海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1958年

製作国:アメリカ
日本公開:1958年12月25日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ウィリアム・ワイラー、グレゴリー・ペック 脚本:ジェームズ・R・ウェッブ、サイ・バートレット、ロバート・ワイルダー 撮影:フランツ・F・プラナー 音楽:ジェローム・モロス
キネマ旬報:1位

テーマの非暴力を暴力で片付ける雄大な西部の大らかさ
 ドナルド・ハミルトンの小説"The Big Country"が原作。字幕では広大な西部と訳されていて、1870年代のテキサス州サンラファエルが舞台。
 広大な荒野のバックに流れる雄大な曲は、西部劇音楽としてもよく知られていて、作品自体も西部劇の名作とされるが、アカデミーでは作品賞にノミネートすらされていない。バール・アイヴスのアカデミー助演男優賞のみで、暴力否定という西部劇らしからぬテーマがアメリカ人の歴史観に馴染まなかったのか。
 三つ揃いのスーツに山高帽を被った主人公(グレゴリー・ペック)が駅馬車でテキサスの婚約者(キャロル・ベイカー)の家にやってくる。西部の男たちは軟弱そうな東部紳士の主人公を手荒く迎えるが、彼は挑発に乗らない。そんな彼を周囲も婚約者もふがいないと感じ、婚約は破棄される。婚約者の父の農場主は谷間の農場主(バール・アイヴス)と水利を巡って対立していて、その水源の権利は農場主の父を亡くした女教師(ジーン・シモンズ)が持っているが、主人公は両家の仲裁のために女教師から牧場を買い取る。ここで大体の設定が出尽くし、結末はほぼ読める展開。
 暴力ではなく理性を求める主人公に3つの試練が与えられるが、人前では軟弱と言われようが理性的な言動をとるのに、隠れて荒馬に乗ったり、タイマン勝負をしたり、コソコソ牧場を手に入れるというのは如何なものか? 終盤では西洋の伝統的決闘に臨むなど、やはりアメリカン・トラディショナルなヒーロー像にはウィリアム・ワイラーといえども従わざるを得なかったということか。
 非暴力をテーマとしながらも、暴力によって結末をつけるのが男らしさという結末は、映画として破綻しているが、制作当時としてはこれがアメリカ映画の限界か。バール・アイヴスの名演もあって気持ちよく騙されてしまうが、暴力ですべてを清算して、これからは新しい世代の時代がやって来るという象徴的ラストの、The Big Countryの雄大さに目眩まされてはいけない。
 キャロル・ベイカーを慕う牧童頭のチャールトン・ヘストンがなかなか渋い。 (評価:3)

めまい

製作国:アメリカ
日本公開:1958年10月7日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:アレック・コペル、サミュエル・テイラー 撮影:ロバート・バークス 音楽:バーナード・ハーマン

シスコ、ヒッチコック、キム・ノヴァクの映像美鑑賞
 ピエール・ボワロー、トマ・ナルスジャックの『死者の中から』が原作。ヒッチコック作品の中でも評価が高い。
 ラストに大どんでん返しが用意されているが、ミステリーとしては穴も多いし、主人公の心理描写も不自然。完璧に騙されていた主人公が、最後にまるで見ていたような謎解きをするのにも唖然とする。多少ご都合主義的なところがあるが、しかし、それでもテンポの良い展開は決して退屈させない。
 この映画の見どころはむしろ映像にあって、冒頭の警官が墜死、鐘楼のシーンはかなり印象的。途中、アニメーションを使った特殊効果など実験的な映像も多く、サンフランシスコ湾岸の道を2台の車が走る長回しの1ショットや、当時のサンフランシスコの街並みや風景、建物も美しい。アカデミー美術賞を受賞している。金髪、グラマーの当時の典型的なアメリカ美女、キム・ノヴァクの魅力爆発で、こちらも見どころといえるか。 (評価:3)

左きゝの拳銃

製作国:アメリカ
日本公開:1958年6月6日
監督:アーサー・ペン 製作:フレッド・コー 脚本:レスリー・スティーヴンス 撮影:ペヴァレル・マーレイ 音楽:アレクサンダー・カレッジ

生一本の孤独な青年をポール・ニューマンが好演
 原題"The Left Handed Gun"で邦題の意。ゴア・ヴィダルのテレビ脚本"The Death of Billy the Kid"(1955)が原作で、同作でもポール・ニューマンが主人公のビリー・ザ・キッドを演じた。
 西部劇で有名なアウトロー、ビリー・ザ・キッドの生涯を描いた作品で、ポール・ニューマン主演、アーサー・ペン監督というのが最大の見どころ。
 左利きの早撃ちガンマンの青年が、腕を見込まれて牛商人に雇われるが、雇用主が保安官と組んだ商売敵に殺されたことから義憤にかられ、相手を次々に殺しにした挙句、お尋ね者となって逃げ回り、捕まって縛り首になるところを脱走、最後は撃ち殺されてしまうまでの生涯を描く。
 文盲で身寄りがなく、生一本の孤独な青年をポール・ニューマンが好演し、アウトローに追い込まれていく青年の悲劇性を際立たせる。
 アクションよりも人間性に重点を置いたアーサー・ペンの演出も一味違った西部劇にしていて、見応えのあるドラマになっている。
 友人の美人妻と情を交わしていたことがバレたキッドが、絶望して死を望み、最後は丸腰のまま旧知の保安官に対峙、銃を抜く真似をして殺されるシーンがキッドに相応しくクールなのがいい。 (評価:3)

製作国:イギリス
日本公開:1958年8月2日
監督:テレンス・フィッシャー 製作:アンソニー・ハインズ 脚本:ジミー・サングスター 撮影:ジャック・アッシャー 美術:バーナード・ロビンソン 音楽:ジェームズ・バーナード

吸血鬼映画のエロティシズムを確立させた名作
 原題"Dracula"で、劇中の吸血鬼の名。ブラム・ストーカーの同名小説が原作。
 原作とは設定が若干違っていて、プロローグはジョナサン・ハーカーがドラキュラ伯爵を吸血鬼と知っていて、退治するために城にやって来る。
 もっともドラキュラの僕の女吸血鬼を退治した直後に、ドラキュラに血を吸われて呆気なく退場。ハーカーの友人ヴァン・ヘルシング博士(ピーター・カッシング)が主人公となる。
 ハーカーの消息を確かめに城を訪れるが、ドラキュラはハーカーの婚約者ルーシー(キャロル・マーシュ)を餌食にするために去った後。ルーシーはすでに血を吸われて体が弱り、ヘルシングの大蒜作戦も失敗して吸血鬼に。
 ドラキュラはルーシーの母ミナ(メリッサ・ストリブリング)を攫ってドラキュラ城へ。夫アーサー(マイケル・ガフ)と救出に向かったヘルシングがドラキュラを追い詰め、退治に成功する。棺に戻れず、朝日を浴びて灰となるラストシーンは屈指の名場面で、初見以来目に焼き付いている。
 本作の最大の見どころはドラキュラ役のクリストファー・リーで、登場するだけで背筋が震える。プロローグで血を吸う前からドラキュラが涎のように口の周りを真っ赤にしているのは戴けないが、ドラキュラ映画初のカラー作品ということもあっての印象的な演出か。
 ドラキュラが歯を剥く恐ろしい表情や、マントを翻して獲物に覆い被さる演技は、クリストファー・リーならではの名演。
 ベッドに横たわる美女ルーシーの枕元に立ち、互いにうっとりとした表情を見せる淫靡さが、吸血鬼映画のエロティシズムを確立させた。
 ドラキュラは大蒜、十字架、太陽の光が苦手、退治するためには胸に杭を打ち込むか太陽の光で灰にする、吸血鬼に噛まれると僕となり、失血して死ぬとアン・デッドの吸血鬼になるという基本原則を確立したのも本作の功績。 (評価:3)

女はそれを待っている

製作国:スウェーデン
日本公開:1960年09月03日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:ギュスタ・ハンマルベック 脚本:ウルラ・イザクソン 撮影:マックス・ウィレン 音楽:エリック・ノードグレーン

出産を通して、女の自立と命を大切にする原点を描く
 原題は"Nära livet"で「命の瀬戸際」といった意味。日本公開は1960年で、1956年に『女はそれを我慢できない』(The Girl Can't Help It)というハリウッドのコメディ映画があったので、邦題はそれにインスパイアされたか? 内容的にもあまり良いタイトルではない。ちなみに配給は大映。
 出産は女の願いということだろうが、劇中には出産を望む女が一人と望まない女が二人出てくる。望まない一人(イングリッド・チューリン)は自分を役立たずだと卑下していて、夫が結婚生活の継続と出産を望んでいないと思い込んでいる。もう一人は未婚の少女(ビビ・アンデショーン)で男に騙されて妊娠してしまった。
 物語はこの三人が入院する病室で進行し、女と出産をめぐる話なっているため、男には多少の疎外感がある。なかなか思うようにはいかないという結末で、それでも出産は女の人生を左右する重大事で、3人の女がそれぞれに従属・自立する姿が描かれる。男はそうした女の立場について普段考えることがないだけに、理解するひとつのきっかけになる。
 スウェーデンは出産や未婚の母に対する福祉が昔から充実していて、本作を見ていると現代の日本が抱えている出産・育児・少子化について、女性の自立を支える社会を半世紀前にすでに確立していたことを改めて知る。高福祉・高税率がスウェーデン社会に別の問題をもたらしてはいるが、女性の多くはこの映画を見て羨ましいと感じるだろう。
 カンヌ国際映画祭監督賞受賞。命を大切にするという原点を考えさせられる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1958年10月25日
監督:ジョン・スタージェス 製作:リーランド・ヘイワード 脚本:ピーター・ヴィアテル 撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ、フロイド・クロスビー、トム・タットウィラー 音楽:ディミトリ・ティオムキン
キネマ旬報:3位

殺されるカジキはロマンチシズムに付き合っていられない
 原題"The Old Man and the Sea"。アーネスト・ヘミングウェイの同名短編小説が原作。
 メキシコ湾を舞台にキューバの老漁師が巨大なカジキを釣り上げようと格闘するものの、帰路戦果を鮫に持ち去られてしまい、骨だけが残るという有名な物語。
 本作は原作に忠実に作られていて、昔の作品ゆえにCGのカジキを作ることも特撮することも出来ず、実際に釣り上げて撮影されている。カジキだけでなくそれを襲う鮫も実写で、前半シーンではトビウオや海鳥など海洋生物のシーンも収められていて、ただ忠実なだけでなく原作以上のリアリティを感じさせることに成功している。
 漁師を演じるのはスペンサー・トレイシーで、生涯の良きライバルとなったカジキとの友情を演じる。
 本作に描かれるのは、一人の老漁師を通した人が生きるということの哲学で、彼は運のない敗北の人生を生きながらも、誇りを失わないことで敗北を名誉に変えることができると信じる。
 鮫に骨にされてしまったカジキは、老漁師に持ち帰えられることで皮を残した虎のように名を残し、老漁師もライバルとの友情を示すことで尊厳と名誉を得る。それが老漁師のライオンであることの証であり、ライバルの無残な運命にカジキと戦わなければ良かったと王者の悲嘆にくれる。
 もっともこれは野獣や大魚を仕留めることが王者たる男の証だと考えるヘミングウェイのような男たちの勝手な理屈で、殺される動物たちは彼らのロマンチシズムやヒロイズム、ナルシズムに付き合ってなんかいられないわけで、名作も野生動物保護の現代からは遠い過去となりつつある。 (評価:2.5)

SOSタイタニック 忘れえぬ夜

製作国:イギリス
日本公開:1958年11月28日
監督:ロイ・ウォード・ベイカー 製作:アーサー・ランク 脚本:エリック・アンブラー 撮影:ジェフリー・アンスワース 音楽:ウィリアム・オルウィン

わずか一晩に凝縮された悲喜こもごもの人間ドラマ
 原題は"A Night to Remember"で記憶すべき夜の意。個人的には子供の頃にテレビ放映を見て、印象に強く残ったタイタニック作品。
 タイタニックの映画は数多いが、ウォルター・ロードのドキュメンタリーが原作なので、淡々とドキュメンタリー・タッチで描かれている点が見どころ。豪華客船なので沈むわけはないという過信は戦艦大和にも似ていて、スケッチ風に描かれる乗客の反応にもよく表れている。
 女子供から救命ボートに乗り移るように言われて、風邪を引くからと拒否する貴婦人が象徴的で、マリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」的な1等船室の上流階級の浮世離れが興味深い。
 避難は1等船室からで、後回しにされる3等船室の乗客、演奏を続ける楽団、混乱する乗客を拳銃で制止する船員、別れることを拒否するカップルなど、わずか一晩に凝縮された悲喜こもごもの人間ドラマが、エモーションに流されずに冷静に点描される。
 傾き沈んでいくタイタニック号のホールの描写や船底の燃料室、浸水する廊下、倒れる煙突など、パニック映画としてのリアルな描写も大きな見どころ。タイタニック号の模型を使った特撮シーンも頑張っている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1959年6月2日
監督:ヴィンセント・ミネリ 製作:アーサー・フリード 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー 撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ 音楽:アンドレ・プレヴィン
アカデミー作品賞

出自をめぐる葛藤のないのがドラマ的に物足りない
 原題"Gigi"で、主人公の少女の名。コレットの同名小説が原作のミュージカルコメディ。
 20世紀初頭のパリ。祖母(ハーミオン・ジンゴールド)・大伯母(イザベル・ジーンズ)ともに社交界の紳士たちを愛人にしていたが、後に結婚をしたり独身を通し、今は孫娘のジジ(レスリー・キャロン)に社交界のレディ=紳士の愛人になれるように礼儀作法の教育を施している。
 映画ではそのあたりを曖昧にしているが、ジジを子供のころから知っている紳士ガストンが、子供扱いしていたやんちゃ娘のジジが、ある日大人の女性になっていたことに気づき、パトロンになることを申し出る。ジジはそれが愛人契約を意味するからと申し出を断るが、ジジに心底惚れているガストンが結婚を申し出、ジジは玉の輿となってメデタシメデタシという物語。
 もっとも、これでは単なるシンデレラストーリーでしかなく、ジジの出自をめぐる葛藤のないのがドラマ的には物足りないが、そこはミュージカルなのでという緩い作品になっている。
 それを補うために、ガストンの伯父(モーリス・シュヴァリエ)が語り手として登場し、レディは金持ちでハンサムな紳士をモノにしようと争奪戦を繰り広げ、賢明な紳士はレディを次々と乗り換えてより若き女を愛人にし、間違っても結婚という人生の墓場だけは避けようとするという、紳士とレディの関係をテーマに語る。
 ガストンの伯父はそのように生きてきた粋人で、ガストンにも同じ生き方を求めるが、ガストンは人生の墓場の道を選んでしまい、一方、伴侶を得ることのなかった伯父が果して幸せかという人生のホロ苦さを示唆するという、これまたミュージカルらしい常識的な温いラストとなっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1958年10月14日
監督:スタンリー・クレイマー 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:ネイサン・E・ダグラス、ハロルド・ジェイコブ・スミス 撮影:サム・リーヴィット 音楽:アーネスト・ゴールド
ゴールデングローブ作品賞

孤高に生きる反抗者たちの静かな連帯
 原題"The Defiant Ones"で、反抗的な者たちの意。
 二人の囚人が護送車の交通事故で逃げ出し、警官隊の追跡で万事休すとなるまでの物語。この二人組が黒人(シドニー・ポワチエ)と白人(トニー・カーティス)で、時代が時代だけにそのうち殺し合うから心配ないという警官隊を尻目に、協力し合って逃避行するという、偏見をなくせば黒人と白人も仲良くなれるという反人種差別映画。
 タイトルの"The Defiant Ones"には二人のほかに三人いて、途中の町で町民たちに捕まりリンチされそうになった時に守ってくれ、未明にこっそり逃がしてくれる前科者(ロン・チェイニー・ジュニア)。やはり脱走犯らしいが身元は明かされない。
 二人目は次の潜伏場所である一軒家の主婦(カーラ・ウィリアムズ)。亭主に逃げられた子持ち女だが、逃亡白人を好きになり、子どもを置いて駆け落ちしようとする。
 三人目は警官隊を指揮する保安官(セオドア・ビケル)で、殺しても構わないと殺気立つ追跡隊を抑えて、生きたまま確保することに燃える。
 主人公二人は権力に対し、次の二人は社会に対し、保安官は体制に対して反抗するが、敵味方ながら何となく心が通じているようなラストシーンが、孤高に生きる者たちの静かな連帯を示してちょっといい。 (評価:2.5)

無頼の群

製作国:アメリカ
日本公開:1958年9月11日
監督:ヘンリー・キング 製作:ハーバート・B・スウォープ・Jr 脚本:フィリップ・ヨーダン 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:ライオネル・ニューマン

ヘンリー・キングらしいヒューマンな異色西部劇
 原題"The Bravados"で、大胆さを見せること(ravado)の複数形。フランク・オロークの同名小説が原作。
 ヘンリー・キング監督の西部劇で、小牧場主のダグラス(グレゴリー・ペック)が、妻を強盗強姦殺害した犯人を追って復讐を果たす物語。
 ダグラスが追うのは札付きの悪党4人組で、連中がメキシコ国境に近い南西部の村で銀行強盗を働いて捕まり、絞首刑を控えた前日に、村にやってくるところから始まる。
 村では初めての死刑執行とあって余所から執行人がやってくるが、これが予想通りの偽者で、4人を脱獄させてしまう。
 町の連中を引き連れたダグラスが、4人組を追跡し、一人ひとり狩っていくことになるが、4人目のルーファン( ヘンリー・シルヴァ)を国境を超えたメキシコの家まで追い詰めたところで、実は妻を殺害した犯人は4人組ではなく隣人だということを知る。
 ダグラスは、隣人の嘘に騙されて無実の3人を殺害したことを司祭に告解。許されて元恋人(ジョーン・コリンズ)を娶り、妻が遺した愛娘と共に新たな生活を始めるという、ヘンリー・キングらしいヒューマンな異色の西部劇となっている。  人の良さそうな2枚目グレゴリー・ペックが、凄腕のガンマンというのが若干違和感があるが、そこは西部劇でお約束。投げ縄が今ひとつ心許ないのもご愛嬌。
 砂漠大好きのジョン・フォードに比べて比較的緑の多い西部劇で、カタルシスはないが意外にリアルに感じられる。 (評価:2.5)

製作国:ポーランド
日本公開:1959年7月7日
監督:アンジェイ・ワイダ 脚本:アンジェイ・ワイダ、イェジ・アンジェイェフスキ 撮影:イエジー・ヴォイチック 音楽:フィリップ・ノヴァク、ボーダン・ビエンコフスキー
キネマ旬報:2位

恋を捨て40年後に灰からダイヤモンドになった男の話
 ポーランドの作家イェジ・アンジェイェフスキの同名小説が原作。原題は"Popiół i diament"で邦題の意。作中にも出てくるが、ポーランドの詩人ノルヴィッドの詩の一節から採られている。詩は我が身を松明に譬え、身を焦がして自由な火花となり、やがて燃えつきて灰となった中に、いつか輝くダイヤモンドの残ることを願うといった内容で、作中のポーランドの独立闘争に比喩されている。
 ワイダが共産党の検閲を逃れながら優れたレジスタンス映画を作ったことは評価できるが、それをもって名作とするのには違和感がある。
 歴史的にみればワイダの願いの通りに主人公はダイヤモンドとなって輝くのだが、政治・社会史的な意義はあっても、文化的な映画作品としての普遍性はそれほど感じられない。
 第二次世界大戦末期のポーランドを舞台に、ソ連傀儡の労働者党幹部の暗殺を狙う独立派テロリストの物語。幹部と誤ってセメント工場の労働者を殺してしまった主人公は、ホテルのバーの娘に恋し、テロから足を洗おうとして葛藤する。その二人が墓碑で見つけるのがノルヴィッドの詩。
 共産党体制下で思うように描けなかったのかもしれないが、単なる悲恋物語でしかなく、テロリストの人間としての苦悩までは伝わってこない。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1958年9月26日
監督:ルイ・マル 脚本:ロジェ・ニミエ、ルイ・マル 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:マイルス・デイヴィス
キネマ旬報:6位

すべてに鷹揚なフランス的サスペンス映画
 原題は"Ascenseur pour l'echafaud"で邦題の意。
 サスペンス映画の名作といわれるが、半世紀も経つと粗ばかりが目に付く。サスペンスに対する観客の姿勢には二通りあって、緻密な構成を求める理系タイプと、楽しさを求める文系タイプがある。テレビドラマなどは今でも後者で、映画でもハリウッドは同じ。要は理屈抜きで楽しめるサスペンス。イギリス人は理屈っぽいが、フランス人はアバウト、この映画も例外ではない。
 ドイツ人の旅行者が出てくるが、ベンツにおかまを掘られても鷹揚で、気質はどう見てもフランス人。ルイ・マル監督もフランス中心主義で、それがグローバル・スタンダードと考えていたのかもしれない。
 冒頭の殺人事件である物を忘れ、それが犯人の命運を決することになるが、フランス人でもなければうっかり忘れるような代物ではない。車を盗まれるような狼狽ぶりも、某所に閉じ込められてしまうような間抜けぶりも、とても精悍な元軍人とは思えないが、やはりそこはフランス人。ジャンヌ・モローも男を捜して一晩中街を歩き回るなど、パリジャンヌでなければできない行動。
 殺人事件が起きても指紋も調べず、見込み捜査で犯人を新聞に載せたり、殺人とはまったく関係のない逢引写真を証拠に殺人犯と決めつけるなど、パリ警察も相当なもの。その逢引写真も本人以外にいったい誰が撮ったのかというシーンばかり。
 当時のサスペンスとしてはこれで良かったのかもしれないが、粗ばかりで気もそぞろになる。マイルス・デイヴィスのトランペット音楽が良い。 (評価:2.5)

ヴェロニクと怠慢な生徒

製作国:フランス
日本公開:劇場未公開
監督:エリック・ロメール 脚本:エリック・ロメール 撮影:シャルル・ビッチュ

先生よりは子供の方が頭がいいという皮肉なフランス小噺
 原題"Véronique et son cancre"で、ヴェロニクと彼女の劣等生の意。
 勉強の出来ない少年ジャン(アラン・デルリュー)の家庭教師としてやってくるのがヴェロニク(ニコール・ベルジェ)で、どちらかというとお父さんが喜びそうな美人。
 早速、苦手な数学で分数の割り算を教えるが、よく理解できていないのは先生の方で、ジャンの素朴な質問にも答えられない。その挙句が、余計なことは考えずに逆数を掛ければよい、と言ったのを逆手に取られて、生徒は考えるのを放棄。
 次が作文指導で思ったことを書けと言うと、何も思いつかないと先生を困らせる。そうこうしているうちに1時間が経ち、お母さんが1時間でいいと言ったと先生を帰らせてしまう。
 冒頭、母親が子供の言うことを聞かないようにという忠告も忘れて、あっさりジャンに騙されてしまう。
 ヴェロニクに家庭教師が務まる能力があるとは思えず、先生よりは子供の方が頭がいいというちょっぴり皮肉なフランス小噺、19分の短編。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1958年12月23日
監督:ジャック・タチ 脚本:ジャック・タチ、ジャック・ラグランジュ 撮影:ジャン・ブールゴワン 音楽:アラン・ロマン、フランク・バルチェッリーニ
キネマ旬報:2位
アカデミー外国語映画賞

住んでみたいメルヘンなユロ氏のオンボロアパート
 原題"Mon Oncle"で、邦題の意。
 フランスのコメディアン、ジャック・タチが主人公のユロ氏を演じる自作・自演・監督作品。
 『ぼくの伯父さんの休暇』に続くユロ氏の2作目で、ほのぼの系コメディ、ないしはおフランスなエスプリの利いたコメディ、ないしは笑いのツボのわからないコメディ。そのいずれと捉えるかは難しいところだが、少なくとも前作に比べて進歩はしている。
 前作との違いは、成金趣味丸出しで俗物の姉夫婦を登場させたことで、それに反発するクソガキの息子がダメ人間のユロ氏の仲良しになるという設定になっている。
 会社を経営する義兄がユロ氏を落ち着かせるために会社に雇い入れたり、隣家の独身オバサンとの仲を取り持つためにホームパーティを開いたりするが、ユロ氏は失敗ばかり繰り返し、最後は地方に左遷されてしまうが、それもどこ吹く風というように終わる。
 息子は悪ガキ仲間と悪戯を繰り返すだけで、ユロ氏とともに救いようのないが、この二人をもって人間らしい生き方というには相当無理があって、ユロ氏のどこに価値観を見出せばいいのかわからない。ほのぼのしてれば人間らしいというのでは余りに底が浅い。
 本作で最大の見どころは、姉夫婦の飼い犬を含めて野良犬が多数登場することで、とりわけオープニングでゴミを漁ったり道路を駆け回る犬たちが可愛い。
 もう一つの見どころはユロ氏が住むオンボロアパートが、絵本から抜け出したような楽しいデザイン。地震と火事さえなければ住んでみたいようなメルヘン感がある。 (評価:2)

大樹のうた

製作国:インド
日本公開:1974年2月12日
監督:サタジット・レイ 脚本:サタジット・レイ 撮影:スプラタ・ミットラ 音楽:ラヴィ・シャンカール

『大地のうた』の感動からは遠い興ざめな完結篇
 原題"অপুর সংসার"で、ベンガル語でアプの世界の意。ビブティブション・ボンドパッダエの"অপরাজিত"(打ち破られない者、邦題:大河のうた)の自伝的小説が原作。『大河のうた』(1956)の続編で三部作完結篇。
 両親を亡くしたアプ(ショウミットロ・チャテルジー)は大学2年度を修了、家庭教師などで生活費を稼ぎながら小説を書くが相変わらず貧しい。大学友人のプルー(スワパン・ムカージ)の従妹(シャルミラ・タゴール)と成り行きから結婚するが、一転熱愛し、妊娠。ところが早産で子どもを遺して死んでしまう。
 失意のアプは放浪に出て、妻の実家にいる息子に仕送りだけで会いに行くこともしない。そうして5年が過ぎ、心配したプルーが探しに出てアプを探し出して連れ帰ると、息子(アロク・チャクラバルティ)は反抗的でアプを父親だとは認めない。失望して家を出ようとすると息子がついてくるのに気付き、声をかけて父子二人の再出発を誓ってエンドとなる。
 3作目ともなるとアプの物語もいささかダレ気味で、一転恋愛映画かと見紛うように妻とのスイートな新婚生活の描写が飽きるほどに続く。妻の実家の息子に会いに行かなかった理由が後半明かされるが、最愛の妻を死に追いやった元凶だからという子供じみた理由が何とも言えない。
 前作『大河のうた』で父母の死にも心を動かされない冷徹で自己中心主義のアプが、結婚して子供まで生まれながら身勝手な考えから抜け出せないという半人前の男の半生を描いたという点では、ドラマなので何でもありだが、1作目『大地のうた』(1955)の感動からは遠く、なんとも興ざめな完結篇となっている。 (評価:2)

シンバッド七回目の航海

製作国:アメリカ
日本公開:1958年12月29日
監督:ネイザン・ジュラン 製作:チャールズ・H・シニア 脚本:ケネス・コルブ 撮影:ウィルキー・クーパー 特撮:レイ・ハリーハウゼン 音楽:バーナード・ハーマン

CGにない特撮の工夫と温もりが映画の在り方を考えさせる
 原題"The 7th Voyage of Sinbad"で邦題の意。レイ・ハリーハウゼンの特撮によるシンドバッド三部作の第1作。
 タイトルは7回目の航海としているが、アラビアンナイトとは関係のない話で、シンドバッドはキャラクターとしての借り物。バクダッドの王子という設定だが、演じるカーウィン・マシューズはアラビア人とは似ても似つかず、違和感バリバリ。
 魔法のランプや魔術師、一つ目の怪物、ロック鳥、財宝など、アラビアンナイトの道具立てだけは総動員してはいるが、ストーリーにも演技・演出にも見どころはなく、レイ・ハリーハウゼンの特撮を見るためだけの作品になっている。
 シンドバッドが婚約者のチャンドラ王国の王女とバグダッドに帰る途中に立寄ったのが財宝の島で、財宝を守る一つ目怪物がいる。そこで魔術師を怪物から助けるが、島に戻りたい魔術師が王女に魔法をかけて小人にし、元に戻すためには島にいるロック鳥の卵の殻が必要だと言ってシンドバッドと王女と島に向かうというのが大筋のストーリー。
 あとは当然、殻を手に入れ、王女を元の姿に戻し、怪物をやっつけるという冒険で、最後にランプの精を解放して財宝まで手に入れてしまうというオチがつく。
 本作の見せ所は特撮で、それを見せるためにストーリーが作られているため、そのつまらないシナリオを云々しても意味がない。王女を小人にして合成したりするが、一つ目怪物のアニメーションが最大の見どころで、非常に丁寧に作られている。CGにはない工夫とぬくもりが、改めて映画はどうあるべきかを考えさせる。 (評価:2)

深く静かに潜航せよ

製作国:アメリカ
日本公開:1958年5月30日
監督:ロバート・ワイズ 製作:ハロルド・ヘクト 脚本:ジョン・ゲイ 撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:フランツ・ワックスマン

潜水艦エンジン停止で慣性の法則を無視しているのが笑える
 原題"Run Silent, Run Deep"で邦題の意。エドワード・L・ビーチの同名小説が原作。
 真珠湾攻撃から1年後、豊後水道で潜水艦を沈められ乗員を失った艦長が、再び潜水艦の艦長となって指揮を執るが、軍の命令に背き、乗員を騙して豊後水道に出撃し、宿敵・秋風への復讐に挑む話。
 復讐の旅では攻撃に失敗して退散。この時受けた傷がもとで艦長は重体となり、副長が指揮を執り真珠湾に帰還しようとするが、思い直して作戦を続行、見事秋風を沈めるまで。直後に艦長は死んで水葬に付される。
 英雄譚ではあるものの、軍紀に背いた復讐劇といういささか変化球で、そのために部下を死なせるわけだからヒールであるはずが、その意思を継いで副長が復讐を成し遂げ、結果、日本の無敵の駆逐艦を沈めたんだから軍紀違反は帳消しにしてまあいいじゃないかと、最後はやっぱり英雄譚に落ち着いてしまうところが何とも言えない。
 その英雄かそうでないのかよく分からない艦長をクラーク・ゲーブル、副長をバート・ランカスターが演じるので、何となく見れてしまう。
 軍も撮影に協力しているので、本物の潜水艦を使ったシーンは迫力があり、潜航と浮上をくり返す場面は見応えがある。一方、戦闘シーンは小さめのミニチュアを使っているので、若干迫力に乏しいが、火薬も使って頑張っている。
 それでも、潜水艦同士がエンジンを停止して互いに探り合うシーンでは、慣性の法則を無視しているのが笑える。 (評価:2)

バイキング

製作国:アメリカ
日本公開:1958年9月20日
監督:リチャード・フライシャー 製作:ジェリー・ブレスラー 脚本:カルダー・ウィリンガム、デイル・ワッサーマン 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:マリオ・ナシンベーネ

船を燃やして送り出すラストシーンが唯一最高の名場面
 原題"The Vikings"。エディソン・マーシャルの"The Viking"が原作。
 9世紀の北欧を舞台にしたバイキングとイングランドの争いを描く娯楽大作で、カーク・ダグラスとトニー・カーティスが主演。バイキング王を父に持つ異母兄弟で、弟は元イングランド王妃が母だが、里子に出され、巡り巡って父の奴隷になっているという貴種流離譚で、その出生の秘密がペンダントにある。
 巫女による預言の通り、ノーサンブリア王女と出会い、兄と王妃をめぐって争い、イングランド王位を奪還するというもので、王道ストーリーに目新しさはないが、何分半世紀以上前の作品なので、テンポがたるい。
 とりわけ娯楽大作ということもあってドラマ性が希薄な分、アクションが見どころの大半なのだが、このアクションが歌舞伎のように型に嵌っていて、伝統芸能でないためスローな上に退屈で、思わず早送りしてスピードアップしたくなる。
 唯一の救いはカーク・ダグラスの隻眼の勇姿と、トニー・カーティスの妻で王女を演じるジャネット・リーの美貌くらいだが、それでも睡魔には勝てない。
 瞼が重くなった頃にやってくるラストシーンは、船を燃やして海に送り出す水葬の儀式で、本作で最高の名場面となっている。 (評価:2)