海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1945年

製作国:フランス
日本公開:1952年2月20日
監督:マルセル・カルネ 製作:フレッド・オラン 脚本:ジャック・プレヴェール 撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール 音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
キネマ旬報:3位

犯罪大通りの劇場を舞台にした安っぽい犯罪メロドラマの名作
 原題"Les enfants du Paradis"で、パラダイスの子供達の意。
 邦題の天井桟敷は劇場後方最上階の最も安い席、庶民の席で、劇中、芝居が成功したかどうかは、天井桟敷の人々に受けたかどうかで決まるという台詞がある。原題は、舞台となるフュナンビュール座の子供のように賑やかな天井桟敷の観客を指す。
 フュナンビュール座は19世紀前半、パリのタンプル通りにあった実在の劇場。通りにあった多くの劇場が犯罪メロドラマを上演したことから、タンプル通りは犯罪大通りと呼ばれた。
 主人公のバチスト(ジャン=ルイ・バロー)はフュナンビュール座を有名にした実在のパントマイム芸人。ライバルの俳優ルメートル(ピエール・ブラッスール)、犯罪者のラスネール(マルセル・エラン)、モントレー伯爵(ルイ・サルー)も実在ないしはモデルがいる。
   美女ガランス(アルレッティ)をめぐる4人の男たちの物語で、ラスネールの情婦だったガランスは、知り合ったバチストに惹かれながらも、バチストがパントマイム通りに奥手なために結ばれることなく、女たらしのルメートルと同棲。次に現れるのがモントレー伯爵で、窮地を救ってもらったことから結婚することになる。
 一方、バチストは劇団員のナタリー(マリア・カザレス)と結婚、一子を儲け、フュナンビュール座の看板として活躍する。バチストを忘れられないガランスは毎晩お忍びで劇場を訪れていたが、それを知ったバチストは妻子を忘れて恋の炎を燃え上がらせるが、ガランスは一途な思いを伝えたことで一夜を限りに身を引く。
 そうとは知らないモントレー伯爵は怒りの矛先をラスネールに向けるが、公衆の面前で恥をかかされたラスネールに刺殺される。ガランスの真意を知ったラスネールは逃亡せずにギロチンを覚悟。
 伯爵の死を知らないガランスは、謝肉祭の雑踏に追い縋るバチストを振り切って家路に着き、シェイクスピアを信奉するルメートルの言葉通り、安っぽい犯罪メロドラマは、悲劇もまた喜劇として幕を閉じる。
 第1部"Le Boulevard du Crime"(犯罪大通り)と第2部"L'Homme Blanc"(白い男)の2部構成の約190分は、メロドラマとしては若干長いが、構成がよくできていて飽きさせない。
 ドイツ占領下、当時を再現した犯罪大通りのオープンセット、フュナンビュール座のセットが見事。プロローグの大通りの賑わい、終盤の謝肉祭のカーニバル風景のモブシーンが見どころだが、一番はバチストを演じるジャン=ルイ・バローのパントマイムで、190分の中には舞台シーンもたっぷり入っている。
 本作の欠点を挙げるとすれば、ガランスを演じるアルレッティがオバサン顔で、4人の男が夢中になるほどにはイイ女に見えないことか。 (評価:4.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1946年12月17日
監督:ジャン・ルノワール 製作:デヴィッド・L・ロウ、ロベール・アキム 脚本:ヒューゴ・バトラー 撮影:ルシアン・アンドリオ 音楽:ウェルナー・ジャンセン
キネマ旬報:5位
ヴェネツィア映画祭作品賞

地平線まで続く綿花畑の四季と荒れ狂う川の映像が素晴らしい
 原題"The Southerner"で、邦題の意。ジョン・セションズ・ペリーの小説"Hold Autumn in Your Hand"(手の中の秋を掴め)が原作。
 ルノワールが第二次世界大戦中にアメリカに渡り、ハリウッドで撮った作品。アメリカ南部の小作農の物語で、四季の変化を織り交ぜながら描く映像がルノアールらしい。
 綿花畑で働く賃金労働者のサムは、父の遺言に従って地主から川沿いの土地を借りて綿花畑の経営に乗り出す。ところが隣家のヘンリーはいずれは手に入れようと思っていた土地にやってきたサムが気に入らず、井戸の水も病気の子供のための牛乳も分けてやらず、しまいには家畜を放ってサムの畑を荒らしてしまう。
 怒ったサムと殴り合いの喧嘩になるが、川の主の大鯰をサムが捕獲したことから二人は仲直り。綿花も実り順風満帆と思われた矢先に嵐が襲い、水害で綿花畑は全滅してしまう。
 ヘンリーのいう通り農家なんて甘いものではないと落胆したサムは、廃業して友人ティムの工場で働くことを決めるが、妻ノーナと祖母が黙々と家を修復する姿を見て、再起を期すという物語。
 ティムとの会話で、世の中はそれぞれの職業の人が互いに支え合うことで成り立っているという当たり前のことが語られ、それぞれの仕事に誇りを持って全力を注ぐという、戦争の時代らしい共助の精神が謳われる。
 サムとヘンリーの仲直りのシーンでは、殴り合ってこそ男同士の理解と友情が築かれるというアメリカ的神話が描かれ、いささかハリウッド的な嘘くささが漂う。
 地平線まで続く綿花畑の四季と荒れ狂う川の映像が素晴らしい。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1950年11月17日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 脚本:セルジオ・アミディ、フェデリコ・フェリーニ 撮影:ウバルド・アラータ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:4位
カンヌ映画祭グランプリ

ドイツ人は冷血以外に感想のないハードボイルドな戦争映画
 原題は"Roma città aperta"で、無防備都市ローマの意。città aperta(open city)は、非武装宣言することで軍事攻撃から守られるという国際法の規定のこと。第二次世界大戦で、イタリア降伏後にローマなどが無防備都市宣言をした。
 本作は、無防備都市宣言後、ドイツ軍が進駐した1943~4年にかけてのローマが舞台。戦闘行為は行われないものの、レジスタンスが対ドイツ軍に対する抵抗運動を行い、それを摘発するゲシュタポとの抗争が描かれる。
 レジスタンスのリーダーの主人公は、同志の家を転々としているが、ゲシュタポに急襲されて、恋人の女優の家に逃げ込む。ところが予め恋人に目をつけていたゲシュタポは、協力者の女を接近させていて、その通報で逮捕。拷問されて、主人公はラスト前に退場してしまう。クライマックスは、主人公とともに逮捕された神父で、これも銃殺されて終幕となる。
 本作の最大の見どころは、この物語を徹底したリアリズムによって描いていることで、感情を排した客観的映像はドキュメンタリー風の再現映像を見るようでもあり、後のイタリア映画に影響を与えた。
 もっとも、この殺伐として希望のない物語からは、主題も主張も見えてこず、戦争は悲惨とかドイツ人は冷血といった感想以外のものは生まれない。
 ある種、ハードボイルドな戦争映画ないしはレジスタンス映画であって、感情を排したときに見えるそれが事実としての戦争だということもできるが、登場人物たちの感情も葛藤も描かない作品に、終戦直後の当時はともかく、今となっては意義を見いだせない。
 ゲシュタポ将校の一人が拷問に対して「人間の心までは支配できない」という台詞も、取って付けたように空々しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1947年6月17日
監督:エリア・カザン 製作:ルイス・D・ライトン 脚本:テス・スレシンジャー、フランク・デイヴィス 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:7位

貧しい移民一家の成長を見つめるヒューマンストーリー
 原題"A Tree Grows in Brooklyn"で、ブルックリンに一本の木は育つの意。ベティ・スミスの同名の半自伝小説が原作。
 20世紀初頭、ブルックリンの安アパートに住む、アイルランド移民ノーラン一家の読書好きな長女フランシー(ペギー・アン・ガーナー)が主人公。パパ(ジェームズ・ダン)は酒場のウェイター兼歌手で、いつかスカウトマンが現れてスターになることを夢見る酒飲みの夢想家。ママ(ドロシー・マクガイア)はそんなパパに愛想を尽かし、アパートの掃除婦をしながら家計を支える現実派。フランシーは弟のニーリー(テッド・ドナルドスン)と金屑拾いをしてママを助ける。
 ママを除けば貧しくも陽気な一家なのだが、稼ぎの悪いパパ、腰の落ち着かない伯母(ジョーン・ブロンデル)、良家の子弟が通う学校への転校を望むフランシー、とママのイライラは募るばかり。そこにママの新たな妊娠まで加わって、家計の苦しさからフランシーの退学を迫られたパパは、それを娘に伝えられず、職探しに出かけたまま野垂れ死にしてしまう。
 葬儀には大勢の友人が参列。金はなくても多くの人たちに笑顔を与えたパパの人徳により、フランシーは学費の援助を受けて無事卒業。結果的にフランシーの作家になる夢をパパが叶えることになる。
 台詞を目いっぱい詰め込んだ当時の制作スタイルで、いささか慌ただしい上に展開が急。フランシーに伯母が他人のスケート靴を拝借するシーンでは、後にママと再婚する警官(ロイド・ノーラン)が現れるのが早すぎるといった難点はあるものの、貧しい移民一家を温かく見つめるカザンらしいヒューマンストーリーになっている。
 本作のテーマは祖母(フェリケ・ボロス)の台詞"ln that old country, a child can rise no higher than his father's state.But here, in this place, each one is free to go as far as he's good to make of himself.This way, the child can be better than their parent and this is the true way that things grow better."(アイルランドでは子供は父親の階層以上になることはできなかったけれども、この国では向上心さえあれば両親以上になることができ、それが物事が良くなる正しい方法なのよ)にあって、フランシー自身がそれを体現することになる。
 物語の初めで、アパートの中庭にあったパパの大好きな木が切り倒されるが、ラストシーンで再び芽を出す。パパとフランシーの象徴であり、原題の由来となっている。 (評価:2.5)

そして誰もいなくなった

製作国:アメリカ
日本公開:1976年8月7日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール、ダドリー・ニコルズ 撮影:ルシアン・アンドリオ 音楽:チャールズ・プレヴィン

何回見ても犯人を覚えてなく新鮮な気持ちで楽しめる
 原題"And Then There Were None"で、邦題の意。アガサ・クリスティーの同名推理小説が原作。
 アガサ・クリスティーの良いところは、何度読んでも犯人を忘れていることで、本作も何回見ても犯人を覚えてなく、いつも新鮮な気持ちで楽しめる。
 孤島に集められた脛に傷持つ10人の男女が、10体のインディアン人形と共に一人ずつ殺されていくというもので、誰もいなくなる話をミステリアスかつユーモラスに描くのがオシャレ。
 やがて犯人は10人の中にいるのではないかと互いに疑心暗鬼になるという心理描写が上手く、最後に残った二人は相手が犯人だと思うが、実は…ということになる。
 10人が殺されていく過程にヒントがあるが、スリリングな展開でそれを気づかせないルネ・クレールの演出が冴える。犯人が判りホッとする間もなく怪しい影が…という演出がにくい。
 ラストは原作とは異なり、ルネ・クレールらしく気持ちよく終わるが、サスペンス好きには少々物足りないかもしれない。
 医師にウォルター・ヒューストン、判事にバリー・フィッツジェラルドと、個性的な俳優たちの演技も見どころ。 (評価:2.5)

ミルドレッド・ピアース

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:マイケル・カーティス 製作:ジェリー・ウォルド 脚本:ロナルド・マクドゥガル 撮影:アーネスト・ホーラー 美術:アントン・グロト 音楽:マックス・スタイナー

ミステリーなのか女の半生なのかどっちつかず
 原題"Mildred Pierce"で、主人公のフル・ネーム。ジェームズ・M・ケインの同名小説が原作。
 最初に殺人事件があり、容疑者である女が刑事の聴取を受けて事件の真相を語るという形式を採っている。外形上はミステリーだが、物語の中心は貧しい生まれの女が主婦からレストラン・チェーンの経営者になるまでの半生記という二重構造のため、どっちつかずの作品になっている。
 話は4年前に遡り、ミルドレッド(ジョーン・クロフォード)と夫バート(ブルース・ベネット)の結婚生活の破綻、ウェイトレスへの就職、資産家モンティとの出会い、レストランの起業、次女の病死、事業の成功・拡大、長女との不和、資産家との再婚・裏切り、夫の殺害の決意へと進み、最後の殺害のどんでん返しとなる。
 どんでん返しはありきたりでミステリーとしての出来は良くない。話の中心はミルドレッドの女の半世紀にあるが、叩き上げゆえの上流志向が長女のレディ教育に向かうものの、そんな母の出自を娘は軽蔑し、甘やかされて育ったゆえの放蕩という破綻していく母娘の関係が描かれる。もっともこちらのドラマも安っぽくて共感には程遠い。
 プロローグで桟橋から入水自殺しようとする風情のミルドレッドを警官が見咎めて、"lf you take a swim, l'd have to take a swim."(あなたが泳ぐと、私も泳がなければならない)と言うなど、この時代のハリウッド・ドラマにありがちなセリフ遊びが中心のシナリオで、味付けばかりで中身が薄い。桟橋(pier)のシーンから始まるのも、タイトルを洒落ているのかもしれない。
 終戦の年の制作で日本未公開。アカデミー賞にもノミネートされ、ジョーン・クロフォードが主演女優賞を受賞。 (評価:2.5)

イワン雷帝 第2部

製作国:ソ連
日本公開:1964年2月2日
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン 脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン 撮影:エドゥアルド・ティッセ、アンドレイ・モスクウィン 美術:イオシフ・シピネーリ 音楽:セルゲイ・プロコーフイェフ

舞台劇・オペラ・パートカラーのある種実験映画
 原題"Иван Грозный"で、イワン雷帝の意。
 民衆の求めに応じたイワン4世(ニコライ・チェルカーソフ)がモスクワに戻り、民衆を味方につけて貴族・聖職者たちと対峙する。アナスタシア(リュドミーラ・ツェリコフスカヤ)の死の真相が、叔母エフロシニア(カラフィーマ・ビルマン)による毒殺で、従弟ウラジーミル(パーヴェル・カードチニコフ)を帝位に就かせるための陰謀だったことを知ったイワンは、策略を用いて刺客にウラジーミルを刺殺させ、叔母に計略を自白させる。
 このエピソードは史実とは違うフィクションだが、シェイクスピアかギリシャ悲劇を見るような舞台劇風のドラマチックな演出になっていて、第1部とはテイストが違っている。エフロシニアが突然歌いだしたり、コーラスも入るのでオペラ風でもある。
 後半とラストがパートカラーになっていて、色彩を駆使したレヴューのような演出で、ある種エイゼンシュテインの実験映画にもなっている。そうした視点で見れば、映画史的には興味深い作品で、イワンがエフロシニアを出し抜くエピソードも、史実を離れたフィクションとして楽しめる。
 アナスタシアに死なれ、親友にも裏切られたイワンの孤独と人間不信が強調されるが、その無慈悲ぶりがスターリンへの批判と受け取られ、1958年までお蔵入りとなったという。
 ラストは教宣映画らしく、ロシアの敵と戦い、国を守ることを神に誓って終わる。 (評価:2.5)

ベイジル・ラスボーン版 シャーロック・ホームズ 恐怖の館

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール 製作:ロイ・ウィリアム・ニール 脚本:ロイ・チャンスラー 撮影:ヴァージル・ミラー

恐怖の館で1人ずつ殺されていくホラー・サスペンス
 原題は"The House of Fear"で邦題の意。『オレンジの種五つ』を基にしている。
 ベ​イ​ジ​ル​・​ラ​ス​ボ​ー​ン​は​シ​ャ​ー​ロ​ッ​ク​・​ホ​ー​ム​ズ​役​で​人​気​と​な​っ​た​ト​ー​キ​ー​初​期​の​イ​ギ​リ​ス​人​俳​優​。​ワ​ー​ナ​ー​・​ブ​ラ​ザ​ー​ス​製​作​の​1​4​本​の​映​画​シ​リ​ー​ズ​の​第10話​。​ワ​ト​ソ​ン​役​は​ナ​イ​ジ​ェ​ル​・​ブ​ル​ー​ス​。​日​本​未​公​開​。
 スコットランドの城に7人の男が共同生活をしている。彼らは「良き仲間」を自認するが、1人ずつ順にオレンジの種とともに殺人予告状が届き、連続殺人が始まる。城には「代々、まともに墓に入れない」という伝承があって、その伝承通り、崖から転落したり、黒焦げになったりする。
 保険金殺人ではないかと疑ったホームズが城に同宿するものの、次々と殺され、最後に残ったのが犯人か? というところで真相が明かされる。
 途中で、トリックが想像できてしまうのと、果たして保険金は手にできるのか? という疑問を除けば、恐怖の館で1人ずつ殺されていくというホラー・サスペンスが楽しめる作品になっている。
 アメリカでの公開は3月。第二次世界大戦も終結に向かい、連合軍の勝利が目前のこともあって、戦時色はすっかり消えて、前作まで続いたエンディング後の戦時国債募集の広告もなくなっている。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1947年12月2日
監督:コンプトン・ベネット 製作:シドニー・ボックス 脚本:ミュリエル・ボックス、シドニー・ボックス 撮影:レジナルド・ワイヤー 音楽:ベンジャミン・フランケル
キネマ旬報:6位

恋愛映画と油断しているとラストでいきなりのミステリー
 原題"The Seventh Veil"。人間は心に7枚のヴェールを纏っていて、最後のヴェールは決して脱がない。それを剥ぐことができるのが催眠療法というのが劇中の説明。
 自殺未遂をした女性ピアニストの心の傷を明らかにするために精神科医がこの催眠療法を用いるが、催眠術ではなく麻酔薬というのがいきなりズッコケる。
 麻酔を打たれたピアニストは意識を失わず、目を瞑っただけで覚醒しているという不思議な状態だが、独り語りで彼女が自殺未遂に至った経緯を語り始めて漸く、これが作劇に必要な構成だったことがわかる。
 学校で遅刻したために手を鞭打たれ王立音楽学校への試験に失敗したのが彼女のトラウマ。その後、資産家の又従兄の養育とピアノレッスンを受け、音楽学校に進み、ミュージシャンの恋人ができるが、又従兄に未成年と親権を理由に引き離される。
 よくある凡庸な悲恋ものに気分は弛緩するが、彼女がピアニストとしてデビューしてからは、コンサートシーンの名曲が眠気覚ましになる。
 ステージパパと化した又従兄に自由を束縛された彼女は、画家と2度目の恋をし駆け落ちを図るが失敗。手に火傷を負ったことでトラウマが蘇り、ピアノを弾けなくなって絶望の余り自殺未遂・・・と冒頭のシーンに戻る。
 ここで精神科医の登場となり、催眠療法で彼女をトラウマから解き放ち、元恋人のミュージシャン、婚約者の画家、ステージパパの又従兄の誰を選ぶのかという、いきなりのミステリーとなる。
 終盤の展開からミステリーの答えは読めてしまうのだが、おそらく現代の観客の多くは納得できない。
 全体にシナリオが粗くラストシーンは説得力に欠けるが、愛は言葉ではなく第七のヴェールに隠された心にあるという結論が、当時としては受けたのかもしれない。 (評価:2.5)

ベイジル・ラスボーン版 シャーロック・ホームズ アルジェへの追跡

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール 製作:ロイ・ウィリアム・ニール 脚本:レナード・リー 撮影:ポール・アイヴァノ

最大のミステリーはいつでも殺せるのに殺さないところ
 原題は"Pursuit to Algiers"で邦題の意。ベ​イ​ジ​ル​・​ラ​ス​ボ​ー​ン​は​シ​ャ​ー​ロ​ッ​ク​・​ホ​ー​ム​ズ​役​で​人​気​と​な​っ​た​ト​ー​キ​ー​初​期​の​イ​ギ​リ​ス​人​俳​優​。​ワ​ー​ナ​ー​・​ブ​ラ​ザ​ー​ス​製​作​の​1​4​本​の​映​画​シ​リ​ー​ズ​の​第12話​。​ワ​ト​ソ​ン​役​は​ナ​イ​ジ​ェ​ル​・​ブ​ル​ー​ス​。​日​本​未​公​開​。
 オリジナル脚本で、東欧の某国の国王が殺され、イギリス留学中の皇太子を本国に送り届けるのが、今回のホームズの任務。事件捜査でも何でもなく、道中暗殺団が公然と姿を見せてしまうので、犯人探しにもならない。
 そもそも興味のある事件しか捜査しないホームズが、護衛の役をあっさり引き受けてしまうというあり得ない設定だが、それを無視すればそこそこ楽しめる話にはなっている。ただ、シャーロキアンがあり得ない設定を受け入れるかどうかは微妙。アルジェまで護送すればあとは某国の警護が引き継ぐというのも、もっと危なそうでよくわからない。
 当初、ホームズは小型飛行機で飛び立つが、これが撃墜される。もちろん、事前に察知したホームズは飛行機から脱出しているのだが、そのからくりの説明はない。ホームズと皇太子は別ルートのワトソンの船に乗り込んでいて、勘のいい暗殺団も同乗。これに美人歌手や冒頭で新聞に載っていた宝石泥棒も同乗するという密室もので、見どころは最後に大どんでん返しがあるという、前作『恐怖の館』の手法を引き継いでいる。
 本作最大のミステリーは、暗殺団が正体を明かしていて、いつでも皇太子を暗殺できるのに、部屋に戻ってからでないと暗殺しようとしないとところ。
 ワトソンが歌を歌うシーンも見どころのひとつか。アメリカでの公開は10月で、戦争終結後。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1955年3月7日
監督:ルネ・クレマン 脚本:ルネ・クレマン、コレット・オドゥリ 撮影:アンリ・アルカン 音楽:イヴ・ボードリエ
キネマ旬報:10位

戦争での兵站と輸送の重要性を可視化して実感させる
 原題"La Bataille du rail"で、邦題の意。
 ルネ・クレマンの長編初監督作品にして、終戦直後、フランス映画総同盟・国鉄抵抗委員会の企画・製作ということもあって、鉄道員の対独レジスタンスの活躍を喧伝する、愛国的なプロパガンダ映画となっている。
 出演者の多くが実際に鉄道労働者で、ユダヤ人乗客を如何にナチスから守ったかとか、ノルマンディー上陸作戦に呼応してドイツ軍の輸送列車を如何に止めて兵站を妨害したかという、鉄道員たちの抵抗運動を英雄的に描くが、彼らの手柄の再現映像の羅列に近く、ドキュメンタリーにもドラマにもなっていない。
 終戦直後に多く制作された反ファシズム・プロレタリア映画の無味乾燥な作品だが、フランス国鉄の全面協力もあって、鉄道シーンがこれ以上ないほどに贅沢で、鉄道ファンにとっては本物の機関車と線路を使ったシーンが満載の垂涎の映画となっている。
 貨物列車やレールへの工作で列車が転覆しかかる映像のリアリティは、VFXやCGでは得られない迫力がある。
 戦争における兵站と輸送の重要性を可視化し実感させてくれることも、見どころの一つかもしれない。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1948年5月25日
監督:デヴィッド・リーン 製作:ノエル・カワード、アンソニー・ハヴロック=アラン、ロナルド・ニーム 脚本:ノエル・カワード、アンソニー・ハヴロック=アラン、デヴィッド・リーン、ロナルド・ニーム 撮影:ロバート・クラスカー
キネマ旬報:3位 カンヌ映画祭グランプリ

BGMも物語も雰囲気だけはメロドラマ
 原題は”Brief Encounter”で、一瞬の出逢いの意。ノエル・カワードの戯曲『静物画』(Still Life)が原作で、監督はデヴィッド・リーン。
 第1回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した11作品のうちの1つで、メロドラマの名作とされるが、今見るとコメディにしか見えない。
 おそらくは・・・と劇中で肝腎の登場人物の背景が描かれていないために推測するしかないのだが、平凡な日常に飽いた専業主婦がたまたま知り合った開業医にまるで女学生のような夢見る恋をし、開業医もどこが気に入ったのか、はたまた単なる遊びなのか、女に真剣に恋してるふりをするが、本心は最後まで不明。
 当時としては既婚者同士の浮気を描くのが珍しかったのか、それを描いたから話題になったのかはわからないが、本作の最大の欠点は、二人がなぜ互いを好きになったかという描写が省略されていて、不倫ドラマという枠組みだけで二人が記号的に恋し、記号的に煩悶し、記号的に別離するという、定型パターンだけで組み立てられていること。60年代テレビの昼メロのプロトタイプでしかなく、人間が描かれていないのが痛い。
 デヴィッド・リーンは『旅情』(1955)、『ライアンの娘』(1970)のような恋愛映画の佳作を作る一方で、本作のような金太郎飴の凡作も作る。中年の浮気妻が、男とパリに行きたい、ヴェネツィアに行きたい、南国に行きたいと夢想するシーンは少女のような純真さを描こうとしたのだろうが噴飯もの。
 そもそも毎週木曜日に町に出て買い物をし、ランチして、映画を見て家に帰るというプチブル有閑マダムで、男もそれに付き合えるくらいに暇という何ともいえない設定が白ける。
 音楽は全編、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番が使われるが、主人公の女がなぜこの曲をレコードで掛けるのかも不明な上に、背景音楽としてもあまり効果的でなく、雰囲気だけはメロドラマに一役買っている。
 時間のせいか詰め込み過ぎの台詞が早口なのが難。ヒロインの大袈裟な台詞のモノローグも笑える。 (評価:2)

ベイジル・ラスボーン版 シャーロック・ホームズ 緑の女

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール 製作:ロイ・ウィリアム・ニール 脚本:バートラム・ミルハウザー 撮影:ヴァージル・ミラー

ホームズへの嫌がらせのためだけのモリアーティの怪事件
 原題は"The Woman in Green"で緑の服を着た女の意。ベ​イ​ジ​ル​・​ラ​ス​ボ​ー​ン​は​シ​ャ​ー​ロ​ッ​ク​・​ホ​ー​ム​ズ​役​で​人​気​と​な​っ​た​ト​ー​キ​ー​初​期​の​イ​ギ​リ​ス​人​俳​優​。​ワ​ー​ナ​ー​・​ブ​ラ​ザ​ー​ス​製​作​の​1​4​本​の​映​画​シ​リ​ー​ズ​の​第11話​。​ワ​ト​ソ​ン​役​は​ナ​イ​ジ​ェ​ル​・​ブ​ル​ー​ス​。​日​本​未​公​開​。
 オリジナル脚本で、4人の女性の連続殺人事件が発生。人差し指の先が切り落とされているというのが共通点で、ホームズにも謎がわからないが、モリアーティが登場してからは二人の対決に終始して、人差し指の謎は最後まで明らかにされない。
 父親が人差し指を庭に植えたと美少女がホームズに知らせて事件解明に進むものの、連続殺人事件そのものはモリアーティが切り裂きジャックを模倣して、挑発のためにホームズへの嫌がらせをしているだけで、動機がない。
 モリアーティが手下に使うのは、催眠術を使ってナンパした男に女を襲わせる美女(緑の服の女?)で、標的が女からホームズに変わったあとに、ホームズ自ら女の催眠術にかかった振りをしてモリアーティを滝ならぬ、ビルの屋上から落下させておしまいという、支離滅裂なシナリオ。
 美女役のヒラリー・ブルックは、第6話「シャーロック・ホームズ危機一髪」に続いての再登場。エンディング後の戦時国債募集の広告復活。 (評価:2)

白い恐怖

製作国:アメリカ
日本公開:1951年11月2日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:デヴィッド・O・セルズニック 脚本:ベン・ヘクト、アンガス・マクファイル 撮影:ジョージ・バーンズ 音楽:ミクロス・ローザ

医者と患者のどちらが精神病かわからないというコメディ
 原題"Spellbound"で、呪文に縛られたの意。フランシス・ビーディングの"The House of Dr. Edwardes"が原作。
 精神病院に新しくやってきた院長が記憶喪失の偽者で、たちまち恋に落ちた女医が真相解明のために男の記憶を取り戻させるというミステリー。
 冒頭から医者と患者のどちらが精神病かわからない展開で、いやどっちも医者に診てもらった方がいいんじゃないかと思えるくらいに破綻したドラマ。院長の偽者と女医がグレゴリー・ペックとイングリッド・バーグマンなのでなんとか見ていられるが、そうでなかったら馬鹿馬鹿しくてとても見ていられない。
 そもそも二人が出会った瞬間から仕事そっちのけで熱病に罹り、男嫌いで頭でっかちの女医が、いきなり医者でも草津の湯でも治せぬ恋の病にかかってしまうのが呆気に取られる。
 フロイトの精神分析や夢判断でミステリーが解明されていくが、これまた牽強付会。恋に盲目な女医のこじつけ推理で解決してしまうのが、畏れ入谷の金田一耕助。
 殺人を犯したと思い込み逃げ回る偽医者の記憶喪失も発作も思い込みも、何でもかんでも全ては幼児期のトラウマが原因という慧眼の女医も、新院長が行方不明というだけで偽医者を殺人犯に仕立てる警察も、みんな医者に診てもらった方が良いとボヤきながら見ていると、真犯人は地位を追われそうになった元院長だったというオチで、ナイフを持った偽医者が怖いヒッチコックの秀逸なサイコ・スリラー演出のコメディを見た気分になる (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1947年12月30日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:チャールズ・ブラケット 脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー 撮影:ジョン・サイツ 音楽:ミクロス・ローザ
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞 カンヌ映画祭グランプリ

映画界も酔っぱらった壮大なアル中撲滅キャンペーン映画
 原題"The Lost Weekend"で、邦題の意。 チャールズ・R・ジャクソンの同名小説が原作。
 作家の卵が、アル中と戦った週末3日間の体験を小説に書くまでの物語で、原作者自身の体験が基になっている。
 作家(レイ・ミランド)には善き兄がいて、彼をアルコールから遠ざけ執筆させるために、週末の小旅行に連れて行こうとする。作家は如何に兄にバレないように酒を持って行くか算段するが、酒に飲まれて列車に間に合わず一人週末を過ごすことになる。
 このアル中ぶりが最低で、家政婦の給金を誤魔化して酒を買い、バーに行き、レストランで金が足りないと隣の女のバッグを盗む始末。金も酒も尽きると仕事に使うタイプライターを質に入れようとするが、ユダヤの祭日で休み。酒を買う金を借りに好意を持っている女のところにいくが卒倒し、アル中専門病院に。
 ついには幻覚まで見るようになって病院を抜け出し、部屋に戻り、訪ねてきた恋人(ジェーン・ワイマン)のコートを盗んで質屋に行き、質草のピストルと交換。追ってきた恋人が自殺を思い留めさせ、タイプライターに向かってジ・エンドとなる。
 作家がアル中になったのは1933年まであった禁酒法の反動だという台詞も飛び出し、フルオーケストラのドラマチックなBGMがつくと、これはもうアル中男の壮大な物語、大叙事詩、否、壮大なアル中撲滅キャンペーン映画。もっとも、作家がアル中を克服したわけではないというのが残念なところなのだが・・・
 アカデミー作品賞とゴールデングローブ作品賞をダブル受賞していて、カンヌ映画祭グランプリまで受賞しているが、こんなキャンペーン映画が必要なほどに当時のアメリカ(フランスもか?)ではアル中が社会問題になっていたのかと思うと、それはそれで時代性も感じる。
 しかし、いくら壮大でも、どうしようもないアル中男の物語は正直退屈。
 アル中男を演じたレイ・ミランドがアカデミー主演男優賞で、審査員もみんな酔っぱらっていたじゃないかと思えてくる。 (評価:1.5)