海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1952年

製作国:フランス
日本公開:1953年9月6日
監督:ルネ・クレマン 製作:ポール・ジョリ 脚本:ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト 撮影:ロベール・ジュイヤール 音楽:ナルシソ・イエペス
キネマ旬報:1位
アカデミー名誉賞(外国語映画賞) ヴェネツィア映画祭金獅子賞

猟奇的な遊びの中に戦争の異常性と哀しみが描かれる
 原題"Jeux interdits"で、邦題の意。フランソワ・ボワイエの小説"Les Jeux inconnus"(知られていない遊び)が原作。
 1940年6月。ドイツ軍のフランス侵攻が始まり、パリからの避難民が地方へ逃れる中、空からの機銃掃射により幼女ポーレット(ブリジット・フォッセー)は両親と愛犬を殺されてしまう。愛犬を抱いて林の中を彷徨っていると、貧しい農家の少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)と出会い、彼の家で保護される。
 そこからは都会育ちの人形のように可憐なポーレットを妹のように可愛がるミシェルとの淡い恋とも言えぬ恋物語で、二人だけの秘密の遊びを始めるが、やがて警官がやってきてポーレットは孤児院に引き取られていく。
 仲を引き裂かれたミシェルが、二人で造った生き物たちの墓地の十字架を川に投げ捨て、駅の雑踏でポーレットがミシェルを求めて保護司の手を離れていく姿が切ないラストとなっている。
 都会に住むポーレットの家族はそれほどに信心深くなく、ポーレットは神も十字架もよく知らない。一方、神父にも信仰を褒められるミシェルは、ポーレットに死んだら土に埋めることを教え、ポーレットの愛犬を水車小屋に埋葬する。
 ポーレットは愛犬が独りぼっちでは可哀想だと考え、死んだ鳥獣や生き物たちも一緒に埋めてやろうとし、ミシェルはポーレットの求めに応じて、教会や墓地から十字架を集めてくる。
 それが二人の禁じられた遊びとなるのだが、大人から見れば猟奇的な遊びに二人の子供が蝕まれていく中に、戦争がもたらす異常性と哀しみを描いていく。
 90分弱の比較的短い作品ながら、その内容は濃密で一切の無駄がない秀作。冒頭の広大な平野の真っ直ぐな街道を人々が避難するシーンも印象的。
 予算不足から音楽はナルシソ・イエペス演奏のギター曲1曲が繰り返されるが、その哀愁を帯びた調べがむしろ効果的となっている。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1953年2月12日
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:カール・ストラス 音楽:チャールズ・チャップリン、ラリー・ラッセル、レイモンド・ラッシュ
キネマ旬報:2位

チャップリン自身の人生を投影した喜劇の総括
 1900年代初頭のロンドンが舞台。原題は”Limelight”で、舞台照明の石灰光のこと。スポットライト、脚光の意味がある。
 老いてかつての脚光を失った道化師が、命と引き換えに再び最期の脚光を手にする物語。道化師を演じるのはチャップリンで、かつて喜劇で人気を二分したバスター・キートンと初共演。赤狩りによって、本作を最後にチャップリンはアメリカを離れた。音楽家の役でチャップリンの息子も出演している。
 本作では主人公を道化師に設定したことで、トーキー以来、ドラマから遊離してコメディとして成立しなかったギャグシーンを、劇中劇の形で違和感なく融合させることに成功した。しかも道化師が演じる道化が時代遅れで客の笑いを取れないという、トーキー以後のチャップリンの蹉跌をダブらせていて、演じられるコメディそのものが過去のものとなっていて物悲しいが、チャップリンの中で吹っ切れたものを感じる。
 そうした点で、本作はチャップリンの喜劇に対する総括となっていて、喜劇は人生のアイロニー、人生の悲劇と表裏一体をなしていることを描き、喜劇王の人生と重ね合わせて描き切ったといえる。
 クレア・ブルーム演じるバレリーナの娘は、心理的ストレスから歩けなくなり、絶望して自殺を図る。同じアパートに住む道化師が助けて二人三脚の人生が始まるが、勇気づけた娘は劇場のプリマドンナとなり、共演者として舞台に復帰した道化師は評価が得られずに失意と共に大道芸人となる。
 そこで道化師が得たものは、芸人にとっての真の舞台は街の中にあることの発見だった。彼は道化師の人生の集大成のために舞台に上がり、それを最期と決めて燃え尽きる。
 物語自体はチャップリンの貧困と清廉な娘とオジサンの片思いというワンパターンの類型だが、本作がチャップリン自身の人生を投影した結果、単なるお涙頂戴ではない美しい感動的ラストシーンとなっている。
 チャップリン作曲の有名な主題曲はアカデミー作曲賞受賞。 (評価:4)

雨に唄えば

製作国:アメリカ
日本公開:1953年4月1日
監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 製作:アーサー・フリード 脚本:アドルフ・グリーン、ベティ・コムデン 撮影:ハロルド・ロッソン 音楽:レニー・ヘイトン

何度見ても初めて鑑賞するように新鮮に思える理由
 原題"Singin' in the Rain"で、邦題の意。
 何度見ても初めて鑑賞するように新鮮に思えるのは、結局のところジーン・ケリーが主題歌"Singin' in the Rain"を雨の中で傘を差して歌って踊るシーンがあまりに強烈すぎる印象を残し、見るたびに肝腎のストーリーを覚えていないから。
 雨のシーンが本作にとっての白眉といえるし、ストーリーはどうでもいいともいえるが、改めて見直すと、サイレントからトーキーへの移行期のハリウッドの映画会社を舞台にした楽屋ネタながらも、お気楽に楽しめるコメディとなっていて、ラブストーリーとしてもよくできている。
 とりわけサイレントの大女優リナを演じるジーン・ヘイゲンが、バイプレーヤーとして抜群の演技を見せている。
 スクリーンで恋人役を演じるドン(ジーン・ケリー)とリナは、撮影中のサイレント映画を急遽トーキーにすることになるが、問題はリナの頭から出るような甲高い声。
 失敗は避けられないとあって、ドンは評判のミュージカルに作り替えることを提案。美声の新人女優キャシー(デビー・レイノルズ)に声を吹き替えさせ、次作からはキャシーを表に出すことにする。
 ドンがキャシーに首ったけなのに気づいたリナは、キャシーを吹き替え専属にしてこれを妨害。試写会の舞台挨拶で声が違うことに気づいた観客に歌を求められ、急遽緞帳裏でリナの口パクに合わせてキャシーが歌うことになる。
 歌唱半ば、ドンとプロデューサーのコズモ(ドナルド・オコナー)が緞帳を開け、真相を暴露しキャシーをお披露目。二人が結ばれてハッピーエンドとなる。
 ドンがキャシーの映画制作の舞台裏を見せるシーンがあり、映画制作のメイキングも楽しめる。 (評価:3.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1955年6月6日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:グンナール・フィッシェル 音楽:エリック・ノードグレーン

遊びまくった挙句にデキ婚・育児放棄のモニカなう
 ヨーロッパで注目されるきっかけとなったベルイマンの初期作品。原題は"Sommaren med Monika"で「モニカとの夏」の意。
 貧しい家庭に暮らす、あばずれな17歳の少女モニカにナンパされた初心な19歳の青年ハリーは、彼女に誘われるがままに夢中になり、やがて家出した彼女のねぐらに父親のボートを提供。モニカとの恋愛を咎められて仕事を辞め、妊娠したモニカとボートでバカンスに出かけてしまう。真面目な家庭を築こうとするハリーと、遊ぶことしか考えないモニカ。結婚し出産するが、モニカは育児放棄し、家賃で服代に流用、男友達を引き込む。挙句に乳児を置いて家出・・・と、まるで今の日本によくある話。
 湖のシーンの描写が美しいが、ときどきカットが短すぎて忙しいのが残念。
 主人公のハリーが奔放なモニカに翻弄される姿を描くが、物語にオチはなく、物語の結末は「モニカとの夏」を遠い目で見るハリーのシーンで終わる。これが青春だとか、これが蹉跌だとか、これが男の悲哀だ、とかで片付けるにはラストはあんまりで、この初期作品を観るとベルイマンが難解なのではなく、答えを導き出すことを放棄して観客に投げっ放しにするのがベルイマンの作家性なのだとわかる。
 ベルイマンは難解だという世評に騙されてはいけない。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1953年3月3日
監督:ジョン・フォード 製作:ジョン・フォード、メリアン・C・クーパー 脚本:フランク・S・ニュージェント 撮影:ウィントン・C・ホック、アーチー・スタウト 音楽:ヴィクター・ヤング
キネマ旬報:6位

見どころはアイルランドの旧習とのカルチャーギャップ
 原題"The Quiet Man"で、邦題の意。モーリス・ウォルシュの同名短編小説が原作。
 ピッツバーグで成功を収めて金を手に入れたアイルランド移民の青年(ジョン・ウェイン)が、幼少期を過ごした故郷の村に戻ってくるという話で、生家を買い取り、隣家の娘(モーリン・オハラ)と恋仲になるが、その兄(ヴィクター・マクラグレン)が青年を快く思ってなく反対。そこで村人たちの策略で二人を結婚させるが、持参金を巡る青年、娘、兄の揉め事が生じ、最後に青年と兄が決闘をして万事丸く収まるという物語。
 揉め事の原因となるのがアメリカの自由主義とアイルランドの慣習との相互不理解で、見どころはそうしたカルチャーギャップになっている。
 結婚は自由意志と考える青年が持参金など不要というのに対し、それでは家政婦と一緒だと娘が持参金に妻のプライドを主張するのが面白い。
 「静かなる男」は青年のことで、昔ボクシングで対戦相手を死なせてしまい、以来金で争うことを忌避するようになる。そうした金に対する潔癖症が持参金を巡る争いの一因ともなるが、最後は妻のために兄と殴り合いの決闘をして男同士の友情を育むというのがいかにもアメリカ的で、ジョン・フォードにはやはり西部劇だけを撮ってもらいたくなる。
 撮影はアイルランドのオールロケで、特色ある田舎の風景や自然が見どころでもあり、アイルランド系のジョン・フォードの思い入れの詰まった作品となっている。
 モーリン・オハラもアイルランド出身で、一目で青年を好きになりその感情を隠さないという、牝豹のような激情な女を演じる。 (評価:2.5)

キリマンジャロの雪

製作国:アメリカ
日本公開:1953年1月22日
監督:ヘンリー・キング 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:ケイシー・ロビンソン 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:バーナード・ハーマン

キリマンジャロの麓で迷子になってしまう者には何とも苦い
 原題"The Snows of Kilimanjaro"で、邦題の意。アーネスト・ヘミングウェイの同名小説が原作。
 原作は短編で、映画は回想を中心に2時間の映画に膨らましている。主人公ハリー(グレゴリー・ペック)は世界的に成功した作家で、世界各地を巡りながらその体験を基に小説を書き、スペイン内戦にも参加、4度の結婚をしたヘミングウェイと重ねて描かれている。
 キリマンジャロの麓で狩猟をしていたハリーは脚の壊疽になり、飛行機の救出を待つ身。ベッドに横たわり混濁する意識の中で、4人の女性との思い出を夢に見る。1人目はアメリカでの恋人、2人目はパリで一目惚れしたシンシア(エヴァ・ガードナー)、3人目はリヴィエラの伯爵夫人リズ(ヒルデガード・ネフ)、4人目はパリのリッツ前で出会ったシンシアの面影を持つヘレン(スーザン・ヘイワード)。
 シンシアを悔悟と共に忘れられないハリーが、ヘレンの愛によって救われるというラストになるが、話の中心は人気作家となったハリーが目指す一流作家になれたかどうかで、ハリーを作家に誘った叔父の遺言が謎の言葉として提示される。
 それは、"Kilimanjaro is a snow-covered mountain 19,710 feet high, and is said to be the highest mountain in Africa. Its western summit is called the Masai 'Ngje Ngi,' the House of God. Close to the western summit there is the dried and frozen carcass of a leopard. No one has explained what the leopard was seeking at that altitude."(キリマンジャロは、高さ19,710フィートの雪に覆われた山で、アフリカの最高峰とされる。その西の頂上は、マサイ族に神の家と呼ばれ、その近くには、豹のひからびて凍った死骸がある。その高所で豹が何を求めていたのか、誰も説明できない)というもの。
 シンシアと初めて出会ったバーの主人が、偽りの臭いを追って迷い込み高みに辿り着いたとその答えを示唆するが、それがハリーを指している。
 ハリーの死を待っていた禿鷹が去り、ヘレンとの再出発を示唆するハッピーエンドとなっているが、キリマンジャロの麓で迷子になって死んでしまう者にとっては何とも苦い。
 前半のアフリカの野生動物の映像も大きな見どころ。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1955年3月19日
監督:ポール・グリモー 製作:アンドレ・サリュー 脚本:ジャック・プレヴェール、ポール・グリモー 音楽:ジョセフ・コズマ
キネマ旬報:6位

映画史的には見どころが多いがアニメとしては物足りない
 原題"Le Roi et l'Oiseau"で、王と鳥の意。アンデルセンの童話『羊飼いの娘と煙突掃除人』が原作。
 1952年版に不満を持つ監督のグリモーは、オリジナル版を変更・追加した1980年版を発表。オリジナル版を封印したために、1980年版しか見ることができない。
 大きな相違点は結末で、城と町の崩壊後、羊飼いの娘と煙突掃除の少年たちの解放の喜びで終わる1952年版に対し、1980年版は瓦礫に残された鳥籠からロボットが小鳥を解放し、鳥籠を踏み潰して終わる。
 物語は、高度に機械化された城塞都市に住む絶対君主の王シャルル16世の肖像画が絵を抜け出し、同じく絵から抜け出した羊飼いの少女と煙突掃除の少年を追いかけるというもので、ブルボン朝とフランス革命、ナチスドイツとパリ解放、あるいはニセモノの王様、高度機械文明とロボットなど、いくつかの表象からメタファーを読み取ることができるが、それゆえに1952年版と1980年版の相違は作品性そのものに影響を与えていると思われる。
 前者が自由の獲得という第二次世界大戦後の時代感覚であるのに対し、四半世紀を経た後者から感じるのは、科学文明や経済発展に引き継がれた人間の精神や自由への束縛で、城と町の崩壊で自由が得られたのではなく、なお継続することへの警鐘となっている。
 アニメーションによる文明批判や3次元的でスリリングななアクション、近未来的世界観やデザインなど、映画史的には見どころが多いが、カトゥーンの手法からは抜け切れていないため、1980年版を見る限り、ジャパニメーションの絵柄や演出・ストーリーに慣れた目からは若干物足りない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1953年4月25日
監督:セシル・B・デミル 製作:セシル・B・デミル 脚本:フレドリック・M・フランク、セオドア・セント・ジョン、バー・リンドン 撮影:ジョージ・バーンズ、J・ペヴァレル・マーレイ、W・ウォーレス・ケリー 音楽:ヴィクター・ヤング
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

アメリカのサーカスの規模の大きさに、ただただ驚嘆
 原題は"The Greatest Show on Earth"で邦題の意。アメリカのサーカス団、Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circusの協力のもとに作られた映画で、まずはその規模の大きさに驚かされる。
 作中でも1500人の団員がいると語られるが、巨大な野外テントから什器、動物園が造れそうなくらいの動物たち、一列車借り切りの大部隊の移動など、日本人の常識を覆す。
 花形の空中ブランコでは、センターリングと第一リングの座の取り合いをトップ団員同士が演じるというのが話の主軸になっていて、複数演技が行われる体操会場か、陸上競技場みたいなものかと、そのスケール感に感嘆する。
 ディズニーランドのパレードのようなものもあって、あるいはこちらが本家かとも思わされるが、本作の最大の見どころはサーカスの中身にあって、ストーリーは付け足しでしかない。
 サーカスのことしか頭にない団長(チャールトン・ヘストン)を好きな花形ブランコ乗りの恋物語で、そこに現れた二枚目のライバルのブランコ乗り男、そのかつての恋人だった象使い女の三角・四角関係に、妻を安楽死させた元医者のピエロの、O・ヘンリー『改心』もどきの話が絡む。
 地上最大のショウらしく、元医者以外は最後は四方丸く収まってのハッピーエンドとなるが、それよりももっとサーカスの演技を見せてほしいというのが正直なところで、物語部分の蛇足感が堪らない。
 空中ブランコの吹替えシーンがそう思えないくらいに自然。 (評価:2.5)

革命児サパタ

製作国:アメリカ
日本公開:1952年12月11日
監督:エリア・カザン 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:ジョン・スタインベック 撮影:ジョー・マクドナルド 音楽:アレックス・ノース

舞台の古典劇を見ているような臨場感のなさ
 原題"Viva Zapata!"。
 20世紀初めのメキシコ革命の革命家サパタの半生を描いたもので、ディアス大統領への陳情から始まり、革命家として目覚め、革命から内戦、暗殺されるまでを描く。
 最初に組んだ革命家のマデロは、ディアス倒閣後に大統領につくと従来と変わらない特権政治を進め、失望したサパタは反旗を翻す。マデロは腹心のウエルタ将軍に暗殺され、サパタはウエルタとの武力闘争に勝利する。大統領に就任するも、自分がディアスと同じ陥穽に嵌ったことを知ると、自分は政治家ではなく革命家だと悟り、村に帰る。
 革命とはいっても所詮は私利私欲の権力闘争に終始する革命軍リーダーたちに対し、サパタはあくまでも農奴解放のために戦い、自らが特権階級になることを拒否。そのため、妻が望む平穏な生活は訪れず、理想の実現の中途で命を落とす。
 エリア・カザンらしいヒューマンな作品だが、スタインベックの脚本は舞台劇調の起承転結の利き過ぎた構成で、骨格はしっかりして端正なドラマになっているが、今ひとつ動的なものに欠ける。
 いわば優等生過ぎるシナリオと演出で、古典劇を見ているような臨場感のなさが、革命家の物語としては炭酸の抜けたコーラのような印象を与えている。
 サパタの兄で、優等生ではなく私利私欲に走る俗物を演じたアンソニー・クインがアカデミー助演男優賞を受賞している。
 主人公サパタ役のマーロン・ブランドは、一途だが内向的で本心の見えない人物を演じて、他の作品と変わらないいつもの演技。 (評価:2.5)

真昼の決闘

製作国:アメリカ
日本公開:1952年9月16日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:カール・フォアマン 撮影:フロイド・クロスビー 音楽:ディミトリ・ティオムキン

長閑な真昼の決闘でグレイス・ケリーの美を堪能する
 原題は"High Noon"(正午)。主人公の保安官が逮捕した悪党が釈放されて、正午に着く列車で町に帰ってくるという西部劇。
 保安官は任期を終え、結婚式を挙げてハネムーンに出ようという矢先に知らせが飛び込んでくる。町に残り、復讐に来る悪党とその仲間を迎え撃つが、正午までの時間を持て余し気味で保安官同様、観客も退屈する。いよいよ列車から降り立つ悪党。意外にもすぐに銃撃戦となり、盛り上がらないままに真昼の決闘?(決闘ではなく銃撃戦)は終わる。
 正午の決闘に設定とシナリオを無理やり合わせていて、上映と同時進行の劇中時間の流れを含めて、アイディア優先の独善的な作劇。人物の心理描写もご都合主義。
 保安官のゲイリー・クーパーはアカデミー主演男優賞受賞。町の人間は悪党を恐れて誰も保安官を助けようとしないが、その人望のなさを上手く演じたから? 最後には保安官バッジを投げ捨てていくという人間不信、大衆批判。
 反してカントリー・ウエスタンの主題歌"The Ballad of High Noon" が長閑。アカデミー歌曲賞を受賞している。
 保安官の新婦グレイス・ケリーの美人ぶりが見どころか。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1953年1月4日
監督:デヴィッド・リーン 製作:アレクサンダー・コルダ 脚本:テレンス・ラティガン 撮影:ジャック・ヒルデヤード 音楽:マルコム・アーノルド
キネマ旬報:10位

男のロマンのためには犠牲も厭わない女の物語
 原題"The Sound Barrier"で、音速の壁の意。
 戦時中から戦後にかけて、イギリスの航空機メーカーで超音速ジェット機の開発を目指すという物語で、主人公はイギリス空軍パイロットのトニー(ナイジェル・パトリック)。
 同僚で美人の金持ち娘スージー(アン・トッド)と結婚すると、義父の航空機メーカー社長(ラルフ・リチャードソン)から、転職を勧められテストパイロットとなる。
 ところがこの父親は仕事命の非情な男で、超音速ジェットのためならどのような犠牲も厭わず、まず犠牲になるのがスージーの弟。パイロットの適性がなかったが、父の期待に沿うためテストパイロットをしていて墜落死。スージーの反対にも拘らず、トニーは音速を超えるという誘惑に魅かれ義父に協力。しかし敢え無く墜落死して主人公退場。
 スージーは生れた子供を抱えて悲嘆に暮れるが、父親はなおもトニーの戦友フィリップをテストパイロットにリクルート。見事音速の壁を超えることに成功するが、主人公退場後は音速の壁を超えることにしか話の主軸がないため、いささか退屈になる。
 要は音速を超えるという男のロマンがテーマで、ラストに至れば何のことはない父親の夢が叶う物語で、トニーもスージーも話のツマでしかない。父親と死んだ夫の男のロマンが叶ったことにスージーは満足し、息子に父の会社の跡継ぎを託すという、男のロマンのためには妻として娘として女の分をわきまえた作品で、何かな~という気分でエンドとなる。
   アカデミー録音賞を受賞したジェット機や衝撃波の効果音が聴きどころ。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1954年4月20日
監督:マルセル・カルネ 脚本:マルセル・カルネ、シャルル・スパーク 撮影:ロジェ・ユベール 音楽:モーリス・ティリエ
キネマ旬報:1位

ゾラの人間ドラマというよりは安っぽいサスペンス・ドラマ
 原題"Thérèse Raquin"で、主人公の名。エミール・ゾラの同名小説の翻案。
 19世紀のゾラの原作を現代に置き換えたもので、設定だけでなくラストシーンを含めて大きく変更されている。このため、主人公テレーズ・ラカン(シモーヌ・シニョレ)と恋人ローラン(ラフ・ヴァローネ)の夫カミーユ(ジャック・デュビー)殺害後の葛藤が薄っぺらく、変更された後半部分の付け足し感が強く、急に安っぽいサスペンス・ドラマに堕した感がある。
 オチを楽しむサスペンス・ドラマを期待する向きにはそれなりだが、ゾラの人間ドラマを期待すると人物描写が薄くてガッカリする。
 叔母に育てられ、病弱な息子カミーユの看護婦代わりに結婚させられたテレーズは、不幸のどん底にあるが、叔母の意地悪ババアぶりが勝っていてテレーズの心理描写が弱いのが最初の難点。
 カミーユの友人ローランが出会った瞬間に色目を使って口説くのも、ただのナンパ男にしか見えず、不幸なテレーズを救う白馬の王子に見えない。それになびくテレーズも尻軽女で、安っぽい不倫ドラマを見ている気分なのが残念なところ。
 夫殺害が逆に二人の関係を引き離す皮肉が本作の肝となるが、この描写も淡泊で、むしろ警察とラカン夫人(シルヴィー)の疑惑の目を如何に回避するかというサスペンスに重心が移る。
 原作ではほとぼりが冷めて結婚したテレーズとローランがカミーユの幻影に悩まされ、疑心暗鬼から憎しみ合うようになり、最後は殺し合うことで漸く安息を得るのだが、本作では殺害の目撃者に恐喝され、首尾よく事を収めるものの、目撃者が事故死したために用意した告発状が投函され、二人の破滅を招くという教訓話、ないしはどんでん返しのサスペンス、ないしは不幸から抜け出せない女の悲劇というメロドラマに終わっている。
 不幸から抜け出せない不倫妻を演じるシモーヌ・シニョレが色っぽい。 (評価:2)

夜ごとの美女

製作国:フランス
日本公開:1953年12月25日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール 撮影:アルマン・ティラール 音楽:ジョルジュ・オーリック

セミヌードもある美女鑑賞がお楽しみの妄想系コメディ
 原題"Les belles de nuit"で、夜の美女たちの意。
 作曲家を夢見る小学校の音楽教師(ジェラール・フィリップ)が、家賃を滞納し周囲の人間からは馬鹿にされるという惨めな生活を送りながら、自分が天才的人気作曲家かつヒーローで、貴族令嬢から人妻まで女にモテモテの夢を毎晩(うたた寝もある)見る、という妄想系のコメディ。
 最後は夢叶ってパリのオペラ座にデビューを果たし、貴族令嬢にそっくりな隣家の娘(マガリ・ヴァンドイユ)と結ばれるという安直なミュージカル仕立ての作品になっている。
 それではあんまりだということで、、夢の中でルイ王朝、アルジェリア征伐、さらには原始時代、創世記、フランス革命と歴史を駆け抜けるが、風刺なのかただの舞台回しなのかよくわからない。
 狂言回しの老人を登場させ昔は良かったと言わせながら、それがいつの時代にも常套句、というのも皮肉なのか教訓なのかよくわからない。
 斜に構えたように見せた割には安直なハッピーエンドに力が抜ける。
 夢の中の美女に、ジーナ・ロロブリジーダ、マルティーヌ・キャロルで、セミヌードもある美女鑑賞がお楽しみ。 (評価:2)

ぼくの伯父さんの休暇

製作国:フランス
日本公開:1963年8月3日
監督:ジャック・タチ 脚本:ジャック・タチ、アンリ・マルケ 撮影:ジャン・ムーセル、ジャック・メルカントン 音楽:アラン・ロマン

失笑はしても心底笑えないおフランスなコメディ
 原題"Les vacances de Monsieur Hulot"で、ユロ氏の休日の意。
 フランスのコメディアン、ジャック・タチが主人公のユロ氏を演じる自作・自演・監督作品。
 ポンコツ自動車で海辺にホテルにバカンスに行ったユロが巻き起こすほのぼのコメディで、ホテルに滞在する客たち、海辺が舞台。
 基本はサイレント時代のコメディと変わらず、他愛のないベタなギャグが多いため、失笑はしても心底笑えないという残念なコメディ。
 もっとも『サザエさん』や馬場のぼるのほのぼの系が好きな人には、お茶でも啜りながら心穏やかにコメディが楽しめるかもしれない。
 これをおフランスなエスプリの利いたコメディと捉えることもできるが、基本は緩いプチブル的なコメディ。チャップリンの風刺のきいたコメディとは対極にあって、サイレント時代のハリウッド・コメディを見慣れていると物足りなく感じるが、こちらはもちろんトーキー。 (評価:2)

ネバダ決死隊

製作国:アメリカ
日本公開:1953年4月20日
監督:ロイ・ハギンズ 製作:ハリー・ジョー・ブラウン 脚本:ロイ・ハギンズ 撮影:チャールズ・ロートン・Jr 音楽:ミッシャ・バカライニコフ

恋に落ちるラストはきっとストックホルム症候群
 原題"Hangman's Knot"で、首吊り縄の結び目の意。
 南北戦争の戦争終結を知らずに、北軍の金塊輸送隊を襲った南軍兵士の物語。
 主人公の少佐(ランドルフ・スコット)は、金塊を奪った後に北軍には返さずに南部の再建資金に充てようと考える。ところが自警団に追われ、駅馬車で逃走。駅舎に立て籠もって自警団と対決する。
 駅舎には生き残った南軍兵士、駅馬車に乗っていた南軍の金髪看護婦(ドナ・リード)と婚約者と名乗る男、そして駅舎の夫婦。自警団が駅舎に火を放ち最終対決となるが、もちろん自警団が全滅し、生き残った少佐と金髪看護婦がいつの間にかfall-in-loveという、ハリウッド映画らしいエンドになっている。
 わずか数時間の出会いで、しかも恋愛感情など抱いている状況ではないので、きっとストックホルム症候群なんだろうと、真面目に考えるのがバカバカしいくらいの作品で、冒頭の金塊輸送隊襲撃のアクションシーンくらいが見どころか。
 原題については劇中、主人公の部下が自警団に縛り首になりそうなシーンと、北軍に捕まったら縛り首になるという台詞があるくらいで内容にはあまり結びついていない。邦題はネバダが舞台になっていることから。 (評価:2)

ヨーロッパ一九五一年

製作国:イタリア
日本公開:1953年9月1日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:カルロ・ポンティ、ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:ロベルト・ロッセリーニ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ

バーグマンに捧げるロッセリーニの聖女崇拝?
 原題"Europe '51"で、邦題の意。
 ローマ在住のブルジョア夫人が、息子の自殺をきっかけに貧者に対する慈善に目覚め、聖女となるという物語で、狂人と聖人は紙一重ということで精神病院に入れられてしまうが、それをありのままに受け入れるというイエス同様の受難の物語となっている。
 この狂人と紙一重の聖女をイングリッド・バーグマンが演じるので、つい『ジャンヌ・ダーク』(1948)と類似の宗教物語に見えてしまう。
 この時、バーグマンはロッセリーニと結婚中だが、吹替でイタリア語を話すのが結構な違和感で、喧しすぎてバーグマンにイタリア語は似合わない。
 ブルジョア夫人が息子にかまってあげられなかったのが原因で息子が自殺する過程が作為的で、従兄の共産主義者の影響で贖罪のために貧乏人に施しするというのが欺瞞的。プロレタリアートを経験したり、娼婦を助けたり、犯罪を犯した少年を匿ったりした挙句、妻の奇行にわが身の危険を感じた夫(アレクサンダー・ノックス)に見放され、精神病院に入れられるが、そこでも精神病患者たちへの献身に道を見い出すというのが偽善的で、聖女になっていく必然性もなく、現実離れしたファンタジーでしかない。
 聖女に取り憑かれたブルジョア女の自己欺瞞の物語でしかないが、本気でこれを人道的な物語と考えたのか、それとも妻バーグマンへの崇拝だったのか、ロッセリーニもとち狂ったとしか思えない。 (評価:2)