外国映画レビュー──1946年
製作国:イタリア
日本公開:1949年9月6日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:マリオ・コンティ、ロッド・E・ガイガー、ロベルト・ロッセリーニ 脚本:セルジオ・アミディ、クラウス・マン、フェデリコ・フェリーニ、アルフレッド・ヘイズ、マルチェロ・パリエーロ、ロベルト・ロッセリーニ 撮影:オテッロ・マルテッリ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:1位
民衆の戦争の実相を冷静に描くロッセリーニのリアリズモが光る
原題"Paisà"で、同郷人の意。南欧の呼格で、第二次世界大戦末期にアメリカ兵との関係が上手くいったイタリアの人々のこと。
1943年7月の連合軍のシチリア上陸から、1944年12月のポー川デルタ地帯の戦いまでを6エピソードに分け、イタリアの人々の目を通して戦争を描く。
第1話のPaisàはシチリアの娘で、上陸したアメリカ兵の地雷を避けるための道案内をする。ファシスト党の協力者ではないかと疑われるが、アメリカ兵の青年を狙撃したドイツ兵に復讐して殺されてしまう。
第2話はナポリの戦争孤児の少年で、泥酔したアメリカの黒人憲兵を身ぐるみ剥ぐが、翌日盗みをして同じ憲兵に捕まってしまう。憲兵は前夜盗まれた靴を取り返しに少年の家に行くが、あまりの貧しさにそのまま帰る。
第3話はローマの売春婦とアメリカ兵の哀しい出会い、第4話は激戦のフィレンツェの看護婦とパルチザン、第5話はアペニン山脈の修道僧と従軍牧師、第6話はポー川デルタ地帯でのアメリカ軍工作員とパルチザンの悲惨な戦闘で、1話から順にイタリア戦線の北上を時系列に描き、1945年春の戦争終結のナレーションで終わる。
終戦直後に撮影されているため、ナポリやローマの街の様子、フィレンツェの破壊された街並みが生々しく、貴重な記録映像となっている。
民衆にとっての戦争と焼け跡の生活は日本と変わらず、戦争孤児、米兵相手の売春婦と日本の写し絵を見るようで、敗戦国の惨めさが浸みる。その中で、宗教心を失わない修道僧の話が救いとなっている。
情緒に流れない、民衆にとっての戦争の実相を冷静に語るロッセリーニのリアリズモが光る佳作。 (評価:3.5)
日本公開:1949年9月6日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:マリオ・コンティ、ロッド・E・ガイガー、ロベルト・ロッセリーニ 脚本:セルジオ・アミディ、クラウス・マン、フェデリコ・フェリーニ、アルフレッド・ヘイズ、マルチェロ・パリエーロ、ロベルト・ロッセリーニ 撮影:オテッロ・マルテッリ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:1位
原題"Paisà"で、同郷人の意。南欧の呼格で、第二次世界大戦末期にアメリカ兵との関係が上手くいったイタリアの人々のこと。
1943年7月の連合軍のシチリア上陸から、1944年12月のポー川デルタ地帯の戦いまでを6エピソードに分け、イタリアの人々の目を通して戦争を描く。
第1話のPaisàはシチリアの娘で、上陸したアメリカ兵の地雷を避けるための道案内をする。ファシスト党の協力者ではないかと疑われるが、アメリカ兵の青年を狙撃したドイツ兵に復讐して殺されてしまう。
第2話はナポリの戦争孤児の少年で、泥酔したアメリカの黒人憲兵を身ぐるみ剥ぐが、翌日盗みをして同じ憲兵に捕まってしまう。憲兵は前夜盗まれた靴を取り返しに少年の家に行くが、あまりの貧しさにそのまま帰る。
第3話はローマの売春婦とアメリカ兵の哀しい出会い、第4話は激戦のフィレンツェの看護婦とパルチザン、第5話はアペニン山脈の修道僧と従軍牧師、第6話はポー川デルタ地帯でのアメリカ軍工作員とパルチザンの悲惨な戦闘で、1話から順にイタリア戦線の北上を時系列に描き、1945年春の戦争終結のナレーションで終わる。
終戦直後に撮影されているため、ナポリやローマの街の様子、フィレンツェの破壊された街並みが生々しく、貴重な記録映像となっている。
民衆にとっての戦争と焼け跡の生活は日本と変わらず、戦争孤児、米兵相手の売春婦と日本の写し絵を見るようで、敗戦国の惨めさが浸みる。その中で、宗教心を失わない修道僧の話が救いとなっている。
情緒に流れない、民衆にとっての戦争の実相を冷静に語るロッセリーニのリアリズモが光る佳作。 (評価:3.5)
製作国:フランス
日本公開:1948年1月27日
監督:ジャン・コクトー 製作:アンドレ・ポールヴェ 脚本:ジャン・コクトー 撮影:アンリ・アルカン 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:6位
大人が鑑賞するためのフェアリー・テイル
原題"La Belle et la Bête"で、邦題の意。フランスの異種婚姻譚を基にしたルプランス・ド・ボーモンの同名のメルヘンが原作。
性悪の姉二人を持つ末子のベル(ジョゼット・デイ)が、野獣の王子(ジャン・マレー)と結婚すると魔法が解けて王子様はハンサムに大変身という、めでたしめでたしの物語。
シンデレラと違うのは、継母の代わりに優しいお父さんがいて、ベルは貧しいけれども働き者という以外に、薔薇を盗んで野獣王子に捕まった父親の身代わりに城に囲われ、それでも病気の父の看病に実家に帰らせてもらう孝行娘で、あまつさえ不幸な身の野獣に同情と好意を持つという美徳を兼ね備えていること。
ベルが帰らないことに絶望した野獣が命の残り火を消した時、ベルの清き心が野獣への愛と昇華して、野獣を人間の王子として復活させる。
『美女と野獣』は1991年にディズニー・アニメで映画化され、王子が野獣となった経緯も説明される。本作では省かれているが、魔法よりもベルと野獣の関係性に焦点が絞られていて、愛のメルヘンとしては感動的になっている。
城の使用人たちが彫像にされて顔だけ動いたり、燭台やドアノブが人間の手になっているのが結構気色悪く、野獣の住む館の不気味さを演出しているのがダーク・フェアリー・テイルとしていい。
子供のものとされるフェアリー・テイルを、むしろ大人が鑑賞するための芸術作品に仕上げたのがコクトーの功績。 (評価:3)
日本公開:1948年1月27日
監督:ジャン・コクトー 製作:アンドレ・ポールヴェ 脚本:ジャン・コクトー 撮影:アンリ・アルカン 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:6位
原題"La Belle et la Bête"で、邦題の意。フランスの異種婚姻譚を基にしたルプランス・ド・ボーモンの同名のメルヘンが原作。
性悪の姉二人を持つ末子のベル(ジョゼット・デイ)が、野獣の王子(ジャン・マレー)と結婚すると魔法が解けて王子様はハンサムに大変身という、めでたしめでたしの物語。
シンデレラと違うのは、継母の代わりに優しいお父さんがいて、ベルは貧しいけれども働き者という以外に、薔薇を盗んで野獣王子に捕まった父親の身代わりに城に囲われ、それでも病気の父の看病に実家に帰らせてもらう孝行娘で、あまつさえ不幸な身の野獣に同情と好意を持つという美徳を兼ね備えていること。
ベルが帰らないことに絶望した野獣が命の残り火を消した時、ベルの清き心が野獣への愛と昇華して、野獣を人間の王子として復活させる。
『美女と野獣』は1991年にディズニー・アニメで映画化され、王子が野獣となった経緯も説明される。本作では省かれているが、魔法よりもベルと野獣の関係性に焦点が絞られていて、愛のメルヘンとしては感動的になっている。
城の使用人たちが彫像にされて顔だけ動いたり、燭台やドアノブが人間の手になっているのが結構気色悪く、野獣の住む館の不気味さを演出しているのがダーク・フェアリー・テイルとしていい。
子供のものとされるフェアリー・テイルを、むしろ大人が鑑賞するための芸術作品に仕上げたのがコクトーの功績。 (評価:3)
製作国:フランス
日本公開:1948年11月5日
監督:ルネ・クレマン 製作:アンドレ・ポールヴェ 脚本:ジャック・コンパネーズ、 ヴィクトル・アレクザンドロフ 撮影:アンリ・アルカン
キネマ旬報:4位
思惑が絡み合うUボート内の密室劇がサスペンスフル
原題"Les Maudits"で、呪われたものの意。
第二次世界大戦末期、オスロから南米に脱出するドイツ潜水艦の物語で、イタリア人ガローシ(フォスコ・ジアケッチ)の妻かつ潜水艦に同乗するドイツ軍ハウザー将軍の愛人でもあるヒルデ(フロランス・マルリイ)が怪我をしたために、フランス海岸から誘拐された、医師ギベール(アンリ・ヴィダル)の回想録という形式を採っている。
プロローグは戦争が終わりギベールが郷里に生還するシーンから始まるが、ドイツ軍に占領されていた村という設定で、ギベールの誘拐時はドイツの敗色濃厚な戦争末期で、占領されていた様子もなく、帰還するまではごく短期間と思われるのでいささか変。同様に回想録の割には、潜水艦の出航からギベールの誘拐までが丁寧に描かれていて、これまた作劇上は変。
そうしたシナリオのヌケはあるものの、Uボートでの脱出劇という題材と、ベルリン崩壊後に艦内で繰り広げられるハウザー将軍とゲシュタポのフォルスター(ヨー・デスト)との主導権争いや、潜水艦から逃亡しようとする者たちの思惑が絡み合う密室劇がサスペンスフル。
Uボート内の閉塞感や息苦しさが伝わってくるカメラワークと演出が良く、ギベールが初めてUボートに乗り込んで通路を抜けていく長回しの1カットシーンが、艦内の狭苦しさや乗員のあまり快適ではない環境を演出していて上手い。
Uボートでドイツを脱出するのがドイツ人だけでなく、同盟国のイタリア人のほかにノルウエーの学者とその娘(アンヌ・カンピオン)、フランスの親ナチ新聞記者(ポール・ベルナール)とバラエティに富んでいるのもドラマを面白くしている。
ドーバー海峡での連合軍からの攻撃シーン、南米沖での補給船への魚雷攻撃など、戦闘シーンも迫力十分。
最初にクレジットされるマルセル・ダリオは、南米の諜報員のチョイ役で出演。 (評価:3)
日本公開:1948年11月5日
監督:ルネ・クレマン 製作:アンドレ・ポールヴェ 脚本:ジャック・コンパネーズ、 ヴィクトル・アレクザンドロフ 撮影:アンリ・アルカン
キネマ旬報:4位
原題"Les Maudits"で、呪われたものの意。
第二次世界大戦末期、オスロから南米に脱出するドイツ潜水艦の物語で、イタリア人ガローシ(フォスコ・ジアケッチ)の妻かつ潜水艦に同乗するドイツ軍ハウザー将軍の愛人でもあるヒルデ(フロランス・マルリイ)が怪我をしたために、フランス海岸から誘拐された、医師ギベール(アンリ・ヴィダル)の回想録という形式を採っている。
プロローグは戦争が終わりギベールが郷里に生還するシーンから始まるが、ドイツ軍に占領されていた村という設定で、ギベールの誘拐時はドイツの敗色濃厚な戦争末期で、占領されていた様子もなく、帰還するまではごく短期間と思われるのでいささか変。同様に回想録の割には、潜水艦の出航からギベールの誘拐までが丁寧に描かれていて、これまた作劇上は変。
そうしたシナリオのヌケはあるものの、Uボートでの脱出劇という題材と、ベルリン崩壊後に艦内で繰り広げられるハウザー将軍とゲシュタポのフォルスター(ヨー・デスト)との主導権争いや、潜水艦から逃亡しようとする者たちの思惑が絡み合う密室劇がサスペンスフル。
Uボート内の閉塞感や息苦しさが伝わってくるカメラワークと演出が良く、ギベールが初めてUボートに乗り込んで通路を抜けていく長回しの1カットシーンが、艦内の狭苦しさや乗員のあまり快適ではない環境を演出していて上手い。
Uボートでドイツを脱出するのがドイツ人だけでなく、同盟国のイタリア人のほかにノルウエーの学者とその娘(アンヌ・カンピオン)、フランスの親ナチ新聞記者(ポール・ベルナール)とバラエティに富んでいるのもドラマを面白くしている。
ドーバー海峡での連合軍からの攻撃シーン、南米沖での補給船への魚雷攻撃など、戦闘シーンも迫力十分。
最初にクレジットされるマルセル・ダリオは、南米の諜報員のチョイ役で出演。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1947年8月30日
監督:ジョン・フォード 製作:サミュエル・G・エンゲル 脚本:サミュエル・G・エンゲル、ウィンストン・ミラー 撮影:ジョー・マクドナルド 音楽:シリル・モックリッジ、アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:2位
ワイアット・アープの決闘よりも恋愛西部劇
原題"My Darling Clementine"で、我が愛しきクレメンタインの意。主題歌として使用されている西部開拓時代の同名楽曲(いとしのクレメンタイン)をタイトルにしたもので、原作はスチュアート・N・レイクがワイアット・アープのインタビューを基にした伝記"Wyatt Earp: Frontier Marshal"。このアープの話は自分に都合のいいように話したフィクション。劇中に登場するクレメンタインは、アープの三番目の妻ジョセフィンをイメージしたと思われる。
1881年にアリゾナのトゥームストーンで起きた"OK牧場の決闘"をクライマックスにしているが、史実ではドク・ホリデイを含めてクラントン一家も生き残っていて、劇的になるように脚色されている。
原題からも、アープ、クレメンタインの恋物語が中心で、邦題の西部劇を期待すると肩透かしを食う。何者かに殺された弟の敵を討つためにトゥームストーンの保安官になったはずなのに、ワープは博打と女に現を抜かして犯人探しもしなければ、盗まれた牛の行方を捜しもしない。終盤になって棚ぼた式にクラントン一家が敵だとわかって、ようやく決闘へと突き進む。
ジョン・フォードが、ワープのいい加減な実像を描こうとしたのかと深読みさえしてしまうが、保安官らしい仕事もせずに日がなブラブラし、いい女を見るとホテルボーイまで買って出る。話は、二枚目ドクをめぐる女二人の鞘当てを中心に進み、かっこつけのドクとワープが次第にお友達になる。
ワープはドクを追って西部にやってきたクレメンタインに惚れ、邪魔なドクは決闘で死んでもらうものの、それで二人が結ばれてめでたしめでたしでは、いかにもバツが悪いので、思いを残したままワープが去ってくというエンディングとなる。
いわばすかした男のガンマン・ヒーローもので、懐かしき西部劇映画に浸れるが、インディアンに酒を飲ますと暴れるから飲ますなというシーンもあって、そうした面でも時代性を感じさせてくれる。
アープにヘンリー・フォンダ。 (評価:2.5)
日本公開:1947年8月30日
監督:ジョン・フォード 製作:サミュエル・G・エンゲル 脚本:サミュエル・G・エンゲル、ウィンストン・ミラー 撮影:ジョー・マクドナルド 音楽:シリル・モックリッジ、アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:2位
原題"My Darling Clementine"で、我が愛しきクレメンタインの意。主題歌として使用されている西部開拓時代の同名楽曲(いとしのクレメンタイン)をタイトルにしたもので、原作はスチュアート・N・レイクがワイアット・アープのインタビューを基にした伝記"Wyatt Earp: Frontier Marshal"。このアープの話は自分に都合のいいように話したフィクション。劇中に登場するクレメンタインは、アープの三番目の妻ジョセフィンをイメージしたと思われる。
1881年にアリゾナのトゥームストーンで起きた"OK牧場の決闘"をクライマックスにしているが、史実ではドク・ホリデイを含めてクラントン一家も生き残っていて、劇的になるように脚色されている。
原題からも、アープ、クレメンタインの恋物語が中心で、邦題の西部劇を期待すると肩透かしを食う。何者かに殺された弟の敵を討つためにトゥームストーンの保安官になったはずなのに、ワープは博打と女に現を抜かして犯人探しもしなければ、盗まれた牛の行方を捜しもしない。終盤になって棚ぼた式にクラントン一家が敵だとわかって、ようやく決闘へと突き進む。
ジョン・フォードが、ワープのいい加減な実像を描こうとしたのかと深読みさえしてしまうが、保安官らしい仕事もせずに日がなブラブラし、いい女を見るとホテルボーイまで買って出る。話は、二枚目ドクをめぐる女二人の鞘当てを中心に進み、かっこつけのドクとワープが次第にお友達になる。
ワープはドクを追って西部にやってきたクレメンタインに惚れ、邪魔なドクは決闘で死んでもらうものの、それで二人が結ばれてめでたしめでたしでは、いかにもバツが悪いので、思いを残したままワープが去ってくというエンディングとなる。
いわばすかした男のガンマン・ヒーローもので、懐かしき西部劇映画に浸れるが、インディアンに酒を飲ますと暴れるから飲ますなというシーンもあって、そうした面でも時代性を感じさせてくれる。
アープにヘンリー・フォンダ。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1948年6月15日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:ロバート・E・シャーウッド 撮影:グレッグ・トーランド 音楽:ヒューゴ・フリードホーファー
キネマ旬報:2位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
復員兵をテーマに何となく未来志向のハッピーエンド
原題"The Best Years of Our Lives"で、邦題の意。マッキンレー・カンターの小説"Glory for Me"が原作。
第二次世界大戦の復員兵問題がテーマで、戦争のトラウマから社会に馴染めない3人の復員兵の姿を描く。
3人は故郷へ帰る軍用輸送機にたまたま乗り合わせた空軍大尉フレッド(ダナ・アンドリュース)、陸軍軍曹アル(フレドリック・マーチ)、水兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)で、故郷に帰ると軍功を重ねた英雄フレッドも元職のドラッグストアの店員に逆戻り。年嵩のアルは銀行副頭取に迎えられ、両手を失ったホーマーは傷痍軍人手当で暮らすという、軍での経験が社会では価値を持たないという現実に直面する。
日本軍と戦ったアルは、敵兵から略奪した品物を息子にプレゼントするが、日本人の家族の絆や原爆投下について問いかけられて言葉を失う。
フレッドは店の客が、ナチスと日本の敵はイギリスと共産主義で、アメリカが参戦を決めた政策は誤りだったと言うのに逆上、解雇されてしまう。
終戦直後のアメリカで、このような言論があったことに驚かされるが、どちらの問題提起も投げられっぱなしで終わっているのが惜しいところ。
復員兵問題も、ホーマーと婚約者が障碍を乗り越えて結婚、フレッドとアルの娘の恋が実り、アルも復員した者たちがアメリカの未来を創ると大演説をぶって、戦争の評価や核心に触れることなく、何となく未来志向のハッピーエンドとなる。
ホーマーを演じるハロルド・ラッセルは、事故で両手を失った障碍者で、アカデミー助演男優賞を受賞。義手を器用に使うのに感心させられる。
フレドリック・マーチがアカデミー主演男優賞受賞。その妻にマーナ・ロイ。 (評価:2.5)
日本公開:1948年6月15日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:ロバート・E・シャーウッド 撮影:グレッグ・トーランド 音楽:ヒューゴ・フリードホーファー
キネマ旬報:2位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題"The Best Years of Our Lives"で、邦題の意。マッキンレー・カンターの小説"Glory for Me"が原作。
第二次世界大戦の復員兵問題がテーマで、戦争のトラウマから社会に馴染めない3人の復員兵の姿を描く。
3人は故郷へ帰る軍用輸送機にたまたま乗り合わせた空軍大尉フレッド(ダナ・アンドリュース)、陸軍軍曹アル(フレドリック・マーチ)、水兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)で、故郷に帰ると軍功を重ねた英雄フレッドも元職のドラッグストアの店員に逆戻り。年嵩のアルは銀行副頭取に迎えられ、両手を失ったホーマーは傷痍軍人手当で暮らすという、軍での経験が社会では価値を持たないという現実に直面する。
日本軍と戦ったアルは、敵兵から略奪した品物を息子にプレゼントするが、日本人の家族の絆や原爆投下について問いかけられて言葉を失う。
フレッドは店の客が、ナチスと日本の敵はイギリスと共産主義で、アメリカが参戦を決めた政策は誤りだったと言うのに逆上、解雇されてしまう。
終戦直後のアメリカで、このような言論があったことに驚かされるが、どちらの問題提起も投げられっぱなしで終わっているのが惜しいところ。
復員兵問題も、ホーマーと婚約者が障碍を乗り越えて結婚、フレッドとアルの娘の恋が実り、アルも復員した者たちがアメリカの未来を創ると大演説をぶって、戦争の評価や核心に触れることなく、何となく未来志向のハッピーエンドとなる。
ホーマーを演じるハロルド・ラッセルは、事故で両手を失った障碍者で、アカデミー助演男優賞を受賞。義手を器用に使うのに感心させられる。
フレドリック・マーチがアカデミー主演男優賞受賞。その妻にマーナ・ロイ。 (評価:2.5)
製作国:イタリア
日本公開:1950年3月21日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:パオロ・W・タンブレッラ 脚本:ヴィットリオ・デ・シーカ、チェザーレ・ザヴァッティーニ、セルジオ・アミディ、チェザーレ・ヴィオラ、アドルフォ・フランチ 撮影:アンキーゼ・ブリッツィ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:7位
アカデミー特別賞(外国語映画賞)
イタリアの戦後も日本と同じだったんだと共感できる
原題"Sciuscià"で、コルシカ語で靴磨きの意。
舞台は1945年のローマ、日本はまだ降伏していない。
連合軍の占領下にあるローマの浮浪児たちの物語で、親友のジュゼッペ(リナルド・スモルドー二)とパスクアーレ(フランコ・インテルレンギ)は靴みがきで小遣いを稼ぎ、お気に入りの馬を買おうとしている。金額があと少し足りないというところで、ジュゼッペの兄が占領軍から盗んだ毛布の横ながしを手伝うことになる。
報酬を得て念願の馬を手に入れたところで、警察に捕まり少年院入り。
二人はジュゼッペの兄に頼まれたという秘密を守るが、ジュゼッペが鞭打ちを受けていると勘違いしたパスクアーレが、鞭打ちをやめさせようとして警察にジュゼッペの兄の関与を漏らしてしまい、兄が逮捕。二人の仲は険悪になる。
警察への密告者扱いされたパスクアーレは入所者に嵌められて脱獄準備の冤罪を着せられ、一方ジュゼッペは仲間と脱獄。ジュゼッペが二人で買った馬の所に行くと考えたパスクアーレは、警察を導いてジュゼッペを追いかけ、二人で揉みあった挙句、過ってジュゼッペを死なせてしまうという悲劇。
日本の敗戦同様に、イタリアでも戦災孤児や浮浪児がローマに溢れ、占領軍物資の闇屋が横行し、少年たちは生きるために犯罪に手を染める、戦争は弱き者たちに悲劇を生むという作品。イタリアも日本と同じだったんだと共感することができる。
二人の少年が目の大きいイタリア少年的可愛らしさで、健気な演技が胸を打つ。 (評価:2.5)
日本公開:1950年3月21日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:パオロ・W・タンブレッラ 脚本:ヴィットリオ・デ・シーカ、チェザーレ・ザヴァッティーニ、セルジオ・アミディ、チェザーレ・ヴィオラ、アドルフォ・フランチ 撮影:アンキーゼ・ブリッツィ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:7位
アカデミー特別賞(外国語映画賞)
原題"Sciuscià"で、コルシカ語で靴磨きの意。
舞台は1945年のローマ、日本はまだ降伏していない。
連合軍の占領下にあるローマの浮浪児たちの物語で、親友のジュゼッペ(リナルド・スモルドー二)とパスクアーレ(フランコ・インテルレンギ)は靴みがきで小遣いを稼ぎ、お気に入りの馬を買おうとしている。金額があと少し足りないというところで、ジュゼッペの兄が占領軍から盗んだ毛布の横ながしを手伝うことになる。
報酬を得て念願の馬を手に入れたところで、警察に捕まり少年院入り。
二人はジュゼッペの兄に頼まれたという秘密を守るが、ジュゼッペが鞭打ちを受けていると勘違いしたパスクアーレが、鞭打ちをやめさせようとして警察にジュゼッペの兄の関与を漏らしてしまい、兄が逮捕。二人の仲は険悪になる。
警察への密告者扱いされたパスクアーレは入所者に嵌められて脱獄準備の冤罪を着せられ、一方ジュゼッペは仲間と脱獄。ジュゼッペが二人で買った馬の所に行くと考えたパスクアーレは、警察を導いてジュゼッペを追いかけ、二人で揉みあった挙句、過ってジュゼッペを死なせてしまうという悲劇。
日本の敗戦同様に、イタリアでも戦災孤児や浮浪児がローマに溢れ、占領軍物資の闇屋が横行し、少年たちは生きるために犯罪に手を染める、戦争は弱き者たちに悲劇を生むという作品。イタリアも日本と同じだったんだと共感することができる。
二人の少年が目の大きいイタリア少年的可愛らしさで、健気な演技が胸を打つ。 (評価:2.5)
大いなる遺産
日本公開:1949年1月29日
監督:デヴィッド・リーン 製作:ロナルド・ニーム 脚本:ケイ・ウォルシュ、アンソニー・ハヴロック=アラン、デヴィッド・リーン、セシル・マッギヴァーン、ロナルド・ニーム 撮影:ガイ・グリーン 音楽:ウォルター・ゴール
原題"Great Expectations"で莫大な遺産相続見込みの意。チャールズ・ディケンズの同名小説が原作。
ディケンズらしいヒューマニズム溢れる作品で、鍛冶屋の息子ピップが食べ物を与えた脱獄犯マグウィッチがオーストラリアで金持ちとなり、恩返しに匿名でピップに養育費を払い、ロンドンでジェントルマンとして育てるというもの。
マグウィッチは囚人のためイギリスに帰国することを許されないが、ピップ会いたさに密入国し名乗りを上げる。ところが密告者のために捕まり、ピップに見守られながら息を引き取る。一方、ピップが恋する独身金持ち女の養女が、マグウィッチの行方不明の娘という伏線があって、心の歪んだ娘を解放してハッピーエンドとなる。
古い小説のためいささか設定に違和感があるが、パトロンが誰かという謎と、ある意味不可思議で常識外れでさえあるストーリーなので観ていて飽きない。
ピップの少年時代を演じるアンソニー・ウェイジャーがとても可愛く、独身金持ち女に気に入られるのも納得がいくのだが、大人になってからのジョン・ミルズがジェントルマンを目指すにはくたびれたオッサン顔なのがどうにもいただけない。
娘を演じる17歳のジーン・シモンズの美少女ぶりも大きな見どころ。ピップのロンドンでのルームメイトとなるアレック・ギネスも若い。 (評価:2.5)
メイク・マイン・ミュージック
日本公開:1951年7月28日
監督:ジャック・キニー、クライド・ジェロニミ、ハミルトン・ラスク、ボブ・コーマック、ジョッシュ・メダー 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:ホーマー・ブライトマン、ディック・ヒューマー、ディック・キニー、ジョン・ウォルブリッジ、トム・オレブ、ディック・ショウ、エリック・ガーニー、シルヴィア・ホーランド、T・ヒー、アードマン・ペナー、ディック・ケルシー、ジム・ボドレロ、ロイ・ウィリアムズ、キャップ・パーマー、ジェシー・マーシュ、アーウィン・グラハム 音楽:エリオット・ダニエル、オリバー・ウォレス、チャールズ・ウォルコット
原題"Make Mine Music"で、私の音楽を作るの意。短編ミュージカル・アニメ10作品からなるオムニバス。統一性はなく、それぞれのアニメーターが思い思いにマイン・アニメーションを作っているのが、自由で伸び伸びとしていて楽しい。
"The Martins and the Coys"(谷間のあらそい):谷間を挟んで対立するマーチン家とコイ家が戦いとなり、それぞれ1人の男女を残して昇天。残った2人は恋に落ちて結婚するが夫婦喧嘩で両家の戦いは続くというオチ。カントリーの歌で物語るアメリカンなミュージカルだが、戦時中にプロパガンダ映画を求められたスタッフの反戦映画だったのかもしれない。
"Blue Bayou"(青いさざなみ):『ファンタジア』の未使用フィルムで、曲はドビュッシーのベルガマスク組曲「月の光」からのアレンジ。青に統一した幻想的な絵が美しい詩的映像。
"All the Cats Join In"(みんなでジャズを!):ベニー・グッドマン楽団の音楽をバックにアニメーターが書いた人物が次々に動き出してセッションに参加するのが楽しい。
"Without You"(あなたなしでは):バラードに乗せて窓に映る外の景色を描いていくだけの単調な作品だが、雨に濡れた窓ガラスとそれを通して見る外の景色を描くアニメーション技術が凄い。
"Casey at the Bat"(猛打者ケイシー):野球で人気者のケイシーが一打サヨナラのチャンスに三振をするまでをコミカルの描いた、これぞ漫画映画の傑作。
"Two Silhouettes"(ふたつのシルエット):男女のバレリーナが実写のシルエットとなって森の絵の中で踊るファンタジー・アニメ。フェアリーのように金の粉を纏うシーンが幻想的。
"Peter and the Wolf"(ピーターとおおかみ):ピーター少年がお供の動物たちと玩具の鉄砲で狼退治に出掛ける話。キャラクター1人に一つの楽器があてがわれてBGMとなるという説明が面白い。
"After You've Gone"(君去りし後):擬人化された楽器、ピアノ・ベース・ドラム・クラリネットなどが軽快なジャズに乗ってスイングしながらカトゥーン風に跳ね回るイメージ・アニメ。
"Johnnie Fedora and Alice Bluebonnet"(帽子のジョニーとアリスの恋):デパートのショーウインドーに並べられた男性用の帽子と女性用の帽子のラブストーリーで、それぞれに違った持ち主に買われ、流転した挙句に雌雄2頭立ての馬車のそれぞれの帽子に収まり、恋が成就するという定型。
"The Whale Who Wanted to Sing at the Met"(くじらのウィリー):オペラが得意な鯨がオーディションを受けようとするが、オペラ歌手を呑み込んでいると信じ込んだ興行主に殺されてしまう悲劇。 (評価:2.5)
素晴らしき哉、人生!
日本公開:1954年2月6日
監督:フランク・キャプラ 製作:リバティ・フィルムズ、フランク・キャプラ 脚本:フランク・キャプラ、 フランセス・グッドリッチ、アルバート・ハケット 撮影:ジョセフ・ウォーカー、ジョセフ・バイロック 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題は"It's a Wonderful Life"。宇宙の彼方からアメリカにやってきた2級天使が翼を取り戻すというSFないしはファンタジーで、ヒューマンドラマの厚化粧を施したおとぎ話でもある。一部の映画人からは名作として高い支持を受けている。
このような感動話にカタルシスを感じる向きにはお薦めで、脚本は善悪を二元論的に明確化し、ドラマ的にはよく作られているが、リアリティを無視して作為的でご都合主義。張り巡らした伏線を最後にきちんと回収していて仕事としてはプロだが、その嘘くさい作劇で観客を感動させようという下心が鼻につく。善人であるはずのジェームズ・ステュアートが場当たり的な情緒不安定な人間に見えてしまう。
もっとも、この映画が製作されたのが第二次世界大戦直後で、長く困難な戦争の勝利を手にしたアメリカ国民の、正義を信じる心に訴える作品であったことは間違いない。現代の視点から見ると厳しい評価となるが、ピューリタン的価値観の古き良き時代を描いた代表的映画でもある。新自由主義・拝金主義の現代アメリカが見直すべき映画かもしれない。
クリスマスイブの雪のシーンとドナ・リードが美しい。ただ個人的には善人ばかりが登場するなかで、けばい女の子バイオレットを演じるグロリア・グレアムの可愛らしさと、ポッターを演じるライオネル・バリモアの悪役ぶりがいい。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1949年6月14日
監督:クラレンス・ブラウン 製作:シドニー・フランクリン 脚本:ポール・オズボーン 撮影:チャールズ・ロッシャー、レナード・スミス、アーサー・アーリング 音楽:ハーバート・ストサート
キネマ旬報:9位
ヒューマンドラマの厚化粧を施したおとぎ話
原題"The Yearling"で、1年子の意。マージョリー・キナン・ローリングスの同名児童文学が原作。
南北戦争後のアメリカが舞台。貧しい開拓民の一家の父親が森でガラガラヘビに噛まれ、毒消しのために母鹿を殺し、一命を取り留める。残された子鹿を一人息子が世話することになるものの、1年が経過して畑を荒らすようになり、堪忍袋の緒が切れて母親が銃で撃ち、とどめを少年が刺すという悲しい物語。
話はほぼこれに尽きるが、子鹿と出合うまでが長すぎ、その後の1年間も特に何事もなく淡々と進むので、いささか冗長で退屈。これを救っているのが、少年ジョディ役のクロード・ジャーマン・ジュニアの演技で、アカデミー子役賞を受賞している。若いグレゴリー・ペックも優しい父親役を好演しているが、母親役のジェーン・ワイマン始め、他の出演者が型に嵌った演技と演出で今ひとつ。
犬と熊の演技はいいが、肝腎の子鹿フラッグの演技がよくないのが最大の難点。母親に死なれて隠れている姿に悲しみも緊張感もなく、ジョディが話しかけても上の空、馬耳東風ならぬ鹿耳東風。撃たれて横たわっている姿も、寝そべっているくらいにしか見えず、馬は利口だが、鹿は馬鹿かと下らないことを考えてしまう。
人が飢えずに生きていくためには鹿を殺すのは仕方のないこと、とアメリカ開拓精神を強調して終わる如何にもなハリウッド映画で、それを知って子供から大人になるというのが原題の意味。
動物愛護の精神からすれば、子鹿を保護したのに人間の都合で殺してしまうのは勝手な理屈で、可愛いからと野生動物を飼った少年の身勝手さと反省が描かれなければ、単にアメリカ男児の通過儀礼とセンチメンタリズムに終わってしまう。
3人の子供を幼くして失っている母親が葛藤なく子鹿を殺そうとし、息子の動物好きの友達の葬儀で、天国で動物に囲まれるようにと願った父親の弔辞も空々しく、感動のないメロドラマになっている。 (評価:2.5)
日本公開:1949年6月14日
監督:クラレンス・ブラウン 製作:シドニー・フランクリン 脚本:ポール・オズボーン 撮影:チャールズ・ロッシャー、レナード・スミス、アーサー・アーリング 音楽:ハーバート・ストサート
キネマ旬報:9位
原題"The Yearling"で、1年子の意。マージョリー・キナン・ローリングスの同名児童文学が原作。
南北戦争後のアメリカが舞台。貧しい開拓民の一家の父親が森でガラガラヘビに噛まれ、毒消しのために母鹿を殺し、一命を取り留める。残された子鹿を一人息子が世話することになるものの、1年が経過して畑を荒らすようになり、堪忍袋の緒が切れて母親が銃で撃ち、とどめを少年が刺すという悲しい物語。
話はほぼこれに尽きるが、子鹿と出合うまでが長すぎ、その後の1年間も特に何事もなく淡々と進むので、いささか冗長で退屈。これを救っているのが、少年ジョディ役のクロード・ジャーマン・ジュニアの演技で、アカデミー子役賞を受賞している。若いグレゴリー・ペックも優しい父親役を好演しているが、母親役のジェーン・ワイマン始め、他の出演者が型に嵌った演技と演出で今ひとつ。
犬と熊の演技はいいが、肝腎の子鹿フラッグの演技がよくないのが最大の難点。母親に死なれて隠れている姿に悲しみも緊張感もなく、ジョディが話しかけても上の空、馬耳東風ならぬ鹿耳東風。撃たれて横たわっている姿も、寝そべっているくらいにしか見えず、馬は利口だが、鹿は馬鹿かと下らないことを考えてしまう。
人が飢えずに生きていくためには鹿を殺すのは仕方のないこと、とアメリカ開拓精神を強調して終わる如何にもなハリウッド映画で、それを知って子供から大人になるというのが原題の意味。
動物愛護の精神からすれば、子鹿を保護したのに人間の都合で殺してしまうのは勝手な理屈で、可愛いからと野生動物を飼った少年の身勝手さと反省が描かれなければ、単にアメリカ男児の通過儀礼とセンチメンタリズムに終わってしまう。
3人の子供を幼くして失っている母親が葛藤なく子鹿を殺そうとし、息子の動物好きの友達の葬儀で、天国で動物に囲まれるようにと願った父親の弔辞も空々しく、感動のないメロドラマになっている。 (評価:2.5)
ベイジル・ラスボーン版 シャーロック・ホームズ 闇夜の恐怖
日本公開:劇場未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール 製作:ロイ・ウィリアム・ニール 脚本:フランク・グルーバー 撮影:モーリー・ガーツマン
原題は"Terror by Night"で邦題の意。ベイジル・ラスボーンはシャーロック・ホームズ役で人気となったトーキー初期のイギリス人俳優。ワーナー・ブラザース製作の14本の映画シリーズの第13話。ワトソン役はナイジェル・ブルース。日本未公開。
『アルジェへの追跡』と似た設定のオリジナル脚本。今回のホームズの任務は「ローデシアの星」というダイヤモンドの護衛で、所有者には不幸が降りかかるという設定の割には、みんなが欲しがって不幸設定が活きない。『アルジェへの追跡』同様、名探偵がこんなガードマンみたいな仕事を引き受けるのかという疑問はさておいて、早めに殺人と盗難事件が起きるので、そこからは犯人探しというホームズらしい話になる。
もっとも、最初の殺人事件は夕食時に発生するが、terrorとnightにあまり関連性はなく、タイトルのイメージとは違った内容。
密室劇で、『アルジェへの追跡』の船に対して、今回は列車。美女が母親の棺桶を貨物室に預けて乗車というのが「へえ!」で、これが重要アイテムとなるが、1車両+貨物室だけの話になるので、容疑者が少なすぎていささか拍子抜け。
殺人犯=車掌じゃないと、殺人犯がどこに隠れていたのか説明がつかなかったり、最後の大どんでん返しも突っ込みどころは多いが、気楽にミステリー気分を味わうにはまずまずの出来。 (評価:2.5)
ベイジル・ラスボーン版 シャーロック・ホームズの殺しのドレス
日本公開:劇場未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール 製作:ロイ・ウィリアム・ニール 脚本:フランク・グルーバー 撮影:モーリー・ガーツマン
原題は"Dressed to Kill"で邦題の意。ベイジル・ラスボーンはシャーロック・ホームズ役で人気となったトーキー初期のイギリス人俳優。ワーナー・ブラザース製作の14本の映画シリーズの第14話。ワトソン役はナイジェル・ブルース。日本未公開。
ベイジル・ラスボーン版シャーロック・ホームズの最終作で、『踊る人形』とよく似た暗号解読もの。暗号は人形の絵ではなく、オルゴール音楽の楽譜というのがミソ。1曲が3つのオルゴールに分割され、ダートムア刑務所の囚人が偽札原版の在り処を隠す。
刑務所で製造されたオルゴールはオークションで売られるが、囚人の仲間が遅刻したために、3人の落札者の手に渡ってしまい、それを取り戻そうとして盗難事件が起きて。ホームズの出番となる。
ホームズが僅かな手掛かりからあれよあれよという間に暗号を解いてしまう都合のよさもあり、終盤はやや面白みに欠ける。
本作の肝はオルゴールのアイディアだが、ヴァイオリンの名手でオルゴールの曲も一回で覚えてしまうホームズなのに、ピアノで音を確かめないと譜面が起こせないというのが笑いどころ。
タイトルのドレスは内容とは全く関係がなく、意味不明。 (評価:2.5)
田園交響楽
日本公開:1950年4月22日
監督:ジャン・ドラノワ 脚本:ジャン・オーランシュ ジャン・ドラノワ 撮影:アルマン・ティラール 音楽:ジョルジュ・オーリック
カンヌ映画祭グランプリ
原題"La Symphonie pastorale"で、邦題の意。アンドレ・ジイドの同名小説が原作。
ベートーヴェンの交響曲第6番と同じ表題ながら、劇中まったく使われないのが拍子抜け。
内容も拍子抜けで、牧師(ピエール・ブランシャール)が孤児となった盲目の少女を神の思し召しと引き取って養育するが、動物のように皿に直接口を付けて食べる狼少女が、教育の甲斐あって流暢なフランス語を話し、ワルツまで華麗に踊ってしまう美人のレディに成長するという、いささか唖然とする展開。
牧師はこの娘(ミシェル・モルガン)に愛玩ともいえる歪んだ愛情を抱き、息子(ジャン・ドザイ)が許嫁(アンドレ・クレマン)よりも元狼少女に惹かれているのを感じ取ると、盲目の娘は結婚できないと二人を引き離す。その実、ペットの元狼少女を独り占めしたいという邪心を自覚。
息子の許嫁が元狼少女に開眼手術を受けさせることを提案し、見事成功してしまうという驚きの展開。
開眼した元狼少女は老いた牧師よりも若い息子に心惹かれるが、牧師親子は元狼少女を巡って争いとなり、息子は家を去る。傷心の元狼少女は牧師を責め、雪の中に飛び出し入水自殺。牧師は亡骸は自分のものだと叫ぶというラスト。
神に仕える身でありながら養女に下心を抱く牧師も牧師なら、許嫁を放り出して狼少女と結婚しようとする息子も息子。そんな息子に恋する元狼少女も元狼少女で、可哀想なのは息子の許嫁。可愛いだけに、元狼少女に惹かれる息子がよく理解できない。
牧師の老いらくの恋が描きたかったのか、少女を飼育する変態愛が描きたかったのかよくわからないが、ストーリー展開は作為的で、タイトルほどに牧歌的でないのがミスリード。 (評価:2)
汚名
日本公開:1949年11月1日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:ベン・ヘクト 撮影:テッド・テズラフ 音楽:ロイ・ウェッブ
原題"Notorious"で、悪名高いの意。
父親がナチのスパイであったが故に、FBIに愛国心を利用されてブラジルのナチ残党の秘密を探る女スパイのドラマで、ヒッチコックらしいテンポのいいサスペンスとなっている。
もっとも設定上の矛盾点が二つほどあって、それが頭から離れないとどうにも楽しめない。
一つは女スパイ・アリシア(イングリッド・バーグマン)がFBIに協力する最大の動機が、FBI捜査官デヴリン(ケーリー・グラント)に惚れたからなのだが、ナチの残党セバスチャン(クロード・レインズ)と結婚してまで協力する心理が理解できない。
その上、デヴリンが「愛している」と言ってくれれば、結婚してまで協力しなかったというのがよくわからなくて、だったらナチの娘の汚名挽回と愛国心だけでそこまで協力するか? ということになる。ちなみに報酬の話は一切出て来ず、金目当てならむしろFBIに協力するよりも、セバスチャンとの結婚の方が遥かにメリットがありそうに見える。
もう一点は、ナチ残党の秘密がセバスチャンの屋敷のワインセラーに隠されたウラン鉱石で、それが何の役に立つのかという話はともかく、ワインセラーの鍵をアリシアが盗み、デヴリンと潜入して施錠しないままに逃げ出し、その夜就寝してから鍵を戻すという子供じみや遣り口で、これでバレていないと思うのがどうにも解せない。
毒を飲まされて瀕死に陥ったアリシアを危機一髪デヴリンが救出。ようやく「愛してる」と言って、「それなら協力しなかったのに」と答えるという、デヴリンはただアリシアを利用しただけの人非人なんじゃないかという幕切れだが、一応ラブロマンスということになっている。
愛する女は何でもするという男のロマンチックな理屈で作られたシナリオで、アリシアがバカっぽい女だったらまだしも、イングリッド・バーグマンがミスキャスト。 (評価:2)
郵便配達は二度ベルを鳴らす
監督:テイ・ガーネット 製作:ケイリー・ウィルソン 脚本:ハリー・ラスキン、ニーヴェン・ブッシュ 撮影:シドニー・ワグナー 音楽:ジョージ・バスマン
原題"The Postman Always Rings Twice"で、郵便配達はいつもベルを二度鳴らすの意。ジェームズ・M・ケインの同名小説が原作で、3度目の映画化。
流れ者の男フランク(ジョン・ガーフィールド)がニック(セシル・ケラウェイ)のダイナーで働くことになり、若妻コーラ(ラナ・ターナー)と浮気。ニックを自動車事故に見せかけて殺害するが、検事(レオン・エイムズ)に怪しまれて逮捕。司法取引でコーラに罪を着せるが、弁護士(ヒューム・クローニン)は証拠不十分から執行猶予付きの過失致死の判決にしてコーラは赦免となり、話題となったダイナーは大繁盛。ところが自動車事故でコーラが事故死。メモからフランクはニック殺しで死刑となる。
この顛末が原作通りにフランクのモノローグで語られるが、わかりやすい演技と演出が却ってリアリティを損なっていて、恋愛ものとしてもサスペンスとしても出来は今一つ。
ラナ・ターナーのセクシー女優としての売りが前面に出過ぎていて、ダイナーでの露出度の高いコスチュームでのニンフのような登場ぶりには度肝を抜かれる。
もちろん流れを無視した水着シーンもふんだんで、ライティングなのか現像加工なのかラナ・ターナーだけが白飛びしていて、妖精というよりは幽霊のよう。
フランクとの恋愛もただのプレイガールのように浮ついていて、ジョン・ガーフィールドと演技が噛み合ってない。
そもそもニックはコーラの浮気を容認していて、それを餌にフランクをダイナーで働かせようとしていると見えてしまうのが、ドラマを安っぽくしている。 (評価:2)
製作国:ソ連
日本公開:1947年11月4日
監督:アレクサンドル・プトゥシコ 脚本:パーヴェル・バジョフ、イワン・ケッレル 撮影:フョードル・プロヴォロフ 音楽:レフ・シュワルツ
キネマ旬報:9位
ちゃちいトリック撮影が、むしろメルヘンぽくて微笑ましい
原題"Каменный цветок"で、邦題の意。ウラル地方の民話を基にしたパーヴェル・バジョーフの同名文学の翻案で、ソ連初のカラー長編映画。
天賦の才ある石工の青年ダニーラ(ウラジミール・ドルージニコフ)が、フィアンセ(エカテリーナ・デレフシチコーワ)からもらった花をデザインした鉢を彫るが、石工の古老から年に一度だけ咲くという石の花の話を聞き、死んだ石の花ではなく、生きた石の花に心奪われる。
婚礼の日、今日こそが石の花の咲く日だと銅山の女王(タマーラ・マカーロワ)に告げられ、山の洞窟に誘われたダニーラは、女王に結婚を申し込まれるが、妻がいると拒絶。洞窟に閉じ込められて生きた石で花を彫るが、それが人目に決して触れないことに虚しさを感じる。
一方、妻カーチャは夫の養父(ミハイル・ヤンシン)の世話をするが、養父が死んだため夫を捜しに山に行き再会を果たす。女王はダニーラに石の花の咲く女王の国とカーチャのどちらを選ぶか迫り、妻を選んだ青年の強い愛情を褒めて二人を解放する・・・というお話。
歌唱も入る総天然色ファンタジー映画だが、残念ながら現存するフィルムの退色がひどく、メルヘンチックな感動が伝わって来ない。総じてテンポも演出も演技も間延びしているので、むしろ欠伸が出るのが残念なところ。
ファンタジーらしくトリック撮影が使われているのも見どころで、CG全盛の今から見れば他愛なくちゃちいが、むしろそれがメルヘンぽくて微笑ましい。 (評価:2)
日本公開:1947年11月4日
監督:アレクサンドル・プトゥシコ 脚本:パーヴェル・バジョフ、イワン・ケッレル 撮影:フョードル・プロヴォロフ 音楽:レフ・シュワルツ
キネマ旬報:9位
原題"Каменный цветок"で、邦題の意。ウラル地方の民話を基にしたパーヴェル・バジョーフの同名文学の翻案で、ソ連初のカラー長編映画。
天賦の才ある石工の青年ダニーラ(ウラジミール・ドルージニコフ)が、フィアンセ(エカテリーナ・デレフシチコーワ)からもらった花をデザインした鉢を彫るが、石工の古老から年に一度だけ咲くという石の花の話を聞き、死んだ石の花ではなく、生きた石の花に心奪われる。
婚礼の日、今日こそが石の花の咲く日だと銅山の女王(タマーラ・マカーロワ)に告げられ、山の洞窟に誘われたダニーラは、女王に結婚を申し込まれるが、妻がいると拒絶。洞窟に閉じ込められて生きた石で花を彫るが、それが人目に決して触れないことに虚しさを感じる。
一方、妻カーチャは夫の養父(ミハイル・ヤンシン)の世話をするが、養父が死んだため夫を捜しに山に行き再会を果たす。女王はダニーラに石の花の咲く女王の国とカーチャのどちらを選ぶか迫り、妻を選んだ青年の強い愛情を褒めて二人を解放する・・・というお話。
歌唱も入る総天然色ファンタジー映画だが、残念ながら現存するフィルムの退色がひどく、メルヘンチックな感動が伝わって来ない。総じてテンポも演出も演技も間延びしているので、むしろ欠伸が出るのが残念なところ。
ファンタジーらしくトリック撮影が使われているのも見どころで、CG全盛の今から見れば他愛なくちゃちいが、むしろそれがメルヘンぽくて微笑ましい。 (評価:2)