日本映画レビュー──1962年
製作:松竹京都
公開:1962年9月16日
監督:小林正樹 製作:細谷辰雄 原作:滝口康彦 脚本:橋本忍 撮影:宮島義勇 美術:大角純一、戸田重昌 音楽:武満徹
キネマ旬報:3位
毎日映画コンクール大賞
三國連太郎のちょんまげ姿は今一つ似合わない
滝口康彦の小説『異聞浪人記』が原作。彦根藩井伊家江戸屋敷を舞台に、浪人となった広島藩福島家元家臣の切腹を巡って物語が展開するが、井伊家家老(三國連太郎)と老いた浪人(仲代達矢)二人の会話劇が大半を占める。
時代設定は寛永7年(1630)で藩主は直孝だが、本作の基となる切腹のエピソードはその子・直澄(万治2年~延宝4年)の時代のもの。外様の福島家は徳川秀忠の嫌がらせを受けた挙句、信州に転封された元和5年の11年後で、家臣らは浪人となって食い詰めている。
二人の会話劇の中から、仲代の息子婿が妻子の病のために、当時流行していた大名屋敷の前で切腹をするといって脅して仕官か金銭を求めるために井伊家に行く。ところが、家老は両差しが竹光と知りながら懲らしめのために切腹させ、悲惨な死に方をした男を三人の武勇高き家臣に家に届けさせる。
娘と孫が死に、仲代は復讐のために井伊家家臣三人を襲い、武士の魂ともいうべき髷を切り落とし、井伊家に切腹すると言って訪れる。委細を語った後で謝罪の言葉を期待するが、家老は表沙汰になることを恐れて仲代を殺そうとする。仲代は大暴れした挙句に討ち死にするが、家老は死んだり怪我をした者は病気扱いにし、仲代は切腹として揉み消す。
井伊家の奥座敷には武具・具足を飾った赤備えがあり、武士道を象徴するが、関ケ原の合戦から30年が経ち、井伊家の武士道が形骸化し、武士の情けが失われたことがテーマとなっている。
打ち明け話を軸にしたミステリー仕立ての復讐劇で、エンタテイメントとしても時代劇としても一級の作品。テーマの武士道も、体面や建前に拘って腐敗していく組織に共通するもので、今なお現代性を持ち続けている。
仲代達矢と三國連太郎の演技が中心で見応えたっぷり。画面を傾けた煽りなど、宮島義勇のカメラワークも迫力があり、武満徹の雅楽風の音楽も含めて完成度が高い。
仲代の娘に岩下志麻、婿に石濱朗。丹波哲郎、三島雅夫などを揃えた本格作品。しかし、三國連太郎のちょんまげ姿は今一つ似合わない。 (評価:4)

公開:1962年9月16日
監督:小林正樹 製作:細谷辰雄 原作:滝口康彦 脚本:橋本忍 撮影:宮島義勇 美術:大角純一、戸田重昌 音楽:武満徹
キネマ旬報:3位
毎日映画コンクール大賞
滝口康彦の小説『異聞浪人記』が原作。彦根藩井伊家江戸屋敷を舞台に、浪人となった広島藩福島家元家臣の切腹を巡って物語が展開するが、井伊家家老(三國連太郎)と老いた浪人(仲代達矢)二人の会話劇が大半を占める。
時代設定は寛永7年(1630)で藩主は直孝だが、本作の基となる切腹のエピソードはその子・直澄(万治2年~延宝4年)の時代のもの。外様の福島家は徳川秀忠の嫌がらせを受けた挙句、信州に転封された元和5年の11年後で、家臣らは浪人となって食い詰めている。
二人の会話劇の中から、仲代の息子婿が妻子の病のために、当時流行していた大名屋敷の前で切腹をするといって脅して仕官か金銭を求めるために井伊家に行く。ところが、家老は両差しが竹光と知りながら懲らしめのために切腹させ、悲惨な死に方をした男を三人の武勇高き家臣に家に届けさせる。
娘と孫が死に、仲代は復讐のために井伊家家臣三人を襲い、武士の魂ともいうべき髷を切り落とし、井伊家に切腹すると言って訪れる。委細を語った後で謝罪の言葉を期待するが、家老は表沙汰になることを恐れて仲代を殺そうとする。仲代は大暴れした挙句に討ち死にするが、家老は死んだり怪我をした者は病気扱いにし、仲代は切腹として揉み消す。
井伊家の奥座敷には武具・具足を飾った赤備えがあり、武士道を象徴するが、関ケ原の合戦から30年が経ち、井伊家の武士道が形骸化し、武士の情けが失われたことがテーマとなっている。
打ち明け話を軸にしたミステリー仕立ての復讐劇で、エンタテイメントとしても時代劇としても一級の作品。テーマの武士道も、体面や建前に拘って腐敗していく組織に共通するもので、今なお現代性を持ち続けている。
仲代達矢と三國連太郎の演技が中心で見応えたっぷり。画面を傾けた煽りなど、宮島義勇のカメラワークも迫力があり、武満徹の雅楽風の音楽も含めて完成度が高い。
仲代の娘に岩下志麻、婿に石濱朗。丹波哲郎、三島雅夫などを揃えた本格作品。しかし、三國連太郎のちょんまげ姿は今一つ似合わない。 (評価:4)

製作:日活
公開:1962年04月08日
監督:浦山桐郎 脚本:今村昌平、浦山桐郎 撮影:姫田真佐久 音楽:黛敏郎 美術:中村公彦
キネマ旬報:2位
ブルーリボン作品賞
真の主役は小学生のタカユキと在日のサンキチ
浦山桐郎の監督デビュー作。共同脚本に今村昌平、音楽・黛敏郎、撮影・姫田真佐久という本格的布陣。配役陣も実力派が揃っている。原作は早船ちよの同名小説。
キューポラは鋳鉄工場で使われる円筒形の溶銑炉のことで、本作の舞台は川口。制作当時、川口は鋳物工場の町として有名だった。主人公の一家は長屋に暮らし、父親(東野英治郎)は鋳物工場の職人、妻(杉山徳子)との間に吉永小百合、市川好郎、岩城亨、生まれたばかりの赤ん坊と、貧乏人の子沢山一家。物語は父親の失業と中学生の吉永の高校進学を軸に話は進む。
吉永が一応の主役だが、本作の真の主役は小学生の弟(市川)。彼と同級生の在日朝鮮人(森坂秀樹)のエピソードが、本作を秀作にした。
東野と吉永は戦後映画界で流行った単なるプロレタリアートの話に過ぎない。貧しくも清く逞しく生きる美少女。吉永は高校進学を諦め、働きながら夜間高校に進むことに誇りを見い出す。
このパターン化した物語に、浦山と今村が魅力を感じたのかどうか不明だが、森坂が北朝鮮に帰るシーンで終わっていることからも、真の狙いは少年二人の友情にあったのではないか。
本作を久し振りに観直したが、吉永の話の記憶は希薄で、少年二人の物語をよく記憶していた。そういった視点で本作を観直すと、二人は差別と偏見を乗り越えた親友で、共に貧しく、小遣い稼ぎをし、悪戯を働き、喧嘩する。悲しいのは二人が牛乳泥棒をする配達の少年(手塚央)も母親の薬代稼ぎに働いていたことで、森坂は北朝鮮に帰るときになって、市川に牛乳代を渡してくれるように頼む。
森坂は日本人の母(菅井きん)を残して、朝鮮籍の父(浜村純)、姉(鈴木光子)ととも祖国に帰ることになる。ところが新潟に向かう列車の中で里心がつき、一人川口に戻る。しかし母は別の男と姿を消した後で、森坂は在日の家庭に引き取られながら、再び北朝鮮へと向かう。その列車を陸橋から市川と吉永が見送るのが秀逸なラストシーンで、クレーンカメラによるワンショットで、アップから陸橋を帰っていく姉弟を追いかけながら、カメラはキューポラのある町の全景をとらえる。
市川と森坂は子役ながら他を圧倒する好演で、小西徳郎の物真似やスカートめくりなど当時の子供の姿そのまま。一方で、森坂を朝鮮人参とからかう級友たちに反発する市川は、理屈ではない真の人間愛を示す。
祖国帰国運動について、本作は肯定も否定もしていない。後に明らかになった、北朝鮮への帰国者たちが舐めた辛酸を考えれば、この事実のみを描いた制作態度によって本作は歴史の評価に耐えられるものとなった。
当時を思い起こせば、本作はプロレタリア色の強い映画ながら、一つの時代を記録している。 (評価:3.5)

公開:1962年04月08日
監督:浦山桐郎 脚本:今村昌平、浦山桐郎 撮影:姫田真佐久 音楽:黛敏郎 美術:中村公彦
キネマ旬報:2位
ブルーリボン作品賞
浦山桐郎の監督デビュー作。共同脚本に今村昌平、音楽・黛敏郎、撮影・姫田真佐久という本格的布陣。配役陣も実力派が揃っている。原作は早船ちよの同名小説。
キューポラは鋳鉄工場で使われる円筒形の溶銑炉のことで、本作の舞台は川口。制作当時、川口は鋳物工場の町として有名だった。主人公の一家は長屋に暮らし、父親(東野英治郎)は鋳物工場の職人、妻(杉山徳子)との間に吉永小百合、市川好郎、岩城亨、生まれたばかりの赤ん坊と、貧乏人の子沢山一家。物語は父親の失業と中学生の吉永の高校進学を軸に話は進む。
吉永が一応の主役だが、本作の真の主役は小学生の弟(市川)。彼と同級生の在日朝鮮人(森坂秀樹)のエピソードが、本作を秀作にした。
東野と吉永は戦後映画界で流行った単なるプロレタリアートの話に過ぎない。貧しくも清く逞しく生きる美少女。吉永は高校進学を諦め、働きながら夜間高校に進むことに誇りを見い出す。
このパターン化した物語に、浦山と今村が魅力を感じたのかどうか不明だが、森坂が北朝鮮に帰るシーンで終わっていることからも、真の狙いは少年二人の友情にあったのではないか。
本作を久し振りに観直したが、吉永の話の記憶は希薄で、少年二人の物語をよく記憶していた。そういった視点で本作を観直すと、二人は差別と偏見を乗り越えた親友で、共に貧しく、小遣い稼ぎをし、悪戯を働き、喧嘩する。悲しいのは二人が牛乳泥棒をする配達の少年(手塚央)も母親の薬代稼ぎに働いていたことで、森坂は北朝鮮に帰るときになって、市川に牛乳代を渡してくれるように頼む。
森坂は日本人の母(菅井きん)を残して、朝鮮籍の父(浜村純)、姉(鈴木光子)ととも祖国に帰ることになる。ところが新潟に向かう列車の中で里心がつき、一人川口に戻る。しかし母は別の男と姿を消した後で、森坂は在日の家庭に引き取られながら、再び北朝鮮へと向かう。その列車を陸橋から市川と吉永が見送るのが秀逸なラストシーンで、クレーンカメラによるワンショットで、アップから陸橋を帰っていく姉弟を追いかけながら、カメラはキューポラのある町の全景をとらえる。
市川と森坂は子役ながら他を圧倒する好演で、小西徳郎の物真似やスカートめくりなど当時の子供の姿そのまま。一方で、森坂を朝鮮人参とからかう級友たちに反発する市川は、理屈ではない真の人間愛を示す。
祖国帰国運動について、本作は肯定も否定もしていない。後に明らかになった、北朝鮮への帰国者たちが舐めた辛酸を考えれば、この事実のみを描いた制作態度によって本作は歴史の評価に耐えられるものとなった。
当時を思い起こせば、本作はプロレタリア色の強い映画ながら、一つの時代を記録している。 (評価:3.5)

製作:東宝、黒沢プロダクション
公開:1962年01月01日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明 撮影:小泉福造、斎藤孝雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:5位
剣劇か?コメディか?中途半端な黒澤リアリズム
黒澤作品には珍しいコメディタッチの時代劇。ただ残念ながらコメディは得手ではなかったようで、完全主義者の黒澤らしく計算された脚本のジョークも実際の演出では空振りしていて、白ける。もともと堀川弘通のために書かれ、お蔵入りとなった山本周五郎原作『日日平安』の脚本を手直ししたもので、劇中の侍・小林桂樹がその名残を好演しているが、三船敏郎にコメディを演じさせるのは無理がある。
設定とストーリーには随所にコメディ的な要素があるが、殺陣を含めた全体の演出はリアルなために、それがご都合主義の粗に見えてしまうのが残念。結局、剣劇なのかコメディなのかどっちつかずの印象が残る。黒澤演出の焦眉は、三船と仲代達矢のラスト決闘シーンの血しぶき。
その他出演陣に入江たか子、団令子、志村喬、伊藤雄之助。若大将の加山雄三と青大将の田中邦衛が1961年からの「若大将シリーズ」を彷彿とさせる好対照を演じているのも見どころか。 (評価:3)

公開:1962年01月01日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明 撮影:小泉福造、斎藤孝雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:5位
黒澤作品には珍しいコメディタッチの時代劇。ただ残念ながらコメディは得手ではなかったようで、完全主義者の黒澤らしく計算された脚本のジョークも実際の演出では空振りしていて、白ける。もともと堀川弘通のために書かれ、お蔵入りとなった山本周五郎原作『日日平安』の脚本を手直ししたもので、劇中の侍・小林桂樹がその名残を好演しているが、三船敏郎にコメディを演じさせるのは無理がある。
設定とストーリーには随所にコメディ的な要素があるが、殺陣を含めた全体の演出はリアルなために、それがご都合主義の粗に見えてしまうのが残念。結局、剣劇なのかコメディなのかどっちつかずの印象が残る。黒澤演出の焦眉は、三船と仲代達矢のラスト決闘シーンの血しぶき。
その他出演陣に入江たか子、団令子、志村喬、伊藤雄之助。若大将の加山雄三と青大将の田中邦衛が1961年からの「若大将シリーズ」を彷彿とさせる好対照を演じているのも見どころか。 (評価:3)

製作:松竹大船
公開:1962年6月15日
監督:吉田喜重 製作:白井昌夫、岡田茉莉子 脚本:吉田喜重 撮影:成島東一郎 美術:浜田辰雄 音楽:林光
キネマ旬報:10位
岡田茉莉子の熱演と美しさと哀愁に満ちた映像が見どころ
藤原審爾の同名小説が原作。
岡山県奥津温泉をモデルに、旅館の一人娘と文学青年との結ばれぬ愛を描くメロドラマ。吉田喜重の松竹時代の作品で、本作を契機に主演の岡田茉莉子と結婚している。
終戦間際、死に場所と定めて故郷の秋津にやってきた青年・周作(長門裕之)が、投宿中に結核で倒れるが、17歳の旅館の娘・新子(岡田茉莉子)の必死の看病で命を取り留める。3年後、再びやってきた周作は生きることに絶望し新子を心中に誘うが、彼女の若い息吹がそれを拒絶、心中は未遂に終わる。
3年後、母が死んで新子が女将を継いだ旅館に周作が現れ、文学仲間の妹と結婚したことを告げる。さらに4年後、東京に出ることを告げに来た周作と初めて関係を持った新子は、喜びに津山駅まで追いかけてくるが、周作は東京に去ってしまう。
旅館と故郷の頸木を断てない新子と、周作にその思いを受け入れてもらえない別れのシーンで、本作最大のクライマックスとなる。
7年後、周作が仕事で秋津にやってくるが、旅館を手放し、男を待つだけの17年に疲れた新子は周作に心中を持ちかける。しかし俗悪な都会に染まった周作は新子の肉体だけを求め、新子の純情を踏みにじる。
ラストは新子が自殺し、その亡骸を周作が抱くシーンで終わる。
土地と家に縛り付けられ、恋を成就することもできずに無為な人生を送ることになった新子の悲恋物語で、しかも彼女が恋焦がれた男が退廃して彼女の恋情そのものを空虚にしていく姿が哀しく、その悲しみを演じる岡田茉莉子の熱演が光る。
吉田喜重らしい美しさと哀愁に満ちた映像が見どころで、成島東一郎のカメラワークが冴えている。 (評価:2.5)

公開:1962年6月15日
監督:吉田喜重 製作:白井昌夫、岡田茉莉子 脚本:吉田喜重 撮影:成島東一郎 美術:浜田辰雄 音楽:林光
キネマ旬報:10位
藤原審爾の同名小説が原作。
岡山県奥津温泉をモデルに、旅館の一人娘と文学青年との結ばれぬ愛を描くメロドラマ。吉田喜重の松竹時代の作品で、本作を契機に主演の岡田茉莉子と結婚している。
終戦間際、死に場所と定めて故郷の秋津にやってきた青年・周作(長門裕之)が、投宿中に結核で倒れるが、17歳の旅館の娘・新子(岡田茉莉子)の必死の看病で命を取り留める。3年後、再びやってきた周作は生きることに絶望し新子を心中に誘うが、彼女の若い息吹がそれを拒絶、心中は未遂に終わる。
3年後、母が死んで新子が女将を継いだ旅館に周作が現れ、文学仲間の妹と結婚したことを告げる。さらに4年後、東京に出ることを告げに来た周作と初めて関係を持った新子は、喜びに津山駅まで追いかけてくるが、周作は東京に去ってしまう。
旅館と故郷の頸木を断てない新子と、周作にその思いを受け入れてもらえない別れのシーンで、本作最大のクライマックスとなる。
7年後、周作が仕事で秋津にやってくるが、旅館を手放し、男を待つだけの17年に疲れた新子は周作に心中を持ちかける。しかし俗悪な都会に染まった周作は新子の肉体だけを求め、新子の純情を踏みにじる。
ラストは新子が自殺し、その亡骸を周作が抱くシーンで終わる。
土地と家に縛り付けられ、恋を成就することもできずに無為な人生を送ることになった新子の悲恋物語で、しかも彼女が恋焦がれた男が退廃して彼女の恋情そのものを空虚にしていく姿が哀しく、その悲しみを演じる岡田茉莉子の熱演が光る。
吉田喜重らしい美しさと哀愁に満ちた映像が見どころで、成島東一郎のカメラワークが冴えている。 (評価:2.5)

忍びの者
公開:1962年12月01日
監督:山本薩夫 製作:永田雅一 脚本:高岩肇 撮影:竹村康和 音楽:渡辺宙明 美術:内藤昭
村山知義の同名時代小説が原作。小説は『赤旗』日曜版に連載されたが、利用される下層民の下忍たちの抵抗を描く。監督は山本薩夫。
『三匹の侍』(1964)同様、それまでのチャンバラ時代劇にリアリズムを持ち込んだ忍者映画で、猿飛佐助や真田十勇士の忍術エンタテイメントから、忍者を通して底辺に生きる人間を描く社会派歴史ドラマとなっている。これに先鞭をつけたのは貸本漫画の白土三平『忍者武芸帳』で、『カムイ伝』『カムイ外伝』に繋がっていくが、「忍びの者」という言葉の響きが、当時新鮮だった。
主人公は石川五右衛門(市川雷蔵)で、百地三太夫(伊藤雄之助)の配下にいる下忍。三太夫は織田信長(若山富三郎)の戦国統一を阻止するため暗殺を企てていたがことごとく失敗。五右衛門を計略にかけ、信長暗殺を命じる。京に上った五右衛門は三太夫の計略を知り暗殺をサボタージュするが、惚れた遊女(藤村志保)を人質にとられ安土城にいくが暗殺に失敗。信長は伊賀を滅ぼしにかかる。
物語上、三太夫と敵対する藤林長門守が同一人物で、なぜ装ったのかがラストまで説明されないのが不満。ストーリーも後半、若干だれる。
石川五右衛門は盗賊で有名な実在の人物だが、抜け忍かどうかは不明。忍者走りや、クイックな動き、忍者屋敷の仕掛けなど、映像的にも楽しい。
岸田今日子、西村晃、加藤嘉と演技派も揃っている。 (評価:2.5)

製作:大映東京
公開:1962年12月26日
監督:川島雄三 脚本:新藤兼人 撮影:宗川信夫 音楽:池野成 美術:柴田篤二
キネマ旬報:6位
芸達者たちが見事な演技を見せるシニカルな舞台劇
監督・川島雄三+主演・若尾文子、新藤兼人が脚本のブラックコメディ。
元海軍少佐が一家の大黒柱という詐欺師一家の物語で、父親は商才がなく事業も博打も投資も失敗続き。娘を人気作家の2号にして借金を踏み倒し、息子に知恵をつけて一家を支えるために勤め先の芸能プロの集金を横領。作家の名刺で金を集め銀座のクラブで豪遊。ところが上手なのは、色仕掛けで息子が横領した金を貢がせて旅館の建設資金にした母子家庭の経理係。生活のためならと芸能プロ社長・税理士・税務署の役人とも寝て、金をむしり取る。
この小気味のいい悪女を若尾文子が演じ、社長に高松英郎、役人に船越英二。詐欺師一家の夫婦を伊藤雄之助・山岡久乃が演じ、アパートからカメラが動かないという完全な舞台劇で、芸達者たちが見事な演技を見せてくれる。
舞台劇を意識したカメラワークが抜群で、極端な俯瞰・煽り・引き等を駆使して、登場人物たちの心理を巧みに描写する。演出と演技だけをとれば玄人好みの素晴らしい作品で、唯一心象風景として描かれる長くて白い階段シーンは前衛的ですらあるが、真面目な人間だけがバカを見る世の中という、世界を斜めに見たシニカルな作品が佳作になり得るかというのは難しい。
小沢昭一、ミヤコ蝶々も出演。見て損はない作品で女性なら溜飲が下がる。 (評価:2.5)

公開:1962年12月26日
監督:川島雄三 脚本:新藤兼人 撮影:宗川信夫 音楽:池野成 美術:柴田篤二
キネマ旬報:6位
監督・川島雄三+主演・若尾文子、新藤兼人が脚本のブラックコメディ。
元海軍少佐が一家の大黒柱という詐欺師一家の物語で、父親は商才がなく事業も博打も投資も失敗続き。娘を人気作家の2号にして借金を踏み倒し、息子に知恵をつけて一家を支えるために勤め先の芸能プロの集金を横領。作家の名刺で金を集め銀座のクラブで豪遊。ところが上手なのは、色仕掛けで息子が横領した金を貢がせて旅館の建設資金にした母子家庭の経理係。生活のためならと芸能プロ社長・税理士・税務署の役人とも寝て、金をむしり取る。
この小気味のいい悪女を若尾文子が演じ、社長に高松英郎、役人に船越英二。詐欺師一家の夫婦を伊藤雄之助・山岡久乃が演じ、アパートからカメラが動かないという完全な舞台劇で、芸達者たちが見事な演技を見せてくれる。
舞台劇を意識したカメラワークが抜群で、極端な俯瞰・煽り・引き等を駆使して、登場人物たちの心理を巧みに描写する。演出と演技だけをとれば玄人好みの素晴らしい作品で、唯一心象風景として描かれる長くて白い階段シーンは前衛的ですらあるが、真面目な人間だけがバカを見る世の中という、世界を斜めに見たシニカルな作品が佳作になり得るかというのは難しい。
小沢昭一、ミヤコ蝶々も出演。見て損はない作品で女性なら溜飲が下がる。 (評価:2.5)

公開:1962年1月3日
監督:今井正 製作:市川喜一 脚本:水木洋子 撮影:中尾駿一 美術:江口準次 音楽:渡辺宙明
キネマ旬報:9位
映画での題字は『にっぽんのお婆ぁちゃん』と、「あ」が小さい。
どら焼きを盗み食いした疑いを掛けられ、遺書を残して養老院を失踪したくみ(北林谷栄)が、浅草・仲見世のレコード屋の前で橋幸夫の「木曽節三度笠」を試聴していた自殺志願のサト(ミヤコ蝶々)と意気投合。老婆二人が互いに相手の事情を知らぬままに楽しい一日を過ごす喜劇。
51歳・北林谷栄の堂に入った老婆ぶりが最大の見どころで、フケ女優の本領を発揮する。冒頭、「木曽節三度笠」の振り付けが絶品。
観音様にお参りした後、観音通りあたりでチンピラと喧嘩。それを見ていた鮒忠の女店員(十朱幸代)と仲良くなり店で食事。洋品店などを冷かしたり化粧品セールスマン(木村功)と出会ったりしているうちに夕方となり、吾妻橋の上でサトが事情を告白。ならばと二人で道路に飛び出し自殺を図るが失敗。鮒忠の社員寮を経て、それぞれの元の住み家に帰る。
一言でいえば現代版姥捨ての物語で、終盤サトが息子夫婦(渡辺文雄、関千恵子)の団地に帰ってからのエピソードがシリアスすぎて、それまでの楽しさを帳消しにしてしまうが、今井正+水木洋子の社会派コンビなので致し方ない。
ラストは、たまたま養老院に戻ったくみの元気な姿をテレビで見て、サトが養老院行きを決意する所で終わる。
養老院だけに入所者に飯田蝶子、浦辺粂子、東山千栄子、原泉、殿山泰司、上田吉二郎、左卜全、伴淳三郎と芸達者が揃い、安心して楽しめる。 (評価:2.5)

製作:松竹大船
公開:1962年11月18日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順
キネマ旬報:8位
女が男に尽くす時代は終わったという60年代の物語
小津安二郎の最後の作品。カメラワーク、編集等、映像的に小津の様式美がすべてにおいて完成されているが、テーマ的には父と娘の関係を描いて代わり映えがしない。
妻に先立たれた父(笠智衆)が婚期を迎えた娘(岩下志麻)を嫁に出すかどうかで悩む話で、友人で娘の上司の中村伸郎が心配して縁談を勧める。中学の恩師・東野英治郎がかつて似たような境遇にあって、父の世話をしていた娘(杉村春子)が行かず後家となっていることを知り、娘を嫁に出す決心をするという物語で、脚本もよくできていて、笠智衆の演技もあってほのぼの、しんみりとする話に仕上がっている。
やもめの父のために娘が身の回りの世話をして犠牲になるという設定自体が現代感覚からは相当にかけ離れていて、それで良しとする父や男兄弟、娘自身に唖然とするが、弟までが姉に身の回りの世話をしてもらっている様子に、そういえば半世紀前の日本はそれが当たり前だったかもしれないと古い記憶をたどる。
30年ほど前に九州の若い女性の口から似たような男尊女卑の風習が当然のように語られ、疑問にも思っていないことを知って愕然としたことがあるが、地方によっては今でもそうなのかもと思うと、あながち過去の作品と切り捨てるわけにはいかないのかもしれない。
ただ個人的には、娘を遊女に出そうが下女に使おうが親の裁量という旧習は過去のものと考えているので、この作品を見る時に改めて時代性を感じてしまうのだが、少なくとも小津はそれを否定していて、父は自分勝手を反省して、娘の意思を尊重して好きな相手と娶せようとする。
そこに変わっていく時代、古い殻から抜け出せない日本社会への人間尊重のソフトなメッセージを小津が込めたと考えれば、小津らしい家族問題のドラマといえるが、やはり現代にはなかなか通じない過去の物語となっている。
笠が亡妻の面影を見出すバーのママに岸田今日子。息子夫婦に佐田啓二、岡田茉莉子。みすぼらしい恩師役の東野英治郎が上手い。 (評価:2.5)

公開:1962年11月18日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順
キネマ旬報:8位
小津安二郎の最後の作品。カメラワーク、編集等、映像的に小津の様式美がすべてにおいて完成されているが、テーマ的には父と娘の関係を描いて代わり映えがしない。
妻に先立たれた父(笠智衆)が婚期を迎えた娘(岩下志麻)を嫁に出すかどうかで悩む話で、友人で娘の上司の中村伸郎が心配して縁談を勧める。中学の恩師・東野英治郎がかつて似たような境遇にあって、父の世話をしていた娘(杉村春子)が行かず後家となっていることを知り、娘を嫁に出す決心をするという物語で、脚本もよくできていて、笠智衆の演技もあってほのぼの、しんみりとする話に仕上がっている。
やもめの父のために娘が身の回りの世話をして犠牲になるという設定自体が現代感覚からは相当にかけ離れていて、それで良しとする父や男兄弟、娘自身に唖然とするが、弟までが姉に身の回りの世話をしてもらっている様子に、そういえば半世紀前の日本はそれが当たり前だったかもしれないと古い記憶をたどる。
30年ほど前に九州の若い女性の口から似たような男尊女卑の風習が当然のように語られ、疑問にも思っていないことを知って愕然としたことがあるが、地方によっては今でもそうなのかもと思うと、あながち過去の作品と切り捨てるわけにはいかないのかもしれない。
ただ個人的には、娘を遊女に出そうが下女に使おうが親の裁量という旧習は過去のものと考えているので、この作品を見る時に改めて時代性を感じてしまうのだが、少なくとも小津はそれを否定していて、父は自分勝手を反省して、娘の意思を尊重して好きな相手と娶せようとする。
そこに変わっていく時代、古い殻から抜け出せない日本社会への人間尊重のソフトなメッセージを小津が込めたと考えれば、小津らしい家族問題のドラマといえるが、やはり現代にはなかなか通じない過去の物語となっている。
笠が亡妻の面影を見出すバーのママに岸田今日子。息子夫婦に佐田啓二、岡田茉莉子。みすぼらしい恩師役の東野英治郎が上手い。 (評価:2.5)

早乙女家の娘たち
公開:1962年9月8日
監督:久松静児 製作:藤本真澄、宇佐美仁 脚本:堀江史郎、樫村三平 撮影:飯村正 美術:清水喜代志 音楽:斎藤一郎
壷井栄の小説『どこかでなにかが』が原作。
両親を亡くして次女が母親代わりに弟妹の面倒を見ている、サオトメ家ではなくソウトメ家の物語。
中学生の長男が不良仲間に誘われてオカアサンがヤキモキするという話を軸に、三女の恋愛話と行かず後家のオカアサンの縁談が絡む。
ネリカン、愚連隊、歌声喫茶と懐かしい言葉が並び、当時の東京近郊の庶民生活の風景がまざまざと甦る。所作や会話、表情などの細かい演技までを丹念に演出する、久松静児らしいリアリズムが大きな見どころ。チョイ役の松村達雄の巡査、ネリカン少年、トラックの青年、汁粉屋の小母さんも当時の空気を呼び覚ます。
美人姉妹の次女を香川京子、三女を白川由美、四女を田村奈巳、長女を津島恵子が演じるが、誠実だが不器用な次女役の香川京子と、おきゃんで可愛い四女役の田村奈巳がいい。
質素な生活の中で両親を失った姉妹が互いに支え合いながらもそれぞれの幸せを願う姿が今から見ると羨ましいほどに清々しく、そうした懐かしき良き時代への郷愁を感じさせてくれる作品で、弟の担任教師(小林桂樹)が早乙女家に寄宿して、弟の更生と次女との結婚を予感させる予定調和のラストシーンも、むしろ心が和むハッピーエンドとなっている。 (評価:2.5)

雁の寺
公開:1962年01月21日
監督:川島雄三 製作:永田雅一 脚本:舟橋和郎、川島雄三 撮影:村井博 音楽:池野成 美術:西岡善信
水上勉の同名の直木賞受賞作が原作。
川島雄三+若尾文子コンビなので、それなりに安心して観られる作品。若尾は禅寺の住職の内妻を演じ、29歳の脂の乗った艶っぽさを見せる。
物語は水上の実体験を基にしたもので、水上がモデルである主人公の小僧の目を通して禅寺の堕落ぶりが描かれる。
捨て子の慈念は乞食谷の夫婦に拾われるが、口減らしのために禅寺に奉公に出される。住職(三島雅夫)は慈念をこき使い、寺の雁の襖絵を描いた絵師(中村鴈治郎)の遺言により、その妾(若尾文子)を寺に囲うという生臭。
慈念の生い立ちに同情した内妻と情交するが、内妻に恋し、住職への恨みを募らせた慈念は一計を巡らす。この一計が本作のサスペンスで、襖に描かれた母子雁の絵が破られているのが見つかる。
慈念は新しく寺に来た住職(木村功)に人を殺すことは罪かと問い、実の母に会いたいと願う私は悟りが開けず住職になることができない、という言葉を残して寺を出る。数年がたち、住職が替わった寺にはやがて雁の襖絵を見るために多くの観光客が訪れるようになる・・・というのが物語の骨子。
自らの業に向き合い、煩悩を捨てることが出来ない小僧が、出家に救いを見い出すことができず、師匠ともども業を離れて得度の旅に出るというのが結末で、しかし現の雁の寺は世俗にまみれているというのがラスト。宗教的なテーマが裏に隠れているために、見終わって一瞬呆気にとられ、わかりにくい。
慈念の母に菅井きん、他に西村晃、小沢昭一。凝った映像は村井博。 (評価:2.5)

女の座
公開:1962年1月14日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄、菅英久 脚本:井手俊郎、松山善三 撮影:安本淳 美術:中古智 音楽:斎藤一郎
『東京物語』(1953)同様、実の子供たちは親不孝で、死んだ息子の嫁の方が親孝行という物語で、より身も蓋もない現実的な話なのが成瀬巳喜男らしい。
東京オリンピックを控えて道路整備が進む世田谷区あたりで荒物屋を営む、二男五女の一家が舞台。
長男はすでに無く、長男の嫁(高峰秀子)が店を引き継ぎ、中学生の息子(大沢健三郎)、義父母(笠智衆、杉村春子)、未婚の義妹(草笛光子、司葉子、星由里子)と暮らす。
父・笠智衆が倒れたというので、渋谷でラーメン屋を営む次男(小林桂樹)、九州に嫁いだ三女(淡路恵子)が夫(三橋達也)と共に駆けつける。笠は無事に回復するが失業した三女夫婦が居座り、店を乗っ取る気配。
それを察した杉村が、夫とアパートを営む長女(三益愛子)に三女夫婦の空室の提供を頼むが、それは困ると店子を探す。そこに入ったのがジゴロ・宝田明で、なんと杉村が前夫との間に産んだ子だった。
草笛は宝田に惚れてしまい、宝田は高峰が好きになってしまい、正体を見抜いた杉村が高峰に頼んで、一家に迷惑をかけないように去らせる。
そこに進学で悩んでいた高峰の息子が自殺したことから、高峰が一家に留まる理由がなくなり、三益は店を潰して夫(加東大介)と実家にアパートを建てる算段。ラーメン屋の経営が思わしくない次男の嫁(丹阿弥谷津子)は跡取りを主張。宝田との仲を裂かれた草笛は高峰を恨み、縁談の纏まった司と恋人(夏木陽介)ができた星以外は高峰を追い出しにかかる。
それを見て笠・杉村は、孝行嫁の高峰を連れて隠居用の家を探しに行くという結末。
物質主義に人の心が荒む戦後の世の中に意義を申し立てるというよりは、戦前の精神主義を愛おしむ成瀬の懐古趣味的な作品となっている。 (評価:2.5)

ニッポン無責任時代
公開:1962年7月29日
監督:古沢憲吾 製作:安達英三朗、渡辺晋 脚本:田波靖男、松木ひろし 撮影:斎藤孝雄 音楽:神津善行 美術:小川一男
それまでハナ肇やクレージーキャッツが出演した映画はあったが、植木等主演でクレージーキャッツが主要キャストとなって制作されたのは、これが最初。映画のヒットを受けて、シリーズ化された。
個人的な思い出を語れば、子供の頃に浅草国際劇場にSKDのレビューを見に行った際に、どれだったかは覚えていないがクレージー映画が上映された。当時のクレージーキャッツ、とりわけ植木の人気は凄かった。
その人気に火をつけたのは植木がボーカルで歌ったコミックソング『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『五万節』『ドント節』で、いずれも映画の挿入歌。主題歌の『無責任一代男』もヒットした。
そうした植木等とクレージーキャッツの絶頂期のパワーが炸裂した映画で、洋酒会社を舞台にした無責任サラリーマン男のハチャメチャな物語は今見ても楽しい。
高度経済成長期に入りかけの時代で、イケイケドンドンの時代風潮が交際費、接待、株、出世とともに描き出され、60年代の空気を知るという点で時代性を記録した映画となっている。
無責任男の植木は要領と口先だけで社内を渡り歩き、その処世に長けたところに目を付けた社長秘書・ホステス・芸者にまで言い寄られるという、すべてが都合よくできた映画だが、会社に束縛されたサラリーマンである観客の鬱憤を晴らしながらも、高度経済成長にはしゃぐ社会と時代風潮を皮肉ってもいる。
実際、要領と口先だけの無責任男だったはずの植木が、よく見ると人一倍仕事熱心で、取引業者の説得や駆け落ちしようとする男女の仲介に粉骨砕身する。
表面は無責任だが、実際は真面目男という植木等を地で行く映画でもある。 (評価:2.5)

キングコング対ゴジラ
公開:1962年08月11日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 特技監督:円谷英二 撮影:小泉一 音楽:伊福部昭 美術:北猛夫
『ゴジラ』第3作。前作の失敗から7年、アメリカのスター怪獣、キングコングを登場させて怪獣同士が対決するというアイディアが盛り込まれた。これによって怪獣映画の定番パターンが確立し、その後の怪獣映画や『ウルトラマン』に繋がっていく。
もっとも改めて観ると、怪獣同士がレスリングをしているだけで、着ぐるみなので等身は同じ。本来の設定ではゴジラは50mに対しキングコングは7.2mだが、等身合わせで45mに修正。怪獣対決映画で当時流行っていたプロレス並みにショー化されてしまい、社会問題をテーマに置いた第1作の面影はない。
それでも子供ながらに怪獣対決は楽しかった記憶があって、ゴジラはお子様ランチになった。内容もコメディタッチで、主演の高島忠夫のほかに有島一郎、藤木悠。浜美枝、若林映子、根岸明美も出演。
前回、千島列島の島に氷漬けにされたゴジラは氷山となって北極海に漂流。氷を砕いて復活すると仙台に上陸し、陸路を富士山麓へ。キングコングは製薬会社が宣伝のためにソロモン諸島の魔神を日本に連れ帰る。両者がなぜ戦うかについては怪獣の性ということで片付けられる。
ソロモン諸島の島民は野蛮な土人の描き方をしていて、後進国への蔑視が見られる。ゴジラは意味もなく列車を襲ったり、熱海城を破壊するのが特撮的見どころ。南海の大蛸も艶めかしい。エンパイアステートビルの代わりに国会議事堂によじ登るコングは美女(浜美枝)に目がないというアメリカ仕込の女好き。ゴジラと戦わせるためにバルーンで空輸するのはご愛嬌。最後は歩いてか泳いでかソロモン諸島に帰っていくが、帰れるのか? (評価:2.5)

座頭市物語
公開:1962年4月18日
監督:三隅研次 脚本:犬塚稔 撮影:牧浦地志 美術:内藤昭 音楽:伊福部昭
子母澤寛の『座頭市物語』が原案。勝新太郎の『座頭市』シリーズの第1作。
座頭市(勝新太郎)が旅で出会った下総の助五郎親分(柳永二郎)の食客となり、対立する笹川親分との争いに巻き込まれるというのが大筋。笹川親分には平手造酒(天知茂)という食客がいて、たまたま魚釣りで知り合い意気投合する。
互いの実力を認め合うだけに親分の争いからは身を引こうとするが、平手が結核で倒れたことを知った助五郎がチャンスとばかりに殴り込みをかけ、平手は市を銃で殺すという笹川を留めて、どうせ死ぬなら市と最期の勝負をして市の手に掛かって死のうと戦いに赴く。
そうとは知らない市は、助五郎の家を去ることにし、寺で療養中の平手に会いに行き、事情を知って対決に赴く。
勝負は市の勝利で終わるが、喜ぶ助五郎を尻目に、平手を仕込み杖と一緒に寺の墓地に埋め、木の枝を杖に旅立つという最後で、続編の予定がなかったことがわかる。半年後に続編が作られ、26本のシリーズ作品となる。
キャスティング的にもB級で、市を慕う娘(万里昌代)を置いての旅立ちが、その後のストイックな市のイメージに繋がったか?
勝新も若くて、殺陣にも女にも初々しい座頭市が見どころ。蝋燭垂直切りの技を披露するが、畳が焦げないかと心配になる。 (評価:2.5)

製作:大映京都
公開:1962年4月6日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:4位
市川雷蔵と三國連太郎の出自をめぐる対決が名場面
島崎藤村の同名小説が原作。1948年の木下惠介版に続く2回目の映画化。
明治後期の信州飯山が舞台で、小諸の被差別部落出身であることを隠して小学校の教壇に立つ丑松が部落解放運動家と出会い、生徒たちを前に出自を明かして土下座して詫び、上京して運動家の後継を決意するまでが描かれる。
部落差別についての丑松の姿勢をめぐって批判のある原作だが、本作ではラストを変えてある。
部落出身であることを秘匿し、故郷にも帰らないように父に戒められた丑松が、部落解放運動家(三國連太郎)に魅かれながらも、職を失うことを怖れて卑怯者のようにこそこそと生き、煩悶する姿を市川雷蔵が好演している。
クライマックスは丑松が部落解放運動家に部落民ではないと否定する場面で、それを嘘と知りながら包容する運動家を演じる三國連太郎が上手い。
下宿する寺の破戒僧に中村鴈治郎、その妻に杉村春子、学校の同僚に長門裕之、船越英二、校長に宮口精二、運動家の妻に岸田今日子と芸達者を揃え、宮川一夫の撮影と破綻のない作品に仕上がっているが、冒頭、丑松の父(丑松の父)の骸を前にして、叔父(加藤嘉)等部落民が集まり差別の理不尽さを糾弾するシーンは、いささか教科書的で若干引く。
丑松が恋する娘に藤村志保で、これがデビュー作。 (評価:2.5)

公開:1962年4月6日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:4位
島崎藤村の同名小説が原作。1948年の木下惠介版に続く2回目の映画化。
明治後期の信州飯山が舞台で、小諸の被差別部落出身であることを隠して小学校の教壇に立つ丑松が部落解放運動家と出会い、生徒たちを前に出自を明かして土下座して詫び、上京して運動家の後継を決意するまでが描かれる。
部落差別についての丑松の姿勢をめぐって批判のある原作だが、本作ではラストを変えてある。
部落出身であることを秘匿し、故郷にも帰らないように父に戒められた丑松が、部落解放運動家(三國連太郎)に魅かれながらも、職を失うことを怖れて卑怯者のようにこそこそと生き、煩悶する姿を市川雷蔵が好演している。
クライマックスは丑松が部落解放運動家に部落民ではないと否定する場面で、それを嘘と知りながら包容する運動家を演じる三國連太郎が上手い。
下宿する寺の破戒僧に中村鴈治郎、その妻に杉村春子、学校の同僚に長門裕之、船越英二、校長に宮口精二、運動家の妻に岸田今日子と芸達者を揃え、宮川一夫の撮影と破綻のない作品に仕上がっているが、冒頭、丑松の父(丑松の父)の骸を前にして、叔父(加藤嘉)等部落民が集まり差別の理不尽さを糾弾するシーンは、いささか教科書的で若干引く。
丑松が恋する娘に藤村志保で、これがデビュー作。 (評価:2.5)

放浪記
公開:1962年9月29日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄、成瀬巳喜男、寺本忠弘 脚本:井手俊郎、田中澄江 撮影:安本淳 美術:中古智 音楽:古関裕而
林芙美子の同名の自伝的小説が原作。
両親とともに西日本を旅商いして歩いた少女時代から始まり、東京での暮しからデビューするまでの苦難を中心に、人気作家となるまでを描く。
『放浪記』の連載は25歳の時、昭和3年からで、借金まみれの極貧生活の中、詩を書き続けながら職を転々とし、男との同棲を繰り返し、やがてチャンスを掴む。ふみ子が高等女学校を出ていることから、劇中、同人が「貧乏を売り物にしている」と言うのもあながち的外れではなく、『放浪記』掲載の際にライバル(草笛光子)を出し抜き、芽の出ない同棲作家を小説の材料にするなど、野心家の面も窺わせる作品になっている。
高峰秀子はそうしたふみ子を好感の持てる女ではなく、むしろ机に向かっている時以外は世を拗ねた不愛想な女として演じ、加東大介演じる中年男がふみ子に好意を寄せるのが不思議なくらいに魅力がない。
この癖のある女を熱演する高峰の存在感は全編を通じて圧倒的で、ふみ子の母・田中絹代、同人のリーダー・伊藤雄之助ら脇を固める名優陣が霞んでしまうほどの一人舞台となっている。
ふみ子と同棲する男たちに仲谷昇、宝田明、小林桂樹。芽の出ない屈折した作家を演じる宝田明がいい。
男に頼らずに生きる女、むしろ男を養うくらいに自立した女を目指すふみ子だが、野心家としての個性が強烈すぎて、女性の自立というよりも林芙美子個人の生き方に物語が収斂してしまっていて、テーマとしては一般性のない作品になっている。 (評価:2.5)

製作:大映東京
公開:1962年11月18日
監督:市川崑 製作:永田秀雅、市川崑 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 音楽:芥川也寸志 美術:千田隆
キネマ旬報:1位
山本富士子ママはなぜ布団の中でも化粧しているのか?
原作は小児科医・松田道雄の育児書。松田道雄の育児書は、核家族化が進んだ戦後の母親たちの手引書となった。その内容はそのまま映画に詰め込まれており、逆にいえば育児書の内容をドラマで繋いでいる。これはいわばパパとママのための育児ビデオであって、ドラマ的にも映画的にも残念ながらその域を超えていない。
浦辺粂子のお祖母ちゃんも類型的で、船越英二パパと山本富士子ママも戯画化されすぎていて、育児映画のためのシナリオを演じている。今の時代なら即離婚だなと思えるくらいに、育児に振り回されて喧嘩ばかりしているステレオタイプの若い夫婦。ホームドラマとして観ても、森永乳業提供のテレビドラマくらいのクオリティ。
公開当時としてはおそらく相当に斬新な映画だったに違いない。それは、『キューポラのある町』や『切腹』『秋刀魚の味』といった映画を押しのけて、キネマ旬報第1位に選ばれたことからもわかる。しかし、裏を返せば、市川崑や和田夏十を含め、当時の映画評論家たちが如何に育児と家庭生活に無知・無縁であったかを示している。この映画に感銘を受けるほどに当時のインテリたちが家庭内では保守的で旧態依然としていたことが推測できるという点では、見る意味があるかもしれない。
少しも子供らしくない赤ん坊のナレーション(中村メイコ)がうざい。ミス日本の天下の美女、山本富士子が布団に入ってもバッチリ化粧をしているのも気になる。浦辺粂子が好演。 (評価:2.5)

公開:1962年11月18日
監督:市川崑 製作:永田秀雅、市川崑 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 音楽:芥川也寸志 美術:千田隆
キネマ旬報:1位
原作は小児科医・松田道雄の育児書。松田道雄の育児書は、核家族化が進んだ戦後の母親たちの手引書となった。その内容はそのまま映画に詰め込まれており、逆にいえば育児書の内容をドラマで繋いでいる。これはいわばパパとママのための育児ビデオであって、ドラマ的にも映画的にも残念ながらその域を超えていない。
浦辺粂子のお祖母ちゃんも類型的で、船越英二パパと山本富士子ママも戯画化されすぎていて、育児映画のためのシナリオを演じている。今の時代なら即離婚だなと思えるくらいに、育児に振り回されて喧嘩ばかりしているステレオタイプの若い夫婦。ホームドラマとして観ても、森永乳業提供のテレビドラマくらいのクオリティ。
公開当時としてはおそらく相当に斬新な映画だったに違いない。それは、『キューポラのある町』や『切腹』『秋刀魚の味』といった映画を押しのけて、キネマ旬報第1位に選ばれたことからもわかる。しかし、裏を返せば、市川崑や和田夏十を含め、当時の映画評論家たちが如何に育児と家庭生活に無知・無縁であったかを示している。この映画に感銘を受けるほどに当時のインテリたちが家庭内では保守的で旧態依然としていたことが推測できるという点では、見る意味があるかもしれない。
少しも子供らしくない赤ん坊のナレーション(中村メイコ)がうざい。ミス日本の天下の美女、山本富士子が布団に入ってもバッチリ化粧をしているのも気になる。浦辺粂子が好演。 (評価:2.5)

公開:1962年7月1日
監督:勅使河原宏 製作:大野忠 脚本:安部公房 撮影:瀬川浩 美術:山崎正夫 音楽:武満徹
キネマ旬報:7位
安部公房脚本の九州朝日放送のテレビドラマ『煉獄』の映画化。
福岡の炭鉱を舞台にしたミステリーで、井川比佐志演じる炭鉱夫が主人公。
息子を連れて紹介されたヤマに向かったところ、落盤事故で閉山されていて駄菓子屋の女主人(佐々木すみ江)しかいない。道案内を受けて歩き出すと、後ろからつけてきた白いスーツを着た男(田中邦衛)に襲われ、ナイフで刺されて呆気なく死亡。
スーツ男は目撃者の女主人に、犯人は頭に丸禿のある炭鉱夫だと警察に偽証するように言って金を渡して立ち去る。
死んだ炭鉱夫は幽霊となって甦り、この後の経過の語り部となっていく。
事件を取材する新聞記者は、死んだ炭鉱夫が炭鉱第二組合の委員長・大塚と瓜二つで、丸禿の炭鉱夫というのが第一組合委員長・遠山の特徴だということを知り、第一組合潰しを狙う会社の陰謀の臭いを嗅ぎつける。
一方、捜査が進展したのを知ったスーツ男は駄菓子屋に戻り、女主人を殺害。そこに真相を探りに来た大塚がやってきて、続けて訪れた遠山に犯人と思われ争いとなる。
ミステリーなので、真相が明らかになるのを期待して見てくるが、このあたりで安部公房原作であることを思い出し、このまま二人は相討ちになるのではないかと思い始めると、その通りになって事件の真相は解明されないままに終わる。
事件の一部始終を盗み見て、スーツ男が犯人であることを知る殺された炭鉱夫の息子が、悄然と、ないしは超然とヤマを去るシーンで終わるが、父を含めて4人の殺害現場を目撃する割には冷静なのが不自然といえば不自然。
安部公房とはいえ、解明されないミステリーというのも不条理だからと割り切れないものが残る。 (評価:2.5)

斬る
公開:1962年7月1日
監督:三隅研次 脚本:新藤兼人 撮影:本多省三 美術:内藤昭 音楽:斎藤一郎
柴田錬三郎の同名小説が原作。
市川雷蔵が主演の剣戟という以外に取り柄のない作品で、山場もなければオチもイマイチ。新藤兼人の脚本とは思えないくらいにダラダラとしたストーリー展開で、何を描きたかったのかさっぱりわからない。
主人公の高倉信吾(市川雷蔵)には出生の秘密があって、中盤、義父・信右衛門(浅野進治郎)によってこれが明かされるが、台詞だけの説明が複雑すぎてよくわからない。
前半は信吾の3年間の武者修行と信右衛門の同僚(稲葉義男)とのトラブルで、義父と義妹(渚まゆみ)が殺され仇を討つまで。尤も武者修行が出立と帰還しか描かれないので、優男が水戸藩の剣豪との試合で気合勝ちしてしまうのが拍子抜け。しかも邪剣・三絃の構えがどこが凄いのかよくわからない。
後半は幕府大目付松平大炊頭(柳永二郎)の右腕となるが、水戸藩の陰謀で大目付が暗殺され、仇を討って殉死するという結末。
これまた殉死の理由がよくわからず、主君を守れなかった責任を取ったのか、はたまた生母(藤村志保)に始まり信吾の庇護者たちが次々と死んでしまうという不運、ないしは死を呼び寄せる自身の宿業に絶望したのか、何も説明されないままに終わるという、何となくヒロイズム作品。
水戸城で大目付が殺される仏間と信吾のいる控えの間が、大広間はじめ数々の間を挟んで遠すぎるのが噴飯だが、セットの大きさは見応えがある。 (評価:2)

どぶろくの辰
公開:1962年4月29日
監督:稲垣浩 製作:田中友幸 脚本:井手雅人、八住利雄 撮影:山田一夫 美術:植田寛 音楽:石井歓
中江良夫の同名戯曲が原作。田坂具隆の1949年版のリメイク。
道路建設のために命を賭けて働く土方たちの物語で、高度経済成長に邁進していた時代とはいえ、タコ部屋での人権無視の強制労働を肯定する作品に、制作者たちの神経を疑う。
土方ヒーローに扮するのは三船敏郎で、建設現場から飛びっちょ、おそらく前金をもらって逃げるのが得意という猛者。喧嘩も強いが、女も力づくでものにするという、とても戦後民主主義の精神を学んだとは思えないアナクロなヒーロー設定。もっとも、三船がダーティにならないように、レイプしたと見せかけて実はしてない純情男にしている。
飲み屋の女(淡島千景)に惚れられて、飯場の女(池内淳子)に恋するが、飯場の女には失業中の前科者の夫(土屋嘉男)がいて、二人を飯場から飛びっちょさせるために自ら囮の飛びっちょをするという土方のヒーロー話になっている。
土方たちを救おうという労働運動家が潜入して、三船をリーダーに決起を促すが、土方たちの元締め(三橋達也)が建設会社社長に裏切られたのを知ってが許してしまうという、三船は労働者の風上に置けない土方ヒーロー。
強制労働の元締めとは仲が悪く喧嘩ばかりしているライバルだが、最後には互いに認め合うというよくあるパターンだが、残念ながら元締めが改心したようには描かれていない。
俺たちは日本の未来のためにタコ部屋でも強制労働でも何でもしてやるという、よくわからない理屈で土方の根性を謳い上げる。
内容もテーマも最低な作品なのだが、三船のキャラクターだけで持っているという、ある意味、世界の三船の存在感の凄さを感じさせる。 (評価:2)

社長洋行記
公開:1962年4月29日
監督:杉江敏男 製作:藤本真澄 脚本:笠原良三 撮影:完倉泰一 美術:村木与四郎 音楽:神津善行
社長シリーズ第14作。
シリーズ初の海外ロケ作品で、前半は日本、後半は香港が舞台となるが、社長(森繁久彌)、秘書課長(小林桂樹)、営業部長(加東大介)の3人が飛行機に乗り込んだ途端に話がつまらなくなる。
今はなきパンナムの協力で、当時としては海外渡航そのものが珍しくて、それを描くだけで新奇に映ったが、今となっては香港の観光スナップを見せられているだけでは退屈極まりない。
サロンパスのもじりのサクランパスの張り薬を売っている会社が、商社を仲介した東南アジアの売上に不満を持ち、接待課長(三木のり平)の努力も実らず先方の社長(東野英治郎)と大喧嘩。社長自ら海外の代理店交渉のために香港を訪れるという物語。
日本企業が高度経済成長の波に乗って海外に乗り出そうという頃の話で、今の中国人のようにドメスティックな振る舞いの営業課長や、如何に海外での伝手を得るかなど、当時を知る者には時代背景としての昔話はそれなりに楽しめるが、シナリオはそれだけに寄りかかり過ぎ。
満州経験のある森繁久彌の中国語が上手いのが見どころか。『続・社長洋行記』が続編。 (評価:2)

スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ
公開:1962年3月25日
監督:弓削太郎 脚本:高橋二三 撮影:石田博 音楽:萩原哲晶 美術:山口煕
スーダラ節は1962年の大ヒット曲。歌詞の中の「わかっちゃいるけどやめられねぇ」が流行語となり、本作はそれをタイトルにした映画。
もっとも、歌っているクレージー・キャッツの出番はリーダーのハナ肇を除くとほとんどなく、スーダラ男、日本一の無責任男となった植木等は劇中端役とオープニングとエンディングに作品の解説役として登場するだけ。クレージー・キャッツの主演作が作られるようになるのは本作の後で、本作の主役は川口浩、川崎敬三となっている。
時代性を感じさせる風俗的見どころが多く、新卒で入社する川口が初サラリー前で背広が買えず学生服で出社するのが新鮮。出入りのテーラーが早速採寸をとるというのも懐かしい。迎えるOLたちは結婚を狙って手ぐすね引いて待ち構え、彼女らの話題は如何に社内で結婚相手を掴まえるかにしかない。新入社員に社長の渡米随行員の選考が課せられ早くも出世競争となるが、ライバルたちは次々と落伍し・・・という物語。飲んだくれてのトラ箱行き、安サラリーマンが通うバーや売春婦といった時代風俗も登場。
冒頭は米ソの水爆実験の映像で、ケネディもフルシチョフも核競争をわかっているけど止められない、と始まる硬派ぶりも時代性。しかし中身は、出世の野望を抱きながらも身の丈に合った幸せを見つけていくサラリーマンのほのぼのとした話で、建前と本音を使い分ける人間の軟弱を描きながらも、タイトルとの整合性を付けようとするシナリオの無理矢理感は否めない。 (評価:2)

若い人
公開:1962年10月6日
監督:西河克己 脚本:三木克巳 撮影:萩原憲治 美術:佐谷晃能 音楽:池田正義
石坂洋次郎の同名小説が原作。4回映画化されていて、1937年(豊田四郎)、1952年(市川崑)に次ぐ3回目。
原作は昭和初期の作品で、それを戦後の青春ドラマ風にアレンジした脚本と、吉永小百合、石原裕次郎、浅丘ルリ子の配役は作品的には完全な失敗。
台詞が滑りまくっている上に、ドラマ的にもリアリティは皆無。むしろ荒唐無稽なアナクロ青春恋愛ファンタジーと言ってよく、半世紀前の古風なライトノベルを映画化した感じ。
女生徒にもてまくりのナイスガイ教師(石原裕次郎)は女子高では浮きまくりで、地方都市の美人女教師(浅丘ルリ子)の山の手言葉もファンタジック。美人女教師に対抗心を燃やしてナイスガイ教師に秋波を送るサカリのついた女生徒(吉永小百合)も清純すぎて違和感ありあり。
この学校とは思えない現実離れした異世界で、恋愛にしか興味のないメス豚・オス豚によって展開される三角関係、女生徒の母で男関係の定まらない料理屋の女将のこれまた山の手言葉に、もしかしたらこれはコメディかと深読みしてしまう。
そこに官能小説を読みふける下宿屋の親爺(殿山泰司)、下町言葉の小母さん(武智豊子)、舞台設定の地方都市・長崎と、なんだかよくわからないカオスに、それでも最後まで見てしまうのは、石原裕次郎、吉永小百合、浅丘ルリ子のキャスティングの賜物か。
作品的にはミスキャストだが、3人がそれぞれ勝手にオーラを発している。 (評価:2)

製作:近代映画協会
公開:1962年11月4日
監督:新藤兼人 製作:絲屋寿雄、能登節雄、湊保、松浦栄策 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 美術:新藤兼人 音楽:林光
キネマ旬報:6位
テーマは重いが制作者としては軽いラスト
野上弥生子の小説『海神丸』が原作。
漁船が遭難して太平洋を漂流。食料が尽きる中、乗り込んだ4人の過酷なサバイバルを描くもので、1884年ミニョネット号事件、1944年ひかりごけ事件、1951年の大岡昇平『野火』、本作公開後の1972年アンデス山中墜落事故など、極限状態における人間性をテーマにしたある種パターン化した作品。
本作でもカニバリズムに触れるシーンがあるが、殺人だけで食人はしない。金毘羅大権現を信奉する船長(殿山泰司)はひたすら食糧を節約して生還に希望を繋ぎ、甥(山本圭)もそれに従うが、同乗した島の男(佐藤慶)は我慢が出来ず海女(乙羽信子)とともに食糧の分配を要求して、船倉に別れて暮らす。その食糧もつき飢えに苦しみ始めると、ついに甥を食糧にしようとして殺すが、食べることはできず水葬にする。
やがて貨物船に救助されるが、船長は殺人を隠す。冷静になった海女は発狂して転落死、島の男は自責の念から自殺して一件落着という、テーマ設定の重さからは遥かに軽い曖昧決着。結局のところ、テーマを掲げたものの突き詰めることができずに犯人を殺して終了という、制作者としては無責任ともいえるご都合主義に付き合わされる2時間弱が、見終わって空しい。 (評価:1.5)

公開:1962年11月4日
監督:新藤兼人 製作:絲屋寿雄、能登節雄、湊保、松浦栄策 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 美術:新藤兼人 音楽:林光
キネマ旬報:6位
野上弥生子の小説『海神丸』が原作。
漁船が遭難して太平洋を漂流。食料が尽きる中、乗り込んだ4人の過酷なサバイバルを描くもので、1884年ミニョネット号事件、1944年ひかりごけ事件、1951年の大岡昇平『野火』、本作公開後の1972年アンデス山中墜落事故など、極限状態における人間性をテーマにしたある種パターン化した作品。
本作でもカニバリズムに触れるシーンがあるが、殺人だけで食人はしない。金毘羅大権現を信奉する船長(殿山泰司)はひたすら食糧を節約して生還に希望を繋ぎ、甥(山本圭)もそれに従うが、同乗した島の男(佐藤慶)は我慢が出来ず海女(乙羽信子)とともに食糧の分配を要求して、船倉に別れて暮らす。その食糧もつき飢えに苦しみ始めると、ついに甥を食糧にしようとして殺すが、食べることはできず水葬にする。
やがて貨物船に救助されるが、船長は殺人を隠す。冷静になった海女は発狂して転落死、島の男は自責の念から自殺して一件落着という、テーマ設定の重さからは遥かに軽い曖昧決着。結局のところ、テーマを掲げたものの突き詰めることができずに犯人を殺して終了という、制作者としては無責任ともいえるご都合主義に付き合わされる2時間弱が、見終わって空しい。 (評価:1.5)
