日本映画レビュー──1968年
濡れた二人
公開:1968年11月30日
監督:増村保造 脚本:山田信夫、重森孝子 撮影:小林節雄 音楽:林光 美術:下河原友雄
原作は笹沢左保の『喪失の女』。
雑誌社に勤める万里子は、多忙で妻を構わないテレビマンの夫に不満を抱いている。旅行はいつもドタキャンで、仕方なく西伊豆の港町に一人旅をする。逗留するのは実家の女中だった勝江の家。水産会社の息子・繁夫が都会の臭いを撒き散らす万里子に横恋慕し、来ると言って来ない夫に愛想を尽かした万里子は繁夫と寝てしまう。万里子に求婚する繁夫、遅れて現れる夫・・・
物語をこう書くと、まるで安物のよろめきドラマのようで、北大路欣也と渚まゆみの直情一直線の恥ずかしい演技も手伝って、前半はその通りに進む。後半に入って物語は漸く面白くなってくる。
これは女が男の頸木から自由になる映画。男に従属させられている女、女は男を頼らなければ生きていけないと考える男たちに対して、女が自由を勝ち取る物語といえる。女性解放でもなければ、女の自立でもない。男との対立軸に女がいるのではなく、男を完全に離れて女が精神の自由を獲得する話。
それはラストシーンで若尾文子の伸びやかな笑顔となって現れるが、結末は書かない。一方の夫と繁夫は現実に束縛された解放されない男を象徴し、遥か高みを行く万里子と好対照をなす。
若尾は着物姿が似合う。全裸のシーンもあるが、吹き替え。
劇中、万里子と繁夫がびしょ濡れになる場面が2回ある。タイトルはそこから採ったのだろうが、如何にもな思わせぶりで安っぽい。 (評価:3)
製作:今村プロダクション
公開:1968年11月22日
監督:今村昌平 製作:山野井正則 脚本:今村昌平、長谷部慶治 撮影:栃沢正夫 音楽:黛敏郎 美術:大村武
キネマ旬報:1位
神田の稲穂とコカコーラのどちらが大事かという映画
今村昌平、長谷部慶次のオリジナル脚本。
クラゲ島という沖縄風の架空の島が舞台。この映画のテーマを一言でいえば、文明から隔絶された神が支配する島に対する貨幣経済の侵略で、失われていくアニミズムを描いている。劇中ではブルドーザーが出てくるくらいで、現実の侵略の姿は描かれず、精神の侵略として描かれる。
公開時は沖縄返還前で、このようなアニミズムが沖縄には残っていて、大資本により観光化されて沖縄の自然と精神文化が失われることが危惧されていた。そして現実には今村の危惧通りになった。
撮影は南大東島と波照間島などで行われ、観光化される前の沖縄の離島の様子が垣間見える。御嶽信仰やノロ(祝女)、与那国島の久部良割(くぶらばり)、石垣島の野底マーペーを類推させる話も出てくる。
島を取り仕切る区長の竜(加藤嘉)はノロのウマ(松井康子)を妾にして都合の良い神託をさせている。本土資本と組んで製糖工場を建設、サトウキビを島の産業に育てたが、砂糖価格が下落して島民に約束の金が払えない。
ウマは代々神官の家系だが、二十年前に台風で赤岩が神田に打ち上げられ、神に奉納する稲が採れない。その原因がウマと兄・根吉(三国連太郎)の近親相姦と噂され、根吉は鎖に繋がれて赤岩を落とすための穴を掘り続けている。根吉には亀太郎(河原崎長一郎)とトリ子(沖山秀子)の二人の子供がいるが、亀太郎は東京に行きたがり、トリ子は頭が足りず島の男たちに遊ばれている。根吉は、トリ子の祖父・山盛(嵐寛寿郎)もその一人ではないかと父を疑っている。
会社から派遣された測量技師(北村和夫)が水源調査にやってくるが、前任者(小松方正)は沖縄病に罹って妻子を捨て、島の娘と定住。島人が隠す水源を発見するが神域にあり、山盛は水源を守るためにウマとトリ子に技師を籠絡させようとする。トリ子の純粋さに惹かれた技師はやはり沖縄病に罹り、同棲し定住を決意する。
山盛が死んでトリ子に憑依し、ノロがウマからトリ子に移ったことが明らかになる。区長の竜はこれを認めず、飛行場建設と観光誘致をするためにトリ子から技師を引き離して東京に帰らせる。飛行場建設のために神田を買収して御嶽を遷座させようとするが、神罰か腹上死する。竜の妻(原泉)は根吉が殺したと島人たちを煽りたて、根吉はウマと小舟で島を脱出し、楽園を追放されたアダムとイブよろしく新天地を求めようとするが、島人たちのハーリー船に追いつかれて殺される。
物語はここで終わらず、5年後の観光化されたクラゲ島が出てくる。東京に行った亀太郎は島にUターンして観光列車の運転手。トリ子は野底マーペーとなって恋人の帰りを待つが、技師は昇進して妻と島に観光に来る。島の語り部(浜村純)の妻はコカコーラを売っているという、神が不在となった島のシーンで終わる。
本作を理解するためには沖縄民俗の知識がある程度必要で、観終わって沖縄の50年間の変化に対する無力感しか残らない。今村はこれを単に沖縄だけではなく、同じように貨幣経済に敗北した日本の精神風土の敗北に敷衍しているが、無力感だけを見せられる映画は辛い。
本作が秀作であるにもかかわらず、★2.5の評価しか与えられないという現実が悲しい。 (評価:2.5)
公開:1968年11月22日
監督:今村昌平 製作:山野井正則 脚本:今村昌平、長谷部慶治 撮影:栃沢正夫 音楽:黛敏郎 美術:大村武
キネマ旬報:1位
今村昌平、長谷部慶次のオリジナル脚本。
クラゲ島という沖縄風の架空の島が舞台。この映画のテーマを一言でいえば、文明から隔絶された神が支配する島に対する貨幣経済の侵略で、失われていくアニミズムを描いている。劇中ではブルドーザーが出てくるくらいで、現実の侵略の姿は描かれず、精神の侵略として描かれる。
公開時は沖縄返還前で、このようなアニミズムが沖縄には残っていて、大資本により観光化されて沖縄の自然と精神文化が失われることが危惧されていた。そして現実には今村の危惧通りになった。
撮影は南大東島と波照間島などで行われ、観光化される前の沖縄の離島の様子が垣間見える。御嶽信仰やノロ(祝女)、与那国島の久部良割(くぶらばり)、石垣島の野底マーペーを類推させる話も出てくる。
島を取り仕切る区長の竜(加藤嘉)はノロのウマ(松井康子)を妾にして都合の良い神託をさせている。本土資本と組んで製糖工場を建設、サトウキビを島の産業に育てたが、砂糖価格が下落して島民に約束の金が払えない。
ウマは代々神官の家系だが、二十年前に台風で赤岩が神田に打ち上げられ、神に奉納する稲が採れない。その原因がウマと兄・根吉(三国連太郎)の近親相姦と噂され、根吉は鎖に繋がれて赤岩を落とすための穴を掘り続けている。根吉には亀太郎(河原崎長一郎)とトリ子(沖山秀子)の二人の子供がいるが、亀太郎は東京に行きたがり、トリ子は頭が足りず島の男たちに遊ばれている。根吉は、トリ子の祖父・山盛(嵐寛寿郎)もその一人ではないかと父を疑っている。
会社から派遣された測量技師(北村和夫)が水源調査にやってくるが、前任者(小松方正)は沖縄病に罹って妻子を捨て、島の娘と定住。島人が隠す水源を発見するが神域にあり、山盛は水源を守るためにウマとトリ子に技師を籠絡させようとする。トリ子の純粋さに惹かれた技師はやはり沖縄病に罹り、同棲し定住を決意する。
山盛が死んでトリ子に憑依し、ノロがウマからトリ子に移ったことが明らかになる。区長の竜はこれを認めず、飛行場建設と観光誘致をするためにトリ子から技師を引き離して東京に帰らせる。飛行場建設のために神田を買収して御嶽を遷座させようとするが、神罰か腹上死する。竜の妻(原泉)は根吉が殺したと島人たちを煽りたて、根吉はウマと小舟で島を脱出し、楽園を追放されたアダムとイブよろしく新天地を求めようとするが、島人たちのハーリー船に追いつかれて殺される。
物語はここで終わらず、5年後の観光化されたクラゲ島が出てくる。東京に行った亀太郎は島にUターンして観光列車の運転手。トリ子は野底マーペーとなって恋人の帰りを待つが、技師は昇進して妻と島に観光に来る。島の語り部(浜村純)の妻はコカコーラを売っているという、神が不在となった島のシーンで終わる。
本作を理解するためには沖縄民俗の知識がある程度必要で、観終わって沖縄の50年間の変化に対する無力感しか残らない。今村はこれを単に沖縄だけではなく、同じように貨幣経済に敗北した日本の精神風土の敗北に敷衍しているが、無力感だけを見せられる映画は辛い。
本作が秀作であるにもかかわらず、★2.5の評価しか与えられないという現実が悲しい。 (評価:2.5)
侠客列伝
公開:1968年8月1日
監督:マキノ雅弘 脚本:棚田吾郎 撮影:鈴木重平 美術:鈴木孝俊 音楽:木下忠司
明治後期、日清・日露戦争後に賭博禁止を受けてヤクザが国粋団体へと衣替えする時代を背景に、ヤクザ間の勢力争いを描く。
帝都進出を狙って東進しようとする三島の山形一家が、小田原の酒勾一家を陥れる。国粋団体結成式で子爵を招いた接待係に酒勾一家の半次郎(菅原謙二)を任命。接待がまずいと侮辱して刃傷沙汰を起こさせるという算段は、『忠臣蔵』の松の廊下が下敷き。
浅野内匠頭ならぬ半次郎は刺されて死亡。山形一家の清水(河津清三郎)にはお咎めなしという片手落ちの裁きで、赤穂藩ならぬ酒勾一家は1年間の謹慎を命じられ、後は1年後の討入りというストーリーになる。
浪人たちは清水一家に引き取られ、討入りメンバーは高倉健、若山富三郎ら4人。
『忠臣蔵』同様、中盤若干の中だるみはあるが、流浪の侠客・鶴田浩二と芸者・藤純子の悲恋エピソード、一宿一飯の義理からの鶴田と健さんの一騎打ちという見せ場もあり、終盤にかけて盛り上がる。
前半は任侠から国粋へと変化するヤクザの歴史を見せて期待させるものの、終盤は小田原の漁師や人夫を守る善いヤクザと、彼らから不当なカスリを撥ねる悪いヤクザという任侠映画の定型に戻り、我慢を重ねた挙句にブチ切れて、正義の殴り込みという常道パターンで、肩透かしなのが残念。
それでも、1時間40分を楽しませてくれるマキノ雅弘の職人芸はさすが。 (評価:2.5)
製作:三船プロ・石原プロ
公開:1968年02月17日
監督:熊井啓 脚本:井手雅人、熊井啓 撮影:金宇満司 音楽:黛敏郎 美術:山崎正夫、小林正義、山下宏
キネマ旬報:4位
原発事故再稼働を巡る関電の臍の緒がわかる
原作は木本正次の同名小説。
プロジェクトXでも紹介された関西電力黒部川第四発電所黒四ダム建設で、破砕帯を貫く難工事となった大町トンネル工事を受け持った熊谷組を中心とした物語。元請の建設会社は実名で登場するが、ドラマ部分はフィクション。熊谷組の下請・岩岡班のモデルは笹島班(現・笹島建設)で笹島信義を石原裕次郎、関西電力の現場責任者のモデル、芳賀公介を三船敏郎が演じる。
宇野重吉率いる劇団民藝が全面協力、トンネル内のセットが熊谷組の工場に作られ、北アルプスロケを含めて大作感は半端ではない。トンネルを掘るというだけの物語で、それに芳賀の娘の話などの人間ドラマが絡むが、トンネルが完成するのは最初からわかっていること。結末がわかっていながら、それでも3時間16分を飽きさせない。
良くできた作品だが、冒頭に語られる、日本の経済発展に寄与する黒四ダムは、その下流にある戦前に国策で造られた第三発電所・仙人谷ダムのように無謀な工事は行わず、犠牲者を出さないというテーマに、ラストではほとんど触れないのは、協力した関西電力への配慮か? 仙人谷ダムの犠牲者は300余人、黒四は171人で決して少なくない。
黒四も関電の事業とはいえ国策的で、建設の意義は第三発電所と同じ。当時は難工事には人柱はつきものというのが常識だったが、国策のためには犠牲者もやむなしというのは、人夫に対する強制があるなしに係わらず同じ考え。それを難工事を完成させたプロジェクトXという美談にすり替えた印象が残るのは残念。
冒頭、社長(滝沢修)を始めとした関電の幹部らの態度が官僚的で、原発事故再稼働を巡る関電や東電の対応を髣髴させて、遠い過去の話と思っていたのが、意外にも現代に通じる電力会社の臍の緒を見る思いがする。
黛敏郎の音楽は仰々しいが、冒頭の北アルプスの春山のシーンは見どころ。宇野重吉・寺尾聰が親子の役で出演。石原の父親役・辰巳柳太郎の演技も見どころ。 (評価:2.5)
公開:1968年02月17日
監督:熊井啓 脚本:井手雅人、熊井啓 撮影:金宇満司 音楽:黛敏郎 美術:山崎正夫、小林正義、山下宏
キネマ旬報:4位
原作は木本正次の同名小説。
プロジェクトXでも紹介された関西電力黒部川第四発電所黒四ダム建設で、破砕帯を貫く難工事となった大町トンネル工事を受け持った熊谷組を中心とした物語。元請の建設会社は実名で登場するが、ドラマ部分はフィクション。熊谷組の下請・岩岡班のモデルは笹島班(現・笹島建設)で笹島信義を石原裕次郎、関西電力の現場責任者のモデル、芳賀公介を三船敏郎が演じる。
宇野重吉率いる劇団民藝が全面協力、トンネル内のセットが熊谷組の工場に作られ、北アルプスロケを含めて大作感は半端ではない。トンネルを掘るというだけの物語で、それに芳賀の娘の話などの人間ドラマが絡むが、トンネルが完成するのは最初からわかっていること。結末がわかっていながら、それでも3時間16分を飽きさせない。
良くできた作品だが、冒頭に語られる、日本の経済発展に寄与する黒四ダムは、その下流にある戦前に国策で造られた第三発電所・仙人谷ダムのように無謀な工事は行わず、犠牲者を出さないというテーマに、ラストではほとんど触れないのは、協力した関西電力への配慮か? 仙人谷ダムの犠牲者は300余人、黒四は171人で決して少なくない。
黒四も関電の事業とはいえ国策的で、建設の意義は第三発電所と同じ。当時は難工事には人柱はつきものというのが常識だったが、国策のためには犠牲者もやむなしというのは、人夫に対する強制があるなしに係わらず同じ考え。それを難工事を完成させたプロジェクトXという美談にすり替えた印象が残るのは残念。
冒頭、社長(滝沢修)を始めとした関電の幹部らの態度が官僚的で、原発事故再稼働を巡る関電や東電の対応を髣髴させて、遠い過去の話と思っていたのが、意外にも現代に通じる電力会社の臍の緒を見る思いがする。
黛敏郎の音楽は仰々しいが、冒頭の北アルプスの春山のシーンは見どころ。宇野重吉・寺尾聰が親子の役で出演。石原の父親役・辰巳柳太郎の演技も見どころ。 (評価:2.5)
製作:羽仁プロ、日本ATG
公開:1968年05月25日
監督:羽仁進 製作:藤井知至 脚本:寺山修司、羽仁進 撮影:奥村祐治
キネマ旬報:6位
性に傷つき汚れた少年少女の初めてのプラトニックな恋
寺山修司・羽仁進の共同脚本。岩波映画出身の羽仁が監督したドキュメンタリー手法の劇映画。
通常の劇映画の演出とは違うカット割りや編集が斬新。寺山の脚本は従来のドラマツルギーを無視したアングラ臭の漂うもの。中卒の男女の初恋物語なのだが、少年は母に捨てられ養父に育てられた彫金師の卵で、トラウマから少女とのセックスでは勃起しない。少女は集団就職で上京したがヌードモデルに転じ、妻子持ちのパトロンもいる。そんな二人が惹かれあい、曲折を経て再びホテルで待ち合わせるというところで悲劇が幕を下ろす。
本作で描かれるのは初々しい初恋ではない。性で汚れ傷つき煩悶する二人が、初めてプラトニックな恋をする。それがタイトル、初恋・地獄篇の意味でもある。
清々しい純愛物語を見慣れた目には、このどろどろとした純愛物語は決して心地よいものでも明るいものでもない。しかし本作が製作された当時、多くの少年少女が義務教育終了とともに就職し、都会に出てきた。寺山と羽仁は映画の中で描かれる清く美しい夢物語ではなく、生き方に苦しむ現実の少年少女たちに目を向けさせた。それがフィクショナルではないドキュメンタリー手法を採った理由でもある。
映画は決して難解でも前衛的でもないが、時代背景は理解しておいた方がよい。SMや風俗的なシーンが多いので人によっては嫌悪感も。一部に児童ポルノ的要素もある。羽仁進の娘・未央が幼女役で出演したのも当時話題だった。 (評価:2.5)
公開:1968年05月25日
監督:羽仁進 製作:藤井知至 脚本:寺山修司、羽仁進 撮影:奥村祐治
キネマ旬報:6位
寺山修司・羽仁進の共同脚本。岩波映画出身の羽仁が監督したドキュメンタリー手法の劇映画。
通常の劇映画の演出とは違うカット割りや編集が斬新。寺山の脚本は従来のドラマツルギーを無視したアングラ臭の漂うもの。中卒の男女の初恋物語なのだが、少年は母に捨てられ養父に育てられた彫金師の卵で、トラウマから少女とのセックスでは勃起しない。少女は集団就職で上京したがヌードモデルに転じ、妻子持ちのパトロンもいる。そんな二人が惹かれあい、曲折を経て再びホテルで待ち合わせるというところで悲劇が幕を下ろす。
本作で描かれるのは初々しい初恋ではない。性で汚れ傷つき煩悶する二人が、初めてプラトニックな恋をする。それがタイトル、初恋・地獄篇の意味でもある。
清々しい純愛物語を見慣れた目には、このどろどろとした純愛物語は決して心地よいものでも明るいものでもない。しかし本作が製作された当時、多くの少年少女が義務教育終了とともに就職し、都会に出てきた。寺山と羽仁は映画の中で描かれる清く美しい夢物語ではなく、生き方に苦しむ現実の少年少女たちに目を向けさせた。それがフィクショナルではないドキュメンタリー手法を採った理由でもある。
映画は決して難解でも前衛的でもないが、時代背景は理解しておいた方がよい。SMや風俗的なシーンが多いので人によっては嫌悪感も。一部に児童ポルノ的要素もある。羽仁進の娘・未央が幼女役で出演したのも当時話題だった。 (評価:2.5)
製作:東映東京
公開:1968年10月25日
監督:内田吐夢 製作:大川博 脚本:棚田吾郎 撮影:仲沢半次郎 美術:藤田博 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:9位
優しくされると、その人を好きになっちゃうのよ
尾崎士郎の『人生劇場 残侠編』が原作。侠客・飛車角と茶屋女・おとよの悲恋を軸にした内田吐夢らしい任侠映画。
飛車角(鶴田浩二)はおとよ(藤純子)を脚抜けさせて小金一家に匿われるが、裏切っておとよを連れ出した兄弟分を刺殺。偶然吉良常(辰巳柳太郎)と出会ったのちに自首する。飛車角が入獄すると、おとよは姿を晦まして玉の井の茶屋女に。そうとは知らない小金一家の宮川(高倉健)と恋仲になる。
ところが互いの素性を知ることになり、宮川は出所した飛車角に指を詰めて詫びを入れ、おとよは同僚のお袖(左幸子)と脚抜けして再び姿を隠し、吉良屋の芸者に。そこは吉良常の古巣で、お座敷に呼ばれたおとよは飛車角と再会することになる。
飛車角は詫びを入れた宮川への義理からおとよと縁りを戻すことはできず、おとよもまた不義理をした飛車角に復縁を求めることはできないという、愛し合いながらも結ばれることのない悲恋。
最後は飛車角のために命を捨てる宮川、その宮川の仇討を果たして、おとよに仏を預けて立ち去る飛車角という任侠の花道のラストシーンとなる。
この二人の悲しい大人の恋を見守るのが老侠客・吉良常で、吉良常に自身を重ねて描く内田吐夢の老境が渋い。
玉の井を抜け出す際に、お袖が「宮川を好きになったのは気の迷いで、おとよが愛しているのは飛車角よ」と諭すシーンがあるが、「誰かに優しくされると、その人を好きになっちゃうのよ」というおとよの答えが、儚げで味わい深い。
見せ場の飛車角の殴り込みシーンのモノクロ転換も、ヒーロー性を売りとする任侠映画とは一線を引く内田吐夢らしい演出。 (評価:2.5)
公開:1968年10月25日
監督:内田吐夢 製作:大川博 脚本:棚田吾郎 撮影:仲沢半次郎 美術:藤田博 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:9位
尾崎士郎の『人生劇場 残侠編』が原作。侠客・飛車角と茶屋女・おとよの悲恋を軸にした内田吐夢らしい任侠映画。
飛車角(鶴田浩二)はおとよ(藤純子)を脚抜けさせて小金一家に匿われるが、裏切っておとよを連れ出した兄弟分を刺殺。偶然吉良常(辰巳柳太郎)と出会ったのちに自首する。飛車角が入獄すると、おとよは姿を晦まして玉の井の茶屋女に。そうとは知らない小金一家の宮川(高倉健)と恋仲になる。
ところが互いの素性を知ることになり、宮川は出所した飛車角に指を詰めて詫びを入れ、おとよは同僚のお袖(左幸子)と脚抜けして再び姿を隠し、吉良屋の芸者に。そこは吉良常の古巣で、お座敷に呼ばれたおとよは飛車角と再会することになる。
飛車角は詫びを入れた宮川への義理からおとよと縁りを戻すことはできず、おとよもまた不義理をした飛車角に復縁を求めることはできないという、愛し合いながらも結ばれることのない悲恋。
最後は飛車角のために命を捨てる宮川、その宮川の仇討を果たして、おとよに仏を預けて立ち去る飛車角という任侠の花道のラストシーンとなる。
この二人の悲しい大人の恋を見守るのが老侠客・吉良常で、吉良常に自身を重ねて描く内田吐夢の老境が渋い。
玉の井を抜け出す際に、お袖が「宮川を好きになったのは気の迷いで、おとよが愛しているのは飛車角よ」と諭すシーンがあるが、「誰かに優しくされると、その人を好きになっちゃうのよ」というおとよの答えが、儚げで味わい深い。
見せ場の飛車角の殴り込みシーンのモノクロ転換も、ヒーロー性を売りとする任侠映画とは一線を引く内田吐夢らしい演出。 (評価:2.5)
公開:1968年6月8日
監督:小林正樹 製作:佐藤一郎、椎野英之、佐藤正之 脚本:広沢栄 撮影:岡崎宏三 美術:小島基司 音楽:武満徹
キネマ旬報:7位
遠藤周作の小説『どっこいショ』が原作。
変化のない平凡な日々を送っている男が、かつての恋人との出会いをきっかけに過去の戦争の疼きを甦らせ、自らの失われた青春と、戦後生まれの息子の青春とを対比させながら描く。
小さな特許事務所を開く善作(藤田まこと)は、妻の美代(奈良岡朋子)、大学浪人生の廉二(黒沢年雄)、高校生の咲子(菊容子)と平凡な毎日を送っている。
ある日、銀座のクラブに善作を知っているママがいると聞いて訪れると、それは学徒出陣によって仲を引き裂かれた芳子(新珠三千代)で、善作の心にさざ波が立つ。
芳子の亡夫が遺した研究ノートの実現を依頼され、友人(花沢徳衛)を介して事業家を紹介されるが、かつて暴行を受けた上官の鈴木(佐藤慶)という巡り合わせ。しかもその娘・真理子(酒井和歌子)が廉二のガールフレンドという出来過ぎた設定で、甦った20余年前の亡霊によって5人の葛藤の物語が始まる。
権力で芳子をモノにしようとする鈴木。権力に対する無力を悟る芳子。権力にまたしても敗北する善作。過去の亡霊から自由な生き方を求める廉二と真理子。とりわけ自衛隊に対して、若い二人が肯定論と否定論に分かれて共存するラストが、ステレオタイプな反戦映画になっていない。
失われたはずの20余年前の青春を取り戻そうとした善作が、20余年前に現実から逃避しない選択をしたことを思い出し、今ある家族と真摯に向き合う生活へと戻っていくというのが結末であり、本作のテーマとなっている。
現在進行形の物語と、過去の出来事を辿っていく物語が最後に一つに結び合う構成が見事で、小林正樹らしい骨太な作品。井の頭線渋谷駅のホームの雑踏から始まり、ホームの雑踏に終わる映像もいい。
あなたは蒸発したいと思いますか? のインタビューで始まるが、『人間蒸発』(1967)に見られる蒸発ブームの頃の制作で、戦後の混乱を潜り抜けた戦中派の現実逃避願望という、60年代の時代の空気が窺えるのも興味深い。 (評価:2.5)
不信のとき
公開:1968年6月29日
監督:今井正 製作:永田雅一 脚本:井手俊郎 撮影:小林節雄 美術:渡辺竹三郎 音楽:富田勲
有吉佐和子の同名小説が原作。
サラリーマンの浮気騒動を描く物語で、発端はパーのホステスの自宅に誘われてベッドイン。シングルマザーでいいから子供が欲しいとせがまれて承知するが、ホステスが若尾文子だけに何となく危険な香りが漂う。
この男(田宮二郎)には妻(岡田茉莉子)がいるが、夫婦には子供がなく、何年か前の検査で妻が不妊症のためと診断されている。ホステスが妊娠して有頂天の男はつい妻に子供ができないことを責めてしまい、それで発奮したのか妻も妊娠してしまい、腹違いの一姫二太郎となる。
浮気もバレず二重生活も順調で子供も育つが、男の入院をきっかけに愛人と妻が鉢合わせ。すると妻が意外なことを言い出す。曰く、夫は無精子症なので愛人の子供は夫の子ではない。自分の子は夫以外の精子による人工授精によるものだ。
それを真に受けた男が愛人に詰め寄ると、嘘をついているのは妻の方で、妻との間の子は間男の子だとなじる。混乱した男はかつて愛人関係にあった人妻(岸田今日子)が子供を連れているのに出会い、その子が自分の子だと言われて途方に暮れて終わる。
女は怖い、浮気はダメよという教訓話で、今井正には珍しい通俗的な作品となっているが、ストーリーそのものはよくできていて、浮気な男に悩む女性には留飲の下がるオチとなっている。
真実はどこにあるかといえば、妻が人工授精のために戸籍謄本を2通用意したという話があって、愛人が郷里で飲食店を開くための資金を男に要求していることから、どうやら妻の言っていることが本当のようで、愛人が若尾文子というのも説得力がある。
若尾・岡田の演技が堂に入って、右往左往する田宮と好対照だが、この作品のポスターの順位が友人(三島雅夫)の愛人役の加賀まりこを入れた女優3人に次いで田宮が4番目だったことで、永田雅一に抗議したために映画界で干されてしまったという逸話があって、女に翻弄される主人公を地で行くのが可笑しい。 (評価:2.5)
製作:松竹
公開:1968年6月15日
監督:山田洋次 製作:脇田茂 脚本:森崎東、山田洋次 撮影:高羽哲夫 美術:重田重盛 音楽:山本直純
キネマ旬報:10位
『男はつらいよ』を彷彿させる演出・撮影とキャラクター
『男はつらいよ』の前年に作られた人情喜劇で、主演のなべおさみを始め、隣室のヤクザに犬塚弘、大学教授に有島一郎、トルコの女将にミヤコ蝶々とコメディアンを中心とした配役になっている。
もっとも内容的には笑いよりは人情もので、おつむの軽いチンピラ(なべおさみ)が、やはりおつむの軽い田舎娘(緑魔子)を騙すつもりが好きになり、本物のヤクザを目指しながら失敗を繰り返し、二人で所帯を持とうと約束したも空しく、娘は流産で死亡。遺骨を長崎の祖母に届け、自らは外国航路の船員となって新たな旅立ちをするという物語になっている。
おつむの足りない田舎娘を緑魔子が好演していて、主役をはじめとしたコメディアンもそつのない演技。とりわけ有島一郎のおとぼけぶりが作品全体に味を出している。
山田洋次の演出はロング、パン、煽りと、その後の『男はつらいよ』シリーズを彷彿させるカメラワークとカット割りで、なべおさみが寅次郎に見えてくる。
本作を見ていると、演出・撮影が『男はつらいよ』とよく似ていて、山田洋次カラーというものを確認することができる。
なべおさみの弟分が佐藤蛾次郎で、『男はつらいよ』の源公の原型。トルコの女将のミヤコ蝶々も寅次郎の母・お菊と似たキャラクターで、本作の設定が『男はつらいよ』に活かされているのがわかる。 (評価:2.5)
公開:1968年6月15日
監督:山田洋次 製作:脇田茂 脚本:森崎東、山田洋次 撮影:高羽哲夫 美術:重田重盛 音楽:山本直純
キネマ旬報:10位
『男はつらいよ』の前年に作られた人情喜劇で、主演のなべおさみを始め、隣室のヤクザに犬塚弘、大学教授に有島一郎、トルコの女将にミヤコ蝶々とコメディアンを中心とした配役になっている。
もっとも内容的には笑いよりは人情もので、おつむの軽いチンピラ(なべおさみ)が、やはりおつむの軽い田舎娘(緑魔子)を騙すつもりが好きになり、本物のヤクザを目指しながら失敗を繰り返し、二人で所帯を持とうと約束したも空しく、娘は流産で死亡。遺骨を長崎の祖母に届け、自らは外国航路の船員となって新たな旅立ちをするという物語になっている。
おつむの足りない田舎娘を緑魔子が好演していて、主役をはじめとしたコメディアンもそつのない演技。とりわけ有島一郎のおとぼけぶりが作品全体に味を出している。
山田洋次の演出はロング、パン、煽りと、その後の『男はつらいよ』シリーズを彷彿させるカメラワークとカット割りで、なべおさみが寅次郎に見えてくる。
本作を見ていると、演出・撮影が『男はつらいよ』とよく似ていて、山田洋次カラーというものを確認することができる。
なべおさみの弟分が佐藤蛾次郎で、『男はつらいよ』の源公の原型。トルコの女将のミヤコ蝶々も寅次郎の母・お菊と似たキャラクターで、本作の設定が『男はつらいよ』に活かされているのがわかる。 (評価:2.5)
公開:1968年6月1日
監督:勅使河原宏 製作:永田雅一 脚本:安部公房 撮影:上原明 音楽:武満徹 美術:間野重雄
キネマ旬報:8位
安部公房の同名小説が原作で、脚本も担当している。勅使河原宏監督。
主人公は興信所の探偵(勝新太郎)で、失踪した夫の行方についての調査依頼を受ける。依頼人(市原悦子)のヤクザの弟、夫が出入りしていた喫茶店、ヌードモデル(長山藍子)、会社の部下(渥美清)とミステリアスな人間たちが絡み、物語は事件の迷宮へと入り込んでいく。
勝新が主人公の探偵映画だと思って観ると、おそらく期待が外れる。原作・脚本は安部公房だということを忘れない方がいい。事件は解決しないし、アクションも爽快感もない。探偵は事件の迷宮に入り込み、抜けられなくなって、自己崩壊する。残るのはモヤモヤした消化不良感だけ。
本作は東京オリンピックを経て近代都市に変貌していく東京と、都会の中で彷徨い、自己を失い、破滅していく人間を描く一種の文明批判。モータリゼーションの怒涛がカットとして執拗に描かれ、最後は猫の轢死体として、都会の人々を象徴する。
当時の知識人たちが日本と東京の急激な変化に戸惑い、現代化・機械化に人間性の喪失という危機感を抱いたのは理解できるが、今観ると、それが過剰なリアクションであったように見える。その後、人々はそれほど迷走もせずに変化を吸収し、人間性を失うこともなかった。つまり、この映画は書生論で、しかし一時期そういう危惧を真剣に抱いたということに歴史的意味がある。
当時の東京の景色が懐かしい。知らない人には、高層ビルもない東京の貴重映像。寅さん前の渥美清、勝夫人の中村玉緒、市原悦子が若い。 (評価:2.5)
公開:1968年6月8日
監督:森谷司郎 製作:中友幸 脚本:橋本忍 撮影:中井朝一 音楽:佐藤勝 美術:阿久根厳
キネマ旬報:5位
正木ひろしの『弁護士』が原作のノンフィクション・ドラマ。森谷司郎監督。
正木は人権派の弁護士で、三鷹事件・八海事件・チャタレー事件・白鳥事件等の著名な裁判に係わった。『弁護士』は戦時中に茨城県で起きた首なし事件について書かれたもので、官憲による拷問撲殺事件の真相を正木が解明した記録。
映画は事件を時系列に追っていく再現ドラマに近く、そうした点からはとくに工夫もない。官憲による拷問事件もありきたりだが、特異なのは弁護士である正木が真相究明のために墳墓発掘・死体を損壊するという犯罪を犯すことで、それを実行する段になると犯罪映画の緊迫感を帯びてくる。
作品そのものは決して退屈しないし、社会派実録物としても過去にこのような事件があったことを知る上でもそれなりの意味はあるが、小林正樹の熱血漢ぶりが堂に入り過ぎていて、正木弁護士の自慢話を聞かされている感もあり、映画としてそれ以上のものにはなっていない。
官憲による拷問撲殺も警察・検察による隠蔽工作も、正木は戦争のせいにしているが、戦争が終わった今も警察・検察の強権・隠蔽体質は続いているわけで、戦前、検察を信じた正木が甘かったのと同様、戦争が腐敗の根源だと考えたことも甘く、先見の明がなかったことをこの映画は証明している。
大滝秀治・神山繁の悪役ぶりがいい。 (評価:2.5)
緋牡丹博徒
公開:1968年09月14日
監督:山下耕作 脚本:鈴木則文 撮影:古谷伸 音楽:渡辺岳夫 美術:雨森義允
東映任侠映画全盛時の人気シリーズの一つ。高倉健、鶴田浩二の向こうを張った美人の女侠客が格好よかった。もう一人の江波杏子は大映。
観直すと、所詮はお嬢さんヤクザで、女だてらに粋がってはみても、男の助けなしには生きていけないという男性目線の映画。古い映画なのでいたしかたないが、清川虹子の女親分の方がよほど格好いい。『鬼龍院花子の生涯』(1982)の夏目雅子のような真の強さが感じられないのが残念。
博徒の親分の父を辻斬に殺され、一家を解散したお竜(藤純子)が賭場を渡り歩きながら仇打ちを果たす物語。それまでは堅気に嫁ぐ花嫁修業を続けていたという設定で、どこで肩に緋牡丹の入れ墨を入れたのかは説明されない。途中出所したばかりの高倉健と知り合うが、一度人を殺めたらその血は拭えないと言って仇打ちを諦めさせようとする。実は健さんの弟分が犯人で、ラストシーンでは言葉通りに健さんが弟分を斬り殺す。しかしその前にお竜は拳銃で派手な血は流れないものの何人も撃ち殺していて、鈴木則文の脚本か山下耕作の演出か、都合の良さに白ける。仇打ちを本人がやらないというのも肩すかし。
最後は一家を再興し2代目を襲名して終わるが、父を殺されなければ堅気の幸せな女の人生を歩めただろうにという回想シーンのセンチメンタル。そんな女に男が惚れるという時代だった。
コメディ要素もあって、若山富三郎が意外と良い。金子信雄の親分が物分かりがよいのは、やや残念か。 (評価:2)
製作:「肉弾」をつくる会、ATG
公開:1968年10月22日
監督:岡本喜八 製作:馬場和夫 脚本:岡本喜八 撮影:村井博 美術:阿久根厳 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:2位
戦争の青春にテーマの風化を感じる
戦争末期、広島に原爆が投下され、米軍の本土上陸に備えて戦車、艦船への特攻隊員となった学生の物語。
主人公を寺田農が演じる。特攻前日に女郎を買いに出かけ、女学生(大谷直子)に恋し、翌日砂丘で地雷を抱えて蛸壺に潜んでいるところを少年(雷門ケン坊)と出合う。作戦変更により魚雷を抱えて樽に乗るも、発射した魚雷は海に沈み、海上で終戦を迎える。
出合った糞尿船に曳航されるもロープが切れて海に漂い、時は移って20年後、海水浴の若者たちで賑わう湘南の海に白骨化した樽が浮かび続ける。
出陣学徒の孤独な戦いをアイロニーとペーソス豊かに描くのだが、製作費がないのがありありの低予算映画で、戦闘シーンは全く描かれず、戦闘シーンが登場しないようにシナリオが出来ている。
これをアイディアと取るか手抜きと取るかは見る側の判断だが、そうした事情が透けて見えてしまっては、観客に幻想の時間と空間を売ることはできない。
60年代の終わり頃には、こうして死んでいった若者たちと享楽的な戦後の若者たちを比較して、戦争の青春を忘れるな、若者よ平和な世の中に対して立ち向かえ的な啓蒙がある種流行りだった。今見返してみると、主観的な想像力に頼る物語は退屈で、ラストシーンもコメディにしか見えないところにテーマの風化を感じる。
笠智衆、北林谷栄、春川ますみ、田中邦衛、伊藤雄之助など俳優陣は実力派ぞろい。 (評価:2)
公開:1968年10月22日
監督:岡本喜八 製作:馬場和夫 脚本:岡本喜八 撮影:村井博 美術:阿久根厳 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:2位
戦争末期、広島に原爆が投下され、米軍の本土上陸に備えて戦車、艦船への特攻隊員となった学生の物語。
主人公を寺田農が演じる。特攻前日に女郎を買いに出かけ、女学生(大谷直子)に恋し、翌日砂丘で地雷を抱えて蛸壺に潜んでいるところを少年(雷門ケン坊)と出合う。作戦変更により魚雷を抱えて樽に乗るも、発射した魚雷は海に沈み、海上で終戦を迎える。
出合った糞尿船に曳航されるもロープが切れて海に漂い、時は移って20年後、海水浴の若者たちで賑わう湘南の海に白骨化した樽が浮かび続ける。
出陣学徒の孤独な戦いをアイロニーとペーソス豊かに描くのだが、製作費がないのがありありの低予算映画で、戦闘シーンは全く描かれず、戦闘シーンが登場しないようにシナリオが出来ている。
これをアイディアと取るか手抜きと取るかは見る側の判断だが、そうした事情が透けて見えてしまっては、観客に幻想の時間と空間を売ることはできない。
60年代の終わり頃には、こうして死んでいった若者たちと享楽的な戦後の若者たちを比較して、戦争の青春を忘れるな、若者よ平和な世の中に対して立ち向かえ的な啓蒙がある種流行りだった。今見返してみると、主観的な想像力に頼る物語は退屈で、ラストシーンもコメディにしか見えないところにテーマの風化を感じる。
笠智衆、北林谷栄、春川ますみ、田中邦衛、伊藤雄之助など俳優陣は実力派ぞろい。 (評価:2)
さらば夏の光
公開:1968年12月31日
監督:吉田喜重 製作:曾志崎信二 脚本:山田正弘、長谷川竜生、吉田喜重 撮影:奥村祐治、佐藤敏彦 音楽:一柳慧
ATG配給でありながら、日本航空が協力するというよくわからない作品で、ベースは恋愛映画であり、ヨーロッパ観光映画でありながら、ナガサキのメタファーがあるようなないような、恋愛映画のわりには台詞も演技も記号的で恋愛そのものをソフィストケートしたような難解な雰囲気も漂わせていて、今ひとつすっきりしない。
吉田喜重だから単なる観光恋愛映画のはずはないと意味を求めれば、原爆で家族を亡くした長崎生まれの女(岡田茉莉子)にとって異性愛だけでなく人間愛そのものを信じることができず、ヨーロッパを旅する根無し草、愛の放浪者となっている。
一方の男(横内正)は、長崎で写生を見たカテドラルを捜しにヨーロッパを訪れ、女こそがカテドラルだと求愛するが、ナガサキ=原爆=女のトライアングルが今一つ理解できない。
二人は愛を求めながらもその愛は成就することなく、男のカテドラルは崩れ去り、女はすべての束縛を断って自由となるがそれは不安定なもので、女同様、観客も頼りない空間にポツンと放り出される。
1968年夏というクレジットでエンドとなるが、この年は佐世保に原子力空母エンタープライズが寄港し、ベトナム戦争泥沼化、パリ5月革命、チェコ事件と世界が不安定化し、人間愛は不毛となった。
ドラマとしてはこの上なく退屈で、空虚な愛についての言葉が飛び交うが、吉田喜重の映像だけは美しく、ポルトガル、スペイン、フランス、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イタリアの観光映画としては第一級の出来となっている。 (評価:2)
人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊
公開:1968年1月3日
監督:小沢茂弘 製作:大川博 脚本:棚田吾郎 撮影:吉田貞次 美術:鈴木孝俊 音楽:木下忠司
毎日新聞社編『人間魚雷 : 回天特別攻撃隊員の手記』が原作。
戦時中に魚雷基地だった山口県大津島が舞台。回天の構想から始まり、開発、試験運転、訓練、出撃。西カロリン諸島で潜水艦から発射され、アメリカ軍艦に特攻し撃沈するまでを描く。
冒頭より戦争の悲劇として語られ、反戦が基調になっているが、任侠映画の東映らしさが随所に顔を覗かせ、特攻兵、とりわけ海軍士官たちのヒロイズムが高らかに謳い上げられ、反戦よりも愛国精神を賛美しているかのような錯覚に陥る。
ウィキペディアの『AVジャーナル』からの引用によれば、本作を観て感動した森田健作が自衛隊入隊を志願したというのも頷ける、戦中派・小沢茂弘の無意識による戦意高揚映画となっている。
回天の歴史を概観していくが、戦争映画としては水中を潜航する魚雷そのものが映像的には地味で、派手なアクションシーンもエピソードもない分、単調さと退屈さを免れない。
回天の戦術やテクニカルな部分を詳細に描ければ、内容的には濃くなったのだろうが、起死回生のために特攻を志願する兵学校と学徒兵たちの対立、心の葛藤を中心とした、祖国防衛のために命を捧げる若者たちの悲劇にドラマの主軸を置いたため、とりわけ出撃前夜の家族たちとの別れなど、センチメンタルなヒロイズムに流れてしまった。
アメリカ艦隊の進撃を食い止めるためには日本の海軍力では人間魚雷しか手がなく、魚雷からの兵士の離脱ができないという事情を技術面からもう少し詳しく説明してほしかった。
人間魚雷計画の中心となる大尉に鶴田浩二、主人公に松方弘樹。ほか梅宮辰夫、伊丹十三らが出演し、東映らしい硬派な面子による戦争映画になっている。 (評価:2)
あゝひめゆりの塔
公開:1968年9月21日
監督:舛田利雄 脚本:若井基成、石森史郎、八木保太郎 撮影:横山実 美術:木村威夫 音楽:真鍋理一郎
石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が原作。
吉永小百合主演、日活スター総出演で製作された大作で、空襲シーンでは大量の爆薬が使われているが、物量の割にはシナリオも撮影も雑なのがいただけない。
物語は昭和18年、後にひめゆり学徒隊と呼ばれることになる沖縄師範学校女子部の運動会から始まる。主人公の与那嶺和子(吉永小百合)を筆頭に、和泉雅子、梶芽衣子(クレジットは太田雅子)、浜かおる(同・浜川智子)、音無美紀子、真木洋子(同・柚木れい子)らのブルマー姿が貴重。
戦況の悪化とともに学童疎開船・対馬丸撃沈、那覇空襲、学徒隊編成、米軍上陸、野戦病院の南風原からの南下、学徒隊解散、戦闘終了までが順を追って描かれる。
ひめゆり部隊が題材とあって冒頭から悲壮感に溢れ、感情に激するシーンが多く、必要以上に情緒的。泣くか死ぬかのシーンばかりで、戦記物としての冷静さの欠片もないのが作品的には大きな欠点。
学徒隊解散に当たって、教師たちが生き延びることを求めながら、ラストシーンは摩文仁の丘で主人公が手榴弾で自決するというのも、ひめゆり部隊の悲劇性を優先してテーマと食い違っていて、遺憾。
現地ロケができなかった事情は置いても、沖縄南部が針葉樹林というのも興醒めで、富士演習場のような荒野や砂浜での爆撃、盲滅法の火薬の扱いなど、迫力優先でいささか考証とリアリティに欠けるのも興を削いでいる。 (評価:2)
製作:大映京都
公開:1968年3月20日
監督:安田公義 脚本:吉田哲郎 撮影:竹村康和 美術:西岡善信、加藤茂 音楽:渡辺宙明
妖怪が主役になっていないのが出来がいいだけに惜しい
江戸を舞台に長屋の住民、それを追い立てようとする悪徳商人、袖の下の寺社奉行、これを正す大目付の隠密という黄金シフトの時代劇。
これに百物語を絡ませて怪談に仕立てるが、若干無理矢理なところがあって、最後は物の怪たちが悪者を自滅に追いやるものの、百物語〆のお呪いをやっていれば物の怪たちの出番はなく、悪者を懲らしめられないというシナリオ上の矛盾を孕んでいる。
ヒロインの長屋の娘に高田美和、ヒーローの隠密に藤巻潤、悪徳商人に神田隆、長屋の女に坪内ミキ子、狂言回しに悪徳商人の息子・ルーキー新一、手下に吉田義夫、長屋の住人に浜村純と当時としてはキャストもまずまずで、宴席で百物語を語るのに林家正蔵を起用。傘お化けにろくろ首、のっぺらぼう、大首など30体の百鬼夜行が登場し、造形・特撮を含めて相当に力が入った作品。
造形・特撮が頑張っていて、妖怪映画としての出来は一級、CGにはない魅力満点なのだが、ストーリーを突き詰めていくと百物語と妖怪が主役の作品になっていないのが、妖怪の出来がいいだけに惜しい。
百鬼夜行の登場からは妖怪は脅かしの材料だけで物語には絡まない。正蔵が語る百物語の中の浪人二人の本所七不思議のエピソードが唯一怪談らしいシーンとなっている。ろくろ首役は毛利郁子。 (評価:2)
公開:1968年3月20日
監督:安田公義 脚本:吉田哲郎 撮影:竹村康和 美術:西岡善信、加藤茂 音楽:渡辺宙明
江戸を舞台に長屋の住民、それを追い立てようとする悪徳商人、袖の下の寺社奉行、これを正す大目付の隠密という黄金シフトの時代劇。
これに百物語を絡ませて怪談に仕立てるが、若干無理矢理なところがあって、最後は物の怪たちが悪者を自滅に追いやるものの、百物語〆のお呪いをやっていれば物の怪たちの出番はなく、悪者を懲らしめられないというシナリオ上の矛盾を孕んでいる。
ヒロインの長屋の娘に高田美和、ヒーローの隠密に藤巻潤、悪徳商人に神田隆、長屋の女に坪内ミキ子、狂言回しに悪徳商人の息子・ルーキー新一、手下に吉田義夫、長屋の住人に浜村純と当時としてはキャストもまずまずで、宴席で百物語を語るのに林家正蔵を起用。傘お化けにろくろ首、のっぺらぼう、大首など30体の百鬼夜行が登場し、造形・特撮を含めて相当に力が入った作品。
造形・特撮が頑張っていて、妖怪映画としての出来は一級、CGにはない魅力満点なのだが、ストーリーを突き詰めていくと百物語と妖怪が主役の作品になっていないのが、妖怪の出来がいいだけに惜しい。
百鬼夜行の登場からは妖怪は脅かしの材料だけで物語には絡まない。正蔵が語る百物語の中の浪人二人の本所七不思議のエピソードが唯一怪談らしいシーンとなっている。ろくろ首役は毛利郁子。 (評価:2)
あゝ予科練
公開:1968年6月1日
監督:村山新治 製作:大川博 脚本:須崎勝弥 撮影:仲沢半次郎 美術:中村修一郎 音楽:木下忠司
霞ケ浦の海軍飛行予科練習生の教育部隊・土浦海軍航空隊を舞台に描く戦争映画。
西條八十作詞・古関裕而作曲の軍歌「若鷲の歌」を主題歌に、予科練の少年兵たちが野蛮な下士官から鉄の規律と理不尽なシゴキを受けるという定番な描写から始まる。
続いて人間味に溢れた部隊長の大尉(鶴田浩二)が父親のように少年たちを見守り、生き抜くために厳しい訓練に耐えるように諭し、航空兵は爆弾ではないと特攻に反対する。
少年たちは些細なことから喧嘩をし、それぞれに複雑な家庭環境を背景に予科練に入隊したことが描かれる。戦況悪化と共に大尉は南方戦線へ。見送る少年兵たちもやがて特攻作戦中のフィリピンに向かい、大尉と再会。生き残った3名(西郷輝彦、谷隼人、長沢純)は鹿屋基地に転属、特攻命令を受け、最後の夜を慰安婦と共に過ごす。
指揮機を自ら志願した大尉は、かつての生徒たちと共に沖縄海上のアメリカ艦隊の特攻に飛び立ち、海に散るというラスト。
始めから終わりまで既視感の漂うストーリーと展開で、定番のエピソードを組み合わせたありきたりの特攻モノとなっている。
太田博之なども出演し、少年兵はアイドル、悪役軍人には丹波哲郎、池部良、善玉には伊丹十三というわかりやすいキャスティング。藤純子、大原麗子が戦争の影の女たちというように花を添えるのも凡庸。 (評価:2)
製作:松竹
公開:1968年8月14日
監督:佐藤肇 製作:猪股尭 脚本:高久進、小林久三 撮影:平瀬静雄 美術:芳野尹孝 音楽:菊池俊輔
高英男の能面のような無表情と佐藤友美が見どころだが
松竹の怪奇特撮映画第1弾として制作されたというが、まったく記憶にない。併映が深作欣二監督・丸山明宏主演の『黒蜥蜴』で、こちらはかなり話題になっていたので、その陰に隠れた作品。
ゴケミドロのB級振りは半端ではないが、ピー・プロダクションの企画らしくB級特撮もののツボは抑えている。
ゴケミドロは、空飛ぶ宇宙船でやってきた水銀のようにドロドロした生命体。わけもなく地球壊滅を目指している。その割にはドラマはちゃちくて、旅客機が光球であるUFOと衝突して不時着。乗員・乗客がゴケミドロに襲われるというもの。1967年から日本でも放映された米テレビ映画『インベーダー』が企画のヒントか。
世界から隔絶した荒野での密室劇で、そこで繰り広げられる人間模様が描かれるが、乗客にはテロリストと政治家、心理学者などが乗り込んでいるという、大人向けの意欲作となっている。
もっとも意欲作だからよくできているわけでもなく、広島・長崎の原爆投下以降、ベトナム戦争に至るまでの世界中で起きている戦争、それを引き起こす人類そのものがゴケミドロで、人間の生命を吸い取る吸血鬼というメタファーで、最後には地球が火星のような赤い死の星となってしまうものの、むしろゴケミドロに寄生された人間の顔に開いた縦真一文字の傷口がお岩さんのようで、もっとこの怖さをフィーチャーしてもらった方が、怪奇特撮映らしくなったのではないか。ゴケミドロに寄生される、テロリストに扮するシャンソン歌手の高英男が、能面のような無表情で怖い。
密室劇も特撮製作費のなさを露呈しているようで、ほかにはスチュワーデス役の佐藤友美くらいしか見どころがないが、ゴケミドロの怪奇の前には独特の色気も中途半端。
旅客機の窓に張り付くカラスとか、時限爆弾とか設定上の粗は多く、特撮の人面も一目でマスクとわかってしまうのが辛いが、UFOに吸い込まれて行くシーンの光学処理は効果的。観ていて気になるロケ地は、滋賀県の造成地だったらしい。 (評価:2)
公開:1968年8月14日
監督:佐藤肇 製作:猪股尭 脚本:高久進、小林久三 撮影:平瀬静雄 美術:芳野尹孝 音楽:菊池俊輔
松竹の怪奇特撮映画第1弾として制作されたというが、まったく記憶にない。併映が深作欣二監督・丸山明宏主演の『黒蜥蜴』で、こちらはかなり話題になっていたので、その陰に隠れた作品。
ゴケミドロのB級振りは半端ではないが、ピー・プロダクションの企画らしくB級特撮もののツボは抑えている。
ゴケミドロは、空飛ぶ宇宙船でやってきた水銀のようにドロドロした生命体。わけもなく地球壊滅を目指している。その割にはドラマはちゃちくて、旅客機が光球であるUFOと衝突して不時着。乗員・乗客がゴケミドロに襲われるというもの。1967年から日本でも放映された米テレビ映画『インベーダー』が企画のヒントか。
世界から隔絶した荒野での密室劇で、そこで繰り広げられる人間模様が描かれるが、乗客にはテロリストと政治家、心理学者などが乗り込んでいるという、大人向けの意欲作となっている。
もっとも意欲作だからよくできているわけでもなく、広島・長崎の原爆投下以降、ベトナム戦争に至るまでの世界中で起きている戦争、それを引き起こす人類そのものがゴケミドロで、人間の生命を吸い取る吸血鬼というメタファーで、最後には地球が火星のような赤い死の星となってしまうものの、むしろゴケミドロに寄生された人間の顔に開いた縦真一文字の傷口がお岩さんのようで、もっとこの怖さをフィーチャーしてもらった方が、怪奇特撮映らしくなったのではないか。ゴケミドロに寄生される、テロリストに扮するシャンソン歌手の高英男が、能面のような無表情で怖い。
密室劇も特撮製作費のなさを露呈しているようで、ほかにはスチュワーデス役の佐藤友美くらいしか見どころがないが、ゴケミドロの怪奇の前には独特の色気も中途半端。
旅客機の窓に張り付くカラスとか、時限爆弾とか設定上の粗は多く、特撮の人面も一目でマスクとわかってしまうのが辛いが、UFOに吸い込まれて行くシーンの光学処理は効果的。観ていて気になるロケ地は、滋賀県の造成地だったらしい。 (評価:2)
製作:創造社、ATG
公開:1968年2月3日
監督:大島渚 製作:山口正幸、山口貞治、大島渚 脚本:田村孟、佐々木守、深尾道典、大島渚 撮影:吉岡康弘 美術:戸田重昌 音楽:林光
キネマ旬報:3位
頭でっかちの差別主義者であることを端無くも露呈
1962年に死刑が執行された小松川事件(1958)の犯人、李珍宇がモデル。作中ではRと仮称されている。
冒頭、死刑廃止論の立場から「あなたは死刑を見たことがあるか」と問うが、日本では死刑執行は公開されていないので何とも唐突。以下、この前のめりな姿勢が作品全体に貫かれる。
本作では死刑執行でRが死ななかったという設定で法律論を展開、刑務官・医務官・検事・教誨師が引き起こすドタバタ劇をブラックコメディに描く。
心神喪失となったRに犯行を思い出させるという形で事件を回想していくが、Rが在日朝鮮人だったことから話は個人の問題を離れて差別と国家の問題に発展。さらには死刑を戦争と同じ国家による殺人と主張、罪を憎んで人を憎まず、虐げられた朝鮮人は殺人を犯しても無罪と暴走していく。
もっとも事件当時似たような論調があって、大島はそれに乗っかって議論を推し進めるが、冒頭の死刑制度の是非はどこかにすっ飛んでしまって支離滅裂な展開となる。半世紀後の冷静な目からは、左翼思想にかぶれた青臭い未熟な議論で、他の大島作品同様に時代に消費される作品となっている。
死刑制度を論じる割には死の尊厳そのものを愚弄していて、死刑執行に葛藤する関係者を戯画化する軽率さが不快に感じられる。刑務官を国に代って殺人をする首切り役人呼ばわりして平然と差別。朝鮮人の喧嘩は日本人と違って下劣と表現するなど、朝鮮人差別を告発する割には潜在意識では朝鮮人を差別。大島が頭でっかちの差別主義者であることを端無くも露呈している。 (評価:1.5)
公開:1968年2月3日
監督:大島渚 製作:山口正幸、山口貞治、大島渚 脚本:田村孟、佐々木守、深尾道典、大島渚 撮影:吉岡康弘 美術:戸田重昌 音楽:林光
キネマ旬報:3位
1962年に死刑が執行された小松川事件(1958)の犯人、李珍宇がモデル。作中ではRと仮称されている。
冒頭、死刑廃止論の立場から「あなたは死刑を見たことがあるか」と問うが、日本では死刑執行は公開されていないので何とも唐突。以下、この前のめりな姿勢が作品全体に貫かれる。
本作では死刑執行でRが死ななかったという設定で法律論を展開、刑務官・医務官・検事・教誨師が引き起こすドタバタ劇をブラックコメディに描く。
心神喪失となったRに犯行を思い出させるという形で事件を回想していくが、Rが在日朝鮮人だったことから話は個人の問題を離れて差別と国家の問題に発展。さらには死刑を戦争と同じ国家による殺人と主張、罪を憎んで人を憎まず、虐げられた朝鮮人は殺人を犯しても無罪と暴走していく。
もっとも事件当時似たような論調があって、大島はそれに乗っかって議論を推し進めるが、冒頭の死刑制度の是非はどこかにすっ飛んでしまって支離滅裂な展開となる。半世紀後の冷静な目からは、左翼思想にかぶれた青臭い未熟な議論で、他の大島作品同様に時代に消費される作品となっている。
死刑制度を論じる割には死の尊厳そのものを愚弄していて、死刑執行に葛藤する関係者を戯画化する軽率さが不快に感じられる。刑務官を国に代って殺人をする首切り役人呼ばわりして平然と差別。朝鮮人の喧嘩は日本人と違って下劣と表現するなど、朝鮮人差別を告発する割には潜在意識では朝鮮人を差別。大島が頭でっかちの差別主義者であることを端無くも露呈している。 (評価:1.5)
怪獣総進撃
公開:1968年08月01日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:馬淵薫、本多猪四郎 特技監督:円谷英二 撮影:完倉泰一 音楽:伊福部昭 美術:北猛夫
『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』に続くゴジラ映画第9作。完全にマンネリでミニラや前田美波里のような工夫もなく、俳優陣も二流。
怪獣を集めた怪獣ランドの島を作ったという設定。ジュラシックパークの先駆けか。小惑星帯から美人の宇宙人がやってきて怪獣を操り、モスクワ・パリ・ニューヨークを襲わせる。凱旋門がバラゴンに壊されるシーンがある。宇宙人は富士山麓に秘密基地を作り、支配下に収めようとするが、月面基地隊員が月に置かれたコントロール装置を奪取。逆に怪獣をコントロールして宇宙人と戦わせる。宇宙人の援軍はキングギドラ。
東宝怪獣総出演で華々しいが、それだけを見る作品になっている。 (評価:1.5)