海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1985年

製作:東映
公開:1985年11月9日
監督:森田芳光 脚本:筒井ともみ 撮影:前田米造 美術:今村力 音楽:梅林茂
キネマ旬報:1位
ブルーリボン作品賞

巧くはないが藤谷美和子の儚げな表情は絶品
 森田芳光が初めて手掛けた文芸大作で、それまでのニューシネマ的映像作家から本格的な映画監督へと飛躍するきっかけとなった作品。
 夏目漱石の同名小説が原作で、小津安二郎ら日本映画に伝統的な畳からのローアングルで格調高く撮影する一方、森田らしいシュールな構図やシーンも取り入れ、従来の文芸作品とは一線を画した斬新な映像となっている。
 ブルジョア家庭に育ち、親がかりの高等遊民の生活を送る代助(松田優作)が、義侠心から友人・平岡(小林薫)に譲った三千代(藤谷美和子)が幸せではないのを見て、援助をするうちに彼女との結婚を決意するという物語で、「金のために働くから人間は不幸せになる」という代助の高邁な思想を描く。
 もっとも三千代との結婚により家を勘当され、「金のために働く」ことになる原作のラストは描かれず、三千代との愛を貫くためにすべてを捨てる代助の純愛物語として描かれ、三千代を失って以来結婚をせず生きる目的を失った代助が、真剣に自分の人生を取り戻す物語となっている。
 時代的には、70年代以降の若者たちの喪失感、無力感、無目的からの脱皮の作品ともいえる。
 そうした青年像を松田優作が演じるが、現実主義の権化を演じる小林薫が嫌らしいまでに巧い。巧くはないが藤谷美和子の儚げな表情は絶品。
 代助の父に笠智衆、兄夫婦に中村嘉葎雄、草笛光子。 (評価:3)

銀河鉄道の夜

製作:朝日新聞社、テレビ朝日、日本ヘラルド映画
公開:1985年7月13日
監督:杉井ギサブロー 脚本:別役実 美術:馬郡美保子 音楽:細野晴臣

原作同様に不思議な透明感のあるアニメーション
 宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を原作とする、ますむらひろしの同名漫画が原案。
 ジョバンニ、カンパネルラなどの登場人物は猫のキャラクターに擬人化されていて、『銀河鉄道の夜』の宇宙観とともにファンタジックな世界を作り出しているのが大きな特長。
 人間のキャラクターの持つ通俗性がない分、宮沢賢治の純粋な宗教観が伝わってきて、映像表現としては人間が演じるよりもむしろ成功している。二人を演じる声優の田中真弓(ジョバンニ)と坂本千夏(カンパネルラ)の演技も抑制的で好感が持てる。
 銀河鉄道にタイタニック号の犠牲者が乗り合わせるが、これのみが人間キャラクターで、妙に現実感があって死のリアリティを現出させており、これとは対照的な猫のキャラクターによる観念的な宗教世界に、さざ波のような波紋を起こすのが演出的にも上手い。
 宮沢賢治の童話同様に不思議な透明感のあるアニメーションとなっていて、銀河鉄道の車窓に広がる景色、天の川の星空、村の風景など、映像も幻想的で絵画のように美しく、テーマ的にはサソリの話を通じて、死の恐れや悲しみよりも、自己犠牲、献身によって人は天国に召され、真の幸せを手に入れるという、キリスト教的に純化された問いかけとなっている。
 病気の母の世話をしているジョバンニは、働きながら学校に通う親思いの清貧な少年。漁師の父親はラッコの密猟で警察に捕まったと噂され、ジョバンニは級友に苛められている。
 そんなジョバンニの真の友がカンパネルラだが、星祭りの夜、川で友達を助けようとして水死してしまう。同じ頃、母の牛乳を貰いに行ったジョバンニは丘の上で星空を眺めていると眠ってしまい、カンパネルラと銀河鉄道に乗る夢を見る。
 その夢の旅路が、天国に召されるカンパネルラの魂に導かれたジョバンニの宗教体験として描かれる。 (評価:3)

製作:西武セゾングループ、シネセゾン、プロダクション群狼
公開:1985年5月25日
監督:柳町光男 製作:清水一夫 脚本:中上健次 撮影:田村正毅 音楽:武満徹 美術:木村威夫
キネマ旬報:3位

謎めいているが、熊野の自然と神話世界は美しい
 1980年の熊野一族7人殺害事件をモデルに中上健次が脚本、1987年に小説に描き下ろし。
 元の事件は、犯人が自殺したため動機は不明だが、中上健次は神懸かりのようになった男の突発的狂気の犯行に描いている。
 ヒントとして、前半で男が罠にかかった鳥の血を体に塗りたくるシーンがあり、それがラストとも照応している。冒頭から熊野杉の鬱蒼とした森と鳥獣、熊野灘という神話的世界がモノローグ的に淡々と描かれ、男が熊野の自然に融合した存在であることが示される。血のシーンもそのイニシエーションであり、かつての恋人・太地喜和子が熊野に戻ってくることで、男に神、あるいは鬼神が乗り遷って狂気を得たことが示唆される。
 太地はよそ者で、閉鎖的な村社会からはじき出されたあばずれ。彼女は男・北大路欣也の獣性を目覚めさせる。女は熊野の男たちから金を巻き上げて新宮へと去る。女に捨てられた男は荒ぶる神となって犯行に及んだとも、海中公園建設が鬼神の怒りに触れたとも解釈できる。が、元の事件同様、男の動機が明確に描かれていないため、中上文学の世界が受け入れられないと、消化不良のままにフラストレーションが残る。
 太地の回想シーンに出てくる子供時代の紀勢本線全線開通は1959年のこと。『時には娼婦のように』(1978年)、『お嫁サンバ』(1981年)が流れることから、映画の時代設定の約25年前だったことがわかる。
 ストーリーにわかりにくさはあるものの、柳町が中上と熊野の神話世界を丁寧に描いた好編。 (評価:2.5)

製作:ディレクターズ・カンパニー
公開:1985年8月31日
監督:相米慎二 製作:宮坂進 脚本:加藤祐司 撮影:伊藤昭裕 音楽:三枝成章 美術:池谷仙克
キネマ旬報:4位

お楽しみはロングショットの中のウォーリーを探せ
 相米慎二の中でも評価の高い作品。演歌歌手・井沢八郎の娘で当時14歳だった工藤夕貴が話題になった。
 ニューウェーブの革新の時代は遠ざかり、ハリウッドのエンタテイメントの大波は遥か彼方、円高不況とともに日本映画が転落していった時期の作品。
 舞台は信州で、主人公の中学生たちは思春期と地方という二重の閉塞感の中にいる。担任の三浦友和は理想も情熱も失って人生に妥協した失格教師。同棲相手の母親と倶利伽羅紋々の叔父に教室に怒鳴り込まれる体たらく。未来の開けぬ生徒たちは生きる意味について悩む中で、学校に取り残されて台風の一夜を迎える。独り工藤夕貴は家出して原宿へ。
 彼らの閉塞は台風一過によって「もしも明日が…。」の歌とともに新しいステップを迎えるが、設定の非現実性はともかく、30年後に改めて観るとこれほど観念的だったかと、主人公たちにではなく当時の日本映画の閉塞を思う。
 ラスト前の犬神家の一族ばりのシーンには、思わずパロディかと思うが、シリアスドラマにそのはずもなく、相米は何を考えてこのカットを挿入したのか? 当時の信州の中学生たちは援交も知らない純情無垢で、そういう時代もあったと懐かしい。
 見どころは初々しい工藤夕貴。全体にロングショットが多いために人物の見分けがつきにくいが、鶴見辰吾、寺田農、佐藤浩市が出演していて、ウォーリーを探せのように楽しめる。 (評価:2.5)

製作:ヘラルド・エース、グリニッチ・フィルム・プロ
公開:1985年6月1日
監督:黒澤明 脚本:黒澤明 撮影:斎藤孝雄、上田正治 音楽:武満徹 美術:村木与四郎、村木忍
キネマ旬報:2位

冗長だが、合戦シーンと仲代達矢のリア王が見どころ
​ ​架​空​の​戦​国​武​将​を​主​人​公​に​し​た​シ​ェ​イ​ク​ス​ピ​ア​『​リ​ア​王​』​の​翻​案​。
​ ​父​(​仲​代​達​矢​)​が​隠​居​し​て​長​男​(​寺​尾​聰​)​に​家​督​を​譲​り​、​次​男​(​根​津​甚​八​)​、​三​男​(​隆​大​介​)​に​出​城​を​任​せ​、​毛​利​元​就​の​三​本​の​矢​を​例​に​兄​弟​の​結​束​を​促​す​。​と​こ​ろ​が​三​男​だ​け​は​父​の​理​想​論​に​諌​言​し​、​追​放​さ​れ​る​。​間​も​な​く​父​は​長​男​の​城​を​追​わ​れ​、​次​男​の​城​も​追​わ​れ​て​道​化​(​ピ​ー​タ​ー​)​と​と​も​に​放​浪​し​、​次​男​は​長​男​を​滅​ぼ​し​、​父​と​和​解​し​た​三​男​と​の​戦​い​に​敗​退​す​る​が​、​三​男​は​戦​死​し​て​父​も​死​に​、​一​族​の​争​い​に​乗​じ​た​隣​国​の​武​将​に​次​男​も​滅​ぼ​さ​れ​る​。
​ ​こ​の​物​語​を​縦​軸​に​、​長​男​・​次​男​の​正​室​の​一​族​が​共​に​非​情​な​仲​代​に​滅​ぼ​さ​れ​た​と​い​う​話​が​絡​み​、​長​男​の​正​室​(​原​田​美​枝​子​)​が​復​讐​の​た​め​に​長​男​、​次​に​次​男​を​操​り​、​仲​代​の​一​族​の​滅​亡​を​企​て​て​い​く​。​次​男​の​正​室​(​宮​崎​美​子​)​は​世​の​無​常​を​悟​り​仏​法​に​帰​依​し​、​弟​と​と​も​に​血​で​血​を​洗​う​争​い​か​ら​逃​れ​よ​う​と​す​る​。
​ ​ス​ト​ー​リ​ー​は​単​純​で​こ​れ​だ​け​し​か​な​い​。​そ​れ​を​2​時​間​半​か​け​て​描​く​た​め​に​非​常​に​冗​長​だ​が​、​合​戦​シ​ー​ン​を​中​心​に​退​屈​さ​せ​ず​に​見​せ​る​黒​澤​の​演​出​は​上​手​い​。​1​0​0​0​名​の​エ​キ​ス​ト​ラ​、​5​0​頭​の​馬​は​黒​澤​で​な​け​れ​ば​こ​れ​だ​け​の​製​作​費​は​か​け​ら​れ​な​い​と​思​え​る​。​も​っ​と​も​、​前​作​『​影​武​者​』​(​1​9​8​0​)​が​合​戦​シ​ー​ン​を​手​抜​き​し​た​と​悪​評​が​高​か​っ​た​の​で​、​汚​名​挽​回​の​意​味​も​あ​っ​た​の​か​も​し​れ​な​い​。​ロ​ケ​は​阿​蘇​。
​ ​も​う​一​つ​の​見​ど​こ​ろ​は​仲​代​の​演​技​で​、​能​や​狂​言​の​動​き​で​狂​っ​た​リ​ア​王​を​演​じ​る​。
​ ​た​だ​作​品​的​に​は​冗​長​な​だ​け​に​テ​ー​マ​が​散​漫​で​、​原​田​の​復​讐​劇​な​の​か​、​仲​代​の​愚​か​さ​な​の​か​、​人​間​の​醜​さ​な​の​か​、​人​智​を​超​え​た​運​命​の​皮​肉​・​儚​さ​な​の​か​、​よ​く​わ​か​ら​な​い​。​ラ​ス​ト​で​は​と​っ​て​つ​け​た​よ​う​な​神​・​仏​の​空​虚​さ​ま​で​持​ち​出​さ​れ​る​が​、​リ​ア​王​同​様​、​7​5​歳​の​黒​澤​の​老​い​を​感​じ​る​。 (評価:2.5)

製作:松竹富士、廣済堂映像、ケイ・エンタープライズ
公開:1985年10月5日
監督:神代辰巳 製作:奥山和由、長良じゅん 脚本:高田純、神代辰巳 撮影:山崎善弘 美術:菊川芳江 音楽:井上堯之
キネマ旬報:6位

妾の淋しい人生を送る女を高橋恵子が演じるのは反則技
​ 連城三紀彦の同名直木賞受賞作が原作。
 ある日、夫の前に昔の恋人が現れ、白血病で半年の命しかないことを告げる。夫は独身だと偽り仕事もやめて看病、妻は夫の嘘に付き合い従姉として病室に見舞う。女同士、不思議な友情が芽生え始めるが、当然ながら嘘はバレていて、夫が彼女のために結婚式を挙げると言い出して元恋人は自殺未遂。妻は淋しく短い人生だった彼女に自分が後悔するからといって挙式させる。
 挙式が嘘とならないために妻は離婚届けを手渡し、受け取った夫はそれを最高のラブレターだと評するのがタイトルの由来。
 夫を愛するが故の妻の行為、彼を傷つけないために嘘を真にしてしまう元恋人の行動。知らぬは男ばかりなりで、子供じみた我が儘を二人の女に許されてしまう情けない男は、恋人の死後、戻ってほしいという妻の願いに背き、玄関の前で黙って踵を返すというラスト。ここに至ってようやく大人になるという、萩原健一にしかできない男を演じる。
 ストーリーは相当に破綻しているが、妾の淋しい人生を送る女をこれ以上の適役はないという高橋恵子が演じるという反則技と、萩原健一以上に男らしい倍賞美津子のさばけた演技で、神代辰巳がこれが愛の形だと力技でねじ伏せてしまう演出が見事。
 冒頭、やつれた顔の関根恵子が次第に生気を取り戻していくメイクもいい。
 倍賞美津子のかつてのボーイフレンドを演じる小林薫の俗っぽさも上手い。 (評価:2.5)

製作:東宝映画、アミューズシネマシティ
公開:1985年4月13日
監督:大林宣彦 製作:小倉斉、山本久、根本敏雄、出口孝臣 脚本:剣持亘、内藤忠司、大林宣彦 撮影:阪本善尚 音楽:瀬尾一三
キネマ旬報:5位

一番のさびしんぼうは大林宣彦自身だね
  山中恒の児童小説『なんだかへんて子』が原案。
 1970年前後の青春ドラマのようで、見ていると気恥ずかしい。それを何のてらいもなく映画にしてしまうところが大林宣彦の純朴さで、恋に恋する少年少女への憧憬を抱き続ける万年青年ぶりを如何なく発揮する。『時を掛ける少女』は大林の少女趣味が功を奏した作品だったが、主人公が少年となると女性崇拝癖とマザコンが一体となって、観ていて背中がむず痒くなる。
 悪戯小僧の少年や優しい大人たちの描写が微笑ましいくらいに類型的で、ノスタルジック・ファンタジーと名付けても良いくらい。これに尾道を美しく撮影した風景が観光映画と見紛うばかりに挿入され、ファンタジー色はいっそう強まる。
 登場人物たちが方言を使わずに標準語で話すのも、土着の要素を排除するため。美しい風景を切り取り、「別れの曲」をBGMに被せることでファンタジーの世界が広がるが、それは尾道で育った大林がすでに故郷を喪失し、故郷がノスタルジーの対象となっていることの証。この映画はそうした大林の「さびしんぼう」を描いている。
 公開当時、この尾道の美しさとノスタルジック・ファンタジーが受け入れられたのも事実で、それはたぶんに16歳だった富田靖子の可憐さに負うところが大きい。尾道では、フェリーで自転車通学をするというのも発見。 (評価:2.5)

製作:フジテレビ・博報堂・キネマ東京
公開:1985年7月20日
監督:市川崑 製作:鹿内春雄、奥本篤志、高橋松男 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 音楽:山本直純 美術:阿久根厳
キネマ旬報:8位

戦後40年たって水島上等兵は埴生の宿に戻れたのだろうか
 竹山道雄の同名児童小説が原作。1956年に映画化され、同じ市川崑監督によるリメイク。2年前に死んだ和田夏十の脚本での再映画化。
 どうしても前作と見比べてしまうが、戦争から10年後に制作されたものと戦後40年を経て制作されたものではどうしてもアナクロ感が残る。
 もともとが若干リアリティに欠く原作だが、1956年版には敗戦の気分の残る余韻と、戦争を経験した俳優たちが演じる迫力があって、設定上の細かい粗が気にならなかった。
 ところが本作では冒頭から設定上の粗が目に立ち、気になりだしたら止まらない。隊長を演じる平々凡々とした石坂浩二の平和ボケした演技が悪いのか、水島上等兵を演じる中井貴一の戦後民主主義的優等生がいけないのか、戦争を知らない子供たちが似非ヒューマニズムの戦争劇を上演しているようにしか見えない。
 戦争を知らない観客に向けた演技も演出も説明過剰な上に大袈裟で、戦争の悲惨を強調するためにさらにリアリティから遊離してしまう。
 戦後40年経って、戦争を知らない世代に向けた昔語りのために、1956年版とは別ヴァージョンを市川崑が作ってみたということで納得してあげるしかない。
 わざわざリメイクした本作の意味を挙げるとすれば、唯一つで、戦後40年、つまり60歳くらいになったであろう水島上等兵が、高度経済成長を遂げた日本とインドシナ戦争後のミャンマーという変貌したアジア中で、はたしてそのままミャンマーに居続けたのか、あるいは?埴生の宿である日本に帰郷ないしは里帰りしたのかという点だが、その答えを出すようには本作は作られていない。
 それがあれば、本作はまた違った評価を与えられる作品になったかもしれず、残念。
 前作と同じ役を演じた北林谷栄がただ一人、気炎を吐いている。 (評価:2.5)

製作:キノシタ映画
公開:1985年5月11日
監督:森崎東 製作:木下茂三郎 脚本:近藤昭二、森崎東、大原清秀 撮影:浜田毅 美術:高橋章 音楽:宇崎竜童
キネマ旬報:7位

社会派に向いていない森崎東の笑えないブラックコメディ
 沖縄出身の旅回りのヌードダンサー(倍賞美津子)が、高校を首になった教師(平田満)を連れて福島に巡業し、名古屋のヤクザから逃げた娼婦(上原由恵)と再会。原発事故の隠蔽工作に巻き込まれた娼婦は地元ヤクザに殺され、それを目撃したフィリピーナがヤクザに追われることに。
 一方、原発作業員で被曝したヌードダンサーの恋人(原田芳雄)は、仲間のヤクザ(小林稔侍)に娼婦殺害の罪を着るように強要され、乾坤一擲、フィリピーナを故国に帰してやるために猟銃でヤクザたちや地元刑事(梅宮辰夫)を迎撃して玉砕。フィリピーナは入管に出頭して強制送還され、ヌードダンサーがそれを見送るシーンで終わる・・・というストーリー。
 テーマとなるのは原発問題で、原発事故の隠蔽、原発作業員を送り込むヤクザ及び癒着する地元警察と制作当時の原発への不信が描かれる。
 これにコザ暴動を経験した沖縄の二人という、権力に虐げられた者たちが連帯して闘う反逆と抵抗が描かれるが、シナリオは粗雑な上に人物設定がよくわからないという欠陥を抱えていて、その上、監督が森崎東ということでコメディを目指しているのだが、笑いどころを相当に外したブラックコメディで少しも笑えないという寒い結果になっている。
 教師が学校を首になるきっかけとなる冒頭の修学旅行資金強奪のエピソードが全く不要で浮いている上に、ATG配給らしく沖縄問題、原発問題、不法残留外国人と相互に関連性の薄い社会問題にテーマを広げ過ぎていて、そもそも社会派作品に向いていない森崎東を起用したことで空中分解。わけのわからない作品にしてしまった。 (評価:2)

NINAGAWAマクベス

製作:東宝
公開:1985年3月
演出:蜷川幸雄 作:W・シェイクスピア 訳:小田島雄志

衣装・美術・照明は見事だが勘違いのジャポニズム新演劇
 シェイクスピアの『マクベス』(Macbeth)を蜷川幸雄氏が演出した舞台のライブ映像。国立文楽劇場で上演されたもの。
 日本の戦国時代に舞台を移しているが、内容、役名、台詞は原作のままというのが売りで、当時、話題となったが、映像で見ると、舞台の臨場感が欠けるためにかなり退屈する。
 そもそもが、設定と魔女も登場する原作通りの物語に違和感アリアリで、芝居に入り込めず、小田島雄志訳の台詞も芝居から浮いていて頭に入ってこず、棒読みの芝居を見せられているに近い。
 シェイクスピアを時代劇設定でやれば衣装も華やかでジャポニズムの新演劇になるだろうという制作意図が見え見えで、勘違いの異文化融合の発想が見てとれる。戦国時代に舞台を採った黒澤明『蜘蛛巣城』(1957)もあって、翻案では話題にならないからという理由はあったにしろ、新奇性だけが突出している。
 そうした台詞と芝居のチグハグさもあって、おそらく原作を知らないとストーリーが消化されないままに終わる。
 ラストまで見せ場の少ない第2部がとりわけ退屈。華やかな衣装と、巨大な障子などの美術・照明が見どころ。
 マクベスに平幹二朗、マクベス夫人に栗原小巻。 (評価:2)

製作:東映
公開:1985年10月10日
監督:伊藤俊也 脚本:松田寛夫 撮影:井口勇 美術:山下謙爾、小林勝美 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:10位

老人問題を通俗的な家族間の問題で味付けしたのがミソ
 元考古学者(千秋実)がアルツハイマーとなり、その妻(加藤治子)も病に倒れたため、長男(西郷輝彦)の嫁(十朱幸代)が義父の介護をするという物語。
 認知症を扱った作品としては有吉佐和子原作の映画『恍惚の人』(1973)が先駆けだが、介護する嫁が夫の浮気によりアルコール依存症となっていたり、小姑(野川由美子)が意地悪だったり、元考古学者の妻が嫁に嫉妬したりという通俗的な家族間の問題で味付けしているのがミソ。
 認知症の描き方が戯画的で、人への尊厳が感じられないのが見ていてやや不快で、家族たちの定型的な人物描写がキャッチコピーの「ボケて悔しい花いちもんめ」同様、東映的な大衆的わかりやすさに繋がっている。
 冒頭に老人の妻、ラストに長男の嫁が童歌の「花いちもんめ」を口ずさむが、遊びで誰からも選ばれずに最後に残る味噌っかすを認知症の老人に譬えているようにも思われるが、象徴的に使われている割には意味不明なのがマイナス。
 長男の嫁を老人が妻と思い込むのを利用して介護を続けるが、義父にキスをして通帳の名義を書き換えたことがきっかけで老人の妻が急死してしまうというエピソードも、それほどショックな出来事に思えないのがリアリティに欠けるところ。
 老人問題を昼メロにしてしまったことで、本来のテーマに迫ることができなかった。
 スーパー店長の長男の愛人が女子社員(中田喜子)というのも、工夫がなさ過ぎて何かな~という感じ。 (評価:2)

男はつらいよ 柴又より愛をこめて

製作:松竹
公開:1985年12月28日
監督:山田洋次 製作:島津清、中川滋弘 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

熟女・栗原小巻と元ポルノ女優・美保純の清純派対決
 寅さんシリーズの第36作。マドンナは栗原小巻で、式根島のハイミスの小学校教諭。『新・男はつらいよ』(1970)の幼稚園教諭以来15年ぶり、2度目。
 タコ社長の娘あけみ(美保純)が亭主と喧嘩して家出、下田にいるのを寅次郎が連れ戻しに行くというのが物語の発端で、あけみが何故それほど寅次郎がお気に入りなのかよくわからないと同時に、それなら離婚して寅次郎と結婚しろよと言いたくなるラブラブぶりで、どうにもシナリオが無理やり。
 さらにマドンナと引き合わせるための必然性のない式根島行きと、マドンナの元教え子たちとの意気投合がこれまた無理やりで、真打登場、栗原小巻。
 栗原小巻のべた付く演技は、寅次郎でなくとも誤解を招く罪作りな誘惑目線で、相手が寅次郎だけに上手いんだか下手なんだかよくわからない過剰演技に胃酸過多のげっぷが出る。
 その上、ストーリーの要請とはいえマドンナが虎屋にやってきて、寅次郎を惑わした上に、まさかの川谷拓三との結婚と、男の敵・栗原小巻の悪女ぶりが際立ち、清純派も薹が立つとただのカマトトという毒気を抜かれた作品になっている。
 式根島ではあけみが島の青年に惚れられるという、これまた罪作りな恋物語が並行するが、ロマンポルノ出身の美保純がむしろ初心な清純派に見えてしまい、熟女の元清純派・栗原小巻と好対照。それでも、式根島の露天風呂で期待に違わず遠景ながらヌードシーンを見せてくれるサービスが嬉しい。 (評価:2)

タンポポ

製作:伊丹プロダクション
公開:1985年11月23日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰、細越省吾 脚本:伊丹十三 撮影:田村正毅 美術:木村威夫 音楽:村井邦彦

歴史に名を残した泰明軒のタンポポオムライス
 『お葬式』に続いて制作されたコメディ作品で、テーマは食。
 タンポポは主人公の女の名で、亭主が死んでラーメン屋を引き継ぐものの素人調理師で上手くいかない。店を立て直すべく、なぜかトラック運転手の山崎努が指導するという物語で、要は食欲は人間の本能、金持ちもホームレスも万人が食のために生きているというのを万華鏡の如く描くが、話が拡散しすぎていて纏まりのない作品になっている。
 エンドロールは、人間生れたときから食欲が本能だという、母乳を飲む乳児というわかりやすい映像に重なる。
 『美味しんぼ』などがグルメブームを起こした頃の作品で、劇中での行列のできるラーメン店や、食事マナー講座などが登場し、サイドストーリーで花を添える。もっとも、このサイドストーリーが唐突に挟まれ、よくわからないままに放置されてしまうので、全体の物語構成上は何のために登場したのか意味不明。
 伊丹らしいシニカルも織り交ぜられ、マナー講座で講師(岡田茉莉子)に教えられたのに全員が音を立てて食べたり、フランス料理店でお偉方たちがメニューを読めずに右へ倣いの注文をしたりといったエピソードが描かれる。
 総花的作品の中で出演者も総花的で、加藤嘉、桜金造、大滝秀治、津川雅彦、井川比佐志、三田和代、大友柳太朗等に混じり、安岡力也、ギリヤーク尼ヶ崎、藤田敏八らも登場するが、渡辺謙、役所広司が若くて、一瞬誰だかわからない。
 劇中でホームレスが作るオムライスは、泰明軒のタンポポオムライスのメニューとなり、歴史に名を残した。 (評価:2)

製作:角川春樹事務所
公開:1985年9月14日
監督:澤井信一郎 製作:角川春樹、市村一三 脚本:那須真知子 撮影:仙元誠三 美術:桑名忠之 音楽:久石譲
キネマ旬報:9位

林隆三が蛸のように原田知世の唇に吸い付くシーンは必見
 澤井信一郎が『Wの悲劇』に続いて撮ったアイドル映画で、今回は原田知世。17歳の少女が背伸びをして大人の恋の真似事をして成長するという定型パターン。『Wの悲劇』が女優を目指す少女という目的型の話なら、こちらは恋そのものが目的だけに若干軽い。
 赤川次郎の原作なのでストーリー的には期待しない方がいいし、原田知世のアイドル映画と割り切って観た方が楽しめる。内容は原作とは大きく違うそうだが、せいぜい気になるのは、母の元彼の中年男・林隆三とのキスシーンで、キスは初めてだったかと林が言う台詞に不自然さを感じてしまい、原作はキスではなくセックスなのではないかと思うくらい。改めて原作を読もうという気にはならないほど通俗的な物語。
 原田は写真部の女子高生で、1年前に母と死別。父(田中邦衛)は後妻(由紀さおり)を娶ろうとしていて、多感な心が揺れ動くという設定。鎌倉の町でたまたま知り合った中年男に魅かれ、大学生だと偽って追いかけ回すうちに母の遺した写真から元彼であることを知る。二人の出会いと関係を探ろうとして箱根にデート。写真を渡して追及する。
 中年男はそこそこ分別があって、仕事の失敗から会社を辞め、成田に見送りに来た少女に好きだと言って海外に去る。このラストシーンが同じ赤川次郎原作の角川映画『探偵物語』(1983)と似ているというのはご愛嬌。
 よくわからないのは本作の立ち位置で、原作本を売るための映画化としても、18歳の原田知世のアイドル映画には違いない。その割には無理して大人ぶる原田がそれほど魅力的ではなく、おまけに林との2度目のキスシーンでは堅く唇を閉ざし、林が蛸のように執拗に吸い付くのが、いたぶっているようで嫌らしく、ファンならドン引く。あれはわざとか?
 林隆三が上手く、全体には清純な女子高生をガールフレンドにしたいオジサンのための映画。少女の友達に仙道敦子。 (評価:2)

男はつらいよ 寅次郎恋愛塾

製作:松竹
公開:1985年8月3日
監督:山田洋次 製作:島津清、中川滋弘 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

60年代の東宝喜劇を見ているタイムスリップ感
 寅さんシリーズの第35作。マドンナは樋口可南子で、祖母に育てられた孫娘の写植オペレーター。
 五島で老婆の家に宿泊すると老婆が急死。幼い頃に母が自殺した孫娘だけが身寄りで、東京からやってきた娘と知り合い、東京で再会するというパターン。
 弔休で会社と喧嘩して失業した娘のために寅が骨を折ってやるうちに、彼女を好きな司法試験浪人生(平田満)との仲を取り持つはずが、失恋したと思い込んだ青年が秋田に帰省してと、これもパターンだが、自殺するんじゃないかとみんなで秋田に向かうという大騒動とかなり極まった展開。
 これだけならマンネリ作で終わるところが、それを避けようとしてドタバタにしたのがイケナイ。変なSEまで入れては、人情喜劇が売りの『男はつらいよ』の雰囲気ぶち壊しで、60年代の東宝喜劇を見ているようなタイムスリップ感がある。
 やめたくてもやめられない寅さんシリーズの山田洋次の苦悩というべきか、錯乱というべきか。 (評価:1.5)

ドレミファ娘の血は騒ぐ

製作:EPICソニー、ディレクターズ・カンパニー
公開:1985年11月3日
監督:黒沢清 脚本:黒沢清、万田邦敏 撮影:瓜生敏彦 美術:星埜恵子 音楽:東京タワーズ、沢口晴美

アバンギャルドを気取った出来損ないのゴダール
 田舎娘の少女(洞口依子)が大学生の婚約者(加藤賢崇)を訪ねて上京、大学キャンパスにやって来るという設定で、遊び呆けていたり、部室でセックスしたりしている学生を見て、これが大学かと納得。
 ピンクな女子学生(麻生うさぎ)と婚約者探しを始めるが、婚約者は少女との約束を忘れて放埓な姿に変わり果て、少女が呆れて大学を去ろうとすると、婚約者のゼミの心理学教授(伊丹十三)に呼び止められる。
 教授は恥じらいについて研究していて、学生たちを使った実験では恥ずかしさよりも快楽が優先してしまい、恥じらいのある少女が研究材料には最適と協力を求める。
 寝台に全裸にして実験を始めるが、疲れて寝てしまう。少女は教室を出て、ゼミの学生たちと戦争ごっこを始めるというラスト。
 性的な恥ずかしさとは何かというピンクらしいテーマ設定があるような、ないような。
 ストーリーに脈絡がなく、放縦な大学生たちを刹那的に描くという、まるでゴダールを真似したような作品だが、アバンギャルドを気取っているだけで性描写以外に刺激的なものはなく、退屈なだけ。出来損ないのゴダールといった感がする。 (評価:1.5)