海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1990年

製作国:アメリカ
日本公開:1991年5月18日
監督:ケヴィン・コスナー 製作:ジム・ウィルソン、ケヴィン・コスナー 脚本:マイケル・ブレイク 撮影:ディーン・セムラー 音楽:ジョン・バリー
キネマ旬報:1位
アカデミー賞作品賞 ゴールデングローブ作品賞

白人優位主義を問い直す文明論的作品
 原題"Dances with Wolves"(狼たちと踊る者)で、主人公の白人が与えられたインディアン名。
 時代は1963年。南北戦争で重傷を負った士官ダンバーは自殺を試みた戦闘行為から英雄となってしまう。勤務地を選ぶ権利を与えられた彼は、フロンティア=開拓の最前線セッジウィック砦に向かうが、そこは孤独と絶望の支配する世界で、守備隊は荷物だけを残して無人となっていた。
 途中のヘイズ砦で出会った指揮官はダンバーがセッジウィック砦に向かうことを知って失禁し自殺するが、最前線の守備隊を見殺しにした自責からか? ダンバーは援軍が来ないのを知ってセッジウィック砦で自給自足の生活を始める。この時、友にするのが狼のツー・ソックスで、これがインディアン名の由来となる。
 インディアンを敵視しないダンバーは、怪我をしたスー族の女を助けたことから部族と接触するようになる。彼女は幼い頃に家族を皆殺しにされてスー族に養育された白人で、通訳を務めながらダンバーもインディアン語を学んでいく。
 そうした交流を通してダンバーはインディアン化していき、白人女との結婚を認められてスー族の一員となる。その過程を映画は丹念に描き、ダンバーがスー族を通して自然とともに生きる人間らしさに目覚め、角と皮のためだけにバッファローを殺戮し、インディアンの地を汚し、侵略と横暴の限りを尽くす白人社会をインディアンの側から見つめ直す。
 そうした彼はセッジウィック砦に送り込まれた軍隊から裏切り者として捕えられ、護送中をスー族に救出されるが、類が及ぶのを避けるために妻と二人、部族と別れて旅立つ。スー族の仲間から永遠の友と別れの言葉を投げかけられ、馬で去っていくシーンで終わるが、アカデミー撮影賞を獲った大自然の風景とそれを捉えるカメラワークが美しい。
 ダンバーの結婚する相手がなぜ白人女なのか、スー族があまりに美化されているのではないかというのは議論になるが、それまでの白人側から描いた西部劇をインディアン側から描いたという点で評価された作品。
 実際には、主人公が白人側からインディアン側に視点を変えていく中で白人優位主義を問い直す文明論的作品となっていて、観客自身が主人公とともに自らの内面的変化を体験することになる。そうしたインディアン的価値観によって人間らしさを取り戻す、心の和む好篇となっている。
 監督は主人公を演じるケビン・コスナーで、アカデミー監督賞・ゴールデングローブ監督賞を受賞したが、どちらも主演男優賞は逃した。
 スー族の蹴る鳥を演じたネイティブ・アメリカンのグラハム・グリーンも好演。 (評価:3.5)

製作国:フランス
日本公開:1991年12月21日
監督:パトリス・ルコント 製作:ティエリー・ド・ガネ 脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント 撮影:エドゥアルド・セラ 音楽:マイケル・ナイマン 美術:イヴァン・モシオン
キネマ旬報:6位

女理容師フェチズムを描く不思議系ドラマ
 原題は""Le Mari de la coiffeuse""で、邦題の意。
 女理容師フェチの男が主人公の不思議系映画。男は少年の日、床屋のグラマラスな奥さんに恋し、父親に将来の夢を問われたときに「髪結いの亭主になること」と答えてぶん殴られる。それが少年の恋と性への目覚めで、その原因を作ったのは母親お手製の毛糸の海水パンツで、いつも湿っている上に金玉をスリスリするために性感に目覚めてしまっというもの。
 少年はいきなり壮年のオッサンとなり、若く美しい女理容師を見初める。これぞ少年の時の夢とばかりに店に入って求婚し、女も運命の出会いと応諾する。この時、女の出した条件は「ひとつだけ約束して。愛してるふりは絶対しないで」というもの。
 こうしてかつての少年は髪結いの亭主となるが、日本同様フランスでの髪結いの亭主は働かなくていいらしく、散髪を嫌がる子供を宥めて床屋の椅子に座らせるくらいの手伝いしかしない。こうして二人の平凡な愛の生活は続くが、嵐の日、女は突然店のソファで男に跨って性交し、買い物に行くと出たまま川に身を投げる。
 なぜ? と?が10個ぐらいつくが、はたして性交の最中に男が愛しているふりをしているのを感じたのか? それにしても唐突で、男にもそのような兆候も見えなかったが、後日、店に来た客に我流の奇妙な踊りを見せながら、「妻はもうじき戻ってきますから」と何事もないように答えるところから、男は愛しているふりをしていたことに気付いたのかもしれない。
 そんな男女の心の機微を描いたおフランスな作品ともいえるが、エキセントリックというかミステリアスで、見終わって狐につままれたような気分しか残らない。
 女理容師の得も言われぬ性的雰囲気というのはあって、性風俗を除いて男が日常の中で一般女性と一定時間、最も近接するシチュエーション。女理容師の手の肌触りや息遣い、温もりまでもが頬や肩に感じられる。思えばそれに少年のころから性的なものを感じ取っていたわけで、誰もがこの男のように女理容師に潜在的なフェチズムを感じていたのかもしれない。かつて、ミニスカートの女理容師しかいない床屋チェーンが流行ったことがあったが、経営者がこの潜在意識に気付いたともいえる。
 本作が女理容師フェチズムとその終焉のドラマだと深読みすれば、これほど哲学的に深い映画はないが、そう思わなければやはり不思議な映画という印象だけが残る。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1991年3月29日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジェレミー・トーマス 脚本:マーク・ペプロー、ベルナルド・ベルトルッチ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:坂本龍一、リチャード・ホロウィッツ
キネマ旬報:5位

物語は通俗だがアフリカの町や自然、サハラ砂漠が美しい
 原題"The Sheltering Sky"で、保護している空の意。ポール・ボウルズの同名小説が原作。
 劇中、"The sky is so strange. It's almost solid. As if it were protecting us from what's behind. Look."(空はとても不思議だ。固体のようだ。背後にあるものから我々を保護しているかのようだ。見てごらん)"What's behind?"(何があるの?)"It's nothing. Just night."(何もない。夜だけだ)の台詞がある。
 時は1947年。アメリカから大西洋を渡りモロッコのタンジェに着いた結婚して10年、倦怠期の中年夫婦が、薄れた愛と目的を取り戻すためにアフリカを横断する物語。
 モロッコからコンゴに向けてサハラ砂漠を横断、しかし途中で夫(ジョン・マルコヴィッチ)はあえなくチフスで病死。アラブ人の隊商に加わっていた妻(デブラ・ウィンガー)は、タンジェに連れ戻される。
 妻は当初、旅に同道していた友人(キャンベル・スコット)と浮気。それを知った夫は妻を隔離するが、友人は妻を探し続ける。隊商に加わっていた妻を発見し連れ戻すのもこの友人だが、タンジェの町で妻は姿を消し、旅の経験が彼女の人生観を変えたことを示唆して終わる。
 人生は旅のようなもので、同じ出会いや経験は二度とは得られないといった人生の儚さ、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」の『奥の細道』を連想する。
 もっとも物語そのものは、夫婦の倦怠の巻き戻しと浮気という通俗を出ず、ダラダラした展開が続くので冗長感は否めない。それを救っているのがアフリカの町や村、自然の描写で、とりわけサハラ砂漠に入ってからの風景が美しい。
 ロードムービーによるアフリカの町や村、人々の生活が伝わってくるのが見所だが、ラブストーリーに興味が持てないとドラマの方は若干うざいかもしれない。 (評価:2.5)

アタメ

製作国:スペイン
日本公開:1991年1月26日
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:エンニオ・モリコーネ

アルモドバルの掛けるヒューマンな魔法が心地よい
 原題"¡Átame!"で、私を縛って!の意。
 ストーカー男に監禁されたポルノ女優がベッドにロープで縛り付けられ、やがて男を好きになってしまうという変態映画。
 終盤になって女は姉に助けられて自由の身となるが、男への愛を忘れられず、姉と一緒に男が少年時代に住んでいた廃屋へ迎えに行くというラストで、姉が「あなたは私達の家族よ」というハッピーエンドが妙に清々しい。
 姉に助けられる直前、男は二人での旅立ちのため車を盗みに出掛ける際、女のロープを解いてやって愛情を確かめようとする。すると、心に迷いのある女は自分の決心を揺らがさないために、ロープでベッドに"¡Átame!"と言う。これがタイトルの由来で、助けに来た姉と一度は逃げ出すものの男を迎えに行くというラストに結びつく。
 孤児から暴力的な性格になり精神病院の入退院を繰り返していた男が、かつて一度寝たことのある娼婦を忘れられず、ポルノ女優になっていることを知って会いに行くというストーリーで、女は当然のことながら覚えていない。
 それで女の部屋に押し込み監禁してしまうが、女の愛情を何とか引き寄せようとする男がいじましく、男の身の上を知り、体を許して娼婦の時に出会ったことを体で思い出すというポルノ的展開で、それで男を好きになるのはストックホルム症候群だろうと思わせて、ラストでひっくり返す。
 そんなメルヘンがあるわけないだろうと思いつつも、アルモドバルの掛けるヒューマンな魔法が不思議に心地よかったりする。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年6月1日
監督:ジョエル・コーエン 製作:イーサン・コーエン 脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン 撮影:バリー・ソネンフェルド、プロダクションデザイン、デニス・ガスナー 音楽:カーター・バーウェル
キネマ旬報:3位

ギャングの友情物語のように見えて実はラブストーリー
 原題"Miller's Crossing"で、ミラーの交差路の意。劇中で殺害の行われる森の名。
 禁酒法時代のアメリカ東部の都市が舞台。アイリッシュ・マフィアのボス・レオ(アルバート・フィニー)の右腕トム(ガブリエル・バーン)が、イタリアン・マフィアのボス・キャスパー(ジョン・ポリト)とのトラブルを解決するために頭脳の限りを尽くすもので、トムとの友情物語のように見えるが、実のところはレオの愛人でありトムの恋人ヴァーナ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)とのラブストーリーとなっている。
 ヴァーナとの情事をレオに告白したトムは、レオとの絶交を引き換えにレオとヴァーナを離反させ、ヴァーナを手に入れることを画策するが、トムがトラブルメーカーのヴァーナの弟バーニー(ジョン・タトゥーロ)をキャスパーに売ったことを知ったヴァーナがレオとの結婚を選んだことを知り、レオからの組織復帰の申し出を断って去っていくというラスト。
 最後は競馬の借金を返すためにバーニーを殺していて、結局は知恵があるばかりに策に溺れたトムの哀しい物語となっている。
 レオ、キャスパー、バーニーのトラブルを解決するために、常に先を読んで相手を騙し、その嘘に躍らされて相手が見事トムの術中に嵌っていくのが爽快で、嘘がばれそうになる危機を機転によって乗り越えていくスリルが楽しい。
 『スティング』(1973)のようなスタイリッシュな頭脳ゲームが見どころだが、いささか上手くいきすぎるのと、時に都合の良すぎる偶然もあり、エピソードそのものが小噺風で軽量級。ラブストーリーとしても表面的であっさりしすぎていて、残るものがないのが寂しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1990年9月8日
監督:スティーヴ・クローヴス 製作:マーク・ローゼンバーグ、ポーラ・ワインスタイン 脚本:スティーヴ・クローヴス 撮影:ミヒャエル・バルハウス 音楽:デイヴ・グルーシン
キネマ旬報:10位

そこそこの人間にとっては適温に癒される心地よい映画
 原題"The Fabulous Baker Boys"で、素晴らしきベイカー・ボーイズの意。ベイカー・ボーイズは、ベイカー兄弟のピアノデュオの名。
 ホテルラウンジで演奏するベーカー兄弟のピアノデュオが流行らなくなり、時代に合わせて女性ボーカルを入れることになる。碌な候補者がいない中でオーディションで選ばれたのが、少々蓮っ葉なスージー(ミシェル・ファイファー)。グループは瞬く間に人気者となり、弟ジャック(ジェフ・ブリッジス)とスージーの間に恋が芽生えるが、ジャックはこれを受け入れようとしない。
 CM歌手の声がかかったスージーは止めてもらうのを期待してジャックに相談するが、素っ気なくされたことからグループを離脱。ベイカー・ボーイズは再び不人気となり、ジャックは兄フランク(ボー・ブリッジス)と喧嘩してデュオも解散。結局仲直りして、ジャックがスージーを迎えに行き、再結成の予感で物語は終わる。
 邦題からはジャックとスージーのラブストーリーのように思えてしまうが、原題の通りのベイカー兄弟の物語で、さらに言えば音楽をこよなく愛する主人公ジャックの生き様を描いた物語だともいえる。
 才能のあるジャックはその才能を開花できなかった負け犬で、仲の良い兄とのデュオに適温の心地よさを感じている。花を咲かせることのできないスージーも彼にとってはそんな適温の心地よい相手で、野心や才能を持ちながら成功することのできない多くの人々の等身大の姿でもある。
 そこそこの生活、そこそこの人生を送りながらも、人生の本質はそうした適温の中でそこそこの幸せを掴むことにある、という中庸の精神が、そこそこの人間にとっては適温に癒される心地よい映画となっていて、それを微温湯的だと思うかどうかは観る者の考え方による。 (評価:2.5)

シザーハンズ

製作国:アメリカ
日本公開:1991年7月13日
監督:ティム・バートン 製作:デニーズ・ディ・ノヴィ、ティム・バートン 脚本:キャロライン・トンプソン 撮影:ステファン・チャプスキー 美術:トム・ダフィールド 音楽:ダニー・エルフマン

悲劇の怪物フランケンシュタインのメルヘン版
 原題"Edward Scissorhands"で、エドワードの鋏の手の意。
 家や車がパステルカラーのメルヘンな町が舞台。雪の降る日、町に住む老女(ウィノナ・ライダー)が、町外れの小高い山と屋敷が眺めながら、町に雪が降るようになった初めて物語を孫娘に聞かせるという昔話形式で始まる。
 メルヘンの主人公は、手だけ鋏でできた人造人間のエドワード(ジョニー・デップ)。孤独で心優しく人間の手を欲しがるピノキオが、美しい少女(ウィノナ・ライダー)に恋し、少女もまた彼を愛するようになるが、無理解な町の人々に追われ、ピノキオは再び山に帰るという物語。
 基本は悲恋物語で、この少女が冒頭の老女というオチだが、鋏の手を含め、顔も蒼褪めた鋏男に少女が恋するか? など、悲劇のためのいささか強引な設定と展開が気になるものの、メルヘンだからと納得すればラストまで楽しめる。
 ピノキオなどの味付けはあるもののストーリーの基本はフランケンシュタインで、フランケン博士が怪物完成前に死んでしまったがための怪物の悲劇という展開になっている。
 怪物が女フランケンの代わりに人間の少女に恋するものの、人々に追われて北極ならぬ山屋敷に逃れるという怪物の悲運な一生を描く。
 これをフランケンシュタインの物語に比定すればジャンルはホラーということになるが、原作同様、異形の登場するファンタジーというのがもっとも近い。
 エドワードの芸術的な植木・ペット・ヘアのカットが見どころで、氷の彫刻が雪の降る理由となっている。少女と2役のウィノナ・ライダーの老女のメイクがよくできている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1990年10月13日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:アーウィン・ウィンクラー 脚本:マーティン・スコセッシ、ニコラス・ピレッジ 撮影:ミヒャエル・バルハウス
キネマ旬報:9位

グッドフェローズはバッドフェローズだったという教訓映画
 原題"Goodfellas"。fellasはfellowの俗語で、良き仲間たち=ダチの意。劇中ではマフィアの仲間を指している。
 ニコラス・ピレッジのノンフィクション"Wiseguy"(賢い奴)が原作の実話。wiseguyは、安い給料で真面目に地下鉄で働きに行く愚か者に対して、悪知恵と侠気で他人の金をせしめて瀟洒な暮らしをする者=マフィアのこと。
 主人公が高校時代にwiseguyの道を選んでチンピラとなり、マフィアの溜まり場のレストランを任され、goodfellasと組んで貨物トラックの積み荷や飛行機のカーゴを盗んで大金をせしめる。
 マフィアとは知らずに結婚したユダヤ人美人が、「ファミリーが二つあるのね」と言うあたりがミソ。マフィアではイタリア人以外は出世できないというのも押えどころ。
 アイルランド人の主人公はgoodfellasの目を盗んで麻薬取引に手を出し、妻も仕事に加わってぼろを出して逮捕される。
 かつて対立するマフィアを殺したことが明るみに出るのを怖れたgoodfellasの親友(ロバート・デ・ニーロ)が関係者を殺しまくり、自分の命が危ないと思った主人公が司法取引で仲間を売って蟄居するまでが描かれ、冒頭のデ・ニーロが「口を割らないこと」「仲間を売らないこと」がgoodfellasの条件という言葉と対をなす。
 決して退屈しない物語で、goodfellasは結局のところbadfellasだったという教訓が語られ、マフィアという社会悪への因果応報とwiseguyとなろうとする若者たちへの警鐘映画なのだが、wiseguyであった主人公が最後に自由という名の不自由を手に入れ、社会正義を教示する優等生的結末にちょっと白ける。 (評価:2.5)

ピストルと少年

製作国:フランス
日本公開:1991年12月21日
監督:ジャック・ドワイヨン 製作:アラン・サルド 脚本:ジャック・ドワイヨン 撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー 音楽:フィリップ・サルド

大人の事情に傷つく姉弟とお人よし刑事の絶妙な演技が見もの
 原題"Le Petit Criminel"で、小さな犯罪者の意。
 再婚した母と暮らす少年(ジェラール・トマサン)が、死んだと聞かされていた姉からの電話に出て、姉探しを始めるという物語。少年は学校もサボりがちな不良で、旅費を得るために義父のピストルで薬局を襲い、顔見知りの刑事(リシャール・アンコニナ)にピストルを突きつけて刑事の車で姉(クロティルド・クロー)の住所を訪ねる。
 姉は姉で弟の罪を軽くしようと刑事と交渉。姉と同じ旧姓を学校で名乗りたいという弟の切なる願いを叶えようとするが、叶わず刑事と共に警察に出頭する。
 不幸な境遇に育ち互いに顔も知らない姉弟が、その存在を知って急速に姉弟愛を育み、お人よしの刑事がその二人に心寄せ、職務を忘れて協力するという心温まるヒューマンドラマ。
 この「小さな犯罪」を巡って微妙なバランスの心理劇を演じる、3人の絶妙な掛け合いの演技が見もので、思春期のガラスのように脆い少年少女の心理をトマサンとクローが良く演じている。
 更生したら姉と妹の3人で暮らしたいという少年の言葉が、大人の事情に振り回される子供たちの傷つく姿を描いて、胸を打つ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年12月14日
監督:トム・サヴィーニ 製作:ジョン・A・ルッソ、ラッセル・ストライナー 脚本:ジョージ・A・ロメロ 撮影:フランク・プリンツィ 音楽:ポール・マックローグ 

大枠はオリジナルの通りだが、終盤からラストは違う結末
 原題"Night of the Living Dead "で、ジョージ・A・ロメロの同名映画(1968)のリメイク。脚本をジョージ・A・ロメロが担当していて、大枠はオリジナルの通りだが、終盤からラストはオリジナルとは違う結末になっている。
 墓場から始まり、ゾンビに追われた女が建物に逃げ込んで籠城する。そして、ここからゾンビとの恐怖の戦いになるのは前作と同じだが、最後まで生き延びる人物がオリジナルとは交替する。
 オリジナルの衝撃的ラストと比べると常識的なラストになっていて、人間の残虐性もまたゾンビと変わらないという常識的なテーマが強調される。オリジナルのペシミスティックなラストに比較して、観客にある種の爽快感、納得感を与えるという点では、常識的作品に収まったところが物足りない。
 ただ20年を経て、フィルムもカラーになり、ゾンビのメイクも演技もだいぶこなれていて、残虐シーンもリアルになっているが、不思議とオリジナルのような不気味さや怖さがない。 (評価:2.5)

ゴッドファーザーPARTIII

製作国:アメリカ
日本公開:1991年3月9日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ 脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ニーノ・ロータ、カーマイン・コッポラ

パパ・コッポラの愛情こもった涙のファミリードラマ
PARTⅡから16年を経て公開された完結編で、アル・パチーノもダイアン・キートンも16年分歳をとって登場する。前2作同様、小説"The Godfather"の原作者マリオ・プーゾとフランシス・フォード・コッポラの共同脚本。Godfatherは名付け親のことだが、ここでは犯罪組織のボスのこと。
 マイケル(アル・パチーノ)はマフィアを背景に事業家として成功し、慈善事業家としてバチカンの顕彰を受けるまでの名誉を手にする。ラスベガスのカジノも手放しているが、裏の顔がゴッドファーザーであることに変わりはない。そんなマイケルは殊勝にも、この世の富は金でも権力でもなく子供だと語る。その長男は家業を継がずにオペラ歌手を目指し、娘(ソフィア・コッポラ)はマイケルの兄ソニーの子供ヴィンセントと恋仲になる。
 マイケルはラスベガスからも足を洗ってバチカンと手を組み、欧州のコングロマリットを乗っ取ろうとするが、マフィアとの抗争に巻き込まれ命を狙われることになる。妻ケイとも和解し、枢機卿にこれまでの悪行を告解するが、結局は富である子供を失って孤独に人生を終える。
 父の後を継ぎ、妻と子供を守るためにゴッドファーザーに君臨したマイケルが、その家族を幸せにできないままに一生を終えるという悲しい父親の話で、最期まで家族の理解を得られない。金と権力と名誉を手に入れることはできても、マフィアになったがために家族への愛はすべてが裏目に出て、不幸な人生を終えるという男の因果応報物語ともいえ、パート1でケイについた嘘がマイケルの一生を引き摺ったという教訓物語でもある。
 しかし、映画はマイケルの言いわけに終始していて、前2作のハードボイルド感がない。前2作からはかなり感傷的で、娘のソフィアまで出演させてしまったパパ・コッポラが歳をとった感は否めない。
 バチカン、コングロマリットと設定が大きく膨らんだ分、やや現実離れした印象で、PARTⅡで終わっていたものに蛇足を重ねた感じだが、子供を中心とした涙のファミリードラマになっているので、それなりには楽しめる。 (評価:2.5)

バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3

製作国:アメリカ
日本公開:1990年7月6日
監督:ロバート・ゼメキス 製作:ボブ・ゲイル 脚本:ボブ・ゲイル 撮影:ディーン・カンディ 音楽:アラン・シルヴェストリ

西部劇の時代、ドクの恋人が美人でないのがいい
 原題"Back to the Future Part III"で、前作の後編かつ完結編。
 タイムパラドックスを弄んでいるため、前2作を覚えていないと話がこんがらかる。1985→1955→1985→2015→1985→1955とタイムトリップした1985年版マーティは1955年に取り残され、ドクは落雷の事故で1885年に飛ばされている。1885年に書かれたドクの手紙が70年後のマーティに配達され、デロリアンの故障でドクが戻れなくなっていることを知る。故障したデロリアンが鉱山跡に隠されていることを知り、1955年版ドクの協力を得て修理。ドクの墓石を偶然見つけ、手紙を書いた直後に殺されたことを知り、マーティはドクを救うために1885年に向かう。
 ここからはアメリカ人の好きな西部劇で、ドクに女教師の恋人ができ、マーティはドクを殺したという札付きガンマンと対決する。ドクの命を救って1985年に戻ろうとするも、ドクは恋人ともに1885年に取り残され・・・という話。最後にはSLのタイムマシンも登場し、楽しい本作らしいハッピーエンドで終わる。
 タイムパラドックスのわかりにくさを除けば、ドクの恋愛話が中心で楽しめる。恋人になるメアリー・スティーンバージェンが美人でないのがいい。 (評価:2.5)

ニキータ

製作国:フランス
日本公開:1991年1月26日
監督:リュック・ベッソン 製作:パトリス・ルドゥー 脚本:リュック・ベッソン 撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:エリック・セラ

結局は恋愛から離れられないフレンチ・ドラマ
 原題"Nikita"で、主人公の名。
 不良少女ニキータが政府の秘密工作員に仕立てられ、ミッションをこなすが、恋人に仕事を知られ、仕事にも憔悴しきって姿を眩ますまでの物語。
 工作員というよりは暗殺者に近く、ドライ・テイストの女暗殺者ものとしてはそれなりに楽しめるが、シナリオの粗さが結構気になる。
 警官を殺し反抗的で手に負えないニキータ(アンヌ・パリロー)に工作員の才能があると見込んだボブ(チェッキー・カリョ)がスカウト。施設に閉じ込めての3年間の訓練の後に工作員としてパリのアパート住まいを許されるが、冒頭のニキータの性格からはすぐに姿を眩ますのが道理で、言うことを聞くこと自体が不自然。ボブの下僕ないしは愛の奴隷になったにしては説得力のある描写がない。
 天才的な射撃の腕と身体能力のエリート工作員の割に、初仕事がホテルでルームサービスを運ぶだけというのもズッコケる。早々に男(ジャン=ユーグ・アングラード)をアパートに引っ張り込んで同棲するのも工作員にあるまじき行動で、それを容認するボブもボブで、一体どういう訓練をしていたのかと訝しい。
 2つめの仕事が新婚旅行先でのスナイパーで、浴室に武器などを周到に準備していながら窓が開かないという間抜けぶり。
 3つめはソ連大使館の機密情報の入手。ソ連大使を部屋に引き入れ睡眠薬で眠らせるが、眠る前にわざわざ銃で脅す意味がわからない。ジャン・レノのプッツン振りも異常で、大使館に乗り込んでのスパイ映画らしくない暴れぶり。ボブの工作員は冷静になれという教えも、後半はどこかにすっ飛んでしまう。
 ハードボイルド風でありながら、結局は恋愛から離れられないフレンチ・ドラマ。引退した女工作員役に老けたジャンヌ・モローが出演していて感慨深い。 (評価:2.5)

推定無罪

製作国:アメリカ
日本公開:1991年6月8日
監督:アラン・J・パクラ 製作:シドニー・ポラック、マーク・ローゼンバーグ 脚本:フランク・ピアスン、アラン・J・パクラ 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ジョン・ウィリアムズ

愛人の葬式にヌード姿を思い浮かべるエリート検事補の話
 原題は"Presumed Innocent"で邦題の意。スコット・トゥローの同名小説が原作。
 公開時に見たが、内容はほとんど忘れていた。ハリソン・フォード演じる首席検事補の部下にして愛人の検事補が殺され、ハリソン・フォードが逮捕される。指紋などの物証もあって、しかし地方検事選挙絡みの陰謀の臭いもあって・・・と物語は展開。裁判は今ひとつすっきりしない終わり方をするが、それを含めて推定無罪。もっとも裁判後に真実が明かされて、別件で彼は罪を負うことになる。
 サスペンスとしてはよくできていて飽きさせないが、印象的なシーンも演技もない。ハリソン・フォードが警部補の葬式でヌード姿の彼女を思い浮かべるが、彼女もビッチなら周囲の法曹関係者もよほどストレスが溜まるのか性欲には素直で、如何にもアメリカ的。ハリソン・フォードが早技のようにズボンを脱ぐシーンは必見。
 裁判劇にしては人間ドラマもなく、サスペンスを楽しむ映画。印象に残るものがなく、1か月もすればストーリーと一緒に忘れてしまう。トリックは結構面白いので、そちらに焦点を当てた方が作品的には深まったかもしれない。
 保釈されたハリソン・フォードが自由に行動して、愛人宅の現場検証を行うなど、日本の常識からは考えられないが、アメリカでは可能なのだろうか。 (評価:2.5)

プリティ・ウーマン

製作国:アメリカ
日本公開:1990年12月14日
監督:ゲイリー・マーシャル 製作:アーノン・ミルチャン、スティーヴン・ルーサー 脚本:J・F・ロートン 撮影:チャールズ・ミンスキー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

同じドライな金儲けでもM&Aより娼婦には心があるという隠し味
 原題"Pretty Woman"。
 街娼が主人公のロマンティック・コメディという思い切った作品だが、劇中ヴェルディの『椿姫』のオペラのシーンがあり、そのオマージュだとわかる。
 富豪のM&A会社社長のエドワード(リチャード・ギア)が面白半分で街娼のビビアン(ジュリア・ロバーツ)をビバリーヒルズの高級ホテルのペントハウスに連れ帰り、1週間の契約で彼女を連れ歩くという物語で、その間に相思相愛になってしまう。
 男運がなく生きるために街娼に身を落としたビビアンが、白馬に乗った素敵な王子様が助けに来るという幼い頃の夢をエドワードが叶えるシンデレラ・ストーリーで、『椿姫』の悲恋とは異なるところがハリウッド。
 ホテルでは奇異の目で見られ、ブランドショップで蔑まれるビビアンをレディと呼んで、エドワードが『椿姫』同様の貴婦人に仕立て上げるのがミソ。
 もっとも娼婦には娼婦なりのプライドがあって、体は売っても心は売らない。それを如何にエドワードが口説き落とせるかがクライマックスで、王子様のお城ではなく、シンデレラの家に迎えに行くのがポイントとなるが、童話のようで今ひとつ説得力がない。
 エドワードに従属するだけのシンデレラの夢を振り捨て、行けなかった高校入学のために娼婦を廃業してサンフランシスコで再出発を図ろうとするビビアンを無理やりシンデレラに引き戻すのではなく、旅立ちを見守ってあげられるエドワードにした方が『椿姫』のオマージュとしては良かった。
 女に幻滅しているエドワードは、心だけは売ろうとしないビビアンに魅力を感じ、金儲けだけが目的のM&Aを盗んだ車を解体して部品を売るようなものだと批判され、心の通う提携事業に転換する。
 ドライに割り切って金を得る、娼婦とM&Aを同列に並べ、それでも娼婦には心があるというテーマ設定が隠し味になっている。 (評価:2.5)

欲望の翼

製作国:香港
日本公開:1992年3月28日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ローヴァー・タン 脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル 美術:ウィリアム・チャン

ウォン・カーウァイらしい浮遊感のある初期作品
 原題"阿飛正傳"で、阿飛の伝記の意。阿飛正傳は『理由なき反抗』(1955)の香港でのタイトルで、阿飛は家・旧習から飛び去ること、反逆精神を持った若者を指す。
 主人公のヨディ(レスリー・チャン)は阿飛で、仕事もせずに女を口説いて部屋に引き込む毎日。香港のサッカー場の受付兼売店の女の子スー(マギー・チャン)を「1960年4月16日3時1分前、君は俺といた。俺はこの1分を忘れない」と口説き落とすが、結婚はできないと言ってスーと別れ、クラブのダンサーのミミ(カリーナ・ラウ)を部屋に引き入れる。
 ヨディを忘れられないスーは毎晩アパートの前に立ち、そこで警邏の警官タイド(アンディ・ラウ)と知り合う。
 スーに惹かれたタイドはヤングケアラーで、母の病死によって夢であった船乗りになる。一方、ヨディには出生の秘密があって、実母がフィリピンにいると養母から聞かされて会いに行く。しかし母は会ってくれず、自暴自棄になったヨディはギャングと喧嘩。偶然再会したタイドに助けられるが、追ってきたギャングに撃たれてしまう。
 死ぬ間際、1960年4月16日3時のことを覚えているが、スーには忘れていたと告げるようにタイドに言って、息を引き取る。
 劇中、ヨディは自分を飛び続けなければならない脚のない鳥に譬えるが、出典はテネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』。
 But those little birds they don't have no legs at all and they live their whole lives on the wing, and they sleep on the wind, ...Never light on this earth but one time when they die!(この脚のない小鳥は一生翼で過ごし、風に乗って眠る…地上に一度だけ下りるが、それは死ぬときだ)
 夢を求めながら地に足をつけることのできな若者たち、根無し草のニヒリズムと、堅実に働いて生きる者たちの対照を描くが、ヨディがいささか俗っぽい。
 クローズアップを多用した心理描写や流れるようなカメラ移動がウォン・カーウァイらしい浮遊感のある初期作。
 トニー・レオンのギャンブラー登場のラストシーンで、ネバーエンドを予感させながら締め括るが、本来は二部構成の予定だったらしい。 (評価:2.5)

コントラクト・キラー

製作国:フィンランド 、スウェーデン
日本公開:1991年3月9日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン

カウリスマキの移民問題への関心の萌芽が見てとれる
 原題"I Hired a Contract Killer"で、私は殺し屋を雇ったの意。
 ロンドン水道局に15年間務めてきたフランス人のアンリ(ジャン=ピエール・レオ)が合理化のためにクビになり、前途に絶望。自殺しようとしたが臆病なために果たせず、殺し屋(ケネス・コリー)を雇って自分を殺してもらおうとする物語。
 依頼した途端、殺されないようにするという生き甲斐が生じてしまったという逆説で、花売り娘(マージ・クラーク)と恋に落ちて死にたくなくなり、殺し屋から逃げ回るというブラック・コメディになる。
 アンリは殺し屋の手下に宝石商殺しの濡れ衣を着せられ花売り娘とともに国外逃亡を図るが、濡れ衣が晴れる。しかし殺し屋に追い詰められ一巻の終わりというところで、癌の宣告を受けていた殺し屋は銃を自分に向けて人生を終わらせるという結末。
 俳優から台詞と行動以外をすべて削ぎ落とした無表情で素朴な演技、というカウリスマキの独特の文法を面白いと感じるか不完全と感じるかで評価は割れるが、話自体は毒にも薬にもならない小品。
 アンリが外国人で雇用契約のない非正規だからと解雇されるシーンが冒頭にあるが、イギリスではサッチャー政権の時代で、政治への批判とともに、その後に繋がるカウリスマキの移民問題への関心の萌芽が見てとれる。 (評価:2.5)

トラスト・ミー

製作国:アメリカ、イギリス
日本公開:1993年1月23日
監督:ハル・ハートリー 製作:ブルース・ウェイス 脚本:ハル・ハートリー 撮影:マイケル・スピラー 音楽:フィル・リード

おバカとASDの二人に共感できないと次第に飽きてくる
 原題"Trust"で、信頼の意。
 妊娠して同級生と結婚するために高校を中退した16歳のおバカな娘マリア(エイドリアン・シェリー)が、理不尽な父親に抑圧されたアスペルガー症候群の青年マシュー(マーティン・ドノヴァン)に出会い、互いに惹かれ合うというラブストーリー。
 無理解な父親がマリアに殴られた途端に心臓発作で死んでしまったり、ピカピカのバスルームの掃除をしつこく命じるマシューの父親といった状況から始まるブラックコメディだが、話がシリアスな割には特異な設定で興味を引くという類型的な手法なので、二人に共感できないと次第に飽きてくる。
 とりわけおバカなマリアとアスペルガーのマシューの言動が刹那的にならざるを得ない上に、周りの人間はコミカルなだけでキャラクター描写ができてなく、ストーリーそのものは平凡なために眠くなる。
 家からも社会からも弾き出された二人が自滅していく悲劇なのだが、それが因果応報に思えてしまうところも、本作の限界を示している。 (評価:2.5)

ゴースト ニューヨークの幻

製作国:アメリカ
日本公開:1990年9月28日
監督:ジェリー・ザッカー 製作:リサ・ウェインスタイン 脚本:ブルース・ジョエル・ルービン 撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:モーリス・ジャール

一番ぴったりなのはホラー・ファンタジー
 原題"Ghost"で、幽霊の意。
 冒頭はありきたりなラブストーリーでうんざりするが、サム(パトリック・スウェイジ)が暴漢に殺されてから、ようやく面白くなる。
 以下、犯人探しのサスペンスとなるが、ここまでわかりやすい伏線が示されているので、真犯人はサムの銀行の同僚カール(トニー・ゴールドウィン)で動機は預金操作がバレるから、とすぐわかる。
 恋人モリー(デミ・ムーア)が事件に巻き込まれ、サムが幽霊となってモリーを如何に守るかが見どころ。頑張ってポルターガイストになるのが可笑しい。
 最後は暴漢もカールも死んで地獄に堕ち、サムが昇天してめでたしめでたし。
 サムの通訳となる女霊媒師をウーピー・ゴールドバーグが演じてコミカル。ドラマに膨らみを出している。
 ホラー・サスペンス、ホラー・コメディ、ホラー・ロマンス…一番ぴったりなのはホラー・ファンタジー。特撮はILM。 (評価:2.5)

ミザリー

製作国:アメリカ
日本公開:1991年2月2日
監督:ロブ・ライナー 製作:アンドリュー・シェインマン、ロブ・ライナー 脚本:ウィリアム・ゴールドマン 撮影:バリー・ソネンフェルド 音楽:マーク・シェイマン

ストーカーはスナックばかり食べているデブ女というオタクパターン
 原題は”Misery”で、劇中に登場する小説の主人公の名。スティーヴン・キングの同名小説が原作。
 スティーヴン・キングばりの人気作家が、マニアックなファンによって籠の鳥にされてしまうサイコ・ミステリー。この手の作品には『コレクター』『ザ・ファン』などがあるが、スティーヴン・キング原作のホラー仕立てになっているため、純粋に変質者の心理を描くというよりは被害者視点のエンタテイメントになっている。そのため犯罪者から人間の本質を描くといった視点はなく、作品的なテーマ性は期待できない。
 変質者役のキャシー・ベイツがアカデミー賞とゴールデングローブ賞の主演女優賞を獲得。
 変質女は作家のベストワンファンで、近所の山小屋で執筆中の作家をストーカーしている。原稿を書き上げた吹雪の日に無人の山中で作家が自動車事故を起こしたのを幸い、助けて自宅に軟禁する。作家はミザリーが主人公の人気シリーズを書いているが、書き上げた原稿を読んだ女はミザリーが死ぬことに激怒、原稿を焼いてミザリーが生き返る話を書かせる。
 一方、春になって車が発見されるが作家の姿はなく事故死として片づけられる。老いた保安官一人が疑問を持っての救出劇となるが、保安官エピソードは結果的にはホラーの一要素でしかなく、作家は自力でラストシーンを迎える。
 マニアックなストーカーがテレビスナックばかり食べているデブ女というオタクパターンは本作でも生きていて、それがサイコ的には恐怖と嫌悪感をもたらすが、太った人間に対して差別的だというのは映画評的にはどうでもいいこと。そんな女をキャシー・ベイツが好演するが、好感の持てない作家役は『ゴッドファーザー』のトニー役のジェームズ・カーンで、ほとんどがこの二人芝居。
 保安官のリチャード・ファーンズワースが渋くて呆気ないところがいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年3月15日
監督:ジョン・ラフィア 製作:デヴィッド・カーシュナー 脚本:ドン・マンシーニ 撮影:シュテファン・チャプスキー 音楽:エドワード・A・ワーシルカ・ジュニア

続編ともなるとホラーシーンも若干コミカル
 原題は"Child's Play2"。
 前作の続編だが、2年後の制作ということを考慮すれば、死にかけた殺人犯チャッキーがブードゥーで魂を人形に移植させた、という基本設定のダイジェストは欲しかったところ。
 主人公の少年アンディは母親が精神病院に入れられたため里親に預けられるものの、チャッキーはアンディの体を奪うべく、どうやって居所を知ったのかアンディを追ってくる。
 それだけではドラマにならないため、問題児のアンディが里親の苛めに遭うというストーリーを用意し、アンディの義姉になる同じ里子のお姉さんが協力者となって、チャッキーに戦いを挑むという構図。
 キャラクターシフトが定番なので、フラグの立つ犠牲者を予想するというのが一つの楽しみ方。もっとも人形では演出に限りがあるため、チャッキーの行動範囲が広がると辻褄の合わないことも多くなり、襲撃シーンも若干コミカル。ホラー的な怖さが薄れてしまうのは、続編では致し方のないことか。 (評価:2.5)

ワイルド・アット・ハート

製作国:アメリカ
日本公開:1991年1月15日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:モンティ・モンゴメリー スティーヴ・ゴリン、シガージョン・サイヴァッツォン 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
カンヌ映画祭パルム・ドール

観客に"Wild at Heart"を求めるリンチの演出と映像表現
​ 原題"Wild at Heart"で、荒い気性の意。バリー・ギフォードの同名小説が原作。
 過剰防衛で人を殺した男(ニコラス・ケイジ)が仮釈放され、恋人(ローラ・ダーン)とともに新天地を求めてカリフォルニアの旅に出るが、恋人の母(ダイアン・ラッド)が刺客を送り、罠に嵌められて一緒に銀行強盗をするが、失敗して再び収監。
 出所すると生まれた息子と共に恋人が迎えに来るが、幸せにする自信のない男は去る。チンピラに襲われ気絶した男は、善い魔女(シェリル・リー)の幻影に励まされて2人の下に帰るという物語。
 恋人の母が男を殺そうとする理由は、愛人と共謀して夫を殺害した事件の真相を知るからで、物語はごく普通なミステリー仕立てのラブストーリー。それだけならありきたりにしかならないものを、リンチ独特のシュールな演出と映像表現で退屈しない作品にしたのが評価され、カンヌ映画祭パルムドールを獲得した。
 執拗なまでの暴力表現、セックス描写。男を救う善い魔女、悪い魔女としての恋人の母を登場させる、明瞭な『オズの魔法使』(1939)への比喩。二人の愛の象徴としてのエルビス・プレスリー、と読解好きの映画ファン向けの趣向も凝らしてあるリンチらしい作品だが、普通の映画を見慣れた人には"Wild at Heart"が求められる。 (評価:2)

レッド・オクトーバーを追え!

製作国:アメリカ
日本公開:1990年7月13日
監督:ジョン・マクティアナン 製作:メイス・ニューフェルド 脚本:ラリー・ファーガソン、ドナルド・スチュワート 撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:ベイジル・ポールドゥリス 美術:テレンス・マーシュ

荒唐無稽だが艦長ショーン・コネリーの渋さがみどころ
​ ​原​題​は​"​T​h​e​ ​H​u​n​t​ ​f​o​r​ ​R​e​d​ ​O​c​t​o​b​e​r​"​で​「​レ​ッ​ド​・​オ​ク​ト​ー​バ​ー​の​追​跡​」​の​意​。​ベ​ス​ト​セ​ラ​ー​に​な​っ​た​ト​ム​・​ク​ラ​ン​シ​ー​の​同​名​小​説​が​原​作​。​レ​ッ​ド​・​オ​ク​ト​ー​バ​ー​は​劇​中​に​登​場​す​る​架​空​の​ソ​連​原​潜​の​艦​名​で​、​1​0​月​革​命​の​こ​と​。
​ ​米​ソ​冷​戦​時​代​を​背​景​に​し​た​作​品​で​、​今​は​な​き​ソ​連​の​最​新​鋭​原​潜​の​艦​長​が​、​潜​水​艦​と​と​も​に​ア​メ​リ​カ​に​亡​命​を​図​る​と​い​う​物​語​。​こ​れ​を​阻​止​し​て​原​潜​を​沈​め​よ​う​と​す​る​ソ​連​潜​水​艦​隊​と​、​亡​命​に​気​づ​く​主​人​公​の​C​I​A​分​析​官​、​疑​心​暗​鬼​の​中​で​レ​ッ​ド​・​オ​ク​ト​ー​バ​ー​に​対​処​す​る​ア​メ​リ​カ​海​軍​、​ラ​ス​ト​で​の​米​ソ​の​駆​け​引​き​が​見​ど​こ​ろ​。
​ ​軍​事​サ​ス​ペ​ン​ス​映​画​な​の​で​観​て​い​て​飽​き​る​こ​と​は​な​い​が​、​公​開​か​ら​四​半​世​紀​経​つ​と​荒​唐​無​稽​な​設​定​や​ス​ト​ー​リ​ー​の​陳​腐​さ​は​否​め​な​い​。​こ​の​手​の​フ​ィ​ク​シ​ョ​ナ​ル​な​作​品​の​宿​命​。
​ ​レ​ッ​ド​・​オ​ク​ト​ー​バ​ー​艦​長​は​シ​ョ​ー​ン​・​コ​ネ​リ​ー​で​、​ソ​連​最​新​鋭​原​潜​を​盗​む​と​は​さ​す​が​0​0​7​、​と​ば​か​り​に​冒​頭​で​ロ​シ​ア​語​を​話​す​が​以​後​は​英​語​。​貫​禄​が​あ​っ​て​キ​ャ​ラ​が​立​ち​、​コ​ネ​リ​ー​な​く​し​て​こ​の​映​画​は​成​立​し​な​い​。​海​上​で​の​浮​上​し​た​潜​水​艦​の​シ​ー​ン​は​迫​力​が​あ​る​。 (評価:2)

アマンテス 愛人

製作国:スペイン
日本公開:1994年2月26日
監督:ヴィセンテ・アランダ 製作:ペドロ・コスタ・ムステ 脚本:アルバロ・デル・アモ、カルロス・ペレス・メリネロ、ヴィセンテ・アランダ 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:ホセ・ニエト

深読みすればフランコ時代の閉塞感と退廃?
​ 原題"Amantes"で、恋人たちの意。
 1950年、フランコ政権下のスペインで兵役を終了した青年が婚約者の下に戻り、就活するものの上手くいかず、紹介された下宿の未亡人といい仲になってヒモのようになってしまうという物語。
 実話が基になっていると字幕されるが、正直、どうでもいい話で、婚約者と未亡人の間を行ったり来たりする青年の愛欲の煩悩が主題。未亡人に実は夫を毒殺したと打ち明けられ、婚約者を殺すように仕向けられ、結局青年は未亡人を選んで婚約者を殺してしまうが、時代が時代ゆえ、婚約者も愛が失われたことを知って自殺を望むという、いわば嘱託殺人のような結末を迎えるサスペンスタッチの終盤が、多少盛り上がる。
 公開当時は濡れ場が売り物だったんじゃないかと思うが、今観れば大したこともなく、三角関係が好きだとか、年増女に恋人を奪われて死んでしまう悲劇のヒロインに感情移入したいというのでなければ、特段、愛について哲学しているわけではないので、退屈なラブストーリーでしかない。
 フランコ政権下という状況設定もこのラズストーリーには一切関係ないが、あるいはフランコ時代の青年の閉塞感と退廃を描きたかったのかもしれないと深読みしてみるが、残念ながらそれは伝わって来ない。 (評価:2)

ダイ・ハード2

製作国:アメリカ
日本公開:1990年9月21日
監督:レニー・ハーリン 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー、チャールズ・ゴードン 脚本:ダグ・リチャードソン、スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:オリヴァー・ウッド 音楽:マイケル・ケイメン

ただテロリストと戦っているだけのタフな奴
​ 原題"Die Hard 2: Die Harder"。Die Hardは、粘り強く耐えてなかなか死なないという意。副題は、さらに~の強意。原作はウォルター・ウェイジャーの小説"58 Minute"で、キャラクターは前作を借用。
 空港を舞台とするパニック映画で、前作が『タワーリング・インフェルノ』なら今回は『大空港』でという、企画の安直さが作品にそのまま表れてしまった。1、3作のジョン・マクティアナンが監督できなかったというのも大きい。
 前作と同じクリスマスに、ワシントンのダレス空港に南米の麻薬王エスペランザ将軍(フランコ・ネロ)が護送されてくる。それを奪還しようと米陸軍の反共軍人一味が空港管制を支配して、という設定で、そこに妻を迎えに来たマクレーン刑事(ブルース・ウィリス)がたまたま出合す。
 そこからは前作通りにマクレーン刑事の大活躍が始まり、目的は同じ妻の救出だが、今回は妻は空港に降りられなくて旋回している飛行機の中なので、今ひとつ人質感に欠ける。そのため、妻のためにDie Hardしているということを忘れてしまい、ただテロリストと戦っているだけのタフな奴になって、シナリオと設定の穴ばかりが気になってしまう。
 そもそもマクレーン刑事が空港で不審者を見つけて追いかけるシーンからして不自然で、エスペランザ将軍が護送機を単独で乗っ取ってしまうのも変。テロリストが簡単に空港を支配してしまうのも無理やりで、バックアップ体制がなくて手を挙げてしまう空港も変。燃料切れの飛行機が爆発炎上するのも変なら、ラストで除雪されてない滑走路に続けざまに飛行機が降りてくるのも変で、それらが気になるような出来にしかなっていない。
 特撮シーンも模型とすぐわかってしまい、制作年を考えるともう少しこだわりが欲しかった。 (評価:2)

菊豆

製作国:中国、日本
日本公開:1990年4月28日
監督:チャン・イーモウ、ヤン・フォンリャン 製作:森繁、加藤博之、趙漢皐 脚本:リュウ・ホン 撮影:クー・チャンウェイ、ヤン・ラン 美術:曹久平、夏儒今 音楽:チャオ・チーピン

因果応報の中国奇譚としては怪異感はゼロ
 原題は邦題に同じ。菊豆(チュイトウ)は、主人公の名前。リュウ・ホンの同名小説が原作。
 1920年代の中国の地方の村が舞台。跡継ぎを生むために吝嗇な染物屋に金で買われてきた若妻と、養子との不倫の物語で、テイストとしては悲恋物語。
 染物屋の主人は、これが3人目の妻で、子ができないために前妻たちをDVで苛め、死に追いやったという設定。3人目の妻も暴力を振るわれ、これに同情した養子と深い仲に落ち、子供を産む。字幕では夫は不能だと訳されているが、子供を実子と思い込んでいることから、子種がないということだろう。
 夫は中風で半身不随となり、二人は仲を見せびらかして男に復讐するが、夫は子供を手懐けて逆に復讐。ところが事故で夫が死んでこの世の春かと思いきや、親族らは二人の仲を引き裂く。密会を重ねるが、今度は子供が実の父である養子を殺し、女は家に放火してエンドクレジットとなる。
 よくわからないのは2点あって、子供が『オーメン』のダミアンのように残酷で、不倫によって生まれた呪われた悪魔の子であること。彼が一家の不幸を上塗りしていくが、因果応報をテーマにした中国奇譚としては怪異感はゼロで、むしろ古い因習の中での悲恋話の色彩が濃く、子供の描き方が中途半端。
 もう1点は、二人の悲恋話としては時間軸が長く、出合ってからラストまで13年が経過する。最初男は40歳と説明されるので、なさぬ仲とはいえ、53歳になっても精神的な成長がなく、女の体しか求めない熱愛ぶりがちょっと引く。
 チュイトウ演じるコン・リーは、チャン・イーモウの『紅いコーリャン』にも出演。本作でも、魅力的な演技を見せる。
 反物を使ったカメラワークや演出がいいが、使い過ぎるとくどい。 (評価:2)

製作国:フィンランド
日本公開:1991年3月1日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:クラウス・ヘイデマン、ヤーコ・タラスキビ、アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 音楽:レイヨ・タイパレ
キネマ旬報:7位

マッチをオートメーションでつくる過程が面白い
 原題"Tulitikkutehtaan Tytto"で邦題の意。
 ヘルシンキのマッチ工場の女工が主人公で、母と義父との3人暮らし。給与は家賃に吸い上げられていて、少女が赤い服を買って残りの給与を手渡すと、義父に「売春婦!」と罵られて殴られるという、マッチ売りの少女並みの薄幸。
 その赤い服を着てディスコに出かけると男に声を掛けられベッドイン。男は帰りがけに金を置いていき、売春婦並みの扱いを受ける。両親に紹介して結婚を迫ると「一夜の遊び」と屈辱的な言葉を投げられ、挙句に妊娠していたことがわかると、今度は「始末しろ」の返事。
 キレたマッチ売りの少女は殺鼠剤を買って、男と両親に飲ませる。死んだかどうかは不明だが、刑事に逮捕されてジ・エンド。
 北欧の残酷童話を現代に置き換えただけで、紙芝居のように動きのないシーンが展開するだけ。筋はあってもドラマのない古典的寓話で、弁士の代わりに暗喩的な歌が入る。
 主人公のカティ・オウティネンは29歳で、未婚の娘ではあるが、邦題の少女は相当無理がある上に、醜女ときていて、寒々とした寓話に磨きをかける。
 それにしても男や両親が殺鼠剤入りの酒や水を気づかずに飲み乾すとも思えず、テーマは窮鼠猫を噛むか? 少女同様に天安門事件で虐げられた人々がテレビニュースで流れる。
 最大の見どころは冒頭の数分間で、マッチをオートメーションでつくる過程がなかなか面白い。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年5月25日
監督:ロバート・レズニコフ 製作:テッド・フィールド、ロバート・W・コールド、デヴィッド・マッデン 脚本:ロバート・レズニコフ 撮影:テオ・ヴァン・デ・サンデ 音楽:スチュワート・コープランド

続編狙いのラストシーンに思わず力が抜ける
 原題"The First Power"で、第一の力の意。劇中、死者=悪魔の甦り・不死の力と説明される。第二の力は予知、第三の力は悪魔の憑依。
 舞台はロサンゼルス。胸にペンタグラム(五芒星)の印を残す連続殺人事件を追う刑事ローガン(ルー・ダイアモンド・フィリップス)が、謎の電話の女性の情報をもとに犯人チャニング(ジェフ・コバー)を逮捕。女性から恐ろしいことが起きるから死刑にするなと忠告があったにも拘らず死刑にしてしまう。
 するとやっぱり恐ろしいことが起きて、チャニングの霊が別人に憑依して殺人を重ね、ローガンと名乗り出た予知能力者の女性テス(トレイシー・グリフィス)とともにチャニングを追うという物語。
 霊を相手にどうやって退治するのだろうと見ていると、テスの霊視で修道女のマルガリータ(エリザベス・アーレン)が秘蔵の磔刑型ナイフを出してくれ、これが必殺武器となる。終盤はマルガリータに憑依したチャニングとの戦い。
 チャニングはローガンとテスに自分の現身の幻覚を見せるが、これが変幻自在過ぎて人間なのか幽霊なのか明確でない。ラストではチャニングとローガンとの戦いになって、マルガリータは忘れられてしまう。
 そんな矛盾点を抱えながらもアクションドラマとしては退屈しないが、退治したはずのチャニングの霊が甦りそうな続編狙いのラストシーンに、何のための悪魔退治だったのかと力が抜ける。結果、続編は作られなかった。 (評価:2)

ロッキー5/最後のドラマ

製作国:アメリカ
日本公開:1990年12月7日
監督:ジョン・G・アヴィルドセン 製作:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 脚本:シルヴェスター・スタローン 撮影:スティーヴン・ポスター 音楽:ビル・コンティ

ボクシング映画に非ざる場外乱闘という反則技
 原題は"Rocky V"。
 前作から5年を経て制作されたシリーズ第5作で、前作でソ連から凱旋したロッキーの記者会見から物語は始まるが、脳に損傷があるため、挑戦を受けるもののついに現役を引退する。
 そこで第二のロッキーを育てるべく、ミッキーのジムをロッキー自身が再開し、トミー(トミー・モリソン)をトップレベルのボクサーに育てる。
 そこに用意される障害は、ポーリーの失敗によるロッキー破産、息子の反抗期、トミーを誘惑するプロモーター。
 トミーはロッキーの恩義に背いてプロモーターと組んでタイトルを手にするが、全米の反感を買い、真のチャンプはロッキーだという訳の分からない観客とマスコミの声に押されて、ロッキーの自宅に押し掛ける。
 さては再びロッキーが現役復帰しての対戦かと思いきや、そのまま路上での殴り合いとなり、手業足技を繰り出してロッキーが叩きのめして終わりという、ボクシング映画に非ざる結末。
 ロッキーはボクシング・チャンプなので、場外乱闘は映画的にも反則で、この企画で続編を作った制作者自身がパンチドランカーとしか思えない。
 更には、トミーに入れ込むロッキーに息子が嫉妬し、最後には父子の和解というウエットなアメリカンホームドラマにしてしまった。父親の仕事相手に息子が嫉妬するという設定を受け入れられるアメリカ人の感性には呆れるばかり。
 トミー・モリソンは後にヘビー級チャンピオンになった現役ボクサー。 (評価:1)


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