外国映画レビュー──2008年
製作国:アメリカ
日本公開:2009年4月25日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ビル・ガーバー、ロバート・ロレンツ 脚本:ニック・シェンク 撮影:トム・スターン 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンズ
キネマ旬報:1位
栄光を失ったアメリカ自動車の町、移民たちの友情物語
原題は"Gran Torino"で、1970年代のヴィンテージ・カーの名称。
主人公(クリント・イーストウッド)はミシガン州に住むフォードの元自動車工の老人。頑固で偏屈、愛妻に先立たれ、息子や孫たちに煙たがられている。この男がこよなく愛するのが分身であるグラン・トリノ。
この作品を観るためには、ミシガン州の自動車産業の歴史を理解しておく必要がある。2009年にGMが経営破綻するなど自動車不況は深刻化し、先般(2013/7/18)財政破綻したデトロイトでは人口が最盛期の4割以下に減少している。自動車工は失業し、かつての栄光も誇りも失った町の遺物が主人公で、息子はトヨタのディーラーに勤務。グラン・トリノは、博物館行きとなった主人公そのものを象徴する。
デトロイトの住民の8割は黒人で、映画に出てくるモン人が増加するなど、白人は1割強しかいない。しかし主人公がポーランド系、床屋がイタリア系、建設業者がアイルランド系というように、彼らも第二次世界大戦前後に移り住んだ移民で、本作は移民の町で新旧の住民が異文化ゆえに対立し、やがて相手を理解して友情を通わせる物語となっている。
簡単にいえば、主人公と隣家に住む心やさしいモン人少年の友情物語で、遺物のような男が変わることのない男の生き方と魂を少年に伝える。物語のテーマと構造は『荒野の用心棒』で、イーストウッドはガンマンそのもの。悪のはびこる町で、女子供を虐げる連中を成敗する。ただ本作ではそれを現代に置き換えて成功しており、ラストも現代風で主人公のヒーロー性が際立つ。
イーストウッド監督の中でも出来の良い作品だが、アカデミー賞にはまったく引っかかっていない。アカデミーは政治色を嫌うと言われるが、本作は移民たちの物語、衰退したアメリカの象徴の物語で、WASPやエスタブリッシュメントの白人アメリカ人にとってはアン・タッチャブルな映画。 (評価:3.5)
日本公開:2009年4月25日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ビル・ガーバー、ロバート・ロレンツ 脚本:ニック・シェンク 撮影:トム・スターン 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンズ
キネマ旬報:1位
原題は"Gran Torino"で、1970年代のヴィンテージ・カーの名称。
主人公(クリント・イーストウッド)はミシガン州に住むフォードの元自動車工の老人。頑固で偏屈、愛妻に先立たれ、息子や孫たちに煙たがられている。この男がこよなく愛するのが分身であるグラン・トリノ。
この作品を観るためには、ミシガン州の自動車産業の歴史を理解しておく必要がある。2009年にGMが経営破綻するなど自動車不況は深刻化し、先般(2013/7/18)財政破綻したデトロイトでは人口が最盛期の4割以下に減少している。自動車工は失業し、かつての栄光も誇りも失った町の遺物が主人公で、息子はトヨタのディーラーに勤務。グラン・トリノは、博物館行きとなった主人公そのものを象徴する。
デトロイトの住民の8割は黒人で、映画に出てくるモン人が増加するなど、白人は1割強しかいない。しかし主人公がポーランド系、床屋がイタリア系、建設業者がアイルランド系というように、彼らも第二次世界大戦前後に移り住んだ移民で、本作は移民の町で新旧の住民が異文化ゆえに対立し、やがて相手を理解して友情を通わせる物語となっている。
簡単にいえば、主人公と隣家に住む心やさしいモン人少年の友情物語で、遺物のような男が変わることのない男の生き方と魂を少年に伝える。物語のテーマと構造は『荒野の用心棒』で、イーストウッドはガンマンそのもの。悪のはびこる町で、女子供を虐げる連中を成敗する。ただ本作ではそれを現代に置き換えて成功しており、ラストも現代風で主人公のヒーロー性が際立つ。
イーストウッド監督の中でも出来の良い作品だが、アカデミー賞にはまったく引っかかっていない。アカデミーは政治色を嫌うと言われるが、本作は移民たちの物語、衰退したアメリカの象徴の物語で、WASPやエスタブリッシュメントの白人アメリカ人にとってはアン・タッチャブルな映画。 (評価:3.5)
製作国:アメリカ、ドイツ
日本公開:2009年6月19日
監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス 音楽:ニコ・ムーリー
キネマ旬報:6位
無学ゆえに戦犯となった女をウィンスレットが好演
原題は"The Reader"で、ベルンハルト・シュリンクの同名小説(邦題は『朗読者』)が原作。
前半は主人公の男(レイフ・ファインズ)の少年時代の年上の女(ケイト・ウィンスレット)との性体験物語が延々と描かれ、『青い体験』かと思わせる。女は少年に本を読んでもらうのが好きで、『オデッセイア』やチェーホフが出てくるあたりが、おや? と思わせるが、どうやら文盲であることがわかる。女は突然姿を消し、法学生となった青年は、ナチ裁判の傍聴で偶然被告として現れた女に再会する。女は戦前収容所看守だった。
本作で語られるのは、無学で看守の仕事を見つけた職務に忠実な女が、真面目であるがゆえに法とその執行に従い、結果的に戦犯として罪に問われることの正義。正義は法なのか倫理なのかと問いかける。
現代社会では、法と倫理の相克はそれぞれの立場から擁護できる。しかし、ことナチになると法は否定され、倫理の下に断罪される。日本の戦犯以上にタブー視されるナチについて、無学ゆえに結果的に戦争犯罪人となってしまった女に一切の弁明も許されないのかというテーマを本作は提起する。
本作のテーマがユダヤやそれを背景にしたアメリカ社会で不寛容なのは当然だが、このような作品を受容できる時代になったことに感慨がある。
刑務所の中で女は初めて自らの罪について考え、本から人間の喜怒哀楽を学び、文字を覚えることで成長を遂げる。女に足りなかったのは理性でも情操でも人間性でもなく、教育だったという結末が悲しい。
アカデミー主演女優賞のケイト・ウィンスレットが好演。レイフ・ファインズと少年時代のダフィット・クロスもいい。 (評価:3.5)
日本公開:2009年6月19日
監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス 音楽:ニコ・ムーリー
キネマ旬報:6位
原題は"The Reader"で、ベルンハルト・シュリンクの同名小説(邦題は『朗読者』)が原作。
前半は主人公の男(レイフ・ファインズ)の少年時代の年上の女(ケイト・ウィンスレット)との性体験物語が延々と描かれ、『青い体験』かと思わせる。女は少年に本を読んでもらうのが好きで、『オデッセイア』やチェーホフが出てくるあたりが、おや? と思わせるが、どうやら文盲であることがわかる。女は突然姿を消し、法学生となった青年は、ナチ裁判の傍聴で偶然被告として現れた女に再会する。女は戦前収容所看守だった。
本作で語られるのは、無学で看守の仕事を見つけた職務に忠実な女が、真面目であるがゆえに法とその執行に従い、結果的に戦犯として罪に問われることの正義。正義は法なのか倫理なのかと問いかける。
現代社会では、法と倫理の相克はそれぞれの立場から擁護できる。しかし、ことナチになると法は否定され、倫理の下に断罪される。日本の戦犯以上にタブー視されるナチについて、無学ゆえに結果的に戦争犯罪人となってしまった女に一切の弁明も許されないのかというテーマを本作は提起する。
本作のテーマがユダヤやそれを背景にしたアメリカ社会で不寛容なのは当然だが、このような作品を受容できる時代になったことに感慨がある。
刑務所の中で女は初めて自らの罪について考え、本から人間の喜怒哀楽を学び、文字を覚えることで成長を遂げる。女に足りなかったのは理性でも情操でも人間性でもなく、教育だったという結末が悲しい。
アカデミー主演女優賞のケイト・ウィンスレットが好演。レイフ・ファインズと少年時代のダフィット・クロスもいい。 (評価:3.5)
製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:2009年4月18日
監督:ダニー・ボイル 製作:クリスチャン・コルソン 脚本:サイモン・ボーフォイ 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:A・R・ラフマーン
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
ヒンドゥーの運命論的思想が色濃いエンタテイメント
原題は"Slumdog Millionaire"で、「貧民街のガキの百万長者」といったところか。劇中でクイズ番組で賞金2000万インドルピーを獲得するが、40万米ドルで一桁届かない。
クイズ番組は"Who Wants to Be a Millionaire?"(誰が百万長者になりたい?)でイギリス発祥、日本版は「クイズ$ミリオネア」。原作はインド作家・ヴィカス・スワラップの小説"Q & A "(邦題:ぼくと1ルピーの神様)。
ムンバイのスラムで育った青年が、ミリオネアに挑戦する物語で、最高賞金を獲得する1問前で警察に拘束される。学校にも行かなかった青年がクイズに答えられるはずはないというのが理由で、その取り調べを通して少年の生い立ちとなぜクイズに答えられたかが説明される。各問に対して各エピソードがあるが、都合の良さは否めず、その言いわけは最後に用意されている。
並行して青年のラブストーリーが描かれるが、最後の問題への回答がクライマックス。しかし、映画ではこれが最後の問題ではないというのがミソで、冒頭の警官の質問「どうしてクイズに答えられたのか?」の答えで終わる。邦訳では「運命だった」と訳されているが、英語では"It is written."となっていて、予め定められていた「筋書きだった」というニュアンス。娘と再会する運命(destiny)を含めて、クイズに答えられたのも筋書きで、ヒンドゥーの運命論的思想が色濃い。
インドの下層民、ヒンドゥーとイスラムの宗教対立、児童虐待、犯罪、と新興国インド社会の実情を描きだすが、最後にハッピーエンドの運命論に帰結されると、すべての問題は雲散霧消。結局はエンタテイメントの道具立てにしかならない。
現実的問題は、スラムから起用された子役二人の後日談に引き継がれ、貧困の両親からギャラで訴えられたり、少女が親に売られそうになったりした。
エンタテイメントとしては良くできた映画で、ふたりの子役が可愛い。印象的なのは少年が人気俳優のサインほしさに肥溜めに落ちる場面。映像的にも凝っていて、アカデミー撮影賞を受賞。ほかに監督賞、歌曲賞、作曲賞、編集賞、録音賞、脚色賞で8部門。
インド映画ではお約束のキャスト総出演のエンディングの踊りは必見。 (評価:3)
日本公開:2009年4月18日
監督:ダニー・ボイル 製作:クリスチャン・コルソン 脚本:サイモン・ボーフォイ 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:A・R・ラフマーン
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題は"Slumdog Millionaire"で、「貧民街のガキの百万長者」といったところか。劇中でクイズ番組で賞金2000万インドルピーを獲得するが、40万米ドルで一桁届かない。
クイズ番組は"Who Wants to Be a Millionaire?"(誰が百万長者になりたい?)でイギリス発祥、日本版は「クイズ$ミリオネア」。原作はインド作家・ヴィカス・スワラップの小説"Q & A "(邦題:ぼくと1ルピーの神様)。
ムンバイのスラムで育った青年が、ミリオネアに挑戦する物語で、最高賞金を獲得する1問前で警察に拘束される。学校にも行かなかった青年がクイズに答えられるはずはないというのが理由で、その取り調べを通して少年の生い立ちとなぜクイズに答えられたかが説明される。各問に対して各エピソードがあるが、都合の良さは否めず、その言いわけは最後に用意されている。
並行して青年のラブストーリーが描かれるが、最後の問題への回答がクライマックス。しかし、映画ではこれが最後の問題ではないというのがミソで、冒頭の警官の質問「どうしてクイズに答えられたのか?」の答えで終わる。邦訳では「運命だった」と訳されているが、英語では"It is written."となっていて、予め定められていた「筋書きだった」というニュアンス。娘と再会する運命(destiny)を含めて、クイズに答えられたのも筋書きで、ヒンドゥーの運命論的思想が色濃い。
インドの下層民、ヒンドゥーとイスラムの宗教対立、児童虐待、犯罪、と新興国インド社会の実情を描きだすが、最後にハッピーエンドの運命論に帰結されると、すべての問題は雲散霧消。結局はエンタテイメントの道具立てにしかならない。
現実的問題は、スラムから起用された子役二人の後日談に引き継がれ、貧困の両親からギャラで訴えられたり、少女が親に売られそうになったりした。
エンタテイメントとしては良くできた映画で、ふたりの子役が可愛い。印象的なのは少年が人気俳優のサインほしさに肥溜めに落ちる場面。映像的にも凝っていて、アカデミー撮影賞を受賞。ほかに監督賞、歌曲賞、作曲賞、編集賞、録音賞、脚色賞で8部門。
インド映画ではお約束のキャスト総出演のエンディングの踊りは必見。 (評価:3)
四川のうた
日本公開:2009年4月18日
監督:ジャ・ジャンクー 脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ、ワン・ユー 音楽:半野喜弘、リン・チャン
原題"二十四城記"で、24シティと呼ばれる四川省成都の再開発プロジェクトのこと。
24シティは50年間ミグ戦闘機の修理をしてきた軍事工場の跡地に建てられる住宅・商業ビルで、工場の閉鎖から始まり、過去3世代にわたる思い出を工場労働者、家族のインタビューで構成する疑似ドキュメンタリー。
解雇され行き場を失う女、動員される途中で子供とはぐれた女、ベトナム戦争後の不況で恋人と別れた男、職場の華だったが今は独立して働く独身女、工場労働者だった母に24シティを買ってあげようと考えるキャリアウーマンの娘が登場。
軍事工場を通して、貧しい時代から近代化により豊かになった中国の半世紀に渡る歴史が語られていくが、実のところ、まるで共産主義国家とは思えない中国政府の棄民の実態が描かれている。
生きるも死ぬも自己責任という弱肉強食の資本主義社会と見紛うばかりで、共産党エリートと労働者の固定化された階層社会。工場解体の日に工場労働者たちが歌う「インターナショナル」は、プロレタリアート独裁への皮肉のように聞こえる。
ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』に続く監督作品で、中国近代化の落とし物というよりは、共産中国の旗の下に人民を搾取する国家と、それに翻弄されながらも必死に生きていく人々に対するジャ・ジャンクーの温かい視線が、この痛ましい物語の救いとなっている。 (評価:3)
製作国:韓国
日本公開:2009年5月1日
監督:ナ・ホンジン 脚本:ナ・ホンジン、イ・シンホ、ホン・ウォンチャン 撮影:イ・ソンジェ 音楽:キム・ジュンソク、チェ・ヨンラク
キネマ旬報:4位
水槽に女の首が沈んでいるシーンがシュール
原題"추격자"で、追跡者(chaser)の意。ソウルで起きた連続猟奇殺人事件がベースとなっている。
デリヘルを経営する元刑事(キム・ユンソク)が主人公で、ヘルス嬢が連続して行方不明となり、怪しい客(ハ・ジョンウ)を追跡、子持ちのヘルス嬢(ソ・ヨンヒ)を救出しようとする物語。
怪しい客はインポで、その精神的抑圧からヘルス嬢を誘い出して猟奇殺人するという異常者で、元刑事が捕まえるも証拠不十分で釈放となってしまう。
殺されたと思った子持ちのヘルス嬢が生きていたというのは予測がつくが、殺人犯のアジトを脱出後に釈放された殺人鬼に殺されてしまうというのが意外な展開。
ラストでアジトに踏み込んだ元刑事が格闘の末、殺そうとして殺せないというのも予想通りだが、テンポのいいクライムアクション映画に仕上がっている。
猟奇殺人の犯罪映画のため残虐シーンが多いので、家族で見る際は注意が必要なR15。水槽に女の首が沈んでいるシーンは、ホラー映画的でシュール。 (評価:2.5)
日本公開:2009年5月1日
監督:ナ・ホンジン 脚本:ナ・ホンジン、イ・シンホ、ホン・ウォンチャン 撮影:イ・ソンジェ 音楽:キム・ジュンソク、チェ・ヨンラク
キネマ旬報:4位
原題"추격자"で、追跡者(chaser)の意。ソウルで起きた連続猟奇殺人事件がベースとなっている。
デリヘルを経営する元刑事(キム・ユンソク)が主人公で、ヘルス嬢が連続して行方不明となり、怪しい客(ハ・ジョンウ)を追跡、子持ちのヘルス嬢(ソ・ヨンヒ)を救出しようとする物語。
怪しい客はインポで、その精神的抑圧からヘルス嬢を誘い出して猟奇殺人するという異常者で、元刑事が捕まえるも証拠不十分で釈放となってしまう。
殺されたと思った子持ちのヘルス嬢が生きていたというのは予測がつくが、殺人犯のアジトを脱出後に釈放された殺人鬼に殺されてしまうというのが意外な展開。
ラストでアジトに踏み込んだ元刑事が格闘の末、殺そうとして殺せないというのも予想通りだが、テンポのいいクライムアクション映画に仕上がっている。
猟奇殺人の犯罪映画のため残虐シーンが多いので、家族で見る際は注意が必要なR15。水槽に女の首が沈んでいるシーンは、ホラー映画的でシュール。 (評価:2.5)
パリ20区、僕たちのクラス
日本公開:2010年6月12日
監督:ローラン・カンテ 製作:キャロル・スコッタ、カロリーヌ・ベンジョー、バルバラ・レテリエ、シモン・アルナル 脚本:ローラン・カンテ、フランソワ・ベゴドー、ロバン・カンピヨ 撮影:ピエール・ミロン
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Entre les murs"で、壁の間の意。フランソワ・ベゴドーの経験を基にした同名の半自伝的小説が原作。
パリ20区は移民の街で、その中にある中学校の1クラスの授業風景を、フランス語教師フランソワ(フランソワ・ベゴドー)を中心にドキュメンタリー風に描く。
24人の生徒は白人から黒人、中国からアフリカまでの地域に渡り、当然のことながら口語のフランス語以外は話せない。そんな彼らに正しいフランス語の文法を教え、難しい言葉の意味を教え、文語的表現を教えるフランソワの孤軍奮闘ぶりが面白い。
反抗的な生徒、怠惰な生徒に手を焼きながら、現在の境遇を脱するために学力を身に着けることを我慢強く説くが、フランソワも人の子ゆえに時にキレたり失言したりして、意地悪な生徒に揚げ足を取られる。
楽年末が近づき成績会議が開かれるが、参加していたクラス代表のエスメラルダとルイーズが会議の内容をチクったため、問題児のスレイマンが暴れ出し、公聴会にかけられて退学となる。
学年末の授業で、フランソワが生徒たちに1年間で学んだことを尋ねて教育の成果を確認するが、終了後に物静かなヘンリエットがやってきて、何も学べなかったと告白して終わる。
移民社会を子供たちを通して描き、その実態と問題点を提示するが、フランソワが宿題に出す自画像の作文発表や生徒たちとの会話が面白い。
成績会議にクラス代表が出席したり、生徒も教師も互いに相手を侮辱すると問題になるというのが、人権の国フランスならでは。 (評価:2.5)
アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち
日本公開:2010年6月26日
監督:ミゲル・コアン 製作:グスターボ・サンタオラヤ、リタ・スタンティック
原題は"Cafe de los maestros"で、マエストロたちのカフェ。 かつてアルゼンチンタンゴの黄金時代を築いた演奏家たちのドキュメンタリー映画。当然ながら出演者の平均年齢は80歳前後で、棺桶に片足を突っ込んだような爺婆しか出てこない。ところがどっこい、彼らが演奏を始めるとその円熟した演奏の素晴らしさに圧倒される。
アルゼンチンタンゴに特別興味があるわけでもなく、予備知識もなく観たが、上手に歳を取った人たちの姿に心が和む。アルゼンチンでもポップスに押されて古き良き時代の音楽となっているのかもしれないと思いつつ、ビデオ鑑賞は良い音響ならば楽しさも倍増する。
(評価:2.5)
フロスト×ニクソン
日本公開:2009年3月28日
監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 脚本:ピーター・モーガン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ 音楽:ハンス・ジマー
原題は"Frost/Nixon"で、ピーター・モーガンの同名戯曲が原作。イギリスのTV司会者フロストがウォーターゲートで失脚したニクソンに単独インタビューして、国民に謝罪させた実録物。
高名なジャーナリストら複数のインタビュー申し込みを受けていたニクソンは、娯楽番組司会者のフロストを与し易しと考えて最高額のギャラで受諾。フロストは調査スタッフチームを作り準備を始めるが、資金集めが難航して全財産を注ぎ込む。結果、特ダネをものにして番組でニクソンを追及し、完敗させる。
中心エピソードはニクソンが深夜酔ってフロストに電話し、不幸な境遇の中でのし上がってきた孤独を吐露する場面で、人好きのするフロストがニクソンの心を摑んだという話になっている。ラストシーンで、ニクソンが「きみが政治家になって、私がインタビュアーになった方がよかった」という台詞が象徴的。
その人好きのするニコニコ顔のフロストをマイケル・シーン、ニクソンをフランク・ランジェラを演じるが、ランジェラがいい。ラストにフロストがイタリア製の靴をプレゼントし、それをニクソンが見つめるシーンは最大の見せ場。
ウォーターゲートのために今も人気がないが、本作では権力者の孤独と挫折の中で去っていったニクソンに、人間的な面を見せられる思いがするが、それはランジェラの演技に負うところが大きく、実物のニクソンの顔を思い浮かべると否定的になる。
劇中で、フロストに敗北したニクソンの一瞬の表情を捉えたテレビ映像がそれまでの栄光をすべて消し去ったと、テレビのパフォーマンスの怖さを指摘する。しかしそれ以上、この問題には触れられていないのが残念。
ニクソンに対するネガティブな世評とそれに対する制作者の同情のようなものが混在して、そうした曖昧さが映画的には今ひとつ評価されなかったが、作品的には良くできている。それでもニクソンとともに、いつかは忘却されてしまう宿命を本作は背負っている (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2009年2月20日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターン 音楽:クリント・イーストウッド、クリスティン・ヤバラ
キネマ旬報:3位
あまりに現実離れした実話が、現実の怖さを教える
イーストウッド監督が立て続けに良作を発表していた時期の作品。1928年に起きた少年誘拐大量殺人、ゴードン・ノースコット事件を基にした実話の映画化。ほぼ史実に則って描かれている。
題名の"Changeling"はゲルマンやケルトに伝わる民間伝承で、民俗学では取り替え子と訳されている。妖精が自分の子を人間の子供と取り替えてしまう、というのが基本パターン。映画の事件では誘拐された男児の代わりに警察が家出少年を見つけてきて、母親に息子だと押し付ける。ロス市警がトロルないしはフェアリー、エルフだということになる。
本作を観るのは二度目だが、イーストウッド監督の中では印象に残っていた作品。イーストウッド作品はよくできているがセンチメントやヒロイズムで共感を取る作品が多く、ドラマとして観た場合には多少胡散臭い部分がある。
本作は母子物でその点ではバッチリの作品なのだが、実話を基にしている分、胡散臭い部分がない。アンジェリーナ・ジョリーの苛々するくらいに平凡で、子供だけを愛している母親の演技もよい。
この映画を史実と知らないと、あまりに理不尽な話で、我が子のために何もできない、警察にいいように扱われる母親が愚かに見えてしまう。しかし、民主主義を世界に布教するアメリカの1世紀前の姿であり、半世紀前までは黒人への信じられない差別があった。
権力機関や政治家の腐敗、人間の利己心というのは現在でもそれほど変わってなく、その好例は中国に見られる。それは後進国だけで現在の日本やアメリカなどの先進国にはないと信じる人たちのためにこの映画はあって、人間の本質は変わっていない。ロス市警の警部や署長、市長、新聞記者、病院関係者、取り替え子の少年は余所の世界の人間ではなく、状況次第でいつでもなれる、我々や周囲にいる人々の姿でもある。 (評価:2.5)
日本公開:2009年2月20日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターン 音楽:クリント・イーストウッド、クリスティン・ヤバラ
キネマ旬報:3位
イーストウッド監督が立て続けに良作を発表していた時期の作品。1928年に起きた少年誘拐大量殺人、ゴードン・ノースコット事件を基にした実話の映画化。ほぼ史実に則って描かれている。
題名の"Changeling"はゲルマンやケルトに伝わる民間伝承で、民俗学では取り替え子と訳されている。妖精が自分の子を人間の子供と取り替えてしまう、というのが基本パターン。映画の事件では誘拐された男児の代わりに警察が家出少年を見つけてきて、母親に息子だと押し付ける。ロス市警がトロルないしはフェアリー、エルフだということになる。
本作を観るのは二度目だが、イーストウッド監督の中では印象に残っていた作品。イーストウッド作品はよくできているがセンチメントやヒロイズムで共感を取る作品が多く、ドラマとして観た場合には多少胡散臭い部分がある。
本作は母子物でその点ではバッチリの作品なのだが、実話を基にしている分、胡散臭い部分がない。アンジェリーナ・ジョリーの苛々するくらいに平凡で、子供だけを愛している母親の演技もよい。
この映画を史実と知らないと、あまりに理不尽な話で、我が子のために何もできない、警察にいいように扱われる母親が愚かに見えてしまう。しかし、民主主義を世界に布教するアメリカの1世紀前の姿であり、半世紀前までは黒人への信じられない差別があった。
権力機関や政治家の腐敗、人間の利己心というのは現在でもそれほど変わってなく、その好例は中国に見られる。それは後進国だけで現在の日本やアメリカなどの先進国にはないと信じる人たちのためにこの映画はあって、人間の本質は変わっていない。ロス市警の警部や署長、市長、新聞記者、病院関係者、取り替え子の少年は余所の世界の人間ではなく、状況次第でいつでもなれる、我々や周囲にいる人々の姿でもある。 (評価:2.5)
製作国:イスラエル
日本公開:2009年11月28日
監督:アリ・フォルマン アニメーション監督:ヨニ・グッドマン 製作:アリ・フォルマン 脚本:アリ・フォルマン 美術監督:デヴィッド・ポロンスキー 音楽:マックス・リヒター
キネマ旬報:8位
アニメーションでありながら実写以上にドキュメンタリー
原題"ואלס עם באשיר"で「バシールとワルツを」の意。バシールはレバノン内戦時の極右組織の指導者。両軍兵士が対峙するベイルートの路上で、ワルツのBGMに合わせて機関銃を乱射するシーンに登場するポスターの人物で、他にも作中でたびたび登場する。
レバノン内戦中に起きたサブラ・シャティーラの虐殺でPTSDとなり、事件の記憶を失った監督のアリ・フォルマンが、事件関係者の証言を集めて記憶を取り戻していく過程を描いたセミ・ドキュメンタリー。
虐殺の写真を映すラストシーンを除いてすべてがフラッシュ・アニメーションで描かれていて、背景は3Dグラフィックスで作られているが、キャラクターは版画か影絵調の2Dで描かれている。この2Dキャラクターに妙なリアリティがあって、アニメーションでありながら実写以上にドキュメンタリーとしてのリアリズムに成功している。
もっとも低予算の苦肉の策と思われるフラッシュ・アニメーションは、動きがやはり不自然。ただ、証言の中に浮かび上がる兵士たちのリアリズムは常時戦時下にいる者でなければ表現できないもので、アニメ映像の不十分さを補って余りある。
レバノン内戦に干渉、侵略し、虐殺に関与したイスラエルの描写が十分ではなく、事件そのもの、パレスチナ人への弾圧がきちんと描けているわけではないが、虐殺に関与したフォルマンの個人としての心の闇を描いたという点では価値ある作品となっている。 (評価:2.5)
日本公開:2009年11月28日
監督:アリ・フォルマン アニメーション監督:ヨニ・グッドマン 製作:アリ・フォルマン 脚本:アリ・フォルマン 美術監督:デヴィッド・ポロンスキー 音楽:マックス・リヒター
キネマ旬報:8位
原題"ואלס עם באשיר"で「バシールとワルツを」の意。バシールはレバノン内戦時の極右組織の指導者。両軍兵士が対峙するベイルートの路上で、ワルツのBGMに合わせて機関銃を乱射するシーンに登場するポスターの人物で、他にも作中でたびたび登場する。
レバノン内戦中に起きたサブラ・シャティーラの虐殺でPTSDとなり、事件の記憶を失った監督のアリ・フォルマンが、事件関係者の証言を集めて記憶を取り戻していく過程を描いたセミ・ドキュメンタリー。
虐殺の写真を映すラストシーンを除いてすべてがフラッシュ・アニメーションで描かれていて、背景は3Dグラフィックスで作られているが、キャラクターは版画か影絵調の2Dで描かれている。この2Dキャラクターに妙なリアリティがあって、アニメーションでありながら実写以上にドキュメンタリーとしてのリアリズムに成功している。
もっとも低予算の苦肉の策と思われるフラッシュ・アニメーションは、動きがやはり不自然。ただ、証言の中に浮かび上がる兵士たちのリアリズムは常時戦時下にいる者でなければ表現できないもので、アニメ映像の不十分さを補って余りある。
レバノン内戦に干渉、侵略し、虐殺に関与したイスラエルの描写が十分ではなく、事件そのもの、パレスチナ人への弾圧がきちんと描けているわけではないが、虐殺に関与したフォルマンの個人としての心の闇を描いたという点では価値ある作品となっている。 (評価:2.5)
製作国:ギリシャ、ドイツ、カナダ、ロシア
日本公開:2014年1月25日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:フィービー・エコノモプロス 脚本:テオ・アンゲロプロス 撮影:アンドレアス・シナノス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:4位
解説がないとわからないが、映像だけ見れば一篇の抒情詩
原題は"The Dust of Time"で、劇中では時の埃と訳されている。3人の男女のギリシア内戦後の半世紀の数奇な人生を描く。『旅芸人の記録』のテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』に続く20世紀3部作の第2部で、標題通り2000年元日で物語は終わる。もっとも21世紀は2001年からなので、劇中で20世紀が終わるというのは間違い。
本作の主人公エレニと、その夫スピロスは『エレニの旅』の主人公と同名だが、物語が繋がっているわけではない。
エレニ(Eleni)はトロイア戦争の原因となった美女ヘレネー(Helen)のギリシャ語読みで、本作の神話的モチーフともなっている。
題材的にも映像的にも佳作の香り高いのだが、登場人物の背景やストーリーの説明をすっ飛ばしていて甚だしく不親切な上に、観客にピースの足りないジグソーパズルを組み立てさせるような作品。あるいは断片化した物語をデフラグさせるようなものか。
ギリシャ人なら自明な設定かもしれないが、解説がないとわからない作品というのは、いくら佳作でも如何なものか。基本は英語で、しかも合作なのに。
スピロスはトロイアならぬソ連の難民キャンプにいるエレニを探し求め、再会して交わるものの数時間で別れ別れとなるが、もともとの二人の関係も、エレニがソ連に渡った経緯、スピロスが何をしていたのかもほとんど説明されない。この一度の交わりで、語り手となる映画監督を産むが、共に収容所で過ごしたエレニを愛するユダヤ人とオーストリアに脱出する経緯も描かれない。
そうして自由の身となったエレニは再婚したスピロスを見つけ、息子とも再会を果たすが、二人がカップルとなって壁の崩れたベルリンに行く経緯もわからない。そもそも息子の映画監督がどうやら両親の半生を映画にしているらしいこともあまり説明されず、娘にエレニという名をなぜ付けたのかも不明。
ラストは母エレニが死んで、娘エレニとスピロスが再生の旅に出る予感で締めくくられるが、内戦後の半世紀を生きた男女の歴史に翻弄された人生、彼らに代表されるギリシャ人の半世紀と、東西に分断された人々の悲しみを描きたかったのだろうと想像するしかない。
ストーリーの背景となるのは、ギリシア内戦と難民、スターリンの死で前後するソ連の政治体制、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊。
アンゲロプロスの例の長廻しとカメラ移動・構図によって表現される計算しつくされた映像は、溜め息が出るほどに素晴らしい。映像だけ見れば一篇の抒情詩といえ、これがアンゲロプロスの遺作となったことが惜しまれる。 (評価:2.5)
日本公開:2014年1月25日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:フィービー・エコノモプロス 脚本:テオ・アンゲロプロス 撮影:アンドレアス・シナノス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:4位
原題は"The Dust of Time"で、劇中では時の埃と訳されている。3人の男女のギリシア内戦後の半世紀の数奇な人生を描く。『旅芸人の記録』のテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』に続く20世紀3部作の第2部で、標題通り2000年元日で物語は終わる。もっとも21世紀は2001年からなので、劇中で20世紀が終わるというのは間違い。
本作の主人公エレニと、その夫スピロスは『エレニの旅』の主人公と同名だが、物語が繋がっているわけではない。
エレニ(Eleni)はトロイア戦争の原因となった美女ヘレネー(Helen)のギリシャ語読みで、本作の神話的モチーフともなっている。
題材的にも映像的にも佳作の香り高いのだが、登場人物の背景やストーリーの説明をすっ飛ばしていて甚だしく不親切な上に、観客にピースの足りないジグソーパズルを組み立てさせるような作品。あるいは断片化した物語をデフラグさせるようなものか。
ギリシャ人なら自明な設定かもしれないが、解説がないとわからない作品というのは、いくら佳作でも如何なものか。基本は英語で、しかも合作なのに。
スピロスはトロイアならぬソ連の難民キャンプにいるエレニを探し求め、再会して交わるものの数時間で別れ別れとなるが、もともとの二人の関係も、エレニがソ連に渡った経緯、スピロスが何をしていたのかもほとんど説明されない。この一度の交わりで、語り手となる映画監督を産むが、共に収容所で過ごしたエレニを愛するユダヤ人とオーストリアに脱出する経緯も描かれない。
そうして自由の身となったエレニは再婚したスピロスを見つけ、息子とも再会を果たすが、二人がカップルとなって壁の崩れたベルリンに行く経緯もわからない。そもそも息子の映画監督がどうやら両親の半生を映画にしているらしいこともあまり説明されず、娘にエレニという名をなぜ付けたのかも不明。
ラストは母エレニが死んで、娘エレニとスピロスが再生の旅に出る予感で締めくくられるが、内戦後の半世紀を生きた男女の歴史に翻弄された人生、彼らに代表されるギリシャ人の半世紀と、東西に分断された人々の悲しみを描きたかったのだろうと想像するしかない。
ストーリーの背景となるのは、ギリシア内戦と難民、スターリンの死で前後するソ連の政治体制、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊。
アンゲロプロスの例の長廻しとカメラ移動・構図によって表現される計算しつくされた映像は、溜め息が出るほどに素晴らしい。映像だけ見れば一篇の抒情詩といえ、これがアンゲロプロスの遺作となったことが惜しまれる。 (評価:2.5)
製作国:スウェーデン
日本公開:2010年7月10日
監督:トーマス・アルフレッドソン 脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ヨハン・セーデルクヴィスト 美術:エヴァ・ノーレン
陰に生きる吸血鬼少女と少年を美しく陰鬱に描く
原題は"Låt den rätte komma in"で、英語ではLet the right one in.(正しき者を入れよ)原作はスウェーデンのヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの同名ホラー小説。2010年に"Let me in"(私を中に入れて、邦題:モールス)が英語でリメイクされている。
学校で苛められている少年オスカーはアパートの前のジャングルジムで隣の部屋に越してきた少女エリと知り合う。エリは何百年生きてきた吸血鬼で12歳の少女の姿のまま成長が止まっている。二人は互いの孤独を癒すために急速に接近する。
エリを吸血鬼と知った少年は人殺しを非難するが、エリは生きるためには誰もが人を犠牲にするのだと言って理解を求める。そして少年に苛めっ子に立ち向かように諭す。少年はその通りにするが、ラストで危機に陥り、エリは約束通りに少年を守る。
本作が『モールス』よりも良くできているのは、オスカーとエリの恋愛物語ではなく、弱者として精神的に結び付いた二人が、強く生きていくために互いを護り、友情で結ばれること。そして、最後に少年が新しいエリの付添人となる、その説明がドラマの中できちんと描かれていること。
スウェーデン映画らしく、下手な観客受けは狙わずに、エリは顔色の悪い八百比丘尼の吸血鬼として、付添人もやつれた顔で描かれる。少年の白く美しい肌と真っ赤な唇でコントラストを強調し、エリの人外ぶりを際立たせている。スウェーデンの雪の風景が凍えていて、陰に生きるエリと少年を美しくも陰鬱に描く。
エリの同居人が自分の顔を焼くシーンは、スウェーデン映画らしくえぐい。ホラーとしての怖さはない。 (評価:2.5)
日本公開:2010年7月10日
監督:トーマス・アルフレッドソン 脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ヨハン・セーデルクヴィスト 美術:エヴァ・ノーレン
原題は"Låt den rätte komma in"で、英語ではLet the right one in.(正しき者を入れよ)原作はスウェーデンのヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの同名ホラー小説。2010年に"Let me in"(私を中に入れて、邦題:モールス)が英語でリメイクされている。
学校で苛められている少年オスカーはアパートの前のジャングルジムで隣の部屋に越してきた少女エリと知り合う。エリは何百年生きてきた吸血鬼で12歳の少女の姿のまま成長が止まっている。二人は互いの孤独を癒すために急速に接近する。
エリを吸血鬼と知った少年は人殺しを非難するが、エリは生きるためには誰もが人を犠牲にするのだと言って理解を求める。そして少年に苛めっ子に立ち向かように諭す。少年はその通りにするが、ラストで危機に陥り、エリは約束通りに少年を守る。
本作が『モールス』よりも良くできているのは、オスカーとエリの恋愛物語ではなく、弱者として精神的に結び付いた二人が、強く生きていくために互いを護り、友情で結ばれること。そして、最後に少年が新しいエリの付添人となる、その説明がドラマの中できちんと描かれていること。
スウェーデン映画らしく、下手な観客受けは狙わずに、エリは顔色の悪い八百比丘尼の吸血鬼として、付添人もやつれた顔で描かれる。少年の白く美しい肌と真っ赤な唇でコントラストを強調し、エリの人外ぶりを際立たせている。スウェーデンの雪の風景が凍えていて、陰に生きるエリと少年を美しくも陰鬱に描く。
エリの同居人が自分の顔を焼くシーンは、スウェーデン映画らしくえぐい。ホラーとしての怖さはない。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2008年8月9日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:チャールズ・ローヴェン、エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン 脚本:ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター 美術:ネイサン・クロウリー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード、ハンス・ジマー
キネマ旬報:3位
能天気なアメコミ・ヒーローにはないネガティブさが新鮮
原題"The Dark Knight"で、暗黒の騎士の意。アメリカン・コミック『バットマン』が原作で、クリストファー・ノーラン版「ダークナイト・トリロジー」の第2作。
ジョーカー(ヒース・レジャー)がマフィアと組み、犯罪都市ゴッサム・シティの癌、バットマン(クリスチャン・ベール)を抹殺しようと図るというのが全体図で、犯罪者一掃の陣頭指揮に立つのが地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)。正義の味方に2人は要らないとバットマンは手柄を譲って身を引こうとするが、ジョーカーの狙いはゴッサム・シティの支配とあくまでもバットマンの抹殺。わざと捕まったジョーカーは、市民同士が敵対するように仕向け、悪の坩堝と化した街を目指す。
その罠にまんまと嵌ったデントは恋人レイチェル(マギー・ジレンホール)を殺され、復讐の鬼と化した殺人者となるが、バットマンに倒されてしまう。デントの変心を公にすれば市民が希望を失い、ジョーカーの思うつぼと考えたバットマンはデント殺しの殺人者となって逃亡。
真実を知るのは警部補から市警本部長に昇格したゴードン(ゲイリー・オールドマン)と息子だけ。バットマンがヒーローから陰の守護者、ダークナイトに転じて幕となる。
悪の蔓延る犯罪都市という世界観と、正義の味方さえも悪に転じバットマンも罪に塗れるという徹底したダークぶりが魅力で、従来の能天気なアメコミ・ヒーローにはないネガティブさが新鮮だった。
香港マフィアも登場しての香港ロケ、銀行強盗や市幹部のテロ、街を混沌に陥れるジョーカーの狂人ぶりとエピソードが盛りだくさんだが、忙しすぎるストーリーを追う2時間半は結構疲れる。 (評価:2.5)
日本公開:2008年8月9日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:チャールズ・ローヴェン、エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン 脚本:ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター 美術:ネイサン・クロウリー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード、ハンス・ジマー
キネマ旬報:3位
原題"The Dark Knight"で、暗黒の騎士の意。アメリカン・コミック『バットマン』が原作で、クリストファー・ノーラン版「ダークナイト・トリロジー」の第2作。
ジョーカー(ヒース・レジャー)がマフィアと組み、犯罪都市ゴッサム・シティの癌、バットマン(クリスチャン・ベール)を抹殺しようと図るというのが全体図で、犯罪者一掃の陣頭指揮に立つのが地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)。正義の味方に2人は要らないとバットマンは手柄を譲って身を引こうとするが、ジョーカーの狙いはゴッサム・シティの支配とあくまでもバットマンの抹殺。わざと捕まったジョーカーは、市民同士が敵対するように仕向け、悪の坩堝と化した街を目指す。
その罠にまんまと嵌ったデントは恋人レイチェル(マギー・ジレンホール)を殺され、復讐の鬼と化した殺人者となるが、バットマンに倒されてしまう。デントの変心を公にすれば市民が希望を失い、ジョーカーの思うつぼと考えたバットマンはデント殺しの殺人者となって逃亡。
真実を知るのは警部補から市警本部長に昇格したゴードン(ゲイリー・オールドマン)と息子だけ。バットマンがヒーローから陰の守護者、ダークナイトに転じて幕となる。
悪の蔓延る犯罪都市という世界観と、正義の味方さえも悪に転じバットマンも罪に塗れるという徹底したダークぶりが魅力で、従来の能天気なアメコミ・ヒーローにはないネガティブさが新鮮だった。
香港マフィアも登場しての香港ロケ、銀行強盗や市幹部のテロ、街を混沌に陥れるジョーカーの狂人ぶりとエピソードが盛りだくさんだが、忙しすぎるストーリーを追う2時間半は結構疲れる。 (評価:2.5)
悲しみのミルク
日本公開:2011年4月2日
監督:クラウディア・リョサ 製作:アントニオ・チャバリアス、ホセ・マリア・モラレス、クラウディア・リョサ 脚本:クラウディア・リョサ 撮影:ナターシャ・ブライエ 音楽:セルマ・ムタル
ベルリン映画祭金熊賞
原題"La teta asustada"で、怯える乳房の意。
1980年代のペルー内戦の傷跡を背景に、その傷の癒えないペルーを寓話的に描いた作品。内戦の傷跡を象徴する存在として妊娠中にレイプされた老婆。2008年当時の現代を象徴する存在としてその娘が登場する。
娘のファウスタ(マガリ・ソリエル)は胎児として子宮内でレイプを目撃。母親の恐怖が母乳を通して娘に遺伝し、そのためにファウスタは膣内にジャガイモを入れてレイプされないようにしている。ジャガイモは芽を出すため定期的に切り落とさなければならず、体調不良の原因にもなっている。
母が死に、葬式の出せない叔父は地所内に埋めようとするが、ファウスタは町のピアニスト(スシ・サンチェス)の家でメイドをし、母を亡父の墓に埋葬する費用を稼いで送り出す。
ファウスタは悲しみを即興で歌にするが、それを聴いたピアニストが自作の曲にして発表する。その演奏に心を動かされたのが転機となり、ファウスタは囚われていた過去の恐怖と訣別。膣内のジャガイモを取り出し、母を葬送することでようやく未来に一歩を踏み出すことができる、という結末。
ファウスタを温かく見守ってきたピアニストの屋敷の庭師(エフライン・ソリス)が、ファウスタのリクエストに応えて、あまり咲かないジャガイモの花を咲かせてプレゼントするラストシーンに、ファウスタの希望を象徴する。
ペルーの歴史を知らないとピンとこない作品で、メタファーだらけの作劇にアナクロニズムを感じてしまうが、ファウスタの哀愁を帯びた即興歌が、アンデス民族の謡を聴いているようで、心の奥の古代へのノスタルジーを呼び起こし、不思議な心持ちにさせる。 (評価:2.5)
製作国:ポーランド、フランス
日本公開:2009年10月17日
監督:イエジー・スコリモフスキ 製作:イエジー・スコリモフスキ 脚本:イエジー・スコリモフスキ、エヴァ・ピャスコフスカ 撮影:アダム・シコラ 音楽:ミハウ・ロレンツ
キネマ旬報:7位
退屈なストーリーの割には意外とスリリング
原題"Cztery noce z Anną"で、アンナとの4夜の意。
ポーランドの田舎の病院の火葬場で働く中年男が主人公で、病院の近くで老母と二人で暮らしている。この男は私生児で、老母は彼が妻を娶るのを望んでいるのは、ドラマの進行とともに明らかになる。
家の向かいの看護婦寮に住むアンナが納屋でレイプされるのを目撃し、警察に通報するものの逆に冤罪を着せられる。しかし、男はアンナを好きになってしまい、睡眠薬を盛って4夜彼女の窓に忍び込み、彼女との仮想の同棲を楽しむ。結婚指輪を部屋に置くが、彼女の部屋の鳩時計を修理して窓から出ようとして巡回中のパトカーに見つかり逮捕される・・・というのが大筋。
一言でいえばストーカーで、不幸な境遇の中で片思いし、仮想の恋人との生活を楽しむ男が切ない。若干太めで取り立てて美人でもないアンナも、この男の哀愁を引き立て、キャスティングも上手いが、所詮は退屈なストーカー話。時間軸が前後する構成も、寡黙な物語を演出するための少ない台詞も、話を分かりにくくしていている。
もっとも、4夜に渡って忍び込んだ男が、眠っているアンナに気付かれないようにビクビクするシーンが意外とスリリングで、退屈なストーリーの割には飽きさせない。
収監された男にアンナがレイプ犯ではないと伝え、貰えないといって指輪を返すシーンが切なさとともに唯一の救いのシーンとなっている。 (評価:2.5)
日本公開:2009年10月17日
監督:イエジー・スコリモフスキ 製作:イエジー・スコリモフスキ 脚本:イエジー・スコリモフスキ、エヴァ・ピャスコフスカ 撮影:アダム・シコラ 音楽:ミハウ・ロレンツ
キネマ旬報:7位
原題"Cztery noce z Anną"で、アンナとの4夜の意。
ポーランドの田舎の病院の火葬場で働く中年男が主人公で、病院の近くで老母と二人で暮らしている。この男は私生児で、老母は彼が妻を娶るのを望んでいるのは、ドラマの進行とともに明らかになる。
家の向かいの看護婦寮に住むアンナが納屋でレイプされるのを目撃し、警察に通報するものの逆に冤罪を着せられる。しかし、男はアンナを好きになってしまい、睡眠薬を盛って4夜彼女の窓に忍び込み、彼女との仮想の同棲を楽しむ。結婚指輪を部屋に置くが、彼女の部屋の鳩時計を修理して窓から出ようとして巡回中のパトカーに見つかり逮捕される・・・というのが大筋。
一言でいえばストーカーで、不幸な境遇の中で片思いし、仮想の恋人との生活を楽しむ男が切ない。若干太めで取り立てて美人でもないアンナも、この男の哀愁を引き立て、キャスティングも上手いが、所詮は退屈なストーカー話。時間軸が前後する構成も、寡黙な物語を演出するための少ない台詞も、話を分かりにくくしていている。
もっとも、4夜に渡って忍び込んだ男が、眠っているアンナに気付かれないようにビクビクするシーンが意外とスリリングで、退屈なストーリーの割には飽きさせない。
収監された男にアンナがレイプ犯ではないと伝え、貰えないといって指輪を返すシーンが切なさとともに唯一の救いのシーンとなっている。 (評価:2.5)
ブーリン家の姉妹
日本公開:2008年10月25日
監督:ジャスティン・チャドウィック 製作:アリソン・オーウェン 脚本:ピーター・モーガン 撮影:キアラン・マクギガン 音楽:ポール・カンテロン
原題は"The Other Boleyn Girl"(もう一人のブーリンの女の子)で、イギリスのフィリッパ・グレゴリーの同名小説が原作。
16世紀のイギリス国教会分離の原因となったヘンリー8世と愛人アン・ブーリンの再婚を題材にした物語。史実とは異なる脚色が相当入っているので、NHK大河ドラマを楽しむくらいのスタンスで見た方が良い。
平凡な妹のメアリー(スカーレット・ヨハンソン)と美貌のアン(ナタリー・ポートマン)という設定だが実際は逆だったらしく、夫のあるメアリーを愛人にしたのは誠実さではなく美貌に魅かれて。子供も、ヘンリー8世ではなく夫との間に生まれている。
母のエリザベス・ブーリンが娘たちを宮廷に上げることに反対したことになっているが、エリザベスは端から田舎ではなく宮廷で王妃の侍女をしている。
これをブーリン姉妹を題材にした創作だと考えれば結構よくできたストーリーで、ブーリン一家が娘を差し出して宮廷に上がり、権勢を得ようとするが、アンが姦通の罪でロンドン塔で処刑され、失敗に終わるまでを飽きずに楽しめる。
ただ、主人公がアンなのかメアリーなのか一定せず、それが邦題の曖昧さとなったと思われるが、原題のThe Otherがアンを指すのかメアリーを指すのかもはっきりしない。
クレジットの最初がナタリー・ポートマンで、全体としてはおそらくアンが主人公なのだと思われるが、王を手玉に取っていたアンが王妃に就いてからはその爽快感がなくなって、最後には潔白を訴えるだけのただのつまらない女に成り下がってしまうのが残念。
史実では姦通罪は兄弟のジョージだけでなく、数人の男たちも含まれていたというから、正々堂々、正真正銘の魔女として処刑台に上ってほしかった。そうすれば、一人の女のドラマとしてもっと面白い感動を呼ぶ作品になったかもしれない。
メアリーの夫ウィリアム・ケリー役にベネディクト・カンバーバッチ。
歴史劇らしくオーソドックスな演出で、ストーリーもよくできていて俳優も悪くないがこれといって見どころのない作品で、敢えて上げればナタリー・ポートマンの美貌くらいか。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2009年6月13日
監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ 音楽:クリント・マンセル
キネマ旬報:5位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
ミッキー・ロークのくたびれたオッサンぶりを見る映画
原題"The Wrestler"で、中年のプロレスラーが主人公の話・・・とくれば内容は想像がつく。
人気レスラーだった男(ミッキー・ローク)も今では中年。週末にはメーン・エベントを組めるくらいに過去の栄光は生きているが、平日はスーパー・マーケットで働き糊口を凌ぐ。長年のステロイド剤使用で心臓発作を起こし、医者から引退の引導を渡される。
長年養育を放棄してきた娘とよりを戻そうとするが失敗。ガールフレンドでナイトクラブの子持ちストリッパー(マリサ・トメイ)に結婚を申し込むも断られる。自分の生きる場所はリングの上しかないと悟った男は、引退試合を決行する・・・
ラストシーンは余韻を残した終わり方で、栄枯盛衰、人生の悲哀とともに生きるダメ男の物語という、よくあるタイプの作品。
監督は『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーで手堅い演出でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞。懐かしいミッキー・ロークもすっかりオッサンで、一時俳優からボクサーに転じた経歴を生かして、プロレスシーンも頑張る。(ロングは吹き替えか)ロークのくたびれぶりと、マリサ・トメイのオバサン・ストリッパーぶりがいい。 (評価:2.5)
日本公開:2009年6月13日
監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ 音楽:クリント・マンセル
キネマ旬報:5位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"The Wrestler"で、中年のプロレスラーが主人公の話・・・とくれば内容は想像がつく。
人気レスラーだった男(ミッキー・ローク)も今では中年。週末にはメーン・エベントを組めるくらいに過去の栄光は生きているが、平日はスーパー・マーケットで働き糊口を凌ぐ。長年のステロイド剤使用で心臓発作を起こし、医者から引退の引導を渡される。
長年養育を放棄してきた娘とよりを戻そうとするが失敗。ガールフレンドでナイトクラブの子持ちストリッパー(マリサ・トメイ)に結婚を申し込むも断られる。自分の生きる場所はリングの上しかないと悟った男は、引退試合を決行する・・・
ラストシーンは余韻を残した終わり方で、栄枯盛衰、人生の悲哀とともに生きるダメ男の物語という、よくあるタイプの作品。
監督は『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーで手堅い演出でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞。懐かしいミッキー・ロークもすっかりオッサンで、一時俳優からボクサーに転じた経歴を生かして、プロレスシーンも頑張る。(ロングは吹き替えか)ロークのくたびれぶりと、マリサ・トメイのオバサン・ストリッパーぶりがいい。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2010年3月6日
監督:キャスリン・ビグロー 製作:キャスリン・ビグロー、マーク・ボール、ニコラ・シャルティエ、グレッグ・シャピロ、マルコ・ベルトラミ、バック・サンダース 脚本:マーク・ボール 撮影:バリー・アクロイド 音楽:マルコ・ベルトラミ、バック・サンダース
キネマ旬報:5位
アカデミー作品賞
観客も従軍体験できる、ハート・ロッカー的ヒロイズム
原題の"The Hurt Locker"は直訳すると苦痛の箱だが、米軍の俗語で、追い詰められた状態、あるいは棺桶のこと。
イラク戦争での米軍爆弾処理班の物語。イラクシーンはすべて手持ちで撮影され、ニュース映像のような効果を出している。アメリカシーンは固定ないしはレールで安定感のあるカメラワーク。手持ちカメラといえば深作欣二の『仁義なき戦い』(1973)が有名で、その後の撮影手法に大きな影響を与えた。使い古された手法だが、『ハート・ロッカー』では従軍カメラマンが撮影したような臨場感と緊迫感のある映像作りに成功している。
また台詞が日常会話風になっていて、劇映画のような説明的な台詞回しでないことも相乗効果を上げている。そのためにシーンの説明がわかりにくくなっているが、この映画がイラク戦争を描いたのではなく、爆弾処理班の命知らずな男をドキュメンタリー風に描いたヒーロー物語なのだということに気づくと、シーンの説明が不要だと納得できる。
冒頭の無人兵器はイラク戦争の爆弾処理に実際に使われたもので、爆弾処理班の最も危険な作業を代行した。全編リアルに描かれるために従軍している錯覚に陥るが、これはフィクションであり、スタイリッシュでよくできた映画ではあるが、冒頭の戦争はドラッグだというメッセージも平凡で、見終わって何が描きたかったのか良くわからない。ハート・ロッカー的ヒロイズムにエクスタシーを感じるという点では、続けて『ゼロ・ダーク・サーティ』を撮った女性監督キャスリン・ビグローも "war is a drug."なのかもしれない。 (評価:2.5)
日本公開:2010年3月6日
監督:キャスリン・ビグロー 製作:キャスリン・ビグロー、マーク・ボール、ニコラ・シャルティエ、グレッグ・シャピロ、マルコ・ベルトラミ、バック・サンダース 脚本:マーク・ボール 撮影:バリー・アクロイド 音楽:マルコ・ベルトラミ、バック・サンダース
キネマ旬報:5位
アカデミー作品賞
原題の"The Hurt Locker"は直訳すると苦痛の箱だが、米軍の俗語で、追い詰められた状態、あるいは棺桶のこと。
イラク戦争での米軍爆弾処理班の物語。イラクシーンはすべて手持ちで撮影され、ニュース映像のような効果を出している。アメリカシーンは固定ないしはレールで安定感のあるカメラワーク。手持ちカメラといえば深作欣二の『仁義なき戦い』(1973)が有名で、その後の撮影手法に大きな影響を与えた。使い古された手法だが、『ハート・ロッカー』では従軍カメラマンが撮影したような臨場感と緊迫感のある映像作りに成功している。
また台詞が日常会話風になっていて、劇映画のような説明的な台詞回しでないことも相乗効果を上げている。そのためにシーンの説明がわかりにくくなっているが、この映画がイラク戦争を描いたのではなく、爆弾処理班の命知らずな男をドキュメンタリー風に描いたヒーロー物語なのだということに気づくと、シーンの説明が不要だと納得できる。
冒頭の無人兵器はイラク戦争の爆弾処理に実際に使われたもので、爆弾処理班の最も危険な作業を代行した。全編リアルに描かれるために従軍している錯覚に陥るが、これはフィクションであり、スタイリッシュでよくできた映画ではあるが、冒頭の戦争はドラッグだというメッセージも平凡で、見終わって何が描きたかったのか良くわからない。ハート・ロッカー的ヒロイズムにエクスタシーを感じるという点では、続けて『ゼロ・ダーク・サーティ』を撮った女性監督キャスリン・ビグローも "war is a drug."なのかもしれない。 (評価:2.5)
それでも恋するバルセロナ
日本公開:2009年6月27日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、スティーヴン・テネンバウム、ギャレス・ワイリー 脚本:ウディ・アレン 撮影:ハビエル・アギーレサロベ 美術:アライン・バイネ
原題"Vicky Cristina Barcelona"で、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナの意。
バルセロナを訪れた二人のアメリカ女性、ヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)の恋愛騒動を描く。
二人は画廊のパーティで、女しか頭にない画家フアン(ハビエル・バルデム)に世界遺産のオビエドに誘われる。芸術家志向のクリスティーナは乗り気、婚約者のいる学者肌のヴィッキーは消極的な参加となるが、クリスティーナの急病でヴィッキーがフアンに攻略されるという予想通りの展開となる。
成就しない愛は永遠になるというフアンに従ってヴィッキーは婚約者(クリス・メッシーナ)と結婚するが、フアンを諦められない。一方、クリスティーナはフアンと同棲するが、元妻マリア(ペネロペ・クルス)が舞い戻り、3人がそれぞれに愛し合うという奇妙な共同生活になる。
自分探しが趣味のクリスティーナは、この安定に違和感を覚えて離反。バランスが壊れてフアンとマリアは、喧嘩別れ。フアンとの密会を重ねるヴィッキーは、マリアとのトラブルに巻き込まれて夫の下に戻り、クリスティーナと共にアメリカに帰国する。
結局、フアン、マリアともども、ヴィッキーとクリスティーナがバルセロナを訪れる以前の状態に戻っただけで、恋愛騒動では何も変わらなかった、人間は進歩しないという、ウディ・アレンらしいシニカルな物語となっている。 (評価:2.5)
製作国:韓国
日本公開:2010年3月20日
監督:ヤン・イクチュン 製作:ヤン・イクチュン 脚本:ヤン・イクチュン 撮影:ユン・チョンホ 音楽:ジ・インヴィジブル・フィッシュ
キネマ旬報:1位
遅れてやってきた韓国映画のヌーベルバーグ
原題は"똥파리"で、糞蠅の意味。
幼い頃の父親の家庭内暴力で母と妹を失ったトラウマで、暴力体質になっている取り立て屋のチンピラ。父親が正気を失って家庭崩壊している女子高生。この二人が出会い、互いに心惹かれていく過程を描くヒューマン?ドラマ。
伝統的な儒教社会である韓国では長幼の序が尊ばれ、父子、君臣、夫婦の上下の秩序は絶対的だが、主人公のチンピラと女子高生はこれらへの反逆児で、作中の随所で表現される。そうした儒教社会へ反感を持つ二人が、同類からシンパシーを感じていく。
韓国の若い世代では、旧来の慣習への疑問や反発、さらには旧来秩序が変わりつつあって、本作に描かれるテーマが身近なのだろうが、日本人にとっては正直どうでもいいことで、単なるドメスティック・バイオレンスを描いた作品でしかなく、タケシ映画のように罵詈雑言を並べ、女に平気で暴力を振るうシーンばかりで、社会の後進性が際立つ。
メンタルなシーンではどうにも主人公たちの心情が理解できず、欧米や他の国の映画とは違う韓国人のメンタルの不可解さがあって、近年日韓の理解がすれ違う理由なのかもしれないと思ったりする。
チンピラは父親に暴力を振るっているところを甥に見られ、それがかつての父親と自分の姿だと気付き、父の自殺未遂によって取り立て屋から足を洗う決心をする。
一方の女子高生の弟が取り立て屋の新米となり、気付かないままにチンピラとコンビを組むことになるが・・・というところで物語は常道に従って悲劇で終わる。
監督・主演のヤン・イクチュンは長編映画初監督だが、演出もカメラワークも未熟で、70~80年のATG映画を見るよう。遅れてやってきた韓国映画のヌーベルバーグのようでやるせない。むしろ見どころは、ヤン・イクチュンの演技で、チンピラの糞っぷりが堂に入っている。 (評価:2.5)
日本公開:2010年3月20日
監督:ヤン・イクチュン 製作:ヤン・イクチュン 脚本:ヤン・イクチュン 撮影:ユン・チョンホ 音楽:ジ・インヴィジブル・フィッシュ
キネマ旬報:1位
原題は"똥파리"で、糞蠅の意味。
幼い頃の父親の家庭内暴力で母と妹を失ったトラウマで、暴力体質になっている取り立て屋のチンピラ。父親が正気を失って家庭崩壊している女子高生。この二人が出会い、互いに心惹かれていく過程を描くヒューマン?ドラマ。
伝統的な儒教社会である韓国では長幼の序が尊ばれ、父子、君臣、夫婦の上下の秩序は絶対的だが、主人公のチンピラと女子高生はこれらへの反逆児で、作中の随所で表現される。そうした儒教社会へ反感を持つ二人が、同類からシンパシーを感じていく。
韓国の若い世代では、旧来の慣習への疑問や反発、さらには旧来秩序が変わりつつあって、本作に描かれるテーマが身近なのだろうが、日本人にとっては正直どうでもいいことで、単なるドメスティック・バイオレンスを描いた作品でしかなく、タケシ映画のように罵詈雑言を並べ、女に平気で暴力を振るうシーンばかりで、社会の後進性が際立つ。
メンタルなシーンではどうにも主人公たちの心情が理解できず、欧米や他の国の映画とは違う韓国人のメンタルの不可解さがあって、近年日韓の理解がすれ違う理由なのかもしれないと思ったりする。
チンピラは父親に暴力を振るっているところを甥に見られ、それがかつての父親と自分の姿だと気付き、父の自殺未遂によって取り立て屋から足を洗う決心をする。
一方の女子高生の弟が取り立て屋の新米となり、気付かないままにチンピラとコンビを組むことになるが・・・というところで物語は常道に従って悲劇で終わる。
監督・主演のヤン・イクチュンは長編映画初監督だが、演出もカメラワークも未熟で、70~80年のATG映画を見るよう。遅れてやってきた韓国映画のヌーベルバーグのようでやるせない。むしろ見どころは、ヤン・イクチュンの演技で、チンピラの糞っぷりが堂に入っている。 (評価:2.5)
ゴモラ
日本公開:2011年10月29日
監督:マッテオ・ガローネ 製作:ドメニコ・プロカッチ 脚本:マルリツィオ・ブラウッチ、ウーゴ・キーティ、ジャンニ・ディ・グレゴリオ、マッテオ・ガローネ、マッシモ・ガウディオソ、ロベルト・サヴィアーノ 撮影:マルコ・オノラート 美術:パオロ・ボンフィーニ
原題"Gomorra"。ロベルト・サヴィアーノの同名小説が原作。ナポリを拠点とする実在の犯罪組織、カモッラを題材に5つのエピソードが並行して描かれる。
タイトルのゴモラは、旧約聖書に登場する不道徳のためにソドムとともに神により罰せられ滅ぼされた死海沿岸の町の名で、悪徳の町の代名詞。
本作で描かれるナポリの町の悪徳は、犯罪組織の一員となって組織を裏切った青年の母親を殺すのを手伝う少年、敵対組織に仲間を売って生き延びる男、不法投棄をする産業廃棄物処理会社、腕のいい仕立て職人を引き抜いた中国人縫製業者を抹殺する組織、組織の武器を盗んだために騙されて抹殺されるチンピラ2人の5つのエピソード。
5つのエピソードがオムニバス的に並行して進み、エピソードに相互の関連がほとんどない上に、カットが細切れに繋がっているため、ストーリーがつかみにくい。説明的なカットのないリアリズム主体の乾いた演出は、ドキュメンタリータッチだがドラマ性に欠けていて、予備知識なしに見るとわかりにくい。
実例をもとにしたフィクションとはいえ、南米のどこかの国のような文明国とは思えないナポリの治安が衝撃的で、この映画を見たらとてもナポリには行けなくなる。 (評価:2.5)
007 慰めの報酬
日本公開:2009年1月24日
監督:マーク・フォースター 製作:マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ 脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:ロベルト・シェイファー 音楽:デヴィッド・アーノルド
原題"Quantum of Solace"で、邦題の意。イアン・フレミングに同名の原作があり、慰めの気持ちの定量の意味で使われるが、内容は異なり、前作『カジノ・ロワイヤル』の続編。
ボリビアの砂漠の天然資源を独占しようとする自然保護団体の慈善家の陰謀をボンドが暴く話だが、前作の犯罪組織への復讐話が絡んで、ストーリーは複雑。登場人物とエピソードも多くて、煩雑でわかりにくくなっている。
前作で死んだ彼女のためのボンドの復讐と、新キャラで家族を殺されたボリビア女諜報員の復讐が大きな2本の縦糸で、ボンドとボンドガール(オルガ・キュリレンコ)が行動をともにしながらそれぞれの敵討ちをする。
冒頭は前作ラストで拘束したホワイトの奪還を狙う犯罪組織との戦いで、スパイがMI6にも潜り込んでいて、国際犯罪組織の存在さえ知らないMがいささか間抜けに見える。
国際犯罪組織は南米で軍事政権やCIAとも手を組み、イギリス政府にも影響力を持つという、単なる犯罪シンジケートではなくなっていて、背景説明が必要なくらいに話が複雑化しているが、そのあたりはすっ飛ばしているため、ラストで前作のボンドガールを騙していた男に復讐するシーンでも唐突にカナダの諜報員が出てきて、人物の関係性がよくわからない。
登場人物を記号として扱い背景を省くのも、この手のスパイ・アクションでは有りだが、次々と登場人物が入れ替わり、事件の事情がよく呑み込めないままのノンストップ・ストーリーでは、肝腎の慰めの報酬が何だったのかもよくわからないままに終わってしまう。
MI6もCIAもイギリス政府も持て余す、跳ねっ返りのボンドとハードボイルドが売りの割には、女のための復讐話が主軸のためにかなりウエットな話になっているのは、好みの分かれるところ。
前作を見ていないとドラマ部分が分からないというのもマイナス。ハードボイルド演出のための省略法が多すぎて、説明不足で意味に分からない台詞とシーンが多いのも難。 (評価:2.5)
マンマ・ミーア!
日本公開:2009年1月30日
監督:フィリダ・ロイド 製作:ジュディ・クレイマー、ゲイリー・ゴーツマン 脚本:キャサリン・ジョンソン 撮影:ハリス・ザンバーラウコス 美術:マリア・ジャーコヴィク 音楽:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース
原題"Mamma Mia!"で、ああ、ママ!の意。同名のブロードウェイ・ミュージカルの映画化。
イタリア語のタイトルながら、舞台はエーゲ海に浮かぶ島で、登場人物はアメリカ人、イギリス人ほか、音楽はABBAというグローバルなミュージカル映画だが、タイトルはABBAの曲から採られている。
ロマンチック・コメディのミュージカルなので、ストーリーなどどうでもいいというわけか、見どころ聴きどころはABBAの曲とメリル・ストリープの歌唱とエーゲ海の美しい景色となっている。
もっともABBAの曲を聞くならABBAが演奏する音楽を聞けば良いわけで、仕事をサボって渋谷の東急文化会館で見た『アバ ザ・ムービー』(1977)を思い出した。
シングル・マザー、ドナ(メリル・ストリープ)の娘ソフィ(アマンダ・サイフリッド)が結婚することになり、父親の可能性のあるサム(ピアース・ブロスナン)、ハリー(コリン・ファース)、ビル(ステラン・スカルスガルド)の3人を結婚式に招待し、誰が父親か確かめるという物語で、短期間に3人の男と寝たという母の日記を持ち出し、能天気に友達に読んで聞かせるプロローグでいきなり引いてしまうが、その後のABBAの曲があまりに明るいので、そんなことなど露ぞ忘れてしまう。
最後は3人が3分の1ずつの父親ということで話は纏まり、ドナは恋人だったサムと結婚するという大団円。ソフィは父親ではなく自分探しをしろという、とってつけたオチ。
どんな曲でもソロからいきなり楽しい合唱や群舞となるのも能天気だが、ヘビメタ野郎ハリーが歌う”Our Last Summer”が少しもロックンロールしていない。 (評価:2)
ウォーリー
日本公開:2008年12月5日
監督:アンドリュー・スタントン 製作:ジム・モリス 脚本:アンドリュー・スタントン、ジム・リアドン 美術:ラルフ・エグルストン 音楽:トーマス・ニューマン
原題"WALL-E"で、主人公のロボットの名、ウォーリー。
29世紀の地球…というかニューヨーク。汚染により、人間が地球を捨てて宇宙に脱出してから700年という設定。環境汚染に警鐘を鳴らすというよくあるSFストーリーのピクサー・アニメーション・スタジオ製作3Dアニメーション。
主人公のウォーリーはニューヨークにただ一体残ったお掃除ロボットで、金属ゴミを集めては立方体に潰し、摩天楼のようなゴミの山を築いている。そのウォーリーが孤独を癒す楽しみは、ゴミの中から見つけたミュージカル映画『ハロー・ドーリー!』(1969)のビデオ。登場人物たちが手と手を繋いで踊るシーンがお気に入り。
そこに降り立ったのが700年前に地球を脱出した宇宙船から派遣された調査ロボットのイブ(EVE)。映画のようにイブと手を繋ぎたいウォーリーが、ゴミの山の下から見つけた1本の草をプレゼント。イブがこれを体内に収容した途端、停止。宇宙船に回収されてしまう。
イブの調査の目的は地球が生物の住める状態に回復したかで、この判定により世代を経た宇宙船の人間たちが地球に帰還することになるが、『2001年宇宙の旅』(1968)のHAL9000よろしく、コンピュータのAUTOが反乱を起こす。
ウォーリーとイブの活躍で人々が無事地球に帰り、やがて緑が復活するところで物語は終わるが、手を繋ぐことがストーリーの鍵となっていて、無機物も有機物も友愛を結ぶきっかけとなっていく。
みんな手でを繋ごう、そしてみんなの地球を守ろう、というわかりやすいテーマだが、いささか凡庸すぎて、テーマの古さは否めない。
台詞がほとんどなく、サイレント映画を見ているような感覚だが、世界観の美術が面白い前半はともかく後半に入るとストーリーが月並みに退屈になる。 (評価:2)
楽園の瑕 終極版
日本公開:2013年7月20日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ツァイ・ムホー 脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル 音楽:ヨーヨー・マ
原題"東邪西毒:終極版"。東邪、西毒は登場人物の異名。終極版は最終版の意。金庸の武侠小説『射鵰英雄伝』が原作。
『楽園の瑕』(1994)を新たに再編集したもので、複雑な人間関係を簡潔にしてわかりやすいストーリーにしたというが、説明不足でどちらも良くわからない。
ただウォン・カーウァイらしい凝った映像で、コンポジションや騎馬民族の出現シーンなど時々ハッとさせられるが、クローズアップやスローモーション、残像加工がしつこくて、撮影・編集よりも脚本にもっと力を入れてほしかった。
舞台は12世紀。西毒こと欧陽鋒(レスリー・チャン)が西域の砂漠で、晴らせぬ恨みを代行する殺し屋をしている。東邪こと黄薬師(レオン・カーフェイ)が朋有り遠方より来り、過去を忘れられるという酒を酌み交わすが、欧には忘れたくない過去があって水を飲む。
黄は酒を飲んで過去を忘れるが、その過去の朋であった燕の後継者・慕容燕(ブリジット・リン)が欧を訪れ、黄の殺害を依頼する。次に来たのが慕容の妹・慕容嫣で、兄の殺害を依頼するが、実は二人は同一人物で…という物語。
欧の忘れたくない過去は、臆病だったために愛を告白できず兄嫁(マギー・チャン)となってしまった女のこと。寡婦となった兄嫁の許を定期的に訪れていた黄は、それを欧に告げることなく、欧は手紙で兄嫁の病死を知ることになる。
欧と黄の話を軸に、弟の敵討ちを依頼する少女(チャーリー・ヤン)、黄と同郷の剣士(トニー・レオン)と妻・桃花(カリーナ・ラウ)、欧に手伝いを申し出る洪七(ジャッキー・チュン)のエピソードが絡むが、どれも中途半端で話がこんがらがるばかり。
過去を捨てられない男女の武侠の形式を採った愛憎のドラマで、ウォン・カーウァイらしい甘美と哀切の美学が作品世界を包み込むのだが、編集し直しただけでは覆水盆に返らない。 (評価:2)
アイアンマン
日本公開:2008年9月27日
監督:ジョン・ファヴロー 製作:アヴィ・アラッド、ケヴィン・ファイギ 脚本:マーク・ファーガス、ホーク・オストビー、アート・マーカム、マット・ハロウェイ 撮影:マシュー・リバティーク 美術:J・マイケル・リーヴァ 音楽:ラミン・ジャヴァディ
原題" Iron Man"で、主人公トニー・スタークのヒーロー名。同名のアメリカン・コミックが原作。
トニー(ロバート・ダウニー・Jr)がアイアンマンになるまでの誕生物語。
トニーが父親から引き継いだ軍需産業スターク・インダストリーズ社の新兵器の売り込みにアフガニスタンを訪問中、テロ組織の攻撃を受けて負傷。テロ組織に捕まり救命装置を施され、新兵器製造を強要される中、偽って救命装置を熱プラズマ反応炉と交換。パワードスーツを製造装着して脱出するも、パワードスーツはテロ組織の手に渡る。
帰国後、軍需産業からの撤退を宣言するが、CEOの座を追われ、極秘に新型パワードスーツを開発。新社長オバディア(ジェフ・ブリッジス)がテロ組織に兵器を売っているのを知って内偵するが、オバディアはテロ組織が手に入れた初号パワードスーツを改良してトニーを亡き者にせんと対決する。
パワードスーツ同士の戦いは街を破壊する勢いで、勝利したトニーの新型はアイアンマンと名付けられるというお話。
ラストシーンはアベンジャーズからのスカウト話で、次作への露骨な引きで終わる。
アイアンマン誕生は原作ではベトナム戦争で、本作では現代に置き換えながらもテイストは60年代のまま。初号は『オズの魔法使』(1939)のブリキマンのようでちょっと可愛い。
MITで集積回路を研究していたトニーがハンダゴテで熱プラズマ反応炉を作ったり、アイアンマンが酸素の薄い大気圏上空まで上昇して無事だったり、水分もないのに氷結したりとツッコミどころは満載だが、アメコミなのでツッコミながら楽しむのが正しい鑑賞法。 (評価:2)
バーン・アフター・リーディング
日本公開:2009年4月24日
監督:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン 製作:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 美術:ジェス・ゴンコール 音楽:カーター・バーウェル
原題"Burn After Reading"で、読後焼却の意。
CIAの元分析官を主人公とするコメディだが、アメリカンコメディにありがちな独特の笑いのセンスで、日本人には笑えないのが辛い。
アル中を理由に分析官を外され自主退職したオジー(ジョン・マルコヴィッチ)は、暴露本の執筆を始める。その原稿をハリー(ジョージ・クルーニー)と不倫している妻ケイティ(ティルダ・スウィントン)が離婚材料にしようとCDにコピー、スポーツジムに置き忘れてしまう。
これを拾ったジムの従業員、リンダ(フランシス・マクドーマンド)とチャド(ブラッド・ピット)がCIAの機密情報と勘違い。リンダの美容整形手術代のためにオジーを強請るが応じず、ロシア大使館に持ち込むが相手にされず、チャドが再び機密情報を手に入れようとオジーの家に忍び込んだところをハリーと遭遇。射殺されてしまう。
リンダは行方不明のチャドの手掛かりを得るため、リンダに片思いしている上司のテッド(リチャード・ジェンキンス)を説得して再びオジーの家に忍び込ませるが、今度はオジーに殺されてしまう。
大使館にはCIAのスパイがいて、途中からCIAがオジーの周辺を監視。チャドとテッドの死体の後始末をし、ハリーの国外逃亡を助け、美容整形代でリンダの口を封じて一件落着。"Burn After Reading"となる。
ハリーはリンダとも交際していて、ハリーの妻サンディ(エリザベス・マーヴェル)も浮気をしているという男女関係が複雑に絡んで、これにスパイ騒動が加わるという、大山鳴動して鼠一匹型のコメディ。後半、話がこんがらがり、細かい不整合は投げ出した感があって、シニカルに終わらせるコーエン兄弟風が馴染めない。 (評価:2)
インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国
日本公開:2008年6月21日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:フランク・マーシャル 脚本:デヴィッド・コープ 撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題"Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull"で、インディアナ・ジョーンズと水晶の頭蓋骨の王国の意。
前作から19年後の制作で、俳優の老齢化に合わせて、作品の時代設定も19年後の1957年となっている。
世界大戦も終わり、敵はナチからソ連に変わり、ソ連軍がネバダ州の米軍施設を乗っ取るという、とんでもないプロローグで始まる。
とんでもないのはこれで済まず、核実験場でインディが冷蔵庫に入って放射線を防ぐという、スーパーマンが観たら大笑いするエピソードがあって、放射線を見るなとか、キノコ雲を背景にインディがホッとするという、とても21世紀制作とは思えないようなシナリオの酷さ。
米軍施設に保管されている水晶の頭蓋骨が、太古にナスカに飛来してマヤ人に文明をもたらした宇宙人のもので、最後は13人のクリスタル・スケルトンが異次元に去っていくという、矢追純一の前世紀的オカルト作品に仕上がっている。
その古めかしさは、19年の経年劣化を経たハリソン・フォード66歳も同様で、アクションシーンは望むべくもないが、製作総指揮のルーカスやスピルバーグがそこまでして続編を作った理由がよくわからない。
物語は、KGBの女スパイたちとインディ、その隠し子の水晶の頭蓋骨を巡る争奪戦と、もとあったアマゾンの遺跡に戻すという冒険を軸に展開し、マッカーシズムの味付けを施しながら、相変わらずの大掛かりなセットで楽しませてくれるが、公開から8年ぶりに見て、ほとんど内容を覚えていないという印象の薄さ。
女たらしのインディが明確に説明され、映画では4人目の女に産ませた息子がヘンリー・ジョーンズ3世で、インディの後継者となる。
続編を狙ったこの仕掛けも凡作の前に不発に終わり、(現在のところ)本作がシリーズ最終作となった。KGBの女スパイにケイト・ブランシェット。 (評価:2)
ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛
日本公開:2008年5月21日
監督:アンドリュー・アダムソン 製作:マーク・ジョンソン、アンドリュー・アダムソン、フィリップ・ステュアー 脚本:アンドリュー・アダムソン、クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
原題は"The Chronicles of Narnia: Prince Caspian"(ナルニア年代記:カスピアン王子)で、C・S・ルイスのイギリス児童小説"Prince Caspian"が原作。
前作とは打って変わって普通のファンタジー映画風だが、原作も同様に童話から様変わりした冒険小説風。
第1作のラストで時間経過なく現代(1940年)に戻った子供たちが再びナルニアを訪れるが、ナルニア年代記と銘打っているように、ナルニアでは数百年が経過していて、王のいなくなった国はとうに滅びている。何故かテルマール人と呼ばれる人間の国があって、この謎は最後に明かされる。物語は『ハムレット』で、父王を殺し母を妻にした叔父との間に子供が生まれ、先王の子ハムレット=カスピアンが城を逃げ出し、復讐を果たす。
このとき、カスピアンが吹くのが長女スーザンの持っていた角笛で、現代の4人の兄弟姉妹を引き寄せる。邦題は、この角笛を指す。4人の兄弟姉妹はカスピアンを助けて、滅んだナルニアの再興のためにテルマール軍と戦うという冒険映画で、宗教教育色は薄まるので普通にファンタジー映画として楽しめる、かも・・・
もっとも救世主のライオンは健在で、神を信じる者にしか姿は見えないという教訓を忘れない。神が人間と生き物たちの大規模な殺戮を許していいのかという十字軍的疑問は残るが、戦闘シーンは派手で、子供たちも頑張って剣を振るう。
基本はアクション映画でハムレットの葛藤のドラマもないので、見どころは映像となるが、ニュージーランドでロケした自然の風景が素晴らしい。誰もいない美しい砂浜や、澄み切った渓谷の川にうっとりする。その川に橋を渡したり、高原に遺跡を作ったりしているが、それがセットなのかCG合成なのかは不明で、セットだとしたら自然破壊じゃないかと思わず心配になる。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2008年11月15日
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:ピーター・グルンウォルド、アート・スピゲル、サム・イングルバート、アラ・カッツ 脚本:ジョージ・A・ロメロ 撮影:アダム・スウィカ 音楽:ノーマン・オレンスタイン
ドキュメンタリータッチの社会派ゾンビ映画だが
原題は"Diary of the Dead"(死者の日記)で、ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画。
ゼミの大学生たちが卒業制作でホラー映画を取っていたところに、世界中でゾンビが発生。監督の学生が急遽、事件の記録映像を撮り始め、(一部監視カメラ映像等があるが)彼のカメラを通して物語が進むというドキュメンタリー手法が採られている。劇中で制作されるドキュメンタリー映画のタイトルは"Dead of the Dead"(死者の死)。
この手法の映画としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』等の駄作が思い浮かぶが、さすがにロメロ監督は見られる作品に仕上げている。
ゾンビ発生の設定は旧作と変わらず、新奇性を求めた結果がこれだったのだろうが、主観視点が続くと単調であることには変わりなく、カメラのぶれも気になって落ちつかない。ホラーには静の恐怖感があるが、それがないぶん動的で怖さが半減し、ホラーとしての効果を上げていない。唯一、面白かったのは水中を歩くゾンビで、劇薬で頭の溶けたゾンビなど、15禁の残酷シーンは見どころ。
記録映画を撮り続けることで当事者から傍観者となる、かつて豊田商事事件で問題になったジャーナリズムの矛盾、ネット社会の情報過多と信憑性、メディアの情報操作のテーマ性も強く押し出されるが、その理屈っぽさは、あくまでエンタテイメントとして単純にホラーを楽しみたいファンには興趣を損なう。
ネタをばらすようだが、学生監督が最後までカメラを回さないことは途中でわかるし、ラストも想像がつく。ジャーナリズムも傍観者では有り得ないという結論になるが、観終わってよく考えれば本作が傍観者としてのジャーナリズムを肯定していることがわかる。 (評価:2)
日本公開:2008年11月15日
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:ピーター・グルンウォルド、アート・スピゲル、サム・イングルバート、アラ・カッツ 脚本:ジョージ・A・ロメロ 撮影:アダム・スウィカ 音楽:ノーマン・オレンスタイン
原題は"Diary of the Dead"(死者の日記)で、ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画。
ゼミの大学生たちが卒業制作でホラー映画を取っていたところに、世界中でゾンビが発生。監督の学生が急遽、事件の記録映像を撮り始め、(一部監視カメラ映像等があるが)彼のカメラを通して物語が進むというドキュメンタリー手法が採られている。劇中で制作されるドキュメンタリー映画のタイトルは"Dead of the Dead"(死者の死)。
この手法の映画としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』等の駄作が思い浮かぶが、さすがにロメロ監督は見られる作品に仕上げている。
ゾンビ発生の設定は旧作と変わらず、新奇性を求めた結果がこれだったのだろうが、主観視点が続くと単調であることには変わりなく、カメラのぶれも気になって落ちつかない。ホラーには静の恐怖感があるが、それがないぶん動的で怖さが半減し、ホラーとしての効果を上げていない。唯一、面白かったのは水中を歩くゾンビで、劇薬で頭の溶けたゾンビなど、15禁の残酷シーンは見どころ。
記録映画を撮り続けることで当事者から傍観者となる、かつて豊田商事事件で問題になったジャーナリズムの矛盾、ネット社会の情報過多と信憑性、メディアの情報操作のテーマ性も強く押し出されるが、その理屈っぽさは、あくまでエンタテイメントとして単純にホラーを楽しみたいファンには興趣を損なう。
ネタをばらすようだが、学生監督が最後までカメラを回さないことは途中でわかるし、ラストも想像がつく。ジャーナリズムも傍観者では有り得ないという結論になるが、観終わってよく考えれば本作が傍観者としてのジャーナリズムを肯定していることがわかる。 (評価:2)
トワイライト 初恋
日本公開:2009年4月4日
監督:キャサリン・ハードウィック 製作:マーク・モーガン、グレッグ・ムーラディアン、ウィク・ゴッドフリー 脚本:メリッサ・ローゼンバーグ 撮影:エリオット・デイヴィス 音楽:カーター・バーウェル
原題は"Twilight"(たそがれ、逢う魔が刻)。ステファニー・メイヤーの同名小説が原作。いわゆるライトノベルで、携帯小説以上のものを期待してはいけない。
公開時、ヴァンパイアものと聞いて取り敢えず見たが、ホラーではなくアクション恋愛ストーリー。テーマ的には萩尾望都『ポーの一族』の焼き直しだが、主人公の女の子が同級生を吸血鬼と知っていながら道ならぬ恋に落ちてしまうのが、どうにも説得力がない。さらには女の子を狙う悪い吸血鬼集団が、人間の血なら誰でもいいはずなのに、執拗に女の子を追いかけるのも腑に落ちない。
ストーリーはここまで書いたことがすべてで、ネイティブ・アメリカンの幼馴染みが絡むが、これが続編で**男と知って、空いた口が塞がらなかった。
ストーリー的にはその程度の作品だが、女の子は吸血鬼の仲間になるのか? という『ポーの一族』的引きがあって、続編が気になるが、見ても時間の浪費かもしれないという恐怖との狭間に揺れ、とってもホラー。
吸血鬼の青年はロバート・パティンソンは、『ハリー・ポッター』のセドリック役でどちらも二枚目の設定。
元AKBの前田敦子がファンだということに敬意を表しての甘めの評価。 (評価:2)
センター・オブ・ジ・アース
日本公開:2008年10月25日
監督:エリック・ブレヴィグ 製作:シャーロット・ハギンズ、ボー・フリン 脚本:マイケル・ワイス、ジェニファー・フラケット、マーク・レヴィン 撮影:チャック・シューマン 美術:デヴィッド・サンドファー 音楽:アンドリュー・ロッキングトン
原題"Journey to the Center of the Earth"で、地球の中心への旅の意。ジュール・ヴェルヌの小説"Voyage au centre de la Terre"が原作。
"Journey to the Center of the Earth"といっても地球の中心まで行くわけではなく、地表から百数十キロ、マントル最上層部、リソスフェアまでの話。現代に置き換えて主人公は地球物理学者(?)、プロローグではプレートテクトニクスの話が出てくるが、物語全体は19世紀の知見によるもので、コミカルにしてリアリティは薄めているものの、非科学的な説明や描写が続いて、ディズニー・シー的な魔法の世界のファンタジーとなっている。
下手に現代科学の知識など入れずに、純粋なファンタジーにした方が嘘くさくならなくて良かったんじゃないか? あるいは完全にコメディにするとか…
物語は成果が上がらずに大学の研究室を追い出されようとしているトレバー(ブレンダン・フレイザー)が、地震計の警報(?)を受けて、甥のショーン(ジョシュ・ハッチャーソン)とアイスランドのスネッフェルス火山に行くというもので、火山学者の娘で山岳ガイドをしているハンナ(アニタ・ブリエム)が同行することになる。
ここからは火山の調査は忘れて、トレバーが信奉するジュール・ヴェルヌの小説を追体験するのが目的となり、なぜわざわざ危険な地底に入っていくのかというのは無粋な疑問で、単にアドベンチャーだからという展開となる。トロッコ列車の暴走とか縦穴の落下、地下の空洞、不思議な磁力場、地底湖、恐竜といったファンタジーのどれがディズニー・シーで楽しめるのか想像するのが本作の正しい見方か。
一言でいえばどれも子供騙しなので、やはり下手なSFにするよりは完全にメルヘンにした方が良かった。
最後は鉱床から持ち帰った大量のダイヤモンドで研究室は研究所に発展。トレバーとハンナの恋の花が咲くという定番のハッピーエンド。科学誌サイエンスに研究論文が載るというこれまたメルヘンなオチまで付いていて、SFアドベンチャーなのかコメディなのかよくわからない作品になっている。 (評価:1.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2008年9月6日
監督:落合正幸 製作:一瀬隆重、ロイ・リー、ダグ・デイヴィソン 脚本:ルーク・ドーソン 撮影:柳島克己 美術:安宅紀史 音楽:ネイサン・バー
奥菜恵が幽霊役という以外に見どころがない
原題"Shutter"。タイ映画『心霊写真』(2004)のリメイク。
奥菜恵が幽霊役という以外に見どころがなく、シナリオも杜撰なら、演出もカメラの切り替えと効果音で脅すというホラー映画としてもC級の作品。
ブルックリンに住む男女が結婚式を挙げ、カメラマンの夫の仕事がてら日本に新婚旅行に来るという設定で、ドライブ中に若い女を撥ねてしまうが被害者の姿はなく、これが実は幽霊だったというもの。
ネタ晴らしをすれば、夫のベン(ジョシュア・ジャクソン)がかつて日本にいた時に、メグミ(奥菜恵)といい仲になるが、当人は遊びのつもり。メグミは真剣で、ベンは手を切るために仕事仲間とメグミの猥褻な写真を撮り、この際に仲間がレイプ。メグミは自殺してベンに取り憑いていたというもの。メグミはベンの所業を新妻のジェーン(レイチェル・テイラー)に伝えて警告しようと、心霊写真に写る。
最初から取り憑いていたのなら、なぜ日本に来るまで隠れていたのかとか、交通事故の際にベンに肩車したのなら、なんで心霊写真に写り込むのかとか、神出鬼没というよりは節操のない出現の仕方について言い出したらキリがないのだが、そのくらいにシナリオが粗雑ということ。
幽霊が新婚カップルを襲う理由がわからないままに話が進むので、ドラマとしては暴漢に襲われた程度でホラー的には少しも怖くなく、その分を演出的な脅しで誤魔化すという志の低い作品。
フィルムカメラからデジタルカメラへの移行期の作品で、高画質の写真はフィルム、スナップは使い捨てフィルムカメラとデジカメと混在して出てくるのが、物語よりも面白い。 (評価:1.5)
日本公開:2008年9月6日
監督:落合正幸 製作:一瀬隆重、ロイ・リー、ダグ・デイヴィソン 脚本:ルーク・ドーソン 撮影:柳島克己 美術:安宅紀史 音楽:ネイサン・バー
原題"Shutter"。タイ映画『心霊写真』(2004)のリメイク。
奥菜恵が幽霊役という以外に見どころがなく、シナリオも杜撰なら、演出もカメラの切り替えと効果音で脅すというホラー映画としてもC級の作品。
ブルックリンに住む男女が結婚式を挙げ、カメラマンの夫の仕事がてら日本に新婚旅行に来るという設定で、ドライブ中に若い女を撥ねてしまうが被害者の姿はなく、これが実は幽霊だったというもの。
ネタ晴らしをすれば、夫のベン(ジョシュア・ジャクソン)がかつて日本にいた時に、メグミ(奥菜恵)といい仲になるが、当人は遊びのつもり。メグミは真剣で、ベンは手を切るために仕事仲間とメグミの猥褻な写真を撮り、この際に仲間がレイプ。メグミは自殺してベンに取り憑いていたというもの。メグミはベンの所業を新妻のジェーン(レイチェル・テイラー)に伝えて警告しようと、心霊写真に写る。
最初から取り憑いていたのなら、なぜ日本に来るまで隠れていたのかとか、交通事故の際にベンに肩車したのなら、なんで心霊写真に写り込むのかとか、神出鬼没というよりは節操のない出現の仕方について言い出したらキリがないのだが、そのくらいにシナリオが粗雑ということ。
幽霊が新婚カップルを襲う理由がわからないままに話が進むので、ドラマとしては暴漢に襲われた程度でホラー的には少しも怖くなく、その分を演出的な脅しで誤魔化すという志の低い作品。
フィルムカメラからデジタルカメラへの移行期の作品で、高画質の写真はフィルム、スナップは使い捨てフィルムカメラとデジカメと混在して出てくるのが、物語よりも面白い。 (評価:1.5)