外国映画レビュー──1957年
製作国:アメリカ
日本公開:1959年8月4日
監督:シドニー・ルメット 製作:レジナルド・ローズ、ヘンリー・フォンダ 脚本:レジナルド・ローズ 撮影:ボリス・カウフマン 音楽:ケニヨン・ホプキンス
キネマ旬報:1位
ベルリン映画祭金熊賞
アカデミー賞で『戦場にかける橋』に敗れた先進性
原題"12 Angry Men"で邦題の意。もとは1954年に放映されたテレビドラマで、レジナルド・ローズの脚本。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。
父親を刺殺した罪で裁判にかけられたスラムに住む18歳の少年の評決をめぐる12人の陪審員のドラマで、冒頭とラストで裁判所の入口が出てくる以外は、総てが陪審員室で進行するという舞台劇風の作品。
この間、BGMもなく、12人の俳優が演じる台詞劇がすべてだが、一時も緩むことなくサスペンス風にドラマが進行し、クーラーのない部屋でのその夏一番の暑さがひしひしと伝わってくるシドニー・ルメットの演出が堪能できる。
国選弁護士のやる気のなさから、誰の目にも有罪が明らかな裁判が結審し、陪審員室に入った12人は冒頭に票決を下すことにする。そこで臍曲がりなヘンリー・フォンダが、電気椅子に送られる可哀想な少年のためにせめて討議してやろうじゃないかと無罪の1票を投じ、残り11人の非難を浴びながらの討議となる。
訳では有罪か無罪かだが、英語ではguiltyかnot-guiltyで、ヘンリー・フォンダがいわんとするのは、心証は有罪だが、有罪の確証が得られないという主張。凶器のナイフ、刺し傷、階下の老人の証言、向かいの窓の女の証言といずれもその信憑性に疑問が生じ、1人、2人とnot-guiltyに転じていくシナリオが上手い。
だったら裁判をやり直せばいいじゃないかということになるが、制作当時を思えば、女性の陪審員や、まして黒人やマイノリティの陪審員もなく、劇中でも移民やスラム育ちを蔑視する発言も飛び出し、本作が一時代のアメリカの姿を記録していることがわかる。そうした社会背景を写し込んだルメットの人権感覚と手腕も見どころか。
最後まで有罪を主張するリー・J・コッブが、アメリカの強き父親の代表で、そのために息子が離れて行ってしまったという慚愧にさいなまれていて、その男の信念を曲げて無罪に転じるラストも、西部劇ヒーローの時代からヒューマニズムの時代へと向かうハリウッドの新時代を感じさせる。
もっとも、この年、アカデミー賞にノミネートされながら、作品賞を受賞したのはデヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』という第二次世界大戦で日本軍と戦った英軍の戦争ヒーローを描いた作品だった。
冒頭の陪審員が裁判所にやってくるシーンと、ラストの外階段を降りていくシーンのカメラワークが秀逸。 (評価:4.5)

日本公開:1959年8月4日
監督:シドニー・ルメット 製作:レジナルド・ローズ、ヘンリー・フォンダ 脚本:レジナルド・ローズ 撮影:ボリス・カウフマン 音楽:ケニヨン・ホプキンス
キネマ旬報:1位
ベルリン映画祭金熊賞
原題"12 Angry Men"で邦題の意。もとは1954年に放映されたテレビドラマで、レジナルド・ローズの脚本。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。
父親を刺殺した罪で裁判にかけられたスラムに住む18歳の少年の評決をめぐる12人の陪審員のドラマで、冒頭とラストで裁判所の入口が出てくる以外は、総てが陪審員室で進行するという舞台劇風の作品。
この間、BGMもなく、12人の俳優が演じる台詞劇がすべてだが、一時も緩むことなくサスペンス風にドラマが進行し、クーラーのない部屋でのその夏一番の暑さがひしひしと伝わってくるシドニー・ルメットの演出が堪能できる。
国選弁護士のやる気のなさから、誰の目にも有罪が明らかな裁判が結審し、陪審員室に入った12人は冒頭に票決を下すことにする。そこで臍曲がりなヘンリー・フォンダが、電気椅子に送られる可哀想な少年のためにせめて討議してやろうじゃないかと無罪の1票を投じ、残り11人の非難を浴びながらの討議となる。
訳では有罪か無罪かだが、英語ではguiltyかnot-guiltyで、ヘンリー・フォンダがいわんとするのは、心証は有罪だが、有罪の確証が得られないという主張。凶器のナイフ、刺し傷、階下の老人の証言、向かいの窓の女の証言といずれもその信憑性に疑問が生じ、1人、2人とnot-guiltyに転じていくシナリオが上手い。
だったら裁判をやり直せばいいじゃないかということになるが、制作当時を思えば、女性の陪審員や、まして黒人やマイノリティの陪審員もなく、劇中でも移民やスラム育ちを蔑視する発言も飛び出し、本作が一時代のアメリカの姿を記録していることがわかる。そうした社会背景を写し込んだルメットの人権感覚と手腕も見どころか。
最後まで有罪を主張するリー・J・コッブが、アメリカの強き父親の代表で、そのために息子が離れて行ってしまったという慚愧にさいなまれていて、その男の信念を曲げて無罪に転じるラストも、西部劇ヒーローの時代からヒューマニズムの時代へと向かうハリウッドの新時代を感じさせる。
もっとも、この年、アカデミー賞にノミネートされながら、作品賞を受賞したのはデヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』という第二次世界大戦で日本軍と戦った英軍の戦争ヒーローを描いた作品だった。
冒頭の陪審員が裁判所にやってくるシーンと、ラストの外階段を降りていくシーンのカメラワークが秀逸。 (評価:4.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1962年12月1日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:グンナール・フィッシェル 音楽:エリク・ノルドグレン
キネマ旬報:1位
ベルリン映画祭金熊賞
ベルイマンの名作。孤独な老人のためのファンタジー
ベルイマンの代表作のひとつ。ベルリン国際映画祭金熊賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞など受賞多数。
孤独を愛する老医学者が、名誉学位を受けるためにルンドという学園都市にドライブする一日の出来事と、その前後を描く。冒頭は彼の孤独を象徴する死の夢から始まり、長男の嫁とともにルンドを目指す。生家に立ち寄った彼は庭の野苺をみて若き日の失恋を回想する。厳しさゆえに子・孫が寄り付かない母を訪ね、ガソリンスタンド主の温かい言葉に生まれた町を出た悔悟が過る。
彼は優しいエゴイストであり、そのために妻は他の男に走り、その両親を見て育った長男は子供を作らない。ドライブの途中の自由奔放な若者たち、いがみ合う夫婦との出合いを通して彼は次第に改心していく・・・というのが筋。最後は安らかな夢を見る。
公開時ベルイマンは39歳で、このような老境を描いた。良くできた作品だが、改めて観ると頑迷な老人がたった一日の出来事で人間性を取り戻すことに違和感がある。39歳のベルイマンが老人を本当に理解できていないという点で、この映画はやはりファンタジーであって、人間の孤独の深層を描けてはいない。イベントの一日の翌日、日常に戻った彼は再び悪夢を見るかもしれない。
コントラストのはっきりしたモノクロ映像が、老人のファンタジーを美しく浮き上がらせる。 (評価:3.5)

日本公開:1962年12月1日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:グンナール・フィッシェル 音楽:エリク・ノルドグレン
キネマ旬報:1位
ベルリン映画祭金熊賞
ベルイマンの代表作のひとつ。ベルリン国際映画祭金熊賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞など受賞多数。
孤独を愛する老医学者が、名誉学位を受けるためにルンドという学園都市にドライブする一日の出来事と、その前後を描く。冒頭は彼の孤独を象徴する死の夢から始まり、長男の嫁とともにルンドを目指す。生家に立ち寄った彼は庭の野苺をみて若き日の失恋を回想する。厳しさゆえに子・孫が寄り付かない母を訪ね、ガソリンスタンド主の温かい言葉に生まれた町を出た悔悟が過る。
彼は優しいエゴイストであり、そのために妻は他の男に走り、その両親を見て育った長男は子供を作らない。ドライブの途中の自由奔放な若者たち、いがみ合う夫婦との出合いを通して彼は次第に改心していく・・・というのが筋。最後は安らかな夢を見る。
公開時ベルイマンは39歳で、このような老境を描いた。良くできた作品だが、改めて観ると頑迷な老人がたった一日の出来事で人間性を取り戻すことに違和感がある。39歳のベルイマンが老人を本当に理解できていないという点で、この映画はやはりファンタジーであって、人間の孤独の深層を描けてはいない。イベントの一日の翌日、日常に戻った彼は再び悪夢を見るかもしれない。
コントラストのはっきりしたモノクロ映像が、老人のファンタジーを美しく浮き上がらせる。 (評価:3.5)

製作国:イタリア
日本公開:1957年11月9日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ 撮影:アルド・トンティ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:7位
アカデミー外国語映画賞
敗戦国イタリアの戦後に取り残された人々を描く
原題"Le Notti di Cabiria"で、邦題の意。カビリアは主人公の女の名。
カビリアは両親を失い孤児となった娼婦で、金を貯めてローマ郊外に質素な家も持っている。冒頭、恋人の男に川に突き落とされ、金の入ったバッグを持ち逃げされてしまうシーンから始まるが、彼女の若い仲間はホームレスもいる貧しい男女ばかりで、彼らが戦争孤児だったことが推察される。
ローマ郊外には洞穴に住む年輩の浮浪者もいて、彼らもまた戦争によって生活を失ったのだろう。
カビリアの生活は夜が中心で、ローマの街中を歩いていた時、たまたま映画スターの痴話喧嘩に遭遇し、男優の気まぐれでナイトクラブや豪邸に招かれる。
それはカビリアにとって別世界で、戦後のイタリアの相反する貧富が提示され、貧者に施しをする者もいれば、神の奇跡だけを売り文句にするだけの無力な教会もいて、カビリアの厭世感が重ねられていく。
そうした中、寄席で知り合った戦争孤児の男に求婚され、この世に救いを見出したカビリアは、神への信仰も取り戻すが、男も結局カビリアの小金目的で、冒頭シーン同様、海に突き落とされそうになるが、人生への絶望から殺してほしいと懇願するカビリアを置いて、男はバッグだけを奪う。
楽しそうな若者たちの行列に加わり涙を流すカビリアの姿がラストシーンとなるが、それが彼女の絶望なのか、新たなる生への決意なのかは観客に判断が委ねられる。
泣き顔とも笑い顔とも見えるカビリアの表情から、苦しみを乗り越えて生きていく勇気をフェリーニは訴えたかったのだろう。
日本同様、敗戦国イタリアの戦後社会に取り残された人々を描く社会派作品で、フェリーニの妻ジュリエッタ・マシーナがカビリアを演じ、カンヌ映画祭女優賞を受賞している。 (評価:3)

日本公開:1957年11月9日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ 撮影:アルド・トンティ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:7位
アカデミー外国語映画賞
原題"Le Notti di Cabiria"で、邦題の意。カビリアは主人公の女の名。
カビリアは両親を失い孤児となった娼婦で、金を貯めてローマ郊外に質素な家も持っている。冒頭、恋人の男に川に突き落とされ、金の入ったバッグを持ち逃げされてしまうシーンから始まるが、彼女の若い仲間はホームレスもいる貧しい男女ばかりで、彼らが戦争孤児だったことが推察される。
ローマ郊外には洞穴に住む年輩の浮浪者もいて、彼らもまた戦争によって生活を失ったのだろう。
カビリアの生活は夜が中心で、ローマの街中を歩いていた時、たまたま映画スターの痴話喧嘩に遭遇し、男優の気まぐれでナイトクラブや豪邸に招かれる。
それはカビリアにとって別世界で、戦後のイタリアの相反する貧富が提示され、貧者に施しをする者もいれば、神の奇跡だけを売り文句にするだけの無力な教会もいて、カビリアの厭世感が重ねられていく。
そうした中、寄席で知り合った戦争孤児の男に求婚され、この世に救いを見出したカビリアは、神への信仰も取り戻すが、男も結局カビリアの小金目的で、冒頭シーン同様、海に突き落とされそうになるが、人生への絶望から殺してほしいと懇願するカビリアを置いて、男はバッグだけを奪う。
楽しそうな若者たちの行列に加わり涙を流すカビリアの姿がラストシーンとなるが、それが彼女の絶望なのか、新たなる生への決意なのかは観客に判断が委ねられる。
泣き顔とも笑い顔とも見えるカビリアの表情から、苦しみを乗り越えて生きていく勇気をフェリーニは訴えたかったのだろう。
日本同様、敗戦国イタリアの戦後社会に取り残された人々を描く社会派作品で、フェリーニの妻ジュリエッタ・マシーナがカビリアを演じ、カンヌ映画祭女優賞を受賞している。 (評価:3)

情婦
日本公開:1958年3月12日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:アーサー・ホーンブロウ・Jr 脚本:ビリー・ワイルダー、ハリー・カーニッツ 撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:マティ・マルネック
原題"Witness for the Prosecution"で、検察側の証人の意。アガサ・クリスティーの同名短編小説を基にした自身による戯曲が原作。
ロンドンが舞台。ウィルフリッド弁護士(チャールズ・ロートン)は、被相続人である老婦人殺しで起訴されたヴォール(タイロン・パワー)の弁護を引き受けることになる。ヴォールは無罪を主張するが、アリバイを証明するのは内縁の妻クリスチーネ(マレーネ・ディートリッヒ)しかなく、利害関係者の証言は証拠にならないと知って、クリスチーネは一計を案じて検察側の証人に立ち、夫の有罪を証言する。
するとウィルフリッドにタレコミがあり、クリスチーネが前夫とヨリを戻すために偽証したという直筆の手紙を手に入れる。これによって夫は殺人罪を免れ、クリスチーネは偽証罪となるが、腑に落ちないウィルフリッドはクリスチーネを問い詰め、手紙は偽物で殺人は夫婦で謀ったものであったことを知る。
しかし判決は確定しており、内縁の妻の証言が無罪を証明できないことを逆手に取り、軽微な偽証罪を代償に老婦人の遺産を手に入れたことを知る。ところが、騙されていたのはクリスチーネというどんでん返しで幕を閉じる。
アガサ・クリスティーらしいよくできたミステリーで、ウィルフリッドのキャラクター造形もポアロを髣髴させて楽しい。
軽量浮薄なヴォールと冷静沈着なクリスチーネと、ビリー・ワイルダーの演出も観客には親切な正統派で、ウィルフリッドと共に安心して謎解きに参加できる。 (評価:2.5)

OK牧場の決斗
日本公開:1957年7月3日
監督:ジョン・スタージェス 製作:ハル・B・ウォリス 脚本:レオン・ウーリス 撮影:チャールズ・ラング・Jr 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題は"Gunfight at the O.K. Corral"で、OK牧場の銃撃戦の意。
1881年にアリゾナのトゥームストーンのOK牧場近くで起きた史実に基づく。保安官ワイアット・アープたちとクラントン一家との銃撃戦が行われ、クラントン一家3人が死んだ。
映画は脚色も多く、もともといがみ合っていた両者はOK牧場の決闘では決着がつかず、その後も復讐戦を続ける。ワイアット・アープとドク・ホリデイはともにロサンゼルスへ移り住んでいる。
映画はワイアット・アープ(バート・ランカスター)とドク・ホリデイ(カーク・ダグラス)の友情物語となっていて、ワイアットの優等生な正義漢ぶりと、肺結核で病弱なチョイワルオヤジのドクの二人のヒーローぶりを楽しむ映画。
ウエスタンな音楽にしろ、荒野を行くガンマンにしろ、ディズニーランドのような西部の町にしろ酒場にしろ、古き良き時代の西部劇の空気が充満していて、これぞ正統派西部劇を満喫できる。
当時の西部の町が法と無法の狭間にあり、保安官・判事といえども勢力争いの中では不安定な立場で、今のアメリカの地方自治の独立性や権力構造のルーツを訪ねる意味でも興味深い。
gentlemanやladyにこだわる会話もあったりするが、ワイアットの恋人となるロンダ・フレミングのドレスの色が、テクニカラー向けにパステルなのが、あまりに不自然で気になる。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1959年4月12日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 脚本:エンニオ・デ・コンチーニ、エリオ・バルトリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:3位
愛の不毛よりも娘ロジーナの一人遊びがいじらしい
原題"Il grido"で、叫びの意。
女心と秋の空に失意し、心の虚無を埋めるべくさすらいの旅に出た男の物語で、虚無を埋める女を求めつつも彼女の代わりとはならず、町に戻って彼女の新生活を垣間見て自死を遂げてしまう。
男の内縁の妻が子供ともども男と別れ、若い男を選んだ理由については語られず、男同様、観客もその疑問から投げ出され、もやもや感を引き摺ったまま作品を見終わるという点では、4DXとは違った精神体験型の映画といえる。
ただ、男女間の愛の不条理をこれがリアリズムだと提示され、これこそが愛の不毛だと語られても、それをそのまま受け入れてニヒリズムに陥るしかなく、せめて不条理な愛の深層、愛の不毛の形而上学について語ってくれないと、主人公の男同様、高いところから身を投げるしか解決策はない。
仕事を辞め娘と共に女の家を出て、元婚約者、ガソリンスタンドの未亡人、若い娼婦を転々とする姿をただ記録映画のように追うにしては、男の苦渋や内面は、ドキュメンタリー映画のようには表れてなく、スティーヴ・コクランの演技も演出も中途半端になっている。
その中では、母に捨てられ父のお邪魔虫となる娘ロジーナを演じるMirna Giradiの寂しさが良く描かれていて、一人遊びをする様子がいじらしい。
最終的には母に引き取られるが、娘の目を通した方が愛の不毛を描けたかもしれない。 (評価:2.5)

日本公開:1959年4月12日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 脚本:エンニオ・デ・コンチーニ、エリオ・バルトリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:3位
原題"Il grido"で、叫びの意。
女心と秋の空に失意し、心の虚無を埋めるべくさすらいの旅に出た男の物語で、虚無を埋める女を求めつつも彼女の代わりとはならず、町に戻って彼女の新生活を垣間見て自死を遂げてしまう。
男の内縁の妻が子供ともども男と別れ、若い男を選んだ理由については語られず、男同様、観客もその疑問から投げ出され、もやもや感を引き摺ったまま作品を見終わるという点では、4DXとは違った精神体験型の映画といえる。
ただ、男女間の愛の不条理をこれがリアリズムだと提示され、これこそが愛の不毛だと語られても、それをそのまま受け入れてニヒリズムに陥るしかなく、せめて不条理な愛の深層、愛の不毛の形而上学について語ってくれないと、主人公の男同様、高いところから身を投げるしか解決策はない。
仕事を辞め娘と共に女の家を出て、元婚約者、ガソリンスタンドの未亡人、若い娼婦を転々とする姿をただ記録映画のように追うにしては、男の苦渋や内面は、ドキュメンタリー映画のようには表れてなく、スティーヴ・コクランの演技も演出も中途半端になっている。
その中では、母に捨てられ父のお邪魔虫となる娘ロジーナを演じるMirna Giradiの寂しさが良く描かれていて、一人遊びをする様子がいじらしい。
最終的には母に引き取られるが、娘の目を通した方が愛の不毛を描けたかもしれない。 (評価:2.5)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1958年3月5日
監督:アンドレ・カイヤット 脚本:アンドレ・カイヤット、ヴァエ・カッチャ 撮影:クリスチャン・マトラ 音楽:ピエール・ルイギ
キネマ旬報:4位
谷を渡る台だけのケーブルカーのシーンが見もの
原題"Oeil pour Oeil"で、邦題の意。ヴァエ・カッチャの同名小説が原作。
レバノンが舞台。トラブロスの病院のフランス人医師(クルト・ユルゲンス)が夜間診療を断ったことから、子宮外妊娠のアラブ女性が死亡。その亭主(フォルコ・ルリ)が復讐をするという物語で、太った中年男がほとんど口を利かず、影のように付き纏うことから、アラブ男にストーカーされる不気味な物語となっている。
初めは無言電話、次に車、次にバーに現れ、医師の飲食代を肩代わりしたことから、今度は金を返そうとする医師をおびき出す展開。ラヤの男の実家に行くと、奥地の村で病人が出たという妹の話に男の妻を死なした前科から診療を断れず、奥地へと向かう。
これが男の罠で、治療を拒否された挙句、車のタイヤを盗まれ、言葉が通じないままに宿屋に泊まる。そこに男が現れ、唯一の交通手段のバスは5日後までないといわれ、徒歩で帰路に。ここでも男が待ち伏せ、近道だという甘言に騙されて二人で砂漠を彷徨うことに。
飢えと渇きに苦しみながら、広大な砂漠を歩く男を写す空撮でラストとなるが、後半の延々と続く砂漠の風景が意外と飽きない。谷を渡る台だけのケーブルカーのシーンも見もの。
トラブロスの町の様子やモスク、真っ青な空などの異国情緒の映像が見どころで、不気味だけど怖くないという真綿で首を締めるちょっとユーモラスな復讐劇が面白い。 (評価:2.5)

日本公開:1958年3月5日
監督:アンドレ・カイヤット 脚本:アンドレ・カイヤット、ヴァエ・カッチャ 撮影:クリスチャン・マトラ 音楽:ピエール・ルイギ
キネマ旬報:4位
原題"Oeil pour Oeil"で、邦題の意。ヴァエ・カッチャの同名小説が原作。
レバノンが舞台。トラブロスの病院のフランス人医師(クルト・ユルゲンス)が夜間診療を断ったことから、子宮外妊娠のアラブ女性が死亡。その亭主(フォルコ・ルリ)が復讐をするという物語で、太った中年男がほとんど口を利かず、影のように付き纏うことから、アラブ男にストーカーされる不気味な物語となっている。
初めは無言電話、次に車、次にバーに現れ、医師の飲食代を肩代わりしたことから、今度は金を返そうとする医師をおびき出す展開。ラヤの男の実家に行くと、奥地の村で病人が出たという妹の話に男の妻を死なした前科から診療を断れず、奥地へと向かう。
これが男の罠で、治療を拒否された挙句、車のタイヤを盗まれ、言葉が通じないままに宿屋に泊まる。そこに男が現れ、唯一の交通手段のバスは5日後までないといわれ、徒歩で帰路に。ここでも男が待ち伏せ、近道だという甘言に騙されて二人で砂漠を彷徨うことに。
飢えと渇きに苦しみながら、広大な砂漠を歩く男を写す空撮でラストとなるが、後半の延々と続く砂漠の風景が意外と飽きない。谷を渡る台だけのケーブルカーのシーンも見もの。
トラブロスの町の様子やモスク、真っ青な空などの異国情緒の映像が見どころで、不気味だけど怖くないという真綿で首を締めるちょっとユーモラスな復讐劇が面白い。 (評価:2.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1963年11月9日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:アラン・エーケルンド 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:グンナール・フィッシェル 音楽:エリク・ノルドグレン
キネマ旬報:6位
死神、黒死病、死の舞踏…西洋中世史フェチ向けか?
原題は"Det sjunde inseglet"で邦題の意。新約聖書ヨハネの黙示録にあり、神が持つ封印された7つの巻物のこと。小羊(イエス)が封印を解くと、馬などの表象として、勝利・戦争・飢饉・死などがもたらされる。第七の封印が解かれると天使に7つのラッパが与えられ、祈りの後にさまざまな災厄が地上を襲う。
映画は14世紀前半のスウェーデンが舞台。十字軍の遠征から帰った主人公を追いかけてきたのが死神。騎士は命を賭けてチェスの勝負を挑むが、その間に人々を死に導くペストと、それを救うことのできないイエスについて問いかける信仰がテーマの作品。
キリスト教信仰に死神は存在せず、ヨーロッパの民衆信仰のもの。邪教の悪魔と考えれば、彼は黒死病となって町を蹂躙し、人々の命を奪う。司祭は悪魔を退けるために人々に信仰を求めるが、疫病の前に神は無力でしかない。死神はダンス・マカブル(死の舞踏)の先頭に立って、人々を連れ去る。
堕落した司教、魔女の火炙り、悪魔の手に渡る教会、と暗黒のキリスト教史が描かれ、磔刑のイエスは無力。チェスに敗れ、神のために遠征した騎士の敗北という結論に終わるが、その勝負の最後に騎士は旅芸人の若夫婦の一家を死神の手から逃れさす。この唯一の希望が、騎士の信仰の勝利なのか、はたまたキリスト教の敗北とルネッサンスの勝利を示しているのかは不明で、これをもって難解ともいえるし、結論を観客に投げただけともいえる。
ベルイマンが牧師の家に育ち、国教がキリスト教であることを考えれば、公然とキリスト教の否定はできないわけで、結論は後者、それをぼかして難解になったのではないか。チェスで黒を持つのが死神で、騎士が持つ白はキリスト教という暗喩。
黒死病、ダンス・マカブル、十字軍、魔女裁判、死神信仰と中世史に係わるキーワードが多く登場するので、知識があると作品理解の助けになる。 (評価:2.5)

日本公開:1963年11月9日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:アラン・エーケルンド 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:グンナール・フィッシェル 音楽:エリク・ノルドグレン
キネマ旬報:6位
原題は"Det sjunde inseglet"で邦題の意。新約聖書ヨハネの黙示録にあり、神が持つ封印された7つの巻物のこと。小羊(イエス)が封印を解くと、馬などの表象として、勝利・戦争・飢饉・死などがもたらされる。第七の封印が解かれると天使に7つのラッパが与えられ、祈りの後にさまざまな災厄が地上を襲う。
映画は14世紀前半のスウェーデンが舞台。十字軍の遠征から帰った主人公を追いかけてきたのが死神。騎士は命を賭けてチェスの勝負を挑むが、その間に人々を死に導くペストと、それを救うことのできないイエスについて問いかける信仰がテーマの作品。
キリスト教信仰に死神は存在せず、ヨーロッパの民衆信仰のもの。邪教の悪魔と考えれば、彼は黒死病となって町を蹂躙し、人々の命を奪う。司祭は悪魔を退けるために人々に信仰を求めるが、疫病の前に神は無力でしかない。死神はダンス・マカブル(死の舞踏)の先頭に立って、人々を連れ去る。
堕落した司教、魔女の火炙り、悪魔の手に渡る教会、と暗黒のキリスト教史が描かれ、磔刑のイエスは無力。チェスに敗れ、神のために遠征した騎士の敗北という結論に終わるが、その勝負の最後に騎士は旅芸人の若夫婦の一家を死神の手から逃れさす。この唯一の希望が、騎士の信仰の勝利なのか、はたまたキリスト教の敗北とルネッサンスの勝利を示しているのかは不明で、これをもって難解ともいえるし、結論を観客に投げただけともいえる。
ベルイマンが牧師の家に育ち、国教がキリスト教であることを考えれば、公然とキリスト教の否定はできないわけで、結論は後者、それをぼかして難解になったのではないか。チェスで黒を持つのが死神で、騎士が持つ白はキリスト教という暗喩。
黒死病、ダンス・マカブル、十字軍、魔女裁判、死神信仰と中世史に係わるキーワードが多く登場するので、知識があると作品理解の助けになる。 (評価:2.5)

製作国:チェコスロバキア
日本公開:1959年4月26日
監督:カレル・ゼマン 脚本:カレル・ゼマン、フランチェセック・ハルビン 撮影:イジー・タランチーク 音楽:ズデニェク・リシュカ
キネマ旬報:10位
『月世界旅行』を連想させる独特の世界観を持った映像表現
原題"Vynález zkázy"で、破滅的な発明の意。ジュール・ヴェルヌのSF小説"Face au drapeau"(国旗に向かって)が原作。
アニメーションと実写を合成・編集した作品で、アニメーションにはストップモーションや切り絵が用いられている。
俳優によるセット撮影では美術に原作の銅版画挿絵が用いられ、同様にアニメーションや背景も銅版画挿絵風に描かれていて、同じジュール・ヴェルヌ原作のジョルジュ・メリエス監督『月世界旅行』(1902)を連想させる独特の世界観を持った映像表現になっている。
物語は、天才科学者ロカ教授(アールノヒト・ナブラチール)と助手のハルト(ラボル・トコス)が海賊に拉致され、潜水艦で海賊島に連れていかれる。途中、海賊たちは客船を沈めてお宝をget、漂流していた船客ヤーナ(ヤーナ・ザトロウカロバ)を救助する。教授は海賊のボス・アルティガス伯爵(ミロスラフ・ホルップ)に賓客として扱われ、新型爆弾の発明に邁進するが、ハルトは隔離される。
伯爵が新型爆弾によって世界征服を企んでいることを知ったハルトは気球に手紙をつけて飛ばし、手紙を読んだ各国の連合艦隊が海賊島を目指すが、伯爵は気球に新型爆弾を乗せて反撃を開始。気球に乗り込んだハルトとヤーナが砲弾を海賊島に落下させる。漸く伯爵の陰謀に気づいて博士が砲台を爆破。新型爆弾もろとも海賊島は吹き飛び、空にきのこ雲が立ち上る。
原作は1896年の発表だが、ラストシーンは原爆が連想され、ゼマンの反核へのメッセージが込められている。 (評価:2.5)

日本公開:1959年4月26日
監督:カレル・ゼマン 脚本:カレル・ゼマン、フランチェセック・ハルビン 撮影:イジー・タランチーク 音楽:ズデニェク・リシュカ
キネマ旬報:10位
原題"Vynález zkázy"で、破滅的な発明の意。ジュール・ヴェルヌのSF小説"Face au drapeau"(国旗に向かって)が原作。
アニメーションと実写を合成・編集した作品で、アニメーションにはストップモーションや切り絵が用いられている。
俳優によるセット撮影では美術に原作の銅版画挿絵が用いられ、同様にアニメーションや背景も銅版画挿絵風に描かれていて、同じジュール・ヴェルヌ原作のジョルジュ・メリエス監督『月世界旅行』(1902)を連想させる独特の世界観を持った映像表現になっている。
物語は、天才科学者ロカ教授(アールノヒト・ナブラチール)と助手のハルト(ラボル・トコス)が海賊に拉致され、潜水艦で海賊島に連れていかれる。途中、海賊たちは客船を沈めてお宝をget、漂流していた船客ヤーナ(ヤーナ・ザトロウカロバ)を救助する。教授は海賊のボス・アルティガス伯爵(ミロスラフ・ホルップ)に賓客として扱われ、新型爆弾の発明に邁進するが、ハルトは隔離される。
伯爵が新型爆弾によって世界征服を企んでいることを知ったハルトは気球に手紙をつけて飛ばし、手紙を読んだ各国の連合艦隊が海賊島を目指すが、伯爵は気球に新型爆弾を乗せて反撃を開始。気球に乗り込んだハルトとヤーナが砲弾を海賊島に落下させる。漸く伯爵の陰謀に気づいて博士が砲台を爆破。新型爆弾もろとも海賊島は吹き飛び、空にきのこ雲が立ち上る。
原作は1896年の発表だが、ラストシーンは原爆が連想され、ゼマンの反核へのメッセージが込められている。 (評価:2.5)

白夜
日本公開:1958年4月15日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:フランコ・クリスタルディ 脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ
原題"Le notti bianche"で、白い夜の意。ドストエフスキーの短編小説"Белые ночи"(白夜)が原作。
原作はサンクトペテルブルクが舞台で、白夜の夜に出合った少女との恋物語。本作はイタリアの港町が舞台で、当然のことながら白夜はなく、タイトルは「眠れない夜」の意味の方が相応しい。
下宿屋に住んでいる転勤間もない青年が、話し相手を求めて夜の町を彷徨っていて、橋の上で見かけた娘と知り合いになる。彼女は毎晩10時に同じ橋の上で誰かを待っていて、それが1年前に別れた恋人と再会するための約束だということがわかる。
少女を好きになった青年は、毎晩10時に彼女に会いに行き、親しくなって、彼女の気持ちを自分に振り向かせようとする。いくら待っても現れない恋人を彼女がようやく諦め、二人の交際がスタートしようとした矢先、橋の上に男が現れ、彼女の幸せを祝して青年がフラれてしまうという哀れな失恋物語。
少女の恋人は訳あって1年間町を離れるが、その訳は明かされず、ひたすら少女が橋の上で男を待つというロマンチックすぎるファンタジーで、見ていて少女の正気を疑ってしまうというのが何ともいえない。
その上、少女が正気に戻った途端に、過去の男が現れるというあまりの都合のよさに、本作全体が青年の夢想だったのではないかと、青年の正気まで疑い始めるという深読みまでしてしまう。
原作があるとはいえヴィスコンティがまさかこんな工夫のない作品を作るわけがないと思いつつ、この耽美的でロマンチックすぎる夢想こそがヴィスコンティらしさともいえ、今ひとつこのセンチメンタリズムに浸りきれず、釈然としないままに見終わる。
ナイーブな青年をマルチェロ・マストロヤンニが好演し、マリア・シェルも無垢で可愛らしい少女を演じる。恋人役はジャン・マレー。 (評価:2.5)

突撃
日本公開:1958年2月19日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:ジェームズ・B・ハリス 脚本:スタンリー・キューブリック、カルダー・ウィリンガム 撮影:ゲオルグ・クラウゼ 音楽:ジェラルド・フリード
原題は"Paths of Glory"で栄光への道の意。ハンフリー・コッブの同名小説が原作。
キューブリックの初期作品で、第一次世界大戦でドイツ軍と対峙する最前線のフランス軍部隊の物語。
戦功を求める将軍二人が難攻不落のドイツ軍陣地蟻塚への攻撃を塹壕の大佐(カーク・ダグラス)に命じる。反対するも押し切られて、大佐は先頭に立って突撃するも、敵の砲弾の雨に退却する。ところが司令官のミロー将軍は砲撃隊に自陣の塹壕への砲撃を命じて、退却を阻止しようとする。砲撃隊長が抵抗したため砲撃はされないが、将軍二人は無謀な攻撃命令を正当化するために、突撃隊から3名をスケープゴートに仕立て、敵前逃亡罪で軍法会議にかけ、銃殺刑にする。大佐は司令官を自軍に砲撃命令を出したと告発し、将軍のポストを手に入れることに・・・
出世のためには部下の命など顧みないという士官・将官のエゴイスティックな姿をシニカルに描く、いかにもキューブリックらしい作品。上官や軍の命令に逆らえない悲しい兵士たちを感情を排して冷徹に描くのも、塹壕の中をカメラ目線で移動していくカメラワークもキューブリックらしい。
ラストで出撃間近の兵士たちが感傷的になって涙を流すが、尻切れトンボの感があって、結末が曖昧なままの中途半端な終わり方が残念。
劇中、大佐がブルーラル将軍にイギリスの詩人サミュエル・ジョンソンの言葉を引用するのが、本作のテーマといえばテーマ。「愛国心は時代遅れかもしれないが、愛国者は誠実だ」と言う将軍に、「愛国心は悪党の最後の隠れ家だ」(He said it(=patriotism) was the last refuge of a scoundrel.)と答える。
後にキューブリックと結婚するクリスティアーヌ・ハーランがドイツ人歌手役で出演。 (評価:2.5)

昼下りの情事
日本公開:1957年8月15日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:ビリー・ワイルダー 脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド 撮影:ウィリアム・C・メラー 音楽:フランツ・ワックスマン
原題は"Love in the Afternoon"。タイトルは、オードリー・ヘプバーン扮する娘アリアーヌが、プレイボーイのゲイリー・クーパーの誘いに対し、昼間しかホテルを訪ねず、夜には帰ってしまうことから。
クロード・アネのフランス小説"Ariane, jeune fille russe"が原作。
アリアーヌはパリの私立探偵の娘で、父の依頼人が妻の浮気相手を射殺するためにリッツ・ホテルの部屋を訪れるのを知って、妻と入れ替わって事件を未然に防ぐ。ところがプレイボーイの男に恋してしまい、恋多き女を演じて相手の関心を引き、密会を重ねる。男は私立探偵に身元調査を頼むが、探偵はそれが自分の娘と知って逆に男に別れるように頼む。パリの駅での別離がラストシーンとなるが・・・最後はハッピーエンド。
話は面白いが、この作品には制約が多く、28歳のヘプバーンは清純でなければならず、ホテルでの午後の逢瀬はキス止まり。プレイボーイの男を演じるゲイリー・クーパー56歳は永遠の二枚目スターで、アリアーヌが彼に一目惚れするのは有無を言わさないお約束事。しかし、アリアーヌがなぜ男を好きになってしまうのか全く説得力がない。
男が大富豪だからというには、ヘプバーンが打算的な女に見えないのが辛いし、女の尻ばかり追い回している男に心惹かれる娘にも見えない。
テーマは、女好きだが愛を知らない悲しいプレイボーイが、清純な娘によって初めて真実の愛を知るというもの。臭いテーマだが、そこはお洒落なラブ・ストーリーということで目を瞑るにしても、娘が男に魅かれる理由がわからず、一時の気の迷いですらない。ハッピーエンドも、すぐに二人が破局を迎える予感でいっぱい。
名作と比べるのは酷だが、チャップリンの『ライムライト』(1952)も若い娘と壮年の男との恋物語で、こちらは娘がなぜ男を好きになるか説得力があり、歳の差による二人の別れが切なくもある。 本作は所詮、美男美女のスター映画と言ってしまえばそれで終わりだが・・・
肩に力の入らないラブコメで、冒頭のフランス人は所構わずキスをするという描写が面白く、とりわけ散水車も気にしない男女がいい。
劇中にも流れる主題曲「魅惑のワルツ」は1932年の曲で、フランスのフェルモ・ダンテ・マルシッチの作曲。父親と探偵を演じるモーリス・シュヴァリエの演技がなかなかいい。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1957年10月6日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール、ジャン・オーレル 撮影:ロベール・ルフェーヴル 音楽:ジョルジュ・ブラッサンス
キネマ旬報:6位
バルビエごっこで遊ぶ町の悪ガキたちが結構イケている
原題"Porte des Lilas"で、邦題の意。リラ門はパリ北東にあった市壁の門。ルネ・ファレの同名小説が原作。
主人公のジュジュ(ピエール・ブラッスール)は、働かずに母親に食わせてもらっているのに毎日酒ばかり飲んでいるという碌でなしだが、優しくて人の好いのが取り柄。
親友で独り者のギター弾き「芸術家」(ジョルジュ・ブラッサンス)の家に入り浸っていたが、ある日、指名手配の殺人犯バルビエ(アンリ・ヴィダル)が逃げ込んで来て、人の良いのを通り越して警察から匿うことになる。
二人がなぜ警察に通報しないのかが最後まで謎だが、密告を潔しとしない台詞もあって、犯罪者を警察権力から守るのがフランス革命、ないしはジャン・バルジャン以来のフランス人気質なのか、それとも二人が反権力主義者なのか。少々おつむの足りないジュジュは、バルビエを気に入って親友だと思い込んでいる様子。
芸術家は厄介払いのために、パスポートを偽造して海外に高飛びする手伝いまでしてやるというから真意が良くわからない。
二人とバルビエの奇妙な友情物語となるが、ここにジュジュと兄妹のように仲のいいマリア(ダニー・カレル)が絡んでくる。
芸術家の家に誰かいると気づいたマリアは、おつむの足りないジュジュからバルビエの存在を聞き出し、芸術家の家に忍び込んでバルビエと鉢合わせ。二枚目で悪カッコいいバルビエはマリアを籠絡して、夜な夜な芸術家の地下室で忍び逢う仲になってしまう。
異変に気付いたのがマリアの親父。マリアは外出禁止となるが、バルビエはパスポートが手に入っていよいよ高飛び。マリアは後を追うつもりでジュジュに伝言を頼むが、バルビエにその気がないのを知ったジュジュは争ってバルビエを殺してしまう。
ジュジュはマリアのことが好きで、バルビエも好きだから二人を娶せようとする、ジュジュの密かな思いのラブストーリーという体裁だが、物語の設定に無理があり過ぎるのが頭を離れず、悲恋物語として胸にストンと落ちてこない。
この4人の若干空回り気味のストーリーは幾分間延びして退屈だが、町の悪ガキたちが結構イケていて、バルビエが警察に追われて町に逃げ込んでくると、新聞記事を真似たバルビエごっこで遊ぶ。この遊びでバルビエの犯行のあらましを説明する演出も上手い。 (評価:2)

日本公開:1957年10月6日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール、ジャン・オーレル 撮影:ロベール・ルフェーヴル 音楽:ジョルジュ・ブラッサンス
キネマ旬報:6位
原題"Porte des Lilas"で、邦題の意。リラ門はパリ北東にあった市壁の門。ルネ・ファレの同名小説が原作。
主人公のジュジュ(ピエール・ブラッスール)は、働かずに母親に食わせてもらっているのに毎日酒ばかり飲んでいるという碌でなしだが、優しくて人の好いのが取り柄。
親友で独り者のギター弾き「芸術家」(ジョルジュ・ブラッサンス)の家に入り浸っていたが、ある日、指名手配の殺人犯バルビエ(アンリ・ヴィダル)が逃げ込んで来て、人の良いのを通り越して警察から匿うことになる。
二人がなぜ警察に通報しないのかが最後まで謎だが、密告を潔しとしない台詞もあって、犯罪者を警察権力から守るのがフランス革命、ないしはジャン・バルジャン以来のフランス人気質なのか、それとも二人が反権力主義者なのか。少々おつむの足りないジュジュは、バルビエを気に入って親友だと思い込んでいる様子。
芸術家は厄介払いのために、パスポートを偽造して海外に高飛びする手伝いまでしてやるというから真意が良くわからない。
二人とバルビエの奇妙な友情物語となるが、ここにジュジュと兄妹のように仲のいいマリア(ダニー・カレル)が絡んでくる。
芸術家の家に誰かいると気づいたマリアは、おつむの足りないジュジュからバルビエの存在を聞き出し、芸術家の家に忍び込んでバルビエと鉢合わせ。二枚目で悪カッコいいバルビエはマリアを籠絡して、夜な夜な芸術家の地下室で忍び逢う仲になってしまう。
異変に気付いたのがマリアの親父。マリアは外出禁止となるが、バルビエはパスポートが手に入っていよいよ高飛び。マリアは後を追うつもりでジュジュに伝言を頼むが、バルビエにその気がないのを知ったジュジュは争ってバルビエを殺してしまう。
ジュジュはマリアのことが好きで、バルビエも好きだから二人を娶せようとする、ジュジュの密かな思いのラブストーリーという体裁だが、物語の設定に無理があり過ぎるのが頭を離れず、悲恋物語として胸にストンと落ちてこない。
この4人の若干空回り気味のストーリーは幾分間延びして退屈だが、町の悪ガキたちが結構イケていて、バルビエが警察に追われて町に逃げ込んでくると、新聞記事を真似たバルビエごっこで遊ぶ。この遊びでバルビエの犯行のあらましを説明する演出も上手い。 (評価:2)

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1957年12月22日
監督:デヴィッド・リーン 脚本:カール・フォアマン、マイケル・ウィルソン 撮影:ジャック・ヒルデヤード 音楽:マルコム・アーノルド
キネマ旬報:5位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
ラスト10分を観るためだけの戦争ヒーロー娯楽映画
原題は"The Bridge on The River Kwai"でクワイ河の橋の意。原作はフランスの作家ピエール・ブールの小説"Aux sources de la rivière Kwaï"(クワイ河の源)。テーマ曲のクワイ河マーチが有名だが、ケネス・ジョゼフ・アルフォード作曲の"Colonel Bogey"(ボギー大佐)が原曲。
第二次世界大戦中、日本軍は泰緬鉄道を敷設し、タイ西部メクロン河に架橋をするが、その物語をフィクショナルに描いた物語。架橋に使役されたイギリス軍などの連合軍捕虜と日本軍将校の確執を中心に、米軍の脱走兵が協力してゲリラ隊が橋を爆破するまで。
子供の頃に観たきりだったが、久し振りに見ると史実からも戦争の実態からも大きくかけ離れた戦争ヒーロー娯楽映画で、こんな映画だったかと唖然とする。内容的には★1.5の駄作。ただ、スリランカで撮影用に架橋するなど、大がかりなセットと山中のロケは迫力十分で、その見ごたえは十分。橋を爆破するラストシーンがこの映画の名場面で、これに☆0.5を加えた。この映画はラスト10分、さらに言えば爆破シーンの5分がすべてで、残りの150分はそれを見るための長~い長~い前奏曲。
ラストの10分は、イギリス軍将校が捕虜を指揮し後代に残そうとして完成させた橋が、連合軍の勝利のために破壊されてしまう戦争の無意味さを描く。
日本軍の描き方はエキゾチックかつステレオタイプ。橋爆破のための決死隊はタイ人の湯女を連れ歩くというハリウッド的東洋蔑視お色気エンタテイメントで、戦闘まで手伝わせてしまう爆笑もの。
史実的には映画に出てくる木橋は、泰緬鉄道の鉄橋建設のための資材運搬用に架けられたもので、架橋は1942年。鉄橋の完成は半年後。連合軍捕虜も建設労務に駆り出されたが、設計・建設の主体は日本軍の鉄道連隊。どちらも連合軍の爆撃によって破壊されたが、木橋は復旧と破壊を繰り返している。
橋の架かるメクロン河上流は、本作の公開後にクウェー川(クワイ河)と呼ばれるようになった。 (評価:2)

日本公開:1957年12月22日
監督:デヴィッド・リーン 脚本:カール・フォアマン、マイケル・ウィルソン 撮影:ジャック・ヒルデヤード 音楽:マルコム・アーノルド
キネマ旬報:5位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題は"The Bridge on The River Kwai"でクワイ河の橋の意。原作はフランスの作家ピエール・ブールの小説"Aux sources de la rivière Kwaï"(クワイ河の源)。テーマ曲のクワイ河マーチが有名だが、ケネス・ジョゼフ・アルフォード作曲の"Colonel Bogey"(ボギー大佐)が原曲。
第二次世界大戦中、日本軍は泰緬鉄道を敷設し、タイ西部メクロン河に架橋をするが、その物語をフィクショナルに描いた物語。架橋に使役されたイギリス軍などの連合軍捕虜と日本軍将校の確執を中心に、米軍の脱走兵が協力してゲリラ隊が橋を爆破するまで。
子供の頃に観たきりだったが、久し振りに見ると史実からも戦争の実態からも大きくかけ離れた戦争ヒーロー娯楽映画で、こんな映画だったかと唖然とする。内容的には★1.5の駄作。ただ、スリランカで撮影用に架橋するなど、大がかりなセットと山中のロケは迫力十分で、その見ごたえは十分。橋を爆破するラストシーンがこの映画の名場面で、これに☆0.5を加えた。この映画はラスト10分、さらに言えば爆破シーンの5分がすべてで、残りの150分はそれを見るための長~い長~い前奏曲。
ラストの10分は、イギリス軍将校が捕虜を指揮し後代に残そうとして完成させた橋が、連合軍の勝利のために破壊されてしまう戦争の無意味さを描く。
日本軍の描き方はエキゾチックかつステレオタイプ。橋爆破のための決死隊はタイ人の湯女を連れ歩くというハリウッド的東洋蔑視お色気エンタテイメントで、戦闘まで手伝わせてしまう爆笑もの。
史実的には映画に出てくる木橋は、泰緬鉄道の鉄橋建設のための資材運搬用に架けられたもので、架橋は1942年。鉄橋の完成は半年後。連合軍捕虜も建設労務に駆り出されたが、設計・建設の主体は日本軍の鉄道連隊。どちらも連合軍の爆撃によって破壊されたが、木橋は復旧と破壊を繰り返している。
橋の架かるメクロン河上流は、本作の公開後にクウェー川(クワイ河)と呼ばれるようになった。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1957年7月13日
監督:テレンス・フィッシャー 製作:アンソニー・ハインズ 脚本:ジミー・サングスター 撮影:ジャック・アッシャー 音楽:ジェームズ・バーナード
クリストファー・リーの怪物は怪人でしかなくインパクト不足
原題"The Curse of Frankenstein"で、フランケンシュタインの呪いの意。メアリー・シェリーの小説"Frankenstein"が原作。
ハマー・フィルム制作の「フランケンシュタイン」シリーズ第1作。
怪物(creature)を演じるのはクリストファー・リーだが、ユニバーサル版のボリス・カーロフの無機質な人造人間のメイクには負けていて、包帯を取っても単なる怪人でしかないのがインパクト不足。
原作に大枠で沿っているユニバーサル版を踏襲した感じで、狂人の脳ではなく学者の脳を傷つけたために怪物が凶暴化するという設定に変更されている。
ヴィクター(ピーター・カッシング)はフランケンシュタイン男爵の家督を相続した金持ちで、家庭教師クレンプ(ロバート・アークハート)と共に研究を極めて人造人間を創造する。そのためには殺人も辞さない。
最後はヴィクター自身が怪物を酸で消滅させてしまうが、殺人を犯したヴィクターは牢屋に入れられ、訪ねてきた司祭に無罪を主張するために事件の顛末を語るという、回想形式の枠物語になっている。
牢を出た司祭はヴィクターの妻エリザベス(ヘイゼル・コート)とクレンプに助命できないことを伝え、ヴィクターはギロチン台に向かうというラスト。
冒頭、司祭がスイスの山道を馬に乗ってやってくるシーンがあるが、美術セットが安っぽく、全体にチープな作りになっているのもB級感漂う。
クリストファー・リーの起用もメイクのし過ぎで効果半減。 (評価:2)

日本公開:1957年7月13日
監督:テレンス・フィッシャー 製作:アンソニー・ハインズ 脚本:ジミー・サングスター 撮影:ジャック・アッシャー 音楽:ジェームズ・バーナード
原題"The Curse of Frankenstein"で、フランケンシュタインの呪いの意。メアリー・シェリーの小説"Frankenstein"が原作。
ハマー・フィルム制作の「フランケンシュタイン」シリーズ第1作。
怪物(creature)を演じるのはクリストファー・リーだが、ユニバーサル版のボリス・カーロフの無機質な人造人間のメイクには負けていて、包帯を取っても単なる怪人でしかないのがインパクト不足。
原作に大枠で沿っているユニバーサル版を踏襲した感じで、狂人の脳ではなく学者の脳を傷つけたために怪物が凶暴化するという設定に変更されている。
ヴィクター(ピーター・カッシング)はフランケンシュタイン男爵の家督を相続した金持ちで、家庭教師クレンプ(ロバート・アークハート)と共に研究を極めて人造人間を創造する。そのためには殺人も辞さない。
最後はヴィクター自身が怪物を酸で消滅させてしまうが、殺人を犯したヴィクターは牢屋に入れられ、訪ねてきた司祭に無罪を主張するために事件の顛末を語るという、回想形式の枠物語になっている。
牢を出た司祭はヴィクターの妻エリザベス(ヘイゼル・コート)とクレンプに助命できないことを伝え、ヴィクターはギロチン台に向かうというラスト。
冒頭、司祭がスイスの山道を馬に乗ってやってくるシーンがあるが、美術セットが安っぽく、全体にチープな作りになっているのもB級感漂う。
クリストファー・リーの起用もメイクのし過ぎで効果半減。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1957年8月15日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:リーランド・ヘイワード 脚本:ビリー・ワイルダー、ウェンデル・メイズ 撮影:ロバート・バークス、J・ペヴァレル・マーレイ 音楽:フランツ・ワックスマン
キネマ旬報:3位
ドラマチックな演出よりも淡々とした偉業が見たかった
原題"The Spirit of St. Louis"で、スピリット・オブ・セントルイス号の意。大西洋横断飛行に成功したチャールズ・リンドバーグの単葉機の機名のことで、リンドバーグの同名自叙伝が原作。
第一次世界大戦後、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ最初の連合国飛行士に対して賞金25000ドルのオルティーグ賞が設定され、1927年、リンドバーグ(ジェームズ・ステュアート)がこれに成功する物語。
出発の前夜、ニューヨーク・ルーズベルト飛行場でのリンドバーグの回想から始まり、ニューヨーク-シカゴ間のエア・メールの飛行士だったリンドバーグがオルティーグ賞の挑戦を思い立ち、飛行機購入・スポンサーとの交渉、飛行機の設計・製造・テスト飛行と準備を重ねながら、他の挑戦者との先陣争いの状況などを説明していく。
出発日、重量を極限まで減らし、ぬかるんだ滑走路を飛び立つが、面白いのはここまでで、飛行場を飛び立った途端、予想されたことだがあとは空を飛ぶだけのシーンになる。
東海岸を北上しニューファンドランド島まで地上が見えているうちは良いが、大西洋に出ると途端に退屈になり、リンドバーグの飛行士としての経歴を紹介する回想で間を繋ぐようになる。これが大西洋横断飛行の緊張感を途切れさせて、ダレたものにしている。
機体の着氷や居眠りなど、それなりに冒険譚も取り入れてはいるが、脚色が過ぎてリアリティを損なっている。
制作当時はドラマチックな演出は常套手段とはいえ、淡々とした偉業を見たかった。 (評価:2)

日本公開:1957年8月15日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:リーランド・ヘイワード 脚本:ビリー・ワイルダー、ウェンデル・メイズ 撮影:ロバート・バークス、J・ペヴァレル・マーレイ 音楽:フランツ・ワックスマン
キネマ旬報:3位
原題"The Spirit of St. Louis"で、スピリット・オブ・セントルイス号の意。大西洋横断飛行に成功したチャールズ・リンドバーグの単葉機の機名のことで、リンドバーグの同名自叙伝が原作。
第一次世界大戦後、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ最初の連合国飛行士に対して賞金25000ドルのオルティーグ賞が設定され、1927年、リンドバーグ(ジェームズ・ステュアート)がこれに成功する物語。
出発の前夜、ニューヨーク・ルーズベルト飛行場でのリンドバーグの回想から始まり、ニューヨーク-シカゴ間のエア・メールの飛行士だったリンドバーグがオルティーグ賞の挑戦を思い立ち、飛行機購入・スポンサーとの交渉、飛行機の設計・製造・テスト飛行と準備を重ねながら、他の挑戦者との先陣争いの状況などを説明していく。
出発日、重量を極限まで減らし、ぬかるんだ滑走路を飛び立つが、面白いのはここまでで、飛行場を飛び立った途端、予想されたことだがあとは空を飛ぶだけのシーンになる。
東海岸を北上しニューファンドランド島まで地上が見えているうちは良いが、大西洋に出ると途端に退屈になり、リンドバーグの飛行士としての経歴を紹介する回想で間を繋ぐようになる。これが大西洋横断飛行の緊張感を途切れさせて、ダレたものにしている。
機体の着氷や居眠りなど、それなりに冒険譚も取り入れてはいるが、脚色が過ぎてリアリティを損なっている。
制作当時はドラマチックな演出は常套手段とはいえ、淡々とした偉業を見たかった。 (評価:2)

悲しみよこんにちは
日本公開:1958年4月29日
監督:オットー・プレミンジャー 製作:オットー・プレミンジャー 脚本:アーサー・ローレンツ 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:ジョルジュ・オーリック
原題"Bonjour Tristesse"で、邦題の意。フランソワーズ・サガンの同名小説が原作。
サガンが18歳の時に出版された処女作で、当時の時代性や世の中に与えた影響を別にすれば、感性豊かで才気あるブルジョア少女の空疎なジュブナイル・ストーリー。
妻に先立たれたブルジョアのプレイボーイ、レイモン(デヴィッド・ニーヴン)を父に持つ娘セシル(ジーン・セバーグ)が夏休みをコート・ダジュールの別荘で過ごすというもので、物語の始めではすでに父の若い恋人エルザ(ミレーヌ・ドモンジョ)が逗留中。しかもセシルはこのことに何の抵抗も感じてないというサバけた父娘の関係。
父娘二人で毎日をブルジョア的放蕩に費やしているためにセシルは大学試験に落第。そこにファッションデザイナーとして自立した女である、母の友人で父の本命アンヌ(デボラ・カー)がやってくる。
早速、二人は婚約。父を独占できなくなったセシルは、エルザに父を誘惑させ、失意のアンヌは車で別荘を飛び出し、崖から転落死する。
セシルは事故ではなく自殺だと考えるが、そこは人生経験のない小娘の浅はかなセンチメントで、アンヌが低俗な男の不実に心が揺らぐような女ではないことは明らか。遊んでないで勉強しろと言うアンヌに、セシルが「いつだって私を養ってくれる男がいるわ。だから学位なんて必要ない」(I'm sure there'll always be a man to take care of me. And you don't need a diploma for that)と言い返すと、アンヌは「下品なこと言わないで、冗談でも」と叱っている。
アンヌが金以外に中身のないレイモンのどこが気に入ったのか謎だが、小利口なセシルが碌でもない父と婚約したアンヌに嫉妬するのも謎。
所詮は夢見がちなファザコン少女の少女趣味のお話と思って、コート・ダジュールの青い海とブルジョア気分に浸りながら、ジーン・セバーグのセシル・カットを眺めるくらいの作品。 (評価:2)

地球へ2千万マイル
日本公開:劇場未公開
監督:ネイザン・ジュラン 製作:チャールズ・H・シニア 脚本:クリストファー・ノップ、ボブ・ウィリアムズ 撮影:アーヴィング・リップマン 音楽:ミッシャ・バカライニコフ
原題"20 Million Miles to Earth"で、邦題の意。
アメリカの金星探査船が地球に戻る途中、隕石と衝突して地中海に落下。金星で採取した生命体イーマの卵が孵化し、これをローマの動物園に収容したところ電気事故で逃亡。象と戦ったのち、フォロ・ロマーノの遺跡を破壊し、コロッセオに追い詰められて転落死するまで。
SFだが、捕り物以外にドラマがあるわけでもなく、SF設定が面白いわけでもなく、単にレイ・ハリーハウゼンの特撮でローマ見物をするだけの話。メインは怪獣イーマのストップモーション・アニメを楽しむことになるが、冒頭海に突き刺さる宇宙船の合成もちょっとした見どころで、メリエスの『月世界旅行』(1902)の月面に突き刺さった宇宙船を連想させて微笑ましい。
イーマが人間を襲ったり、象と戦うシーン、ローマ観光をするシーンなど、アニメと合成、ミニチュアセットなど特撮面だけを見ればとても良くできているが、アクションだけでドラマがないのが寂しい。
墜落した金星探査船の生存者、カルダー大佐が如何にもなアメリカのタフガイの傲慢さを撒き散らして殴りたくなるが、これを受け入れるイタリア娘マリザもアメリカ娘のようで腹立たしい。もちろん舞台はイタリアでも、演じる俳優も演出する監督もアメリカ人なので、アメリカ風になるのは致し方ないが。
怪獣が被害をもたらしている最中に、カルダーとマリザがイチャイチャしながらデートの約束をするのが如何にもハリウッド。科学設定も相当に無茶苦茶で、もっと真面目にSF映画を作ってもらいたい。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:ヴァル・ゲスト 製作:オーブリー・ベアリング 脚本:ナイジェル・ニール 撮影:アーサー・グラント 音楽:ジョン・ホリングスワース
B級ヒューマニズムが香るエキゾチック・インド
原題は"The Abominable Snowman"で、忌まわしき雪男。
タイトルだが、忌わしいのは雪男ではなく、雪男を捕まえて見世物にし、金儲けしようという人間の方が忌わしいという内容になっている。
インドの村で雪男の研究をしているイギリス男が、イギリスからやっていた雪男探索隊とヒマラヤに登る物語。村を仕切るラマ僧には予知能力があり、学者の妻も捜索隊が遭難する不安に駆られる。案の定、吹雪の中で雪男に襲われるが、雪男は人類に追われて山中に籠っている平和主義者で、人類が滅んで天下がやってくるのをじっと待っているだけだと学者は推論する。
『大アマゾンの半魚人』もそうだが、この時代の秘境探検映画は、未確認生物に対する恐怖よりも、人間の方が怪物よりも危険なんだという動物園の鏡の思想に転じているものが多く、本作もその一つ。学者は雪男を目撃したにもかかわらず、存在しなかったという結論で雪男を保護する。
日本未公開のB級ホラーの王道を行く作品で、流暢な英語を話すラマ僧が「単語がわからない」と言ってイギリス人に聞き返す場面や、わけのわからない即席振り付けで奉納舞踊をする仏教徒、ロケとセットを合わせた無茶苦茶な雪山登山のシーンなど突っ込みどころは満載。
雪男はラマ僧たちの畏怖する神らしく、仏教の教義などどうでもいいというエキゾチックな演出にB級らしさが香る。撮影場所不明の雪山のロケシーンもあって、それなりに製作費は掛っているが、肝腎の雪男がほとんど顔を見せないのが残念。 (評価:2)

日本公開:劇場未公開
監督:ヴァル・ゲスト 製作:オーブリー・ベアリング 脚本:ナイジェル・ニール 撮影:アーサー・グラント 音楽:ジョン・ホリングスワース
原題は"The Abominable Snowman"で、忌まわしき雪男。
タイトルだが、忌わしいのは雪男ではなく、雪男を捕まえて見世物にし、金儲けしようという人間の方が忌わしいという内容になっている。
インドの村で雪男の研究をしているイギリス男が、イギリスからやっていた雪男探索隊とヒマラヤに登る物語。村を仕切るラマ僧には予知能力があり、学者の妻も捜索隊が遭難する不安に駆られる。案の定、吹雪の中で雪男に襲われるが、雪男は人類に追われて山中に籠っている平和主義者で、人類が滅んで天下がやってくるのをじっと待っているだけだと学者は推論する。
『大アマゾンの半魚人』もそうだが、この時代の秘境探検映画は、未確認生物に対する恐怖よりも、人間の方が怪物よりも危険なんだという動物園の鏡の思想に転じているものが多く、本作もその一つ。学者は雪男を目撃したにもかかわらず、存在しなかったという結論で雪男を保護する。
日本未公開のB級ホラーの王道を行く作品で、流暢な英語を話すラマ僧が「単語がわからない」と言ってイギリス人に聞き返す場面や、わけのわからない即席振り付けで奉納舞踊をする仏教徒、ロケとセットを合わせた無茶苦茶な雪山登山のシーンなど突っ込みどころは満載。
雪男はラマ僧たちの畏怖する神らしく、仏教の教義などどうでもいいというエキゾチックな演出にB級らしさが香る。撮影場所不明の雪山のロケシーンもあって、それなりに製作費は掛っているが、肝腎の雪男がほとんど顔を見せないのが残念。 (評価:2)
