外国映画レビュー──1951年
欲望という名の電車
日本公開:1952年5月22日
監督:エリア・カザン 製作:チャールズ・K・フェルドマン 脚本:テネシー・ウィリアムズ、オスカー・ソウル 撮影:ハリー・ストラドリング 美術:リチャード・デイ 音楽:アレックス・ノース
原題"A Streetcar Named Desire"で、欲望という名の路面電車の意。テネシー・ウィリアムズの同名戯曲が原作。
キャスティングはブロードウェイ・ミュージカルとほぼ同じで、主人公のブランチのみロンドン舞台版のヴィヴィアン・リーが演じた。
ブランチ(ビビアン・リー)がニューオリンズの汽車の駅に降り立つシーンから始まり、"To take a streetcar named Desire...and then transfer to one called Cemeteries......and ride six blocks and get off at Elysian Fields."(欲望という名の路面電車に乗り、それから墓場と呼ばれる電車に乗り換え、6ブロック乗って極楽で降りる)に従い、妹夫婦、ステラ(キム・ハンター)とスタンリー(マーロン・ブランド)が住むアパートに居候することになる。
南部の大農場で育ったブランチはサザン・ベルと呼ばれる南部上流婦人の典型で、夫の自殺で未亡人となり、亡くなった両親の面倒を見ながらも奢侈と放埒に明け暮れ、ついに農場を手放し、ドレスや装飾品の詰まった鞄一つを提げてやってくる。
一方のスタンリーはポーランド移民の子孫で、当時は下着と見做されたTシャツで過ごし、博打と喧嘩に明け暮れる粗野な男。肌が合わず、虚飾のために虚言を繰り返すブランチと衝突するが、行く宛のないブランチは我慢しながらも気位だけは保つ。
そうした中、スタンリーの友人ミッチ(カール・マルデン)と恋に落ち婚約するが、故郷の町で国語教師をしていたブランチが男漁りをした挙句、生徒に手を出して免職になったという噂をスタンリーが聞きつけ、それをミッチに告げたために婚約は破棄になる。
傷心のブランチはアパートを出て行こうとするが、変わらぬ虚言に攻撃的になったスタンリーは、ブランチをレイプ。精神を破壊されたブランチが精神病院に連れていかれるシーンで終わる。
失われた若さと美貌、心の欠落を埋めるために男を求め、精神を病んでいくサザン・ベルを演じるビビアン・リーが圧巻。
惜しむらくは、制作当時の映画コードのために夫の自殺の原因が語られないことで、同性愛者だったと知れば、ブランチの放埒にも納得がいく。
ビビアン・リーとキム・ハンター、カール・マルデンがそれぞれにアカデミーの主演女優、助演女優、助演男優賞を受賞。ニューオリンズの下町、むせるように暑苦しい極楽、エリシャン・フィールドを再現して美術賞も獲得。
欲望と哀しみの泥沼に足を取られて生きる人間を活写するテネシー・ウィリアムズの脚本が素晴らしい。 (評価:4)
製作国:フランス
日本公開:1952年4月24日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・ルフェーブル 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ジャン・ウィエネル
キネマ旬報:9位
ゆく河の無常とセーヌの川面に映るうたかたの人々を描く
原題"Sous le Ciel de Paris Coule la Seine"で、邦題の意。挿入歌"Sous le ciel de Paris"(パリの空の下)が有名なシャンソン曲となった。
セーヌ川に、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の無常を見ることができる作品で、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」のようにセーヌの川面に映る人々の泡沫の如き姿を、パリの一日の中に描く。
屋根裏で野良猫たちと暮らす老婆は猫の餌代を請うてパリの街を巡り、商人の幼い娘は友達に誘われてセーヌ川を探検する。工員は銀婚式にも拘らずストのピケから離れられず、朝釣りが趣味の男は川を流れる女の斬殺死体を発見する。その犯人は精神を病んだ彫刻家で、田舎から上京した娘はパリにいるボーイフレンドを訪ねる。パリでファッションモデルをしている彼女の友人には医学生の恋人がいるが、今日が国家試験の面接。
そんな彼らの一日がやがて一つに収斂していくというストーリー形式で、そこに泡沫である彼らのそれぞれのドラマがあって、しかし一日が終われば何事もなかったかのようにパリの街は朝を迎える、という構成が上手い。
主軸になるのは花の都での新生活に憧れて田舎から上京した娘で、恋に破れ、夢に破れて泡沫の如くパリの澱みに消えていく。本作の登場人物たちは誰もパリの華やかさとは無縁な生活を送っているが、人々の不幸もささやかな幸せも呑み込んで押し流してしまう大都会の姿を描いて終わる。
猫の餌代のカンパを求める老婆に都会の人々は冷たく、屋根裏に逼塞する野良猫たちの姿がパリの片隅に生きる人々を象徴する。 (評価:3.5)
日本公開:1952年4月24日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・ルフェーブル 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ジャン・ウィエネル
キネマ旬報:9位
原題"Sous le Ciel de Paris Coule la Seine"で、邦題の意。挿入歌"Sous le ciel de Paris"(パリの空の下)が有名なシャンソン曲となった。
セーヌ川に、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の無常を見ることができる作品で、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」のようにセーヌの川面に映る人々の泡沫の如き姿を、パリの一日の中に描く。
屋根裏で野良猫たちと暮らす老婆は猫の餌代を請うてパリの街を巡り、商人の幼い娘は友達に誘われてセーヌ川を探検する。工員は銀婚式にも拘らずストのピケから離れられず、朝釣りが趣味の男は川を流れる女の斬殺死体を発見する。その犯人は精神を病んだ彫刻家で、田舎から上京した娘はパリにいるボーイフレンドを訪ねる。パリでファッションモデルをしている彼女の友人には医学生の恋人がいるが、今日が国家試験の面接。
そんな彼らの一日がやがて一つに収斂していくというストーリー形式で、そこに泡沫である彼らのそれぞれのドラマがあって、しかし一日が終われば何事もなかったかのようにパリの街は朝を迎える、という構成が上手い。
主軸になるのは花の都での新生活に憧れて田舎から上京した娘で、恋に破れ、夢に破れて泡沫の如くパリの澱みに消えていく。本作の登場人物たちは誰もパリの華やかさとは無縁な生活を送っているが、人々の不幸もささやかな幸せも呑み込んで押し流してしまう大都会の姿を描いて終わる。
猫の餌代のカンパを求める老婆に都会の人々は冷たく、屋根裏に逼塞する野良猫たちの姿がパリの片隅に生きる人々を象徴する。 (評価:3.5)
ふしぎの国のアリス
日本公開:1953年8月19日
監督:クライド・ジェロニミ、ハミルトン・ラスケ、ウィルフレッド・ジャクソン 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:ウィンストン・ヒブラー 音楽:オリヴァー・ウォーレス
原題"Alice in Wonderland"で、邦題の意。ルイス・キャロルの"Alice's Adventures in Wonderland"が原作。
よく知られた物語で、原作をベースにディズニーアニメらしいデフォルメとファンタジーに満ちた作品。
他のディズニーアニメとの違いは、悪戯でヤンチャだけど本当は良い子という、悪意やネガティブな要素を排し、悪い子も心を入れ替えるといった、勧善懲悪で健全な夢を描くのに対し、本作では悪意や残酷を原作のテイストのままに描いている。
オイスターの子どもたちは食べられて殻になってしまうし、アリスが不思議の国で出会う動物たちは誰も意地悪で、根性が曲っている変人ばかり。ハートの女王もやたらと首を斬りたがる。
本来、エゴイズムや悪意に満ちている子どもたちの世界を、建前や偽善で糊塗することなく描いたことが、公開当時は悪評だったといわれるが、それが今見ても古びない理由となっている。
不思議の国のキャラクターたちもディズニーの漫画映画的穏健主義を打ち破った斬新でグロテスクなデザインで、非教育的ですらある。そうしたシニカルな世界観をアニメーションのコミカルな表現でオブラートに包みながら、子供たちの奇怪で不安な空想的世界を描いている。
その後定番となった可愛いエプロンドレスに身を包みながらも、アリス自身、横柄で自分勝手で、時折見せる目つきに棘のあるのがいい。
映像的には、さまざまな水の表現へのこだわりが見どころ。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1952年9月24日
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:ジョージ・スティーヴンス 脚本:マイケル・ウィルソン、ハリー・ブラウン 撮影:ウィリアム・C・メラー 音楽:フランツ・ワックスマン
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞
ウディ・アレン『マッチ・ポイント』の元ネタ
原題は"A Place in the Sun"で邦題の意。貧乏人だった主人公が手に入れかけた境遇を指す。原作はセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』(An American Tragedy)で2度目の映画化。アカデミー監督賞・脚色賞を受賞している。
ホテルのボーイをしていた青年(モンゴメリー・クリフト)が叔父の経営する同族会社に就職したことから新しい人生が開ける。同僚の娘と恋仲になる一方で、上流階級の令嬢(エリザベス・テイラー)に憧れる。前半は甘ったるいラブストーリーで辟易するが、娘が妊娠するあたりから話は急展開、サスペンス色を帯びる。そしてこの映画が、ウディ・アレンの『マッチ・ポイント』の元ネタであることに気づく。
『マッチ・ポイント』はアレンらしくシニカルな終わり方をするが、こちらのラストは重い。鉛のように重い。
青年は裁判にかけられ有罪か無罪かが争われるが、貧しくも宗教家である母は犯罪を犯したかどうかという法律上の外形ではなく、罪を精神の問題に帰結させる。その点において息子は有罪であり、贖罪しなければならず、神の赦しを請わなければならない。物語としては非常にもやもやしたラストだが、世俗の矛盾を超越した宗教の価値観に救いがある。 (評価:3)
日本公開:1952年9月24日
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:ジョージ・スティーヴンス 脚本:マイケル・ウィルソン、ハリー・ブラウン 撮影:ウィリアム・C・メラー 音楽:フランツ・ワックスマン
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞
原題は"A Place in the Sun"で邦題の意。貧乏人だった主人公が手に入れかけた境遇を指す。原作はセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』(An American Tragedy)で2度目の映画化。アカデミー監督賞・脚色賞を受賞している。
ホテルのボーイをしていた青年(モンゴメリー・クリフト)が叔父の経営する同族会社に就職したことから新しい人生が開ける。同僚の娘と恋仲になる一方で、上流階級の令嬢(エリザベス・テイラー)に憧れる。前半は甘ったるいラブストーリーで辟易するが、娘が妊娠するあたりから話は急展開、サスペンス色を帯びる。そしてこの映画が、ウディ・アレンの『マッチ・ポイント』の元ネタであることに気づく。
『マッチ・ポイント』はアレンらしくシニカルな終わり方をするが、こちらのラストは重い。鉛のように重い。
青年は裁判にかけられ有罪か無罪かが争われるが、貧しくも宗教家である母は犯罪を犯したかどうかという法律上の外形ではなく、罪を精神の問題に帰結させる。その点において息子は有罪であり、贖罪しなければならず、神の赦しを請わなければならない。物語としては非常にもやもやしたラストだが、世俗の矛盾を超越した宗教の価値観に救いがある。 (評価:3)
製作国:フランス、イタリア
日本公開:1954年6月19日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:ルネ・バルジャヴェル 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:8位
共産党市長に「ロシア正教に行け」と宣う破天荒な司祭
原題"Le petit Monde de Don Camillo"で、ドン・カミロの小さな世界の意。ジョヴァンニ・ガレスキの小説"Don Camillo"が原作。
戦後間もない1946年、イタリア北部のポー川流域の田舎町が舞台のコメディ。
新市長に共産党員のペッポーネ(ジーノ・チェルヴィ)が選ばれるが、幼馴染の司祭ドン・カミロ(フェルナンデル)は保守派で共産党が嫌い。教会の鐘を鳴らして演説を妨害したり、生れた赤ん坊の洗礼を頼みにきたペッポーネに「ロシア正教に行け」と追い返す始末。世俗臭さの抜けないカミロの内なる声は、イエスやマリアに姿を変えて反省を求める。
ペッポーネは町に人民の家を建設すると宣言。これに対しカミロは遊園地を作ると言い出して、事あるごとに大喧嘩。ところがカミロは滅法喧嘩に強くて、ペッポーネばかりか支持者12人を伸してしまうという聖職者にあるまじき乱暴者。それが禍して、司教に教区を出されてしまう。
もっとも喧嘩するほどに仲のいいカミロとペッポーネは、表向きは対立していても心の底では信頼し合っていて、市民の見送りを禁じていたはずのペッポーネが、保守派に隠れてカミロの汽車を見送り、いつか戻ってくるようにと伝える。
敗戦の反動による政治対立の中で、政治を離れた人間同士の絆と融和を求めるデュヴィヴィエの心温まる作品となっている。
保守派と共産派を『ロミオとジュリエット』のキャピュレット家とモンタギュー家に置き換えた恋人同士(ヴェラ・タルキ、フランコ・インテルレンギ)のエピソードや、劣等生だったペポネを懲らしめる共産党嫌いの恩師の老婆も登場。カミロ、ペッポーネを取り巻く破天荒なキャラクターが面白い。 (評価:2.5)
日本公開:1954年6月19日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:ルネ・バルジャヴェル 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:8位
原題"Le petit Monde de Don Camillo"で、ドン・カミロの小さな世界の意。ジョヴァンニ・ガレスキの小説"Don Camillo"が原作。
戦後間もない1946年、イタリア北部のポー川流域の田舎町が舞台のコメディ。
新市長に共産党員のペッポーネ(ジーノ・チェルヴィ)が選ばれるが、幼馴染の司祭ドン・カミロ(フェルナンデル)は保守派で共産党が嫌い。教会の鐘を鳴らして演説を妨害したり、生れた赤ん坊の洗礼を頼みにきたペッポーネに「ロシア正教に行け」と追い返す始末。世俗臭さの抜けないカミロの内なる声は、イエスやマリアに姿を変えて反省を求める。
ペッポーネは町に人民の家を建設すると宣言。これに対しカミロは遊園地を作ると言い出して、事あるごとに大喧嘩。ところがカミロは滅法喧嘩に強くて、ペッポーネばかりか支持者12人を伸してしまうという聖職者にあるまじき乱暴者。それが禍して、司教に教区を出されてしまう。
もっとも喧嘩するほどに仲のいいカミロとペッポーネは、表向きは対立していても心の底では信頼し合っていて、市民の見送りを禁じていたはずのペッポーネが、保守派に隠れてカミロの汽車を見送り、いつか戻ってくるようにと伝える。
敗戦の反動による政治対立の中で、政治を離れた人間同士の絆と融和を求めるデュヴィヴィエの心温まる作品となっている。
保守派と共産派を『ロミオとジュリエット』のキャピュレット家とモンタギュー家に置き換えた恋人同士(ヴェラ・タルキ、フランコ・インテルレンギ)のエピソードや、劣等生だったペポネを懲らしめる共産党嫌いの恩師の老婆も登場。カミロ、ペッポーネを取り巻く破天荒なキャラクターが面白い。 (評価:2.5)
製作国:イタリア
日本公開:1962年10月1日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ 撮影:G・R・アルド 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:7位
帽子を咥えて後ろ脚立ちでおもらいをする犬が無茶苦茶可愛い
原題"Umberto D"で、主人公の名。
年金生活者の老人が、戦後のインフレで家賃を払えなくなり、下宿屋を追い出されてしまう物語。
下宿屋のマダムは下宿を連れ込み宿同然にして儲け、小金持ちたちとの奢侈な暮らしで貧しい者たちには一片の同情もしないという、精神主義から物質主義に変貌する戦後日本でも見られた状況が、同じ敗戦国のイタリアでも演じられたことが面白いが、今では記憶の彼方に遠ざかってしまったしまった風景であることは間違いない。
かつての友人たちが貧しい老人とは別の世界に去ってしまった中で、老人の友となるのは下宿屋の小間使いの少女と愛犬であり、遠くない死を予感する老人は、同じ境遇に身を沈めるであろう少女に心を残しながらも下宿屋を去っていく。残されたもう一人の友である愛犬を誰かに引き取ってもらおうとするものの果たせず、愛犬とともに心中を図ろうとして、愛犬に拒絶される。
老人は生きなければならないことを愛犬に教えられて終わりとなるが、動物ものの作品ではないが動物もののセンチメントがあって、小型犬が可愛いこともあり心に浸みるラストとなっている。
老人がおもらいを試みるものの、プライドから犬に帽子を咥えさせて後ろ脚立ちさせ、自分は離れたところから見るシーンがあるが、この時の犬が無茶苦茶可愛い。おもらいのスタイルとしての帽子と犬という組み合わせはヨーロッパの都市では現在もあって確立しているが、日本と比べた貧困者に対する社会の許容や、小間使いの少女の生活スタイルなど、風俗的にも結構面白い。 (評価:2.5)
日本公開:1962年10月1日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ 撮影:G・R・アルド 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:7位
原題"Umberto D"で、主人公の名。
年金生活者の老人が、戦後のインフレで家賃を払えなくなり、下宿屋を追い出されてしまう物語。
下宿屋のマダムは下宿を連れ込み宿同然にして儲け、小金持ちたちとの奢侈な暮らしで貧しい者たちには一片の同情もしないという、精神主義から物質主義に変貌する戦後日本でも見られた状況が、同じ敗戦国のイタリアでも演じられたことが面白いが、今では記憶の彼方に遠ざかってしまったしまった風景であることは間違いない。
かつての友人たちが貧しい老人とは別の世界に去ってしまった中で、老人の友となるのは下宿屋の小間使いの少女と愛犬であり、遠くない死を予感する老人は、同じ境遇に身を沈めるであろう少女に心を残しながらも下宿屋を去っていく。残されたもう一人の友である愛犬を誰かに引き取ってもらおうとするものの果たせず、愛犬とともに心中を図ろうとして、愛犬に拒絶される。
老人は生きなければならないことを愛犬に教えられて終わりとなるが、動物ものの作品ではないが動物もののセンチメントがあって、小型犬が可愛いこともあり心に浸みるラストとなっている。
老人がおもらいを試みるものの、プライドから犬に帽子を咥えさせて後ろ脚立ちさせ、自分は離れたところから見るシーンがあるが、この時の犬が無茶苦茶可愛い。おもらいのスタイルとしての帽子と犬という組み合わせはヨーロッパの都市では現在もあって確立しているが、日本と比べた貧困者に対する社会の許容や、小間使いの少女の生活スタイルなど、風俗的にも結構面白い。 (評価:2.5)
春の悶え
日本公開:1954年3月6日
監督:アルネ・マットソン 製作:レナート・ランドハイム 脚本:オーレ・ヘルボム、アルネ・マットソン、ヴォロージャ・セミチョフ 撮影:イョーラン・ストリンドベルイ 音楽:スヴェン・シェルド
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Hon dansade en sommar"で、彼女はひと夏踊ったの意。ペロロフ・エクストラームの小説"Sommardansen"が原作。
大学生のイエーラン(フォルケ・サンドクィスト)が田舎の伯父の家で夏休みを過ごし、隣家の17歳の少女シエルスティン(ウラ・ヤコブソン)と恋に落ちるというひと夏の体験もの。
シエルスティンの葬式のシーンから始まるため、二人の恋は親の反対で成就せず、彼女の自殺によって悲恋に終わる『ロミオとジュリエット』だと想像がつき、後はどのような物語が展開されるかに関心が移る。
二人の出会いから手探りの交際と、初々しい恋の描写は丁寧なのだが、悲恋の原因は結婚によらない男女交際は宗教的に許されないというもので、ドラマ性に欠け、牧師とその教えに従順なシエルスティンの両親、オールドミスの従姉が敵、開明的な伯父だけが味方という牧歌的な展開となる。
スウェーデンの宗教史において、人間的なオーディン信仰を制圧した禁欲的なキリスト教への懐疑というものが根底にあって、ベルイマン同様、アルネ・マットソンも人間性の回復をテーマに据えるが、物語の退屈さは否めない。
このままなら凡作に終わるところだが、悲恋という予想に反して二人の恋は成就してしまうというのが本作が非凡な点で、大学に戻れという父親の反対を押し切ってイエーランは叔父の家に戻り、シエルスティンと結婚する決意をする。
悲劇は、シエルスティンの命が自殺ではなく交通事故によって奪われることで起きるのであり、人ではなく運命、つまりイエスがオーディンに勝利するという意外な結末となる。
スウェーデンの自由な精神に影を落とすキリスト教の影響、それを否とする宗教の相克がテーマとなっている。 (評価:2.5)
製作国:スウェーデン
日本公開:1952年8月15日
監督:アルフ・シェーベルイ 脚本:アルフ・シェーベルイ 撮影:イエラン・ストリンドベルイ 美術:Bibi Lindstrom 音楽:ダグ・ヴィレーン
キネマ旬報:6位
カンヌ映画祭グランプリ
母が肖像画のアップだけで消息不明なのがなんかな~
原題"Fröken Julie"で、邦題の意。アウグスト・ストリンドベリの同名戯曲が原作。
19世紀スウェーデンが舞台。夏至祭の宵、カール伯爵令嬢のジュリー(アニタ・ビョルク)は、父(アンデルス・ヘンリクソン)の留守に農民たちの踊りの輪に加わり、下男のジャン(ウルフ・パルメ)と踊る。高慢なジュリーは婚約を解消したばかりで農民たちにも嫌われている。
ジャンの無礼に腹を立て、婚約者(メルタ・ドルフ)のいるジャンを挑発。小作人の息子だったジャンが子供の頃からジュリーに憧れていたことを知って一夜を共にしてしまう。ジュリーは平民出身の母(リッシ・アーランド)が男女同権主義者だったために意に反して男の子のように育てられたこと。そのために父は母と不仲になり自殺未遂を引き起こす。
許されぬ仲となったジャンは、スイスに駆け落ちしてホテルを経営しようとジュリーを誘うが、伯爵が帰宅しジャンは下男の性に戻ってしまう。一夜の悪夢から醒めたジュリーは父に復讐するために自殺してしまうという終幕。
夏至祭の様子やジュリーの乗馬シーン、舟遊びなどスウェーデンの自然が美しいが、物語は少々わかりにくい。とりわけ状況設定からジュリーとジャン、その他登場人物たちの心理描写、二人が農民たちに追いかけられる理由が説明不足。ジュリーに影響を与えた母が肖像画のアップだけで消息不明なのもなんかな~
劇中、過去と現在が同一シーンで交錯するのが舞台劇風で、演出的には大きな見どころ。ジュリーの少女時代を演じるインゲル・ノウルベルイが、そのままアニタ・ビョルクになりそうなのがいい。カンヌ映画祭グランプリ受賞。 (評価:2.5)
日本公開:1952年8月15日
監督:アルフ・シェーベルイ 脚本:アルフ・シェーベルイ 撮影:イエラン・ストリンドベルイ 美術:Bibi Lindstrom 音楽:ダグ・ヴィレーン
キネマ旬報:6位
カンヌ映画祭グランプリ
原題"Fröken Julie"で、邦題の意。アウグスト・ストリンドベリの同名戯曲が原作。
19世紀スウェーデンが舞台。夏至祭の宵、カール伯爵令嬢のジュリー(アニタ・ビョルク)は、父(アンデルス・ヘンリクソン)の留守に農民たちの踊りの輪に加わり、下男のジャン(ウルフ・パルメ)と踊る。高慢なジュリーは婚約を解消したばかりで農民たちにも嫌われている。
ジャンの無礼に腹を立て、婚約者(メルタ・ドルフ)のいるジャンを挑発。小作人の息子だったジャンが子供の頃からジュリーに憧れていたことを知って一夜を共にしてしまう。ジュリーは平民出身の母(リッシ・アーランド)が男女同権主義者だったために意に反して男の子のように育てられたこと。そのために父は母と不仲になり自殺未遂を引き起こす。
許されぬ仲となったジャンは、スイスに駆け落ちしてホテルを経営しようとジュリーを誘うが、伯爵が帰宅しジャンは下男の性に戻ってしまう。一夜の悪夢から醒めたジュリーは父に復讐するために自殺してしまうという終幕。
夏至祭の様子やジュリーの乗馬シーン、舟遊びなどスウェーデンの自然が美しいが、物語は少々わかりにくい。とりわけ状況設定からジュリーとジャン、その他登場人物たちの心理描写、二人が農民たちに追いかけられる理由が説明不足。ジュリーに影響を与えた母が肖像画のアップだけで消息不明なのもなんかな~
劇中、過去と現在が同一シーンで交錯するのが舞台劇風で、演出的には大きな見どころ。ジュリーの少女時代を演じるインゲル・ノウルベルイが、そのままアニタ・ビョルクになりそうなのがいい。カンヌ映画祭グランプリ受賞。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1953年2月4日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ウィリアム・ワイラー 脚本:フィリップ・ヨーダン、ロバート・ワイラー 撮影:リー・ガームス
キネマ旬報:3位
事件は現場ではなく警察署の中で起きてるんだ!
原題"Detective Story"で、邦題の意。内容的には刑事物語の方がしっくりくる。シドニー・キングスレーの同名戯曲が原作。
ニューヨーク21分署の一日を描くという内容で、戯曲が原作だけに警察署内と警察署前の駐車場が舞台。
中心となるのがカーク・ダグラス演じるマクラウド刑事で、頑固一徹、犯罪者を決して許さない。店の金を横領した青年を連行してくると、別件で呼び出したヤミの堕胎医が弁護士と現れる。容疑を固めようと連れ回していると、マクラウドの美人妻が堕胎医の世話になっていたことがわかり、妻の過去を知って破局に。
この時、宝石強盗で逮捕された2人組の主犯が刑事の拳銃を奪って逃走を企て、これに自暴自棄となったマクラウドが立ち向かい、見事殉職して果てる。
死ぬ前に自分の許容性のなさを反省したマクラウドは、横領青年を不起訴にしてあげるという安っぽい人情噺がついて終わる。
見どころは事件は現場ではなく警察署の中で起きているんだという舞台設定で、グランドホテル形式によって、刑事や弁護士、堕胎医、宝石強盗だけでなく、万引き女や被害妄想の女、目撃者や容疑者の関係者など多くの人々が集合してくることで、様々な人間模様が描かれる。
もっとも、シナリオはやや交通整理が不足していて、それぞれのエピソードが混線して話が分かりにくい。ラストのオチも、妻と破局したマクラウド刑事の改心を描くとはいえ、人情を優先して犯罪者を無罪放免というのは大岡越前守にも劣る裁きで、許すなら万引き女の方で人間ドラマとしては底が浅い。 (評価:2.5)
日本公開:1953年2月4日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ウィリアム・ワイラー 脚本:フィリップ・ヨーダン、ロバート・ワイラー 撮影:リー・ガームス
キネマ旬報:3位
原題"Detective Story"で、邦題の意。内容的には刑事物語の方がしっくりくる。シドニー・キングスレーの同名戯曲が原作。
ニューヨーク21分署の一日を描くという内容で、戯曲が原作だけに警察署内と警察署前の駐車場が舞台。
中心となるのがカーク・ダグラス演じるマクラウド刑事で、頑固一徹、犯罪者を決して許さない。店の金を横領した青年を連行してくると、別件で呼び出したヤミの堕胎医が弁護士と現れる。容疑を固めようと連れ回していると、マクラウドの美人妻が堕胎医の世話になっていたことがわかり、妻の過去を知って破局に。
この時、宝石強盗で逮捕された2人組の主犯が刑事の拳銃を奪って逃走を企て、これに自暴自棄となったマクラウドが立ち向かい、見事殉職して果てる。
死ぬ前に自分の許容性のなさを反省したマクラウドは、横領青年を不起訴にしてあげるという安っぽい人情噺がついて終わる。
見どころは事件は現場ではなく警察署の中で起きているんだという舞台設定で、グランドホテル形式によって、刑事や弁護士、堕胎医、宝石強盗だけでなく、万引き女や被害妄想の女、目撃者や容疑者の関係者など多くの人々が集合してくることで、様々な人間模様が描かれる。
もっとも、シナリオはやや交通整理が不足していて、それぞれのエピソードが混線して話が分かりにくい。ラストのオチも、妻と破局したマクラウド刑事の改心を描くとはいえ、人情を優先して犯罪者を無罪放免というのは大岡越前守にも劣る裁きで、許すなら万引き女の方で人間ドラマとしては底が浅い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1952年6月24日
監督:ジャン・ルノワール 製作:ケネス・マッケルダウニー 脚本:ルーマー・ゴッデン、ジャン・ルノワール 撮影:クロード・ルノワール 音楽:M・A・パーサ・サラティ
キネマ旬報:4位
ルノワールの抒情についていけないと恥ずかしい
原題"The River"。ルーマー・ゴッデンの同名小説が原作。
タイトルの河はガンジス川のことで、河岸で黄麻の工場を営むイギリス人一家が舞台。14歳と18歳の姉妹が、白人の若い男のいない村にやってきた義足の退役軍人に夢中になるという物語で、14歳の文学少女ハリエットの初恋の追憶として語られる。
恋愛願望が高じた麻疹のような話だが、この二人に割って入るのが隣家のアメリカ人とインド人の混血少女で、アイデンティティに悩みながらもやはり白人男に魅かれるという点で、他愛ない少女の男争奪物語とはいえ人種差別的。
しかも退役軍人が大してハンサムでもなく、3人の恋慕を利用して誰とでも抱き合いキスをしてしまうという点では青少年保護育成条例に反して節度がなく、おまけに自分が厄介になっている家の娘に手を出すなどもってのほか。それに理解を示す母親にも、あわよくば自分もという魂胆がほの見える。
おおらかといえばおおらか、さすがカーマ・スートラの国と感心するが、残念ながらキスどまり。
幼い弟がコブラ使いに夢中になっているのを知りながら恋に心を奪われていたハリエットが両親に注進することを怠り、弟がコブラに噛まれて死ぬという事件が起り、ハリエットは入水しようとするが村人たちに助けられ、楽しい日々を過ごしていた退役軍人も義足を思い出す出来事を経て、少女たちへの未練を残しつつインドを去る。
退役軍人から結婚通知が少女たちにそれぞれ届き、家に新しい妹が誕生して物語は終わるが、「ゆく河の流れは絶えずして」の方丈記の如く、行く人くる人を乗せてガンジス河も流れ続けるというお粗末。
少女漫画のような王子様物語なので、ルノワールの抒情についていけないとうんざりする恥ずかしさ。
オリエンタル趣味をベースにしているが、混血少女が躍るインド舞踊が最大の見どころ。 (評価:2.5)
日本公開:1952年6月24日
監督:ジャン・ルノワール 製作:ケネス・マッケルダウニー 脚本:ルーマー・ゴッデン、ジャン・ルノワール 撮影:クロード・ルノワール 音楽:M・A・パーサ・サラティ
キネマ旬報:4位
原題"The River"。ルーマー・ゴッデンの同名小説が原作。
タイトルの河はガンジス川のことで、河岸で黄麻の工場を営むイギリス人一家が舞台。14歳と18歳の姉妹が、白人の若い男のいない村にやってきた義足の退役軍人に夢中になるという物語で、14歳の文学少女ハリエットの初恋の追憶として語られる。
恋愛願望が高じた麻疹のような話だが、この二人に割って入るのが隣家のアメリカ人とインド人の混血少女で、アイデンティティに悩みながらもやはり白人男に魅かれるという点で、他愛ない少女の男争奪物語とはいえ人種差別的。
しかも退役軍人が大してハンサムでもなく、3人の恋慕を利用して誰とでも抱き合いキスをしてしまうという点では青少年保護育成条例に反して節度がなく、おまけに自分が厄介になっている家の娘に手を出すなどもってのほか。それに理解を示す母親にも、あわよくば自分もという魂胆がほの見える。
おおらかといえばおおらか、さすがカーマ・スートラの国と感心するが、残念ながらキスどまり。
幼い弟がコブラ使いに夢中になっているのを知りながら恋に心を奪われていたハリエットが両親に注進することを怠り、弟がコブラに噛まれて死ぬという事件が起り、ハリエットは入水しようとするが村人たちに助けられ、楽しい日々を過ごしていた退役軍人も義足を思い出す出来事を経て、少女たちへの未練を残しつつインドを去る。
退役軍人から結婚通知が少女たちにそれぞれ届き、家に新しい妹が誕生して物語は終わるが、「ゆく河の流れは絶えずして」の方丈記の如く、行く人くる人を乗せてガンジス河も流れ続けるというお粗末。
少女漫画のような王子様物語なので、ルノワールの抒情についていけないとうんざりする恥ずかしさ。
オリエンタル趣味をベースにしているが、混血少女が躍るインド舞踊が最大の見どころ。 (評価:2.5)
ベリッシマ
日本公開:1981年8月1日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 脚本:チェーザレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、フランチェスコ・ロージ、ルキノ・ヴィスコンティ 撮影:ピエロ・ポルタルピ、ポール・ロナルド 音楽:フランコ・マンニーノ
原題"Bellissima"で、美しいの意。
映画の子役オーディションに応募した母娘のコメディで、ステージママを目指すマッダレーナ(アンナ・マニャーニ)がとにかくけたたましい。初めから終わりまで早口に喋り通しで、イタリア人を彼女にはしたくないと思うくらいに喧しい。
対する娘のマリア(ティーナ・アピチェッラ)は一見おとなしいが、すぐ泣いて 喚く。もっとも泣き方が上手くて、ストーリーがストーリーだけに、ティーナ・アピチェッラが本作のオーディションを受けている姿と被ってしまう。
マッダレーナが映画スタッフ、アンノヴァッツィ(ヴァルテル・キアーリ)のカモにされ金を巻き上げられるが、マッダレーナもしたたかで騙されているのを承知で審査パスのためにコネを使う。
演技指導だと言って押し掛ける元女優、マリアの審査フィルムを見て笑い転げる監督、プロデューサーと、碌でもない映画人を風刺。女優の夢破れて編集スタッフになっている娘を見たマッダレーナは漸く正気を取り戻し、オーディションにパスしたマリアにまともな道を歩ませることを決意し、大金の契約を拒むという結末。
映画界の内部批判という内幕もので、敢然とそれを拒否する母親と若干きれいごとに過ぎるが、パワフルなアンナ・マニャーニに圧倒される。 (評価:2.5)
クォ・ヴァディス
日本公開:1953年9月5日
監督:マーヴィン・ルロイ 製作:サム・ジンバリスト 脚本:ジョン・リー・メイヒン、S・N・バーマン、ソニア・レヴィン 撮影:ロバート・サーティース、ウィリアム・V・スコール 音楽:ミクロス・ローザ
原題"Quo Vadis"で、ラテン語でどこに行くのか? の意。劇中、ローマを離れたペテロがイエスと出会った時に問いかけた言葉。ヘンリック・シェンキウィッチの小説"Quo Vadis:Powieść z czasów Nerona"(クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語)が原作。
1世紀、ネロ治世下のローマが舞台。ブリタニア遠征から戻ったマーカス・ヴィニシウス(ロバート・テイラー)がリギアの元王女のリジア(デボラ・カー)に恋する物語で、ローマ神が信仰されるローマで、マーカスが初期キリスト教徒のリジアの影響を受けてキリスト教に教化されていく過程を描く。
ネロ(ピーター・ユスティノフ)がローマ市街に放火した責任をキリスト教徒に転嫁。キリスト教徒は市民の弾劾を受け、マーカスもリジアと捕らえられてしまう。コロシアムで神への生贄にされる前夜、二人はペテロ(フィンレイ・カリー)によって結婚。ラストは市民の蜂起でネロが自殺するという筋立て。
スペクタクル大作なので、大量のエキストラを動員したモブシーン、豹やライオンを使ったシーンなど見どころには事欠かない。圧巻はリジアの警護役ウルスス(バディ・ベア)が猛牛と格闘するシーンで、バディ・ベアは元ヘビー級ボクサー。
主役の二人は架空人物だが、ドラマとしても、ローマにおける初期キリスト教の布教を描いた史劇として楽しめる。特にペテロが信者たちを前に説教するシーンが、異教下のローマ人へのキリスト教の本義を伝えていて感動的。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1952年5月2日
監督:ヴィンセント・ミネリ 製作:アーサー・フリード 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー 撮影:アルフレッド・ギルクス、ジョン・アルトン 音楽監督:ジョニー・グリーン、ソウル・チャップリン
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
物語は駄作だが芸術面はプロフェッショナル
原題"An American in Paris"で、ジョージ・ガーシュウィンの同名交響詩の楽曲を基にしたミュージカル。
パリの路上で絵を売るアメリカ人の新進画家(ジーン・ケリー)が主人公の物語で、美人画商(ニナ・フォック)がパトロンにつくものの、酒場で見かけた香水店の売り子(レスリー・キャロン)に惚れて恋人になる。ところが娘はナチに両親を殺され、育ての親となった歌手(ジョルジュ・ゲタリ)と婚約していて、2組の男女の恋愛模様が絡み合うという、いかにもなおフランス設定。
彼らを取り持つのがアメリカ人の作曲家(オスカー・レヴァント)で、彼がガーシュウィンの立ち位置になる。
最後はお約束のハッピー・エンドで、残りの2人が割を食って可哀想だが、そこはミュージカルなのでどうでもいいということになる。
実際、本作はジーン・ケリーとレスリー・キャロンの踊りが見どころというか、それだけで、それがなければただの駄作だが、踊りを見ている分には素晴らしい。
ジーン・ケリーの縦横無尽の踊りは人間国宝級だし、本場フランスのバレエ仕込みでこれがデビュー作のレスリー・キャロンがこれまた素晴らしい。もっとも顔はヒロイン向きではないが・・・
ジョルジュ・ゲタリとオスカー・レヴァントも本職で、芸術面からはプロフェッショナルな見応えがある。ダンスシーンで使われるイラストの背景美術もお洒落。 (評価:2.5)
日本公開:1952年5月2日
監督:ヴィンセント・ミネリ 製作:アーサー・フリード 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー 撮影:アルフレッド・ギルクス、ジョン・アルトン 音楽監督:ジョニー・グリーン、ソウル・チャップリン
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
原題"An American in Paris"で、ジョージ・ガーシュウィンの同名交響詩の楽曲を基にしたミュージカル。
パリの路上で絵を売るアメリカ人の新進画家(ジーン・ケリー)が主人公の物語で、美人画商(ニナ・フォック)がパトロンにつくものの、酒場で見かけた香水店の売り子(レスリー・キャロン)に惚れて恋人になる。ところが娘はナチに両親を殺され、育ての親となった歌手(ジョルジュ・ゲタリ)と婚約していて、2組の男女の恋愛模様が絡み合うという、いかにもなおフランス設定。
彼らを取り持つのがアメリカ人の作曲家(オスカー・レヴァント)で、彼がガーシュウィンの立ち位置になる。
最後はお約束のハッピー・エンドで、残りの2人が割を食って可哀想だが、そこはミュージカルなのでどうでもいいということになる。
実際、本作はジーン・ケリーとレスリー・キャロンの踊りが見どころというか、それだけで、それがなければただの駄作だが、踊りを見ている分には素晴らしい。
ジーン・ケリーの縦横無尽の踊りは人間国宝級だし、本場フランスのバレエ仕込みでこれがデビュー作のレスリー・キャロンがこれまた素晴らしい。もっとも顔はヒロイン向きではないが・・・
ジョルジュ・ゲタリとオスカー・レヴァントも本職で、芸術面からはプロフェッショナルな見応えがある。ダンスシーンで使われるイラストの背景美術もお洒落。 (評価:2.5)
黄昏
日本公開:1953年10月15日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ウィリアム・ワイラー 脚本:ルース・ゲイツ、オーガスタ・ゲイツ 撮影:ヴィクター・ミルナー 音楽:デヴィッド・ラクシン
原題"Carrie"で、登場人物の名。セオドア・ドライサーの小説"Sister Carrie"が原作。
魔性の田舎娘にとち狂った上流階級のオヤジが、家庭と地位を捨てて駆け落ち。零落して女にも捨てられ、ホームレスになってしまうという転落の物語…と書くと身も蓋もないが、ハーストウッドを演じるローレンス・オリヴィエの名演に引き込まれて結構楽しめる。
もっとも魔性の女キャリーを演じるジェニファー・ジョーンズが今ひとつ垢抜けず魅力的に見えないのが難で、それだけに男の惨めさを際立たせているのが却って奏功しているのかもしれない。
ミズーリの田舎町から都会に憧れてシカゴにやってきたキャリーは、たちまち生活に困り、お調子者のドルーエ(エディ・アルバート)に拾われて愛人になってしまう。
キャリーを一目見て惹かれてしまった高級レストラン支配人ハーストウッドはこれを知り、その境遇から解放するべく妻子を捨てて駆け落ちするが、二人が初デートに見るのが『椿姫』で、これをオマージュした話になっている。
以下、零落するハーストウッドと、生活費を稼ぐために舞台の大部屋俳優となるキャリーの物語となるが、愛しながらも別れて、それぞれに成功と失敗の人生を歩むことになる。
泣きどころは、この別れが初老の男にとっては若い女の未来のため、女にとっては男が本来いるべき場所のためにという、互いの相手に対する愛から生じるすれ違いで、原作とは異なるラストシーンは、人生の悲哀を感じさせる心に残るものとなっている。
女は貧困から成功へと這い上がり、男は成功から貧困へと転落する、都会の光と影を描いているが、ローレンス・オリヴィエとジェニファー・ジョーンズの演技力の差が影を落として成功しているとは言い難い。 (評価:2.5)
見知らぬ乗客
日本公開:1953年5月20日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:レイモンド・チャンドラー、チェンツイ・オルモンド 撮影:ロバート・バークス 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題"Strangers on a Train"で、列車の中の他人の意。パトリシア・ハイスミスの同名小説が原作。
妻との離婚問題を抱えた有名テニス選手ガイ(ファーリー・グレンジャー)が、列車の中で出会った男ブルーノ(ロバート・ウォーカー)にそれぞれに消えて欲しい相手、妻と父の交換殺人を持ちかけられるという話。ガイとブルーノが他人なら、無関係の相手を殺しても証拠が残らないというもので、ガイは相手にしないが、ブルーノは勝手にガイの妻ミリアム(ケイシー・ロジャース)を殺してしまう。
それを知ったガイに、警察に言えば共謀したと証言すると脅し、ブルーノの父を殺すように強要。一方、ガイは重要参考人として警察の監視下に置かれる。
ガイに父を殺す気がないことを知ると、ブルーノはガイの名入りのライターをミリアム殺害現場の遊園地に置きに行く。これを阻止するためにガイが遊園地に向かい、格闘の末、ブルーノが事故死。遊園地の係員がブルーノが犯人であることを証言して、ガイの無実が晴れるという結末。
ガイのアリバイを含め、警察の捜査には杜撰なところがあって、ミステリーとしては出来が悪いが、ブルーノがサイコパスというのがむしろ見どころで、ロバート・ウォーカーの演技が気色悪い。
ケイシー・ロジャースのbitchぶりも良くて、主役のファーリー・グレンジャーとガイの恋人アン役のルース・ローマンの優等生ぶりがむしろ物足りない。
ラストシーンは二人仲良く列車で帰るが、向かい合わせた乗客に声を掛けられ、そっと席を立ち、知らない人には気をつけましょうという赤ずきんちゃんの教訓話。
映像的には凝ったカメラワークも多く、ヒッチコックの最盛期の作品。遊園地の暴走するカルーセルでの格闘が見せ場で、そんなに早く回るのか? と思わせるくらいにスリリング。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1952年11月29日
監督:ラズロ・ベネディク 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:スタンリー・ロバーツ 撮影:フランク・プラナー 音楽:アレックス・ノース、モリス・W・ストロフ
キネマ旬報:7位
気が滅入る凡人とその凡庸な家族の悲しい性
原題"Death of a Salesman"。アーサー・ミラーの同名戯曲が原作。
セールスマンとして働きながら家庭を築き、二人の子供を育て上げた63歳の男ウイリーが主人公。原作がピューリッツァー賞を受賞していることからもわかるように、シリアスで暗い。
長男ビフは高校ではフットボールの選手として将来を嘱望されたが、数学で落第して大学進学できなかったことから放浪、盗癖まで身に着けている。次男ハッピーは女遊びにかまけ、親孝行のようで結局は自己中心。妻リンダは夫を愛することしかできない女で、回らない家計に苦しみながらも夫の稼ぎだけが頼り。
そしてウイリーはというと、他に技術も能もないから何十年と同じ会社でセールスをしているだけだが、身の丈以上に自尊心だけは高くて、息子たちにも無理な自尊心を強いてドロップアウトさせたという次第。報われない人生の末に、ウイリーは精神に変調を来し自殺願望を持ち始めている。
そこにビフが放浪から帰ってきて一条の希望の光の下、一家が再出発を期した矢先にウイリーは会社をお払い箱となる。ビフの就職も上手くいかず、リンダからは住宅ローンの返済ができないと迫られ、ウイリーは保険金目当てに自動車事故で死亡。住宅ローンを完済して漸く家は自分のものとなったが、主はいないという悲しい結末で終わる。
舞台劇らしく、精神疾患のウイリーが幻聴・幻覚でフラッシュバックしながら場面転換し、家族の過去の歴史を語るという構成が素晴らしいが、凡人とその凡庸な家族の悲しい性を見せられると気が滅入る。 (評価:2.5)
日本公開:1952年11月29日
監督:ラズロ・ベネディク 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:スタンリー・ロバーツ 撮影:フランク・プラナー 音楽:アレックス・ノース、モリス・W・ストロフ
キネマ旬報:7位
原題"Death of a Salesman"。アーサー・ミラーの同名戯曲が原作。
セールスマンとして働きながら家庭を築き、二人の子供を育て上げた63歳の男ウイリーが主人公。原作がピューリッツァー賞を受賞していることからもわかるように、シリアスで暗い。
長男ビフは高校ではフットボールの選手として将来を嘱望されたが、数学で落第して大学進学できなかったことから放浪、盗癖まで身に着けている。次男ハッピーは女遊びにかまけ、親孝行のようで結局は自己中心。妻リンダは夫を愛することしかできない女で、回らない家計に苦しみながらも夫の稼ぎだけが頼り。
そしてウイリーはというと、他に技術も能もないから何十年と同じ会社でセールスをしているだけだが、身の丈以上に自尊心だけは高くて、息子たちにも無理な自尊心を強いてドロップアウトさせたという次第。報われない人生の末に、ウイリーは精神に変調を来し自殺願望を持ち始めている。
そこにビフが放浪から帰ってきて一条の希望の光の下、一家が再出発を期した矢先にウイリーは会社をお払い箱となる。ビフの就職も上手くいかず、リンダからは住宅ローンの返済ができないと迫られ、ウイリーは保険金目当てに自動車事故で死亡。住宅ローンを完済して漸く家は自分のものとなったが、主はいないという悲しい結末で終わる。
舞台劇らしく、精神疾患のウイリーが幻聴・幻覚でフラッシュバックしながら場面転換し、家族の過去の歴史を語るという構成が素晴らしいが、凡人とその凡庸な家族の悲しい性を見せられると気が滅入る。 (評価:2.5)
愛なき女
日本公開:1987年8月15日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルヒオ・コーガン 脚本:ハイメ・サルヴァドール 撮影:ラウル・マルチネス・ソラレス 美術:グンテル・ヘルソ 音楽:ラウル・ラヴィスタ
原題"Una Mujer Sin Amor"で、邦題の意。モーパッサンの小説『ピエールとジャン』が原作。
本作の最大の見どころは、「ブニュエルにも普通の映画が撮れるんだ」ということで、だからといって取り立てて面白いわけでもなく、やはりシュールに撮ってもらわないと気の抜けたコーラみたいで物足りない。
愛なき結婚をした若い女(ロサリオ・グラナドス)は、厳格な夫(フリオ・ビリャレアル)が原因で息子が家出したのをきっかけに山林技師(ティト・フンコ)と恋に落ち、25年後、男の遺言で莫大な遺産が2番目の息子に転がり込んだことをきっかけに、家族の中に波紋が生じるという物語。
実は次男は男との間にできた子なのだが、生まれたのは二人が別れた後で、夫はもちろん知らない。
知らないのは観客も同様で、せいぜいが立ったままの抱擁とキスシーンくらいで、二人が駆け落ちしようとして女の優柔不断で果たせず、妊娠どころかセックスした気配もないので、男が女の家庭に波風立てようと嫌がらせで妙な遺言をしたのか? と思ってしまう。
誰よりも早く母の不義に気づくのが長男(ホアンキン・コルデロ)で、その様子から観客も漸く事の真相を知るが、二人が別れた後も文通していないと、男も自分の子が生まれたことに気づかないわけで、そうした説明なく話が進んでしまうのがシュールといえばシュール。
兄弟の仲に不和が生じ、夫の急死によって全てが明らかになるが、不義の母を恥辱と糾弾する兄が、自分と病気の父のために女の幸せを捨てた母の真情を知って、母子三人仲直りするというラストへの描写は感動的にできていて、「ブニュエルはメロドラマも撮れるんだ」と妙に感心したりする。 (評価:2.5)
紹介、またはシャルロットとステーキ
日本公開:劇場未公開
監督:エリック・ロメール 脚本:エリック・ロメール 音楽:モーリス・ル・ルー
原題"Présentation ou Charlotte et son steak"で、邦題の意。
サイレントとして撮影された後、アフレコが行われたため、青年役のジャン=リュック・ゴダール以外は画と声の女優が異なっている。
11分の短編で、ヴァルテル(ジャン=リュック・ゴダール)がクララ(アンドレー・ベルトラン)を連れて雪道を駅に来ると、待ち合わせていたシャルロット(アンヌ・クードレ)が現れる。二人を紹介した後、クララと別れ、シャルロットの家に押しかける。シャルロットを口説くが、戸口から中には入れてもらえず、コーヒーとステーキで食事を済ませたシャルロットが、愛想のキスをしただけで再び駅に向かい、電車に乗ってしまうというストーリー。
モノクロの雪景色が詩的で、男女の心理をさりげなく描くロメールの才気が煌めく。ゴダールが同じく短編の続編を制作していて、短いが想像を膨らませる余韻のある作品となっている。 (評価:2.5)
オーソン・ウェルズのオセロ
日本公開:1993年7月10日
監督:オーソン・ウェルズ 製作:オーソン・ウェルズ 脚本:オーソン・ウェルズ 撮影:アンキーゼ・ブリッツィ、G・R・アルド、ジョージ・ファント 音楽:アンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ、アルベルト・バルベリス
カンヌ映画祭グランプリ
原題"The Tragedy of Othello: The Moor of Venice"で、オセロの悲劇:ヴェニスのムーア人の意。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲"Othello"が原作。
戯曲に忠実な内容で、台詞など舞台劇そのままの演出になっている。このため時代がかった持って回った言い回しが映画だと不自然で、まどろっこしくテンポを欠くので次第に退屈になってくる。
シェイクスピア劇に忠実な映画を目指すが、悪い意味で芸術的。
製作・監督・脚本のオーソン・ウェルズが、主演のヴェネチア共和国の司令官オセロを演じるという入魂の作品で、資金難から何度も中断に追い込まれながら3年かけて撮り終え、カンヌでグランプリ(パルムドール)を受賞したものの、アメリカでの配給が決まらず3年後の公開となった曰く付きの作品。
オセロがムーア人であるために反対する貴族の父親を押し切って結婚するデズデモーナを演じるシュザンヌ・クルーティエが可憐。二人の仲を裂くためにデズデモーナが副官と浮気しているとオセロを騙すイアーゴ(マイケル・マクラマー)が狡猾でいい。
プロローグはオセロに殺されたデズデモーナと自害したオセロの葬送のシーンから始まるが、カメラワークやコンポジションが凝っていて、映像的には素晴らしい。続く二人がゴンドラでデートするヴェネツィアの水路、モロッコで撮影されたキプロス島、セット撮影の美術など、完全主義者ウェルズならではの溜め息の出るほどに美しいモノクロ映像となっている。
それでも芸術とは退屈なもので、可憐なデズデモーナに対して狡猾なイアーゴに簡単に騙されてしまうオセロがバカに見えてしまうのが、映画としては何ともいただけない。 (評価:2)
製作国:イタリア
日本公開:1952年11月1日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ 撮影:G・R・アルド 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:5位
カンヌ映画祭グランプリ
パルム・ドール受賞が本作の奇跡そのものを体現
原題"Miracolo a Milano"で、邦題の意。チェザーレ・ザヴァッティーニの小説"Totò il Buono"(善人トト)が原作。
お婆さん(エンマ・グラマティカ)がキャベツ畑で見つけたキャベツ太郎を育てるが、お迎えが来たために孤児院に引き取られ、年季が明けて社会に出るも仕事は見つからず、唯一の財産の鞄を盗まれ、それが縁で彼が寝泊まりする貧民不法占拠地で暮らすようになる。
この土地に水ばかりか石油が湧いて、貧民たちは立ち退かされるのだが、キャベツ太郎=トト(フランチェスコ・ゴリザーノ)はどうやら神の子だったらしく、皆を連れて天上の楽園へと昇天するというお伽噺。
トトは鞄を盗まれても上げてしまうくらいの利他的な人で、水を掛けられても許すという仏、否イエスのような人。天国のお婆さんが願いを叶える魔法のランプのような鳩をキャベツ太郎にプレゼントすると、それで貧民たちの物欲を叶えてしまうという、神の子にあるまじき施しをする。
貧しくも善良に生きれば神の国に迎えられるという寓話だが、ただ善良でさえあればいいのか、彼らの幸福を象徴するのがミンクのコートなのか、という仏教徒には甚だ理解しがたいところがあって、これがカトリック的宗教哲学なのか、あるいはイタリア的能天気さなのか、それともデ・シーカ的メルヘンなのか判然としないが、カンヌ映画祭でグランプリを受賞しているのが、本作の奇跡そのものを体現している。 (評価:2)
日本公開:1952年11月1日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ 撮影:G・R・アルド 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:5位
カンヌ映画祭グランプリ
原題"Miracolo a Milano"で、邦題の意。チェザーレ・ザヴァッティーニの小説"Totò il Buono"(善人トト)が原作。
お婆さん(エンマ・グラマティカ)がキャベツ畑で見つけたキャベツ太郎を育てるが、お迎えが来たために孤児院に引き取られ、年季が明けて社会に出るも仕事は見つからず、唯一の財産の鞄を盗まれ、それが縁で彼が寝泊まりする貧民不法占拠地で暮らすようになる。
この土地に水ばかりか石油が湧いて、貧民たちは立ち退かされるのだが、キャベツ太郎=トト(フランチェスコ・ゴリザーノ)はどうやら神の子だったらしく、皆を連れて天上の楽園へと昇天するというお伽噺。
トトは鞄を盗まれても上げてしまうくらいの利他的な人で、水を掛けられても許すという仏、否イエスのような人。天国のお婆さんが願いを叶える魔法のランプのような鳩をキャベツ太郎にプレゼントすると、それで貧民たちの物欲を叶えてしまうという、神の子にあるまじき施しをする。
貧しくも善良に生きれば神の国に迎えられるという寓話だが、ただ善良でさえあればいいのか、彼らの幸福を象徴するのがミンクのコートなのか、という仏教徒には甚だ理解しがたいところがあって、これがカトリック的宗教哲学なのか、あるいはイタリア的能天気さなのか、それともデ・シーカ的メルヘンなのか判然としないが、カンヌ映画祭でグランプリを受賞しているのが、本作の奇跡そのものを体現している。 (評価:2)
ジープの四人
日本公開:1952年1月14日
監督:レオポルド・リントベルグ、エリザベス・モンタギュ 製作:ラザール・ヴェヒスラー 脚本:リチャード・シュヴァイザー 撮影:エミール・ベルナ 音楽:ロバート・ブルム
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Die Vier im Jeep"で、邦題の意。
第二次世界大戦後、連合軍4か国によって分割統治されていたウィーンが舞台。共同管理されている中央区は4か国が交代で当番をするが、警邏は各国1名4人でジープに乗って行う。
ソ連が当番の時、不審者の通報があり、ジープが現場に向かう。ソ連軍憲兵ヴォロシェンコ(ヨゼフ・ヤーデン)がオーストリア女性フランツィスカ(ヴィヴェカ・リンドフォース)を執拗に尋問するのを何かあると感じてアメリカ軍憲兵ロング(ラルフ・ミーカー)が妨害。案の定、夫がソ連軍の捕虜収容所を脱走してウィーン潜伏中。
ロングはフランツィスカを保護し、フランス軍憲兵パステュウル(アルベール・ディナン)の家に匿う。
ロングとヴォロシェンコの因縁はドイツ降伏時から始まっていて、前線で喜び合った仲。その後、冷戦によってヴォロシェンコの態度が一変したため、ロングは不信を感じている。
フランツィスカ、その夫カール(ハンス・プッツ)を巡って二人の攻防となるが、最後はヴォロシェンコがカールを逃がすという粋なところを見せ、実はヴォロシェンコの善性は変わっていなかったというオチ。国は対立しても人はわかり合えるという国際平和を説いて、ベルリン映画祭金熊賞を受賞した。
もっとも脱走兵を巡る前半のサスペンス・タッチな緊張感が、後半はただの夫婦の再会を巡る攻防劇となって間延び。いっそ、フランツィスカかカールのどちらかがスパイだった方がドラマとしては楽しめた。下手なヒューマニズムは映画をつまらなくする。 (評価:2)
愛欲の十字路
日本公開:1952年9月25日
監督:ヘンリー・キング 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:フィリップ・ダン 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:アルフレッド・ニューマン
原題"David and Bathsheba"で、ダビデとバテシバの意。
紀元前10世紀のイスラエル王ダビデ(グレゴリー・ペック)が家臣ウリア(キーロン・ムーア)の妻バスシバ(スーザン・ヘイワード)と不倫する話で、預言者ナタン(レイモンド・マッシー)にモーゼの戒律に反していると諌められ、罪を悔いて神に赦しを得るまでが描かれるが、基本的なストーリーは旧約聖書に基づいている。
もっとも、ただの不倫カップルでは映画にならないと考えたのか、それぞれに不本意な結婚をし、浮気ではなく純粋な愛だというドラマにしているが、通俗的なハリウッド・ロマンスになってしまって、始めからうんざりする約2時間となっている。
そもそもハンサムで善人に見えるグレゴリー・ペックにダビデ王をやらせたのが間違いで、羊飼いから王にまで上り詰めたという野獣味がなく、手当たり次第に女に目を付けるという好色さもない、とても3000年前とは思えない現代的な恋愛観の健全かつ饒舌なラブ・ロマンスになってしまった。
美男美女のハリウッド・スターらしくお洒落にするためか、ダビデがポロシャツやティーシャツのような出で立ちで、バスシバもワンピースのような貫頭衣を着ているのも違和感がある。 (評価:2)
ミズーリ横断
日本公開:1952年11月18日
監督:ウィリアム・A・ウェルマン 製作:ロバート・シスク 脚本:タルボット・ジェニングス 撮影:ウィリアム・C・メラー 音楽:デヴィッド・ラクシン
原題"Across the Wide Missouri"で、広大なミズーリを越えての意。バーナード・デヴォートのノンフィクションが原作。
1830年代のロッキー山脈のビーバーの毛皮漁師の物語で、先住民の娘との間に生まれた子供が、父の半生を回想する形で描かれる。
この中で先住民ブラックフット族の族長ベア・ゴースト(ジャック・ホルト)の孫娘カミア(マリア・エレナ・マルケス)は猟場への案内役、交渉役、労働力として毛皮漁師フリント(クラーク・ゲーブル)に買われて妻となり、フリントはブラックフット族の領地に勝手にキャンプを張り、これを排除しようとするブラックフット族の若き指導者アイアンシャツ(リカルド・モンタルバン)を殺害。
この際にカミアが死亡し、二人の間に生まれた息子をシングルファザーとして育て上げ、息子が長じると教育が必要と東部に送り出す立派な父親であり、西部開拓に尽くした功労者として描かれる。
白人視点で描かれる西部開拓史で、中心となる先住民もホワイトウォッシング。先住民は感情を持たない野蛮人で、モノとして扱われる。
ロッキー山脈の美しい自然とアメリカ西部の毛皮貿易の歴史を垣間見られる以外に、見るべきものはない。 (評価:2)
アフリカの女王
日本公開:1952年8月12日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:サム・スピーゲル 脚本:ジョン・ヒューストン、ジェームズ・アギー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:アラン・グレイ
原題"The African Queen"。セシル・スコット・フォレスターの同名小説が原作。
ドイツ領東アフリカの奥地で布教していたイギリス人兄妹が、第一次世界大戦勃発によりドイツ軍に迫害され、精神を病んだ兄が病死。妹はイギリス人の小型貨物船船長と川を下ってドイツ領からの脱出を図るという物語で、この船の名前が"The African Queen"(アフリカの女王号)というのがタイトルの由来。
アドベンチャー物で、撮影もアフリカで行われたが、ストーリーは至って単調。ゾウやワニ、ライオンといった野生動物と、川や滝といった自然が売り物で、もう一つの売りは妹と船長をキャサリン・ヘプバーンとハンフリー・ボガートが演じていることで、この二人の演技に何とか退屈さを救われている。
戦後間もない英米映画ということもあって、ドイツ軍はナチス張りの悪漢に仕立てられ、意味もなく部族の村を焼き払うという非道な連中。一方の村人たちも讃美歌すら満足に歌えない無知蒙昧な未開人として描写され、冒頭から駄作感の漂う鼻白む描写が続く。
好戦的で気の強い女に引っ張られる形で船長が脱出を強行し、その間に恋が芽生えるというお決まりの展開。ドイツ軍の監視を潜り抜け、最後は軍艦を手製魚雷で沈めるという連合国的爽快感で終わる通俗作。 (評価:2)
製作国:イギリス
日本公開:1953年3月19日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:ウィリアム・フェアチャイルド 撮影:ジョン・ウィルコックス 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:7位
イギリス人の選民意識が不快な無国籍植民地映画
原題"Outcast of the Islands"で、島の除け者の意。ジョセフ・コンラッドの小説" An Outcast of the Islands"が原作。
原作が1896年と古いため、見ていてイギリス人の選民意識がいささか不快になる。そうした点で邦題は的を得ている。
物語はシンガポールらしき港町から始まるが、後の会話でタイという言葉も出てきて要は西洋人の考えるオリエンタルとトロピカルがミックスされた町。ロケはスリランカで行われたが、スタジオはイギリスで、人種も入り乱れて無国籍な土人国といった風情。
もちろん英領植民地で、白人の貿易会社に勤める不良英人ウィレムス(トレヴァー・ハワード)が、博打のために売上金を横領してクビとなり、孤児だった自分を育ててくれたリンガード船長(ラルフ・リチャードソン)の貿易船に出戻って、何やら貴重な交易品を産出する秘境の集落に預けられる。
ここには船長の家と片腕オルマイヤー(ロバート・モーレイ)が住んでいるが、邪魔者扱いのウィレムスはバダヴィ族の酋長の娘アイサ(ケリマ)に夢中になる。酋長たちは交易をリンガードからアラビア商人に乗り換えようと画策し、アイサの色仕掛けでウィレムスから秘密の水路を聞き出す。
酋長を殴ったウィレムスはアイサと奥地に駆け落ち。帰ってきたリンガードは奥地にいるウィレムスを探し出し、絶縁を言い渡すだけで見逃してあげる。
ウィレムスが原住民を収奪しているリンガードに反発している風情もあったりするが、英人はいずれも植民地に寄生しているクズばかりで、かといって反植民地映画でもなく、単なる冒険映画なのだろうが、描写がステレオタイプで凡庸。ちなみにアイサを演じたケリマはフランス人のホワイトウォッシング。 (評価:2)
日本公開:1953年3月19日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:ウィリアム・フェアチャイルド 撮影:ジョン・ウィルコックス 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:7位
原題"Outcast of the Islands"で、島の除け者の意。ジョセフ・コンラッドの小説" An Outcast of the Islands"が原作。
原作が1896年と古いため、見ていてイギリス人の選民意識がいささか不快になる。そうした点で邦題は的を得ている。
物語はシンガポールらしき港町から始まるが、後の会話でタイという言葉も出てきて要は西洋人の考えるオリエンタルとトロピカルがミックスされた町。ロケはスリランカで行われたが、スタジオはイギリスで、人種も入り乱れて無国籍な土人国といった風情。
もちろん英領植民地で、白人の貿易会社に勤める不良英人ウィレムス(トレヴァー・ハワード)が、博打のために売上金を横領してクビとなり、孤児だった自分を育ててくれたリンガード船長(ラルフ・リチャードソン)の貿易船に出戻って、何やら貴重な交易品を産出する秘境の集落に預けられる。
ここには船長の家と片腕オルマイヤー(ロバート・モーレイ)が住んでいるが、邪魔者扱いのウィレムスはバダヴィ族の酋長の娘アイサ(ケリマ)に夢中になる。酋長たちは交易をリンガードからアラビア商人に乗り換えようと画策し、アイサの色仕掛けでウィレムスから秘密の水路を聞き出す。
酋長を殴ったウィレムスはアイサと奥地に駆け落ち。帰ってきたリンガードは奥地にいるウィレムスを探し出し、絶縁を言い渡すだけで見逃してあげる。
ウィレムスが原住民を収奪しているリンガードに反発している風情もあったりするが、英人はいずれも植民地に寄生しているクズばかりで、かといって反植民地映画でもなく、単なる冒険映画なのだろうが、描写がステレオタイプで凡庸。ちなみにアイサを演じたケリマはフランス人のホワイトウォッシング。 (評価:2)