海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──2017年

製作国:フランス
日本公開:2018年9月15日
監督:アニエス・ヴァルダ、JR 製作:ロザリー・ヴァルダ 脚本:アニエス・ヴァルダ、JR 音楽:マチュー・シェディド
キネマ旬報:7位

ドキュメンタリーではなくヴァルダの心象を描いたもの
 原題"Visages Villages"で、顔々、村々の意。かつて写真家だったアニエス・ヴァルダとフランスの写真家JRの二人が、農村を中心にフランス各地を巡って写真を撮るというもの。撮ったモノクロ写真を拡大して建物の壁などに貼り付けるというJRのストリート芸術が中心となる。
 面白いのは廃坑となって空き家だらけとなった炭住の壁面に、かつての炭鉱夫たちの拡大写真をコラージュして貼り付けると、廃墟が昔日の存在感を取り戻したモニュメントになること。海岸の旧ドイツ軍のトーチカの残骸も人の写真を貼り付けるとアートなオブジェに様変わりする。
 トーチカの作品は一日の干満で写真が剥がれ元の姿に戻り、他の作品もいつかは消滅してしまうのだが、でき上がった刹那は貼られた写真の人々によって無機的な壁に命を吹き込まれる。
 そこに写真とは何かという根源的な問いかけが含まれていて、作品と共に自撮りした人々の写真にやがて消えゆくものの姿が記憶されることになる。
 本作はJRの作品作りを追ってドキュメンタリーとして制作されるが、冒頭の二人が行違うシーンからして多分に演出的で、ドキュメンタリーの手法を採ったフィクションでもある。
 ラストシーンではヴァルダの旧友ジャン=リュック・ゴダールに会いにスイスに行く。ところが家の扉は閉ざされ、窓ガラスにメッセージだけが書かれている。最低な男と落胆するヴァルダを慰めるため、JRは初めてサングラスをとって心を開く。
 ここでヴァルダを拒絶したゴダールとの対比が描かれるが、JRを写すカメラは目を患うヴァルダの視点に切り替わり、ぼやけて顔が見えないという作為的な演出となる。この演出意図をどう解釈するかは別として、本作がドキュメンタリーではなくヴァルダの心象を描いたものだということを明かしている。 (評価:2.5)

ロニートとエスティ 彼女たちの選択

製作国:イギリス
日本公開:2020年2月7日
監督:セバスティアン・レリオ 製作:フリーダ・トレスブランコ、エド・ギニー、レイチェル・ワイズ 脚本:セバスティアン・レリオ、レベッカ・レンキェヴィチ 撮影:ダニー・コーエン 美術:サラ・フィンリー 音楽:マシュー・ハーバート

父の埋葬地の写真が未来への希望を感じさせる
 原題"Disobedience"で、不服従の意。ナオミ・オルダーマンの同名小説が原作。
 トランスジェンダーに対する偏見をテーマにした『ナチュラルウーマン』(2017)に続き、性的マイノリティのレズビアンを題材に描くが、ロンドンのユダヤ人社会という宗教の律法が絡んだ複雑な問題を提示しているところが、本作の特長となっている。
 ユダヤの律法では男女は結婚しなければならず、同性愛は許されない。そうしたユダヤ人社会に馴染めなかった主人公のロニート(レイチェル・ワイズ)は、町を去りアメリカでカメラマンの仕事をしている。そこに親友エスティ(レイチェル・マクアダムス)から父の死去の知らせがあり、葬儀のために故郷に帰って来る。
 結論からいえば、ロニートの父であり、律法の指導者でもあったラビが最期に語った、人間は天使の清澄と獣の欲望の間にあって、神は我々に選択を与えられたという言葉により、レズビアンであるロニートとエスティは、エスティの夫でありラビの後継者となるべきドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)によって選択の自由を与えられる。
 宗教の束縛のない日本人や都市生活者には常識となりつつある性的マイノリティの権利も、宗教や因習からは相容れないことを改めて認識させられ、理念だけで解決できる問題ではないことがわかる。
 ラストが清々しいのは、二人が一緒になる道を選ばず、ロニートはニューヨークに去り、エスティはドヴィッドの子を産んで、ユダヤ人社会の中でロニートのように自由な意思選択のできる子に育てようと決意すること。
 ロニートが感謝の意を込めて、遺影として父の埋葬地を写真に収めるシーンが、未来への希望を感じさせる。 (評価:2.5)

製作国:フィンランド
日本公開:2017年12月2日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン
キネマ旬報:7位

カウリスマキ流ユーモアに入り込めない自分に反省
 原題"Toivon tuolla puolen"で、希望の向こう側の意。
 ヘルシンキに密航してきたシリア青年が難民申請を蹴られ、逃亡してレストランで働きながら別れた妹を捜すという物語で、難民問題というシリアスなテーマにも拘らず、笑いどころの今ひとつ掴めないカウリスマキ流のコメディ。
 とりわけレストラン就職からは前半とは打って変ったコメディタッチになって当惑するが、冒頭貨物船の炭で真っ黒になって登場したのもカウリスマキ流のユーモアだと気付いて、思わずカウリスマキ作品に入り込めていない自分に反省する。
 難民を体よく追い払おうとする役所や、「ユダヤ人」といってアラブ人に暴力を振るうネオナチの愛国者たちが登場。難民申請にフィンランドを選んだ理由を「平和でいい国だから」とシリア青年に言わせる風刺もカウリスマキ流か。
 もう一人の壮年の主人公が妻と別れてレストランを買収、シリア青年を匿ってIDまで偽造してあげ、妹の密入国を手助け。なぜかヤル気のないレストラン従業員3人が揃って難民に同情的なのは、彼らも移民ということか。
 最後には別れた妻をフロアマネージャーに迎えてハッピーエンドとなるが、難民に不寛容な国と人々を批判したドラマとなっている。
 客足の伸びないレストランを寿司屋に衣替えするシーンは、日本人なら大受け。フィンランドだけにネタは新鮮そう。 (評価:2.5)

ザ・スクエア 思いやりの聖域

製作国:スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク
日本公開:2018年4月28日
監督:リューベン・オストルンド 製作:エリク・ヘンメンドルフ、フィリップ・ボベール 脚本:リューベン・オストルンド 撮影:フレドリック・ウェンツェル 美術:ヨセフィン・オースバリ
カンヌ映画祭パルムドール

偽善と欺瞞渦巻く現代社会を現代美術を通して皮肉る
 原題"The Square"で、正方形、広場の意。
 ストックホルムの現代美術館でチーフ・キュレーターを務めるクリスティアン(クレス・バング)が主人公の風刺ドラマ。タイトルのザ・スクエアはクリスティアンが企画する次回展示で、館内の広場の床を四角く区切ったエリアが展示物。その中ではすべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われるという不平等な現代社会への問題提起がコンセプト。
 それでは客が呼べないと、スタッフたちは度肝を抜く宣伝を練り、ザ・スクエアにホームレスの金髪少女が入った途端に爆殺されるという動画を制作する。
 一方、クリスティアンは街中でスリ・グループに引っかかり、財布とスマホを盗まれてしまう。GPSで貧困地区のアパートにあることを知り、全戸に脅迫状を配って無事取り返すが、脅迫状を受け取った無関係な少年が親から責められ、クリスティアンに謝罪を求める。
 しかしクリスティアンはザ・スクエアのコンセプトとは裏腹に貧しい少年を追い返し、動画が炎上したことからチーフを辞任。赦しを求めて少年のアパートを訪ねるが、転居した後。
 偽善と欺瞞渦巻く現代社会を現代美術を通して皮肉るという作品で、冒頭の女性ジャーナリスト(エリザベス・モス)との会話、展示すれば何でも芸術になりうるか? という問いかけが、現代芸術そのものへの皮肉ともなっている。
 肉体関係を持った女性ジャーナリストとコンドームを取り合うエピソードが可笑しい。 (評価:2.5)

ナチュラルウーマン

製作国:チリ、ドイツ、スペイン、アメリカ
日本公開:2018年2月24日
監督:セバスティアン・レリオ 製作:フアン・デ・ディオス・ラライン、パブロ・ラライン 脚本:セバスティアン・レリオ、ゴンサロ・マサ 撮影:ベンハミン・エチャサレッタ 美術:エステファニア・ラライン 音楽:マシュー・ハーバート
アカデミー外国語映画賞

歌姫の哀しみと優しさに心が癒される不思議な作品
 原題"Una mujer fantástica"で、素晴らしい女性の意。
 トランスジェンダーのチリの俳優・メゾソプラノ歌手のダニエラ・ベガが、社会から偏見を受けるトランスジェンダーの歌手を演じるというドラマ。
 サンティアゴのナイトクラブの歌姫マリーナ(ダニエラ・ベガ)には初老の恋人オルランド(フランシスコ・レジェス)がいて、誕生日を祝った後、彼のアパートに行く。ところが夜中に意識不明となり、病院で急死してしまう。
 オルランドの弟を呼び後を任せるが、オルランドの妻が警察を呼び不可解な尋問を受ける。アパートに戻るとオルランドの息子がいて立ち退きを求められ、葬儀への出席を断られる。
 愛人だから当然の仕打ちだろうと見ていると、無理やり出席した葬儀で遺族たちから「オカマ野郎」の罵詈雑言を浴びて、漸くマリーナがトランスジェンダーであることに気づくほど、ダニエラ・ベガは女にしか見えない。若干ガタイはいいが、性転換した体は丸みがあって裸のシーンでも女性らしい体つきをしている。
 そうした人々の偏見に耐えながら、妹夫妻の家に身を寄せ、火葬場でオルランドに別れを告げ、オルランドの犬とともに再出発する。ラストシーンはピアノと弦楽をバックに、これ以上に愛しく優しく心地よい木陰はなかった、と「オンブラ・マイ・フ」を歌って締め括る。
 ただそれだけの物語だが、ダニエラ・ベガ演じるマリーナの哀しみと優しさと歌声に心が癒される、不思議な魅力のある作品となっている。 (評価:2.5)

ベイビー・ドライバー

製作国:アメリカ
日本公開:2017年8月19日
監督:エドガー・ライト 製作:ニラ・パーク、エリック・フェルナー、ティム・ビーヴァン 脚本:エドガー・ライト 撮影:ビル・ポープ 音楽:スティーヴン・プライス

車・音楽・青春の懐かしき時代の甘美なノスタルジー
 原題"Baby Driver"。Babyは主人公の通称名で、強盗実行犯の逃走用運転手を務めていることから。
 強盗計画を立案する元締めがケヴィン・スペイシーで、天才的運転技術を持つ美青年ベイビー(アンセル・エルゴート)が自動車泥棒をして積み荷の麻薬を捨ててしまったことから、その賠償に仕事を強要しているという、まさに少年に対するセクハラが問題となった人に相応しい役柄。
 強盗チームは毎回メンバーが変わる中で、ベイビーだけは変わらないという信頼を得ている。
 しかし、心優しいベイビーが郵便局強盗で仏心を起こしたことから計画は失敗、強盗団3人とともに警察に追われる身となり、孤児のベイビーを育ててくれた養父( CJ・ジョーンズ)ばかりか可愛いガールフレンド・デボラ(リリー・ジェームズ)まで巻き込むことになり、最後はターミネイター化した強盗団の一人(ジョン・ハム)とのタイマンとなり、辛くも勝利するものの警察に追い詰められるという展開。
 冒頭の銀行強盗では、ベイビーのアクロバティックなスタントが見どころで、カーアクション映画と思いきや、ケヴィン・スペイシーの登場で犯罪映画に変貌。強盗団の一人ジェイミー・フォックスの切れ方が見どころ。
 後半は恋愛映画となって、吹っ切れたデボラとの逃亡劇はボニー&クライド張り。『俺たちに明日はない』(1967)ならば最後に蜂の巣になって終わるところだが、その予感は外れて、心優しいベイビーと彼を愛し続けるデボラの再出発のラストシーンが清々しい。
 カーアクション映画から犯罪映画、恋愛映画へと変っていくシナリオと演出が見事で、両親を失った交通事故以来続く耳鳴りを逃れるために聴く懐かしのクイーンやT・レックス等のロックやリミックスなどの音楽が映像に溶け込んでいて、ポップなエンタテイメント映画として楽しめる。
 ラストでは5年の歳月が流れるが、中心に描かれるのはカセットテープの時代で、60~70年代風のデボラの服装や、ハッピーエンドなラストシーンともども、車と音楽が青春を彩った懐かしき良き時代の甘美なノスタルジーに満ちている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年3月1日
監督:ギレルモ・デル・トロ 製作:ギレルモ・デル・トロ、J・マイルズ・デイル 脚本:ギレルモ・デル・トロ、ヴァネッサ・テイラー 撮影:ダン・ローストセン 音楽:アレクサンドル・デスプラ
キネマ旬報:3位
アカデミー作品賞 ヴェネツィア映画祭金獅子賞


幻想的に描かれる水の姿が美しい
 原題"The Shape of Water"で、水の姿の意。
 独身で唖の中年女イライザ(サリー・ホーキンス)が、清掃婦をしている航空宇宙研究センターに運び込まれたアマゾンの半魚人(ダグ・ジョーンズ)と恋をするというファンタジーで、1954年の『大アマゾンの半魚人』のオマージュ。
 時代設定も1962年と、『大アマゾンの半魚人』の後日談をイメージし、人間の女に恋をした半魚人の悲恋に対して、本作では半魚人に恋した人間の女の悲恋を描き、異種間の相克を乗り越える物語になっている。
 同時に女は声で語ることのできない障碍者であることから、心で半魚人と通じ合える反面、黒人の同僚、ゲイの隣人、ロシア人であることを偽る博士ともども、マジョリティからの抑圧を受けるという、現代的テーマ性も盛り込まれている。
 半魚人の造形は『大アマゾンの半魚人』を基本的に引き継いでいて、悲恋でありながらも愛を成就するというメルヘンチックなハッピーエンドとなっている。
 アマゾンではなく都市が舞台という点では『スプラッシュ』(1984)によく似たシーンもあり、人差し指を突き出したり半魚人にヒーリング能力があるという点では『E.T.』を髣髴させ、デル・トロの映画愛を感じさせる。
 恋の相手が半魚人だけに、冒頭の水中シーンや浴室、ラストの海のシーン、窓の雨滴など、水のシーンが美しく幻想的に描かれるのが映像的な見どころで、アカデミー美術賞を受賞。
 研究用に運び込まれた半魚人を乱暴に扱い、ついには解剖しようとする軍人(マイケル・シャノン)の手から半魚人を救おうと、イライザに隣人の画家(リチャード・ジェンキンス)、ロシア人博士(マイケル・スタールバーグ)、清掃婦の友人(オクタヴィア・スペンサー)が協力し、海に返してあげるというのがストーリーの骨子で、これが異種間ラブストーリーに絡む。
 残酷シーンやセックスシーンもあってR15指定となっているが、異種間交合については暗喩だけで描写がないのが残念。そこはファンタジーだからということか。
 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞。 (評価:2.5)

女と男の観覧車

製作国:アメリカ
日本公開:2018年6月23日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、エリカ・アロンソン、エドワード・ウォルソン 脚本:ウディ・アレン 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ

放り出された4人のドラマの結末が知りたい
 原題"Wonder Wheel"で、驚異の観覧車の意。舞台となるコニー・アイランドのルナ・パーク遊園地に隣接する大観覧車の名前。
 時は1950年代。ビーチの監視員ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)を語り手に、彼が交際する人妻ジニー(ケイト・ウィンスレット)とその夫ハンプティ(ジム・ベルーシ)、それぞれの連れ子リッチー(ジャック・ゴア)とキャロライナ(ジュノー・テンプル)の複雑な家族模様を描く。
 物語上の主人公はジニーで、元売れなかった女優。ドラマーと結婚したが、共演の若い男と浮気して離婚。妻を亡くしたハンプティと再婚するが、愛情を持てずにミッキーと浮気している。
 ジニーとハンプティはともにルナ・パークで働くが、生活はギリギリ。小学生のリッチーは火付けで鬱屈を晴らしているが、マフィアに追われるキャロライナが同居したことから事情はさらに複雑化。ミッキーがキャロライナに一目惚れし、ジニーが二人の仲を疑い、三角関係ならぬ四角関係となる。
 ラストはマフィアが登場して、ジニーがキャロライナを売り、夫もミッキーも離れてすべてを失う悲劇のヒロインとなり、人生は喜劇という名の悲劇の幕切れとなる。
 ウディ・アレンらしいシニカル・ドラマで、子どもから大人まで誰一人として幸せにはなれないという人生の孤独を描くが、ケイト・ウィンスレットの生活に疲れたオバサンぶりがリアルで、ジム・ベルーシの可哀想ぶりも味がある。
 もっともジニーの破綻のドラマは完結するもの、ミッキー、ハンプティ、キャロライナ、リッチーのドラマは途中で放り出された感があって、それぞれの造形がよくできているだけに残念。 (評価:2.5)

ジャコメッティ 最後の肖像

製作国:イギリス
日本公開:2018年1月5日
監督:スタンリー・トゥッチ 製作:ゲイル・イーガン、ニック・バウアー、イラン・ジラール 脚本:スタンリー・トゥッチ 撮影:ダニー・コーエン 美術:ジェームズ・メリフィールド 音楽:エヴァン・ルーリー

常人には窺い知れぬ芸術家の頭の中を描き出す
 原題"Final Portrait"で、最後の肖像の意。ジェームズ・ロードのジャコメッティの回顧録"A Giacometti Portrait" が原作。
 1964年、パリ。ジャコメッティと親交のあった作家ロードが肖像画のモデルをした18日間を描く。
 アメリカへの翌日の帰国を控えたロード(アーミー・ハマー)が、当初2、3時間と頼まれたモデルが1日、2日と伸び、完成しかかった絵を何度も塗り潰すのを見て、終わりがないことに気づく。遂にジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)の弟ディエゴ(トニー・シャルーブ)が助け船を出して、完成直前の絵を見て褒め称え、ロードは漸く帰国することができるが、それでもジャコメッティがもう一度君の肖像画を描きたいと手紙を寄越すのに、ジャコメッティの芸術家としての姿を知ることができる。
 命を吸い取られるようだとモデルをやめてしまった妻のアネット(シルヴィー・テステュー)、モデルを続けると人生を失うと忠告するディエゴ。
 愛人でモデルの娼婦カロリーヌ(クレマンス・ポエジー)に好きなだけ贅沢を与える一方で、コートがないから買ってほしいというアネットには、物質主義者と金を投げつける。カロリーヌのポン引きの値上げ交渉には、売春代よりも高いモデル代を提示して驚かせる。更にはツケを払った上に半年分の先払いに大枚をはたき、払い過ぎだというロードにカロリーヌにはそれ以上の価値があると言い放つ言動に、ジャコメッティにとって愛人やモデルを超越したカロリーヌの存在の意味が窺えて興味深い。
 本作は常人には窺い知れぬ芸術家の頭の中を切り開き、その思考を描き出していて、ジェフリー・ラッシュがこれを好演している。
 ジャコメッティは1966年に没していて、これがタイトルの最後の肖像となっている。 (評価:2.5)

製作国:レバノン、フランス
日本公開:2018年8月31日
監督:ジアド・ドゥエイリ 製作:アントゥン・セナウィ、ジャン・ブレア、ラシッド・ブシャール、ジュリー・ガイエ、ナディア・トリンチェフ 脚本:ジアド・ドゥエイリ、ジョエル・トゥーマ 撮影:トンマーゾ・フィオリッリ 音楽:エリック・ヌヴー
キネマ旬報:10位

ラストでみんながいい人になってしまう和解の物語
 原題"قضية رقم ٢٣‎"で、ケース番号23の意。フランス語タイトルは"L'insulte"で、侮辱の意。
 ベイルートが舞台。些細なことからレバノン人とパレスチナ難民がトラブルとなり、それぞれに保守派と人権派の弁護士が付いて争う法廷劇。
 パレスチナ難民に反感を持つキリスト教右派レバノン軍団を支持するトニー(アデル・カラム)は、パレスチナ人ヤーセル(カメル・エル=バシャ)に嫌がらせをしたために「クズ野郎」と罵られ、謝罪に来たヤーセルに「おまえらはシャロンに抹殺されればよかった」と暴言を吐いたために殴られて怪我をする。
 トニーはヤーセルを告訴するが、双方が暴言の中身を証言しなかったために公訴棄却となる。しかし、殴られた傷が原因でトニーは夜中に倒れ、助けようとした身重の妻(リタ・ハイエク)が早産し、再び裁判となる。
 裁判はマスコミの注目するところとなり、レバノン人とパレスチナ人が傍聴に集まって、国を二分する対立を怖れた大統領が仲裁に乗り出す騒ぎとなる。
 しかし公判は進み、トニーが1976年のレバノン内戦の難民だったことが明らかとなり、裁判そのものはヤーセルの無罪となるが、どちらも民族紛争の被害者だということがわかり、和解して裁判を終える。
 物語はレバノン内部のキリスト教レバノン人とパレスチナ難民との対立を描いて相互理解と共存の大切さを訴えるが、同時にヨーロッパのシリア難民への理解と寛容を示唆する。
 レバノンの法律や訴訟指揮にやや違和感はあるが、謝罪に拘るトニーと告げ口を恥とするヤーセルのそれぞれの宗教に基づく考え方の違いが面白い。
 保守派と人権派の弁護士が実は父と娘という設定はドラマとしては通俗で、和解の物語とはいえラストでみんながいい人になってしまうハッピーエンドは若干白ける。
 カメル・エル=バシャの抑制の利いた渋い演技がいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年3月30日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:エイミー・パスカル、スティーヴン・スピルバーグ、クリスティ・マコスコ・クリーガー 脚本:リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー 撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:2位

新聞の意義を訴えるスピルバーグの懐古映画
 原題"The Post"で、ワシントン・ポストのこと。
 1971年の話で、ベトナム戦争を分析した当時のマクナマラ国防長官の報告書ペンタゴン・ペーパーズが流出。歴代の政権が国民に嘘をついていた事実を記す機密文書の公表を巡る、新聞とニクソン政権の攻防をワシントン・ポストの側から描く。
 膨大な量の機密文書を最初に報じたのがニューヨーク・タイムスで、すぐに政権から公表差し止め請求され、一時的に裁判所が記事の掲載を差し止める。後追いで機密文書を手に入れたワシントン・ポストは、これを公表するかどうかを巡り、経営陣と編集が対立。
 当時、経営的ピンチに立っていたポスト紙は公表によって資金支援が受けられなくなる事態を怖れ、同時に法律顧問は公表が法廷侮辱罪で刑事訴追を受ける恐れを主張する。
 その中で夫の死によって社主となった新聞経営には素人の妻(メリル・ストリープ)が編集主幹(トム・ハンクス)の意見を受け入れ公表にゴーサインを出すという、報道の自由をテーマとした社会派作品になってはいるが、平凡な実録映画の域を出ていない。
 興味深いのは、そうした定型的な社会正義のヒーロー物語よりも、当時の新聞社幹部と政権との親密な関係性で、社主はマクナマラをホームパーティに招くほどの親友で、編集主幹もケネディ一家と親しかったということ。
 この事件を契機に、新聞が政権から市民の側に立つに至ったというアメリカのマスコミの後進性に驚く。
 ワシントン・ポスト紙の経営事情と機密文書入手までの説明が倍速で進むためにいささか疲れ、その割にストーリーとしては盛り上がりに欠くためにやや冗長に感じる。
 メリル・ストリープとトム・ハンクスは円熟の演技で、どちらも主人公といったバランスの取れた作品になっている。
 ラストシーンは、同じくワシントン・ポストの報道によってニクソン失脚となるウォーターゲートビル侵入で"to be continued"となるが、新聞の衰退著しいアメリカで、新聞報道の意義を訴えるスピルバーグのオジサン的懐古映画といえなくもない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年5月26日
監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作:ジョアン・セラー、ポール・トーマス・アンダーソン、ミーガン・エリソン、ダニエル・ルピ 脚本:ポール・トーマス・アンダーソン 音楽:ジョニー・グリーンウッド
キネマ旬報:4位

母の呪いを解き、新たに魔法をかける魔女の告白
 原題"Phantom Thread"で、幽霊の糸の意。
 マザコン・シスコンの暴君的ファッション・デザイナーが、町のウェイトレスに惚れて彼女をミューズとしてハウスに迎えるが、やがて彼女に支配されてしまうという物語で、愛の相克のドラマとも、谷崎潤一郎的マゾヒズムの耽美的世界の物語ともいえる。
 レイノルズ(ダニエル・デイ=ルイス)は母の再婚のウエディングドレスを縫ったという原体験を持ち、母が死んだ後は姉(レスリー・マンヴィル)を母親代わりとして独身を貫いている。
 その彼の結婚できない呪いを解き放つのがアルマ(ヴィッキー・クリープス)で、毒キノコで病になったレイノルズに王女のウェディングドレスを穢させ、病床で母の亡霊を見た直後に、ドレスから"Never Cursed"の縫い取り、幽霊の糸を外し、呪いを解く。
 前段として、ウェディングドレスに未婚の者が触れると結婚できないという迷信が語られ、レイノルズ自身が原体験による呪いに縛られている。
 呪いを解かれたレイノルズはデザイナーとしての自信を失ってしまうが、それを救うのがアルマで、レイノルズの母と姉にとって代わり、毒キノコをもって支配する。その意味で、アルマは母の呪いを解き、新たに魔法をかける魔女となる。
 物語の枠としてアルマがレイノルズの主治医に語る形式を採っているのも、魔女の告白か。
 本作の面白さは、そうした物語に縫い込まれた仕掛け糸よりも、レイノルズとアルマの変態的ともいえる駆け引きにあって、不思議な妖しさの匂いのする恋愛劇となっている。 (評価:2.5)

タクシー運転手 約束は海を越えて

製作国:韓国
日本公開:2018年4月21日
監督:チャン・フン 脚本:オム・ユナ 撮影:コ・ラクソン 音楽:チョ・ヨンウク

カーチェイスではなくリアリティのある脱出劇が欲しかった
 原題"택시운전사"で、タクシー運転手の意。1980年の光州事件の際、光州市に潜入取材したドイツ人記者と同行したタクシー運転手の実話を基に脚色したドラマ。
 全斗煥の軍事クーデター後、戒厳令によって封鎖された光州市にドイツ公共放送連盟の東京特派員(トーマス・クレッチマン)がソウルからタクシーで潜入。反政府勢力の暴動により警官に死者が出たという政府の発表とは裏腹に、戒厳軍が市民に発砲、暴力を振るって多数の死傷者が出ている様子をビデオに収める。取材後、タクシーで光州市を脱出、政府の裏をかいて金浦空港から飛び立つまでを描く。
 この結果、光州事件の実態が世界に報道されることになるが、後日談として、記者が礼を言うためにその後もタクシー運転手を探し続けたが、偽名を教えられたために発見できず、無念のままに死去する。
 韓国の政治史の大きな事件を大上段から描くのではなく、報道に協力した市井のタクシー運転手を主人公に描くもので、演じるソン・ガンホのコミカルさが、シリアスな事件を深刻になり過ぎないように見せている。
 もっとも、終盤の光州市脱出では、主人公のタクシーだけでなく、仲間の数台のタクシーと軍車両との激しいカーチェイスというアクションにしたのはやりすぎで、娯楽に傾斜しがちな韓国映画の悪い癖が出ている。リアリティのある脱出劇に描いていれば、もっと良い作品になった。
 市民が軍に駆逐される光州事件の描写が記録映画のようにリアルで見応えがある。光州市のタクシー仲間を演じるユ・ヘジンがいい。
 本作公開後、主人公のモデルが光州事件4年後に病死していることがわかったのも、映画番外編としてドラマチック。 (評価:2.5)

リメンバー・ミー

製作国:アメリカ
日本公開:2018年3月16日
監督:リー・アンクリッチ 製作:ダーラ・K・アンダーソン 脚本:エイドリアン・モリーナ、マシュー・オルドリッチ 音楽:マイケル・ジアッキノ

キーとなる老婆の子供の時の顔とのギャップが微笑ましい
 原題"Coco"で、劇中に登場するキャラクターの名。主人公ミゲルの曽祖母。邦題は、主題歌の曲名"Remember Me"で、アカデミー主題歌賞受賞。
 ピクサーの製作で、メキシコの死者の日を題材にしたアニメーション。
 ミゲルの一家は代々靴職人で、家訓で音楽は禁じられている。ミゲルは音楽家になりたくて、死者の日の音楽コンテストに出場するために高祖父と信じる伝説の音楽家デラクルスの霊廟に忍び込み、ギターを盗み出そうとする。
 ところが死者のギターを盗んだために呪われ、死者の国へ飛ばされる。掟では、死んだ家族からの祝福を夜明けまでに受けないと、そのまま死者となってしまう。
 霊廟のギターの使用許可を得るためには高祖父の祝福を受けるしかないミゲルが、デラクルスに会うために反対する先祖たちの障害を乗り越えて…というのがストーリー。そこでデラクルスに纏わる秘密が明らかになり、家訓は改められ、翌年の死者の日には音楽家となったミゲルと高祖父が一緒に歌うというハッピーエンド。
 キーになるのが音楽家になるために家出した高祖父の一人娘ココで、翌年は死者の仲間入りをするが、泣かせるキャラクターとなっている。子供の時のココと老婆になってからの顔のギャップも微笑ましい。
 死者の国もピクサーらしく楽しいテーマパークになっているが、メキシカンな派手派手しい色使いが美術的な見どころ。 (評価:2.5)

心と体と

製作国:ハンガリー
日本公開:2018年4月14日
監督:イルディコー・エニェディ 製作:モニカ・メーチ、アンドラーシュ・ムヒ、エルヌー・メシュテルハーズィ 脚本:イルディコー・エニェディ 撮影:マーテー・ヘルバイ 音楽:アダム・バラージュ
ベルリン映画祭金熊賞

精神性の中での肉欲的エクスタシーというものを見たかった
 原題"Testről és lélekről"で、体と魂についての意。ベルリン映画祭金熊賞受賞。
 食肉加工会社の財務部長エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)が検査係として入社したマーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)に心惹かれナンパするも失敗。
 エンドレは黄昏た初老のオッサン、マーリアは自閉症スペクトラム障害の若い娘で、それぞれに孤立した人生を歩んでいるが、会社内で牛の交尾促進剤が盗まれ、全社員が精神分析医の調査を受けたことから、二人が同じ夢を見ていることがわかるというファンタスティックな設定。夢もファンタスティックで、それぞれに牡鹿、牝鹿として森の中でデートする。
 もっとも精神分析医はフロイト流のリビドーが大好きで、夢の中で二人が交尾するかどうかが焦点となるが、最後に交尾できたのかどうかは不明。潔癖症のマーリアには現実社会で手を触れることもできず、惹かれ合いながらも恋は実らない。
 訓練の甲斐あってマーリアの潔癖症は治り、ラストでめでたく二人は結ばれるが、代償に鹿の夢は失われる。
 夢の中でのデートというファンタジーがすべてで、いっそ夢の中で交尾して恋が成就するというヴァーチャルな展開の中で、愛の精神性と肉体性についての洞察を期待したのだが、肉体性はあくまで現実の肉体を通してという結末に少々ガッカリ。精神性の中での肉欲的エクスタシーとはどういうものか、というのを見たかった。
 ハンガリーでの牛の屠殺はギロチンというのが面白いが、残酷シーンでもあるので苦手な人は要注意。
 アスペルガーのマーリアは記憶力抜群で、検査する肉の脂肪の厚みをミリ単位で識別できる。これが、ハンガリーでの牛肉の等級判別になっていて、牛の交尾促進剤など雑学が興味深い。 (評価:2.5)

美女と野獣

製作国:アメリカ
日本公開:2017年4月21日
監督:ビル・コンドン 製作:デヴィッド・ホバーマン、トッド・リーバーマン 脚本:スティーヴン・チョボスキー、エヴァン・スピリオトポウロス 撮影:トビアス・シュリッスラー 美術:サラ・グリーンウッド 音楽:アラン・メンケン

野獣の演技が素晴らしくそのまま死んだ方が感動的だった
 原題"Beauty and the Beast"で、邦題の意。J・L・ド・ボーモンによるフランス民話を原作にした同名のミュージカル・アニメーション映画(1991)の実写リメイク。
 物語はアニメ版をほぼ踏襲していて、音楽も一部新作を加えて同じ楽曲が使われている。
 本作の目玉は美女の村娘ベル役にエマ・ワトソンが起用されたことだが、内容的には野獣役のダン・スティーヴンスが野獣の哀愁と葛藤を好演していて、むしろ野獣の演技が見どころとなっている。エマ・ワトソンは傑出した美女でない代わりに村娘としては違和感ないが、その分地味なために主役としてはアニメのような華やかさに欠けるのが恨みか。
 物語は、傲慢ゆえに魔女によって野獣に変えられてしまった王子が、ベルによって真実の愛を知り、魔法が解けて元の姿に戻るというもの。これにベルに片思いする村男ガストン(ルーク・エヴァンス)が絡む。
 アニメ版では瀕死の野獣にベルが涙を流すことで魔法が解けるが、本作では一度死んだ野獣にベルがキスをすることで魔法が解けて生き返る。もっともベルに思いを寄せる野獣の演技が素晴らしく、そのまま死んだ方が劇中に触れられる『ロミオとジュリエット』のように感動的だった。思い切って結末を変えるという方法もあったが、それができないのがディズニーの限界か。
 メルヘンとしてよくできていたアニメ版同様に、魔法で時計や家具に姿を代えられた城の召使いたちのCGが楽しく、とりわけベルが初めて城の食堂で食事を摂るシーンが"Be Our Guest"の曲に合わせて秀逸。映像での見どころとなっている。
 ベルの父にケヴィン・クライン、給仕頭の燭台にユアン・マクレガー、執事の時計にイアン・マッケラン、メイド頭のティーポットにエマ・トンプソンと脇が固めてある。 (評価:2.5)

グレイテスト・ショーマン

製作国:アメリカ
日本公開:2018年2月16日
監督:マイケル・グレイシー 製作:ローレンス・マーク、ピーター・チャーニン、ジェンノ・トッピング 脚本:ジェニー・ビックス、ビル・コンドン 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 音楽:ジョン・デブニー、ジョセフ・トラパニーズ

作品そのものが"The Greatest Show"の王道ミュージカル
 原題"The Greatest Showman"で、"The Greatest Show on Earth"(地上最大のショウ)の謳い文句で1952年に映画にもなったサーカス団を設立した、P・T・バーナムの伝記的ミュージカル。
 時は19世紀前半、ニューヨークで買い取った博物館で奇人変人を集めたいかがわしい見世物で成功を収めたバーナム(ヒュー・ジャックマン)が、悪評に立ち向かうため本物のオペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)をアレンジ、二人でロシア興行を行うが、妻(ミシェル・ウィリアムズ)のいる身で不倫はできないと不仲となり帰国。ディレクターのカーライル(ザック・エフロン)が留守を預かる劇場が放火で全焼し、テントによる起死回生の移動興行を始めるまでの、サーカス誕生秘話が描かれる。
 バーナムのサクセスストーリーに、夫婦愛・家族愛、カーライルとブランコ乗りの黒人女(ゼンデイヤ)の恋物語、畸形や黒人等のマイノリティ差別と、ストーリーもテーマも盛りだくさんで、作品的にはまとまりを欠くようにも見えるが、そのてんこ盛りの雑多がサーカスそのものともいえ、歌に踊りにショーに楽しめる。
 史実やバーナムの人間性、露悪的な見世物といった細かいことは抜きにすれば、ハリウッド的エンタテイメントとハッピーエンドという、ミュージカルとしては王道の作り。これぞ、"The Greatest Show on Earth"というバーナムらしい作品となっている。
 ベンジ・パセックとジャスティン・ポールの楽曲はどれも印象的だが、ジェニー・リンドがステージに登場してアリアや歌曲ではなく、オリジナル曲の"Never Enough"を歌い出すのは一瞬ズッコケる。
 回り灯籠など、ファンタジックで美しい映像も見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年2月1日
監督:マーティン・マクドナー 製作:グレアム・ブロードベント、ピート・チャーニン、マーティン・マクドナー 脚本:マーティン・マクドナー 撮影:ベン・デイヴィス 音楽:カーター・バーウェル
キネマ旬報:1位
ゴールデングローブ作品賞

犯人探しはどうなったの?という消化不良のラスト
 原題"Three Billboards Outside Ebbing, Missouri"で、ミズーリ州エビング町外れの3枚の広告板の意。
 娘をレイプ殺人された母親(フランシス・マクドーマンド)が、犯人を捜すために警察を動かす話で、町外れの犯行現場に掲示する3枚の広告板がタイトルの由来。
 広告板は、難航する捜査を諦めた警察署長(ウディ・ハレルソン)を叱咤するもので、警察署や市民が反発する中で、末期癌の署長が奮起して余命を捜査に賭けるというのは、黒澤明『生きる』を想起させる。
 若い女を作って離婚した前夫が元警官で、母親と署長とは良く知る仲から、ある種の友情物語ともいえるが、捜査が進まない内に妻を労わって署長が自殺してしまい、以後は署員の奮起に託すという反則技も出て、ドラマ的には肩透かしを食う。
 後を引き継ぐのは新署長にクビになった不良警官(サム・ロックウェル)で、前所長の遺言により正義感を取り戻すという熱血ぶりが懐かしのパターン。
 署長の教え通りに容疑者を見つけるがアリバイがあってチョン。しかし、悪者であることは間違いなく(と思っている)、成敗するために母親とともにアイダホに向かうところで幕切れとなる。
 目的のためならルール無視という鉄の女のお母ちゃんぶりが爽快で、ストーリーもそこそこ面白いが、しかし、娘の犯人探しはどうなったの? 身代わりを成敗すればそれでいいの? という、なんとも中途半端な終わり方で、消化不良になる。
 母親役フランシス・マクドーマンドがアカデミー主演女優賞、不良警官サム・ロックウェルがアカデミー助演男優賞。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、オランダ、フランス、アメリカ
日本公開:2017年9月9日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン 脚本:クリストファー・ノーラン 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:4位

裕次郎のように突っ立っているだけのK・ブラナー
 原題"Dunkirk"。第二次世界大戦でドイツ軍に追い詰められ、英軍が大陸から撤退するダンケルクの戦いを描いた作品。
 ドイツ軍は登場せず、英軍の敗退する様子だけを描くのみで、戦闘の背景について説明されないため、ヨーロッパ戦線についてのある程度の知識がないと事情がよくわからない。
 また、陸海空の3つの物語が並行して描かれていくが、陸の1週間、海の1日、空の1時間の3つの時間軸が絡まった状態で描かれていくため、事象が前後したり、昼夜が重なったりして、その事を理解していないとストーリーが混乱する。
 しかも、事象を追うだけで物語性はほとんど皆無、極論すればスピットファイア、メッサーシュミットの空中戦と艦船の沈没を見るための戦争アクション映画。
 救出のための漁船に乗り組んだ少年がヒーローとして新聞に載るのを夢見て頓死。最後に夢が叶うという安手の感動物語の付け足しはあるものの、冒頭の撤退シーンは戦闘も混乱も地獄図もないという戦記物としてはいささかリアリティに欠けた演出で、歴史ものとしての戦争映画を期待すると肩透かしを食う。
 戦争アクション娯楽映画として見るのが正しい見方で、特に戦闘機オタク向きの作品だが、CGを使わずにヴィジュアル・エフェクトで見せる映像は見応えがある。
 漁船の船長を演じるマーク・ライランスが抜群にカッコ良く、空軍パイロットのトム・ハーディはカッコ付け過ぎ。撤退作戦の指揮を執る海軍中佐ケネス・ブラナーは石原裕次郎のように突っ立っているだけで見せ場がない。
 EU離脱で国民が分裂しているイギリス人には、愛国心を取り戻し、先の大戦での国民団結の大切さを感じ取ることができるが、日本人にはダンケルクの戦いというものがあったことを知るくらいで感動は薄い。 (評価:2.5)

バーフバリ 王の凱旋

製作国:インド
日本公開:2017年12月29日
監督:S・S・ラージャマウリ 脚本:S・S・ラージャマウリ 撮影:K・K・センティル・クマール 音楽:M・M・キーラヴァーニ

『北斗の拳』ケンシロウの超人ぶりを髣髴させる
 原題"Baahubali 2: The Conclusion"で、「バーフバリ2:結び」の意。バーフバリは、主人公とその父の名。
 『バーフバリ 伝説誕生』の後編で、前編ラストで奴隷カッタッパが、父バーフバリを殺したのは自分だとした衝撃の告白の内容が語られる。
 蛮族との戦いに勝利した父バーフバリは、インドの神話叙事詩の定型に則って次期国王としてカッタッパを供に国外に修業の旅に出る。以下、嫁取り、王位をめぐる争奪と進むが、父バーフバリと義兄バラーラデーヴァの王位詐取の陰謀、父バーフバリの追放と暗殺とドラマチックに物語が進むため、派手な演出と相まり、ストーリーに若干の粗さはあるものの飽きさせない。
 前編同様、バリバリのCGとワイヤーアクションを使ったVFXは後編もフル回転で、スローモーションとコマ落しを駆使した破天荒なアクション演出は中国武侠ドラマ+忍者映画+マンガ+アメコミを総動員したハチャメチャさで、コメディと見紛うばかりに爽快。
 子バーフバリと伯父王バラーラデーヴァとの最終決戦は、『北斗の拳』の超人ぶりを髣髴させ、子バーフバリの服がメラメラと燃え鎧姿に変身するシーンはケンシロウの勇姿と重なる。
 エンタテイメントに徹した開き直りはある意味見事で、コミカル神話アクションファンタジーミュージカル映画という新機軸を打ち出している。
 ビデオゲーム調のあからさまなCGも漫画の背景的な効果を生んでいて、クオリティ的にはハリウッドのCGには劣るが、若干の安っぽさが却って神話的なファンタジー性を高めている。
 父バーフバリの妻となる王女役アヌシュカ・シェッティのふくよかさは、『マハーバーラタ』の「美しい尻の女よ」を思い出させて、好感が持てる。 (評価:2.5)

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス

製作国:イギリス
日本公開:2018年7月20日
監督:ルーシー・ウォーカー 製作:クリスティーン・カウイン、ザック・キルバーグ、ジュリアン・コーザリー、ヴィクター・モイヤーズ、アッシャー・ゴールドスタイン 撮影:エンリケ・シャディアック、ルーカス・ガス、ニック・ヒギンズ

BVSCを総括する試みは成功しないままアディオス
 原題"Buena Vista Social Club: Adios"で、キューバのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(BVSC)のラスト(アディオス)・ツアーとバンドの歴史を追ったドキュメンタリー。
 1999年のドキュメンタリー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(監督:ヴィム・ヴェンダース)の18年後を描く続編だが、メンバーは高齢化し数人が鬼籍に入ったことを踏まえ、今回のラスト・ツアーを通してBVSCを総括しようと試みる。
 彼らの音楽については、民族としてのアイデンティティそのもの、キューバ人にとって生きる支えだったことが描かれる。
 前作のフィルムを織り交ぜながら、高齢になってから彼らの音楽が認知されバンド結成に至った経緯を振り返るとともに、彼らの貧しく困難な生い立ちを追いながら、バティスタの独裁からカストロの革命を経て現在に至るキューバの歴史を描いていく。
 しかし彼らの成功とは裏腹に、彼らの音楽の根源的理解に至らない観客たちの熱狂が、彼らの心に空虚の影を落とす。
 1997年のアルバムでグラミー賞を受賞するもののビザが降りずに入国できなかったことについて、政治と音楽は関係ないとメンバーがコメントを避けるシーンがある。
 2015年のアメリカとの国交回復によってアディオス・ツアーは成功。革命時にアメリカに渡った家族との再会を果たす一方、オバマ大統領にホワイトハウスに招かれる。
 国交回復の象徴となるこの政治ショーは、期せずして音楽が無垢ではないことを示す。
 BVSCを総括しようとする試みは、音楽と歴史と人種と政治の渦に巻き込まれ、クライマックスのハバナでのファイナル・ステージを迎えて、映画としては未消化なままの幕切れとなる。 (評価:2.5)

バッド・ジーニアス 危険な天才たち

製作国:タイ
日本公開:2018年9月22日
監督:ナタウット・プーンピリヤ 製作:ジラ・マリクン、ワンリディー・ポンシティサック 脚本:ナタウット・プーンピリヤ、タニーダ・ハンタウィーワッタナー、ワスドーン・ピヤロンナ 撮影:パクラオ・ジランクーンクム

ピアノとバーコードを使ったカンニングがアイディア
 原題"ฉลาดเกมส์โกง"で、知的なカンニング・ゲームの意。
 天才少女リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)が奨学金をもらって上流家庭の子女が通う名門高校に入学。数学の苦手なグレース(イッサヤー・ホースワン)と親友になり、窮地を救うために試験で消しゴムに解答を書いてカンニングさせてしまう。
 それをグレーズが男友達のパット(ティーラドン・スパパンピンヨー)に話したことから、クラスメイトたちにカンニング指南をすることに…と、ここまではありふれた学園もので見る気をなくすのだが、この後の展開が面白い。
 天才少女のリンが考えたカンニング方法というのが、ピアノ曲4曲の右手の動きをA~Dに割り振り、机の上で弾いて見せてマークシート方式のテストで解答を教えるというもの。
 次に名門校の生徒たちは国際的な留学資格試験を受けるためのカンニングをリンに依頼。天才少女が考えた方法は、同一問題で世界各地で行われる制度を利用して、リンともう一人の天才少年バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)がシドニーで受験。その解答を休憩時間にSNSでタイに送り、時差を利用するというもの。解答はバーコードにしてパットの父が経営する印刷工場でシールに印刷、試験会場に持ち込む鉛筆に貼る。リンは解答をピアノの音符にして覚える。
 カンニング希望者は有料で鉛筆を購入。その資金をリンとパットの留学資金に充てる計画だが、そのカンニング場面がスリリング。
 成功するかどうかは見てのお楽しみで、最後にリンは金や留学よりも大切なものに気づくという教育批判にもなっている。 (評価:2.5)

古代の森

no image
製作国:リトアニア、ドイツ、エストニア
日本公開:2019年6月2日
監督:ミンダウガス・スルヴィラ

意識を古代の森と一体化させα波を引き出す環境映像
 原題"Sengirė"。
 リトアニアの原生林の中の自然、鳥や獣、昆虫などの生態を描くドキュメンタリーで、映像と別録の音声だけでナレーションも字幕もBGMも一切ない。
 一切の演出を排してあるがままのリトアニアの原生林を提示することで、映像から何を得るか、何を考えるかといった主観は、見る者の感性に委ねるという意図のもとに製作されているが、あるがままの映像、演出を持たない映像というのは概して退屈。
 それでも映像の重ね合わせや人物が登場するなどの演出は多少あるが、据え置きカメラで隠し絵のように何を撮影しているのかわからない映像や、あまり変化のない生物の動きを見続けているとときどき睡魔に襲われる。
 このような景色を実際の自然の中で観ている時は決して眠くならないのに、映画では何故眠くなるのだろう・・・二次元だからとか風や自然の空気がないからとか、フレームで切られた自然は撮影者の主観を通して見るからではないかと、ぼやけた頭で考えていると次第に意識が遠のく。
 もっとも心地よい眠りというのは、自分の意識が古代の森と一体化したことの証ともいえ、これはα波を引き出す優れた環境映像なのではないか。それからいえば、ホームシアターでうつらうつらしながら見るのが、もっともベストな鑑賞法かもしれない。
 準備期間8年、撮影4年、編集2年だそうで、オオカミやミミズク、ワシ、カラスなど貴重な生物の生態が描かれている。冒頭に樵が割っているのはSugar-nutsだそうで、トナカイの餌。
 自然の偉大さ、神秘等を通じて、開発によって失われつつあるリトアニアの原生林と生物たちを守ろうというのがテーマ。 (評価:2.5)

ゴースト・イン・ザ・シェル

製作国:アメリカ
日本公開:2017年4月7日
監督:ルパート・サンダーズ 製作:アヴィ・アラッド、アリ・アラッド、スティーヴン・ポール、マイケル・コスティガン 脚本:ジェイミー・モス、ウィリアム・ウィーラー、アーレン・クルーガー 撮影:ジェス・ホール 美術:ヤン・ロールフス 音楽:クリント・マンセル、ローン・バルフェ

吹替版の桃井かおりは顔だけ桃井かおりのキャラクター
 原題"Ghost in the Shell"。士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』が原作。Ghostは霊魂のことで、義体=サイボーグ化した外骨格(Shell)を持った精神体を意味する。
 主人公の草薙素子がガイジンのスカーレット・ヨハンソンで、ファンにはさぞかし不評だろうが、吹替版で見ると、ビートたけしの荒巻大佐以外はアニメ版と同じ声優なので、キャラクターデザインが若干外国人っぽいというくらいでそれほど違和感はない。
 もっとも、そうなるとビートたけしの荒巻大佐が妙に浮いていて、いっそ素子の母の桃井かおり同様に吹き替えてしまった方が良かったんじゃないかと思える。桃井かおりは顔だけ桃井かおりのキャラクター化している。
 本作では、素子はミラ少佐(スカーレット・ヨハンソン)という名の西洋人として登場する。テロの犠牲者となり、脳だけを移植して義体となったと説明される。
 ハンカ・ロボティックス社の宴席をテロリストが襲撃。捜査に乗り出した少佐ら公安9課の面々は、黒幕のクゼ(マイケル・カルメン・ピット)と接触。クゼがミラと同じゴーストを持った義体で、ハンカ社の実験体にされた犠牲者だったことを知る。さらにミラも、クゼ同様に実験体にされた草薙素子で、ニセの記憶を持たされていた…というストーリー。
 CGバリバリの美術で、『ブレードランナー』(1982)とよく似た世界観が良くも悪くもオリエンタルだが、電脳空間をイメージしたバグによるデジタルな画像の乱れや透明化の映像がそれっぽい。
 人間がロボット技術による新たな肉体、AIによる新たな脳を手に入れようとしている中で、人間であることの根源的な意味がテーマ。 (評価:2.5)

カーズ クロスロード

製作国:アメリカ
日本公開:2017年7月15日
監督:ブライアン・フィー 製作:ケヴィン・レハー 脚本:ボブ・ピーターソン、キール・マレー、マイク・リッチ 音楽:ランディ・ニューマン

リタイアのテーマが『カーズ』の観客に相応しいか疑問
 原題"Cars 3"。擬人化された車しか登場しないピクサー・アニメーション・スタジオ製作の3Dアニメーションのシリーズ第3作。
 主人公のレーシングカー、ライトニング・マックィーンに世代交代の波が押し寄せ、如何に潔く身を引くかということがテーマとなる。
 この時、マックィーンが参考にしようとするのが、彼の師である往年のチャンプ、ドック・ハドソンで、引退レースができないままに表舞台を去っていた。ドックのかつての師スモーキーのもとを訪れたマックィーンは、ドックがその不幸をマックィーンを育てることで乗り越えていたことを知り、マックィーンも名誉回復を賭けたレースを途中で後進に譲り、自らの事実上の引退レースとするところがドラマ的な見せ場となっている。
 レースを途中から引き継ぐのが、レーサーになる夢を諦めてマックィーンのトレーナーになったクルーズ・ラミレスで、ダートコースのレースともども、このレースシーンの迫力がカメラワークを含めて映像的な見どころ。実景と見紛うばかりの美術と併せ、リアルとフェイクの判別がつかなくなったCGの到達点を良くも悪くも示している。
 人生の引き際を如何に処すべきかというリタイアがテーマになっていて、対象は子供でも若者でも中年、壮年でもなく、老年。ピクサー・アニメーションが全年齢対象とはいえ、『カーズ』の観客に相応しいかは疑問。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年7月8日
監督:ステイシー・タイトル 製作:トレヴァー・メイシー、ジェフリー・ソロス、サイモン・ホースマン 脚本:ジョナサン・ペナー 撮影:ジェームズ・クニースト 美術:ジェニファー・スペンス 音楽:ザ・ニュートン・ブラザーズ

心理描写で怖がらせるオーソドックスな演出
 原題"The Bye Bye Man"で、劇中に登場する妖怪の名。ロバート・デイモン・シュネックのノンフィクション"The Bridge to Body Island"が原作。
 大学生のカップル、エリオット(ダグラス・スミス)とサーシャ(クレシダ・ボナス)、男友達ジョン(ルシエン・ラヴィスカウント)の3人が一軒家に引っ越してくるが、実はバイバイマン(ダグ・ジョーンズ)が棲みついていて、3人は幻覚に翻弄されるようになるというもの。エリオットが大学図書館で調べると、1969年の大量殺人事件に辿り着き、バイバイマンの名を口にしたり考えたりするとバイバイマンを引き寄せ、幻覚を見せられて殺し合うことがわかる。
 サーシャの友達の霊感女、図書館の司書、と次々に犠牲になり、最後は3人が殺し合うが、ジョンだけが助かる。
 "Don't say it, don't think it."がキーワードで、itであるバイバイマンの名をこの世から抹消するためには、バイバイマンの名を知っている人間をすべて殺さなければならないというホラーで、一人助かったジョンがその名を警察官に伝えることで、ネバーエンディングとなる。
 実話かどうかを棚上げにしても、よくできた都市伝説。バイバイマンは猟犬を連れていて、死神と死神犬(ヘルハウンド)そのものであることや、名前が禁句というのも民間伝承にはよくある話で、怪談要素を上手く取り入れた物語になっている。
 カメラワークや編集のコケオドシが少なく、心理描写で怖がらせるオーソドックスな演出も好感が持てる。
 1969年の大量殺人事件の犯人の妻にフェイ・ダナウェイ。 (評価:2.5)

テルマ

製作国:ノルウェー、フランス、デンマーク、スウェーデン
日本公開:2018年10月20日
監督:ヨアキム・トリアー 製作:トマス・ロブサム 脚本:エスキル・フォクト、ヨアキム・トリアー 撮影:ヤコブ・イーレ 美術:ローゲル・ローセンベリ 音楽:オーラ・フロッタム

サイキックものとしてはご都合主義で素人臭い
 原題"Thelma"で、主人公の名。
 ノルウェー、オスロの大学に入学した少女テルマ(エイリ・ハーボー)が主人公のサイキック・ホラー。
 癲癇のような原因不明の発作に襲われたことがきっかけで、同級生アンニャ(カヤ・ウィルキンス)と友達になるが、敬虔なキリスト教徒として育てられたテルマは、奔放なアンニャに惹かれ、影響を受けて酒や煙草、同性愛を経験するようになる。
 しかし罪悪感が引き金となり、幼児期に封印されていたサイキック能力が甦り、罪悪感の原因であるアンニャを消失させてしまうというのがトンデモナイ能力。幼児期に母を独占する弟の消失を願い、死なせてしまったという過去を持つが、医師の父親が与えた薬のせいか記憶してない。
 ご都合主義はほかにもあって、テルマが望むとその通りになるという説明で、弟を別の機会に一旦消した後に出現させたり、母の不自由な足を治してあげたりできる割に、アンニャを消して大慌てしたり(結果的には再出現させるが)、父を死なせたままだったりと、それほど超能力を自由に操れていない。
 テルマのサイキック能力がどのようなものか不明確で、ケースバイケースで都合よく使われているのが、この手の超能力ものとしては素人臭い。
 テルマの超能力を封印していたのがキリスト教への信仰で、アンニャの悪魔の誘惑でその封印が解かれるというのが物語的なテーマ。同性愛も手に入れて、自由な精神を開放することで発作の原因も消え去るという、出来の悪いストーリーに取ってつけた反宗教的なテーマになっている。
 冒頭の湖に張った氷の下から外の景色を見せるシーン、アンニャがテルマを愛撫するシーンが映像的な見どころ。 (評価:2.5)

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男

製作国:イギリス
日本公開:2018年3月30日
監督:ジョー・ライト 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、リサ・ブルース、アンソニー・マクカーテン、ダグラス・アーバンスキー 脚本:アンソニー・マクカーテン 撮影:ブリュノ・デルボネル 音楽:ダリオ・マリアネッリ

日本のように戦争に負けた方がマシだったと思う愛国映画
 原題"Darkest Hour"で、闇黒の時間、一番苦しい時の意。
 辻一弘がチャーチル(ゲイリー・オールドマン)の特殊メイクでアカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことで話題になった作品。
 1940年5月10日、戦時内閣の首相に指名されたチャーチルの数日間を追ったもので、ヒットラーのドイツが西ヨーロッパを破竹の勢いで侵出する中、ドイツとの和平工作を拒否、ダンケルクに追い詰められた30万兵士を救出、徹底抗戦を国民に呼びかけるまでの物語。
『ダンケルク』(2016)が救出作戦の模様を描いたのに対し、本作はそれを指揮した政治側からの物語ともいえ、もう一つのダンケルクとなっている。
 もう一つのダンケルクはヒーロー物語ではなく、囮となった数千の部隊が強硬なチャーチルによって見捨てられた現実も描くが、最後は愛国主義によって正当化してしまう。
 本作で描かれるチャーチルは、地下鉄に乗ったこともパン屋に並んだこともなく、庶民の暮らしを全く知らないアッパークラスの元海軍大臣で、兵士はチェスの駒でしかなく、国家・国王と自分を重んじ他人の意見には耳を貸さない冷酷な合理主義者でしかない。
 誕生日にみんなで仲良しごっこをする胡散臭い家族に囲まれた国粋主義者で、チャーチルの作戦は一億総玉砕を標榜した旧日本軍の精神主義と変わるところがない。
 彼に扇動された地下鉄の国民たちが、竹槍を持って鬼畜独逸と戦い抜くという話をチャーチルが我が意を得たりと喜ぶのでは、日本の大本営と大差ない。
 こんな作品でEU離脱する大英帝国の愛国精神が蘇るのなら、日本のように戦争に負けた方がまだマシだったと思わせる。 (評価:2.5)

スター・ウォーズ 最後のジェダイ

製作国:アメリカ
日本公開:2017年12月15日
監督:ライアン・ジョンソン 製作:キャスリーン・ケネディ、ラム・バーグマン 脚本:ライアン・ジョンソン 撮影:スティーヴ・イェドリン 音楽:ジョン・ウィリアムズ

お伽噺でもフォースでもない超能力者の物語
 原題"Star Wars: The Last Jedi"。エピソード8。
 前作「フォースの覚醒」で、フォースに覚醒したレイ(デイジー・リドリー)が、旧ジェダイ寺院で隠遁しているルーク(マーク・ハミル)に再会したラストから始まるが、全体は帝国軍に駆逐されるレジスタンスの話が中心。レイの修行とカイロ(アダム・ドライバー)との葛藤はサイドストーリーで、主役にも拘らずほとんど活躍の場がない。
 第3シリーズ2作目にして良くも悪くもディズニーらしさが出ていて、空を見上げて宇宙船を目視したり、軌道上のスター・デストロイヤーに爆弾を投下したりといった、いくらSFではなくお伽噺でも、思わず首をかしげたくなる描写が続く。
 レイとカイロの交信はテレパシー並みで、フォースがあるのかないのかわからないスノーク(アンディ・サーキス)はサイコキネシス、その赤い服の親衛隊はフォースを持つレイ、カイロと対等に戦い、ルークはホログラムどころか分身を操る。ラストに至って、レイはモーゼ並みに岩石の海を切り開き、これはもうフォースやジェダイではなく超能力者の物語。フォースが何なのかはどうでもよくなっている。
 スノークの鎮座する部屋は、背景幕を赤い照明に浮かび上がらせる特撮ものの悪の帝王の間のセットのようにチープで、お伽噺でもセットはリアルというスター・ウォーズらしさがない。
 レジスタンスとファースト・オーダーの最後の攻防戦では、相も変わらずのミニ・デススター攻撃で工夫がない上に、塩湖を挟んで一列横隊で対峙し、両軍が前進するという中世戦法。対スター・デストロイヤーとミニ・デススターに、二度のカミカゼ特攻をさせるというベタな演出。
 それに比べて、宇宙空間での戦闘シーンはスピード感も迫力も満点で、それだけでも見る価値はある。
 カイロを中心に話がまわり、レイ、ポー(オスカー・アイザック)、フィン(ジョン・ボイエガ)のエピソードが絡むが、全体には散漫でまとまりがない。
 レイア役キャリー・フィッシャーの遺作となり、エンドロールに献辞が捧げられる。 (評価:2)

製作国:韓国
日本公開:2018年9月8日
監督:チャン・ジュナン 脚本:キム・ギョンチャン 撮影:キム・ウヒョン 音楽:キム・テソン
キネマ旬報:8位

民主化運動の烈士を讃える革新勢力プロパガンダ映画か?
 原題"1987"。1987年、全斗煥軍事政権下に起きたソウル大生拷問死事件を中心に、事件の真相究明と続く民主化運動を描くフィクション。
 冒頭は拷問死事件と真相を追う新聞記者という展開で進むために、『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(2017)の韓国版かと思って観ていると、いつの間にかマスコミは主役を降りてしまい、対共捜査所長(キム・ユンソク)VSソウル地検公安部長(ハ・ジョンウ)の戦いという韓流アクション映画になる。拷問がバレてスケープゴートの刑事二人が収監されると主役は隠れ民主運動家の看守(ユ・ヘジン)に代わり、その姪(キム・テリ)と民主化運動で死亡する延世大生(カン・ドンウォン)とのラブストーリーが絡んでくる韓流恋愛映画になる。
 社会派映画なのか、はたまた娯楽映画なのか、腰の定まらない総花的なところが如何にも韓流映画なのだが、ラストに至って漸く主人公はソウル大生・延世大生ら民主化運動の烈士だということがわかり、民主烈士を讃える反軍愛国で終わる。
 拷問死のソウル大生は民主化運動の英雄となり、朴槿惠弾劾のろうそく集会や文在寅政権下の保守攻撃に利用される状況下で、本作は政治色の強いものとなっていて、とりわけラストシーンに向けての韓流パッションのエモーショナルな愛国ぶりが、結果的に文在寅を支える革新勢力の文脈に乗ったプロパガンダになってしまっている。
 チャン・ジュナンにはポピュリズムに陥らない冷静さが欲しかったが、キム・テリのアイドル映画のような使い方からは無理か。
 結末がわかっているだけに、恋愛映画になってからの展開がたるい。 (評価:2)

ルージュの手紙

製作国:フランス
日本公開:2017年12月9日
監督:マルタン・プロヴォ 製作:オリヴィエ・デルボス 脚本:マルタン・プロヴォ 撮影:イヴ・カペ 美術:ティエリー・フランソワ 音楽:グレゴワール・エッツェル

身勝手女すぎてフレンチなエスプリは心に響かない
 原題"Sage femme"で、賢い女の意。
 助産婦をしているクレール(カトリーヌ・フロ)のアパートに、30年前に家出した継母ベアトリス(カトリーヌ・ドヌーヴ)から突然電話が入る。脳腫瘍で死にかけているので夫に会いたいというものだったが、父は継母の失踪を苦に自殺していた。
 それを知るとベアトリスはクレールを頼って付き纏い始めるが、酒と煙草とギャンブルに明け暮れる堕落した日常で、借金の肩代わりまでさせられる。
 居候していた友達の空き家を追い出されると、クレールのアパートに転がり込むというウザい女で、普通だったら冷たく追い払うところだが、演じるのが何しろカトリーヌ・ドヌーヴなので、そうはならない。かつての可憐で美人のドヌーヴならともかく、小太りで美貌も衰えただらしない女を好演しているので、クレールが愛想を尽かさないのがむしろ不自然。
 真面目で堅実な人生を歩むクレールが、自由奔放な継母の生き方を受け入れていくという物語で、精神を解放されたクレールは菜園の隣に住むトラック運転手の愛を受け入れ、外科医にしたかった息子が退学して母と同じ助産師になるという希望を受け入れる。
 生の誕生に立ち会う助産師、父の自殺、継母の死の予感、息子の恋人の妊娠と生と死がキーワードとなるが、テーマにまでは昇華されていない。
 ラストシーンで、去ったベアトリスから指輪とキスマークが封書で届けられる。かつて父は、ベアトリクスはキスで人を幸せにできる人だとクレールに語っていて、指輪は父がベアトリクスに贈ったもの。
 クレールへの感謝と愛を贈るという手紙で邦題に結びつくが、ベアトリスが身勝手すぎてフレンチなエスプリはあまり心に響かない。 (評価:2)

ブレードランナー 2049

製作国:アメリカ
日本公開:2017年10月27日
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作:アンドリュー・A・コソーヴ、ブロデリック・ジョンソン、バッド・ヨーキン、シンシア・サイクス・ヨーキン 脚本:ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン 撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:ハンス・ジマー、ベンジャミン・ウォルフィッシュ

アイデンティティがSF設定とVFX、センチメントに拡散
 原題"Blade Runner 2049"。1982年の『ブレードランナー』の続編で、前作の2019年ロサンゼルスという設定を引き継いで、レプリカントの歴史が語られ、猥雑な世界観もそのまま引き継がれるため、2017年の現実との乖離が大きく、パラレルワールドの物語と割り切って観る必要がある。
 パラレルワールドのSF設定は非常にわかりにくく、しかも伏線が複雑であるにも拘らず全体に説明不足で、前半は新型レプリカントであるロス市警の捜査官K(ライアン・ゴズリング)がよくわからない謎を解き明かすための地道な捜査を続けるというストーリー的に山のない冗長な展開で、しかも163分の多くがこの説明に費やされるため、度々眠気が襲来する。
 この襲来から解き放たれるのが、前作で女性レプリカント・レイチェルと逃亡した捜査官デッカード(ハリソン・フォード)が登場してからで、それなりの存在感と演技力を知ることになる。
 謎解きは、レイチェルの墓を発見したKが、彼女が子を産んでいて出産時に死亡したことを知り、上司から子の抹殺を命じられる中で、その出生の秘密を探っていくというもので、彼自身がその子ではないかと考える。そこから父デッカードとの出会い、真実へと続いていくが、説明されないままの疑問点も多い。
 制作者の意図を推し量れば、これはレプリカントであるKのアイデンティティの物語であり、前作よりもフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のテーマに沿っている。
 自らの出生、木馬の記憶、父の発見に拘り、AIホログラムのジョイ(アナ・デ・アルマス)を恋人とする。ジョイもまたAIとしてのアイデンティティの不確かさを抱えていて、Kが出生によるリアルな存在であることを喜び、そのアイデンティティの確かさ故にシリアルナンバーであるKに替えてジョーの名を与える。
 自分がリアルではないことを知ったKは、喪失感と空虚感を思って階段に寝そべり雪空を仰ぐというラストを迎えるわけで、エマネーターを破壊されてデータごと消失したジョイ同様、アイデンティティの不確かさを思う。
 人造生命体、AI、さらには人間自身を含めたアイデンティティの不確実というテーマを追いかけながらも、SF設定とVFX、センチメントに拡散してしまった感があって、成功していない。
 見どころはどちらかといえばホログラムを中心としたVFXで、レイチェルのCG画像、とりわけジョイのダブルが面白いが、60年代のマリリン・モンローやプレスリーを登場させてしまっては、受ける年代が限られる。
 配給のソニーに配慮した日本語の広告なども数多く登場し、検索用AIが日本語を喋ったりするのも一興か。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年9月15日
監督:リドリー・スコット 製作:リドリー・スコット、マーク・ハッファム、マイケル・シェイファー、デヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒル 脚本:ジョン・ローガン、ダンテ・ハーパー 撮影:ダリウス・ウォルスキー 音楽:ジェド・カーゼル

シガニー・ウイバーの半分のタフさもない
 原題"Alien: Covenant"で、Covenantは聖書における神とイスラエル人との契約のこと。
 『プロメテウス』から10年後の続編、『エイリアン』の前日譚。
 宇宙植民船コヴェナント号がトラブルに巻き込まれ、謎の音声をキャッチして、目的地を変更して不時着。そこに前作のラストで地球に飛び立ったはずのアンドロイド・デイビッド(マイケル・ファスベンダー)が一人だけの王国を築いていたという物語。デイビッドはこの惑星に降り立ち、宇宙船に同乗していたエイリアンを遺伝子操作して無敵=完璧な生命体を作ろうと研究していた。
 一緒に逃れた女考古学者は実験に利用され、デイビッドは自らが創造主となるべく、コヴェナント号を乗っ取り、彼らが目指していた植民星に飛び立つというのがラスト。
 冒頭、時間軸的には前作『プロメテウス』の前となるデイビッド誕生のエピソードが語られ、アンドロイドの創造者は人間だが人間の創造者は誰か? というアンドロイドの開発者ウェイランド(ガイ・ピアース)とデイビッドの問答があり、これが前作の探査の動機になったことがわかるようになっている。
 デイビッドはイスラエルを統一して強大な王国を築いたダビデの英語発音で、前作同様旧約聖書をモチーフにしていて、タイトルにも結びついているが、この手の創作にありがちな独りよがりな神学論がいささか平凡。
 『エイリアン』の前日譚とはいうものの、物語の構造が『エイリアン』に似通っているのも残念なところ。エイリアンが少しも怖くなく、主人公となる副船長(キャサリン・ウォーターストン)はシガニー・ウイバーの半分のタフさもない。 (評価:2)

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー

製作国:アメリカ
日本公開:2018年11月17日
監督:デヴィッド・ロウリー 製作:トビー・ハルブルックス、ジェームズ・M・ジョンストン、アダム・ドナギー 脚本:デヴィッド・ロウリー 撮影:アンドリュー・ドロス・パレルモ 美術:ジェイド・ヒーリー、トム・ウォーカー 音楽:ダニエル・ハート

よくわからない切なさと無常感だけは伝わってくる
 原題"A Ghost Story"。
 交通事故で幽霊となってしまった男(ケイシー・アフレック)の物語で、生前、妻(ルーニー・マーラ)と田舎の一軒家に暮らしているところから始まる。
 夜中にピアノの鳴る音で目覚め、気味悪くなった妻が転居を言い出した矢先に交通事故。幽霊となった夫は妻が家を出ていく時に壁の隙間にメモを残していく。
 やがて新しい家族がやってくるが幽霊はポルターガイストとなって一家を追い出してしまう。隣家で人を待っている女の幽霊と知り合うが、突然二軒とも取り壊されてオフィスビルが建設される。生前、妻は度々転居を繰り返していて、いつか戻ってきた時に当時を思い出せるようにメモを残していくと語っていて、妻が戻らないことを悟った幽霊は絶望してビルから飛び降りてしまう。
 目覚めると西部開拓時代の荒野で、年月を経て現代となり、かつての自分と妻が転居してくるというループ。二人に気づいてもらうためにピアノを鳴らしたり、交通事故、妻の転居が繰り返されるが、新たな夫の幽霊が出現して、それをオリジナルの幽霊が見ることになる。
 妻の転居後、壁の隙間のメモを引っ張り出し、読んだ途端に成仏するが、メモの内容は明かされないままに終わるという物語。女の幽霊が家が取り壊されて人を待つことができなくなって消滅したり、宇宙の一生と諸行無常について語る場面があるが、男の幽霊が消滅した理由は不明。
 徹底した長回しと、早送りしたくなるほどのテンポの鈍さは、よく言えば情緒的で感傷的。男女のよくわからない切なさと無常感だけは伝わってくる。
 シーツを被ったお化けがアメリカ的で、間が抜けている。 (評価:2)

フォー・ハンズ

製作国:ドイツ
日本公開:2019年4月12日
監督:オリヴィエ・キーンル 製作:クラウス・ドーレ、マルクス・ライネケ 脚本:オリヴィエ・キーンル 撮影:ヨシ・ハイムラート 音楽:ハイコ・マイレ

パズルを見せる作品で話そのものはつまらない
 原題"Die Vierhandige"で、四手の意。冒頭、主人公の姉妹の連弾のシーンから始まる、姉妹が一心同体の物語。
 姉妹が幼い頃にカップル強盗に両親を殺され、20年後、二人が出所した直後に事故に遭って姉のジェシカ(フリーデリーケ・ベヒト)が死亡。妹ソフィー(フリーダ=ロヴィーサ・ハーマン)に憑依して復讐を始める。
 本作のアイディアは、憑依がジキルとハイドのような二重人格となって現れるというもので、復讐に積極的ではないソフィーとジェシカの一つの体を介しての争いとなる。
 事故でソフィーを助けた医師マーティンが恋人となってサポートするが、ソフィーの背中にタトゥーがあることを指摘して、ソフィーが自分のものだと思っていた身体が実はジェシカだったことに気づく。
 つまり事故時にソフィーの肉体が死んで、ジェシカの肉体にソフィーが憑依したというのが真相で、二人の精神が共存し、それぞれに自分の身体だと思っていたということ。霊安室でソフィーがジェシカの遺体を確認する際に、足だけで顔を見ないという不自然な描写が伏線となっている。
 復讐を遂げるシーンからは精神はソフィー、身体はジェシカになっていて、ジェシカの身体のソフィーがピアノを弾きながら鏡を見ると、そこにソフィーが映っている。
 ジェシカとの同体を嫌っていたソフィーが、ジェシカの身体を手に入れてジェシカの精神を追い出したようにも見えるが、よくわからない。
 それまでソフィーの精神時には身体もソフィー、ジェシカの精神時には身体もジェシカという主観視点で描写されてきたのも混乱する原因の一つで、マーティンや周囲の目には常にジェシカの肉体が見えていたということは、よく考えるとわかる仕掛けになっている。
 パズルを見せる作品で、話そのものがつまらないのが何ともいえない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年11月3日
監督:アンディ・ムスキエティ 製作:ロイ・リー、ダン・リン、セス・グレアム=スミス、デヴィッド・カッツェンバーグ、バルバラ・ムスキエティ 脚本:チェイス・パーマー、キャリー・フクナガ、ゲイリー・ドーベルマン 撮影:チョン・ジョンフン 音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

ソフィア・リリスの貧乳とソバカスが可愛い
 原題"IT:chapter one"。スティーヴン・キングのホラー小説"It"が原作。エンド・クレジットの最後にタイトルが出て、第2章があることを知って思わず脱力する。
 時は1988年、舞台はアメリカ東北端のメイン州の町。it(それ)は道化師(clown)の姿をした妖怪。27年毎に現れて、子供たちを食うが、下水道に住んでいて、いささかバッチイ。
 このitが何者かというのがホラーでは要目となるが、それが曖昧というのがスティーヴン・キングらしいところで、実在するのかしないのかも不明。
 主人公の弟や不良たちは一見必殺なのに、主人公と友達だけは脅かすだけで殺さないという妖怪にあるまじき所業。妖怪の行動に一貫性がなくては怖さも半減で、想像の産物ないしは悪魔に逃避するのでは腰砕け。
 それを補うべく、カット割りと編集でビックリさせるお化け屋敷的な演出が中心で、それなりに驚いたり怖かったりするが、SEに頼り過ぎ。じわじわ恐怖に追い詰めていくとか、心理的恐怖だとか、怨念・ミステリーといったドラマ的要素はなく、ストーリーもわかったようでわからない。
 青少年向けの健全なテーマを持ち込んでいるのもホラーとしては白けるところで、その割にR15指定では狙いがよくわからない。
 大雨の日、主人公の少年の弟が行方不明となり、下水道に流されたと考えて友達と捜索するうちに、それぞれが不気味な道化師と出会う。友達はそれぞれに苛められっ子だったり、親に虐待を受けていたり、病弱だったり、気弱だったりといったloser(負け犬)で、それ故に彼らにしか見えないclownの恐怖に怯える。
 loserである少年たちが、いかにloserを脱するかというのが如何にもアメリカ的なテーマで、バラバラの弱い存在であった少年たちがclownの恐怖に立ち向かい、力を合せて乗り越え勝利するまでの物語。
 clownを演じるビル・スカルスガルドが様になっているが、最後はボコスカハコにされるのが情けない。紅一点の少女ベバリーを演じるソフィア・リリスは、役年齢にあった貧乳とソバカスだらけの顔が可愛い。 (評価:2)

ビューティフル・デイ

製作国:イギリス
日本公開:2018年6月1日
監督:リン・ラムジー 製作:パスカル・コシュトゥー、ローザ・アッタブ、ジェームズ・ウィルソン、レベッカ・オブライエン、リン・ラムジー 脚本:リン・ラムジー 撮影:トム・タウネンド 美術:ティム・グライムス 音楽:ジョニー・グリーンウッド

フラストレーションの残るランボー映画
 原題"You Were Never Really Here"で、あなたは本当にここにはいなかったの意。ジョナサン・エイムズの同名小説が原作。
 ランボーもどきの殺し屋ジョー(ホアキン・フェニックス)が主人公のサスペンス。元軍人のジョーは行方不明者を非合法に探し出す仕事をしていて、州の上院議員(アレックス・マネット)から家出して売春組織に捕らわれている十代の娘ニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)の救出を依頼される。
 金槌一本で売春組織のホテルに踏み込み、客も警備員も皆殺しにして強行突破してしまうというジョーの暴れぶりが見ものだが、ニーナを救出して議員に引き渡すためにモーテルに籠ったところ、TVニュースで議員の自殺を知る。
 そこに警官が乱入してきてニーナを連れ去り、さらにジョーの雇い主と仲介役、ジョーの母親までが殺されるに至り、大きな陰謀の影が蠢くのだが、何のことはない、州知事がニーナの得意客で、取り戻してスキャンダルを闇に葬るためだったというお粗末。
 最愛の母を失ったジョーは、州知事に復讐するためにニーナが囚われている私邸に乗り込むが、肝腎の州知事はニーナに殺されていて、ここでも肩透かし。ニーナとファミレスに入ったジョーは自殺を夢想するが、ニーナに「これからどうする?」と聞かれ「どうしようか」という、血の繋がらない父娘の再出発という何とも気の抜けたエンディングとなる。
 ジョーがラスボスを倒さなくてどうする! というフラストレーションの残るランボー映画。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年11月23日
監督:トレイ・エドワード・シュルツ 製作:デヴィッド・カプラン、アンドレア・ロア 脚本:トレイ・エドワード・シュルツ 撮影:ドリュー・ダニエルズ 美術:カレン・マーフィ 音楽:ブライアン・マコンバー

世界観の説明がないのがフィクションとして大きな穴
 原題"It Comes at Night"で、それは夜にやってくるの意。
 未知の感染症を逃れて山奥のお祖父ちゃんの家で避難生活を送る家族という設定で、お祖父ちゃんが発症してしまい悲しみながら殺して埋葬するところから始まる。
 家は出入口を一つを残して完全封鎖。侵入者と感染に備えるが、男が空家と思って侵入。再生処理水との交換に食糧提供を申し出て、家族を連れて共同生活を始める…という話。
 ここまで展開が緩く設定の説明がないために、家族が置かれた状況がわからず、恐怖感だけを煽るだけの演出に退屈する。
 以下、何者かに吠えていた犬が死んだり、移住家族の子供が夢遊病になったりしながら、病気になって逃げ出そうとした移住家族を射殺。一家の息子も感染して、夫婦が絶望して終わるという、中身のないホラー作品。
 極限状況に追い込まれた人間心理や、その非人間性、悲しい性を描いているようにも思えるが、ホラーのテーマとしてはある種マンネリズムで、感染症が蔓延した(?)世界についての説明がないため、フィクションとして大きな穴が空いている。  (評価:2)

製作国:スペイン、アメリカ
日本公開:2019年4月12日
監督:セルヒオ・G・サンチェス 製作:ベレン・アティエンサ、アルバロ・アウグスティン、ジスラン・バロワ 脚本:セルヒオ・G・サンチェス 撮影:シャビ・ヒメネス 美術:パトリック・サルバドル 音楽:フェルナンド・ベラスケス

話がわかりにくい分、粗もわかりにくい
 原題"Marrowbone"で、登場する一家の母方のファミリー・ネーム。
 構造的には『シックス・センス』(1999)や『アザーズ』(2001)の系統のホラー・サスペンス。両作品と違うのは幽霊と思わせておいて幽霊が出てこないことで、以下はネタバレになるので観たい人は読まないこと。
 一家の正式な姓はフェアバーンだが、父サイモンがイギリスで1000ポンドの強殺事件を起こして逮捕され、母ローズが強奪金を隠して子供4人と30年ぶりに空家となったアメリカの生家に帰ってくる。サイモンはDV男で、母子はサイモンが追いかけてくるのを恐れているが、服役しているであろうサイモンが何故アメリカに来れるのかはよくわからない。
 ローズは心労から病気となり、臨終間際に長男ジャック(ジョージ・マッケイ)に1000ポンドを預け、21歳になるまで死を伏せて弟妹3人を守るように遺言する。意味がよくわからないが、成人することで法的な財産権と弟妹の養育権を得られるということらしい。
 ところが、何故かサイモンが突然現れる。ここから無理やり幽霊話に持っていくために話がよくわからなくなるが、シナリオの不出来か演出の不出来かその両方か。鍵になるのは突然現れるジャックの額の傷と鏡の覆いで、終盤になってその理由がわかる。
 時系列で説明すれば、サイモンを撃退しようとしたジャックが返り討ちに遭い、屋根裏部屋に隠れた弟妹を殺されてしまう。ジャックはサイモンを屋根裏部屋に閉じ込めるが、自責の念から解離性同一症となり、3人が生きたものとして多重人格を演じることになる。
 以下、ジャックの主観で描かれるために観客には4人が生者でサイモンが幽霊に誤誘導されるが、生者はジャックとサイモンの2人、弟妹3人はジャックの幻覚になる。
 最後は恋人アリー(アニャ・テイラー=ジョイ)を助けるためにサイモンと決戦、種明かしとなるが、とにかく伏線がわかりにくい。アリーが家族がいないことに気づかないのも不自然で、話がわかりにくい分、粗もわかりにくい。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年10月13日
監督:デヴィッド・F・サンドバーグ 製作:ピーター・サフラン、ジェームズ・ワン 脚本:ゲイリー・ドーベルマン 撮影:マキシム・アレクサンドル 美術:ジェニファー・スペンス 音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

人形を生かしたホラー的な怖さがないのが物足りない
 原題"Annabelle: Creation"で、アナベル誕生の意。『アナベル 死霊館の人形』(2014)の続編で、『死霊館』(2014)のアナベル人形誕生の前日譚を描く。
 アナベル人形は人形職人サミュエル・マリンズが製作したもので、1945年に娘アナベルが交通事故死し、神に祈って魂を召喚しようとしたところ、悪魔がアナベルに化けてやってきたというもの。
 物語は12年後の1957年、神父の呪文で悪魔の取り憑いた人形をアナベルの部屋に封じ込め、サミュエルが贖罪のために家を孤児院にするというもの。やってきた足の悪い孤児ジャニスが封印を解いてしまって憑依され、マリンズ夫妻が殺される。孤児たちは難を逃れるもののジャニスは失踪。人形は警察が持っていく。
 別の孤児院に入ったジャニスはアナベルと名乗りヒギンズ夫妻に引き取られるが、12年後の1970年、両親を殺害。『アナベル 死霊館の人形』へと引き継がれる。
 アナベル人形の誕生秘話となっているが、時系列の辻褄合わせが酷く、悪魔に憑依されたジャニスが両親を殺すまでの12年間、活動しなかったのが不思議。マリンズ夫妻が孤児院を開くというのも無理やりな設定で、怪奇現象が起きても孤児たちがマリンズ家を逃げ出さないというのもよくわからないし、そもそもサミュエルがなぜ不気味顔の人形を作ったかの説明がない。
 音楽とカメラとSEと照明と編集で、それなりに怖いシーンもあるが、悪魔が正体を見せてからはエイリアン風のモンスターとの戦いで、ポルターガイストはあるものの、人形を生かしたホラー的な怖さがないのが物足りない。 (評価:2)

猿の惑星 聖戦記

製作国:アメリカ
日本公開:2017年10月13日
監督:マット・リーヴス 製作:ピーター・チャーニン、ディラン・クラーク、リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー 脚本:マーク・ボンバック、マット・リーヴス 撮影:マイケル・セレシン 音楽:マイケル・ジアッキノ

apesと人類の合いの子がノヴァというわかりやすさ
 原題"War for the Planet of the Apes"で、猿の惑星の戦争の意。
 『新世紀』から2年後。大佐(ウディ・ハレルソン)に妻と長男を殺されたシーザー(アンディ・サーキス)は、率いる群れを離れ、数匹の仲間と復讐に向かうという物語。大佐は人類を守るべくapesの絶滅を図っている。
 復讐への途上、シーザーは群れからはぐれた口の聞けない少女を保護。口の聞けない理由がapesを進化させた猿インフル・ウイルスの感染にあり、大佐は同様にウイルスに感染した息子が野蛮人に変貌するのを恐れて殺害、ウイルスに感染した人間を皆殺しにしたことをシーザーは知る。
 冒頭シーザーは人間との和平のために大佐の兵士を生還させ、それを情けと表現し、息子を殺した大佐を非情と非難するが、大佐以上に人間性を身につけているシーザーと、情けが種の生存の危機を招くという信念の大佐の非情と対比させ、どちらが正当性と勝利を手に入れるかというテーマ設定になっている。
 もちろん最後にはシーザーが勝利するが、apesと人類の合いの子である少女がノヴァ(Nova=新星)となるというわかりやすいラスト。
 ウイルスに感染した大佐は拳銃自殺し、シーザーが大佐の部隊の手に落ちた群れを救って物語は終わるが、変わり映えのしないテーマと、続編のための続編といった魅力のないストーリーは見ていて退屈で、人類の終末の物語を描いた方がまだ良かったが、さらに続編を作るつもりかもしれない。
 VFXは雪崩のシーンは見応えがあるが、戦闘シーンなどの合成が全体にややちゃちく見えるのが残念。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:2019年5月31日
監督:ジョン・マクフェイル 製作:ネイサン・アレイ=カルー、ニコラス・クラム、トレイシー・ジャーヴィス 脚本:アラン・マクドナルド、ライアン・マクヘンリー 撮影:サラ・ディーン 美術:ライアン・クラチリー  音楽:ロディ・ハート、トミー・ライリー

ゾンビに歌って踊らせれば斬新だったかもしれない
 原題"Anna and the Apocalypse"で、邦題の意。
 ゾンビ映画をミュージカルにしたというのが斬新だが、歌うのは人間ばかり。ゾンビに歌って踊らせれば、もっと斬新だったかもしれない。
 そんな残念さの詰まった作品で、ゾンビ映画なのかミュージカルなのか青春映画なのか、整理がついていない。前半は田舎町で燻る高校生たちが、保守的な親や教師に抑えられて可能性への殻を破ることができず、漠たる未来に葛藤するという青春ミュージカルで、そんな歌をクリスマスの学芸会で聴かされても退屈するばかり。歌もつまらなければストーリーも学芸会並みで、後半、ゾンビが出てきても単調さは続く。
 主人公たちがゾンビに襲われ戦い始めると、さすがに歌っている余裕がなくなり、ようやくゾンビ映画らしい緊迫感が生まれるのだが、結局みんな死んでしまい、主人公のアナ(エラ・ハント)とヤンキー(ベン・ウィギンズ)、オトコ女(サラ・スワイヤー)の3人だけが生き残る。
 3人はゾンビのお蔭で田舎町を出ることができるのだが、閉塞の殻を破っても、どこに行けばいいのか? という問いかけしかできず、未来を見通せない若者たちを示して終わる。
 もっともこの3人、それぞれに逞しさを備えていて、要は黙示録(Apocalypse)を生き抜くには、それが必要だという結論かもしれない。
 ゾンビとミュージカルの相性の悪さが際立ち、ゾンビと青春映画も両立しない。ホラーコメディに割り切って、ゾンビに歌って踊らせて欲しかった。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年7月28日
監督:アレックス・カーツマン 製作:アレックス・カーツマン、クリス・モーガン、ショーン・ダニエル 脚本:デヴィッド・コープ、クリストファー・マッカリー、ディラン・カスマン 撮影:ベン・セレシン 音楽:ブライアン・タイラー

出来損ないのインディ・ジョーンズの感あり
 原題"The Mummy"で、ミイラの意。原題が同じ『ミイラ再生』(1932)のリブートとしての制作だが、現代に設定を置き換えた割には企画・シナリオ・演出ともに陳腐で、新鮮味が感じられない。
 最初に伏線として、ロンドンの地下鉄工事で十字軍墓地が発見され、十字軍兵士がメソポタミアから持ち帰ったオシリス石がラストでキーストーンとなるが、いきなり十字軍がメソポタミアに遠征という?がつく。
 次に舞台はイラクに移り、アメリカ軍兵士ニック(トム・クルーズ)とクリス(ジェイク・ジョンソン)が、エジプト王女アマネット(ソフィア・ブテラ)の墓を発見。女考古学者のジェニー(アナベル・ウォーリス)が「それが謎よ」とは言うものの、メソポタミアにエジプト女王の墓という?への回答はなく、端からこのシナリオの浅さが予想される展開となる。
 後は、出来損ないのインディ・ジョーンズを延々見せられる羽目になるが、リブートしたはずの『ミイラ再生』とは似ても似つかない別物に、制作の意義が感じられず、これなら『インディ・ジョーンズ』をリブートした方が良かったんじゃないかと思うが、そこはユニバーサル・ピクチャーズの製作だからと納得するしかない。
 トム・クルーズが悪いわけではないが、トム・クルーズの持ち味の軽薄さは『ミイラ再生』のボリス・カーロフとは対極にあり、かつてのユニバーサルのホラー映画は見る影もない。
 物語は、神になろうとしたアマネット王女が失敗して生き埋めにされ、かつての恋人に生き写しのニックに邪神セトを蘇らそうとする。ミイラのアマネットは人間たちの精気を吸い取って復活するが、ロンドン自然史博物館の地下に本部を構える対モンスター組織プロディジウムに拘束され、ロンドンに移送されて、そこでオシリス石を得てセト復活の儀式に臨む。
 しかし正気に返ったニックは、アマネットを倒し、異界の悪と戦う冥界の神としてイラクで死んだクリスとともに砂漠に旅立つというラストで終わる。
 大した見どころはないが、プロディジウムの親玉で二重人格者のジキル博士にラッセル・クロウと、キャストは豪華。 (評価:1.5)


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