外国映画レビュー──2005年
製作国:アメリカ
日本公開:2006年3月4日
監督:アン・リー 製作:ダイアナ・オサナ、ジェームズ・シェイマス 脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ 撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:グスターボ・サンタオラヤ
キネマ旬報:4位
ゴールデングローブ作品賞 ヴェネツィア映画祭金獅子賞
ハーレクインかBLか?いやこれは高倉健の映画である
原作はE・アニー・プルーの同名小説。女性作家の原作を読んでいなので何とも言えないが、内容的にはハーレクインロマンスの同性愛版か、大人向けのボーイズラブといった感じ。ただ、男性監督が撮ったために、女性が示すホモセクシュアルへの好奇心やイマジネーションを超えた、ある種普遍的な恋愛映画となっている。
ただ、この手の映画を頭から拒絶する人も多い。そうした人にこの映画を説明するとしたら、これはまだ社会が同性愛を受け入れていなかった頃(物語は1963年から始まる)の話で、社会の偏見の中で禁断の恋を貫いた男の孤高の人生の物語だということ。譬えが適切かどうかはわからないが、これは不器用だが孤高の男を描く高倉健の映画。ヒース・レジャーの演技は、観る者に偏見や雑念を許さない。
この物語が最後に静かな感動を呼ぶのは2点あって、一つは死んだ恋人の両親が二人の関係を許すことと、もう一つは、おそらくは父が同性愛者だと知っている娘が結婚式への出席を求めることで、主人公の人生を肯定することにある。
ヒース・レジャーをはじめ、演技・演出はどれもとてもよく、ギターの調べも良い。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー監督賞・脚色賞・作曲賞を受賞している。
ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)はアメリカ中西部、ロッキー山脈の架空の山。直訳すれば背骨の崩れた山だが、山稜のガレた嶮しい山という意味か。主人公たちの置かれた立場を象徴するのだろうが、映画に出てくるブロークバック・マウンテンは美しい自然で、アン・ハサウェイの台詞にも出てくるように夢の場所、主人公たちの桃源郷。放牧される羊の群れに和む。 (評価:3.5)

日本公開:2006年3月4日
監督:アン・リー 製作:ダイアナ・オサナ、ジェームズ・シェイマス 脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ 撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:グスターボ・サンタオラヤ
キネマ旬報:4位
ゴールデングローブ作品賞 ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原作はE・アニー・プルーの同名小説。女性作家の原作を読んでいなので何とも言えないが、内容的にはハーレクインロマンスの同性愛版か、大人向けのボーイズラブといった感じ。ただ、男性監督が撮ったために、女性が示すホモセクシュアルへの好奇心やイマジネーションを超えた、ある種普遍的な恋愛映画となっている。
ただ、この手の映画を頭から拒絶する人も多い。そうした人にこの映画を説明するとしたら、これはまだ社会が同性愛を受け入れていなかった頃(物語は1963年から始まる)の話で、社会の偏見の中で禁断の恋を貫いた男の孤高の人生の物語だということ。譬えが適切かどうかはわからないが、これは不器用だが孤高の男を描く高倉健の映画。ヒース・レジャーの演技は、観る者に偏見や雑念を許さない。
この物語が最後に静かな感動を呼ぶのは2点あって、一つは死んだ恋人の両親が二人の関係を許すことと、もう一つは、おそらくは父が同性愛者だと知っている娘が結婚式への出席を求めることで、主人公の人生を肯定することにある。
ヒース・レジャーをはじめ、演技・演出はどれもとてもよく、ギターの調べも良い。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー監督賞・脚色賞・作曲賞を受賞している。
ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)はアメリカ中西部、ロッキー山脈の架空の山。直訳すれば背骨の崩れた山だが、山稜のガレた嶮しい山という意味か。主人公たちの置かれた立場を象徴するのだろうが、映画に出てくるブロークバック・マウンテンは美しい自然で、アン・ハサウェイの台詞にも出てくるように夢の場所、主人公たちの桃源郷。放牧される羊の群れに和む。 (評価:3.5)

製作国:ベルギー、フランス
日本公開:2005年12月10日
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 製作:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ、デニス・フレイド 脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 撮影:アラン・マルコァン 美術:イゴール・ガブリエル
キネマ旬報:4位
カンヌ映画祭パルム・ドール
二人が最期に流す涙に象徴される底辺社会の無力感
原題"L'Enfant"で邦題の意。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。
ベルギーの底辺に生きる20歳と18歳の若いカップルが主人公。娘に子供が生まれたところから物語が始まるが、青年は盗みで生活費を稼いでいるというその日暮らし。子供の誕生を機に、定職を得るために就職斡旋所に並んでいる間に、青年は子供を養子に売ってしまう。ショック受けた娘が倒れ、青年は子供を買い戻すものの不仲に。ひったくりで捕まり、面会に来た娘の前で泣き崩れる・・・というのが物語の骨子。
若年層の貧困がテーマで、貧しいながらも真面目に幸せな家庭を築こうとする娘に対して、盗みにしか生きる道を見いだせない青年の精神の貧困が描かれる。
もっとも、どうしようもない青年は放埓なわけではなく、娘を愛してもいるし、ひったくりで手下の少年が警察に捕まると、自首して少年を助けるという優しい心根の持ち主でもある。
本来、悪人ではなく善人である青年の家庭が垣間見えるシーンがあり、比較的若い母親は息子の知らない男と同棲していて、家を出た青年は娘のアパートに転がり込むか野宿して暮らしている。青年の精神の貧困をもたらしたのは、おそらく世代を繰り返す底辺の家庭環境であり、底辺の教育であって、監督のダルデンヌは社会の底辺に生きる青年の以て来る背景をゆっくりと炙り出していく。
しかし、欧州の階層社会の病巣に対する解決策があるのかという点では、本作は状況を描くだけであって、その無力感を二人が最期に流す涙に象徴させているに過ぎない。
そうした点では戦前戦後のプロレタリア文学・映画と同じなのだが、立て万国の労働者! というスローガンさえないところに、いっそうの無力感が漂う。 (評価:3)

日本公開:2005年12月10日
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 製作:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ、デニス・フレイド 脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 撮影:アラン・マルコァン 美術:イゴール・ガブリエル
キネマ旬報:4位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"L'Enfant"で邦題の意。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。
ベルギーの底辺に生きる20歳と18歳の若いカップルが主人公。娘に子供が生まれたところから物語が始まるが、青年は盗みで生活費を稼いでいるというその日暮らし。子供の誕生を機に、定職を得るために就職斡旋所に並んでいる間に、青年は子供を養子に売ってしまう。ショック受けた娘が倒れ、青年は子供を買い戻すものの不仲に。ひったくりで捕まり、面会に来た娘の前で泣き崩れる・・・というのが物語の骨子。
若年層の貧困がテーマで、貧しいながらも真面目に幸せな家庭を築こうとする娘に対して、盗みにしか生きる道を見いだせない青年の精神の貧困が描かれる。
もっとも、どうしようもない青年は放埓なわけではなく、娘を愛してもいるし、ひったくりで手下の少年が警察に捕まると、自首して少年を助けるという優しい心根の持ち主でもある。
本来、悪人ではなく善人である青年の家庭が垣間見えるシーンがあり、比較的若い母親は息子の知らない男と同棲していて、家を出た青年は娘のアパートに転がり込むか野宿して暮らしている。青年の精神の貧困をもたらしたのは、おそらく世代を繰り返す底辺の家庭環境であり、底辺の教育であって、監督のダルデンヌは社会の底辺に生きる青年の以て来る背景をゆっくりと炙り出していく。
しかし、欧州の階層社会の病巣に対する解決策があるのかという点では、本作は状況を描くだけであって、その無力感を二人が最期に流す涙に象徴させているに過ぎない。
そうした点では戦前戦後のプロレタリア文学・映画と同じなのだが、立て万国の労働者! というスローガンさえないところに、いっそうの無力感が漂う。 (評価:3)

製作国:ロシア、イタリア、フランス、スイス
日本公開:2006年8月5日
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 製作:イゴール・カレノフ、アンドレイ・シグレ、マルコ・ミュラー 脚本:ユーリ・アラボフ 撮影:アレクサンドル・ソクーロフ 音楽:アンドレイ・シグレ
キネマ旬報:6位
昭和天皇の人間宣言を外国人の視点から描く
原題は"Солнце"で太陽の意。英語タイトルは"Sun"。TUTAYAの邦画ドラマの分類は誤りで、洋画。
日本の終戦前から昭和天皇の人間宣言(1946年1月1日)までを描くロシア人監督の映画で、登場するのは日本人とアメリカ人。そのためヨーロッパ4国の合作にも係わらず、映画で使われるのは日本語と英語だけという、一風変わった映画。もっとも欧米では吹き替えが普通なので、原語で上映されることはない。アレクサンドル・ソクーロフ監督の権力の堕落についての4部作『モレク神』(1999、ヒトラー)、『牡牛座 レーニンの肖像』(2001)、『ファウスト』(2011)の3作目にあたる。
本作の主人公は昭和天皇で、ストーリーはフィクションなので、昭和天皇の扱いや歴史的事実についての疑義は当然ある。しかし、日本人が天皇・天皇制について論じるとき、それは常に内向きで外国人の視点というものを一切考慮していない。天皇は純粋に日本人の精神性の問題なのだから外国を考慮する必要はないという考えはある。しかし、外国人が天皇という存在をどう捉えているのかということを本作を通して考えてみることは無駄ではない。
本作で描かれるテーマは天皇の神格で、ルネッサンスの見方からすれば、この神格化によって人間性を損なっているのは日本国民(この映画には政治家・軍人・側近しか出てこないが)だけでなく、天皇自身も神格化の頸木によって人間性を奪われているのではないかということになる。
この問題は現行の象徴天皇制においても継続していて、皇族・皇室が抱えるさまざまな問題の原点、政治家や官僚によってもたらされる神格化の頸木は戦前と変わっていないことを示唆する。
本作で描かれる天皇は非常に人間的。東京裁判のような戦勝国による一方的な弾劾も歴史観・戦争観もなく、ソクーロフ監督は天皇という存在を歴史の普遍性の視点から人間的に描く。イッセー尾形も昭和天皇の仕草を物真似ではなく、人物としてよく捉えている。
非常にデリケートな題材の映画だが、政治やイデオロギーを離れ、日本人の立場を忘れて観るべき。 (評価:3)

日本公開:2006年8月5日
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 製作:イゴール・カレノフ、アンドレイ・シグレ、マルコ・ミュラー 脚本:ユーリ・アラボフ 撮影:アレクサンドル・ソクーロフ 音楽:アンドレイ・シグレ
キネマ旬報:6位
原題は"Солнце"で太陽の意。英語タイトルは"Sun"。TUTAYAの邦画ドラマの分類は誤りで、洋画。
日本の終戦前から昭和天皇の人間宣言(1946年1月1日)までを描くロシア人監督の映画で、登場するのは日本人とアメリカ人。そのためヨーロッパ4国の合作にも係わらず、映画で使われるのは日本語と英語だけという、一風変わった映画。もっとも欧米では吹き替えが普通なので、原語で上映されることはない。アレクサンドル・ソクーロフ監督の権力の堕落についての4部作『モレク神』(1999、ヒトラー)、『牡牛座 レーニンの肖像』(2001)、『ファウスト』(2011)の3作目にあたる。
本作の主人公は昭和天皇で、ストーリーはフィクションなので、昭和天皇の扱いや歴史的事実についての疑義は当然ある。しかし、日本人が天皇・天皇制について論じるとき、それは常に内向きで外国人の視点というものを一切考慮していない。天皇は純粋に日本人の精神性の問題なのだから外国を考慮する必要はないという考えはある。しかし、外国人が天皇という存在をどう捉えているのかということを本作を通して考えてみることは無駄ではない。
本作で描かれるテーマは天皇の神格で、ルネッサンスの見方からすれば、この神格化によって人間性を損なっているのは日本国民(この映画には政治家・軍人・側近しか出てこないが)だけでなく、天皇自身も神格化の頸木によって人間性を奪われているのではないかということになる。
この問題は現行の象徴天皇制においても継続していて、皇族・皇室が抱えるさまざまな問題の原点、政治家や官僚によってもたらされる神格化の頸木は戦前と変わっていないことを示唆する。
本作で描かれる天皇は非常に人間的。東京裁判のような戦勝国による一方的な弾劾も歴史観・戦争観もなく、ソクーロフ監督は天皇という存在を歴史の普遍性の視点から人間的に描く。イッセー尾形も昭和天皇の仕草を物真似ではなく、人物としてよく捉えている。
非常にデリケートな題材の映画だが、政治やイデオロギーを離れ、日本人の立場を忘れて観るべき。 (評価:3)

ツォツィ
日本公開:2007年4月14日
監督:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 脚本:ギャヴィン・フッド 撮影:ランス・ギューワー 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー
アカデミー外国語映画賞
原題"Tsotsi"で、不良の意の南アフリカのスラング、主人公の少年の通称。アソル・フガードの同名小説が原作。
南アフリカの首都ヨハネスブルグのスラムが舞台で、ツォツィ(プレスリー・チュエニヤハエ)は仲間と強盗を働いて生活費を稼いでいるワル。
電車内の強盗でブッチャー(ゼンゾ・ングコベ)が不必要に被害者を殺してしまったことから口論となり、仲間割れ。単独で邸に帰宅する金持ち女を襲い、車を奪って逃走する。
ヨハネスブルグでは警備員付きの家に住まないと安心して暮らせないという治安の悪さを描くプロローグで、南アには絶対に行きたくないという気にさせる。
そんなツォツィが車の中に女の赤ん坊を見出し、なぜか連れ帰って育てるというのが本作の最大のミソで、育て方もわからずに新聞紙をオムツに、大きな紙袋を揺籠とし、同じスラムに住む乳児を抱えた女の家に押し入って母乳を与えさせる。
スラムの外には土管で暮らす浮浪児たちがコミュニティを作っていて、訪れたツォツィは土管の一つを指して、それがかつては自分の寝床だったと言う。
ツォツィの幼少時代がフラッシュバックされ、DVな父が愛犬を片端にし、スラムの家を飛び出した経緯から、ツォツィが親の愛に恵まれなかった自分の過去を赤ん坊に投影し、その代償として愛情を注ごうとしていることがわかる。
スラムの女から子供を失った母親の悲しみを諭され、ツォツィが邸に子供を返しに行くのがラストシーン。 スラム育ちの殺伐とした不良少年が、人間の心を取り戻していく物語となっているが、だからといって南アに行きたくないと思う気持ちは変わらない。
ツォツィが駅で鉱山事故で下半身が麻痺した乞食とトラブルになり、愛犬を思い出して彼の寝床まで追いかけていくシーンがあるが、なぜ片端になっても生き続けるのかという問いに対し、太陽の暖かさを感じたいからだと答える男(ジェリー・モフォケン)が味のある演技。
どのような境遇にあっても希望を見出すことの大切さが伝わってくる佳作となっている。 (評価:3)

ミュンヘン
日本公開:2006年2月4日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ、バリー・メンデル、コリン・ウィルソン 脚本:トニー・クシュナー、エリック・ロス 撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題"Munich"で邦題の意。英語発音はミューニック。ジョージ・ジョナスのノンフィクション小説"Vengeance"(報復)が原作。
1972年ミュンヘンオリンピックのテロ事件と、それに続くイスラエル政府に組織されたテロチーム5人によるパレスチナ過激派・黒い九月幹部11人の暗殺作戦を描く。
本作は2001年アメリカ同時多発テロ事件後に製作されたもので、アメリカ政府のアルカイダ報復宣言に対する、スピルバーグの「報復は報復しか生まない」「政府の話を鵜呑みにするな」というメッセージともいえる作品になっている。
実話がベースながら、スパイ映画を見ているような趣きがあり、事実は小説よりも奇なりを地で行く。
ユダヤ系アメリカ人のスピルバーグは、イスラエルとアラブの対立を中立的に描いていて、どちらにも組していない。冒頭、テロを起こしたパレスチナの政治声明を伝え、一方、リーダー・アヴナー(エリック・バナ)に作戦命令を下す被害者側のイスラエル首相メイアの冷酷ぶりも描く。メイアの描写はとても文明国の首相とは思えないもので、国家指導者である彼女の非人間性を際立たせている。
むしろ暗殺される側の人間の方が人間的で知的にさえ見え、ユダヤ人に奪われた土地に自分たちの国を建設したいというパレスチナ人の立場を説明して、ユダヤ人の独善と非道を感じさせもする。
それにシンクロするのがアヴナーらテロチームで、暗殺のために国家から切り離されているにも拘らず、ベイルートではイスラエル軍の作戦に協力するように求められ、アヴナーが反発し、テロチームもまたパレスチナ人同様にイスラエル政府の被害者に映る。
実際、テロチームはアラブ側のブラックリストに載って3人が暗殺され、アヴナーも恐怖に慄くことになる。
アヴナーへの情報提供者ルイとその組織がCIAと繋がっていて、世界の諜報機関が背景にいることを示唆するが今一つはっきりせず、アヴナー自身、政府に利用されているだけと作戦の正当性に疑問を持ち始めて物語は終わる。
大義と翻弄される個人、国家と利用される個人を対比させるが、複雑なパレスチナ問題がテーマなだけに結論の出ない印象を受ける。
テロチームの自動車係にダニエル・クレイグ、モサド幹部にジェフリー・ラッシュ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2005年7月9日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:リック・マッカラム 脚本:ジョージ・ルーカス 撮影:デヴィッド・タッターサル 美術:ギャビン・ボケ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:8位
夏休みの宿題を一日で片付けるような伏線の解消
原題"Star Wars: Episode III Revenge of the Sith"で、副題はシスの復讐の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第6作。時系列のエピソード3。
クローン戦争から3年。パルパティーン議長(イアン・マクダーミド)が独立派に捕まり、オビ=ワン(ユアン・マクレガー)とアナキン(ヘイデン・クリステンセン)が救出に向かうというのがプロローグで、艦隊との戦闘シーンはスピーディで迫力があるが、旗艦内に潜入してからのライトセイバーでのドゥークー伯爵(クリストファー・リー)との戦いは、クリストファー・リーが老齢でアクションが無理なのか、強そうな割にあっさり死んでしまう。
パドメ(ナタリー・ポートマン)の妊娠がわかってからはアナキンがダークサイドに落ちるだけの物語で、予定調和とはいえ強引な展開で、アナキンが詐欺師の口車に乗っているだけの阿呆にしか見えない。
旧3部作の前日譚としてアナキンがダースベイダーとなり、パドメがルークとレイアを産み、共和国とジェダイが滅んでヨーダが辺境に逃れ、チューバッカも顔を見せ、オビ=ワンに敗れたダースベイダーが生命維持装置で甦るまでが描かれ、一気に伏線が解消されるが、後半はバタバタと一日で夏休みの宿題を片付けるやっつけ仕事のようなところがあって、急展開というには急すぎる無理矢理なストーリー運び。
共和国の兵士たちがオセロゲームのように一気にシスに寝返り、独裁体制を敷くのを議会が翼賛してしまうのも、相当に無理がある。
最大の見せ場は、オビ=ワンとダースベイダーの一騎打ちだが、ビデオゲームの溶岩ステージを戦っているマリオみたいで、スター・ウォーズの真髄はライトセイバーのチャンバラなのだから、エピソード1のダース・モールとの戦いくらいの殺陣が欲しかった。
アナキンの予知夢は自らが招いた結果という悲劇性も、よく伝わっていない。 (評価:2.5)

日本公開:2005年7月9日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:リック・マッカラム 脚本:ジョージ・ルーカス 撮影:デヴィッド・タッターサル 美術:ギャビン・ボケ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:8位
原題"Star Wars: Episode III Revenge of the Sith"で、副題はシスの復讐の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第6作。時系列のエピソード3。
クローン戦争から3年。パルパティーン議長(イアン・マクダーミド)が独立派に捕まり、オビ=ワン(ユアン・マクレガー)とアナキン(ヘイデン・クリステンセン)が救出に向かうというのがプロローグで、艦隊との戦闘シーンはスピーディで迫力があるが、旗艦内に潜入してからのライトセイバーでのドゥークー伯爵(クリストファー・リー)との戦いは、クリストファー・リーが老齢でアクションが無理なのか、強そうな割にあっさり死んでしまう。
パドメ(ナタリー・ポートマン)の妊娠がわかってからはアナキンがダークサイドに落ちるだけの物語で、予定調和とはいえ強引な展開で、アナキンが詐欺師の口車に乗っているだけの阿呆にしか見えない。
旧3部作の前日譚としてアナキンがダースベイダーとなり、パドメがルークとレイアを産み、共和国とジェダイが滅んでヨーダが辺境に逃れ、チューバッカも顔を見せ、オビ=ワンに敗れたダースベイダーが生命維持装置で甦るまでが描かれ、一気に伏線が解消されるが、後半はバタバタと一日で夏休みの宿題を片付けるやっつけ仕事のようなところがあって、急展開というには急すぎる無理矢理なストーリー運び。
共和国の兵士たちがオセロゲームのように一気にシスに寝返り、独裁体制を敷くのを議会が翼賛してしまうのも、相当に無理がある。
最大の見せ場は、オビ=ワンとダースベイダーの一騎打ちだが、ビデオゲームの溶岩ステージを戦っているマリオみたいで、スター・ウォーズの真髄はライトセイバーのチャンバラなのだから、エピソード1のダース・モールとの戦いくらいの殺陣が欲しかった。
アナキンの予知夢は自らが招いた結果という悲劇性も、よく伝わっていない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2006年5月13日
監督:ジョージ・クルーニー 製作:グラント・ヘスロヴ 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ 撮影:ロバート・エルスウィット
キネマ旬報:8位
始終スパスパして煙だらけなのが息苦しい
原題"Good Night, and Good Luck."は、CBSのニュースキャスター、エドワード・R・マローが、ニュース番組"See It Now"の締めにいうフレーズで、実話を基にした作品。
1950年代、マッカーシー旋風の吹き荒れるアメリカ。スポンサー・代理店の意向を汲んで沈黙するテレビ局で、これに勇気を持って異を唱えた番組スタッフの物語。姉が共産主義者と疑われた空軍士官が解雇された事件をきっかけに、テレビ局経営陣に反対されながらも反マッカーシー報道を続け、マッカーシー派に勝利するまでを描く。
業界パーティでのスピーチから始まり、マッカーシー旋風を振り返るという形式で、スピーチの最後を"Good Night, and Good Luck."で締めるという、映画そのものを"See It Now"の枠に落とし込んでいる。当時をドキュメンタリー風に再現するためにモノクロで撮影され、シナリオ・演出ともに手堅い作りで安心して見ていられる作品。
もっとも、"See It Now"のスポンサーの一つがケントで、煙草を片手にマローが斜に構え、ダンディを気取る。スタジオも調整室も始終スパスパして煙だらけなのが息苦しく、嫌煙家には不快に思えるかもしれない。
マローがニコリともせず、プライベートな描写も一切なく、テレビヒーローのような生活感のない正義漢なのが、マッカーシズムとは反対に教条主義的。日本の戦中の左翼弾圧映画を見ているような重苦しさがある。
マローがスピーチの最後に、娯楽を提供するだけならテレビという箱に価値はないと報道の重要さを説くが、日米ともにテレビが急速に衰退している現状で、生き残りに悪戦苦闘しているテレビ関係者が自らの存在価値について考えるために改めて観た方が良い作品。 (評価:2.5)

日本公開:2006年5月13日
監督:ジョージ・クルーニー 製作:グラント・ヘスロヴ 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ 撮影:ロバート・エルスウィット
キネマ旬報:8位
原題"Good Night, and Good Luck."は、CBSのニュースキャスター、エドワード・R・マローが、ニュース番組"See It Now"の締めにいうフレーズで、実話を基にした作品。
1950年代、マッカーシー旋風の吹き荒れるアメリカ。スポンサー・代理店の意向を汲んで沈黙するテレビ局で、これに勇気を持って異を唱えた番組スタッフの物語。姉が共産主義者と疑われた空軍士官が解雇された事件をきっかけに、テレビ局経営陣に反対されながらも反マッカーシー報道を続け、マッカーシー派に勝利するまでを描く。
業界パーティでのスピーチから始まり、マッカーシー旋風を振り返るという形式で、スピーチの最後を"Good Night, and Good Luck."で締めるという、映画そのものを"See It Now"の枠に落とし込んでいる。当時をドキュメンタリー風に再現するためにモノクロで撮影され、シナリオ・演出ともに手堅い作りで安心して見ていられる作品。
もっとも、"See It Now"のスポンサーの一つがケントで、煙草を片手にマローが斜に構え、ダンディを気取る。スタジオも調整室も始終スパスパして煙だらけなのが息苦しく、嫌煙家には不快に思えるかもしれない。
マローがニコリともせず、プライベートな描写も一切なく、テレビヒーローのような生活感のない正義漢なのが、マッカーシズムとは反対に教条主義的。日本の戦中の左翼弾圧映画を見ているような重苦しさがある。
マローがスピーチの最後に、娯楽を提供するだけならテレビという箱に価値はないと報道の重要さを説くが、日米ともにテレビが急速に衰退している現状で、生き残りに悪戦苦闘しているテレビ関係者が自らの存在価値について考えるために改めて観た方が良い作品。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ、オーストラリア
日本公開:2005年10月22日
監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:ロバート・ゼメキス、ジョエル・シルバー、スーザン・レヴィン、L・レヴィン 脚本:チャド・ヘイズ、ケイリー・ヘイズ 撮影:スティーヴン・F・ウィンドン 音楽:ジョン・オットマン
不気味な蝋人形の町で蝋人形館が溶ける様は圧巻
原題は"House of Wax"。チャールズ・ベルデンの戯曲"The Wax Works"が原案だが、ストーリーはオリジナル。ベルデンの戯曲を基にした映画は、1933年『肉の蝋人形』(Mystery of the Wax Museum)、1953年『肉の蝋人形』(House of Wax)がある。
物語は、若者たちがフットボールの観戦に向かう途中で野宿していると、何者かの嫌がらせを受け、近くの蝋人形館のある町で惨劇に巻き込まれるというもの。主役ではないがパリス・ヒルトンも出演していて、それだけでもB級感たっぷりだが、意外と楽しめる。
町はテーマパークのように蝋人形ばかりで、可愛い女の子、エリシャ・カスバートが静寂の町を歩くだけでゾクゾクする。エリシャ・カスバートは『24』ではジャック・バウアーの娘キム役。 教会や映画館にいる蝋人形が不気味で良い。蝋人形館は建物も内装も蝋でできていて、火が出て人形も壁も階段もベッドも何もかも溶け出していくさまが圧巻で、最大の見どころ。
蝋人形館の兄弟は『24』のジャック並みに不死身で、矢で射抜かれたくらいではビクともしない。残酷シーンも派手で15禁となっているが、エリシャ・カスバートがハサミで指を切断されるシーンは、主役の女の子は無事生還させて傷つけないというホラーのお約束事を外している。 (評価:2.5)

日本公開:2005年10月22日
監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:ロバート・ゼメキス、ジョエル・シルバー、スーザン・レヴィン、L・レヴィン 脚本:チャド・ヘイズ、ケイリー・ヘイズ 撮影:スティーヴン・F・ウィンドン 音楽:ジョン・オットマン
原題は"House of Wax"。チャールズ・ベルデンの戯曲"The Wax Works"が原案だが、ストーリーはオリジナル。ベルデンの戯曲を基にした映画は、1933年『肉の蝋人形』(Mystery of the Wax Museum)、1953年『肉の蝋人形』(House of Wax)がある。
物語は、若者たちがフットボールの観戦に向かう途中で野宿していると、何者かの嫌がらせを受け、近くの蝋人形館のある町で惨劇に巻き込まれるというもの。主役ではないがパリス・ヒルトンも出演していて、それだけでもB級感たっぷりだが、意外と楽しめる。
町はテーマパークのように蝋人形ばかりで、可愛い女の子、エリシャ・カスバートが静寂の町を歩くだけでゾクゾクする。エリシャ・カスバートは『24』ではジャック・バウアーの娘キム役。 教会や映画館にいる蝋人形が不気味で良い。蝋人形館は建物も内装も蝋でできていて、火が出て人形も壁も階段もベッドも何もかも溶け出していくさまが圧巻で、最大の見どころ。
蝋人形館の兄弟は『24』のジャック並みに不死身で、矢で射抜かれたくらいではビクともしない。残酷シーンも派手で15禁となっているが、エリシャ・カスバートがハサミで指を切断されるシーンは、主役の女の子は無事生還させて傷つけないというホラーのお約束事を外している。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2005年11月12日
監督:ウォルター・サレス 製作:ダグ・デイヴィソン、ロイ・リー、ビル・メカニック 脚本:ラファエル・イグレシアス 撮影:アフォンソ・ビアト 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
日本的情念よりも怪事件の科学性を担保するアメリカ版
原題"Dark Water"。『仄暗い水の底から』(2002)のリメイク。鈴木光司の同名小説が原作。
主演の母親役にジェニファー・コネリー、監督に『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)のウォルター・サレスという力の入った作品。
『フェノミナ』(1985)で、恐怖に怯える14歳の美少女を演じたジェニファーのホラー・ヒロインは健在で、34歳となって恐怖に顔を歪めるジェニファーの美貌が最大の見どころ。
原作品では、身代りとなった母の思い出として成長した娘が過去を語るが、本作では母親に遺棄された娘が娘を持つ母となって恐怖の体験をするという設定に入れ替わっている。
このため、母の犠牲愛で締めくくる原作品の印象は弱くなっていて、精神を病んだ母娘の幻覚かもしれないという合理的解釈の余地を残し、幽霊=悪魔というキリスト教の宗教観を回避するシナリオになっている。
舞台設定も現実的で、離婚調停中の母がアパート代の安いルーズベルト島のオンボロアパートに引っ越す。このため築30年で給水塔が屋上にあり、配水管が老朽化していて、不良少年たちが巣食っているという怪事件の科学性を担保している。 (評価:2.5)

日本公開:2005年11月12日
監督:ウォルター・サレス 製作:ダグ・デイヴィソン、ロイ・リー、ビル・メカニック 脚本:ラファエル・イグレシアス 撮影:アフォンソ・ビアト 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
原題"Dark Water"。『仄暗い水の底から』(2002)のリメイク。鈴木光司の同名小説が原作。
主演の母親役にジェニファー・コネリー、監督に『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)のウォルター・サレスという力の入った作品。
『フェノミナ』(1985)で、恐怖に怯える14歳の美少女を演じたジェニファーのホラー・ヒロインは健在で、34歳となって恐怖に顔を歪めるジェニファーの美貌が最大の見どころ。
原作品では、身代りとなった母の思い出として成長した娘が過去を語るが、本作では母親に遺棄された娘が娘を持つ母となって恐怖の体験をするという設定に入れ替わっている。
このため、母の犠牲愛で締めくくる原作品の印象は弱くなっていて、精神を病んだ母娘の幻覚かもしれないという合理的解釈の余地を残し、幽霊=悪魔というキリスト教の宗教観を回避するシナリオになっている。
舞台設定も現実的で、離婚調停中の母がアパート代の安いルーズベルト島のオンボロアパートに引っ越す。このため築30年で給水塔が屋上にあり、配水管が老朽化していて、不良少年たちが巣食っているという怪事件の科学性を担保している。 (評価:2.5)

チャーリーとチョコレート工場
日本公開:2005年9月10日
監督:ティム・バートン 製作:ブラッド・グレイ、リチャード・D・ザナック 脚本:ジョン・オーガスト 撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ダニー・エルフマン 美術:アレックス・マクダウェル
原題は"harlie and the Chocolate Factory"で邦題の意。ロアルド・ダールの同名児童小説(邦題は『チョコレート工場の秘密』)が原作で2回目の映画化。
ほぼ原作に忠実で、チョコレート工場を経営するオーナー(ジョニー・デップ)が、後継者を探すためにチョコレートに5枚のゴールデンチケットを忍ばせて売る。5人の子供が工場見学に招待され、オーナーの審査を経て貧困家庭のやさしい子供チャーリーが選ばれる。
オーナーのウォンカは子供の頃家族愛に恵まれず、チャーリーによって家族愛を取り戻すという、子供向けのよくあるテーマ。
残り4人の子供は我儘、強欲、不遜、怠惰、強情といった負の面を代表していて、チャーリーの家族への思いやりと対比させる。
本作の見どころは、ダールらしい辛辣なエピソードの面白さにあって、ティム・バートンは5人の子供のキャスティングを含めて、うまく映像的に表現している。
とりわけ、チョコレート工場という子供にとっての夢の世界を極彩色のセットによって魅力あるものとしていて、見ていて美味しい。チョコレートの流れる川や滝、チョコレートに加えるクリームや果物、ゼリーといったものがお菓子の国のファンタジーを盛り上げる。
全体には子供向けのファンタジーだが、『2001年宇宙の旅』のモノリスのパロディもあったりして、大人でも楽しめる内容になっている。
チャーリーの母にヘレナ・ボナム=カーター、ウォンカの父にクリストファー・リー。ジョーおじいちゃんのデイビット・ケリーがいい味を出していて、ガム噛み少女アナソフィア・ロブが生意気でいい。 (評価:2.5)

皇帝ペンギン
日本公開:2005年7月16日
監督:リュック・ジャケ 製作:イヴ・ダロンド、クリストフ・リウー、エマニュエル・プリウー 脚本:リュック・ジャケ、ミシェル・フェスレール 撮影:ロラン・シャレ、ジェローム・メゾン 音楽:エミリー・シモン
原題"La Marche de l'empereur"で、皇帝の散歩の意。
南極に棲む皇帝ペンギンの生態を追ったドキュメンタリーで、海から上がって営巣地に向かう皇帝ペンギンの行進、求愛、産卵、雄による抱卵と雌の餌探し、雛の誕生、雌の帰巣、雄の海への帰還、集団保育、雛の巣立ちまでの1年間が描かれる。
営巣地に向かって延々と続く皇帝ペンギンの行進、ブリザードの中で抱卵中の雄の大集団が身を寄せ合って寒さを凌ぐ姿、寒さと外敵に命を奪われる雛たちの運命など、極寒の自然と闘うペンギンたち同様、これをフィルムに収めたスタッフの苦労が偲ばれる。
ユーモラスで可愛らしいペンギンたちの姿と営巣の貴重な映像は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞に相応しい出来なのだが、これにミソを付けているのが如何にもなフランス映画のセンスで、BBCならばペンギンたちの記録を淡々と綴るところを、フランス人はポエムにしてしまう。
しかもフランス人の大好きなジュテームにしてしまうのが何とも興ざめで、会話調の男声ナレーションと女声ナレーションの甘い囁きの交換が延々と続く。雛が誕生してからはこれに子供のナレーションが入り、愛のドラマを盛り上げるが、ドキュメンタリーでもペンギンを擬人化してドラマにしなければ済まないフランス人のメンタリティがマイナス40℃よりも寒い。
これに輪をかけるのが音楽で、エミリー・シモンの安っぽい歌など入れない方が良かった。
アカデミー賞を受賞したアメリカ公開版はオリジナル版のナレーションを削除して、モーガン・フリーマンがドキュメンタリーに相応しいナレーションをつけたもの。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2006年9月30日
監督:ベネット・ミラー 製作:キャロライン・バロン、マイケル・オホーヴェン、ウィリアム・ヴィンス 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 音楽:マイケル・ダナ
キネマ旬報:7位
冷血だったのはカポーティかと、もやもやとすっきりしない
原題"Capote"でアメリカの作家トルーマン・カポーティのこと。代表作のノンフィクション小説『冷血』を取材・執筆する過程を描いた、ジェラルド・クラークの同名伝記が原作。
カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー主演男優賞を受賞したが、ホフマンの演技が最大の見どころとなっている。
1959年、カンザス州の片田舎で一家惨殺事件が起き、興味を持ったカポーティが『アラバマ物語』の作家ハーパー・リーをアシスタントに取材を始める。殺人犯2人が逮捕されるが、その一人ペリー・スミスに心惹かれ、彼のために弁護士を雇うものの結局死刑になる。
この過程は『冷血』に詳しいが、映画では事件経過と並行してカポーティと死刑囚との関係に視点を置いて描いていく。
ただ、この間のとりわけカポーティの心理がわかりにくく、助命のためにカポーティの取材に協力する死刑囚に対し、カポーティと死刑囚との関係性の変化にすっきりしないものが残る。死刑囚はカポーティの支援を得るためにどちらが主犯だったかを明かさず、これが書名と内容を明かさないカポーティとの間の駆け引きとなるが、最後にカポーティが真実を手にする。
助命が叶わなくなった時、"And there wasn't anything I could have done to save them."(ぼくにやれることはもうない)というカポーティに対し、死刑囚が"Maybe not. But the fact is, you didn't want to."(そうかもしれない。でも、本当は君はそれを望んでいなかったんだ)と答え、小説を書くために死刑囚が死ぬことを望んでいたカポーティの冷血(cold blood)を告発する。
冒頭、パーティでカポーティが"Jimmy, your novel's about a Negro homosexual who's in love with a Jew -- wouldn't you call that a problem?"(君の小説は、ユダヤ人と恋愛するニグロのホモのことを書いているだよ──それで問題ないというのか?)とジョークを言うシーンがあり、インディアンとの混血である死刑囚への潜在的な差別意識を印象付けるが、結局のところ彼が死刑囚のことをどう考えていたのか最後までわからない。
それでもカポーティは死刑囚の望みで死刑に立ち会い、それが小説の書けなくなった理由であることを示唆する。
題材もあって最後まで面白く見られるが、最後はもやもやしたものが残ってすっきりしない。 (評価:2.5)

日本公開:2006年9月30日
監督:ベネット・ミラー 製作:キャロライン・バロン、マイケル・オホーヴェン、ウィリアム・ヴィンス 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 音楽:マイケル・ダナ
キネマ旬報:7位
原題"Capote"でアメリカの作家トルーマン・カポーティのこと。代表作のノンフィクション小説『冷血』を取材・執筆する過程を描いた、ジェラルド・クラークの同名伝記が原作。
カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー主演男優賞を受賞したが、ホフマンの演技が最大の見どころとなっている。
1959年、カンザス州の片田舎で一家惨殺事件が起き、興味を持ったカポーティが『アラバマ物語』の作家ハーパー・リーをアシスタントに取材を始める。殺人犯2人が逮捕されるが、その一人ペリー・スミスに心惹かれ、彼のために弁護士を雇うものの結局死刑になる。
この過程は『冷血』に詳しいが、映画では事件経過と並行してカポーティと死刑囚との関係に視点を置いて描いていく。
ただ、この間のとりわけカポーティの心理がわかりにくく、助命のためにカポーティの取材に協力する死刑囚に対し、カポーティと死刑囚との関係性の変化にすっきりしないものが残る。死刑囚はカポーティの支援を得るためにどちらが主犯だったかを明かさず、これが書名と内容を明かさないカポーティとの間の駆け引きとなるが、最後にカポーティが真実を手にする。
助命が叶わなくなった時、"And there wasn't anything I could have done to save them."(ぼくにやれることはもうない)というカポーティに対し、死刑囚が"Maybe not. But the fact is, you didn't want to."(そうかもしれない。でも、本当は君はそれを望んでいなかったんだ)と答え、小説を書くために死刑囚が死ぬことを望んでいたカポーティの冷血(cold blood)を告発する。
冒頭、パーティでカポーティが"Jimmy, your novel's about a Negro homosexual who's in love with a Jew -- wouldn't you call that a problem?"(君の小説は、ユダヤ人と恋愛するニグロのホモのことを書いているだよ──それで問題ないというのか?)とジョークを言うシーンがあり、インディアンとの混血である死刑囚への潜在的な差別意識を印象付けるが、結局のところ彼が死刑囚のことをどう考えていたのか最後までわからない。
それでもカポーティは死刑囚の望みで死刑に立ち会い、それが小説の書けなくなった理由であることを示唆する。
題材もあって最後まで面白く見られるが、最後はもやもやしたものが残ってすっきりしない。 (評価:2.5)

バットマン ビギンズ
日本公開:2005年6月18日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:ラリー・J・フランコ、チャールズ・ローヴェン、エマ・トーマス 脚本:クリストファー・ノーラン、デヴィッド・S・ゴイヤー 撮影:ウォーリー・フィスター 美術:ネイサン・クロウリー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード、ハンス・ジマー
原題"Batman Begins"で、バットマン始まるの意。アメリカン・コミック『バットマン』が原作で、クリストファー・ノーラン版「ダークナイト・トリロジー」の第1作。
ブルース・ウェインの少年時代から始まり、蝙蝠との因縁、両親殺害事件、悪の根絶への目覚めとアラスカでの修行、バットスーツとバットモービルの開発秘話、ウェイン邸地下洞窟の発見とバットマン誕生までの前日譚を過不足なく紹介し、ゴッサム・シティの悪の根源マフィアとの対決、幼馴染レイチェルとの関係、ゴードン巡査部長との出会いが描かれる。
オーソドックスながらも簡潔明瞭に良くまとまったリブート第1作で、『バットマン』の世界観と人物像をシリアスに構成し、従来のヒーローものとしての『バットマン』のイメージを一新させた。
ウェインを修行に誘うデュカードは、悪の象徴であるゴッサム・シティの消滅を謀り、ウェインは消滅ではなく善の復権を目指すという、悪に対するそれぞれの考え方の相違が全体のテーマとなり、ひいては『バットマン』の悪について語るときに我々の語ることという、次作以降に繋がるクリストファー・ノーランの考えを明らかにする。
登場からしてバットマンは正統派ヒーローではなく、常に影を背負う存在で、もう一つの影ジョーカーの登場をもって誕生篇を締め括るという、心憎い序章となっている。 (評価:2.5)

アメリカ,家族のいる風景
日本公開:2006年2月18日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:カルステン・ブリュニヒ、イン=アー・リー、ペーター・シュヴァルツコフ 脚本:サム・シェパード 撮影:フランツ・ルスティヒ 音楽:T=ボーン・バーネット
原題"Don't Come Knocking"で、ノックをしに来るなの意。
盛りを過ぎた西部劇の映画スターが、ふと気づいたときに自分を愛してくれる人がいないという孤独を感じ、捨ててきた過去を取り戻そうとして取り戻せないという哀しい男の物語。
初老のハワード(サム・シェパード)が、砂漠の撮影現場を抜け出して最初に向かうのが、もう30年も会っていない母親(エヴァ・マリー・セイント)で、女とギャンブルと麻薬の放蕩な人生を送ってきた自分のスキャンダラスな新聞記事のスクラップブックを見つけ、忘れていた母の愛情に気づく。
母から、モンタナのロケで知り合ったドリーン(ジェシカ・ラング)が身籠って訪ねてきたことを知り、モンタナの町ビュートへ向かう。そこでドリーンに再会するが、自分を捨てたハワードに他人のように接し、突然現れた父親に息子のアール(ガブリエル・マン)は取り乱してしまう。
町には母の骨壺を抱いた娘スカイ(サラ・ポーリー)もやってきていて、ハワードの娘だと名乗り出る。
こうしてハワードは突如現れた家族たちに囲まれ、家族を無視した後悔の念と人生のやり直しを思うが、30年の時間は取り戻せないとドリーンに突き放され、現れた映画の代理人とともに撮影現場に帰っていく。
そこでは、代役とキスはできないと撮影を拒否していた女優が待っていて、ハワードは再び女たちとの愛なき生活に戻る…
映画スターを主人公としたために、全体として類型的で浅薄な印象は拭えず、謎めいたスカイの背景が描かれないのも物足りない。
冒頭、砂漠に出来た自然岩の橋の下を馬に乗ったハワードが抜けていくシーンが印象的だが、その橋に満月に近い月が懸かっているのが凝っている。
原題は、ハワードからと、ハワードに対しての二つの意味がある。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、ドイツ
日本公開:2006年4月29日
監督:ジェームズ・マクティーグ 製作:ジョエル・シルヴァー、アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー、グラント・ヒル 脚本:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ダリオ・マリアネッリ
ナタリー・ポートマンの丸坊主やら何やらすべてがアナーキー
原題"V for Vendetta"で、Vendettaはイタリア語で復讐のこと。Vendetta(復讐)のVの意。アラン・ムーア作、デヴィッド・ロイド画のイギリスの同名コミックが原作。
11月5日のGuy Fawkes Nightに始まる1年間の物語。冒頭、1605年にガイ・フォークスが主犯となった火薬陰謀事件の説明があり、ガイ・フォークスのお面を被ったVが、翌年の11月5日に400年前に成し遂げられなかった国会議事堂を爆破するという物語。
火薬陰謀事件はカトリック教徒によるイングランド国教会の国王ジェームズ1世テロ未遂で、本作の設定はイギリスが全体主義国家となったという近未来が舞台。サトラー(ジョン・ハート)というヒトラーもどきの独裁者がいて、Vはガイ・フォークス同様、地下鉄を利用して国会議事堂をカーニバルの花火のように爆破する。
Vを演じるのはヒューゴ・ウィーヴィングだが、お面を被っているために顔は登場しない。夜間外出禁止令を破った女(ナタリー・ポートマン)が秘密警察に捕まるところを助け、TV局を乗っ取って政府に宣戦布告をしたことから、彼女を巻き込んでしまい、自宅に匿う。政権中枢の司教などを次々と殺し、かつて自分がヒトラーの細菌生体実験の被験者にされていたことを明かし、両親を殺されて恐怖の呪縛に捕らわれていた彼女の精神を解放へと導くというのが大筋。クライマックスは、1年後の11月5日となる。
V自身は彼女らの新世代に未来を託し、自らは旧体制を道連れに滅亡への道をたどるというアナーキーな作品で、単純な勧善懲悪のヒーロー物ではないところがイギリス的。
原作が書かれたのが1980年代で、イギリス病後のサッチャー政権下で労働者やリベラル層が反感を強めていたという時代背景がある。民衆革命とテロリズムを肯定していると受け取られる内容なので、観る場合には注意が必要。
ナタリー・ポートマンが途中で髪を切られて丸坊主になるシーンが最大の見どころだが、これも人によっては不快に感じるかもしれない。映像的には花火のシーンがきれい。 (評価:2.5)

日本公開:2006年4月29日
監督:ジェームズ・マクティーグ 製作:ジョエル・シルヴァー、アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー、グラント・ヒル 脚本:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ダリオ・マリアネッリ
原題"V for Vendetta"で、Vendettaはイタリア語で復讐のこと。Vendetta(復讐)のVの意。アラン・ムーア作、デヴィッド・ロイド画のイギリスの同名コミックが原作。
11月5日のGuy Fawkes Nightに始まる1年間の物語。冒頭、1605年にガイ・フォークスが主犯となった火薬陰謀事件の説明があり、ガイ・フォークスのお面を被ったVが、翌年の11月5日に400年前に成し遂げられなかった国会議事堂を爆破するという物語。
火薬陰謀事件はカトリック教徒によるイングランド国教会の国王ジェームズ1世テロ未遂で、本作の設定はイギリスが全体主義国家となったという近未来が舞台。サトラー(ジョン・ハート)というヒトラーもどきの独裁者がいて、Vはガイ・フォークス同様、地下鉄を利用して国会議事堂をカーニバルの花火のように爆破する。
Vを演じるのはヒューゴ・ウィーヴィングだが、お面を被っているために顔は登場しない。夜間外出禁止令を破った女(ナタリー・ポートマン)が秘密警察に捕まるところを助け、TV局を乗っ取って政府に宣戦布告をしたことから、彼女を巻き込んでしまい、自宅に匿う。政権中枢の司教などを次々と殺し、かつて自分がヒトラーの細菌生体実験の被験者にされていたことを明かし、両親を殺されて恐怖の呪縛に捕らわれていた彼女の精神を解放へと導くというのが大筋。クライマックスは、1年後の11月5日となる。
V自身は彼女らの新世代に未来を託し、自らは旧体制を道連れに滅亡への道をたどるというアナーキーな作品で、単純な勧善懲悪のヒーロー物ではないところがイギリス的。
原作が書かれたのが1980年代で、イギリス病後のサッチャー政権下で労働者やリベラル層が反感を強めていたという時代背景がある。民衆革命とテロリズムを肯定していると受け取られる内容なので、観る場合には注意が必要。
ナタリー・ポートマンが途中で髪を切られて丸坊主になるシーンが最大の見どころだが、これも人によっては不快に感じるかもしれない。映像的には花火のシーンがきれい。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:2006年8月19日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、ギャレス・ワイリー、ルーシー・ダーウィン 脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン
キネマ旬報:10位
半世紀前の映画青年向けのレトロ感が溢れる
ウディ・アレン監督・脚本のおそらく恋愛ミステリー映画。ウディ・アレンの映画は好みが分かれ、個人的には嫌いではないが好きでもない。
本作のテーマを一言でいえば、人生運が大切。ウディ・アレンがそのテーマを彼一流の皮肉で描いたのだとすれば如何にも彼らしいが、それが皮肉でしかないところが悲しい。底が浅い。
テーマのために書かれたシナリオは手慣れてはいるが、これまたウディ・アレンらしく作為的で、あまりに都合のよい筋運びに鼻白む。登場人物が段取りを踏まされているために、前半と後半ではキャラクター性が変化していて、行動に一貫性がない。
主人公は野心満々・打算的なわりに、あまりに不自然なリスクを冒す。金よりも愛に生きる男に見えず、実際そういう結末となるが、キャラクター性が一貫しないのは、シナリオのせいかそれともジョナサン・リース=マイヤーズの演技が下手だということか。愛人となるスカーレット・ヨハンソンはいい女を演じるが、前半の冷静さが後半はヒステリックな女に豹変。
主人公の妻の父親は大企業のオーナーのわりに、あまりにお人好しというかボンクラ。勤める会社と幹部たちもリアリティ不足。ロンドン警視庁の刑事も相当ボンクラな描かれ方で、背景となる設定があまりに稚拙。最後もどこかで観たようなオチで、ミステリー映画としても恋愛映画としても不合格。スカーレット・ヨハンソンの妖艶さが唯一の見どころで、半世紀前の映画青年好みのレトロ感漂う作品。
"Match Point"のタイトルは主人公が元プロテニス選手から来ている。勝利一歩手前の状態を指すが、勝つか負けるかは運次第という、アガシが聞けば怒りそうな作品。 (評価:2)

日本公開:2006年8月19日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、ギャレス・ワイリー、ルーシー・ダーウィン 脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン
キネマ旬報:10位
ウディ・アレン監督・脚本のおそらく恋愛ミステリー映画。ウディ・アレンの映画は好みが分かれ、個人的には嫌いではないが好きでもない。
本作のテーマを一言でいえば、人生運が大切。ウディ・アレンがそのテーマを彼一流の皮肉で描いたのだとすれば如何にも彼らしいが、それが皮肉でしかないところが悲しい。底が浅い。
テーマのために書かれたシナリオは手慣れてはいるが、これまたウディ・アレンらしく作為的で、あまりに都合のよい筋運びに鼻白む。登場人物が段取りを踏まされているために、前半と後半ではキャラクター性が変化していて、行動に一貫性がない。
主人公は野心満々・打算的なわりに、あまりに不自然なリスクを冒す。金よりも愛に生きる男に見えず、実際そういう結末となるが、キャラクター性が一貫しないのは、シナリオのせいかそれともジョナサン・リース=マイヤーズの演技が下手だということか。愛人となるスカーレット・ヨハンソンはいい女を演じるが、前半の冷静さが後半はヒステリックな女に豹変。
主人公の妻の父親は大企業のオーナーのわりに、あまりにお人好しというかボンクラ。勤める会社と幹部たちもリアリティ不足。ロンドン警視庁の刑事も相当ボンクラな描かれ方で、背景となる設定があまりに稚拙。最後もどこかで観たようなオチで、ミステリー映画としても恋愛映画としても不合格。スカーレット・ヨハンソンの妖艶さが唯一の見どころで、半世紀前の映画青年好みのレトロ感漂う作品。
"Match Point"のタイトルは主人公が元プロテニス選手から来ている。勝利一歩手前の状態を指すが、勝つか負けるかは運次第という、アガシが聞けば怒りそうな作品。 (評価:2)

カリートの道 暗黒街の抗争
日本公開:劇場未公開
監督:マイケル・スコット・ブレグマン 製作:マーティン・ブレグマン、マイケル・スコット・ブレグマン 脚本:マイケル・スコット・ブレグマン 撮影:アダム・ホレンダー 音楽:ジョー・デリア
原題"Carlito's Way: Rise to Power"で、カリートの道:力の始まりの意。エドウィン・トレスの同名小説が原作。
『カリートの道』(1993)の前日譚で、窃盗を繰り返すケチなチンピラだったカリートが、刑務所仲間と組んで、麻薬売買のシンジケートを作り、ハーレムを牛耳るイタリア・マフィアを壊滅させるまでを描く。
もっとも結果は、イタリアン・マフィアに代ってハーレムの王となるのではなく、南の島のパラダイス、バルバドス島に行き、恋人と二人で隠遁するという、前作をオマージュする若干肩透かしのラストとなっている。
前作でイタリア系のアル・パチーノが演じたプエルトリコ人のカリート役を、メキシコ系のジェイ・ヘルナンデスが演じていて違和感はないが、カリートが単に成り上がっていく物語に過ぎず、イザコザはあるものの取り立てて劇的なシーンもエピソードもないのがメリハリを欠く。
ヘロイン供給元のイタリア・マフィアをロッコ(マイケル・ケリー)、ハーレムで勢力を二分する黒人マフィアをアール(マリオ・ヴァン・ピーブルズ)が繋ぎ、プエルトリコ人のカリートとの刑務所3人組がハーレムに麻薬販売シンジケートを築くという話で、跳ね返りのアールの弟が悶着を起こしてイタリア・マフィアとの争いに発展するというのが本線。これにカリートとレティシア(ジャクリン・デサンティス)との恋愛話が絡む。
クライマックスとなるのは、カリートが汚職警官を利用して警官隊にイタリア・マフィアを殲滅させるという頭脳戦だが、結果のみで伏線が張られていないために、一段落しないと何が起きたのかわからないという、効果に欠ける演出が恨めしい。 (評価:2)

製作国:ニュージーランド、アメリカ
日本公開:2005年12月17日
監督:ピーター・ジャクソン 製作:ジャン・ブレンキン、キャロリン・カニンガム、ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ 脚本:ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン 撮影:アンドリュー・レスニー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
キネマ旬報:9位
3時間7分に渡るCGアニメのプレゼンは飽きる
キンゴ・コングは何度か映画化されているが、これは1933年版に準拠したリメイク。キングコングや髑髏島の恐竜たちだけでなく背景にふんだんにCGを使い、アカデミー視覚効果賞等を受賞している超豪華版。公表の製作費は2億700万ドル。
俳優以外はほとんどCGで、ジャンル分けをするならば一部実写映像を合成したCGアニメーションというのが正しい。人形アニメーションを使った1933年版とは根本の部分が異なっていて、これをCGアニメーションとして技術的に評価するなら非常によくできている。ただ、これでもかというくらいにCGを見せられると、いささか食傷する。いくら技術的に優れたCGでも3時間もプレゼンを受けるとさすがに飽きる。
髑髏島に到着するまでのドラマも長いし、髑髏島の恐竜やクリーチャーのシーンもコングの存在を忘れてしまうくらいに長い。ようやくコングが出てきて、ああ、これは『キング・コング』の映画だと思い出すくらいに長い。ニューヨークに戻ってからの演出も冗長で、まだエンパイヤステートビルから落ちないのかというくらいに、延々と見せ場を引っ張る。だらだらした見せ場は決して見せ場にならない。『ロード・オブ・ザ・リング』も飽きるほどに長かったが、ピーター・ジャクソンはだらだらした演出と編集が好みなのか。
俳優陣は総じて頑張っている。アクションシーンばかりだが、37歳のナオミ・ワッツが体当たりでコングの恋人を演じている。リメイクはコングに同情的だが、オリジナルのコングの孤独が薄れているのは残念。CGを見るのでなければ、やはり1933年版の方が心にしみる。 (評価:2)

日本公開:2005年12月17日
監督:ピーター・ジャクソン 製作:ジャン・ブレンキン、キャロリン・カニンガム、ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ 脚本:ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン 撮影:アンドリュー・レスニー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
キネマ旬報:9位
キンゴ・コングは何度か映画化されているが、これは1933年版に準拠したリメイク。キングコングや髑髏島の恐竜たちだけでなく背景にふんだんにCGを使い、アカデミー視覚効果賞等を受賞している超豪華版。公表の製作費は2億700万ドル。
俳優以外はほとんどCGで、ジャンル分けをするならば一部実写映像を合成したCGアニメーションというのが正しい。人形アニメーションを使った1933年版とは根本の部分が異なっていて、これをCGアニメーションとして技術的に評価するなら非常によくできている。ただ、これでもかというくらいにCGを見せられると、いささか食傷する。いくら技術的に優れたCGでも3時間もプレゼンを受けるとさすがに飽きる。
髑髏島に到着するまでのドラマも長いし、髑髏島の恐竜やクリーチャーのシーンもコングの存在を忘れてしまうくらいに長い。ようやくコングが出てきて、ああ、これは『キング・コング』の映画だと思い出すくらいに長い。ニューヨークに戻ってからの演出も冗長で、まだエンパイヤステートビルから落ちないのかというくらいに、延々と見せ場を引っ張る。だらだらした見せ場は決して見せ場にならない。『ロード・オブ・ザ・リング』も飽きるほどに長かったが、ピーター・ジャクソンはだらだらした演出と編集が好みなのか。
俳優陣は総じて頑張っている。アクションシーンばかりだが、37歳のナオミ・ワッツが体当たりでコングの恋人を演じている。リメイクはコングに同情的だが、オリジナルのコングの孤独が薄れているのは残念。CGを見るのでなければ、やはり1933年版の方が心にしみる。 (評価:2)

SAYURI
日本公開:2005年12月17日
監督:ロブ・マーシャル 製作:ルーシー・フィッシャー、ダグラス・ウィック、スティーヴン・スピルバーグ 脚本:ロビン・スウィコード、ダグ・ライト 撮影:ディオン・ビーブ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題は"Memoirs of a Geisha"で、同名のアーサー・ゴールデンの小説(邦題は『さゆり』)が原作。期待を裏切らない、いかがわしい内容になっている。
突っ込みどころは満載で、間違いさがしの絵クイズのように、変なところを捜しながら観るというのがこの映画の正しい見方。花柳界のシステムから着付け・行儀作法・舞踊その他、実に楽しめるのだが、それを知らない若い日本人が、この映画で間違った知識を仕入れたらどうしようという老婆心まで抱く。大本営発表のラジオニュースはドイツばかりで、さすがアメリカ映画と思わせるし、進駐軍の軍用機で温泉旅行とスケールもでかい。次は何が飛び出すかとドキドキしながら緊張感を持って観られるので、146分という長さも退屈しない。
観るなら英語版がお薦め。渡辺謙、役所広司、桃井かおり、工藤夕貴の英語は聴きどころだし、日本語ちゃんぽんと、日本語の奇妙な英訳も面白い。
中でも工藤夕貴の熱演は見もの、さゆりの少女時代を演じる大後寿々花が可愛い。アジアン・ビューティ、チャン・ツィイーの背中ヌードも観られるが、ガリガリで肉感的でないのにはがっかりする。 (評価:1.5)

ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女
日本公開: 2006年3月4日
監督:アンドリュー・アダムソン 製作:マーク・ジョンソン 脚本:アンドリュー・アダムソン、クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー、アン・ピーコック 撮影:ドナルド・マカルパイン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
原題は"The Chronicles of Narnia: The Lion, the Witch and the Wardrobe"(ナルニア年代記:ライオンと魔女と衣装ダンス)で、C・S・ルイスのイギリス児童小説"The Lion, the Witch and the Wardrobe"が原作。
ディズニー配給のため基本はファミリー向け。原作は子供のために宗教教育物語で、本作をファンタジーやエンタテイメントと思って見ると手痛い思いをする。
ほぼ原作に沿っているが、宗教的にシンボル化された登場人物やエピソード・会話・教訓のため、ストーリー運びが強引な上にキャラクターの心情が理解できない。ライオンがイエスで、魔女が悪魔、次男坊がユダでラストは磔刑と復活だとわかればそれなりに筋は通るが、それがわかったからといって映画の面白さとは別。
宗教倫理を説かれる割には、サンタさんのクリスマスプレゼントは武器だったりして、最後はCGによるスペクタクル合戦シーンと何ともチグハグ。
本作の最大の欠点は、主人公の子供たちがあまり可愛くないことで、特に主役の二女(ジョージー・ヘンリー)は演技は上手いが可愛さは偏差値20。作品価値は俳優の美醜とは関係ないと建前ではいえるが、『ハリー・ポッター』のエマ・ワトソンと比較すれば、制作者が戦略的に失敗したのは明らか。
子供向けと侮ったか、CDの動物が口筋を動かして話すのは何とも不自然な上に気持ち悪く、クリーチャーのデザインも良くない。特にケンタウルスは胴長過ぎて、馬の頭部に人間が跨っているようにしか見えない。
見どころを挙げるのは難しいが、原作の瀬田貞二訳で魔女のプリンと訳されているゼリー菓子turkish delightが、字幕ではターキッシュ・デライトとなっているのは、原作ファンには注目点。
物語は、第二次世界大戦のロンドン空襲で田舎町に疎開した4人の兄弟姉妹が、屋敷の衣装ダンスが異世界ナルニアへの通路であることを発見。ナルニアは白い魔女に支配されて春の来ない冬が1000年続いていたが、予言された人間の子供たちの到来によって、雪が解け始める。子供たちを捕まえて殺そうと企む魔女と手下。救世主のライオンともども、言葉を話すナルニアの動物たちは子供たちとともに立ち上がる・・・ (評価:1.5)

製作国:アメリカ、カナダ
日本公開:2006年7月29日
監督:ルパート・ウェインライト 製作:ジョン・カーペンター、デブラ・ヒル、デヴィッド・フォスター 脚本:クーパー・レイン 撮影:ネイサン・ホープ 音楽:グレーム・レヴェル
批評以前、ホラー映画にベッドシーンはいらない
ジョン・カーペンターの1980年版のリメイク。ホラー映画として残念なのは、少しも怖くないこと。
序盤からミステリアスな展開なのだが、肝腎の恐怖の理由が説明されないままに話が進むため、何が怖いのかよくわからない。押し寄せる霧が殺人を犯すからこの霧に殺人者が隠れているのだろうと思いつつも、霧の実態はソラリスの海のような有機生命体なのか、亡霊が霧状に分解したものなのかと考え込んで怖さを忘れてしまう。しかも、霧の殺人者は通り魔のようで、なぜ人を襲うのかがわからないので、心理的な恐怖がない。
ホラーの怖さというのは、「怖いぞ怖いぞ」と観客を追い詰めていくところに真髄があり、ストーリーを複雑化させたりミステリーを優先すると、大脳の恐怖を感じる部分が、思考する部分に抑制されて怖さを感じなくなる。ホラー映画を作る時は、大脳生理学をよく学んでおいてほしい。
途中ゾンビやポルターガイストっぽいところもあって、アメリカ人のホラー嗜好について考えているうちにラストを迎えてしまう。女の子がまあまあ可愛いところが救いだが、ベッドシーンはいらない。 (評価:1.5)

日本公開:2006年7月29日
監督:ルパート・ウェインライト 製作:ジョン・カーペンター、デブラ・ヒル、デヴィッド・フォスター 脚本:クーパー・レイン 撮影:ネイサン・ホープ 音楽:グレーム・レヴェル
ジョン・カーペンターの1980年版のリメイク。ホラー映画として残念なのは、少しも怖くないこと。
序盤からミステリアスな展開なのだが、肝腎の恐怖の理由が説明されないままに話が進むため、何が怖いのかよくわからない。押し寄せる霧が殺人を犯すからこの霧に殺人者が隠れているのだろうと思いつつも、霧の実態はソラリスの海のような有機生命体なのか、亡霊が霧状に分解したものなのかと考え込んで怖さを忘れてしまう。しかも、霧の殺人者は通り魔のようで、なぜ人を襲うのかがわからないので、心理的な恐怖がない。
ホラーの怖さというのは、「怖いぞ怖いぞ」と観客を追い詰めていくところに真髄があり、ストーリーを複雑化させたりミステリーを優先すると、大脳の恐怖を感じる部分が、思考する部分に抑制されて怖さを感じなくなる。ホラー映画を作る時は、大脳生理学をよく学んでおいてほしい。
途中ゾンビやポルターガイストっぽいところもあって、アメリカ人のホラー嗜好について考えているうちにラストを迎えてしまう。女の子がまあまあ可愛いところが救いだが、ベッドシーンはいらない。 (評価:1.5)

製作国:イギリス
日本公開:2006年7月15日
監督:ニール・マーシャル 製作:クリスチャン・コルソン 脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 音楽:デヴィッド・ジュリアン
前半アドベンチャー、後半ホラーの怖がらせるだけの作品
原題"The Descent"で、降下・急襲の意。
とにかく観客を怖がらせればそれでいいというよくあるタイプの作品で、前半から意味のないびっくりシーンが随所に入る。
子供たちのラフティングから始まり、何か起きると思わせて何も起きない。その帰りに交通事故を起こし、夫と子供を失ったサラ(シャウナ・マクドナルド)を立ち直らせるために友人6人がアパラチア山脈の洞窟探検に誘う。
ところがリーダー格のジュノ(ナタリー・メンドーサ)が皆を騙して未踏の洞窟に案内するという、目的をはき違えた訳のわからなさで、しかもジュノ以外は未経験者と思しい。
装備だけは一丁前だが、地図も磁石もGSPも持たず、根拠のない勘だけで一人がやっと通れる狭い洞窟を突き進むという無謀さで、セットが妙にリアルだったりするため『インディ・ジョーンズ』のような破天荒で済ませることもできず、絶対にあり得ない設定の何となく冒険映画・・・と思いきや、後半になって突然わけのわからない怪物が登場してホラーに様変わりする。
怪物はゾンビのように人を襲うが、目の退化したホモサピエンスのアルビノらしく、仲間は次々に死亡。怪物との戦いで女ランボー化したサラは、忙しい最中に夫とジュノの浮気を知って彼女を殺害するまでに逞しく成長。一人助かって洞窟を脱出する。
ところが車を止めて休憩すると助手席にジュノがいて、暗転して洞窟で気絶から目覚めると娘の亡霊を見て、すべては夢だったのか? というわけのわからない続編狙いのラスト。
もっとまともなホラー映画を作ってほしいと思わずにはいられない作品。 (評価:1.5)

日本公開:2006年7月15日
監督:ニール・マーシャル 製作:クリスチャン・コルソン 脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 音楽:デヴィッド・ジュリアン
原題"The Descent"で、降下・急襲の意。
とにかく観客を怖がらせればそれでいいというよくあるタイプの作品で、前半から意味のないびっくりシーンが随所に入る。
子供たちのラフティングから始まり、何か起きると思わせて何も起きない。その帰りに交通事故を起こし、夫と子供を失ったサラ(シャウナ・マクドナルド)を立ち直らせるために友人6人がアパラチア山脈の洞窟探検に誘う。
ところがリーダー格のジュノ(ナタリー・メンドーサ)が皆を騙して未踏の洞窟に案内するという、目的をはき違えた訳のわからなさで、しかもジュノ以外は未経験者と思しい。
装備だけは一丁前だが、地図も磁石もGSPも持たず、根拠のない勘だけで一人がやっと通れる狭い洞窟を突き進むという無謀さで、セットが妙にリアルだったりするため『インディ・ジョーンズ』のような破天荒で済ませることもできず、絶対にあり得ない設定の何となく冒険映画・・・と思いきや、後半になって突然わけのわからない怪物が登場してホラーに様変わりする。
怪物はゾンビのように人を襲うが、目の退化したホモサピエンスのアルビノらしく、仲間は次々に死亡。怪物との戦いで女ランボー化したサラは、忙しい最中に夫とジュノの浮気を知って彼女を殺害するまでに逞しく成長。一人助かって洞窟を脱出する。
ところが車を止めて休憩すると助手席にジュノがいて、暗転して洞窟で気絶から目覚めると娘の亡霊を見て、すべては夢だったのか? というわけのわからない続編狙いのラスト。
もっとまともなホラー映画を作ってほしいと思わずにはいられない作品。 (評価:1.5)
