海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1978年

製作国:イタリア、アメリカ
日本公開:1979年3月10日
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:クラウディオ・アルジェント、アルフレッド・クオモ、リチャード・P・ルビンスタイン 脚本:ジョージ・A・ロメロ 撮影:マイケル・ゴーニック 音楽:ゴブリン、ダリオ・アルジェント

ゾンビ映画のバイブルとなったロメロの出世作
 原題は"Dawn of the Dead"で死者の夜明け。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の10年後に作られたジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画第2作。世界公開タイトルは"Zombie"だが、劇中には地獄がいっぱいになると死者が地上に溢れだす(When there's no more room in hell, the dead will walk the earth.)というブードゥーの司祭の話が出てくるだけで、ゾンビという表現は出てこない。
 製作費も増えてカラーになった上にゾンビも大量出演。ゾンビ映画監督としてのロメロの出世作になっただけでなく、本作にはその後のゾンビ映画のほとんどのテーマが提示されていて、ゾンビ映画のバイブル的存在。
 ゾンビが蔓延し始めたニュースを流す、フィラデルフィアのテレビ局から物語は始まる。男女2人のテレビ局員とSWAT隊員2人がヘリコプターで町を脱出。ゾンビが闊歩する森を抜け、食料と生活用品の貯蔵されたショッピングモールに立て籠もる。
 ゾンビ化していく仲間を殺さなければならない葛藤、人間としての尊厳、人間同士の争いと欲望、真の敵はゾンビではなく人間だという撞着。世界の終末と地獄の出現、最後の審判という宗教的顕現を描く。
 本作が秀逸なのは、物に溢れたショッピングモールで、ゾンビの群れに囲まれながら、主人公たちが虚飾の贅沢な生活を演出するシーン。ホストもゲストも正装して高級レストランでワインを飲む。ソファーセットのある部屋をリビングにして寛ぎ、ショッピングモールに残された札束をポーカーの掛け金にする。終末を迎えた世界で、現世の人間の富や贅沢の虚しさと、それでもその無意味な金を巡って争いを止められない人間の度し難い欲望を描く。
 現在のゾンビ映画に比べて、ゾンビがあまり恐ろしく見えないのが残念。メーキャップも演技も生身の人間が演じているのが丸見えで、歩く姿はゾンビというよりはフランケンシュタイン。ゾンビの造形や演技は本作以降リアリティを増して、2004年のリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』で迫力を増したが、頭が割られたり切られたり、内臓ぐちゃぐちゃのシーンは頑張っていて、本家の志と心意気を見せてくれる。
 当初の劇場公開には北米版とアジア・ヨーロッパ版(ダリオ・アルジェント監修版)があり、後に公開されたディレクターズ・カット版がある。
 ダリオ・アルジェント監修版はエンディング・ロールと音楽が他の二つと異なっていて、テンポよく編集されていて映画としては上手くまとまっているが、ロメオらしさがなく異質。北米版は説明不足、ディレクターズ・カット版は冗長だが、どちらもロメオらしいホラーっぽさが魅力と、それぞれに一長一短がある。 (評価:3.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1981年10月10日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
キネマ旬報:2位

ふぬけた親子関係を問うバーグマン主演ベルイマン作品
 イングリッド・バーグマンが出演したベルイマン作品にして、彼女の最後の映画。原題は"Höstsonaten"で邦題の意。劇中でピアノを引くシーンがあるがショパンの前奏曲、作品28第2番でソナタは出てこない。
 ベルイマンといえば宗教を題材にした映画が多いが、本作は舞台は牧師館だが神の話は出てこない。一言でいえば娘が母親に復讐する話で、どこにでも転がっていそうな物語。それを娘と母の心の奥底を抉るように赤裸々に描いたところに、ベルイマンの人間洞察の深さと真骨頂がある。
 テレビでは半沢直樹の復讐ドラマやリーガルハイの本音トークが人気だが、単なるストレス解消のカタルシスでしかなく、その刃を自分自身に向けることはない。愛情を取り繕い、愛情を強要し、それを親子愛だと勘違いしている人には、本作は痛烈な皮肉と批判であり、親であれ子であれ、自分自身を映す鏡となる。
 牧師館を舞台にしている本作に宗教的な意味を見い出すとすれば、最も関係性の深い肉親に対する罪の深さということになる。
 物語はノルウェーの牧師館で夫と暮らす娘が、恋人をなくして独り身となった母を呼び寄せる。しかし、それは母への復讐のためであり、娘の家を訪れた母は脳性マヒで施設に入れてあったもう一人の娘が牧師館に引き取られているのを知る。コンサート・ピアニストで、自分のことしか考えなかった母に子供時代の恨みをぶつける娘。母は初めて娘の本音を知るが、それで何かが変わるわけでもない。人生に救いを求めるのではなく憎悪だけを残す人間の業の深さを描く。
 ピアニストの母にバーグマン、娘にベルイマン作品ではお馴染みのリヴ・ウルマン。ウルマンがバーグマンを責め立てるシーンは長いが圧巻。 (評価:3.5)

製作国:イタリア
日本公開:1979年4月28日
監督:エルマンノ・オルミ 脚本:エルマンノ・オルミ 撮影:エルマンノ・オルミ
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭パルム・ドール

ミネク少年がどんな人間になったかを伝えるべき
 原題"L'Albero degli zoccoli"で邦題の意。
 19世紀末、イタリア北部ロンバルディア地方の農園が舞台。
 地主と4家族の小作人の物語で、この中の一家、ミネク少年の物語が縦糸となっている。
 冒頭、賢いミネク少年について司祭が両親に学校に通わせるように説得するところから物語は始まる。
 3時間余りの作品の結末を明かせば、少年が毎日学校に通ったために普段履いていた木靴が割れてしまい、父親がミネクのために地主の財産に属する立ち木を切って木靴を作ってやる。
 それがバレて一家が農園を出て行くシーンで終わるが、一家の希望の星だったはずの少年が、そのために結果的に不幸をもたらしてしまうという不条理、貧困であるゆえの悲しさと希望のなさを描いている。
 作品そのものは、4家族の物語を並列に描き、夫に死なれた子沢山の一家に牧師が養護施設の紹介をするものの長男が家族の絆を優先して反対するという心温まるエピソードや、別の一家では娘の幸せな結婚エピソードなどが語られる。
 オルミの映像は徹頭徹尾写実主義で、カメラはこの4家族の日常を淡々と追う。ドラマツルギーは全くなく、退屈な農園の日常を3時間余り見せられるのは苦行にも近い。
 それでも農園の平凡な日々を追うだけの映像は美しく、こうした日常の風景の中にこそ人が生きる営みと息吹きがあるということをカメラは伝えている。
 新婚夫婦が訪れるミラノの町には自由主義者たちがいて、時代の風を感じさせるものの、農園にはその風は微塵も吹いてこず、それを予兆させるものもなく、貧しい人々を描いただけで終わるネオレアリズモに不満が残る。
 賢くなければ学校に通うこともなく、木靴が割れることも一家が農園を追い出されることもなかったことを賢いミネク少年は気づいているからこそ、馬車に乗って涙を流す。
 だからこそ、ミネク少年がどのような人間になったかを伝えるべきだった。パルムドール受賞作。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年3月17日
監督:マイケル・チミノ 製作:マイケル・チミノ、バリー・スパイキングス、マイケル・ディーリー、ジョン・リヴェラル 脚本:デリック・ウォッシュバーン 撮影:ヴィルモス・スィグモンド 音楽:スタンリー・マイヤーズ
キネマ旬報:3位
アカデミー作品賞

ベトナム人はバーバリアン、アメリカ人はノーリターン
 3人の若者のベトナム出征から帰還までを描いた作品。メリル・ストリープの初期作品で、ジョン・カザールはこれが遺作となった。もちろん、デ・ニーロも良い。ロングショットを生かした落ち着きのある本格的作品で、3時間3分をじっくりと見せる。タイトルの"The Deer Hunter"は鹿の狩猟者。鹿狩りのシーンは幽玄で、牡鹿は崇高でさえある。映画としての出来は大変良く、それだけならば秀作といってよい。
 ただ、この作品の最大の問題は、この映画がアメリカ人にとっての悲劇に矮小化された、内向きの映画でしかないこと。3人の若者はベトナム戦争を通じてそれぞれに心と体に傷を負い、友情で支え合おうとするが、それはアメリカ人にとっての心の傷でしかない。それが30年以上前に最初にこの映画を見た時に感じたことだった。
 この映画のキーになるのはロシアン・ルーレットで、それを有名にしたのもこの映画だった。3人は北ベトナムで捕虜となるが、悪魔のベトコンはロシアン・ルーレットで米兵捕虜を虐待する。3人は脱け出してサイゴンに逃れるが、そこで待ち受けていたのがロシアン・ルーレットの博打場。サイゴンのベトナム人もまた、この悪魔のゲームに沸き立つ野蛮人。つまり、ベトナム戦争はこのような人の命を命とも思わない鬼畜、野蛮人を相手にした戦争であり、だからこそ米兵は病んで心に傷を負う。
 当初、米兵によるベトナム人虐殺も描かれるが、それがバランスを取るための描写なのか、ロシアン・ルーレットに狂気する鬼畜だから虐殺もいたしかたないということなのか、何とも不明。もちろん、ベトコンもベトナム人もロシアン・ルーレットなどやらないし、映画はまったく架空の設定で、これがマイケル・チミノを始めとするアメリカ人がベトナム人に持っていたイメージかと考えると、それはそれで意味がある。
 1975年のサイゴン陥落の3年後に公開されたが、その時に感じた後味の悪さは30年後も変わらない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年4月14日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット、チャールズ・H・ジョフィ 脚本:ウディ・アレン 撮影:ゴードン・ウィリス
キネマ旬報:5位

パーフェクトでなく才能もない者にはどうでもいい話
 原題"Interiors"で、内面(複数形)の意。物語の中心となる母親が室内装飾デザイナーで、家族の内面のドラマであることから、両方をかけている。
 『アニー・ホール』の翌年に制作された超シリアス作品で、コミカルな部分は皆無。シニカルさも感じられないが、敢えてウディ・アレンらしいシニカルさを求めれば、完璧主義者の母親とインテリ家族たちの状況ということになる。
 ロングアイランドに住む裕福な両親と3人姉妹の一家は、美人でパーフェクトな母(ジェラルディン・ペイジ)の独善に支配されている。
 長女(ダイアン・キートン)は母も認める才能ある詩人で、売れない小説家が夫(リチャード・ジョーダン)、次女(メアリー・ベス・ハード)は熱意はあるが才能のない作家で、ジャーナリスト(サム・ウォーターストン)と同棲、三女(クリスティン・グリフィス)はB級のテレビ女優。
 妻の叱咤でロースクールを出た実業家の夫(E・G・マーシャル)は、姉妹が大人になったのを機に妻に別居を申し出る。その結果、精神を病んだ母を次女が面倒を見ることになるが、夫と同居したい母に次女は現実を受け容れさせようとするが、母はガス自殺を図ってしまう。
 ギリシャに移った父は愛人(モーリン・スティプルトン)を連れて戻り、妻と離婚してロングアイランドの邸で結婚式を挙げるが、その夜、邸に現れた母は次女から家族にどう思われていたかを聞かされ、入水自殺してしまう。
 パーフェクトを目指した一家に足りなかったのは、才能無き者への思いやり、人へのやさしさという温もりで、その息苦しさ、重苦しさが悲しい結末を迎えるが、そもそもパーフェクトを目指せず才能もない者には、どうでもいい物語となっている。 (評価:2.5)

アンナの出会い

製作国:フランス、ベルギー、ドイツ
日本公開:2022年5月2日
監督:シャンタル・アケルマン 脚本:シャンタル・アケルマン 撮影:ジャン・パンゼ

人生において幸せとは何かという根源的な問いかけ
 原題"Les rendez-vous d'Anna"で、邦題の意。
 女性映画監督のアンナ(オロール・クレマン)が、映画のプロモーションのために西ドイツの工業都市エッセンのホテルに投宿するところから物語は始まる。
 迎えたのは上映会を企画した小学校教師でその晩ベッドインするが、思い直したアンナは途中で帰してしまう。教師は妻にトルコ人と逃げられていて、翌日教師の母と娘のいる寂し気な家に招待される。
 ケルンで元彼の母親と、ブリュッセルへの列車の中で同乗の男と、ブリュッセルで母親との会話を通して、誰とも交われないアンナの人生と孤独が語られ、パリのアパートに帰ったアンナが溜まった留守番電話を聞き、何もせずに終わる。
 本作の白眉はパリに戻ったアンナが男友達に求められて歌う歌で、人生において幸せとは何かという根源的な問いかけになっている。
 答えのない問いに対するヒントすら提示しないが、混迷するアイデンティティとその孤立が映す鏡像が、見る者に深く突き刺さる。
 左右対称形のコンポジション、前後と横スクロールの人物の移動、それを追う横パンのカメラ移動と、全体は静的なカメラワークで構成され、アンナの心理描写を映しとるが、1カットが必要以上に長く感じられ、もう少しテンポがあってよかった。
 アンナがプロモーションする映画の内容が不明なのも、やや不満の残るところ。 (評価:2.5)

天国の日々

製作国:アメリカ
日本公開:1983年5月13日
監督:テレンス・マリック 製作:バート・シュナイダー、ハロルド・シュナイダー 脚本:テレンス・マリック 撮影:ネストール・アルメンドロス、ハスケル・ウェクスラー 美術:ジャック・フィスク 音楽:エンニオ・モリコーネ

季節労働者と農場主の天地ほど違う天命が切ない
 原題"Days of Heaven"。
 20世紀初頭のアメリカ中西部の農場が舞台。シカゴの工場をクビになった男ビリー(リチャード・ギア)と妹リンダ(リンダ・マンツ)は貨物列車で旅に出て、ド田舎の大農場の季節労働者として働くことになる。兄の恋人アビー(ブルック・アダムス)もビリーの妹だと偽ってその一人となるが、病気で命が短いという若き農場主(サム・シェパード)に見初められ、季節労働終了後にビリーの打算から結婚して、ビリー兄妹との4人の共同生活が始まる。
 低賃金の季節労働者から一夜明けると富農の生活に一変し、つまりはこれが天国の日々となる。
 農場主は妻とビリーの関係を怪しみ、ビリーは一度農場を離れるものの、再び季節労働の始まる麦秋が訪れ、農場に戻るとイナゴの大群が押し寄せて、気持ちの乱れた農場主はビリーに銃で迫り、ビリーは思わず刺殺してしまう。
 ビリー兄妹とアビーは逃亡するものの、警官隊に追い詰められビリーは射殺。リンダは施設に入れられるが脱走して物語は終わる。
 全体はリンダの回顧談として語られ、物語はただそれだけなのだが、淡々とした中に中西部の農場の大自然の映像が美しく、最後まで見飽きない。とりわけ麦秋の農場と地平線の彼方に広がる変幻自在な空が切ないほどに美しい。
 そうした切ない映像に、切ないストーリーが展開され、抒情的文芸作品となっているが、季節労働者と大農場主の天と地ほども違う天命に、切ない気分だけが尾を引く。 (評価:2.5)

ナイル殺人事件

製作国:イギリス
日本公開:1978年12月9日
監督:ジョン・ギラーミン 製作:ジョン・ブラボーン、リチャード・グッドウィン 脚本:アンソニー・シェイファー 撮影:ジャック・カーディフ 音楽:ニーノ・ロータ

ポアロがシリアスすぎてユーモアに欠ける点が残念
 原題"Death on the Nile"で、ナイル川の死。アガサ・クリスティの同名小説(邦題:ナイルに死す)が原作。
 ナイル川をクルーズする豪華客船で起きる殺人事件を名探偵エルキュール・ポアロが解決するというミステリー。
 殺されるのは、巨額の遺産相続人となった美女(ロイス・チャイルズ)で、略奪婚の新婚旅行中という設定。新郎(サイモン・マッコーキンデール)の元恋人にミア・ファロー。船客は新婚旅行を知って乗り込んだ、新婦に恨みのある者ばかりという、いささか現実離れした設定ながらも、そこはミステリー。最後のポアロの謎解きも、都合が良すぎるbest-caseシナリオで若干無理がある。
 本作の見どころのひとつは俳優陣にあって、ミア・ファロー以外にオリヴィア・ハッセー、マギー・スミス、デヴィッド・ニーヴン。ポアロをピーター・ユスティノフが演じている。
 船客全員が容疑者だとポアロが語るシーンでは、それぞれにイメージ再現映像が入り、演出的には丁寧。もっとも、ポアロがシリアスすぎてユーモアに欠ける点が残念。
 ミステリーには関係がないが、前半ではギザのピラミッドとスフィンクス、カルナック神殿の世界遺産名所めぐりがあって、こちらも本作の見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1978年8月5日
監督:ポール・マザースキー 製作:ポール・マザースキー、トニー・レイ 脚本:ポール・マザースキー 撮影:アーサー・オーニッツ 音楽:ビル・コンティ
キネマ旬報:7位

女性の自立をセックスで語るのが教条的で古めかしい
 原題"An Unmarried Woman"で、邦題の意。
 ニューヨークが舞台。若い女ができた夫(マイケル・マーフィー)に離縁されてしまった中年女エリカ(ジル・クレイバーグ)の物語で、始めはショックから男嫌いになる。セラピスト(ペネロープ・ルーシアノフ)のアドバイスで、一夜限りで後腐れのない男とのセックスに孤独を癒すうち、彼女を本気で愛するソール(アラン・ベイツ)が現れる。ソールはエリカとの結婚を望むが、エリカはそれを断り、ソールとの関係を保ちつつ、男に頼らない自立した女を目指す。
 制作年代的には女性解放と男女平等、女性の社会参加が叫ばれていた時代で、公開翌年の1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択される。そうした文脈の中で本作は制作されていて、女性の自立をテーマにしている。女性の解放と自立がセックスとの関係で語られるのが当時は常套的だったが、今振り返って本作を眺めてみると、いささか教条的で古めかしい。
 夫との結婚生活は16年に及び、15歳の娘がいるが、夫が若い女に乗り換えようとすると、エリカは、「16年間で2000回セックスしたことになる」と計算し、"Did you fall out of love with my flesh, my body...or me with Erica? I was your hooker"(あなたは私の肉体に飽きてしまったのかしら、私の身体に。それともエリカに飽きたの? 私はあなたの売春婦だったのね)と言う。
 夫が若い女に逃げられて戻ってくるのをエリカが突き放して留飲を下げさせるが、妻は夫の専従売春婦というのも当時流行った考え方で、セックスにおいても男性上位の被害者意識から抜け出せていない。エリカに頑なにソールとの結婚を拒ませるというのもどこか痛々しい。 (評価:2)

ラスト・ワルツ

製作国:アメリカ
日本公開:1978年7月1日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:ロビー・ロバートソン 撮影:マイケル・チャップマン、ラズロ・コヴァックス、ヴィルモス・ジグモンド、デヴィッド・マイヤーズ、ボビー・バーン、マイケル・ワトキンス、ヒロ・ナリタ

ゲストの音楽性が際立って主役の影が薄い
 原題"The Last Waltz"で、60~70年代のアメリカのロックバンド、ザ・バンドの解散ライブの名称。本作はそのドキュメンタリーで、ライブの模様とメンバーへのスコセッシのインタビューから構成されている。
 ザ・バンドの解散ライブながらも、ボブ・ディラン、ニール・ヤングら多数のゲスト・ミュージシャンが登場。カントリー、フォーク、ジャズ、ロックなど演奏されて、まさに60~70年代のポピュラー音楽大全という趣になっている。もっとも、そうしたピンのゲスト・ミュージシャンの音楽性が際立って、逆にザ・バンドの影が薄くなっていて、解散ライブを描く音楽映画としてはどうなの? という感想は残る。
 音楽映画は、主役となるミュージシャンの音楽性への好みで評価は割れてしまう。そこに音楽性とは離れた誰にでも共感できるドラマを作り出せたものが優れた音楽映画となるが、本作はこの課題をクリアできていない。
 ザ・バンドが下積みからメジャーになっていく苦労話がインタビューで語られるが、月並みなサクセスストーリーでしかなくドラマにまで昇華できていない。60~70年代のミュージシャンたちが歌うアメリカ音楽は、牧師の説教そのものとして人々に安らぎを与えてきたという主張が唯一テーマらしきものとして語られるが、演奏は上手いが個性にやや欠けるザ・バンドの音楽性ゆえか、説得力を持たない。 (評価:2)

スーパーマン

製作国:アメリカ
日本公開:1979年6月30日
監督:リチャード・ドナー 製作:ピエール・スペングラー 脚本:マリオ・プーゾ、デヴィッド・ニューマン、レスリー・ニューマン、ロバート・ベントン、トム・マンキウィッツ 撮影:ジェフリー・アンスワース 音楽:ジョン・ウィリアムズ

悲しいくらいにチマチマしたスーパーマンの人助け
 ​原​題​は​"​S​u​p​e​r​m​a​n​"​で​同​名​タ​イ​ト​ル​の​ア​メ​コ​ミ​が​原​作​。
​ ​1​9​5​2​-​5​8​に​放​映​さ​れ​た​T​V​シ​リ​ー​ズ​の​フ​ァ​ン​で​、​と​い​う​よ​り​も​当​時​の​子​供​は​み​ん​な​『​ス​ー​パ​ー​マ​ン​』​が​大​好​き​だ​っ​た​。​T​V​の​ス​ー​パ​ー​マ​ン​は​ジ​ョ​ー​ジ​・​リ​ー​ヴ​ス​で​、​そ​の​印​象​が​目​に​焼​き​付​い​て​い​た​の​で​ク​リ​ス​ト​フ​ァ​ー​・​リ​ー​ヴ​の​ス​ー​パ​ー​マ​ン​に​は​違​和​感​が​あ​っ​た​が​、​T​V​以​来​2​0​年​ぶ​り​の​映​像​に​わ​く​わ​く​し​て​映​画​を​観​た​記​憶​が​あ​る​。​そ​れ​を​3​5​年​ぶ​り​に​観​直​し​て​、​意​外​に​退​屈​で​が​っ​か​り​し​た​。
​ ​理​由​は​は​っ​き​り​し​て​い​て​、​ス​ー​パ​ー​マ​ン​誕​生​を​巡​る​エ​ピ​ソ​ー​ド​集​に​な​っ​て​い​て​、​一​本​筋​の​通​っ​た​ス​ト​ー​リ​ー​が​な​い​た​め​に​飽​き​る​。​1​9​7​8​年​に​観​た​時​は​期​待​感​が​あ​っ​た​の​で​そ​れ​な​り​に​面​白​か​っ​た​よ​う​な​気​が​し​た​が​、​観​直​す​と​粗​も​多​い​。​そ​も​そ​も​ク​リ​プ​ト​ン​星​の​リ​ア​リ​テ​ィ​が​な​い​し​、​幼​年​期​の​ク​ラ​ー​ク​が​太​り​過​ぎ​で​可​愛​く​な​い​。​な​ん​で​ア​ラ​ス​カ​(​?​)​に​ア​ジ​ト​が​あ​る​の​か​も​わ​か​ら​な​い​し​、​父​の​精​神​体​(​マ​ー​ロ​ン​・​ブ​ラ​ン​ド​)​が​「​約​4​0​0​0​年​前​に​ク​リ​プ​ト​ン​か​ら​脱​出​し​た​か​ら​、​ち​ょ​う​ど​1​8​歳​に​な​る​頃​だ​」​と​言​う​台​詞​に​、​4​0​0​0​分​の​1​8​は​誤​差​の​範​囲​内​だ​ろ​う​と​突​っ​込​み​た​く​な​る​。​そ​も​そ​も​ス​ー​パ​ー​マ​ン​の​人​助​け​が​悲​し​い​く​ら​い​に​チ​マ​チ​マ​し​て​い​て​、​設​定​と​キ​ャ​ラ​ク​タ​ー​紹​介​編​に​し​て​も​も​う​少​し​わ​く​わ​く​す​る​よ​う​な​ス​ト​ー​リ​ー​が​欲​し​い​。
​ ​ス​ー​パ​ー​マ​ン​が​極​め​て​私​的​利​益​の​た​め​に​ロ​イ​ス​と​夜​間​飛​行​を​す​る​シ​ー​ン​が​あ​る​が​、​サ​イ​レ​ン​ト​の​『​バ​グ​ダ​ッ​ド​の​盗​賊​』​に​す​で​に​原​型​が​あ​る​。​で​も​二​人​の​飛​行​形​態​は​物​理​的​に​不​可​能​・​・​・​な​ど​と​考​え​て​は​い​け​な​い​フ​ァ​ン​タ​ジ​ー​映​画​。
​ ​宿​敵​レ​ッ​ク​ス​・​ル​ー​サ​ー​に​ジ​ー​ン​・​ハ​ッ​ク​マ​ン​。​ジ​ョ​ー​ジ​・​リ​ー​ヴ​ス​は​後​に​落​馬​で​脊​髄​を​損​傷​し​て​半​身​不​随​と​な​り​、​ス​ー​パ​ー​マ​ン​も​や​は​り​人​間​だ​と​い​う​悲​し​い​現​実​を​教​え​た​。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年4月21日
監督:ジョン・ミリアス 製作:バズ・フェイトシャンズ、アレクサンドラ・ローズ 脚本:ジョン・ミリアス、デニス・アーバーグ 撮影:ブルース・サーティース 音楽:ベイジル・ポールドゥリス
キネマ旬報:8位

青春映画として決定的に欠けているものがある
 原題"Big Wednesday"で、劇中に登場する伝説の大波のこと。
 サーフィン映画として話題になったが、監督ジョン・ミリアスのいわば『アメリカン・グラフィティ』(1973)ともいえる青春映画。
 残念なのは、甘酸っぱい青春の思い出や蹉跌が、サーファーでないと伝わってこないことで、とりわけ無鉄砲な若者たちのバカ騒ぎは、やんちゃというよりは単に頭の空っぽな出来損ないにしか見えない。そこには青春の鬱屈もなければ挫折や苦悩もなく、青春映画としては決定的に欠けたものがある。
 喧嘩や妊娠と青春ものに有り勝ちなエピソードも登場するが、ドラマがないために表面的で、ベトナム戦争に徴兵され、一人が戦死するエピソードも、日記帳に書かれたただの出来事でしかない。
 サーフィンのシーンは、迫力ある映像が続き、カメラワークも素晴らしいが、かといってスポーツ映画でもなく、サーフィンの見事な映像は冒頭とラストのビッグ・ウェンズデーがやってくるシーンしかない。
 そうした点で、さまざまな要素を盛り込みながらもどれも中途半端で、単に監督の主観的な青春のノスタルジーに終始している。
 大好きだったサーフィン、死んでいった友、青春を卒業する自分。そこにノスタルジーを感じられる者のためにある作品だが、サーフィンのシーンは環境ビデオとして楽しめる。 (評価:2)

製作国:イタリア、西ドイツ
日本公開:1980年8月2日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:ファビオ・ストレッリ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、ブルネッロ・ロンディ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 美術:ダンテ・フェレッティ 音楽:ニーノ・ロータ

フェリーニが何を意図したのかよくわからないが
 原題"Prova D'Orchestra"で、邦題の意。
 フェリーニ後年の作品で、13世紀に建てられた音響抜群の礼拝堂でオーケストラのリハーサルが行われ、それをテレビ局が取材するというドキュメンタリー風の作品。
 オーケストラのマネージャーに取材用のギャラを要求する組合員や、インタビューに答えて楽器愛を語る楽団員、取材を拒否する楽団員、ラジオでサッカー中継を聴いている者や、真面目に演奏しようとしない者もいる。ドイツ人指揮者(ボールドウィン・バース)は厳格な上に癇癪持ち。組合員たちは指揮者不要と巨大なメトロノームを持ち出して指揮台に据えると、突然の地響きと共にクレーンの鉄球が礼拝堂の壁を崩壊させ、ハープ奏者(クララ・コロシーモ)が頓死。
 楽団員たちは気を取り直し、指揮者の「ダ・カーポ」(はじめから)の声で演奏に戻るというお話。
 メタファーに満ちた展開で、正直フェリーニが何を意図したのかよくわからない。ただ、イタリア人とドイツ人の気質を揶揄し、労働組合を批判的に描いていて、教会の権威主義や偽善を否定してようにも見える。
 そうしたものを文化とは相容れない、文化を退廃させるものとして戯画化したと見ることもできる。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1978年10月21日
監督:アラン・パーカー 製作:アラン・マーシャル、デヴィッド・パットナム 脚本:オリヴァー・ストーン 撮影:マイケル・セレシン 音楽:ジョルジオ・モロダー
ゴールデングローブ作品賞

犯罪者でも外国で捕まれば被害者というアメリカ・ファースト
 原題"Midnight Express"で、深夜特急=脱獄のことと劇中で説明される。ビリー・ヘイズが実体験をもとに書いた同名ノンフィクションが原作。
 ハシシを所持して飛行機の乗ろうとしたビリー(ブラッド・デイヴィス)が逮捕されてトルコ刑務所に収監。刑期満了間際に延長されて長期刑となり、脱獄するまでを描く。
 アメリカの善良な青年が、当時アメリカと仲の悪かったトルコ政府によって不当に拘束され、その地獄から生還したヒーロー物語というのが全体のテイストだが、もともと大量のハシシを密輸しようとした不良青年で、拷問などの暴力や不公正な法制度はあるものの、客観的に見れば悪いのはビリー。中国なら死刑になるところ。
 それを金の力やアメリカ政府の圧力で減刑しようとする方が悪徳で、後進国で犯罪を犯してもアメリカ人が逮捕されれば被害者というアメリカ・ファーストの精神で作られた作品。トルコ側が一方的に悪く描かれている。
 そんな脱獄劇をヒューマンドラマと勘違いしてゴールデングローブ作品賞を与えたハリウッドの映画記者協会の方が問題だが、ビリーの被害者面と後進国に対するアメリカ人の傲慢にさえ目を瞑れば、脱獄劇としてはそこそこ面白い。 (評価:2)