日本映画レビュー──1984年
製作:ニュー・センチュリー・プロデューサーズ、伊丹プロダクション
公開:1984年11月17日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰、岡田裕 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:徳田博 音楽:湯浅譲二
キネマ旬報:1位
菅井きんが夫婦であることの意味を問いかける
伊丹が自らの経験した葬儀をもとに制作したといわれる作品で、義父の急死から葬儀の段取り、通夜、告別式、火葬、精進落しまでの一連を描く。
いわば遺族側の葬送マニュアルをドラマ風に見せているが、故人の葬儀という厳粛な儀式の割には、セレモニーの準備や葬祭マナーに振り回されて、故人を悼んだり偲んだりするどころではない現実の葬儀と、そこに繰り広げられる親族や参列者の人間模様を、シニカルかつコミカルに描いていて、伊丹の鋭い観察眼が面白い。
もっとも本作の最大の眼目は、葬送マニュアル、葬儀に集う人々のコミカルな人間模様に見せかけて、実は伊丹が夫婦愛をテーマに描いていることにある。
葬儀を取り仕切る井上(山崎努)には愛人(高瀬春奈)がいて、嫌がらせのように葬儀の準備にやってきて、泥酔して周囲の顰蹙を買う。妻(宮本信子)は二人の仲を知っているが、俳優同士である夫婦はここでも夫婦を演じて波風を立てないという、冷めた関係にある。
喪主である義母(菅井きん)は、一連の葬送に控え目に参加し、葬儀を取り仕切る娘夫婦に協力して心静かに夫を見送る。クライマックスは、精進落しの挨拶をするはずだった井上に代って挨拶をする場面で、それまで形式的に進行していた葬儀の流れを故人に引き戻し、長年連れ添った夫との夫婦愛の真情を吐露する。その言葉は、仏となった夫との新たな夫婦生活がスタートするというもので、死して尚、二人が夫婦であり続けることを示し、夫婦であることの意味を問いかける。
この言葉は、そのまま井上と妻の関係に反射し、夫の手を握る妻に井上は複雑な表情を浮かべるというラストとなる。
この流れを受けて、故人の遺物を焼却する義母とそれを手伝う娘夫婦の映像にクレジットが重なるという、効果的なエンディングとなっている。
葬送マニュアルとしては30年余りが過ぎて時代遅れになっているが、普遍のテーマを描いて今に残る作品となっている。 (評価:3.5)
公開:1984年11月17日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰、岡田裕 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:徳田博 音楽:湯浅譲二
キネマ旬報:1位
伊丹が自らの経験した葬儀をもとに制作したといわれる作品で、義父の急死から葬儀の段取り、通夜、告別式、火葬、精進落しまでの一連を描く。
いわば遺族側の葬送マニュアルをドラマ風に見せているが、故人の葬儀という厳粛な儀式の割には、セレモニーの準備や葬祭マナーに振り回されて、故人を悼んだり偲んだりするどころではない現実の葬儀と、そこに繰り広げられる親族や参列者の人間模様を、シニカルかつコミカルに描いていて、伊丹の鋭い観察眼が面白い。
もっとも本作の最大の眼目は、葬送マニュアル、葬儀に集う人々のコミカルな人間模様に見せかけて、実は伊丹が夫婦愛をテーマに描いていることにある。
葬儀を取り仕切る井上(山崎努)には愛人(高瀬春奈)がいて、嫌がらせのように葬儀の準備にやってきて、泥酔して周囲の顰蹙を買う。妻(宮本信子)は二人の仲を知っているが、俳優同士である夫婦はここでも夫婦を演じて波風を立てないという、冷めた関係にある。
喪主である義母(菅井きん)は、一連の葬送に控え目に参加し、葬儀を取り仕切る娘夫婦に協力して心静かに夫を見送る。クライマックスは、精進落しの挨拶をするはずだった井上に代って挨拶をする場面で、それまで形式的に進行していた葬儀の流れを故人に引き戻し、長年連れ添った夫との夫婦愛の真情を吐露する。その言葉は、仏となった夫との新たな夫婦生活がスタートするというもので、死して尚、二人が夫婦であり続けることを示し、夫婦であることの意味を問いかける。
この言葉は、そのまま井上と妻の関係に反射し、夫の手を握る妻に井上は複雑な表情を浮かべるというラストとなる。
この流れを受けて、故人の遺物を焼却する義母とそれを手伝う娘夫婦の映像にクレジットが重なるという、効果的なエンディングとなっている。
葬送マニュアルとしては30年余りが過ぎて時代遅れになっているが、普遍のテーマを描いて今に残る作品となっている。 (評価:3.5)
王女メディア
公開:1984年7月
演出:蜷川幸雄 作:エウリピデス 修辞:高橋睦郎
エウリピデスのギリシャ悲劇『メディア』(Μήδεια)を蜷川幸雄氏が演出した舞台のライブ映像。アテネのヘロデス・アティコス劇場の上演と新宿・花園神社での公演を編集したもので、一部映画用に撮影された映像が入る。
王女メディアを演じる平幹二郎をはじめ、出演者の全員が男性。ド派手な衣装にメイクも歌舞伎風で、ギリシャ悲劇を歌舞伎にしたといった趣向。このオリエンタルな演出がヨーロッパで絶賛された。
音楽もバーバーの「弦楽のためのアダージョ」やヘンデルの「サラバンド」に津軽三味線が入るといった、西洋と東洋の融合がコンセプト。
故郷のコルキスを離れて異郷の地コリントスで暮らす王女メディアが、夫イアソンが妻子を捨ててコリントス王クレオンの娘婿に納まろうとしているのに腹を立て、クレオン父娘を殺してしまうという復讐劇。その手段に二人の幼い息子を利用し、犯人の息子が敵の手に掛かって殺されるくらいなら、自分の手で殺してしまおうという毒婦ぶりを発揮する。
メディアの苦悩と煩悶が見どころで、平幹二郎が圧倒的な演技力でこれを演じ切るのが最大の見どころで、本作の魅力もこれに尽きる。
野外劇場の怖さをいうものを本作は端的に示していて、声量と活舌、歯切れよく明快で力のある平の台詞と発声は、夜空に拡散することなく観客の心に届き、観客を引き込み、魅了する。
それに比べて、平以外の俳優たちの台詞は、空しく夜空に吸い込まれてしまい、意味を失って、棒読みされているだけのように聞こえてしまう。
それでも、舞台は平を中心に回り、ほとんど独演といってよい。
他の出演者は、菅野菜保之、金田龍之介、山谷初男、瀬下和久、大友龍三郎。 (評価:3)
製作:角川春樹事務所
公開:1984年12月15日
監督:澤井信一郎 製作:角川春樹 脚本:荒井晴彦、澤井信一郎 撮影:仙元誠三 美術:桑名忠之 音楽:久石譲
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞
薬師丸と世良の演技を引き出した澤井信一郎にカーテンコール
夏樹静子の同名ミステリー小説が原作だが、原作は劇中劇として使われているだけで、外枠の物語はオリジナル。オリジナルは劇中劇の設定をだぶらせた形をとっていて、タイトル通りの入れ子構造となっている。
劇中劇はほとんど描かれないので、原作をオマージュしたオリジナルと見做してよく、一人の女優志願の少女が脱皮して蝶となる姿を追うドラマとなっていて、見応えのある作品に仕上がっている。脚本は『遠雷』『時代屋の女房』『大鹿村騒動記』等の荒井晴彦と澤井信一郎。
劇団の研究生(薬師丸ひろ子)は舞台『Wの悲劇』の主役オーディションに落ち、女中役となる。主役への夢を捨てきれない彼女は稽古終了後に台詞を真似ているところを母親役の三田佳子にみられる。その三田のパトロンがホテルで腹上死するという事件が起こり、スキャンダルを恐れて主役への推挙と引き換えに薬師丸が事件の三田の代役を引き受ける。三田の代役を演じきる女優・薬師丸。舞台は思惑通り主役交代となり、スキャンダルを逆手に取って話題の新人女優となった薬師丸は初日を熱演で飾り、スター女優への切符を手にする。
その薬師丸を支える元俳優志望の青年(世良公則)は、私生活でも芝居をしている自分に嫌気がさして俳優を諦めた過去がある。
ラストシーンが本作最大の見せ場で、世良が薬師丸に女優を辞めて人間としての生き方をするように求める。しかし、主演女優という魔力、麻薬を覚えてしまった薬師丸は女優として生きていくことを告げる。
この時、「俺たちの千秋楽か?」と言って拍手する世良と、それに応えてスカートを持って膝を折る薬師丸がいい。映画はここでストップモーションとなるが、仮初の道を選んだ薬師丸との二人の決定的な別離の悲しみが、男女の仲を超えたそれぞれの生き方という重みとなってスクリーンから溢れだす。
薬師丸と世良からこのような演技と表情を引き出した澤井信一郎にカーテンコールの拍手。
降ろされた主演女優役に新人・高木美保。役通り結局スター女優にはなれず、ワイドショーのコメンテイターに。 (評価:3)
公開:1984年12月15日
監督:澤井信一郎 製作:角川春樹 脚本:荒井晴彦、澤井信一郎 撮影:仙元誠三 美術:桑名忠之 音楽:久石譲
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞
夏樹静子の同名ミステリー小説が原作だが、原作は劇中劇として使われているだけで、外枠の物語はオリジナル。オリジナルは劇中劇の設定をだぶらせた形をとっていて、タイトル通りの入れ子構造となっている。
劇中劇はほとんど描かれないので、原作をオマージュしたオリジナルと見做してよく、一人の女優志願の少女が脱皮して蝶となる姿を追うドラマとなっていて、見応えのある作品に仕上がっている。脚本は『遠雷』『時代屋の女房』『大鹿村騒動記』等の荒井晴彦と澤井信一郎。
劇団の研究生(薬師丸ひろ子)は舞台『Wの悲劇』の主役オーディションに落ち、女中役となる。主役への夢を捨てきれない彼女は稽古終了後に台詞を真似ているところを母親役の三田佳子にみられる。その三田のパトロンがホテルで腹上死するという事件が起こり、スキャンダルを恐れて主役への推挙と引き換えに薬師丸が事件の三田の代役を引き受ける。三田の代役を演じきる女優・薬師丸。舞台は思惑通り主役交代となり、スキャンダルを逆手に取って話題の新人女優となった薬師丸は初日を熱演で飾り、スター女優への切符を手にする。
その薬師丸を支える元俳優志望の青年(世良公則)は、私生活でも芝居をしている自分に嫌気がさして俳優を諦めた過去がある。
ラストシーンが本作最大の見せ場で、世良が薬師丸に女優を辞めて人間としての生き方をするように求める。しかし、主演女優という魔力、麻薬を覚えてしまった薬師丸は女優として生きていくことを告げる。
この時、「俺たちの千秋楽か?」と言って拍手する世良と、それに応えてスカートを持って膝を折る薬師丸がいい。映画はここでストップモーションとなるが、仮初の道を選んだ薬師丸との二人の決定的な別離の悲しみが、男女の仲を超えたそれぞれの生き方という重みとなってスクリーンから溢れだす。
薬師丸と世良からこのような演技と表情を引き出した澤井信一郎にカーテンコールの拍手。
降ろされた主演女優役に新人・高木美保。役通り結局スター女優にはなれず、ワイドショーのコメンテイターに。 (評価:3)
製作:角川春樹事務所、東映
公開:1984年10月10日
監督:和田誠 製作:角川春樹 脚本:澤井信一郎、和田誠 撮影:安藤庄平 美術:中村州志
キネマ旬報:4位
優はつくが決して秀がつかない優等生映画
原作は阿佐田哲也の同名小説。イラストレーターの和田誠が監督した初の本格的劇映画。
当時も映画好きや映画評論家が映画監督をすることはままあって、軒並み失敗作を作る中での非常に骨格のしっかりした作品だった。和田誠は当時『お楽しみはこれからだ』をキネ旬に連載し、ディープな映画好きとして知られていた。『倫敦巴里』では川端の『雪国』の冒頭を33人の小説家の文体で書くなど才人ぶりを発揮したが、映画監督としてもその才能を本作で示した。
もっとも、和田が映画の名作から学んだ演出・シナリオ・撮影技法はふんだんにこの映画に生きているのだが、独自の個性といったものがない。優等生的映画ではあるが、監督名を伏せれば誰かが創ったよくある佳作でしかない。成績表でいえば、優はつくが決して秀がつくことのない優等生。
映画はモノクロで、終戦直後の荒廃した東京とその中で生きる博打うちたちの話。主人公の青年に真田広之、まわりを固める俳優が鹿賀丈史、加藤健一、名古屋章、高品格と渋い。加賀まりこ、内藤陳、天本英世も出ているが、大竹しのぶが若手演技派の本領を発揮。
タイトルにもある通り、いかさま麻雀が話のキーになるので、ある程度麻雀の知識があった方が楽しめる。鹿賀は博打のためなら愛人の大竹を遊女に売るという悪漢ぶりで、この二人の落ちるところまで落ちた救いようのない愛が、演技ともども見どころとなる。腐った連中の腐りきった話だけに本作に嫌悪を感じる人がいても当然だが、和田はアウトローたちをヒロイズムに堕すことなく、バカな男たちの悲しい物語として描いている。 (評価:3)
公開:1984年10月10日
監督:和田誠 製作:角川春樹 脚本:澤井信一郎、和田誠 撮影:安藤庄平 美術:中村州志
キネマ旬報:4位
原作は阿佐田哲也の同名小説。イラストレーターの和田誠が監督した初の本格的劇映画。
当時も映画好きや映画評論家が映画監督をすることはままあって、軒並み失敗作を作る中での非常に骨格のしっかりした作品だった。和田誠は当時『お楽しみはこれからだ』をキネ旬に連載し、ディープな映画好きとして知られていた。『倫敦巴里』では川端の『雪国』の冒頭を33人の小説家の文体で書くなど才人ぶりを発揮したが、映画監督としてもその才能を本作で示した。
もっとも、和田が映画の名作から学んだ演出・シナリオ・撮影技法はふんだんにこの映画に生きているのだが、独自の個性といったものがない。優等生的映画ではあるが、監督名を伏せれば誰かが創ったよくある佳作でしかない。成績表でいえば、優はつくが決して秀がつくことのない優等生。
映画はモノクロで、終戦直後の荒廃した東京とその中で生きる博打うちたちの話。主人公の青年に真田広之、まわりを固める俳優が鹿賀丈史、加藤健一、名古屋章、高品格と渋い。加賀まりこ、内藤陳、天本英世も出ているが、大竹しのぶが若手演技派の本領を発揮。
タイトルにもある通り、いかさま麻雀が話のキーになるので、ある程度麻雀の知識があった方が楽しめる。鹿賀は博打のためなら愛人の大竹を遊女に売るという悪漢ぶりで、この二人の落ちるところまで落ちた救いようのない愛が、演技ともども見どころとなる。腐った連中の腐りきった話だけに本作に嫌悪を感じる人がいても当然だが、和田はアウトローたちをヒロイズムに堕すことなく、バカな男たちの悲しい物語として描いている。 (評価:3)
製作:YOUの会、ヘラルド・エース
公開:1984年6月23日
監督:篠田正浩 製作:原正人 脚本:田村孟 撮影:宮川一夫 音楽:池辺晋一郎 美術:西岡善信
キネマ旬報:3位
少年の目を通して交錯する思いを描く敗戦ノスタルジー
原作は同名の阿久悠の自伝的小説。
敗戦直後の淡路島が舞台。玉音放送から始まり教科書の墨塗り、進駐軍、戦犯裁判と変わっていく時代を少年の目を通して描く。国民学校の女教師に夏目雅子。その死んだと思われていた夫に郷ひろみ。夏目に言い寄る義弟に渡辺謙。駐在に大滝秀治、床屋からバーに店替えする店主に岩下志麻。淡路島に娘(佐倉しおり)とともに疎開する元海軍提督に伊丹十三。
町を舞台にした登場人物たちのエピソードを積み重ねた物語で、少年野球もその中のひとつにすぎないので、少年野球の話を期待すると外れる。郷がかつて中学野球のエースだったことから、夏目が少年・少女を集めて野球チームを編成し、米軍チームと対戦するというエピソードがあるくらい。
伊丹は戦犯として処刑されるが、その娘が島を訪れて再び帰っていくまでを少年の目を通した敗戦のノスタルジーとして描くが、全体に群像劇のためにやや焦点が定まらない。
敗戦の悲しみ、国への不信、新しい時代への期待、平和への思いといったものが混沌と漂うが、そうした交錯した思いを明確には描けないということが敗戦であったのかもしれない。 (評価:2.5)
公開:1984年6月23日
監督:篠田正浩 製作:原正人 脚本:田村孟 撮影:宮川一夫 音楽:池辺晋一郎 美術:西岡善信
キネマ旬報:3位
原作は同名の阿久悠の自伝的小説。
敗戦直後の淡路島が舞台。玉音放送から始まり教科書の墨塗り、進駐軍、戦犯裁判と変わっていく時代を少年の目を通して描く。国民学校の女教師に夏目雅子。その死んだと思われていた夫に郷ひろみ。夏目に言い寄る義弟に渡辺謙。駐在に大滝秀治、床屋からバーに店替えする店主に岩下志麻。淡路島に娘(佐倉しおり)とともに疎開する元海軍提督に伊丹十三。
町を舞台にした登場人物たちのエピソードを積み重ねた物語で、少年野球もその中のひとつにすぎないので、少年野球の話を期待すると外れる。郷がかつて中学野球のエースだったことから、夏目が少年・少女を集めて野球チームを編成し、米軍チームと対戦するというエピソードがあるくらい。
伊丹は戦犯として処刑されるが、その娘が島を訪れて再び帰っていくまでを少年の目を通した敗戦のノスタルジーとして描くが、全体に群像劇のためにやや焦点が定まらない。
敗戦の悲しみ、国への不信、新しい時代への期待、平和への思いといったものが混沌と漂うが、そうした交錯した思いを明確には描けないということが敗戦であったのかもしれない。 (評価:2.5)
製作:劇団ひまわり映画製作所
公開:1984年11月10日
監督:小栗康平 製作:砂岡不二夫 脚本:小栗康平、太田省吾 撮影:安藤庄平 美術:内藤昭 音楽:毛利蔵人
キネマ旬報:8位
詩的な映像で描くパンチョッパリの青年と少女の漂流
李恢成の同名小説が原作。
1957年、在日二世の早大生・相俊(呉昇一)は、函館の北、森町の朝鮮人部落に住む父の友人、秋男(浜村純)を訪ね、高校生の娘・伽倻子(南果歩)と10年ぶりに再会。やがて二人が惹かれ合っていくという恋物語。
伽倻子は日本人の両親に捨てられ、秋男と日本人妻・トシ(園佳也子)が育ててきた。二人が隠れて文通をしていたことを知られ、伽倻子は家出。相俊が探し出して共に東京で暮らし始めるが、それを知った秋男に連れ戻される。
10年後、伽倻子を探し続けた相俊は秋男を訪ね、トシが死んだことを知る。そして伽倻子が結婚して秋男の世話をしていることを知るという切ないラスト。
パンチョッパリ、日本人でも朝鮮人でもない在日二世のアイデンティティと葛藤がテーマで、在日一世を含めて帰るべき故国を失い、偏見の中で日本社会に定着することもできずに漂流する姿が描かれる。
その中で日本人でありながら朝鮮人の娘となった伽倻子が、相俊とは鏡像をなしていて、朝鮮人と結婚したために日本人でありながら逆のパンチョッパリとなってしまった義母に対し、伽倻子は朝鮮人となって朝鮮に渡る決意をする。しかし相俊が在日の頸木を逃れることができなかったために彼女もまた自身のアイデンティティを持ちえず漂流してしまう。
物語が若干説明不足な上に、さまざまな在日朝鮮人問題を俯瞰しようとしたために、わかりにくい話になっている。終盤は水道管の漏水の話、雪原を渡る朝鮮人の心象風景、伽倻子の本名・美和子を名乗る幼女といったメタファーも織り込まれ、秋男が言う通りに伽倻子が世話をしているのかも不明で、すっきりしないラストとなっている。
詩的な映像が美しく、本作がデビューの南果歩の透明感のある演技ととともに静かに心に染み入って、清浄な気持ちになる。とりわけ大沼で二人がデートするボートのシーンが印象的。 (評価:2.5)
公開:1984年11月10日
監督:小栗康平 製作:砂岡不二夫 脚本:小栗康平、太田省吾 撮影:安藤庄平 美術:内藤昭 音楽:毛利蔵人
キネマ旬報:8位
李恢成の同名小説が原作。
1957年、在日二世の早大生・相俊(呉昇一)は、函館の北、森町の朝鮮人部落に住む父の友人、秋男(浜村純)を訪ね、高校生の娘・伽倻子(南果歩)と10年ぶりに再会。やがて二人が惹かれ合っていくという恋物語。
伽倻子は日本人の両親に捨てられ、秋男と日本人妻・トシ(園佳也子)が育ててきた。二人が隠れて文通をしていたことを知られ、伽倻子は家出。相俊が探し出して共に東京で暮らし始めるが、それを知った秋男に連れ戻される。
10年後、伽倻子を探し続けた相俊は秋男を訪ね、トシが死んだことを知る。そして伽倻子が結婚して秋男の世話をしていることを知るという切ないラスト。
パンチョッパリ、日本人でも朝鮮人でもない在日二世のアイデンティティと葛藤がテーマで、在日一世を含めて帰るべき故国を失い、偏見の中で日本社会に定着することもできずに漂流する姿が描かれる。
その中で日本人でありながら朝鮮人の娘となった伽倻子が、相俊とは鏡像をなしていて、朝鮮人と結婚したために日本人でありながら逆のパンチョッパリとなってしまった義母に対し、伽倻子は朝鮮人となって朝鮮に渡る決意をする。しかし相俊が在日の頸木を逃れることができなかったために彼女もまた自身のアイデンティティを持ちえず漂流してしまう。
物語が若干説明不足な上に、さまざまな在日朝鮮人問題を俯瞰しようとしたために、わかりにくい話になっている。終盤は水道管の漏水の話、雪原を渡る朝鮮人の心象風景、伽倻子の本名・美和子を名乗る幼女といったメタファーも織り込まれ、秋男が言う通りに伽倻子が世話をしているのかも不明で、すっきりしないラストとなっている。
詩的な映像が美しく、本作がデビューの南果歩の透明感のある演技ととともに静かに心に染み入って、清浄な気持ちになる。とりわけ大沼で二人がデートするボートのシーンが印象的。 (評価:2.5)
製作:プルミエ・インターナショナル、フジテレビ
公開:1984年11月17日
監督:川島透 製作:増田久雄、日枝久 脚本:川島透、金子正次 撮影:川越道彦 音楽:宮本光雄 美術:尾関龍生
キネマ旬報:10位
ファンタジーであった時代の空気が甘酸っぱい
『竜二』(1983)の金子正次の遺作となった脚本を同じ川島透が監督。ヤクザになり切れないチンピラの悲しい友情を描く。
チンピラ役は、渋谷で競馬のノミ屋を仕事にしている柴田恭兵とジョニー大倉。胴元はヤクザの川地民夫だが、盃はもらっていない。三十面下げて今更新米ヤクザから始める気にもならず、気楽なチンピラのままがいいと思いつつも、柴田がヤクザ見習いになると、大倉は内心穏やかではない。
結局、大倉がノミ屋で一山当てようとしたことから大穴を空けてしまい、川地から預かっていた覚醒剤を売り捌いて、それが基で川地を刺してしまう。渋谷のヤクザから追われる身となった大倉を柴田は逃がそうとするが見つかって撃たれてしまう。
最後は死んでしまった大倉を引き摺って柴田が外国航路の埠頭までやってくる。しかし続きがあって、それは実は狂言で、覚醒剤を売り捌いた柴田・大倉・川地の3人とノミ屋仲間が大金を手にハワイ航路の船の中ではしゃぐラストシーンで終わる。
『スティング』ばりの結末かという思わせぶりだが、それまでの展開からは相当無理があって、これはチンピラ2人のファンタジーで、死んだ大倉への哀悼の夢物語ないしは天国の夢、ということにしかならない。
どちらとも取れる終わり方だが、劇中、ノミ屋組のチンピラたちがトリックの射殺でクラブの客を驚かすという寸劇を得意にしているシーンがあって、これが伏線に使われているので、前者が正解ということになる。
暗い結末を避けたのかもしれないが、狂言ということになるとそれまでの女2人を含む、フリーターか正社員かという体制選択の物語はいったい何だったんだということになり、作品としては空中分解。後者の天国の夢にしておいた方が、チンピラの悲しい友情物語として救われる。
話としては悲劇だが、バブルに向かう時代の空虚な華やかさと、若者たちの浅薄さ、そこから溢れだした泡のようなチンピラという、現代からはファンタジーであった時代の空気が全編に漲っていて、懐かしいような甘酸っぱさが広がる。
刑事役の小野武彦が若い。 (評価:2.5)
公開:1984年11月17日
監督:川島透 製作:増田久雄、日枝久 脚本:川島透、金子正次 撮影:川越道彦 音楽:宮本光雄 美術:尾関龍生
キネマ旬報:10位
『竜二』(1983)の金子正次の遺作となった脚本を同じ川島透が監督。ヤクザになり切れないチンピラの悲しい友情を描く。
チンピラ役は、渋谷で競馬のノミ屋を仕事にしている柴田恭兵とジョニー大倉。胴元はヤクザの川地民夫だが、盃はもらっていない。三十面下げて今更新米ヤクザから始める気にもならず、気楽なチンピラのままがいいと思いつつも、柴田がヤクザ見習いになると、大倉は内心穏やかではない。
結局、大倉がノミ屋で一山当てようとしたことから大穴を空けてしまい、川地から預かっていた覚醒剤を売り捌いて、それが基で川地を刺してしまう。渋谷のヤクザから追われる身となった大倉を柴田は逃がそうとするが見つかって撃たれてしまう。
最後は死んでしまった大倉を引き摺って柴田が外国航路の埠頭までやってくる。しかし続きがあって、それは実は狂言で、覚醒剤を売り捌いた柴田・大倉・川地の3人とノミ屋仲間が大金を手にハワイ航路の船の中ではしゃぐラストシーンで終わる。
『スティング』ばりの結末かという思わせぶりだが、それまでの展開からは相当無理があって、これはチンピラ2人のファンタジーで、死んだ大倉への哀悼の夢物語ないしは天国の夢、ということにしかならない。
どちらとも取れる終わり方だが、劇中、ノミ屋組のチンピラたちがトリックの射殺でクラブの客を驚かすという寸劇を得意にしているシーンがあって、これが伏線に使われているので、前者が正解ということになる。
暗い結末を避けたのかもしれないが、狂言ということになるとそれまでの女2人を含む、フリーターか正社員かという体制選択の物語はいったい何だったんだということになり、作品としては空中分解。後者の天国の夢にしておいた方が、チンピラの悲しい友情物語として救われる。
話としては悲劇だが、バブルに向かう時代の空虚な華やかさと、若者たちの浅薄さ、そこから溢れだした泡のようなチンピラという、現代からはファンタジーであった時代の空気が全編に漲っていて、懐かしいような甘酸っぱさが広がる。
刑事役の小野武彦が若い。 (評価:2.5)
製作:徳間書店、博報堂
公開:1984年3月11日
監督:宮崎駿 製作:徳間康快、近藤道生 脚本:宮崎駿 作画監督:小松原一男 美術監督:中村光毅 音楽:久石譲
キネマ旬報:7位
環境も好きだけど、戦争はもっと大好き
スタジオジブリの前身、トップクラフト制作によるアニメーションであるため、ジブリ第1作と認知されている作品。アニメに先立って描かれた宮崎駿の同名漫画が原作。
産業文明崩壊から1000年後、瘴気を放つ腐海に呑み込まれつつある地球が舞台で、公害が社会的大問題となっていた当時、環境をテーマに掲げた。子供向けか『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』といったSF娯楽アニメが主流の中で、テーマ性を前面に描いたアニメとして話題となった。
もっとも、コミカルなキャラクターなど漫画映画らしいシナリオや台詞が随所にあり、空中アクションシーンやヒロインの造形等に『未来少年コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』の影響が残っている。
主人公のナウシカは、風の谷の村に住むクラリスもどきのお姫様で、声優もクラリスの島本須美を起用。ナウシカはクラリス同様、宮崎流フェミニズムの権化だが、気が強いばかりではなく、臣民を従え導き、勇気と献身、スーパーナチュラルな虫など自然界との会話能力、空を飛行する身体能力を持ったスーパーレディとして活躍し、ラストシーンでは伝説に従って鳶を従えた神武天皇の如く神格化される。
最終兵器巨神兵の幼体を手に入れたトルメキアは、腐海の一掃と世界征服のために風の谷を侵略するという悪の帝国で、トルメキアに滅ぼされたペジテ市が巨神兵を奪い返すべく、巨大虫オームの群れを誘導して風の谷を攻撃するという、悪でも善でもない一般人。
ナウシカを擁する風の谷は自然との共生を目指す平和主義者で、ナウシカがペジテ市に翻意させ、トルメキアを懲罰して、村と腐海を救う物語となる。
腐海は人間の環境汚染に対して自然界が生み出した浄化装置という位置づけで、腐海を滅ぼすことは環境サイクルの破壊であり、従って腐海の拡大は自然界による人間への反攻ということになる。
この環境テーマはその後の宮崎作品で繰り返される水戸黄門の印籠だが、一方で『紅の豚』『風立ちぬ』で見られる宮崎の兵器マニア、とりわけ戦闘機好きを示していて、物語の大半は空中戦や飛行シーンで占められている。
そうした反文明的エコロジストと機械文明を前提とする軍事オタクの相反する両面が本作内で拮抗していて、二律背反の複雑な気分にさせる。 (評価:2.5)
公開:1984年3月11日
監督:宮崎駿 製作:徳間康快、近藤道生 脚本:宮崎駿 作画監督:小松原一男 美術監督:中村光毅 音楽:久石譲
キネマ旬報:7位
スタジオジブリの前身、トップクラフト制作によるアニメーションであるため、ジブリ第1作と認知されている作品。アニメに先立って描かれた宮崎駿の同名漫画が原作。
産業文明崩壊から1000年後、瘴気を放つ腐海に呑み込まれつつある地球が舞台で、公害が社会的大問題となっていた当時、環境をテーマに掲げた。子供向けか『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』といったSF娯楽アニメが主流の中で、テーマ性を前面に描いたアニメとして話題となった。
もっとも、コミカルなキャラクターなど漫画映画らしいシナリオや台詞が随所にあり、空中アクションシーンやヒロインの造形等に『未来少年コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』の影響が残っている。
主人公のナウシカは、風の谷の村に住むクラリスもどきのお姫様で、声優もクラリスの島本須美を起用。ナウシカはクラリス同様、宮崎流フェミニズムの権化だが、気が強いばかりではなく、臣民を従え導き、勇気と献身、スーパーナチュラルな虫など自然界との会話能力、空を飛行する身体能力を持ったスーパーレディとして活躍し、ラストシーンでは伝説に従って鳶を従えた神武天皇の如く神格化される。
最終兵器巨神兵の幼体を手に入れたトルメキアは、腐海の一掃と世界征服のために風の谷を侵略するという悪の帝国で、トルメキアに滅ぼされたペジテ市が巨神兵を奪い返すべく、巨大虫オームの群れを誘導して風の谷を攻撃するという、悪でも善でもない一般人。
ナウシカを擁する風の谷は自然との共生を目指す平和主義者で、ナウシカがペジテ市に翻意させ、トルメキアを懲罰して、村と腐海を救う物語となる。
腐海は人間の環境汚染に対して自然界が生み出した浄化装置という位置づけで、腐海を滅ぼすことは環境サイクルの破壊であり、従って腐海の拡大は自然界による人間への反攻ということになる。
この環境テーマはその後の宮崎作品で繰り返される水戸黄門の印籠だが、一方で『紅の豚』『風立ちぬ』で見られる宮崎の兵器マニア、とりわけ戦闘機好きを示していて、物語の大半は空中戦や飛行シーンで占められている。
そうした反文明的エコロジストと機械文明を前提とする軍事オタクの相反する両面が本作内で拮抗していて、二律背反の複雑な気分にさせる。 (評価:2.5)
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
公開:1984年2月11日
監督:押井守 製作:多賀英典 脚本:押井守 作画監督:森山ゆうじ 美術:小林七郎 音楽:星勝
高橋留美子の漫画『うる星やつら』が原作のアニメーションで、押井守のオリジナル脚本。
泊まり込みが続く学園祭の前日を延々と繰り返して脱出できないというシュールな物語で、シュール・リアリズムの巨匠ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(1962)を連想させる作品。
そのことに気付いた教師の温泉マークとサクラが生徒たちを帰宅させようとするが学校に戻ってきてしまい、空からの脱出を試みると、町は巨大な亀の背中に乗っていたという古代の地球平面説の宇宙…というように物語は展開していくが、実は妖怪・夢邪鬼が作り出したラムの夢の中だったというもの。
夢邪鬼が人に夢を見させると、己の欲望から悪夢に転じてしまうが、ラムだけは純粋で今が幸せという無欲の夢になることから、みんなを閉じ込めたことがわかる。あたるは夢邪鬼を脅してハーレムの夢を作らせるが、そこにラムがいないことに文句を言うというのが鍵で、現れた獏に夢を食べられながら最後に見る夢で一番好きなのはラムだと認めて夢邪鬼から解放される。
原作が描かれ、TVアニメが放映されたのが40年前。本作を改めて見ると『うる星やつら』の世界観やキャラクターを知っているのを前提に作られていて、それを知らない人が単体で見たらただの空騒ぎにしか映らない。
改めてキャラクター作品の難しさを思わせる。夢邪鬼の声を当てた藤岡琢也が抜群の演技。 (評価:2.5)
人魚伝説
公開:1984年4月14日
監督:池田敏春 製作:佐々木史朗、宮坂進 脚本:西岡琢也 撮影:前田米造 水中撮影:中村征夫 美術:小川富美夫 音楽:本多俊之
宮谷一彦の同名劇画が原作。
池田敏春の日活退社後の第1作で、ディレクターズ・カンパニーの第1作でもある作品。ATG作品でもあり、日活ロマンポルノの味を残しつつ、原発問題を扱ったATGらしい意欲作にもなっている。
三重の漁村が舞台で、原発建設を巡り漁師の夫を殺された海女が、推進派に復讐するという社会派ドラマ。レジャーランド建設を装った用地取得と原発への転用、地元建設会社と電力会社の癒着など、関西電力の不正を想起させるが、本作では主人公の海女(白都真理)が一身をなげうって推進派を皆殺しにする。
オールヌードを全身鮮血に染めるまさに体当たり演技で、バイオレンスシーンとセックスシーンが見せ場になっているが、最大の見どころはプロローグとエピローグの中村征夫による水中撮影で、まさしく人魚のように泳ぐ薄着の海女のエロチック且つファンタスティックなシーンが、すべてのリアルを洗い流し、作品全体を優しく包み込むように美しい。
海女の夫役の江藤潤は冒頭主人公のように登場するが、呆気なく殺されてチョイ役扱い。夫の友人で推進派の建設会社社長(青木義朗)の息子(清水健太郎)が海女を助けるが、唐突に裏切るドラマが弱い。
追われる海女を匿う老人に宮口精二、淫売宿のママに宮下順子、推進派の政治家に神田隆。
「原発いうんはどこにおるんや~!」と言って、海女が狂ったように無差別大量殺人をするが、最後まで原発がまるで人だと思っているように叫んでほしかった。 (評価:2.5)
男はつらいよ 寅次郎真実一路
公開:1984年12月28日
監督:山田洋次 製作:島津清、中川滋弘 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第34作。マドンナは大原麗子で、蒸発した証券会社社員の妻。『噂の寅次郎』(1978)以来の2回目のマドンナ。
上野の焼き鳥屋で意気投合した男(米倉斉加年)がモーレツ証券マンで、一緒に帰って牛久のマイホームで知り合うのが妻の大原麗子。ところが、男が蒸発したことから故郷の鹿児島を二人で訪ね歩くという、フーテンの寅とは全く異なる展開。
マンネリ打破の従来設定に拘らない脚本で、話はそれなりだがやはり違和感がある。
今回のマドンナは人妻で憧れはするが恋ではなく、もし男が自殺したなら自分が女を引き取れるかもしれないという卑しい思いに寅が気付き嫌悪感に陥るという、コメディらしくない人間ドラマになっている。「男はつらいよ」の設定を用いた番外編に近く、話も寅次郎もそれなりだが、やはり「男はつらいよ」から大きく外れる。
最後は夫が見つかって、寅次郎は二人の幸せを喜びつつ潔く身を引くという、嫌味の残らないきれいな終わり方をするが、寅次郎がカッコ良すぎて哀愁を背負った高倉健のようなのがまた違和感。 (評価:2)
製作:劇団ひまわり、人力飛行機舎、ATG
公開:1984年9月8日
監督:寺山修司 製作:砂岡不二夫、佐々木史朗、九条今日子 脚本:寺山修司、岸田理生 撮影:鈴木達夫 音楽:J・A・シーザー 美術:池谷仙克
キネマ旬報:5位
歳をとった寺山修司に哀愁を憶えられる人にお薦め
監督は寺山修司。
新劇の俳優を使った、やや変な普通にストーリーのある作品。寺山色は希薄で、若い頃の作品の感性が感じられない。
明治頃の閉鎖的な村を舞台に、タブーな結婚をした従兄妹(山崎努、小川真由美)が主人公。妻は禁忌を恐れた死んだ父に貞操帯を付けられ外れない。夫は不能と村中の笑い者にされ、それがもとで本家の主人(原田芳雄)を刺殺する。夫婦は村を出るが、不思議なことにもとの家に舞い戻ってしまう。そうした村社会の磁場から抜けられない夫は主人の亡霊にとりつかれ正気を失い、正気を失わないためにすべてのものに名称を書いた貼り紙をするが、その名称の意味さえ忘れる。
そうしたいささか観念的な話が進行するが、この村では時計は本家にしかなく、時を支配するのもまた本家。冒頭、少年の原田が村中の時計を集めて廃棄するシーンがあるが、夫婦が時計を買い求めたことから村人のリンチに遭い、山崎は死ぬ。
村に掘られた穴があって日々拡大し、その穴に飛び込んだ本家筋の子供が青年となって出てくる。それとともに村に変化が生じ、小川の貞操帯が突然外れ、人々が村を出ていく。村社会の枷が外れ、青年に犯された小川は穴に飛び込んでしまう。時は移ろい、村は現代風になり、大穴も消えている。
寺山は日本のムラの閉鎖性を描きつつも、それを完全に否定できなかったように思える。閉鎖性や家父長制の象徴である原田はどこか魅力的で、村の因習や幽明を含む超越した時間を飲み込んでしまった大穴に愛惜さえ憶える。
寺山49歳の作品で、彼の中にある土着性を否定できない寺山に、良くも悪くも年齢を感じる。ただ、感性を失った寺山の作品は退屈で、そうした寺山に哀愁を憶えられる人にはお薦め。 (評価:2)
公開:1984年9月8日
監督:寺山修司 製作:砂岡不二夫、佐々木史朗、九条今日子 脚本:寺山修司、岸田理生 撮影:鈴木達夫 音楽:J・A・シーザー 美術:池谷仙克
キネマ旬報:5位
監督は寺山修司。
新劇の俳優を使った、やや変な普通にストーリーのある作品。寺山色は希薄で、若い頃の作品の感性が感じられない。
明治頃の閉鎖的な村を舞台に、タブーな結婚をした従兄妹(山崎努、小川真由美)が主人公。妻は禁忌を恐れた死んだ父に貞操帯を付けられ外れない。夫は不能と村中の笑い者にされ、それがもとで本家の主人(原田芳雄)を刺殺する。夫婦は村を出るが、不思議なことにもとの家に舞い戻ってしまう。そうした村社会の磁場から抜けられない夫は主人の亡霊にとりつかれ正気を失い、正気を失わないためにすべてのものに名称を書いた貼り紙をするが、その名称の意味さえ忘れる。
そうしたいささか観念的な話が進行するが、この村では時計は本家にしかなく、時を支配するのもまた本家。冒頭、少年の原田が村中の時計を集めて廃棄するシーンがあるが、夫婦が時計を買い求めたことから村人のリンチに遭い、山崎は死ぬ。
村に掘られた穴があって日々拡大し、その穴に飛び込んだ本家筋の子供が青年となって出てくる。それとともに村に変化が生じ、小川の貞操帯が突然外れ、人々が村を出ていく。村社会の枷が外れ、青年に犯された小川は穴に飛び込んでしまう。時は移ろい、村は現代風になり、大穴も消えている。
寺山は日本のムラの閉鎖性を描きつつも、それを完全に否定できなかったように思える。閉鎖性や家父長制の象徴である原田はどこか魅力的で、村の因習や幽明を含む超越した時間を飲み込んでしまった大穴に愛惜さえ憶える。
寺山49歳の作品で、彼の中にある土着性を否定できない寺山に、良くも悪くも年齢を感じる。ただ、感性を失った寺山の作品は退屈で、そうした寺山に哀愁を憶えられる人にはお薦め。 (評価:2)
製作:東宝映画
公開:1984年10月6日
監督:市川崑 製作:田中友幸、市川崑 脚本:日高真也、市川崑 撮影:五十畑幸勇 美術:村木忍 音楽:大川新之助、朝川朋之
キネマ旬報:6位
吉永小百合と石坂浩二がミスキャストで情緒に浸れない
宇野千代の同名小説が原作。
妻と別居して芸者と同棲を始めた男の物語で、7年後に子供が生まれていたことを知る。芸者には内緒で妻とやり直そうとして新居を構えるが、引っ越しの当日、子供が事故死してしまい、打ち萎れた男を芸者が引き取る。子を失った妻は芸者に詫び、町を離れ、男は何事もなかったように置屋の主人に戻る。
おはんは妻の名前で、吉永小百合が演じるが、吉永は気の強い女の役を演じるとそこそこなのだが、内気でしおらしい女を演じるのが下手で、『細雪』(1983)の幸子でもそうだったが、どうも白痴美人に見えてしまう。それを市川崑が好むのか、本作も似たような役柄で、何を考えているのかわからないような女になっている。
とりわけ男に強引に迫られて最初は嫌がってるのに、急に嬉しくなって抱き返すシーンで、微妙な女心を演じられず、ただの頭のおかしい女にしか見えない。
相手役の男を演じる石坂浩二も金田一耕助のぼんくら男のワンパターン演技で、二人の女に惚れられるような男の色気を演じることができず、むしろどちらからも愛想を尽かされる男にしか見えない。
主役二人の演技が良くないために、終始引いた目でしかドラマを見ることができず、情緒たっぷりな話のはずが、山場のおはんの手紙にも感動できない。
頑張っているのは芸者を演じる大原麗子と姪の半玉の香川三千(山添三千代)くらいで、ミヤコ蝶々も関西弁だけが取り柄のオバサン。常田富士男もキレた後にギャグなのかよくわからない台詞を吐く。
意表を突く五木ひろしのオープニング主題歌や、市川崑らしい映像は悪くないのだが、妙に芝居がかった台詞で、下手な声優のアニメを実写で見ている気さえしてくる。
(評価:2)
公開:1984年10月6日
監督:市川崑 製作:田中友幸、市川崑 脚本:日高真也、市川崑 撮影:五十畑幸勇 美術:村木忍 音楽:大川新之助、朝川朋之
キネマ旬報:6位
宇野千代の同名小説が原作。
妻と別居して芸者と同棲を始めた男の物語で、7年後に子供が生まれていたことを知る。芸者には内緒で妻とやり直そうとして新居を構えるが、引っ越しの当日、子供が事故死してしまい、打ち萎れた男を芸者が引き取る。子を失った妻は芸者に詫び、町を離れ、男は何事もなかったように置屋の主人に戻る。
おはんは妻の名前で、吉永小百合が演じるが、吉永は気の強い女の役を演じるとそこそこなのだが、内気でしおらしい女を演じるのが下手で、『細雪』(1983)の幸子でもそうだったが、どうも白痴美人に見えてしまう。それを市川崑が好むのか、本作も似たような役柄で、何を考えているのかわからないような女になっている。
とりわけ男に強引に迫られて最初は嫌がってるのに、急に嬉しくなって抱き返すシーンで、微妙な女心を演じられず、ただの頭のおかしい女にしか見えない。
相手役の男を演じる石坂浩二も金田一耕助のぼんくら男のワンパターン演技で、二人の女に惚れられるような男の色気を演じることができず、むしろどちらからも愛想を尽かされる男にしか見えない。
主役二人の演技が良くないために、終始引いた目でしかドラマを見ることができず、情緒たっぷりな話のはずが、山場のおはんの手紙にも感動できない。
頑張っているのは芸者を演じる大原麗子と姪の半玉の香川三千(山添三千代)くらいで、ミヤコ蝶々も関西弁だけが取り柄のオバサン。常田富士男もキレた後にギャグなのかよくわからない台詞を吐く。
意表を突く五木ひろしのオープニング主題歌や、市川崑らしい映像は悪くないのだが、妙に芝居がかった台詞で、下手な声優のアニメを実写で見ている気さえしてくる。
(評価:2)
未来少年コナン特別編 巨大機ギガントの復活
公開:1984年3月11日
監督:宮崎駿 製作:本橋浩一 脚本:中野顕彰 作画監督:大塚康生 美術:山本二三 音楽:池辺晋一郎
1978年4月~10月に放映されたTVシリーズ全26話から、24~26話の空中戦を中心に編集したもので、劇場版『未来少年コナン』の続編。アレグサンダー・ケイのSF児童小説"The Incredible Tide"(途方もない潮流、邦題:残された人びと)が原作。
全体に面白味を欠く劇場版『未来少年コナン』に比べ、47分とコンパクトになって、巨大飛行機ギガントの空中シーンを見せ場にしている。
前作でインダトリアを滅ぼしたかに見えたが、地下に潜っていたインダストリアのレプカが空中要塞ギガントを発進させ、世界征服を狙うという筋立てで、それを阻止するコナンとその仲間の戦いが中心。
話のテンポもよく、まとまってはいるが、『超人ロック』との併映作品で、前作で画竜点睛を欠いた睛の部分だけを作品にしたもので、尺的にもオマケ感は拭えない。
ほとんどが空中シーンなのでエピソードとしては楽しめるが、演出的には前作で使用されたアクションシーンのほうが斬新。ドラマをとれば本作、映像をとれば前作という、グリコのおまけのような悩ましい構成になっている。 (評価:2)
逆噴射家族
公開:1984年6月23日
監督:石井聰亙 製作:長谷川和彦、山根豊次、佐々木史朗 脚本:小林よしのり、神波史男、石井聰亙 撮影:田村正毅夫 音楽:1984 美術:細谷照美
1982年羽田沖で、精神病の機長が着陸前にエンジンを逆噴射したのが原因で旅客機が墜落するというショッキングな事件が起きた。この事故が基になり、キレてとんでもない行動をとることを逆噴射と呼んで当時流行語となった。本作は、それに則って精神を病んで奇妙な行動をとる一家を描く。原案は小林よしのり。
流行語を基に作られただけに通俗の域を出ず、ただ狂った一家の物語を見せられるだけ。原案者がギャグ漫画家ということで、それ以上のものにはなっておらず、かといって爽快でもなく、殺伐として空しいだけの作品となっている。
マイホームを手に入れることが人生で、その維持に奔走する男(小林克也)と小市民的妻(倍賞美津子)。浪人生の長男(有薗芳記)と歌手か女子プロレスラーになるのが夢の長女(工藤夕貴)。そこに、男の父(植木等)が転がり込んできて一家の歯車が狂い始めるが、それぞれのキャラクター造形が浅く、ただのスラップスティック・コメディにしかなっていない。
設定の安直さは、ストリップの真似事をする妻や、狂った祖父や兄にレイプされそうになる長女というように発想が貧困で、客の呼び込みのために13歳の工藤のレオタード姿を見せるという低俗。
それぞれがなぜ狂っていくのかという掘り下げもなく、マイホーム主義亭主とおかしな家族たちという以上の問題提起も社会批判もなく、すべてを破壊して再出発だというラストも、それで家族の絆が取り戻せたんかい? という何ともしまらない結末。
浦安でロケしたらしく、造成された新興住宅地を見ながら、東日本大震災ではこの家々も液状化の被害を受けたのだろうかと、この観念的な映画内容とは別の家族の在り方について感慨に浸る。 (評価:2)
ゴジラ
公開:1984年12月15日
監督:橋本幸治 製作:田中友幸 脚本:永原秀一 特技監督:中野昭慶 撮影:原一民 音楽:小六禮次郎 美術:櫻木晶
ゴジラ第16作、というよりも新生ゴジラ第1作。
『メカゴジラの逆襲』(1975)で悲惨な末期を遂げたゴジラシリーズだったが、ゴジラ誕生30周年という、斜陽の邦画界の断末魔の叫びによって、再びゴジラは呼びもどされた。この頃から映画会社は製作よりも配給・興行に軸足を移し、映画会社から不動産会社へと変貌していく。映画会社・東宝にとってゴジラは最後の頼みの綱だった。
再度復活したゴジラは米ソ冷戦下で、ソ連の原潜を食べ、浜岡原発を食べて三原山に籠る。殲滅せんとする米ソが核攻撃を主張するも、首相(小林桂樹)が非核三原則で拒否・・・と原点の反核をちらつかせるがここまで。原発を襲って何事もなくとなると、3.11以後のこの映画の底の浅さばかりが見える。
政治家たちの議論も学級討論程度で、主人公たち(田中健・沢口靖子・夏木陽介)がゴジラをノスタルジーで誘導するというストーリーもなんだかよくわからない。そもそもが悪者ゴジラ復活なのに迫力不足で、結局は銀座・霞が関・新宿のミニチュアを壊すシーンを見せるというゴジラ映画の王道だけを見どころにする。(それも悪くはないが)
シナリオは凡庸というか、30周年にしては完成度が低く、冒頭のフナムシお化けとラストのスーパー戦闘機がカブトエビみたいでダサイ。
東宝シンデレラガールの沢口靖子が無茶苦茶下手で、本作で『日本アカデミー賞』新人俳優賞なんかあげるから、同賞が業界ひも付きと思われても当然ということになる。
ゴジラ映画功労者の小泉博、村井国夫も出演。石坂浩二、武田鉄矢、江本孟紀、森本毅郎、かまやつひろしがチョイ役で出るが、あざとさしか残らない。 (評価:2)
男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎
公開:1984年8月4日
監督:山田洋次 製作:島津清、中川滋弘 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第33作。マドンナは中原理恵で、釧路で出会うフーテンの美容師・風子。
一言でいえば話が暗い。盛岡で堅気になった弟分・登(秋野太作)に再会した寅が、歓待しようとする登の渡世人根性を叱るエピソードから始まり、釧路で出会った風子が寅のような風来坊に憧れると、地道な暮らしをするように説教する。
北国の寒々しい風景にこうしたしみったれた話が重なると、もうコメディではなくなり、逃げられ女房を訪ねる男(佐藤B作)まで登場して、唐突に寅を好きだと言い出す風子と別れるまでが長く、舞台はなかなか柴又に移らない。
マンネリを打破するために従来パターンを破ろうとする試みは、シナリオが悪いとガタガタで、風子が寅に惚れる流れが無理やり。
これに輪をかけるのが、オートバイサーカスの芸人トニー(渡瀬恒彦)で、寅と同じ稼業とはいえ、東映のヤクザ俳優が登場すると急に東映ヤクザ路線になってしまって、どうにも味が悪い。
トニーと東京に出てきた風子が寅を頼り、寅屋で看病するという流れも無理やりなら、ヤクザ者同士で片を付けるという話も『男はつらいよ』には相応しくなく、これに風子が怒って寅屋を飛び出すというのも『極道の妻たち』。病気で世話になったのに義理が立たない。
タコ社長との殴り合いどころか、ヤッパまで飛び出しそうな雰囲気で、なにをとち狂って東映ヤクザ映画にしようとしたのか、山田洋次の意図が今ひとつわからない。
最後は風子が伯母の美容室に戻り結婚して大団円となるが、後味の悪さは残る。
登の登場は『寅次郎夢枕』(1972)以来12年ぶりで、この間に津坂匡章から芸名が変わった。 (評価:1.5)
海燕ジョーの奇跡
公開:1984年4月28日
監督:藤田敏八 製作:奥山和由 脚本:神波史男、内田栄一、藤田敏八 撮影:鈴木達夫 美術:望月正照 音楽:宇崎竜童
佐木隆三の同名小説が原作。
沖縄のフィリピン人を父親に持つヒットマンが海外逃亡、父親と再会果たすも事件を起こし、検問を突破しようとして恋人共に果てるまでの話。
沖縄の暴力団事件、沖縄ロケ、フィリピンロケが本作の目玉で、それ以外は面白くも可笑しくもない駄作。とりわけフィルピンロケでは見るもの触るものが珍しかったのか、すっかり観光映画と化していて、スラムから風俗に至るまでの現地取材レポートになってしまった。
現地レポートもそれなりには面白いのだが、フィクションとしては冗長過ぎてストーリーにもドラマにもなっていなくて退屈。
主人公の時任三郎、恋人役の藤谷美和子と琉球方言もそれなりに頑張っているのだが、ヒットマンを与那国までサバニに乗せて行く三船敏郎が、地元漁師とは思えない標準語で、あまりの不器用さに笑える。
追っ手を逃れるために沖縄本島のどこぞの海岸からモーター付きのサバニに乗り込み、宮古島の僻地の桟橋、与那国島の砂浜へと上陸するのだが、そこまで怪しい行動をとるよりは、国内なんだから糸満あたりの漁師に頼んで小型漁船をチャーターした方が安全だろうにとツッコミたくなる。
与那国からは小型漁船でバタン島へ、マニラへと向かうが、以降は観光映画。マニラのヤクザ・原田芳雄、ルポライター・清水健太郎も中途半端な役どころで、自滅する結末が読めてしまうのがつまらない。 (評価:1.5)
ときめきに死す
公開:1984年2月18日
監督:森田芳光 製作:増山茂 脚本:森田芳光 撮影:前田米造 美術:中沢克巳 音楽:塩村修
丸山健二の同名小説が原作。
森田芳光に純文学は肌が合わないようで、換骨奪胎どころか骨なし作品にしてしまった感がある。
広角カメラのピンボール台から始まり、パソコン画面に「組織に不要な人間を排除せよ」というメッセージが映し出される。次いで、函館近郊の山荘に舞台は移り、管理人(杉浦直樹)とテロリスト(沢田研二)、派遣コンパニオン(樋口可南子)の奇妙な共同生活が続いた後、標的は宗教団体トップの会長だったというサスペンス。
派遣コンパニオンの選考がコンピュータだったことから、不要な人間を決定したのもコンピュータということになるが、パソコンを操作する謎の少年も登場して、無機質なコンピュータ社会の到来を描く、近未来の寓話を意図しているようにも見える。
そうしたメタファーを散りばめている割には道具立てが稚拙で、豪華な別荘に豪華な食事、宗教団体に支配される町や警察など漫画的で、出来の悪いファンタジーでしかない。
ニヒルでストイックという設定のテロリストに至っては、沢田の演技力不足か、ゴルゴ13の贋者のようなただのカッコつけで、毎日の筋トレはギャグに近い。そもそも大金で雇われたプロのテロリストの割には、殺害方法は群衆に紛れての刺殺という、ゴルゴもびっくりの一時代前の暗殺方法。テロに失敗しての自決も自爆テロと変わらず、悲劇性が感じられない。
寡黙なテロリストに惹かれていく管理人と派遣コンパニオンの奇妙な関係を描きたかったのだろうが、記号化され過ぎていて空振り。ドット絵で示される作戦シミュレーションも、技術的にではなく内容的にアマチュアの発想レベルのゲーム画面でしかないのも安っぽい。
海中でのテロリストと男(岸部一徳)の争いも、車のバックの衝突も、それを追いかける車も、唐突でストーリーに脈絡がなく、宗教組織、テロリストの実家(?)を含め、テロリストの人間像が描けていない意味不明な作品。 (評価:1.5)