外国映画レビュー──1947年
日本公開:1949年10月4日
監督:ルイジ・ザンパ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、アルド・ファブリッツィ、ピエロ・テッリー、ルイジ・ザンパ 撮影:カルロ・モントゥオーリ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:6位
原題”Vivere in Pace”で、邦題の意。
第二次世界大戦末期のイタリアの山村が舞台。戦争とは無縁のこの村にもドイツ兵が1人、監視役に駐留しているが、捕虜のアメリカ人2人が脱走して山中に潜んだことから戦争に巻き込まれる。
ハンサムな従軍記者(ガイ・ムーア)と負傷した黒人兵(ジョン・キッツミラー)で、少女(ミレラ・モンティ)が発見して匿ったことから伯父(アルド・ファブリッツィ)の一家、さらには神父、医者が共犯に。手配書も配られ、発覚すれば村の一大事。ところがドイツ監視兵(ヘインリッチ・ボーデ)が酒をねだりに一家を訪れ、黒人兵を酒蔵に隠したものの酔っ払って大騒ぎ。監視兵も泥酔してドンチャン騒ぎとなり、翌朝ケロリと忘れて万事丸く治ったかに見えたが、連合軍が迫りドイツ軍が撤退の際に伯父を撃ってしまう。
村に平和が訪れ、黒人兵が助けてもらった御礼に家を訪れるが伯父は虫の息。平和の陰に悲劇ありというヒューマンドラマで、従軍記者と少女の淡い恋物語も交えてコミカルに描く。
ナレーションによれば実話で、アメリカに帰国した従軍記者の記事が基になっているということだが、話が少々出来すぎ。
村で記者が草稿を書き始め、記者は戦争が終わったらこの村に住みたいと言う。それを聞いた少女はハッピーエンドを望むが、記者は戦争にハッピーエンドはないと答え、その言葉通りに記者は戻らず2人の恋は成就しない。
その代わりに少女は彼女に恋している従兄と結婚するという、小説のようなハッピーエンドが用意される。
少女役のミレラ・モンテが可愛い。 (評価:2.5)
製作国:フランス
日本公開:1949年7月5日
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャン・フェリー 撮影:アルマン・ティラール
キネマ旬報:10位
時間経過を1曲の歌で描く冒頭シーンが洒落ている
原題"Quai des Orfèvres"で、オルフェーヴル河岸の意。パリ・シテ島のセーヌ川沿い。
スタニスラス=アンドレ・ステーマンの小説"Légitime défense"(正当防衛)が原作。
犯罪ドラマで、劇場付きのピアニスト・モーリス(ベルナール・ブリエ)は、セクシーでキュートな歌手ジェニー(シュジ・ドレール)を妻に持つ。妻が男たちにモテモテなのが頭痛の種で、セクハラで悪評高い映画監督ブリニョン(シャルル・デュラン)が仕事を餌に接近。接触を止めるモーリスに隠れてブリニョンの自宅に行ったことを知って、拳銃を手に押し掛ける。ところが、そこにあったのはブリニョンの死体で、路上に停めた車まで盗まれ、徒歩で町に戻る。
ジェニーはブリニョンに襲われそうになったのでワインの瓶で頭を殴ったと、友人のドラ(シモーヌ・ルナン)に告白。ドラはブリニョン邸に行って、ジェニーが現場に忘れたマフラーを処分する。
死体が発見されモーリスに嫌疑がかかる。夫を愛するジェニーは自首を決意。同じく幼馴染のモーリスを想うドラも身代りになろうとするが、死因は意外にもというラストで、3人は無罪放免。モーリスとジェニーは元の鞘に収まるものの、ドラは忘れられたままというのが可哀想。
よく出来たシナリオで、ジェニーが練習室から舞台にデビューするまでの時間経過を1曲の歌で描く冒頭シーンが洒落ている。敏腕刑事にルイ・ジューヴェ。 (評価:2.5)
日本公開:1949年7月5日
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャン・フェリー 撮影:アルマン・ティラール
キネマ旬報:10位
原題"Quai des Orfèvres"で、オルフェーヴル河岸の意。パリ・シテ島のセーヌ川沿い。
スタニスラス=アンドレ・ステーマンの小説"Légitime défense"(正当防衛)が原作。
犯罪ドラマで、劇場付きのピアニスト・モーリス(ベルナール・ブリエ)は、セクシーでキュートな歌手ジェニー(シュジ・ドレール)を妻に持つ。妻が男たちにモテモテなのが頭痛の種で、セクハラで悪評高い映画監督ブリニョン(シャルル・デュラン)が仕事を餌に接近。接触を止めるモーリスに隠れてブリニョンの自宅に行ったことを知って、拳銃を手に押し掛ける。ところが、そこにあったのはブリニョンの死体で、路上に停めた車まで盗まれ、徒歩で町に戻る。
ジェニーはブリニョンに襲われそうになったのでワインの瓶で頭を殴ったと、友人のドラ(シモーヌ・ルナン)に告白。ドラはブリニョン邸に行って、ジェニーが現場に忘れたマフラーを処分する。
死体が発見されモーリスに嫌疑がかかる。夫を愛するジェニーは自首を決意。同じく幼馴染のモーリスを想うドラも身代りになろうとするが、死因は意外にもというラストで、3人は無罪放免。モーリスとジェニーは元の鞘に収まるものの、ドラは忘れられたままというのが可哀想。
よく出来たシナリオで、ジェニーが練習室から舞台にデビューするまでの時間経過を1曲の歌で描く冒頭シーンが洒落ている。敏腕刑事にルイ・ジューヴェ。 (評価:2.5)
聖バンサン
日本公開:1949年7月5日
監督:モーリス・クローシュ 脚本:ジャン・アヌイ、ジャン・ベルナール=リュック 撮影:クロード・ルノワール 音楽:JJ・グリューネンヴァルト
アカデミー特別賞(外国語映画賞)
原題"Monsieur Vincent"で、バンサン様の意。
17世紀フランスのカトリック教会司祭ヴァンサン・ド・ポールの生涯を描く伝記映画。
物語は1917年、ポール36歳から始まる。ド・ゴンディ夫人の聴罪司祭を務めていたポールは、ペストを恐れる領民への布教を始める。それがきっかけで貧民救済に乗り出し、ド・ゴンディ夫人を始め上流婦人たちを慈善活動に引き入れ、寄付を集めていく。
貧しい者の味方で、ガレー船の奴隷にも優しく、清貧を旨として名声を得たポールは、農婦が奉仕を申し出たのをきっかけに修道女会を設立。80歳で生涯を終える。
一言でいえば聖人の生涯を描く宗教物語で、カトリック教会か道徳の教育ビデオを見させられているような気になる。もっとも描かれるポールは一点の曇りもなく純粋に善人過ぎて、この手の作品にありがちな説教臭さとか偽善だとかを疑う気持ちは次第に薄れていき、ポールの無私な姿に引き込まれてしまう。
死を控え聖職者としての仕事を終えようとしているときに、私は休むに足ることをしてきたかと神に問い、新任の修道女に物ではなく心によって貧しい者に仕えなさいと慈善の精神を説く姿が感動的。
ポールを演じるピエール・フレネーがいい。 (評価:2.5)
製作国:イギリス
日本公開:1951年8月28日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:F・L・グリーン、R・C・シェリフ 撮影:ロバート・クラスカー 音楽:ウィリアム・オルウィン
キネマ旬報:5位
IRAテロリストに同情を寄せる似非ヒューマニズム
原題"Odd Man Out"で、孤立している者の意。F・L・グリーンの同名小説が原作。
北アイルランドが舞台。イギリスに帰属した北アイルランド政府に対し、独立軍IRAのテロ活動を描いた作品。主人公ジョニー(ジェームズ・メイソン)はIRAの支部長で、銃器密輸の罪で服役中に脱獄。恋人(キャスリーン・ライアン)のいるアジトに潜伏中、活動資金調達のために仲間が銀行強盗を計画する。
ジョニーは服役中に武力闘争よりも議会闘争に考えを変えるが、支部長の立場上、銀行強盗を指揮せざるを得ず、過って銀行員を射殺してしまう。怪我をしたジョニーは逃げ遅れて街中に一人潜むことになり、仲間の救出を待つことになるのがタイトルの由来。最後に恋人が助けに現れるが時遅く、追い詰められた恋人は警官隊に銃を向け、ジョニーとともに射殺されるという心中物。
冒頭、政治的闘争ではなく、予期せぬ事態の人々の心の葛藤を描くという断りが入るが、主人公が武力闘争に懐疑的だという時点で既にイギリス側に立っていて、イギリス人であるリードの平和主義的偽善が見えてしまう。そして主人公に同情的な警官を登場させてイギリスの帝国主義をオブラートに包み、政治的対立の犠牲になったIRAテロリストに同情を寄せるという、似非ヒューマニズムで平和的解決を訴えるイギリス人の喜びそうな作品に逃げている。
現象から見れば悪事を働いているのはテロリストたちであり、彼らが何故悪事を働くのかという点を描かないところに、リードの限界が見える。 (評価:2.5)
日本公開:1951年8月28日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:F・L・グリーン、R・C・シェリフ 撮影:ロバート・クラスカー 音楽:ウィリアム・オルウィン
キネマ旬報:5位
原題"Odd Man Out"で、孤立している者の意。F・L・グリーンの同名小説が原作。
北アイルランドが舞台。イギリスに帰属した北アイルランド政府に対し、独立軍IRAのテロ活動を描いた作品。主人公ジョニー(ジェームズ・メイソン)はIRAの支部長で、銃器密輸の罪で服役中に脱獄。恋人(キャスリーン・ライアン)のいるアジトに潜伏中、活動資金調達のために仲間が銀行強盗を計画する。
ジョニーは服役中に武力闘争よりも議会闘争に考えを変えるが、支部長の立場上、銀行強盗を指揮せざるを得ず、過って銀行員を射殺してしまう。怪我をしたジョニーは逃げ遅れて街中に一人潜むことになり、仲間の救出を待つことになるのがタイトルの由来。最後に恋人が助けに現れるが時遅く、追い詰められた恋人は警官隊に銃を向け、ジョニーとともに射殺されるという心中物。
冒頭、政治的闘争ではなく、予期せぬ事態の人々の心の葛藤を描くという断りが入るが、主人公が武力闘争に懐疑的だという時点で既にイギリス側に立っていて、イギリス人であるリードの平和主義的偽善が見えてしまう。そして主人公に同情的な警官を登場させてイギリスの帝国主義をオブラートに包み、政治的対立の犠牲になったIRAテロリストに同情を寄せるという、似非ヒューマニズムで平和的解決を訴えるイギリス人の喜びそうな作品に逃げている。
現象から見れば悪事を働いているのはテロリストたちであり、彼らが何故悪事を働くのかという点を描かないところに、リードの限界が見える。 (評価:2.5)
真昼の暴動
日本公開:1957年11月1日
監督:ジュールス・ダッシン 製作:マーク・ヘリンジャー、ロバート・パターソン 脚本:リチャード・ブルックス 撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ 音楽:ミクロス・ローザ
原題"Brute Force"で、暴力の意。
刑務所を舞台にした社会派作品で、看守長マンジー(ヒューム・クローニン)の非道に耐えかねたジョー(バート・ランカスター)を中心とする囚人らが暴動を起こし、集団脱走を図るという物語。ジョーがマンジーと相打ちになるものの脱走は失敗に終わり、多くの死傷者と虚しさだけを残すというバッドエンドで、ジュールス・ダッシンらしいリアリズムで終わる。
マンジーが囚人の弱みを利用してスパイに仕立て、反抗する者は重労働で死に追い込むという刑務所ものらしい悪役となるが、事なかれ主義の所長、人権派の医師、官僚的な役人と、組織の人物描写もリアルで、その中で出世して所長の座を狙うマンジーの狡猾さが、サラリーマンには身近に感じられる。
対照的に囚人たちのそれぞれの過去が挿入され、収監に至った事情が描かれるヒューマンドラマともなっているが、説明不足もあってやや散漫な印象を受ける。
ラストの囚人と看守側の機関銃まで飛び出す攻防がアクション的な見どころ。 (評価:2.5)
子ぐま物語(ファン・アンド・ファンシー・フリー)
日本公開:1954年8月9日
監督:ジャック・キニー、ビル・ロバーツ、ハミルトン・ラスケ、ウィリアム・モーガン 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:ホーマー・ブライトマン、ハリー・レーヴィス、テッド・シアーズ、ランス・ノレイ、エルドン・デディニ、トム・オレブ 撮影:チャールズ・P・ボイル 音楽:ポール・J・スミス、オリバー・ウォレス、エリオット・ダニエル
原題"Fun and Fancy Free"で、楽しくてお気楽の意。
"Bongo"(ボンゴ)と"Mickey and the Beanstalk"(ミッキーと豆の木)の2編が収録されたアニメーションで、語り手の部分に一部実写が入る。シンクレア・ルイスの短編小説"Little Bear Bongo"(子熊ボンゴ)とイギリス民話"Jack and the Beanstalk"(ジャックと豆の木)が原作。
第1篇は、サーカスで人気者の子熊ボンゴが、自由になりたいと逃げ出し森で暮らす話で、メスの子熊ルルベルを巡って、乱暴者のランプジョーと争う。『ピノキオ』(1940)のジミニー・クリケットが物語の案内役。
第2篇は、ミッキーがジャック役。ドナルド、グーフィーと巨人の城に行く。巨人が幸せのハープを奪ったためにミッキーが住む村が飢饉になり、ミッキーがハープを取り返して平和が戻る。ミッキーは金貨も金の卵を産む鶏も持ち帰らないという健全な物語になっている。腹話術師エドガー・バーゲンと『南部の唄』(1946)のルアナ・パットンが案内役。
最後は死んだと思っていた巨人が二人の家にやってくる実写とアニメ合成のオチで終わるが、タイトル通りに楽しくお気楽なのがディズニーらしい。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1950年10月30日
監督:ノーマン・Z・マクロード 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:ケン・イングランド、エヴェレット・フリーマン 撮影:リー・ガームス 音楽:デヴィッド・ラクシン
キネマ旬報:8位
基本はダニー・ケイの芸を楽しむワンマンショー
原題"The Secret Life of Walter Mitty"で、ウォルター・ミティの密かな生活の意。ジェームズ・サーバーの同名短編小説が原作。
ウォルター・ミティ(ダニー・ケイ)は夢想癖のある出版社の校正係。ちょっとしたきっかけで自分がヒーローとなった空想をして、我を忘れてしまうというボーっとした男。その男が、盗賊一味に追われる美女(ヴァージニア・メイヨ)を助けたことから、その争奪戦に巻き込まれるというお話。盗賊が狙うのは、戦時中にオランダ博物館がナチから守るために世界に散らばせておいた宝石という、時代を反映したお宝。
全体は正統なアメリカン・コメディで、この美女がいつも夢の中に出てくるヒロインと瓜二つというのも定型。ウォルターにはお節介ママ(フェイ・ベインター)とフィアンセ(アン・ラザフォード)とその過保護ママ(フローレンス・ベイツ)、小うるさい出版社長(サーストン・ホール)という、これまたコメディには定番のキャラが登場。ウォルターが盗賊一味の話をしても、空想と現実の区別がつかなくなったと精神病扱いされてしまう。
最後は無事宝石を守って、編集長に昇進、憧れの美女と結婚というハッピーエンドで、終始一貫シナリオはご都合主義だらけだが、そこはコメディ。あとはアメリカン・コメディのセンスに付いて行けるかどうかというのが面白いかそうでないかの分かれ目。
基本はダニー・ケイの芸を楽しむワンマンショーで、英国空軍パイロットのパーティの夢想の中で教授の物まねをして歌うシーンが見せ場。楽器の擬音や動物の鳴き声、効果音は、江戸屋猫八も真っ青の芸達者ぶり。
盗賊一味の不気味男を演じるのが『フランケンシュタイン』(1931)のシリーズの怪物、『ミイラ再生』(1932)のミイラ男を演じるボリス・カーロフで、隠れた見どころ。 (評価:2.5)
日本公開:1950年10月30日
監督:ノーマン・Z・マクロード 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:ケン・イングランド、エヴェレット・フリーマン 撮影:リー・ガームス 音楽:デヴィッド・ラクシン
キネマ旬報:8位
原題"The Secret Life of Walter Mitty"で、ウォルター・ミティの密かな生活の意。ジェームズ・サーバーの同名短編小説が原作。
ウォルター・ミティ(ダニー・ケイ)は夢想癖のある出版社の校正係。ちょっとしたきっかけで自分がヒーローとなった空想をして、我を忘れてしまうというボーっとした男。その男が、盗賊一味に追われる美女(ヴァージニア・メイヨ)を助けたことから、その争奪戦に巻き込まれるというお話。盗賊が狙うのは、戦時中にオランダ博物館がナチから守るために世界に散らばせておいた宝石という、時代を反映したお宝。
全体は正統なアメリカン・コメディで、この美女がいつも夢の中に出てくるヒロインと瓜二つというのも定型。ウォルターにはお節介ママ(フェイ・ベインター)とフィアンセ(アン・ラザフォード)とその過保護ママ(フローレンス・ベイツ)、小うるさい出版社長(サーストン・ホール)という、これまたコメディには定番のキャラが登場。ウォルターが盗賊一味の話をしても、空想と現実の区別がつかなくなったと精神病扱いされてしまう。
最後は無事宝石を守って、編集長に昇進、憧れの美女と結婚というハッピーエンドで、終始一貫シナリオはご都合主義だらけだが、そこはコメディ。あとはアメリカン・コメディのセンスに付いて行けるかどうかというのが面白いかそうでないかの分かれ目。
基本はダニー・ケイの芸を楽しむワンマンショーで、英国空軍パイロットのパーティの夢想の中で教授の物まねをして歌うシーンが見せ場。楽器の擬音や動物の鳴き声、効果音は、江戸屋猫八も真っ青の芸達者ぶり。
盗賊一味の不気味男を演じるのが『フランケンシュタイン』(1931)のシリーズの怪物、『ミイラ再生』(1932)のミイラ男を演じるボリス・カーロフで、隠れた見どころ。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1987年10月9日
監督:エリア・カザン 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:モス・ハート 撮影:アーサー・C・ミラー 音楽:アルフレッド・ニューマン
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
差別に対する洞察力のないハッピーエンド
原題"Gentleman's Agreement"で、邦題の意。ローラ・Z・ホブソンの同名小説が原作。
反ユダヤ主義をテーマにした作品で、ギリシャ移民子孫のエリア・カザンが直球勝負で挑む社会派ドラマ。
ノンフィクション作家(グレゴリー・ペック)が週刊誌に招かれてカリフォルニアからニューヨークに移住。反ユダヤ主義の記事の執筆を依頼され、ユダヤ人の振りをして周囲の反応を記事にするという差別的な行動に出る。もちろん、エリア・カザンを始めとして、これを差別的とは思ってないのが本作の時代的なセンス。
記事の発案者は編集長の美人の姪(ドロシー・マクガイア)で、作家はたちまち恋に落ちて婚約するが、この姪も似非人権派で、知人に婚約発表をする段になると、彼がユダヤ人だということを隠してしまう。
ホテルや医者などから差別を受けるのは予想通りだが、差別の根は、周囲への遠慮から見て見ぬふりをする卑怯な人々にあるという結論にたどり着いた作家は、婚約者との関係を破棄。
入れ替わりに似非人権派を嫌う金髪美女(セレステ・ホルム)が作家に求婚してエンドに向かいそうになるが、おっとどっこい似非人権派の元婚約者が巻き返して、差別の意味が漸く分かったなどと殊勝なことを言って仲直りというハッピーエンドを迎える。
そんな簡単に元婚約者の反省を受け容れていいのか、この女はきっとまた同じことを繰り返すに違いないと、エリア・カザンとハリウッドの差別に対する洞察力のなさに白けた気分になるラスト。
タイトルの紳士協定は、露骨に差別をしないが、暗黙の了解のもとにユダヤ人を排除する不文律のこと。 (評価:2.5)
日本公開:1987年10月9日
監督:エリア・カザン 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:モス・ハート 撮影:アーサー・C・ミラー 音楽:アルフレッド・ニューマン
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題"Gentleman's Agreement"で、邦題の意。ローラ・Z・ホブソンの同名小説が原作。
反ユダヤ主義をテーマにした作品で、ギリシャ移民子孫のエリア・カザンが直球勝負で挑む社会派ドラマ。
ノンフィクション作家(グレゴリー・ペック)が週刊誌に招かれてカリフォルニアからニューヨークに移住。反ユダヤ主義の記事の執筆を依頼され、ユダヤ人の振りをして周囲の反応を記事にするという差別的な行動に出る。もちろん、エリア・カザンを始めとして、これを差別的とは思ってないのが本作の時代的なセンス。
記事の発案者は編集長の美人の姪(ドロシー・マクガイア)で、作家はたちまち恋に落ちて婚約するが、この姪も似非人権派で、知人に婚約発表をする段になると、彼がユダヤ人だということを隠してしまう。
ホテルや医者などから差別を受けるのは予想通りだが、差別の根は、周囲への遠慮から見て見ぬふりをする卑怯な人々にあるという結論にたどり着いた作家は、婚約者との関係を破棄。
入れ替わりに似非人権派を嫌う金髪美女(セレステ・ホルム)が作家に求婚してエンドに向かいそうになるが、おっとどっこい似非人権派の元婚約者が巻き返して、差別の意味が漸く分かったなどと殊勝なことを言って仲直りというハッピーエンドを迎える。
そんな簡単に元婚約者の反省を受け容れていいのか、この女はきっとまた同じことを繰り返すに違いないと、エリア・カザンとハリウッドの差別に対する洞察力のなさに白けた気分になるラスト。
タイトルの紳士協定は、露骨に差別をしないが、暗黙の了解のもとにユダヤ人を排除する不文律のこと。 (評価:2.5)
製作国:フランス
日本公開:1952年11月6日
監督:クロード・オータン=ララ 脚本:ピエール・ボスト、ジャン・オーランシュ 音楽:ルネ・クロエレック
キネマ旬報:8位
矛盾だらけの青臭いジュブナイル小説を見せられている感じ
原題"Le Diable au corps"で、邦題の意。レイモン・ラディゲの同名小説が原作。
第一次大戦の最中、15歳の少年(ジェラール・フィリップ)が婚約中の年上の女(ミシュリーヌ・プレール)に恋し、あろうことかその女も少年に心を奪われ、結婚後、出征中の夫の留守に少年を部屋に引き入れ、挙句の果てに妊娠。
一時は離婚も考えた女だが、戦争が終わって冷静になると、女は少年と別れる決意をしパリで別れの晩餐を持つ。ところが女は精神衰弱が原因なのか倒れてしまい、復員した夫に手を握られながらうわ言に少年の名を口にして果てるという禁断の愛の物語。
20歳で早逝した原作者の実体験がベースとされるが、序盤では少年がただのナンパ野郎にしか見えず、簡単にナンパされてしまう女もただの尻軽女にしか見えない。
禁断の関係が追い詰められていく中盤はそれなりだが、終盤に至って妊娠しているにも拘らず二人の関係が夫にバレないと思っているのがどうにも解せず、臨終の場で女が少年の名を口にするのを不審に思う夫に対し、母親までが生まれてくる子供の名だと言うに至っては、ストーリーが破綻している。
第一に妊娠は夫の出征期間中で、第二にこの時代に生まれてくる子の性別はわからない。
少年の年上の女への幼い恋愛というには、ジェラール・フィリップ25歳が老けすぎていて、少年のピュアさが感じらない。それに対しミシュリーヌ・プレールも25歳で童顔なため、年上の女に見えず、少年を好きになる過程がなくて、動機が全く見えてこない。
なんだか青臭いジュブナイル小説を見せられている感じで、途中で見ているのがアホらしくなる。 (評価:2)
日本公開:1952年11月6日
監督:クロード・オータン=ララ 脚本:ピエール・ボスト、ジャン・オーランシュ 音楽:ルネ・クロエレック
キネマ旬報:8位
原題"Le Diable au corps"で、邦題の意。レイモン・ラディゲの同名小説が原作。
第一次大戦の最中、15歳の少年(ジェラール・フィリップ)が婚約中の年上の女(ミシュリーヌ・プレール)に恋し、あろうことかその女も少年に心を奪われ、結婚後、出征中の夫の留守に少年を部屋に引き入れ、挙句の果てに妊娠。
一時は離婚も考えた女だが、戦争が終わって冷静になると、女は少年と別れる決意をしパリで別れの晩餐を持つ。ところが女は精神衰弱が原因なのか倒れてしまい、復員した夫に手を握られながらうわ言に少年の名を口にして果てるという禁断の愛の物語。
20歳で早逝した原作者の実体験がベースとされるが、序盤では少年がただのナンパ野郎にしか見えず、簡単にナンパされてしまう女もただの尻軽女にしか見えない。
禁断の関係が追い詰められていく中盤はそれなりだが、終盤に至って妊娠しているにも拘らず二人の関係が夫にバレないと思っているのがどうにも解せず、臨終の場で女が少年の名を口にするのを不審に思う夫に対し、母親までが生まれてくる子供の名だと言うに至っては、ストーリーが破綻している。
第一に妊娠は夫の出征期間中で、第二にこの時代に生まれてくる子の性別はわからない。
少年の年上の女への幼い恋愛というには、ジェラール・フィリップ25歳が老けすぎていて、少年のピュアさが感じらない。それに対しミシュリーヌ・プレールも25歳で童顔なため、年上の女に見えず、少年を好きになる過程がなくて、動機が全く見えてこない。
なんだか青臭いジュブナイル小説を見せられている感じで、途中で見ているのがアホらしくなる。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1952年9月2日
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:ロリー・トザロー 音楽:チャールズ・チャップリン
キネマ旬報:1位
トーキーで笑いを取りに行くことのできない蹉跌
原題は”Monsieur Verdoux”(ムッシュ・ヴェルドゥ)で、ヴェルドゥ氏の意。ヴェルドゥはチャップリン扮する殺人鬼の主人公の名。
20世紀初頭にフランスに実在した殺人鬼をモデルに、シャルル・ペローの童話の青髭の物語を織り交ぜた物語となっている。本作中でも青髭(Bluebeard)と呼ばれ、何人もの妻が行方不明になっていると説明される。
本作は基本シリアスなドラマで、最後に""One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify""(一人殺せば悪党だが、百万人を殺せば英雄だ。数が神聖化する)という主張で、戦争の大量殺人を糾弾する。
主人公は不況のために30年勤めた銀行を解雇され、妻子を養うために非情な青髭となって多数の女を騙し、殺害する。ただ一人、若い女を殺そうとして不幸な身の上に同情し、命を助けるという人間性を見せるが、最後は刑場の露と消える。
ラストのメッセージのために延々と約2時間の冗長で退屈な物語を見せられるが、それを見せてしまうチャップリンの演出は見事。もっとも、見る側はチャップリンの映画にそのようなものは期待していなく、トレードマークのメーキャップと扮装を捨てて、フランス風の気取ったいでたちで登場するチャップリンへの違和感は否めない。
観客が何を期待しているかはチャップリンもわかっていて、これだけシリアスな話なのにところどころにギャグを入れてくる。しかし、シリアスなドラマに入るギャグほど白けるものはない。
このギャグもサイレントならそれなりに笑えるところなのだが、パントマイムが身上のチャップリンが台詞と音のあるトーキーで笑いを取りに行くことのできない蹉跌が見て取れる。本作ではサイレントの喜劇王チャップリンの時代が終わったことを改めて確認しながら、歳をとって体を張った演技ができなくなり、作品に政治色を強めていくチャップリン自身の悲劇と喜劇を見る。 (評価:2)
日本公開:1952年9月2日
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:ロリー・トザロー 音楽:チャールズ・チャップリン
キネマ旬報:1位
原題は”Monsieur Verdoux”(ムッシュ・ヴェルドゥ)で、ヴェルドゥ氏の意。ヴェルドゥはチャップリン扮する殺人鬼の主人公の名。
20世紀初頭にフランスに実在した殺人鬼をモデルに、シャルル・ペローの童話の青髭の物語を織り交ぜた物語となっている。本作中でも青髭(Bluebeard)と呼ばれ、何人もの妻が行方不明になっていると説明される。
本作は基本シリアスなドラマで、最後に""One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify""(一人殺せば悪党だが、百万人を殺せば英雄だ。数が神聖化する)という主張で、戦争の大量殺人を糾弾する。
主人公は不況のために30年勤めた銀行を解雇され、妻子を養うために非情な青髭となって多数の女を騙し、殺害する。ただ一人、若い女を殺そうとして不幸な身の上に同情し、命を助けるという人間性を見せるが、最後は刑場の露と消える。
ラストのメッセージのために延々と約2時間の冗長で退屈な物語を見せられるが、それを見せてしまうチャップリンの演出は見事。もっとも、見る側はチャップリンの映画にそのようなものは期待していなく、トレードマークのメーキャップと扮装を捨てて、フランス風の気取ったいでたちで登場するチャップリンへの違和感は否めない。
観客が何を期待しているかはチャップリンもわかっていて、これだけシリアスな話なのにところどころにギャグを入れてくる。しかし、シリアスなドラマに入るギャグほど白けるものはない。
このギャグもサイレントならそれなりに笑えるところなのだが、パントマイムが身上のチャップリンが台詞と音のあるトーキーで笑いを取りに行くことのできない蹉跌が見て取れる。本作ではサイレントの喜劇王チャップリンの時代が終わったことを改めて確認しながら、歳をとって体を張った演技ができなくなり、作品に政治色を強めていくチャップリン自身の悲劇と喜劇を見る。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1947年9月2日
監督:エリア・カザン 製作:ルイ・ド・ロシュモント 脚本:リチャード・マーフィ 撮影:ノーバート・ブロダイン 音楽:デヴィッド・バトルフ
キネマ旬報:8位
よくわからない背景とよくわからない結末が複雑怪奇
原題"Boomerang!"で、ブーメランの意。アンソニー・アボットのリーダーズ・ダイジェストの記事"The Perfect Case"が原作。
1924年、コネチカット州ブリッジポートで起きた神父殺人事件を題材にした作品で、全シーンを実際の場所でロケしたという字幕が入る。
町で信頼の厚かった神父が銃殺され、よそ者の復員兵ウォルドロン(アーサー・ケネディ)が逮捕される。無理矢理自白を取り裁判にかけられるが、真犯人に疑いを持ったハーヴェイ検事(ダナ・アンドリュース)は、世論や政治的圧力に屈せずに不起訴にする。
日本の裁判制度とは違う予備審問の過程を描くため、検事が容疑者の無罪を証明するという分りにくさがあるが、それにもましてわかりにくいのが事件をめぐる政治的背景で、選挙を間近に控え犯人を捕まえられない州の現政権は、それを利用する反対党の批判を封じるために警察署長(リー・J・コッブ)と検事に犯人を強引にでっち上げさせ、検事はポストまでちらつかされて起訴を求められるが、職業倫理に立ち返って無罪を立証するという流れ。
これに現政権が選挙で負けて、市とのプロジェクトが潰れることを怖れるビジネスマン(エド・ベグリー)と、プロジェクトに検事の妻(ジェーン・ワイアット)が出資しているという関係まで絡んで、不起訴が決まった予備審問でビジネスマンが自殺してしまうという複雑な枝葉に面食らう。
結局、神父殺人の真犯人はわからずじまいで、ラストで交通事故死する男が真犯人なのか誰かもわからず、検事の正義感と潔癖だけが謳歌され、連邦司法長官に出世しましたという、何を描きたかったのかよくわからない作品になっている。 (評価:1.5)
日本公開:1947年9月2日
監督:エリア・カザン 製作:ルイ・ド・ロシュモント 脚本:リチャード・マーフィ 撮影:ノーバート・ブロダイン 音楽:デヴィッド・バトルフ
キネマ旬報:8位
原題"Boomerang!"で、ブーメランの意。アンソニー・アボットのリーダーズ・ダイジェストの記事"The Perfect Case"が原作。
1924年、コネチカット州ブリッジポートで起きた神父殺人事件を題材にした作品で、全シーンを実際の場所でロケしたという字幕が入る。
町で信頼の厚かった神父が銃殺され、よそ者の復員兵ウォルドロン(アーサー・ケネディ)が逮捕される。無理矢理自白を取り裁判にかけられるが、真犯人に疑いを持ったハーヴェイ検事(ダナ・アンドリュース)は、世論や政治的圧力に屈せずに不起訴にする。
日本の裁判制度とは違う予備審問の過程を描くため、検事が容疑者の無罪を証明するという分りにくさがあるが、それにもましてわかりにくいのが事件をめぐる政治的背景で、選挙を間近に控え犯人を捕まえられない州の現政権は、それを利用する反対党の批判を封じるために警察署長(リー・J・コッブ)と検事に犯人を強引にでっち上げさせ、検事はポストまでちらつかされて起訴を求められるが、職業倫理に立ち返って無罪を立証するという流れ。
これに現政権が選挙で負けて、市とのプロジェクトが潰れることを怖れるビジネスマン(エド・ベグリー)と、プロジェクトに検事の妻(ジェーン・ワイアット)が出資しているという関係まで絡んで、不起訴が決まった予備審問でビジネスマンが自殺してしまうという複雑な枝葉に面食らう。
結局、神父殺人の真犯人はわからずじまいで、ラストで交通事故死する男が真犯人なのか誰かもわからず、検事の正義感と潔癖だけが謳歌され、連邦司法長官に出世しましたという、何を描きたかったのかよくわからない作品になっている。 (評価:1.5)
製作国:イギリス
日本公開:1951年3月17日
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 製作:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 脚本:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:10位
アカデミー撮影賞のテクニカラーとデボラ・カーが綺麗
原題は"Black Narcissus"で邦題の意。ルーマー・ゴッデンの同名小説が原作。
ゴッデンは幼少期をインドで過ごしていて、イギリス植民地時代のインドが舞台。アカデミー美術賞を受賞したセットがインドらしくないのはご愛嬌としても、作品はインド人に対する偏見と蔑視に凝り固まっていて、製作年代を考慮しても他に見るべきところはなく、歴史の評価に耐えられる作品ではない。それを置いても、映画としての完成度は低い。
カルカッタからヒマラヤ高地に開設された修道院に赴任した修道女たちの物語で、現地の住民や王族とのエピソードが絡む。主軸は、この地に住む世俗のイギリス人を挟んだ院長(デボラ・カー)と修道女(キャスリーン・バイロン)の恋のさや当てという、修道女にあるまじき俗っぽい話で、直接には出てこないが、偉大なカーマ・スートラの前にはキリストも敵わないと言いたいのか、キリスト教も布教できないほどに下卑た国だと言いたいのか、よくわからないが、おそらく前者で、国教会のイギリス人にはさすがにそれを明示できなかったのかもしれない。
「信仰と愛、そして肉欲という永遠のテーマ」と解説にあるが、それほど立派なものではない。アカデミー撮影賞のテクニカラーとデボラ・カーがきれい。
水仙はナルシストの語源だが、黒水仙は意味不明。心の汚れたナルシスト? (評価:1.5)
日本公開:1951年3月17日
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 製作:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 脚本:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:10位
原題は"Black Narcissus"で邦題の意。ルーマー・ゴッデンの同名小説が原作。
ゴッデンは幼少期をインドで過ごしていて、イギリス植民地時代のインドが舞台。アカデミー美術賞を受賞したセットがインドらしくないのはご愛嬌としても、作品はインド人に対する偏見と蔑視に凝り固まっていて、製作年代を考慮しても他に見るべきところはなく、歴史の評価に耐えられる作品ではない。それを置いても、映画としての完成度は低い。
カルカッタからヒマラヤ高地に開設された修道院に赴任した修道女たちの物語で、現地の住民や王族とのエピソードが絡む。主軸は、この地に住む世俗のイギリス人を挟んだ院長(デボラ・カー)と修道女(キャスリーン・バイロン)の恋のさや当てという、修道女にあるまじき俗っぽい話で、直接には出てこないが、偉大なカーマ・スートラの前にはキリストも敵わないと言いたいのか、キリスト教も布教できないほどに下卑た国だと言いたいのか、よくわからないが、おそらく前者で、国教会のイギリス人にはさすがにそれを明示できなかったのかもしれない。
「信仰と愛、そして肉欲という永遠のテーマ」と解説にあるが、それほど立派なものではない。アカデミー撮影賞のテクニカラーとデボラ・カーがきれい。
水仙はナルシストの語源だが、黒水仙は意味不明。心の汚れたナルシスト? (評価:1.5)