっている。
犯行から始まる冒頭のアップを多用したカメラワークやカット繋ぎは緊迫感があり、その後もサングラスのシーンなど心理的に見せる場面でのレイアウトやカメラワークは秀逸で、森田芳光の映像的な演出が大きな見どころ。
テーマ的には、被害者感情から見た刑法39条の不当性を訴える作品になっていて、精神病者として扱われる犯人は至って正常で、むしろ鬱症の二人の心理学者や、いつも笑ってばかりいる不気味な刑事、早口で神経質そうな刑事と弁護士の方が精神を病んでいるように見える。
つまり多かれ少なかれ誰もが心神喪失者ないしは心神耗弱者であり、誰もが刑法39条の規定に当てはまるということを演出的に意図している。
ただ刑法39条の不当性を描く手法としてはいささか変則的で、作品として純粋に被害者の立場を訴えているわけでもなく、ミステリーとしてのエンタテイメント性も追求しているために、誰でも精神を病んでいるという主張が詭弁に感じられてしまうのが残念なところ。 (評価:2.5)
公開:1999年5月1日
監督:森田芳光 製作:鈴木光、幸甫、大森寿美男、三沢和子 脚本:大森寿美男 撮影:高瀬比呂志 美術:小澤秀高
キネマ旬報:3位
永井泰宇の同名小説が原作。
衝動的に夫婦を刺殺した犯人を巡り、刑法39条の規定、心神喪失者及び心神耗弱者の責任能力について争う法廷劇。
被告に堤真一、弁護人に樹木希林、検事に江守徹という強力な布陣で、精神鑑定を行う心理学者に鈴木京香と杉浦直樹、刑事に岸部一徳、被告の父に國村隼、心理学者の母に吉田日出子ほかで固め、森田芳光の本格的な演出の見応えある作品になっている。
社会派ドラマだが、多重人格者を装う被告が仕掛けた犯行の動機と犯人の正体がラストで明かされるといった、ミステリーの要素が強い。
それもあって、犯人の妻が犯行に協力する設定はいささか強引でリアリティを欠き、ミステリーとしてはともかく、社会派ドラマとしては大きなマイナス要因になっている。
犯行から始まる冒頭のアップを多用したカメラワークやカット繋ぎは緊迫感があり、その後もサングラスのシーンなど心理的に見せる場面でのレイアウトやカメラワークは秀逸で、森田芳光の映像的な演出が大きな見どころ。
テーマ的には、被害者感情から見た刑法39条の不当性を訴える作品になっていて、精神病者として扱われる犯人は至って正常で、むしろ鬱症の二人の心理学者や、いつも笑ってばかりいる不気味な刑事、早口で神経質そうな刑事と弁護士の方が精神を病んでいるように見える。
つまり多かれ少なかれ誰もが心神喪失者ないしは心神耗弱者であり、誰もが刑法39条の規定に当てはまるということを演出的に意図している。
ただ刑法39条の不当性を描く手法としてはいささか変則的で、作品として純粋に被害者の立場を訴えているわけでもなく、ミステリーとしてのエンタテイメント性も追求しているために、誰でも精神を病んでいるという主張が詭弁に感じられてしまうのが残念なところ。 (評価:2.5)
製作:バンダイビジュアル、TOKYO FM、日本ヘラルド、オフィス北野
公開:1999年6月05日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:柳島克己 音楽:久石譲 美術:磯田典宏
キネマ旬報:7位
北野の子供時代の郷愁を綴った個人的センチメント
菊次郎は北野の父親の名から採られており、北野の子供時代への憧憬が色濃い作品。主人公の正雄と連れ立つ菊次郎は、悪ガキそのもので、北野が子供時代にした釘で車のタイヤをパンクさせるなどの悪戯、ターザンごっこなどの遊び、神社の縁日などのシーンを絵日記に繋いでいく。
本作が共感を呼ぶのは、そうした半世紀前の東京の下町と子供たちの郷愁に溢れているからで、その思い出を大人となった北野自身が童心に帰り、菊次郎として演じる。北野が子供時代を送った昭和30年代の東京・梅島は、広大な農地に工場・住宅が進出していた頃で、本作に描かれる自然の風景がまだ残っていた時代だった。天竜川河川敷に描かれる遊びの風景は北野の子供時代の記憶でもある。
その郷愁を高めているのが久石譲の音楽で、この音楽なくしてこの映画は成立していない。
物語自体は母子ものの類型でしかなく、少年の母との再会、菊次郎の母との再会も使い古されたオチで、それを含めてこの映画は北野の郷愁だけで成り立っている、個人的なセンチメント以上のものではない。
各シーンはツービートのショートコントの積み重ねで、それぞれは完結していて飽きさせないが、母子の再会後はストーリーが進展しないのでさすがに冗長に感じる。傷心の少年を菊次郎が海に連れていくシーンは、北野が好きなシチュエーションなのか『HANA-BI』のラストと同じ。
少年が夢で見る、天狗の舞がいい。 (評価:2.5)
公開:1999年6月05日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:柳島克己 音楽:久石譲 美術:磯田典宏
キネマ旬報:7位
菊次郎は北野の父親の名から採られており、北野の子供時代への憧憬が色濃い作品。主人公の正雄と連れ立つ菊次郎は、悪ガキそのもので、北野が子供時代にした釘で車のタイヤをパンクさせるなどの悪戯、ターザンごっこなどの遊び、神社の縁日などのシーンを絵日記に繋いでいく。
本作が共感を呼ぶのは、そうした半世紀前の東京の下町と子供たちの郷愁に溢れているからで、その思い出を大人となった北野自身が童心に帰り、菊次郎として演じる。北野が子供時代を送った昭和30年代の東京・梅島は、広大な農地に工場・住宅が進出していた頃で、本作に描かれる自然の風景がまだ残っていた時代だった。天竜川河川敷に描かれる遊びの風景は北野の子供時代の記憶でもある。
その郷愁を高めているのが久石譲の音楽で、この音楽なくしてこの映画は成立していない。
物語自体は母子ものの類型でしかなく、少年の母との再会、菊次郎の母との再会も使い古されたオチで、それを含めてこの映画は北野の郷愁だけで成り立っている、個人的なセンチメント以上のものではない。
各シーンはツービートのショートコントの積み重ねで、それぞれは完結していて飽きさせないが、母子の再会後はストーリーが進展しないのでさすがに冗長に感じる。傷心の少年を菊次郎が海に連れていくシーンは、北野が好きなシチュエーションなのか『HANA-BI』のラストと同じ。
少年が夢で見る、天狗の舞がいい。 (評価:2.5)
製作:東映、角川書店、産経新聞
公開:1999年9月18日
監督:原田眞人 製作:原正人、坂上順 脚本:鈴木智、木下麦太 撮影:阪本善尚 音楽:川崎真弘
キネマ旬報:2位
腐食したまんまの銀行に役所公司の正義感も色褪せる
高杉良の小説『呪縛』が原作。1997年の第一勧銀総会屋事件がモデル。
2013年9月に、みずほ銀行のオリエントコーポレーションを通じた暴力団への自動車ローン融資が問題となったが、みずほは第一勧銀、富士銀、興銀の合併会社で、オリコとの繋がりが深いのは旧第一勧銀系。第一勧銀も第一銀と勧銀の合併で、1997年の総会屋事件でも暴力団と関係しているのは第一銀だという経営内部の責任回避が問題になったが、2013年9月の暴力団融資でも似たような責任回避があって、頭取(旧富士銀)・副頭取(旧興銀)はオリコは第一勧銀案件だとして責任をとっていない。
本作のラストシーンで、暴力団(総会屋)が「闇は企業を逃さない」と言うが、その言葉は10年以上経っても生きていたということになる。
物語自体はこの手の社会派映画にありがちな構成で、銀行のドン、サラリーマンの経営陣、正義感に燃えた青年将校たち、不正を暴く女キャスターと類型的。ある種の心地よさと決して期待を裏切らない展開は安心して見ていられるが、松本清張にも似たような話はあったんじゃないかという既視感は拭えず、告発映画として以外の評価は難しい。
地検特捜部の正義のメッキも剥げてしまい、役所公司の正義感も色褪せて見え、遠い景色を見るよう。佐藤慶が自殺して、役所が義父・仲代達矢の病院を訪れるシーンでは、傘も差さずにびしょ濡れになる意味がわからない。そのあと、雨に濡れながら妻・風吹ジュンと抱き合うシーンもスーパーナチュラル。
似たような誇大妄想的な演出は随所にあって、ハイテンションを作ろうという意図だけが先走る。
俳優は豪華で、仲代はさすがの貫録。 (評価:2.5)
公開:1999年9月18日
監督:原田眞人 製作:原正人、坂上順 脚本:鈴木智、木下麦太 撮影:阪本善尚 音楽:川崎真弘
キネマ旬報:2位
高杉良の小説『呪縛』が原作。1997年の第一勧銀総会屋事件がモデル。
2013年9月に、みずほ銀行のオリエントコーポレーションを通じた暴力団への自動車ローン融資が問題となったが、みずほは第一勧銀、富士銀、興銀の合併会社で、オリコとの繋がりが深いのは旧第一勧銀系。第一勧銀も第一銀と勧銀の合併で、1997年の総会屋事件でも暴力団と関係しているのは第一銀だという経営内部の責任回避が問題になったが、2013年9月の暴力団融資でも似たような責任回避があって、頭取(旧富士銀)・副頭取(旧興銀)はオリコは第一勧銀案件だとして責任をとっていない。
本作のラストシーンで、暴力団(総会屋)が「闇は企業を逃さない」と言うが、その言葉は10年以上経っても生きていたということになる。
物語自体はこの手の社会派映画にありがちな構成で、銀行のドン、サラリーマンの経営陣、正義感に燃えた青年将校たち、不正を暴く女キャスターと類型的。ある種の心地よさと決して期待を裏切らない展開は安心して見ていられるが、松本清張にも似たような話はあったんじゃないかという既視感は拭えず、告発映画として以外の評価は難しい。
地検特捜部の正義のメッキも剥げてしまい、役所公司の正義感も色褪せて見え、遠い景色を見るよう。佐藤慶が自殺して、役所が義父・仲代達矢の病院を訪れるシーンでは、傘も差さずにびしょ濡れになる意味がわからない。そのあと、雨に濡れながら妻・風吹ジュンと抱き合うシーンもスーパーナチュラル。
似たような誇大妄想的な演出は随所にあって、ハイテンションを作ろうという意図だけが先走る。
俳優は豪華で、仲代はさすがの貫録。 (評価:2.5)
製作:「鉄道員」製作委員会 (東映、テレビ朝日、住友商事、集英社、日本出版販売、朝日新聞社、高倉プロモーション、TOKYO FM、東北新社)
公開:1999年6月5日
監督:降旗康男 製作:高岩淡 脚本:岩間芳樹、降旗康男 撮影:木村大作 音楽:国吉良一 美術:福澤勝広
キネマ旬報:4位
高倉健がJR北海道の不祥事の温床を観客に突きつける
浅田次郎の同名短編小説が原作。
原作は死んだ娘との亡霊話で、映画ではオリジナル部分と原作部分が融合してなく、鉄道員一筋のドラマとファンタジーを無理にくっつけたような違和感が残る。本来は娘の話を中心に展開した方が映画としては一貫性が出ただろうが、広末涼子の演技を高倉健が助けなければならないので無理。映画としては大根の健さんを演技派が支えるというオリジナル部分の出来の方が良く、広末・健さんのシーンは観ていて恥ずかしくなるくらいに腰が浮いてしまう。
北海道のローカル線の終点の駅長をしている健さんが廃線とともに定年を迎え、鉄道員一筋に不器用に生きてきた人生を振り返る話。友人の小林稔侍、妻・大竹しのぶに両脇を支えられ、奈良岡朋子、田中好子、吉岡秀隆にしっかり回りを固められて、黙っているだけで健さんは十分に絵になっている。主人公が自分では何もできないが周囲に支えられて鉄道員という人生を全うできたという役柄が、ぴったりこの配役陣に当てはまる。
雪の中を走るローカル線の風景は美しく、ホームに立つ健さんも絵になっている。映像的にはこれらが見どころで、配役では大竹しのぶが上手い。炭鉱夫の志村けんもなかなかいい。
日本人は鉄道好きで、鉄道そのものに人生や哀愁を感じてしまい、映画もこれでもかというくらいにセンチメントを描く。劇場で観た時はそのセンチメントに惹かれたが、冷静に観直してみると、冒頭から降旗康男のセンチメントを狙った演出とシナリオが嫌らしいくらいで、急速に冷めてしまう。
冷静に観れば鉄道にしがみついているしか能のない男が妻子を犠牲にした話をさも美談であるかの如く、英雄であるかの如く描いているだけで、赤ん坊のときに死んだ娘が父親をねぎらうために女子高生に成長して現れるというのも亡霊話として不自然。
こうした鉄道への感傷的なノスタルジー・神話化を見ていると、JR北海道の安全よりも組合という不祥事を思い出してしまい、この映画を作った製作者やこの映画に感情移入してしまう観客がJR北海道の甘えを許した温床かもしれないと、余計なことまで考えてしまう。 (評価:2.5)
公開:1999年6月5日
監督:降旗康男 製作:高岩淡 脚本:岩間芳樹、降旗康男 撮影:木村大作 音楽:国吉良一 美術:福澤勝広
キネマ旬報:4位
浅田次郎の同名短編小説が原作。
原作は死んだ娘との亡霊話で、映画ではオリジナル部分と原作部分が融合してなく、鉄道員一筋のドラマとファンタジーを無理にくっつけたような違和感が残る。本来は娘の話を中心に展開した方が映画としては一貫性が出ただろうが、広末涼子の演技を高倉健が助けなければならないので無理。映画としては大根の健さんを演技派が支えるというオリジナル部分の出来の方が良く、広末・健さんのシーンは観ていて恥ずかしくなるくらいに腰が浮いてしまう。
北海道のローカル線の終点の駅長をしている健さんが廃線とともに定年を迎え、鉄道員一筋に不器用に生きてきた人生を振り返る話。友人の小林稔侍、妻・大竹しのぶに両脇を支えられ、奈良岡朋子、田中好子、吉岡秀隆にしっかり回りを固められて、黙っているだけで健さんは十分に絵になっている。主人公が自分では何もできないが周囲に支えられて鉄道員という人生を全うできたという役柄が、ぴったりこの配役陣に当てはまる。
雪の中を走るローカル線の風景は美しく、ホームに立つ健さんも絵になっている。映像的にはこれらが見どころで、配役では大竹しのぶが上手い。炭鉱夫の志村けんもなかなかいい。
日本人は鉄道好きで、鉄道そのものに人生や哀愁を感じてしまい、映画もこれでもかというくらいにセンチメントを描く。劇場で観た時はそのセンチメントに惹かれたが、冷静に観直してみると、冒頭から降旗康男のセンチメントを狙った演出とシナリオが嫌らしいくらいで、急速に冷めてしまう。
冷静に観れば鉄道にしがみついているしか能のない男が妻子を犠牲にした話をさも美談であるかの如く、英雄であるかの如く描いているだけで、赤ん坊のときに死んだ娘が父親をねぎらうために女子高生に成長して現れるというのも亡霊話として不自然。
こうした鉄道への感傷的なノスタルジー・神話化を見ていると、JR北海道の安全よりも組合という不祥事を思い出してしまい、この映画を作った製作者やこの映画に感情移入してしまう観客がJR北海道の甘えを許した温床かもしれないと、余計なことまで考えてしまう。 (評価:2.5)
月光の囁き
公開:1999年10月23日
監督:塩田明彦 製作:梶川信幸 脚本:塩田明彦 撮影:小松原茂 音楽:本多信介
喜国雅彦の同名漫画が原作。
谷崎潤一郎の脚本『月の囁き』がモチーフで、高校剣道部の男女の恋愛から始まるが、話が段々変態じみてくる。少女(つぐみ)のパンティを嗅いだり、おしっこの音を録音したり、盗撮したりしていたのがバレてフラれてしまうが、ストーカーしているうちに女王様と犬の関係になって汚れた足まで舐めるようになる。
最初は性衝動がコントロールできない少年(水橋研二)のように見えるが、性行為よりもむしろ排泄物から足の先に至るまで、少女を丸ごと崇拝していることがわかってくると、真正の愛を献上している無垢な少年に見えてくるところがいい。
途中からは、変態なのは逆に少女の方で、先輩(草野康太)との性行為を見せて精神的に苛めたり、無茶な命令をしたりと、少年の愛の純度を試すようになる。最後は滝に飛び込んで目の前から姿を消すことを求め、少年も愛の証のために実行する。
当初、少女が望む恋愛は同伴通学したり、キスをしたり、セックスしたりといった定型的で通俗なものだったが、そこに真正で究極の愛とは何かと問いかけるのが、現代の毒にも薬にもならない青春ラブストーリーに対するアンチテーゼとして面白い。
谷崎文学の愛の美学をよく描いていて、青少年のための性教育映画に推奨したいくらい。レーティングはR15。
竹下通りに転がっているような女子高生から、新宿ディープゾーンの女王様に変化していくつぐみの演技も見どころ。
滝に飛び込んだ少年の命が助かり、全身包帯だらけになって初めて二人が精神的に結ばれ、変態愛が成就するラストシーンがいいが、少女が眼帯している理由が謎。 (評価:2.5)
ホーホケキョ となりの山田くん
公開:1999年7月17日
監督:高畑勲 製作:氏家斉一郎、東海林隆、マイケル・オー・ジョンソン 脚本:高畑勲 作画監督:小西賢一 音楽:矢野顕子
いしいひさいちの四コマ漫画『となりのやまだ君』『ののちゃん』が原作。
所謂セルアニメではなく、いしいひさいちの絵筆のタッチをそのまま活かして動画にしたアニメーションで、いしい独特の漫画から醸し出される世界観がそのままに映し出されている。
原作が朝日新聞連載の四コマ漫画のため、小さなエピソードを寄せ集め、山田一家のそれぞれキャラクター毎にうまく纏めてはいるが、一貫したストーリーやドラマ性に薄く、五月雨式の間延びした印象は拭えない。
テーマはケ・セラ・セラ、適当に生きようで、いしいの世界観がよく映し出されているが、一方でマイホーム、マイカー、中間管理職のパパ、専業主婦のママ、一男一女、姑といった団塊を中心とする戦後世代の典型的中流家庭、小市民性を映し出した作品ともなっていて、失われた20年とデフレ、超氷河期を潜ってきた平成世代からすれば、戦後良き時代の幻影、バブル以前の蜃気楼でしかない。
それを最も表しているのが60~70年代の政治の季節を通過してきたパパにとってのヒーロー像、月光仮面であって、学生運動の挫折同様に暴走族に立ち向かえない月光仮面にほろ苦さが漂う。
『かぐや姫の物語』(2013)に繋がる実験的で革新的な絵画的アニメーション表現が見どころで、劇中のの子が生まれるイリュージョンシーンで、かぐや姫同様に竹から誕生するのも、『かぐや姫の物語』の企画がすでに東映動画時代の高畑にあったという点からも興味深い。
一見子供向きだが、花札の絵のパロディが導入となっていることからも分かるように、ギャグは大人向け。セルアニメで育った目からは、本作をアニメーションと認めるのは違和感があるかもしれない。 (評価:2.5)
黒い家
公開:1999年11月13日
監督:森田芳光 脚本:大森寿美男 撮影:北信康 美術:山崎秀満 音楽:山崎哲雄
貴志祐介の同名小説が原作。
保険金殺人で子供、夫を殺す鬼女が主人公で、これを大竹しのぶが熱演。
対する気弱な保険会社員(内野聖陽)が、担当する案件を保険金殺人と確信して解明していくが、後半は大竹しのぶがターミネーターになってのサバイバル・ゲームとなる。
内容的にはサスペンスだが、鬼女が人間離れした怪物=妖怪になるという点ではホラーで、演出もホラー映画の定型を踏んでいる。
金沢の生命保険会社北陸支店が舞台で、最初に首吊り自殺に見せかけて殺されるのが鬼女の息子。同時期に親子3人が多額の生命保険に加入していたことから審査が遅れるが、夫婦して支払いを督促したことから保険金殺人の疑念が沸く。
当初、内野が、犯人は夫(西村雅彦)と思い妻に忠告したのが失敗で、妻の恨みを買うことになる。内野の周囲の人間に危害が及び、夫が廃人となって初めて犯人が妻だと気づくが、屈強なトラブル処理係(小林薫)までが殺され、恋人が攫われたことを知って、犯人の家へ。肉切り包丁を振り回す鬼女に追い詰められるが、危機一髪、警察が到着し、鬼女は行方不明に。
一件落着とはならず、甦った鬼女が深夜残業する内野を襲い、警備員まで殺されて…というターミネーターぶりを発揮するが、どう見ても非力な大竹が元ヤクザの小林や内野を腕力で捻じ伏せるのも不自然で、鬼女が正体を現して暴れ回る後半戦はリアリティを欠く。
それを補うのが森田芳光のホラー演出と大竹の怪演となるが、内野の弱々しさが却ってコミカルさを誘い、ホラーコメディになっているのは果たして制作意図か? (評価:2.5)
黒の天使 Vol.2
公開:1999年11月13日
監督:石井隆 脚本:石井隆 撮影:佐藤和人 音楽:安川午朗
石井隆の漫画『黒の天使』が原作。
女殺し屋が主人公の物語で、葉月里緒奈に続く2作目の女殺し屋は天海祐希。宝塚歌劇団の人気男役だっただけあって様になっているが、石井隆の作品なので、たっぷり肌を晒してくれるのが最大の見どころか。
物語そのものは定型的で、劇画的カットのコンポジションやカメラアングル、カット割りを映像的に楽しむという映画になっている。もちろん、石井隆なのでレイプシーンや濡れ場も用意されていて、ファンの期待を裏切らない。
明らかに殺し屋と分かる黒いロングスカートにサングラスという出立が、むしろ目立ってしまうのではないかと心配になる姿で登場。スカートにはきっちりチャイナドレスのようなスリットが入っていて、裾を払うと太腿が見えるというサービスも怠りない。
駐車場でターゲットの暴力団組長を待ち受けるも、ほかにもカップルのヒットマンがいて、襲撃に失敗して男は死んでしまう。代って天海が仕留めようとするが、ボディガード(大和武士)が天海が高校生の時に暴漢から救ってくれた恩人だったことに気づき外してしまう。
この時、通り掛かった花屋の夫婦が巻き添えを食らい、夫が死亡。妻(片岡礼子)は復讐を誓って組長を狙うが、逆に捕まってしまう。これを救うのが花屋の夫を死なせてしまったボディガードで、組長を仕留めた天海と、組の乗っ取りを企んでいた組員相手に銃撃戦。天海と花屋の妻以外は誰もいなくなるという結末。
古臭い設定とストーリーだが、天海祐希の男前のカッコ良さと女の色気を堪能するためのプライベートフィルムとして見れば、それなりに楽しめる。 (評価:2)
ゴジラ2000ミレニアム
公開:1999年12月11日
監督:大河原孝夫 製作:富山省吾 脚本:柏原寛司、三村渉 撮影:加藤雄大 音楽:服部隆之 美術:清水剛
ゴジラ第23作、第3期ゴジラ第1作。監督・大河原孝夫。
ゴジラの生みの親であるプロデューサーの田中友幸が1997年に逝去し、前作で終わったはずのゴジラが再び復活する。プロデューサーは第2期『ゴジラvsビオランテ』から参加した富山省吾で、この間に評判の悪かったハリウッド・ゴジラの公開もあって、本家ゴジラの復活が望まれてもいた。
富山はゴジラの換骨奪胎を狙うが、実際背びれがデザイン変更され、口から吐く熱線も白・青から赤くなる。ただの巨大爬虫類であったハリウッド・ゴジラの本作への影響は如何ともしがたく、人間をしつこく追い回すなど、残忍性が強化され、水爆実験によって誕生してしまった悲劇のヒーローとは訣別する。その違和感は終始付きまとい、個人的には水爆ゴジラとは似て非なるゴジラという名の別の怪獣。
なぜ再びゴジラが現れたのか、説明もないままに残虐なゴジラが根室から東海村に南下。鹿島沖の日本海溝に沈んでいた岩塊を引き揚げたところ、それはUFO型宇宙生命体で、ゴジラに衝突。新宿に移動して宇宙生命体に適した大気組成に改造、地球を乗っ取ろうとする。自衛隊の抵抗も歯が立たないと見るや、なぜかゴジラがリベンジにやってきて、UFOはゴジラ細胞で怪獣オルガに変身。
ストーリーはそこそこだが、ゴジラVSオルガの対決シーンが冗長。主人公の村田雄浩は良いが、阿部寛が下手糞。子供受けを狙った主人公の娘が不要で、ときどきわけのわからないギャグが入る。ほかに佐野史郎。
ミニチュアセットは頑張っていて、映像的には悪くない。ミレニアムは1000年紀に引っかけたものだが、宇宙人の名前がミレニアンというお粗末。 (評価:2)
製作:ユーロスペース、映画美学校
公開:1999年10月23日
監督:塩田明彦 脚本:塩田明彦 撮影:鈴木一博 美術:磯見俊裕、三ツ松けいこ、露木恵美子 音楽:岸野雄一
キネマ旬報:9位
ガキが恋人みたいに野原に並んで無言で腰掛けるか!
郊外の団地に住む小学5年生の男の子の物語で、出会いと別れ、性の芽生えという思春期を前にした少年の心の動きを追う・・・と書けばもっともらしいが、正直何を描きたかったのかさっぱりわからない。
塩田明彦がどのような少年時代を送ったのかは知らないが、冒頭より悪友と一緒にヤクルトお姉さんの自転車の荷物をそっくりネコババし、拾った財布の中身(一万円札も混じっている)を抜き取って山分けと、悪戯の限界を超えている。
塩田はこれを子供らしい悪戯と考えたようだが、非行そのもので、顔は可愛いがやっていることは不良。いつもキャップを被っている不良っぽい転校生も梶原一騎の漫画から抜け出たような類型で、ベランダから向かいの棟の同級生の女の子を覗き見るのも類型。
クラス替えがあって友達のいない男の子に誘われて家に行くと母子家庭で母は精神病気味。男の子は玄人はだしのプラモデラーで、父に引き取られて転校することになり、プラモデルやカラーをプレゼントされる。とどめは母子心中するという、そこまでやるかの類型ストーリー。
葬儀にも出席せず、それが深い悲しみゆえか、はたまた裏切られたことへの怒りなのか、はたまたそんな男の子と友達になったことをみんなに知られたくなかったのか、それが不良らしいポーズだったのか?
子役だけでは演技力不足は明らかで、大人の俳優も演技下手で、なおかつ演出力不足とあっては、少年同様に観客も野原に放り出されてしまう。
そこにやってくる女の子も意味不明で、ガキが恋人みたいに野原に並んで無言で腰掛けるか!と罵りたくなる。 (評価:2)
公開:1999年10月23日
監督:塩田明彦 脚本:塩田明彦 撮影:鈴木一博 美術:磯見俊裕、三ツ松けいこ、露木恵美子 音楽:岸野雄一
キネマ旬報:9位
郊外の団地に住む小学5年生の男の子の物語で、出会いと別れ、性の芽生えという思春期を前にした少年の心の動きを追う・・・と書けばもっともらしいが、正直何を描きたかったのかさっぱりわからない。
塩田明彦がどのような少年時代を送ったのかは知らないが、冒頭より悪友と一緒にヤクルトお姉さんの自転車の荷物をそっくりネコババし、拾った財布の中身(一万円札も混じっている)を抜き取って山分けと、悪戯の限界を超えている。
塩田はこれを子供らしい悪戯と考えたようだが、非行そのもので、顔は可愛いがやっていることは不良。いつもキャップを被っている不良っぽい転校生も梶原一騎の漫画から抜け出たような類型で、ベランダから向かいの棟の同級生の女の子を覗き見るのも類型。
クラス替えがあって友達のいない男の子に誘われて家に行くと母子家庭で母は精神病気味。男の子は玄人はだしのプラモデラーで、父に引き取られて転校することになり、プラモデルやカラーをプレゼントされる。とどめは母子心中するという、そこまでやるかの類型ストーリー。
葬儀にも出席せず、それが深い悲しみゆえか、はたまた裏切られたことへの怒りなのか、はたまたそんな男の子と友達になったことをみんなに知られたくなかったのか、それが不良らしいポーズだったのか?
子役だけでは演技力不足は明らかで、大人の俳優も演技下手で、なおかつ演出力不足とあっては、少年同様に観客も野原に放り出されてしまう。
そこにやってくる女の子も意味不明で、ガキが恋人みたいに野原に並んで無言で腰掛けるか!と罵りたくなる。 (評価:2)
公開:1999年10月23日
監督:諏訪敦彦 製作:仙頭武則 脚本:諏訪敦彦、三浦友和、渡辺真起子 撮影:猪本雅三 音楽:鈴木治行
キネマ旬報:5位
構成台本を基に三浦友和と渡辺真起子の即興演技でシナリオを作っていくという作品で、室内撮影を主に長回しを多用しているためドキュメンタリータッチの臨場感を生んでいる。
さらには、窓外や背景の壁などに露出を合せているため、人物はアンダーで顔の陰影が濃くなっていて、マイクも1本であるため雑音が大きく暴力的な音声となっているが、リアルな反面、かなりのストレスを観客に与える。
こうした手法は『Keiko』(1979)などでも試みられているが、要はそうした手法で何を描き出せたかにあって、それからいえば本作は単に男女間のエゴイスティックな生な感情以外のものを描き出せていない、失敗作。
設定は、妻子持ちの男(三浦友和)と結婚願望のない若い女(渡辺真起子)が同棲しているところに、男の妻が交通事故を起こして入院。8歳の息子(高橋隆大)を1か月間預かるというもの。
男は女の了解なしに子供を連れてくるというもので、食事から育児・洗濯まで女に押し付けるという身勝手さ。もちろん女はプッツンしてしまうが、母親代わりができないことが女として足りないもののように内省してしまい、タイトル通りに女に母親としての役割を求める固定観念に本作の制作者が縛られているというアナクロニズムに、思わず不快になる。
本作は残念ながら女とは何か、カップルとは何かという問題にはアプローチを試みることさえ放棄しているというか思いついてさえなく、固定的な男女の役割について疑問を抱かない。
三浦友和演じる男は傲慢で卑怯な上に、プッツンした女を抱いて謝るだけで、食事を作ることも洗濯することも家事一切をしようとは考えない。渡辺真起子演じる女も一度は男の家を出ようと考えるが、それが子を母親に取られてしまった喪失感、ないしは結婚・出産して真の母となれない負い目でしかなく、そんな男女の心の機微をいくら生々しく描いても、ワイドショー程度の感慨しか起きず、痴話喧嘩に2時間余り付き合わされるのが辛い。 (評価:1.5)