外国映画レビュー──1959年
製作国:フランス
日本公開:1960年3月17日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ジャン・コンスタンタン
キネマ旬報:5位
これじゃ子供もグレるだろうという抒情詩的な映画
名匠フランソワ・トリュフォー監督の初期作品にして初長編。原題は"Les Quatre Cents Coups"で「400回の殴打」で無分別を意味する慣用句に由来。
当時、日本の映画界に影響を与えたヌーベルバーグ作品で、複雑な家庭環境に育つ12歳の少年が、強権的な両親や学校教師に耐えきれなくなり、家出した挙句に鑑別所送りとなり、脱走して初めて海を見るまでを描く。抒情詩的な映画で、邦題の付け方が上手かった。
少年は母親の連れ子で、母は父への体面から厳しくあたる。学校でも教師に罰を受け、居場所をなくした少年は友人と学校をサボり、父からも殴られるが、外泊したことがきっかけで一度は家族と仲直りする。しかし少年が書いた作文を教師がバルザックの丸映しだと叱責したことから友人と家出し、金に困って父の会社のタイプライターを盗む。手に負えないと思った父は息子を警察に突き出し、鑑別所送りとなる。
親もひどければ教師もひどい。これじゃ子供もグレるだろうという映画だが、当時のフランスの下層社会の現実を描いていたのかもしれない。 (評価:3)

日本公開:1960年3月17日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ジャン・コンスタンタン
キネマ旬報:5位
名匠フランソワ・トリュフォー監督の初期作品にして初長編。原題は"Les Quatre Cents Coups"で「400回の殴打」で無分別を意味する慣用句に由来。
当時、日本の映画界に影響を与えたヌーベルバーグ作品で、複雑な家庭環境に育つ12歳の少年が、強権的な両親や学校教師に耐えきれなくなり、家出した挙句に鑑別所送りとなり、脱走して初めて海を見るまでを描く。抒情詩的な映画で、邦題の付け方が上手かった。
少年は母親の連れ子で、母は父への体面から厳しくあたる。学校でも教師に罰を受け、居場所をなくした少年は友人と学校をサボり、父からも殴られるが、外泊したことがきっかけで一度は家族と仲直りする。しかし少年が書いた作文を教師がバルザックの丸映しだと叱責したことから友人と家出し、金に困って父の会社のタイプライターを盗む。手に負えないと思った父は息子を警察に突き出し、鑑別所送りとなる。
親もひどければ教師もひどい。これじゃ子供もグレるだろうという映画だが、当時のフランスの下層社会の現実を描いていたのかもしれない。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1960年7月7日
監督:マルセル・カミュ 製作:サーシャ・ゴルディン 脚本:マルセル・カミュ、ジャック・ヴィオ 撮影:ジャン・ブールゴワン 音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ
キネマ旬報:6位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭パルム・ドール
思わず踊りたくなる南米の色彩映像とサンバの音楽
原題は"Orfeu Negro"で邦訳の意。原作はブラジルの作家ヴィニシウス・ヂ・モライスの戯曲"Orfeu da Conceição"で、受胎のオルフェといった意味か?
オルフェはギリシャ神話に登場する竪琴の名手オルフェウス、悲劇の恋人ユーリディスは同じくニンフのエウリュディケーのことでどちらもロマンス語の発音。オルフェウスが毒蛇に噛まれて死んだエウリュディケーを取り返しに冥府に下る有名なエピソードがあって、冥界の王ハーデースに許されて地上に帰ろうとするが、振り返って妻の顔を見てしまったために失敗する。
映画はこのモチーフを基に、リオデジャネイロを舞台とした色の黒いオルフェウスとエウリュディケーの悲恋となっている。ユーリディスが死神に追われているといった唐突な設定や、オルフェがギターの名手で女にもてる、ユーリディスの死体を取り戻しに病院を彷徨う、秘教集団に入って甦りを図るといった話も、神話を知らないと不可解の連続で呆気にとられる。
オルフェウスは太陽神ヘリオスを敬っていたために殺されるが、映画では彼のギターは太陽を昇らせると信じられ、神話と符号する。殺したのは酒の神ディオニソスに命じられたマイナスたちで、彼女らは酒と踊りで常に狂乱している。ユーリディスが死ぬのもリオのカーニバルの最中で、マイナスたちがイメージされている。
死んだオルフェウスはエーゲ海の島に流れ着き、竪琴と共に葬られるが、映画ではオルフェの魂は永遠で、オルフェの加護を受けたリオでは、その音楽とギターは次の少年に受け継がれていくという話になっている。
カンヌ国際映画祭パルムドール、アカデミー外国語映画賞を受賞。
見どころは南米らしい華やかな色彩の映像とサンバの音楽。見ていてリズムをとって踊りたくなる。スラムで貧しくとも陽気に生きる人々の姿がいい。カーニバルの前日から準備や会場に向かう当日の様子も見どころ。
哀愁のある曲でよく知られる『カーニバルの朝』は、途中一回しか流れない。 (評価:3)

日本公開:1960年7月7日
監督:マルセル・カミュ 製作:サーシャ・ゴルディン 脚本:マルセル・カミュ、ジャック・ヴィオ 撮影:ジャン・ブールゴワン 音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ
キネマ旬報:6位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭パルム・ドール
原題は"Orfeu Negro"で邦訳の意。原作はブラジルの作家ヴィニシウス・ヂ・モライスの戯曲"Orfeu da Conceição"で、受胎のオルフェといった意味か?
オルフェはギリシャ神話に登場する竪琴の名手オルフェウス、悲劇の恋人ユーリディスは同じくニンフのエウリュディケーのことでどちらもロマンス語の発音。オルフェウスが毒蛇に噛まれて死んだエウリュディケーを取り返しに冥府に下る有名なエピソードがあって、冥界の王ハーデースに許されて地上に帰ろうとするが、振り返って妻の顔を見てしまったために失敗する。
映画はこのモチーフを基に、リオデジャネイロを舞台とした色の黒いオルフェウスとエウリュディケーの悲恋となっている。ユーリディスが死神に追われているといった唐突な設定や、オルフェがギターの名手で女にもてる、ユーリディスの死体を取り戻しに病院を彷徨う、秘教集団に入って甦りを図るといった話も、神話を知らないと不可解の連続で呆気にとられる。
オルフェウスは太陽神ヘリオスを敬っていたために殺されるが、映画では彼のギターは太陽を昇らせると信じられ、神話と符号する。殺したのは酒の神ディオニソスに命じられたマイナスたちで、彼女らは酒と踊りで常に狂乱している。ユーリディスが死ぬのもリオのカーニバルの最中で、マイナスたちがイメージされている。
死んだオルフェウスはエーゲ海の島に流れ着き、竪琴と共に葬られるが、映画ではオルフェの魂は永遠で、オルフェの加護を受けたリオでは、その音楽とギターは次の少年に受け継がれていくという話になっている。
カンヌ国際映画祭パルムドール、アカデミー外国語映画賞を受賞。
見どころは南米らしい華やかな色彩の映像とサンバの音楽。見ていてリズムをとって踊りたくなる。スラムで貧しくとも陽気に生きる人々の姿がいい。カーニバルの前日から準備や会場に向かう当日の様子も見どころ。
哀愁のある曲でよく知られる『カーニバルの朝』は、途中一回しか流れない。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1960年3月26日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:マルシャル・ソラル
キネマ旬報:8位
その後に続くゴダール作品に比べれば遥かにわかりやすい
原題"À bout de souffle"で、息切れの意。
ゴダール初の長編映画で、フランソワ・トリュフォーの原案。映画の文法を無視した画期的な作品として評価の高いゴダールの代表作。省略が多いため若干わかりづらいが、その後に続くゴダール作品に比べれば遥かにわかりやすい。
自動車泥棒の常習犯ミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユから盗難車でパリに向かう途中、追ってきた警官を射殺。パリには知り合ったばかりだがミシェルが恋するアメリカ人の記者パトリシア(ジーン・セバーグ)がいてローマへの旅行を持ちかけるが、パリでチャンスを掴んだばかりのパトリシアは断る。
ここからは、パトリシアに夢中なミシェルと、ミシェルを愛しているかどうかわからないパトリシアの恋の駆け引きで、ミシェルの警官殺しを知ったパトリシアがミシェルの逃亡を助けながらも、心変わりして警察に通報。さらに通報したことを教えてミシェルに教えて去るように言うが、試されたミシェルは逃げずに留まる。
逃走資金を仲間から受け取ろうとしたところに警察が到着して撃たれ、パトリシアにふくれっ面をし「本当にdégueulasse(最低だ)」と言い残して息絶える。フランス語のわからないパトリシアの「dégueulasseって何?」のアップで終わる。
二人の感情のすれ違いは、言語のすれ違いに象徴されるが、ラストシーンが様々に解釈されることでヌーベルバーグの名作たる由縁となっている。 (評価:2.5)

日本公開:1960年3月26日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:マルシャル・ソラル
キネマ旬報:8位
原題"À bout de souffle"で、息切れの意。
ゴダール初の長編映画で、フランソワ・トリュフォーの原案。映画の文法を無視した画期的な作品として評価の高いゴダールの代表作。省略が多いため若干わかりづらいが、その後に続くゴダール作品に比べれば遥かにわかりやすい。
自動車泥棒の常習犯ミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユから盗難車でパリに向かう途中、追ってきた警官を射殺。パリには知り合ったばかりだがミシェルが恋するアメリカ人の記者パトリシア(ジーン・セバーグ)がいてローマへの旅行を持ちかけるが、パリでチャンスを掴んだばかりのパトリシアは断る。
ここからは、パトリシアに夢中なミシェルと、ミシェルを愛しているかどうかわからないパトリシアの恋の駆け引きで、ミシェルの警官殺しを知ったパトリシアがミシェルの逃亡を助けながらも、心変わりして警察に通報。さらに通報したことを教えてミシェルに教えて去るように言うが、試されたミシェルは逃げずに留まる。
逃走資金を仲間から受け取ろうとしたところに警察が到着して撃たれ、パトリシアにふくれっ面をし「本当にdégueulasse(最低だ)」と言い残して息絶える。フランス語のわからないパトリシアの「dégueulasseって何?」のアップで終わる。
二人の感情のすれ違いは、言語のすれ違いに象徴されるが、ラストシーンが様々に解釈されることでヌーベルバーグの名作たる由縁となっている。 (評価:2.5)

お熱いのがお好き
日本公開:1959年4月29日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:ビリー・ワイルダー 脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド 撮影:チャールズ・ラング・Jr 音楽:アドルフ・ドイッチ
原題"Some Like It Hot"で、「お熱いのが好きな人たち」の意。劇中では、シュガー(マリリン・モンロー)がジョー(トニー・カーティス)扮するシェル石油の御曹司に出合うビーチでの会話に登場する。
ジャズミュージシャンだというシュガーの紹介を受けて、御曹司が"Does that mean you play that very fast music... jazz?"(あのとっても早い音楽を演奏するってこと? ジャズっていう)と訊くのに対し、シュガーが"Yeah. Real hot."(そう、とってもお熱いの)と答え、御曹司が"l guess some like it hot. l personally prefer classical music."(そのお熱いのが好きな人たちもいるみたいだね。僕はクラッシックの方が好きだけど)と言う。
フランス映画"Fanfare d'amour"(愛のファンファーレ、1935)の改作。
ストーリーは、1929年にシカゴで起きた聖バレンタインデーの虐殺を目撃したジョーとジェリー(ジャック・レモン)が、マフィアの手を逃れるために女に化けて、女性だけのジャズ楽団に潜入。フロリダへと向かうが、ジョーが楽団のシュガーに惚れてしまい、シェル石油の御曹司と偽って口説き落とすというもの。
一方、ジェリーの方は金持ちの爺さん(ジョー・E・ブラウン)に言い寄られ、この二組のカップルがラストシーンでどうなるかというのがお楽しみのロマンチックコメディ。
お色気もたっぷりの肩の凝らない作品で、女装したジャック・レモンのオカマぶりが見ものだが、ゴールデングローブ主演女優賞を獲ったマリリン・モンローが、色気よりもむしろキュートな魅力を全開させている。
女性だけのジャズ楽団という中でのマリリン・モンローの美しさと魅力は、それなりに美人でプロポーションもいい他の女優たちを完全に圧倒していて、ウェヌスとしての彼女を再発見できる。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1960年3月22日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 脚本:セルジオ・アミディ、ディエゴ・ファッブリ、インドロ・モンタネッリ 撮影:カルロ・カルリーニ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:4位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
ジャン・ヴァルジャンの定型を踏んだネオレアリズモ作品
原題"Il generale Della Rovere"で、デッラ・ロヴェレ将軍の意。インドロ・モンタネッリの実話に基づく同名小説が原作。
1943年のドイツ軍に占領されたジェノヴァが舞台。ペテン師のバルドーネ(ヴィットリオ・デ・シーカ)はドイツ軍の士官と懇意になり、夫や息子がゲシュタポに拘束された家族に釈放の口利きをしてやると騙して、金をせしめ取っていた。
ついに悪事がバレてゲシュタポに捕まるが、顔見知りだったミュラー大佐(ハンネス・メッセマー)がバルドーネをレジスタンスの指導者ロベレ将軍に仕立て、ミラノの刑務所の囚人の中にいると思われるパルチザンのリーダーを炙り出すために刑務所内に送り込む。
バルドーネは無罪放免のために大佐に協力するが、囚人たちの抵抗と勇気を見るうちに愛国心に目覚め、ロベレ将軍を演じ切ることを決意し、夫人に「死を前に思うのは君のことだ。イタリア万歳」のメモを残し、刑場の露と消える道を選ぶという物語。
ロッセリーニらしいネオレアリズモ作品で、ノンポリだったバルドーネが正しい道に目覚めるという、いわばジャン・ヴァルジャンの定型を踏んだ作品に仕上がっている。
主人公をデ・シーカが演じるのも見どころ。 (評価:2.5)

日本公開:1960年3月22日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 脚本:セルジオ・アミディ、ディエゴ・ファッブリ、インドロ・モンタネッリ 撮影:カルロ・カルリーニ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:4位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Il generale Della Rovere"で、デッラ・ロヴェレ将軍の意。インドロ・モンタネッリの実話に基づく同名小説が原作。
1943年のドイツ軍に占領されたジェノヴァが舞台。ペテン師のバルドーネ(ヴィットリオ・デ・シーカ)はドイツ軍の士官と懇意になり、夫や息子がゲシュタポに拘束された家族に釈放の口利きをしてやると騙して、金をせしめ取っていた。
ついに悪事がバレてゲシュタポに捕まるが、顔見知りだったミュラー大佐(ハンネス・メッセマー)がバルドーネをレジスタンスの指導者ロベレ将軍に仕立て、ミラノの刑務所の囚人の中にいると思われるパルチザンのリーダーを炙り出すために刑務所内に送り込む。
バルドーネは無罪放免のために大佐に協力するが、囚人たちの抵抗と勇気を見るうちに愛国心に目覚め、ロベレ将軍を演じ切ることを決意し、夫人に「死を前に思うのは君のことだ。イタリア万歳」のメモを残し、刑場の露と消える道を選ぶという物語。
ロッセリーニらしいネオレアリズモ作品で、ノンポリだったバルドーネが正しい道に目覚めるという、いわばジャン・ヴァルジャンの定型を踏んだ作品に仕上がっている。
主人公をデ・シーカが演じるのも見どころ。 (評価:2.5)

製作国:ソ連
日本公開:1960年11月29日
監督:グリゴーリ・チュフライ 脚本:ワレンチン・エジョフ、グリゴーリ・チュフライ 撮影:ウラジミール・ニコラーエフ、エラ・サヴェーリエワ 音楽:ミハイル・ジーフ
キネマ旬報:10位
戦時下の青年と少女の束の間の淡い恋物語が甘く切ない
原題"Баллада о солдате"で、兵士のバラードの意。
第二次世界大戦中の19歳の若い通信兵が主人公で、前線でドイツ軍の戦車を破壊したことから、特別休暇を願い出て母の待つ家に帰る旅路の物語。
母からの手紙で家の屋根を修理するため、往路2日、滞在2日、帰路2日の休暇をもらうが、真面目で人の好いアリョーシャは道中で出会った片足を失った兵士に付き添ったり、前線に赴く兵士に頼まれて妻に石鹸を届けたり、貨車に乗り込んできた少女シューラに恋して道中を共にしたり、列車が爆撃に遭って破壊されたりで、時間を空費し、結局わずかな時間母に会っただけで帰隊しなければならなくなる。
冒頭、アリョーシャが戦死したことが示唆され、母との最後の別れのエピソードが回想の形で描かれる。母が村はずれの細くて長い道を眺め、戦争が終わっても息子が帰ってこないことが語られ、それがアリョーシャが道を去って行くラストシーンへと繋がる。その光景が人影一つ、動物の姿一つないロシアの静寂な大地と結びついて、詩情溢れる映像となっている。
優しくて純粋で素朴な青年が、銃後に残された兵士の家族たちの喜びや悲しみに出会い、少女に恋するという出来事の中に、戦功とは対照的な平凡な日常の大切さを休暇という短い時間の中に凝縮して描く良心的な反戦映画。
冒頭、アリョーシャの戦友たちは母の知らない彼のエピソードを知っているというナレーションが入るが、語られるのは戦友たちも知らないアリョーシャだけが知っている物語で、あるいは翻訳に問題があったのか?
物語の中心となるアリョーシャとシューラの束の間の淡い恋物語が甘く切ない。 (評価:2.5)

日本公開:1960年11月29日
監督:グリゴーリ・チュフライ 脚本:ワレンチン・エジョフ、グリゴーリ・チュフライ 撮影:ウラジミール・ニコラーエフ、エラ・サヴェーリエワ 音楽:ミハイル・ジーフ
キネマ旬報:10位
原題"Баллада о солдате"で、兵士のバラードの意。
第二次世界大戦中の19歳の若い通信兵が主人公で、前線でドイツ軍の戦車を破壊したことから、特別休暇を願い出て母の待つ家に帰る旅路の物語。
母からの手紙で家の屋根を修理するため、往路2日、滞在2日、帰路2日の休暇をもらうが、真面目で人の好いアリョーシャは道中で出会った片足を失った兵士に付き添ったり、前線に赴く兵士に頼まれて妻に石鹸を届けたり、貨車に乗り込んできた少女シューラに恋して道中を共にしたり、列車が爆撃に遭って破壊されたりで、時間を空費し、結局わずかな時間母に会っただけで帰隊しなければならなくなる。
冒頭、アリョーシャが戦死したことが示唆され、母との最後の別れのエピソードが回想の形で描かれる。母が村はずれの細くて長い道を眺め、戦争が終わっても息子が帰ってこないことが語られ、それがアリョーシャが道を去って行くラストシーンへと繋がる。その光景が人影一つ、動物の姿一つないロシアの静寂な大地と結びついて、詩情溢れる映像となっている。
優しくて純粋で素朴な青年が、銃後に残された兵士の家族たちの喜びや悲しみに出会い、少女に恋するという出来事の中に、戦功とは対照的な平凡な日常の大切さを休暇という短い時間の中に凝縮して描く良心的な反戦映画。
冒頭、アリョーシャの戦友たちは母の知らない彼のエピソードを知っているというナレーションが入るが、語られるのは戦友たちも知らないアリョーシャだけが知っている物語で、あるいは翻訳に問題があったのか?
物語の中心となるアリョーシャとシューラの束の間の淡い恋物語が甘く切ない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開: 1960年4月1日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サム・ジンバリスト 脚本:カール・タンバーグ 撮影:ロバート・L・サーティース 音楽:ミクロス・ローザ
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
英雄譚か宗教譚かどっちつかずの二度と撮れない超大作
原題"Ben-Hur"。ルー・ウォーレスの小説"Ben-Hur: A Tale of the Christ"の3度目の映画化。
アカデミーでは監督・主演男優・助演男優・美術・撮影・衣装デザイン・編集・音楽・音響・視覚効果の各賞を受賞している。
3時間半を飽きずに見させるウィリアム・ワイラーの演出はさすがで、ガレー船を漕ぎ戦車を走らせるチャールトン・ヘストンの肉体演技にも感心。長身に筋骨隆々でシュワルツネッガーの姿がダブる。
クライマックスはマケドニア海賊との海戦、大戦車競走で、撮影・視覚効果も凄い。モブシーンのエキストラの数も半端ではなく、とにかく金かけました感はヒシヒシ伝わってくる。しかし、初っ端からの大作感丸出しの演出はちょっと鼻につくところがあって、長尺と合わせてもう少しコンパクトにまとめられなかったと思うが、やはりこれが当時の大作スタイルで、CGなしでこんな映画は二度と撮れない。
ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)はユダヤの王族の男で、新任のローマ総督のパレード中の事故から母・妹と逮捕されるが、親友のローマ将校メッサラ(スティーヴン・ボイド)はベン・ハーをガレー船に漕手に送る。海戦の際に司令官の命を救い、ローマで養子となり、再びエルサレムに戻ったベン・ハーはメッサラへの復讐を誓い、戦車競走で勝利。
このベン・ハーの物語に並行して、イエス・キリストの奇跡がサイドストーリーとして絡む。本作の冒頭のシーンは牛小屋で誕生するイエスと星に導かれてくる三賢者。喉の渇きに苦しむベン・ハーに水をやって命を救い、ユダヤの民衆に説教し、ゴルゴタの丘で十字架にかけられるイエスのシーンが入る。ベン・ハーはそれらを通してイエスに信心し、母と妹の癩病が全快するという奇跡に触れる。
1880年の原作で、ベン・ハーを主人公とする宗教物語という制約は理解できるが、映画にした場合にはベン・ハーの英雄物語かイエスの奇跡の宗教物語かどっちつかずで、主題が曖昧なのが大きなマイナス。その迷いが3時間半という冗長に繋がっている。 (評価:2.5)

日本公開: 1960年4月1日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サム・ジンバリスト 脚本:カール・タンバーグ 撮影:ロバート・L・サーティース 音楽:ミクロス・ローザ
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題"Ben-Hur"。ルー・ウォーレスの小説"Ben-Hur: A Tale of the Christ"の3度目の映画化。
アカデミーでは監督・主演男優・助演男優・美術・撮影・衣装デザイン・編集・音楽・音響・視覚効果の各賞を受賞している。
3時間半を飽きずに見させるウィリアム・ワイラーの演出はさすがで、ガレー船を漕ぎ戦車を走らせるチャールトン・ヘストンの肉体演技にも感心。長身に筋骨隆々でシュワルツネッガーの姿がダブる。
クライマックスはマケドニア海賊との海戦、大戦車競走で、撮影・視覚効果も凄い。モブシーンのエキストラの数も半端ではなく、とにかく金かけました感はヒシヒシ伝わってくる。しかし、初っ端からの大作感丸出しの演出はちょっと鼻につくところがあって、長尺と合わせてもう少しコンパクトにまとめられなかったと思うが、やはりこれが当時の大作スタイルで、CGなしでこんな映画は二度と撮れない。
ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)はユダヤの王族の男で、新任のローマ総督のパレード中の事故から母・妹と逮捕されるが、親友のローマ将校メッサラ(スティーヴン・ボイド)はベン・ハーをガレー船に漕手に送る。海戦の際に司令官の命を救い、ローマで養子となり、再びエルサレムに戻ったベン・ハーはメッサラへの復讐を誓い、戦車競走で勝利。
このベン・ハーの物語に並行して、イエス・キリストの奇跡がサイドストーリーとして絡む。本作の冒頭のシーンは牛小屋で誕生するイエスと星に導かれてくる三賢者。喉の渇きに苦しむベン・ハーに水をやって命を救い、ユダヤの民衆に説教し、ゴルゴタの丘で十字架にかけられるイエスのシーンが入る。ベン・ハーはそれらを通してイエスに信心し、母と妹の癩病が全快するという奇跡に触れる。
1880年の原作で、ベン・ハーを主人公とする宗教物語という制約は理解できるが、映画にした場合にはベン・ハーの英雄物語かイエスの奇跡の宗教物語かどっちつかずで、主題が曖昧なのが大きなマイナス。その迷いが3時間半という冗長に繋がっている。 (評価:2.5)

製作国:フランス、日本
日本公開:1959年6月20日
監督:アラン・レネ 製作:サミー・アルフォン、永田雅一 脚本:マルグリット・デュラス 撮影:サッシャ・ヴィエルニ、高橋通子 音楽:ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:7位
フランス美女と情事をしても違和感ない岡田英次
原題"Hiroshima mon amour"で、「ヒロシマ、わが愛」の意。
映画ロケのために広島にやってきたフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)と、妻子ある日本人男性(岡田英次)が撮影最後の夜に一夜限りの情事に耽るという物語だが、その寝物語というのが広島原爆投下と被爆の犯罪性についてで、それをどこまで理解できたかというのを二人が議論する。
当時の原爆資料館の展示が生々しく、原爆投下直後の映像は正視できないくらいに悲惨。一部、映画『ひろしま』(1953年)の映像も使われている。
日本人男性は広島出身で出征中だったために被爆を免れたものの親兄弟は全滅、フランス人女優はロワール川沿いのヌヴェール出身で戦時中ナチ将校と恋仲だったために迫害を受けたという過去を持つ。
枢軸国であるもののの絶対的被害者であるヒロシマと、連合国であるもののナチ将校と恋仲だったという理由だけで非人道的な被害を受けたヌヴェールの女という二つの存在の擬人化で、その二人が交合する中で交戦国の正邪を超えて、戦争そのものの犯罪性を浮き彫りにするという、観念的な物語になっている。
これはドラマではなく、男女の恋愛という形式を借りただけの戦争論であり、映画に物語性を求める人には全く評価に値しない作品で、映画に哲学や政治を求める人には改めて戦争と人間について考えるきっかけを与える。
制作当時を考慮すれば、このような映画があっても良かった時代で、社会に問題提起する意味を持っていた時代だったともいえる。
岡田英次はフランス美女と情事をしても違和感ないくらいにハンサムで、全編で流暢な気がするフランス語を話すが、実際には話せなかったらしい。 (評価:2.5)

日本公開:1959年6月20日
監督:アラン・レネ 製作:サミー・アルフォン、永田雅一 脚本:マルグリット・デュラス 撮影:サッシャ・ヴィエルニ、高橋通子 音楽:ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:7位
原題"Hiroshima mon amour"で、「ヒロシマ、わが愛」の意。
映画ロケのために広島にやってきたフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)と、妻子ある日本人男性(岡田英次)が撮影最後の夜に一夜限りの情事に耽るという物語だが、その寝物語というのが広島原爆投下と被爆の犯罪性についてで、それをどこまで理解できたかというのを二人が議論する。
当時の原爆資料館の展示が生々しく、原爆投下直後の映像は正視できないくらいに悲惨。一部、映画『ひろしま』(1953年)の映像も使われている。
日本人男性は広島出身で出征中だったために被爆を免れたものの親兄弟は全滅、フランス人女優はロワール川沿いのヌヴェール出身で戦時中ナチ将校と恋仲だったために迫害を受けたという過去を持つ。
枢軸国であるもののの絶対的被害者であるヒロシマと、連合国であるもののナチ将校と恋仲だったという理由だけで非人道的な被害を受けたヌヴェールの女という二つの存在の擬人化で、その二人が交合する中で交戦国の正邪を超えて、戦争そのものの犯罪性を浮き彫りにするという、観念的な物語になっている。
これはドラマではなく、男女の恋愛という形式を借りただけの戦争論であり、映画に物語性を求める人には全く評価に値しない作品で、映画に哲学や政治を求める人には改めて戦争と人間について考えるきっかけを与える。
制作当時を考慮すれば、このような映画があっても良かった時代で、社会に問題提起する意味を持っていた時代だったともいえる。
岡田英次はフランス美女と情事をしても違和感ないくらいにハンサムで、全編で流暢な気がするフランス語を話すが、実際には話せなかったらしい。 (評価:2.5)

眠れる森の美女
日本公開:1960年7月23日
監督:クライド・ジェロニミ、ウォルフガング・ライザーマン、エリック・ラーソン、レス・クラーク 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:アードマン・ペナー、ジョー・リナルディ、ウィンストン・ヒブラー、ビル・ピート、テッド・シアーズ、ラルフ・ライト、ミルト・バンタ 音楽:ジョージ・ブランス
原題"Sleeping Beauty"で、シャルル・ペローの童話"La Belle au bois dormant"(眠れる森の美女)が原作。
ヨーロッパのある国に王女が生まれ、祝宴に招待されなかった魔女が、王女は紡ぎ車の錘が刺さって眠りに就くという呪いをかけ、眠った姫が森にやってきた王子のキスによって目覚めるというストーリーは民話と同じ。
呪いをかけた魔女マレフィセントから、良い魔女3人が王女を守って16年間育てるが、マレフィセントに見つかってオーロラ姫は眠らされ、キス役のフィリップ王子は魔の城の地下牢に閉じ込められるが、良い魔女3人に助けられ、マレフィセントを倒してオーロラ姫を眠りから覚ますというアクションとドラマ性の高いシナリオになっている。
魔女の最終形態はドラゴンという、ドラゴン退治によって王女を救出するという西洋騎士物語の要素が取り入れられ、飽きない話になっている。
プロローグに絵本が登場し、扉を開けて物語を読んでいくという形式を採っていて、エピローグも絵本を閉じておしまいという形になっている。
そのため、アニメーションが切り絵風にデフォルメされた絵本の絵になっていて、従来のディズニーアニメのキャラクターデザインとは大きく異なることが大きな特色になっていて、見どころともなっている。
音楽にはチャイコフスキーの組曲「眠れる森の美女」が用いられ、ラストで二人がワルツを踊るシーンの動きも注目。『ファンタジア』(1940)の「魔法使いの弟子」を連想させるシーンもある。 (評価:2.5)

或る殺人
日本公開:1959年11月14日
監督:オットー・プレミンジャー 製作:オットー・プレミンジャー 脚本:ウェンデル・メイズ 撮影:サム・リーヴィット 音楽:デューク・エリントン
原題"Anatomy of a Murder"で、殺人の分析の意。ロバート・トレイバーの同名小説が原作。
妻をレイプした男を射殺した夫の実際にあった事件の裁判を基にした法廷劇。
ヤメ検の弁護士ポール(ジェームズ・ステュアート)はタイピストの給料にも事欠くが、親友のパーネル(アーサー・オコンネル)の勧めで件の射殺犯の弁護を引き受ける。
復讐とはいえ普通ならば一級殺人の死刑だが、弁護の狙いは如何に陪審員の同情を得て減刑に持ち込むか。
もっともレイプされた妻ローラ(リー・レミック)はふしだらで本当にレイプだったのか、夫のマニオン中尉(ベン・ギャザラ)は弁護士費用の後払いを願い出るトレーラーハウス住まいの文無しで、軍人らしく殺意を持って殺したのではないかが、検察の法廷作戦。
ポールは検察の狙いを巧みに外して、マニオンの精神錯乱を立証し、過去の判例を取り出して無罪に持ち込むが、検事相手に熱弁を奮う弁護士役のジェームズ・スチュアートの演技が最大の見どころ。
裁判に勝って弁護士事務所の台所事情も好転するかと思いきや、裁判中は猫を被っていたローラはふしだらに逆戻り。被告のマニオンも似たようなものでトレーラーハウスを引き払い、弁護士費用も払わずにトンズラ。
ポールたちはほぞを噛むという、ありがちなラストシーンとなる。
それにしてもパーネルがポールに、マニオンの弁護を引き受けるように勧めた理由は語られず仕舞い。応援に入った辣腕と名高い州検事の活躍がないのも肩透かし。
精神異常ではなく、精神錯乱での殺人がアメリカでは無罪になったというのも意外だが、2時間40分と長尺ながら飽きずに楽しめる。
ポールと舌戦を繰り広げる検事にジョージ・C・スコット。裁判長を演じたジョセフ・ウェルチは弁護士が本職。 (評価:2.5)

リオ・ブラボー
日本公開:1959年4月22日
監督:ハワード・ホークス 製作:ハワード・ホークス 脚本:ジュールス・ファースマン、リー・ブラケット 撮影:ラッセル・ハーラン 美術:レオ・K・キューター 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題"Rio Bravo"で、テキサス州の南、メキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川のこと。"Rio Bravo"はメキシコでの呼称で、スペイン語で怒れる川の意。
ディーン・マーティンが歌う挿入歌"My Rifle, My Pony And Me"の出だしの歌詞に"The sun is sinking in the west, The cattle go down to the stream"(日が西に沈み、牛は川に降りる)とあり、舞台の町の近くにリオ・ブラボーがあることを窺わせる。
B・H・マッキャンベルの同名短編小説が原作。
チャンス(ジョン・ウェイン)は郡保安官で、乱暴者のジョー(クロード・エーキンス)を酒場で逮捕。ジョーの兄ネイサン(ジョン・ラッセル)が用心棒を集めて町を封鎖し、弟を奪還しようとする攻防戦を描く。
チャンスを助けるのはアル中の保安官助手デュード(ディーン・マーティン)、老いぼれの牢屋番スタンピー(ウォルター・ブレナン)、新顔のコロラド(リッキー・ネルソン)。内二人が歌手で、ギターを片手に二人が"My Rifle, My Pony And Me"と"Get Along Home, Cindy"をフルで歌う。
これに流れ者の女ギャンブラー、フェザーズ(アンジー・ディキンソン)が惚れ役として加わり、ラブ・シーンから下着姿までを披露するという、歌あり、お色気あり、ガンファイトありの総合エンタテイメント西部劇となっているが、フェザーズのお色気攻撃が過剰なのが、テキサスの分厚いステーキを食べさせるレストランのようにクドイ。
よく計算されたシナリオで、物語そのものは面白く、アクションシーンも痛快。最後はダイナマイトの伏線を回収しながら、敵を一網打尽。連邦保安官に引き渡し、フェザーズも町に残ってのハッピーエンド。主人公チームが誰も死なないのも良く、気持ちよく見終えることができる。 (評価:2.5)

北北西に進路を取れ
日本公開:1959年9月17日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:アーネスト・レーマン 撮影:ロバート・バークス 美術:ロバート・ボイル 音楽:バーナード・ハーマン
原題"North by Northwest"で、英語にはない表現。解釈に諸説あるが、劇中主人公のソーンヒルと教授がノースウエスト航空に搭乗するのは単なるジョークか。
ホテルでカプランなる人物と間違えられたソーンヒル(ケーリー・グラント)が誘拐され、殺されかけ、カプランを探し求めるというサスペンス。
ソーンヒル自身が殺人者に仕立て上げられ、二人組の暗殺者に付き纏われながらカプランを追ってシカゴへ。その列車でケンドール嬢(エヴァ・マリー・セイント)に助けられるがとんだ食わせ者で、罠にかけられた挙句に暗殺者たちの仲間だとわかるが、実は政府のスパイで、敵国とのスパイ合戦に巻き込まれていたという寸法。
ケンドールと相思相愛になるものの、スパイに恋愛はご法度。ケンドールが潜入スパイだと敵に気づかれ、ソーンヒルがこれを助けてハッピーエンドという、良く出来たエンターテイメント。
もっとも仔細に見ていくとシナリオは相当にご都合主義で、辻褄が合わないのはいつものヒッチコック調。とにかくハラハラドキドキすれば良いというコンセプトだが、それが気にならずに楽しめる。
冒頭、バスに乗ろうとしてドアを閉められるシーンにヒッチコックが登場していてわかりやすい。最後の決戦は歴代大統領の顔が彫られたラシュモア山で、ハリウッド映画らしい舞台設定となっている。 (評価:2.5)

草の上の昼食
日本公開:1963年3月12日
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール 撮影:ジョルジュ・ルクレール 音楽:ジョセフ・コズマ
原題"Le Déjeuner sur l'herbe"で邦題の意。
すべては専門家の時代で子作りも専門家に任せるべきと考える優生学的人工授精論者の博士が、欧州連合大統領選出馬のためにガールスカウトを組織する女伯爵と婚約、マスコミ注視の中での婚約発表を草上の昼食会で行うという話。
兄夫婦を見てぐーたらな男に失望した田舎娘が博士に傾倒。夫はいらないから子供だけほしいと博士の家の小間使いとなり、チャンスを見て人工授精を申し込もうとする。
愛もセックスも不要の試験管ベビーを信条とする博士が徒党を組んで昼食会にやってくると、山羊を連れた豊穣神ディオニソスのような老人が現れ、笛を吹くとあら不思議、突風が吹き荒れて乱交パーティになってしまう。
博士も田舎娘に一目惚れ、博士の信条は敢え無く崩れて娘の実家で同棲。女伯爵との結婚式は、田舎娘との結婚式に置き換わってしまってエンドという、コメディとはいえバカバカしい作品。
見どころは突風が吹いて女たちの太股やパンツが丸見えになるのと、ピクニックでのルノワールの印象派的映像、田舎娘を演じるカトリーヌ・ルーヴェルの健康的なお色気くらいで、科学よりも愛が大切というルネッサンスなテーマを大上段に振りかざされても、無理やりな物語設定ともどもディオニソス的にはイマサラな感想しか残らない。 (評価:2)

危険な関係
日本公開:1961年5月1日
監督:ロジェ・ヴァディム 脚本:ロジェ・ヴァディム、ロジェ・ヴァイヤン 撮影:マルセル・グリニヨン 音楽:セロニアス・モンク
原題"Les Liaisons Dangereuses"で、邦題の意。ピエール・コデルロス・ド・ラクロの同名小説が原作。
原作は1782年のフランス革命前に出版されていて、貴族社会の退廃が描かれている。
本作はそれを現代に置き換えているが、冒頭ロジェ・ヴァディムが登場し、「男が多くの女と関係を持てばドン・ファンだが、女は娼婦と呼ばれる」と語り、フリーセックスを信条とするヴァルモン夫妻を通して性の男女平等を描くが、最後には二人とも自業自得の結果を得るというモラリズムの結末が肩透かしな、残念な作品となっている。
ヴァルモン夫妻を演じるのがジャンヌ・モローとジェラール・フィリップで、この美男美女のプレイガール、プレイボーイぶりを鑑賞するのが本来の正しい見方かもしれない。
夫公認の愛人ジェリー(ニコラス・ヴォーゲル)が姪のセシル(ジャンヌ・ヴァレリー)と婚約したことを知ったジュリエット(ジャンヌ・モロー)は、夫のヴァルモン(ジェラール・フィリップ)にセシルを落としてジュリエット同様の尻軽女に教育することを命じる。
ヴァルモンはミッションを達成するが、二つの誤算があって一つは貞淑なマリアンヌ夫人(アネット・ヴァディム)に恋してしまうこと、もう一つはセシルにはダンスニ(ジャン・ルイ・トランティニャン)という恋人がいたこと。
マリアンヌに嫉妬したジュリエットはダンスニを愛人にしてしまい、ヴァルモンとマリアンヌを無理やり別れさせる。怒ったヴァルモンはジュリエットの行状をダンスニにばらし、ジュリエットはヴァルモンの行状ばらしたためにダンスニがヴァルモンを殺害。マリアンヌも気が変になり、証拠隠滅を図ったジュリエットは顔に火傷を負い、みんなが不幸になりましたという教訓話に終わる。
アネット・ヴァディムはロジェ・ヴァディムの二番目の妻。
最初のパーティシーンで、アメリカ女は娘の時は尻軽で人妻になると貞淑になるが、フランス女は反対で娘の時は貞淑だが人妻になると尻軽になるという会話が受ける。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1959年10月10日
監督:クロード・シャブロル 製作:クロード・シャブロル 脚本:クロード・シャブロル 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ポール・ミスラキ
キネマ旬報:4位
ベルリン映画祭金熊賞
格好つけだけで中身のないヌーヴェルヴァーグ仕様
原題"Les Cousins"で、いとこの意。ベルリン映画祭金熊賞受賞作。
田舎からパリに上京した青年シャルル(ジェラール・ブラン)が、従兄ポール(ジャン・クロード・ブリアリ)の住むアパートに同居。ともに大学生ながら、ポールは勉強もせずにデカダンスな生活に明け暮れ、一方のシャルルは書店主の訓戒もあって寸暇を惜しんで勉強に明け暮れる対照を描く。
シャルルは、ポールの遊び仲間の美女フロランス(ジュリエット・メニエル)を好きになりデートの約束をするが、その日のうちにポールに寝取られ、同棲。3人の奇妙な共同生活に。フロランスがポールに相応しくないというのがポールの深謀だが、フロランスはシャルルを思い続ける・・・という流れだが、試験が始まりポールは不正をしたのか合格し、ガリ勉のシャルルは落第という腑に落ちない結末となる。
更にシャルルは過ってポールに射殺され、努力は報われず要領のいい人間だけが生き残り、世の中不条理という結論に導かれるが、これがヌーヴェルヴァーグだといわれても、吉田戦車なら何でもいいのかという感想しか残さない。
テンポのいい演出だが、シャルルがフロランスに一目惚れして一晩のうちにトントン拍子に相思相愛となるのも都合の良すぎる性急なテンポ。シナリオも呆気にとられる、外見の格好つけだけで中身のないヌーヴェルヴァーグ仕様。 (評価:2)

日本公開:1959年10月10日
監督:クロード・シャブロル 製作:クロード・シャブロル 脚本:クロード・シャブロル 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ポール・ミスラキ
キネマ旬報:4位
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Les Cousins"で、いとこの意。ベルリン映画祭金熊賞受賞作。
田舎からパリに上京した青年シャルル(ジェラール・ブラン)が、従兄ポール(ジャン・クロード・ブリアリ)の住むアパートに同居。ともに大学生ながら、ポールは勉強もせずにデカダンスな生活に明け暮れ、一方のシャルルは書店主の訓戒もあって寸暇を惜しんで勉強に明け暮れる対照を描く。
シャルルは、ポールの遊び仲間の美女フロランス(ジュリエット・メニエル)を好きになりデートの約束をするが、その日のうちにポールに寝取られ、同棲。3人の奇妙な共同生活に。フロランスがポールに相応しくないというのがポールの深謀だが、フロランスはシャルルを思い続ける・・・という流れだが、試験が始まりポールは不正をしたのか合格し、ガリ勉のシャルルは落第という腑に落ちない結末となる。
更にシャルルは過ってポールに射殺され、努力は報われず要領のいい人間だけが生き残り、世の中不条理という結論に導かれるが、これがヌーヴェルヴァーグだといわれても、吉田戦車なら何でもいいのかという感想しか残さない。
テンポのいい演出だが、シャルルがフロランスに一目惚れして一晩のうちにトントン拍子に相思相愛となるのも都合の良すぎる性急なテンポ。シナリオも呆気にとられる、外見の格好つけだけで中身のないヌーヴェルヴァーグ仕様。 (評価:2)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1960年9月20日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:ジュゼッペ・アマト、アンジェロ・リッツォーリ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ 撮影:オテッロ・マルテッリ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭パルム・ドール
デカダンスを気取っているだけの甘い生活同様に不毛な3時間
原題は"La dolce vita"で、邦題の意。
マルチェロ・マストロヤンニ演じるゴシップ新聞記者が主人公の話で、享楽に耽り、次々と女を替えていく甘い生活=不毛な生き方を描く。
イタリア事情は知らないが、ゴシップ新聞記者風情が女優やセレブ美女をとっかえひっかえするシチュエーションがどうにも納得できず、さらに言えば、このような一般の人には縁のないセレブリティの特殊な境遇に生きる連中の不毛な生活をテーマにしたところで、観客にとってはどうでもよく、3時間余りが甘い生活同様に不毛でしかない。
特筆できるものといえば、主人公の仲間のカメラマンがパパラッツォという名前で、複数形のパパラッチが、このような有名人をつけ回すカメラマンの語源となったことくらい。もうひとつは、マストロヤンニとアニタ・エクバーグがトレビの泉で水浴びし、観光名所になったこと。
教会のデモンストレーションのためにイエス像がヘリで空を飛び、マリアを見たと虚言する少年少女に人々が振り回される退廃の町ローマ。
地方の裕福な家に育ち、ローマに出てきた主人公が、退廃的なセレビリティとの交遊に身を沈め、豪邸に住む友人の一家心中を前にして、父親の諫言やあなたを真に愛しているのは私だけよと、という恋人の言葉に耳を傾けずに、刹那的な生活に戻っていく。
彼の目に映るのは海辺のレストランで働く少女だけ、というニヒルでスタイリッシュな映像も、デカダンスを気取っているだけにしか見えない。
カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。 (評価:2)

日本公開:1960年9月20日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:ジュゼッペ・アマト、アンジェロ・リッツォーリ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ 撮影:オテッロ・マルテッリ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題は"La dolce vita"で、邦題の意。
マルチェロ・マストロヤンニ演じるゴシップ新聞記者が主人公の話で、享楽に耽り、次々と女を替えていく甘い生活=不毛な生き方を描く。
イタリア事情は知らないが、ゴシップ新聞記者風情が女優やセレブ美女をとっかえひっかえするシチュエーションがどうにも納得できず、さらに言えば、このような一般の人には縁のないセレブリティの特殊な境遇に生きる連中の不毛な生活をテーマにしたところで、観客にとってはどうでもよく、3時間余りが甘い生活同様に不毛でしかない。
特筆できるものといえば、主人公の仲間のカメラマンがパパラッツォという名前で、複数形のパパラッチが、このような有名人をつけ回すカメラマンの語源となったことくらい。もうひとつは、マストロヤンニとアニタ・エクバーグがトレビの泉で水浴びし、観光名所になったこと。
教会のデモンストレーションのためにイエス像がヘリで空を飛び、マリアを見たと虚言する少年少女に人々が振り回される退廃の町ローマ。
地方の裕福な家に育ち、ローマに出てきた主人公が、退廃的なセレビリティとの交遊に身を沈め、豪邸に住む友人の一家心中を前にして、父親の諫言やあなたを真に愛しているのは私だけよと、という恋人の言葉に耳を傾けずに、刹那的な生活に戻っていく。
彼の目に映るのは海辺のレストランで働く少女だけ、というニヒルでスタイリッシュな映像も、デカダンスを気取っているだけにしか見えない。
カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1960年8月17日
監督:ロベール・ブレッソン 製作:アニエス・ドゥラアイ 脚本:ロベール・ブレッソン 撮影:レオンス=アンリ・ビュレル 音楽:ジャン・バディスト・リュリ
キネマ旬報:9位
恋物語? ラストのモノローグに思わず腰が抜ける
原題"Pickpocket"で、邦題の意。
貧乏学生(マルタン・ラサール)が競馬場でスリを働き、刑事に捕まるも証拠不十分で釈放。真面目に働こうとした矢先、プロのスリの現場を目撃したことから誘惑にかられ、かつ自らのスリの才能に気づき、スリで生活費を稼ぐようになるという話。
ここからはスリの練習と実践、プロのスリ(ピエール・エテックス)からスカウトを受け、2人、3人のチームプレーへと発展し、観客に対してスリの手口マニュアルを見せるという趣向。
『抵抗』(1956)の脱獄手口同様、事細かなハウツーがブレッソンの制作スタイルだが、スリ四十八手を見せられても、鮮やかすぎて俄かには信じ難く、小脇に挟んだバッグを新聞紙と入れ替えたり、腕時計を外したりされて、盗られた方が全く気付かないのが不自然に感じる。
このスリ物語に病気の母とアパートの階下の娘ジャンヌ(マリカ・グリーン)とのエピソードが絡むが、娘が青年を好きになったり、母の金を盗んだ云々といったシナリオが粗雑すぎて呆気にとられるほど訳がわからない。
マニュアルを見せるだけで物語作りはお粗末。訳もなく刑事にマークされ、仲間2人が逮捕されても、なぜか青年は無罪放免で、イタリア・イギリスへとスリ行脚。帰国して更生してジャンヌの世話をするが、悪い癖が出て警察に捕まり監獄へ。
面会に来た娘と愛を誓い、「君に会うために、どんなに回り道をしてきたことか」というモノローグに思わず腰が抜ける。
見どころは美人のマリカ・グリーン。 (評価:2)

日本公開:1960年8月17日
監督:ロベール・ブレッソン 製作:アニエス・ドゥラアイ 脚本:ロベール・ブレッソン 撮影:レオンス=アンリ・ビュレル 音楽:ジャン・バディスト・リュリ
キネマ旬報:9位
原題"Pickpocket"で、邦題の意。
貧乏学生(マルタン・ラサール)が競馬場でスリを働き、刑事に捕まるも証拠不十分で釈放。真面目に働こうとした矢先、プロのスリの現場を目撃したことから誘惑にかられ、かつ自らのスリの才能に気づき、スリで生活費を稼ぐようになるという話。
ここからはスリの練習と実践、プロのスリ(ピエール・エテックス)からスカウトを受け、2人、3人のチームプレーへと発展し、観客に対してスリの手口マニュアルを見せるという趣向。
『抵抗』(1956)の脱獄手口同様、事細かなハウツーがブレッソンの制作スタイルだが、スリ四十八手を見せられても、鮮やかすぎて俄かには信じ難く、小脇に挟んだバッグを新聞紙と入れ替えたり、腕時計を外したりされて、盗られた方が全く気付かないのが不自然に感じる。
このスリ物語に病気の母とアパートの階下の娘ジャンヌ(マリカ・グリーン)とのエピソードが絡むが、娘が青年を好きになったり、母の金を盗んだ云々といったシナリオが粗雑すぎて呆気にとられるほど訳がわからない。
マニュアルを見せるだけで物語作りはお粗末。訳もなく刑事にマークされ、仲間2人が逮捕されても、なぜか青年は無罪放免で、イタリア・イギリスへとスリ行脚。帰国して更生してジャンヌの世話をするが、悪い癖が出て警察に捕まり監獄へ。
面会に来た娘と愛を誓い、「君に会うために、どんなに回り道をしてきたことか」というモノローグに思わず腰が抜ける。
見どころは美人のマリカ・グリーン。 (評価:2)

獅子座
日本公開:1990年12月8日
監督:エリック・ロメール 製作:ロラン・ノナン 脚本:エリック・ロメール 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ルイ・サゲール
原題"Le Signe du lion"で、邦題の意。
自称作曲家の遊び人ピエール(ジェス・ハーン)が主人公。浮き沈みの激しい獅子座の運勢通りに、伯母の遺産を巡って運勢に弄ばれるという物語で、伯母逝去の電報を受け取り、大金持ちになったと仲間のボヘミアンを集めて捕らぬ狸の皮算用での大パーティ。
ところが遺産はすべて従兄弟という遺言で、たちまち無一文に。友達に金をたかるが相手にされず、友達は夏のバカンスに去ってしまう。残されたピエールはアパルトマンを追い出され、ホテルを無銭宿泊で渡り歩き、警察に通報されて遂にホームレスに。
バカンスから帰ってきた友達からは、住まいはホテル・セーヌと揶揄されるが、従兄弟が交通事故死して伯母の遺産が転がり込むというハッピーエンド。
ピエールがホームレスに転落していく過程が延々と描かれるが、ホームレス問題への啓発としてのリアリティはともかく、スーツが汚れ、靴底が割れ、河岸で野宿するダメ人間のダメっぷりを仔細に見せられても退屈で、ホームレスのように寝ころびたくなる。
何日も路上生活をしている割にはピエールの無精鬚が薄く、洗濯のシーンなども出て来ないのでどこか表面的で、棚ぼた式に遺産が転がり込む展開も安直なフランス小噺風。
遺産を手にしても所詮ピエールがまともな人生を歩めないのは明らかで、意味のない1時間40分を短編映画に編集し直してちょうどよいくらい。 (評価:2)

騎兵隊
日本公開:1959年9月19日
監督:ジョン・フォード 製作:ジョン・リー・メイヒン、マーティン・ラッキン 脚本:ジョン・リー・メイヒン、マーティン・ラッキン 撮影:ウィリアム・クローシア 音楽:デヴィッド・バトルフ
原題"The Horse Soldiers"で、邦題の意。ハロルド・シンクレアの同名小説が原作で、南北戦争での北軍グリアソン将軍のミシシッピ州ヴィックスバーグでの攻撃を題材にとったフィクション。
騎兵隊長マーロー大佐(ジョン・ウェイン)を主人公に、南軍支配地奥深く潜入して補給基地を叩き、南軍の追撃を振り切って脱出に成功するまでを描く。
この間、同行する軍医ケンドール少佐(ウィリアム・ホールデン)との確執、接収した屋敷の美人の女主人ハナ(コンスタンス・タワーズ)との恋が絡むというハリウッド・スタイルだが、ジョン・ウェイン演じるマーロー大佐がどうにも野卑で、タフガイ一辺倒。無謀な作戦で部下を死なせるなど、頭も性格も悪い男にしか見えないので、ラストシーンでハナと相思相愛だと言われても、美人に弱そうなマーロー大佐はともかく、ハナがどこでどう間違って好きになったのか皆目見当がつかない。
ラストでは理知的な軍医が傷病兵のために捕虜になるのを覚悟で敵地に残り、ハナも看護婦として残ることからこの二人がくっつくのがストーリー的には自然なのだが、やはりジョン・ウェインが主人公だから無理やりこういう結末になるのかと、いささか退屈で工夫のない展開に眠くなりながら、思いがけない予定調和にハッと目が覚めると、割り切れない気分のままの尻切れトンボのエンドマークとなる。 (評価:2)

許されざる者
日本公開:1960年10月6日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:ジェームズ・ヒル 脚本:ベン・マドー 撮影:フランツ・プラナー 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題"The Unforgiven"で、邦題の意。アラン・ルメイの小説"The Unforgiven, AKA Kiowa Moon"(許されざる者、またの名をカイオワ族の月)が原作。
徹底的に白人視点で描かれている西部劇で、オードリー・ヘプバーンがインディアン娘にホワイトウォッシングするというのが最大にして唯一の見どころ。
テキサスの大平原で牧場を営むザカリー家を中心とした物語で、前半はアメリカのホームドラマにありがちな面白くもないコミカル・エピソードで退屈する。これに謎の宿無し老人を登場させてミステリアスに引っ張るが、ザカリー家の養女(オードリー・ヘプバーン)がカイオワ族の部落から連れ去ったインディアン娘というだけの秘密なので、大仰な登場の割には腰砕け。
後半は、この秘密が明らかになっていく展開だが、バート・ランカスター演じるザカリー家長男が開拓時代とはいえ、怪しければとにかく銃をぶっぱなす。気に入らないというだけで宿無し老人を縛り首にし、インディアンは虫けら同然に殺す。
ラストシーンは圧巻で、話し合いに来たカイオワ族との交渉機会を潰すために先制攻撃を仕掛け、退屈なほどに長い銃撃戦となる。そして好きだった妹をカイオワ族から守る、すなわちカイオワ族に返さないで自分のものにするというハッピーエンド。
白人視点から見れば、インディアンは野蛮で残酷な退治して良い敵だが、白人家庭で育ったインディアン娘は白人の仲間なので、野蛮で残酷なインディアンから守らなければならないという理屈。
インディアン娘の実兄が登場し、家族を取り戻すために平和的な交渉に来るのだが、ザカリー家長男のせいで戦いとなり、寸隙を縫ってインディアン娘を連れ戻そうと手を差し伸べるが、あろうことか実妹に撃ち殺されてしまうという、どこがハッピーエンドだという結末になる。
ホワイトウォッシングしても白人はあくまで白人という作品。 (評価:1.5)

渚にて
日本公開:1960年2月10日
監督:スタンリー・クレイマー 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:ジョン・パクストン、ジェームズ・リー・バレット 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ、ダニエル・ファップ 音楽:アーネスト・ゴールド
原題"On the Beach"。ネビル・シュートの同名小説が原作。
近未来社会派SFで、時は1964年、米ソ冷戦と核軍備競争の中で、ついに第三次世界大戦が勃発。核戦争により北半球は全滅。米海軍の原潜がオーストラリアに逃れるものの核汚染は南半球にも到達。全人類死滅まで5ヶ月のカウントダウンの物語。
死を待つだけの日々を淡々と描くだけの退屈な映画だが、それではストーリーにならないので、誰も生き残っていないはずのシアトルから何者かにモールス信号を打電させるというミステリーを入れる。原潜はオーストラリアの科学者らを乗せて調査に向かうが、信号を打っていたのはコーラの瓶が「風に吹かれて」、というボブ・ディラン張りのオチで、退屈さに輪をかける。(1963年の曲で、曲の方が後)
これにハリウッド映画の悪弊により、原潜艦長とオーストラリア未亡人の理不尽な恋物語が挿入されるが、最後は乗組員総意により婦人を袖にして、後ろ髪を引かれるように故国での自沈の旅に出る。
オーストラリアに残った人々も永遠に眠れるという睡眠薬で最期を迎えるという、神が知ったら怒り出すような後味の悪いエンディング。
当時としては核競争への警鐘ではあったが、ドラマとしては退屈なだけで見るべきものがない。 (評価:1.5)
