日本映画レビュー──1965年
製作:東京オリンピック映画協会
公開:1965年03月20日
総監督:市川崑 脚本:和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑 撮影:林田重男、宮川一夫、中村謹司、田中正 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:2位
市川崑は競技ではなくオリンピック精神を記録した
1964年に開催された東京オリンピックの公式記録映画。所謂記録映画の撮り方をしなかったために当時毀誉褒貶があったが、市川崑が1936年のベルリン五輪の記録映画、レニ・リーフェンシュタール監督の名作"Olympia"(邦題は『民族の祭典』『美の祭典』の2部作)を意識して制作したことは間違いない。
" Olympia"が肉体美を描いたのに対し、市川は精神に焦点を当てた。そのため、競技そのものよりも競技前後の選手の表情を描くシーンが多く、競技シーンもスローやストップモーションを多用している。公開時に観たときはまだ子供だったが、100メートルのスローは印象的だった。平均台など実際の競技シーンではないものも挿入され、富士山前を聖火が走るシーンもおそらくはやらせではないかと思われるが、"Olympia"も同じ手法を採っていて、市川が本作を"Olympia"同様に単なる記録映画にする意図がなかったことがわかる。
3時間近い長尺なのでテーマを1本に絞ることは難しいが、市川が描きたかったのはオリンピックの精神で、東京に集う選手・観客・審判などの運営者、それぞれの表情を追うことでオリンピックの意味・意義に迫りたかったのではないか。
映画は東京五輪のために取り壊される建物の工事のシーンから始まり、聖火リレーを見送る世界中の人々、とりわけ初のアジア開催ということでアジアと日本の人々がオリンピックに心を寄せる様子を描く。東京に集まる選手団、中でも当時は航空路がなく特別機で訪れるソ連選手団、分裂していた東西ドイツの統一選手団、初めて参加する小国の選手団と、平和の祭典オリンピックに寄せる市川の並々ならぬ高揚感が窺える。
オリンピック担当大臣の河野一郎が本作を記録映画ではないと批判したが、半世紀後に観ると確かに競技の記録ではないが、立派に当時の東京オリンピックを取り巻く環境と時代を記録した映画だったことがわかる。では市川が東京五輪における世界の人々の精神を写せたかというと、日本人だけの独りよがりにも見える。それも含めて当時の日本人がオリンピックに幻想に近い大きな意義を見い出そうとしていたわけだが、思いに反してその後、オリンピックは商業主義の道をひた走る。
2020年の東京オリンピック招致では、当時日本人がオリンピックに寄せた純粋な思いはすでになく、この記録映画が貴重なオリンピック精神を宿していることを知る。その点で、市川はオリンピックの精神を描くことには成功していた。
より速く、より高く、より遠くを前半のフィールド競技で描いていくが、ゲーム競技が中心になる後半は若干退屈。網羅できないオリンピックをそれでも網羅しなければいけないという記録映画の宿命だが、それでも本作は当時を知る人には懐かしく、当時を知らない人にはクーベルタンの精神が生きていた頃のオリンピックを知ることができる。 (評価:4)
公開:1965年03月20日
総監督:市川崑 脚本:和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑 撮影:林田重男、宮川一夫、中村謹司、田中正 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:2位
1964年に開催された東京オリンピックの公式記録映画。所謂記録映画の撮り方をしなかったために当時毀誉褒貶があったが、市川崑が1936年のベルリン五輪の記録映画、レニ・リーフェンシュタール監督の名作"Olympia"(邦題は『民族の祭典』『美の祭典』の2部作)を意識して制作したことは間違いない。
" Olympia"が肉体美を描いたのに対し、市川は精神に焦点を当てた。そのため、競技そのものよりも競技前後の選手の表情を描くシーンが多く、競技シーンもスローやストップモーションを多用している。公開時に観たときはまだ子供だったが、100メートルのスローは印象的だった。平均台など実際の競技シーンではないものも挿入され、富士山前を聖火が走るシーンもおそらくはやらせではないかと思われるが、"Olympia"も同じ手法を採っていて、市川が本作を"Olympia"同様に単なる記録映画にする意図がなかったことがわかる。
3時間近い長尺なのでテーマを1本に絞ることは難しいが、市川が描きたかったのはオリンピックの精神で、東京に集う選手・観客・審判などの運営者、それぞれの表情を追うことでオリンピックの意味・意義に迫りたかったのではないか。
映画は東京五輪のために取り壊される建物の工事のシーンから始まり、聖火リレーを見送る世界中の人々、とりわけ初のアジア開催ということでアジアと日本の人々がオリンピックに心を寄せる様子を描く。東京に集まる選手団、中でも当時は航空路がなく特別機で訪れるソ連選手団、分裂していた東西ドイツの統一選手団、初めて参加する小国の選手団と、平和の祭典オリンピックに寄せる市川の並々ならぬ高揚感が窺える。
オリンピック担当大臣の河野一郎が本作を記録映画ではないと批判したが、半世紀後に観ると確かに競技の記録ではないが、立派に当時の東京オリンピックを取り巻く環境と時代を記録した映画だったことがわかる。では市川が東京五輪における世界の人々の精神を写せたかというと、日本人だけの独りよがりにも見える。それも含めて当時の日本人がオリンピックに幻想に近い大きな意義を見い出そうとしていたわけだが、思いに反してその後、オリンピックは商業主義の道をひた走る。
2020年の東京オリンピック招致では、当時日本人がオリンピックに寄せた純粋な思いはすでになく、この記録映画が貴重なオリンピック精神を宿していることを知る。その点で、市川はオリンピックの精神を描くことには成功していた。
より速く、より高く、より遠くを前半のフィールド競技で描いていくが、ゲーム競技が中心になる後半は若干退屈。網羅できないオリンピックをそれでも網羅しなければいけないという記録映画の宿命だが、それでも本作は当時を知る人には懐かしく、当時を知らない人にはクーベルタンの精神が生きていた頃のオリンピックを知ることができる。 (評価:4)
製作:東宝、黒沢プロダクション
公開:1965年04月03日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明 撮影:中井朝一、斎藤孝雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:1位
一本調子の三船・加山対決は存在感で三船の勝ち
山本周五郎『赤ひげ診療譚』が原作。江戸中期の小石川養生所の漢方医・小川笙船がモデル。笙船は貧民のための医院を設置することを目安箱に建議し、これを認めた吉宗によって小石川御薬園内に養生所が開かれた。現在の小石川植物園に、養生所の井戸跡と薬草園が残っている。
小石川養生所に赴任した新人医師・保本(加山雄三)は初め、赤ひげ(三船敏郎)に刃向うも、彼の医者としての人格に触れるうちに、出世の口を断って養生所に骨を埋める覚悟をするという物語。
前半は殺人癖のある大店の娘・狂女(香川京子)の話、妻と娘(根岸明美)を男にとられた老人・六助(藤原釜足)の話、善人・佐八(山崎努)が臨終に妻(桑野みゆき)との過去を語る話、後半は遊女屋(杉村春子)で働く下女(二木てるみ)を引き取る話、養生所に盗みに入った子供・長次(頭師佳孝)の一家心中の話の5つのエピソードから構成されるヒューマンドラマ。
前半は養生所を取り巻く貧しい人々の環境と赤ひげの人道精神をきっちり描き、後半は少女を核に明るい話に転じ、再び貧しい人々の苦境を描くという良く練れた構成。
とりわけ、根岸明美が身の上を語る長台詞の演技は見もの。子役出身の二木てるみ、杉村春子を始め、実力派で一本調子の演技しかできない三船・加山の回りを固める。一本調子の三船・加山対決は存在感で三船の勝ち。
他に、保本の婚約者に内藤洋子、父母に笠智衆・田中絹代、狂女の女中に団令子、むじな長屋差配に東野英治郎、養生所の患者に左卜全、岡場所のヤクザに常田富士男、長次の母に菅井きん、西村晃、志村喬。
養生所内部や長屋など、映像的にも隙がなく、ラストで女たちが子供の命を呼び戻そうと井戸の中に叫ぶ水鏡のシーンがいい。
本作を最後に黒澤は東宝を離れ、以後、手綱を失って漂流が始まる。 (評価:3)
公開:1965年04月03日
監督:黒澤明 製作:田中友幸、菊島隆三 脚本:井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明 撮影:中井朝一、斎藤孝雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:1位
山本周五郎『赤ひげ診療譚』が原作。江戸中期の小石川養生所の漢方医・小川笙船がモデル。笙船は貧民のための医院を設置することを目安箱に建議し、これを認めた吉宗によって小石川御薬園内に養生所が開かれた。現在の小石川植物園に、養生所の井戸跡と薬草園が残っている。
小石川養生所に赴任した新人医師・保本(加山雄三)は初め、赤ひげ(三船敏郎)に刃向うも、彼の医者としての人格に触れるうちに、出世の口を断って養生所に骨を埋める覚悟をするという物語。
前半は殺人癖のある大店の娘・狂女(香川京子)の話、妻と娘(根岸明美)を男にとられた老人・六助(藤原釜足)の話、善人・佐八(山崎努)が臨終に妻(桑野みゆき)との過去を語る話、後半は遊女屋(杉村春子)で働く下女(二木てるみ)を引き取る話、養生所に盗みに入った子供・長次(頭師佳孝)の一家心中の話の5つのエピソードから構成されるヒューマンドラマ。
前半は養生所を取り巻く貧しい人々の環境と赤ひげの人道精神をきっちり描き、後半は少女を核に明るい話に転じ、再び貧しい人々の苦境を描くという良く練れた構成。
とりわけ、根岸明美が身の上を語る長台詞の演技は見もの。子役出身の二木てるみ、杉村春子を始め、実力派で一本調子の演技しかできない三船・加山の回りを固める。一本調子の三船・加山対決は存在感で三船の勝ち。
他に、保本の婚約者に内藤洋子、父母に笠智衆・田中絹代、狂女の女中に団令子、むじな長屋差配に東野英治郎、養生所の患者に左卜全、岡場所のヤクザに常田富士男、長次の母に菅井きん、西村晃、志村喬。
養生所内部や長屋など、映像的にも隙がなく、ラストで女たちが子供の命を呼び戻そうと井戸の中に叫ぶ水鏡のシーンがいい。
本作を最後に黒澤は東宝を離れ、以後、手綱を失って漂流が始まる。 (評価:3)
明治侠客伝 三代目襲名
公開:1965年9月18日
監督:加藤泰 脚本:村尾昭、鈴木則文 撮影:わし尾元也 美術:井川徳道 音楽:菊池俊輔
紙屋五平の小説が原案。
冒頭大阪喧嘩祭りの神輿を真上から捉えるシーンから始まり、座敷の場面では床から広角のアオリで奥行きを出し、焦点の切り替え、顔のアップ、遠景ショットなど多彩な映像表現で、迫力と情緒を演出。加藤泰の初任侠映画への意気込みが感じられる作品。
主人公は大坂で土木工事の建材を請負う木屋辰一家の兄貴・浅次郎(鶴田浩二)。同業の星野建材社長(大木実)の意を受けた唐沢(安部徹)に木屋辰二代目(嵐寛寿郎)が刺され、仕事を妨害される。
そこで知り合うのが唐沢が贔屓の遊女・初栄(藤純子)で、浅次郎の男気に惚れた初栄と身は汚れても心は純粋な初栄とのラブストーリーとなる。
任侠映画なので、浅次郎と唐沢の抗争がメインとなり、最後は浅次郎が親分と食客(藤山寛美)の仇を討つが、本線は浅次郎と初栄の悲恋。
初栄は唐沢に身請けされ、木屋辰の三代目を継いだ浅次郎は初栄と別れることになる。ラストシーンは、唐沢にとどめを刺そうとする浅次郎から妻・初枝が夫を守り、浅次郎は官憲に御用になるという私情を捨てて義を守る任侠映画らしい幕切れで、妻の操を立てた藤純子は、後にお竜となる。
我が儘ボンボンの木屋辰の息子・津川雅彦が、堅気の家業を引き継いだ途端に好青年になるという変わり身の早さに口が開くが、鶴田浩二と藤純子の熱演と加藤泰の職人技が堪能できる。
鶴田浩二の挿入歌は、若干雰囲気を壊している。建設会社社長(丹波哲郎)に面会するために雨の中で立ち続けるというのも情けない。 (評価:2.5)
網走番外地
公開:1965年04月18日
監督:石井輝男 脚本:石井輝男 撮影:山沢義一 音楽:八木正生 美術:藤田博
『日本侠客伝』『昭和残侠伝』と並ぶ、高倉健の出世作となった任侠シリーズ第1作。主題歌もヒットし、当時の新左翼学生の愛唱歌となった。原作は網走監獄で服役経験のある伊藤一の同名小説。監督は石井輝男。
新左翼学生がなぜ任侠・ヤクザ映画に惹かれたかについては、映画レビューとは別のテーマだが、共通しているのはアウトローのヒロイズムで、日本映画に限らず、現在も一定の人気を保っている。アウトロー映画には変化球も多いが、本作は直球。それがそのまま高倉健の性格付けと人気に結び付いた。不器用で朴訥だが一途、高倉健にはこの演技しかない。
本作でも同様だが、一番かっこいいのは実は高倉健ではなく、鬼寅を演じる嵐寛寿郎。長期刑を喰らった極悪人だが、刑には服して償うべきという理を尊重する潔いまでの侠客。もっともこれは体制側に転向した日和見主義、アウトローとは対極の人間で、アウトローに心酔する者にとっては決してヒーローにはならない。
物語は網走刑務所の囚人たちの日常を描きながら、病気の母恋しさに脱走して追われるというもの。健さんは巻き込まれ型で脱走犯となってしまうが、それを諫めるのが嵐寛。鞍馬天狗のオジサンは網走に行っても正義の人。決してゲバ棒は振るわない。
話の全体は、舞台は網走でも凡庸なマザコンもので、嵐寛が登場してようやく目が覚める。健さんも不器用を若さでカバーし、雪の中の体当たりロケで頑張るなど、新左翼学生をシンパにするだけの魅力がある。
網走番外地は網走市字三眺官有無番地のことで、地番のない場所は全国にあるが、連続ピストル射殺事件の永山則夫も網走市呼人番外地の生まれで、集団就職で東京に出てきて、網走番外地の生まれだとからかわれたという話があった。
丹波哲郎、田中邦衛も出演している。 (評価:2.5)
製作:東映東京
公開:1965年5月1日
監督:山本薩夫 脚本:高岩肇、武田敦 撮影:仲沢半次郎 音楽:池野成 美術:森幹男
キネマ旬報:4位
松川事件がモデルの山本薩夫+三國連太郎の本格ドラマ
昭和24年に福島県で起きた列車転覆、松川事件をモデルにした作品。監督は山本薩夫、主演は三國連太郎なので、安心して観られる骨格のしっかりした本格ドラマ。
三國は母(北林谷栄)と妹(緑魔子)を食べさせるために土蔵破りの泥棒稼業をしている。ある夜、仲間(江原真二郎)と仕事に出かけた帰り、線路を歩く9人組と出くわす。列車転覆事件が起き、その後、捕まって刑務所に入った三國は松川事件で捕まった被告たちと出会うが、事件の夜に見た9人組ではない。出所後、更生してもぐりの歯医者をしながら所帯を持つが、裁判が報じられるたびに冤罪が気になり、友達(花沢徳衛)に事件当夜のことを話し、被告の弁護士(加藤嘉)に伝わる。事件担当の刑事(伊藤雄之助)は妻(佐久間良子)に過去をばらすと偽証を迫るが、被告の家族を目にした三國は裁判で証言することを決意する・・・
松川事件は最高裁で全員無罪となり、映画はほぼ史実に基づいている。
出演者は芸達者ばかりで、三國の最初の妻に市原悦子、若き千葉真一も出ている。三國は若干演技過剰気味だが、ラストの裁判シーンはいい。北林と伊藤が上手い。 (評価:2.5)
公開:1965年5月1日
監督:山本薩夫 脚本:高岩肇、武田敦 撮影:仲沢半次郎 音楽:池野成 美術:森幹男
キネマ旬報:4位
昭和24年に福島県で起きた列車転覆、松川事件をモデルにした作品。監督は山本薩夫、主演は三國連太郎なので、安心して観られる骨格のしっかりした本格ドラマ。
三國は母(北林谷栄)と妹(緑魔子)を食べさせるために土蔵破りの泥棒稼業をしている。ある夜、仲間(江原真二郎)と仕事に出かけた帰り、線路を歩く9人組と出くわす。列車転覆事件が起き、その後、捕まって刑務所に入った三國は松川事件で捕まった被告たちと出会うが、事件の夜に見た9人組ではない。出所後、更生してもぐりの歯医者をしながら所帯を持つが、裁判が報じられるたびに冤罪が気になり、友達(花沢徳衛)に事件当夜のことを話し、被告の弁護士(加藤嘉)に伝わる。事件担当の刑事(伊藤雄之助)は妻(佐久間良子)に過去をばらすと偽証を迫るが、被告の家族を目にした三國は裁判で証言することを決意する・・・
松川事件は最高裁で全員無罪となり、映画はほぼ史実に基づいている。
出演者は芸達者ばかりで、三國の最初の妻に市原悦子、若き千葉真一も出ている。三國は若干演技過剰気味だが、ラストの裁判シーンはいい。北林と伊藤が上手い。 (評価:2.5)
製作:中日映画社
公開:1965年11月23日
監督:吉田喜重 脚本:石堂淑郎、吉田喜重、高良留美子 撮影:鈴木達夫 美術:黒沢治安 音楽:一柳慧
キネマ旬報:10位
通俗小説も吉田喜重の手になれば芸術になる
石坂洋次郎の同名小説が原作。
今風にいえばマザコンの青年(入川保則)が母の愛人だった男(山形勲)の娘(浅丘ルリ子)と結婚するものの、二人が異母兄妹かもしれないという疑念を拭えずに結婚生活が上手くいかず、かつ自身の結婚によって枷が外れた母が男と縒りを戻したために、青年が男に嫉妬するというのが物語の全体像。
結核で死んだ父(岸田森)の思い出や、母と男の関係を知った少年時代の回想を織り交ぜながら物語は進み、母と男への詰問、妻への浮気の罠、母への心中の誘い、母と男の関係の妻への暴露、そして母の男との無理心中という結末となる。
そうしてマザコンを乗り越えた青年は、初めて妻との関係を確立するが、こうした通俗的な物語も吉田喜重の手に掛かれば芸術映画になるという、吉田マジックを堪能するための作品。
陰影を強調し、コンポジションに凝ったモノクロ画像は、殊更に芸術写真を見るような趣があり、かつ母を演じる岡田茉莉子の美しさを際立たせている。
当時32歳だった岡田茉莉子が26歳の入川保則の母というのは相当に無理があるが、美しすぎる母という説得力は十二分にあって、森英恵の洋装の浅丘ルリ子よりも、鈴乃屋の和装が似合う岡田茉莉子に女の色香を感じるのは、青年でなくても同じ。
この効果がマザコンという通俗的設定を払拭していて、シングルマザー家庭の母と子の絆という形に美化されている。
翻って吉田喜重がなぜこのような石坂洋次郎の大衆小説を映画化したかという疑問には、男に内在する母性への撞着がテーマだというのが答えのような気がする。
劇中、青年が交通事故に遭って夢を見るシーンでは、その後の吉田作品にみられる観念的でシュールな演出法が見られる。 (評価:2.5)
公開:1965年11月23日
監督:吉田喜重 脚本:石堂淑郎、吉田喜重、高良留美子 撮影:鈴木達夫 美術:黒沢治安 音楽:一柳慧
キネマ旬報:10位
石坂洋次郎の同名小説が原作。
今風にいえばマザコンの青年(入川保則)が母の愛人だった男(山形勲)の娘(浅丘ルリ子)と結婚するものの、二人が異母兄妹かもしれないという疑念を拭えずに結婚生活が上手くいかず、かつ自身の結婚によって枷が外れた母が男と縒りを戻したために、青年が男に嫉妬するというのが物語の全体像。
結核で死んだ父(岸田森)の思い出や、母と男の関係を知った少年時代の回想を織り交ぜながら物語は進み、母と男への詰問、妻への浮気の罠、母への心中の誘い、母と男の関係の妻への暴露、そして母の男との無理心中という結末となる。
そうしてマザコンを乗り越えた青年は、初めて妻との関係を確立するが、こうした通俗的な物語も吉田喜重の手に掛かれば芸術映画になるという、吉田マジックを堪能するための作品。
陰影を強調し、コンポジションに凝ったモノクロ画像は、殊更に芸術写真を見るような趣があり、かつ母を演じる岡田茉莉子の美しさを際立たせている。
当時32歳だった岡田茉莉子が26歳の入川保則の母というのは相当に無理があるが、美しすぎる母という説得力は十二分にあって、森英恵の洋装の浅丘ルリ子よりも、鈴乃屋の和装が似合う岡田茉莉子に女の色香を感じるのは、青年でなくても同じ。
この効果がマザコンという通俗的設定を払拭していて、シングルマザー家庭の母と子の絆という形に美化されている。
翻って吉田喜重がなぜこのような石坂洋次郎の大衆小説を映画化したかという疑問には、男に内在する母性への撞着がテーマだというのが答えのような気がする。
劇中、青年が交通事故に遭って夢を見るシーンでは、その後の吉田作品にみられる観念的でシュールな演出法が見られる。 (評価:2.5)
no image
製作:松竹、フレンドプロ 公開:1965年10月30日
監督:五所平之助 製作:島津清 脚本:堀江英雄 撮影:篠村荘三郎 美術:平川透徹 音楽:池野成
キネマ旬報:7位
小川元の小説『霊場の女』が原作。
昭和10年代の津軽が舞台。物語は恐山から始まり、老母(菅井きん)が亡くなった娘アヤ子(吉村実子)の口寄せをするプロローグから、生前の娘の回想へと進む。
漁師の父(吉田義夫)が病気となったことから大浦の遊郭・七福に売られたアヤ子は、材木問屋の山村勘助( 殿山泰司)に水揚げされる。その後、気持ちの優しいアヤ子は人気となり、童貞の客・勘二郎(寺田農)の筆下ろしをするが、やがて二人は惹かれ合うようになる。
ところが勘助と勘二郎が父子だということがわかり、勘二郎が出征するとアヤ子は勘助を拒むが、無理やり性交しようとした勘助は興奮からか腹上死してしまう。
勘二郎が戦死し、アヤ子は墓参りで知り合った長男・勘一(川崎敬三)まで虜にしてしまうが、勘一も交通事故死して、死の影を背負った遊女という評判となり、恐山の巫女に悪霊退散の鞭打ちを受けるが死んでしまう。
貧しい時代の貧しい寒村の貧しい家の可哀想な娘の物語という以上のものはなく、因縁話としては面白いが、それも最後には尻すぼみとなって呆気なく死んでしまい、口寄せによる思わぬ展開もなく終わるのがつまらない。
見どころは野性的な魅力を持った吉村実子の演技と、恐山や津軽の砂浜の風景で、寂寥とした映像がいい。勘助が腹上死してアヤ子が廊下に飛び出すシーンのカメラワークと、勘一とのデートで砂浜に穴を掘って寝転ぶシーンが印象的。 (評価:2.5)
製作:大映東京
公開:1965年5月15日
監督:山本薩夫 製作:伊藤武郎、宮古とく子 脚本:井手雅人 撮影:上村竜一 美術:菊池誠 音楽:池野成
キネマ旬報:5位
徳島ラジオ商殺し事件の司法の闇を描く山本薩夫の力作
開高健の小説『片隅の迷路』が原作。1953年の徳島ラジオ商殺し事件がモデル。
容疑者として逮捕されたのは内縁の妻・洋子(奈良岡朋子)で、使用人の少年二人の証言だけで物証はなかったが高裁で懲役13年の有罪判決。洋子は裁判費用が続かなくなり上告を取り下げ、刑が確定する。隣で瀬戸物商を営む甥(福田豊土)が洋子の冤罪を晴らすべく、少年二人に偽証の上申書を提出させ、弁護士と再審請求をする活動を描く。
映画はそこまでで、モデルとなった妻は1966年に仮出所後、1979年に死去。その後、遺族の請求によって再審が開始され、1985年に無罪となる。
長期の拘留と取り調べによる洋子の自白強要、2少年に対する証言強要が描かれ、現在も続く日本の捜査機関による人質司法の問題点が浮き彫りとなる。
組み立てたストーリーに合わせて自白・証言を強要する担当検事(新田昌玄)と、それを知りながら責任を担当検事に押し付ける地検上層部、偽証を主張する法務局人権擁護課長(加藤嘉)を配置転換する法務省、偽証の可能性を指摘する検察審査会の勧告を無視する検察庁と、人権よりも検挙や公判維持、組織防衛を優先する司法の闇が描き出されるが、改めて冤罪をものともしない日本の権力機構の怖さに背筋が凍える。
甥の妻に吉行和子、洋子の娘に日色ともゑでセーラー服姿が似合う。
検察による冤罪事件を告発する山本薩夫の力作だが、一番怖いのは証言だけで有罪にしてしまった検察と癒着する日本の裁判所か。 (評価:2.5)
公開:1965年5月15日
監督:山本薩夫 製作:伊藤武郎、宮古とく子 脚本:井手雅人 撮影:上村竜一 美術:菊池誠 音楽:池野成
キネマ旬報:5位
開高健の小説『片隅の迷路』が原作。1953年の徳島ラジオ商殺し事件がモデル。
容疑者として逮捕されたのは内縁の妻・洋子(奈良岡朋子)で、使用人の少年二人の証言だけで物証はなかったが高裁で懲役13年の有罪判決。洋子は裁判費用が続かなくなり上告を取り下げ、刑が確定する。隣で瀬戸物商を営む甥(福田豊土)が洋子の冤罪を晴らすべく、少年二人に偽証の上申書を提出させ、弁護士と再審請求をする活動を描く。
映画はそこまでで、モデルとなった妻は1966年に仮出所後、1979年に死去。その後、遺族の請求によって再審が開始され、1985年に無罪となる。
長期の拘留と取り調べによる洋子の自白強要、2少年に対する証言強要が描かれ、現在も続く日本の捜査機関による人質司法の問題点が浮き彫りとなる。
組み立てたストーリーに合わせて自白・証言を強要する担当検事(新田昌玄)と、それを知りながら責任を担当検事に押し付ける地検上層部、偽証を主張する法務局人権擁護課長(加藤嘉)を配置転換する法務省、偽証の可能性を指摘する検察審査会の勧告を無視する検察庁と、人権よりも検挙や公判維持、組織防衛を優先する司法の闇が描き出されるが、改めて冤罪をものともしない日本の権力機構の怖さに背筋が凍える。
甥の妻に吉行和子、洋子の娘に日色ともゑでセーラー服姿が似合う。
検察による冤罪事件を告発する山本薩夫の力作だが、一番怖いのは証言だけで有罪にしてしまった検察と癒着する日本の裁判所か。 (評価:2.5)
七人の刑事 終着駅の女
公開:1965年6月26日
監督:若杉光夫 脚本:光畑碩郎 撮影:井上莞 音楽:渡辺宙明
1961〜1969年にTBSで放映された刑事ドラマのTVシリーズの映画版。
TVシリーズはオープニング、警視庁の空撮シーンにハミングのテーマ曲が流れるが、本作ではそれがない。さてはエンディングかと思いきや、最後まで流れないのが寂しい。TVの協力を得られなかったのか、それともドキュメンタリー・タッチな演出意図か。
キャスティングはテレビと同じで、警視庁捜査一課係長に堀雄二、部長刑事の芦田伸介がシブい。ほかに菅原謙二、佐藤英夫、城所英夫、美川洋一郎、天田俊明で七人の刑事。
上野駅のホームで若い女が殺され、容疑者を追うというもので、岩手の郷里に逃げようとした女を情人が刺殺。背後に管理売春の暴力団がいて、犯人秘匿を刑事たちが暴くという単純なストーリーだが、それを社会派ドラマとして描くシナリオがよく出来ている。
女の身元が不明なことから、家出人を探す家族たちが捜査本部を訪れ、事情聴取する駅周辺をたむろする不良など、当時の世相がよく描かれている。
捜査する刑事たちを取り巻く上野駅構内と周辺の雑踏を捉えたカメラと、それに被る音声(録音:安恵重遠)が効果的。
刺殺事件の背景として描かれるのは、当時の東北農村の貧困と労働力の東京への移動で、冒頭に就職で上京した少女を美川が道案内する。被害者とその売春仲間の女(笹森礼子)、犯人の身代わりにされる組員も東北出身者で、上京後、暴力団に取り込まれ、その生活を抜け出すために故郷に帰ろうとする。
そうしたたくさんの彼、彼女たちを上野駅の雑踏の中に描き出すリアリズムが秀逸。
民芸製作らしい映画で、芦田伸介のほか、大滝秀治、梅野泰靖、北林谷栄、三崎千恵子、日色ともゑが出演している。 (評価:2.5)
製作:東京映画
公開:1965年7月25日
監督:豊田四郎 製作:佐藤一郎、椎野英之 脚本:八住利雄 撮影:村井博 美術:水谷浩 音楽:武満徹
豪華キャストの本格作品だが怖くないのが物足りない
鶴屋南北『東海道四谷怪談』が原作。
お岩の妹・お袖が、四谷左門の養女で、お袖に恋慕する直助が実の兄だという原作の設定がないことと、お梅の乳母・お槇と民谷伊右衛門が愛人となるという本作の設定を除けば、ほぼ原作に忠実なストーリー。
お岩に岡田茉莉子、伊右衛門に仲代達矢、お袖に池内淳子、直助に17代目中村勘三郎、宅悦に三島雅夫、お梅に大空真弓、お槇に淡路恵子、お袖の夫・与茂七に平幹二朗という、今にして見れば豪華顔ぶれで、演技にも演出にも破綻のない本格的な四谷怪談になっている。
仲代達矢の鬼気迫る浪人ぶりと気がふれる演技が全体を通じて緊張感を与え、岡田茉莉子のいささか可哀想なメイクもなかなかいい。その他の俳優も達者な演技で、ほとんど出番のない大空真弓も我儘そうな顔がいい。
不安感を煽る俯瞰・あおり・アップが多用され、映画的には引きの場面が少ないが、怪談映画としてはなかなか凝ったカメラワークで映像的には計算されたカットが映画好きには嬉しい。
もっとも、原作に忠実ならばいいかというのが微妙で、伊右衛門が幻覚を見て狂ったように刀を振り回す場面が、一刀断ちで意外と淡泊。四谷怪談としては最大の見どころのお化け顔のお岩の活躍シーンが少なく、全体にあまり怖くないのがホラー映画としては物足りない。 (評価:2.5)
公開:1965年7月25日
監督:豊田四郎 製作:佐藤一郎、椎野英之 脚本:八住利雄 撮影:村井博 美術:水谷浩 音楽:武満徹
鶴屋南北『東海道四谷怪談』が原作。
お岩の妹・お袖が、四谷左門の養女で、お袖に恋慕する直助が実の兄だという原作の設定がないことと、お梅の乳母・お槇と民谷伊右衛門が愛人となるという本作の設定を除けば、ほぼ原作に忠実なストーリー。
お岩に岡田茉莉子、伊右衛門に仲代達矢、お袖に池内淳子、直助に17代目中村勘三郎、宅悦に三島雅夫、お梅に大空真弓、お槇に淡路恵子、お袖の夫・与茂七に平幹二朗という、今にして見れば豪華顔ぶれで、演技にも演出にも破綻のない本格的な四谷怪談になっている。
仲代達矢の鬼気迫る浪人ぶりと気がふれる演技が全体を通じて緊張感を与え、岡田茉莉子のいささか可哀想なメイクもなかなかいい。その他の俳優も達者な演技で、ほとんど出番のない大空真弓も我儘そうな顔がいい。
不安感を煽る俯瞰・あおり・アップが多用され、映画的には引きの場面が少ないが、怪談映画としてはなかなか凝ったカメラワークで映像的には計算されたカットが映画好きには嬉しい。
もっとも、原作に忠実ならばいいかというのが微妙で、伊右衛門が幻覚を見て狂ったように刀を振り回す場面が、一刀断ちで意外と淡泊。四谷怪談としては最大の見どころのお化け顔のお岩の活躍シーンが少なく、全体にあまり怖くないのがホラー映画としては物足りない。 (評価:2.5)
座頭市地獄旅
公開:1965年12月24日
監督:三隅研次 脚本:伊藤大輔 撮影:牧浦地志 美術:内藤昭 音楽:伊福部昭
子母澤寛の『座頭市物語』が原案。勝新太郎の『座頭市』シリーズの第12作で、三隅研次の監督作品。
『座頭市』の定型を踏みながらも、伊藤大輔のよく練られたシナリオで、二つの仇討ち話を軸に、安房館山から江ノ島、小田原、箱根へと至る道中の風俗が織り込まれているのが楽しい。
座頭市(勝新太郎)の旅の道連れとなる浪人(成田三樹夫)と女・種(岩崎加根子)のキャラクターがよく出来ていて、二人と勝新太郎の掛け合いが見どころとなっている。
オープニングは座頭市がヤクザ者と立ち回りを演じるいきなりの見せ場からはじまるが、これが後半の市に対する復讐話の伏線となる。
場面は転じて館山の湊から江ノ島への渡し船となり、市が浪人、種の母娘と同船する。ここで市の壺振りのエピソードとなり、負けた衆と江ノ島・馬入一家の仕返し、返り討ち。
続いて浪人への仇討ちを図る侍(山本学)と妹(林千鶴)の登場となるが、江ノ島の縁日で浪人が殴られ屋の小遣い稼ぎ、市が百文銭の千枚通しの芸を見せる。種の娘が破傷風に罹り、市が買いに行く万能薬・透頂香は小田原名物。
箱根の湯治で、二つの仇討ちのクライマックスとなるが、市と浪人の将棋談義が面白い。
種が市に惚れるという定番になるが、こちらは若干無理やり感がある。 (評価:2.5)
エレキの若大将
公開:1965年12月19日
監督:岩内克己 製作:藤本真澄 脚本:田波靖男 撮影:西垣六郎 美術:竹中和雄 音楽:広瀬健次郎
若大将シリーズ第6作。
アメラグのキャプテンの座を巡り、若大将(加山雄三)と青大将(田中邦衛)が争うというプロローグから、青大将が飲酒運転で澄子(星由里子)の乗る車と事故を起こして役者は勢ぞろい。若大将が事故の身代わりとなり、賠償金稼ぎでエレキ・コンテストに出場。見事優勝するが、ライバルの銀行家のドラ息子(ジェリー藤尾)と喧嘩して停学処分。勘当された若大将が生活費稼ぎでプロのエレキ・バンドにメンバー入り。
事故の真相を知った澄子が若大将に恋するが、澄子に横恋慕する青大将と若大将に恋する金持ち娘(北あけみ)が共謀して邪魔に入り、失恋したと誤解した澄子が失踪。若大将が誤解を解き、復学してアメラグ戦に勝利。最後は青大将と金持ち娘とも仲直りしてのハッピーエンドという流れ。
予定調和ながらお気楽に楽しめる青春映画で、日本が高度経済成長に向かう憂いなき時代の底抜けの開放感がいい。
エレキブームを背景に寺内タケシとブルージーンズも出演。加山が挿入歌「君といつまでも」「夜空の星」を歌い、ブルージンズとのコラボでエレキ・アレンジの曲も演奏。歌手のジェリー藤尾、内田裕也も出演している。
日光ロケが見どころの一つで、今はなき日光レークサイドホテルや中禅寺湖、戦場ヶ原周辺の昔日の景色が貴重。
有島一郎、飯田蝶子の名人芸や、加山の父・上原謙の大根演技も楽しい。 (評価:2.5)
製作:東京映画、近代映画協会
公開:1965年11月21日
監督:新藤兼人 製作:絲屋寿雄、能登節雄、湊保、桑原一雄 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 美術:丸茂孝 音楽:林光
キネマ旬報:9位
キスシーンがしつこい新藤兼人の南北朝純愛劇
谷崎潤一郎の戯曲『顔世』が原作。
『太平記』巻21「塩冶判官讒死(ざんし)の事」を題材としたもので、時代は南北朝、将軍・足利尊氏の執事として権勢をふるった高師直が、塩冶判官高貞の妻・顔世御前に横恋慕し、叶わぬと見るや高貞を領国・出雲に派遣。その隙に顔世を手に入れようとするが、高貞が顔世を同道したため尊氏に謀反と讒言。山名時氏を追討に差し向け、播磨で高貞は討死、顔世も自害して果てるという物語。
師直が血道を上げる日本一の美人という顔世役が、岸田今日子というのがどうにも納得できないが、高貞役の木村功との仲睦まじい夫婦役はそれはそれで上手く嵌っている。もっとも、二人が愛を確かめるために抱擁して接吻を交わすシーンがしつこくて、自害直前まで接吻するのには、そんな場合か、といささか呆れる。
そんな新藤兼人らしい時代を超えた純愛劇で、師直が顔世に横恋慕して恋文を交わすまでの緊張感のあるカメラワークと演出がよくできている。この間の師直役の小沢栄太郎と侍従・乙羽信子との長回しの会話シーンは名演で、とりわけ小沢栄太郎の悪党ぶりが上手い。
師直の恋文を代筆する兼好法師役、宇野重吉は型に嵌った演技。ほかに殿山泰司、高橋幸治。
最後の合戦シーンは、人数が少ない上に立ち回りも五月雨式の特攻で、迫力不足というよりはリアリティがないのが寂しい。 (評価:2.5)
公開:1965年11月21日
監督:新藤兼人 製作:絲屋寿雄、能登節雄、湊保、桑原一雄 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 美術:丸茂孝 音楽:林光
キネマ旬報:9位
谷崎潤一郎の戯曲『顔世』が原作。
『太平記』巻21「塩冶判官讒死(ざんし)の事」を題材としたもので、時代は南北朝、将軍・足利尊氏の執事として権勢をふるった高師直が、塩冶判官高貞の妻・顔世御前に横恋慕し、叶わぬと見るや高貞を領国・出雲に派遣。その隙に顔世を手に入れようとするが、高貞が顔世を同道したため尊氏に謀反と讒言。山名時氏を追討に差し向け、播磨で高貞は討死、顔世も自害して果てるという物語。
師直が血道を上げる日本一の美人という顔世役が、岸田今日子というのがどうにも納得できないが、高貞役の木村功との仲睦まじい夫婦役はそれはそれで上手く嵌っている。もっとも、二人が愛を確かめるために抱擁して接吻を交わすシーンがしつこくて、自害直前まで接吻するのには、そんな場合か、といささか呆れる。
そんな新藤兼人らしい時代を超えた純愛劇で、師直が顔世に横恋慕して恋文を交わすまでの緊張感のあるカメラワークと演出がよくできている。この間の師直役の小沢栄太郎と侍従・乙羽信子との長回しの会話シーンは名演で、とりわけ小沢栄太郎の悪党ぶりが上手い。
師直の恋文を代筆する兼好法師役、宇野重吉は型に嵌った演技。ほかに殿山泰司、高橋幸治。
最後の合戦シーンは、人数が少ない上に立ち回りも五月雨式の特攻で、迫力不足というよりはリアリティがないのが寂しい。 (評価:2.5)
製作:日活
公開:1965年5月26日
監督:熊井啓 脚本:熊井啓 撮影:姫田真佐久 美術:千葉和彦 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:3位
想像を逞しくして楽しむ謀略機関ミステリー
吉原公一郎の『小説日本列島』が原作。
日本が独立を回復した後の昭和34年~39年の物語。大筋は、独立を回復したはずなのにアメリカは占領時代と同様に治外法権で振る舞い、日本は属国根性が抜けないまま言いなりになって、事件は闇から闇へと葬られているというのがテーマ。
公開は昭和40年で、ラストシーンはいまだアメリカの占領下にある沖縄で終わるが、当時の本土の状況が現在の沖縄だという点では慧眼な作品だったのかもしれない。
基本は背後にアメリカの謀略機関があって、その資金源として各国の贋札を偽造していて、それを調べていたアメリカ人が殺されて、その真相糾明のために米軍の犯罪調査課の中尉から依頼を受けた通訳(宇野重吉)が謎解きをするという物語。
もっとも肝腎の謀略機関が正体を明かさないため、雲を掴むような話が延々と続き、人死にが出れば謀略機関に殺されたに違いないという、信念に近い憶測が重ねられるだけで、怪しいぞ・怪しいぞという話に付き合わされるが、謀略事件とされるものが多かった戦後のある種の社会派ドラマ。
謀略機関に誘拐される印刷技術者の娘に芦川いづみ。北林谷栄、大滝秀治、加藤嘉といった演技派も出演し、それなりに楽しめるが想像を逞しくしないと、謀略機関ミステリーについて行けないかもしれない。 (評価:2.5)
公開:1965年5月26日
監督:熊井啓 脚本:熊井啓 撮影:姫田真佐久 美術:千葉和彦 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:3位
吉原公一郎の『小説日本列島』が原作。
日本が独立を回復した後の昭和34年~39年の物語。大筋は、独立を回復したはずなのにアメリカは占領時代と同様に治外法権で振る舞い、日本は属国根性が抜けないまま言いなりになって、事件は闇から闇へと葬られているというのがテーマ。
公開は昭和40年で、ラストシーンはいまだアメリカの占領下にある沖縄で終わるが、当時の本土の状況が現在の沖縄だという点では慧眼な作品だったのかもしれない。
基本は背後にアメリカの謀略機関があって、その資金源として各国の贋札を偽造していて、それを調べていたアメリカ人が殺されて、その真相糾明のために米軍の犯罪調査課の中尉から依頼を受けた通訳(宇野重吉)が謎解きをするという物語。
もっとも肝腎の謀略機関が正体を明かさないため、雲を掴むような話が延々と続き、人死にが出れば謀略機関に殺されたに違いないという、信念に近い憶測が重ねられるだけで、怪しいぞ・怪しいぞという話に付き合わされるが、謀略事件とされるものが多かった戦後のある種の社会派ドラマ。
謀略機関に誘拐される印刷技術者の娘に芦川いづみ。北林谷栄、大滝秀治、加藤嘉といった演技派も出演し、それなりに楽しめるが想像を逞しくしないと、謀略機関ミステリーについて行けないかもしれない。 (評価:2.5)
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製作:東京映画、昭和映画 公開:1965年7月3日
監督:羽仁進 製作:馬場和夫、栄田清一郎 脚本:羽仁進、清水邦夫 撮影:金宇満司 音楽:武満徹
キネマ旬報:8位
片寄俊彦の体験記『ブワナ・トシの歌』が原作。
タンザニア独立前夜、今西錦司の類猿人学術調査隊のキャンプ設営のためにタンガニーカに渡った青年トシの体験を基に描いたもので、ブワナ(bwana)はスワヒリ語の敬称。ブワナ・トシはトシ旦那の意。
英語もスワヒリ語も片言のトシ(渥美清)がプレハブ建材を載せたトラックで村にやってくるが、現地にいる教授・大西(下元勉)は人を頼らずにやれとマウンテンゴリラ調査に森に入ってしまう。
残されたトシは村人と仲良くして認められ、青年ハミシらを助手に家を建て始めるが、生活リズムの違うハミシらに苛立ち、殴ってしまう。戦い以外に暴力を振るわない平和な村人たちは、トシの追放を決めるが、改心したトシを許して建物を完成させる。
日本に帰るトシにハミシらは、「ブワナ・トシの歌」をプレゼント。ハミシに海を見せてあげ、それぞれの居場所に戻って行く。
自分の都合だけを押し付けて相手のことは考えない。現在、アフリカに進出している中国人を見るような思いがするが、実はそれが半世紀前の日本人の姿だったと知ると複雑な思いがする。
所得倍増計画とともに日本が海外進出していった時期の作品で、近代化の遅れているアフリカに対する日本人の驕りや蔑視が渥美清を通して透けて見える。
もちろん羽仁進は、そうした傲慢や偏見をなくし、急ぎ過ぎる日本人に対し、マサイ族のゆったりとしたペースこそ本来の人間の姿で、トシがそれを知る物語としている。
ただ、今見ると当たり前の価値観であって、半世紀前の教訓は今更のように思え、渥美清演じるトシが醜く見える。
かつての日本人が、今の中国人のように醜かったと知る上では歴史的に意味のある作品だが、教訓話としては得るものがない。
本作の見どころはむしろアフリカの自然や野生動物にあって、キリンやシマウマたちの伸び伸びとした様子に心打たれるが、ゴリラやピューマ、ハイエナといったシナリオ上の演出が妙にあざとく不自然で、現地の人々の演技を含めてヤラセっぽさが気になる。 (評価:2.5)
製作:東映京都
公開:1965年4月10日
監督:田坂具隆 製作:大川博 脚本:鈴木尚也 撮影:飯村雅彦 美術:鈴木孝俊 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:6位
オムニバスの主役・中村錦之助の演技がくどすぎて悪酔いする
山本周五郎の短編小説『冷飯』『おさん』『ちゃん』が原作。
オムニバスで人情噺3題の構成。いずれも中村錦之助が主役を務めるが、くどすぎてこれが良かったのか悪かったのか微妙。
『冷飯』は城勤めの下級武士の四男坊の話で、長男が家督を継ぎ、次男・三男が分家すると分ける家禄もなくなって、四男は長男の居候。養子先がなく結婚もできず、悶々の日々を送っている。ところが趣味の稀覯本蒐集が功を奏して、本ごと城の御文庫に召し抱えられ、念願の思い人(入江若葉)を娶ることができたというハッピーエンド。
『おさん』は妖艶で精気を奪う女房おさん(三田佳子)を持った大工・参太が京に逃れるものの、どうしてもおさんを忘れられずに江戸に戻る話。おさんは参太を忘れるために男を転々としていて、参太が見つけた時は墓の中だった。墓参で霊となったおさんと語り終わり、旅の途中知り合った女(新珠三千代)の下へ行く所で終わる。
『ちゃん』は火鉢職人・重吉の話。安価な普及品が出回る中、物づくりに拘る重吉の作る火鉢は落ち目。ヤケ酒を煽る毎日だが、妻(森光子)と4人の子は「ちゃん」と慕って重吉を支える。飲み屋の女将(渡辺美佐子)に浮気もせず、自殺しそうな男(三木のり平)を助けた挙句に泥棒されるというお人好しだが、最後は重吉の丁寧な仕事をお大尽に認められてハッピーエンドとなる。
第1話は厭きさせない物語。第2話は新珠三千代の出番のなくなる中盤のおさん捜しが退屈だが、三田佳子の色気が見どころ。第3話は重吉がどうしようもない男なのに家族愛讃歌となっていて、話が退屈な上に腐臭がするほどに話がクサい。終始酔っぱらっている錦之助の演技がくどすぎて悪酔いしてしまう。 (評価:2.5)
公開:1965年4月10日
監督:田坂具隆 製作:大川博 脚本:鈴木尚也 撮影:飯村雅彦 美術:鈴木孝俊 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:6位
山本周五郎の短編小説『冷飯』『おさん』『ちゃん』が原作。
オムニバスで人情噺3題の構成。いずれも中村錦之助が主役を務めるが、くどすぎてこれが良かったのか悪かったのか微妙。
『冷飯』は城勤めの下級武士の四男坊の話で、長男が家督を継ぎ、次男・三男が分家すると分ける家禄もなくなって、四男は長男の居候。養子先がなく結婚もできず、悶々の日々を送っている。ところが趣味の稀覯本蒐集が功を奏して、本ごと城の御文庫に召し抱えられ、念願の思い人(入江若葉)を娶ることができたというハッピーエンド。
『おさん』は妖艶で精気を奪う女房おさん(三田佳子)を持った大工・参太が京に逃れるものの、どうしてもおさんを忘れられずに江戸に戻る話。おさんは参太を忘れるために男を転々としていて、参太が見つけた時は墓の中だった。墓参で霊となったおさんと語り終わり、旅の途中知り合った女(新珠三千代)の下へ行く所で終わる。
『ちゃん』は火鉢職人・重吉の話。安価な普及品が出回る中、物づくりに拘る重吉の作る火鉢は落ち目。ヤケ酒を煽る毎日だが、妻(森光子)と4人の子は「ちゃん」と慕って重吉を支える。飲み屋の女将(渡辺美佐子)に浮気もせず、自殺しそうな男(三木のり平)を助けた挙句に泥棒されるというお人好しだが、最後は重吉の丁寧な仕事をお大尽に認められてハッピーエンドとなる。
第1話は厭きさせない物語。第2話は新珠三千代の出番のなくなる中盤のおさん捜しが退屈だが、三田佳子の色気が見どころ。第3話は重吉がどうしようもない男なのに家族愛讃歌となっていて、話が退屈な上に腐臭がするほどに話がクサい。終始酔っぱらっている錦之助の演技がくどすぎて悪酔いしてしまう。 (評価:2.5)
清作の妻
公開:1965年06月25日
監督:増村保造 製作:永田雅一 脚本:新藤兼人 撮影:秋野友宏 音楽:山内正 美術:下河原友雄
吉田絃二郎の同名小説が原作で、1924年(村田実監督、浦辺粂子主演)に続く2度目の映画化。
時代は明治、水吞百姓の娘・兼は13歳で呉服屋の老人に囲われ、その死によって千円の遺産を手に母と故郷に帰る。妾をしていたことから村八分同然の扱いを受けるが、村の模範青年・清作が復員して兼を好きになり結婚する。兼と結婚したことで清作は家族からも村からも疎まれ、日露戦争開戦によって再び召集される。
旅順の戦いで突撃隊を志願し、怪我をして帰郷するが、傷が癒えるとともに再び戦地に赴くことになる。出征を食い止めようとして、兼は清作の両眼を釘で刺し、失明。兼は刑務所に入る。清作は初め兼を恨むが、出所してきた兼を暖かく迎え入れる・・・というのが筋。
民衆を犠牲にする戦争と国家主義を厳しく糾弾する反戦映画で、国家や村社会の集団主義に対峙させて、人間の尊厳と自由な精神の個人主義を賛美する内容ともなっている。明治という時代の空気と自由民権への思いを感じさせ、原作の時代の映画なら意義のあるものだったろうと思う。
新藤兼人の脚本と増村保造の演出は決して飽きさせないが、しかし正直、面白くない。黴の生えた反戦映画か、プロレタリア映画を見るようで、主張やテーマに文句はないが、糞真面目な優等生映画を見せられている気分で、おまけにマイナーの劇伴が憂鬱な気分をさらに増幅する。
若尾文子も田村高廣も悪くないが、もっとしたたかで男を手玉に取るような溌剌とした若尾文子が見たい。 (評価:2)
大怪獣ガメラ
公開:1965年11月27日
監督:湯浅憲明 製作:永田雅一 脚本:高橋二三 撮影:宗川信夫 音楽:山内正
東宝の『ゴジラ』に対抗して大映が作った怪獣映画で、本作のヒットをきっかけに続編が作られた。
ガメラのゴジラとの最大の違いは、破壊王のゴジラに対して善い怪獣という位置づけで、第2作以降それが確立されていくが、本作ではその発端となるエピソードが描かれる。
ソ連の水爆搭載機が撃墜され、北極海でエスキモーの伝説の怪獣ガメラが目を覚ます。これが襟裳岬に上陸し、それを自分が逃がした亀の化身だと思い込んだ少年(内田喜郎)との友情が芽生える。
第1作のガメラはゴジラに負けず劣らず砕氷船を沈めたり、羊蹄山の地熱発電所や東京湾のコンビナートのミニチュアを壊してエネルギーを補給するが、なぜか少年だけは助けてやって、子供の味方の怪獣ぶりをアピールする。
最後は伊豆大島からロケットに乗せられて火星へと追放されるが、これが第2作での地球帰還の伏線となる。
北極生まれのガメラは毎回宇宙から飛来して、悪い怪獣をやっつけ、地球を救うことになるが、空飛ぶ円盤よろしくジェットエンジンを噴射して回転しながら空を飛ぶ、本作の設定が生きた。
ただ『ゴジラ』が反核映画として誕生したのに比べ、『ガメラ』はあくまで大映が怪獣ブームに乗って生み出した点が出発点の大きな違いとなっていて、『ゴジラ』のような反核の批判精神は皆無。
ガメラを滅ぼすために米軍の核ミサイルを使おうという話まで登場して、放射能汚染など全く無視。広島・長崎の被爆のことなどすっかり忘れられている。
エスキモーが英語を話したりといった設定上の粗さが多いのはB級の性としても、『鉄腕アトム』からの核の平和利用という時代の幻想そのままに制作されていて、今見ると永田雅一以下の企画の安直さが目立つ。
船越英二、浜村純、吉田義夫、左卜全らが出演しているが、演技のおざなり感は否めない。灯台附近の子供に『機動戦士ガンダム』アムロの古谷徹。少年の姉役・姿美千子が懐かしい。 (評価:2)
兵隊やくざ
公開:1965年3月13日
監督:増村保造 製作:永田雅一 脚本:菊島隆三 撮影:小林節雄 美術:下河原友雄 音楽:山本直純
有馬頼義の小説『貴三郎一代』が原作。
昭和18年の満州が舞台。ソ連国境に近い関東軍駐屯地の歩兵部隊に入隊してきた初年兵・大宮貴三郎(勝新太郎)と三年兵の有田上等兵(田村高廣)の友情を描く。
有田は軍隊嫌いのインテリで、前歴がヤクザで喧嘩自慢の大宮の教育係を命じられるが、鉄拳制裁が名物の関東軍にあって柔よく剛を制し、大宮を手懐けてしまう。
他の上官からは不遜に見られる大宮は、砲兵隊で大学のボクシング部出身の黒金(北城寿太郎)に因縁をつけられ制裁を受けるが、私闘と断じた有田が決闘を許して復讐。外出禁止を無視して将校用慰安所通いと天衣無縫も、有田の取りなしでことなきを得る。
問題児の大宮は戦況悪化で南方部隊に異動を命じられるが、有田への恩返しのためにわざと営倉入りとなって南方行きを免れる。
対ソ連軍のために部隊は駐屯地を移動。大宮は戦況悪化で除隊を逃した有田のために、機関車から客車を切り離して恩返しするという物語。
基本は軍隊内の理不尽な暴力に対して暴力で対抗するという物語で、軍隊体験者は胸がすくかもしれないが、そうでないと負け戦での暴力対暴力の不毛を感じられて陰鬱となり、とても娯楽作としては楽しめない。
反軍、反戦の物語も、冒頭のナレーションにあるようにまた軍隊話かとうんざりするが、ヒットしてシリーズ化されたのを見ると当時は溜飲を下げる人がまだまだいたということか。
大宮が通い詰める慰安婦に淡路恵子。 (評価:2)
あばずれ
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製作:扇映画プロダクション公開:1965年6月
監督 : 渡辺護 製作 : 斎藤邦唯 脚本 : 吉田貴彰 撮影 : 生田洋 美術 : 豊島六郎 音楽 : 小谷松実
ピンク映画の黎明期を支えた渡辺護のデビュー作品。
低予算のピンク映画なのでシナリオ、台詞の凡庸を突いても意味がない。むしろ、ピンク映画というよりはサスペンス映画のように撮られていて、渡辺護の映画への意気込みを感じられるのが見どころとなっている。
父が再婚した、年頃で受験生の娘(飛鳥公子)が主人公。初めは義母(左京未知子)を受け入れるが、町の印刷所を経営する父の財産狙いで、会社の経理を担当する男を体で丸め込んでいるのを知り、父に離婚を迫る。
元バーの雇われママだった義母は、元バーテンダーの少年に娘を誘拐させ、身代金を要求させて夫を身ぐるみ剥ぎ、夫は心労から死亡。義母は奪った財産を元手にバーを持つ。
以下は義母に対する娘の復讐話で、経理の男、義母、元バーテンダーの順に殺す。
濡れ場は多いがカット版の表現は穏やかで、全裸は娘と義母の入浴シーンくらい。乳首もほとんど見えず、絡みも途中までなので、ピンク映画を期待するとPG12でガッカリする。
一般映画出身の左京未知子は艶めかしくて美人。娘役の飛鳥公子は丸顔の女の子だが、目の表情がよく、それを意識したアップのカットがノアール風で、ちょっといい。 (評価:2)
東京流れ者
公開:1966年4月10日
監督:鈴木清順 脚本:川内康範 撮影:峰重義 美術:木村威夫 音楽:鏑木創
同名歌謡曲を基に川内康範がストーリーにしたもので、東京に住む主人公がやんごとなき事情により流れ者になる。流れる先は秋田・佐世保で、それでは東京流れ者にならないので、最後は東京に帰ってくる。
流れ者となれば無宿渡世と相場は決まっていて、東京でヤクザに追われる身となり、各地の親分衆を頼って身を寄せるが、主人公に顔を潰された(面子ではなく物理的に顔を潰される)刺客が追い回し、これを退治するものの盃を受けた親分の裏切りを知って東京に帰ってヤクザと親分を退治、「俺は流れ者さ」と好いた女を残して旅に出る。
全編、流れ者のスタイルだけを追い求める作品で、監督が鈴木清順となればストーリーがわかろうがわかるまいがどうでもいい。実際、カットもカット繋ぎもスタイルブックをぺらぺらと眺めている感じで、連続性が薄く話がよく見えなかったりする。
セットは白を基本に照明で黄色やピンクに染め、スタジオ感が充満。小道具も単一色を強調する清順らしい色彩感覚。俳優の演技も定型を踏んだ舞台劇のようで、劇画のコマを繋げて見ている感じがする。
これを清順の様式美だと評価すればそれが見どころで、東映の任侠物とは一線を画した日活らしいモダンな任侠物だが、どちらにしてもドラマ性には重きが置かれていないので、物語を楽しむことはできない。
主人公に渡哲也、刺客に川地民夫、盃を受けた親分に北竜二、佐世保の兄貴に二谷英明。
恋人役の松原智恵子はクラブ歌手という設定だが、歌が吹き替えなのはいただけない。 (評価:2)
怪獣大戦争
公開:1966年12月17日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 特技監督:円谷英二 撮影:小泉一 音楽:伊福部昭 美術:北猛夫
日米合作の特撮映画で、英題は"Invasion of Astro-Monster"(宇宙怪獣の侵略)。
ゴジラは出てくるがゴジラ映画ではない作品で、ゴジラがギャグ漫画『おそ松くん』で当時流行したシェーをするなど、ゴジラ映画の変質が見てとれる。
怪獣映画に東宝作品『地球防衛軍』(1957)がミックスした、後のTV『ウルトラマン』に繋がる作品で、木星の裏側に衛星Xがあって、X星人が偽計を用いて地球を侵略するという物語。X星人はコンピュータ至上主義で、キングギドラを電磁波で操っている。人気怪獣ゴジラとラドンが地球からX衛星に輸送されるというシーンもあって、お子様ランチ風。
『フランケンシュタイン対地底怪獣』に出演したニック・アダムスが再登場し、吹き替え(納谷悟朗)ながら楽しい演技を見せてくれる。最初にX星探検をする主人公に宝田明、妹に沢井桂子、X星人に水野久美。
宇宙と湖が舞台となるため特撮シーンが寂しい。 (評価:2)
フランケンシュタイン対地底怪獣
公開:1965年08月08日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:馬淵薫 特技監督:円谷英二 撮影:小泉一 音楽:伊福部昭 美術:北猛夫
日米合作の特撮映画で、英題は"Frankenstein vs. Baragon"。フランケンシュタインとモグラみたいな地底怪獣が対決する。監督は本多猪四郎、特撮は円谷英二。
もともと怪獣映画はチープだが、本作の残念なところはフランケンシュタインとバラゴンがチープすぎること。ナチの研究室にあったフランケンの心臓がドイツ降伏のどさくさにUボートで広島に運ばれてくるという、枢軸国同士でなければ成立しない設定で、原爆の放射能を浴びたために成長が止まらなくなる。
巨大化した割には動きに巨人感がなく、少年が駆けている感じ。メーキャップもよくない。
冒頭は浮浪児やパンパンなどに対する差別発言のオンパレードだが、そういう時代だったという歴史的記録。もっとも人権意識等々は現在の中国みたいで、かつて日本は中国みたいだったとか、今の中国は半世紀前の日本の水準だとか、怪獣映画とは違った楽しみ方もある。 高島忠夫、水野久美と共演するのはアメリカの俳優ニック・アダムスで、合作映画らしく田崎潤・藤田進・志村喬と俳優陣にも力が入っている。
ストーリー的にはフランケンが巨大化して脱走するまではまあまあだが、それ以降は退屈。理由もなく突然パラゴンが現れて、つまらない相撲を延々と取る。決闘が終わると大蛸まで現れるというハチャメチャさ。
ミニチュアを使った特撮シーンが非常に多く、予算不足か今ひとつなのも残念。 (評価:1.5)