外国映画レビュー──1993年
製作国:アメリカ
日本公開:1994年2月26日
監督:スティーヴン・スピルバーグ、製作:スティーヴン・スピルバーグ、ジェラルド・R・モーレン、ブランコ・ラスティグ 脚本:スティーヴン・ザイリアン 撮影:ヤヌス・カミンスキー 美術:アラン・スタルスキ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:6位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
美談だが、ユダヤ人の恐怖感、絶望感が圧倒的に迫る
原題"Schindler's List"。トーマス・キニーリーの実話を基にした小説"Schindler's Ark"(シンドラーの箱船)が原作。
ドイツ占領下のポーランド、クラクフが舞台。安価な労働力としてユダヤ人を雇用して軍需工場で一儲けを企てたナチ党員のシンドラーが、次第に人道主義に目覚め、絶滅収容所送りになるユダヤ人1200名を新たに入手したチェコの軍需工場に送り、終戦によって彼らの命を救うという物語。収容所長に提出した1200名の雇用者名簿が映画のタイトルとなっていて、原題は洪水から生命を守ったノアの箱舟から。
作品としては美談以上のものはなく、ソ連軍の侵攻によってプワシュフ収容所の解体が余儀なくされるなど戦況悪化の背景がほとんど描かれない。史実との細かい相違はともかく、美談に見せるための終盤の脚色は若干鼻につくが、ゲットーのユダヤ人が生死の狭間におかれた恐怖感、絶望感が説得力を持って描かれ、ユダヤ人であるスピルバーグ自身の生理感覚となって迫ってくる。
過去のシーンはモノクロ映像で、蝋燭と女の子の赤い服だけがパートカラーとして描かれるのは、黒澤明『天国と地獄』同様に効果的で、公開時にスクリーンで見た時も命の儚さが印象深かった。
とりわけハンティングのようにライフルでユダヤ人を狙い撃つ収容所長(レイフ・ファインズ)が、一方でメイドのユダヤ女に屈折した愛情を抱き、それでもユダヤ人は黒死病の鼠と同類だと忌み嫌う姿が、当時のナチズムに洗脳されたドイツ人の実像として上手く描かれている。
片腕のユダヤ人会計士(ベン・キングスレー)が、心を許さずもシンドラー(リーアム・ニーソン)を取り込んでいく演技が上手い。
数あるホロコーストものの中でも傑出した作品で、3時間15分を長く感じさせない演出力は見事。
アカデミー作品賞のほか、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞を受賞。 (評価:4)
日本公開:1994年2月26日
監督:スティーヴン・スピルバーグ、製作:スティーヴン・スピルバーグ、ジェラルド・R・モーレン、ブランコ・ラスティグ 脚本:スティーヴン・ザイリアン 撮影:ヤヌス・カミンスキー 美術:アラン・スタルスキ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:6位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題"Schindler's List"。トーマス・キニーリーの実話を基にした小説"Schindler's Ark"(シンドラーの箱船)が原作。
ドイツ占領下のポーランド、クラクフが舞台。安価な労働力としてユダヤ人を雇用して軍需工場で一儲けを企てたナチ党員のシンドラーが、次第に人道主義に目覚め、絶滅収容所送りになるユダヤ人1200名を新たに入手したチェコの軍需工場に送り、終戦によって彼らの命を救うという物語。収容所長に提出した1200名の雇用者名簿が映画のタイトルとなっていて、原題は洪水から生命を守ったノアの箱舟から。
作品としては美談以上のものはなく、ソ連軍の侵攻によってプワシュフ収容所の解体が余儀なくされるなど戦況悪化の背景がほとんど描かれない。史実との細かい相違はともかく、美談に見せるための終盤の脚色は若干鼻につくが、ゲットーのユダヤ人が生死の狭間におかれた恐怖感、絶望感が説得力を持って描かれ、ユダヤ人であるスピルバーグ自身の生理感覚となって迫ってくる。
過去のシーンはモノクロ映像で、蝋燭と女の子の赤い服だけがパートカラーとして描かれるのは、黒澤明『天国と地獄』同様に効果的で、公開時にスクリーンで見た時も命の儚さが印象深かった。
とりわけハンティングのようにライフルでユダヤ人を狙い撃つ収容所長(レイフ・ファインズ)が、一方でメイドのユダヤ女に屈折した愛情を抱き、それでもユダヤ人は黒死病の鼠と同類だと忌み嫌う姿が、当時のナチズムに洗脳されたドイツ人の実像として上手く描かれている。
片腕のユダヤ人会計士(ベン・キングスレー)が、心を許さずもシンドラー(リーアム・ニーソン)を取り込んでいく演技が上手い。
数あるホロコーストものの中でも傑出した作品で、3時間15分を長く感じさせない演出力は見事。
アカデミー作品賞のほか、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞を受賞。 (評価:4)
ジュラシック・パーク
日本公開:1993年7月17日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:キャスリーン・ケネディ、ジェラルド・R・モーレン 脚本:マイケル・クライトン、デヴィッド・コープ 撮影:ディーン・カンディ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題は"Jurassic Park"でジュラ紀公園の意。マイケル・クライトンの同名小説が原作。
アカデミーはおろかキネ旬ベスト10にかすりもしなかったお子様向け超娯楽作。公開時を含め何度か見て、今回改めて観直してみて、やはり面白い。ストーリーもシーンもすっかり頭に入っているのに、恐竜のCG、スリル、展開にハラハラドキドキする。
琥珀に閉じ込められたジュラ紀の蚊の血液から恐竜の遺伝子を取り出し、ジュラシック・パークの島をつくる。そんな夢物語があれば子供だけでなく大人だって行ってみたくなる。大人が純粋に子供の気持ちになれる。それが恐竜で、この映画は少年と少年の心を失っていない大人のための映画。映画評論的にいえば他愛のないサスペンス娯楽作だが、作品的価値はほかの秀作を超えていく。
映画的には生命科学に対する人間の驕りと不遜をテーマにしているが、恐竜を再生させて見てみたいという夢が遥かに凌ぎ、製作当時としては格段のCGでその夢を実現した。主人公たちがティラノサウルス、トリケラトプスに感動する気持ちがそのまま伝わってくる。アカデミー視覚効果賞受賞。 (評価:3.5)
製作国:オーストラリア
日本公開:1994年2月12日
監督:ジェーン・カンピオン 製作:ジェーン・チャップマン 製作総指揮:アラン・ドパルデュー 脚本:ジェーン・カンピオン 撮影:スチュアート・ドライバーグ 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール
エイダが鍵盤に書いた愛のメッセージは、ジョージには読めない
原題は"The Piano"。
時代設定はビクトリア朝の頃で、スコットランドの子持ち女エイダが買われるようにしてニュージーランドの入植者の男スチュワートに嫁ぐ。未婚の母の上に唖というハンディキャップがあり、貰ってくれる男がいるだけマシ。唖の女の表現手段となるのがピアノだが、夫はそれを上陸した浜に置き去りにしてしまう。
彼女の心を理解したのが隣に住む入植者のジョージ・ベインズで、マオリ族とも同化して顔に入れ墨している。しかし無教養な上に文盲で、女は初め彼を蔑むが、彼が自分の土地と引き換えにピアノを買い、レッスンと称して女を通わせようとする。
嫌がる女に黒鍵をチケット代わりにしてレッスン1回につき1個を返すというアイディアが面白い。チケット2枚で上着を脱がせてお触り、5枚で添い寝というJKリフレもどきで、本番は10枚。
もっとも男は彼女に惚れていて、いわば不器用な求愛行為というのがミソで、始めはピアノを取り戻すためにサービスしていた女も、次第に男に魅かれるようになってチケットは単なる不倫の言い訳でしかなくなる。
これではただの風俗行為だと悟った男はピュアな純情ゆえにチケット36枚を使わずにピアノを返し、心労から引き籠ってしまう。ここでハタと売春のつもりが本気だったと自覚した女は、男のもとに通い始めて案の定、娘フローラと夫に露見してしまう。
女は軟禁され、男が土地を離れるのを知って、昔の恋人が鍵盤の横にハートマークを悪戯書きしたのをヒントに、"Dear George, you have may heart. Ada McGrath."(ジョージ、私の心はあなたのもの。エイダ・マクグラス)と書いた鍵盤を娘に届けさせようとする。娘はそれを父に渡し、哀れ女は指を切られ、家を追い出される。
ジョージと母娘は舟で土地を離れるが、途中、ピアノを海中に捨てようとして、危うく巻き込まれそうになったエイダはピアノと訣別して生還する。
勿体なくも海に沈められたピアノは、昔の恋人との思い出であり、エイダにとっては清算すべき過去。過去の頸木から自由になったエイダは、ジョージと幸せに暮らしましたとさ、という昔話で、語り部は娘のフローラという構成になっている。
女性監督らしく、女心の機微を描くよくできたシンデレラ・ストーリーなのだが、この物語には大きな落とし穴がある。
エイダが愛のメッセージを書いてジョージに届けようとした鍵盤だが、ジョージは文盲だという設定を忘れている。渡してもジョージには読めない。でもそうしなければ夫に発覚しないという段取りから、文盲は忘れることにしたのか。
ピアノだけでなく、文字もレッスンしとけばよかった。
カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。エイダ役のホリー・ハンターはアカデミー主演女優賞、娘役のアンナ・パキンは11歳で助演女優賞。落とし穴以外はよくできたシナリオは脚本賞。
砂浜のピアノのシーンが印象的。 (評価:3.5)
日本公開:1994年2月12日
監督:ジェーン・カンピオン 製作:ジェーン・チャップマン 製作総指揮:アラン・ドパルデュー 脚本:ジェーン・カンピオン 撮影:スチュアート・ドライバーグ 音楽:マイケル・ナイマン
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題は"The Piano"。
時代設定はビクトリア朝の頃で、スコットランドの子持ち女エイダが買われるようにしてニュージーランドの入植者の男スチュワートに嫁ぐ。未婚の母の上に唖というハンディキャップがあり、貰ってくれる男がいるだけマシ。唖の女の表現手段となるのがピアノだが、夫はそれを上陸した浜に置き去りにしてしまう。
彼女の心を理解したのが隣に住む入植者のジョージ・ベインズで、マオリ族とも同化して顔に入れ墨している。しかし無教養な上に文盲で、女は初め彼を蔑むが、彼が自分の土地と引き換えにピアノを買い、レッスンと称して女を通わせようとする。
嫌がる女に黒鍵をチケット代わりにしてレッスン1回につき1個を返すというアイディアが面白い。チケット2枚で上着を脱がせてお触り、5枚で添い寝というJKリフレもどきで、本番は10枚。
もっとも男は彼女に惚れていて、いわば不器用な求愛行為というのがミソで、始めはピアノを取り戻すためにサービスしていた女も、次第に男に魅かれるようになってチケットは単なる不倫の言い訳でしかなくなる。
これではただの風俗行為だと悟った男はピュアな純情ゆえにチケット36枚を使わずにピアノを返し、心労から引き籠ってしまう。ここでハタと売春のつもりが本気だったと自覚した女は、男のもとに通い始めて案の定、娘フローラと夫に露見してしまう。
女は軟禁され、男が土地を離れるのを知って、昔の恋人が鍵盤の横にハートマークを悪戯書きしたのをヒントに、"Dear George, you have may heart. Ada McGrath."(ジョージ、私の心はあなたのもの。エイダ・マクグラス)と書いた鍵盤を娘に届けさせようとする。娘はそれを父に渡し、哀れ女は指を切られ、家を追い出される。
ジョージと母娘は舟で土地を離れるが、途中、ピアノを海中に捨てようとして、危うく巻き込まれそうになったエイダはピアノと訣別して生還する。
勿体なくも海に沈められたピアノは、昔の恋人との思い出であり、エイダにとっては清算すべき過去。過去の頸木から自由になったエイダは、ジョージと幸せに暮らしましたとさ、という昔話で、語り部は娘のフローラという構成になっている。
女性監督らしく、女心の機微を描くよくできたシンデレラ・ストーリーなのだが、この物語には大きな落とし穴がある。
エイダが愛のメッセージを書いてジョージに届けようとした鍵盤だが、ジョージは文盲だという設定を忘れている。渡してもジョージには読めない。でもそうしなければ夫に発覚しないという段取りから、文盲は忘れることにしたのか。
ピアノだけでなく、文字もレッスンしとけばよかった。
カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。エイダ役のホリー・ハンターはアカデミー主演女優賞、娘役のアンナ・パキンは11歳で助演女優賞。落とし穴以外はよくできたシナリオは脚本賞。
砂浜のピアノのシーンが印象的。 (評価:3.5)
製作国:韓国
日本公開:1994年6月25日
監督:イム・グォンテク 製作:イ・テウォン 脚本:キム・ミョンゴン 撮影:チョン・イルソン 音楽:キム・スチョル
キネマ旬報:10位
田舎道をパンソリを奏で踊りやってくるシーンが見せ場
原題"서편제"で、西便制(ソピョンジェ)の意。韓国の口承文芸パンソリの旅芸人の一家の物語で、西便制は歌唱法の流派の一つ。イ・チョンジュンの小説"남도 사람"(南道の人)が原作。
戦後の地方が舞台。パンソリの唱者ユボン(キム・ミョンゴン)は幼い養子2人を弟子として旅芸人をするが、やがて成長した弟ドンホ(キム・ギュチル)は貧しく将来性のないパンソリを捨ててしまう。
時が経ち、ドンホが姉ソンファ(オ・ジョンヘ)の消息を訪ねて歌の峠を訪れるところから始まる。峠の居酒屋の小母さんがソンファの娘にパンソリを習ったという言葉から、30年かそれ以上の時間経過が描かれていることがわかるが、この小母さんのパンソリを聴いてドンホの回想に入るという構成。
ユボンと再婚したドンホの母は出産で死に、年上のユボンの養女ソンファともども旅に出る。長じて姉弟はそれぞれにパンソリの唱者と太鼓手に成長するが、時代は西洋音楽へと移ろう。旅芸人と見下される貧しい生活に絶望したドンホは父の下を去るが、ソンファはパンソリが好きだといって残る。
次にドンホが二人の消息を訪ねた時、ユボンは死んでいて、パンソリの奥義、恨(ハン)を究めさせようと父が飲ませた薬でソンファが失明したことを知る。男と暮らすソンファと再会したドンホは身分を明かさずに姉とパンソリを演じ、弟と気付いた姉も無言のまま二人は別れる。
弟によりパンソリの心を取り戻したソンファは、かつてのユボンと自分のように幼い娘と共にパンソリの旅に出て物語は終わる。
『はなれ瞽女おりん』(1977)を髣髴させる作品で、紅葉や雪景色の中を一家が旅する映像が情感に溢れて美しい。とりわけ中盤、ドンホが去る前に3人が田舎道をパンソリを奏で踊りながらやってくる長回しのシーンが大きな見せ場。オ・ジョンヘとキム・ミョンゴンのか歌唱に聴きごたえがある。
ところどころに説明臭い演出が入るのがやや難。 (評価:3)
日本公開:1994年6月25日
監督:イム・グォンテク 製作:イ・テウォン 脚本:キム・ミョンゴン 撮影:チョン・イルソン 音楽:キム・スチョル
キネマ旬報:10位
原題"서편제"で、西便制(ソピョンジェ)の意。韓国の口承文芸パンソリの旅芸人の一家の物語で、西便制は歌唱法の流派の一つ。イ・チョンジュンの小説"남도 사람"(南道の人)が原作。
戦後の地方が舞台。パンソリの唱者ユボン(キム・ミョンゴン)は幼い養子2人を弟子として旅芸人をするが、やがて成長した弟ドンホ(キム・ギュチル)は貧しく将来性のないパンソリを捨ててしまう。
時が経ち、ドンホが姉ソンファ(オ・ジョンヘ)の消息を訪ねて歌の峠を訪れるところから始まる。峠の居酒屋の小母さんがソンファの娘にパンソリを習ったという言葉から、30年かそれ以上の時間経過が描かれていることがわかるが、この小母さんのパンソリを聴いてドンホの回想に入るという構成。
ユボンと再婚したドンホの母は出産で死に、年上のユボンの養女ソンファともども旅に出る。長じて姉弟はそれぞれにパンソリの唱者と太鼓手に成長するが、時代は西洋音楽へと移ろう。旅芸人と見下される貧しい生活に絶望したドンホは父の下を去るが、ソンファはパンソリが好きだといって残る。
次にドンホが二人の消息を訪ねた時、ユボンは死んでいて、パンソリの奥義、恨(ハン)を究めさせようと父が飲ませた薬でソンファが失明したことを知る。男と暮らすソンファと再会したドンホは身分を明かさずに姉とパンソリを演じ、弟と気付いた姉も無言のまま二人は別れる。
弟によりパンソリの心を取り戻したソンファは、かつてのユボンと自分のように幼い娘と共にパンソリの旅に出て物語は終わる。
『はなれ瞽女おりん』(1977)を髣髴させる作品で、紅葉や雪景色の中を一家が旅する映像が情感に溢れて美しい。とりわけ中盤、ドンホが去る前に3人が田舎道をパンソリを奏で踊りながらやってくる長回しのシーンが大きな見せ場。オ・ジョンヘとキム・ミョンゴンのか歌唱に聴きごたえがある。
ところどころに説明臭い演出が入るのがやや難。 (評価:3)
製作国:イギリス
日本公開:1994年3月19日
監督:ジェームズ・アイヴォリー 製作:マイク・ニコルズ、イスマイル・マーチャント、ジョン・キャリー 脚本:ルース・プラワー・ジャブヴァーラ 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ 音楽:リチャード・ロビンズ
キネマ旬報:7位
仕事にストイックなまでに忠実な執事の愛の形
原題"The Remains of the Day"で、その日の遺物の意。カズオ・イシグロの同名小説が原作。
物語は第二次大戦後、ダーリントン卿(ジェームズ・フォックス)が死んで、マナー・ハウスがアメリカ下院議員ルイス(クリストファー・リーヴ)の手に渡り、先代からの老執事スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)が以前働いていた女中頭ケントン(エマ・トンプソン)と復職の話をするために旅立つところから始まる。
以下は、二人の出会いから別れまでの回想を中心に進み、互いに愛し合いながらも、スティーヴンスがプロポーズをしなかったために、ケントンが元同僚ベンと結婚するまでの経緯が物語られる。
本作が単なる恋愛映画でないのは、スティーヴンスが執事という仕事にストイックなまでに忠実であろうとすることで、親ナチだった主人の命ずるままに仕え、女中として雇ったドイツ難民のユダヤ人少女を意に反して解雇してしまう。首相から大使まで、屋敷を訪れるゲストの会話も一切耳に入れず、政治的な質問にも無知を通す。そうして滅私奉公を信条とし、自分の考えや思いを抑圧するスティーヴンスにケントンは愛の告白を迫るが、彼は感情を殺し、彼女はベンとの結婚の道を選ぶ。
時代が戻り、20年ぶりに二人は再会するが、夫とは別居中で当初スティーヴンスと一緒に屋敷に戻ることに乗り気だったケントンは、孫が生まれることを知って復職を断る。スティーヴンスは失意しながらも、別れた時と同じように翻意を求めない。そこに20年前の抑制的な二人の愛の交流が生まれるが、それこそが二人の愛の形なのだというように物語は締めくくられる。
アンソニー・ホプキンスの演技がすべての作品で、これに呼応するエマ・トンプソンもいい。 (評価:3)
日本公開:1994年3月19日
監督:ジェームズ・アイヴォリー 製作:マイク・ニコルズ、イスマイル・マーチャント、ジョン・キャリー 脚本:ルース・プラワー・ジャブヴァーラ 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ 音楽:リチャード・ロビンズ
キネマ旬報:7位
原題"The Remains of the Day"で、その日の遺物の意。カズオ・イシグロの同名小説が原作。
物語は第二次大戦後、ダーリントン卿(ジェームズ・フォックス)が死んで、マナー・ハウスがアメリカ下院議員ルイス(クリストファー・リーヴ)の手に渡り、先代からの老執事スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)が以前働いていた女中頭ケントン(エマ・トンプソン)と復職の話をするために旅立つところから始まる。
以下は、二人の出会いから別れまでの回想を中心に進み、互いに愛し合いながらも、スティーヴンスがプロポーズをしなかったために、ケントンが元同僚ベンと結婚するまでの経緯が物語られる。
本作が単なる恋愛映画でないのは、スティーヴンスが執事という仕事にストイックなまでに忠実であろうとすることで、親ナチだった主人の命ずるままに仕え、女中として雇ったドイツ難民のユダヤ人少女を意に反して解雇してしまう。首相から大使まで、屋敷を訪れるゲストの会話も一切耳に入れず、政治的な質問にも無知を通す。そうして滅私奉公を信条とし、自分の考えや思いを抑圧するスティーヴンスにケントンは愛の告白を迫るが、彼は感情を殺し、彼女はベンとの結婚の道を選ぶ。
時代が戻り、20年ぶりに二人は再会するが、夫とは別居中で当初スティーヴンスと一緒に屋敷に戻ることに乗り気だったケントンは、孫が生まれることを知って復職を断る。スティーヴンスは失意しながらも、別れた時と同じように翻意を求めない。そこに20年前の抑制的な二人の愛の交流が生まれるが、それこそが二人の愛の形なのだというように物語は締めくくられる。
アンソニー・ホプキンスの演技がすべての作品で、これに呼応するエマ・トンプソンもいい。 (評価:3)
カリートの道
日本公開:1994年4月23日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:マーティン・ブレグマン、ウィリー・ベアー、マイケル・S・ブレグマン 脚本:デヴィッド・コープ 撮影:スティーヴン・H・ブラム 音楽:パトリック・ドイル
原題"Carlito's Way"で、邦題の意。エドウィン・トレスの同名小説及び" After Hours"が原作。
30年の刑期に服していた伝説の麻薬王カリート(アル・パチーノ)が親友のギャング相手の弁護士デイヴ(ショーン・ペン)の助力で、5年で釈放となる。ギャングから足を洗ってバハマでレンタカー店を経営する夢を抱くカリートは、レストランの用心棒になって資金稼ぎ。
ところがデイヴとイタリア・マフィアとの争いに巻き込まれ、刑事からデイヴの裏切りを知ったカリートはデイヴに復讐して恋人ゲイル(ペネロープ・アン・ミラー)とバハマに逃れるというストーリー。
カリートが緊急搬送されるシーンで始まるプロローグがよくできていて、一気に映画に引き込まれる。次に回想に移るが、カリートが死んでしまうという結末を最初に見せてしまうので、以降は誰にどのように殺されるのかということがストーリー上の大きなポイントになる。
カリートの敵となるのは新麻薬王を目指すチンピラとイタリア・マフィアで、ゲイルを連れてバハマ行きの列車に乗ろうとするカリートとイタリア・マフィアとのチェイスが終盤の見どころ。
馴染みの検事からデイヴを売れば恋人とバハマに逃亡させてやると持ち掛けられるが、裏切りを潔しとせず、自分ですべて落とし前をつけるというカリートの任侠道が"Carlito's Way"となる。
エンディングは病室の壁に貼られたバハマのポスターへの寄りで終わるが、クレジットとともに波辺の夕景をバックにした女と子供の影絵が踊り出し、それがレンタカー店の資金を託したゲイルと生まれてくる子であることを連想させて泣かせる。
カリートはプエルトリコ人、デイヴはユダヤ人と、アメリカの社会構造を背景に、ブロードウェイへの夢を果たせずストリッパーに身を落とすゲイルともども、泥沼から抜け出そうとして果たすことのできない人々の哀愁を描く。
緩みのないサスペンスとして楽しめるが、ギャングの弁護を続けるうちに悪徳に染まり、コカイン漬けとなって自滅していくデイヴを演じるショーン・ペンがいい。 (評価:3)
製作国:香港、中国
日本公開:1994年2月11日
監督:チェン・カイコー 製作:シュー・ビン、シュー・チエ、チェン・カイコー 脚本:リー・ピクワー 撮影:クー・チャンウェイ 音楽:チャオ・チーピン
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭パルム・ドール
京劇シーンが見どころの中国演劇界の暗黒史を描く意欲作
原題"霸王別姬"は、劇中劇として登場する、項羽と虞美人を描いた京劇のタイトル。
主人公の小豆子は女郎の息子で、子供の頃に捨てられるように京劇の俳優養成所に連れてこられる。子供ばかりの養成所で虐待同然の過酷な訓練を受けるが、そこで親しくなるのが年上の石頭。
優男の小豆子は女形として育てられ、心から女になることを求められる。芯から女になった小豆子は石頭に同性愛的なものを感じ、二人は「霸王別姬」の項羽と虞美人を演じて人気役者となる。
「霸王別姬」は楚の覇王項羽が漢王劉邦の大軍に取り囲まれ、漢軍が楚の歌を歌うのに騙されて絶望し、虞姫が剣で自決する悲劇。女郎の菊仙に石頭との仲を裂かれた小豆子が、「霸王別姬」の虞美人同様の悲劇をたどるという悲恋物語となっていて、菊仙が漢軍に見立てられる。
物語は1930年代の北京から始まり、小豆子と石頭を通して、日本軍の侵略、国民軍の勝利、漢奸裁判、共産党政権の樹立、文化大革命、四人組の失脚と、戦争と政治に翻弄される京劇の歴史が描かれ、制作の狙いはむしろこちらにあることがわかる。
四人組の一人で毛沢東の4番目の夫人だった女優出身の江青が文化大革命を主導し、無味乾燥な革命劇や革命バレエなどを主張して、京劇などの伝統芸能を排斥し、演劇人を迫害したことを知っていれば、とりわけ後半の演劇人同士の潰し合いや自己批判の背景が理解できる。
チェン・カイコーは映画人として、京劇に代表される中国演劇界の暗黒史を描きたかったと思われ、見どころである劇中劇として登場する京劇シーンを含めて、意欲的な作品となっている。菊仙役は「紅いコーリャン」「菊豆」のコン・リー。パルム・ドール受賞作。 (評価:2.5)
日本公開:1994年2月11日
監督:チェン・カイコー 製作:シュー・ビン、シュー・チエ、チェン・カイコー 脚本:リー・ピクワー 撮影:クー・チャンウェイ 音楽:チャオ・チーピン
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"霸王別姬"は、劇中劇として登場する、項羽と虞美人を描いた京劇のタイトル。
主人公の小豆子は女郎の息子で、子供の頃に捨てられるように京劇の俳優養成所に連れてこられる。子供ばかりの養成所で虐待同然の過酷な訓練を受けるが、そこで親しくなるのが年上の石頭。
優男の小豆子は女形として育てられ、心から女になることを求められる。芯から女になった小豆子は石頭に同性愛的なものを感じ、二人は「霸王別姬」の項羽と虞美人を演じて人気役者となる。
「霸王別姬」は楚の覇王項羽が漢王劉邦の大軍に取り囲まれ、漢軍が楚の歌を歌うのに騙されて絶望し、虞姫が剣で自決する悲劇。女郎の菊仙に石頭との仲を裂かれた小豆子が、「霸王別姬」の虞美人同様の悲劇をたどるという悲恋物語となっていて、菊仙が漢軍に見立てられる。
物語は1930年代の北京から始まり、小豆子と石頭を通して、日本軍の侵略、国民軍の勝利、漢奸裁判、共産党政権の樹立、文化大革命、四人組の失脚と、戦争と政治に翻弄される京劇の歴史が描かれ、制作の狙いはむしろこちらにあることがわかる。
四人組の一人で毛沢東の4番目の夫人だった女優出身の江青が文化大革命を主導し、無味乾燥な革命劇や革命バレエなどを主張して、京劇などの伝統芸能を排斥し、演劇人を迫害したことを知っていれば、とりわけ後半の演劇人同士の潰し合いや自己批判の背景が理解できる。
チェン・カイコーは映画人として、京劇に代表される中国演劇界の暗黒史を描きたかったと思われ、見どころである劇中劇として登場する京劇シーンを含めて、意欲的な作品となっている。菊仙役は「紅いコーリャン」「菊豆」のコン・リー。パルム・ドール受賞作。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1994年10月8日
監督:ロバート・アルトマン 製作:ケイリー・ブロコウ 脚本:ロバート・アルトマン、フランク・バーハイト 撮影:ウォルト・ロイド 音楽:ハル・ウィルナー
キネマ旬報:3位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
小さな傷をきっかけに崩壊する日常の危うさを描く
原題"Short Cuts"で、いくつもの小さな傷の意。
レイモンド・カーヴァーの9編の短編小説と詩("Lemonade")をもとに1本のストーリーに再構成し、それぞれの物語が並行して進む形式を採っている。
ロサンゼルスの住宅地が舞台。複数の家庭の物語が時に絡みあいながら進むが、基本は市井の人々の本人にとっては大事件だが俯瞰的にはどこにでもありそうなレイモンド・カーヴァーらしい日常のエピソードが積み重ねられていくため、9編の短編小説の複合は煩雑でそれぞれの登場人物、エピソードが混然となってわかりにくい。
アルトマンは群像劇としてオムニバス形式を採らず、同時進行させることによってそれぞれのShort Cuts、心の中の小さな傷を横一線に並べることで、平穏な人々の日常がちょっとした傷がきっかけで崩壊してしまう脆いものだということを描き、その意図はかなりの部分で成功してはいるが、3時間余りという長尺を市井のエピソードで埋めるのは観る側には辛い。
本作の形式を採るのであれば、エピソードを減らして尺を減らし、それぞれのエピソードが印象に残るようにした方が観客には親切。
冒頭、空中散布の害虫駆除薬が人々の平穏な日常に異変を来すという導入は、作品全体に生きてなくて不要。ラストに起きる大地震は、平穏な日常の危うさを象徴して上手い演出。
印象に残るのは、家族には大事件である少年の交通事故と音楽家母子、飼い犬を捨てる女たらしの警官、鱒釣りで水死体を見つける物語だが、少年の交通事故の話の原作"A Small, Good Thing"は、"Bath"というタイトルで編集者が手を加えたショート・ヴァージョンが先に発表されていて、こちらの方がすっきりしている。
カーヴァーは後にロング・ヴァージョンを発表するが、本作も似たようなところがあって、もっと短くすっきりさせれば佳作たりえた。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。
少年の祖父にジャック・レモン、警官にティム・ロビンス。
使用された原作は短編集" Will You Please Be Quiet, Please?"(頼むから静かにしてくれ)から、表題作、"Neighbors"(隣人)、"They're Not Your Husband"(ダイエット騒動)、"Jerry and Molly and Sam"(ジェリーとモリーとサム)、"Collectors"(収集)。短編集"Cathedral"(大聖堂)から、"Vitamins"(ビタミン)、"A Small, Good Thing"(ささやかだけれど、役にたつこと)。"What We Talk About When We Talk About Love"(愛について語るときに我々の語ること)から、"Tell the Women We're Going"(出かけるって女たちに言ってくるよ)、"So Much Water So Close to Home"(足もとに流れる深い川)。 (評価:2.5)
日本公開:1994年10月8日
監督:ロバート・アルトマン 製作:ケイリー・ブロコウ 脚本:ロバート・アルトマン、フランク・バーハイト 撮影:ウォルト・ロイド 音楽:ハル・ウィルナー
キネマ旬報:3位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Short Cuts"で、いくつもの小さな傷の意。
レイモンド・カーヴァーの9編の短編小説と詩("Lemonade")をもとに1本のストーリーに再構成し、それぞれの物語が並行して進む形式を採っている。
ロサンゼルスの住宅地が舞台。複数の家庭の物語が時に絡みあいながら進むが、基本は市井の人々の本人にとっては大事件だが俯瞰的にはどこにでもありそうなレイモンド・カーヴァーらしい日常のエピソードが積み重ねられていくため、9編の短編小説の複合は煩雑でそれぞれの登場人物、エピソードが混然となってわかりにくい。
アルトマンは群像劇としてオムニバス形式を採らず、同時進行させることによってそれぞれのShort Cuts、心の中の小さな傷を横一線に並べることで、平穏な人々の日常がちょっとした傷がきっかけで崩壊してしまう脆いものだということを描き、その意図はかなりの部分で成功してはいるが、3時間余りという長尺を市井のエピソードで埋めるのは観る側には辛い。
本作の形式を採るのであれば、エピソードを減らして尺を減らし、それぞれのエピソードが印象に残るようにした方が観客には親切。
冒頭、空中散布の害虫駆除薬が人々の平穏な日常に異変を来すという導入は、作品全体に生きてなくて不要。ラストに起きる大地震は、平穏な日常の危うさを象徴して上手い演出。
印象に残るのは、家族には大事件である少年の交通事故と音楽家母子、飼い犬を捨てる女たらしの警官、鱒釣りで水死体を見つける物語だが、少年の交通事故の話の原作"A Small, Good Thing"は、"Bath"というタイトルで編集者が手を加えたショート・ヴァージョンが先に発表されていて、こちらの方がすっきりしている。
カーヴァーは後にロング・ヴァージョンを発表するが、本作も似たようなところがあって、もっと短くすっきりさせれば佳作たりえた。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。
少年の祖父にジャック・レモン、警官にティム・ロビンス。
使用された原作は短編集" Will You Please Be Quiet, Please?"(頼むから静かにしてくれ)から、表題作、"Neighbors"(隣人)、"They're Not Your Husband"(ダイエット騒動)、"Jerry and Molly and Sam"(ジェリーとモリーとサム)、"Collectors"(収集)。短編集"Cathedral"(大聖堂)から、"Vitamins"(ビタミン)、"A Small, Good Thing"(ささやかだけれど、役にたつこと)。"What We Talk About When We Talk About Love"(愛について語るときに我々の語ること)から、"Tell the Women We're Going"(出かけるって女たちに言ってくるよ)、"So Much Water So Close to Home"(足もとに流れる深い川)。 (評価:2.5)
ウェディング・バンケット
日本公開:1993年12月11日
監督:アン・リー 製作:テッド・ホープ、ジェームズ・シェイマス、アン・リー 脚本:アン・リー、ニール・ペン、ジェームズ・シェイマス 撮影:ジョン・リン 音楽:メイダー
ベルリン映画祭金熊賞
原題"The Wedding Banquet"で、結婚披露宴の意。
ニューヨークの台湾人青年ウェイトン(ウィンストン・チャオ)が主人公。アメリカ人青年サイモン(ミッチェル・リヒテンシュタイン)と暮らしているゲイで、台湾の両親には秘密にしているため、早く結婚するように促されている。
それを誤魔化すため上海から来てビザの切れそうなウェイウェイ(メイ・チン)と偽装結婚。渡米した両親を安心させるが、披露宴で酔った勢いでウェイウェイが妊娠してしまう。それを知ったサイモンとの関係が険悪となり、3人が英語で大喧嘩し、ウェイトンは真実を母(グァ・アーレイ)に告白。父(ラン・シャン)には内緒にと頼むが、実は父は英語が理解できていて喧嘩の原因を知らないふりをしたまま台湾に帰るという物語。
ウェイウェイが妊娠した直後につわりになるというのも早すぎるが、全体はコメディタッチなのでそれもジョークの一つか。
父はサイモンにウェイトンとの仲を認めたことを告げ、二人だけの秘密の約束をするという、ちょっと得な役どころ。サイモンはウェイトンと仲直り、ウェイウェイは二人の友達として3人で共同生活を始めるという、雨降って地固まるのハッピーエンド。やがて生まれてくる子供にはママが二人いる4人家族で、父にも待望の孫ができて八方が丸く納まる読後感の良いドラマになっている。
親族・友人・知己総出の中国式結婚披露宴がよく出来ていて、タイトル通りの見どころ。香港返還前の台湾がまだ中国に勝っていた頃の作品で、それがウェイトンとウェイウェイの立場の違いに現れているのも温故知新か。 (評価:2.5)
製作国:ドイツ、ベルギー
日本公開:1995年7月8日
監督:レイ・ミュラー 製作:ハンス・ユルゲン・パニッツ、ジャック・ドゥ・クレルク、ディミトリイ・ドゥ・クレルク 脚本:レイ・ミュラー 撮影:ワルダー・A・フランケ、ミシェル・ボードゥル、ユルゲン・マルティン 音楽:ウルリッヒ・バースゼンゲ、ウォルフガング・ノイマン
キネマ旬報:8位
優れた映画が優れたプロパガンダになってしまった不幸
原題"Die Macht der Bilder: Leni Riefenstahl"で、映像の力:レニ・リーフェンシュタールの意。『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』、1938)で知られるドイツの女性監督、レニ・リーフェンシュタールの生涯をインタビューを交えて振り返るドキュメンタリー映画。
ダンサーだったレニがアーノルト・ファンクの山岳映画『聖山』(1926)で女優となり、『青の光』(1932)で監督デビューしてヒトラーに認められ、以降ナチスの記録映画で才能を開花。戦後はナチス協力者として不遇な人生を送り、90歳にして『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』(2002)の製作を始めるまでを2部構成で描く。
1部は『信念の勝利』(1933)までを中心に、2部は『オリンピア』以降が描かれるが、レニが当初から野心家でファンクやヒトラーに自分を売り込む一方、過酷な山岳映画に挑戦する不屈の精神力が見られる。
その精神力が美的感覚と先進性に優れたレニの映画監督としての才能を開花させたことは間違いなく、織り込まれる彼女の撮影したドキュメンタリーフィルムは、同じドキュメンタリーでありながら本作と比べものにならないほどに高いクオリティーを示している。
面白いのは、冒頭でレニのインタビューを演出するためにレールを使ったり山を背景に撮影するのだが、逆にレニに撮影方法を批判されてしまうところで、しかもミュラーよりもレニの意見の方が妥当性を持っている。
レニがナチスに共感を持っていたかどうかはともかく、彼女が純粋に優れた映画を撮ろうとしていたこと、それが結果的に優れたプロパガンダ映画になってしまったことが窺える。
そうした点では、原子物理学者の純粋な研究成果が結果的に原子爆弾を生んでしまったのに似ていて、その罪を問うことの難しさをレニに対しても感じる。
惜しむらくは、戦後、批判を浴びたレニが本格的に映画監督に復帰できなかったことで、映画界にとって大きな損失だったことは疑いない。
『オリンピア』まではレニの映像の力で面白いのだが、それ以降、とりわけ『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』からが退屈で、ドキュメンタリーとしてはレニに負んぶに抱っこになっている。 (評価:2.5)
日本公開:1995年7月8日
監督:レイ・ミュラー 製作:ハンス・ユルゲン・パニッツ、ジャック・ドゥ・クレルク、ディミトリイ・ドゥ・クレルク 脚本:レイ・ミュラー 撮影:ワルダー・A・フランケ、ミシェル・ボードゥル、ユルゲン・マルティン 音楽:ウルリッヒ・バースゼンゲ、ウォルフガング・ノイマン
キネマ旬報:8位
原題"Die Macht der Bilder: Leni Riefenstahl"で、映像の力:レニ・リーフェンシュタールの意。『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』、1938)で知られるドイツの女性監督、レニ・リーフェンシュタールの生涯をインタビューを交えて振り返るドキュメンタリー映画。
ダンサーだったレニがアーノルト・ファンクの山岳映画『聖山』(1926)で女優となり、『青の光』(1932)で監督デビューしてヒトラーに認められ、以降ナチスの記録映画で才能を開花。戦後はナチス協力者として不遇な人生を送り、90歳にして『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』(2002)の製作を始めるまでを2部構成で描く。
1部は『信念の勝利』(1933)までを中心に、2部は『オリンピア』以降が描かれるが、レニが当初から野心家でファンクやヒトラーに自分を売り込む一方、過酷な山岳映画に挑戦する不屈の精神力が見られる。
その精神力が美的感覚と先進性に優れたレニの映画監督としての才能を開花させたことは間違いなく、織り込まれる彼女の撮影したドキュメンタリーフィルムは、同じドキュメンタリーでありながら本作と比べものにならないほどに高いクオリティーを示している。
面白いのは、冒頭でレニのインタビューを演出するためにレールを使ったり山を背景に撮影するのだが、逆にレニに撮影方法を批判されてしまうところで、しかもミュラーよりもレニの意見の方が妥当性を持っている。
レニがナチスに共感を持っていたかどうかはともかく、彼女が純粋に優れた映画を撮ろうとしていたこと、それが結果的に優れたプロパガンダ映画になってしまったことが窺える。
そうした点では、原子物理学者の純粋な研究成果が結果的に原子爆弾を生んでしまったのに似ていて、その罪を問うことの難しさをレニに対しても感じる。
惜しむらくは、戦後、批判を浴びたレニが本格的に映画監督に復帰できなかったことで、映画界にとって大きな損失だったことは疑いない。
『オリンピア』まではレニの映像の力で面白いのだが、それ以降、とりわけ『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』からが退屈で、ドキュメンタリーとしてはレニに負んぶに抱っこになっている。 (評価:2.5)
パーフェクト ワールド
日本公開:1994年3月26日
監督:クリント・イーストウッド 製作:マーク・ジョンソン、デヴィッド・ヴァルデス 脚本:ジョン・リー・ハンコック 撮影:ジャック・N・グリーン 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:レニー・ニーハウス
原題"A Perfect World"で、理想の世界の意。
イーストウッドが刑事に扮して誘拐犯を追うロードムービーだが、主人公は刑事ではなく誘拐犯の方で、イーストウッドの影は薄い。この誘拐犯をケビン・コスナーが演じていて、イーストウッドのヒーロー色が薄い分、誘拐犯と人質の少年のストックホルム症候群的な友情物語という、定型パターンながらもハートウォーミングな作品に仕上がっている。
舞台はテキサス。テリー(キース・ザラバッカ)とブッチ(ケビン・コスナー)の二人が刑務所を脱獄、行きがかりから少年のフィリップ(T・J・ローサー)を人質に逃亡することになるが、粗暴なテリーが少年に危害を加えようとしたことからブッチが射殺。フィリップを相棒に追っ手の警察を出し抜きながら逃げ回るというドラマ。
親切な黒人の老人夫婦の家に泊めさせてもらうが、老祖父が孫に暴力を振るったことからブッチが逆上。それを止めるためにフィリップがブッチを撃ってしまい、動けなくなったブッチは警官隊に包囲され射殺されてしまう。
ブッチは売春婦の息子でDVの父を殺したことが犯罪者への第一歩。この時、保護観察処分が相当だったが、家庭環境を顧みてレッド(クリント・イーストウッド)が裁判長を説得して少年院送りにしたというのが二人の因縁。
フィリップの母はエホバの証人の信者で、厳格な教義からハロウィンを楽しめない。それを知ったブッチが、フィリップに不幸な少年時代の自分を見て、父親のように心を寄せていくというもの。黒人の老祖父に逆上したのもDVの影を見たからで、精神的なものを含めた児童虐待というのが本作のテーマにもなっている。
そうした親からの頸木を離れてブッチは少年と共に"A Perfect World"、理想の世界へ羽ばたこうとするが、現実の世界にそんなものはなく、死によって夢を叶えるという悲しい話になっている。
ブッチの背景を描くためにレッドと犯罪心理学者のサリー(ローラ・ダーン)が登場するが、シナリオ的にも演出的には演技的にも今一つでほとんど役に立たず、味付け程度にしかなっていない。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1994年8月20日
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:マイアー・テパー、ベルティル・オルソン、デヴィッド・マタロン 脚本:ピーター・ヘッジズ 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:アラン・パーカー、ビョルン・イシュファルト
キネマ旬報:5位
母と弟の面倒を見る兄が模範的で、悩みが伝わってこない
原題"What's Eating Gilbert Grape"で、「ギルバート・グレイプを悩ませているもの」の意。ギルバート・グレイプは本作の主人公の名。
原題通り、ギルバート・グレイプを悩ませているのは知的障害を持つ17歳の弟と、夫の自殺が原因で7年間過食症でソファーで暮らす母の二人。
ギルバートはアイオワの田舎町の食料品店で働き、大型スーパーマーケットには目もくれない。いわば彼は家族や町の人々を大切にするという伝統的な価値観の持ち主で、逆にそれが彼を町や家族に縛り付けている原因となっている。
外部からの刺激はエアストリームというキャンピングカーがやってくること。毎年同じ時期にやってくることから、大会に向かう通過地らしいことがわかる。
食料品店の得意客の人妻との浮気でせいぜい気晴らしをしているグレイプは、故障したキャンピングカーの娘と恋をするものの家族を置いて町を出る決心までは付かない。
人妻の夫が事故死し、住民から疑惑を持たれた人妻は町を去り、弟の18歳の誕生日に母はソファーからベッドに行って死ぬ。そうして、ギルバートを束縛するものが失せていく。
弟の誕生日にギルバートはガールフレンドを母に紹介するが、これにより母は弟の成人とともにギルバートが独立する時を迎えたことを知り、自分が母としての役割を終えたことを悟って眠りにつく、という分りやすい解釈を与えている。
母の死の結果、ギルバートは過去を終わらせるために古い家を燃やしてしまう。姉と妹はそれぞれの道を歩み出し、1年後、再びやってきた娘のキャンピングカーに弟とともに乗り込んで町を出ていくというラストを迎える。
非常にテーマのわかりやすい物語なのだが、ギルバート・グレイプを悩ませているものの一つである弟を抱えたままの再出発であり、通過点の一つでしかないのが何ともすっきりしない。
ギルバートにジョニー・デップ、弟にレオナルド・ディカプリオで、知的障害の少年を演じるディカプリオの演技力はなかなかのものなのだが、知的障害の描き方が何となく類型的で作り物めいている。
青春映画、ヒューマンドラマとしては優等生的だが、家長として母や弟の面倒を見る兄の描写が模範的で、悩みが伝わってこないのが残念。 (評価:2.5)
日本公開:1994年8月20日
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:マイアー・テパー、ベルティル・オルソン、デヴィッド・マタロン 脚本:ピーター・ヘッジズ 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:アラン・パーカー、ビョルン・イシュファルト
キネマ旬報:5位
原題"What's Eating Gilbert Grape"で、「ギルバート・グレイプを悩ませているもの」の意。ギルバート・グレイプは本作の主人公の名。
原題通り、ギルバート・グレイプを悩ませているのは知的障害を持つ17歳の弟と、夫の自殺が原因で7年間過食症でソファーで暮らす母の二人。
ギルバートはアイオワの田舎町の食料品店で働き、大型スーパーマーケットには目もくれない。いわば彼は家族や町の人々を大切にするという伝統的な価値観の持ち主で、逆にそれが彼を町や家族に縛り付けている原因となっている。
外部からの刺激はエアストリームというキャンピングカーがやってくること。毎年同じ時期にやってくることから、大会に向かう通過地らしいことがわかる。
食料品店の得意客の人妻との浮気でせいぜい気晴らしをしているグレイプは、故障したキャンピングカーの娘と恋をするものの家族を置いて町を出る決心までは付かない。
人妻の夫が事故死し、住民から疑惑を持たれた人妻は町を去り、弟の18歳の誕生日に母はソファーからベッドに行って死ぬ。そうして、ギルバートを束縛するものが失せていく。
弟の誕生日にギルバートはガールフレンドを母に紹介するが、これにより母は弟の成人とともにギルバートが独立する時を迎えたことを知り、自分が母としての役割を終えたことを悟って眠りにつく、という分りやすい解釈を与えている。
母の死の結果、ギルバートは過去を終わらせるために古い家を燃やしてしまう。姉と妹はそれぞれの道を歩み出し、1年後、再びやってきた娘のキャンピングカーに弟とともに乗り込んで町を出ていくというラストを迎える。
非常にテーマのわかりやすい物語なのだが、ギルバート・グレイプを悩ませているものの一つである弟を抱えたままの再出発であり、通過点の一つでしかないのが何ともすっきりしない。
ギルバートにジョニー・デップ、弟にレオナルド・ディカプリオで、知的障害の少年を演じるディカプリオの演技力はなかなかのものなのだが、知的障害の描き方が何となく類型的で作り物めいている。
青春映画、ヒューマンドラマとしては優等生的だが、家長として母や弟の面倒を見る兄の描写が模範的で、悩みが伝わってこないのが残念。 (評価:2.5)
フィラデルフィア
日本公開:1994年4月23日
監督:ジョナサン・デミ 製作:エドワード・サクソン、ジョナサン・デミ 脚本:ロン・ナイスワーナー 撮影:タク・フジモト 音楽:ハワード・ショア
いわゆる社会派ヒューマンドラマでテーマはエイズ。エイズに罹患し解雇された弁護士と、弁護士事務所が争う法廷劇で、正義と悪の対立軸が明快。基本的にはアクション映画のヒーロー対敵を法廷に置き換えた形で、最後はもちろんヒーローが勝つ。
この映画もこのような常道を踏まえた謂わば爽快感を目指すエンタテイメントで、将来を嘱望される若手弁護士がエイズにと暗転する通俗的導入部に食傷感を覚えるのだが、観終わってそれほど嫌みがない。それは単にエイズに対する偏見だけでなく、同性愛に対する社会の偏見にテーマを深めたことによる。常識人からすれば同性愛に対する偏見は多少なりともあって、この映画はその誰もが持っている深層を偽善で覆い隠すことなく俎上に載せることに成功した。
20年前の制作で、社会のエイズや同性愛に対する意識は相当に変わっていて、テーマの若干の古さは禁じ得ない。それがこの手の社会派映画の宿命で、ヒーローものとしての展開に鼻白む点もなくはないが、ドラマとしてはよくできている。
アカデミー主演男優賞を受賞したトム・ハンクスの若くてハンサムだった姿も見られるし、原告側デンゼル・ワシントンと被告側メアリー・スティーンバージェンの両弁護士がいい演技を見せる。 (評価:2.5)
デモリションマン
日本公開:1994年2月11日
監督:マルコ・ブランビヤ 製作:ジョエル・シルヴァー、ハワード・カザンジャン、マイケル・レヴィ 脚本:フランコ・M・レンコフ、ロバート・レノウ 撮影:アレックス・トムソン 音楽:エリオット・ゴールデンサール
原題"Demolition Man"で、壊し屋の意。
凶悪犯フェニックス(ウェズリー・スナイプス)を捕まえるためなら手段を択ばずデモリションマンと綽名されるスパルタン刑事(シルヴェスター・スタローン)が、犠牲者多数を出したことから長期冷凍刑に。同時に冷凍刑になったフェニックスが仮釈放となり暴れ出したことから、スパルタンを解凍して事件処理させるという二世紀に渡る追跡劇で、殺人など絶えて久しいという21世紀とのギャップが楽しいアクション・ドラマ。
このギャップを、暴力華やかなりし20世紀に憧れる21世紀の女性刑事ハックスリーをサンドラ・ブロックが可愛らしくコミカルに演じているのが大きな見どころ。スナイプスのサイコっぷりも堂に入ってて、この二人のキャラクター造形がマッチョな暴れん坊スタローン以上に際立っている。
21世紀社会は平和だが、実は市長が独裁的に牛耳る個人よりも社会を優先する管理社会。これに反発するレジスタンスは文字通り地下に潜っていて、これを撲滅するために市長がスナイプスを召喚する。最後は市長もスナイプスも一掃されて人間らしい社会が戻るが、下品な言葉を使うと罰金、肌の接触は暴力を招くからとセックスもヴァーチャルという21世紀の設定が可笑しい。
そんな中でハックスリーがジャッキー・チェンの映画で武道を学んだり、部屋に『リーサル・ウェポン』のポスターを張ったり、会話の中にシュワルツェネッガーの大統領とかランボー、スタローンが出てきたりとか、小ネタがいっぱい詰まっていて、ポップコーンを食べながら楽しむタイプの映画。 (評価:2.5)
父の祈りを
日本公開:1994年4月16日
監督:ジム・シェリダン 製作:ジム・シェリダン 脚本:ジム・シェリダン、テリー・ジョージ 撮影:ピーター・ビジウ 音楽:トレヴァー・ジョーンズ
ベルリン映画祭金熊賞
原題"In the Name of The Father"で、父の名においての意。ジェリー・コンロンの自伝"Proved Innocent: The Story of Gerry Conlon of the Guildford Four"(無実の証明:ギルフォードの四人のジェリー・コンロンの物語)が原作。
1974年にロンドン郊外ギルフォードで起きたIRAによるパブ爆破事件の冤罪を着せられた4人が、再審で無罪を勝ち取るまでの実話。
ジェリー・コンロンの主観に基づく物語という点を差し引いても、イギリス司法が国家的利益の前には人権も公正も無視するという事実が重く、改めて愛国心や国家というものの偽善と冤罪の構造を知ることができる。
ジェリー(ダニエル・デイ=ルイス)は就職難から窃盗を繰り返す不良青年で、IRAと誤解されたことから北アイルランドを逃げ出して、友人のポール(ジョン・リンチ)と共にロンドンに渡る。
金が尽きた二人は公園で野宿、娼婦の部屋で金を盗む。その晩、ギルフォードでパブがIRAによって爆破され、二人は逮捕。ここからは、"24"のジャック・バウアー張りの拷問が始まり、虚偽の自供をさせられてしまう。しかも二人ばかりか、ジェリーの幼い弟妹を含む家族全員が爆弾作りに協力した廉で逮捕され、有罪判決を受けて収監。
そこにギルフォード爆破の真犯人で、IRAの戦士ジョー(ドン・ベイカー)が収監され、コンロン父子の無実を訴えるが司法当局は無視。
父親(ピート・ポスルスウェイト)の嘆願でピアース弁護士(エマ・トンプソン)が市民団体の抗議を背景に、検察資料を公開させて、検察が隠蔽していた二人のアリバイ証拠を手に入れる。コンロン父子のスコットランド刑務所への移送など司法が妨害するが、収監から15年、再審が開始されコンロン一家が無罪となる。
専制国家に限らず、民主国家でも国家と公務員は当てにならないということがわかる。
父親役のピート・ポスルスウェイトが、どんな状況でも希望を失わない不屈の男を好演。
冒頭、イギリス兵士がIRAのテロに脅えて正常な判断を下せないという下りもあり、人権かテロ防止か、という問題の複雑さも感じさせる。 (評価:2.5)
青いパパイヤの香り
日本公開:1994年8月13日
監督:トラン・アン・ユン 製作:アデリーヌ・ルカリエ、アラン・ロッカ 脚本:トラン・アン・ユン 撮影:ブノワ・ドゥローム 音楽:トン=ツァ・ティエ
原題"Mùi đu đủ xanh"で、邦題の意。
1951年、サイゴンの商家の奉公人となった10歳の少女ムイ(リュ・マン・サン)が主人公。長男チュンの友人クェンにほのかな憧れを抱くが、10年後、商家は没落し、跡を取った長男の紹介でムイ(トラン・ヌー・イェン・ケー)はクェンの女中に。クェンには婚約者がいるが、心は次第に誠実なムイに傾き、婚約を破棄。文盲のムイに読み書きを教え、二人は身分の違いを超えて結ばれるというシンデレラストーリー。
ムイは無口だが勤勉であることが取り柄。商家の女主人は娘のように可愛がり、別れには大切な装身具とアオザイを贈る。跡取り息子のチュン夫妻も生活が苦しくなってムイを雇えなくなると、音楽家として成功しているクェンに紹介。クェンもまた黙々と尽くすムイに心惹かれる。
そうしてムイは幸せを手にするが、そこから導かれる教訓は、日陰の花であっても清く正しく美しく咲いていれば、必ずやそれを認めてくれる人が現れるというもの。
野菜として食される青いパパイヤも、やがては熟して美味しい果実となる。それがムイだというもの。
もっとも、ムイのような良妻賢母を女性の理想像とするのも男性視点で、本作がベトナム戦争が本格化する前の古き良きサイゴンへの憧憬と見れば、いささか保守的な女性観となる。
ムイのシンデレラストーリーばかりで、女主人のその後や幼い頃にムイに悪戯ばかり仕掛けていた三男の10年後の姿など、ドラマとしては物足りなさが残る。
サイゴンの商家を再現した庭の動植物や邸の内部など、セットの美術や映像が美しいが、それにしても10歳のムイがやたら可愛くて、それを見るだけでも心が和む。 (評価:2.5)
トリコロール 青の愛
日本公開:1994年7月9日
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー 製作:クシシュトフ・キエシロフスキー、マラン・カルミッツ 脚本:クシシュトフ・キエシロフスキー 撮影:スワヴォミール・イジャック 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Trois Couleurs: Bleu"で、トリコロール:青の意。Trois Couleursはフランス国旗、自由・平等・友愛の3色を指す。
タイトルの青は自由を意味し、愛の自由がテーマとなっている。
主人公のジュリー(ジュリエット・ビノシュ)が交通事故で夫と娘を亡くすプロローグ。それを目撃した青年が事故跡から夫の十字架のネックレスを拾うというのが後の愛人の伏線。
ジュリーは生きる目標をなくし、屋敷を処分して友人オリヴィエ(ブノワ・レジャン)との連絡を絶ち、パリのアパートに閉じこもってしまうが、最後は オリヴィエの求愛を受け入れる、というのが大まかな流れ。
ジュリーは家族との過去を断ち切ろうとして断ち切れず、厭世的になってしまうが、キエシロフスキーはそれを部屋や服装、光の効果などの青で表現する。
話の軸としてもう一つあるのが、夫は著名な音楽家で、EU統合のシンボルとして協奏曲の作曲を頼まれているが、事故死によって未完に終わる。それをオリヴィエが完成させようとするが、実はジュリーが夫のゴーストライター、ないしは共同著作者で、オリヴィエの求愛を受け入れ、曲を完成させることでジュリーが夫の頸木から解き放たれ、自由を手にする結末となる。
よくわからないのが名を隠して夫のゴーストをしていた理由で、それが夫への愛、内助の功からとすれば説明がつくが、そうした夫唱婦随から解放されることが精神の自由だとすると、あまりに古臭い。しかも頸木から離れるきっかけが、夫の浮気というのも志が低い。
未完の協奏曲がわかりやすいメロディで、普通の協奏曲とは異なる声楽の宗教曲風なのも説明がなくて不親切。わざわざ協奏曲と銘打っているのは、ジュリーと夫との協奏がオリヴィエとの協奏に変わるという意味を持たせたかったのか。
夫との愛に縛られていた女が、夫の浮気を知って新しい愛に向かうという通俗では、何を描こうとしたのかよくわからない。
階下に住む娼婦は『冬物語』(1991)のシャルロット・ヴェリ。 (評価:2)
時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!
日本公開:1994年5月7日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ヴィム・ヴェンダース 脚本:ヴィム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー 撮影:ユルゲン・ユルゲス 音楽:ローラン・プティガン
原題"In weiter Ferne, so nah!"で、遠くて、とても近い!の意。
『ベルリン・天使の詩』(1987)の続編で、6年後を描く。この間、1989年にベルリンの壁崩壊があり、それを踏まえた物語になっている。
前作でサーカスの娘に恋して地上に降りた天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は、マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)と結婚して女の子を設け、この娘もサーカス団に加わっている。
今回の主役はダミエルの親友だった天使カシエル(オットー・ザンダー)で、壁の消えたベルリンの街並みを見下ろしながら自分も地上に降りてみたいと思い始める。人間に関与することは天使の禁忌で、ベランダから落ちた女の子を思わず助けたことで望みが叶い、人間となる。
前作同様、天使が見る世界はモノクロ、人間が見る世界はカラー。極彩色の世界に染まるカシエルは、堕天使エミット(ウィレム・デフォー)に誘われ悪にも染まり、ポルノから武器まで扱う貿易商人ベイカー(ホルスト・ブッフホルツ)の相棒となるという、人間の悪の面を描いていく。
もちろんカシエルは正義に目覚め、ポルノフィルムを焼き、武器を奪って海に捨てに行くが、道徳の教科書のように悪を通俗的に描くだけで、ストーリーは眠くなるほどつまらない。
ベイカーは1945年4月のドイツ敗戦で離散した金持ち一家の片割れで、アメリカで物欲に染まってベルリンに里帰り。ベルリンに残った妹ハンナを探しているが、カシエルが助けた女の子がハンナの娘で、ハンナの育ての親の老人の昔語りもあるが、思わせぶりなだけで過去話は活きてこない。
最後にハンナの娘を助けるためにカシエルは死んでしまうが、無事昇天して天使に逆戻り。時がどうのと繰り返されるが、難解というよりは骨なし軟体物語。
天使に男女はないが、ナスターシャ・キンスキーが女の天使を演じるのが見どころといえば見どころ。ピーター・フォークも前作に引き続いて登場。 (評価:2)
リトル・ブッダ
日本公開:1994年5月14日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジェレミー・トーマス 脚本:マーク・ペプロー、ルディ・ワーリッツァー 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:坂本龍一
原題"Little Buddha"。仏陀の魂を受け継ぐといわれる高僧ドルジェが死んで、シアトルに住む少年ジェシーに転生したことから、この小さな少年が仏陀の魂を受け継いだ、というのがタイトルの由来。
もっともジェシーだけでなく、ネパールの2人の少年と少女の3つにドルジェの魂が分裂して転生していることや、そもそも2500年前の仏陀の魂が今も転生しているという設定そのものが、原案のベルトルッチの単なるオリエンタル趣味でしかない。
『聖書物語』のようにシッダールタの誕生から悟りを開くまでの『シッダールタ物語』を作ろうとしたが、それだけでは退屈にしかならないと気づいてか、枠物語にダライ・ラマもどきの話をくっつけたものの、所詮は仏教とは程遠い浅薄で退屈な作品にしかならなかったというのが結論。
3人の子供たちが互いに引き合って邂逅し、病を押して3人を探し当てたドルジェの弟子ノルブ(イン・ルオ・チェン)は、ドルジェの魂を一つに引き合わせたことで使命を終えて命を引き取る。
もっとも3人はそれぞれの地に帰ってしまうわけで、それで仏陀の魂や転生の意味については触れられないままの単なるダライ・ラマ探しゲームに終わってしまっている。
シッダールタをキアヌ・リーブスが演じているくらいが話題で、全編英語というのも違和感がある。 (評価:2)
海辺のポーリーヌ
日本公開:1985年6月15日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
原題"Pauline à la plage"で、邦題の意。
15歳の少女ポーリーヌがノルマンディーに避暑に訪れ、従姉の恋愛騒動に巻き込まれながら男女の愛の在り方について考えるという話。もっとも恋愛経験もない子供のくせに大人にいっぱしの恋愛論をぶって説教するという小生意気ぶりで、こんな子供のうちから恋愛しか頭にないフランス人を見ていると、イギリス人がフランス人を嫌う理由がわかる気がする作品。
ポーリーヌ(アマンダ・ラングレ)は保護者の従姉マリオン(アリエル・ドンバール)と別荘にやってくる。ところが保護者とは名ばかりで、海辺で知り合った遊び人の中年男アンリ(フェオドール・アトキン)に一目惚れしてたちまちベッドイン。元ボーイフレンドのピエール(パスカル・グレゴリー)の忠告も嫉妬だと耳に入れない。一方のポーリーヌも避暑地で恋をしなければ損とばかりに、ウインドサーファー少年シルヴァン(シモン・ド・ラ・ブロス)と仲良くなる。
アンリがキャンディ売りの女をベッドに引き入れたところにマリオンがやってきて、アンリは女の相手をシルヴァンだと嘘をつく。これにポーリーヌが傷つき、女を引き込んだのを目撃したピエールが真実を告げると、今度はマリオンがピエールを嘘つきというドタバタ劇。男も男なら女も女という恋愛しか頭にないフランス人の話で、女二人の幸福を祈る真面目青年のピエール一人が、無粋で嫉妬深い告げ口男とみんなから非難されるという理不尽な物語。
騙されているという真実よりも、愛されていると誤解している方が幸せというのがポーリーヌの結論で、フランス人以外にはどうでもいい話。 (評価:2)