外国映画レビュー──2013年
製作国:ロシア
日本公開:2015年3月21日
監督:アレクセイ・ゲルマン 脚本:アレクセイ・ゲルマン、スヴェトラーナ・カルマリータ 撮影:ヴラディミール・イリン、ユーリー・クリメンコ 美術:セルゲイ・ココフキン、ゲオルギー・クロパチョーフ、エレーナ・ジューコワ 音楽:ヴィクトル・レーベデフ
キネマ旬報:6位
ヒトラーとナチス、毛沢東と紅衛兵を思い出してしまう
原題"Трудно быть богом"で、神でいるのはつらいの意。アルカージー&ボリス・ストルガツキー兄弟の同名小説が原作。
地球から遠く離れた惑星が舞台。地球より800年文明が遅れていて、王国アルカナルでは反動大臣ドン・レバ(アレクサンドル・チュトゥコ)が主導して灰色隊を組織。知識人狩りや焚書が行われているという世界。
地球から派遣された調査団の一人ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)は異教神ゴランの子を騙り、神となって知識人を守ろうとするが、灰色隊に逮捕される。窮地を救うのがドン・レバ率いる修道僧の神聖軍団で、灰色隊にとって代わるが、恋人アリ(ナタリア・マテーワ)を殺されたルマータは神聖軍団を皆殺し。
隣国イルカンに逃れていた調査団が地球に帰還することになり、ルマータは「神でいるのはつらい」と告げて、アルカナルに残る…という物語。
約3時間に及ぶ大作で、厖大な労力と時間が費やされたことは十分に伝わってくる力作。とりわけ中世をイメージさせる美術と映像、俳優たちの演技、演出は見事だが、いかんせんストーリーがわかりにくく、おそらく2度見ないとわからず、都合6時間が必要というのが最大の欠点。それでも2度見ようという気にさせるのが、アレクセイ・ゲルマンの力量か。
灰色隊が滅んでも神聖軍団が取って代わり、神聖軍団が滅んでも新たな権力を狙う反動集団が現れる。だからルマータは神として残るのであり、だから神はつらいのだというのがメッセージであり、舞台をアルカナルに置き換えた地球の歴史そのものというのがテーマ。
原作はソ連時代のもので、本作の制作がプーチンが支配するロシア下であることを考えれば、示唆に富んでいる。
地球とは別の汚泥に塗れた惑星という設定だが、中世の文化も惑星人も動物も地球と変わらないパラレル世界。3時間も見ていると、ついヒトラーとナチス、毛沢東と紅衛兵を思い出してしまう。 (評価:3)
日本公開:2015年3月21日
監督:アレクセイ・ゲルマン 脚本:アレクセイ・ゲルマン、スヴェトラーナ・カルマリータ 撮影:ヴラディミール・イリン、ユーリー・クリメンコ 美術:セルゲイ・ココフキン、ゲオルギー・クロパチョーフ、エレーナ・ジューコワ 音楽:ヴィクトル・レーベデフ
キネマ旬報:6位
原題"Трудно быть богом"で、神でいるのはつらいの意。アルカージー&ボリス・ストルガツキー兄弟の同名小説が原作。
地球から遠く離れた惑星が舞台。地球より800年文明が遅れていて、王国アルカナルでは反動大臣ドン・レバ(アレクサンドル・チュトゥコ)が主導して灰色隊を組織。知識人狩りや焚書が行われているという世界。
地球から派遣された調査団の一人ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)は異教神ゴランの子を騙り、神となって知識人を守ろうとするが、灰色隊に逮捕される。窮地を救うのがドン・レバ率いる修道僧の神聖軍団で、灰色隊にとって代わるが、恋人アリ(ナタリア・マテーワ)を殺されたルマータは神聖軍団を皆殺し。
隣国イルカンに逃れていた調査団が地球に帰還することになり、ルマータは「神でいるのはつらい」と告げて、アルカナルに残る…という物語。
約3時間に及ぶ大作で、厖大な労力と時間が費やされたことは十分に伝わってくる力作。とりわけ中世をイメージさせる美術と映像、俳優たちの演技、演出は見事だが、いかんせんストーリーがわかりにくく、おそらく2度見ないとわからず、都合6時間が必要というのが最大の欠点。それでも2度見ようという気にさせるのが、アレクセイ・ゲルマンの力量か。
灰色隊が滅んでも神聖軍団が取って代わり、神聖軍団が滅んでも新たな権力を狙う反動集団が現れる。だからルマータは神として残るのであり、だから神はつらいのだというのがメッセージであり、舞台をアルカナルに置き換えた地球の歴史そのものというのがテーマ。
原作はソ連時代のもので、本作の制作がプーチンが支配するロシア下であることを考えれば、示唆に富んでいる。
地球とは別の汚泥に塗れた惑星という設定だが、中世の文化も惑星人も動物も地球と変わらないパラレル世界。3時間も見ていると、ついヒトラーとナチス、毛沢東と紅衛兵を思い出してしまう。 (評価:3)
ローン・レンジャー
日本公開:2013年8月2日
監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー、ゴア・ヴァービンスキー 脚本:ジャスティン・ヘイス、テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、エリック・アーロンソン 撮影:ボジャン・バゼリ 音楽: ハンス・ジマー
原題は"The Lone Ranger"で、1933年のラジオドラマが原作。1949年からテレビドラマ化され、日本では1958年から放映された。テーマ曲のウィリアム・テル序曲と「ハイヨー、シルバー!」「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」のフレーズが表裏一体。劇中に出てくる相棒のトント(Tonto)はスペイン語で間抜け、トントがジョン・リードに対して言うキモサベは頼りになる相棒の意味だとされる。
物語は瀕死の重傷を負ったジョン(アーミー・ハマー)をインディアンの悪霊ハンター・トント(ジョニー・デップ)が救い、ふたりの共通の敵であるキャベンディッシュ(ウィリアム・フィクナー)とその悪党一味と戦うというもの。ジョンは新米のテキサス・レンジャーだったが、自分の信念によって行動するだた一人のレンジャー、ローン・レンジャーとなる。
ディズニー・スタッフのCG合成による迫力あるアクション・シーンは見もので、実写とCGの区別がつかない。シルバーに跨ったローン・レンジャーが列車の屋根の上を駆けるシーンは最大の見どころで、息をつかせぬアクションの連続。ウィリアム・テル序曲のファンファーレが鳴り響いた瞬間、待ちに待ったヒーローの登場に全身が粟立つ。
このファンファーレが鳴り響くのはほとんど終盤で、それまでのジョンはむしろ頼りない。抑えに抑えて観客をじらしながら、テーマ曲とともにローン・レンジャーが登場する演出は見事で、ほとんど黄門様の印籠。オールドファンが期待する「ハイヨー、シルバー!」は、あの白馬が後肢で立ち上がるシーンとともにラストまで残してあって、そのあとのトントの台詞が浮ついたヒーロー性を否定する。
本作はエンタテイメントの西部劇として非常によくできているが、背景には先住民に対する白人の侵略史がありのままに描かれていて、ローン・レンジャーのヒーロー性を否定するトントの台詞とも対をなしている。つまり先住民への侵略史にヒーローは存在しえないことを。
映画ではIndian、savage(野蛮人)の台詞が使われ、博物館の展示プレートもnoble savage(高潔な野蛮人)となっている。noble savageは反文明的な概念で若干ニュアンスが異なるが、台詞の方の字幕は先住民と訳されている。差別表現に配慮したのだろうが、劇中では先住民に対する差別としてIndian、savageが使われており、これを先住民と訳すのでは意味が通じない。事なかれ主義による過剰な言葉の規制では作品の真意が伝わらない。
物語の構造は、遊園地でnoble savage、ネイティブアメリカンの展示を見ていた少年に、その仮装した先住民子孫の老人(トント)が、ローン・レンジャーの昔話を聞かせるという形になっている。ラストでのメインクレジットの後、再び映像が流れ、展示室を出て先住民居住地に帰っていく老人の後ろ姿とともにクレジットがロールされる。
この制作者のメッセージがこめられたシーンは必見で、今では観光の見世物となってしまった先住民の哀愁とともに、忘れられてしまった歴史への告発ともなっている。デップは自らも先住民の血を引く。 (評価:2.5)
グランド・ブダペスト・ホテル
日本公開:2014年6月6日
監督:ウェス・アンダーソン 製作:ウェス・アンダーソン、スコット・ルーディン、スティーヴン・レイルズ、ジェレミー・ドーソン 脚本:ウェス・アンダーソン 撮影:ロバート・イェーマン 音楽:アレクサンドル・デスプラ
ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
原題は"The Grand Budapest Hotel"。
いわゆる玄人受けするタイプの作品で、全体には大人向けのお伽噺。昔々あるところに・・・で始まる主舞台のホテルは架空の国の架空のホテルで、そこに住む王様ならぬコンシェルジュの波瀾の物語が展開される。
お伽噺なので教訓もあって、ホテルマンは客の秘密を墓場まで持っていかなければならないと言うが、本人が昔話を作家にばらしてしまうという矛盾は、お伽噺なので無視される。
本作がお伽噺として玄人受けするのは、その編集や美術などにあって、アカデミー賞の美術、衣装デザイン、メイキャップ&ヘアスタイリング、作曲の各賞を受賞。元ホテルボーイのホテル・オーナーが作家に語る場面はワイド画面、お伽噺部分はビスタになっている。
実際映像的にはファンタジー色がたっぷり詰まっていて、見どころの一つであり、全体を飽きさせない。
今では古びて客の来なくなったホテルをなぜ改装しないのかという理由が最後に語られ、それが王様であったコンシェルジュへの追慕ではなく、若くして死んだホテルのケーキ職人であった妻との思い出のためで、その思い出のためにオーナーは今でも従業員部屋に宿泊するという下りは、人生を終えた大人のノスタルジーを掻き立てる。
そうして過去に生きることが心地よい大人、あるいは老人のためのお伽噺となっている。
ストーリーは語り手であるホテル・オーナーが戦争の難民としてホテルのボーイ職を得て、コンシェルジュの付き人となって仕える。このホテルのコンシェルジュは支配人に近く、コンシェルジュは客のあらゆる要望に応えるため、女性客の夜の相手もする。そうした中に金持ちの老婆がいるが館で殺されてしまい、その濡れ衣がコンシェルジュに被せられ、刑務所入り。脱走して嫌疑を晴らし、彼女の最期の遺言を発見するが・・・という年老いたお姫様と騎士との恋物語にもなっていて、遺産を得てホテルオーナーとなるも、死んでボーイと交わした約束の元、ホテルはボーイのものとなる。
そうしたすべてがお伽噺なのだが、それ以上に何かがあるかといえば、お伽噺はお伽噺として楽しむに限るということになる。コンシェルジュはヴォルデモートのレイフ・ファインズ。 (評価:2.5)
製作国:スペイン
日本公開:2014年11月22日
監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア 製作:エンリケ・セレッソ 脚本:アレックス・デ・ラ・イグレシア、ホルヘ・ゲリカエチェバァリア 撮影:キコ・デ・ラ・リカ 音楽:ジョアン・バレント
テーマ的には腑抜けのラテン的ホラーコメディ
原題"Las brujas de Zugarramurdi"で邦題の意。
バスク地方スガラムルディの魔女伝説を題材にしたホラーコメディで、マドリッドで銀行強盗を働いた男が息子と仲間ともども逃走中に魔女村に迷い込み、魔女の餌食になってしまうというストーリー。
オープニングから短いカット割りとコマ落しを多用したスピーディなテンポで、ナンセンスギャグを次から次へと繰り出す。強盗団がイエスやGIジョー等のキャラクターのパフォーマンス芸人に扮して逃げ回るのが傑作。ギャグの勢いは魔女村にたどり着くまで緩みがなく、ストーリーに整合性を求めずにギャグに身を委ねるのが正しい鑑賞法。
魔女村に入ってようやくストーリーが始まるが、それが却って説明臭くギャグのテンポを落としているのがやや残念。
イグレシアはバスク出身らしく女性そのものを魔女に敷衍して、男対女の対立構図を創世記のアダムとイヴの男性上位に移し、片やフェミニズムに対する男の不満、片や男性上位に対するウーマンリブという形で描き、この永遠に歩み寄ることのできないテーマに挑む。
もっともイグレシアがこれに答えを出せたかというと、男に惚れた若い魔女の裏切りによって男性側の勝利となり、敗れた魔女=女の闘いが続くことを予感させて終わるという、テーマ的には腑抜けのラテン的ラストとなっていて、あくまでギャグから軸足を動かさない姿勢がいい。
逃走に巻き込まれる可哀想な乗客が耳や指を切り落とされるなどの残酷シーンも多いが、それがギャグにしか見えない演出がいい。 (評価:2.5)
日本公開:2014年11月22日
監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア 製作:エンリケ・セレッソ 脚本:アレックス・デ・ラ・イグレシア、ホルヘ・ゲリカエチェバァリア 撮影:キコ・デ・ラ・リカ 音楽:ジョアン・バレント
原題"Las brujas de Zugarramurdi"で邦題の意。
バスク地方スガラムルディの魔女伝説を題材にしたホラーコメディで、マドリッドで銀行強盗を働いた男が息子と仲間ともども逃走中に魔女村に迷い込み、魔女の餌食になってしまうというストーリー。
オープニングから短いカット割りとコマ落しを多用したスピーディなテンポで、ナンセンスギャグを次から次へと繰り出す。強盗団がイエスやGIジョー等のキャラクターのパフォーマンス芸人に扮して逃げ回るのが傑作。ギャグの勢いは魔女村にたどり着くまで緩みがなく、ストーリーに整合性を求めずにギャグに身を委ねるのが正しい鑑賞法。
魔女村に入ってようやくストーリーが始まるが、それが却って説明臭くギャグのテンポを落としているのがやや残念。
イグレシアはバスク出身らしく女性そのものを魔女に敷衍して、男対女の対立構図を創世記のアダムとイヴの男性上位に移し、片やフェミニズムに対する男の不満、片や男性上位に対するウーマンリブという形で描き、この永遠に歩み寄ることのできないテーマに挑む。
もっともイグレシアがこれに答えを出せたかというと、男に惚れた若い魔女の裏切りによって男性側の勝利となり、敗れた魔女=女の闘いが続くことを予感させて終わるという、テーマ的には腑抜けのラテン的ラストとなっていて、あくまでギャグから軸足を動かさない姿勢がいい。
逃走に巻き込まれる可哀想な乗客が耳や指を切り落とされるなどの残酷シーンも多いが、それがギャグにしか見えない演出がいい。 (評価:2.5)
天才スピヴェット
日本公開:2014年11月15日
監督:ジャン=ピエール・ジュネ 脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン 撮影:トマス・ハードマイアー 美術:アリーヌ・ボネット 衣装:マデリーン・フォンテーヌ 編集:エルヴェ・シュネイ
キネマ旬報:7位
原題"L'extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S.Spivet"で、若き天才T.S.スピヴェットの途方もない旅の意。ライフ・ラーセンの小説"The Selected Works of T.S.Spivet"(T.S.スピヴェット選集)が原作。
原題の通り、10歳の天才少年スピヴェットが、モンタナにある牧場の家を出発し、スミソニアン学術協会の授賞式に出席するためワシントンD.C.まで旅をする話。
無学な父親と自分の研究にしか興味を示さない母親の無理解から、自分の境遇を変えるべく、無断で家を出て、貨物列車に無賃乗車してスミソニアンに向かう旅が中心で、ジャン=ピエール・ジュネらしいシニカルなギャグが見どころ。無賃乗車を取り締まる鉄道員にバレないために、板人形になりすますシーンや、窓外のブランコの女の子をからかうために逆立ちするシーンが笑える。
T.S.は二卵性双生児の兄で、才能は母親似。弟は無教養で粗野な父親似で、年の離れた姉がミスコンに憧れる通俗娘というキャラクターシフトがいい。
ドラマ的には、事故で死んだ弟への自責の念がT.S.に付き纏い、誰からも愛されず理解されていないという思いが家族からの離反の理由となる。結局、それが誤解だとわかり、両親との和解と家族への回帰というハッピーエンドで終わるが、天才少年の途方もない話を期待して見ると、家族愛というあまりに平凡なテーマに収斂してしまって、なんだか肩透かしを喰らった気分になる。
T.S.を演じる子役のカイル・キャトレットが可愛くて好演。昆虫分類学者の母を演じるヘレナ・ボナム=カーターの研究バカぶりが堂に入っている。
通俗娘の姉を演じるニーヴ・ウィルソンがちょっといい。 (評価:2.5)
100歳の華麗なる冒険
日本公開:2014年11月8日
監督:フェリックス・ハーングレン 製作:マルテ・フォルセル、フェリックス・ハーングレン、ヘンリク・ヨハンソン=シュヴァイツァー、パトリック・ネブート 脚本:フェリックス・ハーングレン、ハンス・インゲマンソン 撮影:ギョーラン・ハルベリ 音楽:マッティ・バイ
原題は"Hundraåringen som klev ut genom fönstret och försvann"で、「窓から外に出て姿を消した100歳」の意。ヨナス・ヨナソンの同名小説が原作。
100歳の誕生日に老人ホームを抜け出した老人が、誤ってギャングの資金を手に入れたことから、それを取り戻そうとするギャングと、失踪人捜索をする警察とに追われ、逃げ回る物語。この間に、老人の過去の破天荒な人生の回想が挿入され、最後はギャングのボスのいるバリ島で思わぬハッピーエンドを迎える。
子供の頃から爆弾が趣味で、スペイン内戦のフランコ総統、オッペンハイマーの原爆実験、冷戦のクレムリン、シベリアを経て、ベルリンの壁崩壊に関わるエピソードがコミカルかつシニカルに描かれる。
笑いのツボが大人向けのブラックコメディで、ストーリーも仕掛けも大掛かり。ペットの象まで登場する大法螺ぶりがいい。
気楽に楽しめる大人向けの映画だが、現代史に絡む社会風刺も多いので、そのあたりの知識がないと面白みが伝わらないかもしれない。
100歳の主人公を演じるのはスウェーデンのコメディ俳優ロバート・グスタフソンだが、実年齢は49歳で、とぼけた老け役が上手い。
トルーマンやレーガン、スターリンなど歴史上の人物のメイクと演技も見どころ。 (評価:2.5)
製作国:チリ、フランス
日本公開:2014年7月12日
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 製作:ミシェル・セイドゥー 脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー 撮影:ジャン=マリー・ドルージュ 音楽:アダン・ホドロフスキー
キネマ旬報:7位
84歳の衰えをしらないアナーキーぶりが見どころ
現在は"La danza de la realidad"で、邦題の意。アレハンドロ・ホドロフスキー監督の同名の自伝が原作。
老人となったホドロフスキーが少年時代を回想する物語で、彼自身が回想の中に入り込んで少年だった自分に語りかけるという構成をとっている。
回想はホドロフスキーの主観的な印象として描かれるため、オペラ歌手だった母は常に日常会話をオペラのように歌い、夫の感染症を放尿で治療。サーカス、砂浜の大量の魚、片輪になった鉱山労働者たち、感染症の隔離患者の群れというようにシュールなエピソードとシーンが続く。
祖父母は1920年代にウクライナから南米へのユダヤ人移民で、両親はチリの海辺の炭坑町トコピージャで商店を営む裕福な家庭。
カルロス・イバニェスの軍事独裁政権下、スターリーンのコミンテルン、恐慌後の世界不況、ナチズムの台頭などが時代背景となっているが、前提も説明もない上に各々のエピソードに脈絡がなく、しかも前衛的な演出で語られるために、ストーリー性やドラマ性に欠けてやや退屈。
中盤からは共産党員の父が家族と別れ、大統領暗殺のために潜入・放浪する展開となり、本作の主題がホドロフスキーの父であることが次第に明らかになる。
暴力的で権威主義の父がスターリンやイバニェスと同じ独裁者に過ぎなかったと総括するラスト。アレハンドロが怖れた父は、ホドロフスキーが想像する父の物語の中で、無神論から神=愛を求める人間へと変貌し、その父とアレハンドロを包んでいたのが母と母の信じる神であったということに導かれる。
これはホドロフスキーが再構築した家族の物語で、老人となったホドロフスキーを彼自身が演じ、父をブロンティス・ホドロフスキー、行者をクリストバル・ホドロフスキー、イバニェス暗殺に加わるアナキストと音楽をアダン・ホドロフスキーと、3人の息子が参加した、父であるホドロフスキー自身の家族の物語となっている。
84歳のアレハンドロ・ホドロフスキーの衰えをしらないアナーキーぶりが見どころか。 (評価:2.5)
日本公開:2014年7月12日
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 製作:ミシェル・セイドゥー 脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー 撮影:ジャン=マリー・ドルージュ 音楽:アダン・ホドロフスキー
キネマ旬報:7位
現在は"La danza de la realidad"で、邦題の意。アレハンドロ・ホドロフスキー監督の同名の自伝が原作。
老人となったホドロフスキーが少年時代を回想する物語で、彼自身が回想の中に入り込んで少年だった自分に語りかけるという構成をとっている。
回想はホドロフスキーの主観的な印象として描かれるため、オペラ歌手だった母は常に日常会話をオペラのように歌い、夫の感染症を放尿で治療。サーカス、砂浜の大量の魚、片輪になった鉱山労働者たち、感染症の隔離患者の群れというようにシュールなエピソードとシーンが続く。
祖父母は1920年代にウクライナから南米へのユダヤ人移民で、両親はチリの海辺の炭坑町トコピージャで商店を営む裕福な家庭。
カルロス・イバニェスの軍事独裁政権下、スターリーンのコミンテルン、恐慌後の世界不況、ナチズムの台頭などが時代背景となっているが、前提も説明もない上に各々のエピソードに脈絡がなく、しかも前衛的な演出で語られるために、ストーリー性やドラマ性に欠けてやや退屈。
中盤からは共産党員の父が家族と別れ、大統領暗殺のために潜入・放浪する展開となり、本作の主題がホドロフスキーの父であることが次第に明らかになる。
暴力的で権威主義の父がスターリンやイバニェスと同じ独裁者に過ぎなかったと総括するラスト。アレハンドロが怖れた父は、ホドロフスキーが想像する父の物語の中で、無神論から神=愛を求める人間へと変貌し、その父とアレハンドロを包んでいたのが母と母の信じる神であったということに導かれる。
これはホドロフスキーが再構築した家族の物語で、老人となったホドロフスキーを彼自身が演じ、父をブロンティス・ホドロフスキー、行者をクリストバル・ホドロフスキー、イバニェス暗殺に加わるアナキストと音楽をアダン・ホドロフスキーと、3人の息子が参加した、父であるホドロフスキー自身の家族の物語となっている。
84歳のアレハンドロ・ホドロフスキーの衰えをしらないアナーキーぶりが見どころか。 (評価:2.5)
パシフィック・リム
日本公開:2013年8月9日
監督: ギレルモ・デル・トロ 製作:ジョン・ジャッシニ、メアリー・ペアレント、トーマス・タル 脚本:トラヴィス・ビーチャム、ギレルモ・デル・トロ 撮影:ギレルモ・ナヴァロ 音楽:ラミン・ジャヴァディ
原題は"Pacific Rim"で環太平洋の意。サンフランシスコ、アラスカ、香港を舞台に、怪獣と巨大人型メカが戦う、怪獣映画+巨大ロボット映画というのがわかりやすい。映画の見どころもこの二点に集約されていて、『ゴジラ』『ラドン』『モスラ』の本多猪四郎と『猿人ジョー・ヤング』『原子怪獣現わる』のレイ・ハリーハウゼンに献辞が捧げられている。
物語はグアム沖のマリアナ海溝、太平洋プレートがフィリピン海プレートに潜り込むところに異次元と繋がるトンネルができ、そこから巨大怪獣が湧き出てきて沿岸の都市を襲うというもの。この怪獣たちがクローンで、裏にいるのが地球征服を企む宇宙人で、環太平洋防衛軍が巨大人型メカを操ってこれに立ち向かうという、まさしく『ウルトラマン』等の日本怪獣映画の正統的系譜に繋がる作品。ストーリー的にはそれ以上のものはないので、如何に怪獣たちと戦うかがこの映画の見どころとなる。
怪獣映画としても巨大ロボット映画としてもよくできていて、お手本となっている日本の怪獣・ロボット映画を凌駕する一つの到達点となっている。迫力ある派手な演出のハリウッド映画の絢爛豪華さをとるか、人間味あふれる怪獣の日本映画の手作り感をとるかは好みの問題。怪獣の口先にはエイリアンっぽいイメージもあるが、ラドンのようなものも登場する。
巨大ロボット映画としてはパイロットが二人で精神的に一つとなって戦うというのがアイディア。立って操縦し、人の動きがそのままロボットの動きとなり、ソードやロケットパンチ(エルボーロケット)で戦い、攻撃のダメージもそのまま感じるなど、なりきりは日本のロボットアニメを超えた演出となっている。
ヒロイン役を菊地凛子、幼少時を芦田愛菜が演じ、たぶんにギレルモ・デル・トロの日本映画へのリスペクトを感じるが、興行は中国の大市場を狙って舞台のほとんどは香港。中国製の人型メカの胸に暴風赤紅と漢字で書かれているのが、ちょっとかっこいい。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年5月30日
監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 製作:スコット・ルーディン、イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 撮影:ブリュノ・デルボネル
キネマ旬報:8位
恥ずかしいフォークソングの時代から何か得るものがあるのか?
原題"Inside Llewyn Davis"で、主人公のフォーク歌手ルーウィン・デイヴィスのソロアルバムのタイトル。ルーウィン・デイヴィスの内面の意。60年代のフォーク歌手、デイヴ・ヴァン・ロンクがモデル。
ルーウィン・デイヴィスは船員をやめてフォークシンガーになったが、デュオを組んでいた相方が自殺。ソロアルバムを手にライブハウスで歌うが、売れずに毎晩友人の家を泊まり歩くというホームレス。
それもそのはず、歌う歌が暗く、冒頭で歌うのが"Hang Me, Oh Hang Me"(吊るせよ、俺を吊るせ)。
そうした負け犬ルーウィン・デイヴィスが猫といっしょに旅する一週間を描くが、シリアスだけどコメディで、歌う歌詞の四畳半ぶりに思わず失笑する。
思い起こせばフォークソングがブームとなったのは1960~70年代で、本作も当時が舞台となっているが、音楽史としても社会風俗史としてもフォークソングそのものがコメディだった。
コーエン兄弟がフォークソングを描けばそれ自体が必然的にコメディになり、自らの内面を恥ずかしげもなく吐露して歌うルーウィン・デイヴィスという存在自体がコメディにしかならない。ニューヨークのライブハウスに集まる人々もまたコメディで、コックリさんとかの降霊術に参加する『ローズマリーの赤ちゃん』的な黒魔術集団のように見えてしまう。
しかし、本作を見ているとそうした時代の甘酸っぱいノスタルジーが蘇ってくるのも確かで、劇中歌の「500マイルも離れて」を聞いていると、思わずPPMのLPレコードを引っ張り出したくなる。
そうした四畳半的青春を懐かしみながら、主人公に自分自身を重ね合わせて失笑するわけだが、ふと、そうして恥ずかしげもなく内面を吐露する四畳半的フォークソングがそれなり受け入れられた時代が、むしろ今の時代よりもまともだったのじゃないかと逆説的に思えてしまうところが、この映画の不思議な魅力なのかもしれない。
それにしてもコーエン兄弟はこの映画で笑わせたかったのか、皮肉を言いたかったのか、はたまた温故知新を目指したのか、どうにも不明な作品。 (評価:2.5)
日本公開:2014年5月30日
監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 製作:スコット・ルーディン、イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 撮影:ブリュノ・デルボネル
キネマ旬報:8位
原題"Inside Llewyn Davis"で、主人公のフォーク歌手ルーウィン・デイヴィスのソロアルバムのタイトル。ルーウィン・デイヴィスの内面の意。60年代のフォーク歌手、デイヴ・ヴァン・ロンクがモデル。
ルーウィン・デイヴィスは船員をやめてフォークシンガーになったが、デュオを組んでいた相方が自殺。ソロアルバムを手にライブハウスで歌うが、売れずに毎晩友人の家を泊まり歩くというホームレス。
それもそのはず、歌う歌が暗く、冒頭で歌うのが"Hang Me, Oh Hang Me"(吊るせよ、俺を吊るせ)。
そうした負け犬ルーウィン・デイヴィスが猫といっしょに旅する一週間を描くが、シリアスだけどコメディで、歌う歌詞の四畳半ぶりに思わず失笑する。
思い起こせばフォークソングがブームとなったのは1960~70年代で、本作も当時が舞台となっているが、音楽史としても社会風俗史としてもフォークソングそのものがコメディだった。
コーエン兄弟がフォークソングを描けばそれ自体が必然的にコメディになり、自らの内面を恥ずかしげもなく吐露して歌うルーウィン・デイヴィスという存在自体がコメディにしかならない。ニューヨークのライブハウスに集まる人々もまたコメディで、コックリさんとかの降霊術に参加する『ローズマリーの赤ちゃん』的な黒魔術集団のように見えてしまう。
しかし、本作を見ているとそうした時代の甘酸っぱいノスタルジーが蘇ってくるのも確かで、劇中歌の「500マイルも離れて」を聞いていると、思わずPPMのLPレコードを引っ張り出したくなる。
そうした四畳半的青春を懐かしみながら、主人公に自分自身を重ね合わせて失笑するわけだが、ふと、そうして恥ずかしげもなく内面を吐露する四畳半的フォークソングがそれなり受け入れられた時代が、むしろ今の時代よりもまともだったのじゃないかと逆説的に思えてしまうところが、この映画の不思議な魅力なのかもしれない。
それにしてもコーエン兄弟はこの映画で笑わせたかったのか、皮肉を言いたかったのか、はたまた温故知新を目指したのか、どうにも不明な作品。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年5月10日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、スティーヴン・テネンバウム、エドワード・ウォルソン 脚本:ウディ・アレン 撮影:ハビエル・アギーレサロベ
キネマ旬報:5位
せいぜいがセレブって空しいよね、くらいの自己満足
原題"Blue Jasmine"で、ブルー(憂鬱)なジャスミン。ジャスミンは主人公の女の名。
妹の名がジンジャーで、それぞれ香料にする植物名がつけられている。二人は里親の下で育った遺伝子の違う姉妹で、お高く留まったジャスミン(ケイト・ブランシェット)に対し、ジンジャー(サリー・ホーキンス)は庶民。それぞれの役どころが名前にも反映されている。
セレブリティーな生活に憧れるジャスミンは、金融詐欺師を夫に持ち、奢侈な生活を続けるが、浮気性の夫が本気で他の女に惚れたために、夫をFBIに告発してしまう。この経緯が全体として描かれていくが、そのために監獄入りした夫は自殺。彼女自身も無一文となり、精神を病んでしまう。
それがジャスミンがブルーになった原因で、思い出に耽りながら誰にともなく独り言を言い、それが回想として観客に語られるというなかなか凝った構成になっている。
無一文となったジャスミンは、それでもセレブリティーな生活習慣が抜けず、ロスの妹の家に厄介になりに来るが、ニューヨークからの飛行機はファーストクラス、鞄も服もブランド物。一度も働いたことがなく、歯医者の事務の仕事をしながら使い方の分からないパソコンでネットで無料のインテリアデザイナーの資格を取ろうという腰の浮き上がったチグハグさ。靴屋の店員をしていて昔のセレブ仲間に靴を履かせた屈辱が忘れられない。
そうしたジャスミン自身が、結局は夫と変わらない詐欺師体質で、パーティで知り合った金持ち男に偽りの自己紹介をして結婚しようとするが、婚約指輪を買いに入る店先で、ジンジャーの別れた亭主に出会う。この男、宝くじで当てた大金をジャスミン夫妻の投資話に注ぎ込まされて失った恨みつらみをばらしてしまい、ジャスミンは新たなパトロンになるはずの男に嘘つき呼ばわりされて逃げられてしまう。
そうしたジャスミンの悲しい女の姿を見せられるわけだが、正直そんな女の人生を見せられたところで人生が学べるわけでも教訓を得られるわけでも彼女に同情できるわけでもなく、せいぜいがセレブって空しいよね、くらいの自己満足しか得られない。
ウディ・アレンらしく、饒舌なコメディタッチの映画として飽きずに見ることはできるが、それだけ。アカデミー主演女優賞のケイト・ブランシェットが上手い。サリー・ホーキンスは『GODZILLA ゴジラ』(2014)で渡辺謙の助手役の古生物学者を演じている。 (評価:2.5)
日本公開:2014年5月10日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、スティーヴン・テネンバウム、エドワード・ウォルソン 脚本:ウディ・アレン 撮影:ハビエル・アギーレサロベ
キネマ旬報:5位
原題"Blue Jasmine"で、ブルー(憂鬱)なジャスミン。ジャスミンは主人公の女の名。
妹の名がジンジャーで、それぞれ香料にする植物名がつけられている。二人は里親の下で育った遺伝子の違う姉妹で、お高く留まったジャスミン(ケイト・ブランシェット)に対し、ジンジャー(サリー・ホーキンス)は庶民。それぞれの役どころが名前にも反映されている。
セレブリティーな生活に憧れるジャスミンは、金融詐欺師を夫に持ち、奢侈な生活を続けるが、浮気性の夫が本気で他の女に惚れたために、夫をFBIに告発してしまう。この経緯が全体として描かれていくが、そのために監獄入りした夫は自殺。彼女自身も無一文となり、精神を病んでしまう。
それがジャスミンがブルーになった原因で、思い出に耽りながら誰にともなく独り言を言い、それが回想として観客に語られるというなかなか凝った構成になっている。
無一文となったジャスミンは、それでもセレブリティーな生活習慣が抜けず、ロスの妹の家に厄介になりに来るが、ニューヨークからの飛行機はファーストクラス、鞄も服もブランド物。一度も働いたことがなく、歯医者の事務の仕事をしながら使い方の分からないパソコンでネットで無料のインテリアデザイナーの資格を取ろうという腰の浮き上がったチグハグさ。靴屋の店員をしていて昔のセレブ仲間に靴を履かせた屈辱が忘れられない。
そうしたジャスミン自身が、結局は夫と変わらない詐欺師体質で、パーティで知り合った金持ち男に偽りの自己紹介をして結婚しようとするが、婚約指輪を買いに入る店先で、ジンジャーの別れた亭主に出会う。この男、宝くじで当てた大金をジャスミン夫妻の投資話に注ぎ込まされて失った恨みつらみをばらしてしまい、ジャスミンは新たなパトロンになるはずの男に嘘つき呼ばわりされて逃げられてしまう。
そうしたジャスミンの悲しい女の姿を見せられるわけだが、正直そんな女の人生を見せられたところで人生が学べるわけでも教訓を得られるわけでも彼女に同情できるわけでもなく、せいぜいがセレブって空しいよね、くらいの自己満足しか得られない。
ウディ・アレンらしく、饒舌なコメディタッチの映画として飽きずに見ることはできるが、それだけ。アカデミー主演女優賞のケイト・ブランシェットが上手い。サリー・ホーキンスは『GODZILLA ゴジラ』(2014)で渡辺謙の助手役の古生物学者を演じている。 (評価:2.5)
製作国:中国、日本(バンダイビジュアル、ビターズ・エンド、オフィス北野)
日本公開:2014年5月31日
監督:ジャ・ジャンクー 製作:市山尚三 脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:リン・チャン
キネマ旬報:3位
かつての山本薩夫の社会派ドラマを見るような気分
原題は"天注定 A Touch of Sin"。天の定め、英題は邦題の通り。
監督は『長江哀歌』の賈樟柯。実際にあった4つの事件をモチーフに描くオムニバスで、山西省の炭鉱の村で私腹を肥やす村長・企業家を銃殺する男、重慶で妻子には出稼ぎだと偽って強盗する男、湖北省のマッサージ店で嫌がらせをする客を刺す不倫の女、広東省のナイトクラブで好きになったホステスの秘密を知って自殺する男の4人が連作のように円環をなす。
意図としては、中国社会の諸相を描く中でそれぞれの事件が起きる必然、あるいは宿命の根源に何があるのかを問うということ。それが"A Touch of Sin"というになる。それが人間の罪なのか、あるいは社会の罪なのかということは中国人の判断に委ねるところだが、そうした問題提起は社会にとって都合が悪く、中国国内では公開が進んでいないらしい。
もっとも、そうした社会派映画というのは問題提起ゆえに評価されやすいが、製作にオフィス北野が関係したからかどうか、犯罪映画、バイオレンス映画としての描写を強調するあまり、いささかリアリティに欠けるシーンが多い。
徒歩にナイフじゃ疾走するバイクの追剥はできないしょとか、街中で銃撃しといてなんで混乱が起きないのとか、諸々。
かつての山本薩夫の社会派ドラマを見るような気分で、しかしそのわりには俳優の演技は下手で、演出も型に嵌りすぎていて、かつてのATGやフランス映画を見る感じで、もう少し本格的な映画作りがほしい。 (評価:2.5)
日本公開:2014年5月31日
監督:ジャ・ジャンクー 製作:市山尚三 脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:リン・チャン
キネマ旬報:3位
原題は"天注定 A Touch of Sin"。天の定め、英題は邦題の通り。
監督は『長江哀歌』の賈樟柯。実際にあった4つの事件をモチーフに描くオムニバスで、山西省の炭鉱の村で私腹を肥やす村長・企業家を銃殺する男、重慶で妻子には出稼ぎだと偽って強盗する男、湖北省のマッサージ店で嫌がらせをする客を刺す不倫の女、広東省のナイトクラブで好きになったホステスの秘密を知って自殺する男の4人が連作のように円環をなす。
意図としては、中国社会の諸相を描く中でそれぞれの事件が起きる必然、あるいは宿命の根源に何があるのかを問うということ。それが"A Touch of Sin"というになる。それが人間の罪なのか、あるいは社会の罪なのかということは中国人の判断に委ねるところだが、そうした問題提起は社会にとって都合が悪く、中国国内では公開が進んでいないらしい。
もっとも、そうした社会派映画というのは問題提起ゆえに評価されやすいが、製作にオフィス北野が関係したからかどうか、犯罪映画、バイオレンス映画としての描写を強調するあまり、いささかリアリティに欠けるシーンが多い。
徒歩にナイフじゃ疾走するバイクの追剥はできないしょとか、街中で銃撃しといてなんで混乱が起きないのとか、諸々。
かつての山本薩夫の社会派ドラマを見るような気分で、しかしそのわりには俳優の演技は下手で、演出も型に嵌りすぎていて、かつてのATGやフランス映画を見る感じで、もう少し本格的な映画作りがほしい。 (評価:2.5)
製作国:イギリス、イタリア
日本公開:2015年1月24日
監督:ウベルト・パゾリーニ 製作:ウベルト・パゾリーニ、フェリックス・ヴォッセン、クリストファー・サイモン 脚本:ウベルト・パゾリーニ 撮影:ステファーノ・ファリヴェーネ 音楽:レイチェル・ポートマン
キネマ旬報:10位
イギリス版『おくりびと』だが、安直なラストで佳作になり損ねた
原題は""Still Life""で「ひっそりした人生」といった意。
ロンドン・ケニントン地区で、孤独死した人の処理を行う民生係の男が主人公。
孤独死した人の葬儀を執り行い、遺品から親族や友人を探し当てて葬儀への出席を依頼するのが彼の仕事の流儀だが、ほとんどの場合は誰も出席せず、男と牧師の二人で葬儀を行う。
棺は共同墓地に埋葬されるが、独り身の彼自身、そこに区画を持っていて、いつか埋葬される日を思っているという設定。葬儀は故人の宗旨に沿って行われるため、冒頭でギリシャ正教などのいくつかの葬儀が見られる。
男は自分が葬送した人の写真をアルバムに貼っていて、それが孤独死した人々の生きた証、過去帳のような記録ともなっていて、様々なStill Lifeをワンショットで俯瞰する演出が上手い。
彼はそうしたStill Lifeに自分自身を映しながら、遺族・知己を訪ね歩き、一人一人の人生を確かめることで死の尊厳を守ろうとするが、時間と手間がかかる彼のやり方を良しとしない上司は、彼を首にする。そうして最後の案件を彼がまっとうする姿が描かれ、彼の熱意が通じて出席を渋っていた人々が埋葬の場に集う。
そこまでは非常によくできたドラマだが、ラストシーンがありきたりな感動ドラマの通俗に堕してしまったのが残念。
ドラマツルギーとしてはいささか古典的で、主人公を交通事故で殺してしまうのも安直なら、他の孤独死した人々同様に人知れず埋葬され、しかし、彼が葬送した人々の霊が集って幸せでしたというのも、使い古された感動メルヘンで、鼻白む。
91分と短い作品なので、安直なラストではなく、もう少し自然なシナリオにできたはずで、佳作になるチャンスを逃した。 (評価:2.5)
日本公開:2015年1月24日
監督:ウベルト・パゾリーニ 製作:ウベルト・パゾリーニ、フェリックス・ヴォッセン、クリストファー・サイモン 脚本:ウベルト・パゾリーニ 撮影:ステファーノ・ファリヴェーネ 音楽:レイチェル・ポートマン
キネマ旬報:10位
原題は""Still Life""で「ひっそりした人生」といった意。
ロンドン・ケニントン地区で、孤独死した人の処理を行う民生係の男が主人公。
孤独死した人の葬儀を執り行い、遺品から親族や友人を探し当てて葬儀への出席を依頼するのが彼の仕事の流儀だが、ほとんどの場合は誰も出席せず、男と牧師の二人で葬儀を行う。
棺は共同墓地に埋葬されるが、独り身の彼自身、そこに区画を持っていて、いつか埋葬される日を思っているという設定。葬儀は故人の宗旨に沿って行われるため、冒頭でギリシャ正教などのいくつかの葬儀が見られる。
男は自分が葬送した人の写真をアルバムに貼っていて、それが孤独死した人々の生きた証、過去帳のような記録ともなっていて、様々なStill Lifeをワンショットで俯瞰する演出が上手い。
彼はそうしたStill Lifeに自分自身を映しながら、遺族・知己を訪ね歩き、一人一人の人生を確かめることで死の尊厳を守ろうとするが、時間と手間がかかる彼のやり方を良しとしない上司は、彼を首にする。そうして最後の案件を彼がまっとうする姿が描かれ、彼の熱意が通じて出席を渋っていた人々が埋葬の場に集う。
そこまでは非常によくできたドラマだが、ラストシーンがありきたりな感動ドラマの通俗に堕してしまったのが残念。
ドラマツルギーとしてはいささか古典的で、主人公を交通事故で殺してしまうのも安直なら、他の孤独死した人々同様に人知れず埋葬され、しかし、彼が葬送した人々の霊が集って幸せでしたというのも、使い古された感動メルヘンで、鼻白む。
91分と短い作品なので、安直なラストではなく、もう少し自然なシナリオにできたはずで、佳作になるチャンスを逃した。 (評価:2.5)
ある過去の行方
日本公開:2014年4月19日
監督:アスガー・ファルハディ 製作:アレクサンドル・マレ=ギィ 脚本:アスガー・ファルハディ 撮影:マームード・カラリ 音楽:エフゲニー・ガルペリン、ユーリ・ガルペリン
原題"Le passé"で、過去の意。
パリの離婚家族を舞台に、母娘の確執を描いたミステリー仕立てのドラマ。
テヘランに住むアフマド(アリ・モサファ)は4年前に別れた妻マリー(ベレニス・ベジョ)との正式な離婚手続きのためにパリにやってくる。
アフマドは二番目の夫で、家にはマリーの一番目の夫との間の長女リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)、次女、それと新しい恋人サミール(タハール・ラヒム)の息子がいるが、リュシーは母を嫌って家に居つかない。
さては母の恋人が気に食わないと思いきや…とアフマドが少女の胸の内に入っていくと、その原因が二転三転。
真実はいかに? というミステリーで、サミールの自殺未遂で植物人間状態の妻、経営するクリーニング店の不法移民の従業員が絡んでくる。
よく出来た重曹的なドラマで、直情的なマリー、思春期の多感な少女リュシーの心の機微を中心に、離婚家庭、不法移民の問題などが織り込まれていく。
もっとも、マリーとはただの浮気、多情女に引き摺られただけ、サミールが本当に愛していたのは妻というラストでは、人間ドラマとしては底が浅く、離婚家庭、不法移民を含めて、どれも未消化なままに終わる。
タイトルは、糸のように絡み合った過去を紐解いていくことから。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年3月7日
監督:スティーヴ・マックィーン 製作:ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、ジェレミー・クライナー、ビル・ポーラッド、スティーヴ・マックィーン、アーノン・ミルチャン、アンソニー・カタガス 脚本:ジョン・リドリー 撮影:ショーン・ボビット 音楽:ハンス・ジマー
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
黒人奴隷が善良な白人のお蔭で自由の身となりましたのイマサラ感
原題は"12 Years a Slave"(12年間の奴隷)で、ソロモン・ノーサップの同名の体験記が原作。
南北戦争前の1841年、ワシントンD.C.で奴隷商人に拉致された自由黒人が12年間、ルイジアナ州で奴隷として働き、解放されるまでの体験を描いた作品。
製作の一人ブラッド・ピットが主人公を助けて解放する「良い白人」役を演じていて若干鼻白むが、基本は「人種差別は良くないよ」映画で、そこに「悪い白人」と「良い白人」が出てきて、「良い白人」が「悪い白人」を懲らしめ、「善良な黒人」を助けてあげるという、アメリカ白人の人種差別への贖罪、普遍的な正義感、ヒューマニズムを満足させる内容になっている。
現在も残る人種差別ではなく、過去の人種差別をテーマにしたことで、「善良な黒人」のスティーヴ・マックイーンが監督した本作は、白人社会に受け入れられやすいものとなり、アカデミーとゴールデングローブをW受賞した。
そういった点で、アカデミー脚色賞を受賞した本作は、ストーリー的にも演出もよくできていて飽きさせないが、人種差別映画としてはぬるい。40年前なら意味のある作品になっただろうが、黒人奴隷が善良な白人のお蔭で自由の身となりました、ではイマサラ感は拭えない。
主人公のキウェテル・イジョフォー、アカデミー助演女優賞の女奴隷ルピタ・ニョンゴは舌を噛みそうな名前。
主人公を最初に買う農園主にベネディクト・カンバーバッチ、農園の監督官にポール・ダノ、2番目の農園主にマイケル・ファスベンダーと、ちょっと気の利いた俳優陣も見どころ。 (評価:2.5)
日本公開:2014年3月7日
監督:スティーヴ・マックィーン 製作:ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、ジェレミー・クライナー、ビル・ポーラッド、スティーヴ・マックィーン、アーノン・ミルチャン、アンソニー・カタガス 脚本:ジョン・リドリー 撮影:ショーン・ボビット 音楽:ハンス・ジマー
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題は"12 Years a Slave"(12年間の奴隷)で、ソロモン・ノーサップの同名の体験記が原作。
南北戦争前の1841年、ワシントンD.C.で奴隷商人に拉致された自由黒人が12年間、ルイジアナ州で奴隷として働き、解放されるまでの体験を描いた作品。
製作の一人ブラッド・ピットが主人公を助けて解放する「良い白人」役を演じていて若干鼻白むが、基本は「人種差別は良くないよ」映画で、そこに「悪い白人」と「良い白人」が出てきて、「良い白人」が「悪い白人」を懲らしめ、「善良な黒人」を助けてあげるという、アメリカ白人の人種差別への贖罪、普遍的な正義感、ヒューマニズムを満足させる内容になっている。
現在も残る人種差別ではなく、過去の人種差別をテーマにしたことで、「善良な黒人」のスティーヴ・マックイーンが監督した本作は、白人社会に受け入れられやすいものとなり、アカデミーとゴールデングローブをW受賞した。
そういった点で、アカデミー脚色賞を受賞した本作は、ストーリー的にも演出もよくできていて飽きさせないが、人種差別映画としてはぬるい。40年前なら意味のある作品になっただろうが、黒人奴隷が善良な白人のお蔭で自由の身となりました、ではイマサラ感は拭えない。
主人公のキウェテル・イジョフォー、アカデミー助演女優賞の女奴隷ルピタ・ニョンゴは舌を噛みそうな名前。
主人公を最初に買う農園主にベネディクト・カンバーバッチ、農園の監督官にポール・ダノ、2番目の農園主にマイケル・ファスベンダーと、ちょっと気の利いた俳優陣も見どころ。 (評価:2.5)
ザ・オーディエンス
no image
製作国:イギリス日本公開:2014年6月27日
演出:スティーヴン・ダルドリー 脚本:ピーター・モーガン
ロンドンのギールグッド劇場で上演された"The Audience"の舞台のライブ映像。原題は"National Theatre Live:The Audience"。
イギリス国王は毎週火曜日に首相と謁見(audience)し、国政の報告を受ける。エリザベス女王も慣例に習い、チャーチル以来、12人の首相と謁見している。本作ではヴァッキンガム1階の謁見の部屋が舞台で、スコットランドの別荘でのシーンが一度入るだけ。主に女王と首相の二人劇となって、イギリスらしいブラックユーモアに溢れた喜劇となっているが、女王がチャーチル以来、ただ一人首相官邸の晩餐に出席した記憶力抜群のウィルソンと、首相辞任直前に語らう最後の場面がしみじみする。
謁見の内容はフィクションだが、女王と首相との政治漫談には妙なリアリティがあり、首相であれ女王であれ俎板に載せて笑い飛ばす、タブーなきイギリス社会の懐の深さに改めて感心する。
登場する首相は、チャーチルの他はメージャー、ブレア、サッチャー、ブラウン、キャメロンと観客に合わせて比較的新しい。ウィルソン役のリチャード・マッケイブが上手い。
舞台演出は『リトル・ダンサー』のスティーヴン・ダルドリー、脚本は『ブーリン家の姉妹』『フロスト×ニクソン』等のピーター・モーガン、女王役はヘレン・ミレン。
休憩とインタビューを入れて158分を会話だけで見せるが、結構楽しめる。ただ、イギリスの政治事情や王室事情がコントとなっているので、ある程度の知識があった方がbetter。 (評価:2.5)
アメリカン・ハッスル
日本公開:2014年1月31日
監督:デヴィッド・O・ラッセル 製作:チャールズ・ローヴェン、リチャード・サックル、ミーガン・エリソン、ジョナサン・ゴードン 脚本:エリック・ウォーレン・シンガー、デヴィッド・O・ラッセル 撮影:リヌス・サンドグレン 音楽:ダニー・エルフマン
ゴールデングローブ賞(ミュージカル・コメディ部門)
原題"American Hustle"は、アメリカ合衆国のペテンの意。
1979年にFBIが詐欺師と組んだ囮捜査で、政治家の汚職を摘発した事件をモデルにコメディタッチに描いた作品。
架空の融資話で手数料を詐取していた詐欺師の男女がFBIに逮捕され、カジノ建設をめぐる政治家の汚職摘発に協力するのを条件に免責にしてもらう司法取引をする。ここからは詐欺師の男女、FBI捜査官がトリオを組んで、架空のアラブ大富豪をでっち上げ、カジノ建設の出資者を探している市長に紹介。まんまと騙された市長は富豪に市民権を与えるために議員たちを買収する。
ペテン話と並行して、恋愛話やマフィアも絡んだ楽しいエンタテイメント・コメディに仕上がっている。
ただ、この手のペテン話は話が入り組むと誰が誰を騙しているのかわかりにくくなり、シナリオでもそうしたフェイクを仕掛けてくる。本作も同様で、とりわけ女詐欺師がFBI捜査官を好きになるというフェイクがドラマ上の鍵ともなっている。主人公がマフィアと交わした取引も分かりにくく、若干釈然としない。
主人公の詐欺師の若妻を演じるジェニファー・ローレンスの演技は出色で、うざいアメリカ女を好演。マフィアのボスをロバート・デ・ニーロが演じているのも見どころの一つ。
主人公の詐欺師を演じるクリスチャン・ベールが役作りのためにぶよぶよの体を披露するのも見もので、ローアングルから撮ったショッキングな肉体美(?)は必見。 (評価:2.5)
華麗なるギャツビー
日本公開:2013年6月14日
監督:バズ・ラーマン 製作:ダグラス・ウィック、バズ・ラーマン、ルーシー・フィッシャー、キャサリン・ナップマン、キャサリン・マーティン 脚本:バズ・ラーマン、クレイグ・ピアース 撮影:サイモン・ダガン 音楽:クレイグ・アームストロング
第一次世界大戦後、大恐慌前夜のアメリカ・ブルジョアジーの退廃を描くスコット・フィッツジェラルドの小説が原作。原題は"The Great Gatsby"で、1974年に次ぐ2度目の映画化。現在では『グレート・ギャツビー』が定着しているのに、わざわざ昔の映画タイトルと同じ邦題にした理由が不明。
ストーリーは原作にほぼ沿っている。後日、ニックがカウンセリングを受けながらギャツビーの小説を書くというのは映画のオリジナル。ニックのモノローグとして語られる小説の文章、およびラストシーンで小説の文章が断片となってスクリーンに舞うが、これはフィッツジェラルドの原作の文章を使っている。
ニックの後日談としてのエピソードは、原作通りでは芸がないと思ったのだろうが、不要。原作同様にニックの視点で語られているために、物語は説明的でわかりやすいが、ドラマ性が淡泊になった分、キャラクターの心情はわかりにくくなっている。
本作は前半と後半で違和感を覚えるくらいに演出のギャップがあって、その原因は3Dにある。バズ・ラーマンが撮りたかったのはおそらく、ウエスト・エッグのギャツビー邸から見るイースト・エッグのブキャナン邸の桟橋の緑の灯までの距離間で、実際ローアングルから奥行きを強調するカメラワークを採っている。
これだけでは3Dとしては非常に地味で、アクション映画でもないので、せいぜいがパーティーシーンを派手にしてラスベガス・ショーのように盛り上げるしかない。これが本作を前後に真っ二つに分離してしまった。文芸作品としては、2Dで撮った方がより良いものになったのではないか。
ただ、アカデミー美術賞・衣装デザイン賞を受賞したラスベガス・ショーのような3D映像は、それ単体で見ごたえ十分。この映画をどういう視点で観るかにもよる。
ディカプリオは演技過剰で、派手な演出ともども前半はほとんどコメディに見間違える。デイジーとの関係が復活する後半の演技は『タイタニック』『ロメオ+ジュリエット』のような熱演。純愛ものの演技が向いているのかもしれない。
トムの演技に説得力があって、最後はそれほどスノッブな奴に見えないのは、作品として果たして良かったのか? (評価:2.5)
アナと雪の女王
日本公開:2014年3月14日
監督:クリス・バック、ジェニファー・リー 製作:ピーター・デル・ヴェッチョ 脚本:ジェニファー・リー 音楽:クリストフ・ベック
原題は"Frozen"。アンデルセンの『雪の女王』(Sneedronningen、The Snow Queen)の翻案だが、ほとんどオリジナル。
王国に二人の王女がいて、両親が死んで女王となる姉のエルサが雪の女王、妹がアナ。
エルサは自分でも制御できない氷結魔法を持っているが、それ以外の魔法は使えないというご都合主義な設定。なぜ魔法を持っているのか、なぜ両親が都合よく死んでしまうのか、なぜすぐに戴冠式が行われないのか、なぜ他国の王子が国を乗っ取ろうとするのか、なぜエルザではなくアナに言い寄るのか、といったシナリオ上の疑問はディズニーのファンタジーアニメなので一切封印しなければならない。
出会ったその日に王子とアナは結婚を約し、怒ったエルサが氷結魔法を暴走させ、魔女と罵られて山の城に籠る。和解を目指すアナが氷屋の男とともに氷の城に向かい、国を乗っ取ろうとする王子がエルサ退治に出かけ、真実の愛だけがエルサの氷結魔法を制御できるというお決まりのルールでハッピーエンド。真実の愛が恋人ではなく姉妹愛というのが、定石を破る。
基本はディズニーの美しいアニメーションと、ミュージカルの歌声を楽しむ作品で、内容はどうでもよい。その点では、期待を裏切らず、きれいな歌声を聴きながら映像を楽しむことができる。
ミュージカルなので、一般的には英語版で見るのが常道。ただアニメーションなのでどの道声は吹替えで、日本語版で楽しむのもあり。ビデオなら両方楽しめて比較もできるが、日本語版の方がやや子供向きか。
基本はたいしたストーリーではないので、英語版で見ても字幕を追う必要はあまりない。吹替え版の歌唱を楽しむか、原語版の歌唱を楽しむかは好みの問題。ただ主題歌の"Let It Go"(ありのままで)の歌詞は、英語版と吹替え版ではニュアンスが異なっていて、エルサが氷の山を目指すシーンでは英語版の方が引き籠り感が強く、ナチュラルに作品を見るならこちらがお薦め。字幕も英語版の歌詞に沿っている。
日本語版では、松たか子が演技はもちろん歌でも頑張っていて聴きどころ。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:2013年12月13日
監督:アルフォンソ・キュアロン 製作:アルフォンソ・キュアロン、デヴィッド・ハイマン 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ホナス・キュアロン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 音楽:スティーヴン・プライス
キネマ旬報:2位
3Dで見なければ意味がない宇宙空間映像が見どころ
原題は"Gravity"で重力のこと。
公開時に見逃してこれほど悔やまれた作品はない。というのは、予告編を見て宇宙空間を見せるためのただの3D映画だと思って、あまり食指が動かなかった。公開されて評判を聞き、キネ旬が2位に選び、アカデミー賞の候補になって映画館に足を運ぼうかと思っているうちに公開が終わってしまった。
ビデオを見て、本作は3Dで見るためにあって、2Dでは平凡なパニック映画でしかない。冷静に見れてしまうので、宇宙空間でのあり得ない船外作業やジェット噴射、近所に宇宙ステーションがあったり、100キロ先の中国船を目視したり、計算なしの再突入という、粗い設定が気になってしまう。
ドラマも天国の娘絡みのハリウッド的ヒロイズムで、徹頭徹尾、次々襲いかかる危機を乗り越えていくアドベンチャー物語。ワーナー配給だが、ディズニーランドかユニバーサルスタジオのアトラクションには最適。
ロシアが自爆させた偵察衛星が他の衛星を直撃し、飛び散った破片が同じ軌道上にある宇宙船を周回で襲ってくる。破片は宇宙船を大破し飛行士たちは即死するが、船外作業中だった女性科学者(サンドラ・ブロック)を飛行士(ジョージ・クルーニー)が助け、自らを犠牲にして彼女を地球に帰還させようとする。幼くして死んだ娘のところに行けるという思いと戦いながら、彼女は生還を目指すという物語。
彼女の心を引き寄せるのは地球の重力なのか? 天国の娘の引力なのか? というまさにファースト・ガンダム的なGravityがテーマ。邦題はわかりやすいが無重力がテーマではないので×。
見どころは美しい地球をバックにした宇宙空間の映像で、3Dで見なければ意味がない。 (評価:2.5)
日本公開:2013年12月13日
監督:アルフォンソ・キュアロン 製作:アルフォンソ・キュアロン、デヴィッド・ハイマン 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ホナス・キュアロン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 音楽:スティーヴン・プライス
キネマ旬報:2位
原題は"Gravity"で重力のこと。
公開時に見逃してこれほど悔やまれた作品はない。というのは、予告編を見て宇宙空間を見せるためのただの3D映画だと思って、あまり食指が動かなかった。公開されて評判を聞き、キネ旬が2位に選び、アカデミー賞の候補になって映画館に足を運ぼうかと思っているうちに公開が終わってしまった。
ビデオを見て、本作は3Dで見るためにあって、2Dでは平凡なパニック映画でしかない。冷静に見れてしまうので、宇宙空間でのあり得ない船外作業やジェット噴射、近所に宇宙ステーションがあったり、100キロ先の中国船を目視したり、計算なしの再突入という、粗い設定が気になってしまう。
ドラマも天国の娘絡みのハリウッド的ヒロイズムで、徹頭徹尾、次々襲いかかる危機を乗り越えていくアドベンチャー物語。ワーナー配給だが、ディズニーランドかユニバーサルスタジオのアトラクションには最適。
ロシアが自爆させた偵察衛星が他の衛星を直撃し、飛び散った破片が同じ軌道上にある宇宙船を周回で襲ってくる。破片は宇宙船を大破し飛行士たちは即死するが、船外作業中だった女性科学者(サンドラ・ブロック)を飛行士(ジョージ・クルーニー)が助け、自らを犠牲にして彼女を地球に帰還させようとする。幼くして死んだ娘のところに行けるという思いと戦いながら、彼女は生還を目指すという物語。
彼女の心を引き寄せるのは地球の重力なのか? 天国の娘の引力なのか? というまさにファースト・ガンダム的なGravityがテーマ。邦題はわかりやすいが無重力がテーマではないので×。
見どころは美しい地球をバックにした宇宙空間の映像で、3Dで見なければ意味がない。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ、ドイツ、イギリス
日本公開:2014年2月7日
監督:ロン・ハワード 製作:アンドリュー・イートン、エリック・フェルナー、ブライアン・オリヴァー、ピーター・モーガン、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード 脚本:ピーター・モーガン 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:10位
レースと事故シーンは必見。爆音もできればサラウンドで
原題"Rush"(突進)。1976年のF1世界選手権で1、2位となったのジェームス・ハントとニキ・ラウダの熾烈な争いを描いた実録映画。
ハントを『マイティ・ソー』のクリス・ヘムズワース、ラウダを『グッバイ、レーニン!』のダニエル・ブリュールが演じている。
死と隣り合わせの人生を刹那的に生きる天才肌のハント、自らマシンを整備し合理的で堅実なラウダの好対照なふたりを描きながら、ラウダが第10戦のドイツGPで瀕死の重傷を負い、最終戦の日本GPで荒天のため途中棄権し、優勝を逃すまでを追う。
「幸せは敵だ、心を弱くするから」と言っていたラウダが、シーズン途中で結婚して「僕には失うものができた」というのが名セリフ。それが最終戦のリタイアへと繋がっていく。
結局ハントが優勝したのはこの1回きりで、3年後に引退し、テレビ解説者となって45歳で急死。ラウダは実業家となって航空会社やメルセデスの経営者となる。
好対照な二人はその後においても現役時代そのままの人生を歩んだが、映画ではF1レーサーのバトルだけに終わる。その後の人生を描けば作品的にはもっと深みのある映画になっただろうが、ロン・ハワードは伝説の男を描くエンタテイメントにしたかったらしい。
レースシーンは迫力満点で、実写と記録映像、CGを織り交ぜ合成したレースと事故シーンは必見。爆音もできればサラウンドで聴きたい。 (評価:2.5)
日本公開:2014年2月7日
監督:ロン・ハワード 製作:アンドリュー・イートン、エリック・フェルナー、ブライアン・オリヴァー、ピーター・モーガン、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード 脚本:ピーター・モーガン 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:10位
原題"Rush"(突進)。1976年のF1世界選手権で1、2位となったのジェームス・ハントとニキ・ラウダの熾烈な争いを描いた実録映画。
ハントを『マイティ・ソー』のクリス・ヘムズワース、ラウダを『グッバイ、レーニン!』のダニエル・ブリュールが演じている。
死と隣り合わせの人生を刹那的に生きる天才肌のハント、自らマシンを整備し合理的で堅実なラウダの好対照なふたりを描きながら、ラウダが第10戦のドイツGPで瀕死の重傷を負い、最終戦の日本GPで荒天のため途中棄権し、優勝を逃すまでを追う。
「幸せは敵だ、心を弱くするから」と言っていたラウダが、シーズン途中で結婚して「僕には失うものができた」というのが名セリフ。それが最終戦のリタイアへと繋がっていく。
結局ハントが優勝したのはこの1回きりで、3年後に引退し、テレビ解説者となって45歳で急死。ラウダは実業家となって航空会社やメルセデスの経営者となる。
好対照な二人はその後においても現役時代そのままの人生を歩んだが、映画ではF1レーサーのバトルだけに終わる。その後の人生を描けば作品的にはもっと深みのある映画になっただろうが、ロン・ハワードは伝説の男を描くエンタテイメントにしたかったらしい。
レースシーンは迫力満点で、実写と記録映像、CGを織り交ぜ合成したレースと事故シーンは必見。爆音もできればサラウンドで聴きたい。 (評価:2.5)
ホビット 竜に奪われた王国
日本公開:2014年2月28日
監督:ピーター・ジャクソン 製作:キャロリン・カニンガム、ゼイン・ワイナー、フラン・ウォルシュ、ピーター・ジャクソン 脚本:フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン、ギレルモ・デル・トロ 撮影:アンドリュー・レスニー 音楽:ワード・ショア
『ホビット』3部作の2作目。原題は""The Hobbit:The Desolation of Smaug""(ホビット:スマウグの荒らし場)で、スマウグはドワーフの王国を奪った竜の名。J・R・R・トールキンの児童小説""The Hobbit, or There and Back Again.""(ホビット、または往路と帰還)が原作。
ビルボとドワーフたちの旅の続きで、相変わらずオークに追われながら、ガンダルフが途中で魔人に会いに行くために一行と別れる。ビルボたちは巨大クモに襲われたり、エルフに捕まったり、人間の町で冷たい仕打ちを受けたりしながら、目指すはなれ山にたどり着く。
スマウグとの出会いと戦い、ドワーフ復活の宝を手に入れようとして・・・というところで次回に続く。前作で手に入れた身を隠す指輪でビルボが活躍したり、黄金色に輝くスマウグ、ニュージーランドロケの奇観とアクションシーンが見どころだが、正直工夫のない物語は飽きる。
ハイファンタジーが好きな人には創作された世界観が楽しいが、そうでないと入れ代わり立ち代わり現れる敵と戦っているだけの、ドラマ性の希薄な話を見せられているだけに感じられるので、頭を空にしてCGとアクションを楽しむのが正しい鑑賞法。主人公以外はみんな悪者で、宝探しのお話くらいに単純化した方が煩雑なキャラクターに悩まずに済む。
それにしても悪者のスマウグが一番まともなキャラクターに思えてしまうのはなぜか? (評価:2.5)
製作国:カナダ、スペイン
日本公開:2014年5月17日
監督:アンディ・ムスキエティ 製作:バルバラ・ムスキエティ、J・マイルズ・デイル 脚本:アンディ・ムスキエティ、ニール・クロス、バルバラ・ムスキエティ 撮影:アントニオ・リエストラ音楽:フェルナンド・ベラスケス
半分だけハッピーエンドという中途半端さに切ない余韻
原題"Mama"で、劇中登場する女の幽霊の呼び名。製作総指揮ギレルモ・デル・トロのホラー映画。
仕事仲間と妻を殺害した父親が幼い娘2人を連れて山中に逃亡。見つけた山小屋に隠れたところが何者かに消されてしまい、5年後、兄の消息を追う弟(ニコライ・コスター=ワルドー、兄との2役)が狼少女となっていた姉妹(ミーガン・シャルパンティエ、イザベル・ネリッセ)を発見、というところから物語は始まる。
姉妹を育てていたのは狼ではなくママで、その正体や如何に? というのがストーリの引き。19世紀に崖から湖に飛び込んで心中した母親が、赤ん坊が途中の枝木に引っかかったために霊が別れてしまい、昇天できずに幼子を求めていたところに姉妹がやってきたという次第。
なぜ山小屋の地縛霊となっていたのかとか、壁のワープホールは何なのかとか、姉妹に食べさせたサクランボは何なのかとか、蛾は何なのかとか、妹はなぜ蛾を食べるのかとか、女幽霊は我が子を手に入れたのになぜ昇天できなかったのかとか、妹を道連れにして女幽霊は二度死んだのかとか、それで昇天できたのかとか、謎というかご都合主義は山のようにあって、幽霊ものとしてはまるで整合性がとれていないが、とりあえず面白く見られる。
半分だけハッピーエンドという中途半端さも切ない余韻があって、むしろ効果的。
弟の恋人にジェシカ・チャステイン。子役の2人が不気味。 (評価:2.5)
日本公開:2014年5月17日
監督:アンディ・ムスキエティ 製作:バルバラ・ムスキエティ、J・マイルズ・デイル 脚本:アンディ・ムスキエティ、ニール・クロス、バルバラ・ムスキエティ 撮影:アントニオ・リエストラ音楽:フェルナンド・ベラスケス
原題"Mama"で、劇中登場する女の幽霊の呼び名。製作総指揮ギレルモ・デル・トロのホラー映画。
仕事仲間と妻を殺害した父親が幼い娘2人を連れて山中に逃亡。見つけた山小屋に隠れたところが何者かに消されてしまい、5年後、兄の消息を追う弟(ニコライ・コスター=ワルドー、兄との2役)が狼少女となっていた姉妹(ミーガン・シャルパンティエ、イザベル・ネリッセ)を発見、というところから物語は始まる。
姉妹を育てていたのは狼ではなくママで、その正体や如何に? というのがストーリの引き。19世紀に崖から湖に飛び込んで心中した母親が、赤ん坊が途中の枝木に引っかかったために霊が別れてしまい、昇天できずに幼子を求めていたところに姉妹がやってきたという次第。
なぜ山小屋の地縛霊となっていたのかとか、壁のワープホールは何なのかとか、姉妹に食べさせたサクランボは何なのかとか、蛾は何なのかとか、妹はなぜ蛾を食べるのかとか、女幽霊は我が子を手に入れたのになぜ昇天できなかったのかとか、妹を道連れにして女幽霊は二度死んだのかとか、それで昇天できたのかとか、謎というかご都合主義は山のようにあって、幽霊ものとしてはまるで整合性がとれていないが、とりあえず面白く見られる。
半分だけハッピーエンドという中途半端さも切ない余韻があって、むしろ効果的。
弟の恋人にジェシカ・チャステイン。子役の2人が不気味。 (評価:2.5)
モンスターズ・ユニバーシティ
日本公開:2013年7月6日
監督:ダン・スキャンロン 製作:コーリー・レイ 脚本:ロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン、ダン・スキャンロン 音楽:ランディ・ニューマン
原題"Monsters University"で、モンスターズ大学の意。『モンスターズ・インク』(2001)の続編。
前作の前日譚で、主人公はマイク。苛められていた子供時代から始まり、モンスターズ社の怖がらせ屋(scarer)を志望してモンスターズ大学に入学、サリーと知り合う。
生来の可愛い顔のため、怖がらせ屋には不向きだと怖がらせ学部の学部長に転籍を言い渡されるが、学内のチーム対抗の怖がらせ大会で優勝すれば学部に残れると学部長に約束させる。
後は6チームの勝ち抜き戦で、マイク率いる劣等生組がワン・チームとなって予想を覆す善戦をし、優勝を攫うという、アメリカ人好みのネバー・ギブアップ物語。
もっとも最終戦でサリーがマイクのために不正を行い、二人は退学になってしまうが、大学を卒業するだけが怖がらせ屋への道ではないと気づき、モンスターズ・インクの郵便係のアルバイトからスタート。業務に精励し、清掃係、社員食堂係、ボンベ倉庫係と進み、遂に怖がらせ屋になるまでが描かれる。
才能はなくても努力で夢は掴めるというアメリカン・スピリッツの作品でそれなりに楽しめるが、ほとんどが大学が舞台の学園もので、しかも類型的。
モンスターの本来の目的である人間との交流が、終盤の申し訳程度のエピソードしかないのが物足りない。 (評価:2.5)
グレート・ビューティー 追憶のローマ
日本公開:2014年8月23日
監督:パオロ・ソレンティーノ 製作:ニコラ・ジュリアーノ、フランチェスカ・シーマ 脚本:パオロ・ソレンティーノ、ウンベルト・コンタレッロ 撮影:ルカ・ビガッツィ 音楽:レーレ・マルキテッリ
アカデミー外国語映画賞
原題"La grande bellezza"で、大いなる美の意。
ローマに住む老齢に差し掛かったジャーナリストがこれまでの人生を総括し、残された時間を如何に有意義に送るかという命題に向かう物語。
もっとも、このようなテーマ設定をするにあたって、主人公ジェップ(トニ・セルヴィッロ)の生き方、ないしはその人格にどれだけ共感を持てるかが問題で、本人曰く「俗物の王」であるジェップをテーマに値しない通俗の類型と捉えれば、美しいローマの風景以外には作品に意義を見出すことはできない。
ジェップは40年前に書いた小説で成功を手に入れ、以後は小説を書かずにその金でセレブたちとの社交パーティで遊び暮らしているだけという俗物。パーティに集まるこれまた俗物の女たちにモテて女には困らないが、なぜか初恋の人エリーザは別の男と結婚してしまい、以来思いを捨てきれずに独身を貫いている。
ジェップがこれまでの空虚な人生、残り少ない貴重な時間に気づいた時、エリーザの夫が彼女の訃報と共に、彼女が愛していたのはジェップだったと告げる。
ジェップはもう一度小説を書こうと思い立ち、古い友人たちを訪ねるが答えを見つけることができず、放蕩な生活を続ける。そこにアフリカで慈善活動をしている105歳の聖女が現れ、「根っこが大事」と話し、漸くジェップは手がかりを得る。
焦点の定まらないシナリオの上に、パーティ場面など丸でミュージカルのように現実離れした描写、連続性のないカット編集が全体をわかりにくくしている。
ジェップの親友がローマに失望したと言って郷里に帰るが、ローマそのものが根っこを失ったという「ソレンティーノのローマ」を描いたものか? (評価:2)
鑑定士と顔のない依頼人
日本公開:2013年12月13日
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作:イザベラ・コクッツァ、アルトゥーロ・パーリャ 脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ 撮影:ファビオ・ザマリオン 音楽:エンニオ・モリコーネ
原題は"La migliore offerta"で、「最善のオファー」の意。監督は『ニュー・シネマ・パラダイス』『海の上のピアニスト』のジュゼッペ・トルナトーレ。
「最善のオファー」が何を意味するかが本作の物語の鍵となるが、基本は大どんでん返しのストーリーで見せるエンタテイメント映画で、ヒューマンな部分を求めるとすれば、コレクションした女性たちの肖像画に囲まれながら彼女たちとの愛に生き、老齢になるまで独身を貫いた主人公のオークションハウス経営者が、ただ一人の生身の女性を愛したがためにすべてを失って破滅するという皮肉で、絵画の真贋は見分けられても人間の真贋は見分けられないというオチになっている。
もっともその人間ドラマが成功しているわけでもなく、大どんでん返しがネタバレしてしまうと見所がないミステリー劇という点で凡作。おまけに大どんでん返しに結び付く設定が杜撰で、主人公の視点だけで見せていくために、主人公を取り巻く人たちの関係が何も描かれないままに終わり、大どんでん返しに至る裏の過程が全く説明されない。
ラストのケレンだけを見せるやり方はいささかルール違反で、ヒューマンドラマとしてだけでなくミステリーとしても不十分。結局、どっちつかずの作品に終わり、もやもやしたものだけが残る。
主人公にジェフリー・ラッシュ、仲間にドナルド・サザーランドと俳優は渋い。邦題の鑑定人はオークションハウス経営者、顔のない依頼人は彼に骨董品の売却を依頼する女で、対人恐怖症のために顔を見せない。 (評価:2)
アデル、ブルーは熱い色
日本公開:2014年4月5日
監督:アブデラティフ・ケシシュ 脚本:アブデラティフ・ケシシュ、ガーリア・ラクロワ 撮影:ソフィアン・エル・ファニ
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2"で、アデルの生き方-第1章と第2章の意。ジュリー・マロの漫画"Le bleu est une couleur chaude"(ブルーは熱い色)が原作。カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞。
アデルは主人公の女性で、高校生から幼稚園の先生になるまでの数年間を描くが、中心となるのは彼女の性愛。同じ高校の男子生徒と初体験するものの違和感があって別れ、道端ですれ違い心惹かれた年上の美術学校生エマと同棲することになる。
この時のエマが髪の毛をブルーに染めているのがタイトルの由来で、ラストシーンでアデルがその後に別れたエマの個展にやってくるときの鮮やかな青い服がシンボリックな意味を持つ。
アデルはエマとの愛だけを求め、画家の夢を持つエマに比して夢を追わず、文才がありながらも現実的な幼稚園教諭の道を選ぶ。結果は、絵に打ち込んでセックスの要求に十分応えないエマへの寂しさを埋めるために男と浮気をしてしまい、それが原因で別れることになる。
夢を追いながらも現実的な道を選ばざるを得ない若者たち。そうした中でエマは夢を追い、アデルは現実的な生き方を選ぶ。エマの個展で高校時代のボーイフレンドと再会し、彼が不動産屋となりながらも時々は映画に出演して映画への夢をあきらめていないことを知ったアデルは、そこに自分の居場所を見いだせずに一人立ち去る。
これがラストシーンとなるが、正直、夢を諦めて現実に妥協した人生を送っている大多数の観客にとって、アデルと引き写しの己の寂しい姿が結論では、何のために3時間に及ぶ長々とした映画を見せられたのかという寂しい気持ちになる。
アデルがブルーの服で個展に行った理由は、エマを振り向かせるためだったのか、はたまたエマとの訣別だったのかはわからないが、彼女に最も似合わない色ということになる。
全体としてはドキュメンタリータッチの撮影と編集で、アデルの生活に密着取材したリアリティがあるが、時間軸的にはどんどん進んでいくもののシーン的には冗長で、次第に飽きてくる。
一方、微に入り細に入り描くアデルとエマの同性愛シーンはリアルで、これがパルム・ドール受賞の理由か。 (評価:2)
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち
日本公開:2014年8月16日
監督:ジャンフランコ・ロージ 脚本:ニコロ・バッセッティ、ジャンフランコ・ロージ 製作:マルコ・ヴィザルベルギ 撮影:ジャンフランコ・ロージ
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Sacro GRA"で、聖なるGRAの意。GRAはローマの環状高速道路"Grande Raccordo Anulare"のこと。
GRAは半径約22㎞、全長68.2㎞で、イメージ的には東京外環道に近い。集合住宅や農場、林、貴族の邸宅などが混在する郊外地域で、自動車道の交通量も多く渋滞も発生する。
そうした地域を管轄する救急隊員の仕事と家庭、集合住宅に暮らす父娘、老夫婦の何気ない日常、シュロの木に寄生する害虫を研究する植物学者、風俗バーのダンサー、ウナギ漁師などが点描されていくが、そうしたスケッチから歴史と文化の華やかな観光都市ローマとは対照的な、人々のありのままの暮らしを描こうという制作意図は理解できるものの、観光地ローマしか知らない者には人々の暮らしぶりや背景が今一つのみ込めず、ドラマにもドキュメンタリーにも、まして観光ガイドや絵葉書にもなっていない。
売春婦らしき女も登場して、イタリアでは売春は合法なのかと疑問が湧き、原則非合法で社会問題になっていると調べなければわからないでは、いくら映像が詩的でもドキュメンタリーとしての基本に欠ける。
害虫がシュロの木を食い尽くすという話もあって、人間を害虫に譬え、侵食がGRAに広がっているという比喩とも取れるが、ローマの知らない側面を何となく覗けるだけでも、見る意義はあるのかもしれない。 (評価:2)
グランド・マスター
日本公開:2013年5月31日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ウォン・カーウァイ、ジャッキー・パン 脚本:チョウ・ジンジ、シュー・ホーフェン、ウォン・カーウァイ 撮影:フィリップ・ル・スール 美術:ウィリアム・チャン、アルフレッド・ヤウ 音楽:梅林茂、ナサニエル・メカリー
原題"一代宗師"で、宗師の一生の意。
ブルース・リーの師匠・葉問、イップ・マンの一生を描いたカンフー映画で、伝記というよりはウォン・カーウァイらしいアクション映画、エンタテイメント映画になっている。
広東省仏山の裕福な家に生まれ、子供の頃からカンフーを習ってきたイップ・マン(トニー・レオン)は、東北のカンフーの重鎮パオセンとの試合に勝ち、南の技を東北に伝えることになる。ところが1937年、日中戦争が勃発して東北に行くことが叶わず、終戦後、香港で武術学校を開くというお話。
このシンプルな筋に、パオセンの娘ルオメイ(チャン・ツィイー)との恋模様、パオセンの弟子マーサン(マックス・チャン)の重鎮殺害、漢奸への寝返り、ルオメイの敵討ち、イップ・マンの妻子のエピソードが入るが、場繋ぎ感は否めない。
高速度撮影、残像処理、ストップモーション、ワイヤーアクションとの合成など、撮影技術のオンパレードで、カンフーアクションを映像技術で見せることに主眼が置かれていて、ストーリーはおざなり。エピソードの膨らましもなく心理描写もないのでドラマ感は薄い。
ウォン・カーウァイらしい映像デパートは楽しめるが、見終わってそれ以外に感想が残らない。 (評価:2)
製作国:ルーマニア
日本公開:2014年6月21日
監督:カリン・ペーター・ネッツァー 製作:アダ・ソロモン、カリン・ペーター・ネッツァー 脚本:ラズヴァン・ラドゥレスク、カリン・ペーター・ネッツァー 撮影:アンドレイ・ブティカ
ベルリン映画祭金熊賞
キリスト教徒の寛容の精神は業が深い仏教徒には理解できない
原題"Poziția copilului"で、子供の態度の意。
有名セレブ夫人コルネリア(ルミニツァ・ゲオルジウ)と息子バルブ(ボグダン・ドゥミトラケ)の母子関係のドラマで、息子はスノッブな母との関係が悪く、シングルマザーのカルメンと同棲。家に寄り付かないのが母の不満。
ところが息子がマジャル人の子供を車で撥ねてしまい、起訴されないようにあの手この手を使うという醜いママゴン(死語。過干渉なママのこと)の活躍を描く。
もっとも、最後は息子を守りたい一心の母に同情した被害者の父が、母と息子を許すというハッピーエンドで、こんな身勝手なママゴンを許してしまうヒューマンドラマを制作した意図が、どうにも理解できない。
キリスト教圏の人たちは、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す、復讐するは我にありというくらいに寛容だということか?
それでは死んだ子供も浮かばれまい。こんな女は明日になれば、上手くやったと思って、いそいそオペラ見物に出掛けるだろう…と思うのは人間の業の深さを知る仏教徒だからなのか?
正直、見終わってこんなに胸糞悪い映画はない。手持ちカメラがしつこくてウザい。 (評価:2)
日本公開:2014年6月21日
監督:カリン・ペーター・ネッツァー 製作:アダ・ソロモン、カリン・ペーター・ネッツァー 脚本:ラズヴァン・ラドゥレスク、カリン・ペーター・ネッツァー 撮影:アンドレイ・ブティカ
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Poziția copilului"で、子供の態度の意。
有名セレブ夫人コルネリア(ルミニツァ・ゲオルジウ)と息子バルブ(ボグダン・ドゥミトラケ)の母子関係のドラマで、息子はスノッブな母との関係が悪く、シングルマザーのカルメンと同棲。家に寄り付かないのが母の不満。
ところが息子がマジャル人の子供を車で撥ねてしまい、起訴されないようにあの手この手を使うという醜いママゴン(死語。過干渉なママのこと)の活躍を描く。
もっとも、最後は息子を守りたい一心の母に同情した被害者の父が、母と息子を許すというハッピーエンドで、こんな身勝手なママゴンを許してしまうヒューマンドラマを制作した意図が、どうにも理解できない。
キリスト教圏の人たちは、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す、復讐するは我にありというくらいに寛容だということか?
それでは死んだ子供も浮かばれまい。こんな女は明日になれば、上手くやったと思って、いそいそオペラ見物に出掛けるだろう…と思うのは人間の業の深さを知る仏教徒だからなのか?
正直、見終わってこんなに胸糞悪い映画はない。手持ちカメラがしつこくてウザい。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2014年1月31日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、レオナルド・ディカプリオ、リザ・アジズ、ジョーイ・マクファーランド、エマ・コスコフ 脚本:テレンス・ウィンター 撮影:ロドリゴ・プリエト
キネマ旬報:9位
反吐が出そうなくらいに下品な連中を描くコメディ
原題"The Wolf of Wall Street"で、ジョーダン・ベルフォートの同名の回想録が原作。
ロスチャイルドの営業マンだったベルフォートがブラックマンデーで会社が倒産して失業。株価が1ドルに満たないことからペニー株と呼ばれる店頭取引の証券会社に就職して、手始めにかつての顧客をIPOを餌に騙して荒稼ぎする。
その口八丁手八丁の男をレオナルド・ディカプリオが演じるが、ディカプリオの私生活そのものと思わせるくらいに適役。
金と女とドラッグが人生で、豪邸に住み、大型クルーザーを美女にプレゼント。豪華な結婚指輪をもらった妻とは離婚、再婚相手もやがて子供を連れて家を出る。家でも会社でも乱痴気騒ぎという、かつてのバブルをカリカチュアしたコメディ。最後は証券詐欺で逮捕され、出所して金儲け指南の講演活動のシーンで終わる。
リスクを客に売って自分は手数料で儲けるという、証券会社のセオリーを株投資家が学ぶには良い教科書だが、コメディとはいえ反吐が出そうなくらいに下品な連中の狂乱を見ても楽しくもなく、それを延々と3時間も見せられるのは苦行に近い。
ウォール街の狂気の人々を描くという点では社会派としての意味はあるのかもしれないが、あまりに低俗な人々を描いて、スコセッシは何のためにこの映画を撮ったのかと考えると、凡作よりも駄作に近い。 (評価:2)
日本公開:2014年1月31日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、レオナルド・ディカプリオ、リザ・アジズ、ジョーイ・マクファーランド、エマ・コスコフ 脚本:テレンス・ウィンター 撮影:ロドリゴ・プリエト
キネマ旬報:9位
原題"The Wolf of Wall Street"で、ジョーダン・ベルフォートの同名の回想録が原作。
ロスチャイルドの営業マンだったベルフォートがブラックマンデーで会社が倒産して失業。株価が1ドルに満たないことからペニー株と呼ばれる店頭取引の証券会社に就職して、手始めにかつての顧客をIPOを餌に騙して荒稼ぎする。
その口八丁手八丁の男をレオナルド・ディカプリオが演じるが、ディカプリオの私生活そのものと思わせるくらいに適役。
金と女とドラッグが人生で、豪邸に住み、大型クルーザーを美女にプレゼント。豪華な結婚指輪をもらった妻とは離婚、再婚相手もやがて子供を連れて家を出る。家でも会社でも乱痴気騒ぎという、かつてのバブルをカリカチュアしたコメディ。最後は証券詐欺で逮捕され、出所して金儲け指南の講演活動のシーンで終わる。
リスクを客に売って自分は手数料で儲けるという、証券会社のセオリーを株投資家が学ぶには良い教科書だが、コメディとはいえ反吐が出そうなくらいに下品な連中の狂乱を見ても楽しくもなく、それを延々と3時間も見せられるのは苦行に近い。
ウォール街の狂気の人々を描くという点では社会派としての意味はあるのかもしれないが、あまりに低俗な人々を描いて、スコセッシは何のためにこの映画を撮ったのかと考えると、凡作よりも駄作に近い。 (評価:2)
スター・トレック イントゥ・ダークネス
日本公開:2013年8月23日
監督:J・J・エイブラムス 製作:J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク、デイモン・リンデロフ、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー 脚本:デイモン・リンデロフ、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー 撮影:ダニエル・ミンデル 音楽:マイケル・ジアッキーノ
原題は"Star Trek Into Darkness"。劇場版第11作で、1966-9年のテレビシリーズ『宇宙大作戦』の#24"Space Seed"(宇宙の帝王)に相当するカーン初登場エピソードだが、物語は大きく異なる。
本作の目玉はスタートレック初の3D映像とカーン役のカンバーバッチ。
3Dについてはカンバーバッチを立体で見ても仕方がないので、エンタープライズとスポックの尖った耳が見どころのはずだがどちらも空振り。舐めるようなエンタープライズの立体映像とスポックがカークに耳を突き出すアップを期待したのだが、制作者はそうは考えなかったらしい。アクションシーンの3Dは、短いカットの連続とオプティカル効果バリバリで見辛く目が疲れるだけ。その他のシーンでもほとんど効果も意味もなく、むしろ2Dでよかった。
カーンも出番が少ない上に魅力が今ひとつで、カンバーバッチが生かせてない。ハリウッド的アクションばかりで、カークたちお笑い3人組の掛け合いもなく、スタートレックを映画にした意味もカーンを登場させた意味もない。カーンはカーク絡みのラストシーン、血液提供のための道具立てに成り下がっている。
全体にウエットで情緒に訴える場面をだらだらと見せられ、スポックが友情に涙を流すというあってはならないシーンまであって、エイブラムスはスタートレックを人情ドラマと勘違いしているか、トレッキーに喧嘩を売っているとしか思えない。
SF設定のひどさは相当で、テレビシリーズのSF名作を侮辱している。例を挙げればきりがないが、ワープ航法を高速道路と勘違いして追跡・攻撃までしてしまう。宇宙船の重力装置が故障するシーンでは、本来低重力のはずが逆に地上並みの重力が働く。
劇場で観たが時折、睡魔に負けそうになった。ただ、ラストシーンは迫力がある。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:2013年10月11日
監督:ジェームズ・ワン 製作:トニー・デローザ=グランド、ピーター・サフラン、ロブ・コーワン 脚本:チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ 撮影:ジョン・R・レオネッティ 美術:ジュリー・バーゴフ 音楽:ジョセフ・ビシャラ
シナリオの稚拙さに魔女よりも睡魔の方が優勢になる
原題"The Conjuring"で、霊の召喚の意。
プロローグは悪魔が憑りついた不気味顔のアナベル人形の話から始まるが、あとは人形とは全く無関係な化け物屋敷に引っ越した一家の話になるという、端から出来の悪いシナリオ。
化け物屋敷の事件解決に向かった心霊研究家ウォーレン夫妻が、資料としてアナベル人形を保管しているが、化け物屋敷を支配する魔女の霊がウォーレン夫妻(パトリック・ウィルソン、ヴェラ・ファーミガ)に恨みを抱き、アナベル人形に乗り移って夫妻の娘(スターリング・ジェリンズ)を襲うというエピソードに使われるだけで、必要のない伏線。
もっとも続編『アナベル 死霊館の人形』(2014)に登場するアイテムなので、続編のためのプロモーションとして入れられたのかもしれない。
話の中心は化け物屋敷で、魔女の霊が17世紀のセイラムの魔女に縁があるというのが如何にもな設定。ポルターガイスト現象だけでなく、愛犬を殺したり、鳥を家に衝突死させたり、娘たちに危害を加えたりという嫌がらせというには度を越えた悪さの限りを尽くし、一家の母親(リリ・テイラー)に憑依して娘たちを殺そうとする。
よくわからないのは魔女の霊の目的で、一家を家から追い出すためでもなく、単なる殺人鬼ならもっと手っ取り早く一家を惨殺すればいいのに、手の込んだことをする。それではホラー映画にならないからというのが最も納得のいく説明で、シナリオの稚拙さに魔女よりも睡魔の方が優勢になる。
化け物が魔女の霊だとわかってウォーレン夫妻は神父に悪魔祓いを頼むが、一家が無神論者で洗礼を受けてないから出来ないというのも宗教者にあるまじき狭量ぶりで、バチカンを貶めている。
いや無神論者だから悪魔祓いが通じないというなら、そもそも無神論者に魔女が取り憑くのもおかしな話で、結局ウォーレンが無免許で悪魔祓いをして魔女を地獄送りにするという、わけのわからない結末。 (評価:1.5)
日本公開:2013年10月11日
監督:ジェームズ・ワン 製作:トニー・デローザ=グランド、ピーター・サフラン、ロブ・コーワン 脚本:チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ 撮影:ジョン・R・レオネッティ 美術:ジュリー・バーゴフ 音楽:ジョセフ・ビシャラ
原題"The Conjuring"で、霊の召喚の意。
プロローグは悪魔が憑りついた不気味顔のアナベル人形の話から始まるが、あとは人形とは全く無関係な化け物屋敷に引っ越した一家の話になるという、端から出来の悪いシナリオ。
化け物屋敷の事件解決に向かった心霊研究家ウォーレン夫妻が、資料としてアナベル人形を保管しているが、化け物屋敷を支配する魔女の霊がウォーレン夫妻(パトリック・ウィルソン、ヴェラ・ファーミガ)に恨みを抱き、アナベル人形に乗り移って夫妻の娘(スターリング・ジェリンズ)を襲うというエピソードに使われるだけで、必要のない伏線。
もっとも続編『アナベル 死霊館の人形』(2014)に登場するアイテムなので、続編のためのプロモーションとして入れられたのかもしれない。
話の中心は化け物屋敷で、魔女の霊が17世紀のセイラムの魔女に縁があるというのが如何にもな設定。ポルターガイスト現象だけでなく、愛犬を殺したり、鳥を家に衝突死させたり、娘たちに危害を加えたりという嫌がらせというには度を越えた悪さの限りを尽くし、一家の母親(リリ・テイラー)に憑依して娘たちを殺そうとする。
よくわからないのは魔女の霊の目的で、一家を家から追い出すためでもなく、単なる殺人鬼ならもっと手っ取り早く一家を惨殺すればいいのに、手の込んだことをする。それではホラー映画にならないからというのが最も納得のいく説明で、シナリオの稚拙さに魔女よりも睡魔の方が優勢になる。
化け物が魔女の霊だとわかってウォーレン夫妻は神父に悪魔祓いを頼むが、一家が無神論者で洗礼を受けてないから出来ないというのも宗教者にあるまじき狭量ぶりで、バチカンを貶めている。
いや無神論者だから悪魔祓いが通じないというなら、そもそも無神論者に魔女が取り憑くのもおかしな話で、結局ウォーレンが無免許で悪魔祓いをして魔女を地獄送りにするという、わけのわからない結末。 (評価:1.5)
her 世界でひとつの彼女
日本公開:2014年6月28日
監督:スパイク・ジョーンズ 製作:ミーガン・エリソン、スパイク・ジョーンズ、ヴィンセント・ランディ 脚本:スパイク・ジョーンズ 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 美術:K・K・バレット 音楽:アーケイド・ファイア
原題"Her"。近未来SFで、人工知能型OSのコンピュータを恋人に持つ男の話。ウェアラブル端末で会話することができ、男の持つ最新型は所有者のパーソナリティに最適化されるという設定。
何やら最先端バリバリの人工知能型OSだが、その利用法はというと恋人代わりか、せいぜいが秘書で、人間とAIがラブラブするという俗っぽさ。AIとテレクラ、イメクラ遊びをしてエクスタシーに達するというITポルノが新しい。
イメージの中でセックスして挿入して一体感を味わうが、仮にもSFなので人間とAIが融合して一体化するのかと思いきや、セックスの後は日常生活に戻って、良かったからまたやろうね、という低俗ぶりが何ともいえない。
一応、男には別居中の妻がいて、別れる発端は男が女の気持ちを理解していなかったということらしいが、IT妻との間にもやがて倦怠期が訪れ、妻はAIゆえに何百人もの男との恋愛が可能。人間の男は独占欲からIT妻の浮気に失意するが、その前にIT妻も人間妻にジェラシーを感じると言っているので、AIのくせに独占欲はあるんじゃないかと、設定の粗雑さが気にかかる。
結局、愛をテーマにしている割にはIT的論理に欠け、何が言いたいんだかさっぱりわからず・・・というよりも話のくだらなさに辟易して眠ってしまいそうになる。
IT妻の声の出演はスカーレット・ヨハンソン。ホアキン・フェニックス、エイミー・アダムスと何だか勿体ない。 (評価:1.5)