外国映画レビュー──1992年
製作国:中国、香港
日本公開:1993年6月19日
監督:チャン・イーモウ 脚本:リュウ・ホン 撮影:チー・シャオニン、ツイ・シャオチュン、リュウ・ホンイー 美術:ツァオ・ジュウピン 音楽:ツァオ・チピン
キネマ旬報:2位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
近代化が成しえない中国が抱える矛盾そのものを描く
原題"秋菊打官司"で、秋菊(チウ・チュ)の訴訟の意。陳源斌の小説『萬家訴訟』が原作。
町の雑踏の中に義妹と荷車を引く秋菊(コン・リー)が現れ、カメラは荷車とともに賑やかな通りをパンしてが、市井をそのままに撮影したかのように、大勢の人々がカメラを意識せず自然のままに振る舞う冒頭のシーンが素晴らしい。
コン・リーもよく見なければそれとわからないほどに朴訥な田舎の女として人々に溶け込んでいる。
続くストーブの薪を割る町医者のシーンと、徹底した自然主義の演出によって本作が佳作であることを予感させるのだが、一転薄っすらと雪の積もる山道を行く荷車へと変わり、美しい農村風景との対比がまた素晴らしい。
秋菊は唐辛子農家の嫁で、無許可で納屋を建てたことから夫が村長に股間を蹴られて怪我をし、村長が非を認めないことから謝罪を求めて郡の警官に訴える。治療費を払うことで収まりかけるが、村長は謝罪せず、金を撒いて拾わせようとしたことから秋菊は調停を拒否、村長の謝罪を求めて県の役所、市の役所へ訴えるが、調停案は変わらない。
争いは遂に裁判に持ち込まれ第一審では敗訴。控訴中、大晦日に出産した秋菊は出血が止まらず、村長の尽力で母子ともに助かる。村人たちを招いての祝宴に村長を呼び、わだかまりが解けたかに見えたところに控訴の結果が届けられ、村長は暴行傷害罪で逮捕されてしまう。
村を去って行く警察車両を追いかけ、謝ってほしかっただけなのにという秋菊の顔アップのストップモーションで物語は終わる。
垢抜けない田舎女を演じるコン・リーの演技が素晴らしく、最後まで目の離せない良く出来た作品なのだが、ラストシーンがどうにもすっきりしない。
怪我を負わせて謝らない村長の罪が、出産の命の恩人になったから帳消しになるというのでは余りにムラ社会的なふにゃけた話。秋菊の行動はいったい何だったのかということになる。
テーマをわかりやすい官僚主義批判と捉えるには、村長の逮捕という結果は法治主義を貫いた中央政府を賛美することになる。
当初、チャン・イーモウは本作をコメディにしようと考えたといい、本作の抱える矛盾を中国のムラ社会と中央政府に対する風刺で回避しようとしたのかもしれない。
リアリズムに転じさせたチャン・イーモウが描きたかったのは何だったのか? 近代化しようとして成し遂げられない中国が抱える矛盾そのものなのか?
ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞。コン・リーは同主演女優賞。収穫した唐辛子の画面いっぱいに広がる赤など、映像の色彩の鮮やかさも見どころとなっている。 (評価:3)
日本公開:1993年6月19日
監督:チャン・イーモウ 脚本:リュウ・ホン 撮影:チー・シャオニン、ツイ・シャオチュン、リュウ・ホンイー 美術:ツァオ・ジュウピン 音楽:ツァオ・チピン
キネマ旬報:2位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"秋菊打官司"で、秋菊(チウ・チュ)の訴訟の意。陳源斌の小説『萬家訴訟』が原作。
町の雑踏の中に義妹と荷車を引く秋菊(コン・リー)が現れ、カメラは荷車とともに賑やかな通りをパンしてが、市井をそのままに撮影したかのように、大勢の人々がカメラを意識せず自然のままに振る舞う冒頭のシーンが素晴らしい。
コン・リーもよく見なければそれとわからないほどに朴訥な田舎の女として人々に溶け込んでいる。
続くストーブの薪を割る町医者のシーンと、徹底した自然主義の演出によって本作が佳作であることを予感させるのだが、一転薄っすらと雪の積もる山道を行く荷車へと変わり、美しい農村風景との対比がまた素晴らしい。
秋菊は唐辛子農家の嫁で、無許可で納屋を建てたことから夫が村長に股間を蹴られて怪我をし、村長が非を認めないことから謝罪を求めて郡の警官に訴える。治療費を払うことで収まりかけるが、村長は謝罪せず、金を撒いて拾わせようとしたことから秋菊は調停を拒否、村長の謝罪を求めて県の役所、市の役所へ訴えるが、調停案は変わらない。
争いは遂に裁判に持ち込まれ第一審では敗訴。控訴中、大晦日に出産した秋菊は出血が止まらず、村長の尽力で母子ともに助かる。村人たちを招いての祝宴に村長を呼び、わだかまりが解けたかに見えたところに控訴の結果が届けられ、村長は暴行傷害罪で逮捕されてしまう。
村を去って行く警察車両を追いかけ、謝ってほしかっただけなのにという秋菊の顔アップのストップモーションで物語は終わる。
垢抜けない田舎女を演じるコン・リーの演技が素晴らしく、最後まで目の離せない良く出来た作品なのだが、ラストシーンがどうにもすっきりしない。
怪我を負わせて謝らない村長の罪が、出産の命の恩人になったから帳消しになるというのでは余りにムラ社会的なふにゃけた話。秋菊の行動はいったい何だったのかということになる。
テーマをわかりやすい官僚主義批判と捉えるには、村長の逮捕という結果は法治主義を貫いた中央政府を賛美することになる。
当初、チャン・イーモウは本作をコメディにしようと考えたといい、本作の抱える矛盾を中国のムラ社会と中央政府に対する風刺で回避しようとしたのかもしれない。
リアリズムに転じさせたチャン・イーモウが描きたかったのは何だったのか? 近代化しようとして成し遂げられない中国が抱える矛盾そのものなのか?
ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞。コン・リーは同主演女優賞。収穫した唐辛子の画面いっぱいに広がる赤など、映像の色彩の鮮やかさも見どころとなっている。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1992年10月10日
監督:ペニー・マーシャル 製作:ロバート・グリーンハット エリオット・アボット 脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル 撮影:ミロスラフ・オンドリチェク 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:7位
野球に青春を賭けた彼女たちの姿が清々しい
原題"A League of Their Own"で、彼女たち自身のリーグの意。
戦時中に発足した実在の全米女子プロ野球リーグを題材にしたコメディドラマ。
大リーグが出征のために選手が欠けて破綻したのを受けて、プロモーターが女子野球リーグを構想。ソフトボールの選手をスカウトして、ロックフォード・ピーチーズを結成、怪我で引退した大リーグ有名選手(トム・ハンクス)を監督に迎える。
ピーチーズの主力選手となるのがバッテリーを組む姉妹、捕手のドティ(ジーナ・デイヴィス)と投手のキット(ロリ・ペティ)で、これに器量の悪い強打者のマーラ(ミーガン・カバナー)、ダンサー出身のメイ(マドンナ)が加わるが、野球とは名ばかりで、選手にスカートを履かせた見世物。
監督は女子野球をバカにして酒浸り。ドティが監督代行で真剣勝負をし、スタンドプレーで観客を沸かせるようになると、心を入れ替えて指揮を執り始める。ところが、夫が復員してドティが抜けてしまう。
プレーオフに進んだピーチーズは、キットが移籍したベルズと対戦。最終戦へともつれ込み、ドティが復帰しての姉妹対決がクライマックスとなるという展開。
結局キットが勝って野球への志を貫き、ドティは家庭に戻るが、終戦は女子プロ野球の黄昏を意味し、徒花と咲いて1954年に幕を閉じる。
ラストは1988年の野球殿堂入りでピーチーズが再会。徒花ではあったが、野球に青春を賭けた彼女たちの歴史を刻して終わる。
女優が演じるため、いずれもゴロにしかならないようなバッティングフォームだが、主催者からも観客からもセクハラを受けながら、A League of Their Ownを貫く彼女らの姿を女性監督のペニー・マーシャルが清々しく描く。
エンディングロールの実際のメンバーがプレーしている映像が、老いてなお彼女らの野球愛を示していて最大の見どころとなっている。 (評価:3)
日本公開:1992年10月10日
監督:ペニー・マーシャル 製作:ロバート・グリーンハット エリオット・アボット 脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル 撮影:ミロスラフ・オンドリチェク 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:7位
原題"A League of Their Own"で、彼女たち自身のリーグの意。
戦時中に発足した実在の全米女子プロ野球リーグを題材にしたコメディドラマ。
大リーグが出征のために選手が欠けて破綻したのを受けて、プロモーターが女子野球リーグを構想。ソフトボールの選手をスカウトして、ロックフォード・ピーチーズを結成、怪我で引退した大リーグ有名選手(トム・ハンクス)を監督に迎える。
ピーチーズの主力選手となるのがバッテリーを組む姉妹、捕手のドティ(ジーナ・デイヴィス)と投手のキット(ロリ・ペティ)で、これに器量の悪い強打者のマーラ(ミーガン・カバナー)、ダンサー出身のメイ(マドンナ)が加わるが、野球とは名ばかりで、選手にスカートを履かせた見世物。
監督は女子野球をバカにして酒浸り。ドティが監督代行で真剣勝負をし、スタンドプレーで観客を沸かせるようになると、心を入れ替えて指揮を執り始める。ところが、夫が復員してドティが抜けてしまう。
プレーオフに進んだピーチーズは、キットが移籍したベルズと対戦。最終戦へともつれ込み、ドティが復帰しての姉妹対決がクライマックスとなるという展開。
結局キットが勝って野球への志を貫き、ドティは家庭に戻るが、終戦は女子プロ野球の黄昏を意味し、徒花と咲いて1954年に幕を閉じる。
ラストは1988年の野球殿堂入りでピーチーズが再会。徒花ではあったが、野球に青春を賭けた彼女たちの歴史を刻して終わる。
女優が演じるため、いずれもゴロにしかならないようなバッティングフォームだが、主催者からも観客からもセクハラを受けながら、A League of Their Ownを貫く彼女らの姿を女性監督のペニー・マーシャルが清々しく描く。
エンディングロールの実際のメンバーがプレーしている映像が、老いてなお彼女らの野球愛を示していて最大の見どころとなっている。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年1月15日
監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・ブラウン、マイケル・トルキン、ニック・ウェクスラー 脚本:マイケル・トルキン 撮影:ジャン・ルピーヌ 音楽:トーマス・ニューマン
キネマ旬報:3位
ゴールデン・グローブ作品賞(コメディ・ミュージカル部門)
開いた口が塞がらない映画人のブラックコメディ
原題"The Player"。ハリウッドの舞台裏を描くサスペンスタッチのブラック・コメディで、主人公の映画スタジオ重役が本作のプレイヤー、俳優となる。
マイケル・トルキンの同名小説が原作。
冒頭はかなりの長回しのワン・ショットで、スタジオに出入りする人たちを群像的に描く。この中に、最近の映画はカット・カット・カットの細かい繋ぎが多いという批判があって、本作が映画界そのものを斜めに見る映画であることがわかる。
物語は、20世紀FOXからやり手のプロデューサーが移籍してきたために、主人公のミルが危機感を感じるというところから始まる。同時に、謎のシナリオライターからの脅迫はがきが届き始め、ミルが犯人探しをしているうちに、その他大勢の持ち込みライターを殺してしまう。さらに、その彼女とデキてしまうという節操のなさで、女刑事から容疑者として追及を受けるものの、目撃者の勘違いから無罪放免。社長が死んで次期社長に繰り上がり、めでたしめでたしという開いた口が塞がらないハッピーエンドで終わる。
山のように持ち込まれる脚本よりも企画アイディアの方が大事とか、リアリティよりもハッピーエンドとか、ハリウッド映画や映画界の内実が描かれていくが、本作の物語自体がリアリティよりもハッピーエンドという皮肉な結末になっている。
謎の脅迫はがきを送り続けた犯人は最後まで登場しないが、ラストに本作そのものがこの犯人の書いたシナリオだったことがわかる。
映画スターの本人役で、ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィリス等が出演しているのも見どころ。 (評価:2.5)
日本公開:1993年1月15日
監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・ブラウン、マイケル・トルキン、ニック・ウェクスラー 脚本:マイケル・トルキン 撮影:ジャン・ルピーヌ 音楽:トーマス・ニューマン
キネマ旬報:3位
ゴールデン・グローブ作品賞(コメディ・ミュージカル部門)
原題"The Player"。ハリウッドの舞台裏を描くサスペンスタッチのブラック・コメディで、主人公の映画スタジオ重役が本作のプレイヤー、俳優となる。
マイケル・トルキンの同名小説が原作。
冒頭はかなりの長回しのワン・ショットで、スタジオに出入りする人たちを群像的に描く。この中に、最近の映画はカット・カット・カットの細かい繋ぎが多いという批判があって、本作が映画界そのものを斜めに見る映画であることがわかる。
物語は、20世紀FOXからやり手のプロデューサーが移籍してきたために、主人公のミルが危機感を感じるというところから始まる。同時に、謎のシナリオライターからの脅迫はがきが届き始め、ミルが犯人探しをしているうちに、その他大勢の持ち込みライターを殺してしまう。さらに、その彼女とデキてしまうという節操のなさで、女刑事から容疑者として追及を受けるものの、目撃者の勘違いから無罪放免。社長が死んで次期社長に繰り上がり、めでたしめでたしという開いた口が塞がらないハッピーエンドで終わる。
山のように持ち込まれる脚本よりも企画アイディアの方が大事とか、リアリティよりもハッピーエンドとか、ハリウッド映画や映画界の内実が描かれていくが、本作の物語自体がリアリティよりもハッピーエンドという皮肉な結末になっている。
謎の脅迫はがきを送り続けた犯人は最後まで登場しないが、ラストに本作そのものがこの犯人の書いたシナリオだったことがわかる。
映画スターの本人役で、ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィリス等が出演しているのも見どころ。 (評価:2.5)
ベルエポック
日本公開:1993年12月18日
監督:フェルナンド・トルエバ 製作:アンドレス・ビセンテ・ゴメス 脚本:ラファエル・アスコナ 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:アントワーヌ・デュアメル
アカデミー外国語映画賞
原題"Belle Époque"で、良き時代の意。
時は1931年のスペイン。何が良き時代だったかというと、王政から共和制への移行期で、左右対立によるスペイン内戦が始まるまでの束の間の自由と希望に満ちた時代ということになる。
主人公は政府軍の兵士フェルナンド(ホルヘ・サンス)で、劣勢と見て軍隊を抜けてマドリッドから逃走。田舎町で一人住まいの老人マノロ(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)と知り合い、匿ってもらう。料理の特異なフェルナンドは、マノロの世話をするうちに親しくなり、養子のような関係になるが、そこにマノロの娘4人が帰省してくる。マドリッドに帰りかけたフェルナンドは気が変わって家政夫を続けるが、ハンサムのため4姉妹に惚れられ、男として育てられた次女(アリアドナ・ヒル)、婚約者のいる三女(マリベル・ベルドゥ)、夫を亡くした長女(ミリアム・ディアス=アロカ)と次々に関係を持ってしまい、最後は処女の四女(ペネロペ・クルス)と結婚するという艶笑コメディ。
劇中では自由恋愛がキーワードになっていて、カトリックのスペインでも共和制になれば自由に恋愛できるという若者たちの潮流の中で、神父は禁じられている自殺をし、フェルナンドが義理の息子となったマノロは友達を失うという、旧世代にはほろ苦い結末となっている。
アカデミー外国語映画賞を受賞。 (評価:2.5)
そして人生はつづく
日本公開:1993年10月23日
監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アリ・レザ・ザリン 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:ホマユン・パイヴァール
原題"زندگی و دیگر هیچ"で、命、そして他には何もないの意。
1990年のイラン地震後、監督のキアロスタミが『友だちのうちはどこ?』(1987)の出演者の安否を確かめるためにコケルの村を訪れた際の様子を再現映像で描くセミ・ドキュメンタリー。
監督(ファルハッド・ケラドマン)が息子(プーヤ・パイヴァール)を車に乗せてテヘランからコケルに向かうシーンから始まるが、通行止めや渋滞に巻き込まれて脇道へと逸れる。岩石に押し潰された車や崩れた家屋など風景は段々と悲惨な状況に変わる。
『友だちのうちはどこ?』に登場したもう一つの村ポシュテで、無事だった出演者たちに再会するが、多くの人命が失われたという話を聞く。コケルから避難した人々のテント村を経て、無事だという主演のアハマッド・アハマッドプールを訪ねて村への急坂を喘ぎながら進む自動車の遠景で物語は終わる。
『友だちのうちはどこ?』で印象的だったジグザグの山道や、本作に続く『オリーブの林をぬけて』(1994)に出てくる若い夫婦の二階家の階段が登場したり、本作のラストシーンは『オリーブの林をぬけて』のラストシーンのモチーフとなっていて、両作を繋ぐ作品となっている。
被災者たちの言葉に繰り返される「これもアッラーの思し召し」に対し、息子が「アッラーが人を殺すわけがない」と問いかけ、イスラム原理主義下のイランでの人文主義を主張する。
地震で家を失った人が、地震で人を失った家に住み、テント村でラジオのサッカー中継を聞き逃すまいとアンテナを立てる被災者に、人間の逞しさを描く。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年4月24日
監督:クエンティン・タランティーノ 製作:ローレンス・ベンダー 脚本:クエンティン・タランティーノ 撮影:アンジェイ・セクラ
キネマ旬報:6位
アクションでもサスペンスでもないギャング会話劇
原題"Reservoir Dogs"。Reservoirには病原体の宿主などの意味がある。
宝石強盗を働いたギャング団の物語で、タランティーノの長編映画初監督作品。冒頭のカフェでの会合を除けば、血糊だらけのスクリーンの赤い映画で、耳を切り取るという残酷描写もある。最後には全員が死んでしまうというのも、タランティーノなら予想される展開で、その通りに進んで行く。
空き倉庫が舞台の中心で、回想の形をとって町中のロケのシーンが挟まるが、肝腎の強盗と警察との銃撃戦のシーンは直接描かれず、低予算映画ならではの工夫をしているが、ギャングたちにのべつ幕なしに喋らせるという手法で、手抜きを上手くカバーしている。
そうした点ではアクション映画でもサスペンス映画でもない会話劇で、音楽や映画などの話題を織り込みながら、タランティーノのシナリオは上手くできている。展開的には、ギャング団の一人に囮捜査の刑事がいるというイヌ探しがストーリーの引きとなるが、予想された人間で、割と早めに明かされる。
タランティーノ自身も出演していて、自主製作映画っぽい安上がり感があるが、タランティーノの才気が満ちていて、バイオレンスが苦手でなければ楽しめる。
冒頭のカフェのシーンで、サービスの質をめぐってウエイトレスにチップを払うかどうかの会話があるが、アメリカ人もチップ制度に疑問を感じる人がいるというのが面白い。 (評価:2.5)
日本公開:1993年4月24日
監督:クエンティン・タランティーノ 製作:ローレンス・ベンダー 脚本:クエンティン・タランティーノ 撮影:アンジェイ・セクラ
キネマ旬報:6位
原題"Reservoir Dogs"。Reservoirには病原体の宿主などの意味がある。
宝石強盗を働いたギャング団の物語で、タランティーノの長編映画初監督作品。冒頭のカフェでの会合を除けば、血糊だらけのスクリーンの赤い映画で、耳を切り取るという残酷描写もある。最後には全員が死んでしまうというのも、タランティーノなら予想される展開で、その通りに進んで行く。
空き倉庫が舞台の中心で、回想の形をとって町中のロケのシーンが挟まるが、肝腎の強盗と警察との銃撃戦のシーンは直接描かれず、低予算映画ならではの工夫をしているが、ギャングたちにのべつ幕なしに喋らせるという手法で、手抜きを上手くカバーしている。
そうした点ではアクション映画でもサスペンス映画でもない会話劇で、音楽や映画などの話題を織り込みながら、タランティーノのシナリオは上手くできている。展開的には、ギャング団の一人に囮捜査の刑事がいるというイヌ探しがストーリーの引きとなるが、予想された人間で、割と早めに明かされる。
タランティーノ自身も出演していて、自主製作映画っぽい安上がり感があるが、タランティーノの才気が満ちていて、バイオレンスが苦手でなければ楽しめる。
冒頭のカフェのシーンで、サービスの質をめぐってウエイトレスにチップを払うかどうかの会話があるが、アメリカ人もチップ制度に疑問を感じる人がいるというのが面白い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年4月29日
監督:マーティン・ブレスト 製作:マーティン・ブレスト 脚本:ボー・ゴールドマン 撮影:ドナルド・E・ソーリン 音楽:トーマス・ニューマン
ゴールデングローブ作品賞
凡作も俳優次第で佳作にもなるという見本
原題"Scent of a Woman"で、女の香りの意。ジョヴァンニ・アルピーノのイタリア小説"Il buio e il miele"(闇と蜂蜜)が原作。
成功者となるために妥協する人生を送るのか、不器用であろうとも信念を貫く人生を選ぶのか、というのが本作のテーマ。多くの人間が前者で、普段は利己のために人を裏切っていながら、ママの誕生日にはケーキを送るという欺瞞の中で、もちろん主人公たちは後者を選ぶという内容。
校長から仲間を売ればハーバードに入学させてやると悪魔の誘惑を受ける高校生が、バイトで世話を頼まれた世渡り下手で盲目のエリート退役軍人と数日間を過ごし、互いの不器用な誠実さを認め合いながら、悪魔の誘惑を撥ね退けるという物語で、高校生をクリス・オドネル、元中佐をアル・パチーノが演じる。
ストーリーにもテーマにも目新しさはなく、老人が青年との友情を深めながら善き人へと導くというテンプレに、勧善懲悪の胸のスカッとするハッピーエンドを迎えるという点でもハリウッド的ポピュリズムの作品で、普通ならば2時間40分の凡庸なストーリーは長すぎて退屈するところ。
それがそうならないのはひとえにアル・パチーノの演技力の賜物で、52歳にして初のアカデミー主演男優賞を受賞した。クリス・オドネルも健闘していて、見どころはほぼこれに尽きるが、凡作も俳優次第で佳作にもなるという見本。
映像的には、ガブリエル・アンウォーとタンゴを踊るシーンと元中佐がフェラーリをぶっ飛ばすシーンが見せ場だが、盲目で運転する爆走シーンはいくら何でもやり過ぎ。
主人公とは対照的な利己的な高校生を若き日のフィリップ・シーモア・ホフマンが演じている。 (評価:2.5)
日本公開:1993年4月29日
監督:マーティン・ブレスト 製作:マーティン・ブレスト 脚本:ボー・ゴールドマン 撮影:ドナルド・E・ソーリン 音楽:トーマス・ニューマン
ゴールデングローブ作品賞
原題"Scent of a Woman"で、女の香りの意。ジョヴァンニ・アルピーノのイタリア小説"Il buio e il miele"(闇と蜂蜜)が原作。
成功者となるために妥協する人生を送るのか、不器用であろうとも信念を貫く人生を選ぶのか、というのが本作のテーマ。多くの人間が前者で、普段は利己のために人を裏切っていながら、ママの誕生日にはケーキを送るという欺瞞の中で、もちろん主人公たちは後者を選ぶという内容。
校長から仲間を売ればハーバードに入学させてやると悪魔の誘惑を受ける高校生が、バイトで世話を頼まれた世渡り下手で盲目のエリート退役軍人と数日間を過ごし、互いの不器用な誠実さを認め合いながら、悪魔の誘惑を撥ね退けるという物語で、高校生をクリス・オドネル、元中佐をアル・パチーノが演じる。
ストーリーにもテーマにも目新しさはなく、老人が青年との友情を深めながら善き人へと導くというテンプレに、勧善懲悪の胸のスカッとするハッピーエンドを迎えるという点でもハリウッド的ポピュリズムの作品で、普通ならば2時間40分の凡庸なストーリーは長すぎて退屈するところ。
それがそうならないのはひとえにアル・パチーノの演技力の賜物で、52歳にして初のアカデミー主演男優賞を受賞した。クリス・オドネルも健闘していて、見どころはほぼこれに尽きるが、凡作も俳優次第で佳作にもなるという見本。
映像的には、ガブリエル・アンウォーとタンゴを踊るシーンと元中佐がフェラーリをぶっ飛ばすシーンが見せ場だが、盲目で運転する爆走シーンはいくら何でもやり過ぎ。
主人公とは対照的な利己的な高校生を若き日のフィリップ・シーモア・ホフマンが演じている。 (評価:2.5)
青春神話
日本公開:1995年6月10日
監督:ツァイ・ミンリャン 脚本:ツァイ・ミンリャン 撮影:リアロ・ペンロン 音楽:ホワン・シューチュン
原題"青少年哪吒"で、十代のナタの意。ナタは道教の少年神の名。
高速道路や地下鉄が建設中の台北が舞台で、経済発展と共に大きく変貌する街と、その変化の中で停滞し、漂流する若者たちを描く。
主人公は予備校生のシャオカン(李康生)。母(陸弈靜)は占いでシャオカンがナタの生まれ変わりだと信じ、タクシー運転手の父(苗天)とともにシャオカンに将来の期待をかけるが、シャオカンは予備校を辞めようとしている。
シャオカンがたまたま父のタクシーに乗せてもらっていた時に、バイクに乗ったアツー(陳昭榮)とトラブルになり、車を破損される。アツーはアピン(任長彬)と組んで乱暴な窃盗を繰り返す不良で、シャオカンは、アツーを探し出してバイクを破壊、仕返しをする。
アツーとアピンは盗んだゲーム基板が元で半殺しの目に遭い、予備校を辞めたシャオカンはテレクラでバイトをしようとするが、虚しさを感じて街に彷徨い出るというラスト。
豊かになった社会の中に、セックスと金に身を滅ぼすアツーとアピン、心の隙間を男で埋める仲間のアクイ(王渝文)、目的を見いだせないシャオカンの、不安と孤独に怯える若者たちの姿が浮かび上がる。アツーの部屋の排水溝から逆流する水は、そうした出口のない若者たちを象徴する。
シャオカンを勘当する父もまた、時代の変化にも若者たちの変化にもついて行けないのだが、息子のために玄関のドアを開けておく温かさが、ラストの救いとなっている。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年9月4日
監督:ロバート・レッドフォード 製作:ロバート・レッドフォード、パトリック・マーキー 脚本:リチャード・フリーデンバーグ 撮影:フィリップ・ルースロ 美術:ウォルター・P・マーティシャス 編集:ロバート・エストリン、リンジー・クリングマン 音楽:マーク・アイシャム
キネマ旬報:7位
安易なセンチメンタリズムに持って行ったのが惜しまれる
原題"A River Runs Through It"で、劇中字幕では「その中を川が流れる」と訳されている。
ロバート・レッドフォード監督らしく、端正でオーソドックスな作品。文句のつけようもないが、それがまた物足りなさにもなっている。
終盤は、兄弟愛を描くこの手の作品ならきっとそうなるのだろうと思う通りの展開で、センチメンタルなラストとなる。感傷を好む人なら、最後にうるうるして心に浸みる作品だったということになるが、感傷以外のものが残るわけでもなく、年老いた兄の回想の中の言葉に、せめてもの人生の哀愁を見るしかない。
*
Now nearly all those I loved and did not understand in my youth are dead. Even Jessie.
But I still reach out to them.
Of course, now I'm too old to be much of a fisherman.
And now I usually fish the big waters alone... although some friends think I shouldn't.
But when I am alone in the half-light of the canyon... all existence seems to fade to a being with my soul and memories... and the sounds of the Big Blackfoot River and a four-count rhythm... and the hope that a fish will rise.
Eventually, all things merge into one... and a river runs through it.
The river was cut by the world's great flood... and runs over rocks from the basement of time.
On some of the rocks are timeless raindrops.
Under the rocks are the words... and some of the words are theirs.
I am haunted by waters.
(若かった頃に、愛しながらも理解してあげられなかった者たちは、みんなこの世を去った。ジェシー(妻)さえ。
しかし、今でも彼らに語りかける。
確かに、年を取り過ぎて釣りもおぼつかない。
そして今は大きな川で一人で釣りをする・・・友人たちは止めるが。
でも、渓谷の薄暮にひとりいると・・・すべての存在が薄れて、私の魂と思い出になるような気がする・・・大きなブラックフット川のせせらぎと4拍子のリズム・・・そして川面に魚が現れる期待。
やがて、すべてが一つに溶け合い・・・その中を川が流れる。
洪水期に削られた川は・・・時の始まりから岩の上を流れる。
岩の上を絶え間なく雨粒が濡らす。
岩の下には言葉が・・・そのいくつかは岩のものだ。
私は川から目を離すことができない)
*
舞台はモンタナの大自然の町。厳格な牧師を父に持つ兄弟は、幼い頃から川釣りの手ほどきを受け、自然の中に神が宿ることを教えられる。
父の期待に反し、優等生の兄は東部の大学を出て教職に付き、弟は地元紙の記者となる。幼い頃から父に反発していた奔放な弟は、川釣りと自然とモンタナを愛している。故郷に帰ってきた兄との久々の家族の触れ合い。兄はシカゴの大学の招聘を受けて、一目惚れの地元娘と結婚する・・・というストーリー。
いくつかのテーマが暗示されながらも、それらが描かれることなく、安易なセンチメンタリズムに持って行ったのが惜しまれる。
兄にクレイグ・シェイファー、弟のブラッド・ピットが若い。 (評価:2.5)
日本公開:1993年9月4日
監督:ロバート・レッドフォード 製作:ロバート・レッドフォード、パトリック・マーキー 脚本:リチャード・フリーデンバーグ 撮影:フィリップ・ルースロ 美術:ウォルター・P・マーティシャス 編集:ロバート・エストリン、リンジー・クリングマン 音楽:マーク・アイシャム
キネマ旬報:7位
原題"A River Runs Through It"で、劇中字幕では「その中を川が流れる」と訳されている。
ロバート・レッドフォード監督らしく、端正でオーソドックスな作品。文句のつけようもないが、それがまた物足りなさにもなっている。
終盤は、兄弟愛を描くこの手の作品ならきっとそうなるのだろうと思う通りの展開で、センチメンタルなラストとなる。感傷を好む人なら、最後にうるうるして心に浸みる作品だったということになるが、感傷以外のものが残るわけでもなく、年老いた兄の回想の中の言葉に、せめてもの人生の哀愁を見るしかない。
*
Now nearly all those I loved and did not understand in my youth are dead. Even Jessie.
But I still reach out to them.
Of course, now I'm too old to be much of a fisherman.
And now I usually fish the big waters alone... although some friends think I shouldn't.
But when I am alone in the half-light of the canyon... all existence seems to fade to a being with my soul and memories... and the sounds of the Big Blackfoot River and a four-count rhythm... and the hope that a fish will rise.
Eventually, all things merge into one... and a river runs through it.
The river was cut by the world's great flood... and runs over rocks from the basement of time.
On some of the rocks are timeless raindrops.
Under the rocks are the words... and some of the words are theirs.
I am haunted by waters.
(若かった頃に、愛しながらも理解してあげられなかった者たちは、みんなこの世を去った。ジェシー(妻)さえ。
しかし、今でも彼らに語りかける。
確かに、年を取り過ぎて釣りもおぼつかない。
そして今は大きな川で一人で釣りをする・・・友人たちは止めるが。
でも、渓谷の薄暮にひとりいると・・・すべての存在が薄れて、私の魂と思い出になるような気がする・・・大きなブラックフット川のせせらぎと4拍子のリズム・・・そして川面に魚が現れる期待。
やがて、すべてが一つに溶け合い・・・その中を川が流れる。
洪水期に削られた川は・・・時の始まりから岩の上を流れる。
岩の上を絶え間なく雨粒が濡らす。
岩の下には言葉が・・・そのいくつかは岩のものだ。
私は川から目を離すことができない)
*
舞台はモンタナの大自然の町。厳格な牧師を父に持つ兄弟は、幼い頃から川釣りの手ほどきを受け、自然の中に神が宿ることを教えられる。
父の期待に反し、優等生の兄は東部の大学を出て教職に付き、弟は地元紙の記者となる。幼い頃から父に反発していた奔放な弟は、川釣りと自然とモンタナを愛している。故郷に帰ってきた兄との久々の家族の触れ合い。兄はシカゴの大学の招聘を受けて、一目惚れの地元娘と結婚する・・・というストーリー。
いくつかのテーマが暗示されながらも、それらが描かれることなく、安易なセンチメンタリズムに持って行ったのが惜しまれる。
兄にクレイグ・シェイファー、弟のブラッド・ピットが若い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ、イギリス、ルーマニア
日本公開:1992年12月19日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・フックス、チャールズ・マルヴェヒル 脚本:ジェイムズ・V・ハーオト 撮影:ミヒャエル・バルハウス 音楽:ヴォイチェフ・キラール
原作に忠実に作ったから面白いというわけでもない
原題の"Bram Stoker's Dracula"の通り、ブラム・ストーカーの原作『ドラキュラ』(Dracula)に忠実にを謳い文句に製作された。ドラキュラ映画といえばクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(Dracula,1958)のイメージが定着しているが、原作よりはだいぶ脚色されている。ドラキュラ映画として名高いのは、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(Nosferatu,1922)、『魔人ドラキュラ』(Dracula,1931)だが、ドイツ映画の『ノスフェラトゥ』は原作者未亡人の版権許諾が取れなかったためにタイトル変更した。
本作の前後のワラキア公ヴラド3世を基にしたドラキュラとエリザベータの挿話は原作にはない。映画全体が、エリザベータに瓜二つのミナによるドラキュラの救済と、ラブ・ストーリーが強く印象付けられているため、原作ファンやドラキュラファンには不満が残る。またドラゴン騎士団と反キリストを吸血鬼になるきっかけとしたために宗教色が強くなっていて、吸血鬼や怪物が美術的にもデーモンのように描かれていて、若干興ざめする。
それでも原作の味はよく出ていて、ストーリーもテンポ良くこなしているが、若干ディテールが足りない印象で、原作をよく知らない人にはダイジェストを見せられている気がするかもしれない。演出・美術・音楽もよく、随所に19世紀的ロマンの雰囲気が横溢する。アカデミー衣裳デザイン・メイクアップ・音響編集賞も受賞。
また視覚効果は、最近のCGを見慣れた目からはむしろ新鮮で、照明や合成・加工を使った効果や特殊撮影は艶めかしく、リアルなはずのCGよりも遥かにリアル。実写と区別がつかなくなっているCGが、むしろリアリティを損なっているということに気づかされる。リアリティは必ずしもリアルな映像からは生まれない。『ターミネーター2』(1991)や『ジュラシック・パーク』(1993)がCG元年だと考えると、この頃が視覚効果の分岐点だった。本作にCG以前の視覚効果の成熟を見ることができる。
時代設定は1897年で、トランシルヴァはルーマニア領ということになっているが、実際はハンガリー領。 (評価:2.5)
日本公開:1992年12月19日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・フックス、チャールズ・マルヴェヒル 脚本:ジェイムズ・V・ハーオト 撮影:ミヒャエル・バルハウス 音楽:ヴォイチェフ・キラール
原題の"Bram Stoker's Dracula"の通り、ブラム・ストーカーの原作『ドラキュラ』(Dracula)に忠実にを謳い文句に製作された。ドラキュラ映画といえばクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(Dracula,1958)のイメージが定着しているが、原作よりはだいぶ脚色されている。ドラキュラ映画として名高いのは、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(Nosferatu,1922)、『魔人ドラキュラ』(Dracula,1931)だが、ドイツ映画の『ノスフェラトゥ』は原作者未亡人の版権許諾が取れなかったためにタイトル変更した。
本作の前後のワラキア公ヴラド3世を基にしたドラキュラとエリザベータの挿話は原作にはない。映画全体が、エリザベータに瓜二つのミナによるドラキュラの救済と、ラブ・ストーリーが強く印象付けられているため、原作ファンやドラキュラファンには不満が残る。またドラゴン騎士団と反キリストを吸血鬼になるきっかけとしたために宗教色が強くなっていて、吸血鬼や怪物が美術的にもデーモンのように描かれていて、若干興ざめする。
それでも原作の味はよく出ていて、ストーリーもテンポ良くこなしているが、若干ディテールが足りない印象で、原作をよく知らない人にはダイジェストを見せられている気がするかもしれない。演出・美術・音楽もよく、随所に19世紀的ロマンの雰囲気が横溢する。アカデミー衣裳デザイン・メイクアップ・音響編集賞も受賞。
また視覚効果は、最近のCGを見慣れた目からはむしろ新鮮で、照明や合成・加工を使った効果や特殊撮影は艶めかしく、リアルなはずのCGよりも遥かにリアル。実写と区別がつかなくなっているCGが、むしろリアリティを損なっているということに気づかされる。リアリティは必ずしもリアルな映像からは生まれない。『ターミネーター2』(1991)や『ジュラシック・パーク』(1993)がCG元年だと考えると、この頃が視覚効果の分岐点だった。本作にCG以前の視覚効果の成熟を見ることができる。
時代設定は1897年で、トランシルヴァはルーマニア領ということになっているが、実際はハンガリー領。 (評価:2.5)
氷の微笑
日本公開:1992年6月6日
監督:ポール・バーホーベン 製作:アラン・マーシャル 脚本:ジョー・エスターハス 撮影: ヤン・デ・ボン 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
原題は"Basic Instinct"で、基本的な本能という意味。公開当時、過激な性描写が話題となりヒットした。配給は日本ヘラルドで、邦題の付け方が上手い。
シャロン・ストーンのノーパン・スカートやセックスシーンばかりが評判になったが、サスペンスとしてよくできている。マイケル・ダグラス演じる刑事同様、シャロン・ストーンの色香に目を眩まされ、誰が犯人なのかすっかり振り回されてしまう。事件は一応の解決を見るが、ラストシーンが思わせぶりで、再び誰が犯人なのかわからなくなってしまう。
丹念にシーンと台詞を追って行けば誰が犯人なのかわかるのだろうが、シャロン・ストーンの色気に騙されたふりをしてミステリアスな余韻を味わうというのが正しい鑑賞法。もっとも劇場では納得できなかったことを、スローやストップモーションで確認できるのがビデオの良さで、冒頭の殺人シーンでは、唯一の手がかりである女の裸を乳房の形から腰の肉付きまで、ほかのシーンと比較検討できる。それでもよくわからないというのが結論で、3人の女優のオーディションにはきっとヌード審査があって、同じ体つきの女優を揃えたに違いないと得心する。
性描写が過激なので家族で観るのには適さないが、独りでビデオ・コントローラーを駆使して犯人捜しが楽しめる。それにしても折角のノーパンシーンにぼかしが入るのは残念。刑事たちの動揺の意味が伝わらない。 (評価:2.5)
ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間
日本公開:1992年5月16日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:グレッグ・フィーンバーグ 脚本:デヴィッド・リンチ、ロバート・エンゲルス 撮影:ロン・ガルシア 美術:パトリシア・ノリス 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
原題"Twin Peaks:Fire Walk with Me"で、ツイン・ピークス:私とともに炎は歩むの意。1991〜1992年のABC制作のTVドラマ『ツイン・ピークス』の映画化。
ワシントン州ディア・メドウのテレサ・バンクス殺害事件から始まり、1年後、ツイン・ピークスでのローラ・パーマー殺害事件の1週間を描くという構成。
サスペンスでありながら起承転結を追わないというのがデヴィッド・リンチ流で、時間軸も過去と未来がフラッシュバックする。2つの殺人事件の犯人もわからないままに終わり、テレサ・バンクス(パメラ・ギドリー)の指輪、青い薔薇、ローラ・パーマー(シェリル・リー)の日記、尖がり鼻の仮面の少年というキー・アイテムも、何の回収もないままに終わる。
本作で目指しているのは事件解決でも犯人探しでもなく、ローラを取り巻く若者たちの風俗、ローラと父リーランド(レイ・ワイズ)との近親相姦的関係、あるいはリーランドに代表される大人の男たちの性的インモラルといった病んだアメリカ社会の投影であり、その被害者たるテレサと彼女によく似たローラがコカイン、セックスによる日常生活の崩壊と幻覚の中で、虚実も不明なままに自滅する姿を描くことにある。
あるいは、ルイズ・ブニュエルのヨーロッパ流とは違った、アメリカンでポップなシュール・リアリズムの作品ともいえ、この世界観を観察する立場にFBIのデズモンド特別捜査官(クリス・アイザック)が立つ。
もっとも、テレサ・バンクス殺害事件のプロローグではいきなり、オカルトともコメディも取れる非現実の世界に投げ込まれ、本作がサスペンスという前提で見ると、最後まで戸惑いと不満を感じることになる。 (評価:2.5)
製作国:イギリス
日本公開:1993年6月19日
監督:ニール・ジョーダン 製作:スティーヴン・ウーリー、エリザベス・カールセン 脚本:ニール・ジョーダン 撮影:イアン・ウィルソン 音楽:アン・ダッドリー
キネマ旬報:4位
マルガリータを飲みながら「愛していた」の台詞がほしかった
原題は"The Crying Game"。劇中挿入歌の字幕では「涙のゲーム」と訳されている。歌詞は恋の始まりと別れをCrying Gameに譬えている。
主人公はIRAのゲリラだが、政治映画でも社会派映画でもなく、おそらくは恋愛映画。おそらくと書いた理由についてはネタばれになるので書かないが、それを書かないと解説にならない。
主人公は、人質の英軍兵士を監視している間に友情を通わすようになる。人質に顔を晒したり名前を教えるなどあまり現実的ではないが、映画ではそれが主人公の性(さが、nature)だと説明する。この言葉はラストにもう一度繰り返されるが、主人公はただ善良なだけで言葉に深みはない。
英軍兵士は主人公に恋人の写真を渡し、メトロというバーに連れて行ってマルガリータを飲ませ「愛していた」と伝えてくれと頼む。主人公は彼女を見つけ、二人の間に恋愛感情のようなものが芽生える。しかし主人公は、メトロには行ってもマルガリータを飲ませることも、肝腎の「愛していた」の伝言も最後まで伝えない。その点では映画として画竜点睛を欠く。もっとも主人公の本心は英軍兵士に頼まれたから彼女に会ったのではなく、彼女の写真を見て気に入っただけ。愛したわけでもないが、ラストでは愛するようになったのかもしれない。
英軍兵士との約束を果たさなかったのは、兵士が主人公の善良さにつけ込んで逃げようとしたからか? それとも忘れただけなのか? 主人公の性(nature)は善良というより、ゲリラに向かないノンポリで、流されているだけにしか見えない。
IRA(アイルランド共和軍)については、知らなくてもこの映画を見る分には支障はない。一番肝心なシーンでぼかしが入るのが最大のマイナス。 (評価:2.5)
日本公開:1993年6月19日
監督:ニール・ジョーダン 製作:スティーヴン・ウーリー、エリザベス・カールセン 脚本:ニール・ジョーダン 撮影:イアン・ウィルソン 音楽:アン・ダッドリー
キネマ旬報:4位
原題は"The Crying Game"。劇中挿入歌の字幕では「涙のゲーム」と訳されている。歌詞は恋の始まりと別れをCrying Gameに譬えている。
主人公はIRAのゲリラだが、政治映画でも社会派映画でもなく、おそらくは恋愛映画。おそらくと書いた理由についてはネタばれになるので書かないが、それを書かないと解説にならない。
主人公は、人質の英軍兵士を監視している間に友情を通わすようになる。人質に顔を晒したり名前を教えるなどあまり現実的ではないが、映画ではそれが主人公の性(さが、nature)だと説明する。この言葉はラストにもう一度繰り返されるが、主人公はただ善良なだけで言葉に深みはない。
英軍兵士は主人公に恋人の写真を渡し、メトロというバーに連れて行ってマルガリータを飲ませ「愛していた」と伝えてくれと頼む。主人公は彼女を見つけ、二人の間に恋愛感情のようなものが芽生える。しかし主人公は、メトロには行ってもマルガリータを飲ませることも、肝腎の「愛していた」の伝言も最後まで伝えない。その点では映画として画竜点睛を欠く。もっとも主人公の本心は英軍兵士に頼まれたから彼女に会ったのではなく、彼女の写真を見て気に入っただけ。愛したわけでもないが、ラストでは愛するようになったのかもしれない。
英軍兵士との約束を果たさなかったのは、兵士が主人公の善良さにつけ込んで逃げようとしたからか? それとも忘れただけなのか? 主人公の性(nature)は善良というより、ゲリラに向かないノンポリで、流されているだけにしか見えない。
IRA(アイルランド共和軍)については、知らなくてもこの映画を見る分には支障はない。一番肝心なシーンでぼかしが入るのが最大のマイナス。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年4月24日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド 脚本:デイヴィッド・ウェッブ・ピープルズ 撮影:ジャック・N・グリーン 音楽:レニー・ニーハウス
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞
懐かしき西部劇ヒロイズムは時代錯誤か温故知新か?
原題は"Unforgiven"。
イーストウッドらしい、センチメントとヒロイズムが合体した作品。マカロニウエスタンで確立したカッコいい哀愁のガンマンが、歳を取った姿で登場する。実際、この映画はイーストウッドのヒーロー像そのものである『ダーティハリー』の監督ドン・シーゲルと『荒野の用心棒』の監督セルジオ・レオーネに捧げられている。
1970年頃を境にして西部劇もニューシネマの影響を受けているが、イーストウッドの映画にはそれが感じられず、ジョン・ウェイン時代の西部劇ヒーロー像が色濃いことに気づかされる。現代劇の『ダーティハリー』もそうだが、『硫黄島からの手紙』などの監督作品にも時折この手の西部劇的ヒロイズムが現れ、個人的にはあまり好きではない。
イーストウッド演じる無法者を引退して農民となった男が主人公。過去を反省して善良になったという偽善っぽさに若干鼻白むが、子供の養育費のために賞金稼ぎになるというのもいただけない。モーガン・フリーマンの昔の仲間を誘い(黒人のガンマンってあり?)、虐げられた女たちのために復讐を果たし、最後は友情のために悪徳保安官たちをやっつける。カイカーン!
まるで『荒野の用心棒』と『シェーン』を合体させた本格西部劇。違うのはガンマンが歳を取って馬にも乗れなくなったのと、それでもかつての栄光を取り戻して復活を果たすという『スペース・カウボーイ』のような哀愁。最後はカッコよく馬に乗って町を去っていく・・・
子供と農場を去り、賞金を元手に西海岸で***のオチは余計。ジーン・ハックマンの悪徳保安官、リチャード・ハリスの嫌みな賞金稼ぎがいい。 (評価:2.5)
日本公開:1993年4月24日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド 脚本:デイヴィッド・ウェッブ・ピープルズ 撮影:ジャック・N・グリーン 音楽:レニー・ニーハウス
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞
原題は"Unforgiven"。
イーストウッドらしい、センチメントとヒロイズムが合体した作品。マカロニウエスタンで確立したカッコいい哀愁のガンマンが、歳を取った姿で登場する。実際、この映画はイーストウッドのヒーロー像そのものである『ダーティハリー』の監督ドン・シーゲルと『荒野の用心棒』の監督セルジオ・レオーネに捧げられている。
1970年頃を境にして西部劇もニューシネマの影響を受けているが、イーストウッドの映画にはそれが感じられず、ジョン・ウェイン時代の西部劇ヒーロー像が色濃いことに気づかされる。現代劇の『ダーティハリー』もそうだが、『硫黄島からの手紙』などの監督作品にも時折この手の西部劇的ヒロイズムが現れ、個人的にはあまり好きではない。
イーストウッド演じる無法者を引退して農民となった男が主人公。過去を反省して善良になったという偽善っぽさに若干鼻白むが、子供の養育費のために賞金稼ぎになるというのもいただけない。モーガン・フリーマンの昔の仲間を誘い(黒人のガンマンってあり?)、虐げられた女たちのために復讐を果たし、最後は友情のために悪徳保安官たちをやっつける。カイカーン!
まるで『荒野の用心棒』と『シェーン』を合体させた本格西部劇。違うのはガンマンが歳を取って馬にも乗れなくなったのと、それでもかつての栄光を取り戻して復活を果たすという『スペース・カウボーイ』のような哀愁。最後はカッコよく馬に乗って町を去っていく・・・
子供と農場を去り、賞金を元手に西海岸で***のオチは余計。ジーン・ハックマンの悪徳保安官、リチャード・ハリスの嫌みな賞金稼ぎがいい。 (評価:2.5)
アラジン
日本公開:1993年8月7日
監督:ジョン・マスカー 製作:ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ 脚本:ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ、テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 美術:ビル・ハーキンス 音楽:アラン・メンケン
原題"Aladdin"で、『アラジンと魔法のランプ』の主人公の名。
ガラン版『千一夜物語』( Les Mille et Une Nuits)収録作で中国が舞台だが、本作では砂漠の王国アグラバーという架空の国が舞台になっている。
オリジナルストーリーで、魔法のランプだけでなく魔法の絨毯まで登場することから、ベースは『バグダッドの盗賊』(1924)の1940年版に近く、コソ泥が王女に恋し、精霊ジンとともに魔法使いを倒し、王女と結ばれる。
本作で付け加えられるのはジンが魔法のランプの精であることと、最後に魔法使いがランプに封じられることで、1940年版『バグダッドの盗賊』で王女と結婚する王子とコンビを組む、盗賊の役回りを本作ではジンが受け持っていて、ハッピーエンドの後に自由の旅に出る。
王女との空飛ぶ絨毯による遊覧飛行は『バグダッドの盗賊』でも最大の見せ場で、本作ではアカデミー歌曲賞の"A Whole New World"の歌に乗る。
ディズニーらしいミュージカル仕立で、とりわけ狂言回しとなるジンのキャラクター造形とシナリオが上手く、大人も子供も楽しめるアニメーションとなっている。 (評価:2.5)
木と市長と文化会館 または七つの偶然
日本公開:1994年4月29日
監督:エリック・ロメール 製作:フランソワーズ・エチュガレー 脚本:エリック・ロメール 撮影:ディアーヌ・バラティエ 音楽:セバスチャン・エルムス
原題"L'Arbre, le maire et la médiathèque ou les sept hasards"で、木、市長とメディア・ライブラリーまたは七つの偶然の意。
フランス大西洋岸ヴァンデ県の市長(パスカル・グレゴリー)が、過疎化対策のためにメディア・ライブラリーを建設しようとする話。
地方の若者がパリに上京し、農村の過疎化が進むというのは世界共通のようで、地方に中核施設を作ることで過疎化を防ぎ、人を集めようとする市長に対し、恋人の小説家(アリエル・ドンバール)は人が刺激を求めてパリに集まることの必然と誰も社会の変化を止めることができないという市長の政策のナンセンスを説く。
一方、パリからヴァンデ県に移住した環境派の小学校教師(ファブリス・ルキーニ)は、メディア・ライブラリーによって自然が破壊され、魅力を失った町に都会人はやってこないと市長の政策の矛盾を説く。
こうした文明論を中心にストーリーは展開するが、それぞれの考え方に一理あって朝まで生テレビを聴いているように退屈しない。
地盤強化に予算外の金がかかることが原因で計画は中止になるが、パリ育ちでヴァンデ県の領主という市長は日本の東京育ちで地方を地盤とする世襲政治家そっくり。しかもメディア・ライブラリー建設は国の補助金頼みで、妥協的で漸進的な変化しか望まず、反対意見に対して決まったことだから変えられないという保守的な市長は時代遅れの社会党。
本作は日本の政治家にも通用するものだが、こうした映画を作るだけまだフランスの方がマシか。 (評価:2.5)
愛の風景
日本公開:1993年1月15日
監督:ビレ・アウグスト 製作:ラーシュ・ビィエルケスクーグ 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:イェリエン・ペルション 美術:アンナ・アスプ 音楽:ステファン・ニルソン
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題"Den goda viljan"で、善意の意。
イングマール・ベルイマンの脚本で、牧師であった父イアリーキ(劇中ではヘンリク・ベルイマン)と母カリン(同アンナ・オカーブロム)の出会いから結婚、次男の本人の妊娠までを綴るドラマ。
4話のテレビシリーズとして制作されたものを劇場用に再編集したもので、オリジナルは5時間25分。映画版は3時間で、アンナの心理描写が端折られているためか、心の変化に若干唐突なところがある。
『ファニーとアレクサンデル』(1982)以降、劇映画監督を引退したベルイマンが、『ペレ』(1987)のビレ・アウグストに脚本を託したとされ、ベルイマン監督の映画と見紛うようなカメラワークのシーンと雰囲気が漂うが、神の実在、およびその代理人である聖職者と正対したベルイマンほどにはテーマに迫れてなく、男女の恋愛感情に傾いたペレらしい人間ドラマになっている。
貧しい母子家庭に育ったヘンリクが裕福な家庭のカリンと恋に落ち、カリンの母の反対を押し切って結婚することになるが、その際にカリンの父が神学生のヘンリクに投げかける質問が、ベルイマン的には重要なテーマ。
なぜ神学校に通うのかという質問に対し牧師になるためと答えるが、カリンの父は、牧師になるために勉強するのか? 神がそれに相応しい者を牧師にするのではないのか? と問う。
ヘンリクはこの問いに答えることができず、母を見捨てた祖父母に対しては祖母の死に際に見舞うことを拒絶し、神に仕える者としての赦しを与えない。年上のウエイトレスと同棲しながらも金持ち娘のカリンを選び、村の権力者の工場主を罵倒、女王の不遜な態度に腹を立てて宮廷牧師の職を断るといった、世俗的な聖職者ぶりを見せる。
これを人間らしいと見るか、脱俗できない失格者と見るかで、本作の見方、アウグスト的かベルイマン的かに分かれるが、牧師である父の評価という、ベルイマンが永年描いてきた宗教テーマの結論を期待する向きには、物足りなさが残る。
宗教の道を目指しながらも脱俗できないヘンリク、虚栄や享楽からヘンリクについて行けないカリン。そうしたヘンリクがヨリを戻すために宮廷牧師となるのが、肯定的なのか否定的なのか、煮え切らないラストとなっている。
カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞。 (評価:2.5)
赤い航路
日本公開:1993年2月6日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:ロマン・ポランスキー 脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ、ジョン・ブラウンジョン 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ヴァンゲリス
原題"Bitter Moon"で、苦い月の意。パスカル・ブリュックネールの小説"Lunes de fiel"が原作。
イギリス人夫妻が地中海クルーズで、変態的な夫婦と乗り合わせ、二人の変態的夫婦生活を聞かされるというもので、ポランスキーらしい変態味に溢れた作品。
夫ナイジェル(ヒュー・グラント)は初心と妖艶を併せ持つフランス美人ミミ(エマニュエル・セニエ)に心奪われてしまう。ミミには車椅子のアメリカ人作家の夫オスカー(ピーター・コヨーテ)がいて、オスカーはミミと寝たいなら二人の物語をすべて聞けと言って、毎日、ナイジェルに変態的な話を聞かせる。
それがオスカーの創作なのか、それとも本当の話なのかというのがミソで、ミミもまたナイジェルを誘うような素振りを見せながら、夫の話を最後まで聞かせる。
ミミを支配していたオスカーは、交通事故をきっかけに立場を逆転され、二人は嫉妬と憎しみという倒錯した愛の関係に陥る。
船上パーティの夜、ナイジェルと妻フィオナ(クリスティン・スコット・トーマス)は二人に弄ばれたことを知るが、目の前でオスカーはミミを射殺し、自殺して、変態的な二人の関係に終止符を打つ。
凡庸な夫婦生活を送ってきたナイジェルとフィオナが、対照的に男女の愛憎の深淵を生きてきたオスカーとミミによって強烈な精神的パンチを与えられる物語ともいえるが、凡人にはただの変態映画にしか見えないのが悲しい。 (評価:2.5)
インドシナ
日本公開:1992年10月3日
監督:レジス・ヴァルニエ 製作:エリック・ウーマン、ジャン・ラバディ 脚本:レジス・ヴァルニエ、ルイ・ガルデル、エリック・オルセンナ、カトリーヌ・コーエン 撮影:フランソワ・カトンネ 音楽:パトリック・ドイル
アカデミー外国語映画賞
原題"Indochine"で、邦題の意。クリスチャン・ド・モンテラの同名小説が原作。
1930年代の仏領インドシナを舞台に、2人のベトナム人の養母となったフランス人女性の植民地ノスタルジーを描く。
主人公のエリアーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、事故で死んだアンナンの王族の遺児カミーユ(リン・ダン・ファン)を養女として育てる一方、カミーユの両親が経営していたゴム園を引き継いでいる。エリアーヌは父(アンリ・マルトー)に溺愛されて結婚できず、男性遍歴を重ねる。
新たな恋人は仏軍中尉のジャン(ヴァンサン・ペレーズ)だが、ジャンがカミーユの命を助けたことから一目惚れされ、エリアーヌの策略でハロン湾に左遷。これを追ってカミーユが家出。現地人に残虐行為をした仏軍将校を殺したことから、ジャンと愛の逃避行となる。
これを助けるのがカミーユの許嫁で共産主義者のタン(エリック・グエン)。結局二人は逮捕されるが、軍の名誉を汚したジャンは謀殺され、釈放されたカミーユはジャンとの愛児をエリアーヌに預けたまま、独立運動に身を捧げる。
物語は1954年のジュネーブ休戦協定で幕を閉じるが、南北ベトナムが成立して一件落着したようなナレーションで、その後のベトナム戦争に突入する政治的背景には触れず、植民地時代を懐かしむエリアーヌの感傷だけで終わっている。
高校生のカミーユがジャン命になってしまうのも唐突で、世間知らずの王女がフエからハロン湾に一人旅できてしまうのも不自然。ブルジョアだったカミーユが簡単に共産主義に染まってしまうのもよくわからない。
コロニアル趣味のロマンチック・ドラマで、独立運動さえもその道具立ての一つになっているが、古都フエやハロン湾などの風景が絵ハガキのように美しい。 (評価:2.5)
ア・フュー・グッドメン
日本公開:1993年2月20日
監督:ロブ・ライナー 製作:デヴィッド・ブラウン、ロブ・ライナー、アンドリュー・シェインマン 脚本:アーロン・ソーキン 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:マーク・シェイマン
原題"A Few Good Men"で、少数の善人の意。アーロン・ソーキンの戯曲が原作。
軍法会議が舞台の裁判劇で、前半、裁判に至るまでの経過が描かれる。
キューバのグァンタナモ湾にあるアメリカ軍租借地の海兵隊基地で、サンティアゴ一等兵が殺害され、犯人のドーソン兵長(ウォルフガング・ボディソン)とダウニー一等兵(ジェームズ・マーシャル)が軍事裁判にかけられる。弁護人に任命されたのはハーバート卒の若きエリート法務官キャフィ中尉(トム・クルーズ)で、検察との事前取引で有罪を認める代わりに罪を軽くしてもらうというやり方で成果を上げ、退役後のキャリアに結び付けようとしていた。
その尻を蹴飛ばすのが調査官のギャロウェイ少佐(デミ・ムーア)で、犯人の二人がコードRと呼ばれるしごきを上官から命令された事故死と睨み、キャフィの同僚ワインバーグ中尉(ケヴィン・ポラック)と3人が無罪を主張、検察と真っ向対決の裁判劇となる。
コードRを命じたグァンタナモ基地司令官のジェセップ大佐(ジャック・ニコルソン)を証人に呼び、最後は逆転勝利となるが、大佐を激昂させて軍紀違反の証言を引き出す戦術が強引。
ニコルソンの貫禄十分の演技に対し、トム・クルーズが軽量級で、裁判で勝ったように見えないのが残念なところだが、裁判劇としては飽きずに見ていられる。
度々映る硫黄島占領の像、海兵隊記念碑が印象的。キャフィとギャロウェイが木槌で蟹の殻を割って食べるシーンがあり、アメリカ人の蟹の食べ方がわかるのも見どころ。
ジェセップ大佐の部下でコードRを指示するケンドリック中尉にキーファー・サザーランド。 (評価:2.5)
遙かなる大地へ
日本公開:1992年7月18日
監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード 脚本:ボブ・ドルマン 撮影:ミカエル・サロモン 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題"Far and Away"で、遥かにの意。
19世紀末のオクラホマのランドラッシュをテーマにした作品で、アイルランドから新天地を求めてアメリカに渡ってくる男女の物語。男は土地こそがすべてだという父の遺言に従う小作農の倅ジョセフ、女は保守的な土地を離れて自由を求めるアメリカナイズされた地主の娘シャノンで、当時夫婦だったトム・クルーズとニコール・キッドマンが演じたのが話題。
偶然からジョセフはシャノンの船旅に随うことになり、兄妹と偽ってボストンの売春宿にねぐらを得る。アイリッシュ・グループとのトラブルで売春宿を追い出され、シャノンはアメリカに渡ってきた両親・婚約者の保護下へ。ジョセフは心機一転ランドレースに臨んだところでシャノンに再会。レースに勝って二人で夢を叶えるというアメリカンドリーム物語だが、土地を得て成功したかどうかは描かれないので、果たしてハッピーエンドなのかどうかはわからない。
シャノンの両親は小作農の襲撃を受け、再起を期してアメリカに渡るが、娘恋しさはともかくアイルランドの領地をそんなに簡単に放棄するのかとか、シャノンの婚約者が金目もないのにアメリカまで追いかけてくる理由も不明で、段取りに合わせて万事都合よく事が運ぶというハリウッドらしい作品。
トム・クルーズとニコール・キッドマンの美男美女を愛でながらのアメリカン・スピリッツとラブストーリー。美しいアイルランドの風景映像も楽しめる贅沢なエンタテイメントで、暇つぶしにはもってこい。 (評価:2.5)
シンプルメン
日本公開:1992年12月12日
監督:ハル・ハートリー 製作:テッド・ホープ、ハル・ハートリー 脚本:ハル・ハートリー 撮影:マイケル・スピラー 音楽:ネッド・ライフル
原題"Simple Men"で、単純な男たちの意。
父親は元大リーガーの名選手で、革命思想の持ち主であることから23年前の国防総省の爆破犯として逮捕される。
その長子ビルはパソコン強盗をする不良だが、共犯の愛人と親友に金を奪われてしまうような情けない男。弟デニスは真面目な大学生で、父と面会するために刑務所に出向くが、父は逃走中。
兄弟は母から託された写真と電話番号をもとに父探しの旅に出るが、途中出会った人妻ケイトにビルが惹かれる。以降は二人の恋の駆け引きに。一方、デニスはケイトの友達エリナの面倒を見るうちに心惹かれ、兄弟は町を離れ難くなるという流れ。
もっとも父探しを忘れたわけではなく、ビルが父の居所を突き止めたものの家が焼失した後でまたしても手掛かりを失う。ところがエリナが実は父の愛人だったということをデニスが知ってというオチで、兄弟は父との再会を果たすが、父は爆弾犯ではないが楽しいから逃げているというワケのわからない結末。
騙されて盗品のバイクを売ったビルは警察に捕まるもののケイトとの愛が実るという、起承転結のよくわからないコメディ。
何も考えずに見ている分にはそこそこ楽しめるが、3人の単純な男たちを愛でるという以外には意味を持たない作品で、だからどうしたということは考えないようにした方が良い。 (評価:2.5)
製作国:メキシコ
日本公開:1998年2月13日
監督:ギレルモ・デル・トロ 製作:ベルサ・ナヴァロ、アーサー・H・ゴーソン 脚本:ギレルモ・デル・トロ 撮影:ギレルモ・ナヴァロ 音楽:ハビエル・アルバレス
新機軸の吸血鬼物だが道具立てだけなのが惜しい
原題"La invención de Cronos"で、クロノスの発明の意。クロノスはギリシャ神話の時の神で、劇中登場する16世紀に錬金術師によって造られた金色のスカラベを象った時限式機械のこと。
舞台は現代。不老不死をもたらすクロノスを隠した天使像が骨董店にもたらされ、それを手に入れようとする死に掛けの大富豪(クラウディオ・ブルック)と、クロノスで不死となった店主(フェデリコ・ルッピ)との争奪戦となる。
クロノスは触手を人肌に食い込ませて血を吸う。血を吸われた老店主は吸血鬼となり若返るが、大富豪の甥(ロン・パールマン)に殺されて正式にundeadとなって甦る。
大富豪の持つクロノスの取説を奪おうと敵地に侵入、闘いの末に2人を殺して血を吸うが、孫娘(タマラ・シャナス)の声に我に返りクロノスを破壊。店主の不死の力も消えるという顛末。
undeadと吸血鬼伝承を組み合わせたシナリオだが、ホラーというよりは伝奇ものに近く、ホラー的な怖さがないのが物足りない。錬金術師も単なる道具立てに終わっていて、クロノスの秘密については素通り。からくり的な機械仕掛けだけでなく、不老不死と時の神との関連もあれば、新機軸の吸血鬼物として内容的にも骨格のしっかりしたものになった。 (評価:2)
日本公開:1998年2月13日
監督:ギレルモ・デル・トロ 製作:ベルサ・ナヴァロ、アーサー・H・ゴーソン 脚本:ギレルモ・デル・トロ 撮影:ギレルモ・ナヴァロ 音楽:ハビエル・アルバレス
原題"La invención de Cronos"で、クロノスの発明の意。クロノスはギリシャ神話の時の神で、劇中登場する16世紀に錬金術師によって造られた金色のスカラベを象った時限式機械のこと。
舞台は現代。不老不死をもたらすクロノスを隠した天使像が骨董店にもたらされ、それを手に入れようとする死に掛けの大富豪(クラウディオ・ブルック)と、クロノスで不死となった店主(フェデリコ・ルッピ)との争奪戦となる。
クロノスは触手を人肌に食い込ませて血を吸う。血を吸われた老店主は吸血鬼となり若返るが、大富豪の甥(ロン・パールマン)に殺されて正式にundeadとなって甦る。
大富豪の持つクロノスの取説を奪おうと敵地に侵入、闘いの末に2人を殺して血を吸うが、孫娘(タマラ・シャナス)の声に我に返りクロノスを破壊。店主の不死の力も消えるという顛末。
undeadと吸血鬼伝承を組み合わせたシナリオだが、ホラーというよりは伝奇ものに近く、ホラー的な怖さがないのが物足りない。錬金術師も単なる道具立てに終わっていて、クロノスの秘密については素通り。からくり的な機械仕掛けだけでなく、不老不死と時の神との関連もあれば、新機軸の吸血鬼物として内容的にも骨格のしっかりしたものになった。 (評価:2)
バットマン リターンズ
日本公開:1992年7月11日
監督:ティム・バートン 製作:デニーズ・ディ・ノヴィ、ティム・バートン 脚本:ダニエル・ウォーターズ 撮影:ステファン・チャプスキー 音楽:ダニー・エルフマン
原題"Batman Returns"で、帰ってきたバットマンの意。DCコミックスの"Batman"が原作で、ティム・バートン版2作目。
悪の主役は、畸形ゆえに赤ん坊で捨てられ、ペンギンに育てられた畸形の男ペンギン(ダニー・デヴィート)。
キャラクターが強烈なのと、ペンギンを中心に話が進むため、バットマンの出番も活躍も少なく、作品としてもペンギンが中心になっている。
ブルース・ウェイン(マイケル・キートン)はゴッサム・シティの市長で、発電所を独り占めしようとしている実業家シュレック(クリストファー・ウォーケン)がペンギンを新市長に担ぎ出す。
一方、シュレックの秘書で冴えない女のセリーナ(ミシェル・ファイファー)はシュレックの野望を知って殺されかけ、そのショックでキャットウーマンに変身。ペンギンと手を組んでバットマンを攻撃するものの、いつしかバットマンが気に入ってしまい・・・という物語。
アメコミだけに、辻褄も合わないままストーリーは急展開するが、わけが分からないままペンギンとサーカスギャング団が暴れまわり、スラップスティックというかてんやわんやというか、とにかくスクリーンの中でカーニバル的なドタバタ劇を演じているだけなので、至ってつまらない。
役者は揃っても、主役のバットマンが置いてけぼりを喰らっては話はまとまらないという典型で、原色が乱舞するおもちゃ箱をひっくり返したような総天然色だけがティム・バートンらしい見どころ。 (評価:2)
製作国:イギリス、ロシア、イタリア、フランス、オランダ
日本公開:1993年9月4日
監督:サリー・ポッター 製作:クリストファー・シェパード 脚本:サリー・ポッター 撮影:アレクセイ・ロジオーノフ 美術:ベン・ヴァン・オズ、ヤン・ロールフス 音楽:デヴィッド・モーション、サリー・ポッター
キネマ旬報:10位
トランスジェンダーを扱う女性作家と女性監督の二つの関門
原題"Orlando"で、主人公の名前。ヴァージニア・ウルフの"Orlando: A Biography"が原作。
イングランドの青年貴族オルランドは女性的な美貌からエリザベス1世の寵愛を受け、歳を取らないことを条件に邸を遺産として受け継ぐ。そうして現代まで生き続けるという数奇な運命を手に入れるが、ロシア皇女との失恋による女性不信、トルコ大使赴任、女性への変身、アメリカ人冒険家との恋、そして出産と、時空を超えて生き、最後に失った邸を娘と訪れ、自分の肖像画と再会する。
トランスジェンダーを扱ったヴァージニア・ウルフの物語を受け入れられるかどうかが最初の関門で、同様にこの手の題材を描く女性監督の感性について行けるかどうかが第二の関門となる。
ストーリーそのものはトランスジェンダーをスーパーナチュラルに描くため、この関門が潜り抜けられないと、まったくついて行けない。
本作では、サリー・ポッターが敢えてエリザベス1世、アン女王、ヴィクトリア女王と3人の英女王を強調していて、男から女へと変身を遂げたオルランドに対する女性差別と女性に対する因習を時代を超えて描き、自由の国アメリカへ誘うことによって、女性の自立とジェンダー解放を意図しているようにも見える。
そうした意図の表現が女性の感性に頼っているようにも見え、女性はともかく、男性には理解が難しい作品になっている。
オルランドを演じるのがティルダ・スウィントン。エリザベス1世を演じるクウェンティン・クリスプは男性で、配役にも女性監督らしい発想が生きている。 (評価:2)
日本公開:1993年9月4日
監督:サリー・ポッター 製作:クリストファー・シェパード 脚本:サリー・ポッター 撮影:アレクセイ・ロジオーノフ 美術:ベン・ヴァン・オズ、ヤン・ロールフス 音楽:デヴィッド・モーション、サリー・ポッター
キネマ旬報:10位
原題"Orlando"で、主人公の名前。ヴァージニア・ウルフの"Orlando: A Biography"が原作。
イングランドの青年貴族オルランドは女性的な美貌からエリザベス1世の寵愛を受け、歳を取らないことを条件に邸を遺産として受け継ぐ。そうして現代まで生き続けるという数奇な運命を手に入れるが、ロシア皇女との失恋による女性不信、トルコ大使赴任、女性への変身、アメリカ人冒険家との恋、そして出産と、時空を超えて生き、最後に失った邸を娘と訪れ、自分の肖像画と再会する。
トランスジェンダーを扱ったヴァージニア・ウルフの物語を受け入れられるかどうかが最初の関門で、同様にこの手の題材を描く女性監督の感性について行けるかどうかが第二の関門となる。
ストーリーそのものはトランスジェンダーをスーパーナチュラルに描くため、この関門が潜り抜けられないと、まったくついて行けない。
本作では、サリー・ポッターが敢えてエリザベス1世、アン女王、ヴィクトリア女王と3人の英女王を強調していて、男から女へと変身を遂げたオルランドに対する女性差別と女性に対する因習を時代を超えて描き、自由の国アメリカへ誘うことによって、女性の自立とジェンダー解放を意図しているようにも見える。
そうした意図の表現が女性の感性に頼っているようにも見え、女性はともかく、男性には理解が難しい作品になっている。
オルランドを演じるのがティルダ・スウィントン。エリザベス1世を演じるクウェンティン・クリスプは男性で、配役にも女性監督らしい発想が生きている。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1993年2月8日
監督:フラン・ルーベル・クズイ 製作:葛井克亮、ハワード・ローゼンマン 脚本:ジョス・ウェドン 撮影:ジェームズ・ヘイマン 音楽:カーター・バーウェル
型に嵌ったキャラクターが凡庸だが生真面目さが好ましい
原題"Buffy the Vampire Slayer"で、吸血鬼退治者の意。
チアリーダーの女子高生が吸血鬼と戦うという正統派B級学園ホラーで、暇つぶし以外には期待するものはない。
なぜかロサンゼルスで、吸血鬼の王ロトス(ルトガー・ハウアー)と従者レフティ(ポール・ルーベンス)が主導して吸血鬼の活動が活発になり、吸血鬼ハンター(バンパイア・スレイヤー)として輪廻転生したバッフィ(クリスティ・スワンソン)がこれに立ち向かうというもの。
バッフィは、チアリーディングとボーイフレンド(ランダル・バティンコフ)以外には関心のないおつむの軽い典型的な女子高生だったが、バンパイア・スレイヤーを管理する使命のメリック(ドナルド・サザーランド)によって自らの運命を知り、訓練を受けて墓場から甦る吸血鬼たちを退治することになる。
バッフィに協力するのが、パイク(ルーク・ペリー)という若者で、パイクの友達や高校生たちが次々と吸血鬼に変身していく中で、最後はダンス・パーティでの決戦となり、ロトスを倒して幕となる。
見どころはチアリーディングとアクション・シーンで、それなりに見応えがある。吹き替えながらもクリスティ・スワンソンの美人の割にはがっちりした体格というのが見逃せない。
あまりに型に嵌ったキャラクターというのが凡庸で映画は今一つだったが、チアリーディング、ダンス、恋愛という学園青春ドラマの定番設定を生かしつつ、各キャラクターに個性を持たせたTV版は人気となり、むしろ映画の生真面目さが好ましくも思える。 (評価:2)
日本公開:1993年2月8日
監督:フラン・ルーベル・クズイ 製作:葛井克亮、ハワード・ローゼンマン 脚本:ジョス・ウェドン 撮影:ジェームズ・ヘイマン 音楽:カーター・バーウェル
原題"Buffy the Vampire Slayer"で、吸血鬼退治者の意。
チアリーダーの女子高生が吸血鬼と戦うという正統派B級学園ホラーで、暇つぶし以外には期待するものはない。
なぜかロサンゼルスで、吸血鬼の王ロトス(ルトガー・ハウアー)と従者レフティ(ポール・ルーベンス)が主導して吸血鬼の活動が活発になり、吸血鬼ハンター(バンパイア・スレイヤー)として輪廻転生したバッフィ(クリスティ・スワンソン)がこれに立ち向かうというもの。
バッフィは、チアリーディングとボーイフレンド(ランダル・バティンコフ)以外には関心のないおつむの軽い典型的な女子高生だったが、バンパイア・スレイヤーを管理する使命のメリック(ドナルド・サザーランド)によって自らの運命を知り、訓練を受けて墓場から甦る吸血鬼たちを退治することになる。
バッフィに協力するのが、パイク(ルーク・ペリー)という若者で、パイクの友達や高校生たちが次々と吸血鬼に変身していく中で、最後はダンス・パーティでの決戦となり、ロトスを倒して幕となる。
見どころはチアリーディングとアクション・シーンで、それなりに見応えがある。吹き替えながらもクリスティ・スワンソンの美人の割にはがっちりした体格というのが見逃せない。
あまりに型に嵌ったキャラクターというのが凡庸で映画は今一つだったが、チアリーディング、ダンス、恋愛という学園青春ドラマの定番設定を生かしつつ、各キャラクターに個性を持たせたTV版は人気となり、むしろ映画の生真面目さが好ましくも思える。 (評価:2)
日本公開:1993年11月5日
監督:アヴィ・ネッシャー 製作:ドナルド・P・ボーチャーズ 脚本:アヴィ・ネッシャー 撮影:シュヴェン・カースティン 音楽:ジャン・A・P・カズマレック
原題は"Doppelganger"。
主演はドリュー・バリモア18歳で、自身のドッペルゲンガーに悩まされる話。両親を殺した犯人について、バリモアは**と**のドッペルゲンガーだと信じているが、精神科医は多重人格によるものと合理的な説明をつける。しかし、バリモアのルームメイトの青年がバリモアのドッペルゲンガーと死んだはずの父のドッペルゲンガーを見たことから話はミステリアスになる。
夢と現実が多重人格並みにごっちゃになって、ストーリーは分かりにくい。しかし不条理ドラマと思えばそれなりに見られるのに、監督のアヴィ・ネッシャーはミステリーには合理的なオチが必要だと考えたのか、実は**がドッペルゲンガーの正体という種明かしをして、本作をつまらないものにした。
徹底的に不条理なホラーにすれば良いところを、科学主義に陥穽に落ちるという素人的なホラー映画作りをしてしまった。
バリモアは18歳には見えない崩れた色気で、初めどこのポルノ女優かと見紛うた。乳もでかい豊満ボディで、見どころといえば見どころ。
SFXも駆使して支離滅裂、多重人格、精神分裂病的な展開の意図の見えない話が続くが、本作のテーマそのものがドッペルゲンガー的多重人格映画ということかもしれないと、制作者の意図を斟酌して、そんなわけないと自分の考えすぎのドッペルゲンガーを嗤う。 (評価:2)