外国映画レビュー──1988年
製作国:イタリア、フランス
日本公開:1989年12月16日
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作:フランコ・クリスタルディ 脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ 撮影:ブラスコ・ジュラート 音楽:エンニオ・モリコーネ、アンドレア・モリコーネ
キネマ旬報:7位
アカデミー外国語映画賞
映画ファン必見、ノスタルジーを否定する父と子の物語
原題は"Nuovo Cinema Paradiso"で、英訳するとNew Cinema Paradise。劇中に登場する新しく建て直される映画館の名、ヌオヴォ・チネマ・パラディーゾで、日本風には新パラダイス座。
映画への愛を描いた作品は多く、映画好きの内輪受けで終わるものが多いが、そうした中で本作は出色の出来。映画ファンでない人にも楽しめる内容になっている。
本作は人それぞれに解釈でき、伏線もあるので、それに触れながらレビューする。
ローマで映画監督となった主人公サルヴァトーレのもとに、アルフレードが死んだという母からの電話がある。電話を受けるのは同棲中の恋人で、母親が彼女のことを前にサルヴァトーレが同棲していた女と勘違いしていたと話す。そうでなかったのは終盤に明かされる。
ここからはサルヴァトーレの回想譚。アルフレードは故郷シチリアの小さな町の映画館チネマ・パラディーゾの映写技師で、映画好きの子トト(サルヴァトーレ)は映画館に入り浸っている。上映前に町の司祭の検閲があり、キスシーンはカットされる。
映写室にはカットされたフィルムが山のようにあり、トトはそれを貰おうとするが、アルフレードは「おまえにやるが管理は俺がする」と言って渡さない。つまり体よくトトの要求を退ける。トトは「僕のものなのに、それじゃ貰ったことにならない」と文句を言い、床に散らばるフィルムの切れ端を家に持ち帰る。この伏線はラストに繋がり、アルフレードはキスシーンを繋ぎ合せてフィルム缶にしまい、トトへの形見として遺す。
上映中の作品、ポスターから時代は1940年頃。トトの父は出征中で、母と妹の三人暮らし。1941年の対ソ侵攻作戦で父の戦死が示唆され、子のいないアルフレードはトトに友達だけでなく父として接する。
アルフレードには島を出られずに映画館の専属技師として一生を送った悔悟があり、トトに島を出て可能性を求めるように言う。同時に映画の台詞を引用して人生の教訓を教える。不幸にもチネマ・パラディーゾは全焼し、立派に建て直されてヌオヴォ・チネマ・パラディーゾに生まれ変わるが、火事の際にアルフレードは失明。映写技術の教えを受けていたトトが、子供ながら町の唯一の娯楽のために映写技師となる。
高校生になったトトは銀行家の娘エレナに恋するが、アルフレードから見れば失恋が予定された身分違いの恋。二人の交際を知った銀行家はエレナを連れて町を去り、兵役に就いて島に戻ったトトは彼女を捜す手がかりを失う。アルフレードはトトに島を出て二度と帰らないように言う。
アルフレードの葬儀のためにトトが島に帰るのは30年後のことで、映画監督となっている。一生を映写技師で終えたアルフレードの夢を叶えたが、すでに映画館は廃墟となっていて、爆破による取り壊しに立ち会うことになる。
トトは母が残しておいてくれた学生時代にエレナを隠し撮りしたフィルムを観るが、母はトトに「電話をかけるたびに違う女が出るが、誰もおまえのことを愛していない。それはおまえが誰も愛せないからだ」と話す。結局、トトはエレナの失恋を克服できていないことが示唆される。
ローマにもどったトトは試写室でアルフレードの妻アンナからもらった形見のフィルムを見るが、それがキスシーンを集めたものだということがわかり、アルフレードが子供の時の約束を守っていたことに涙する。この涙の意味は観た人の解釈に委ねられる。
またアンナから「死んだことをトトに知らせるな」とアルフレードが言っていたことを聞くが、これもキーワード。
この作品の真の主役はアルフレードで、父と子の物語、子を巣立たせる父の物語と見ることができる。字幕ではノスタルジー(郷愁)と表されるが、郷愁は母性で、アルフレードは父性としてそれを否定する。
同時に映画そのものが仮構の夢物語、ノスタルジーであって、故郷での思い出は映画のフィルムのように固定しておくべきものとする。堰を切った郷愁の奔流にのみ込まれたトトは、30年ぶりに町に帰り、「ずっと故郷と一緒にいた気がする」と感じ、それでも「知らない人ばかりになってしまった」と現実を前に立ちつくす。
最後のトトの涙は、彼に甦ったノスタルジーのせいともいえるが、トトを旅立たせようとしたアルフレードの強い愛情に心打たれ、未だトトがエレナや島へのノスタルジーを克服できていない自分に涙したともいえる。
タイトルからは映画賛美の作品と取られやすいが、公開時からそうした見方に違和感があった。ノスタルジーである映画に安住すること自体をアルフレードは否定しているのではないか。
監督のジュゼッペ・トルナトーレはシチリア島出身だが、戦後生まれ。 (評価:4)
〔完全版〕
ディレクターズカット版は恋と過去への哀惜の映画
原題は"Nuovo Cinema Paradiso"で、英訳するとNew Cinema Paradise。劇中に登場する新しく建て直される映画館の名、ヌオヴォ・チネマ・パラディーゾで、日本風には新パラダイス座。
本作には当初イタリア国内で公開されたオリジナル版(155分)、世界で公開された劇場公開版(124分)、2002年に公開されたディレクターズカット版(170分)があり、これはディレクターズカット版。カンヌ国際映画祭審査員特別賞、アカデミー外国語映画賞、キネ旬7位となったのは劇場公開版で、ディレクターズカット版は主題が大きく異なっているので、別作品と考えた方がよい。
劇場公開版については、別にレビュー(bit.ly/1eIcANX)を書いているので、ここでは両者の違いについて書く。
ディレクターズカット版で増えた50分は、トトが少年時代を終えて青年になってからのエピソードと30年後に故郷に帰って来た後のシーン。青年期には年上の女性との性体験やエレナとの恋物語がたっぷりと描かれ、アルフレードとの友情よりも、恋愛に重点が置かれていることがわかる。二人は熱烈な恋に落ち、ロミオとジュリエットばりの悲運によって引き裂かれてしまう。
その悲運を仕掛けたのがアルフレードで、自分が叶えられなった夢をトトに託す。映画は現実に叶えることのできない夢で、同じように恋は夢見るべきもので手に入れてしまえば色褪せてしまう。映画のロマンチシズムの世界を愛するアルフレードは、トトに故郷と恋という現実を捨てて映画の夢に生きることを求める。
30年後に故郷に戻ったトトはその事実を知り、トトを待ち続けて失意に沈んだエレナと再会する。
トトの故郷に対する印象は劇場公開版とは異なり、2年もすれば故郷はまったく違ったものになるというアルフレードの言葉に反し、何も変わっていないと思う。
ラストで、キスシーンを編集したアルフレードの形見のフィルムに涙するシーンも、映画の夢と引き換えに失った、エレナとの恋と過去に対する哀惜=ノスタルジーが印象付けられる。
アルフレードは映画の中のノスタルジーを愛し、トトは現実の中のノスタルジーに涙する。
エレナとの恋物語を大きく省いてトトとアルフレードの物語にした劇場公開版と、エレナとの悲恋物語を主軸にしたディレクターズカット版のどちらを評価するかだが、監督の最初の制作意図は後者であったと考えるのが妥当。ただ、オリジナル版を大幅にカット・編集した劇場公開版が名作の評価を得たことは確かで、見比べても面白いが、個人的には劇場公開版がお薦め。 (評価:3.5)
日本公開:1989年12月16日
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作:フランコ・クリスタルディ 脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ 撮影:ブラスコ・ジュラート 音楽:エンニオ・モリコーネ、アンドレア・モリコーネ
キネマ旬報:7位
アカデミー外国語映画賞
原題は"Nuovo Cinema Paradiso"で、英訳するとNew Cinema Paradise。劇中に登場する新しく建て直される映画館の名、ヌオヴォ・チネマ・パラディーゾで、日本風には新パラダイス座。
映画への愛を描いた作品は多く、映画好きの内輪受けで終わるものが多いが、そうした中で本作は出色の出来。映画ファンでない人にも楽しめる内容になっている。
本作は人それぞれに解釈でき、伏線もあるので、それに触れながらレビューする。
ローマで映画監督となった主人公サルヴァトーレのもとに、アルフレードが死んだという母からの電話がある。電話を受けるのは同棲中の恋人で、母親が彼女のことを前にサルヴァトーレが同棲していた女と勘違いしていたと話す。そうでなかったのは終盤に明かされる。
ここからはサルヴァトーレの回想譚。アルフレードは故郷シチリアの小さな町の映画館チネマ・パラディーゾの映写技師で、映画好きの子トト(サルヴァトーレ)は映画館に入り浸っている。上映前に町の司祭の検閲があり、キスシーンはカットされる。
映写室にはカットされたフィルムが山のようにあり、トトはそれを貰おうとするが、アルフレードは「おまえにやるが管理は俺がする」と言って渡さない。つまり体よくトトの要求を退ける。トトは「僕のものなのに、それじゃ貰ったことにならない」と文句を言い、床に散らばるフィルムの切れ端を家に持ち帰る。この伏線はラストに繋がり、アルフレードはキスシーンを繋ぎ合せてフィルム缶にしまい、トトへの形見として遺す。
上映中の作品、ポスターから時代は1940年頃。トトの父は出征中で、母と妹の三人暮らし。1941年の対ソ侵攻作戦で父の戦死が示唆され、子のいないアルフレードはトトに友達だけでなく父として接する。
アルフレードには島を出られずに映画館の専属技師として一生を送った悔悟があり、トトに島を出て可能性を求めるように言う。同時に映画の台詞を引用して人生の教訓を教える。不幸にもチネマ・パラディーゾは全焼し、立派に建て直されてヌオヴォ・チネマ・パラディーゾに生まれ変わるが、火事の際にアルフレードは失明。映写技術の教えを受けていたトトが、子供ながら町の唯一の娯楽のために映写技師となる。
高校生になったトトは銀行家の娘エレナに恋するが、アルフレードから見れば失恋が予定された身分違いの恋。二人の交際を知った銀行家はエレナを連れて町を去り、兵役に就いて島に戻ったトトは彼女を捜す手がかりを失う。アルフレードはトトに島を出て二度と帰らないように言う。
アルフレードの葬儀のためにトトが島に帰るのは30年後のことで、映画監督となっている。一生を映写技師で終えたアルフレードの夢を叶えたが、すでに映画館は廃墟となっていて、爆破による取り壊しに立ち会うことになる。
トトは母が残しておいてくれた学生時代にエレナを隠し撮りしたフィルムを観るが、母はトトに「電話をかけるたびに違う女が出るが、誰もおまえのことを愛していない。それはおまえが誰も愛せないからだ」と話す。結局、トトはエレナの失恋を克服できていないことが示唆される。
ローマにもどったトトは試写室でアルフレードの妻アンナからもらった形見のフィルムを見るが、それがキスシーンを集めたものだということがわかり、アルフレードが子供の時の約束を守っていたことに涙する。この涙の意味は観た人の解釈に委ねられる。
またアンナから「死んだことをトトに知らせるな」とアルフレードが言っていたことを聞くが、これもキーワード。
この作品の真の主役はアルフレードで、父と子の物語、子を巣立たせる父の物語と見ることができる。字幕ではノスタルジー(郷愁)と表されるが、郷愁は母性で、アルフレードは父性としてそれを否定する。
同時に映画そのものが仮構の夢物語、ノスタルジーであって、故郷での思い出は映画のフィルムのように固定しておくべきものとする。堰を切った郷愁の奔流にのみ込まれたトトは、30年ぶりに町に帰り、「ずっと故郷と一緒にいた気がする」と感じ、それでも「知らない人ばかりになってしまった」と現実を前に立ちつくす。
最後のトトの涙は、彼に甦ったノスタルジーのせいともいえるが、トトを旅立たせようとしたアルフレードの強い愛情に心打たれ、未だトトがエレナや島へのノスタルジーを克服できていない自分に涙したともいえる。
タイトルからは映画賛美の作品と取られやすいが、公開時からそうした見方に違和感があった。ノスタルジーである映画に安住すること自体をアルフレードは否定しているのではないか。
監督のジュゼッペ・トルナトーレはシチリア島出身だが、戦後生まれ。 (評価:4)
〔完全版〕
原題は"Nuovo Cinema Paradiso"で、英訳するとNew Cinema Paradise。劇中に登場する新しく建て直される映画館の名、ヌオヴォ・チネマ・パラディーゾで、日本風には新パラダイス座。
本作には当初イタリア国内で公開されたオリジナル版(155分)、世界で公開された劇場公開版(124分)、2002年に公開されたディレクターズカット版(170分)があり、これはディレクターズカット版。カンヌ国際映画祭審査員特別賞、アカデミー外国語映画賞、キネ旬7位となったのは劇場公開版で、ディレクターズカット版は主題が大きく異なっているので、別作品と考えた方がよい。
劇場公開版については、別にレビュー(bit.ly/1eIcANX)を書いているので、ここでは両者の違いについて書く。
ディレクターズカット版で増えた50分は、トトが少年時代を終えて青年になってからのエピソードと30年後に故郷に帰って来た後のシーン。青年期には年上の女性との性体験やエレナとの恋物語がたっぷりと描かれ、アルフレードとの友情よりも、恋愛に重点が置かれていることがわかる。二人は熱烈な恋に落ち、ロミオとジュリエットばりの悲運によって引き裂かれてしまう。
その悲運を仕掛けたのがアルフレードで、自分が叶えられなった夢をトトに託す。映画は現実に叶えることのできない夢で、同じように恋は夢見るべきもので手に入れてしまえば色褪せてしまう。映画のロマンチシズムの世界を愛するアルフレードは、トトに故郷と恋という現実を捨てて映画の夢に生きることを求める。
30年後に故郷に戻ったトトはその事実を知り、トトを待ち続けて失意に沈んだエレナと再会する。
トトの故郷に対する印象は劇場公開版とは異なり、2年もすれば故郷はまったく違ったものになるというアルフレードの言葉に反し、何も変わっていないと思う。
ラストで、キスシーンを編集したアルフレードの形見のフィルムに涙するシーンも、映画の夢と引き換えに失った、エレナとの恋と過去に対する哀惜=ノスタルジーが印象付けられる。
アルフレードは映画の中のノスタルジーを愛し、トトは現実の中のノスタルジーに涙する。
エレナとの恋物語を大きく省いてトトとアルフレードの物語にした劇場公開版と、エレナとの悲恋物語を主軸にしたディレクターズカット版のどちらを評価するかだが、監督の最初の制作意図は後者であったと考えるのが妥当。ただ、オリジナル版を大幅にカット・編集した劇場公開版が名作の評価を得たことは確かで、見比べても面白いが、個人的には劇場公開版がお薦め。 (評価:3.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1989年2月4日
監督:ジョン・マクティアナン 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー 脚本:ジェブ・スチュアート、スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:マイケル・ケイメン
キネマ旬報:1位
一級のエンタテイメントもバブル期を知る日本人には少々むず痒い
原題"Die Hard"で、粘り強く耐えてなかなか死なないという意。ブルース・ウィリス演じる主人公ジョン・マクレーンがテロリスト相手に粘り強く耐えてなかなか死なず、最後に勝利を収める。原作はロデリック・ソープの小説 "Nothing Lasts Forever "(永遠に続くものなどない)で、朝のこない夜はないといった感じか。
ニューヨーク市警のマクレーン刑事が、クリスマスに別居中の妻に会いにロサンゼルスにやってきて、妻の勤める日系企業に向かうところから物語は始まる。
日の出の勢いの日系企業からはリムジンが空港までお出迎え。超高層ビルの上階にある噴水のあるフロアの派手派手しいパーティ会場。社員たちは空いた部屋で女といちゃつくという有り様で、思えば当時、Japan as number one.などと囃され、三菱地所がロックフェラー・センターを買い取り、ジャパン・マネーが美術品を買い漁るバブルの絶頂期にあった。
そこに会社の大金庫に眠る6億4000万ドル債権を狙うテロリストが現れ、全員を人質に取る。難を逃れたマクレーンは外部に応援を求めながらも、孤軍奮闘。最終的にはテロリストを倒すが、この間、手に汗握るアクションの連続で、最初に敷いた伏線をすべて回収しながら、完成度の高いシナリオと演出を見せてくれる。
とりわけ、かつて誤って子供を射殺してしまったトラウマから銃を撃てなくなったロス市警の黒人警官が、最後にマクレーンの窮地を救う場面と、個人情報を漏らしたテレビキャスターを妻が殴るシーンが印象深く、全編面白さに圧倒されるが、製作者はこの一級のエンタテイメントにメッセージを仕込んでいて、当時のアメリカ人にとっては二重に胸のすく思いだったに違いない。
本作のヒーローであるマクレーンもロス市警の黒人刑事も伝統的なアメリカン・ヒーローだが、現代においてはうだつが上がらない。妻は花形の日系企業で働くキャリアウーマンで、夫よりも仕事を選び、稼ぎも多い。マクレーンはリムジンに乗るのも初めてで、パーティ会場でも気後れするばかり。
彼を取り巻くのはバブリーな日系企業と大金を奪って南国の楽園への逃亡を企てる欧州のテロリスト。つまりは拝金主義とそのお零れに与ろうとする連中ばかり。ロス市警の責任者も四角四面の小役人なら、特ダネに飛びつくテレビ局の連中も軽佻浮薄。FBIも権威を笠に着るだけで無能。
そうしたものを嘲笑しながら、見向きもされなくなったアメリカンヒーローが復活する話で、最後に高層ビルの窓にぶら下がるテロリストに腕を掴まれた細君の命を救うため、マクレーンが外させるのが成績優秀で社長から贈られたロレックスの腕時計。拝金主義の象徴を捨てさせることで、金満ニッポンへの鬱憤を晴らし、古き良きアメリカの精神に復古させるという、一般アメリカ人の心をくすぐる芸の細かい作品となっている。
テロリストのリーダーをスネイプ先生のアラン・リックマンが演じているのも見どころ。バブル期を知る日本人には少々むず痒い作品。 (評価:3)
日本公開:1989年2月4日
監督:ジョン・マクティアナン 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー 脚本:ジェブ・スチュアート、スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:マイケル・ケイメン
キネマ旬報:1位
原題"Die Hard"で、粘り強く耐えてなかなか死なないという意。ブルース・ウィリス演じる主人公ジョン・マクレーンがテロリスト相手に粘り強く耐えてなかなか死なず、最後に勝利を収める。原作はロデリック・ソープの小説 "Nothing Lasts Forever "(永遠に続くものなどない)で、朝のこない夜はないといった感じか。
ニューヨーク市警のマクレーン刑事が、クリスマスに別居中の妻に会いにロサンゼルスにやってきて、妻の勤める日系企業に向かうところから物語は始まる。
日の出の勢いの日系企業からはリムジンが空港までお出迎え。超高層ビルの上階にある噴水のあるフロアの派手派手しいパーティ会場。社員たちは空いた部屋で女といちゃつくという有り様で、思えば当時、Japan as number one.などと囃され、三菱地所がロックフェラー・センターを買い取り、ジャパン・マネーが美術品を買い漁るバブルの絶頂期にあった。
そこに会社の大金庫に眠る6億4000万ドル債権を狙うテロリストが現れ、全員を人質に取る。難を逃れたマクレーンは外部に応援を求めながらも、孤軍奮闘。最終的にはテロリストを倒すが、この間、手に汗握るアクションの連続で、最初に敷いた伏線をすべて回収しながら、完成度の高いシナリオと演出を見せてくれる。
とりわけ、かつて誤って子供を射殺してしまったトラウマから銃を撃てなくなったロス市警の黒人警官が、最後にマクレーンの窮地を救う場面と、個人情報を漏らしたテレビキャスターを妻が殴るシーンが印象深く、全編面白さに圧倒されるが、製作者はこの一級のエンタテイメントにメッセージを仕込んでいて、当時のアメリカ人にとっては二重に胸のすく思いだったに違いない。
本作のヒーローであるマクレーンもロス市警の黒人刑事も伝統的なアメリカン・ヒーローだが、現代においてはうだつが上がらない。妻は花形の日系企業で働くキャリアウーマンで、夫よりも仕事を選び、稼ぎも多い。マクレーンはリムジンに乗るのも初めてで、パーティ会場でも気後れするばかり。
彼を取り巻くのはバブリーな日系企業と大金を奪って南国の楽園への逃亡を企てる欧州のテロリスト。つまりは拝金主義とそのお零れに与ろうとする連中ばかり。ロス市警の責任者も四角四面の小役人なら、特ダネに飛びつくテレビ局の連中も軽佻浮薄。FBIも権威を笠に着るだけで無能。
そうしたものを嘲笑しながら、見向きもされなくなったアメリカンヒーローが復活する話で、最後に高層ビルの窓にぶら下がるテロリストに腕を掴まれた細君の命を救うため、マクレーンが外させるのが成績優秀で社長から贈られたロレックスの腕時計。拝金主義の象徴を捨てさせることで、金満ニッポンへの鬱憤を晴らし、古き良きアメリカの精神に復古させるという、一般アメリカ人の心をくすぐる芸の細かい作品となっている。
テロリストのリーダーをスネイプ先生のアラン・リックマンが演じているのも見どころ。バブル期を知る日本人には少々むず痒い作品。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1989年2月25日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:マーク・ジョンソン 脚本:バリー・モロー、ロナルド・バス 撮影:ジョン・シール 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞 ベルリン映画祭金熊賞
ダスティン・ホフマンとトム・クルーズの兄弟愛がみどころ
父の遺産目当てに施設にいる兄を拉致して、シンシナティからロサンジェルスまで旅するロードムービー。
母が死んた2歳の時に施設に入れられ存在さえ知らなかった自閉症の兄と、やがて肉親として心を通わすようになるまでの1週間が、ハートウォーミングに描かれる。
如何にもアメリカ人の好みそうな物語で、アカデミーとゴールデングローブの作品賞をW受賞しているが、自閉症かつ数字に天才的な能力を持つ兄を演じるダスティン・ホフマンが抜群の演技。最初は殻に閉じ籠っていた兄が次第に弟に心を開いていく様子を演じて、これまた両賞の主演男優賞をW受賞している。
弟のトム・クルーズも強欲な男から、人を愛せる男への変化を上手く演じている。トムの恋人役ヴァレリア・ゴリノもいい。
ロードムービーらしく、車でアメリカ横断する風景の変化が見どころだが、30年前のラスベガスのシーンが、ストーリー的には最大の見せ場。コンビを組んでの荒稼ぎが契機となって、兄弟の絆が生まれていく。
原題は"Rain Man"で雨男の意味だが、弟が幼い頃に夢に現れた人物。実は生き分かれた兄だったことを知るというのがミソ。劇中にはmain man(親友)という言葉も出てきて、兄=レインマン、弟=メインマンという語呂合わせになっている。 (評価:3)
日本公開:1989年2月25日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:マーク・ジョンソン 脚本:バリー・モロー、ロナルド・バス 撮影:ジョン・シール 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞 ベルリン映画祭金熊賞
父の遺産目当てに施設にいる兄を拉致して、シンシナティからロサンジェルスまで旅するロードムービー。
母が死んた2歳の時に施設に入れられ存在さえ知らなかった自閉症の兄と、やがて肉親として心を通わすようになるまでの1週間が、ハートウォーミングに描かれる。
如何にもアメリカ人の好みそうな物語で、アカデミーとゴールデングローブの作品賞をW受賞しているが、自閉症かつ数字に天才的な能力を持つ兄を演じるダスティン・ホフマンが抜群の演技。最初は殻に閉じ籠っていた兄が次第に弟に心を開いていく様子を演じて、これまた両賞の主演男優賞をW受賞している。
弟のトム・クルーズも強欲な男から、人を愛せる男への変化を上手く演じている。トムの恋人役ヴァレリア・ゴリノもいい。
ロードムービーらしく、車でアメリカ横断する風景の変化が見どころだが、30年前のラスベガスのシーンが、ストーリー的には最大の見せ場。コンビを組んでの荒稼ぎが契機となって、兄弟の絆が生まれていく。
原題は"Rain Man"で雨男の意味だが、弟が幼い頃に夢に現れた人物。実は生き分かれた兄だったことを知るというのがミソ。劇中にはmain man(親友)という言葉も出てきて、兄=レインマン、弟=メインマンという語呂合わせになっている。 (評価:3)
製作国:ギリシャ、フランス、イタリア
日本公開:1990年3月17日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:ステファン・ソルラ 脚本:テオ・アンゲロプロス、トニーノ・グエッラ、タナシス・ヴァルニティノス 撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:3位
五里霧中のギリシャの希望を託す白いフィルム
原題"Τοπίο στην ομίχλη"で、邦題の意。
ギリシャの幼い姉弟が父を訪ねてアテネからドイツに無銭旅行する物語で、途中で会った旅芸人一座の青年がゴミの中から拾い上げた白いフィルムが、霧に中に1本の木が写っているように見えるというのがタイトルの由来。弟の少年はこれをもらい受け、国境を超えるラストで、霧が晴れて1本の木が現われる幻想的なシーンに対応している。
もっとも、夜にボートで国境の川を渡る際に警備隊のサーチライトに照らされて暗転した直後に銃声が轟くことから、この後に提示される霧の中の風景は、死を暗示するイメージとも受け取れる。
いずれにしても、オスマン帝国の支配を脱しながらも歴史に翻弄され続けるギリシャを姉妹に象徴させていることは容易に想像のつくところ。姉弟は私生児で、ドイツにいるという父も作り話らしく、見果てぬ父の幻影を信じて、無賃乗車やヒッチハイクを繰り返しながら放浪の旅をする。
アンゲロプロスは、五里霧中のギリシャの現状を霧に象徴させ、姉がトラック運転手に強姦されるシーンでギリシャの弱さを描く一方で、食事を手に入れるために弟に食堂のバイトをさせ、切符の金を稼ぐために姉に売春紛いをさせて、逞しく生き延びる希望をギリシャを託す。
虚空を掴むかのように吊り上げられる手の彫刻や、黄色い雨合羽の人々などのアンゲロプロスらしいメタファーを織り込みながら、ファンタジーにギリシャの希望を託す作品となっている。
姉弟を演じるタニア・パライオログウとミカリス・ゼーナが好演し、可愛い。 (評価:2.5)
日本公開:1990年3月17日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:ステファン・ソルラ 脚本:テオ・アンゲロプロス、トニーノ・グエッラ、タナシス・ヴァルニティノス 撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:3位
原題"Τοπίο στην ομίχλη"で、邦題の意。
ギリシャの幼い姉弟が父を訪ねてアテネからドイツに無銭旅行する物語で、途中で会った旅芸人一座の青年がゴミの中から拾い上げた白いフィルムが、霧に中に1本の木が写っているように見えるというのがタイトルの由来。弟の少年はこれをもらい受け、国境を超えるラストで、霧が晴れて1本の木が現われる幻想的なシーンに対応している。
もっとも、夜にボートで国境の川を渡る際に警備隊のサーチライトに照らされて暗転した直後に銃声が轟くことから、この後に提示される霧の中の風景は、死を暗示するイメージとも受け取れる。
いずれにしても、オスマン帝国の支配を脱しながらも歴史に翻弄され続けるギリシャを姉妹に象徴させていることは容易に想像のつくところ。姉弟は私生児で、ドイツにいるという父も作り話らしく、見果てぬ父の幻影を信じて、無賃乗車やヒッチハイクを繰り返しながら放浪の旅をする。
アンゲロプロスは、五里霧中のギリシャの現状を霧に象徴させ、姉がトラック運転手に強姦されるシーンでギリシャの弱さを描く一方で、食事を手に入れるために弟に食堂のバイトをさせ、切符の金を稼ぐために姉に売春紛いをさせて、逞しく生き延びる希望をギリシャを託す。
虚空を掴むかのように吊り上げられる手の彫刻や、黄色い雨合羽の人々などのアンゲロプロスらしいメタファーを織り込みながら、ファンタジーにギリシャの希望を託す作品となっている。
姉弟を演じるタニア・パライオログウとミカリス・ゼーナが好演し、可愛い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1988年12月10日
監督:ティム・バートン 製作:マイケル・ベンダー、ラリー・ウィルソン、リチャード・ハシモト 脚本:マイケル・マクダウェル、ウォーレン・スカーレン 撮影:トーマス・アッカーマン 美術:ボー・ウェルチ 音楽:ダニー・エルフマン
ティム・バートンらしい多彩な映像技術の楽しいホラーハウス
原題"Beetlejuice"で、登場人物の名。オリオン座α星のベテルギウス(Betelgeuse)に由来し、その英語発音にBeetle-juice(カブトムシ-ジュース)の綴りを当てたもの。劇中で説明がある。
ティム・バートンの初期ホラーコメディ。
アメリカ北東部、コネチカットの田舎町の丘の一軒家に住むアダム(アレック・ボールドウィン)とバーバラ(ジーナ・デイヴィス)の夫婦は、車ごと川に落ちて水死。幽霊となるが、そこにニューヨークから移り住んだスノッブなチャールズ(ジェフリー・ジョーンズ)とデリア(キャサリン・オハラ)、娘リディア(ウィノナ・ライダー)の一家が移り住み、マイホームを改竄。
アダムとバーバラは一家を追い出そうと幽霊騒ぎを起こすが、逆に幽霊屋敷で儲けようと利用される始末。二人に同情的なリディアが窮地を救うためにお騒がせ幽霊ベテルギウス=ビートルジュース(マイケル・キートン)を呼び出し大騒動となるが、雨降って地固まり、両家が仲良く共存して住むことになるという物語。
アダムが趣味で屋根裏部屋に田舎町のジオラマを再現していて、墓地にベテルギウスが住んでいるというのがミソ。プロローグでは田舎町の空撮と思わせて、実はジオラマを上から舐めていたという演出が上手い。
ゴーストのクリーチャーデザインも多彩で、怖いというよりはコミカル。楽しいホラーハウスといった趣きで、異次元の砂の惑星ではサンドワームまで登場する。
実写、特撮、ストップモーションアニメーションに、アカデミー賞のメイクアップ賞を受賞した特殊メイクと、ティム・バートンらしい映像技術のオンパレードで、楽しい作品になっている。 (評価:2.5)
日本公開:1988年12月10日
監督:ティム・バートン 製作:マイケル・ベンダー、ラリー・ウィルソン、リチャード・ハシモト 脚本:マイケル・マクダウェル、ウォーレン・スカーレン 撮影:トーマス・アッカーマン 美術:ボー・ウェルチ 音楽:ダニー・エルフマン
原題"Beetlejuice"で、登場人物の名。オリオン座α星のベテルギウス(Betelgeuse)に由来し、その英語発音にBeetle-juice(カブトムシ-ジュース)の綴りを当てたもの。劇中で説明がある。
ティム・バートンの初期ホラーコメディ。
アメリカ北東部、コネチカットの田舎町の丘の一軒家に住むアダム(アレック・ボールドウィン)とバーバラ(ジーナ・デイヴィス)の夫婦は、車ごと川に落ちて水死。幽霊となるが、そこにニューヨークから移り住んだスノッブなチャールズ(ジェフリー・ジョーンズ)とデリア(キャサリン・オハラ)、娘リディア(ウィノナ・ライダー)の一家が移り住み、マイホームを改竄。
アダムとバーバラは一家を追い出そうと幽霊騒ぎを起こすが、逆に幽霊屋敷で儲けようと利用される始末。二人に同情的なリディアが窮地を救うためにお騒がせ幽霊ベテルギウス=ビートルジュース(マイケル・キートン)を呼び出し大騒動となるが、雨降って地固まり、両家が仲良く共存して住むことになるという物語。
アダムが趣味で屋根裏部屋に田舎町のジオラマを再現していて、墓地にベテルギウスが住んでいるというのがミソ。プロローグでは田舎町の空撮と思わせて、実はジオラマを上から舐めていたという演出が上手い。
ゴーストのクリーチャーデザインも多彩で、怖いというよりはコミカル。楽しいホラーハウスといった趣きで、異次元の砂の惑星ではサンドワームまで登場する。
実写、特撮、ストップモーションアニメーションに、アカデミー賞のメイクアップ賞を受賞した特殊メイクと、ティム・バートンらしい映像技術のオンパレードで、楽しい作品になっている。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1989年5月20日
監督:トム・ホランド 製作:デヴィッド・カーシュナー 脚本:ドン・マンシーニ、ジョン・ラフィア、トム・ホランド 撮影:ビル・バトラー 音楽:ジョー・レンゼッティ
ジェイソンが人形に変わった人形と子供が命のホラー
原題は""Child's Play""。
人形が生命を持つというのは昔から信じられていたことで、とりわけ精巧にできた人形では不気味なほどに魂を感じる。それが実際に動き出し、しかも子供がそれに絡むとなるとホラーとしての道具立ては万全。
『トイストーリー』で命を持った人形たちはファンタジックで可愛らしいが、本作のチャッキーは日本人形と同じ路線で、不気味リアルな造形それだけで怖い。
もっとも、人形そのものが魂を持つのではなく、死にかけた殺人犯がまじないで魂を移植させたというところが西洋的で、俄かに黒雲が沸き起こり、稲妻とともに儀式が完了するあたりは黒魔術的で、ブードゥーの悪霊かサタンの仕業として西洋人には納得しやすいのかもしれない。
その人形チャッキーをふとしたことから手に入れた母子が殺人鬼に襲われ、殺人犯を射殺した刑事もまた復讐から命を狙われる。そのあたりは結構合理的で、主人公の子供は死なないという前提に立つと、日本人形の醸し出す不気味なホラー感はなく、『13日の金曜日』のジェイソンが人形になっただけという刃物の痛さが前面に立つところがアメリカ的。
人形のままでは嫌だという殺人鬼は、最初に話した人間にだけ魂を移植できるという話を黒魔術師から聞いて、最後は少年を襲うが、これまた乗り移る肉体は殺さずに捕獲するだけという理屈から安心して見ていられるのが難。
最後でもちろんチャッキーは滅びるが、意味ありげに終わるのもホラーの常道で、続編が5本作られた。
本作は人形と子供が命で、パペットの造形も演技もよくできているのが成功した秘訣。男の子も可愛くて、冒頭でママに朝食を運ぶシーンはやりすぎくらいに可愛さを出している。
ドアノブに人形の手は届かないだろうにとか、突っ込めるところも多いが、そこは肝腎のシーンを写さないという演出でうまく逃げている。 (評価:2.5)
日本公開:1989年5月20日
監督:トム・ホランド 製作:デヴィッド・カーシュナー 脚本:ドン・マンシーニ、ジョン・ラフィア、トム・ホランド 撮影:ビル・バトラー 音楽:ジョー・レンゼッティ
原題は""Child's Play""。
人形が生命を持つというのは昔から信じられていたことで、とりわけ精巧にできた人形では不気味なほどに魂を感じる。それが実際に動き出し、しかも子供がそれに絡むとなるとホラーとしての道具立ては万全。
『トイストーリー』で命を持った人形たちはファンタジックで可愛らしいが、本作のチャッキーは日本人形と同じ路線で、不気味リアルな造形それだけで怖い。
もっとも、人形そのものが魂を持つのではなく、死にかけた殺人犯がまじないで魂を移植させたというところが西洋的で、俄かに黒雲が沸き起こり、稲妻とともに儀式が完了するあたりは黒魔術的で、ブードゥーの悪霊かサタンの仕業として西洋人には納得しやすいのかもしれない。
その人形チャッキーをふとしたことから手に入れた母子が殺人鬼に襲われ、殺人犯を射殺した刑事もまた復讐から命を狙われる。そのあたりは結構合理的で、主人公の子供は死なないという前提に立つと、日本人形の醸し出す不気味なホラー感はなく、『13日の金曜日』のジェイソンが人形になっただけという刃物の痛さが前面に立つところがアメリカ的。
人形のままでは嫌だという殺人鬼は、最初に話した人間にだけ魂を移植できるという話を黒魔術師から聞いて、最後は少年を襲うが、これまた乗り移る肉体は殺さずに捕獲するだけという理屈から安心して見ていられるのが難。
最後でもちろんチャッキーは滅びるが、意味ありげに終わるのもホラーの常道で、続編が5本作られた。
本作は人形と子供が命で、パペットの造形も演技もよくできているのが成功した秘訣。男の子も可愛くて、冒頭でママに朝食を運ぶシーンはやりすぎくらいに可愛さを出している。
ドアノブに人形の手は届かないだろうにとか、突っ込めるところも多いが、そこは肝腎のシーンを写さないという演出でうまく逃げている。 (評価:2.5)
ミッドナイト・ラン
日本公開:1988年12月3日
監督:マーティン・ブレスト 製作:マーティン・ブレスト 脚本:ジョージ・ギャロ 撮影:ドナルド・ソーリン 音楽:ダニー・エルフマン
原題"Midnight Run"で、真夜中の走行の意。
主人公のウォルシュ(ロバート・デ・ニーロ)は、ベイルボンドと呼ばれる保釈保証業者から保釈金を借りたままトンズラした容疑者を探し出して連れ戻す仕事を請け負っている元警察官の賞金稼ぎ。
ギャングが麻薬で稼いだ金を横領して慈善事業に寄付して裁判にかけられた真面目な公認会計士マデューカス(チャールズ・グローディン)が、危険を感じて身を隠したのを探し出して連れ戻す仕事を引き受けて、ニューヨークからロサンゼルスまで護送する物語。
FBI、ギャング、さらには別の賞金稼ぎが二人を追いかけ、ウォルシュが鉄道、バス、飛行機を乗り継いで、これを躱していく。
移動の間に互いの人間性に触れ合い、二人の間に友情が芽生えるという定番の設定。共通項は二人とも正義感に溢れ、不正が許せない性格で、警察官だったウォルシュは仕事熱心のあまりに離婚。マデューカスの勧めで、シカゴで再婚しているウォルシュの妻子の家を二人で訪ねるというエピソードもある。
追跡劇は二転三転、ウォルシュとマデューカスの騙し合いもあるアクションコメディ道中記だが、ストーリーにもアクションにも大した山場がなく、小ネタのエピソードの繋ぎ合わせなので、次第にメリハリに欠けてきて緊張感が持続しない。
ラストシーンはウォルシュが賞金を諦めてマデューカスを逃がし、お礼にマデューカスが隠し金を渡して別れるという、これまたありがちな友情物語。 (評価:2)
アリス
日本公開:1989年7月23日
監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 製作:ペーター・クリスティアン・フューター 脚本:ヤン・シュヴァンクマイエル 撮影:スヴァトプルク・マリー
原題"Něco z Alenky"で、アリスの何かの意。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が原作。
実写とストップモーション・アニメーションを合成した作品で、通常サイズのアリスは人間の少女、スモールサイズのアリスは人形が演じる。
冒頭、小川の淵に腰を下ろしているアリスが、隣に座る大人の女性の本を覗き込むシーンから始まり、アリスの唇が大写しになって物語を語っていくという形式を採っている。
川辺と同じ場面が人形で子供部屋で再現され、隣に座るアリスが人形とともに想像の世界に入っていく導入が面白い。ガラスケースの剥製の白兎が動き出し、駆け出した途端に場面は野原に変わり、兎穴ではなく野原の中央に置かれた机の抽斗が不思議の国への入口となる。
以下、『不思議の国のアリス』の世界となり、アリスは白兎を追いかけながら小さくなった元に戻ったりを繰り返すという、ストップモーション・アニメーションによる物語となる。トカゲのビル、芋虫、三月兎、帽子屋、ハートの女王も登場するが、アニメーション演出に主眼が置かれていて、もともと退屈なストーリーのドラマ演出は工夫がなくて飽きる。
ラストは子供部屋で目を覚ますという夢オチだが、ガラスケースの中は空っぽで、いつも遅刻する白兎の首をちょん切らなくちゃと、子供はみんなハートの女王という、皮肉っぽい作品になっている。
見どころは全編にわたるストップモーション・アニメで、チェコのマリオネットの伝統を生かした不気味ともいえる異質な世界観のファンタジーとなっている。 (評価:2)
グラン・ブルー
日本公開:1988年8月20日
監督:リュック・ベッソン 製作:パトリス・ルドゥー 脚本:リュック・ベッソン、ロバート・ガーランド 撮影:カルロ・ヴァリーニ 音楽:エリック・セラ
原題"Le Grand Bleu"で、大いなる海の意。
実在のダイバー、ジャック・マイヨールとエンゾ・マイオルカ(作中ではエンゾ・モリナーリ)が、フリーダイビングの最深世界記録に挑む友情物語。
ただし、ジャックの恋人は架空で、父親とエンゾが死亡するのは創作と、ドラマを構成する主要部分は大幅に脚色されているので、二人をモデルにしたフィクションになっている。
フィクションとしての物語は、フランス人のジャック(ジャン=マルク・バール)とイタリア人のエンゾ(ジャン・レノ)は、なぜかギリシャの島に住む幼馴染でライバルという不思議な設定で、エンゾがイタリア人の仲間と「イタリア万歳」とフランス語で叫ぶというわけのわからなさ。
ジャックが潜水夫の父を亡くしたところで少年時代は終わり。青年となった二人はそれぞれに潜水夫を職業とするが、保険調査員のジョアンナ(ロザンナ・アークエット)が潜水事故調査でジャックと知り合い、追っかけとなる。
以後は、二人のラブストーリーとライバル同士の潜水記録競争となるが、中身のない話なので見どころは美しい地中海のシーンと、イルカ飼育員のジャックがイルカと戯れるシーン、ジャックとジョアンナのセックスシーンとなる。
親友のエンゾが死んで、それを父の死に重ねて傷心するジャックが夜の海でイルカと泳ぐという、メランコリックかつファンタジックな作品だが、ジャックの恋人はどこまでいってもイルカで、親友はエンゾ、恋人のジョアンナはそれ以下というのが、ラブストーリーとしては何とも悲しい。
ジョアンナが潜水用の紐を離してジャックが潜るラストシーンが、情感たっぷりというか意味不明で、父とエンゾの住む海に魂を奪われてしまった男の孤独とロマンを表しているのかもしれない。 (評価:2)
真夜中の虹
日本公開:1990年9月1日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 音楽:ヨウコ・ルッメ
原題"Ariel"で、劇中に登場する船の名。
ラップランドの鉱山閉鎖で失業したカスリネン(トゥロ・パヤラ)は、年配の炭鉱夫から炭鉱に未来はないから南に行って仕事を探すように言われ、白のキャデラックを譲り受ける。直後に先輩は拳銃自殺。貯金を下し車で南に向かったカスリネンは早速強盗に襲われ全財産を失う。
日雇いで糊口を凌いだカスリネンはイルメリ(スサンナ・ハーヴィスト)に駐車違反で切符を切られそうになるが、食事に誘って見逃してもらい、そのままバツイチ子持ちの彼女の家でベッドイン。
職探しも上手くいかず日雇いの仕事もなくなり安値で車を売却。食堂で強盗の一人を見つけ捕まえるが、逆に警官に逮捕されて刑務所行き。イルメリの手引きで同房のミッコネン(マッティ・ペロンパー)と脱獄し、国外逃亡を計画して偽造パスポートを手に入れようとするが、トラブルでミッコネンは死亡。
カスリネンはイルメリ母子を連れてメキシコ行きの密航船"Ariel"に向かうというストーリー。
主人公はとことんツイていない男で、失業、追剥、仕事も見つからず、冤罪で服役。だったらアウトローになるしかないと脱獄、銀行強盗、旅券偽造、密出国となる。
前途に希望があるのかないのか不安なままに終わり、エンドロールにフィンランド語の『虹の彼方に』が流れる。
その希望と不安を乗せるのがアリエル号で、タイトルにまでなって意味深だが、含意は今一つ不明。 (評価:2)