外国映画レビュー──2014年
製作国:アメリカ
日本公開:2015年4月10日
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ 製作:アレハンドロ・G・イニャリトゥ、ジョン・レッシャー、アーノン・ミルチャン、ジェームズ・W・スコッチドープル 脚本:アレハンドロ・G・イニャリトゥ、ニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラリス・Jr、アルマンド・ボー 撮影:エマニュエル・ルベツキ 音楽:アントニオ・サンチェス
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞
バードマンであった男の『愛について語るときに我々の語ること』
原題は"Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance"。Virtueは邦題では奇跡と訳されているが、美徳、その効力のこと。
主人公はかつてスーパーヒーロー映画『バードマン』で主役を演じた人気俳優だが、今は忘れられた存在。名声を取り戻そうと、レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』をブロードウェーで上演するが、舞台は素人。人気俳優に台詞を弄られた上に批評家にコケにされて自信を失うが、見事初日を成功させるというのがストーリー。
もっとも描かれていくのは、バードマンの妄想に取り憑かれた主人公の虚実一体となった主観映像で、とりわけラスト近くは現実か幻想か主人公の生死を含めて判然としない。
本作の主題は「愛について」で、劇中劇同様、監督イニャリトゥによる映画の主人公を通した、『愛について語るときに我々の語ること』になっている。
主人公は、愛を理解できない、あるいは愛を知ることのできなかった男で、家庭生活で失敗した末に妻に逃げられ、父親不在の娘は薬物中毒を経験する。主人公がバードマンの妄想に取り憑かれるのも、かつての栄光の喪失と家族との相克によるもので、彼は舞台『愛について語るときに我々の語ること』の制作を通して、自分の家族に対する愛について知ることになる。
彼はかつて浮気現場を見られた時に入水自殺をしようとしたことを妻に語り、愛に無自覚だったことに後悔して涙し、再び命を絶とうとする。そうやって自らの愛を語ることで、彼は愛について理解し、愛について知り、自縄自縛してきたバードマンのペルソナを銃で破壊し、精神を解放する。そうして自由な空に飛び立った父に対し、娘はラストで初めて笑みを漏らす。
愛にはいろいろな形があって、これがバードマンであった男の愛の形であったとイニャリトゥは語る。
ただストーリーがわかりにくい上に、作中に散りばめられた記号によってさまざまな解釈を生むため、それを楽しめる映画ファン以外にはもやもやしたものが残る。
映像的に最大の見どころとなっているのは、主人公の想念や夢として描かれる一部のカットを除いて、主人公や登場人物の主観映像として全編ワンショットに見えるように撮られていること。
プレーヤーがゲームの主人公の役割を演じるロール・プレイング・ゲームと同じ手法で、観客がプレーヤーとなって物語を進行しているように意識づけられる。手持ちカメラによる精神的浮遊感や主観視点の連続性が効果的に演出されていて、ワンショットのようにシーンを繋ぐCGもよくできている。
残念なのはこのテクニカルな映像に気を奪われて、ストーリーに没入できないこと。 アカデミー作品賞のほかに監督賞、脚本賞、撮影賞受賞している。 (評価:3)
日本公開:2015年4月10日
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ 製作:アレハンドロ・G・イニャリトゥ、ジョン・レッシャー、アーノン・ミルチャン、ジェームズ・W・スコッチドープル 脚本:アレハンドロ・G・イニャリトゥ、ニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラリス・Jr、アルマンド・ボー 撮影:エマニュエル・ルベツキ 音楽:アントニオ・サンチェス
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞
原題は"Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance"。Virtueは邦題では奇跡と訳されているが、美徳、その効力のこと。
主人公はかつてスーパーヒーロー映画『バードマン』で主役を演じた人気俳優だが、今は忘れられた存在。名声を取り戻そうと、レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』をブロードウェーで上演するが、舞台は素人。人気俳優に台詞を弄られた上に批評家にコケにされて自信を失うが、見事初日を成功させるというのがストーリー。
もっとも描かれていくのは、バードマンの妄想に取り憑かれた主人公の虚実一体となった主観映像で、とりわけラスト近くは現実か幻想か主人公の生死を含めて判然としない。
本作の主題は「愛について」で、劇中劇同様、監督イニャリトゥによる映画の主人公を通した、『愛について語るときに我々の語ること』になっている。
主人公は、愛を理解できない、あるいは愛を知ることのできなかった男で、家庭生活で失敗した末に妻に逃げられ、父親不在の娘は薬物中毒を経験する。主人公がバードマンの妄想に取り憑かれるのも、かつての栄光の喪失と家族との相克によるもので、彼は舞台『愛について語るときに我々の語ること』の制作を通して、自分の家族に対する愛について知ることになる。
彼はかつて浮気現場を見られた時に入水自殺をしようとしたことを妻に語り、愛に無自覚だったことに後悔して涙し、再び命を絶とうとする。そうやって自らの愛を語ることで、彼は愛について理解し、愛について知り、自縄自縛してきたバードマンのペルソナを銃で破壊し、精神を解放する。そうして自由な空に飛び立った父に対し、娘はラストで初めて笑みを漏らす。
愛にはいろいろな形があって、これがバードマンであった男の愛の形であったとイニャリトゥは語る。
ただストーリーがわかりにくい上に、作中に散りばめられた記号によってさまざまな解釈を生むため、それを楽しめる映画ファン以外にはもやもやしたものが残る。
映像的に最大の見どころとなっているのは、主人公の想念や夢として描かれる一部のカットを除いて、主人公や登場人物の主観映像として全編ワンショットに見えるように撮られていること。
プレーヤーがゲームの主人公の役割を演じるロール・プレイング・ゲームと同じ手法で、観客がプレーヤーとなって物語を進行しているように意識づけられる。手持ちカメラによる精神的浮遊感や主観視点の連続性が効果的に演出されていて、ワンショットのようにシーンを繋ぐCGもよくできている。
残念なのはこのテクニカルな映像に気を奪われて、ストーリーに没入できないこと。 アカデミー作品賞のほかに監督賞、脚本賞、撮影賞受賞している。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:2015年2月21日
監督:クリント・イーストウッド 製作:ロバート・ロレンツ、アンドリュー・ラザー、ブラッドリー・クーパー、ピーター・モーガン、クリント・イーストウッド 脚本:ジェイソン・ホール 撮影:トム・スターン
キネマ旬報:2位
『荒野の用心棒』のイラク戦争実録版
原題"American Sniper"で、クリス・カイル同名の自伝が原作。
イラク戦争に4回度従軍した狙撃手の話で、アルカイダのザルカーウィーを追って160人の敵を射殺する。信条はテロリストからアメリカを守るためで、実際多くの米兵が彼によって守られ、命を救われたことを感謝する。しかし妻子を家に置き去りにし、女子供を容赦なく狙撃することで心が蝕まれ、退役を決めて妻子との生活を取り戻した矢先に、PTSDを患う元海兵隊員に殺されてしまう。
クリント・イーストウッドはかつてのベトナム帰還兵同様に、イラク戦争の帰還兵の心の闇を淡々と描いていき、見終わると重くて深い悲しみが残る。
イーストウッドの演出は職人技を見せていて、冒頭の戦車のキャタピラが瓦礫の中を進むシーンから観客を一気にイラクの戦場に引き込む。その臨場感のあるカメラワークが上手い。
アルカイダの民兵を狙撃するシーンは息苦しくなるほどで、その卓越したカットと編集のワザに思わず固唾を飲む。敵のスナイパー、ムスタファとの息詰まる対決や砂嵐の中での銃撃戦は、第一級のサスペンスになっていて、これが実際の戦争でなければ『ダーティ・ハリー』や『荒野の用心棒』並みのアクション・エンタテイメントといいたいところ。
カイルとムスタファのチェイスはガンマン同士の対決に置き換えられ、イーストウッドが俳優として初期の娯楽作で培った経験は、この実録物の演出の随所に生きている。イラク戦争のシリアスな映画であるにもかかわらず、徹頭徹尾、サスペンス映画のような息をのむ展開で見せ切る。
そしてこれがエンタテイメントではなく、一人の男の悲しい実話なのだということを思い出させるために、戦争の悲劇と鎮魂の思いをエンディングロールに表す。本作のエンディングは音楽なしの無音で、黙祷を捧げるように黒地に白抜きのロールが静かに流れる。
イラク戦争の実話でなければ、これほどよくできたエンタテイメントはない。 (評価:2.5)
日本公開:2015年2月21日
監督:クリント・イーストウッド 製作:ロバート・ロレンツ、アンドリュー・ラザー、ブラッドリー・クーパー、ピーター・モーガン、クリント・イーストウッド 脚本:ジェイソン・ホール 撮影:トム・スターン
キネマ旬報:2位
原題"American Sniper"で、クリス・カイル同名の自伝が原作。
イラク戦争に4回度従軍した狙撃手の話で、アルカイダのザルカーウィーを追って160人の敵を射殺する。信条はテロリストからアメリカを守るためで、実際多くの米兵が彼によって守られ、命を救われたことを感謝する。しかし妻子を家に置き去りにし、女子供を容赦なく狙撃することで心が蝕まれ、退役を決めて妻子との生活を取り戻した矢先に、PTSDを患う元海兵隊員に殺されてしまう。
クリント・イーストウッドはかつてのベトナム帰還兵同様に、イラク戦争の帰還兵の心の闇を淡々と描いていき、見終わると重くて深い悲しみが残る。
イーストウッドの演出は職人技を見せていて、冒頭の戦車のキャタピラが瓦礫の中を進むシーンから観客を一気にイラクの戦場に引き込む。その臨場感のあるカメラワークが上手い。
アルカイダの民兵を狙撃するシーンは息苦しくなるほどで、その卓越したカットと編集のワザに思わず固唾を飲む。敵のスナイパー、ムスタファとの息詰まる対決や砂嵐の中での銃撃戦は、第一級のサスペンスになっていて、これが実際の戦争でなければ『ダーティ・ハリー』や『荒野の用心棒』並みのアクション・エンタテイメントといいたいところ。
カイルとムスタファのチェイスはガンマン同士の対決に置き換えられ、イーストウッドが俳優として初期の娯楽作で培った経験は、この実録物の演出の随所に生きている。イラク戦争のシリアスな映画であるにもかかわらず、徹頭徹尾、サスペンス映画のような息をのむ展開で見せ切る。
そしてこれがエンタテイメントではなく、一人の男の悲しい実話なのだということを思い出させるために、戦争の悲劇と鎮魂の思いをエンディングロールに表す。本作のエンディングは音楽なしの無音で、黙祷を捧げるように黒地に白抜きのロールが静かに流れる。
イラク戦争の実話でなければ、これほどよくできたエンタテイメントはない。 (評価:2.5)
製作国:トルコ
日本公開:2015年6月27日
監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 脚本:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、エブル・ジェイラン 撮影:ゲクハン・ティリヤキ
キネマ旬報:8位
カンヌ映画祭パルム・ドール
3時間以上にわたる朝まで生テレビ!は意外と飽きない
原題"Kış Uykusu"で、冬眠の意。
トルコの世界遺産カッパドキアで、父から資産を受け継いだ素封家のプチホテル経営者の男が主人公。それほど成功しなかった元俳優で劇作家、今はコラムニストで、トルコの演劇の歴史を書こうとして書斎に籠っている。ホテルや貸家の経営は使用人に任せて、借家人とのトラブルからも距離を置いて、文化人を気取っている。
そうしたブルジョアにしてインテリという主人公に、周囲は不満や疎外感を持っていて、最初に家賃の払えないイスラム導師、離婚して出戻った妹、次に慈善活動にのめり込む若くて美人の妻、地元の友人たちが入替わり立替わり、3時間以上にわたって朝まで生テレビ!の激論を行う。インテリが主人公だけに議論は端から抽象的、形而上学的だが、いずれも「善とは何か」をめぐる主題となる。
導師とはイスラムの善について、妹とは悪との対処について、妻とは慈善の偽善について、友人とは良心の選択について議論されるが、良心は臆病者が使う言葉で強者には武器が良心、という『リチャード三世』からの引用で締めくくられる。
物語は強者である主人公が、故郷を離れてイスタンブールに旅立とうするのを止めて、良心に回帰して弱者の許に戻るという『クリスマスキャロル』のような改心話で終わるが、朝まで生テレビ!の議論を聴いていると、議論に勝っているのはむしろ主人公の方で、単純な善意と良心だけでは世の中は良くはならないように思える。
本作の根底にあるのは、イスラム教徒が大半を占めるトルコの世俗主義との確執で、主人公に代表される世俗派が社会的な地位を占め、伝統的なイスラム教徒との間に経済的な格差を生じている現実がある。
近代的合理主義の立場からは主人公に理があるものの、それではイスラムの社会主義的価値観との対立は解消されないという相克があって、最終的に世俗派の主人公に、強者の良心を武器から善意に持ち替えさせている。主人公がイスタンブールに向かう直前の犬の死骸、銃で撃たれる兎が弱者の象徴として描かれる。
台詞劇が中心のため理屈っぽいが、トルコの興味深い内情が描かれ、3時間にわたる議論は意外と飽きない。 (評価:2.5)
日本公開:2015年6月27日
監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 脚本:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、エブル・ジェイラン 撮影:ゲクハン・ティリヤキ
キネマ旬報:8位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Kış Uykusu"で、冬眠の意。
トルコの世界遺産カッパドキアで、父から資産を受け継いだ素封家のプチホテル経営者の男が主人公。それほど成功しなかった元俳優で劇作家、今はコラムニストで、トルコの演劇の歴史を書こうとして書斎に籠っている。ホテルや貸家の経営は使用人に任せて、借家人とのトラブルからも距離を置いて、文化人を気取っている。
そうしたブルジョアにしてインテリという主人公に、周囲は不満や疎外感を持っていて、最初に家賃の払えないイスラム導師、離婚して出戻った妹、次に慈善活動にのめり込む若くて美人の妻、地元の友人たちが入替わり立替わり、3時間以上にわたって朝まで生テレビ!の激論を行う。インテリが主人公だけに議論は端から抽象的、形而上学的だが、いずれも「善とは何か」をめぐる主題となる。
導師とはイスラムの善について、妹とは悪との対処について、妻とは慈善の偽善について、友人とは良心の選択について議論されるが、良心は臆病者が使う言葉で強者には武器が良心、という『リチャード三世』からの引用で締めくくられる。
物語は強者である主人公が、故郷を離れてイスタンブールに旅立とうするのを止めて、良心に回帰して弱者の許に戻るという『クリスマスキャロル』のような改心話で終わるが、朝まで生テレビ!の議論を聴いていると、議論に勝っているのはむしろ主人公の方で、単純な善意と良心だけでは世の中は良くはならないように思える。
本作の根底にあるのは、イスラム教徒が大半を占めるトルコの世俗主義との確執で、主人公に代表される世俗派が社会的な地位を占め、伝統的なイスラム教徒との間に経済的な格差を生じている現実がある。
近代的合理主義の立場からは主人公に理があるものの、それではイスラムの社会主義的価値観との対立は解消されないという相克があって、最終的に世俗派の主人公に、強者の良心を武器から善意に持ち替えさせている。主人公がイスタンブールに向かう直前の犬の死骸、銃で撃たれる兎が弱者の象徴として描かれる。
台詞劇が中心のため理屈っぽいが、トルコの興味深い内情が描かれ、3時間にわたる議論は意外と飽きない。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年11月14日
監督:リチャード・リンクレイター 製作:リチャード・リンクレイター、キャスリーン・サザーランド、ジョナサン・セリング、ジョン・スロス 脚本:リチャード・リンクレイター 撮影:リー・ダニエル、シェーン・ケリー
キネマ旬報:2位
ゴールデングローブ作品賞
少年よりもむしろコンピュータやゲーム機の成長に見入ってしまう
原題"Boyhood"で少年時代の意。6歳の少年が18歳まで成長していくフィクションの家族ドラマを、12年間かけて撮影したことが話題となった作品。
少年の姉をリチャード・リンクレイターの娘が演じ、実父の役をイーサン・ホーク、母をパトリシア・アークエットが演じ、アークエットはアカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を獲得している。
同じ俳優を使って撮り続けるというドキュメンタリー的な手法で、TVシリーズ『北の国から』を連想させるが、長尺とはいえ約3時間の長さで効果的だったかというと疑問。むしろ、長い期間を掛けたためにシナリオや演出・制作意図がぼやけてしまった印象は拭えず、ディテールの積み重ねであった『北の国から』に比べて、断片化したエピソードを時間軸に並べただけにしかみえない。
リアリストに対する監督の反感というのは随所に表れていて、主人公の母や姉、恋人などの女性、二人の儘父の描き方にそれが表れている。一方で、ミュージシャンを夢見るどうしようもない男の実父とその友人は、本当はいいパパと友達だったという描き方をされ、主人公自身もリアリストとは対極の写真家を夢見ている。
そうした中でラストに、" It's constant - -the moment. It's just... It's like it's always right now"(瞬間は不変なもので、それはまさに、いつもある今のことなんだ)という一言で、主人公を演じた少年の「今」を記録し続けた制作意図と、12年かけてカメラを回した手法の説明をしてしまうのだが、結論の曖昧な本作に無理やりまとめをつけた感が拭えない。
それでも少年と姉の成長はもちろん、それよりは周囲の大人たちが老けていく姿の方が妙に感動的で、母の"Getting married. Having kids. Getting divorced.・・・Sending you off to college. You know what's next? Huh? It's my fucking funeral! "(結婚して子供ができ、離婚して・・・あなたを大学に送り出し、次は何だかわかる? 私の葬式よ!)の台詞が身につまされる。
それぞれのシーンにアメリカの生活習慣や家庭観、離婚家庭の子供たちの境遇が窺えて面白いのだが、12年間かけて撮ってもフィクションはドキュメンタリーにはなりえず、あえて同じ俳優で12年間かけて撮らなくても、同じ内容の映画は作りえた。
そうした点では、12年かけて撮った意味も成果も感じられないが、少年の成長よりもむしろ映像内に出てくるアップル・コンピュータやゲーム機、携帯電話などのテクノロジーの12年間の成長に見入ってしまう。 (評価:2.5)
日本公開:2014年11月14日
監督:リチャード・リンクレイター 製作:リチャード・リンクレイター、キャスリーン・サザーランド、ジョナサン・セリング、ジョン・スロス 脚本:リチャード・リンクレイター 撮影:リー・ダニエル、シェーン・ケリー
キネマ旬報:2位
ゴールデングローブ作品賞
原題"Boyhood"で少年時代の意。6歳の少年が18歳まで成長していくフィクションの家族ドラマを、12年間かけて撮影したことが話題となった作品。
少年の姉をリチャード・リンクレイターの娘が演じ、実父の役をイーサン・ホーク、母をパトリシア・アークエットが演じ、アークエットはアカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を獲得している。
同じ俳優を使って撮り続けるというドキュメンタリー的な手法で、TVシリーズ『北の国から』を連想させるが、長尺とはいえ約3時間の長さで効果的だったかというと疑問。むしろ、長い期間を掛けたためにシナリオや演出・制作意図がぼやけてしまった印象は拭えず、ディテールの積み重ねであった『北の国から』に比べて、断片化したエピソードを時間軸に並べただけにしかみえない。
リアリストに対する監督の反感というのは随所に表れていて、主人公の母や姉、恋人などの女性、二人の儘父の描き方にそれが表れている。一方で、ミュージシャンを夢見るどうしようもない男の実父とその友人は、本当はいいパパと友達だったという描き方をされ、主人公自身もリアリストとは対極の写真家を夢見ている。
そうした中でラストに、" It's constant - -the moment. It's just... It's like it's always right now"(瞬間は不変なもので、それはまさに、いつもある今のことなんだ)という一言で、主人公を演じた少年の「今」を記録し続けた制作意図と、12年かけてカメラを回した手法の説明をしてしまうのだが、結論の曖昧な本作に無理やりまとめをつけた感が拭えない。
それでも少年と姉の成長はもちろん、それよりは周囲の大人たちが老けていく姿の方が妙に感動的で、母の"Getting married. Having kids. Getting divorced.・・・Sending you off to college. You know what's next? Huh? It's my fucking funeral! "(結婚して子供ができ、離婚して・・・あなたを大学に送り出し、次は何だかわかる? 私の葬式よ!)の台詞が身につまされる。
それぞれのシーンにアメリカの生活習慣や家庭観、離婚家庭の子供たちの境遇が窺えて面白いのだが、12年間かけて撮ってもフィクションはドキュメンタリーにはなりえず、あえて同じ俳優で12年間かけて撮らなくても、同じ内容の映画は作りえた。
そうした点では、12年かけて撮った意味も成果も感じられないが、少年の成長よりもむしろ映像内に出てくるアップル・コンピュータやゲーム機、携帯電話などのテクノロジーの12年間の成長に見入ってしまう。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2015年4月17日
監督:デイミアン・チャゼル 製作:ジェイソン・ブラム、ヘレン・エスタブルック、ミシェル・リトヴァク、デヴィッド・ランカスター 脚本:デイミアン・チャゼル 撮影:シャロン・メール 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
キネマ旬報:7位
巨人の星を目指すジャズ師弟の血と涙の物語
原題は"Whiplash"(鞭打ち)で、作中に登場する曲名。
ジャズ・ドラマーが主人公の音楽映画で、一言でいえば、音楽学校に入りたての若き天才ドラマーと、『巨人の星』の星一徹ばりの狂信的鉄拳教師との師弟物語。
"Good job"と誉めそやすだけではチャーリー・パーカーは生まれず、現在のジャズメンにチャーリー・パーカーが生まれないのはそのためだ、というのが星一徹のポリシー。故に、生徒たちに罵声を浴びせ、ちゃぶ台をひっくり返し、鉄下駄と筋力養成ギブスでしごき、叩きに叩きのめすために、かつての教え子は鬱病になって自殺してしまった。
主人公の弟子は恋人も捨てて猛特訓に耐えるが、その一途さが災いして星一徹と仲たがいし、学校を退学になり、パワハラを学校にチクって星一徹は学校から追い出される。
しかし、さすが星一徹、再会した弟子を罠に嵌め、ジャズ界で二度とドラムを叩けないようにしようとするが、そこは星飛馬。父ちゃんの挑戦を弾き返し、そのど根性を認めた星一徹と二人、巨人の星を指さして、ここに師弟の戦いを終えて和解するのだった・・・というのがストーリー。
このど根性ドラマを受け入れられるかどうかで評価も割れるが、そこは音楽映画なので、ジャズとドラムスの心地よい響きに身をゆだねるだけでも、十分に楽しめる。
星一徹を演じるJ・K・シモンズが、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞。 (評価:2.5)
日本公開:2015年4月17日
監督:デイミアン・チャゼル 製作:ジェイソン・ブラム、ヘレン・エスタブルック、ミシェル・リトヴァク、デヴィッド・ランカスター 脚本:デイミアン・チャゼル 撮影:シャロン・メール 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
キネマ旬報:7位
原題は"Whiplash"(鞭打ち)で、作中に登場する曲名。
ジャズ・ドラマーが主人公の音楽映画で、一言でいえば、音楽学校に入りたての若き天才ドラマーと、『巨人の星』の星一徹ばりの狂信的鉄拳教師との師弟物語。
"Good job"と誉めそやすだけではチャーリー・パーカーは生まれず、現在のジャズメンにチャーリー・パーカーが生まれないのはそのためだ、というのが星一徹のポリシー。故に、生徒たちに罵声を浴びせ、ちゃぶ台をひっくり返し、鉄下駄と筋力養成ギブスでしごき、叩きに叩きのめすために、かつての教え子は鬱病になって自殺してしまった。
主人公の弟子は恋人も捨てて猛特訓に耐えるが、その一途さが災いして星一徹と仲たがいし、学校を退学になり、パワハラを学校にチクって星一徹は学校から追い出される。
しかし、さすが星一徹、再会した弟子を罠に嵌め、ジャズ界で二度とドラムを叩けないようにしようとするが、そこは星飛馬。父ちゃんの挑戦を弾き返し、そのど根性を認めた星一徹と二人、巨人の星を指さして、ここに師弟の戦いを終えて和解するのだった・・・というのがストーリー。
このど根性ドラマを受け入れられるかどうかで評価も割れるが、そこは音楽映画なので、ジャズとドラムスの心地よい響きに身をゆだねるだけでも、十分に楽しめる。
星一徹を演じるJ・K・シモンズが、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞。 (評価:2.5)
妻への家路
日本公開:2015年3月6日
監督:チャン・イーモウ 脚本:ヅォウ・ジンジー 撮影:チャオ・シャオティン 音楽:チェン・キーガン
原題"帰来"、英題は"Coming Home"。厳歌苓の同名小説が原作。
文化大革命の時代、右派分子として西域送りになっていた教授が収容所を逃亡する。ところが、バレエ学校に通っている一人娘は主役を得るために父の帰宅を密告し、母から家を追い出される。文革終了後、名誉回復した父が帰宅すると、妻は精神病で夫の顔を覚えていない。夫は必死に妻に自分を思い出させようとするが・・・というのが物語の進行。
5日に帰ると手紙を出して、その通りにしてもダメ。妻と思い出を共有するピアノを弾いてもダメ、といつ夫の顔を思い出すのかというのが物語の引きとなるが、それでも病いの妻の面倒を看るしかないと諦めて、過去に収容所で書いた山のような手紙を読んで聞かせる下りからが一番の見どころとなる。
娘の過去の仕打ちを赦し、新たに書いた手紙を通して妻と娘との和解に努める夫が感動的で、老いてそれでも毎月5日に夫を駅に迎えに行く妻に付き添う姿が切なくも美しい。
結局、妻が夫の顔を思い出すことなく物語は終わるが、これが悲劇ではなく、老いてなお夫の帰宅を待ち続ける妻と、その妻を優しく見守る夫の永遠の夫婦愛、純愛物語なのだということに気付けば、これほどのハッピーエンドはない。
朴訥な夫をチェン・ダオミンが好演。『紅いコーリャン』以来、チャン・イーモウ作品には欠かせないコン・リーが病んだ妻を演じて上手い。
文化大革命を背景にしつつも、『初恋のきた道』等に通じるラブ・ストーリーで、物語は非常によくできている。もっとも、感動物語としてあまりに計算され過ぎていて、リアリティが若干軽視され、情緒に偏り過ぎているきらいがある。
娘役のチャン・ホエウェンのバレエ・シーンももう一つの見どころ。妻がなぜ夫の顔を忘れてしまったのかというもう一つの謎は、感動物語には生々しすぎて理由を仄めかすだけになっている。 (評価:2.5)
ネイチャー
日本公開:2014年5月2日
監督:パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール 製作:マイルス・コノリー、ニール・ナイチンゲール 撮影:ロッド・クラーク、ロビン・コックス、マーク・ディーヴル、ジェイミー・マクファーソン、サイモン・ウェリー 音楽:パトリック・ドイル
原題"Enchanted Kingdom"で、魔法の王国の意。BBC EARTH制作のドキュメンタリーで、4K3Dカメラによる撮影。
水をテーマに、アフリカの熱帯雨林・マグマの火口・砂漠・深海・高山・源流の自然を圧倒的な映像力で描く。573日にわたる撮影だが、昆虫などの生物の高精細な近接撮影や木の葉の落下などを見ていると、これは実写ではなくCGではないかと見まごうばかりで、まさしく映像そのものが魔法によって撮影されたのではないかと思えてくる。
フラミンゴのダンスやヴィクトリアの滝、ゾウ、ワニ等々を空撮・接写・高速度などのあらゆる手法を活かして見せてくれるが、美しいばかりでなく驚異の連続で、見飽きない。
もっとも地球が水の惑星であることは間違いないが、プロローグとエンディングの人間と水への強引な結びつけは若干、牽強付会。6つの世界にすべて水が共通しているわけでもなく、アフリカの驚異的な自然を未体験映像で見せるのが基本的なコンセプト。
それでも、ため息が出るほどの高精細映像とその映像美に魅了される。
砂漠で焼けないように手足を交互に上げ下ろしするシャベルカナヘビが可愛い。 (評価:2.5)
アリスのままで
日本公開:2015年6月27日
監督:リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウェストモアランド 製作:レックス・ルッツス、ジェームズ・ブラウン、パメラ・コフラー 脚本:リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウェストモアランド 撮影:ドゥニ・ルノワール 美術:トンマーゾ・オルティーノ 音楽:イラン・エシュケリ
原題"Still Alice"で、邦題の意。リサ・ジェノヴァの同名小説が原作。
50歳で若年性アルツハイマー病になった女性を描いた難病ものだが、死ぬのではなくボケるという結末が、お涙頂戴の通俗的な悲劇ではなく、人生の無常を感じる感動的なヒューマンドラマになっている。
優秀な大学教授が知性を失って無力化していく様をアリス役のジュリアン・ムーアが好演して、アカデミー賞主演女優賞を受賞。とりわけ年齢以上に若く見えるアリスが、終盤精気を失って徘徊老人のようになっていく姿が見どころ。
アルツハイマーの初期、知性を武器に生きてきたアリスが将来、病気の進行によって尊厳を失うことを恐れ、自殺のトリガーを引くように仕組んでおくが、結局トリガーを引けないままに記憶を保持できなくなり、アリスにとって生き恥、望まない生を続けてしまう姿が悲しい。
医師である夫は病気になって落ち込むアリスを一生支えると約束しながら、結局は自分の人生を優先。良い子の長女と長男も自らの生活を優先する中、母の望まない道を選んで反目していた次女(クリステン・スチュワート)が、結局は母を介護することになり、アリスを誰よりも愛していたのは自我が強く喧嘩ばかりしていた次女だったという、予定調和ながらも心温まる救いのある結末となっている。 (評価:2.5)
ネッド・ライフル
日本公開:2018年5月27日
監督:ハル・ハートリー 脚本:ハル・ハートリー 撮影:ウラジーミル・ソボティッチ 音楽:ハル・ハートリー
原題"Ned Rifle"で、登場人物の名。『ヘンリー・フール』(1997)、『フェイ・グリム』(2006)の完結編。
ネッド・ライフルはヘンリー・フールとフェイ・グリムの息子。
前作で、CIAにテロリストの烙印を押されたフェイ(パーカー・ポージー)は、無実ながらも国家反逆罪で終身刑に。息子のネッド(リーアム・エイケン)は牧師に育てられるが、母の復讐のためにヘンリー(トーマス・ジェイ・ライアン)の行方を探す旅に出る。
そこで出会ったのがスーザン(オーブリー・プラザ)で、この2人を軸にした物語となっている。
スーザンはサイモン(ジェームズ・アーバニアク)の研究者かつフェイの伝記作家で、さらに第1作でヘンリーが淫交した少女という設定。彼女もまたヘンリーを探していて、2人は精神病院にいるヘンリーを見つける。
スーザンはヘンリーを今も愛していて、棄てられたことを恨みに思い、ネッド同様にヘンリーを殺そうと考えている。 最後はスーザンがヘンリーを撃ち、ネッドが誤ってスーザンを刺してしまうが、虫の息のヘンリーがネッドに「逃げろ」と言うのに対し、ネッドがそれを拒否して「逃げず」に罪と向き合うというラスト。
基本はナンセンスコメディを踏襲しながらも、前二作に比べると教訓的で、ネッドはヘンリーとは対極の敬虔なキリスト教徒に設定され、前二作のおふざけを否定して真面目に生きることを是としているようにも見える。
これほどつまらない結論はなく、ハートリーの意図がよく汲み取れない完結編になっている。 (評価:2.5)
ビッグ・アイズ
日本公開:2015年1月23日
監督:ティム・バートン 製作:リネット・ハウエル、スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー、ティム・バートン 脚本:スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー 撮影:ブリュノ・デルボネル 音楽:ダニー・エルフマン
原題"Big Eyes"で、劇中登場する大きな瞳の少女を描いた一連の絵画シリーズのこと。実話が基になっている。
DV夫と別れた男を見る目のない女が、とんだ食わせ者の夫と再婚した不幸を描くが、夫が人気画家で、実はその絵を描かされていたのが妻だったというところが本作のポイント。
セレブな生活を送りながらも、日陰の身でいることに耐えられず、別居して裁判を起こし名声を自分の手に取り戻すまでが描かれるが、背景にあるのは昔の男性優位社会であったと冒頭に解説がつく。つまり、妻は夫に従い、女流画家では絵が売れないから夫名義で絵を売ることを承諾し、painting machineとして自己表現であるはずの絵画で精神的苦痛と隷従を強いられる。
もっとも、時代は1950年代で、ひと昔前とはいえ信じがたい話だが、妻のマーガレット・キーンがアメリカ中西部のナッシュビルの生まれだと知れば、ローカル格差もあったのかもしれない。
妻を上手く丸め込んだ夫は口八丁手八丁の大ぼら吹きだが、彼女の絵が人気となった功績の半分は夫のセールス・プロモーションにあって、画家を詐称した罪は大きいものの、もう少し夫の功績を認めてやった方がいいんじゃないかと、妻寄りの描写に半分懐疑しながらも、まあ映画だから仕方がないかとも思う。
最後は虐げられた妻が名誉を回復して終わり、メデタシメデタシの勧善懲悪ものとして胸がすくが、ティム・バートンもこんな映画を撮るのかと意外に思いつつも、やっぱりこれも現代のファンタジー映画なのだと納得する。
妻にエイミー・アダムス、夫を演じるクリストフ・ヴァルツが上手い。 (評価:2.5)
マレフィセント
日本公開:2014年7月5日
監督:ロバート・ストロンバーグ 製作:ジョー・ロス 脚本:リンダ・ウールヴァートン 撮影:ディーン・セムラー 美術:ゲイリー・フリーマン、ディラン・コール 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
原題"Maleficent"で、主人公の名。シャルル・ペローの童話"La Belle au bois dormant"(眠れる森の美女)を原作にした同名のミュージカル・アニメーション映画(1959)を基にした実写映画。
マレフィセントはアニメ版に名前の登場する、王女に呪いをかける妖精で、悪魔のような角の生えた姿もアニメ版のデザイン。本作ではさらに悪魔の翼を持っているが、劇中ではfairyと呼ばれている。
物語は大幅に改変されていて、妖精の国ムーアと人間の国が対立していて、マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)が少女の頃に人間の少年ステファンと恋をするが、長じて王の座を得ようとしたステファン(シャールト・コプリー)に裏切られたために、ステファンの王女オーロラに呪いをかけるという設定になっている。
呪いをかけたものの幼いオーロラに心を奪われ、母親のようにして接しているうちに呪いをかけたことを後悔。呪いを解くために奔走する話で、最後は心優しいオーロラ(エル・ファニング)が二つの国を統べるというハッピーエンド。
アニメ版で王女を育てる3人の妖精が本作では役立たずの上、眠れる美女を眠りから覚ます役が王子ではないというのも原作と大きく異なっている。
真実の愛は存在するかどうかがテーマで、ステファンとともにマレフィセントはこれを否定するが、自ら真実の愛が存在するのを証明するという話になっていて、原作のパロディになっているが、単なるパロディを越えた母の物語になっている。
VFXの使い過ぎとアクションが、原作のメルヘンの情感を損ねるが、主人公同様別モノと考えれば今風なファンタジー映画として楽しめる。 (評価:2.5)
猿の惑星 新世紀
日本公開:2014年9月19日
監督:マット・リーヴス 製作:ピーター・チャーニン、ディラン・クラーク、リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー 脚本:リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー、マーク・ボンバック 撮影:マイケル・セレシン 音楽:マイケル・ジアッキーノ
原題"Dawn of the Planet of the Apes"で、猿の惑星の夜明けの意。
『猿の惑星 創世記』の続編で、森に逃げ込んだシーザー(アンディ・サーキス)率いるapesたちと、猿インフルで荒廃したサンフランシスコに取り残された人類の戦いを描く。
前作後、猿インフルで数百万の人類が死滅したという状況設定で、サンフランシスコの技術者マルコム(ジェイソン・クラーク)が、原子力と火力の供給を絶たれ、電源を求めて廃棄された水力発電所に向かう途中、シーザー達に遭遇。衝突を望まないシーザーとマルコスは不戦協定を結ぶが、町に出たapesのコバ(トビー・ケベル)が、人間たちが銃撃戦の準備をしているのを見て、主戦派に転換。奪った銃器でシーザーを倒し、リーダーに納まり、町の人間を襲撃する。
要はapesにも人間にも、平和を望む者と敵対を望む者がいるという話で、シーザーがコバを倒して全面戦争は回避したものの、一度開いた戦端は閉じることができず、人間対apesの戦争が始まってしまったという結末となる。
エピソードそのものが小粒で、これが全面戦争の発端というには余りに局地戦過ぎて、猿が人間に替って地球の盟主となったというにはあまりに説得力のない物語だが、apesをゾンビに置き換えれば、2010年に始まったテレビシリーズ『ウォーキング・デッド』によく似た漂流ものの設定になっているのが気にかかる。
ラストの爆発シーンはVFXを駆使したアクションもののようで、旧シリーズとの違和感は免れないが、取り敢えずは旧シリーズの前日譚としては収まった話にはなっている。
シーザーが育った家に行き、子供の頃の写真を見るシーンはちょっとした泣かせどころ。
人間の主戦派にゲイリー・オールドマン。 (評価:2.5)
イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密
日本公開: 2015年3月13日
監督:モルテン・ティルドゥム 製作:ノラ・グロスマン、イドー・オストロウスキー、テディ・シュウォーツマン 脚本:グレアム・ムーア 撮影:オスカル・ファウラ 音楽:アレクサンドル・デスプラ
原題は"The Imitation Game"で、プレイヤーにコンピュータを入れたパーティゲーム、模倣ゲームのこと。機械が人間同様の知性を持っているかどうかを判定するチューリング・テストの一つ。
初期のコンピュータ考案者の一人、アラン・チューリングについて書かれたアンドリュー・ホッジスの伝記"Alan Turing: The Enigma"が原作。
チューリングは第二次世界大戦でドイツ軍の暗号機エニグマを解読するプロジェクト・チームに参加する。唯我独尊、変人のチューリングはマシンにはマシンという信念の基、無理解な周囲の反対を押し切って暗号解読機の開発に取り組む。これが、コンピュータの前身となるが、ドイツの暗号を受信している女性の言葉をヒントに、見事解読に成功する。
映画はこの暗号解読の過程と、それに挿入する形でチューリングの少年時代のエピソードが語られる。
チューリングは暗号解読機をクリストファーと呼ぶが、これが少年時代に早逝した友達の名だということは最後になって明かされる。
この映画の本線は暗号解読物語ではなく、実はチューリングとクリストファーの恋物語で、クリストファーを仮託したのが暗号解読機、つまり将来のコンピュータであり、チューリング・テストの問いかけ、マシンは人間と同じ知能を持ちうるかということは、チューリングにとってコンピュータが亡き恋人クリストファーの代わりになりうるかということに他ならない。
チューリングはコンピュータが知能を持つことをことを信じていて、マシンのクリストファーは人格を持った対象となっている。そして、クリストファーそのものとしてコンピュータを愛するようになる。
マシン・クリストファーを破壊の手から守り、同性愛の罪で逮捕されたときに、クリストファーと別離する監獄よりも、薬物で自己を破壊してもクリストファーと同棲する道を選ぶ。
これはチューリングとクリストファー、チューリングとクリストファーそのものであるマシンとのラブ・ストーリーであり、暗号解読は背景に過ぎない。
そのせいもあって、どのように暗号が解読されたかについてはあまり説明されず、ドラマにそれを求めるとやや物足りない。
そうしたチューリングのよき理解者となる元婚約者のキーラ・ナイトレイが芯の強い可愛い女を演じて上手い。チューリング役のベネディクト・カンバーバッチも頑張っているが、少年時代を演じるアレックス・ローサーのホモセクシュアルな演技も見どころ。
脚本のグレアム・ムーアはアカデミー脚色賞を受賞。 (評価:2.5)
誰よりも狙われた男
日本公開:2014年10月17日
監督:アントン・コルベイン 製作:スティーヴン・コーンウェル、ゲイル・イーガン、マルテ・グルナート、サイモン・コーンウェル、アンドレア・カルダーウッド 脚本:アンドリュー・ボーヴェル 撮影:ブノワ・ドゥローム 音楽:ヘルバート・グリューネマイヤー
原題は"A Most Wanted Man"で最重要指名手配者の意。ジョン・ル・カレの同名小説が原作。
イスラム過激派として指名手配されているチェチェン人青年がハンブルクに密入国し、これを泳がせて過激派に資金援助する組織の実態を掴もうとするドイツ諜報機関員(フィリップ・シーモア・ホフマン)と、チェチェン人の逮捕を優先するCIAとの争いを描く。
ハンブルクの銀行にある秘密口座の資金の処分がストーリーの核。ドイツ諜報機関員もCIAも目的は世界平和のためだが、青年を免責して過激派に資金を流してルートを解明したいドイツ諜報機関員に対し、テロリストは一人も容赦しないというCIAの姿勢の違いがドラマの見どころ。
ラストにはル・カレのCIAに対する考え方が表れ、でどうなるの? といった未消化感は拭えず、かといってストーリー全体の完成度は今ひとつで、何を楽しめばよいかに悩むところ。
イスラム過激派の資金はこうやって供給されていますよ、という実態がなんとなく想像できるところが見どころといえば見どことか。
冴えないオッサンのドイツスパイをホフマンが好演しているが、『マスター』の教祖はいざ知らず、スパイがぶくぶくの体をしているのには若干違和感がある。それが不摂生のせいだったか、完成後に薬物中毒死した。
ハンブルクの銀行家にウィレム・デフォー。チェチェン人青年を支援する女弁護士をレイチェル・マクアダムスが演じるが、拉致されるときに自転車に乗って赤信号で止まるのはさすが法律家。 (評価:2.5)
最愛の子
日本公開:2016年1月16日
監督:ピーター・チャン 脚本:チャン・ジー 撮影:チョウ・シューハオ 音楽:レオン・コー
原題"親愛的"で、親愛なるの意。
実話を基にした作品で、児童誘拐事件が題材。深圳の離婚した夫婦の3歳の息子が誘拐され、父親の必死の捜索で3年後に安徽省の農村で発見。養子として育てられていたが、誘拐犯の養父は死亡。事情を知らない養母は、養子を奪われた挙句、もう一人の養女も保護施設に入れられ、同情した弁護士と養女の養育権の訴訟を起こす。
深圳の夫婦は、同じように子供を誘拐された親たちの会に入り、互いに支え合うが、このような会がある背景には中国の一人っ子政策や児童の人身売買がある。
もっとも本作の事件に限れば安徽省の夫婦に子どもができなかったための誘拐で、社会的背景とは関係がなく、安徽省の養母に正当性は100%ない。もう一人の養女についても、捨て子だからという理由で養育権が主張できるわけでもなく、可哀想だからというだけで感動的なヒューマンドラマの如く仕立てるのも違和感がある。
子供と動物ものは受けるというセオリーに則った作品で、優れたテーマがあるわけでもなく、深圳の母親(ハオ・レイ)を筆頭に、安徽省の養母(ヴィッキー・チャオ)、会のリーダーの妻(キティ・チャン)と美人ばかりなのが実話のわりにリアリティを欠き、エンディングに登場する実物とのイメージのギャップが激しい。それでも、美人女優を愛でるのが中国映画の見どころの一つでもある。 (評価:2.5)
Mommy マミー
日本公開:2015年4月25日
監督:グザヴィエ・ドラン 製作:ナンシー・グラント、グザヴィエ・ドラン 脚本:グザヴィエ・ドラン 撮影:アンドレ・チュルパン 美術:コロンブ・ラビ 音楽:ノイア
原題"Mommy"。
発達障害の子供を抱えた母親は養育困難になればこれを放棄して施設に預けられるというS-14法案が通ったという架空のカナダを舞台に、多動性障害の少年と母親、向かいの家の主婦が織り成す物語。
多動性障害の少年スティーヴは矯正施設で放火騒ぎを起こしたために退所させられる。S-14施設か家庭かを迫られた母親のダイアンは、愛情から家を選択する。
シングルマザーのダイアンは仕事と少年の監視が両立せず、いざこざが絶えない。そんな時に向かいの家に住むカイラがやって来る。カイラは休職中の高校教師で、ストレスから思うように会話ができないというこちらも精神障害。ところがスティーヴとウマが合い、二人とは自由に話ができたことから、スティーヴの家庭教師をすることになる。
スティーヴを押し付け、働きにも出られるダイアンにとって一石二鳥。スティーヴはおとなしくなり、カイラの病気も快方に向かうという三者にとって好都合も、放火騒ぎの被害者からの賠償請求で一変。ダイアンの努力も空想する幸せな未来とともに露と消え、現実を直視したダイアンはスティーヴを騙して、S-14により強制入院させる。
スティーヴとカイラが去り火の消えた家で一人ぽっちになるダイアン。そこに病状の戻ってしまったカイラが転居の挨拶に訪れ、幸せだった数か月間を惜しむというラスト。
精神障害を抱えた人々と家族の孤立と葛藤を描くが、解決策がないという解決しか提示できていないのが社会派作品としては寂しく、見終わって力が抜ける。 (評価:2.5)
GODZILLA ゴジラ
日本公開:2014年7月25日
監督:ギャレス・エドワーズ 製作:トーマス・タル、ジョン・ジャシュニ、メアリー・ペアレント、ブライアン・ロジャーズ 脚本:マックス・ボレンスタイン 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 音楽:アレクサンドル・デスプラ
原題"Godzilla"。ゴジラのハリウッド映画2作目だが、内容は完全オリジナル。
監督のギャレス・エドワーズ39歳はゴジラファンらしく、旧ゴジラシリーズの要点をかなりの部分で押さえている。
一つは、1954年のビキニ環礁水爆実験との関連性。但し、本作では水爆実験で巨大化したのではなくもともと巨大な古代生物で、当時の地球環境から放射能をエネルギーとしていた。地球環境が変わって地中奥深くで冬眠していたゴジラが、水爆実験の放射能に引き寄せられて覚醒し、米ソの水爆実験競争の真相は、極秘のゴジラ退治だったという設定になっている。
同時に目覚めた昆虫型怪獣ムートーもゴジラの仲間で、両者の対決は宿命づけられている。ムートーは核エネルギーを求めて日本の原発を破壊。ゴジラ第1作の芹沢博士のオマージュとしてのセリザワ博士(渡辺謙)は父親を広島で亡くし、ムートーへの米軍の核兵器使用に反対してゴジラに退治させることを進言するという反核テーマも採用している。この時の両者の主張には日米の考え方がそのまま反映していて、絶対平和主義のセリザワに対し、リスク回避のためには犠牲もやむなしと米軍提督が押し切る。
舞台はフィリピン、日本、ハワイ、アメリカ西海岸と移っていくが、ゴジラは海から泳いでやってきて海に去っていく。怪獣決戦、ムートーとのプロレスでは尻尾の攻撃と口から放射線が決め技。破壊されるサンフランシスコの街並みはもちろんCGだが、やはりゴジラにはミニチュアセットを破壊してほしかった。
東日本大震災後ということもあって、ムートーの原発破壊は福島第一原発事故、ハワイのゴジラ上陸は津波を髣髴させる。SF設定はそこそこもっともらしかったりするが、放射能汚染や震源など肝腎の部分で底が抜けていて、本家ゴジラの伝統を引き継いているのもオマージュか?
ゴジラの顔が狼みたいで、獣っぽいのがちょっと残念。一方のムートーは昆虫型でありながら蝙蝠に近く、完全に悪魔のフォルムと如何にもアメリカ的わかりやすさ。
ムートーを退治するのはゴジラだが、人間の主人公も最後に手柄を立てる。最後はエンタテイメントなパニック映画に徹していて、反核テーマは故意に忘れられる。
CGは良くできているし、中だるみはあるもののきちんとエンタテイメントしてるし、ゴジラ映画としてもそこそこなのだが、ゴジラがサンフランシスコの救世主(Savior)として古代神のように持ち上げられるのは、人類が生んだ原罪ゴジラには相応しくない。
ジュリエット・ビノシュの出番が少ないのも残念。 (評価:2.5)
ホビット 決戦のゆくえ
日本公開:2014年12月13日
監督:ピーター・ジャクソン 製作:キャロリン・カニンガム、ゼイン・ワイナー、フラン・ウォルシュ、ピーター・ジャクソン 脚本:フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン、ギレルモ・デル・トロ 撮影:アンドリュー・レスニー 音楽:ハワード・ショア
『ホビット』3部作の3作目。原題は""The Hobbit:The Battle of the Five Armies"(ホビット:五つの軍の戦い)で、J・R・R・トールキンの児童小説""The Hobbit, or There and Back Again.""(ホビット、または往路と帰還)が原作。
スマウグを退治した後、はなれ山のお宝を巡ってドワーフ、人間、エルフ、オーク、大鷲族が戦い、ビルボがホビット庄に指輪とともに帰るまでの話。
冒頭はいきなり前作の続きから始まり、スマウグがエスガロスに飛来して町を火の海にするが、CGを使ったシーンは圧巻。とりわけ3Dでは、ジオラマの町を竜が飛び回り破壊する様子が迫力ある立体画像で描かれ、水路を舟で避難する実写のアクションなどとの合成もリアル。
このシーンの後は、はなれ山での各軍の攻防となるが、CG合成のモブシーンがいささか定型的で、オープニングの素晴らしい映像を見せられた後ではCG臭い演出が目立って若干退屈する。
これとは趣向を変えたガンダルフと9人の幽鬼との戦いのシーンは、イアン・マッケラン、ケイト・ブランシェット、クリストファー・リー、ヒューゴ・ウィーヴィングがそれぞれに味のある顔と個性的な演技で楽しませてくれる大きな見どころ。
はなれ山での戦いも、宝の魔力でダーク・サイドに落ちたトーリンが目を覚ますあたりから俄然面白くなり、最後はビルボと真の友となるが、常道とはいえマーティン・フリーマンとリチャード・アーミティッジの演技は意外と感動的。
惜しむらくは、前二作とここまでの展開で二人の友情の描写が今一つだったことで、それが上手く描けていればシリーズとしても成功だった。ビルボの若き日の思い出の旅というだけでなく、友情の物語に昇華できなかったのが残念。
トーリンとアゾクの戦いのシーンは、CGアクションがマリオ並みにゲーム的でやややりすぎ感がある。 (評価:2.5)
ベイマックス
日本公開:2014年12月20日
監督:ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ 製作:ロイ・コンリ 脚本:ジョーダン・ロバーツ、ロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン 音楽:ヘンリー・ジャックマン
原題"Big Hero 6"で、主人公のスーパーヒーローのチーム名。マーベルコミックの同名コミックが原作。
原作の舞台は日本だが、サンフランシスコと東京をミックスした架空の町サンフランソウキョウ(San Fransokyo)に変更し、両方の街の要素が混在する『ブレードランナー』(1982)的な和洋折衷の不思議感を出している。
主人公のヒロは両親を亡くし、兄と叔母の家で暮らしている。兄弟そろってロボット大好き。兄の通うサンフランソウキョウ工科大学のキャラハン教授に憧れ、集合体となって変幻自在に姿を変えるレゴのロボット版のようなマイクロボットを開発するが、発表会場が火災となり、教授と兄、ロボットを焼失してしまう。
ところが何者かによってマイクロボットが複製され、歌舞伎の仮面を被った男がこれを操作しているのを知り、兄が遺したヘルスケアをする風船型ロボット・ベイマックスにとともに真相究明に乗り出す。
ヒロはベイマックスに様々な装甲を施すが、ロケットパンチなど日本のロボットアニメのアイディアが使われ、ヒロをサポートする兄の研究室の仲間たちが戦隊風なのと併せて、アニメオタクには親近感が沸く作品になっている。
マイクロボットに興味を持つ実業家と、教授の娘の転送装置の事故のエピソードも絡み、仮面の男は実業家と思わせて実は…という展開。
仮面の男に兄の復讐をしようとするヒロをベイマックスが止めたり、身を挺してヒロを救ったりという、ヘルスケア・ロボットならではの泣かせるシーンも用意されていて、最後はハッピーエンド。
ベイマックスを通した心優しい兄との兄弟愛の物語だが、ヒロと兄の研究室仲間のスーパーヒーロー誕生物語ともなっている。 (評価:2.5)
さよなら、人類
日本公開:2015年8月8日
監督:ロイ・アンダーソン 製作:ペルニッラ・サンドストレム 脚本:ロイ・アンダーソン 撮影:イシュトヴァン・ボルバス、ゲルゲイ・パロシュ
ヴェネチア映画祭金獅子賞
原題"En duva satt på en gren och funderade på tillvaron"で、鳩が枝にとまって人生について考えたの意。
ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞した不条理コメディで、生き方について描く三部作の最終章。1シーン1カットの固定カメラにより、全39シーンを脈絡なく繋いでいく。
プロローグは「死との出会い」と題され、栓の堅いワインを開けようとして心臓麻痺で死んでしまう男、今際の際に財産をあの世に持って行こうする老婆と阻止しようとする息子、急死した男が注文した料理の処理というブラックな3つのエピソードが示される。
続いてダンススタジオで美青年にモーションをかけて拒絶される女教師の孤独から、面白グッズのセールスマン二人組の話になる。グッズは吸血鬼の牙、笑い袋、歯抜け親父のマスクというのが暗喩。エンタテイメントと称されるが、誰も買ってくれず、二人の苦労が続くが、これを映画と読み替えることもできる。
時は1943年に遡り、戦時下に互いに支え合っていた人々の回想が挿入される。殺伐とした現代に戻り、突然18世紀にロシアと戦ったカール12世の軍隊がタイムスリップしてくる。行軍した軍隊は疲弊して戻り国土の半分が失われたと嘆き、夫を失った女たちが涙を流す。
セールスマン二人組は仲違いし、仲直りする。上手くいかない人生、難しい人間関係、情けない人間の性と生き死に。そうしたものを描きながら、映画もまた思うようにはいかないというのが、三部作の結論かもしれない。 (評価:2.5)
キングスマン
日本公開:2015年9月11日
監督:マシュー・ヴォーン 製作:マシュー・ヴォーン、デヴィッド・リード、アダム・ボーリング 脚本:ジェーン・ゴールドマン、マシュー・ヴォーン 撮影:ジョージ・リッチモンド 音楽:ヘンリー・ジャックマン、マシュー・マージェソン
原題"Kingsman: The Secret Service"。Kingsmanは劇中登場する高級テーラーの店名及び私設スパイ機関の名称。マーク・ミラーとデイヴ・ギボンズのコミック"The Secret Service"が原作。
イギリスを舞台とするスパイ映画で、要は『007』のオマージュというかパロディ。女王に対してキングスマン、高級紳士服に身を固め、テーラーの着替え室の奥には秘密の小道具と、『007』を意識した設定になっている。
主人公エグジー(タロン・エジャトン)は父親がキングスマンで、ハリー(コリン・ファース)ら仲間を救うために殉死。困った時にと渡されたメダルの連絡先がテーラーで、そのままエージェント候補生に。訓練生はエリートばかりで、夫の死後、身を持ち崩した母(サマンサ・ウォマック)に育てられたエグジーは相手にされないが、そこはお約束通り最後にエージェントに選ばれるのはエグジー。そしてもう一人、花を添えるための紅一点のロキシー(ソフィ・クックソン)と訓練中から結果が見える。
国家に属さない公正中立がキングスマンのモットーで、敵はIT富豪(サミュエル・L・ジャクソン)。環境問題解決のためにSIMカードを無料配布。SIMを使って人間同士を殺し合わせ、人口減を企む。
この陰謀を阻止するために、ハリーはエグジー、ロキシーと敵の秘密基地に乗り込み、ミッション成功。最終決戦でのエグジーの秘密兵器はコウモリ傘と靴に仕込んだ毒ナイフ。最後は囚われのスウェーデン王女(ハンナ・アルストロム)とベッドインと『007』の定型を踏む。
それなりのエンタテイメントだが、『007』の派手さはなく、アナルセックスなどいささかお下品。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2015年2月28日
監督:ジョン・R・レオネッティ 製作:ピーター・サフラン、ジェームズ・ワン 脚本:ゲイリー・ドーベルマン 撮影:ジェームズ・クニースト 美術:ボブ・ジームビッキー 音楽:ジョセフ・ビシャラ
悪魔の超常現象が超常過ぎてついていけない
原題"Annabelle"で、登場人物の名。「死霊館」シリーズの2作目。
『死霊館』(2013)で登場したアナベル人形に纏わる話で、若夫婦の夫ジョン(ウォード・ホートン)が、妊娠中のミア(アナベル・ウォーリス)にアンティークな人形をプレゼントするところから始まる。
ホラー映画用なので人形の顔が不気味にできていて、これをミアが欲しがっていたというのに相当な違和感がある。
もっとも妊娠中の若妻という最大の弱者が襲われる上に、『チャイルド・プレイ』(1988)で実証済みの人形の怖さを採り入れるという最凶の組み合わせで、広角カメラを効果的に取り入れ、人物の白い影が横切ったり迫ってきたりして、演出的にも十分に怖がらせるホラー映画に仕上がっている。
残念なのはそれが悪魔の仕業とわかってしまうと途端に怖さが半減してしまうことで、異教徒には悪魔に魂を奪われることの恐怖感が実感できない。
人形はもともと無垢で、隣家のヒギンズ夫妻の娘アナベル(ツリー・オトゥール)が家出して悪魔を召喚するカルト教団に入団。恋人と共に両親を襲ったついでに若夫婦を襲撃し、アナベルが人形を抱いたまま自殺した際にその血が人形に垂れ、悪魔が乗り移ってしまったらしい。
その後も不可解な出来事が続いて若夫婦は転居するが、捨てたはずの人形が引っ越し先にも付いてくるという定番の展開で、神父(トニー・アメンドーラ)が人形を引き取るものの悪魔の力は強大。悪魔が狙うのは生まれてきた子ではなく、それを守るために代償に差し出すミアの魂だとわかる。
親切な黒人女性エブリン(アルフレ・ウッダード)が代わりに悪魔に魂を渡して一件落着となるが、悪魔が欲しいのは命ではなく魂だったのではないかと腑に落ちない。おまけに悪魔はアナベル人形に憑依したまんま、というか人形に閉じ込められたままという結末に、さぞ窮屈ではないかと案じる。
ここで『死霊館』の時制に戻り、心霊研究家ウォーレン夫妻の家に保管されている経緯の説明が終わるが、悪魔が登場してからの超常現象が超常過ぎてついていけない。 (評価:2.5)
日本公開:2015年2月28日
監督:ジョン・R・レオネッティ 製作:ピーター・サフラン、ジェームズ・ワン 脚本:ゲイリー・ドーベルマン 撮影:ジェームズ・クニースト 美術:ボブ・ジームビッキー 音楽:ジョセフ・ビシャラ
原題"Annabelle"で、登場人物の名。「死霊館」シリーズの2作目。
『死霊館』(2013)で登場したアナベル人形に纏わる話で、若夫婦の夫ジョン(ウォード・ホートン)が、妊娠中のミア(アナベル・ウォーリス)にアンティークな人形をプレゼントするところから始まる。
ホラー映画用なので人形の顔が不気味にできていて、これをミアが欲しがっていたというのに相当な違和感がある。
もっとも妊娠中の若妻という最大の弱者が襲われる上に、『チャイルド・プレイ』(1988)で実証済みの人形の怖さを採り入れるという最凶の組み合わせで、広角カメラを効果的に取り入れ、人物の白い影が横切ったり迫ってきたりして、演出的にも十分に怖がらせるホラー映画に仕上がっている。
残念なのはそれが悪魔の仕業とわかってしまうと途端に怖さが半減してしまうことで、異教徒には悪魔に魂を奪われることの恐怖感が実感できない。
人形はもともと無垢で、隣家のヒギンズ夫妻の娘アナベル(ツリー・オトゥール)が家出して悪魔を召喚するカルト教団に入団。恋人と共に両親を襲ったついでに若夫婦を襲撃し、アナベルが人形を抱いたまま自殺した際にその血が人形に垂れ、悪魔が乗り移ってしまったらしい。
その後も不可解な出来事が続いて若夫婦は転居するが、捨てたはずの人形が引っ越し先にも付いてくるという定番の展開で、神父(トニー・アメンドーラ)が人形を引き取るものの悪魔の力は強大。悪魔が狙うのは生まれてきた子ではなく、それを守るために代償に差し出すミアの魂だとわかる。
親切な黒人女性エブリン(アルフレ・ウッダード)が代わりに悪魔に魂を渡して一件落着となるが、悪魔が欲しいのは命ではなく魂だったのではないかと腑に落ちない。おまけに悪魔はアナベル人形に憑依したまんま、というか人形に閉じ込められたままという結末に、さぞ窮屈ではないかと案じる。
ここで『死霊館』の時制に戻り、心霊研究家ウォーレン夫妻の家に保管されている経緯の説明が終わるが、悪魔が登場してからの超常現象が超常過ぎてついていけない。 (評価:2.5)
草原の実験
日本公開:2015年9月26日
監督:アレクサンドル・コット 脚本:アレクサンドル・コット 撮影:レバン・カパナーゼ 美術:エドゥアルド・ガルキン 音楽:アレクセイ・アイギ
原題"Испытание"で、試すことの意。
台詞のない作品で、美少女と中央アジアの美しい自然を見せるためのプロモーション映像かと思って観ていると、終盤になってキノコ雲が自然と少女を破壊するという、驚きの終末を描いて終わる。
舞台となるのはカザフスタンのセミパラチンスク核実験場に近いステップ草原で、そこで父親と暮らす美少女が主人公。この美少女を演じるエレーナ・アンが半端なく美しく、無言劇なのに資料にはダイナと名前が付いているのが可笑しい。
エレーナ・アンはロシア人を母に持つ韓国人で、撮影時は14歳。広大な草原の一軒家で暮らしているが、見渡す限りの地平線と太陽の光で変化する自然の美しさが、この美少女に負けないくらいに美しい。
そこで描かれるのは美少女とステップの自然の映像詩で、その中にけもの道のような一本の道がある。そこを行き帰するのはトラックと騎馬用の馬で、道はしばらく行くと二股に分かれる。トラックに乗った少女は、そこで父親と別れ、迎えに来た少年の馬に乗って遠い隣家に行く。
ある日、道を行く車がオーバーヒートし、ロシア人の少年が少女の家に水を求めにやって来るが、そこで二人に恋が芽生え、少女は鍵の掛った井戸の水を分け与える。次にやってくるのが軍用車両のようなトラックの一団で、それが通り過ぎた後、少女の父の具合が悪くなる。すると突然防護服を着た男たちがやってきて放射能検査をして去る。
重症の父は死亡。取り残された少女は鞄一つで旅立ち、父が通った道を行くがその先は有刺鉄線が張られた柵で封鎖され、仕方なく隣家に行ってその家の少年に求愛されるが、ライバルのロシア人少年がやってきて…という展開。少女はロシア人少年と暮らすことになるが、閃光とキノコ雲が美しい風景を一掃し、二人は死んでしまう。
セミパラチンスク核実験場が使われたのは1949~1989年までで、時代はおそらくこの末期。反核を描くために一切の言葉を排しているのが効果的だが、物語がシンプル過ぎるのが難。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2015年10月24日
監督:ジョー・ダンテ 製作:アラン・テレッツァ、デヴィッド・ジョンソン、フランキー・リンドクィスト、メアリー・シブリウスキー、カール・エフェンソン、カイル・テキエラ 脚本:アラン・テレッツァ 撮影:ジョナサン・ホール 音楽:ジョー・ロドゥカ
徹底的なバカバカしさが楽しいホラー・コメディ
原題"Burying the Ex"で、「前の恋人を埋める」の意。
エロチック・ホラー・コメディで、元カノが死んで埋めたところがゾンビとなって甦るという物語。
彼(アントン・イェルチン)はホラーショップの店員、元カノ(アシュリー・グリーン)はエコロジストで、彼が間違って仕入れた商品悪魔ジーニーの像が本物で、なんでも願い事を叶えるという代物。元カノが「彼といつまでも一緒にいられますように」と願ってしまったことから、死んでも復活することになってしまう。
迷惑なのは彼の方で、ゾンビの押しかけ女房にてんてこ舞い。始めは交通事故の傷しかなかったのが、防腐剤を吐き出してしまったことから徐々に腐り始め、ホラー映画に刺激されて彼の異母兄弟(アーチー・ハーン)まで食べてしまう。
おまけにアイ・スクリーム(I-Scream)というアイスクリーム店を営んでいる新カノ(アレクサンドラ・ダダリオ)に焼餅を焼いて、襲おうとしたところを何とか退治、メデタシメデタシというハチャメチャなストーリーがバカバカしくて楽しめる。 (評価:2)
日本公開:2015年10月24日
監督:ジョー・ダンテ 製作:アラン・テレッツァ、デヴィッド・ジョンソン、フランキー・リンドクィスト、メアリー・シブリウスキー、カール・エフェンソン、カイル・テキエラ 脚本:アラン・テレッツァ 撮影:ジョナサン・ホール 音楽:ジョー・ロドゥカ
原題"Burying the Ex"で、「前の恋人を埋める」の意。
エロチック・ホラー・コメディで、元カノが死んで埋めたところがゾンビとなって甦るという物語。
彼(アントン・イェルチン)はホラーショップの店員、元カノ(アシュリー・グリーン)はエコロジストで、彼が間違って仕入れた商品悪魔ジーニーの像が本物で、なんでも願い事を叶えるという代物。元カノが「彼といつまでも一緒にいられますように」と願ってしまったことから、死んでも復活することになってしまう。
迷惑なのは彼の方で、ゾンビの押しかけ女房にてんてこ舞い。始めは交通事故の傷しかなかったのが、防腐剤を吐き出してしまったことから徐々に腐り始め、ホラー映画に刺激されて彼の異母兄弟(アーチー・ハーン)まで食べてしまう。
おまけにアイ・スクリーム(I-Scream)というアイスクリーム店を営んでいる新カノ(アレクサンドラ・ダダリオ)に焼餅を焼いて、襲おうとしたところを何とか退治、メデタシメデタシというハチャメチャなストーリーがバカバカしくて楽しめる。 (評価:2)
ゴーン・ガール
日本公開:2014年12月12日
監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:アーノン・ミルチャン、ジョシュア・ドーネン、リース・ウィザースプーン、セアン・チャフィン 脚本:ギリアン・フリン 撮影:ジェフ・クローネンウェス 音楽:トレント・レズナー、アッティカス・ロス
原題"Gone Girl"で、消えた女の意。ギリアン・フリンの同名小説が原作。
ハーバード大卒の才色兼備の女性作家が夫の浮気に復讐するべく、夫に殺されたように見せかけて失踪するという物語。警察が夫を犯人と疑うように周到な準備を重ね、証拠を偽装して夫を刑務所に容れようという腹。ミズーリ州には死刑があるので、合法的に夫を殺そうとする。
事件はマスコミの注目を集め、窮地に立たされた夫は高額だが有能な弁護士を雇い無実を晴らそうとするが、事件は意外な展開を見せる。この意外性をつくストーリーが本作の見どころのすべてなのだが、そのために設定は突っ込みどころが満載。敢えてそこは目を瞑って、この妻の意外な行動を楽しむというのが本作の正しい見方。
そもそも自由奔放だった女が、なぜ夫に尽くす女になったのか不思議で、IQの高い女が復讐するつもりなら他にいくらでも方法があるだろうと思い始めたら、設定に矛盾があることが次々と気になる。後半の女の策略は簡単に警察にばれてしまうレベルで、当初の偽装の言い逃れも相当苦しい。
そういった点では本格ミステリーが好きな人には向かない。お気楽にミステリーテイストの物語をポップコーンを食べながら楽しむ人に向いている。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年9月27日
監督:クリント・イーストウッド 製作:グレアム・キング、ロバート・ロレンツ、クリント・イーストウッド 脚本:マーシャル・ブリックマン、リック・エリス 撮影:トム・スターン
キネマ旬報:1位
最大の見どころはインド映画のようなフィナーレ
原題"Jersey Boys"(ジャージーの少年たち)で、ニュージャージー州出身の少年たちが結成した1960年代のロック・グループ、フォー・シーズンズの伝記映画。トニー賞を受賞した同名ミュージカルの映画化。
フォー・シーズンズは『シェリー』などのヒット曲が日本でも知られ、フランキー・ヴァリの独特の声が特徴的ったが、如何せん1960年代前半の活躍。アメリカ人には琴線に響く懐メロで、84歳のクリント・イーストウッドには思い入れたっぷりだろうが、アメリカ人以外の特に若い世代には異国の懐メロのロック・グループの伝記を見せられても、おそらく見るべきものがない。
実際、彼らの伝記であるという以上のものが本作にあるかといえば、正直皆無。日本人が選ぶキネマ旬報外国映画ベスト1になったのが不思議でならない。イーストウッドやロック好きの評論家が肩入れしても、せいぜいが9位、10位の作品。
譬えて言えば、ザ・タイガースの結成秘話を見るようなもので、グループサウンズ世代のオバサンならともかく、いったい誰が興味を持つだろう? あるいはSukiyakiの坂本九の伝記をアメリカ人が見るようなものか?
ニュージャージーで窃盗を繰り返していたロックンロールな青少年がバンドを組んで、作曲の才能あるボブ・ゴーディオを加えたところが、ボブの作った『シェリー』が大ヒット。一躍トップグループに躍り出るも、リーダーのトミーが大借財を抱え込み、グループは崩壊。少年たちの栄光から挫折までを描く。
途中フランキーの家庭崩壊や歌手を目指す娘の死などを織り込みながら、1990年のロックの殿堂入りでメンバーが再会するラストとなる。
最大の見どころはミュージカルでいえばフィナーレに相当する場面をエンディングに取り入れた点で、インド映画のようにエンドロールとともに出演者全員が踊るシーン。
フランキー・ヴァリを舞台と同じジョン・ロイド・ヤングが演じるが、地声かどうかはわからないがフランキーの歌い方によく似ているのも聴きどころか。 (評価:2)
日本公開:2014年9月27日
監督:クリント・イーストウッド 製作:グレアム・キング、ロバート・ロレンツ、クリント・イーストウッド 脚本:マーシャル・ブリックマン、リック・エリス 撮影:トム・スターン
キネマ旬報:1位
原題"Jersey Boys"(ジャージーの少年たち)で、ニュージャージー州出身の少年たちが結成した1960年代のロック・グループ、フォー・シーズンズの伝記映画。トニー賞を受賞した同名ミュージカルの映画化。
フォー・シーズンズは『シェリー』などのヒット曲が日本でも知られ、フランキー・ヴァリの独特の声が特徴的ったが、如何せん1960年代前半の活躍。アメリカ人には琴線に響く懐メロで、84歳のクリント・イーストウッドには思い入れたっぷりだろうが、アメリカ人以外の特に若い世代には異国の懐メロのロック・グループの伝記を見せられても、おそらく見るべきものがない。
実際、彼らの伝記であるという以上のものが本作にあるかといえば、正直皆無。日本人が選ぶキネマ旬報外国映画ベスト1になったのが不思議でならない。イーストウッドやロック好きの評論家が肩入れしても、せいぜいが9位、10位の作品。
譬えて言えば、ザ・タイガースの結成秘話を見るようなもので、グループサウンズ世代のオバサンならともかく、いったい誰が興味を持つだろう? あるいはSukiyakiの坂本九の伝記をアメリカ人が見るようなものか?
ニュージャージーで窃盗を繰り返していたロックンロールな青少年がバンドを組んで、作曲の才能あるボブ・ゴーディオを加えたところが、ボブの作った『シェリー』が大ヒット。一躍トップグループに躍り出るも、リーダーのトミーが大借財を抱え込み、グループは崩壊。少年たちの栄光から挫折までを描く。
途中フランキーの家庭崩壊や歌手を目指す娘の死などを織り込みながら、1990年のロックの殿堂入りでメンバーが再会するラストとなる。
最大の見どころはミュージカルでいえばフィナーレに相当する場面をエンディングに取り入れた点で、インド映画のようにエンドロールとともに出演者全員が踊るシーン。
フランキー・ヴァリを舞台と同じジョン・ロイド・ヤングが演じるが、地声かどうかはわからないがフランキーの歌い方によく似ているのも聴きどころか。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2015年4月18日
監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作:ジョアン・セラー、ダニエル・ルピ、ポール・トーマス・アンダーソン 脚本:ポール・トーマス・アンダーソン 撮影:ロバート・エルスウィット 音楽:ジョニー・グリーンウッド
キネマ旬報:9位
三浦和義さんなら、groovyと飛びあがって喜んだかもしれない
原題"Inherent Vice"、保険用語で「固有の瑕疵」の意。トマス・ピンチョンの同名小説が原作。
舞台は1970年頃のロサンゼルス、マリファナ・ジャンキーの私立探偵が主人公で、元恋人から、愛人の不動産王が妻と間男の悪だくみで精神病院に監禁されそうなので、助けてほしいという依頼を受ける。
そして不動産王は誘拐され、元恋人も失踪し、出所した別の依頼人が殺されるという事件が3つ同時に起こる。ところが、ここからが複雑というか煩雑なストーリーで、次々と新たな登場人物が現れ、枝葉がどんどん伸びていくので、見ているうちに本線のストーリーが何だかわからなくなって混線する。
いわばストーリーの迷宮に観客を誘うわけで、通常のミステリーのように少しずつ謎に近づくのではなく、ミステリーが拡散してしまう。
一応、元彼女を捜して事件が進む形にはなっているが、不動産王も元恋人も何となく探偵の前に姿を現してしまい、話は別の麻薬密輸と行方不明人の帰還という何がミステリーだったのかわからないラストとなる。
見どころは何かと考えると、これはジャンキーなキャラクターの私立探偵を描くPVであり、70年代西海岸のマリファナに精神をやられたポップで軽いカルチャーと風俗を描いたスケッチ・フィルムで、想像するに、当時、青春を送った西海岸人にとっては堪らない魅力があるのかもしれない。
劇中にそんな彼らを指してgroovyだという台詞が何度も登場するが、「いかす」といった石原裕次郎的表現がぴったりで、多少時代は下るが、三浦和義氏のロス疑惑事件のことを思い出し、きっと彼もこんなgroovyな連中の一人で、生きていれば本作を見て飛びあがって喜んだんじゃないかと空想する。 (評価:2)
日本公開:2015年4月18日
監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作:ジョアン・セラー、ダニエル・ルピ、ポール・トーマス・アンダーソン 脚本:ポール・トーマス・アンダーソン 撮影:ロバート・エルスウィット 音楽:ジョニー・グリーンウッド
キネマ旬報:9位
原題"Inherent Vice"、保険用語で「固有の瑕疵」の意。トマス・ピンチョンの同名小説が原作。
舞台は1970年頃のロサンゼルス、マリファナ・ジャンキーの私立探偵が主人公で、元恋人から、愛人の不動産王が妻と間男の悪だくみで精神病院に監禁されそうなので、助けてほしいという依頼を受ける。
そして不動産王は誘拐され、元恋人も失踪し、出所した別の依頼人が殺されるという事件が3つ同時に起こる。ところが、ここからが複雑というか煩雑なストーリーで、次々と新たな登場人物が現れ、枝葉がどんどん伸びていくので、見ているうちに本線のストーリーが何だかわからなくなって混線する。
いわばストーリーの迷宮に観客を誘うわけで、通常のミステリーのように少しずつ謎に近づくのではなく、ミステリーが拡散してしまう。
一応、元彼女を捜して事件が進む形にはなっているが、不動産王も元恋人も何となく探偵の前に姿を現してしまい、話は別の麻薬密輸と行方不明人の帰還という何がミステリーだったのかわからないラストとなる。
見どころは何かと考えると、これはジャンキーなキャラクターの私立探偵を描くPVであり、70年代西海岸のマリファナに精神をやられたポップで軽いカルチャーと風俗を描いたスケッチ・フィルムで、想像するに、当時、青春を送った西海岸人にとっては堪らない魅力があるのかもしれない。
劇中にそんな彼らを指してgroovyだという台詞が何度も登場するが、「いかす」といった石原裕次郎的表現がぴったりで、多少時代は下るが、三浦和義氏のロス疑惑事件のことを思い出し、きっと彼もこんなgroovyな連中の一人で、生きていれば本作を見て飛びあがって喜んだんじゃないかと空想する。 (評価:2)
ジョン・ウィック
日本公開:2015年10月16日
監督:チャド・スタエルスキ 製作:ベイジル・イヴァニク、デヴィッド・リーチ、エヴァ・ロンゴリア、マイケル・ウィザリル 脚本:デレク・コルスタッド 撮影:ジョナサン・セラ 美術:ダン・リー 音楽:タイラー・ベイツ、ジョエル・J・リチャード
原題"John Wick"で、主人公の殺し屋の名。
ジョン・ウィックを演じるキアヌ・リーブスのための作品といって過言でなく、全編キアヌのアクションシーンで見せるが、アクション以外に何があるかといえば何もない。
ストーリーはご都合主義で、結婚のために引退したジョンが、暴漢に襲われたことから復讐を始めるが、伝説の殺し屋の名の通り神業的な格闘をを演じる割には、暴漢に簡単に伸されてしまう。
死体の跡片付け専門の業者がいたり、聖域のコンチネンタルホテルは殺人禁止など、漫画的な要素を織り込みつつ、『マトリックス』(1999)を髣髴させるガンアクションや格闘アクション、殺戮シーンをメインに見せていく。
暴漢がニューヨークのロシアン・マフィアのボス(ミカエル・ニクヴィスト)の息子(ルフィー・アレン)で、復讐を阻止しようとするボスの配下・殺し屋とジョンの戦い、次いで息子が殺され、ボスとジョンとの戦いがクライマックスとなるが、最後は続編含みで二人とも止めを刺さないという腐れエンド。ジョンの妻が突然倒れた理由も明かさない。
ジョンの親友の殺し屋で、ボスに雇われながらも裏でジョンを助けるというおいしい役をウィレム・デフォーが演じるが、大した見せ場もなくあっさり退場してしまうのが残念なところ。
内容的には駄作だが、50歳のキアヌ・リーブスがアクションを頑張っているのをオマケ。 (評価:2)
薄氷の殺人
日本公開:2015年1月10日
監督:ディアオ・イーナン 脚本:ディアオ・イーナン 撮影:トン・ジンソン 音楽:ウェン・ジー
ベルリン映画祭金熊賞
原題"白日焰火"で、白昼の花火の意。
あぶれ刑事が5年前の未解決のバラバラ死体遺棄事件の真相を追うミステリーだが、シナリオの出来はそれほど良くなく、ストーリーがわかりにくい。
ベルリン国際映画祭で金熊賞と銀熊賞(主演男優賞)を受賞しているが、中国が舞台の新奇性と斬新な映像表現が受けたのかもしれない。冒頭、石炭に埋もれる死体の腕のアップから始まり、ズームアウトしていくとそれがトラックの荷台で、石炭工場に運ばれ、ベルトコンベアーに載せられて発見されるという一連のシークエンスが上手い演出。エピローグのロケット花火が青空に舞い上がり街中に降り注ぐシーンも映像的な見せ場で、ストーリーがもう少し丁寧に描かれていればと惜しまれる。
主人公の刑事ジャン(リャオ・ファン)は、離婚成立した妻を見送るプラットホームで押し倒そうとするほどの破廉恥で、バラバラ死体事件重要参考人のトラック運転手と撃ち合いになり全員射殺。事件は未解決となる。5年後の2004年、工場の保安課に異動になったジャンは元同僚刑事から同じ手口の死体遺棄事件が起きたことを知り、5年前の被害者リアン(ワン・シュエビン)の妻ウー(グイ・ルンメイ)の周囲の男が殺されたことから、クリーニング屋で働くウーの独自捜査を始める。
ジャンはウーと関係を持ってしまうほどのクズだが、リアンの死体はすり替えで、死んだことになったリアンがウーに近寄る男たちを殺していることを知る。すり替えられた死体はバー「白日焰火」のオーナーで、最後に5年前の事件の真相が明らかになる。
ミステリーとしての世界観とアイディアは悪くないのだが、いささか口下手なのが残念なところ。 (評価:2)
KANO 1931海の向こうの甲子園
日本公開:2015年1月24日
監督:マー・ジーシアン 製作:ウェイ・ダーション、ミー・ファン 脚本:ウェイ・ダーション、チェン・チャウェイ 撮影:チン・ディンチャン 音楽:佐藤直紀
原題"Kano"で、台南州立嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の通称。
嘉義農林学校野球部の監督となった近藤(永瀬正敏)が、弱小チームを率いて中等学校野球大会台湾代表となり、さらに甲子園決勝で準優勝するまでの実話に基づく物語。
感動的な日台友好映画の赴きがあって、日本統治時代に台湾や韓国の中等野球チームが甲子園に出場していたという成程な秘話で、しかも決勝まで進んだということに驚きもする。
そうした大変興味深い題材ながら、それを上手く料理できたかというと心許なく、台湾代表になるまでの前半が盛り上げ過ぎで、そのまま後半の甲子園大会となるクライマックスが長すぎる。スポコンの熱血ドラマゆえにボルテージが上がりっ放しで、もう少し冷静なメリハリのあるシナリオが欲しかった。
準々決勝で対戦する札幌商業の錠者(青木健)がフィリピン出征の際に嘉義に立ち寄り、十数年前を思い出すという回想形式を採っているが、3時間の中ではそれほど印象的なエピソードでもなく、クライマックスが幾つも散りばめられているがゆえに効果が薄い。
回想の中心人物も近藤なのか、主将の呉(曹佑寧)なのかどっちつかずで、呉のガールフレンド(葉星辰)も活かせていない。
力が入り過ぎて虻蜂取らずとなっていて、もう少し整理が欲しかった。
漢人、マン人、日本人からなる混成チームという台詞があるが、マン人が満人を指すのか不明。高砂族を蔑視する台詞もあり、野球に人種は関係ないといいながら、嘉農の各選手について説明不足で、個々人を描けてなく、熱血ドラマとアクションに偏り過ぎているのも不満なところ。
日台友好映画の弊で、台湾統治のネガティブな面も描いてほしかった。
ラストシーンの台湾に帰る船のCGは、息切れ、制作費切れの感があって、少々寂しい。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年11月22日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン、リンダ・オブスト 脚本:ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:6位
クリストファー・ノーランお得意の超SFファンタジー
原題"Interstellar"で「星間の」意。形容詞。監督は『ダークナイト』『インセプション』のクリストファー・ノーラン。
重力異常による気候変動によって、農作物が枯れ、地球と人類が滅亡に向かっている近未来が舞台・・・というと本格SFのようだが、設定とシナリオは至って粗雑で、この物語で約3時間はきつい。
重力異常の原因も説明されず、土星付近にあるワームホールを使って移住星探索を行うといっても、その前に宇宙コロニーを作るのが先じゃないの? というのは『ガンダム』を見た者ならSFファンじゃなくても思いつくところで、先遣隊を探しに宇宙船を飛ばすという話の割には、その後、何十年も宇宙船が飛ばないのも変。わけの分からない重力理論を展開するNASAの博士が超天才で、政治家も誰も登場しない総責任者なのも変。
もっと変なのは、今時宇宙探査に有人船を使うことで、ロボットもいるのに何で人? というのは終始付き纏う疑問。それじゃないとドラマにならないからというのではあまりに安直な企画。
ハリウッドお得意の出来の悪いSFと思いながら見ていると、後半はSF設定を超越したような物語展開になって、これがSF風ファンタジーなのだということに気付く。
探査星では先遣隊と仲良くすればいいのに、ドラマ作りのために無意味な喧嘩が始まり、仲間が1人2人と死んでいくのもハリウッド的お約束。眠気を堪えながら見続けると、ラストでは父娘の人情話になってそれなりに盛り上がるが、このザッツ・エンタテイメント的なてんこ盛り映画に、映画そのものが行く先を見失った宇宙船、というテーマなのではないかと深読みしてしまう。
それにしても、アン・ハサウェイがラストまでワームホールの向こうに置き去りにされているのが可哀想。 (評価:2)
日本公開:2014年11月22日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン、リンダ・オブスト 脚本:ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:6位
原題"Interstellar"で「星間の」意。形容詞。監督は『ダークナイト』『インセプション』のクリストファー・ノーラン。
重力異常による気候変動によって、農作物が枯れ、地球と人類が滅亡に向かっている近未来が舞台・・・というと本格SFのようだが、設定とシナリオは至って粗雑で、この物語で約3時間はきつい。
重力異常の原因も説明されず、土星付近にあるワームホールを使って移住星探索を行うといっても、その前に宇宙コロニーを作るのが先じゃないの? というのは『ガンダム』を見た者ならSFファンじゃなくても思いつくところで、先遣隊を探しに宇宙船を飛ばすという話の割には、その後、何十年も宇宙船が飛ばないのも変。わけの分からない重力理論を展開するNASAの博士が超天才で、政治家も誰も登場しない総責任者なのも変。
もっと変なのは、今時宇宙探査に有人船を使うことで、ロボットもいるのに何で人? というのは終始付き纏う疑問。それじゃないとドラマにならないからというのではあまりに安直な企画。
ハリウッドお得意の出来の悪いSFと思いながら見ていると、後半はSF設定を超越したような物語展開になって、これがSF風ファンタジーなのだということに気付く。
探査星では先遣隊と仲良くすればいいのに、ドラマ作りのために無意味な喧嘩が始まり、仲間が1人2人と死んでいくのもハリウッド的お約束。眠気を堪えながら見続けると、ラストでは父娘の人情話になってそれなりに盛り上がるが、このザッツ・エンタテイメント的なてんこ盛り映画に、映画そのものが行く先を見失った宇宙船、というテーマなのではないかと深読みしてしまう。
それにしても、アン・ハサウェイがラストまでワームホールの向こうに置き去りにされているのが可哀想。 (評価:2)
アトリエの春、昼下がりの裸婦
日本公開:2016年1月30日
監督:チョ・グニョン 脚本:シン・ヤンジュン、チョ・グニョン 撮影:キム・ジョンウォン 音楽:パク・ギホン
原題"봄"で、春の意。
資産家の彫刻家と妻、モデルの物語で、彫刻家がよくわからない不治の病に罹っていて余命幾ばくもないという設定。この夫に芸術家としての死を遂げさせてあげたいと思う妻が、大枚で貧乏人の女をモデルにスカウトして夫婦愛を昇華させるという感動もので、モデルの女は夫をベトナム戦争で亡くし、戦友が居座ってDVされるという悲劇の女を演じ、命短し彫刻家が最期の希望を与えてくれたモデルの女のために、DV夫を銃殺して、拳銃自殺をし、メデタシメデタシという、愛と死と感動がテーマの如何にもな韓流メロドラマ。
愛と死と感動がテーマということで、映像もプロモーションビデオ風にお洒落なレイアウトや美しい自然の風景で染め上げ、メロドラマに花を添える。
それにしても最大の謎は、何の病気かよくわからない彫刻家が、最初はコップも掴むことができない状態で、村人たちの会話から中風らしいと推察していると、終盤では余命幾ばくもないという話になって、ますます何の病気かわからなくなってしまうが、モデルの女の超能力が利いたのか、最初はクレパスで直線しか描けず、しかも力の加減がわからなくてポキッと折ってしまうのが、やがて曲線を描けるまでに回復し、あれよあれよという間にしっかりデッサン画を描けるようになって、粘土で力いっぱいに塑像が造れるようになるのが何とも不思議で、あれ、中風じゃなかったの? とますます何の病気かわからなくなってしまうこと。 それが韓流メロドラマだと言ってしまえば、まあそんなものか。
1969年という時代設定で、意味ありげにベトナム戦争に触れられるが、意味ありげだけに終わっている。設定をよく見れば、彫刻家夫婦が鼻持ちならない資産家なのに、それをスルーしてしまうのも何ともいえない韓流。
結果、見終わって何も残らないというのが何とも痛いが、イミテーションの砂糖菓子が好きな向きには涙ウルウルで感動できるのかもしれない。 (評価:2)
イントゥ・ザ・ウッズ
日本公開:2015年3月14日
監督:ロブ・マーシャル 製作:ジョン・デルーカ、ロブ・マーシャル、マーク・プラット、カラム・マクドゥガル 脚本:ジェームズ・ラパイン 撮影:ディオン・ビーブ 美術:デニス・ガスナー 音楽:スティーヴン・ソンドハイム
原題"Into the Woods"で、森の中への意。スティーヴン・ソンドハイム、ジェームズ・ラパインの同名ミュージカルが原作。
『シンデレラ』『赤ずきん』『ジャックと豆の木』『ラプンツェル』の4つの童話をミックスして同時進行する物語で、森の中が舞台の中心となる。4つのエピソードを仲介する進行役は、オリジナル・キャラクターのパン屋の夫婦と、『ラプンツェル』の魔女で、パン屋の父に魔法の豆を盗まれたために老いた魔女が、若さを取り戻すためにパン屋に4つのアイテム、金色の靴と赤いずきん、白い牝牛、黄色い髪を集めさせる。
魔女は牝牛に残り3つのアイテムを食べさせ搾乳したミルクを飲んで若さを取り戻す。ここまではよくあるパロディで、ここで終われば問題なかったが、この後の物語が無駄に長い上に糞つまらない。
死んだ巨人の復讐に女巨人が地上に降りてきて、ジャックを探し回る。パン屋以下、童話の主人公たちは協力して巨人を倒そうとするが、不倫あり、裏切りありで仲間が死に、最後に残ったパン屋、赤ずきん、ジャック、シンデレラが再び力を合わせて女巨人を倒すというドタバタ劇。
何が描きたかったのかさっぱりわからず、内輪ウケして喜ぶような出来の悪いパロディを見せられた気分になる。
魔女にメリル・ストリープ、狼にジョニー・デップ。 (評価:1.5)
製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ジョン・エリック・ドゥードル 製作:トーマス・タル、ジョン・ジャシュニ、ドリュー・ドゥードル、パトリック・アイエロ 脚本:ジョン・エリック・ドゥードル、ドリュー・ドゥードル 撮影:レオ・アンスタン 音楽:キーファス・チャンチャ
人骨いっぱいのカタコンベのセットも頑張ってはいるが…
原題"As Above, So Below"で、上の如く下も然りの意。
パリの地下にある巨大なカタコンベを女性歴史学者と助手たちが探検する話で、ラストシーンでは地下深く下りていったはずが地表に通じていたという、天地がひっくり返った世界になっていたのが原題の由来。
女性歴史学者の父から引き継いだ研究テーマは賢者の石の発見というオカルトがかったもので、イランの地下洞窟で発見した文字を手掛かりに、ニコラ・フラメルの隠した賢者の石がパリのカタコンベにあることを突き止める。
カタコンベ・ガイドを見つけて地下に潜るが、それぞれが死なした近親者たちの亡霊がカタコンベに眠る数百万の死者たちにシンクロして、地獄の門へと誘い、ホラー的幻想の迷宮に誘い込む。
ここからは『インディージョーンズ』ホラー版で、洞窟の天井が落ちたり、底が抜けたり、深井戸があったり、秘密の扉があったり、なぞなぞがあったり、幽霊が出たり、宝の山があったり、フェイクがあったりといった趣向が続くが、所詮カタコンベの中でしかないので、ドラマなしの迷宮探検で、賢者の石も曖昧なままに、何が目的だったのかよくわからないままに終わる。
手持ちカメラによる主観ショットのいわゆるPOV方式のホラーでそれなりの臨場感を出すが、カメラのブレが激しくて結構酔う。人骨いっぱいのカタコンベのセットもそれなりに頑張ってはいるが、あまり怖くないのがホラーとしては物足りない。 (評価:1.5)
日本公開:劇場未公開
監督:ジョン・エリック・ドゥードル 製作:トーマス・タル、ジョン・ジャシュニ、ドリュー・ドゥードル、パトリック・アイエロ 脚本:ジョン・エリック・ドゥードル、ドリュー・ドゥードル 撮影:レオ・アンスタン 音楽:キーファス・チャンチャ
原題"As Above, So Below"で、上の如く下も然りの意。
パリの地下にある巨大なカタコンベを女性歴史学者と助手たちが探検する話で、ラストシーンでは地下深く下りていったはずが地表に通じていたという、天地がひっくり返った世界になっていたのが原題の由来。
女性歴史学者の父から引き継いだ研究テーマは賢者の石の発見というオカルトがかったもので、イランの地下洞窟で発見した文字を手掛かりに、ニコラ・フラメルの隠した賢者の石がパリのカタコンベにあることを突き止める。
カタコンベ・ガイドを見つけて地下に潜るが、それぞれが死なした近親者たちの亡霊がカタコンベに眠る数百万の死者たちにシンクロして、地獄の門へと誘い、ホラー的幻想の迷宮に誘い込む。
ここからは『インディージョーンズ』ホラー版で、洞窟の天井が落ちたり、底が抜けたり、深井戸があったり、秘密の扉があったり、なぞなぞがあったり、幽霊が出たり、宝の山があったり、フェイクがあったりといった趣向が続くが、所詮カタコンベの中でしかないので、ドラマなしの迷宮探検で、賢者の石も曖昧なままに、何が目的だったのかよくわからないままに終わる。
手持ちカメラによる主観ショットのいわゆるPOV方式のホラーでそれなりの臨場感を出すが、カメラのブレが激しくて結構酔う。人骨いっぱいのカタコンベのセットもそれなりに頑張ってはいるが、あまり怖くないのがホラーとしては物足りない。 (評価:1.5)
製作国:フランス
日本公開:2015年10月24日
監督:ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ 製作:ファブリス・ランボ、ジャン=ピエール・プッテル、キャロリーヌ・ピラ 脚本:ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ 撮影:アントワーヌ・サニエ 音楽:ラファエル・ゲスカ
エスプリが邪魔してフランス映画にホラーは向かない
原題"Aux yeux des vivants"で、「生きる者の目の中に」の意。
冒頭、白魔人の正体について、父親が徴兵中に化学兵器を浴びて精子が遺伝子変異して生れた畸形児であることが明かされる。この段階では姿は隠されたままだが、終盤で6歳児にして大人の体を持っている、頭髪なく全身の白い見た目は普通の人間の姿で登場する。
学校をサボった3人の少年が、白魔人と父親が若い女を拉致して閉鎖された撮影所の廃墟に監禁するのを目撃。ために、白魔人が口封じのために3人とその家族を抹殺しようと襲うという物語で、順番に殺されていくという常道的スリラーとなっている。
問題なのは、白魔人がどうやって3人の家を突き止めたのかという過程が全くない上に、白魔人がテレポートしたんじゃないかというくらいに一晩で迅速に行動。3人目ではこれまた常道に則って失敗逃げ出すが、被害者の少年と警官が自転車と車で猛スピードでアジトに向かうにも関わらず、徒歩のハズの白魔人が先に帰りついている。
ホラーなのでご都合主義には目を瞑るにしても、さらに問題なのはこの白魔人が見た目も含めて少しも怖くないことで、痩せた体に基本は素手で立ち向かってくる上に、演出的には肝腎の殺害シーンが描かれないという、ホラー映画としては常道外しまくりのために、ホラー映画にも拘らずついウトウトしてしまう。
白魔人が退治された後、父親が新たに子供を作ったらしいシーンで"to be continued"的に終わるが、要は化学兵器はいけませんという如何にもフランス的なエスプリが、フランス映画がホラーには向いていないことを示している。 (評価:1.5)
日本公開:2015年10月24日
監督:ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ 製作:ファブリス・ランボ、ジャン=ピエール・プッテル、キャロリーヌ・ピラ 脚本:ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ 撮影:アントワーヌ・サニエ 音楽:ラファエル・ゲスカ
原題"Aux yeux des vivants"で、「生きる者の目の中に」の意。
冒頭、白魔人の正体について、父親が徴兵中に化学兵器を浴びて精子が遺伝子変異して生れた畸形児であることが明かされる。この段階では姿は隠されたままだが、終盤で6歳児にして大人の体を持っている、頭髪なく全身の白い見た目は普通の人間の姿で登場する。
学校をサボった3人の少年が、白魔人と父親が若い女を拉致して閉鎖された撮影所の廃墟に監禁するのを目撃。ために、白魔人が口封じのために3人とその家族を抹殺しようと襲うという物語で、順番に殺されていくという常道的スリラーとなっている。
問題なのは、白魔人がどうやって3人の家を突き止めたのかという過程が全くない上に、白魔人がテレポートしたんじゃないかというくらいに一晩で迅速に行動。3人目ではこれまた常道に則って失敗逃げ出すが、被害者の少年と警官が自転車と車で猛スピードでアジトに向かうにも関わらず、徒歩のハズの白魔人が先に帰りついている。
ホラーなのでご都合主義には目を瞑るにしても、さらに問題なのはこの白魔人が見た目も含めて少しも怖くないことで、痩せた体に基本は素手で立ち向かってくる上に、演出的には肝腎の殺害シーンが描かれないという、ホラー映画としては常道外しまくりのために、ホラー映画にも拘らずついウトウトしてしまう。
白魔人が退治された後、父親が新たに子供を作ったらしいシーンで"to be continued"的に終わるが、要は化学兵器はいけませんという如何にもフランス的なエスプリが、フランス映画がホラーには向いていないことを示している。 (評価:1.5)