日本映画レビュー──1925年
雄呂血
公開:1925年11月20日
監督:二川文太郎 脚本:寿々喜多呂九平 撮影:石野誠三
日本の剣戟映画にエポックメーキングな影響を残したといわれる阪妻主演のサイレント映画。
プロローグの字幕「世人…無頼漢を称する者、必ずしも真の無頼漢のみに非らず。善良高潔なる人格者と称せらるる者必ずしも真の善人のみに非らず。表面善事の仮面を破り、裏面に奸悪を行う大偽善者。亦、我等の世界に数多く生息する事を知れ…」が本作のすべて。
善人がならず者と思われ、ならず者が善人と思われる世の中の矛盾を描くが、主人公は善人というよりは、性根は良いが頭が悪いだけの男で、酒席で売られた喧嘩を買ってしまい、師(関操)に責められると言い訳に終始。
往来で師と娘(環歌子)の悪口を耳にした途端、逆上して斬りかかり、挙句潔白を信じてほしいと嫌がる娘を羽交い締め。浪人となって流浪の果てに、旅籠でクレイマーとなってのお仕置き。そこで知り合ったスリと組んでの用心棒、無頼漢、町の鼻つまみ者となる。
「表面善事の仮面を破り、裏面に奸悪を行う大偽善者」の親分の食客となるも、偶然やってきた師の娘が手籠にされるのを助け、挙句が捕縛。善人が正義感ゆえに世の中の爪弾き者となり、どこまで行っても救われないという悲劇と、そんな世の中の矛盾を描くが、主人公を見る限りどう見ても身から出た錆としか思えない。
もっとも、そんな男が主人公で、世の中の不合理をテーマにしたところが本作の優れたところで、正直者の生きにくい世の中、正直者が弾き出される世の中、悪人が大手を振って歩く世の中、正義の通じない世の中と、100年経っても変わらない今の世を卓見した作品。
本作が制作されたのは大正から昭和へと移ろう時代で、大正デモクラシーを背景に政治や社会への庶民の不満を訴え、それが人々の共感を呼んで溜飲を下げることになったが、権力批判の匂いも芬々で検閲でかなりカットされた。
暗黒の時代を前にした当時の自由民権の息吹を感じることができる。
牧野省三の下、阪妻プロダクションの第1回作品で、大掛かりなセットでの迫力ある殺陣を中心に、その後の剣戟シーンに影響を与えたとされる立ち回りなど、映像的な見どころが多い。 (評価:2.5)