外国映画レビュー──1989年
製作国:アメリカ
日本公開:1990年5月12日
監督:ブルース・ベレスフォード 製作:リチャード・D・ザナック、リリ・フィニー・ザナック 脚本:アルフレッド・ウーリー 撮影:ピーター・ジェームズ 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)
市井の人デイジーに凡人としての共感を覚えてしまう
原題"Driving Miss Daisy"。
気難しい老婆デイジーとお抱え運転手の物語で、車の運転と、ミス・デイジーを運転する方法のdouble meaningのタイトルか? アルフレッド・ウーリーの同名戯曲が原作。
第二次世界大戦後のアトランタが舞台で、ミス・デイジーは紡績業で成功した亡き夫の妻という設定。事業を継いだ息子とその妻はブルジョア的生活を送っていて、デイジーは黒人家政婦とともに大きな家に一人住まい。高齢で自家用車で自損事故を起こしたことから、息子が新しい車と運転手を雇う。
運転手は機転の利く黒人の老人で、無視するデイジーに粘り強く接し、やがて深い信頼で結ばれるようになる。
この老人二人をジェシカ・タンディとモーガン・フリーマンが演じ、ジェシカ・タンディはアカデミー主演女優賞を受賞している。舞台劇だけに、本作はこの二人の名演に支えられているといってよく、息子夫婦を演じるダン・エイクロイドとパティ・ルポーンも良い。
本作の魅力は老人二人のキャラクター性にある。デイジーの一家はユダヤ人で、白人社会からは蔑まれている。その使用人となるのも社会から明確に差別されている黒人で、作中でもドライブインのトイレを使わせてもらえないという話が出てくる。
本作はできれば字幕で見たい。というのは、ユダヤ人は黒人より優位にありながら差別されている身に変わりはなく、二人の会話を聞いていると単に雇用者と使用人の関係性でしかないのがわかる。字幕では「奥様」と翻訳されているが、使われているのはMiss Daisyで、momもない。
つまり二人の関係は対等で、運転手はデイジーにズケズケ物を言い、デイジーもまたそれを許している。彼女は単に気難しいだけで、その源泉は貧しい生活から身を起こしたユダヤ娘で、教師の職を得て、人間としての信念のもとに生きてきたことにある。
だから、息子夫婦のブルジョア的生活も、自分が使用人を使う身分であることも良しとはしない。運転手も使われる身分ではなく、give and takeによってデイジーとの関係性を築き、信頼のおける友人となっていく。
それを端的に示すエピソードが二つあって、一つは運転手が文盲だと知ったデイジーが、かつての教師に戻って文字を教え、昔使ったテキストをプレゼントする。もう一つはキング牧師の演説会にデイジーが参加することで、彼女のリベラリストとしての側面と同時に、差別に対して無自覚であることを運転手に教えられる。
差別が公然だった時代の四半世紀にわたるドラマで、不完全でありながら善意と信念に生きようとする市井の人デイジーに、凡人としての共感を覚えてしまう。 (評価:3.5)
日本公開:1990年5月12日
監督:ブルース・ベレスフォード 製作:リチャード・D・ザナック、リリ・フィニー・ザナック 脚本:アルフレッド・ウーリー 撮影:ピーター・ジェームズ 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)
原題"Driving Miss Daisy"。
気難しい老婆デイジーとお抱え運転手の物語で、車の運転と、ミス・デイジーを運転する方法のdouble meaningのタイトルか? アルフレッド・ウーリーの同名戯曲が原作。
第二次世界大戦後のアトランタが舞台で、ミス・デイジーは紡績業で成功した亡き夫の妻という設定。事業を継いだ息子とその妻はブルジョア的生活を送っていて、デイジーは黒人家政婦とともに大きな家に一人住まい。高齢で自家用車で自損事故を起こしたことから、息子が新しい車と運転手を雇う。
運転手は機転の利く黒人の老人で、無視するデイジーに粘り強く接し、やがて深い信頼で結ばれるようになる。
この老人二人をジェシカ・タンディとモーガン・フリーマンが演じ、ジェシカ・タンディはアカデミー主演女優賞を受賞している。舞台劇だけに、本作はこの二人の名演に支えられているといってよく、息子夫婦を演じるダン・エイクロイドとパティ・ルポーンも良い。
本作の魅力は老人二人のキャラクター性にある。デイジーの一家はユダヤ人で、白人社会からは蔑まれている。その使用人となるのも社会から明確に差別されている黒人で、作中でもドライブインのトイレを使わせてもらえないという話が出てくる。
本作はできれば字幕で見たい。というのは、ユダヤ人は黒人より優位にありながら差別されている身に変わりはなく、二人の会話を聞いていると単に雇用者と使用人の関係性でしかないのがわかる。字幕では「奥様」と翻訳されているが、使われているのはMiss Daisyで、momもない。
つまり二人の関係は対等で、運転手はデイジーにズケズケ物を言い、デイジーもまたそれを許している。彼女は単に気難しいだけで、その源泉は貧しい生活から身を起こしたユダヤ娘で、教師の職を得て、人間としての信念のもとに生きてきたことにある。
だから、息子夫婦のブルジョア的生活も、自分が使用人を使う身分であることも良しとはしない。運転手も使われる身分ではなく、give and takeによってデイジーとの関係性を築き、信頼のおける友人となっていく。
それを端的に示すエピソードが二つあって、一つは運転手が文盲だと知ったデイジーが、かつての教師に戻って文字を教え、昔使ったテキストをプレゼントする。もう一つはキング牧師の演説会にデイジーが参加することで、彼女のリベラリストとしての側面と同時に、差別に対して無自覚であることを運転手に教えられる。
差別が公然だった時代の四半世紀にわたるドラマで、不完全でありながら善意と信念に生きようとする市井の人デイジーに、凡人としての共感を覚えてしまう。 (評価:3.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1990年3月3日
監督:フィル・アルデン・ロビンソン 製作:ローレンス・ゴードン、チャールズ・ゴードン 脚本:フィル・アルデン・ロビンソン 撮影:ジョン・リンドレー 音楽:ジェームズ・ホーナー 美術:レスリー・マクドナルド
キネマ旬報:2位
農園に野球場を造る大人のスピリチュアルな寓話
原題は"Field of Dreams"で、W・P・キンセラの小説"Shoeless Joe "が原作。
シューレス・ジョーは1910年代のメジャーリーガー、ジョー・ジャクソンで、よく裸足でプレーしたことが綽名の由来。1919年の八百長事件「ブラックソックス事件」で球界追放され、それが物語の題材となっている。
主人公のレイ・キンセラ(ケビン・コスナー)の死んだ父親は無名の元野球選手で、レイは確執から家を出て今はアイオワで農園主をしている。農作業中に天の声を聞き、トウモロコシ畑を潰して野球場を造るとジョー・ジャクソンの幽霊が現れる。それからは彼とともに球界追放となった8人が野球に来る。しかし借金で作った農園を潰したために返済が滞り経営の危機に。幽霊を見ることのできる妻と娘は応援するが、見ることができず法螺話と思っている兄のマークは野球場と農園を手放すように言う。レイはその後もたびたび天の声を聞き、野球選手になりたかった作家のテレンス・マン(原作では『ライ麦畑』のサリンジャー)、野球選手を諦めて医者になった故人ムーンライト・グラハムの家を訪ね、アイオワの野球場に連れてくる・・・
夢を諦めない、夢を取り戻すというのが本作のテーマで、ラストシーンは野球場に夢を見にやってくる人たちの車の光の帯で終わる。幽霊を見ることのできなかったマークも最後には幽霊を見られるようになり、レイを応援する。
ラストのレイと父親との会話では、父が野球場を指して"Is this heaven?"(ここは天国か)と聞くのに対し、"It's Iowa."(アイオワだ)と答え、天国とは夢を叶えるところであり、レイの造った野球場こそ天国なんだと続く。("Iowa? I could have sworn this was heaven.""Is there a heaven? ""Oh yeah. It's the place where dreams come true.""Maybe this is heaven.")
ファンタジーであり、ロマンであり、現実的に見れば絵空事にしか過ぎないが、アメリカ人にわかりやすい野球を題材にした大人のスピリチュアルな寓話であって、不思議と共感を呼ぶものがある。善良なアメリカ人を描いた善良なアメリカ映画で、もちろん夢を信じる映画にアンハッピーエンドはない。 (評価:3)
日本公開:1990年3月3日
監督:フィル・アルデン・ロビンソン 製作:ローレンス・ゴードン、チャールズ・ゴードン 脚本:フィル・アルデン・ロビンソン 撮影:ジョン・リンドレー 音楽:ジェームズ・ホーナー 美術:レスリー・マクドナルド
キネマ旬報:2位
原題は"Field of Dreams"で、W・P・キンセラの小説"Shoeless Joe "が原作。
シューレス・ジョーは1910年代のメジャーリーガー、ジョー・ジャクソンで、よく裸足でプレーしたことが綽名の由来。1919年の八百長事件「ブラックソックス事件」で球界追放され、それが物語の題材となっている。
主人公のレイ・キンセラ(ケビン・コスナー)の死んだ父親は無名の元野球選手で、レイは確執から家を出て今はアイオワで農園主をしている。農作業中に天の声を聞き、トウモロコシ畑を潰して野球場を造るとジョー・ジャクソンの幽霊が現れる。それからは彼とともに球界追放となった8人が野球に来る。しかし借金で作った農園を潰したために返済が滞り経営の危機に。幽霊を見ることのできる妻と娘は応援するが、見ることができず法螺話と思っている兄のマークは野球場と農園を手放すように言う。レイはその後もたびたび天の声を聞き、野球選手になりたかった作家のテレンス・マン(原作では『ライ麦畑』のサリンジャー)、野球選手を諦めて医者になった故人ムーンライト・グラハムの家を訪ね、アイオワの野球場に連れてくる・・・
夢を諦めない、夢を取り戻すというのが本作のテーマで、ラストシーンは野球場に夢を見にやってくる人たちの車の光の帯で終わる。幽霊を見ることのできなかったマークも最後には幽霊を見られるようになり、レイを応援する。
ラストのレイと父親との会話では、父が野球場を指して"Is this heaven?"(ここは天国か)と聞くのに対し、"It's Iowa."(アイオワだ)と答え、天国とは夢を叶えるところであり、レイの造った野球場こそ天国なんだと続く。("Iowa? I could have sworn this was heaven.""Is there a heaven? ""Oh yeah. It's the place where dreams come true.""Maybe this is heaven.")
ファンタジーであり、ロマンであり、現実的に見れば絵空事にしか過ぎないが、アメリカ人にわかりやすい野球を題材にした大人のスピリチュアルな寓話であって、不思議と共感を呼ぶものがある。善良なアメリカ人を描いた善良なアメリカ映画で、もちろん夢を信じる映画にアンハッピーエンドはない。 (評価:3)
製作国:イギリス、フランス
日本公開:1990年8月4日
監督:ピーター・グリーナウェイ 製作:キース・カサンダー 脚本:ピーター・グリーナウェイ 撮影:サッシャ・ヴィエルニ 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:6位
醜悪なラストシーンを含めて消化が良くない
原作"The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover"で、邦題の意。
タイトルの通り4人を中心とした物語だが、Thiefは泥棒というよりは盗賊の親玉で、彼が買収した高級レストランを舞台に、盗賊、料理長、親玉の妻、彼女の愛人が登場する。
舞台はホール、調理場、駐車場が中心で、ビデオゲームの横スクロールのようにカメラが移動するため、舞台劇の趣がある。これにレストランのトイレ、後半は愛人の経営する書店が加わるが、それぞれ赤・緑・青・白といった基調の色彩があって、衣装もこれに合わせて変化する。
監督のグリーナウェイは元画家で、それぞれが1枚の絵のようになっていて、独特の世界観を演出している。
物語は、野卑で下品で横暴な専制君主の盗賊(マイケル・ガンボン)が毎日レストランで仲間たちとディナーをとるが、妻(ヘレン・ミレン)がレストランの常連客(アラン・ハワード)と浮気を始め、トイレや調理場が密会の場所となる。妻の浮気の理由はのちになって明かされるが、実は盗賊はインポで性具を使ってしか妻を慰められない。その癖、独占欲と嫉妬心は人一倍で、欲求不満で浮気をする妻の愛人を殺してしまう。
妻は愛人の死体を料理長(リシャール・ボーランジェ)に丸焼きにさせ、「間男を殺して食ってやる」と言っていた盗賊に無理やりペニスを食べさせる。
盗賊と妻に比べてよくわからないのが愛人で、愛人が虐げられている妻に同情して浮気を始めたにしては熱情的。コック長が金の力だけで高級レストランに相応しくない盗賊を嫌い、妻に同情したにしても、そこまで二人の浮気に協力するかという疑念も残る。
そうした不整合はアバンギャルドな作品ということで無視するにしても、ナポレオン、フランス革命といったメタファーが散りばめられ、聖歌を歌う皿洗いの少年も登場。
正邪を問わず人間の持つ様々な欲望と煩悩を描き出し、盗賊をそうした欲望を食いつくす醜悪な存在として、最後は人そのものを食べるが、如何にもイギリス人らしいシニカルというよりは醜悪なラストシーンを含めて消化の良くない作品となっている。
マイケル・ガンボンの演技が秀逸。ヘレン・ミレンの全裸と濡れ場が、もしかしたら見どころの一つ。 (評価:2.5)
日本公開:1990年8月4日
監督:ピーター・グリーナウェイ 製作:キース・カサンダー 脚本:ピーター・グリーナウェイ 撮影:サッシャ・ヴィエルニ 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:6位
原作"The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover"で、邦題の意。
タイトルの通り4人を中心とした物語だが、Thiefは泥棒というよりは盗賊の親玉で、彼が買収した高級レストランを舞台に、盗賊、料理長、親玉の妻、彼女の愛人が登場する。
舞台はホール、調理場、駐車場が中心で、ビデオゲームの横スクロールのようにカメラが移動するため、舞台劇の趣がある。これにレストランのトイレ、後半は愛人の経営する書店が加わるが、それぞれ赤・緑・青・白といった基調の色彩があって、衣装もこれに合わせて変化する。
監督のグリーナウェイは元画家で、それぞれが1枚の絵のようになっていて、独特の世界観を演出している。
物語は、野卑で下品で横暴な専制君主の盗賊(マイケル・ガンボン)が毎日レストランで仲間たちとディナーをとるが、妻(ヘレン・ミレン)がレストランの常連客(アラン・ハワード)と浮気を始め、トイレや調理場が密会の場所となる。妻の浮気の理由はのちになって明かされるが、実は盗賊はインポで性具を使ってしか妻を慰められない。その癖、独占欲と嫉妬心は人一倍で、欲求不満で浮気をする妻の愛人を殺してしまう。
妻は愛人の死体を料理長(リシャール・ボーランジェ)に丸焼きにさせ、「間男を殺して食ってやる」と言っていた盗賊に無理やりペニスを食べさせる。
盗賊と妻に比べてよくわからないのが愛人で、愛人が虐げられている妻に同情して浮気を始めたにしては熱情的。コック長が金の力だけで高級レストランに相応しくない盗賊を嫌い、妻に同情したにしても、そこまで二人の浮気に協力するかという疑念も残る。
そうした不整合はアバンギャルドな作品ということで無視するにしても、ナポレオン、フランス革命といったメタファーが散りばめられ、聖歌を歌う皿洗いの少年も登場。
正邪を問わず人間の持つ様々な欲望と煩悩を描き出し、盗賊をそうした欲望を食いつくす醜悪な存在として、最後は人そのものを食べるが、如何にもイギリス人らしいシニカルというよりは醜悪なラストシーンを含めて消化の良くない作品となっている。
マイケル・ガンボンの演技が秀逸。ヘレン・ミレンの全裸と濡れ場が、もしかしたら見どころの一つ。 (評価:2.5)
セックスと嘘とビデオテープ
日本公開:1989年12月9日
監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ロバート・ニューメイヤー、ジョン・ハーディ 脚本:スティーヴン・ソダーバーグ 撮影:ウォルト・ロイド 音楽:クリフ・マルティネス
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Sex, Lies, and Videotape"で、邦題の意。
オルガスムを感じたことのないセックスレスの人妻アン(アンディ・マクダウェル)と、夫(ピーター・ギャラガー)の友人でインポテンツの風来坊グレアム(ジェームズ・スペイダー)が惹かれ合い、アンが離婚して一緒になるという、何の変哲もないハッピーエンドのドラマ。
もっとも、グレアムの信条は、人はセックスを通じてしか相手を真に理解し得ないというもので、インポの彼は女性にセックスについて自由に話してもらい、そのインタビューをビデオテープに収め、それを視聴することで相手を理解するというアプローチを取る。
彼のもう一つの信条は、人間として最低なのは弁護士で、2番目は嘘つきというもので、アンの夫ジョンはこの両方を兼ね備え、アンの妹シンシア(ローラ・サン・ジャコモ)と浮気している。
これらがタイトルの由来で、グレアムに興味を持ったシンシアが先ずインタビューを受け、夫と妹の浮気を知ったアンが次にインタビューを受ける。このビデオテープは途中で打ち切られていて、二人がセックスをしてグレアムのインポが解消、アンも初めてオルガスムを得たことを暗示する。
性は人にとって不可分な属性であり、性に対する意識を通して人を理解する、ないしは人を理解するためには性についての考えを知ることが不可欠というのがテーマで、LGBTを含めて性が人のアイデンティティにとって重要だという理解に繋がる。性については嘘が付き物なのも現実で、セックスと嘘は人間存在に欠かせない重要テーマということになる。
グレアムが学生時代はジョン同様の俗物で、恋人との別れが彼の人生を変えたと暗示されるが、それが描かれないのが画竜点睛を欠くようで不満が残る。 (評価:2.5)
ホームワーク
日本公開:1995年9月30日
監督:アッバス・キアロスタミ 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:イラジ・サファヴィ 音楽:モハマド=レザ・アリゴリ
原題"مشق شب"で、宿題の意。
イランの小学生へのインタビューを中心としたドキュメンタリーで、テーマは宿題。監督のキアロスタミの狙いは、宿題にイランの教育の問題が集約されていることを明らかにすることで、さらに子供の教育の問題こそがイランの未来の問題だということになる。
キアロスタミ自身がインタビュアーとなり、子供たちになぜ宿題ができないのか、宿題とアニメとどちらが好きかという質問を繰り返す。そこから炙り出されるのは、親世代の文盲率が高く、教育がないために家庭での教育意識が低いこと。家庭も学校も子供に対する理不尽な体罰に溢れていて、途中イラクに対する憎悪を学校で子供たちに唱和させるシーンが挿入され、暴力による制裁を原理とするイラン社会の病巣が抉り出される。
1979年のイラン革命、1980年から88年のイラン・イラク戦争を経て、変貌したイランの現実を子供たちを通して描くが、親世代が自分たちが受けた教育と違うので宿題を見てやれないという訴えが、肝腎の教育の内容が説明されないためにわからないのが残念。
宿題とアニメの質問には全員が宿題と答えるところに、強圧的な宗教教育が見てとれ、暴力に怯える少年など、力による強制が子供たちの精神を蝕んでいるイランの闇が浮かび上がる。
校庭での唱和の映像で、キアロスタミはこのような教育がもたらす子供たちの情緒不安定を強調するが、そこから見えてくるのはむしろ全体主義の恐怖で、宗教でもイデオロギーでも変わりがないことを感じさせる。 (評価:2.5)
製作国:フランス
日本公開:1992年7月17日
監督:パトリス・ルコント 製作:フィリップ・カルカソンヌ、ルネ・クライトマン 脚本:パトリス・ルコント、パトリック・ドゥヴォルフ 撮影:ドゥニ・ルノワール 美術:イヴァン・モシオン 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:4位
女を信じるなというモテない男への警句
原題"Monsieur Hire"で、イール氏の意。ジョルジュ・シムノの小説"Les fkançailles de M. Hire"(イール氏の婚約)が原作。
若い女が殺され、性犯罪の前科のあるテーラーのイール(ミシェル・ブラン)が容疑者として浮かび上がる。
イールは極端な人嫌いで、アパルトマンの向かいの部屋に住む美女アリス(サンドリーヌ・ボネール)に恋し、部屋の電気を消して生活を覗き見るのが唯一の楽しみ。
イールを付け狙う刑事も登場してミステリーかと思わせぶりだが、物語のほとんどはイールの恋物語に終始して、犯人探しの方は置いてけぼりになる。
アリスには婚約者がいるが、なぜか結婚には支障があるようで、イールに部屋を覗かれているのに気付くと、これまたなぜかイールの部屋を訪ねて気がある素振り。「私は同時に二人を愛せるのよ」とキスまでする。
やがて、冒頭の殺人事件が絡み始め、イールはアリスに男を忘れて駆け落ちしようとスイス行きの切符を用意する。
ところがリヨン駅にアリスは現れず、失意のイールが部屋に戻るとアリスと刑事がいて、イールはアリスの裏切りに気づく。終盤になって話はいきなりミステリーに逆戻りし、刑事に追われたイールは哀れアパルトマンの屋上から転落死、という可哀想な冴えない独身中年男の話。もちろん、イールは殺人事件の犯人ではない。
結論は、女はやっぱり残酷ということで、簡単に女を信じるなというモテない男たちへの警句。 (評価:2.5)
日本公開:1992年7月17日
監督:パトリス・ルコント 製作:フィリップ・カルカソンヌ、ルネ・クライトマン 脚本:パトリス・ルコント、パトリック・ドゥヴォルフ 撮影:ドゥニ・ルノワール 美術:イヴァン・モシオン 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:4位
原題"Monsieur Hire"で、イール氏の意。ジョルジュ・シムノの小説"Les fkançailles de M. Hire"(イール氏の婚約)が原作。
若い女が殺され、性犯罪の前科のあるテーラーのイール(ミシェル・ブラン)が容疑者として浮かび上がる。
イールは極端な人嫌いで、アパルトマンの向かいの部屋に住む美女アリス(サンドリーヌ・ボネール)に恋し、部屋の電気を消して生活を覗き見るのが唯一の楽しみ。
イールを付け狙う刑事も登場してミステリーかと思わせぶりだが、物語のほとんどはイールの恋物語に終始して、犯人探しの方は置いてけぼりになる。
アリスには婚約者がいるが、なぜか結婚には支障があるようで、イールに部屋を覗かれているのに気付くと、これまたなぜかイールの部屋を訪ねて気がある素振り。「私は同時に二人を愛せるのよ」とキスまでする。
やがて、冒頭の殺人事件が絡み始め、イールはアリスに男を忘れて駆け落ちしようとスイス行きの切符を用意する。
ところがリヨン駅にアリスは現れず、失意のイールが部屋に戻るとアリスと刑事がいて、イールはアリスの裏切りに気づく。終盤になって話はいきなりミステリーに逆戻りし、刑事に追われたイールは哀れアパルトマンの屋上から転落死、という可哀想な冴えない独身中年男の話。もちろん、イールは殺人事件の犯人ではない。
結論は、女はやっぱり残酷ということで、簡単に女を信じるなというモテない男たちへの警句。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1990年4月21日
監督:スパイク・リー 製作:スパイク・リー 脚本:スパイク・リー 撮影:アーネスト・ディッカーソン 音楽:ビル・リー
キネマ旬報:5位
正しいことをしようとするムーキーのやさしさがラストの救い
原題"Do the Right Thing"で、正しいことをするの意。
ブルックリンの黒人街にイタリア人経営のピッツァリアと韓国人の経営する雑貨屋のセットを組んで撮影した、人種問題をテーマにした作品。街のラジオ局のDJシーンから始まる一日のドラマになっている。
イタリア人サル(ダニー・アイエロ)と二人の息子が切り盛りするピッツァリア。
配達中に恋人と会って油を売ってばかりいる黒人の店員ムーキー(スパイク・リー)、酒代をねだりに来るアル中の一言居士メイヤー(オシー・デイヴィス)ら、街の黒人たちのスケッチから始まるが、その日暮らしの底辺の連中ばかり。黒人街でそれなりに成功しているサルや雑貨屋の韓国人に腹を立て文句を言うだけで、見返す努力もしない。
そんな一人がバギン・アウト(ジャンカルロ・エスポジート)で、サルの店の壁にイタリア人タレントの写真しか飾ってないのに文句を言い、夜になって大音量でラジカセを鳴らすラヒーム(ビル・ナン)と再来店。怒ったサルがラヒームのラジカセを破壊したことから喧嘩となり、駆け付けた警官がラヒームを取り押さえようとして絞め殺してしまう。
怒った黒人たちが暴動を起こしてピッツァリアを焼き討ち。店は廃墟となり、給料をもらいに来たムーキーに憤懣やるかたないサルが残った500ドルを投げつけるが、ムーキーは給料分だけ受け取って残りを返す。
毎度おなじみの黒人暴動を描くが、黒人たちに溶け込もうとしてきたサルの無念とムーキーのやさしさがラストの救いとなる。タイトルは、メイヤーがムーキーに言う台詞"Always try to do the right thing."から採られている。
アメリカ社会で差別されている者同士が憎しみ合う不毛と、スラムに住む黒人たちが貧困から抜け出せないさまを描くが、解決のつかない問題をありのままに描いたともいえるし、だからどうなんだともいえて、虚しさしか残らない。 (評価:2.5)
日本公開:1990年4月21日
監督:スパイク・リー 製作:スパイク・リー 脚本:スパイク・リー 撮影:アーネスト・ディッカーソン 音楽:ビル・リー
キネマ旬報:5位
原題"Do the Right Thing"で、正しいことをするの意。
ブルックリンの黒人街にイタリア人経営のピッツァリアと韓国人の経営する雑貨屋のセットを組んで撮影した、人種問題をテーマにした作品。街のラジオ局のDJシーンから始まる一日のドラマになっている。
イタリア人サル(ダニー・アイエロ)と二人の息子が切り盛りするピッツァリア。
配達中に恋人と会って油を売ってばかりいる黒人の店員ムーキー(スパイク・リー)、酒代をねだりに来るアル中の一言居士メイヤー(オシー・デイヴィス)ら、街の黒人たちのスケッチから始まるが、その日暮らしの底辺の連中ばかり。黒人街でそれなりに成功しているサルや雑貨屋の韓国人に腹を立て文句を言うだけで、見返す努力もしない。
そんな一人がバギン・アウト(ジャンカルロ・エスポジート)で、サルの店の壁にイタリア人タレントの写真しか飾ってないのに文句を言い、夜になって大音量でラジカセを鳴らすラヒーム(ビル・ナン)と再来店。怒ったサルがラヒームのラジカセを破壊したことから喧嘩となり、駆け付けた警官がラヒームを取り押さえようとして絞め殺してしまう。
怒った黒人たちが暴動を起こしてピッツァリアを焼き討ち。店は廃墟となり、給料をもらいに来たムーキーに憤懣やるかたないサルが残った500ドルを投げつけるが、ムーキーは給料分だけ受け取って残りを返す。
毎度おなじみの黒人暴動を描くが、黒人たちに溶け込もうとしてきたサルの無念とムーキーのやさしさがラストの救いとなる。タイトルは、メイヤーがムーキーに言う台詞"Always try to do the right thing."から採られている。
アメリカ社会で差別されている者同士が憎しみ合う不毛と、スラムに住む黒人たちが貧困から抜け出せないさまを描くが、解決のつかない問題をありのままに描いたともいえるし、だからどうなんだともいえて、虚しさしか残らない。 (評価:2.5)
インディ・ジョーンズ 最後の聖戦
日本公開:1989年7月8日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:ロバート・ワッツ 脚本:ジェフリー・ボーム 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題"Indiana Jones and the Last Crusade"で、インディアナ・ジョーンズと最後の十字軍の意。
イエスが最後の晩餐で手にした聖杯を探す物語で、かつてこれを発見した十字軍兵士の3兄弟の一人がこれを守ってどこぞの洞窟に籠ったという伝承が手掛かりとなる。
この聖杯探求の研究を続けていたのがインディの父ヘンリーで、007を引退したショーン・コネリーが演じて話題となった。
プロローグは1912年のインディの少年時代のエピソードで、リヴァー・フェニックスが演じた。貨物列車での盗賊とのチェイスがあり、最後に盗賊からプレゼントされるのがカウボーイハットで、インディのトレードマークの由来が語られる。
舞台は1938年に移り、富豪ドノヴァンから聖杯探しを依頼され、実は先に依頼されていた父が行方不明になっていることを知って、父を探すために引き受けることになる。
今回の同行者は博物館長のマーカス。失踪前に父から送られてきた聖杯日誌を手に、ヴェネツィアからザルツブルグ、ベルリン、トルコ南部を巡るロール・プレイング・ゲームの旅に出る。
途中出合うのが父の同僚のシュナイダー博士で、インディとはいい仲になるが、父ヘンリーともいい仲だったというオチがつく。おまけにナチの協力者で、聖杯争奪となり、最後は・・・という結末。
ベルリンではヒットラーも登場して、聖杯日誌にサインをしてもらうが、インディとヘンリー父子は漫才コンビで、シリーズ中でもコメディ色の強い作品となっている。
ジェットコースター・ドラマでは戦車や飛行船まで飛び出し、聖杯の神殿へのクライマックスが本作最大の見どころで、撮影にはヨルダンのペトラ遺跡が使われた。
海に沈みかけているヴェネツィアに地下室は可能か? とか、ザルツブルグに「←ヴェネツィア ベルリン→」の道標があるのか? とか、治癒のために不老不死の水を飲んだヘンリーは死なないのか? とか、突っ込みどころは多々あるが、基本はエンタテイメントのアクション・コメディで、シリーズ中では最も楽しめる作品。
本名はヘンリー・ジョーンズ・Jr.で、インディアナは飼い犬の名前を借りた通称だという話も出てくる。 (評価:2.5)
バットマン
日本公開:1989年12月2日
監督:ティム・バートン 製作:ピーター・グーバー、ジョン・ピーターズ 脚本:サム・ハム、ウォーレン・スカーレン 撮影:ロジャー・プラット 音楽:ダニー・エルフマン
劇場で観た時には、華やかで猥雑でしかも近代的なゴッサムシティが3次元へと空間領域を広げ、その立体的なおもちゃ箱の中でバットマンとジョーカーが縦横無尽に駆け巡る姿が、とても衝撃的だったことを憶えている。アカデミー美術賞を受賞。
物語はバットマンとジョーカーの誕生、女性カメラマンとの恋、バットマンとジョーカーの争い、ブルース・ウェインの両親殺害の因縁、そして最終決戦のクライマックスとなるのだが、バットマン役のマイケル・キートンはいささか地味で、ジャック・ニコルソン演じるジョーカーにすっかり主役を奪われている。女性カメラマンがウェインを好きになるのもセレブに目が眩んだようにしか見えず、ウェインも金で女を釣る感じで、ラストで正体を明かすのも説得力がない。
ジャック・ニコルソンの狂人ぶりは見事で、この映画はジョーカーを見るためにある。重厚なスーパーカー、バットモービルも見どころ。 (評価:2.5)
レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ
日本公開:1990年7月14日
監督:アキ・カウリスマキ 脚本:ヤッケ・ヤルヴェンバー、マト・ヴァルトネン、アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 音楽:マウリ・スメン
原題"Leningrad Cowboys Go America"で、レニングラード・カウボーイズ、アメリカに行くの意。
ツンドラ地帯に住むポルカ調の歌を歌うインディーズバンド、レニングラード・カウボーイズがデビューを果たせず、何でもありのアメリカなら受けるかもしれないと渡米するストーリーの音楽コメディ映画。
マディソン・スクエア・ガーデンかヤンキー・スタジアムで演奏したいというマネージャ(マッティ・ペロンパー)に対し、演奏を聴いたプロモーターがロックにしないと観客にウケないといい、メキシコの結婚式での演奏を提案する。
提案を受け入れたバンドは、ロックやカントリーなどアメリカの音楽性に合わせた曲をナイトクラブ等で演奏しながらメキシコに向かうが、渡米し行方不明になっていたマネージャーの従兄弟に出会い、ボーカルに加えた途端人気が出る。
メキシコに到着したバンドは結婚式ライブ後に成功を収め、トップ10入りを果たすというオチ。
バンドを演じているのはフィンランドのロックバンドSleepy Sleepersで、本作を契機にLeningrad Cowboysにバンド名を変更した。
ストーリーはロードムービー形式の他愛のないコメディで、途中演奏が下手だと言われたりするが、ポルカなどのロシア音楽を取り入れた曲からカントリー調、ロックまで音楽性が多彩で楽しめる。
前髪が極端に突き出たリーゼント、爪先が極端に尖ったウィンクルピッカーのブーツ、サングラスに旧ソ連の軍服がバンドのトレードマークで、コサックダンスも踊り、バンド名からも旧ソ連をパロディ化しているのが面白い。 (評価:2.5)
春のソナタ
日本公開:1990年11月24日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:リック・パジェス 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
原題"Conte de Printemps"で、春の物語の意。
同棲している彼氏と上手くいかない中年女教師(アンヌ・ティセードル)が、流れるままの1日を送っている時に一人暮らしの若い娘(フロランス・ダレル)と知り合って宿借り。そこに妻と別居している娘のパパ(ユーグ・ケステル)がやってくる。パパには若い恋人(エロワーズ・ベネット)がいるが、恋人と娘のソリが合わずに別宅で同棲しているという事情。娘は女教師とパパをくっつけようと画策する中で、別荘で4人が鉢合わせし、一波乱あって女教師と娘の誤解が解け、仲直りして女教師が彼氏の家に帰って行くというだけの物語。
そんなどうでもいいプチブル日常話を見せてしまうのがロメールで、どこか小津安二郎に似ている。
違うのはフランス風の恋愛話が中心で、日本人の心の機微にはいまひとつ届かない。
女教師は彼氏と一緒の時は乱雑な部屋を許せるが、いなくなった途端に彼氏が嫌いになって部屋を出てしまう。反して娘の父は几帳面でそこに惹かれるが、哲学を教える女教師は愛なく女を誘うことを見抜いてしまう。
人間を形而上学的かつ心理学的かつ弁証法的に捉える女教師は、それゆえに世の中を生きにくくしているが、このトラブルによってアウフヘーベンされるというのが結論。
女教師とパパの恋人の会話は理屈っぽいが、パパも娘もこれについて行けないというのがミソで、春の陽気の如く感情は理屈に勝る。
日本人には4人が4人とも謎のフランス人で、とりわけモテモテのパパのどこが魅力的なのかわからない。
パパは自宅、恋人、別荘と都合3つの鍵を持っているが、恋愛中毒のフランス人には鍵がたくさん要るというのが面白い。 (評価:2.5)
ミュージックボックス
日本公開:1990年12月8日
監督:コスタ=ガヴラス 製作:アーウィン・ウィンクラー 脚本:ジョー・エスターハス 撮影:パトリック・ブロシェ 音楽:フィリップ・サルド
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Music Box"で、オルゴールの意。
ハンガリーのユダヤ人虐殺をテーマにしたサスペンスで、アメリカに国外逃亡したハンガリーの元警察官(アーミン・ミューラー=スタール)が30年後に戦争犯罪人として告発され、その娘(ジェシカ・ラング)が弁護士となって法廷で無罪を勝ち取るまで。
裁判を通してミシュカという男がユダヤ人に残虐行為をした事実が明らかとなるが、父親がこのミシュカと同一人物なのか、はたまた人違いなのかというのが争点で、父親はハンガリー政府が反共主義者の自分を強制送還させて死刑にするために仕組んだでっち上げだと主張する。
ハンガリーから次々と送り込まれてくる証人たちの証言の信用性に疑問を投げかける弁護士の娘は、それでも父親の無実に確信が持てない。観客も娘同様に疑心暗鬼になるように作られていて、検察側の決定的な失態で無罪が確定し、それでも真偽不明のまま物語が終わるのかと思いきや、終盤で衝撃的な事実が明らかとなるという構成。
スリリングな展開で良く出来た作品なのだが、どんでん返しに既視感があって、そう思った途端、テーマとは裏腹な虚構性を感じてしまうのが惜しい。
娘が正義を貫くというエンディングも勧善懲悪ものの結末で、アメリカ映画のパターンを抜けていない。 (評価:2.5)
リトル・マーメイド
日本公開:1991年7月21日
監督:ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー 製作:ハワード・アシュマン、ジョン・マスカー 脚本:ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー 音楽:アラン・メンケン
原題"The Little Mermaid"。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話"Den lille Havfrue"(邦題:人魚姫)が原作。
人魚の王の末娘が船上の王子に恋し、難破して溺れた王子を助けて、魔女に頼んで声と引き換えに人間に姿を変えてもらい、王子と結婚出来れば人間になれるという望みを抱いて王子の城で暮らし始めるところまでは、原作と一緒。
修道女の代わりを魔女が演じ、魔女の陰謀と戦うというところがディズニーらしい活劇になっていて、音楽ともども良くできたファンタジーになっているが、王子への愛ゆえに自ら死を選ぶという悲劇性と、泡となって消えてしまう儚さ、そして魂の救いという『人魚姫』のクライマックスが、ディズニー・プリンセスの定番的ハッピーエンドにすり替わってしまうと、これはもう『人魚姫』ではなくなってしまう。
中盤までが良くできているだけに、このラストは腰砕けというよりは、それこそ作品の魂が泡となって消えてしまった感があって、こうした安易なハッピーエンドしか許容できないディズニーアニメの限界を知ることになる。
主題歌"Under the Sea"がアカデミー歌曲賞、アラン・メンケンがアカデミー作曲賞。
ディズニーがセルアニメーションで作った最後の劇場用作品だが、人魚姫アリエルのデザインがあまり可愛くない上に、表情が動くとさらに崩れるのが残念。 (評価:2.5)
恋人たちの予感
日本公開:1989年12月23日
監督:ロブ・ライナー 製作:アンドリュー・シェインマン、ロブ・ライナー 脚本:ノーラ・エフロン 撮影:バリー・ソネンフェルド 美術:ジェーン・マスキー 音楽:ハリー・コニック・Jr
原題"When Harry Met Sally..."で、ハリーがサリーに会ったとき...の意。
シカゴ大学を卒業した見ず知らずの二人が、就職のためニューヨークまで車に同乗することになる。これが袖振り合うも他生の縁となり、最初は互いに嫌な奴と思っていたが、ニューヨークで偶然の出会いを重ねるうちに本音を言い合える仲の友人となり、最後は結婚にゴールインするまでのロマンスコメディ。
途中、何組かの老齢の夫婦が登場して、それぞれ馴れ初めについて語るコメントが挿入され、最後は本作の主人公カップルがコメントして締め括られる構成。
本作最大の目玉、ヒロインのサリーをメグ・ライアンがキュートに演じるが、相手役ハリーのビリー・クリスタルが図々しくて嫌な奴から、年を経るにしたがって意外と純情な男だったと印象を変えていく演技がいい。
二人が男と女の立場から、男性論、女性論、恋愛論を自由闊達に戦わせていく会話が面白い。
男女間にセックス抜きの友情なんて存在しないという立場のハリーが、次第にサリーとセックス抜きの友情を深めていき、セックス抜きだからこそ本音を言い合える仲となる。最後はラブストーリーの宿命というべきハッピーエンドになっていくが、セックスを契機に、恋するが故に本音を隠さざるを得ない、ただの男女になってしまったという指摘は、こうした作品の場合は野暮ということかもしれない。
セックスするまでのサリーとハリーの関係が、とっても素敵。 (評価:2.5)
007 消されたライセンス
日本公開:1989年9月9日
監督:ジョン・グレン 製作:アルバート・R・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン 脚本:マイケル・G・ウィルソン、リチャード・メイボーム 撮影:アレック・ミルズ 音楽:マイケル・ケイメン
原題"Licence to Kill"で、殺人許可証の意。ゲストキャラのクレストは、イアン・フレミングの原作シリーズ短編 "The Hildebrand Rarity"(邦題:珍魚ヒルデブラント)からの使用。
4代目ボンド、ティモシー・ダルトンの第2作(シリーズ第16作)にして最終作。
親友のCIA諜報員とその新妻を麻薬王サンチェスに殺され、ボンドが復讐する話。
頭に血が上ったボンドの暴走ぶりが凄く、鮫を処刑に使うサンチェスに対し、目には目を歯には歯をで挑むため、残酷シーンが多い。
帰国を促すMI6を辞めてサンチェスの本拠に殴り込むが、香港の麻薬取締忍者部隊も乱入して討死。それを利用してサンチェスに仲間だと信じ込ませる設定が若干苦しいが、重火器や爆薬も飛び出して、海に空にとド派手アクション。空中でのスタントはなかなかの見どころ。
とりわけ終盤は麻薬工場爆破、タンクローリー炎上のカーチェイスで、メキシコで撮影されたが環境破壊が心配になるくらいのガソリン使用量。
ボンドガールは、ボンドと行動を共にするCIA職員(キャリー・ローウェル)とサンチェスの愛人(タリサ・ソト)で、ラストは両手に華のシーンで終わるが、ローウェルがスカートを捲り上げてサービスする。
アクション中心で前作よりはシナリオは粗いが、とにかく刺激的なアクションムービーという向きには楽しめる。
サンチェスを演じるロバート・デヴィが、ヤバそうでいい。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1990年2月17日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:A・キットマン・ホー、オリヴァー・ストーン 脚本:オリヴァー・ストーン、ロン・コヴィック 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョン・ウィリアムズ
ゴールデングローブ作品賞
ベトナム戦争終結について触れていないのが不自然
原題"Born on the Fourth of July"で、邦題の意。ロン・コーヴィックの同名の自叙伝が原作。
7月4日、アメリカ独立記念日が誕生日のロン(トム・クルーズ)は、愛国心に溢れ、ロングアイランドの敬虔なクリスチャンの白人家庭に育ち、ニューヨーク・ヤンキースが大好きという模範的なアメリカ青年。ケネディの自由主義の戦いに感銘を受け、高校卒業と同時に海兵隊に志願、ベトナム戦争に従軍する。
小隊長となった1967年、銃の暴発をベトコンの発砲と勘違いした小隊は民家を銃撃。赤ん坊を含む民間人を殺してしまう。ショックを受けたロンはベトコンの攻撃に錯乱し、部下のウィルソンを誤って射殺する。
翌年、自らも戦闘で重傷を負って下半身不随となり帰国。治療を終えてロングアイランドに名誉の帰還をするが、反戦運動の高まりの中で、ベトナム帰還兵に対する冷たい目に晒される…というのが前半。
家族とも不和となり生きる意味を失ったロンは、ベトナム傷痍軍人が心を癒しに集まるメキシコに渡りチャーリー(ウィレム・デフォー)と知り合うが、ベトナムでのトラウマを巡って喧嘩。それがきっかけでウィルソンの家族を訪ね、すべてを告白。赦しを得たロンは反戦運動に身を投じる…というのが後半。
1976年にロンが自伝を出版し民主党大会で演説するまでが描かれるが、1972年の大統領選でニクソンを反戦運動の標的として描きながら、1973年のアメリカ軍撤退、1975年のベトナム戦争終結について触れていないのが不自然で、いささか政治的。
トム・クルーズが下半身不随のロンを熱演するが、愛国者から過激な反戦運動家へと転じていく過程が急で、心境の変化が伝わらないのが作品的にはマイナス。
ロンが戦場で怪我をしてヘリに収容されていくシーンが緊迫感がある。 (評価:2.5)
日本公開:1990年2月17日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:A・キットマン・ホー、オリヴァー・ストーン 脚本:オリヴァー・ストーン、ロン・コヴィック 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョン・ウィリアムズ
ゴールデングローブ作品賞
原題"Born on the Fourth of July"で、邦題の意。ロン・コーヴィックの同名の自叙伝が原作。
7月4日、アメリカ独立記念日が誕生日のロン(トム・クルーズ)は、愛国心に溢れ、ロングアイランドの敬虔なクリスチャンの白人家庭に育ち、ニューヨーク・ヤンキースが大好きという模範的なアメリカ青年。ケネディの自由主義の戦いに感銘を受け、高校卒業と同時に海兵隊に志願、ベトナム戦争に従軍する。
小隊長となった1967年、銃の暴発をベトコンの発砲と勘違いした小隊は民家を銃撃。赤ん坊を含む民間人を殺してしまう。ショックを受けたロンはベトコンの攻撃に錯乱し、部下のウィルソンを誤って射殺する。
翌年、自らも戦闘で重傷を負って下半身不随となり帰国。治療を終えてロングアイランドに名誉の帰還をするが、反戦運動の高まりの中で、ベトナム帰還兵に対する冷たい目に晒される…というのが前半。
家族とも不和となり生きる意味を失ったロンは、ベトナム傷痍軍人が心を癒しに集まるメキシコに渡りチャーリー(ウィレム・デフォー)と知り合うが、ベトナムでのトラウマを巡って喧嘩。それがきっかけでウィルソンの家族を訪ね、すべてを告白。赦しを得たロンは反戦運動に身を投じる…というのが後半。
1976年にロンが自伝を出版し民主党大会で演説するまでが描かれるが、1972年の大統領選でニクソンを反戦運動の標的として描きながら、1973年のアメリカ軍撤退、1975年のベトナム戦争終結について触れていないのが不自然で、いささか政治的。
トム・クルーズが下半身不随のロンを熱演するが、愛国者から過激な反戦運動家へと転じていく過程が急で、心境の変化が伝わらないのが作品的にはマイナス。
ロンが戦場で怪我をしてヘリに収容されていくシーンが緊迫感がある。 (評価:2.5)
ミステリー・トレイン
日本公開:1989年12月23日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:ジム・スターク 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ジョン・ルーリー
原題"Mystery Train"。エルビス・プレスリーがデビューしたメンフィスのインディーズ・レーベル、サン・スタジオでの最後の録音曲のタイトルで、「長く黒い列車が俺の彼女を連れて行ってしまった」と歌う。
メンフィスの安ホテルに泊まる3組の人たちのエピソードをオムニバス形式でコメディタッチに描くもので、プロローグとエピローグに列車(と飛行機)が登場するが、「ブルームーン」が3話を繋ぐ曲となっている。
第1話は"Far from Yokohama"で、日本人の音楽ファンの男女(永瀬正敏、工藤夕貴)が列車でメンフィスにやって来るところから始まる。サン・スタジオを見学してホテルに投宿。憧れのプレスリーの故郷でのトンチンカンな英語と文化ギャップの珍道中をコミカルに見せる。
第2話は"A Ghost"で、イタリア女性がローマに行くはずがメンフィス空港に降り立ってしまう。街の人間にさんざんタカられた挙句、ホテルで男から逃げ出した女ディディを相部屋で泊めてあげる羽目になる。昼間レストランでタカられた男の与太話、プレスリーの幽霊をベッドで見ることになる。
第3話は"Lost in Space"で、2話のディディに逃げられた男ジョニーを宥めに友人ウィル・ロビンソンと義兄がやってくるが、男が酒屋の店主を銃殺してしまい、ホテルに逃げ込む。ウィル・ロビンソンはTVドラマ"Lost in Space"(宇宙家族ロビンソン)のキャラクターから採った名で、3人の状態を宇宙で迷子になった(Lost in Space)ようだと感想を漏らす。
エピローグはメンフィスを発つ列車に日本人男女とディディが乗り合わせ、イタリア女性が空港を飛び立ち、ウィル・ロビンソンら3人が車で街を逃げ出して終わる。
ホテルの部屋にはプレスリーの写真が飾られ、街にはプレスリーの曲が流れ、貧しい白人と黒人がごったに暮らす。プレスリーの街に憧れる者、知らずに迷い込んだ者、そこに暮らす者を点描するが、南部の澱んだ空気の街の姿が、今一つ明確に浮かび上がっては来ないのが残念なところ。
ラジオから流れる「ブルームーン」、ホテルのフロント係とボーイの黒人コンビのシーンが3話共通で繰り返され、同時進行であることを示すが、描写がダブるのがやや冗漫となっている。 (評価:2)
バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2
日本公開:1989年12月9日
監督:ロバート・ゼメキス 製作:ニール・キャントン、ボブ・ゲイル 脚本:ボブ・ゲイル 撮影:ディーン・カンディ 音楽:アラン・シルヴェストリ
原題"Back to the Future Part II"。前作の続編。
基本的に前作を見ていないと本作はわからない。特に後半部では前作のシーンと絡むタイム・パラドックスになっているため、マーティ始め同一人物が3人存在するという複雑さで、前作の内容を覚えていないと混乱する。乱暴者ビフが中心的役割。
ガールフレンドのジェニファーを連れてタイムマシンに乗ったところビフに見られてしまう。2015年の未来に行ったマーフィは息子がビフの孫のために犯罪者になるのを防ぐが、下心から買ったスポーツ年鑑をビフに過去に持ち逃げされる。現在に戻ると、父は死んでいて母は大富豪となったビフの妻に。マーフィーとドクは歴史を正すべく、ビフが年鑑を60年前の自分に渡した1955年に向かう。
見どころの一つは来年に控えた2015年の未来の町で、自動車は空を飛んでいるが、テレビはブラウン管。スケボーはエアになっていたりと、未来的なものとそうでないものの30年前の発想力が楽しめる。
冒頭で未来に飛ぶ割には大した話はなくて、結局1955年が主舞台。タイムパラドックスを煩雑にしたシナリオは、人間の未来への想像力同様に限界を示していて、前作から独立した物語にできなかったシナリオのためのシナリオでしかなく、話の中心が見えない。 (評価:2)
都市とモードのビデオノート
日本公開:1992年3月28日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ウルリッヒ・フェルスベルク 脚本:ヴィム・ヴェンダース 撮影:ロビー・ミューラー、ミュリエル・エーデルシュタイン、ウリ・クーディッケ、ヴィム・ヴェンダース、中島正利、近森真史 音楽:ローラン・プティガン
原題"Aufzeichnungen zu Kleidern und Städten"で、服装と街についてのメモの意。
パリのポンピドゥー・センターの依頼で撮られたドキュメンタリーで、対象は日本のファッションデザイナー山本耀司。山本がパリ・コレの準備をする姿をパリ・東京の2か所でインタビューを交えて追う。
監督のヴィム・ヴェンダースは、フィルム撮影機とビデオカメラの二つを使い、構えた構図の前者とハンディで機動的な後者を使い分けるが、撮影機材の格段の進歩を遂げた現在からは歴史を感じざるを得ない。
構想から形にしていくファッションデザインと映画制作との類似性を語るが、ヴェンダースの主観に寄りすぎていて、牽強付会の感がある。
都市とファッションを論じる山本の個性が強すぎて、山本がコスモポリタンであることを強調するインタビューの冒頭で躓くと、以下は持論を聞いているだけにしか過ぎなくなり、冒頭、ヴェンダースが提示するアイデンティティ、独自性というテーマも未消化に終わる。
ヴェンダースがこのドキュメンタリーで実験的な映像表現と職業紹介以外に何を描こうとしたのかよくわからないが、ポンピドゥー・センターの依頼なので、映画芸術か、ファッションデザインの製作過程のどちらかなのだろう。
パリコレのモデルが服の製作過程から参加していて、ショーで服を披露するだけでなく、生きたマネキンの役割を果たしていること、改めて考えると当たり前のことだが面白い。 (評価:2)
私の20世紀
日本公開:2019年3月30日
監督:イルディコー・エニェディ 製作:ノルベルト・フリオドラオデル 脚本:イルディコー・エニェディ 撮影:ティボォール・マーテー 美術:ゾルタン・ラバス 音楽:ラースロー・ヴィドツキー
原題"Az en XX. szazadom"で、邦題の意。
1880年、ニュージャージー州メンロパークにエジソンの電灯が灯った時、ブタペストに双子の女の子が生まれた…というように物語は始まる。孤児となった二人はマッチ売りの少女となり、それぞれの里親に引き取られるが、20世紀が目前の1990年大晦日、偶然オリエント急行に乗り合わせる。片や男を食い物にする女詐欺師、片や爆弾を抱えた革命家となっての擦れ違い。そこに男が現れて革命家に恋するが、女詐欺師を同一人物と勘違い。それぞれと寝てしまうが、そこからは幻想世界で、双子のいる鏡の部屋に男が迷い込む。エジソンが電信の実験を行っているメンロパーク研究所へと場面は転換。川面を走る風景へと移る。
モノクロ映像が詩的で美しく、プロローグの電灯の光が科学の20世紀の幕開けを演出して効果的。輝ける世紀を背景に双子の人生が綴られるが、物語の方は断片的でわかりにくく、希望に満ちた世紀に映し出される双子の運命の単なる映像詩に終わっている。
本作の始まりが20世紀前夜の1880年で、本作の制作年は21世紀を前にした1989年だが、21世紀の予兆を示すものが一切描かれていないのが残念なところ。
次の世紀への洞察があったならもう少し意味のある作品になっただろうが、20世紀初頭へのノスタルジックな映像詩だけで満足してしまったのが惜しい。 (評価:2)
ゴッド・ギャンブラー
日本公開:1990年10月20日
監督:バリー・ウォン 脚本:バリー・ウォン 撮影:チュン・チーマン、パウ・ヘイマン 音楽:ローウェル・ロー
原題"賭神"で、ギャンブラーの神の意。
天才的ギャンブラーが主人公の所謂、香港アクションコメディで、他愛のない設定と他愛のないストーリーで、ストレス解消に気晴らしに見るのにはうってつけの作品。
賭神と呼ばれるコウ(チョウ・ユンファ)は、東京のヤクザからシンガポールの麻薬王シンを倒す依頼を受けるが、ナイフ(アンディ・ラウ)らが悪戯で仕掛けた罠に掛かって転倒、頭を打って記憶喪失になってしまう。
ここからはコウを保護したナイフ、女友達ジェイン(ジョイ・ウォン)とともにギャンブルで荒稼ぎするという展開で、チョコレート大好きのコウが10歳児並みの知能になってしまうというスラップスティック・コメディとなる。ドタバタ3人組の他愛のないギャグが延々と続いたのち、コウが再び階段で転倒。頭を打って記憶を取り戻し、所期の目的を思い出してシンとの勝負になるが、逆に観客の方は中盤のエピソードが強烈な上に長すぎるために、本筋のストーリーと登場人物について記憶喪失になってしまい、何の話だったかわからなくなる。
もっとも、もともと整合性がない上に本筋などどうでもいい香港アクションコメディなので、単純にギャグを楽しんでいれば、ラストでよくわからないままに一件落着する。
見どころは麻雀牌を使った小技アクションで、壺振りも出てくるがカードが中心。2時間弱を退屈せずに楽しめることだけは間違いないが、ストレス解消以外には何も残さない。 (評価:2)
女の復讐
日本公開:1991年2月2日
監督:ジャック・ドワイヨン 製作:アラン・サルド 脚本:ジャック・ドワイヨン、ジャン=フランソワ・ゴイエ 撮影:パトリック・ブロシェ
原題"La Vengeance d'une Femme"で、邦題の意。
一人の男を巡って二人の女が争うという良くある三角関係の物語で、男は自動車事故で亡くなっている、妻(イザベル・ユペール)と愛人(ベアトリス・ダルは親友同士というのが特徴。
ほぼ女二人の会話劇で、この会話劇についていけるか、あるいはアホらしいと思うかで評価が決まる。あるいはどうでもいい痴話喧嘩の話が好きか嫌いか、ということにもよる。
痴話喧嘩の主題は、①男がどちらの女を愛していたか、②不倫を罪悪と感じているか、③親友に対して謝罪すべきかという点で、最終的にはタイトル通りに妻が愛人に対する復讐を成し遂げるという話になっている。
物語はパリまで親友を車で送っていった未亡人が、送り先が夫がよく使っていたホテルで、男の死を知らない親友の逢う相手が夫と同じ名だったことから二人が不倫関係にあったことを知り、親友を問い詰めるという展開になる。
以下、二人の腹の探り合いになるが愛についての禅問答のようなところがあって、アホらしいと感じると次第に眠くなってくる。
やがて妻の現在の恋人(ジャン・ルイ・ミュラ)が登場して、これまた愛人が寝取ってしまい、いよいよ妻の復讐劇が始まるが、①については愛人の勝利、②については不明、③については妻の勝利となる。
結論的には愛してもいない夫と結婚した妻が悪いという反省で終わるが、全体に演出と編集に句読点がなく、痴話喧嘩に興味がないとダラダラと退屈に感じてしまう。 (評価:1.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1989年8月19日
監督:メアリー・ランバート 製作:リチャード・ロビンシュタイン 脚本:スティーヴン・キング 撮影:ピーター・スタイン 音楽:エリオット・ゴールデンサール
楽しみどころ満載のB級ホラーの駄作
スティーヴン・キングの同名小説が原作。原題は"Pet Sematary"だが、作中で出てくるように正しくは"Pet Cemetery"で、ペット霊園の入口に子供が書いた看板のスペルが間違っているのをそのままタイトルにしている。pet cemeteryはペット共同墓地の意。原作の邦題は「ペット・セマタリー」。
シナリオは突っ込みどころ満載で相当に穴が多い。交通事故で死んだバスコーがなぜミクマク・インディアンの墓地のことを知っているのか? 娘のエリーはなぜ正夢を見るのか? etc.原作は未読だが、原作者のスティーヴン・キングのシナリオなので、穴も原作通りということか。
冒頭から物語よりも思わせぶりなシーンに走り気味でB級ホラーらしい作り。しかしそれも過剰だと微笑ましさを通り越して、ギャグになる。バスコーに至ってはほとんどトリックスターで、良い幽霊ならもう少しましなメイクで登場できないかと腹を抱えてしまう。
それでも後半は少しはホラーらしくなってオーメンを髣髴させるが、途中から先が読めてしまい、ラストシーンもやっぱりのオチ。笑いあり突っ込みありで退屈せず、駄作としてのB級ホラーの楽しみどころは多い。 (評価:1.5)
日本公開:1989年8月19日
監督:メアリー・ランバート 製作:リチャード・ロビンシュタイン 脚本:スティーヴン・キング 撮影:ピーター・スタイン 音楽:エリオット・ゴールデンサール
スティーヴン・キングの同名小説が原作。原題は"Pet Sematary"だが、作中で出てくるように正しくは"Pet Cemetery"で、ペット霊園の入口に子供が書いた看板のスペルが間違っているのをそのままタイトルにしている。pet cemeteryはペット共同墓地の意。原作の邦題は「ペット・セマタリー」。
シナリオは突っ込みどころ満載で相当に穴が多い。交通事故で死んだバスコーがなぜミクマク・インディアンの墓地のことを知っているのか? 娘のエリーはなぜ正夢を見るのか? etc.原作は未読だが、原作者のスティーヴン・キングのシナリオなので、穴も原作通りということか。
冒頭から物語よりも思わせぶりなシーンに走り気味でB級ホラーらしい作り。しかしそれも過剰だと微笑ましさを通り越して、ギャグになる。バスコーに至ってはほとんどトリックスターで、良い幽霊ならもう少しましなメイクで登場できないかと腹を抱えてしまう。
それでも後半は少しはホラーらしくなってオーメンを髣髴させるが、途中から先が読めてしまい、ラストシーンもやっぱりのオチ。笑いあり突っ込みありで退屈せず、駄作としてのB級ホラーの楽しみどころは多い。 (評価:1.5)
スター・トレックV 新たなる未知へ
日本公開:1989年6月24日
監督:ウィリアム・シャトナー 製作:ハーヴ・ベネット 脚本:デイヴィッド・ローリー 撮影:アンドリュー・ラズロ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)と同キャストで製作された劇場版第5作。新造船エンタープライズ号の処女航海となる前作『故郷への長い道』の続編だが、ストーリーは独立している。原題は"Star Trek V: The Final Frontier"で「最後の辺境」の意味。
監督はスポックのレナード・ニモイからカーク船長のウィリアム・シャトナーに変わるが、あろうべきかゴールデンラズベリーの最低作品賞を受賞してしまう。
物語は、スポックの兄となるサイボックが神の国に行くために、反乱をおこしてエンタープライズ号を呼び寄せて乗っ取り、銀河中心にあるグレートバリアの向こう、人類未踏の惑星に行こうとする。
107分の映画だが、30分あれば足りる内容。前半のカークたちの休暇のシーン、惑星シャカリーのキャンプファイヤーなど、無駄なシーンを延々と見せられ、まるで贅肉を一杯身に付けたカークのようにぶよぶよしている。 演出的には前作を踏襲して板付きの退屈さはないが、CGやSFXは前作より物足りない。
サイボックが反乱を起こす場所がParadise。目指す地もParadise(天国)と一応繋がっていたりはするが、サイボックがParadiseに到着して、「思っていた通りの場所だ」というのが、アメリカの荒野でのロケだったりして、ちょっと白ける。 (評価:1.5)