日本映画レビュー──1961年
製作:東宝、黒沢プロダクション
公開:1961年4月25日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:黒澤明、菊島隆三 撮影:宮川一夫 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:2位
風来坊ぶりを演出するオープニングのワンショットは必見
二つのヤクザ勢力が対立している宿場町にやってきた浪人が、用心棒として売りこみながら両方を天秤にかけ、策略を用いて両者を戦わせ、最後には宿場町からヤクザを一掃してしまうという、痛快時代劇。
素浪人を演じる三船敏郎が風来坊風でかっこよく、冒頭の山の遠景からインして歩き出し、足許を映しながらクレジットしていくワンショットのオープニングは、風来坊ぶりを際立たせた演出で秀逸。カメラは宮川一夫で、本作の大きな見どころとなっている。
オープンセットでは、宮川のカメラはロング・アップ・俯瞰・煽りと変化自在に場面を切り取って、風の吹きすさぶ静まり返った宿場町の雰囲気を効果的に描き出し、まるで西部劇の荒野の町のよう。
ヤクザの一味のガンマン・仲代達矢が日活アクション映画風なのも見どころで、腕が切り落とされるなど、三船を中心とした殺陣もリアル。
主人公の三船と掛け合いになる、要のキャラクター、居酒屋の東野英治郎、ヤクザの女房・山田五十鈴が上手い。
浪人は名前を聞かれて外の桑畑を見やり、桑畑三十郎・・・いや四十郎かなと自分の歳を入れて適当に答えるが、これが翌年制作された『椿三十郎』のキャラクター像に引き継がれたという点でも、完成度の高い痛快でコミカルな時代劇の原型となった。 (評価:4)
公開:1961年4月25日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:黒澤明、菊島隆三 撮影:宮川一夫 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:2位
二つのヤクザ勢力が対立している宿場町にやってきた浪人が、用心棒として売りこみながら両方を天秤にかけ、策略を用いて両者を戦わせ、最後には宿場町からヤクザを一掃してしまうという、痛快時代劇。
素浪人を演じる三船敏郎が風来坊風でかっこよく、冒頭の山の遠景からインして歩き出し、足許を映しながらクレジットしていくワンショットのオープニングは、風来坊ぶりを際立たせた演出で秀逸。カメラは宮川一夫で、本作の大きな見どころとなっている。
オープンセットでは、宮川のカメラはロング・アップ・俯瞰・煽りと変化自在に場面を切り取って、風の吹きすさぶ静まり返った宿場町の雰囲気を効果的に描き出し、まるで西部劇の荒野の町のよう。
ヤクザの一味のガンマン・仲代達矢が日活アクション映画風なのも見どころで、腕が切り落とされるなど、三船を中心とした殺陣もリアル。
主人公の三船と掛け合いになる、要のキャラクター、居酒屋の東野英治郎、ヤクザの女房・山田五十鈴が上手い。
浪人は名前を聞かれて外の桑畑を見やり、桑畑三十郎・・・いや四十郎かなと自分の歳を入れて適当に答えるが、これが翌年制作された『椿三十郎』のキャラクター像に引き継がれたという点でも、完成度の高い痛快でコミカルな時代劇の原型となった。 (評価:4)
製作:大映東京
公開:1961年07月28日
監督:川島雄三 脚本:井手俊郎、川島雄三 撮影:村井博 音楽:池野成 美術:井上章
着物姿の若尾文子、魅力炸裂のワンウーマンショー
原作は富田常雄の小説『小えん日記』。Tサイトの作品表記は『女は二度生れる』だが、『女は二度生まれる』が正しい。
かつて靖国神社南にあった富士見町花街の芸者・小えんの毎日はお座敷を勤め、ビジネスとして客と寝ること。板前や学生に恋心も感じるが、思いは届かない。囲われて二号となり、旦那の目を盗んで少年を誘惑したりと奔放。旦那が死に、就職した学生からは接待で客と寝ることを頼まれ失意する。雪渓を見たいという少年を誘って郷里の長野へ帰った小えんは、幸せそうな元板前の一家を偶然見かけ、少年に旦那からもらった時計を上げて別れる。ここから小えんの二度目の女の人生が始まるが、物語はここで終わる。
このどろどろした悲しい女の人生を、川島はテンポよく軽快に演出し、若尾も潔いまでに明るく演じる。したたかに男を利用し、利用され、それでも後ろを振り返らず、気負わず強く生きる女を若尾が好演する。妖艶で可愛く愛嬌のある女を演じ、微塵も暗さを感じさせない。
若尾は着物姿が似合い、仕草や身のこなしも粋。魅力炸裂のワンウーマンショーでどのシーンもいいが、とりわけ旦那の墓参りで桶に残った水をバシャッと掛ける、小えんの性格のすべてが集約されるシーンの演技に惚れ惚れする。
山村聡、フランキー堺、山岡久乃が達者な演技を見せ、若い藤巻潤、江波杏子も出ている。
原作は1959年で、1957年の売春防止法施行直後の花街の様子がリアル。置き屋や芸者たちの姿、当時の靖国神社や東京の街並み、細かい生活の様子も出てきて、ひとつの時代を切り取った映画としても、観る価値がある。 (評価:4)
公開:1961年07月28日
監督:川島雄三 脚本:井手俊郎、川島雄三 撮影:村井博 音楽:池野成 美術:井上章
原作は富田常雄の小説『小えん日記』。Tサイトの作品表記は『女は二度生れる』だが、『女は二度生まれる』が正しい。
かつて靖国神社南にあった富士見町花街の芸者・小えんの毎日はお座敷を勤め、ビジネスとして客と寝ること。板前や学生に恋心も感じるが、思いは届かない。囲われて二号となり、旦那の目を盗んで少年を誘惑したりと奔放。旦那が死に、就職した学生からは接待で客と寝ることを頼まれ失意する。雪渓を見たいという少年を誘って郷里の長野へ帰った小えんは、幸せそうな元板前の一家を偶然見かけ、少年に旦那からもらった時計を上げて別れる。ここから小えんの二度目の女の人生が始まるが、物語はここで終わる。
このどろどろした悲しい女の人生を、川島はテンポよく軽快に演出し、若尾も潔いまでに明るく演じる。したたかに男を利用し、利用され、それでも後ろを振り返らず、気負わず強く生きる女を若尾が好演する。妖艶で可愛く愛嬌のある女を演じ、微塵も暗さを感じさせない。
若尾は着物姿が似合い、仕草や身のこなしも粋。魅力炸裂のワンウーマンショーでどのシーンもいいが、とりわけ旦那の墓参りで桶に残った水をバシャッと掛ける、小えんの性格のすべてが集約されるシーンの演技に惚れ惚れする。
山村聡、フランキー堺、山岡久乃が達者な演技を見せ、若い藤巻潤、江波杏子も出ている。
原作は1959年で、1957年の売春防止法施行直後の花街の様子がリアル。置き屋や芸者たちの姿、当時の靖国神社や東京の街並み、細かい生活の様子も出てきて、ひとつの時代を切り取った映画としても、観る価値がある。 (評価:4)
製作:東京映画
公開:1961年1月15日
監督:松山善三 製作:藤本真澄、角田健一郎 脚本:松山善三 撮影:玉井正夫 美術:中古智、狩野健 音楽:林光
キネマ旬報:5位
聾唖者を通して健常者に欠けているものを描く
松山善三の初監督作品で、聾唖者同士の結婚生活を描いた佳作。
障碍者を描くとなると、お涙頂戴の感動ドラマになりがちだが、根底に障碍者の精神的・経済的自立を目指す意思と葛藤、困難と挫折を正面から描いていて、骨太の作品になっている。
とりわけ本作が優れているのは、同情すべき存在として障碍者を描いているわけではなく、聾唖者を鏡として健常者に欠けているもの、健常者が気付かないものを示している点で、本当の幸せは名声でも富でもなく、人に対する思いやりと互いに助け合い力を合せて生きていくことにあるという、タイトルに込められた思いにある。
物語は終戦の年から始まり、空襲と敗戦により人々がすべてを失った中で、秋子の姉や兄が精神もまた荒廃させ、物欲のみに生きていく。それに対し、ハンディキャップを負う者同士が周囲の不安と嘲りをよそに結婚し、互いの精神の結合によってさまざまな困難に立ち向かっていく。
本作で最も優れた演出は、二人は聾唖者だからこそできる会話、健常人には不可能なコミュニケートをすることで、それはガード下の騒音の中での手話であり、川を挟んでの手話であり、電車の窓越しの手話のシーンに描かれる。
健常人が声をもってする会話が偽りや嘲り、騙しであるのに対し、二人が交わす会話は真に精神的なもので、その間に障害は存在せず、むしろ障碍は健常人同士の声の会話にこそあることが示される。
子供が成長した中で夫が語る、最近僕は声が聞こえなくても妻や子供が何を言っているのか分るような気がする、という言葉に人同士のコミュニケーションの本質を見ることができる。
前半はいささか駆け足のストーリー展開だが、子供が成長を始めてからは聾唖者夫婦を演じる高峰秀子と小林桂樹の演技に圧倒される。息子を演じる二人の子役もいい。
ラストの秋子の悲劇はいささか唐突で、実話がベースとされるが、救いのある結末だった方がよかったという思いとともに、それが耳の聞こえない聾唖者が抱える現実の社会的障碍を示したという点で、意味のある終わり方だったのかもしれない。
秋子の母に原泉、姉に草笛光子、弟に沼田曜一。加山雄三がかつて秋子が助けた戦災孤児として一瞬だけ登場。 (評価:3.5)
公開:1961年1月15日
監督:松山善三 製作:藤本真澄、角田健一郎 脚本:松山善三 撮影:玉井正夫 美術:中古智、狩野健 音楽:林光
キネマ旬報:5位
松山善三の初監督作品で、聾唖者同士の結婚生活を描いた佳作。
障碍者を描くとなると、お涙頂戴の感動ドラマになりがちだが、根底に障碍者の精神的・経済的自立を目指す意思と葛藤、困難と挫折を正面から描いていて、骨太の作品になっている。
とりわけ本作が優れているのは、同情すべき存在として障碍者を描いているわけではなく、聾唖者を鏡として健常者に欠けているもの、健常者が気付かないものを示している点で、本当の幸せは名声でも富でもなく、人に対する思いやりと互いに助け合い力を合せて生きていくことにあるという、タイトルに込められた思いにある。
物語は終戦の年から始まり、空襲と敗戦により人々がすべてを失った中で、秋子の姉や兄が精神もまた荒廃させ、物欲のみに生きていく。それに対し、ハンディキャップを負う者同士が周囲の不安と嘲りをよそに結婚し、互いの精神の結合によってさまざまな困難に立ち向かっていく。
本作で最も優れた演出は、二人は聾唖者だからこそできる会話、健常人には不可能なコミュニケートをすることで、それはガード下の騒音の中での手話であり、川を挟んでの手話であり、電車の窓越しの手話のシーンに描かれる。
健常人が声をもってする会話が偽りや嘲り、騙しであるのに対し、二人が交わす会話は真に精神的なもので、その間に障害は存在せず、むしろ障碍は健常人同士の声の会話にこそあることが示される。
子供が成長した中で夫が語る、最近僕は声が聞こえなくても妻や子供が何を言っているのか分るような気がする、という言葉に人同士のコミュニケーションの本質を見ることができる。
前半はいささか駆け足のストーリー展開だが、子供が成長を始めてからは聾唖者夫婦を演じる高峰秀子と小林桂樹の演技に圧倒される。息子を演じる二人の子役もいい。
ラストの秋子の悲劇はいささか唐突で、実話がベースとされるが、救いのある結末だった方がよかったという思いとともに、それが耳の聞こえない聾唖者が抱える現実の社会的障碍を示したという点で、意味のある終わり方だったのかもしれない。
秋子の母に原泉、姉に草笛光子、弟に沼田曜一。加山雄三がかつて秋子が助けた戦災孤児として一瞬だけ登場。 (評価:3.5)
製作:岩波映画
公開:1961年3月29日
監督:羽仁進 製作:吉野馨治 脚本:羽仁進 撮影:金宇満治 音楽:武満徹
キネマ旬報:1位
ドキュメンタリー手法で撮られた少年院の劇映画
岩波映画でドキュメンタリーの監督だった羽仁進の劇映画第1作。ドキュメンタリー手法でフィクションを撮るという当時としては斬新な作品。岩波映画は当時あった主に科学映画を製作していた製作会社で、『竜馬暗殺』『祭りの準備』の黒木和雄が出身。
銀座の宝石店で強盗を働いた少年が特別少年院送りとなり、出所するまでを少年院での生活と回想を交えて描く。出演者はすべて非行経験のある素人で生々しい臨場感を演出し、フィクションと感じさせない。
主人公は終戦の年に父親を亡くし、母と生活苦を送っていたという設定。当時としては貧困に非行の原因を求める社会派作品で、彼らへの社会の理解を求めるということが大きなテーマ。ある種、わかりやす過ぎて現代にはそぐわない。シケモクを工夫して吸うシーンなど少年院内の生活がリアル。舞台は横須賀にある久里浜少年院か?
見どころとしては当時の銀座界隈の風景。少年院内の少年たちがコノヤローを連発し、北野武の映画を彷彿させるのが可笑しい。少年院の非行少年がテーマという点では、東陽一の『サード』にも通じる。 (評価:3)
公開:1961年3月29日
監督:羽仁進 製作:吉野馨治 脚本:羽仁進 撮影:金宇満治 音楽:武満徹
キネマ旬報:1位
岩波映画でドキュメンタリーの監督だった羽仁進の劇映画第1作。ドキュメンタリー手法でフィクションを撮るという当時としては斬新な作品。岩波映画は当時あった主に科学映画を製作していた製作会社で、『竜馬暗殺』『祭りの準備』の黒木和雄が出身。
銀座の宝石店で強盗を働いた少年が特別少年院送りとなり、出所するまでを少年院での生活と回想を交えて描く。出演者はすべて非行経験のある素人で生々しい臨場感を演出し、フィクションと感じさせない。
主人公は終戦の年に父親を亡くし、母と生活苦を送っていたという設定。当時としては貧困に非行の原因を求める社会派作品で、彼らへの社会の理解を求めるということが大きなテーマ。ある種、わかりやす過ぎて現代にはそぐわない。シケモクを工夫して吸うシーンなど少年院内の生活がリアル。舞台は横須賀にある久里浜少年院か?
見どころとしては当時の銀座界隈の風景。少年院内の少年たちがコノヤローを連発し、北野武の映画を彷彿させるのが可笑しい。少年院の非行少年がテーマという点では、東陽一の『サード』にも通じる。 (評価:3)
小早川家の秋
公開:1961年10月29日
監督:小津安二郎 製作:藤本真澄、金子正且、寺本忠弘 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:中井朝一 音楽:黛敏郎 美術:下河原友雄
松竹の小津安二郎が東宝で制作した唯一の作品。当時、五社協定と呼ばれる映画各社の専属制度に監督も俳優も縛られていたが、東宝と松竹の代表的な俳優たちが共演している点でも貴重な作品。
物語は京都の造り酒屋を舞台に、大旦那(二代目中村鴈治郎)、店を切り盛りする長女夫婦(新珠三千代・小林桂樹)、大学教員だった長男の未亡人(原節子)、未婚の二女(司葉子)の家族を描くホームドラマ。
原の再婚話が絡むところは『東京物語』にも似るが、縁談の進む司には別に好きな男がいて、原が相談相手に。鴈治郎は昔の女(浪花千栄子)と再会して足繁く通うが、最後は好き勝手をやって往生。それを見ていた新珠は、最初は父を苛めるが、傾いた家業に、真面目しか能のない夫よりも、豪胆な父の方がマシだと葬式の日に悟る。
同じく原と司も、鴈治郎の生き方を見て、自分に正直に生きようと誓うという物語。
小津らしいホームドラマで脚本も完璧、映像的にも完成されていて、それぞれが一枚絵として成り立つカットをスライドショーのように構成する小津美学に溜め息が出る。人物のいない風景シーンを数カット続けた後に、人物の背中を映したシーンで再び動に転じる演出など、他の監督なら眠気を催すところだが小津はそうさせない。
本作の演技的な見どころは東宝所属の新珠三千代、藤木悠で、中村鴈治郎、浪花千栄子、杉村春子は当然の演技。兄(鴈治郎)の悪口を並べ立てた後で突然涙ぐむ杉村の演技は見もの。 (評価:3)
製作:東映東京
公開:1961年2月26日
監督:今井正 脚本:水木洋子 撮影:飯村雅彦 美術:下沢敬悟 音楽:林光
キネマ旬報:7位
"未来志向"のために見るべき韓国の根強い反日報復の原点
サンフランシスコ講和条約が締結されたため、韓国政府が一方的に領海・経済水域を定めた李承晩ラインにより、拿捕・銃撃の危機に晒されることになった玄界灘漁民を描く社会派ドラマ。
主人公は在日コリアンの青年(江原真二郎)で、差別から身を守るために日本人に成りすまして漁船に乗り込んでいる。ある日、素性を知る小学校の友人(高津住男)が現れて同じ漁船員となり、在日コリアンの娼婦(岸田今日子)にも見破られ、追い詰められていく。
友人は一生人を欺いて生きていくのかとカミングアウトを勧め、漁撈長(山村聡)に告白するも、既に母からの手紙で知っていた。コリアンとして出漁するが、韓国警備艇に拿捕され、一人逃げ遅れて揉みあいから銃殺されてしまう。
公開当時の在日コリアンの苦悩がテーマとなっていて、"労働者の天国"北朝鮮に帰還するか、軍事政権下の韓国に帰るか、民族の誇りを捨てて日本に残るかの選択を青年は迫られていた。
結果、民族の誇りと共に日本に残る決意をした青年は、同胞に殺され、「パンチョッパリ(半日本人)」と蔑まれて靴で踏みつけられる。
出口のない在日コリアンの状況が半世紀経った今でも変わらないのは、北朝鮮情勢、文在寅とその支持団体の親日清算運動からも明らかで、それと同時に理解しがたい韓国の根強い反日報復の原点を知る上で、日本人も韓国人も本作を見直して、"未来志向"を可能にする、ないしは可能かどうかを見極めるための価値のある作品となっている。 (評価:3)
公開:1961年2月26日
監督:今井正 脚本:水木洋子 撮影:飯村雅彦 美術:下沢敬悟 音楽:林光
キネマ旬報:7位
サンフランシスコ講和条約が締結されたため、韓国政府が一方的に領海・経済水域を定めた李承晩ラインにより、拿捕・銃撃の危機に晒されることになった玄界灘漁民を描く社会派ドラマ。
主人公は在日コリアンの青年(江原真二郎)で、差別から身を守るために日本人に成りすまして漁船に乗り込んでいる。ある日、素性を知る小学校の友人(高津住男)が現れて同じ漁船員となり、在日コリアンの娼婦(岸田今日子)にも見破られ、追い詰められていく。
友人は一生人を欺いて生きていくのかとカミングアウトを勧め、漁撈長(山村聡)に告白するも、既に母からの手紙で知っていた。コリアンとして出漁するが、韓国警備艇に拿捕され、一人逃げ遅れて揉みあいから銃殺されてしまう。
公開当時の在日コリアンの苦悩がテーマとなっていて、"労働者の天国"北朝鮮に帰還するか、軍事政権下の韓国に帰るか、民族の誇りを捨てて日本に残るかの選択を青年は迫られていた。
結果、民族の誇りと共に日本に残る決意をした青年は、同胞に殺され、「パンチョッパリ(半日本人)」と蔑まれて靴で踏みつけられる。
出口のない在日コリアンの状況が半世紀経った今でも変わらないのは、北朝鮮情勢、文在寅とその支持団体の親日清算運動からも明らかで、それと同時に理解しがたい韓国の根強い反日報復の原点を知る上で、日本人も韓国人も本作を見直して、"未来志向"を可能にする、ないしは可能かどうかを見極めるための価値のある作品となっている。 (評価:3)
製作:文芸プロダクションにんじんくらぶ
公開:1961年1月28日
監督:小林正樹 製作:若槻繁、小林正樹 脚本:松山善三、小林正樹、稲垣公一 撮影:宮島義勇 美術:平高主計 音楽:木下忠司
キネマ旬報:4位
圧巻のラストだが、そこまで執着する女か?
五味川純平の同名小説が原作。
前作、ソ連軍の侵攻で舞台が全滅、梶(仲代達矢)と弘中伍長(諸角啓二郎)、寺田(川津祐介)が生き残り、生還を目指すのが完結篇の物語。
前半の第5部は、岸田今日子、上田吉二郎らの避難民と合流し、中隊に出会って野戦病院で一緒だった丹下(内藤武敏)、桐原伍長(金子信雄)らが梶グループに参加。次々落伍者を出しながら密林から脱出、菅井きん、中村玉緒らの民間人と出会い、桐原伍長と訣別するまで。
後半の第6部は、宇野重吉、高峰秀子らの開拓村で泊まるもソ連兵の討伐隊に遭遇、投降。収容所で強制労働につき、桐原伍長と再会。病気になった寺田を桐原に殺され、桐原を殺して脱走、乞食同然の姿で流浪し、荒野に倒れるまで。
いわば敗戦篇で、敗残兵と満州移民たちの悲惨を描く。満人の犠牲によって得られた日本の繁栄がしっぺ返しを受けているのだという梶の台詞とともに、極限状況下での人間のエゴイズムと人間性の喪失、平等の国であるはずのソ連の非人間性への幻滅、国家という存在への懐疑が語られていく。
梶は生き残るために敵兵を殺し、仲間や避難民を見捨て、最後には私怨から日本兵までも殺してしまう。梶は妻に再会することを支えに生き残ろうとし、そのために人間性を犠牲にする。
それが人間の性(さが)であり、それを誰も責めることはできない。もしそれを非難するならば、そういう状況を生み出した戦争と国家が責められるべきであり、ファシズムもコミュニズムも含めた国家という存在の否定、個人の自由と尊厳こそが人間が人間として生きるための条件だと主張する。
梶が妻との再会の幻覚の中で、満州の荒野に斃れるラストシーンは圧巻で、人間の強さと弱さを見せつけられる。
残念なのは、新珠三千代演じる妻が専業主婦に染まった従属的な女であることで、行動も会話も相当にウザく、そこまで梶が執着する心が理解できない。 (評価:3)
公開:1961年1月28日
監督:小林正樹 製作:若槻繁、小林正樹 脚本:松山善三、小林正樹、稲垣公一 撮影:宮島義勇 美術:平高主計 音楽:木下忠司
キネマ旬報:4位
五味川純平の同名小説が原作。
前作、ソ連軍の侵攻で舞台が全滅、梶(仲代達矢)と弘中伍長(諸角啓二郎)、寺田(川津祐介)が生き残り、生還を目指すのが完結篇の物語。
前半の第5部は、岸田今日子、上田吉二郎らの避難民と合流し、中隊に出会って野戦病院で一緒だった丹下(内藤武敏)、桐原伍長(金子信雄)らが梶グループに参加。次々落伍者を出しながら密林から脱出、菅井きん、中村玉緒らの民間人と出会い、桐原伍長と訣別するまで。
後半の第6部は、宇野重吉、高峰秀子らの開拓村で泊まるもソ連兵の討伐隊に遭遇、投降。収容所で強制労働につき、桐原伍長と再会。病気になった寺田を桐原に殺され、桐原を殺して脱走、乞食同然の姿で流浪し、荒野に倒れるまで。
いわば敗戦篇で、敗残兵と満州移民たちの悲惨を描く。満人の犠牲によって得られた日本の繁栄がしっぺ返しを受けているのだという梶の台詞とともに、極限状況下での人間のエゴイズムと人間性の喪失、平等の国であるはずのソ連の非人間性への幻滅、国家という存在への懐疑が語られていく。
梶は生き残るために敵兵を殺し、仲間や避難民を見捨て、最後には私怨から日本兵までも殺してしまう。梶は妻に再会することを支えに生き残ろうとし、そのために人間性を犠牲にする。
それが人間の性(さが)であり、それを誰も責めることはできない。もしそれを非難するならば、そういう状況を生み出した戦争と国家が責められるべきであり、ファシズムもコミュニズムも含めた国家という存在の否定、個人の自由と尊厳こそが人間が人間として生きるための条件だと主張する。
梶が妻との再会の幻覚の中で、満州の荒野に斃れるラストシーンは圧巻で、人間の強さと弱さを見せつけられる。
残念なのは、新珠三千代演じる妻が専業主婦に染まった従属的な女であることで、行動も会話も相当にウザく、そこまで梶が執着する心が理解できない。 (評価:3)
製作:ニュー東映東京
公開:1961年11月22日
監督:田坂具隆 製作:大川博 脚本:成沢昌茂 撮影:飯村雅彦 美術:下沢敬悟 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:8位
戦後民主主義に希望を抱いた時代の息吹が伝わってくる
近藤健の同名児童文学が原作。
終戦から11年。昭和31年の埼玉県所沢の長屋の屋根裏に住む母子家庭の小学6年の少年を主人公に、日常の出来事を綴る日記風の作品。
野犬狩りや麻疹で死んでしまう同級生、ユネスコ村への写生、ガールフレンドとの西武園遊園地、運動会、母(木暮実千代)の死などのエピソードが描かれ、最後は階下の大工夫妻(三國連太郎、小宮光江)に引き取られながらも希望を失わない少年(伊藤敏孝)の姿を描く。
出生前後に父親がインドネシアで戦死していて、父への憧憬、ユネスコ村で見つけたインドネシア家屋を軸に、米軍基地、オンリーとなったガールフレンドの姉、公営ギャンブルの競輪場など、貧困と社会の矛盾を子供の純真な目からスケッチ風に見ていくが、淡々とし過ぎていて2時間半は長い。
とりわけ母の死のシーンはクライマックスを盛り上げようとしてくどく、親子討論会で市会議員(織田政雄)をつるし上げるシーンも生硬。
今はないユネスコ村や狭山丘陵から望む所沢周辺の緑豊かな景色、所沢米軍基地などの貴重な映像も見どころ。
担任教師に有馬稲子。平和と教育に関してユネスコについての授業風景もあり、子どもの権利が主なテーマとなっていて、かつての戦後民主主義に希望を抱いた時代の息吹が伝わってくる。 (評価:2.5)
公開:1961年11月22日
監督:田坂具隆 製作:大川博 脚本:成沢昌茂 撮影:飯村雅彦 美術:下沢敬悟 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:8位
近藤健の同名児童文学が原作。
終戦から11年。昭和31年の埼玉県所沢の長屋の屋根裏に住む母子家庭の小学6年の少年を主人公に、日常の出来事を綴る日記風の作品。
野犬狩りや麻疹で死んでしまう同級生、ユネスコ村への写生、ガールフレンドとの西武園遊園地、運動会、母(木暮実千代)の死などのエピソードが描かれ、最後は階下の大工夫妻(三國連太郎、小宮光江)に引き取られながらも希望を失わない少年(伊藤敏孝)の姿を描く。
出生前後に父親がインドネシアで戦死していて、父への憧憬、ユネスコ村で見つけたインドネシア家屋を軸に、米軍基地、オンリーとなったガールフレンドの姉、公営ギャンブルの競輪場など、貧困と社会の矛盾を子供の純真な目からスケッチ風に見ていくが、淡々とし過ぎていて2時間半は長い。
とりわけ母の死のシーンはクライマックスを盛り上げようとしてくどく、親子討論会で市会議員(織田政雄)をつるし上げるシーンも生硬。
今はないユネスコ村や狭山丘陵から望む所沢周辺の緑豊かな景色、所沢米軍基地などの貴重な映像も見どころ。
担任教師に有馬稲子。平和と教育に関してユネスコについての授業風景もあり、子どもの権利が主なテーマとなっていて、かつての戦後民主主義に希望を抱いた時代の息吹が伝わってくる。 (評価:2.5)
製作:パレスフィルムプロダクション
公開:1961年11月22日
監督:大島渚 製作:田島三郎、中島正幸 脚本:田村孟 撮影:舎川芳次 音楽:真鍋理一郎 美術:平田逸郎
キネマ旬報:9位
戦前的価値観を冷めた目で見る戦後世代の子供を描く
原作は大江健三郎の同名の芥川賞受賞作。
原作を読んだのは遥か昔だが、短編でストーリーはシンプルだったので、映画はかなりエピソードを膨らましていると思われる。
太平洋戦争末期、山村に墜落した米軍機パイロットの黒人兵が捕えられ、地下牢に監禁される。原作は少年の目を通した話で、やがて仲良くなって出歩くようになるが、黒人兵を引き渡すために町に連れていくことになり、怖れた黒人兵に人質にされる。父親は黒人兵をナタで殺し、少年は指を損傷する。
映画は村社会の大人たちの閉鎖的で利己的な欲望や因習を中心に描かれ、少年を通した視点は脇に追いやられている。大人たちを破壊すべき体制側として描くのは如何にも大島的で、その体制側の中心人物を三國連太郎が嫌らしく演じている。作品的には家父長制の戦前的価値観に縛られている大人たちを描きながら、それを冷めた目で見る子供たちに民主主義的な戦後的価値観を対比させている。
そう言ってしまえば一言で終わってしまう映画だが、守旧対変革、大人対若者といういつの世にも変わらない対立軸を描いているという点では、大人たちの狡猾さや頑迷さ、それがもたらす変革の壁の厚さは今も変わらず、古びた感じはしない。
大島はとりわけ大人たちの姿をロングショット・長回しのカメラによる客観視点で俯瞰するように描いていて、かなりの部分で成功している。とりわけ黒人兵が殺された後の本家の座敷を見通す固定カメラのロングショットが素晴らしく、数分に渡るワンショットの中で多数の俳優によって演じられるシーンは必見。
沢村貞子、浜村純、加藤嘉、戸浦六宏ら村人たちがリアル。ほかに小山明子、小松方正。 (評価:2.5)
公開:1961年11月22日
監督:大島渚 製作:田島三郎、中島正幸 脚本:田村孟 撮影:舎川芳次 音楽:真鍋理一郎 美術:平田逸郎
キネマ旬報:9位
原作は大江健三郎の同名の芥川賞受賞作。
原作を読んだのは遥か昔だが、短編でストーリーはシンプルだったので、映画はかなりエピソードを膨らましていると思われる。
太平洋戦争末期、山村に墜落した米軍機パイロットの黒人兵が捕えられ、地下牢に監禁される。原作は少年の目を通した話で、やがて仲良くなって出歩くようになるが、黒人兵を引き渡すために町に連れていくことになり、怖れた黒人兵に人質にされる。父親は黒人兵をナタで殺し、少年は指を損傷する。
映画は村社会の大人たちの閉鎖的で利己的な欲望や因習を中心に描かれ、少年を通した視点は脇に追いやられている。大人たちを破壊すべき体制側として描くのは如何にも大島的で、その体制側の中心人物を三國連太郎が嫌らしく演じている。作品的には家父長制の戦前的価値観に縛られている大人たちを描きながら、それを冷めた目で見る子供たちに民主主義的な戦後的価値観を対比させている。
そう言ってしまえば一言で終わってしまう映画だが、守旧対変革、大人対若者といういつの世にも変わらない対立軸を描いているという点では、大人たちの狡猾さや頑迷さ、それがもたらす変革の壁の厚さは今も変わらず、古びた感じはしない。
大島はとりわけ大人たちの姿をロングショット・長回しのカメラによる客観視点で俯瞰するように描いていて、かなりの部分で成功している。とりわけ黒人兵が殺された後の本家の座敷を見通す固定カメラのロングショットが素晴らしく、数分に渡るワンショットの中で多数の俳優によって演じられるシーンは必見。
沢村貞子、浜村純、加藤嘉、戸浦六宏ら村人たちがリアル。ほかに小山明子、小松方正。 (評価:2.5)
妻は告白する
公開:1961年10月29日
監督:増村保造 脚本:井手雅人 撮影:小林節雄 音楽:北村和夫 美術:渡辺竹三郎
原作は円山雅也の同名小説。
3人のパーティが登攀中に夫が足を滑らせて妻と宙づりになる。苦しくなった妻はザイルを切って夫を転落死させてしまうが、殺人の罪で裁判にかけられる。夫には生命保険が掛けられていた上に、夫婦は不仲で、岩の上でザイルを支えていた男と妻の関係を夫は疑っていた。
ザイルを切ったのは緊急避難だとする被告と裁判を通して真実を明らかにしていくサスペンス法廷劇だが、裁判の様子はいささかドラマ的でリアリティに欠ける。検事は憶測ばかりを話すし、被告は不利なことばかり証言する。そうしないとドラマにならないということだが、法廷の不自然さを半世紀前の映画だからと気にしなければ、女のドラマとして結構楽しめる。裁判で明らかになるのは事件の真相ではなくて、女の魔性。
その女の魔性を若尾文子が好演する。手玉に取られるのは夫が不倫を疑った川口浩で、裁判を通して「夫を殺した可哀そうな妻」を演じる若尾にのめり込んでいく。夫を演じるのは小沢栄太郎で、歳の離れた若尾を無理やり妻にし、可愛さ余って苛めるというサディストぶりがいい。
この時代、女は男に従属するもので、小沢が若尾に求めたのは家事・セックス・助手の3つだった。検事が若尾を責めるのも、なぜ夫とともに死のうとしなかったのかという殉死の概念で、作品の本来のテーマは女の精神の在り方にある。
しかしこの映画は、川口同様、観客が若尾の魔性の演技に骨抜きにされるために観るのであって、女なら若尾の演技から男の心を?む術を学ぶことができる。川口の恋人・馬渕晴子は独り冷静に真実の愛について考える。 (評価:2.5)
好色一代男
公開:1961年03月21日
監督:増村保造 製作:永田雅一 脚本:白坂依志夫 撮影:村井博 音楽:塚原晢夫 美術:西岡善信
井原西鶴の同名浮世草子が原作。女のためならどれだけ金を使っても厭わないという京都の商家のドラ息子・世之介の女遍歴を描いたもの。原作は7歳から60歳までの八巻の長編で、映画では19歳で親に勘当される前後から、60歳で女護が島に船出するまでを描くが、10年余りの話として92分にまとめられている。
女3742人、少年725人と遊んだという、男の願望を叶える法螺話だが、映画は官能的だがポルノシーンはない艶笑話。遊女など市川雷蔵の相手を務めるのも若尾文子、中村玉緒、水谷良重といった面々。パッケージやクレジットでは若尾文子がフューチャーされているが、最後に出てくるだけのお飾り。むしろ中村玉緒の体当たり演技が見どころ。世之介の父役・二代目中村鴈治郎との父娘出演。
市川雷蔵がいい。ただの女好きではなく、心底女を崇め奉るフェミニストぶりを熱演する。この映画には女中同然に扱われる母、商品としての遊女、飢饉で売られる娘、貧しさから網元の妾となった漁師の娘といった女たちが登場する。
そうした虐げられ、物として扱われる女を解放する世之介の姿を通して、増村は戦後の民主主義の中でも変わらない男性社会を告発する。一方で、増村は女性の自立を促す作品も送り出したが、社会の旧弊は映画から半世紀を経ても変わらない。
ダイジェスト感が否めず、駆け足で落ち着かない作品だが、軽快なテンポの好色一代男の艶笑話として楽しめ、世之介ともども好色丸で女護が島を目指したくなる。 (評価:2.5)
モスラ
公開:1961年7月30日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 特技監督:円谷英二 撮影:小泉一 美術:北猛夫、阿部輝明 音楽:古関裕而
週刊朝日掲載の『発光妖精とモスラ』(中村真一郎、福永武彦、堀田善衛共著)が原作。
ゴジラ、ラドンに続く東宝3大怪獣の一つで、蛾の怪獣。
田中友幸の肝煎りで製作されただけあって、小美人のザ・ピーナッツを始め、フランキー堺、香川京子、上原謙という豪華キャスト。東宝特撮レギュラーの志村喬、小泉博、平田昭彦も顔を揃える。
とりわけ特撮シーンがよくできていて、ミニチュアのセット、戦車などの乗り物と実景との合成が自然。
なぜモスラが突然奥多摩湖に現れたのかは不明だが、小河内ダムの決壊シーンもなかなか迫力がある。インファント島沖での船の座礁シーンや、モスラの幼虫が移動する横田基地から青梅街道、渋谷、東京タワーにいたる特撮映像は見応えがある。
小美人がメインキャラクターということもあって、全編ほぼ特撮と合成シーンだが、モスラがニューヨーク(劇中ではニューカーク)に移動してからは、架空都市ということもあってミニチュア・セットが急に未来都市風になってリアリティを失ってしまうのが残念。
水爆実験で放射能汚染されたインファント島から座礁船舶の乗組員が救助されるのが、物語の発端。赤い水を飲んだために放射能反応がなかったことから日米(劇中ではロリシカ国)調査隊が島に向かい、小美人を発見。調査団はこれを秘密にするが、同行したネルソンが小美人を連れ帰り見世物にしたことから、島の守護神モスラが救出にやってくる。
モスラはミサイル攻撃で折れた東京タワーで繭を作るが、基本的には平和的で、成虫変態後に、ニューヨークに連れ去られた小美人を空を飛んで追いかけ、奪還。ネルソンは非国民となって警官隊と銃撃の末、死ぬ・・・というのがストーリー。
破壊王のゴジラに対し、モスラはあくまで平和主義と人道主義を貫き、作品全体のテイストも、これまで未開文化として描かれてきた南島文化を異文化として保護するという、その後の環境保護にも繋がる新たなテーマが導入されている。 (評価:2.5)
製作:松竹大船
公開:1961年9月16日
監督:木下恵介 製作:月森仙之助、木下恵介 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:梅田千代夫 音楽:木下忠司
キネマ旬報:3位
木下らしい純化されたロマンチシズムがリアリティを欠く
地主の息子・平兵衛と、手籠めにされて否応なく結婚した小作人の娘・さだ子の、永年の夫婦の確執を章立てにして描く年代記。
さだ子(高峰秀子)には同じ小作人の恋人・隆(佐田啓二)がいて、隆は他の女(乙羽信子)と結婚するが、二人は互いに思い続け、平兵衛(仲代達矢)もさだ子の心が自分にないことを知っている。
そのために2男1女の子供たちを巻き込んだ家庭不和が続き、さだ子と平兵衛は憎しみ合う一生を送るが、隆の死に際に3人が和解して終わる。
タイトルには含蓄があって、さだ子と隆の関係を指すように思えるが、さだ子と平兵衛にとっても互いに永遠の人であり、それがラストの和解によって成就する。
物語的にいえば、憎しみ合うさだ子と平兵衛の関係はいささか不自然。さだ子と隆の関係を含めて木下恵介らしい純化されたロマンチシズムが仮想的で、いささかリアリティを欠いている。本来なら、さだ子と平兵衛の愛憎がもっとあって良いのだが、憎しみ合う関係という単純化が、ドラマを平板にしてしまっている。
それでも高峰秀子と仲代達矢という今から見れば夢のような競演で、二人が30年の年月の経過を巧みに演じ分けているのが最大の見どころとなっている。さだ子の父を演じる加藤嘉の小作人の卑屈ぶりもいい。
阿蘇の麓が舞台となっていて、茅葺きの大農家、田園風景や渓谷、噴煙を上げる阿蘇山が美しく、農家内のカメラワークなど映像も見応えがある。
さだ子と平兵衛の長男にデビューしたての田村正和が初々しい。 (評価:2.5)
公開:1961年9月16日
監督:木下恵介 製作:月森仙之助、木下恵介 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:梅田千代夫 音楽:木下忠司
キネマ旬報:3位
地主の息子・平兵衛と、手籠めにされて否応なく結婚した小作人の娘・さだ子の、永年の夫婦の確執を章立てにして描く年代記。
さだ子(高峰秀子)には同じ小作人の恋人・隆(佐田啓二)がいて、隆は他の女(乙羽信子)と結婚するが、二人は互いに思い続け、平兵衛(仲代達矢)もさだ子の心が自分にないことを知っている。
そのために2男1女の子供たちを巻き込んだ家庭不和が続き、さだ子と平兵衛は憎しみ合う一生を送るが、隆の死に際に3人が和解して終わる。
タイトルには含蓄があって、さだ子と隆の関係を指すように思えるが、さだ子と平兵衛にとっても互いに永遠の人であり、それがラストの和解によって成就する。
物語的にいえば、憎しみ合うさだ子と平兵衛の関係はいささか不自然。さだ子と隆の関係を含めて木下恵介らしい純化されたロマンチシズムが仮想的で、いささかリアリティを欠いている。本来なら、さだ子と平兵衛の愛憎がもっとあって良いのだが、憎しみ合う関係という単純化が、ドラマを平板にしてしまっている。
それでも高峰秀子と仲代達矢という今から見れば夢のような競演で、二人が30年の年月の経過を巧みに演じ分けているのが最大の見どころとなっている。さだ子の父を演じる加藤嘉の小作人の卑屈ぶりもいい。
阿蘇の麓が舞台となっていて、茅葺きの大農家、田園風景や渓谷、噴煙を上げる阿蘇山が美しく、農家内のカメラワークなど映像も見応えがある。
さだ子と平兵衛の長男にデビューしたての田村正和が初々しい。 (評価:2.5)
製作:大映東京
公開:1961年5月3日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 美術:下河原友雄 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:10位
テーマが持ち出されるまではお気楽に楽しめるコメディだが
和田夏十のオリジナル脚本で、超多忙なテレビ・プロデューサーが主人公。昼も夜もなく、家に帰る暇もないという生活と、片っ端から女を恋人にしてしまうという設定は、現在のIT企業のように当時、最先端を行く花形産業であった草創期のテレビ局という時代性を理解できないと、浮世離れした絵空事に思えてしまう。
テレビ放送の開始は1953年からで、1961年は皇太子御成婚で一般家庭に受像機が普及し始めた頃。ドラマも生放送が多く、そうした事情が本作の根底にある。テレビマンも出演者や周囲の人間も、そうした浮ついた環境にあって、常軌を逸したモーレツ・サラリーマンたるプロデューサーが、仕事に追いまくられ、自己を喪失した姿を皮肉った作品といえる。
典型としてテレビマンを描くが、当時、高度成長期を迎えて会社人間化していく日本人全般と、それに付和雷同する女たちへの批判が込められていて、実際、浮気な男に愛想を尽かしながらも他の女に盗られるのは嫌という身勝手な、これまた愛も自己も喪失した女が並ぶ。
そうした中で、岸恵子演じる妾1号だけが愛も自己も見失うことなく、仮面である女優を捨てた素顔となって、本妻や他の女たちが捨てた男を手に入れる。
ただドラマ的には、どうしようもない男と10人の女たちの風俗が面白く、実は高度成長に向かう日本人男女の精神の喪失がテーマなんですよ、と終盤になっていわれると、急に教訓的になってそれまでのコミカルな気分を削がれてしまい、そうした時代の映画とはいえ、白けてしまう。
モテモテダメ男を船越英二、本妻を山本富士子、以下、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子等が演じて、前半はお気楽に楽しめる。ハナ肇とクレイジーキャッツ、森山加代子がゲスト出演。 (評価:2.5)
公開:1961年5月3日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 美術:下河原友雄 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:10位
和田夏十のオリジナル脚本で、超多忙なテレビ・プロデューサーが主人公。昼も夜もなく、家に帰る暇もないという生活と、片っ端から女を恋人にしてしまうという設定は、現在のIT企業のように当時、最先端を行く花形産業であった草創期のテレビ局という時代性を理解できないと、浮世離れした絵空事に思えてしまう。
テレビ放送の開始は1953年からで、1961年は皇太子御成婚で一般家庭に受像機が普及し始めた頃。ドラマも生放送が多く、そうした事情が本作の根底にある。テレビマンも出演者や周囲の人間も、そうした浮ついた環境にあって、常軌を逸したモーレツ・サラリーマンたるプロデューサーが、仕事に追いまくられ、自己を喪失した姿を皮肉った作品といえる。
典型としてテレビマンを描くが、当時、高度成長期を迎えて会社人間化していく日本人全般と、それに付和雷同する女たちへの批判が込められていて、実際、浮気な男に愛想を尽かしながらも他の女に盗られるのは嫌という身勝手な、これまた愛も自己も喪失した女が並ぶ。
そうした中で、岸恵子演じる妾1号だけが愛も自己も見失うことなく、仮面である女優を捨てた素顔となって、本妻や他の女たちが捨てた男を手に入れる。
ただドラマ的には、どうしようもない男と10人の女たちの風俗が面白く、実は高度成長に向かう日本人男女の精神の喪失がテーマなんですよ、と終盤になっていわれると、急に教訓的になってそれまでのコミカルな気分を削がれてしまい、そうした時代の映画とはいえ、白けてしまう。
モテモテダメ男を船越英二、本妻を山本富士子、以下、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子等が演じて、前半はお気楽に楽しめる。ハナ肇とクレイジーキャッツ、森山加代子がゲスト出演。 (評価:2.5)
赤穂浪士
公開:1961年3月28日
監督:松田定次 製作:大川博 脚本:小国英雄 撮影:川崎新太郎 美術:川島泰三 音楽:富永三郎
大佛次郎の同名小説が原作。
忠臣蔵といえば12月という今の常識からいえば、春休み公開で大ヒットというのが興味深い。東映創立10周年記念映画として制作されたが、当時の東映オールスターキャストというのが一番の見どころ。討入りのシーンなど、映像的にも力が入っている。
大石内蔵助に片岡千恵蔵、吉良上野介に月形龍之介、千坂兵部に市川右太衛門、脇坂淡路守に中村錦之助、堀部安兵衛に東千代之介、浅野内匠頭に大川橋蔵、上杉綱憲に里見浩太郎、片岡源五右衛門に山形勲。原作オリジナルキャラの堀田隼人に大友柳太朗、伝吉に中村賀津雄、立花左近に大河内傳次郎。大石主税の松方弘樹19歳が、ちょっと違和感。
元禄、綱吉の側用人、柳沢吉保と吉良上野介を巡る賄賂話を発端に、松之廊下から討入りまでを描くが、行進は泉岳寺までは描かれず、日本橋で終わりとなる。
物語はわかっているという前提で、見せ場をハイライト風に繋ぐため、忠臣蔵が初めての人には若干不親切かもしれない。とりわけ山場である松之廊下、吉良邸討入りは念入りに描かれ、内匠頭や内蔵助らが武士の本意を語る場面では持って回った言い方が多く、現代劇のテンポの良い作品を見慣れていると、まったりと冗長に感じる。
一昔前の、舞台風な本格時代劇を観るという心持が必要。 (評価:2.5)
大菩薩峠 完結篇
公開:1961年5月17日
監督:森一生 製作:永田雅一 脚本:衣笠貞之助 撮影:本多省三 音楽:塚原哲夫 美術:西岡善信
中里介山の同名小説が原作。3部作の三。5回映画化されている中の三隅研次・森一生版で本作の監督は森一生。
前作ラストの机竜之助(市川雷蔵)・宇津木兵馬(本郷功次郎)対決で崖から落ちた竜之助がお豊(中村玉緒)とともに逃亡するシーンから始まるが、冒頭前二作のあらすじ紹介が入る。
伊勢大湊でお豊は遊女となるが病魔に侵され自ら命を絶つ。竜之助は生け花の師匠と東に向かい、途中戦いで見せ場を作りながら甲府に向かい、名刀を手に入れて辻斬りをするが、その持ち主が何と殺した妻・お浜のそっくりさんで中村玉緒の三役目となるお銀というストーリー。人でなしの父親が大菩薩峠にいる子供恋しさに嘆くという訳の分からないエピソードを織り交ぜながら、相変わらず物語のための物語、段取りのための段取りを続け、お銀の家でお浜の亡霊に半狂乱になるという怪談仕立て。
ここからが本作最大の見どころで、兵馬との対決シーンを迎えながらも大嵐で村が水没、時代劇としては異色の特撮シーンを経て、竜之助の乗る藁葺き屋根のお銀の家がひょっこりひょうたん島の如く大水に流されて終わる。
森一生の演出は思わせぶりな内緒話を耳に口を当ててするなど、オーソドックスというよりは臭い。殺陣、怪談、特撮とエンタテイメントをてんこ盛りしているが、そういえばお松の山本富士子はどうした? と完結篇のはずなのに大菩薩峠の最初の因縁キャラが登場しないことが気にかかる。 (評価:2)
アラブの嵐
公開:1961年12月24日
監督:中平康 脚本:山田信夫、中平康 撮影:山崎善弘 美術:松山崇 音楽:黛敏郎
石原裕次郎主演、中平康監督ということ以外には取り立てて何もない映画だが、海外ロケで、エジプトの裕次郎と芦川いづみが楽しめるというのがミソ。後半では、裕次郎はアラビアのロレンスばりに白い民族衣装をまとう。
物語も『アラビアのロレンス』を彷彿させ、架空の国アラヤ独立運動の独立派と植民地主義者たちの争いに裕次郎が巻き込まれ、裕次郎が独立派に組する。
冒頭は大会社の統帥が死んで、ボンボン課長で孫の裕次郎がパリに左遷されるというとってつけた話で、協力のパンアメリカン航空の意向からか、裕次郎はパリに向かわずにベイルートからカイロに向かう。
ベイルートで独立運動の工作員にマイクロフィルムの入った鞄とすり替えられ、カイロで両派から付け狙われることになる。ここからはエジプト観光を兼ねていて、ピラミッド・スフィンクス・ルクソールとパンナムの意向に従って必要もない遺跡巡りをするが、当時のことなので、ピラミッドに登ったり、遺跡内で撮影したりと、思わぬシーンが続いたりする。
見どころといえば、この遺跡シーンと可愛い芦川いづみくらいだが、正月映画として金をかけた作品であったことは窺われる。
国内シーンには金子信雄、浜村純、山岡久乃が登場。模型を使った飛行シーンがちゃちい。 (評価:2)
製作:東映京都
公開:1961年11月8日
監督:伊藤大輔 製作:大川博 脚本:伊藤大輔 撮影:坪井誠 美術:桂長四郎 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:6位
悲劇のヒーローに成り切れない錦之助ありきのスター映画の限界
大佛次郎の歌舞伎の戯曲『築山殿始末』が原作。
織田信長政権下、徳川家康(佐野周二)の嫡男・信康(中村錦之助)の第二子の誕生から、正室で信長の娘・徳姫(岩崎加根子)との確執、生母で今川義元の血を引く築山御前(杉村春子)の今川家との内通事件を通して、信康が切腹に至るまでを描く。
物語そのものは、事件の顛末を描く説話形式を採っているが、中村錦之助を主役とする信康を主人公に描いているために、人格と素行に相当問題のある信康が悲劇のヒーローに成り切れず、徳姫とのラブストーリーにも相当無理があり、中村錦之助ありきのスター映画の限界を感じさせる。
粗暴な上に女癖は悪く、奥方や側近に対しての理不尽な言動など、信長(月形龍之介)や父・家康に対する反逆も、信長・家康に正当性があるように見えてしまい、どこが反逆児かといった感じ。どうやっても花を持たせられない中村錦之助に、無理やり花を持たせている。
このため、ラストの切腹もむしろ当然といった感じで主人公に少しも同情できないのが何とも痛く、悲劇のヒーロー像になり得ていない。
徳姫とのとってつけたような和解も、愛してるといった台詞やキスシーンが武将らしくなく、現代劇のラブストーリーを見せられているようで、どうにも不自然。違和感アリアリで、実記ものとしての興趣を削いでいるが、死を観念してから切腹に至るまでの過剰にセンチメンタルな描写もくどくて、話が進まないために瞼が重くなるという逆効果。
築山御前の丑の刻参りも実記ものとしては相当に浮いている印象だが、杉村春子の演技がホラー映画のようで、作品から切り離せば見どころとなっている。
介錯をする服部半蔵に東千代之介。 (評価:2)
公開:1961年11月8日
監督:伊藤大輔 製作:大川博 脚本:伊藤大輔 撮影:坪井誠 美術:桂長四郎 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:6位
大佛次郎の歌舞伎の戯曲『築山殿始末』が原作。
織田信長政権下、徳川家康(佐野周二)の嫡男・信康(中村錦之助)の第二子の誕生から、正室で信長の娘・徳姫(岩崎加根子)との確執、生母で今川義元の血を引く築山御前(杉村春子)の今川家との内通事件を通して、信康が切腹に至るまでを描く。
物語そのものは、事件の顛末を描く説話形式を採っているが、中村錦之助を主役とする信康を主人公に描いているために、人格と素行に相当問題のある信康が悲劇のヒーローに成り切れず、徳姫とのラブストーリーにも相当無理があり、中村錦之助ありきのスター映画の限界を感じさせる。
粗暴な上に女癖は悪く、奥方や側近に対しての理不尽な言動など、信長(月形龍之介)や父・家康に対する反逆も、信長・家康に正当性があるように見えてしまい、どこが反逆児かといった感じ。どうやっても花を持たせられない中村錦之助に、無理やり花を持たせている。
このため、ラストの切腹もむしろ当然といった感じで主人公に少しも同情できないのが何とも痛く、悲劇のヒーロー像になり得ていない。
徳姫とのとってつけたような和解も、愛してるといった台詞やキスシーンが武将らしくなく、現代劇のラブストーリーを見せられているようで、どうにも不自然。違和感アリアリで、実記ものとしての興趣を削いでいるが、死を観念してから切腹に至るまでの過剰にセンチメンタルな描写もくどくて、話が進まないために瞼が重くなるという逆効果。
築山御前の丑の刻参りも実記ものとしては相当に浮いている印象だが、杉村春子の演技がホラー映画のようで、作品から切り離せば見どころとなっている。
介錯をする服部半蔵に東千代之介。 (評価:2)
ゼロの焦点
公開:1961年3月19日
監督:野村芳太郎 製作:保住一之助 脚本:橋本忍、山田洋次 撮影:川又昂 美術:宇野耕司 音楽:芥川也寸志
松本清張の同名小説が原作。
原作は主人公の禎子(久我美子)が失踪した新婚間もない夫の過去を求めて真相を解き明かしていく物語だが、本作は犯人を推測できないようにするためにいたずらに話を混乱させ、戦後パンパンとなった女性たちの悲劇を終盤で強調しすぎ、ミステリー映画としての出来は悪い。
シナリオがよく練られていない上に推理の内容を映像シーンで見せるため、どれが真実なのか渾然としてしまい、頭が悪いとラストシーンに至って事件の真相がよくわからなくなってしまう。
禎子の推理ではなく真犯人が自ら事件の真相を説明するというのも興醒めで、信憑性も不明。禎子が一人で事件を解き明かしていく構成にした方が親切だった。
複雑な話を90分のプログラムピクチャーにしたのに無理があり、ミステリーと社会派作品の二兎を追ってどちらも得られていない。
ラストの崖の上の対決も、クライマックスとしては派手だが、通俗過ぎて余韻がなく、これもプログラムピクチャーの限界。最後は野村芳太郎得意の泣かせで、面目を保った感じ。
社長夫人(高千穂ひづる)が陰の主人公だが、主役を食っていて最初から怪しげなのもつまらない。
パンパンに有馬稲子。西村晃、加藤嘉、沢村貞子と配役は渋い。 (評価:2)
社長道中記
公開:1961年4月25日
監督:松林宗恵 製作:藤本真澄 脚本:笠原良三 撮影:鈴木斌 美術:浜上兵衛 音楽:古関裕而
社長シリーズ第10作。源氏鶏太の『随行さん』が原作。
缶詰会社の社長(森繁久彌)が大阪支社のテコ入れを会長(左卜全)に命令されての大阪出張。お目付け役に真面目サラリーマンの小林桂樹が同行。いい加減な大阪支社長・三木のり平とのトリオ漫才が展開され、芸者に新珠三千代、同伴ママに淡路恵子が絡んでいつも通りの浮気騒動。
小林桂樹と看護婦・団令子との恋愛話もからむが、最初におかれた伏線、睡眠薬と強壮剤が、案の定、最後に使われるという定番ぶり。
シナリオも、演出もテレビドラマレベルで、映画として見るには凡庸。しかし、公開はテレビがまだ普及していない時代で、プログラムピクチャーとしての2本立てだった当時、人気のあるテレビドラマみたいなものだと考えれば、クオリティはこんなもの。
芸達者を揃えたコメディは笑わせてくれるし、大福でも齧ってお茶を飲みながら見るにはちょうどいい暇つぶしになる。
(評価:2)
南の島に雪が降る
公開:1961年9月29日
監督:久松静児 製作:佐藤一郎、金原文雄 脚本:笠原良三 撮影:黒田徳三 美術:小島基司 音楽:広瀬健次郎
加東大介の同名の従軍経験手記が原作。
ニューギニアに出征した加藤大介が、俳優の経歴を買われて演芸分隊の編成を命じられ、最前線に向かっていく兵士たちに芝居を見せて慰安するという物語。
各部隊から集める隊員たちに伴淳三郎、有島一郎、渥美清、桂小金治といった喜劇役者。ほかに森繁久彌、フランキー堺、三木のり平らの芸達者な個性派が加わって、今ひとつな演技の加藤大介の代わりに、それほど面白くない物語を賑やかにする。
見どころはほぼこれに尽きて、タイトルでもある舞台に雪を降らせる最後のシーンも、なんでこれがクライマックスなのかよくわからない。
瀕死の兵士が芝居見たさにやってきて、雪のシーンで命尽き、舞台に上げて雪を降らせて弔うが、もともと彼のために雪を降らせたわけではなく、単に司令官の命令というだけで彼とは無関係なため、ラストシーンは何に感動したらよいのか戸惑う。
そうした肝腎の点で? がつく作品。 (評価:2)
無鉄砲大将
公開:1961年4月16日
監督:鈴木清順 脚本:松浦健郎、中西隆三 撮影:永塚一栄 美術:松井敏行 音楽:鏑木創
空手部の高校生が、町のゴミであるヤクザを相手に大活躍する物語。もっとも高校生の方も、正義漢から町のゴミ掃除に精を出すのはいいが、勉強もせずに喧嘩ばかりしていて余り感心しない。
主人公・英次(和田浩治)の母(山岡久乃)はシングルマザーで、ヤクザ(富田仲次郎)がオーナーのバーの雇われママ。薹が立ってヤクザは若くて美人の雪代(芦川いづみ)にママを交替させようと画策。
雪代はヤクザの子分・五郎(葉山良二)と恋仲で、英次の憧れの君。英次に片思いなのが社長令嬢の京子(清水まゆみ)で、英次の母のバーの開業資金のためにパパ(松下達夫)に買ってもらった車を売り払う。
ヤクザは雪代を愛人にしようとしてアル中医者の雪代の父(菅井一郎)を誘拐。雪代をおびき出して危機一髪というところに英次が乗り込み、大立ち回りの末、警官隊が駆け付けてヤクザは逮捕。アクションあり恋ありの鈴木清順らしいテンポのいい娯楽作品。
アクション劇画風のご都合主義の設定とベタなストーリーで、佐川ミツオが筋に関係なくスカして歌うのがズッコケるが、昭和のプログラム・ピクチャーの風情を感じさせる。
豊島園のローラースケート場や池袋周辺の街の様子が見られるが、変わり過ぎていてよくわからない。 (評価:2)