外国映画レビュー──1987年
太陽の帝国
日本公開:1988年4月29日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル 脚本:トム・ストッパード 撮影:アレン・ダヴィオー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題は"Empire of the Sun"で邦題の意。イギリスのJ・G・バラードの自伝的な同名小説が原作。映画賞にもキネ旬ベスト10にも縁がなかったが、個人的にはスピルバーグのベスト映画。
上海租界に住んでいた裕福な家庭のイギリス少年(クリスチャン・ベール)が主人公の物語。1941年、太平洋戦争開戦により日本軍は租界を占領し、外国人を抑留する。その混乱で、両親とはぐれてしまった少年はアメリカ人青年(ジョン・マルコヴィッチ)に拾われ悪事を重ねるが、日本軍に見つかって蘇州の収容所に送られる。食料不足から収容者たちが病死するという過酷な生活が始まる。最後まで生き延びることが戦争に勝つことだと医師に教えられた少年は、なりふり構わず生きるために収容所を駆けまわる。
飛行機好きの少年はゼロ戦ファンで、収容所のある基地で知り合った少年飛行兵(片岡孝太郎)と友達になる。やがて日本の戦況は悪化し、米軍のムスタングが基地を襲撃する。それを見た少年は空のキャデラックだといって喜ぶ飛行機オタクで、敵味方や勝敗については関心を持たない。
この作品は日本と連合軍との戦争について、政治的にも歴史的にも中立、というよりも正邪の評価をしてない。租界の外国人たちの特権的な醜い姿や、面従腹背で空き家から家具を盗み少年を憎しみを持って殴る中国人使用人など、日本軍を含めてそれぞれの人間的醜さをきちんと描く。そのためかアメリカでも日本でも評価を受けなかった。本作が描いたのは、プラグマティストで無神論者の少年が戦争という状況に翻弄されながらも生き抜くことの大切さを知り、本質において敵も味方もないということ。
原因も政治もナショナリズムも関係なく、戦争という現実だけを少年は受け入れる。少年が敬意を持って敬礼するのは、現実に空を翔ける戦闘機であり、飛び立つ飛行兵であり、空を翔けることのない神ではない。火花の中で敬慕する戦闘機に手を触れるシーンは幻想的で、映像的な見どころ。
収容所の婦人が息を引き取る瞬間、少年は東の空に閃光が走るのを見る。それを昇天の光と思うが、すぐに広島に落とされた原爆だと知り、少年は再びプラグマティズムに立ち返る。ハレルヤの歌声とともに空から降ってきたのは米軍の救援用食糧で、プラグマティズムこそが人間に幸せをもたらすハレルヤに他ならない。そして最後に少年に歓びをもたらすのは母との再会となる。
難解ではないが哲学的であり、戦争についてわかりやすいテーマを示さなかった本作だが、少年の心を通したニュートラルな戦争の姿が描かれていて、決して退屈でもなく、何も考えなくて楽しめる作品になっている。
日本兵役で伊武雅刀、ガッツ石松らも出演しており、ハリウッド映画ではおざなりになりがちな日本語の台詞のシーンにも比較的不自然さはない。再開発前の上海の風景が残っていて映像的にも貴重。
その後、『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』とテーマの明確な戦争映画をスピルバーグが制作したのは、評価の今ひとつな本作への反省だったのかもしれないが、むしろユダヤ人としての勝者も敗者も存在しない戦争に対する冷静な見方が本作には表れている。
少年役クリスチャン・ベールの演技が上手いが、その後は『バットマン ビギンズ』『ターミネーター4』でアクション俳優に転じた。 (評価:3.5)
製作国:イラン
日本公開:1993年10月23日
監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アリ・レザ・ザリン 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:ホマユン・パイヴァール
キネマ旬報:8位
児童虐待の時勢に大人は子供にどう接するべきか?
原題"خانه دوست کجاست ؟"で、邦題の意。
イランの山の中の村が舞台。
コケール村の小学2年生のネマツァデェ(アハマッド・アハマッドプール)は、ノートを従兄の家に忘れたために宿題を紙に書いてきたのを先生に叱られ、同じことをしたら次は退学だと言われる。ネマツァデェと机を並べるアハマッド(ババク・アハマッドプール)は同情して優しくするが、その日過ってネマツァデェのノートを家に持って帰ってしまう。
ここからは、ノートを返さないとネマツァデェが退学になってしまうと怖れるアハマッドの、無理解な大人たちを相手の孤軍奮闘記となるが、漆黒のつぶらな目に戸惑いと焦燥を映すアハマッドプールの健気な姿が愛おしいほどに可愛いらしい。
アハマッドの母は家事を言いつけて外出を許さず、祖父もまた年長者への服従と用事を言いつける。ネマツァデェの家は山を越えた隣村のポシュテ村。行ってみると丘の上の村は広く、同じ名の者が多くて目当ての家が見つからない。
そうこうしているうちに夜となり、漸く見つけた親切な老人に近くまで案内してもらうが、家の周りの闇が怖くてノートを渡せず、結局ポシュテ村の民家に泊めてもらい、ネマツァデェのノートに宿題を引き写す。
翌朝、学校に行ったアハマッドはネマツァデェにノートを渡して事なきを得るが、ポシュテ村の老人にもらってノートに挟んだ押し花が友情の印として残るというお話。
アハマッド少年の純真さが心の残る作品で、それと対比される教師や親たち大人の無理解というよりは虐待に近い横暴さが際立つ。
心汚れた大人たちが子供だった頃を思い出し、純真な心を取り戻すための作品で、同時に子供たちに対して大人がどう接するべきかを考えさせる。 (評価:3)
日本公開:1993年10月23日
監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アリ・レザ・ザリン 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:ホマユン・パイヴァール
キネマ旬報:8位
原題"خانه دوست کجاست ؟"で、邦題の意。
イランの山の中の村が舞台。
コケール村の小学2年生のネマツァデェ(アハマッド・アハマッドプール)は、ノートを従兄の家に忘れたために宿題を紙に書いてきたのを先生に叱られ、同じことをしたら次は退学だと言われる。ネマツァデェと机を並べるアハマッド(ババク・アハマッドプール)は同情して優しくするが、その日過ってネマツァデェのノートを家に持って帰ってしまう。
ここからは、ノートを返さないとネマツァデェが退学になってしまうと怖れるアハマッドの、無理解な大人たちを相手の孤軍奮闘記となるが、漆黒のつぶらな目に戸惑いと焦燥を映すアハマッドプールの健気な姿が愛おしいほどに可愛いらしい。
アハマッドの母は家事を言いつけて外出を許さず、祖父もまた年長者への服従と用事を言いつける。ネマツァデェの家は山を越えた隣村のポシュテ村。行ってみると丘の上の村は広く、同じ名の者が多くて目当ての家が見つからない。
そうこうしているうちに夜となり、漸く見つけた親切な老人に近くまで案内してもらうが、家の周りの闇が怖くてノートを渡せず、結局ポシュテ村の民家に泊めてもらい、ネマツァデェのノートに宿題を引き写す。
翌朝、学校に行ったアハマッドはネマツァデェにノートを渡して事なきを得るが、ポシュテ村の老人にもらってノートに挟んだ押し花が友情の印として残るというお話。
アハマッド少年の純真さが心の残る作品で、それと対比される教師や親たち大人の無理解というよりは虐待に近い横暴さが際立つ。
心汚れた大人たちが子供だった頃を思い出し、純真な心を取り戻すための作品で、同時に子供たちに対して大人がどう接するべきかを考えさせる。 (評価:3)
製作国:西ドイツ、フランス
日本公開:1988年4月23日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ヴィム・ヴェンダース、アナトール・ドーマン 脚本:ヴィム・ヴェンダース、ペーター・ハントケ 撮影:アンリ・アルカン 音楽:ユルゲン・クニーパー
キネマ旬報:3位
この映画を観ることが一種の宗教体験なのかもしれない
原題は"Der Himmel über Berlin"(ベルリンの空)。英語タイトルは"Wings of Desire"(欲望の翼)で仏語タイトルも同様。
映画にはどんな表現形式があっても構わない。その意味では実験的、前衛的、哲学的作品なので、観るには相応の覚悟がいる。とりわけモノローグで構成されるストーリーは馴染みにくい。
天使が見る世界と人間が見る世界があって、前者はモノクロ、後者はカラーで表わされる。だから天使の世界は味気なく、人間の世界は華やかというわけでもないのだろうが、天使が人間の女に恋して、モノクロの世界を捨ててカラーの世界に降り立つ。
このエピソードの原型は創世記第6章にあって、地上の娘たちに惹かれた神の子たちが地上に降りて好みの娘たちを娶り、生まれた子供がネフィリムとなる。ネフィリムは天から墜ちてきた者たちの意味で、これを堕天使とする解釈もある。映画では、人々の心の声を聴くことのできる天使が地上に降りてその悩める人となるが、天使に手を貸すのが刑事コロンボのピーター・フォーク。
映画の時代背景を理解するには、当時ベルリンは東西に分かれていて、壁が崩れるのは2年後のこと。ポツダム広場は戦前ベルリンの中心地だったが、戦争で破壊され、東西分割後には両陣営の境界となった。1961年に壁が造られると広場は二分されて無人の更地になる。映画にもベルリンの壁が影を落としている。
最初は話がよくわからないまま進行するが、いつの間にか映画に没入している自分に気づかされる不思議な映画。 (評価:3)
日本公開:1988年4月23日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ヴィム・ヴェンダース、アナトール・ドーマン 脚本:ヴィム・ヴェンダース、ペーター・ハントケ 撮影:アンリ・アルカン 音楽:ユルゲン・クニーパー
キネマ旬報:3位
原題は"Der Himmel über Berlin"(ベルリンの空)。英語タイトルは"Wings of Desire"(欲望の翼)で仏語タイトルも同様。
映画にはどんな表現形式があっても構わない。その意味では実験的、前衛的、哲学的作品なので、観るには相応の覚悟がいる。とりわけモノローグで構成されるストーリーは馴染みにくい。
天使が見る世界と人間が見る世界があって、前者はモノクロ、後者はカラーで表わされる。だから天使の世界は味気なく、人間の世界は華やかというわけでもないのだろうが、天使が人間の女に恋して、モノクロの世界を捨ててカラーの世界に降り立つ。
このエピソードの原型は創世記第6章にあって、地上の娘たちに惹かれた神の子たちが地上に降りて好みの娘たちを娶り、生まれた子供がネフィリムとなる。ネフィリムは天から墜ちてきた者たちの意味で、これを堕天使とする解釈もある。映画では、人々の心の声を聴くことのできる天使が地上に降りてその悩める人となるが、天使に手を貸すのが刑事コロンボのピーター・フォーク。
映画の時代背景を理解するには、当時ベルリンは東西に分かれていて、壁が崩れるのは2年後のこと。ポツダム広場は戦前ベルリンの中心地だったが、戦争で破壊され、東西分割後には両陣営の境界となった。1961年に壁が造られると広場は二分されて無人の更地になる。映画にもベルリンの壁が影を落としている。
最初は話がよくわからないまま進行するが、いつの間にか映画に没入している自分に気づかされる不思議な映画。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1988年10月29日
監督:フィリップ・カウフマン 製作:ソウル・ゼインツ 脚本:ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:レオシュ・ヤナーチェク
キネマ旬報:8位
浮気性の男同様に一筋縄ではいかない恋愛映画
原題は"The Unbearable Lightness of Being"で、同名の小説が原作。原作者のミラン・クンデラは1929年チェコ生まれ、1968年のプラハの春で弾圧を受け、フランスに渡った。物語は、この時代を背景に描かれているので、観る際には一応予備知識としておいた方が作品理解には役立つ。
映画は政治問題に絡みそうでギリギリで絡まないという微妙な線の上を行く、完全な恋愛もの。主人公の二人の男女の恋愛に、当時のチェコ情勢が影を落としているのは間違いないが、それが二人の愛の行方に影響を与えたかどうかは、観る人の判断による。ただ恋愛を含めた個人の在り方として、二人が全体主義に屈することなく人間の尊厳を守り通したという点で、ラストシーンは静かな感動を呼ぶ。
セックスは快楽だと割り切る主人公、結婚に愛を求める妻、束縛された男女関係を疎む女画家。ラブストーリーとしては、妻の思いがデラシネのような主人公を最終的に真実の愛に導いたような、そうでもないような話だが、物語の構造は成瀬巳喜男の『浮雲』とよく似ている。鏡・帽子といったメタファーもあって、それなりに哲学的難解さを求めることも可能だし、チェコを遠く離れた女画家の目を通した、クンデラの喪失した祖国へのノスタルジーといった、さまざまな見方ができる一筋縄ではいかない作品。
主演のダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ、女画家・レナ・オリンなど演技陣もいい。ぼかしのシーンが多いので、要注意。『ライトスタッフ』もそうだが、3時間は長く、結末は終わらない物語の強制終了に思える。 (評価:3)
日本公開:1988年10月29日
監督:フィリップ・カウフマン 製作:ソウル・ゼインツ 脚本:ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:レオシュ・ヤナーチェク
キネマ旬報:8位
原題は"The Unbearable Lightness of Being"で、同名の小説が原作。原作者のミラン・クンデラは1929年チェコ生まれ、1968年のプラハの春で弾圧を受け、フランスに渡った。物語は、この時代を背景に描かれているので、観る際には一応予備知識としておいた方が作品理解には役立つ。
映画は政治問題に絡みそうでギリギリで絡まないという微妙な線の上を行く、完全な恋愛もの。主人公の二人の男女の恋愛に、当時のチェコ情勢が影を落としているのは間違いないが、それが二人の愛の行方に影響を与えたかどうかは、観る人の判断による。ただ恋愛を含めた個人の在り方として、二人が全体主義に屈することなく人間の尊厳を守り通したという点で、ラストシーンは静かな感動を呼ぶ。
セックスは快楽だと割り切る主人公、結婚に愛を求める妻、束縛された男女関係を疎む女画家。ラブストーリーとしては、妻の思いがデラシネのような主人公を最終的に真実の愛に導いたような、そうでもないような話だが、物語の構造は成瀬巳喜男の『浮雲』とよく似ている。鏡・帽子といったメタファーもあって、それなりに哲学的難解さを求めることも可能だし、チェコを遠く離れた女画家の目を通した、クンデラの喪失した祖国へのノスタルジーといった、さまざまな見方ができる一筋縄ではいかない作品。
主演のダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ、女画家・レナ・オリンなど演技陣もいい。ぼかしのシーンが多いので、要注意。『ライトスタッフ』もそうだが、3時間は長く、結末は終わらない物語の強制終了に思える。 (評価:3)
製作国:イタリア、中国、イギリス
日本公開:1988年1月23日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジェレミー・トーマス 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、マーク・ペプロー、エンツォ・ウンガリ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:坂本龍一、デヴィッド・バーン、スー・ソン
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
宦官・日本・中共に利用され続けた悲しい男の孤独
愛新覚羅溥儀が3歳で清の皇帝に即位し、辛亥革命、満州国建国、新中国下で一生を終えるまでの物語。1924年に紫禁城を追放されるまでは城内のことしか描かれないので、ある程度の歴史的知識は必要。
中国が製作に加わった紫禁城内での撮影が大きな見どころ。ベルトリッチは歴史評価については比較的中立に描いているので、それほど気にならない。満州での731部隊の生体実験や南京事件などが中国のニュースフィルムで流れるという形をとっている。
当時は、中央軍事委員会主席の鄧小平が実権を握っていたが、南京虐殺については20万人と言っていて、現在よりも10万人少ない。むしろ蒋介石についての方が批判的。文化大革命についても戯画化し批判的に描いている。
歴史や政治問題を離れれば、溥儀のラストエンペラーとしての盛衰を描く人間ドラマで、亡霊がかつての紫禁城を訪れるシーンは感傷的。物心ついてから紫禁城に囚われの身となり、戦犯となっても身の回りのことが何一つできない姿が痛々しいが、結局は宮中の宦官や女官に利用され、紫禁城を出ても日本軍に利用され、終戦後は中共に利用されるという、裸の王様、悲しい男の孤独を描いた。
溥儀役のジョン・ローンと家庭教師ジョンストン役のピーター・オトゥールが好演。甘粕大尉役で坂本龍一が出演、アカデミー作曲賞の音楽も。撮影賞の映像は壮観。
3時間39分のオリジナル全長版で観直したが、劇場公開版より56分長くて若干しんどい。 (評価:3)
日本公開:1988年1月23日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジェレミー・トーマス 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、マーク・ペプロー、エンツォ・ウンガリ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:坂本龍一、デヴィッド・バーン、スー・ソン
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
愛新覚羅溥儀が3歳で清の皇帝に即位し、辛亥革命、満州国建国、新中国下で一生を終えるまでの物語。1924年に紫禁城を追放されるまでは城内のことしか描かれないので、ある程度の歴史的知識は必要。
中国が製作に加わった紫禁城内での撮影が大きな見どころ。ベルトリッチは歴史評価については比較的中立に描いているので、それほど気にならない。満州での731部隊の生体実験や南京事件などが中国のニュースフィルムで流れるという形をとっている。
当時は、中央軍事委員会主席の鄧小平が実権を握っていたが、南京虐殺については20万人と言っていて、現在よりも10万人少ない。むしろ蒋介石についての方が批判的。文化大革命についても戯画化し批判的に描いている。
歴史や政治問題を離れれば、溥儀のラストエンペラーとしての盛衰を描く人間ドラマで、亡霊がかつての紫禁城を訪れるシーンは感傷的。物心ついてから紫禁城に囚われの身となり、戦犯となっても身の回りのことが何一つできない姿が痛々しいが、結局は宮中の宦官や女官に利用され、紫禁城を出ても日本軍に利用され、終戦後は中共に利用されるという、裸の王様、悲しい男の孤独を描いた。
溥儀役のジョン・ローンと家庭教師ジョンストン役のピーター・オトゥールが好演。甘粕大尉役で坂本龍一が出演、アカデミー作曲賞の音楽も。撮影賞の映像は壮観。
3時間39分のオリジナル全長版で観直したが、劇場公開版より56分長くて若干しんどい。 (評価:3)
製作国:デンマーク
日本公開:1989年2月18日
監督:ガブリエル・アクセル 脚本:ガブリエル・アクセル 撮影:ヘニング・クリスチャンセン 音楽:ペア・ヌアゴー
キネマ旬報:2位
アカデミー外国語映画賞
見ているだけで幸福感の味わえる美味しそうな映画
原題は"Babettes gæstebud"で「バベットの宴」の意。デンマークのカレン・ブリクセンの同名小説が原作。アカデミー外国語映画賞を受賞。
19世紀のデンマークの寒村が舞台。バベットは教会の老姉妹の家で働く家政婦の名。パリ・コミューンで家族を失って亡命し、姉妹と知己のあったバリトン歌手の紹介で姉妹の家に身を寄せる。バリトン歌手は歌の才能がある妹に恋して歌唱法を教えたが、神に身を捧げた彼女を諦めてパリに帰っていた。同様に姉に恋した青年士官は、別の女性と結婚して今は将軍となっている。
清貧の暮らしを続けてきた姉妹たちだが、バベットが1万フランの宝くじを当てたことから、姉妹の父である死んだ牧師の生誕100年の祝宴にフランス料理を出させてほしいと懇願する。将軍を始め村人たちが宴に集まり、バベットはパリから食材を取り寄せ、村人たちが食べたこともないような食事とワインでもてなす。当初は、魔女の宴のようなとんでもないものを食べさせられると警戒していた村人も、味のわかる将軍を見倣ううちに揉め事も忘れて幸せな気持ちになる。
バベットはかつてパリの高級レストランの女料理長で、1万フランをこの宴のために使い切る。かつての牧師の教え、「天国に持っていけるのは、人に与えたものだけだ」が本作のテーマ。
後半は、海亀のスープに始まり、見ているだけで幸福感の味わえる美味しそうな映画で、食通ならずともフランス料理のフルコースを堪能できる。美味しい食事は人を幸福にするということを再確認できる。 (評価:3)
日本公開:1989年2月18日
監督:ガブリエル・アクセル 脚本:ガブリエル・アクセル 撮影:ヘニング・クリスチャンセン 音楽:ペア・ヌアゴー
キネマ旬報:2位
アカデミー外国語映画賞
原題は"Babettes gæstebud"で「バベットの宴」の意。デンマークのカレン・ブリクセンの同名小説が原作。アカデミー外国語映画賞を受賞。
19世紀のデンマークの寒村が舞台。バベットは教会の老姉妹の家で働く家政婦の名。パリ・コミューンで家族を失って亡命し、姉妹と知己のあったバリトン歌手の紹介で姉妹の家に身を寄せる。バリトン歌手は歌の才能がある妹に恋して歌唱法を教えたが、神に身を捧げた彼女を諦めてパリに帰っていた。同様に姉に恋した青年士官は、別の女性と結婚して今は将軍となっている。
清貧の暮らしを続けてきた姉妹たちだが、バベットが1万フランの宝くじを当てたことから、姉妹の父である死んだ牧師の生誕100年の祝宴にフランス料理を出させてほしいと懇願する。将軍を始め村人たちが宴に集まり、バベットはパリから食材を取り寄せ、村人たちが食べたこともないような食事とワインでもてなす。当初は、魔女の宴のようなとんでもないものを食べさせられると警戒していた村人も、味のわかる将軍を見倣ううちに揉め事も忘れて幸せな気持ちになる。
バベットはかつてパリの高級レストランの女料理長で、1万フランをこの宴のために使い切る。かつての牧師の教え、「天国に持っていけるのは、人に与えたものだけだ」が本作のテーマ。
後半は、海亀のスープに始まり、見ているだけで幸福感の味わえる美味しそうな映画で、食通ならずともフランス料理のフルコースを堪能できる。美味しい食事は人を幸福にするということを再確認できる。 (評価:3)
製作国:西ドイツ、アメリカ
日本公開:1989年3月4日
監督:パーシー・アドロン 製作:パーシー・アドロン、エレオノーレ・アドロン 脚本:パーシー・アドロン、エレオノーレ・アドロン 撮影:ベルント・ハインル 音楽:ボブ・テルソン
キネマ旬報:6位
『かもめ食堂』の原型を思わせる砂漠のオアシス映画
原題は"Out of Rosenheim"で「ローゼンハイムから抜け出して」の意。ローゼンハイムは主人公のドイツ人女性ヤスミンが住んでいる町。邦題のバグダッド・カフェは劇中に登場するアメリカの砂漠にある店の名前。
アメリカを旅行中のヤスミンはラスヴェガス近郊のモハーヴェ砂漠で夫と喧嘩して車を降り、ガソリンスタンドとカフェを併設したモーテルに投宿する。埃まみれのドライブインの女主人ブレンダは、夫や息子、店員たちに当たり散らしてばかり。カフェをきれいに掃除したヤスミンに、バグダッド・カフェの面々は次第に癒されていく。
ヤスミンは夫が土産に買った手品セットを使って手品を始め、ラスベガス・ショーより面白いと評判を呼び、ドライブインは盛況となる。しかし、ヤスミンのビザが切れ・・・
ヤスミンのおかげでカフェは砂漠の中のオアシスに変貌する。同時に、ヤスミンは砂漠のように乾いた人々のオアシスとなり、彼らを潤していく、というのが本作のコンセプト。観ている観客の心も潤していく。
観ていて気づくのは、『かもめ食堂』(2006)の原型が本作にあったのではないかと思えることで、非常によく似たシチュエーションとなっている。
ラストは気持ちの良いハッピーエンド。劇中の手品が楽しい。主題歌の"Calling You"がヒット。 (評価:3)
日本公開:1989年3月4日
監督:パーシー・アドロン 製作:パーシー・アドロン、エレオノーレ・アドロン 脚本:パーシー・アドロン、エレオノーレ・アドロン 撮影:ベルント・ハインル 音楽:ボブ・テルソン
キネマ旬報:6位
原題は"Out of Rosenheim"で「ローゼンハイムから抜け出して」の意。ローゼンハイムは主人公のドイツ人女性ヤスミンが住んでいる町。邦題のバグダッド・カフェは劇中に登場するアメリカの砂漠にある店の名前。
アメリカを旅行中のヤスミンはラスヴェガス近郊のモハーヴェ砂漠で夫と喧嘩して車を降り、ガソリンスタンドとカフェを併設したモーテルに投宿する。埃まみれのドライブインの女主人ブレンダは、夫や息子、店員たちに当たり散らしてばかり。カフェをきれいに掃除したヤスミンに、バグダッド・カフェの面々は次第に癒されていく。
ヤスミンは夫が土産に買った手品セットを使って手品を始め、ラスベガス・ショーより面白いと評判を呼び、ドライブインは盛況となる。しかし、ヤスミンのビザが切れ・・・
ヤスミンのおかげでカフェは砂漠の中のオアシスに変貌する。同時に、ヤスミンは砂漠のように乾いた人々のオアシスとなり、彼らを潤していく、というのが本作のコンセプト。観ている観客の心も潤していく。
観ていて気づくのは、『かもめ食堂』(2006)の原型が本作にあったのではないかと思えることで、非常によく似たシチュエーションとなっている。
ラストは気持ちの良いハッピーエンド。劇中の手品が楽しい。主題歌の"Calling You"がヒット。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1987年10月3日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:アート・リンソン 脚本:デヴィッド・マメット 撮影:スティーヴン・H・ブラム 音楽:エンニオ・モリコーネ
キネマ旬報:4位
渋い老警官役のショーン・コネリーに思わず唸る
原題は"The Untouchables"で、シカゴ・ギャングのアル・カポネを摘発するアメリカ財務省捜査官チームのこと。オスカー・フレイリーの同名ノンフィクションが原作で、1959-63年にテレビシリーズが制作され、日本でも放送された。
本作を見る際には、アル・カポネと禁酒法時代のアメリカについて知っておいた方が楽しめる。アル・カポネに牛耳られたシカゴにやってきたエリオット・ネスは、シカゴ市警から捜査官チームを編成、カポネの酒税法違反と脱税の摘発を試みるが、反撃に遭い、仲間を次々と失う。カポネの経理係を証人として確保し、裁判に持ち込む・・・と言った話。ラストは、カポネの有罪判決を勝ち取って終わるが、大筋では史実、全体はフィクションとなっている。
フィクション部分のシナリオはエンタテイメントとして楽しめるものになっていて、ネス役のケヴィン・コスナーの熱演、とりわけアカデミー助演男優賞のショーン・コネリーの老警官がいい。劇場公開時、それまで『007』の印象の強かったコネリーの一転して渋い演技に唸らされたことを覚えている。警官役のアンディ・ガルシア、カポネ役のロバート・デ・ニーロも見どころ。
乳母車が階段を落ちるシーンは『戦艦ポチョムキン』のオマージュ。アカデミー作曲賞のエンニオ・モリコーネの音楽もスリリング。 (評価:3)
日本公開:1987年10月3日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:アート・リンソン 脚本:デヴィッド・マメット 撮影:スティーヴン・H・ブラム 音楽:エンニオ・モリコーネ
キネマ旬報:4位
原題は"The Untouchables"で、シカゴ・ギャングのアル・カポネを摘発するアメリカ財務省捜査官チームのこと。オスカー・フレイリーの同名ノンフィクションが原作で、1959-63年にテレビシリーズが制作され、日本でも放送された。
本作を見る際には、アル・カポネと禁酒法時代のアメリカについて知っておいた方が楽しめる。アル・カポネに牛耳られたシカゴにやってきたエリオット・ネスは、シカゴ市警から捜査官チームを編成、カポネの酒税法違反と脱税の摘発を試みるが、反撃に遭い、仲間を次々と失う。カポネの経理係を証人として確保し、裁判に持ち込む・・・と言った話。ラストは、カポネの有罪判決を勝ち取って終わるが、大筋では史実、全体はフィクションとなっている。
フィクション部分のシナリオはエンタテイメントとして楽しめるものになっていて、ネス役のケヴィン・コスナーの熱演、とりわけアカデミー助演男優賞のショーン・コネリーの老警官がいい。劇場公開時、それまで『007』の印象の強かったコネリーの一転して渋い演技に唸らされたことを覚えている。警官役のアンディ・ガルシア、カポネ役のロバート・デ・ニーロも見どころ。
乳母車が階段を落ちるシーンは『戦艦ポチョムキン』のオマージュ。アカデミー作曲賞のエンニオ・モリコーネの音楽もスリリング。 (評価:3)
グッドモーニング、ベトナム
日本公開:1988年10月8日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:ラリー・ブレズナー、マーク・ジョンソン 脚本:ミッチ・マーコウィッツ 撮影:ピーター・ソーヴァ 音楽:アレックス・ノース
原題"Good Morning, Vietnam"で、主人公のDJがAFNのラジオ番組冒頭でする挨拶の言葉。AFNはAmerican Forces Networkのこと。
1965年、クレタ島からサイゴンに転属になった空軍兵士が型破りな放送で人気DJとなるものの、上官の不評を買い、友人となったベトナム少年がベトコンであったことから除隊となって本国に帰されるまでの物語。
赴任早々にアオザイのベトナム少女を追いかけ回すという軽薄さだが、次第にそれが本気だったということがわかっていく。風習を乗り越えて何とか彼女を振り向かせようとするものの、逆に立場の違いから友達になれないとふられて失意に沈む。GIバーでの人種差別に怒るなど、人種を越えた友情を優先するものの、敵味方に分かれた立場の違いは越えられない。
この時期に作られたベトナム戦争映画がアメリカ人にとってのベトナム戦争という視点から離れられないのに対し、本作はベトナム人にとってのベトナム戦争という視点が入っていて、ラストでは兵士は政治家の都合で送り込まれただけとは言うものの、ベトナムに送り込まれた米兵がベトナム人にとっては侵略者であるというところまで明確に踏み込めてなく、情緒的な反戦映画になってしまっているのが曖昧な印象を残す。
情報統制を敷く米軍に怒って、サイゴンのテロ事件を放送してDJを下ろされ、復活要請にも首を振る主人公が、前線に送られる兵士たちとの会話の中で自分の役割を自覚してDJに復帰するシーンが最大の見どころ。この時に会った兵士に呼びかけながら流すルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」と、戦争で村を焼かれるベトナム民衆の映像が心を打つ。
撮影はタイで行われ、アオザイの少女はタイ女優チンタラー・スカパットが演じている。
主人公にロビン・ウィリアムズ、相棒の黒人兵士フォレスト・ウィテカーがなかなかいい。 (評価:3)
神経衰弱ぎりぎりの女たち
日本公開:1989年10月7日
監督:ペドロ・アルモドバル 製作:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:ベルナルド・ボネッツィ
原題"Mujeres al borde de un ataque de nervios"で、邦題の意。
アルモドバルのブラック・コメディで、いきなりファッション雑誌風のグラビア写真とともに、あなたは私に死んでもらいたいというシニカルで妖しげな恋の歌が流れる。
盛りを過ぎた女優ペパ(カルメン・マウラ)は、仕事も恋人イバン(フェルナンド・ギリェン)との関係も不調。おまけに妊娠に気づいて、精神ボロボロで睡眠薬頼み。目が覚めずに吹替の仕事に遅刻するところから物語は始まる。共演のイバンは伝言を残して帰ってしまい、電話をすると旅行に出るという。
さては元恋人ルシア(フリエタ・セラーノ)が同伴かと思いきや、相手は新しい恋人。しかもテロリストを部屋に引き込んだ友人カンデラ(マリア・バランコ)、イバンの息子カルロス(アントニオ・バンデラス)と婚約者のマリサ(ロッシ・デ・パルマ)、カルロスの母ルシア(フリエタ・セラーノ)、テロリストを追う警官までが部屋にやってきてのてんやわんや。
20年前にイバンと別れてから精神病のルシアは、空港で旅立つイバンに恨みを晴らそうとするが、パぺが妨害。ヨリを戻そうとパぺに持ち掛けるイバンに、ルシアのようにはなりたくないと別れを告げるというラスト。
男に振り回される女たちをシニカルに描くが、スピーディに転がりながら予期せぬ展開に持っていくシナリオと演出がオシャレでポップ。 (評価:2.5)
製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1988年3月19日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:スタンリー・キューブリック 脚本:スタンリー・キューブリック、マイケル・ハー、グスタフ・ハスフォード 撮影:ダグラス・ミルサム 音楽:アビゲイル・ミード 美術:キース・ペイン、ロッド・ストラットフォード、レス・トムキンス
キネマ旬報:2位
海兵隊・戦争下の人間の狂気を描くがその先がない
原題"Full Metal Jacket"で、グスタフ・ハスフォードの半自伝的小説"The Short-Timers"が原作。full metal jacketは完全金属被甲弾、the short-timersは退役直前の軍人のこと。
full metal jacketは弾頭の変形を防ぐために真鍮で覆って貫通力を高めたもので、軍用ライフルで使われる実弾。前半では殺戮兵器として訓練されて精神がおかしくなった新兵、後半はフエの戦闘でベトコンの女スナイパーの象徴として描かれる。
見どころは前半の新兵訓練の教官ハートマン軍曹の速射砲の罵声、後半はフエでの戦闘シーン。主人公のジョーカーは上官にも物おじしない変人で、訓練生の班長に任命されて発狂した新兵の面倒を見、ベトナムでは報道員として前線に送られる。
キューブリックは海兵隊・戦争という異常な状況下で、精神の均衡を失っていく兵士たちの姿を描く。前半は過激な言葉による洗脳で、軍隊に限らず宗教やスポーツ・企業・自己啓発セミナーでも採られる手法。後半では、ベトコンの死体と記念写真を撮る米兵や農民を機関銃で掃射する米兵など、狂気が正気となった世界が描かれる。
そうした狂気の世界から日常の世界に戻っていった帰還兵が、当時アメリカの大きな社会問題となったが、本作は1975年のサイゴン陥落から12年後の製作・公開。狂気と戦争のその先にあるものが描かれてなく、ベトナム戦争という現実の出来事を扱ったことで、焦点がぼけた。人間の狂気以上のものが描かれていないことに物足りなさが残る。 (評価:2.5)
日本公開:1988年3月19日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:スタンリー・キューブリック 脚本:スタンリー・キューブリック、マイケル・ハー、グスタフ・ハスフォード 撮影:ダグラス・ミルサム 音楽:アビゲイル・ミード 美術:キース・ペイン、ロッド・ストラットフォード、レス・トムキンス
キネマ旬報:2位
原題"Full Metal Jacket"で、グスタフ・ハスフォードの半自伝的小説"The Short-Timers"が原作。full metal jacketは完全金属被甲弾、the short-timersは退役直前の軍人のこと。
full metal jacketは弾頭の変形を防ぐために真鍮で覆って貫通力を高めたもので、軍用ライフルで使われる実弾。前半では殺戮兵器として訓練されて精神がおかしくなった新兵、後半はフエの戦闘でベトコンの女スナイパーの象徴として描かれる。
見どころは前半の新兵訓練の教官ハートマン軍曹の速射砲の罵声、後半はフエでの戦闘シーン。主人公のジョーカーは上官にも物おじしない変人で、訓練生の班長に任命されて発狂した新兵の面倒を見、ベトナムでは報道員として前線に送られる。
キューブリックは海兵隊・戦争という異常な状況下で、精神の均衡を失っていく兵士たちの姿を描く。前半は過激な言葉による洗脳で、軍隊に限らず宗教やスポーツ・企業・自己啓発セミナーでも採られる手法。後半では、ベトコンの死体と記念写真を撮る米兵や農民を機関銃で掃射する米兵など、狂気が正気となった世界が描かれる。
そうした狂気の世界から日常の世界に戻っていった帰還兵が、当時アメリカの大きな社会問題となったが、本作は1975年のサイゴン陥落から12年後の製作・公開。狂気と戦争のその先にあるものが描かれてなく、ベトナム戦争という現実の出来事を扱ったことで、焦点がぼけた。人間の狂気以上のものが描かれていないことに物足りなさが残る。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1987年10月24日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット 脚本:ウディ・アレン 撮影:カルロ・ディ・パルマ 美術:サント・ロカスト 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:7位
娯楽の少なかった時代の温かい家庭の姿
原題"Radio Days"で、ラジオの日々。
ウディ・アレン自身のモノローグが被る少年時代の自伝風の作品で、第二次世界大戦の時代、ニューヨークのユダヤ人家庭が舞台。少年と一家の団欒の中心はラジオで、ラジオ番組や流れる音楽のエピソードをスケッチ風に描く。
ウディ・アレンらしい饒舌で風刺のきいたコメディで、真珠湾攻撃やUボートの出現などが戦争の影を落としながらも、深刻ぶらずに戦争を笑い飛ばし、戦争など関係のない顔をしてラジオと共に楽しい生活を送る少年と一家を描くという、ある種の反戦映画。
イスラエル建国募金を集める少年が、その金を玩具の購入に使い込んでしまうという非ユダヤ的ノンポリ精神もいい。
ラジオ界に憧れる煙草売りの少女をミア・ファローが演じるが、念願叶ったところで真珠湾攻撃に邪魔されるエピソードなど、ウディ・アレンの知的ギャグが楽しめる。
娯楽の少なかった時代の家族を通して、温かい家庭の在り方をノスタルジックに描いているのも見どころ。 (評価:2.5)
日本公開:1987年10月24日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット 脚本:ウディ・アレン 撮影:カルロ・ディ・パルマ 美術:サント・ロカスト 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:7位
原題"Radio Days"で、ラジオの日々。
ウディ・アレン自身のモノローグが被る少年時代の自伝風の作品で、第二次世界大戦の時代、ニューヨークのユダヤ人家庭が舞台。少年と一家の団欒の中心はラジオで、ラジオ番組や流れる音楽のエピソードをスケッチ風に描く。
ウディ・アレンらしい饒舌で風刺のきいたコメディで、真珠湾攻撃やUボートの出現などが戦争の影を落としながらも、深刻ぶらずに戦争を笑い飛ばし、戦争など関係のない顔をしてラジオと共に楽しい生活を送る少年と一家を描くという、ある種の反戦映画。
イスラエル建国募金を集める少年が、その金を玩具の購入に使い込んでしまうという非ユダヤ的ノンポリ精神もいい。
ラジオ界に憧れる煙草売りの少女をミア・ファローが演じるが、念願叶ったところで真珠湾攻撃に邪魔されるエピソードなど、ウディ・アレンの知的ギャグが楽しめる。
娯楽の少なかった時代の家族を通して、温かい家庭の在り方をノスタルジックに描いているのも見どころ。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1988年3月26日
監督:ノーマン・ジュイソン 製作:パトリック・パーマー、ノーマン・ジュイソン 脚本:ジョン・パトリック・シャンリー 撮影:デヴィッド・ワトキン、プロダクションデザイン、フィリップ・ローゼンバーグ 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:10位
アカデミー賞でも女に頭の上がらないイタリアの男たち
原題"Moonstruck"で、狂気じみたの意。特に恋愛を指す。
タイトルは月の光が狂気をもたらすという伝承からで、満月の晩のイタリア系アメリカ人一家の恋愛騒動を描くロマンティック・コメディ。
ニューヨークが舞台。夫を亡くした37歳のロレッタ(シェール)は、友人のジョニー(ダニー・アイエロ)にプロポーズされ承諾するが、ジョニーは母が危篤となったためシチリアに行くことになる。ジョニーと絶交している弟ロニー(ニコラス・ケイジ)への結婚式出席依頼をロレッタは託されるが、ここでMoonstruckとなり、ロニーと一夜を共にする。
メトロポリタン歌劇場にプッチーニ「ラ・ボエーム」の観劇デートに行くと、ロレッタの父コスモ(ヴィンセント・ガーディニア)と愛人(アニタ・ジレット)のデートに遭遇。夫の浮気に気づいている母ローズ(オリンピア・デュカキス)はレストランで出会ったプレイボーイの大学教授(ジョン・マホーニー)と食事を共にし、Moonstruckの夜は二晩続くが、二日とも満月というのはご愛敬。
マザコンのジョニーが婚約を報告した途端、危篤の母が回復して結婚できなくなり、ロレッタはロニーと、コスモは浮気をやめてハッピーエンドとなる。
ローズに浮気をやめるように言われたコスモが、人生に虚しさを感じて間違いを犯したと言い訳するのに対して、最後にイタリア語で返すローズの台詞がいい。
"Your life is not built on nothing. Ti amo."(あなたの人生は虚しくなんかないわ。私が愛しているもの)
イタリア人の母を中心とする家族のドタバタ劇と女に頭の上がらない男たちが可笑しく、シェールがアカデミー主演女優賞、オリンピア・デュカキスが助演女優賞し、ここでも女性上位を示している。 (評価:2.5)
日本公開:1988年3月26日
監督:ノーマン・ジュイソン 製作:パトリック・パーマー、ノーマン・ジュイソン 脚本:ジョン・パトリック・シャンリー 撮影:デヴィッド・ワトキン、プロダクションデザイン、フィリップ・ローゼンバーグ 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:10位
原題"Moonstruck"で、狂気じみたの意。特に恋愛を指す。
タイトルは月の光が狂気をもたらすという伝承からで、満月の晩のイタリア系アメリカ人一家の恋愛騒動を描くロマンティック・コメディ。
ニューヨークが舞台。夫を亡くした37歳のロレッタ(シェール)は、友人のジョニー(ダニー・アイエロ)にプロポーズされ承諾するが、ジョニーは母が危篤となったためシチリアに行くことになる。ジョニーと絶交している弟ロニー(ニコラス・ケイジ)への結婚式出席依頼をロレッタは託されるが、ここでMoonstruckとなり、ロニーと一夜を共にする。
メトロポリタン歌劇場にプッチーニ「ラ・ボエーム」の観劇デートに行くと、ロレッタの父コスモ(ヴィンセント・ガーディニア)と愛人(アニタ・ジレット)のデートに遭遇。夫の浮気に気づいている母ローズ(オリンピア・デュカキス)はレストランで出会ったプレイボーイの大学教授(ジョン・マホーニー)と食事を共にし、Moonstruckの夜は二晩続くが、二日とも満月というのはご愛敬。
マザコンのジョニーが婚約を報告した途端、危篤の母が回復して結婚できなくなり、ロレッタはロニーと、コスモは浮気をやめてハッピーエンドとなる。
ローズに浮気をやめるように言われたコスモが、人生に虚しさを感じて間違いを犯したと言い訳するのに対して、最後にイタリア語で返すローズの台詞がいい。
"Your life is not built on nothing. Ti amo."(あなたの人生は虚しくなんかないわ。私が愛しているもの)
イタリア人の母を中心とする家族のドタバタ劇と女に頭の上がらない男たちが可笑しく、シェールがアカデミー主演女優賞、オリンピア・デュカキスが助演女優賞し、ここでも女性上位を示している。 (評価:2.5)
製作国:デンマーク、スウェーデン
日本公開:1989年6月24日
監督:ビレ・アウグスト 脚本:ビレ・アウグスト 撮影:イェリエン・ペルション 音楽:ステファン・ニルソン
キネマ旬報:9位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭パルム・ドール
デンマーク風味のプロレタリア文学の香り
原題"Pelle erobreren"で、勝利者ペレの意。ペレは主人公の少年の名。マーティン・アンダーソンの同名小説が原作。
19世紀末のデンマークのボーンホルム島が舞台。ペレと年老いた父親は貧困から抜け出せると夢見てスウェーデンから移民船で上陸するものの老人と子供を雇うものはなく、農場の牛番に雇われて過酷な労働を強いられるという物語。
冒頭からプロレタリア文学臭がプンプンしていて先の2時間半が思いやられるのだが、プロレタリア文学なりに、北欧の自然の厳しさや貧しさ、とりわけスウェーデンよりは南のデンマークの方がまだマシという未知の事実や、農奴に近い農場労働者への扱い、教師や牧師の文化程度の低さに興味が奪われて、時間も忘れて最後まで見続けてしまう。
もっとも作品的にはプロレタリア文学以上のものはなく、移民への差別と貧困を眺めながら同情の涙を流すしかない。
勤勉で頭もよく、一所懸命デンマーク語も習得したペレは農場主の奥様の覚えめでたく、農場労働者をマネージメントする監督助手に任命されるのだが、かつて自由人になって一緒にアメリカに渡ろうと誓ったエリックが事故から役立たずとなり、農場を追われるのを目にして、自分もまた農場を出て新世界を目指すことを決心する。
ラストシーンは老いて新世界を目指すことの出来ない父を残して、ペレが決然として農場を旅立つシーンで終わるが、海岸線を歩くだけで船もないのが気になって、はたしてペレが勝利者となれるのかどうかが気になって仕方がないが、立身出世や経済的成功を収めることが勝利ではなく、搾取の縛めを解き放って自由人になることこそが勝利なのだというプロレタリアート的価値観に気が付けば、原題の意味も理解できる。
ペレを演じる ペレ・ベネゴー少年が可愛い。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞。 (評価:2.5)
日本公開:1989年6月24日
監督:ビレ・アウグスト 脚本:ビレ・アウグスト 撮影:イェリエン・ペルション 音楽:ステファン・ニルソン
キネマ旬報:9位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Pelle erobreren"で、勝利者ペレの意。ペレは主人公の少年の名。マーティン・アンダーソンの同名小説が原作。
19世紀末のデンマークのボーンホルム島が舞台。ペレと年老いた父親は貧困から抜け出せると夢見てスウェーデンから移民船で上陸するものの老人と子供を雇うものはなく、農場の牛番に雇われて過酷な労働を強いられるという物語。
冒頭からプロレタリア文学臭がプンプンしていて先の2時間半が思いやられるのだが、プロレタリア文学なりに、北欧の自然の厳しさや貧しさ、とりわけスウェーデンよりは南のデンマークの方がまだマシという未知の事実や、農奴に近い農場労働者への扱い、教師や牧師の文化程度の低さに興味が奪われて、時間も忘れて最後まで見続けてしまう。
もっとも作品的にはプロレタリア文学以上のものはなく、移民への差別と貧困を眺めながら同情の涙を流すしかない。
勤勉で頭もよく、一所懸命デンマーク語も習得したペレは農場主の奥様の覚えめでたく、農場労働者をマネージメントする監督助手に任命されるのだが、かつて自由人になって一緒にアメリカに渡ろうと誓ったエリックが事故から役立たずとなり、農場を追われるのを目にして、自分もまた農場を出て新世界を目指すことを決心する。
ラストシーンは老いて新世界を目指すことの出来ない父を残して、ペレが決然として農場を旅立つシーンで終わるが、海岸線を歩くだけで船もないのが気になって、はたしてペレが勝利者となれるのかどうかが気になって仕方がないが、立身出世や経済的成功を収めることが勝利ではなく、搾取の縛めを解き放って自由人になることこそが勝利なのだというプロレタリアート的価値観に気が付けば、原題の意味も理解できる。
ペレを演じる ペレ・ベネゴー少年が可愛い。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞。 (評価:2.5)
潮風のいたずら
日本公開:1988年5月28日
監督:ゲイリー・マーシャル 製作:アレクサンドラ・ローズ、アンシア・シルバート 脚本:レスリー・ディクソン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:アラン・シルヴェストリ
原題"Overboard"で、「船外へ」の意。
高慢と偏見な富豪夫人(ゴールディ・ホーン)が、所有する豪華クルーザーから海に落ちて記憶喪失。その性格から変人扱いされて精神病院に入れられ身元捜しが始まり、クルーザーの改装で痛い目を見た大工(カート・ラッセル)が夫と名乗りを上げて、4人のコブ付きあばら家でコキ使って復讐を始める・・・というお話。
家事などしたことのない富豪夫人が良きママ、良き妻に変貌していき、苛めていた大工も子供もいつの間にか彼女を愛するようになる。そこに本物の夫(エドワード・ハーマン)が現れ、女も記憶を取り戻し、大工の不実を責めてクルーザーで去っていくが、それが虚飾の生活だと気付いた女と、思いを断ち切れない大工一家が心を同じにするという、ファンタスティックなハッピーエンド。
冒頭の富豪夫人はすぐにはゴールディ・ホーンとはわからないくらいの可愛げのない高慢女。病院、あばら家でのギャップのある行動がコミカルで、それまでの作品とは方向性の違ったコメディ女優の本領を発揮する。
物語自体は定型的で、コメディだから許されるお伽噺だが、魅力的なゴールディ・ホーンの夫カート・ラッセルとの息の合った演技が、それらを超越した楽しい作品にしている。
冒頭、ゴールディ・ホーンの水着姿が度肝を抜く。 (評価:2.5)
製作国:香港
日本公開:劇場未公開
監督:スタンリー・クワン 製作:ジャッキー・チェン 脚本:ヤウタイ・オンピン、リー・ピクワー 撮影:ビル・ウォン 音楽:マイケル・ライ
幽霊女のアナクロ感と浮遊感が見どころの伝奇ホラー
原題"胭脂扣"で、劇中に出てくるボタン状の紅入れのこと。リー・ピクワーの同名小説が原作。
中国の古典伝奇小説風の作品で、50年前に良家のボンボン(レスリー・チャン)と心中した遊女(アニタ・ムイ)が、あの世で何年待っても相手がやってこないので、現世に探しにくるというもの。
最初に訪れたのが新聞社で、尋ね人の広告を出そうというから話は昭和というか清朝のセピア色の時代か。
作品もセピア色がかっていて、影の薄い幽霊女も儚げで良い。
幽霊と知った新聞社の男(アレックス・マン)は事情を聞いて家に泊めてやり、同僚の恋人(エミリー・チュウ)とボンボンの消息を追う。
死に損なったボンボンは、憧れの京劇役者を目指したが人生に失敗し、今は見すぼらしい裏方老人。後を追わなかった恨みか、それとも無惨な姿に失望してか、幽霊女はボンボンに貰って大切にしていた紅入れを返し、あの世へと帰っていく。
心中シーンが粗雑なのと、人探しの過程がご都合主義だが、幽霊女のアナクロ感がコミカルで、アニタ・ムイの浮遊感が見どころの伝奇ホラー。 (評価:2.5)
日本公開:劇場未公開
監督:スタンリー・クワン 製作:ジャッキー・チェン 脚本:ヤウタイ・オンピン、リー・ピクワー 撮影:ビル・ウォン 音楽:マイケル・ライ
原題"胭脂扣"で、劇中に出てくるボタン状の紅入れのこと。リー・ピクワーの同名小説が原作。
中国の古典伝奇小説風の作品で、50年前に良家のボンボン(レスリー・チャン)と心中した遊女(アニタ・ムイ)が、あの世で何年待っても相手がやってこないので、現世に探しにくるというもの。
最初に訪れたのが新聞社で、尋ね人の広告を出そうというから話は昭和というか清朝のセピア色の時代か。
作品もセピア色がかっていて、影の薄い幽霊女も儚げで良い。
幽霊と知った新聞社の男(アレックス・マン)は事情を聞いて家に泊めてやり、同僚の恋人(エミリー・チュウ)とボンボンの消息を追う。
死に損なったボンボンは、憧れの京劇役者を目指したが人生に失敗し、今は見すぼらしい裏方老人。後を追わなかった恨みか、それとも無惨な姿に失望してか、幽霊女はボンボンに貰って大切にしていた紅入れを返し、あの世へと帰っていく。
心中シーンが粗雑なのと、人探しの過程がご都合主義だが、幽霊女のアナクロ感がコミカルで、アニタ・ムイの浮遊感が見どころの伝奇ホラー。 (評価:2.5)
007 リビング・デイライツ
日本公開:1987年12月19日
監督:ジョン・グレン 製作:アルバート・R・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン 脚本:リチャード・メイボーム、マイケル・G・ウィルソン 撮影:アレック・ミルズ 音楽:ジョン・バリー
原題"The Living Daylights"。劇中の台詞"I must have scared the living daylights out of her."(彼女を気を失うほど怖がらせたに違いない)から採られたタイトルで、正気・意識のこと。イアン・フレミングの同名の短編小説(邦題:ベルリン脱出)が原作。
4代目ボンド、ティモシー・ダルトンの第1作(シリーズ第15作)らしく、アクションにもシナリオにも力の入った好編。
ジブラルタルでの訓練中に004が殺害され、"Death to Spies"のメッセージが残される。冒頭シーンで暗殺者の車にボンドが飛び乗って戦うシーンが度肝を抜くカーアクションで、1車線しかない崖際の道を猛スピードで走り抜ける。
場面は変わって、ソ連の将軍の亡命を手伝うため、名指しされたボンドがチェコスロバキアに潜入。KGB女性スナイパーの妨害を防いで天然ガスのパイプラインの掃除用ポッドでオーストリアに亡命させるアイディアが新鮮。
亡命将軍から米英スパイ抹殺計画の機密情報を得るが、将軍はKGBに奪回され、ボンドはKGBの首領プーシキンの暗殺指令を受ける。裏に別の陰謀があると睨んだボンドは、表はチェリストの顔を持つKGB女性スナイパーに接近・・・というストーリー。
背景にソ連の公金横領事件と、それを隠蔽するための陰謀、武器・麻薬商人の存在と、ストーリーは無駄なく、チェコスロバキア、オーストリア、モロッコ、アフガニスタンと異国情緒溢れる観光も楽しめる。但し、スロバキアとアフガンの撮影は、オーストリアとモロッコ。
改造アストンマーティンで、雪山を駆け回るシーンは、007シリーズらしくハチャメチャで、Qの秘密兵器など007シリーズの楽しさが復活。シリアスなスパイドラマとアクションもしっかり作られて、007の楽しさが充満している。
アフガニスタンのシーンでは、ボンドがソ連軍に抵抗するムジャヒディンの支援を受けてソ連基地を脱出してパキスタンに逃れるシーンがあり、ムジャヒディンを好意的に描いているが、後にタリバーンに転化したことを考えると、こんなエンタテイメント作品の中にも歴史の皮肉があることに複雑な思いがする。
ボンドとボンドガールの関係も普通にラブストーリーっぽくて、ティモシー・ダルトンのボンドが女たらしに見えず、女たらしだという台詞や設定が少々浮いている。 (評価:2.5)
誰かに見られてる
日本公開:1988年3月26日
監督:リドリー・スコット 製作:リドリー・スコット 脚本:ハワード・フランクリン 撮影:スティーヴン・ポスター 音楽:マイケル・ケイメン
原題"Someone to Watch Over Me"で、私を見守る人の意。
殺人の目撃証人の女を犯人の手から守る役目を任された刑事の物語で、ストックホルム症候群と似たような心理からか、女は刑事に、刑事は女に好意を持ち、疑似恋愛感情を抱いてしまう。
もっとも作品の中では疑似恋愛とは描かれてなく、それぞれに夫と妻子を持つ身ながら愛し合い、それが禁断の愛と知って泣く泣く別れるという悲恋仕立てになっている。
ロマンチック犯罪スリラーという分類で、禁断の愛に嵌っていく二人のロマンス、犯人の影に怯える女と刑事の恐怖とそれぞれによくできていて、リドリー・スコットらしい楽しめる作品になっている。
女がマンハッタンの高級マンションに住む上流階級で、一方の刑事はブロンクスに住む労働者階級という身分の違いを超えて二人が愛し合うというのが見どころで、主な舞台となる高級マンションが超豪華で度肝を抜かれる。
高級女クレアを演じるミミ・ロジャースは役どころに相応しい知的美人。庶民派刑事マイクにトム・ベレンジャー、同じく庶民妻にロレイン・ブラッコ。犯人ベンザのアンドレアス・カツーラスが典型的な悪人面なのがいい。
エンタテイメントとしては気軽に楽しめるが、ベンザが違法逮捕で殺人罪を免れているのに、やらなくてもいい殺人の罪を重ねようとするのが最大のツッコミどころ。もっとも演出のテンポがいいので、それを忘れてしまう。 (評価:2.5)
ビバリーヒルズ・コップ 2
日本公開:1987年7月11日
監督:トニー・スコット 製作:ドン・シンプソン、ジェリー・ブラッカイマー 脚本:ラリー・ファーガソン、ウォーレン・スカーレン 撮影:ジェフリー・L・キンボール 音楽:ハロルド・フォルターメイヤー
原題は"Beverly Hills Cop 2"で、前作の続編。
デトロイト警察に戻ったアクセル(エディ・マーフィー)はアメックスのカード偽造集団の潜入捜査中。取引相手が前回の煙草密売犯の兄貴と振りもある。ボゴミルは警部補から警部に昇進しているが、強盗団に撃たれて重傷。そのニュースを知ったアクセルが再びビバリーヒルズ警察を訪れると、ローズウッドとタガートの2人は交通課に配転されていて、3人で規則違反の捜査を始める。ガンクラブが強盗団の隠れ蓑で、アクセルは彼らに命を狙われるが、逆に手がかりを得て銀行強盗を妨害。競馬場の集金所を襲った一味をミキサー車で追跡するシーンが爽快。武器密輸倉庫での銃撃戦はロケット砲も飛び出す爽快さ・・・
カーアクションやドンパチも派手で楽しく、ローズウッドは前回アクセルの影響を受けてかなり危なくなっているのも可笑しい。ただその分、小技の効いたビバリーヒルズ風の小洒落たギャグが影を潜めたのが残念。ローズウッド・タガート組とアクセルのミスマッチが面白さの原点で、2人がアクセルと同じになってしまってはつまらない。 (評価:2.5)
さよなら子供たち
日本公開:1988年12月17日
監督:ルイ・マル 製作:ルイ・マル、マラン・カルミッツ 脚本:ルイ・マル 撮影:レナート・ベルタ 音楽:フランツ・シューベルト、サン=サーンス
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Au revoir les enfants"で、邦題の意。ナチス占領下のフランス寄宿学校での出来事を描いたルイ・マルの自伝的作品。
クリスマス休暇が終わってジュリアンが兄とともに修道院の寄宿学校に戻ると、転校生のボネが隣のベッドになる。ボネは数学からピアノまで得意な優等生で父は会計士。先生が庇うような態度を取り、両親が音信不通なことから、ボネが偽名でユダヤ人だとわかる。
二人は次第に親しくなりという友情物語となるが、ルイ・マルらしい少年の繊細な心理描写と叙情が詩的に描かれていく。12歳のジュリアンが寝小便で悩むというエピソードも、子供と大人の狭間にいる少年の心の機微を描いて上手い。
綻びは、食堂で働く異教徒の少年ジョセフが、ジュリアンら寄宿生たちと配給不足の食料品の闇取引していたことから生じる。それがバレてジョセフは解雇となり、その恨みから神父たちがユダヤ人少年を匿っていることをゲシュタポに密告し、ナチス協力者の仕事を得る。
ゲシュタポがやってきてボネらユダヤ人と校長が逮捕され、40年経った今もその朝のことを忘れられないというジュリアンのモノローグで終わる。
『ルシアンの青春』(1963)同様、ナチス占領下のフランスを舞台にした、戦争がもたらす市井の人々の哀しい姿を映し出すが、そのヒューマンドラマに甘美さを伴うのがルイ・マルらしい。 (評価:2.5)
製作国:香港
日本公開:1988年3月12日
監督:リッキー・リュウ 脚本:シートゥ・チャホン、ロー・ウェンキョン 撮影:アンドリュー・ラウ 音楽:アンダース・ネルソン
『七人の侍』も登場してワイヤーアクション炸裂
原題は""靈幻先生""で、「霊幻さん」の意。主役はキョンシーから幽霊一般と妖術師に移る。
キョンシーの兄弟を仲間にして、キョンシー退治と称して生活費を稼ぐ道士が、悪い女妖術師一味と戦っている村にやってくる。その村にはシリーズ主役のミン道士がいて、キョンシー詐欺で食っているこの情けない道士を懲らしめ、キョンシー兄弟と別れさせることにする。ところが女妖術師一味がやってきて兄mpキョンシーを連れ去り、道士二人対女妖術師一味の戦いとなる。
相変わらずの香港コメディーで、前二作に比べるとアクションもギャグもパワーアップ。息つく間もなくアクションとギャグが繰り出され、アイディアとバラエティに富んでいるので退屈せずに楽しめる。
前半で妖術師たちが村を襲うシーンは、『七人の侍』で盗賊が村を襲う場面のオマージュ。村人たちが罠を張って待ちかまえ、襲ってきた妖術師たちが策略に嵌って返り討ちになるシーンはそっくりそのまま。
ミン同士の童貞の尿が妖術師を退散させるのは『処女の生血』、フライに揚げかけたキョンシーが半生の衣をまとったマシュマロマンになって暴れるのは『ゴーストバスターズ』を彷彿させるなど、パクリもここまで来ると立派なパロディ。
妖術師を剣で切る場面は結構残酷で、両手を前に出してピョンピョン跳びはねるキョンシー独特の動きはワイヤーアクション優先で影を潜め、前二作に馴染んだファンには違和感があるかもしれない。それでも同一シリーズで一作ごとに趣向を変え、それぞれにB級エンタメコメディの完成度の高い作品を送り出してくる監督のリッキー・ラウには脱帽する。
(評価:2.5)
日本公開:1988年3月12日
監督:リッキー・リュウ 脚本:シートゥ・チャホン、ロー・ウェンキョン 撮影:アンドリュー・ラウ 音楽:アンダース・ネルソン
原題は""靈幻先生""で、「霊幻さん」の意。主役はキョンシーから幽霊一般と妖術師に移る。
キョンシーの兄弟を仲間にして、キョンシー退治と称して生活費を稼ぐ道士が、悪い女妖術師一味と戦っている村にやってくる。その村にはシリーズ主役のミン道士がいて、キョンシー詐欺で食っているこの情けない道士を懲らしめ、キョンシー兄弟と別れさせることにする。ところが女妖術師一味がやってきて兄mpキョンシーを連れ去り、道士二人対女妖術師一味の戦いとなる。
相変わらずの香港コメディーで、前二作に比べるとアクションもギャグもパワーアップ。息つく間もなくアクションとギャグが繰り出され、アイディアとバラエティに富んでいるので退屈せずに楽しめる。
前半で妖術師たちが村を襲うシーンは、『七人の侍』で盗賊が村を襲う場面のオマージュ。村人たちが罠を張って待ちかまえ、襲ってきた妖術師たちが策略に嵌って返り討ちになるシーンはそっくりそのまま。
ミン同士の童貞の尿が妖術師を退散させるのは『処女の生血』、フライに揚げかけたキョンシーが半生の衣をまとったマシュマロマンになって暴れるのは『ゴーストバスターズ』を彷彿させるなど、パクリもここまで来ると立派なパロディ。
妖術師を剣で切る場面は結構残酷で、両手を前に出してピョンピョン跳びはねるキョンシー独特の動きはワイヤーアクション優先で影を潜め、前二作に馴染んだファンには違和感があるかもしれない。それでも同一シリーズで一作ごとに趣向を変え、それぞれにB級エンタメコメディの完成度の高い作品を送り出してくる監督のリッキー・ラウには脱帽する。
(評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1988年11月26日
監督:リンゼイ・アンダーソン 製作:キャロリン・ファイファー、マイク・カプラン 脚本:デヴィッド・ベリー 撮影:マイク・ファッシュ 音楽:アラン・ブライス
キネマ旬報:4位
鯨の夢を見続けるべきかどうかを問う老婆の物語
原題は""The Whales of August""。
アメリカ東海岸、カナダに近いメイン州の海辺に建つサラの別荘が舞台。季節は8月だが、上着の必要な気候。19世紀初頭、別荘で華やぐ娘たちのモノトーン映像から一転、90歳前後の老婆となった姉妹の淡々とした物語となる。
リビーは白内障で目が見えず、娘とうまくいっていないらしくサラの世話になっている。リビーは気難しく、出入りの修理工や訪ねてくる近隣の人たちにもずけずけと本音でしか応対しない。サラが居間の窓を大きくしたいと言っても、残された人生は短いから必要ないと反対する。
この窓と鯨が本作のキーワードで、モノトーン映像のエピソードで、海に鯨が見えるかどうかと娘たちがはしゃぐシーンがある。鯨は若い娘たちにとって未来の希望であり、老いた姉妹にとっては失われた光の象徴となっている。
盲目の姉にとって鯨を見ることは二度と叶わず、老いて人生は死を待つだけのものとなっている。一方の妹は再び鯨を目にしたいと願っていて、そのために居間の窓を大きくしようと思う。この姉妹の残された老後に対する正反対のベクトルが本作のテーマで、それが姉妹・隣人たちとの会話を通して語られる。
サラの亡き夫との結婚記念日に際し、生きる希望を持ち続けるサラの気持ちを理解したリビーは、窓を大きくすることを修理工に頼む。老いてなお、鯨の夢を見続けることの大切さを描く佳編だが、はたして誰に向けた映画なのかという疑問も残る。
希望を失いかけた若い人にこそ見てもらいたいのかもしれないが、これからの人生は長すぎるし、この老境を理解するのは難しい。さりとて余命少ない老人がはたして見るのか?
出演時、サラを演じたリリアン・ギッシュ93歳、リビーのベティ・デイビスは79歳。ギッシュはとても93歳には見えないくらいに若々しく、老いてなお可愛いのが驚き。 (評価:2.5)
日本公開:1988年11月26日
監督:リンゼイ・アンダーソン 製作:キャロリン・ファイファー、マイク・カプラン 脚本:デヴィッド・ベリー 撮影:マイク・ファッシュ 音楽:アラン・ブライス
キネマ旬報:4位
原題は""The Whales of August""。
アメリカ東海岸、カナダに近いメイン州の海辺に建つサラの別荘が舞台。季節は8月だが、上着の必要な気候。19世紀初頭、別荘で華やぐ娘たちのモノトーン映像から一転、90歳前後の老婆となった姉妹の淡々とした物語となる。
リビーは白内障で目が見えず、娘とうまくいっていないらしくサラの世話になっている。リビーは気難しく、出入りの修理工や訪ねてくる近隣の人たちにもずけずけと本音でしか応対しない。サラが居間の窓を大きくしたいと言っても、残された人生は短いから必要ないと反対する。
この窓と鯨が本作のキーワードで、モノトーン映像のエピソードで、海に鯨が見えるかどうかと娘たちがはしゃぐシーンがある。鯨は若い娘たちにとって未来の希望であり、老いた姉妹にとっては失われた光の象徴となっている。
盲目の姉にとって鯨を見ることは二度と叶わず、老いて人生は死を待つだけのものとなっている。一方の妹は再び鯨を目にしたいと願っていて、そのために居間の窓を大きくしようと思う。この姉妹の残された老後に対する正反対のベクトルが本作のテーマで、それが姉妹・隣人たちとの会話を通して語られる。
サラの亡き夫との結婚記念日に際し、生きる希望を持ち続けるサラの気持ちを理解したリビーは、窓を大きくすることを修理工に頼む。老いてなお、鯨の夢を見続けることの大切さを描く佳編だが、はたして誰に向けた映画なのかという疑問も残る。
希望を失いかけた若い人にこそ見てもらいたいのかもしれないが、これからの人生は長すぎるし、この老境を理解するのは難しい。さりとて余命少ない老人がはたして見るのか?
出演時、サラを演じたリリアン・ギッシュ93歳、リビーのベティ・デイビスは79歳。ギッシュはとても93歳には見えないくらいに若々しく、老いてなお可愛いのが驚き。 (評価:2.5)
製作国:中国
日本公開:1989年1月27日
監督:チャン・イーモウ 原作:モー・イェン 脚本:チェン・チェンユイ、チュー・ウェイ、モー・イェン 撮影:クー・チャンウェイ 音楽:ツァオ・チピン
キネマ旬報:3位
ベルリン映画祭金熊賞
中国では反日映画にしかならないのが残念なところ
原題は"紅高粱"で邦題の意。
中国山東省が舞台で、物語は支那事変前から始まる。酒蔵を営む癩病の老人にロバ1頭と引き換えに嫁いだ娘が、雇人と出来て、男は老人を殺して酒蔵を継ぐ。やがて男の子が生まれるまでが前半物語で、文芸作品風な展開となる。
ところが男の子が9歳になり、日中戦争前後に話が移ると、テーマは抗日運動に変わってしまい、日本軍の横暴と残虐さというステレオタイプな描写とエピソードが中心となり、正直辟易する。主人公の女主人は従業員全員を先導して抗日運動に身を投じ、コーリャン畑で待ち伏せするが夫と長男を残して玉砕するという抗日ヒロイズムで終わる。
本作はこの長男の息子のナレーションを通して語られるが、この孫は一切登場せず、人物も語られない。つまりは中国の現世代が祖父母の物語=日本による侵略を思い起こすという形式になっていて、日本流にいえば戦争体験を語り継ぐドラマでしかない。
前半の牧歌的な時代が中国にとっての良き時代だったのかどうかはともかく、輿に乗っての嫁入りやコーリャン畑の中での交合、新酒を神に捧げる祝詞などはノスタルジック。もっとも、出来立てのコーリャン酒に小便をかけたら偶然に美酒となり、この酒蔵の名酒となったという話は、日本人の感覚からはとてもいただけない。
前半で登場の非道な山賊も、後半日本軍によって匪賊として殺される段になると共産匪ともども英雄になってしまうのも、国策映画っぽい。
酒蔵で醸造されるのがコーリャン酒で、赤い色をしていることからタイトルとなっているが、実際のコーリャン酒は無色透明で、しかも火がつく描写からも度数の高い蒸留酒。それを大人ばかりか子供までがぶ飲みして、おまけに火炎瓶代わりにして日本軍の車両を爆発・炎上させるのだから、いくら中国映画とはいえ無茶苦茶な話。
ベルリン国際映画祭で金熊賞を獲ったのが不思議だが、冒頭の暗闇に浮かぶ白い点がフェードインしていくと娘の瞳の光に変わるシーンは秀逸。
コーリャン畑のシーンなど映像的には見どころも多いが、中国では反日映画にしかならないのが残念なところ。 (評価:2.5)
日本公開:1989年1月27日
監督:チャン・イーモウ 原作:モー・イェン 脚本:チェン・チェンユイ、チュー・ウェイ、モー・イェン 撮影:クー・チャンウェイ 音楽:ツァオ・チピン
キネマ旬報:3位
ベルリン映画祭金熊賞
原題は"紅高粱"で邦題の意。
中国山東省が舞台で、物語は支那事変前から始まる。酒蔵を営む癩病の老人にロバ1頭と引き換えに嫁いだ娘が、雇人と出来て、男は老人を殺して酒蔵を継ぐ。やがて男の子が生まれるまでが前半物語で、文芸作品風な展開となる。
ところが男の子が9歳になり、日中戦争前後に話が移ると、テーマは抗日運動に変わってしまい、日本軍の横暴と残虐さというステレオタイプな描写とエピソードが中心となり、正直辟易する。主人公の女主人は従業員全員を先導して抗日運動に身を投じ、コーリャン畑で待ち伏せするが夫と長男を残して玉砕するという抗日ヒロイズムで終わる。
本作はこの長男の息子のナレーションを通して語られるが、この孫は一切登場せず、人物も語られない。つまりは中国の現世代が祖父母の物語=日本による侵略を思い起こすという形式になっていて、日本流にいえば戦争体験を語り継ぐドラマでしかない。
前半の牧歌的な時代が中国にとっての良き時代だったのかどうかはともかく、輿に乗っての嫁入りやコーリャン畑の中での交合、新酒を神に捧げる祝詞などはノスタルジック。もっとも、出来立てのコーリャン酒に小便をかけたら偶然に美酒となり、この酒蔵の名酒となったという話は、日本人の感覚からはとてもいただけない。
前半で登場の非道な山賊も、後半日本軍によって匪賊として殺される段になると共産匪ともども英雄になってしまうのも、国策映画っぽい。
酒蔵で醸造されるのがコーリャン酒で、赤い色をしていることからタイトルとなっているが、実際のコーリャン酒は無色透明で、しかも火がつく描写からも度数の高い蒸留酒。それを大人ばかりか子供までがぶ飲みして、おまけに火炎瓶代わりにして日本軍の車両を爆発・炎上させるのだから、いくら中国映画とはいえ無茶苦茶な話。
ベルリン国際映画祭で金熊賞を獲ったのが不思議だが、冒頭の暗闇に浮かぶ白い点がフェードインしていくと娘の瞳の光に変わるシーンは秀逸。
コーリャン畑のシーンなど映像的には見どころも多いが、中国では反日映画にしかならないのが残念なところ。 (評価:2.5)
リーサル・ウェポン
日本公開:1987年6月13日
監督:リチャード・ドナー 製作:リチャード・ドナー、ジョエル・シルヴァー 脚本:シェーン・ブラック 撮影:スティーヴン・ゴールドブラット 音楽:マイケル・ケイメン、エリック・クラプトン
原題"Lethal Weapon"で、致死的な武器の意。主人公のリッグス刑事のこと。
人間兇器のリッグス刑事を演じるメル・ギブソンの出世作『マッドマックス』(1979)に、『夜の大捜査線』(1967)、『48時間』(1982)の黒人・白人コンビのバディ・ムービーの要素を加えた作品で、コンビを組むのはLA市警殺人課のマータフ部長刑事(ダニー・グローヴァー)。
リッグスは妻を事故で亡くし、死んでも構わないという意識で仕事をする自暴自棄な設定で、麻薬課から殺人課に異動。マータフと売春婦自殺事件を追う中で、生きることの大切さを取り戻していくという物語。
粗削りな設定でマッドなバイオレンスの勢いで突っ走るというシナリオは『マッドマックス』を継承していて、刑事2人が麻薬組織と派手な銃撃戦を演じているのに、なんで市警は応援に登場しないのかとか、マータフの家族が誘拐されているのに、なんで市警は傍観しているのかとか、組織や取引情報を隠滅するのに2人を殺しただけで片が付くのかとか、ストーリーは相当に大味。
それでもマッドリッグスがスクリーンで大暴れする姿を描き、ハリウッド版『マッドマックス』を再現できればいいという作品で、本家ほどの突き抜け感はないものの、マッドな感覚にはなっていて、興行的には成功し続編が3本作られた。
いきなりの爆発シーンや銃撃戦、家に突っ込むパトカー、走る車に体当たりするヘリコプターなど、マッドでアナーキーな感覚に浸れる。 (評価:2.5)
製作国:イギリス
日本公開:1988年3月5日
監督:クライヴ・バーカー 製作:クリストファー・フィッグ 脚本:クライヴ・バーカー 撮影:ロビン・ヴィジョン 音楽:クリストファー・ヤング
ビジュアル系ロックバンド風悪魔連中が楽しい
原題は"Hellraiser"で、地獄を引き起こす者といった意味。原作は小説家でもある監督のクライヴ・バーカーの""The Hellbound Heart""。(地獄に繋がれた心臓)。
究極の性的官能を得ることができるというルービック・キューブみたいな立方体、ルマルシャンの箱がモチーフで、謎の東洋人の老人からこれを買った主人公のフランクは箱の変形・組み換えに成功。地獄に繋がる異世界と悪魔たちを呼びよせ、自身は挽肉となって消滅する。
究極の性的官能が何なのか最後までよくわからないが、この挽肉になる瞬間がそうなのかもしれないと最後に感じさせるシーンがある。
フランクの空き家に弟夫婦が引っ越してくるが、再婚で継母と娘はうまくいってない。妻(継母)は再婚してすぐに義兄のフランクと関係を持ち、フランクはどうやら性の求道者らしいという設定。それがルマルシャンの箱に結びついていく。
引越し中に弟が怪我をし、床に流れた血を吸った無形のフランクが有形へと再生し始め、初めは骨格にヌメヌメだけが張り付いた感じだったのが、愛人の弟妻の協力ですけべ男たちを誘惑して家に誘い込んだのを撲殺させ、その血を吸って肉体を取り戻す。それでも皮膚が足りないと、ついには弟を殺して何故か弟のコピー人間になってしまう。
弟妻がいくらか過去の愛人とはいえ、気色悪いヌメヌメ化け物のために殺人を犯すのも不自然なら、なんで弟の皮膚が必要なのか? 皮膚だけもらってなんで容姿が弟になってしまうのか? 弟は化け物の兄が住む無茶苦茶広い部屋になんで立ち入らないのか? そもそもその部屋をなんで空き部屋にしておくのか? その部屋に兄がいるのに気付かない弟はよほど能天気か? 追い詰められた娘は、隠れていたのになんでわざわざフランクがいるところに出てくるの?
そうしたB級ホラーらしいヌケはたくさんあるが、化け物の造形は頑張っていて、悪魔たちはビジュアル系ロックバンド風で楽しい。演出はお約束の部分も多いが、ヌケも含めて楽しめるホラー。
嵐が去ると、消えたはずのルマルシャンの箱を取引する新たな場面に転換して、ネバー・エンディング・ストーリー風に終わる。そうした制作者の期待通り、シリーズが8作まで作られている。 (評価:2.5)
日本公開:1988年3月5日
監督:クライヴ・バーカー 製作:クリストファー・フィッグ 脚本:クライヴ・バーカー 撮影:ロビン・ヴィジョン 音楽:クリストファー・ヤング
原題は"Hellraiser"で、地獄を引き起こす者といった意味。原作は小説家でもある監督のクライヴ・バーカーの""The Hellbound Heart""。(地獄に繋がれた心臓)。
究極の性的官能を得ることができるというルービック・キューブみたいな立方体、ルマルシャンの箱がモチーフで、謎の東洋人の老人からこれを買った主人公のフランクは箱の変形・組み換えに成功。地獄に繋がる異世界と悪魔たちを呼びよせ、自身は挽肉となって消滅する。
究極の性的官能が何なのか最後までよくわからないが、この挽肉になる瞬間がそうなのかもしれないと最後に感じさせるシーンがある。
フランクの空き家に弟夫婦が引っ越してくるが、再婚で継母と娘はうまくいってない。妻(継母)は再婚してすぐに義兄のフランクと関係を持ち、フランクはどうやら性の求道者らしいという設定。それがルマルシャンの箱に結びついていく。
引越し中に弟が怪我をし、床に流れた血を吸った無形のフランクが有形へと再生し始め、初めは骨格にヌメヌメだけが張り付いた感じだったのが、愛人の弟妻の協力ですけべ男たちを誘惑して家に誘い込んだのを撲殺させ、その血を吸って肉体を取り戻す。それでも皮膚が足りないと、ついには弟を殺して何故か弟のコピー人間になってしまう。
弟妻がいくらか過去の愛人とはいえ、気色悪いヌメヌメ化け物のために殺人を犯すのも不自然なら、なんで弟の皮膚が必要なのか? 皮膚だけもらってなんで容姿が弟になってしまうのか? 弟は化け物の兄が住む無茶苦茶広い部屋になんで立ち入らないのか? そもそもその部屋をなんで空き部屋にしておくのか? その部屋に兄がいるのに気付かない弟はよほど能天気か? 追い詰められた娘は、隠れていたのになんでわざわざフランクがいるところに出てくるの?
そうしたB級ホラーらしいヌケはたくさんあるが、化け物の造形は頑張っていて、悪魔たちはビジュアル系ロックバンド風で楽しい。演出はお約束の部分も多いが、ヌケも含めて楽しめるホラー。
嵐が去ると、消えたはずのルマルシャンの箱を取引する新たな場面に転換して、ネバー・エンディング・ストーリー風に終わる。そうした制作者の期待通り、シリーズが8作まで作られている。 (評価:2.5)
製作国:台湾
日本公開:1989年11月11日
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:ウー・ニェンツェン、チュー・ティエンウェン 撮影:リー・ピンビン 音楽:チェン・ミンジャン
キネマ旬報:8位
スクリーンの中の風景もまた風塵のように儚い
原題"戀戀風塵"で風塵のような恋の意。
1960年頃の台湾の山村が舞台で、幼馴染の二人の淡く儚い恋物語を少年の視線から描く。
鉱山の貧しい村で育った二人は中学を卒業すると相次いで台北に上京して働き始める。その二人が兄妹のように支え合って生きる姿を淡々と描いていく。
やがて少年が兵役に取られ、台湾海峡での警護に当たるあたりから物語は変化を見せ、便りが途絶えた結果、少女は郵便配達の青年と結婚したことがわかり、少年は号泣、2年の兵役を終えて何事もなく村に帰ってお終いという、これまた淡々としたラストを迎える。
些細な出来事ばかりが続く、この山もオチもない淡々とした物語に共感できれば、おそらく最後にしんみりとした感動を残すのだろうが、シンクロできないと見ているうちに意識が風塵と化してくる。
トンネルを抜ける鉄道や山村、海浜などの素朴な風景や、台北駅のシーンなど、思わずじんわりとくる映像は素晴らしく、少年を演じる王晶文、少女を演じる辛樹芬をはじめ、村人たちも素朴で長閑な気分にさせてくれるが、その長閑さとともに意識も長閑になってしまって、ついうとうとしてしまう。
しかし、少女はなぜ少年の帰りを待たずに郵便配達の青年と結婚してしまったのか。それを描くと生々しくなるというのが理由なら、本作に描かれる恋は所詮ファンタジーでしかなく、スクリーンの中の風景もまた風塵のように儚い。 (評価:2)
日本公開:1989年11月11日
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:ウー・ニェンツェン、チュー・ティエンウェン 撮影:リー・ピンビン 音楽:チェン・ミンジャン
キネマ旬報:8位
原題"戀戀風塵"で風塵のような恋の意。
1960年頃の台湾の山村が舞台で、幼馴染の二人の淡く儚い恋物語を少年の視線から描く。
鉱山の貧しい村で育った二人は中学を卒業すると相次いで台北に上京して働き始める。その二人が兄妹のように支え合って生きる姿を淡々と描いていく。
やがて少年が兵役に取られ、台湾海峡での警護に当たるあたりから物語は変化を見せ、便りが途絶えた結果、少女は郵便配達の青年と結婚したことがわかり、少年は号泣、2年の兵役を終えて何事もなく村に帰ってお終いという、これまた淡々としたラストを迎える。
些細な出来事ばかりが続く、この山もオチもない淡々とした物語に共感できれば、おそらく最後にしんみりとした感動を残すのだろうが、シンクロできないと見ているうちに意識が風塵と化してくる。
トンネルを抜ける鉄道や山村、海浜などの素朴な風景や、台北駅のシーンなど、思わずじんわりとくる映像は素晴らしく、少年を演じる王晶文、少女を演じる辛樹芬をはじめ、村人たちも素朴で長閑な気分にさせてくれるが、その長閑さとともに意識も長閑になってしまって、ついうとうとしてしまう。
しかし、少女はなぜ少年の帰りを待たずに郵便配達の青年と結婚してしまったのか。それを描くと生々しくなるというのが理由なら、本作に描かれる恋は所詮ファンタジーでしかなく、スクリーンの中の風景もまた風塵のように儚い。 (評価:2)
悪魔の陽の下に
日本公開:1988年12月10日
監督:モーリス・ピアラ 製作:ダニエル・トスカン・デュ・プランティエ 脚本:シルヴィー・ダントン、モーリス・ピアラ 撮影:ウィリー・クラン 音楽:アンリ・デュティエ
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Sous le Soleil de Satan"で、邦題の意。ジョルジュ・ベルナノスの同名小説が原作。
懺悔を聞くうちに人々に内在する悪を知ってしまった神父が、神と悪魔の間で煩悶し、最後は魂を売って善行を施すという宗教物語。
1920年代のフランス北部の片田舎が舞台で、助祭のドニサン神父(ジェラール・ドパルデュー)は司祭に叙階されたばかり。悪に打ち克つために自らの体に鞭打ち、血まみれになりながら修行している。
使いに出て荒野を旅する途中で悪魔に遭遇。誘惑を退けるものの読心の超能力を与えられてしまう。
そこで出会うのが放埒娘のムシェット(サンドリーヌ・ボネール)で、男関係の揉め事から殺人を犯していて、読心術を得たドニサンは忽ちムシェットの悪行を知ることになる。
これぞ悪魔の真の誘惑で、ムシェットが呪われた存在だと伝え、自殺に追いやってしまう。神の救いを求めてムシェットの遺体を祭壇に運ぶが、自殺はキリスト教では最大の罪で、ドニサンは修道院に追放。しかし悪魔の誘惑は続き、病死した子供を母親のために生き返らせる。
村人たちはドニサンを奇跡を起こした聖人だと崇めるが、悪魔の力を借りて起こした奇跡は罪なのか? という問いかけを残し、魂を売ったドニサンは告解室で息絶える…
整理すればこんなストーリーなのだが、各シーンの描写は不明瞭かつ不親切で、話の筋が掴みにくい。全体はドニサン神父の主観で語られているため、悪魔の登場もムシェットとの出会いも、それが幻想なのか現実なのか判然としない。
ところが前半のムシェットのエピソードだけがドニサン神父を離れた客観のため、二人が出会うまでは全く別の作品を見させられたようで繋がりが悪い。
キリスト教における悪がテーマで、神と悪魔という二項対立について疑問を投げかける。ドニサン神父は人間に内在する悪を徹底的に省察した結果、悪魔を呼び寄せたのであり、悪魔の誘惑はすなわち神の試練でもあって、そこに二分法は成立しない。
死んだドニサン神父は悪魔に魂を売った罪人なのか、はたまた奇跡を起こした聖人なのか…ということでカンヌ映画祭のパルムドールを受賞したが、なんちゃって仏教徒である日本人には縁遠いテーマか。
ドニサンを教え導く主任司祭のスグレ神父を、監督のモーリス・ピアラが演じていて、なかなか味のある演技。 (評価:2)
製作国:香港
日本公開:1989年1月14日
監督:チン・シウトン 製作:ツイ・ハーク 脚本:ユエン・カイチー 撮影:プーン・ハンサン、サンダー・リー、ウォン・ウィンハン、トム・ラウ 音楽:ロメオ・ディアズ、ジェームズ・ウォン
美しい女幽霊との冒険ラブストーリー
原題は"倩女幽魂"。倩女は美しい女、幽魂は幽霊のこと。英題は"A Chinese Ghost Story"。怪異譚を集めた中国古典『聊斎志異』の中の『聶小倩』が原作。
集金のために旅をする書生が幽霊・妖怪の出没する荒れ寺の蘭若寺に泊まる。聶小倩(シッ・シウシン)という美女の幽霊が現れるが、純朴な書生に惚れてしまい、書生を喰おうとする千年樹の妖怪ロウロウから守る。これに妖怪退治の道士が絡み、聶小倩を成仏させるための妖怪たちとの戦いとなるというお話。
設定はホラーだが、香港映画らしくコミカルな演出+アクション+お色気がメイン。なかでも聶小倩が長い薄衣を棚引かせながら空中を舞うシーンがファンタジックで、本作が評価されたのもこれによる。物語自体は冗長で、アクションがメインになる後半はこれといった工夫もなく退屈。
ホラーとしては少しも怖くなく、一言でいえば幽霊との冒険ラブストーリー。相手が幽霊だけにスリリングで決して叶うことのない悲恋物語。見どころは聶小倩役の台湾女優・王祖賢の美貌とコミカルなエピソード。
香港返還前の映画で、現代中国の四千年の拝金主義の原点を知ることができる。中国では地獄の沙汰も金次第で、冥界で使える紙幣があるが、本作にも出てくる。中国の冥界思想についての知識があるとより楽しめる。 (評価:2)
日本公開:1989年1月14日
監督:チン・シウトン 製作:ツイ・ハーク 脚本:ユエン・カイチー 撮影:プーン・ハンサン、サンダー・リー、ウォン・ウィンハン、トム・ラウ 音楽:ロメオ・ディアズ、ジェームズ・ウォン
原題は"倩女幽魂"。倩女は美しい女、幽魂は幽霊のこと。英題は"A Chinese Ghost Story"。怪異譚を集めた中国古典『聊斎志異』の中の『聶小倩』が原作。
集金のために旅をする書生が幽霊・妖怪の出没する荒れ寺の蘭若寺に泊まる。聶小倩(シッ・シウシン)という美女の幽霊が現れるが、純朴な書生に惚れてしまい、書生を喰おうとする千年樹の妖怪ロウロウから守る。これに妖怪退治の道士が絡み、聶小倩を成仏させるための妖怪たちとの戦いとなるというお話。
設定はホラーだが、香港映画らしくコミカルな演出+アクション+お色気がメイン。なかでも聶小倩が長い薄衣を棚引かせながら空中を舞うシーンがファンタジックで、本作が評価されたのもこれによる。物語自体は冗長で、アクションがメインになる後半はこれといった工夫もなく退屈。
ホラーとしては少しも怖くなく、一言でいえば幽霊との冒険ラブストーリー。相手が幽霊だけにスリリングで決して叶うことのない悲恋物語。見どころは聶小倩役の台湾女優・王祖賢の美貌とコミカルなエピソード。
香港返還前の映画で、現代中国の四千年の拝金主義の原点を知ることができる。中国では地獄の沙汰も金次第で、冥界で使える紙幣があるが、本作にも出てくる。中国の冥界思想についての知識があるとより楽しめる。 (評価:2)
右側に気をつけろ
日本公開:1989年1月28日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 音楽:リタ・ミツコ
原題"Soigne ta droite"で、邦題の意。
白痴と呼ばれる公爵(ジャン=リュック・ゴダール)が1日で1本の映画を完成させるという電話の指示を受けて、最後はフィルムを上映するという流れはあるが、スタジオでレコーディングする男女、フィルムを奪う提督夫妻、押し合いへし合いのジェット機の乗客たち、サッカー場での虐殺と、脈絡のない17~18のエピソードが繋ぎ合わされ、よくわからないままに終わる。
ゴダールらしいコミカルなシーンのパッチワークで、理解するのではなく感じてほしいという趣旨をゴダール自身が語っているが、感性の鈍い者にはわけのわからない時間を過ごすだけのことになる。
もっともそれでもつい映画に魅入ってしまうというのがゴダールで、このわけのわからなさこそが感じ取るべきことなのだと考えれば、わけのわからないなりにわけがわかる。
飛行機の中で公爵が読むのがドストエフスキーの『白痴』で、公爵も白痴らしく奇態な行動をとるが、善人かどうかはともかく、みんな考えようなどとせずに白痴になれば、この悪意に満ちた世の中を渡っていけるというゴダールなりのメッセージなのかもしれない。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1988年10月29日
監督:キャスリン・ビグロー 製作:スティーヴン=チャールズ・ジャッフェ 脚本:エリック・レッド、キャスリン・ビグロー 撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:タンジェリン・ドリーム
美少女も10億年後には原生吸血鬼になっている
原題"Near Dark"で、ほぼ暗黒の意。
農場の青年ケリブ(エイドリアン・パスダー)が、ドライブインで見かけた美少女メイ(ジェニー・ライト)に一目惚れ。家に送ると言ってナンパするが、オオカミになったのは美少女の方で、キスを求められて首に吸血鬼のキスをしてしまうというお話。
メイには吸血鬼の仲間がいて大型バンで移動しながら獲物を狩っているが、吸血鬼となったケイブは人間を狩ることができず、メイに血をもらって空腹を満たすというチキン、吸血鬼的にはNear Dark。
それでも二人の間に愛が芽生え、モーテルで警官隊に包囲されるピンチに、ケイブの決死の脱出で仲間として認められるも、妹と父が連れ戻しにきて、ケイブはメイより家族を選ぶ。
家に戻ったケイブは血液交換で人間に戻るが、吸血鬼の一人が妹を攫ったため追跡。戦いとなって吸血鬼たちは全滅するが、メイを助け出して血液交換。メイもかつては人間で、人間同士のカップルに戻って、めでたしめでたし。
吸血鬼も血液交換で人間に戻れるというのが斬新といえば斬新で、吸血鬼カップルが人間に戻ってハッピーエンドというのがポジティブで新鮮だが、吸血鬼映画としての恐怖も耽美もない。
星空のデートで、メイが10億年経っても生きているというセリフがあるが、人類の誕生はたかだか700万年。
10億年前には細菌程度の生命しかなく、10億年後に吸血鬼が地球に生息できているのか、生息していたとしても吸血鬼も著しい進化を遂げていて、メイも原生吸血鬼と化しているのでは? と無粋なことを考えて、ラブロマンスに水を差してしまう。 (評価:2)
日本公開:1988年10月29日
監督:キャスリン・ビグロー 製作:スティーヴン=チャールズ・ジャッフェ 脚本:エリック・レッド、キャスリン・ビグロー 撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:タンジェリン・ドリーム
原題"Near Dark"で、ほぼ暗黒の意。
農場の青年ケリブ(エイドリアン・パスダー)が、ドライブインで見かけた美少女メイ(ジェニー・ライト)に一目惚れ。家に送ると言ってナンパするが、オオカミになったのは美少女の方で、キスを求められて首に吸血鬼のキスをしてしまうというお話。
メイには吸血鬼の仲間がいて大型バンで移動しながら獲物を狩っているが、吸血鬼となったケイブは人間を狩ることができず、メイに血をもらって空腹を満たすというチキン、吸血鬼的にはNear Dark。
それでも二人の間に愛が芽生え、モーテルで警官隊に包囲されるピンチに、ケイブの決死の脱出で仲間として認められるも、妹と父が連れ戻しにきて、ケイブはメイより家族を選ぶ。
家に戻ったケイブは血液交換で人間に戻るが、吸血鬼の一人が妹を攫ったため追跡。戦いとなって吸血鬼たちは全滅するが、メイを助け出して血液交換。メイもかつては人間で、人間同士のカップルに戻って、めでたしめでたし。
吸血鬼も血液交換で人間に戻れるというのが斬新といえば斬新で、吸血鬼カップルが人間に戻ってハッピーエンドというのがポジティブで新鮮だが、吸血鬼映画としての恐怖も耽美もない。
星空のデートで、メイが10億年経っても生きているというセリフがあるが、人類の誕生はたかだか700万年。
10億年前には細菌程度の生命しかなく、10億年後に吸血鬼が地球に生息できているのか、生息していたとしても吸血鬼も著しい進化を遂げていて、メイも原生吸血鬼と化しているのでは? と無粋なことを考えて、ラブロマンスに水を差してしまう。 (評価:2)
友だちの恋人
日本公開:1988年7月9日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:ベルナール・リュティック 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
原題"L'ami de mon amie"で、私の友達の友達の意。
私ことブランシュ(エマニュエル・ショーレ)はレア(ソフィー・ルノワール)と友達になり、友達で恋人のファビアン(エリック・ヴィラール)を紹介される。ブランシュが片思いするアレクサンドル(フランソワ・エリック・ゲンドロン)はファビアンの友達で、つまり友達の友達(恋人)の友達。
ところがファビアンはブランシュが好きになり、ブランシュもアレクサンドルよりファビアンが気に入ってしまい、友達の友達(元恋人)を恋人にしてしまう。一方レアもアレクサンドルと気が合ってしまい、友達(元恋人)の友達を恋人に。友達(ブランシュ)の片思いの友達を友達にしたともいえる。
つまり友達の友達はみな友達だ、世界に広げよう友達の輪、輪っ! という「笑っていいとも」ロメール版で、ついでに友達はみんな恋人だ! というのがフランス流。
フランス流のお洒落なスワッピングみたいで、痴話喧嘩にも修羅にもならずメデタシメデタシで丸く納まってしまうのもフランス流エスプリ。
腰の抜けるラブストーリーで、見終わってどうでもいいくだらないドラマを見て時間を無駄にした気になるが、不思議と退屈しないのが凄い。教訓もなければ得るものもない、ただの暇つぶしのドラマだが、こんなふやけたドラマを見てほっこり幸せな気分になれる恋愛中毒のフランス人が羨ましくもなる。 (評価:2)
スペースボール
日本公開:1988年6月11日
監督:メル・ブルックス 製作:メル・ブルックス 脚本:メル・ブルックス トーマス・ミーハン、ロニー・グレアム 撮影:ニック・マクリーン 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ジョン・モリス
原題"Spaceballs"。劇中に登場する架空の星の名は"Spaceball"で単数形。"balls"には卑俗で睾丸の意味もあり、宇宙のキンタマとも解せる。
メル・ブルックスらしい下ネタ満載のSFコメディで、『スター・ウォーズ』を中心に『エイリアン』『トランスフォーマー』『猿の惑星』のパロディが繰り広げられる。
もっともパロディが面白いかというとそうでもなく、単なるおふざけで、定型的なギャグと下ネタで笑わす程度で、志は相当に低い。
ストーリーは、大気を使い果たしたスペースボール星の大統領(メル・ブルックス)以下指導者たちが、ドルイデア星の大気を奪うためのコードを王(ディック・ヴァン・パタン)から聞き出すため、王女(ダフネ・ズニーガ)を誘拐。王から依頼を受けたローン・スター(ビル・プルマン)と相棒の獣人バーフ(ジョン・キャンディ)が王女を救出。ついでにローンと王女が仲良くなり、ハネムーンという段取り。
王女がレイア姫、ローンがハン・ソロ、獣人がチューバッカとわかりやすいが、それ以上のものはない。ほかに聖者ヨーグルト(ヨーダ)、ダーク・ヘルメット(ダース・ベイダー)、ドット・マトリックス(C-3PO)、ピザ・ザ・ハット(ジャバ・ザ・ハット)と、笑いのセンスに付いていけない。
敢えて見どころを探すとなると、精緻なスペースボール星の巨大宇宙船くらいで、ILMが特撮に加わっている。 (評価:2)
ロボコップ
日本公開:1988年2月11日
監督:ポール・ヴァーホーヴェン 製作:アーン・シュミット 脚本:エドワード・ニューマイヤー、マイケル・マイナー 撮影:ヨスト・ヴァカーノ 特撮:フィル・ティペット 音楽:ベイジル・ポールドゥリス
原題"RoboCop"で、robot+copの造語のロボット警官と思いきや、意外にもサイボーグ警官という設定のゆるいSF作品。
その設定のゆるさは1980年代の作品だということを置いても随所にあって、そもそも死亡した警官のマーフィが何故ロボコップに選ばれたのかが皆目わからない。さらには、ED-209なる完全なロボット警官を開発中であるにも関わらず、なんでサイボーグなのかという理由が語られず、結局は殺されたマーフィーの復讐劇とするためのご都合主義な設定でしかない。
ロボット警官というアイディアと黒づくめのカッコいいデザインが売りのB級SFと割り切れば、アメコミ程度の満足感は得られるが、『ターミネーター』や『マトリックス』などと比べれば遥かに劣る。
もっとも、映画そのものはヒットして続編2作が作られ、2014年にはリメイクされているので、SF作品作品というよりはアメコミ的アクション作品として支持されたのかもしれない。
劇中生身のマーフィが両腕を吹っ飛ばされるなどの残虐シーンも盛り沢山で、ロボコップやED-209を開発して警察業務も受託しているコングロマリット企業の経営者も、ゴッサムシティのような出世のためには殺人も辞さない悪人ばかりという、これまたアメコミ張りの設定。
ED-209とCMに登場する恐竜のようなものがアニメーションで動くが、動きは不自然で、コングロマリット企業の悪玉がビルから落下するシーンの合成もちゃちくて、特撮技術もB級。唯一のヒロインとなるマーフィの相棒のアン(ナンシー・アレン)が美貌の点でもB級なのが寂しい。 (評価:2)
スーパーマンIV/最強の敵
日本公開:1987年12月19日
監督:シドニー・J・フューリー 製作:メナハム・ゴーラン、ヨーラン・グローバス、ピエール・スペングラー、イリヤ・サルキンド 脚本:ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール 撮影:アーネスト・デイ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題は"Superman IV: The Quest for Peace"で、「平和の探求」。シリーズ第4作で打ち止めとなった。
邦題の最強の敵は、スーパーマンの遺伝子を核ミサイルで太陽にぶち込み、太陽エネルギーから誕生したNuclear Man(核人間)のこと。体からは電気のようなエネルギーを発し、弱点は陽が陰ること。
核人間を誕生させるのはレックス・ルーサー(ジーン・ハックマン)で、目的はスーパーマンの破壊。一方、デイリープラネットは社主が変わり、イエローペーパー路線に転換。社主の娘が社長となるが、ケントを好きになってしまい、考えを変えていく。ロイスを含む恋愛コメディ的要素も強く、見どころはこの2点。シナリオはどちらも30分TVドラマ程度で、映画のストーリーとしては退屈。
特異な点としては、全体に核廃絶がテーマとなっていて、スーパーマンが米ソの核ミサイルを収集して太陽に送ること。スーパーマンが国連総会で演説するなど、政治的なのが果たして娯楽映画としてどうなのかという点は残る。
社主の娘役のマリエル・ヘミングウェイは文豪ヘミングウェイの孫娘で、デビュー作『リップスティック』(1976年)で話題になった。役どころとしては嫌な女だが、ロイス同様、これまた美人度に欠ける。 (評価:2)
プレデター
日本公開:1987年6月28日
監督:ジョン・マクティアナン 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー、ジョン・デイヴィス 脚本:ジェームズ・E・トーマス、ジョン・C・トーマス 撮影:ドナルド・マカルパイン 音楽:アラン・シルヴェストリ
原題"Predator"は、捕食者の意。
アーノルド・シュワルツェネッガー率いる特殊部隊が、中南米で撃墜されたヘリの人質救出に向かいゲリラ・キャンプを殲滅するが、脱出中に謎の生命体に襲われるというのがストーリー。
これが宇宙生物プレデターで、半透明でジャングルの樹間を跳び回り、実態を表すと甲殻類のような顔をしている。二足歩行で人型、手もあるということから、知的能力を備えた宇宙人のイメージ。視覚は熱で見分ける赤外線、流す血は緑色でヘモグロビンを持たない非哺乳類型、正体不明のエネルギー球を発して攻撃するが、人間を捕食して餌とする。
肉食の割には食べ残しが多いのは、グロさを控えたのか、正体不明感を出すために映像効果を狙ったのか?
透明な時には背景をレンズのように歪ませて、映像的には面白いが、ストーリーがあまりに陳腐なため退屈。
唯一の見どころは、シュワちゃんの筋肉で、冒頭、CIAの友達と腕相撲をするシーン。腕の力瘤が尋常ではない盛り上がり方をするのは異形と言ってもよく、エイリアンはプレデターではなくシュワちゃんではないかとさえ思える。
凡作にもかかわらずヒットして、続編やエイリアンと戦う作品も制作された。 (評価:2)