外国映画レビュー──1948年
製作国:イギリス
日本公開:1949年9月27日
監督:ローレンス・オリヴィエ 製作総指揮:ローレンス・オリヴィエ 脚本:ウィリアム・シェイクスピア 撮影:デズモンド・ディキンソン 音楽:ウィリアム・ウォルトン
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ヴェネツィア映画祭作品賞
舞台でシェイクスピア劇を鑑賞する趣きの名作
アカデミー作品賞のほか、主演男優・美術・衣装デザイン各賞、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞の名作。
一言でいえば、非常に格調が高い。監督・主演のローレンス・オリヴィエはシェイクスピア俳優で、舞台でシェイクスピア劇を鑑賞している趣きがある。俳優たちの台詞回しから演出・カメラワークに至るまで、演劇調かつ重厚。人物の登場・退場も舞台劇を見るよう。それでも見せ場では映画ならではの効果を狙ったカットが織り込まれ、モノクロ映像と相まって幽玄でもある。
ほとんどが会話で終始するが、アクションシーンであるハムレットとレイアティーズの剣の場面は見どころ。ハムレットの遺体を城の上に運ぶシーンも城の中から窓外を舐め、最後は影絵のように終わるという、映像的にもファンタジックで秀逸。
オリヴィエ始め俳優陣の演技も良いが、ライトノベルやテレビの映画化とは根本的に方向性が違うので、古典演劇を見せられて退屈だと感じる向きもあるかもしれない。
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞。 (評価:3.5)
日本公開:1949年9月27日
監督:ローレンス・オリヴィエ 製作総指揮:ローレンス・オリヴィエ 脚本:ウィリアム・シェイクスピア 撮影:デズモンド・ディキンソン 音楽:ウィリアム・ウォルトン
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ヴェネツィア映画祭作品賞
アカデミー作品賞のほか、主演男優・美術・衣装デザイン各賞、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞の名作。
一言でいえば、非常に格調が高い。監督・主演のローレンス・オリヴィエはシェイクスピア俳優で、舞台でシェイクスピア劇を鑑賞している趣きがある。俳優たちの台詞回しから演出・カメラワークに至るまで、演劇調かつ重厚。人物の登場・退場も舞台劇を見るよう。それでも見せ場では映画ならではの効果を狙ったカットが織り込まれ、モノクロ映像と相まって幽玄でもある。
ほとんどが会話で終始するが、アクションシーンであるハムレットとレイアティーズの剣の場面は見どころ。ハムレットの遺体を城の上に運ぶシーンも城の中から窓外を舐め、最後は影絵のように終わるという、映像的にもファンタジックで秀逸。
オリヴィエ始め俳優陣の演技も良いが、ライトノベルやテレビの映画化とは根本的に方向性が違うので、古典演劇を見せられて退屈だと感じる向きもあるかもしれない。
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞。 (評価:3.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1949年8月13日
監督:ジーン・ネグレスコ 製作:ジェリー・ウォルド 脚本:イルムガード・フォン・クーベ、アレン・ヴィンセント 撮影:テッド・マッコード 音楽:マックス・スタイナー
ゴールデングローブ作品賞
聾唖者への無理解と差別を描くやるせない感動作
原題"Johnny Belinda"で、主人公の名前。エルマー・ブラニー・ハリスの同名戯曲が原作。ハリスの別荘があったカナダ東海岸、プリンス・エドワード島での出来事が基になっている。
物語の舞台は隣のケイブ・ブリトン島で、半農半漁で暮らす厳しい生活。そこで医者を開業した余所者のリチャードソン(リュー・エアーズ)は、聾唖の娘と暮らすマクドナルド(チャールズ・ビックフォード)の農場に出入りするようになる。
言葉を教えられず無学文盲の娘ベリンダ(ジェーン・ワイマン)は島の者たちはおろか家族にさえもバカと蔑まれているが、リチャードソンに読唇術と手話を教えられ、瞬く間に会話ができるようになる。
ところが村の青年ロッキー(スティーブン・マクナリー)にレイプされ、男の子を産む。村人たちはリチャードソンの子だと誤解して医師を村八分にして追い出し、ステラ(ジャン・スターリング)と結婚したロッキーは働き手にするべく赤ん坊を養子に取り上げようとする。
錯乱したベリンダはロッキーを射殺。裁判にかけられるが真実を知るステラの証言で無罪となるまで。
テーマは二つあって、一つは前世紀の聾唖者に対する無理解と差別、もう一つは閉鎖的な村社会で、リチャードソンはベリンダに教育を施し裁判に勝って前者については一定の成果を収める。しかし後者については村を出て新天地を求めざるを得ず敗北する。
リチャードソンのやさしさとヒューマニズムが清々しく、それだけに理不尽な村人たちに敗北する姿が悲しいが、それが今にも通じる現実であり、やるせない感動が観る者の心を打つ。
ジェーン・ワイマンはアカデミー主演女優賞を受賞。 (評価:3.5)
日本公開:1949年8月13日
監督:ジーン・ネグレスコ 製作:ジェリー・ウォルド 脚本:イルムガード・フォン・クーベ、アレン・ヴィンセント 撮影:テッド・マッコード 音楽:マックス・スタイナー
ゴールデングローブ作品賞
原題"Johnny Belinda"で、主人公の名前。エルマー・ブラニー・ハリスの同名戯曲が原作。ハリスの別荘があったカナダ東海岸、プリンス・エドワード島での出来事が基になっている。
物語の舞台は隣のケイブ・ブリトン島で、半農半漁で暮らす厳しい生活。そこで医者を開業した余所者のリチャードソン(リュー・エアーズ)は、聾唖の娘と暮らすマクドナルド(チャールズ・ビックフォード)の農場に出入りするようになる。
言葉を教えられず無学文盲の娘ベリンダ(ジェーン・ワイマン)は島の者たちはおろか家族にさえもバカと蔑まれているが、リチャードソンに読唇術と手話を教えられ、瞬く間に会話ができるようになる。
ところが村の青年ロッキー(スティーブン・マクナリー)にレイプされ、男の子を産む。村人たちはリチャードソンの子だと誤解して医師を村八分にして追い出し、ステラ(ジャン・スターリング)と結婚したロッキーは働き手にするべく赤ん坊を養子に取り上げようとする。
錯乱したベリンダはロッキーを射殺。裁判にかけられるが真実を知るステラの証言で無罪となるまで。
テーマは二つあって、一つは前世紀の聾唖者に対する無理解と差別、もう一つは閉鎖的な村社会で、リチャードソンはベリンダに教育を施し裁判に勝って前者については一定の成果を収める。しかし後者については村を出て新天地を求めざるを得ず敗北する。
リチャードソンのやさしさとヒューマニズムが清々しく、それだけに理不尽な村人たちに敗北する姿が悲しいが、それが今にも通じる現実であり、やるせない感動が観る者の心を打つ。
ジェーン・ワイマンはアカデミー主演女優賞を受賞。 (評価:3.5)
製作国:イタリア
日本公開:1950年9月8日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:ジュゼッペ・アマト 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴィットリオ・デ・シーカ 撮影:カルロ・モンテュオリ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:1位
アカデミー特別賞(外国語映画賞)
殺伐とした物語にささやかな安らぎを与える父子愛
原題"Ladri di biciclette"で、邦題の意。ルイジ・バルトリーニの同名小説が原作。
第二次世界大戦後の失業者の溢れるローマ郊外が舞台。妻子とアパートで暮らすアントニオ(ランベルト・マジョラーニ)は職安で役所のポスター張りの仕事を斡旋される。ところが自転車所有が条件で、生活費のために質入れしてあった。
寝具を質入れして自転車を受け戻すが、仕事中に盗まれ、仲間や息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)と共に故買市場を探すが見つからない。町中で犯人を見つけ警官を呼ぶが証拠がないために手が出せず、ついにアントニオ自身がブルーノの見ている目の前で自転車泥棒を働く。
被害者は息子に免じて許してやり、雑踏を行く親子の寂しい背中でエンドマークとなるという物語。
ネオレアリズモの名作で、犯人は貧民街に住む青年という、貧しい者同士が傷つけ合う、出口のない悲しい作品となっている。
自転車を取り戻す希望の断たれたアントニオが自棄になってブルーノとレストランに入ると、小綺麗な服を着た子供のいる一家が食事をしている。ピザを注文すると、レストランにピザは置いてないと給仕に言われ、チーズとワインを注文。ブルーノがフォークとナイフを上手く使えず手掴みするシーンが、殺伐とした物語に物悲しくもささやかな安らぎを与える。
アントニオに何かと世話を焼いてくれる友人のバイオッコ(ジーノ・サルタマレンダ)ら、生活に苦しむ仲間たちの温かい友情が描かれているのも救い。
真面目だけが取り柄で、仕事が見つかって有頂天になり、挙句に自転車を盗まれてしまう、見るからにお人好しで少々頼りない男をランベルト・マジョラーニが好演。そんな父親によく似た、人懐こいアントニオの子供らしさも良く、手を繋ぎ合う父子愛がじんわり伝わってくる。 (評価:3)
日本公開:1950年9月8日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:ジュゼッペ・アマト 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴィットリオ・デ・シーカ 撮影:カルロ・モンテュオリ 音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キネマ旬報:1位
アカデミー特別賞(外国語映画賞)
原題"Ladri di biciclette"で、邦題の意。ルイジ・バルトリーニの同名小説が原作。
第二次世界大戦後の失業者の溢れるローマ郊外が舞台。妻子とアパートで暮らすアントニオ(ランベルト・マジョラーニ)は職安で役所のポスター張りの仕事を斡旋される。ところが自転車所有が条件で、生活費のために質入れしてあった。
寝具を質入れして自転車を受け戻すが、仕事中に盗まれ、仲間や息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)と共に故買市場を探すが見つからない。町中で犯人を見つけ警官を呼ぶが証拠がないために手が出せず、ついにアントニオ自身がブルーノの見ている目の前で自転車泥棒を働く。
被害者は息子に免じて許してやり、雑踏を行く親子の寂しい背中でエンドマークとなるという物語。
ネオレアリズモの名作で、犯人は貧民街に住む青年という、貧しい者同士が傷つけ合う、出口のない悲しい作品となっている。
自転車を取り戻す希望の断たれたアントニオが自棄になってブルーノとレストランに入ると、小綺麗な服を着た子供のいる一家が食事をしている。ピザを注文すると、レストランにピザは置いてないと給仕に言われ、チーズとワインを注文。ブルーノがフォークとナイフを上手く使えず手掴みするシーンが、殺伐とした物語に物悲しくもささやかな安らぎを与える。
アントニオに何かと世話を焼いてくれる友人のバイオッコ(ジーノ・サルタマレンダ)ら、生活に苦しむ仲間たちの温かい友情が描かれているのも救い。
真面目だけが取り柄で、仕事が見つかって有頂天になり、挙句に自転車を盗まれてしまう、見るからにお人好しで少々頼りない男をランベルト・マジョラーニが好演。そんな父親によく似た、人懐こいアントニオの子供らしさも良く、手を繋ぎ合う父子愛がじんわり伝わってくる。 (評価:3)
製作国:イギリス
日本公開:1953年8月7日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:グレアム・グリーン 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:ウィリアム・オルウィン
キネマ旬報:4位
嘘と真実の狭間で翻弄される少年の健気な姿がいい
原題"The Fallen Idol"で、邦題の意。グレアム・グリーンの短編小説"The Basement Room"(地下室)が原作。
ロンドンにある某国大使館が舞台で、大使の幼い息子フェリッペ(ボビー・ヘンリー)が、彼にとっての偶像である執事ベインズ(ラルフ・リチャードソン)のために、嘘と真実の狭間で翻弄される姿を描く。
フェリッペにとって、アフリカでの冒険譚を聞かせてくれる執事ベインズは英雄だが、それが作り話だとは知らない。対してベインズ夫人(ソニア・ドレスデル)は小煩い現実主義者で、フェリッペが嫌っているばかりでなく夫とも不仲で、夫は若いタイピストのジュリー(ミシェル・モルガン)と不倫している。
大使夫妻の留守中、デートをフェリッペに目撃されたベインズは姪だと嘘をつき、夫人には秘密にするよう約束する。一方、夫を疑う夫人はフェリッペの嘘を見破り、浮気を知ったことを夫には秘密にするよう約束する。
その結果、双方との約束を守るためにフェリッペは双方に嘘をつかざるを得なくなるが、ベインズとの仲が夫人にバレたことを知ったジュリーだけはフェリッペに秘密にする約束をせず、フェリッペが更に嘘をつくことになる事態を免れる。
その夜、夫人の策略に掛かったべインズはジュリーとの浮気の現場を押さえられてしまうが、事故から夫人が転落死してしまう。
べインズはジュリーとの不倫を隠すために嘘をついて刑事に殺害を疑われ、フェリッペは勘違いからべインズが殺したと思い込み、べインズを守るために嘘をついて却ってべインズを窮地に陥れる。
事態を救うのはジュリーで、刑事に真実を告げ、フェリッペにも本当のことを話すように言う。べインズは無罪放免となるが、フェリッペはべインズが殺したと勘違いしたままで、真実を刑事に話そうとするが嘘つき少年と相手にされないままに終わる。
信義のために嘘をつくことが正しいか、それとも真実を告げるのが正しいかという問題を純真無垢な子供を通して描くもので、真実こそが正義という結論。若干割り切れなさの残るラストだが、死んだべインズ夫人が嫌な女なので後味の悪さはない。
フェリッペを演じるボビー・ヘンリーの健気な姿がいい。 (評価:3)
日本公開:1953年8月7日
監督:キャロル・リード 製作:キャロル・リード 脚本:グレアム・グリーン 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:ウィリアム・オルウィン
キネマ旬報:4位
原題"The Fallen Idol"で、邦題の意。グレアム・グリーンの短編小説"The Basement Room"(地下室)が原作。
ロンドンにある某国大使館が舞台で、大使の幼い息子フェリッペ(ボビー・ヘンリー)が、彼にとっての偶像である執事ベインズ(ラルフ・リチャードソン)のために、嘘と真実の狭間で翻弄される姿を描く。
フェリッペにとって、アフリカでの冒険譚を聞かせてくれる執事ベインズは英雄だが、それが作り話だとは知らない。対してベインズ夫人(ソニア・ドレスデル)は小煩い現実主義者で、フェリッペが嫌っているばかりでなく夫とも不仲で、夫は若いタイピストのジュリー(ミシェル・モルガン)と不倫している。
大使夫妻の留守中、デートをフェリッペに目撃されたベインズは姪だと嘘をつき、夫人には秘密にするよう約束する。一方、夫を疑う夫人はフェリッペの嘘を見破り、浮気を知ったことを夫には秘密にするよう約束する。
その結果、双方との約束を守るためにフェリッペは双方に嘘をつかざるを得なくなるが、ベインズとの仲が夫人にバレたことを知ったジュリーだけはフェリッペに秘密にする約束をせず、フェリッペが更に嘘をつくことになる事態を免れる。
その夜、夫人の策略に掛かったべインズはジュリーとの浮気の現場を押さえられてしまうが、事故から夫人が転落死してしまう。
べインズはジュリーとの不倫を隠すために嘘をついて刑事に殺害を疑われ、フェリッペは勘違いからべインズが殺したと思い込み、べインズを守るために嘘をついて却ってべインズを窮地に陥れる。
事態を救うのはジュリーで、刑事に真実を告げ、フェリッペにも本当のことを話すように言う。べインズは無罪放免となるが、フェリッペはべインズが殺したと勘違いしたままで、真実を刑事に話そうとするが嘘つき少年と相手にされないままに終わる。
信義のために嘘をつくことが正しいか、それとも真実を告げるのが正しいかという問題を純真無垢な子供を通して描くもので、真実こそが正義という結論。若干割り切れなさの残るラストだが、死んだべインズ夫人が嫌な女なので後味の悪さはない。
フェリッペを演じるボビー・ヘンリーの健気な姿がいい。 (評価:3)
イースター・パレード
日本公開:1950年2月14日
監督:チャールズ・ウォルターズ 製作:アーサー・フリード 脚本:フランセス・グッドリッチ、アルバート・ハケット、シドニー・シェルダン 撮影:ハリー・ストラドリング 美術:セドリック・ギボンズ、ジャック・マーティン・スミス 音楽:ジョニー・グリーン、アーヴィング・バーリン
原題"Easter Parade"で、復活祭に行われるイベントの一つ。
ブロードウェイが舞台。人気ダンサーのドン・ヒューズ(フレッド・アステア)は、パートナーのナディーン(アン・ミラー)をジーグフェルドに引き抜かれ、相方は誰にでも務まると見返すために酒場の踊子のハンナ(ジュディ・ガーランド)をスカウトして特訓。ところが初演を見たナディーンに、ハンナに私の真似をさせているだけだと言われて誤りに気づき、ハンナの個性を引き出すことに方針転換。ジーグフェルドから声が掛かり、ナディーンと2枚看板のステージに出演、大成功を収めるという物語。
このハンナとチャップリンのようなお揃いの格好で踊る"We're a Couple of Swells"がコミカルで楽しく、踊りの下手なハンナとのダンスなど、二人のバラエティ豊かな踊りが楽しめるのが大きな見どころ。
冒頭でアステアが一人で打楽器を使いながらタップを踏むダンス、ガーランドの美声とそれぞれの持ち味が引き出されているのもいい演出。スローモーションとの合成もいい。
二人の恋物語も織り込まれていて、最後は雨降って地固まるの定番。イースター・パレードに始まり翌年のイースター・パレードで終わるが、ドンがハンナに約束した通り、1年後のハンナはパレードの主役となるという、物語にイースターは絡まないが、ラストできちんとタイトルに落としている。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1949年5月24日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:ヘンリー・ブランク 脚本:ジョン・ヒューストン 撮影:テッド・マッコード 音楽:マックス・スタイナー、レオ・F・フォーブステイン
キネマ旬報:8位
ゴールデングローブ作品賞
今のアメリカ人に見せたいピューリタニカルな作品
原題"The Treasure of the Sierra Madre"で、シエラ・マドレの宝の意。B.トレヴンの同名小説が原作。
1920年代のメキシコが舞台。港町タンピコで仕事にあぶれていたアメリカ人の男ダブズ(ハンフリー・ボガート)が、金鉱掘りの老人(ウォルター・ヒューストン)と知り合い、もう一人の男(ティム・ホルト)とともに3人で一攫千金を狙って金鉱探しに出かけるという物語。
最初に老人が金鉱掘りの因果を含める場面があって、人間の欲深さと、その欲深さが友人を失い自らを破滅させることになると諭す。ほかの二人は自分たちにはそんなことはないと言って出かけることになるが、ハンフリー・ボガートが早くも欲深さの兆候を見せ始める。3人は金鉱探しに成功し一財産築けるだけの砂金を手に入れ、老人の戒めもあって山を下山することになる。
老人は金鉱掘りの経験の中から真の幸福を知る人格者で、下山途中、病気のインディオを助けたことから一人だけ下山が遅れる。老人の枷が外れたハンフリー・ボガートは砂金を独り占めしようとしてティム・ホルトを傷つけ、町に向かう途中山賊に殺されてしまう。
ティム・ホルトはインディオに助けられて老人と再会、山賊が砂金をただの砂と思って捨てた場所に行ってみると・・・というのが大筋で、ラストは当時のアメリカ映画らしいピューリタニカルなオチとなっている。
アメリカンドリームとは正反対の物質主義がもたらす不幸と勤勉こそが大切という、ウォール街や金の亡者となっている現在のアメリカ人に見せたい作品で、いわゆる教訓話なのだが、老人を演じるウォルター・ヒューストンのアカデミー助演男優賞の名演もあって嫌味なく見られるのがいい。
監督のジョン・ヒューストンはウォルター・ヒューストンの息子。 (評価:2.5)
日本公開:1949年5月24日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:ヘンリー・ブランク 脚本:ジョン・ヒューストン 撮影:テッド・マッコード 音楽:マックス・スタイナー、レオ・F・フォーブステイン
キネマ旬報:8位
ゴールデングローブ作品賞
原題"The Treasure of the Sierra Madre"で、シエラ・マドレの宝の意。B.トレヴンの同名小説が原作。
1920年代のメキシコが舞台。港町タンピコで仕事にあぶれていたアメリカ人の男ダブズ(ハンフリー・ボガート)が、金鉱掘りの老人(ウォルター・ヒューストン)と知り合い、もう一人の男(ティム・ホルト)とともに3人で一攫千金を狙って金鉱探しに出かけるという物語。
最初に老人が金鉱掘りの因果を含める場面があって、人間の欲深さと、その欲深さが友人を失い自らを破滅させることになると諭す。ほかの二人は自分たちにはそんなことはないと言って出かけることになるが、ハンフリー・ボガートが早くも欲深さの兆候を見せ始める。3人は金鉱探しに成功し一財産築けるだけの砂金を手に入れ、老人の戒めもあって山を下山することになる。
老人は金鉱掘りの経験の中から真の幸福を知る人格者で、下山途中、病気のインディオを助けたことから一人だけ下山が遅れる。老人の枷が外れたハンフリー・ボガートは砂金を独り占めしようとしてティム・ホルトを傷つけ、町に向かう途中山賊に殺されてしまう。
ティム・ホルトはインディオに助けられて老人と再会、山賊が砂金をただの砂と思って捨てた場所に行ってみると・・・というのが大筋で、ラストは当時のアメリカ映画らしいピューリタニカルなオチとなっている。
アメリカンドリームとは正反対の物質主義がもたらす不幸と勤勉こそが大切という、ウォール街や金の亡者となっている現在のアメリカ人に見せたい作品で、いわゆる教訓話なのだが、老人を演じるウォルター・ヒューストンのアカデミー助演男優賞の名演もあって嫌味なく見られるのがいい。
監督のジョン・ヒューストンはウォルター・ヒューストンの息子。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1948年12月28日
監督:ジュールス・ダッシン 製作:マーク・ヘリンジャー 脚本:アルバート・マルツ、マルヴィン・ウォルド 撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ 音楽:ミクロス・ローザ、フランク・スキナー
キネマ旬報:5位
空撮のマンハッタンや地下鉄などオールロケの映像も見どころ
原題"The Naked City"で、邦題の意。
ニューヨークが舞台で、タイトルは虚飾に彩られたこの街の灯りに吸い寄せられる人々の生の姿という意味。マンハッタンの高層ビル群の空撮から始まり、新聞記者出身で製作者のマーク・ヘリンジャーによるナレーションで、本作がニューヨーカーの協力の下、オールロケで撮影されたという説明が入る。
作品は説明通りにドキュメンタリータッチで描かれ、殺人事件を捜査する刑事たちを通して、ニューヨークの街の様々な顔と様々な人々を点描することで、この街の虚実をリアルに描き出す。
マンハッタンの西83丁目のアパートで若い娘が殺され、家政婦、管理人、男友達、親友、医師、両親と事情聴取が行われる中で、その娘が都会に憧れてニューヨークに上京、洋品店のモデルをしながら奢侈な生活を望み、その生活を手に入れようとしていたという背景が描かれていく。
ヘリンジャーは彼女がそうしたニューヨーカー800万人の一つの類型であり、同時に800万人のそれぞれの物語が存在すると締め括るが、被害者であり、かつ加害者でもある彼女の哀しい人生とともに、犯罪捜査の描写はとてもよくできていて、刑事たちの証拠集めや聞き込みなどもリアルで、ドキュメンタリーのような気にさせる。
犯罪映画としてもよくできたシナリオで、ミステリーとしても十分に楽しめる作品。
満員の地下鉄なども出てくるオールロケのニューヨークの映像も見どころで、モノクロ部門のアカデミー撮影賞を受賞している。 (評価:2.5)
日本公開:1948年12月28日
監督:ジュールス・ダッシン 製作:マーク・ヘリンジャー 脚本:アルバート・マルツ、マルヴィン・ウォルド 撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ 音楽:ミクロス・ローザ、フランク・スキナー
キネマ旬報:5位
原題"The Naked City"で、邦題の意。
ニューヨークが舞台で、タイトルは虚飾に彩られたこの街の灯りに吸い寄せられる人々の生の姿という意味。マンハッタンの高層ビル群の空撮から始まり、新聞記者出身で製作者のマーク・ヘリンジャーによるナレーションで、本作がニューヨーカーの協力の下、オールロケで撮影されたという説明が入る。
作品は説明通りにドキュメンタリータッチで描かれ、殺人事件を捜査する刑事たちを通して、ニューヨークの街の様々な顔と様々な人々を点描することで、この街の虚実をリアルに描き出す。
マンハッタンの西83丁目のアパートで若い娘が殺され、家政婦、管理人、男友達、親友、医師、両親と事情聴取が行われる中で、その娘が都会に憧れてニューヨークに上京、洋品店のモデルをしながら奢侈な生活を望み、その生活を手に入れようとしていたという背景が描かれていく。
ヘリンジャーは彼女がそうしたニューヨーカー800万人の一つの類型であり、同時に800万人のそれぞれの物語が存在すると締め括るが、被害者であり、かつ加害者でもある彼女の哀しい人生とともに、犯罪捜査の描写はとてもよくできていて、刑事たちの証拠集めや聞き込みなどもリアルで、ドキュメンタリーのような気にさせる。
犯罪映画としてもよくできたシナリオで、ミステリーとしても十分に楽しめる作品。
満員の地下鉄なども出てくるオールロケのニューヨークの映像も見どころで、モノクロ部門のアカデミー撮影賞を受賞している。 (評価:2.5)
製作国:イギリス
日本公開:1950年3月14日
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 製作:マイケル・パウエル 脚本:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:5位
見せ場のバレエシーンと音楽が今ひとつなのが残念
原題"The Red Shoes"で、アンデルセンの童話『赤い靴』(De røde Sko)をモチーフにしたバレリーナの物語。
バレエ団の団長(アントン・ウォルブルック)に才能を見出された娘ヴィッキー(モイラ・シアラー)は、同じく団長に見出された座付きの新人作曲家ジュリアンの新作バレエ『赤い靴』でデビューを飾り成功する。
このきっかけとなるのが、前任プリマが結婚したために団長の逆鱗に触れて退団させられたことで、物語の後半の伏線となる。ヴィッキーはバレエ一筋に生きることを団長に誓約させられるものの、ジュリアンと恋に落ちて二者択一を迫られる。
アンデルセンの『赤い靴』では、主人公の娘は赤い靴を履いて死ぬまで踊り続ける呪いをかけられ、これが恋を捨てて死ぬまでバレエを続けなければならないヴィッキーの運命と対比される。童話では娘は両足を切って呪いから逃れるが、恋とバレエの板挟みになったヴィッキーにも同様の悲劇が用意される。もっともそのラストには、そこまでしなくてもというのが率直な感想。
ストーリーそのものはなかなかよくできていて飽きさせず、ヴィッキーを演じるモイラ・シアラーも才色兼備のバレリーナで、劇中でもバレエシーンを披露してくれるが、見せ場として用意されたバレエ『赤い靴』初演のシーンは今ひとつ迫力と艶やかさに欠けるところがあって、長い割にはいささか退屈。
素晴らしいと讃えられるジュリアン作曲の音楽が今ひとつなのも残念なところ。 (評価:2.5)
日本公開:1950年3月14日
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 製作:マイケル・パウエル 脚本:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:ブライアン・イースデイル
キネマ旬報:5位
原題"The Red Shoes"で、アンデルセンの童話『赤い靴』(De røde Sko)をモチーフにしたバレリーナの物語。
バレエ団の団長(アントン・ウォルブルック)に才能を見出された娘ヴィッキー(モイラ・シアラー)は、同じく団長に見出された座付きの新人作曲家ジュリアンの新作バレエ『赤い靴』でデビューを飾り成功する。
このきっかけとなるのが、前任プリマが結婚したために団長の逆鱗に触れて退団させられたことで、物語の後半の伏線となる。ヴィッキーはバレエ一筋に生きることを団長に誓約させられるものの、ジュリアンと恋に落ちて二者択一を迫られる。
アンデルセンの『赤い靴』では、主人公の娘は赤い靴を履いて死ぬまで踊り続ける呪いをかけられ、これが恋を捨てて死ぬまでバレエを続けなければならないヴィッキーの運命と対比される。童話では娘は両足を切って呪いから逃れるが、恋とバレエの板挟みになったヴィッキーにも同様の悲劇が用意される。もっともそのラストには、そこまでしなくてもというのが率直な感想。
ストーリーそのものはなかなかよくできていて飽きさせず、ヴィッキーを演じるモイラ・シアラーも才色兼備のバレリーナで、劇中でもバレエシーンを披露してくれるが、見せ場として用意されたバレエ『赤い靴』初演のシーンは今ひとつ迫力と艶やかさに欠けるところがあって、長い割にはいささか退屈。
素晴らしいと讃えられるジュリアン作曲の音楽が今ひとつなのも残念なところ。 (評価:2.5)
アパッチ砦
日本公開:1953年1月15日
監督:ジョン・フォード 製作:ジョン・フォード、メリアン・C・クーパー 脚本:フランク・ニュージェント 撮影:アーチー・スタウト 音楽:リチャード・ヘイグマン
原題"Fort Apache"で、邦題の意。カスターの第七騎兵隊が全滅したリトルビッグホーンの戦いがモデル。
南北戦争で失策した将軍(ヘンリー・フォンダ)が中佐に降格され、娘とともにアパッチ砦の指揮官に左遷されるところから物語は始まる。軍功を挙げて中央に戻る野心があからさまな中佐は、アパッチ砦の実情を把握している古参の士官たちを退け、新任の若いオローク中尉に命じて綱紀粛清、指揮官への絶対服従を徹底する。
軍事物資輸送の駅馬車が襲撃されたことから、古参のヨーク大尉(ジョン・ウェイン)は、アパッチ族との和睦を話し合うが、中佐はそれを押し切ってインディアンの殲滅を命じ、騎兵隊の総攻撃となる。ところがアパッチの待ち伏せにあって部隊は全滅、中佐も玉砕する。
中佐の強硬策が招いた悲劇にも拘らず、アパッチと果敢に戦って命を落としたと新聞は中佐を英雄視。モデルとなったカスターとそれを祭り上げる人々への皮肉をジョン・フォードは覚めた目で描く。
これに中佐の娘とオローク中尉の恋物語を絡ませ、スピード感あふれる戦闘シーンとコミカルな寸劇で西部劇として楽しめる作品にしている。
もっとも中佐率いる騎兵隊がインディアンのように奇声を上げて猪突猛進する戦いぶりは余りに知恵がなく、カスターの無能ぶりを意図的に演出したものか? 戦闘後の和議でアパッチが砂煙と共に去っていく映像がいい。
本作では先住民よりも白人の方が悪者に描かれ、ジョン・フォードらしさが出ているが、ヘンリー・フォンダがタカ派で、ジョン・ウェインが先住民に理解を示すハト派というのも、今見ると皮肉が利いている。
中佐の娘を演じるシャーリー・テンプルが可愛い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1949年4月26日
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:ハリエット・パーソンズ 脚本:ドゥウィット・ボディーン 撮影:ニコラス・ムスラカ 音楽:ロイ・ウェッブ
キネマ旬報:3位
物ではなく心で支え合う家族を描く20世紀ノスタルジア
原題"I Remember Mama"。ジョン・ヴァン・ドルーテンの同名戯曲の映画化で、キャスリン・フォーブスの自伝的小説"Mama's Bank Account"(ママの銀行口座)が原作。
サンフランシスコに住むノルウェー移民の一家の話で、長女カトリンの目を通して家族思いのママを描く。作家志望のカトリンが終盤、流行作家の助言を得たママの提案でパパを題材に小説を書くことになるが、真面目だが面白味のないパパでは話が書けず、個性的なママの話を書くことになる。
それを枠として小説に書かれたママの話となるが、プロローグは家族がテーブルを囲みママがパパの給料を家賃、靴の修理代云々と支出別に仕分けていくシーンから始まる。支出が給料で賄えてママの銀行預金を下ろさずに済んだと胸を撫で下ろすが、これが実は子供たちを安心させるための嘘っ八だというラストに繋がる。
叔母の結婚、末妹の入院、家賃を払わない下宿人、主人公の卒業、大叔父の死、カトリンの作家デビューとエピソードが綴られ、個性的なキャラクターが登場してホロリとさせるよくできた話なのだが、肝腎のママが今一つ。
家族思いでやりくり上手のしっかり者の一方、パパを甲斐性なしに貶め、過剰な愛情から病院に迷惑をかけ、カトリンのためにお節介を焼くという、長所も短所もある個性的な母親なのだが、アイリーン・ダンの演技力のせいか、善人なだけで人間味のあるキャラクターになっていない。
威張り屋の伯母、愚痴っぽい伯母、気弱な叔母、豪快な大叔父、インテリの下宿人とステレオタイプだが個性的な脇役が登場する人情コメディで、ノルウェーの移民たちの物語としても興味深い。
カトリンの卒業祝いに、ママが大切な祖母の形見のブローチを手放して化粧セットを購入するが、それを知ったカトリンが化粧セットを返品してブローチを買い戻し、それをママから譲り受けるエピソードが泣かせる。
家族が物ではなく心で支え合うという、貧しい時代の温かな家族の有り様を描くが、今となれば遠い過去となった20世紀のほろ苦さが懐かしい。 (評価:2.5)
日本公開:1949年4月26日
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:ハリエット・パーソンズ 脚本:ドゥウィット・ボディーン 撮影:ニコラス・ムスラカ 音楽:ロイ・ウェッブ
キネマ旬報:3位
原題"I Remember Mama"。ジョン・ヴァン・ドルーテンの同名戯曲の映画化で、キャスリン・フォーブスの自伝的小説"Mama's Bank Account"(ママの銀行口座)が原作。
サンフランシスコに住むノルウェー移民の一家の話で、長女カトリンの目を通して家族思いのママを描く。作家志望のカトリンが終盤、流行作家の助言を得たママの提案でパパを題材に小説を書くことになるが、真面目だが面白味のないパパでは話が書けず、個性的なママの話を書くことになる。
それを枠として小説に書かれたママの話となるが、プロローグは家族がテーブルを囲みママがパパの給料を家賃、靴の修理代云々と支出別に仕分けていくシーンから始まる。支出が給料で賄えてママの銀行預金を下ろさずに済んだと胸を撫で下ろすが、これが実は子供たちを安心させるための嘘っ八だというラストに繋がる。
叔母の結婚、末妹の入院、家賃を払わない下宿人、主人公の卒業、大叔父の死、カトリンの作家デビューとエピソードが綴られ、個性的なキャラクターが登場してホロリとさせるよくできた話なのだが、肝腎のママが今一つ。
家族思いでやりくり上手のしっかり者の一方、パパを甲斐性なしに貶め、過剰な愛情から病院に迷惑をかけ、カトリンのためにお節介を焼くという、長所も短所もある個性的な母親なのだが、アイリーン・ダンの演技力のせいか、善人なだけで人間味のあるキャラクターになっていない。
威張り屋の伯母、愚痴っぽい伯母、気弱な叔母、豪快な大叔父、インテリの下宿人とステレオタイプだが個性的な脇役が登場する人情コメディで、ノルウェーの移民たちの物語としても興味深い。
カトリンの卒業祝いに、ママが大切な祖母の形見のブローチを手放して化粧セットを購入するが、それを知ったカトリンが化粧セットを返品してブローチを買い戻し、それをママから譲り受けるエピソードが泣かせる。
家族が物ではなく心で支え合うという、貧しい時代の温かな家族の有り様を描くが、今となれば遠い過去となった20世紀のほろ苦さが懐かしい。 (評価:2.5)
製作国:フランス
日本公開:1949年7月22日
監督:ジャン・コクトー 製作:アレクサンドル・ムヌーシュキン 脚本:ジャン・コクトー 撮影:ミシェル・ケルベ 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:7位
J・マレー演じるマザコン青年がトコトン馬鹿に見える
原題"Les Parents Terribles"で、邦題の意。ジャン・コクトー自身の同名戯曲が原作。
22歳になる一人息子ミシェル(ジャン・マレー)を溺愛する母イヴォンヌ(イヴォンヌ・ド・ブレー)という、マザコン青年を描く「冬彦さん」ものだが、フランスでは新しいようで古くからあったテーマなのか、よくわからない。
そんな青年に恋人ができ、母に紹介しようとするものの猛反対に会い、困って父ジョルジュ(マルセル・アンドレ)に相談するが、その彼女というのが父がアパートに囲っている愛人マドレーヌ(ジョゼット・デイ)というのがアイディアで、父は同居する妻の姉レオ(ガブリエル・ドルジア)に相談すると、ミシェルを傷つけずにマドレーヌと別れさせる秘策を授けるという、シチュエーション・コメディになっている。
さらにレオはジョルジュを愛していて、妹のために仕方なく譲ったという過去があり、ミシェルが生まれてから夫を顧みないイヴォンヌに愛想を尽かしているという、こんがらがった状況にある。
レオの策略は成功して、ミシェルとマドレーヌは別れることになるが、あばずれだと思っていたマドレーヌが意外に清純だったことでレオは反省し、二人の仲を取り持つことに方針転換。
ミシェルに逃げられ、夫にも裏切られたことを知ったイヴォンヌは自分が邪魔ものだと気づいて自殺。レオの本当の策略は妻とも愛人とも手を切らせて、ジョルジュを手に入れることでしたというオチ。コクトーの女房族に対する皮肉か?
それにしても、何も知らずにマドレーヌを手に入れて喜ぶミシェルがトコトン馬鹿に見える。 (評価:2.5)
日本公開:1949年7月22日
監督:ジャン・コクトー 製作:アレクサンドル・ムヌーシュキン 脚本:ジャン・コクトー 撮影:ミシェル・ケルベ 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:7位
原題"Les Parents Terribles"で、邦題の意。ジャン・コクトー自身の同名戯曲が原作。
22歳になる一人息子ミシェル(ジャン・マレー)を溺愛する母イヴォンヌ(イヴォンヌ・ド・ブレー)という、マザコン青年を描く「冬彦さん」ものだが、フランスでは新しいようで古くからあったテーマなのか、よくわからない。
そんな青年に恋人ができ、母に紹介しようとするものの猛反対に会い、困って父ジョルジュ(マルセル・アンドレ)に相談するが、その彼女というのが父がアパートに囲っている愛人マドレーヌ(ジョゼット・デイ)というのがアイディアで、父は同居する妻の姉レオ(ガブリエル・ドルジア)に相談すると、ミシェルを傷つけずにマドレーヌと別れさせる秘策を授けるという、シチュエーション・コメディになっている。
さらにレオはジョルジュを愛していて、妹のために仕方なく譲ったという過去があり、ミシェルが生まれてから夫を顧みないイヴォンヌに愛想を尽かしているという、こんがらがった状況にある。
レオの策略は成功して、ミシェルとマドレーヌは別れることになるが、あばずれだと思っていたマドレーヌが意外に清純だったことでレオは反省し、二人の仲を取り持つことに方針転換。
ミシェルに逃げられ、夫にも裏切られたことを知ったイヴォンヌは自分が邪魔ものだと気づいて自殺。レオの本当の策略は妻とも愛人とも手を切らせて、ジョルジュを手に入れることでしたというオチ。コクトーの女房族に対する皮肉か?
それにしても、何も知らずにマドレーヌを手に入れて喜ぶミシェルがトコトン馬鹿に見える。 (評価:2.5)
メロディ・タイム
日本公開:劇場未公開
監督:クライド・ジェロニミ、ウィルフレッド・ジャクソン、ジャック・キニー、ハミルトン・ラスケ 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:ウィンストン・ヒブラー、アードマン・ペナー、ハリー・リーヴズ、ホーマー・ブライトマン、ケン・アンダーソン、テッド・シアーズ、ジョー・リナルディ、ウィリアム・コトレル、アート・スコット、ジェシー・マーシュ、ボブ・ムーア、ジョン・ウォルブリッジ、ハーディ・グラマトキー 撮影:ウィントン・C・ホック 音楽:エリオット・ダニエル、ポール・J・スミス
原題"Melody Time"。7つの楽曲を使ったミニ・ミュージカル・アニメーションのオムニバス。
テーマ曲"Once upon a wintertime"(冬のひと時)の歌に乗せてスケートをするカップル。リムスキー=コルサコフ「熊蜂の飛行」のジャズ・アレンジに合わせた熊蜂のショートアニメ"Bumble Boogie"(ブンブン・ブギ)。アメリカ西部開拓時代の開拓者の物語"The Legend of Johnny Appleseed"(ジョニー・アップルシードの伝説)。同名絵本が原作で、子供のタグボートの奮闘を描く"Little Toot"(小さなトート)。同名の詩の朗読に音楽と一本の木を季節の変化を描くアニメーション"Trees"。サンバに乗せてドナルドダックらが踊る"Blame it on the Samba"(サンバのせい)。コヨーテに育てられた伝説のカウボーイ、ペコス・ビルの物語"Pecos Bill"。
クラシック音楽をアニメーションにした『ファンタジア』(1940)の重厚さとは正反対に、ポピュラー音楽をアニメーションにしたポップなエンタテイメントが楽しい。各パートを担当したアニメーターたちによる、それぞれが描きたいものに対する熱意が伝わってきて、CGなどのテクニカルな表現やポピュリズムに走る現代のアニメーターたちが失ったものを思い出させてくれる。 (評価:2.5)
ドイツ零年
日本公開:1952年6月7日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:ロベルト・ロッセリーニ 脚本:ロベルト・ロッセリーニ、カルロ・リッツァーニ、マックス・コルペ 撮影:ロベール・ジュイヤール 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
原題"Germania anno zero"で、邦題の意。
ベルリンを舞台に敗戦後のドイツを描いた作品で、多くの登場人物同様、台詞のほとんどがドイツ語となっている。 主人公は実直な元教師を父に持つ少年エドモンドで、病気の父、元ナチ党員で家に隠れる兄に代り、一家の生活費を稼ぐために奔走する。父の嫌う闇市や常習窃盗の浮浪児グループに出入りし、ナチ残党の元教師の禁制品の販売を手伝って小遣いを稼ぐ。
弱い者は滅ぼされるべきという元教師の言葉を真に受けたエドモンドは、家族のお荷物になっている父に毒を盛り死なせ、兄が警察に連行されたのを機に家を出る。罪の重さと現実に絶望したエドモンドは廃墟のビルから飛び降りるというラスト。
イタリアの敗戦後を描いた『戦火のかなた』(1946)に続いて、ドイツの敗戦後の荒廃を描くが、配給だけでなく、シェアハウスながらも住居を提供され、電気使用量の制限を受けるといった市民生活がドイツらしくて興味深い。
廃墟のベルリンの様子が垣間見られ、イタリア、ドイツの敗戦国の悲惨な姿を敗戦国の市民の立場から描いたという点で、意味のあるネオレアリズモの作品となっている。もう一つ、日本の敗戦の様子もロッセリーニの目から描いてほしかった。 (評価:2.5)
製作国:フランス
日本公開:1950年9月1日
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ミシェル・フェリ 撮影:アルマン・ティラール 音楽:ポール・ミスラキ
キネマ旬報:2位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
マノンに翻弄されるロベールが究極のアホに見える
原題"Manon"で、登場人物の名。アベ・プレヴォーの小説"Manon Lescaut"が原作。
男を破滅させる女、魔性の女を描いた作品で、舞台はパリ解放後のフランス。物語はパレスチナを目指すユダヤ人を乗せた密航船から始まる。
この船に無断乗船したのがフランス人の主人公ロベール(ミシェル・オークレール)と恋人マノン(セシル・オーブリー)で、その経緯を回想形式で語る。
戦時中ドイツ兵相手の娼婦だったマノンは、丸刈りになりそうなところをレジスタンスのロベールに助けられ、ロベールを籠絡、二人でパリの兄レオン(セルジュ・レジアニ)の下に向かう。この兄が戦後の混乱に乗じて闇商売や売春斡旋で儲けるワルで、マノンが処女だったと信じ込む初心なロベールを商売に巻き込む。
真っ当な暮らしをしたいロベールは故郷に帰ってマノンとの結婚を望むが、贅沢な暮らしがしたいマノンは受け付けず、二人は都会生活をエンジョイするが、彼女が運んでくる金の出所を探ると売春で稼いだ金だとわかる。おまけにマノンは兄の手引きで金持ちのアメリカ兵と結婚して渡米するという。
失意のロベールはレオンを殺害。逃亡するのをマノンが追いかけ、二人で国外逃亡を図ったところで回想終わり。
同情した密航船の船長がユダヤ人と一緒に逃がしてやるが、エンドマークとはならずにエルサレム目指してシナイ半島の荒れ地を延々と旅する話に変わる。ユダヤ人はアラブ人に襲撃されて全滅。マノンも死んでしまうが、その死体を砂に埋めながら、漸くマノンは俺のものになったで終わる。
マノン役のセシル・オーブリーが肉感的という一点で持っていて、魔性の女にも成りきってなく、平気で人を騙す贅沢好きの性悪女でしかないのに、それに翻弄されるロベールが究極のアホに見えてしまうのがツライ。
二人が惹かれ合うのが説得力に欠け、尻軽のマノンが最後にロベールに尽くすのも理解できない。
悲恋というよりは自業自得で、マノンを手に入れたと思うロベールは心底可哀想な奴にしか見えない。
船を下りてからのエピソードが蛇足で退屈。下船でハッピーエンドにした方が良かった。 (評価:2.5)
日本公開:1950年9月1日
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ミシェル・フェリ 撮影:アルマン・ティラール 音楽:ポール・ミスラキ
キネマ旬報:2位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Manon"で、登場人物の名。アベ・プレヴォーの小説"Manon Lescaut"が原作。
男を破滅させる女、魔性の女を描いた作品で、舞台はパリ解放後のフランス。物語はパレスチナを目指すユダヤ人を乗せた密航船から始まる。
この船に無断乗船したのがフランス人の主人公ロベール(ミシェル・オークレール)と恋人マノン(セシル・オーブリー)で、その経緯を回想形式で語る。
戦時中ドイツ兵相手の娼婦だったマノンは、丸刈りになりそうなところをレジスタンスのロベールに助けられ、ロベールを籠絡、二人でパリの兄レオン(セルジュ・レジアニ)の下に向かう。この兄が戦後の混乱に乗じて闇商売や売春斡旋で儲けるワルで、マノンが処女だったと信じ込む初心なロベールを商売に巻き込む。
真っ当な暮らしをしたいロベールは故郷に帰ってマノンとの結婚を望むが、贅沢な暮らしがしたいマノンは受け付けず、二人は都会生活をエンジョイするが、彼女が運んでくる金の出所を探ると売春で稼いだ金だとわかる。おまけにマノンは兄の手引きで金持ちのアメリカ兵と結婚して渡米するという。
失意のロベールはレオンを殺害。逃亡するのをマノンが追いかけ、二人で国外逃亡を図ったところで回想終わり。
同情した密航船の船長がユダヤ人と一緒に逃がしてやるが、エンドマークとはならずにエルサレム目指してシナイ半島の荒れ地を延々と旅する話に変わる。ユダヤ人はアラブ人に襲撃されて全滅。マノンも死んでしまうが、その死体を砂に埋めながら、漸くマノンは俺のものになったで終わる。
マノン役のセシル・オーブリーが肉感的という一点で持っていて、魔性の女にも成りきってなく、平気で人を騙す贅沢好きの性悪女でしかないのに、それに翻弄されるロベールが究極のアホに見えてしまうのがツライ。
二人が惹かれ合うのが説得力に欠け、尻軽のマノンが最後にロベールに尽くすのも理解できない。
悲恋というよりは自業自得で、マノンを手に入れたと思うロベールは心底可哀想な奴にしか見えない。
船を下りてからのエピソードが蛇足で退屈。下船でハッピーエンドにした方が良かった。 (評価:2.5)
アンナ・カレニナ
日本公開:1951年9月11日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 製作:アレクサンダー・コルダ 脚本:ジャン・アヌイ、ガイ・モーガン、ジュリアン・デュヴィヴィエ 撮影:アンリ・アルカン 音楽:コンスタント・ランバート
原題"Anna Karenina"。レフ・トルストイの小説"Анна Каренина"が原作。
アンナ・カレニナをヴィヴィアン・リーが演じる3回目の映画化で、不倫する将校ヴロンスキーをキーロン・ムーア、アンナの夫カレーニンをラルフ・リチャードソン、ヴロンスキーに恋するアンナの義妹キティをサリー・アン・ハウズが演じている。
イギリス俳優たちを使って、なぜデュヴィヴィエが監督? というのが最初の疑問で、ほぼヴィヴィアン・リーの美貌と演技力だけで持っている。
キーロン・ムーアの演技が大根で、アンナを一目見て、キティからやすやすと乗り換えてしまうが、ただ一心にアンナを見つめるだけの美男子以上のものがない。
夫への不満からヴロンスキーに次第に惹かれ、子供を捨てて駆け落ちするまでになるが、立場が入れ替わり、ヴロンスキーがアンナを遠ざけるようになってからのヴロンスキーに執着し惨めで情けない女になっていくヴィヴィアン・リーの演技がいい。
興行的には失敗作で、キーロン・ムーアは最悪の評価を受けたというのも頷けるが、人物やシーンが説明不足で全体に粗い。
体面のために寛容な夫を演じるラルフ・リチャードソンが貫録の演技。 (評価:2.5)
赤い河
日本公開:1951年12月21日
監督:ハワード・ホークス 製作:ハワード・ホークス 脚本:ボーデン・チェイス、チャールズ・シュニー 撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:ディミトリ・ティオムキン
原題"Red River"。ボーデン・チェイスの雑誌連載 "Blazing Guns on the Chisholm Trail"(チザム・トレイルに火を噴く銃)が原作。
北部テキサスのレッド・リバーからカンザス州アビリーンまでの牛の輸送路チザム・トレイルを開拓する物語。
1851年、テキサスで牛2頭から牧場経営を始めたダンソン(ジョン・ウェイン)は、友人のグルート(ウォルター・ブレナン)、養子のマシュウ(モンゴメリー・クリフト)とともに14年後、1万頭を飼育するまでに牧場を拡大する。しかし南北戦争の影響で買い手がいなくなり、サンタフェ・トレイルでミズーリ州まで牛を移動させて出荷するロングドライブを敢行。
ところが3か月にわたる辛い移動にカウボーイたちが根を上げ、マシュウがミズーリより近いアビリーンに鉄道が通ったという噂を聞いて進路変更を提案するが、ダンソンがこれを拒否。離反者を殺害したことからマシュウがダンソンを追放。アビリーンに到着して高値で牛を売ってロングドライブを成功させるが、追放されたダンソンが刺客と共にアビリーンにやってくる。
あわやというところで鉄火女(ジョアン・ドルー)が仲裁に入り、父と子が和解してアメリカ人好みの大団円となるが、ダンソンがそんな都合のいい男の物語では済まされないぼどの不快な暴力男で、こんなラストで良しとする制作者の人間性が哀しい。
そもそもの始めにこの土地は全部俺のものだと勝手に宣言。領有権を主張するメキシコ人を問答無用で殺すほどの悪党で、ロングドライブの始まりには他人の放牧牛にまで自分の烙印を押して平気の平左。インディアンは当たり前、逆らうカーボーイは虫けらのように殺すで、ジョン・ウェインにはまさに適役。
ジョン・フォードとは全く対極にある、ヒューマニズムの欠片もない独善的アメリカン・スピリッツの西部劇。荒野を駆ける大量の牛の群れの迫力がせめてもの見どころ。 (評価:2)
三人の名付親
日本公開:1953年5月20日
監督:ジョン・フォード 製作:ジョン・フォード、メリアン・C・クーパー 脚本:ローレンス・スターリングス、フランク・S・ニュージェント 撮影:ウィントン・C・ホック 音楽:リチャード・ヘイグマン
原題"3 Godfathers"で、邦題の意。ピーター・B・カインの小説"The Three Godfathers"が原作。
銀行強盗を働いた3人のならず者が、逃亡途中、死にかけた女に出会い、出産後に赤子と名付け親を託され、保安官に追われながら砂漠の中で次々と息絶え、最後の一人が赤子を無事町に届け、保安官に逮捕されるというもの。
子供を育てたこともない無頼の男たちが、水のない砂漠の中で必死に子育てをする人情噺というのがウリだが、主人公ボブのジョン・ウェインが人の好さそうな人情家には見えないため、ただ厄介者の赤子を運んでいるだけで、自らが生き延びようとしている風にしか見えない。
それに比べれば、ピート(ペドロ・アルメンダリス)の方が子供を預けられて右往左往する姿が良く演じられている。
もう一人のならず者キッドに、冒頭献辞が捧げられているハリー・ケリーの息子ハリー・ケリー・ジュニア、3人を追う精悍な保安官にワード・ボンド。 (評価:2)
田舎町の春
日本公開:劇場未公開
監督:費穆 脚本:李天済 撮影:李生偉 美術:池寧 音楽:池寧
原題"小城之春"で、小さな町の春の意。
中華人民共和国成立後の長江下流域の田舎が舞台。
日中戦争により半ば廃墟となった屋敷に暮らす、戴礼言(石羽)・周玉纹(韦伟)夫妻の家に、礼言の友人で医者の章志忱(李纬)がやってきて逗留する。志忱は玉纹の幼馴染で好き合う仲だったが、婚約しないままに志忱が故郷を離れてしまう。
玉纹は良家の礼言と結婚。しかし家督を失い、生きる勇気をなくした礼言は抜け殻のようになっていたが、志忱の来訪で精気を取り戻す。精気を取り戻すのは玉纹も一緒で、夫を愛していないと志忱に打ち明け、隠れて逢引するようになる。
ここからは望まぬ結婚をした女と元恋人との不倫の物語になるが、そこは共産中国なのでプラトニックな不倫が延々と描かれるために眠気を押さえるのに苦労するほどに退屈する。
費穆の演出は映像は詩的で情感たっぷりなのだが、24コマを8コマにしたいくらいにテンポが遅く、しかも舞台のような立ち芝居で演技も硬いために、眠気に拍車をかける。
二人は駆け落ちさえ言い出せず、話に飽きたから態度をはっきりしろと言いだしたくなるころに礼言が心臓発作で危うくなる。志忱の治療の甲斐あって一命をとりとめ、これまで妻として尽くしてきた玉纹は漸く妻の務めを思い出す。
何だ結局は儒教の物語かと落胆しつつ、共産中国でも儒教の五倫の教えは大切、そりゃ君臣の義が守られないと毛沢東も枕を高くして寝られないということだなと納得。
夫婦の別をわきまえた玉纹は夫に随い、朋友の信を思い出した志忱は礼言の屋敷を辞去するという共産中国のハッピーエンドに、中国には精神の自由は存在しないんだと眠気から覚醒したところで、終劇マークとなる。 (評価:2)
ジャンヌ・ダーク
日本公開:1950年6月17日
監督:ヴィクター・フレミング 製作:ウォルター・ウェンジャー 撮影:ウィントン・C・ホック、ジョセフ・ヴァレンタイン、ウィリアム・V・スコール 音楽:ヒューゴ・フリードホーファー
原題"Joan of Arc"で、邦題の意。フランス語表記は Jeanne d'Arc。マクスウェル・アンダーソンの戯曲"Joan of Lorraine"(ロレーヌのジャンヌ)の映画化。
神の啓示を受けたジャンヌ・ダルクが、フランス軍を率いてイングランドとの百年戦争を戦い、シャルル7世の戴冠に貢献、ブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、異端審問を受け処刑されるまでを描く。
目玉はジャンヌ・ダルクを演じるのがイングリッド・バーグマンで、冒頭より聖人として扱われるため、正統派美人効果と相まって、教会で聖女ジャンヌの生涯についての説教を聞いているような気分になる。
神憑り女はどうにもバーグマンに馴染まず、軍を率いる猛女にも違和感があって、いくら猛々しい雄たけびを上げてもどうにも似合わない。
歴史をダイジェストしているが背景の掘り下げや人間ドラマがあるわけでもなく、ハリウッドスターの美人ヒロインを英雄扱いするだけの無味乾燥な物語で、清く正しく美しく、最後は悲劇のヒロインに昇華させて終わる。
ジャンヌの生涯を知っていると、途中からドラマのないストーリーが退屈になってきて、はやく火刑にならないかと待ち遠しくなる、良くも悪くも教科書的な作品。 (評価:2)
ロープ
日本公開:1962年10月20日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:シドニー・バーンスタイン、アルフレッド・ヒッチコック 脚本:アーサー・ローレンツ 撮影:ジョセフ・ヴァレンタイン、ウィリアム・V・スコール 音楽:レオ・F・フォーブステイン
原題"Rope"。実在の事件をモデルにしたパトリック・ハミルトンの同名戯曲が原作。
ニューヨークに住む高学歴の若者二人、フィリップ(ファーリー・グレンジャー)とブラントン(ジョン・ドール)が、ニーチェの超人思想に感化され、完全犯罪を目的として友人デイヴィッドを殺すという特異な物語。完全犯罪を証明するため死体を入れたチェストをテーブルにして友人たちをパーティに招くが、正直どこが完全犯罪なのかよくわからない。
2人の恩師の哲学教授(ジェームズ・スチュワート)を招くが、わざわざ怪しげな言動をして見破られてしまうという、サスペンスとしてもお粗末な内容。かといってヒッチコックなので哲学的ドラマや人間ドラマになるわけもなく、今でいえば話題の猟奇事件で観客を呼び込もうとするゴシップ映画か。
内容的には駄作に近いが、見どころは撮影手法にあって、戯曲原作という特徴を生かして作品全体を1カットに収める挑戦をしている。もっとも当時のことゆえ1ロールのフィルムは10分余りで交換せざるを得ず、デジタル技術で繋ぐこともできないので、人や家具の影で暗転させて繋いでいる。それでもシナリオ的に収まらなかったのか、1か所カットの切り替わるところがあるのが惜しい。
殺人はロープによる絞殺で、証拠隠滅のためにゲストの一人に本をロープに縛って持ち帰らせる。この縛り方が悪いとフィリップが言うのが犯行発覚の一つになっているが、何が問題だったのかよくわからない。 (評価:2)
揺れる大地
日本公開:1990年1月6日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:サルボ・ダンジェロ 脚本:ルキノ・ヴィスコンティ 撮影:G・R・アルド 音楽:ウィリー・フェレーロ
原題"La terra trema: episodio del mare"で、大地の震え:海のエピソードの意。
シチリア島の貧しい漁村を舞台にした『蟹工船』のような映画で、仲買人に搾取される漁師の青年が、一人でプロレタリア革命を起こそうとする。
家を抵当に入れ銀行から借金。漁場を拡大しないという保守主義を捨て、外港に出て片口鰯の大漁。これを塩漬けにして仲買人支配を脱しようとするものの嵐に遭って漁船は大破、冒険主義は失敗する。家族を失い、塩漬け片口鰯は足元を見る仲買人に二束三文で買い叩かれ、家を失い、酒に溺れる。
可愛い少女に諭された青年は、弟二人と仲買人の船に雇われ、再起を誓うという物語。プロレタリア文学のような型に嵌ったアジテーション映画だが、イタリア共産党がスポンサーだと知ればなるほどと頷ける。
プロレタリアのための映画なので俳優を使わず、シチリア島民を使ってドキュメンタリー風に制作されているが、共産党テキストのシナリオがつまらないのを手始めに、演出は冗長、それに輪をかけた素人演技で、これで退屈にならないわけがない。半分夢心地で必死に目を開けストーリーを追うが、いつの間にか瞼が降りて意識は浮遊している。
人民のために立ち上がった者が人民のために敗北するという、愚かで利己的な人民の意識改革を謳う作品で、戦時中に共産党に入党したヴィスコンティの戦後復帰第1作。イデオロギーは芸術を生まないという好例。 (評価:1.5)