外国映画レビュー──1977年
製作国:アメリカ
日本公開:1978年6月30日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:ゲイリー・カーツ 脚本:ジョージ・ルーカス 撮影:ギルバート・テイラー 美術:ジョン・バリー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:9位
衰退するハリウッドでエンタテイメントの復興を果たした記念碑
原題"Star Wars"で、宇宙戦争の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第1作。時系列のエピソード4。
公開時、旧日劇のスクリーンいっぱいに広がる、玩具箱をひっくり返したような映像に、映画が本来あるべきエンタテイメントの復興を見た思いがした。
当時、TVの影響とアメリカン・ニューシネマに席捲されたハリウッド・エンタテイメントは、衰退の一途を辿っていて、映画は娯楽ではなくなっていた。邦画も同様で、TVの時代に映画会社はプログラム・ピクチャーからの転換を図れず、独立プロに走った監督たちは低予算の自慰的映画ばかりを作っていた。『激突!』『ジョーズ』のスピルバーグも、まだインディペンデントな臭いからは抜け出していなかった。
そこに登場したのが本作で、袋小路にいた映画を夢と冒険とロマン、空想と活劇の楽しい世界へ引き戻してくれた。そうした点で、サイレントに始まる映画史上の画期的な作品といっていい。
それはSFXでも同様で、TIEファイターなど宇宙船、ドロイドなどのメカのデザインや動き、様々な人種の宇宙人の造形やマペットにおいても、その後の教科書的作品になっている。
とりわけ画期的だったのは、デス・スターの隘路に飛び込むXウィングのストップモーション・アニメーションで、今ではCGで簡単に作れるが、当時はデス・スターのミニチュアを製作し、それを壊しながら小型カメラでコマ撮りしている。他にもワープ航法での星の斜線の描写など、今ではスタンダードとなった演出も多い。
半世紀近く経って見ると、セットやマペット、特撮技術に古さを感じるが、作品のクオリティは高く、古典的価値と併せ、本作がリメイクされない理由となっている。
銀河帝国と旧共和国の星間戦争の物語で、旧共和国反乱軍に与するレイア姫(キャリー・フィッシャー)が帝国軍の宇宙要塞デス・スターの設計図を入手。これを記憶したR2-D2が反乱軍に届け、デス・スターの弱点を叩いて破壊するまで。これを助けるのがジェダイの騎士ルーク(マーク・ハミル)とミレニアム・ファルコン号での密輸を生業とするハン・ソロ(ハリソン・フォード)とチューバッカで、レイア姫、R2-D2、C3POを合わせて主人公チームを形成する。
獣型宇宙人、人型ドロイド、マスコット的ドロイドとキャラクター構成もよくできていて、ヘルメットで顔を覆う敵・ダースベイダー、僧侶姿のオビ=ワン(アレック・ギネス)を加えてファンタジーの翼を広げる世界観が素晴らしい。
SFXに制作費を注ぎ込んだため主人公群が二線級となったが、その分、エンタテイメントに必要なバランスの取れたコミカルさもあっていい。それはSFXにリアリティを増した分、シリアスに傾いた新3部作以降に欠けたものとなっている。
ルークがハン・ソロに、レイア姫を指して”She is beautiful.”というセリフに思わず吹き出す。
公開時、フォースというものが今一つピンと来なかったが、字幕では理力にフォースとルビが振られていた。 (評価:4)
日本公開:1978年6月30日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:ゲイリー・カーツ 脚本:ジョージ・ルーカス 撮影:ギルバート・テイラー 美術:ジョン・バリー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:9位
原題"Star Wars"で、宇宙戦争の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第1作。時系列のエピソード4。
公開時、旧日劇のスクリーンいっぱいに広がる、玩具箱をひっくり返したような映像に、映画が本来あるべきエンタテイメントの復興を見た思いがした。
当時、TVの影響とアメリカン・ニューシネマに席捲されたハリウッド・エンタテイメントは、衰退の一途を辿っていて、映画は娯楽ではなくなっていた。邦画も同様で、TVの時代に映画会社はプログラム・ピクチャーからの転換を図れず、独立プロに走った監督たちは低予算の自慰的映画ばかりを作っていた。『激突!』『ジョーズ』のスピルバーグも、まだインディペンデントな臭いからは抜け出していなかった。
そこに登場したのが本作で、袋小路にいた映画を夢と冒険とロマン、空想と活劇の楽しい世界へ引き戻してくれた。そうした点で、サイレントに始まる映画史上の画期的な作品といっていい。
それはSFXでも同様で、TIEファイターなど宇宙船、ドロイドなどのメカのデザインや動き、様々な人種の宇宙人の造形やマペットにおいても、その後の教科書的作品になっている。
とりわけ画期的だったのは、デス・スターの隘路に飛び込むXウィングのストップモーション・アニメーションで、今ではCGで簡単に作れるが、当時はデス・スターのミニチュアを製作し、それを壊しながら小型カメラでコマ撮りしている。他にもワープ航法での星の斜線の描写など、今ではスタンダードとなった演出も多い。
半世紀近く経って見ると、セットやマペット、特撮技術に古さを感じるが、作品のクオリティは高く、古典的価値と併せ、本作がリメイクされない理由となっている。
銀河帝国と旧共和国の星間戦争の物語で、旧共和国反乱軍に与するレイア姫(キャリー・フィッシャー)が帝国軍の宇宙要塞デス・スターの設計図を入手。これを記憶したR2-D2が反乱軍に届け、デス・スターの弱点を叩いて破壊するまで。これを助けるのがジェダイの騎士ルーク(マーク・ハミル)とミレニアム・ファルコン号での密輸を生業とするハン・ソロ(ハリソン・フォード)とチューバッカで、レイア姫、R2-D2、C3POを合わせて主人公チームを形成する。
獣型宇宙人、人型ドロイド、マスコット的ドロイドとキャラクター構成もよくできていて、ヘルメットで顔を覆う敵・ダースベイダー、僧侶姿のオビ=ワン(アレック・ギネス)を加えてファンタジーの翼を広げる世界観が素晴らしい。
SFXに制作費を注ぎ込んだため主人公群が二線級となったが、その分、エンタテイメントに必要なバランスの取れたコミカルさもあっていい。それはSFXにリアリティを増した分、シリアスに傾いた新3部作以降に欠けたものとなっている。
ルークがハン・ソロに、レイア姫を指して”She is beautiful.”というセリフに思わず吹き出す。
公開時、フォースというものが今一つピンと来なかったが、字幕では理力にフォースとルビが振られていた。 (評価:4)
戦争のはらわた
日本公開:1977年3月12日
監督:サム・ペキンパー 製作:ヴォルフ・C・ハルトヴィッヒ、アーリーン・セラーズ、アレックス・ウィニトスキー 脚本:ジュリアス・エプシュタイン、ジェームス・ハミルトン、ウォルター・ケリー 撮影:ジョン・コキロン 音楽:アーネスト・ゴールド 美術:アラン・スタルスキ
原題は"Cross of Iron"で、劇中でシュトランスキー大尉が欲し、シュタイナー曹長がただの鉄と蔑むドイツ軍の鉄十字勲章のこと。改めて、受賞歴がないのを見るとちょっと意外な感じがする。ちなみにこの年のキネ旬の1位は『ロッキー』なのだが・・・
人間に内在する暴力を描いてきたペキンパーが、戦争という最大の暴力をテーマにしたある意味、集大成の映画。
この映画では徹頭徹尾戦闘シーンが描かれ、爆撃と銃撃の音が止まず、夥しい数の兵士が死んでいく。戦争のシーンは心躍るほどに面白く、サバイバルゲームや軍事オタクの気分にいつの間にか浸っている。現実の戦争が悲惨であることがわかっていても、それを観客として楽しめる自分がいて、それが内面の暴力性であることに気づかされる。
無感情で乾いたペキンパーの暴力はここでも健在で、よくある反戦映画のウエットな涙はひとかけらもないのに、戦争の無意味さは確実に伝わってくる。実際の画像を使ったオープニングとエンディングも効果的。それにしても、ソ連軍のT-34戦車の進撃シーンの迫力は凄い。 (評価:4)
製作国:フランス、スペイン
日本公開:1984年11月3日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルジュ・シルベルマン 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール
キネマ旬報:10位
男にとって女の存在はテロのようなもの?
原題"Cet obscur objet du désir"で、邦題の意。ピエール・ルイスの1898年の小説"La Femme et le pantin"(女と操り人形)が原作。
欲望の曖昧な対象とは女で、この掴みどころのないスペイン女コンチータをキャロル・ブーケと、アンヘラ・モリーナが2人1役で演じるという仕掛けが施されている。
美しいコンチータに夢中になる初老男マチュー(フェルナンド・レイ)にとって、彼が獲得しようとする対象そのものの曖昧さをこの2人1役の配役が示していて、マチューが手に入れようとしているのが、愛なのか性欲なのかはたまた外形なのか内面なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、見る者に問いかける。
男が女に心奪われ獲得しようとする時、何を求めているのかという根源的な問いかけともいえ、その掴みどころのない女という対象を変幻に操る脚本・演出が上手い。
物語は、翻弄され続けたマチューがコンチータに別れを告げ、セビリアからパリ行きの列車に乗り込むところから始まる。追いかけてきたコンチータにバケツの水をかけ、その理由をコンパートメントに乗り合わせた旅客に語るという回想形式を採る。
パリの邸の小間使いとして雇われたコンチータとの出会いと出奔、レマン湖畔での再会とパリでの別れ、ウェイトレスとして働くコンチータとの再会と別荘での同居と放逐、セビリアでの再会と家のプレゼント、コンチータの裏切りで冒頭の場面に繋ぐ。
列車に乗り込んだコンチータがバケツの水で仕返しし、パリに降り立った二人が仲良く町に消えるまでをブニュエルはコミカルに描く。
ストーリーに並行してヨーロッパで次々とテロが起き、ラストも爆発と共にエンディングロールとなるが、男にとって女の存在はテロのようなものという皮肉か? (評価:3.5)
日本公開:1984年11月3日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルジュ・シルベルマン 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール
キネマ旬報:10位
原題"Cet obscur objet du désir"で、邦題の意。ピエール・ルイスの1898年の小説"La Femme et le pantin"(女と操り人形)が原作。
欲望の曖昧な対象とは女で、この掴みどころのないスペイン女コンチータをキャロル・ブーケと、アンヘラ・モリーナが2人1役で演じるという仕掛けが施されている。
美しいコンチータに夢中になる初老男マチュー(フェルナンド・レイ)にとって、彼が獲得しようとする対象そのものの曖昧さをこの2人1役の配役が示していて、マチューが手に入れようとしているのが、愛なのか性欲なのかはたまた外形なのか内面なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、見る者に問いかける。
男が女に心奪われ獲得しようとする時、何を求めているのかという根源的な問いかけともいえ、その掴みどころのない女という対象を変幻に操る脚本・演出が上手い。
物語は、翻弄され続けたマチューがコンチータに別れを告げ、セビリアからパリ行きの列車に乗り込むところから始まる。追いかけてきたコンチータにバケツの水をかけ、その理由をコンパートメントに乗り合わせた旅客に語るという回想形式を採る。
パリの邸の小間使いとして雇われたコンチータとの出会いと出奔、レマン湖畔での再会とパリでの別れ、ウェイトレスとして働くコンチータとの再会と別荘での同居と放逐、セビリアでの再会と家のプレゼント、コンチータの裏切りで冒頭の場面に繋ぐ。
列車に乗り込んだコンチータがバケツの水で仕返しし、パリに降り立った二人が仲良く町に消えるまでをブニュエルはコミカルに描く。
ストーリーに並行してヨーロッパで次々とテロが起き、ラストも爆発と共にエンディングロールとなるが、男にとって女の存在はテロのようなものという皮肉か? (評価:3.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1977年3月12日
監督:ウディ・アレン 製作:チャールズ・H・ジョフィ、ジャック・ロリンズ 脚本:ウディ・アレン、マーシャル・ブリックマン 撮影:ゴードン・ウィリス
キネマ旬報:10位
アカデミー作品賞
コミカルな会話劇に癒されるウディ・アレンの真骨頂
アカデミー作品賞のほか、監督賞・主演女優賞・監督賞・脚本賞を受賞した、ウディ・アレンの初期の代表作。タイトルの"Annie Hall"は、ダイアン・キートン演じる主人公のパートナーの名前。
主人公のアルビー・シンガー(ウディ・アレン)は眼鏡をかけたシニカルな話芸のコメディアンで、ユダヤ人・ブルックリン育ちとウディ・アレンを連想させる。物語はアルビーがナイトクラブで歌っているアニーと出会い、恋をし、パートナーとなりながら、喧嘩し、やがてスカウトされたアニーはカリフォルニアへ行く。アルビーはニューヨークを離れることを拒絶し、二人は別れ、未練を断ち切れないアルビーはカリフォルニアに行ってアニーにニューヨークに戻るように説得するが、失敗する。
一人ニューヨークに戻ったアルビーは、二人の物語を芝居に書くが、そのラストはアニーがニューヨークに戻るというもの。現実の二人には、それぞれに恋人ができる。
男女の出会いと別れをテーマに、人生の悲哀をコミカルに描いた佳作で、劇中のアルビーがいきなり観客に向かって解説するという演出も面白い。冒頭のアルビーのプライマリースクールの友達が、大人になってからの地位・職業を自己紹介するという、アレンらしい斬新さ。
最初から終わりまでアレンの早口で立て続けな会話が続くため、字幕を読むのも忙しく、評価以前に好き嫌いの分かれる作品。ただ、アレンの会話はシニカルでアイロニーに溢れ、その上コミカルで、どこか観る者の人生に疲れた心を癒してくれるものがある。 (評価:3)
日本公開:1977年3月12日
監督:ウディ・アレン 製作:チャールズ・H・ジョフィ、ジャック・ロリンズ 脚本:ウディ・アレン、マーシャル・ブリックマン 撮影:ゴードン・ウィリス
キネマ旬報:10位
アカデミー作品賞
アカデミー作品賞のほか、監督賞・主演女優賞・監督賞・脚本賞を受賞した、ウディ・アレンの初期の代表作。タイトルの"Annie Hall"は、ダイアン・キートン演じる主人公のパートナーの名前。
主人公のアルビー・シンガー(ウディ・アレン)は眼鏡をかけたシニカルな話芸のコメディアンで、ユダヤ人・ブルックリン育ちとウディ・アレンを連想させる。物語はアルビーがナイトクラブで歌っているアニーと出会い、恋をし、パートナーとなりながら、喧嘩し、やがてスカウトされたアニーはカリフォルニアへ行く。アルビーはニューヨークを離れることを拒絶し、二人は別れ、未練を断ち切れないアルビーはカリフォルニアに行ってアニーにニューヨークに戻るように説得するが、失敗する。
一人ニューヨークに戻ったアルビーは、二人の物語を芝居に書くが、そのラストはアニーがニューヨークに戻るというもの。現実の二人には、それぞれに恋人ができる。
男女の出会いと別れをテーマに、人生の悲哀をコミカルに描いた佳作で、劇中のアルビーがいきなり観客に向かって解説するという演出も面白い。冒頭のアルビーのプライマリースクールの友達が、大人になってからの地位・職業を自己紹介するという、アレンらしい斬新さ。
最初から終わりまでアレンの早口で立て続けな会話が続くため、字幕を読むのも忙しく、評価以前に好き嫌いの分かれる作品。ただ、アレンの会話はシニカルでアイロニーに溢れ、その上コミカルで、どこか観る者の人生に疲れた心を癒してくれるものがある。 (評価:3)
製作国:ポーランド
日本公開:1980年9月6日
監督:アンジェイ・ワイダ 製作:バルバラ・ペツ・シレシツカ 脚本:アレクサンドル・シチボル・リルスキ 撮影:エドワルド・クウォシンスキ 音楽:アンジェイ・コジンスキ 美術:アラン・スタルスキ
キネマ旬報:4位
労働者国家の幻想は民主主義国家の幻想と変わらない
原題は"Człowiek z marmuru"で「大理石の男」の意。かつて大理石の像となったポーランドの労働英雄をめぐる物語。ポーランドの歴史はなじみが薄いが、第2次世界大戦後、独・ソの占領下からソ連傀儡の共産党政権に移行する。映画はその時代、政治に翻弄された労働英雄・煉瓦工の足跡を映画学校の生徒がドキュメンタリーで追うという構成になっている。
冒頭は彼女の追う対象の正体が不明で、徐々にその対象が明らかとなっていくというミステリータッチの構成になっている。ただラストは若干肩すかしの感があり、えっ、ここで終っちゃうの? という不満が残る。もっともこの映画はミステリーを目指しているわけではなく、その点ではエンタテイメントではないのだが、共産党政権下で政治に翻弄された一労働者の悲喜劇を通して、国家とそれに追従する国民を告発する。
日本人にはなじみの薄いポーランドの、しかも共産党政権が倒壊した今、この映画を観る意味を挙げるなら、労働者のための国家で労働組合やテレビ局の人間が体制に唯々諾々と従う姿は、民主主義の幻想に浸って、国家やマジョリティに押し流されている日本人とあまり変わらないということ。
その中で誰もが忌避する過去を穿り返し、検証しようと壁に立ち向かっていく主人公クリスティナ・ヤンダのバイタリティが見ていて清々しい。165分と長いが、佳作。 (評価:3)
日本公開:1980年9月6日
監督:アンジェイ・ワイダ 製作:バルバラ・ペツ・シレシツカ 脚本:アレクサンドル・シチボル・リルスキ 撮影:エドワルド・クウォシンスキ 音楽:アンジェイ・コジンスキ 美術:アラン・スタルスキ
キネマ旬報:4位
原題は"Człowiek z marmuru"で「大理石の男」の意。かつて大理石の像となったポーランドの労働英雄をめぐる物語。ポーランドの歴史はなじみが薄いが、第2次世界大戦後、独・ソの占領下からソ連傀儡の共産党政権に移行する。映画はその時代、政治に翻弄された労働英雄・煉瓦工の足跡を映画学校の生徒がドキュメンタリーで追うという構成になっている。
冒頭は彼女の追う対象の正体が不明で、徐々にその対象が明らかとなっていくというミステリータッチの構成になっている。ただラストは若干肩すかしの感があり、えっ、ここで終っちゃうの? という不満が残る。もっともこの映画はミステリーを目指しているわけではなく、その点ではエンタテイメントではないのだが、共産党政権下で政治に翻弄された一労働者の悲喜劇を通して、国家とそれに追従する国民を告発する。
日本人にはなじみの薄いポーランドの、しかも共産党政権が倒壊した今、この映画を観る意味を挙げるなら、労働者のための国家で労働組合やテレビ局の人間が体制に唯々諾々と従う姿は、民主主義の幻想に浸って、国家やマジョリティに押し流されている日本人とあまり変わらないということ。
その中で誰もが忌避する過去を穿り返し、検証しようと壁に立ち向かっていく主人公クリスティナ・ヤンダのバイタリティが見ていて清々しい。165分と長いが、佳作。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1978年6月17日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:リチャード・ロス 脚本:アルヴィン・サージェント 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:2位
見どころは素人エージェントの手に汗握るスパイ大作戦
原題"Julia"。ジュリアは登場人物の名。リリアン・ヘルマンの回顧録"Pentimento: A Book of Portraits"(ペンティメント:肖像画集)が原作。
第二次世界大戦前夜、1934年のヨーロッパが舞台。ミステリ作家ダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)とアメリカで同棲していた劇作家リリアン(ジェーン・フォンダ)は、パリに滞在中、幼馴染で社会主義活動家のジュリア(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)がウィーン内乱で怪我をしたことを知り、病院に見舞うが、ジュリアは忽然と消えてしまう。
3年後、モスクワの演劇フェスティバルに招待されたリリアンは、パリのホテルでジュリアの仲間の接触を受け、ベルリンに潜伏するジュリアに工作資金を手渡すように依頼を受ける。ユダヤ人のリリアンは、ジュリアに会うために危険を承知でウィーン経由モスクワ入りの予定をベルリン経由に変更する。
ここから反ナチ組織の支援を受けながら、無事ジュリアに工作資金を届けられるかというサスペンスになり、何も知らないリリアンの手に汗握るスパイ大作戦という展開になる。
本作の見どころはこれに尽きるが、ナチ支配下のドイツでのユダヤ人エージェントという状況設定が上手い。
リリアンは無事任務を遂行し、フランスにいるジュリアの子供を養育することを約するが、ジュリアはナチに殺され、子供を見つけることも出来ず、空しく物語を終える。
ジェイソン・ロバーズとヴァネッサ・レッドグレイヴがアカデミー助演男優・助演女優賞をそれぞれ受賞。 (評価:3)
日本公開:1978年6月17日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:リチャード・ロス 脚本:アルヴィン・サージェント 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:2位
原題"Julia"。ジュリアは登場人物の名。リリアン・ヘルマンの回顧録"Pentimento: A Book of Portraits"(ペンティメント:肖像画集)が原作。
第二次世界大戦前夜、1934年のヨーロッパが舞台。ミステリ作家ダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)とアメリカで同棲していた劇作家リリアン(ジェーン・フォンダ)は、パリに滞在中、幼馴染で社会主義活動家のジュリア(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)がウィーン内乱で怪我をしたことを知り、病院に見舞うが、ジュリアは忽然と消えてしまう。
3年後、モスクワの演劇フェスティバルに招待されたリリアンは、パリのホテルでジュリアの仲間の接触を受け、ベルリンに潜伏するジュリアに工作資金を手渡すように依頼を受ける。ユダヤ人のリリアンは、ジュリアに会うために危険を承知でウィーン経由モスクワ入りの予定をベルリン経由に変更する。
ここから反ナチ組織の支援を受けながら、無事ジュリアに工作資金を届けられるかというサスペンスになり、何も知らないリリアンの手に汗握るスパイ大作戦という展開になる。
本作の見どころはこれに尽きるが、ナチ支配下のドイツでのユダヤ人エージェントという状況設定が上手い。
リリアンは無事任務を遂行し、フランスにいるジュリアの子供を養育することを約するが、ジュリアはナチに殺され、子供を見つけることも出来ず、空しく物語を終える。
ジェイソン・ロバーズとヴァネッサ・レッドグレイヴがアカデミー助演男優・助演女優賞をそれぞれ受賞。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1978年4月29日
監督:ハーバート・ロス 製作:ハーバート・ロス、アーサー・ローレンツ 脚本:アーサー・ローレンツ 撮影:ロバート・サーティース 音楽:ジョン・ランチベリー
キネマ旬報:6位
ゴールデングローブ作品賞
ラスト同様にドラマとバレエの二兎を追って成功
原題は"The Turning Point"。
盛りを過ぎたプリマのバレリーナと、結婚して主婦となった元ライバルの女の友情と嫉妬を描く物語で、バレエをとるか愛をとるかで二人の人生を分けた転換点、Turning Pointがタイトルの由来。愛を捨ててバレエと選んだエマにアン・バンクロフト、バレエを捨てて愛を選んだディーディーにシャーリー・マクレーンと、演技派の二人の共演が見どころ。
バレリーナとして主婦としてどちらも盛りを過ぎたというのがポイントで、20年ぶりに再会した二人が、それぞれに自分が選んだ道を振り返って、後悔と相手への羨望が沸き起こってくる。エマは引退を迫られ、元恋人に復縁を持ち掛けるが失われたものは取り戻せないことを知り、ディーディーは娘エミリアの自立によって、昔を取り戻すように浮気をしてしまう。
エマは幸せな家庭を築いたディーディーに嫉妬し、ディーディーはバレリーナの夢を叶えたエマに嫉妬するが、エマがディーディーの夢の代償にエミリアをプリマに引き上げるのに対し、ディーディーは選んだ人生の証である娘さえも奪われるように思って対立。Turning Pointでエマとプリマを争うだけの実力が自分にあったという慰めを求める。
二人の対立は、エマがそれを認めることで和解に至るが、それが本音だったのか嘘だったのかは不明。それぞれが得たものと失ったものを認め合うという、二者択一の人生への悲哀となる。
もっとも、ハーバート・ロスはこのような結末を望んでなく、エミリアには二者択一の人生ではなく、バレリーナの夢と恋の成就の二兎を追わせるラストを用意する。
エミリアを演じたレスリー・ブラウンは本物のバレリーナで、女二人の人生のドラマとは別に、彼女のバレエシーンが本作の大きな見どころとなっている。これをアシストするのが恋人ユーリ役のミハイル・バリシニコフで、こちらもソ連出身のバレエダンサー。 『ジゼル』『パ・ド・ドゥ』『眠れる森の美女』『アンナ・カレーニナ』などのハイライトシーンが演じられるが、体操選手か曲芸師並みの身体能力。
ドラマとバレエと二重に楽しめる作品で、エミリアのラスト同様に二兎を追って成功している。 (評価:3)
日本公開:1978年4月29日
監督:ハーバート・ロス 製作:ハーバート・ロス、アーサー・ローレンツ 脚本:アーサー・ローレンツ 撮影:ロバート・サーティース 音楽:ジョン・ランチベリー
キネマ旬報:6位
ゴールデングローブ作品賞
原題は"The Turning Point"。
盛りを過ぎたプリマのバレリーナと、結婚して主婦となった元ライバルの女の友情と嫉妬を描く物語で、バレエをとるか愛をとるかで二人の人生を分けた転換点、Turning Pointがタイトルの由来。愛を捨ててバレエと選んだエマにアン・バンクロフト、バレエを捨てて愛を選んだディーディーにシャーリー・マクレーンと、演技派の二人の共演が見どころ。
バレリーナとして主婦としてどちらも盛りを過ぎたというのがポイントで、20年ぶりに再会した二人が、それぞれに自分が選んだ道を振り返って、後悔と相手への羨望が沸き起こってくる。エマは引退を迫られ、元恋人に復縁を持ち掛けるが失われたものは取り戻せないことを知り、ディーディーは娘エミリアの自立によって、昔を取り戻すように浮気をしてしまう。
エマは幸せな家庭を築いたディーディーに嫉妬し、ディーディーはバレリーナの夢を叶えたエマに嫉妬するが、エマがディーディーの夢の代償にエミリアをプリマに引き上げるのに対し、ディーディーは選んだ人生の証である娘さえも奪われるように思って対立。Turning Pointでエマとプリマを争うだけの実力が自分にあったという慰めを求める。
二人の対立は、エマがそれを認めることで和解に至るが、それが本音だったのか嘘だったのかは不明。それぞれが得たものと失ったものを認め合うという、二者択一の人生への悲哀となる。
もっとも、ハーバート・ロスはこのような結末を望んでなく、エミリアには二者択一の人生ではなく、バレリーナの夢と恋の成就の二兎を追わせるラストを用意する。
エミリアを演じたレスリー・ブラウンは本物のバレリーナで、女二人の人生のドラマとは別に、彼女のバレエシーンが本作の大きな見どころとなっている。これをアシストするのが恋人ユーリ役のミハイル・バリシニコフで、こちらもソ連出身のバレエダンサー。 『ジゼル』『パ・ド・ドゥ』『眠れる森の美女』『アンナ・カレーニナ』などのハイライトシーンが演じられるが、体操選手か曲芸師並みの身体能力。
ドラマとバレエと二重に楽しめる作品で、エミリアのラスト同様に二兎を追って成功している。 (評価:3)
製作国:アメリカ
日本公開:1978年7月15日
監督:ジョン・バダム 製作:ロバート・スティグウッド 脚本:ノーマン・ウェクスラー 撮影:ラルフ・D・ボード 音楽:ビー・ジーズ、デヴィッド・シャイア
ディスコ・ブームのきっかけとなった記念碑的映画
イギリスのロック・ジャーナリスト、ニック・コーンがニューヨーク・マガジンに書いた記事"Tribal Rites of the New Saturday Night"(新しい土曜の夜の部族儀式)が原作。新しい土曜の夜の部族儀式とは、労働者階級が土曜日の夜にディスコで踊る新しい風俗を指す。映画の原題は"Saturday Night Fever"で「土曜の夜の熱病」の意。フィーバーは流行語となったが、今はパチンコで使われるくらい。 原作タイトルの通り、ジョン・トラボルタ演じる安い週給で工具店に勤める19歳の少年トニーの唯一の生き甲斐は週末のディスコで、その夜だけはヒーローになれる。彼の友達やガールフレンドはブルックリンの底辺に吹き溜まっている不良で、トニーはある夜、踊りの上手な年上の女性ステファニーに出会う。彼女はマンハッタンに憧れ、大学に通いながらブルックリンからの脱出を夢見ている。ディスコでのコンテストがあり、トニーは彼女にペアを申し出、練習するうちに彼女に惹かれていく。念願叶ったステファニーのマンハッタンへの引っ越しを手伝うトニーは、彼女がマンハッタンの男の便利な女でしかないことを知る。 ディスコ・コンテストではトニー・ステファニー組が優勝するが、プエルトリコ人ペアが実力では上だったと考えるトニーは、そこにブルックリンでの人種差別を見て、救いのない仲間たちを見限ってブルックリンを脱出する決意をする。 本作はディスコ映画として宣伝され、トラボルタのダンスシーンが人気となったが、アメリカの階級社会の中の若者たちを描いた青春映画の良作で、宣伝イメージとは裏腹でトラボルタは純朴で真面目な若者を演じている。 トニーが少年から大人になっていく姿が描かれ、ラストはマンハッタンに移ったステファニーとともに新しいスタートに立つハッピーエンドとなるが、最後にこの二人がマンハッタンのエセ住民でしかないという示唆を示せれば、この作品は佳作になり得たかもしれない。 ヒットした主要曲はビージーズの楽曲で、この映画以降、日本でもディスコサウンドが多数作られるようになった。 (評価:2.5)
日本公開:1978年7月15日
監督:ジョン・バダム 製作:ロバート・スティグウッド 脚本:ノーマン・ウェクスラー 撮影:ラルフ・D・ボード 音楽:ビー・ジーズ、デヴィッド・シャイア
イギリスのロック・ジャーナリスト、ニック・コーンがニューヨーク・マガジンに書いた記事"Tribal Rites of the New Saturday Night"(新しい土曜の夜の部族儀式)が原作。新しい土曜の夜の部族儀式とは、労働者階級が土曜日の夜にディスコで踊る新しい風俗を指す。映画の原題は"Saturday Night Fever"で「土曜の夜の熱病」の意。フィーバーは流行語となったが、今はパチンコで使われるくらい。 原作タイトルの通り、ジョン・トラボルタ演じる安い週給で工具店に勤める19歳の少年トニーの唯一の生き甲斐は週末のディスコで、その夜だけはヒーローになれる。彼の友達やガールフレンドはブルックリンの底辺に吹き溜まっている不良で、トニーはある夜、踊りの上手な年上の女性ステファニーに出会う。彼女はマンハッタンに憧れ、大学に通いながらブルックリンからの脱出を夢見ている。ディスコでのコンテストがあり、トニーは彼女にペアを申し出、練習するうちに彼女に惹かれていく。念願叶ったステファニーのマンハッタンへの引っ越しを手伝うトニーは、彼女がマンハッタンの男の便利な女でしかないことを知る。 ディスコ・コンテストではトニー・ステファニー組が優勝するが、プエルトリコ人ペアが実力では上だったと考えるトニーは、そこにブルックリンでの人種差別を見て、救いのない仲間たちを見限ってブルックリンを脱出する決意をする。 本作はディスコ映画として宣伝され、トラボルタのダンスシーンが人気となったが、アメリカの階級社会の中の若者たちを描いた青春映画の良作で、宣伝イメージとは裏腹でトラボルタは純朴で真面目な若者を演じている。 トニーが少年から大人になっていく姿が描かれ、ラストはマンハッタンに移ったステファニーとともに新しいスタートに立つハッピーエンドとなるが、最後にこの二人がマンハッタンのエセ住民でしかないという示唆を示せれば、この作品は佳作になり得たかもしれない。 ヒットした主要曲はビージーズの楽曲で、この映画以降、日本でもディスコサウンドが多数作られるようになった。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1978年2月25日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:ジュリア・フィリップス、マイケル・フィリップス 脚本:スティーヴン・スピルバーグ 撮影:ヴィルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:4位
やはり最後は宇宙人に拉致されたんだろうか?
原題は"Close Encounters of the Third Kind"(第三種接近遭遇)。第三種接近遭遇は当時流行った言葉で、UFOの宇宙人と接触すること。
久し振りに観て、ストーリーをほとんど憶えていなかったが、最後のよくわからない終わり方で、公開時に同じ感想を持ったことを思い出した。当時の記憶を手繰り寄せれば、それまで宇宙人は基本的に侵略者として描かれ、本作でもそのような気配を十分に漂わせながら、最後は友好的に終わるという、いかにもスピルバーグらしい友愛に満ちた内容が、この映画が評価された点だった。それを押さえておかないと、やはりわけのわからない映画で、だから何なの? という感想しか残らない。
UFOがやってきて人々がパニックになり、同時にタイムスリップしたような事件が起きる。しかし、UFOに親しみを感じる子供もいたりして、政府は不思議な丘の立入禁止エリアで宇宙人との接触を試みる。何人かの選ばれし者たちは丘にやってくるが、最後に主人公の男が選ばれてUFOとともに飛び去る。
アメリカ人的メンタリティに立てば、UFOは神の使いと考えることもでき、UFOとの接触を願う男だけが神に選ばれて天国に向かったと考えられなくもない。あまり解釈をこねくり回さずに素直に見た方が良いのだろうが、やはり男の行く末が気になる。やっぱ、宇宙人に拉致されたんじゃないの?
アカデミー撮影賞のUFOの飛ぶシーンやUFOそのものの映像が美しく、わくわくドキドキさせる。
宇宙人は4本指というのが定説だが、本作の宇宙人は5本指に見えるのが気になる。 (評価:2.5)
日本公開:1978年2月25日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:ジュリア・フィリップス、マイケル・フィリップス 脚本:スティーヴン・スピルバーグ 撮影:ヴィルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:4位
原題は"Close Encounters of the Third Kind"(第三種接近遭遇)。第三種接近遭遇は当時流行った言葉で、UFOの宇宙人と接触すること。
久し振りに観て、ストーリーをほとんど憶えていなかったが、最後のよくわからない終わり方で、公開時に同じ感想を持ったことを思い出した。当時の記憶を手繰り寄せれば、それまで宇宙人は基本的に侵略者として描かれ、本作でもそのような気配を十分に漂わせながら、最後は友好的に終わるという、いかにもスピルバーグらしい友愛に満ちた内容が、この映画が評価された点だった。それを押さえておかないと、やはりわけのわからない映画で、だから何なの? という感想しか残らない。
UFOがやってきて人々がパニックになり、同時にタイムスリップしたような事件が起きる。しかし、UFOに親しみを感じる子供もいたりして、政府は不思議な丘の立入禁止エリアで宇宙人との接触を試みる。何人かの選ばれし者たちは丘にやってくるが、最後に主人公の男が選ばれてUFOとともに飛び去る。
アメリカ人的メンタリティに立てば、UFOは神の使いと考えることもでき、UFOとの接触を願う男だけが神に選ばれて天国に向かったと考えられなくもない。あまり解釈をこねくり回さずに素直に見た方が良いのだろうが、やはり男の行く末が気になる。やっぱ、宇宙人に拉致されたんじゃないの?
アカデミー撮影賞のUFOの飛ぶシーンやUFOそのものの映像が美しく、わくわくドキドキさせる。
宇宙人は4本指というのが定説だが、本作の宇宙人は5本指に見えるのが気になる。 (評価:2.5)
製作国:イタリア
日本公開:1982年7月31日
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 撮影:マリオ・マシーニ 音楽:エジスト・マッキ
キネマ旬報:10位
カンヌ映画祭パルム・ドール
父がマスターの座を降りる姿が救い
原題は"Padre Padrone"で、「父、マスター」の意。イタリアの言語学者ガヴィーノ・レッダの同名自伝が原作。
ガヴィーノ・レッダは1938年、地中海のサルデーニャ島の羊飼いの家に生まれたが、学校にも行かされず、文盲のまま青年となり、軍隊に入ってから猛勉強をして大学を卒業、島に帰って方言学の研究者となった。
本作では冒頭、ガヴィーノ・レッダ自身が登場し、6歳のときに父親によって教室から連れ戻されるエピソードから物語は始まる。
ガヴィーノに限らず、羊飼いの子供たちにとって父親はマスターで、奴隷のように仕えなければならない。そこには昔の日本を含む前近代的な家族の様相があって、教育を受けられない子供たちは無教養な親となり、子供を所有物にして専横を振るうという再生産が繰り返される。
羊飼いの子供たちの娯楽は家畜との獣姦や自慰で、そうした境遇を抜け出すためにドイツへ移民しようとするが、文盲のガヴィーノにはそれさえも叶わず、社会の底辺に沈む。
ただガヴィーノは、大人になったら学校に行っても良いという父親の約束によって教育を受けられる軍隊に入隊し、軍隊内でもイタリア語を話せず差別的扱いを受けるが、良き友を得て勉学に励み、大学まで進む。
その彼が言語学者となり、サルデーニャ語の研究者となったことは皮肉なのだが、再び島に戻って父と生家で暮らし、父がマスターの座を降りる姿が父と子の恩讐を越えた救いとなる。
カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。 (評価:2.5)
日本公開:1982年7月31日
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 撮影:マリオ・マシーニ 音楽:エジスト・マッキ
キネマ旬報:10位
カンヌ映画祭パルム・ドール
原題は"Padre Padrone"で、「父、マスター」の意。イタリアの言語学者ガヴィーノ・レッダの同名自伝が原作。
ガヴィーノ・レッダは1938年、地中海のサルデーニャ島の羊飼いの家に生まれたが、学校にも行かされず、文盲のまま青年となり、軍隊に入ってから猛勉強をして大学を卒業、島に帰って方言学の研究者となった。
本作では冒頭、ガヴィーノ・レッダ自身が登場し、6歳のときに父親によって教室から連れ戻されるエピソードから物語は始まる。
ガヴィーノに限らず、羊飼いの子供たちにとって父親はマスターで、奴隷のように仕えなければならない。そこには昔の日本を含む前近代的な家族の様相があって、教育を受けられない子供たちは無教養な親となり、子供を所有物にして専横を振るうという再生産が繰り返される。
羊飼いの子供たちの娯楽は家畜との獣姦や自慰で、そうした境遇を抜け出すためにドイツへ移民しようとするが、文盲のガヴィーノにはそれさえも叶わず、社会の底辺に沈む。
ただガヴィーノは、大人になったら学校に行っても良いという父親の約束によって教育を受けられる軍隊に入隊し、軍隊内でもイタリア語を話せず差別的扱いを受けるが、良き友を得て勉学に励み、大学まで進む。
その彼が言語学者となり、サルデーニャ語の研究者となったことは皮肉なのだが、再び島に戻って父と生家で暮らし、父がマスターの座を降りる姿が父と子の恩讐を越えた救いとなる。
カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。 (評価:2.5)
ガントレット
日本公開:1977年12月17日
監督:クリント・イーストウッド 製作:ロバート・デイリー 脚本:マイケル・バトラー、デニス・シュリアック 撮影:レックスフォード・メッツ 美術:アレン・E・スミス 音楽:ジェリー・フィールディング
原題"The Gauntlet"で、2列に並んだ兵士の間を打たれながら抜ける刑罰のこと。ラストにこれをイメージするシーンがある。
物語はフェニックス市警のダメ刑事ショックリー(クリント・イーストウッド)が、警察長官ブレークロック(ウィリアム・プリンス)の命令で裁判の証人をラスベガスから護送してくるというもの。この証人がネバダ州警察に拘置されている売春婦のマリー(ソンドラ・ロック)で、護送が始まった途端、マフィアや州警察に襲撃されてしまう。
実は襲撃命令を出しているのがブレークロックで、裁判でマリーがブレークロックとマフィアの癒着を証言するのを阻止するため、ダメ刑事ともども抹殺しようという魂胆。このネタバレは不自然な襲撃が始まった早々に見当がついてしまい、鈍いのはダメ刑事一人という、ヒーローの割には間抜けというイーストウッドにしては珍しい設定になっている。
カーチェイスに始まりマリーの家の包囲銃撃、州境での待ち伏せ、イージー・ライダー集団、ヘリによる追撃、列車での逃亡、装甲バスでの市内特攻と状況設定やシナリオはご都合主義で相当に荒いが、全編これアクション活劇で、余計なツッコミは入れずに痛快アクションを楽しむというのが正しい鑑賞法。
マフィアと警察の攻撃をかいくぐり、法廷に出廷して警察長官の悪事を暴くというのが正しいストーリーだが、そこはイーストウッドなので、市庁舎の前で悪役の警察長官を射殺して終わるという西部劇的エンディングとなっている。
ダメ刑事が一念発起してヒーローになるというストーリーだが、イーストウッドのカッコマンから脱却できない演技が中途半端。 (評価:2.5)
マリとユリ
日本公開:2023年5月26日
監督:メーサーロシュ・マールタ 脚本:コーローディ・イルディコー、バラージュ・ヨージェフ 撮影:ケンデ・ヤーノシュ
原題"Ok ketten"で、OK 私たち二人の意。
アルコール依存症の夫を持つユリ(モノリ・リリ)と保守的な夫を持つマリ(マリナ・ブラディ)の二人の女性の物語で、男女の関係性について女性の視点で描く。
女性監督であっても男性の価値観、ないしはその反発でしかない作品が多い中で、そうした偏見から自由な独自の視点が新鮮。
物語は夫に愛想を尽かしたユリが子供を連れてマリが責任者を務めるクリーニング工場に逃げ込んでくるところから始まる。
マリは工場の規則に反してユリを雇用するが、連れ戻しにきた夫と肉体的に離れられないユリを見て、マリは自己の夫婦関係について顧みることになる。
マリは夫からプロポーズされ愛のないままに結婚したが、今は工場に住み込んで週末に家に帰る半別居生活を送っている。夫はこれに不満でモンゴル転勤を機にマリについてくるように求める。
たまたまユリの夫にキスされたマリは、夫以外の初めての経験に心が躍り、それを夫に話すことで倦怠した二人の関係を修復しようと試みるが失敗に終わり、夫はモンゴルに一人旅立つ。
一方、ユリの夫は医療施設でのアルコール依存症の治療を決意するものの実行できず、強制的に入所させられてしまう。
夫との面会を拒否するユリを置いて、マリはユリの子供と医療施設にその夫を見舞うが、過酷な治療に耐え切れない夫は醜態を示して二人を追い返してしまう。
そうした大人たちの偽りに対して、ユリの子供はみんな嘘つきと言って駆け出して終わる。
ラストはやや定型的だが、女性たちは男に屈することなく自らの意思を貫くものの、何事も解決しない。実際の世の中同様に救いのないのが良い代わりに、カタルシスもない。 (評価:2.5)
シンドバッド虎の目大冒険
日本公開:1977年8月20日
監督:サム・ワナメイカー 製作:チャールズ・H・シニア、レイ・ハリーハウゼン 脚本:ビヴァリー・クロス 撮影:テッド・ムーア 特撮:レイ・ハリーハウゼン 音楽:ロイ・バッド
原題"Sinbad and the Eye of the Tiger"で、シンドバッドと虎の目の意。虎の目は獲物を狙う目という比喩表現で、作中度々目のアップが映し出される魔女ゼノビアのこと。
レイ・ハリーハウゼンの特撮によるシンドバッド三部作の最終作で、前作『シンドバッド黄金の航海』(1974)から3年後の公開。
特撮技術に大きな差はないが、本作の特徴は人間との絡みが多く、実写の人間の投げた槍がアニメーションの生き物に刺さったり、網を投げて捕まえるなどの合成技術が大きな見どころとなっている。
継母の王妃で魔女のゼノビアによってヒヒに変えられてしまったカシム王子の呪いを解くために航海に出たシンドバッドが、地中海の島の賢者の教えに従って極北にある神殿に旅し、太陽神の光によって無事人間に戻すまでの物語。
ゼノビアと王位を継がせる息子がこれを阻止すべくミノタウロスもどきと追うが、危険な上に時間制限があるので、なぜわざわざ極北まで追いかける必要があるのか? という疑問はさておいて、タイムレースに主体を置いたアーサー王的な物語なので、シナリオ的には無茶苦茶だが前2作に比べればまだ退屈しない。
反面、謎解きゲーム的なストーリーのため、ラストのボス戦以外はシンドバッドの活躍する場面がなく、影が薄くなっている。
アニメーションに登場するのはヒヒとミノタウロスもどき、セイウチような怪獣、巨大原始人、虎のような怪獣で、実写と複雑に絡むので、特撮的には感心する。
もっともミノタウロスもどきと巨大原始人については着ぐるみでも良かったんじゃないかというところがあって、わざわざ面倒臭いアニメーションにしたレイ・ハリーハウゼンのこだわりに感服する。
スペイン、マルタ島、ヨルダン・ペトラ遺跡ロケと頑張ってはいるが、アラビア王女とマルタ島の美女が、ハリウッド的金髪娘なのには、アラビア人に見えないシンドバッド以上に呆気にとられる。 (評価:2.5)
くまのプーさん 完全保存版
日本公開:1977年7月2日
監督:ウォルフガング・ライザーマン、ジョン・ラウンズベリー 製作:ウォルト・ディズニー、ウォルフガング・ライザーマン 脚本:ラルフ・ライト、ラリー・クレモンズ、ジュリアス・スペンセン、ヴァンス・ゲリー、ケン・アンダーソン、エリック・クレワース 音楽:バディ・ベイカー、リチャード・M・シャーマン、ロバート・B・シャーマン
原題"The Many Adventures of Winnie the Pooh"で、ウィニー・ザ・プーのたくさんの冒険の意。A・A・ミルンの児童小説"Winnie-the-Pooh"と"The House at Pooh Corner"が原作。
ウィニーはロンドン動物園の熊の名から採られたもので、"Winnie the Pooh"は、ウンコなウィニーの意。"Winnie the Pooh"の名に相応しく、ウィニー(プー)の愚行が描かれる。
本作は『プーさんとはちみつ』(Winnie the Pooh and the Honey Tree; 1966)、『プーさんと大あらし』(Winnie the Pooh and the Blustery Day; 1968)、『プーさんとティガー』(Winnie the Pooh and Tigger Too; 1974)の短編3篇を繋いでエンディングを加えたもので、原作小説の挿絵が動き出すという演出が洒落ている。
1話目はテディベアのプーが蜂の巣の蜂蜜を採るのに四苦八苦した挙句、兎のラビットの家の蜂蜜を平らげて太ってしまい、ウサギ穴から抜けられなくなるというお粗末。断食してようやく抜け出すが蜂の巣の穴に突っ込んでしまい、それでも嬉しそうに蜂蜜を頬張るというウンコっぷりを発揮する。
2話目は大風の日に出掛けた梟のオウルの家が大木ごと倒壊。オウルの住める家を探し回って子豚の縫ぐるみ・ピグレットの家を提供。ピグレットはプーと暮らすことになる。
3話目は跳びはねる虎の縫ぐるみ・ティガーをメインにした話で、迷惑だとプーとラビットらが森に置き去りにする。ところが自分たちが迷子になってしまい逆にティガーに助けられるといった話で構成。
アホかわいい縫ぐるみたちの話で、この世界に入り込めるかどうかが評価の分かれ目。この世界を作り上げた持ち主の少年クリストファー・ロビン君が、学校に通うようになり、プーに別れを告げるというラストシーンが世界観を180度変える展開で、それまでのアホかわいさと打って変わり、いささか唐突な感じがする。 (評価:2.5)
ミスター・グッドバーを探して
日本公開:1978年3月18日
監督:リチャード・ブルックス 製作:フレディ・フィールズ 脚本:リチャード・ブルックス 撮影:ウィリアム・A・フレイカー 美術:エドワード・C・カーファグノ 音楽:アーティ・ケイン
原題"Looking for Mr. Goodbar"で邦題の意。実際にあった殺人事件を基にしたジュディス・ロスナーの同名小説が原作。聾唖学校の独身の女教師がバーで男漁りの末に殺されてしまうという結末で、Mr. Goodbarは良い一物、ペニスのこと。
主人公のテレサ(ダイアン・キートン)が大学を卒業して聾唖教師となり、殺されるまでが描かれるが、発端はハンサムな大学教授に不倫の上に捨てられ、それが元で男漁りが始まるという流れ。スチュワーデスをしている姉の乱行に影響され、ドラッグに手を染め、娼婦と間違えられるような奔放な夜遊びの生活になる。
一般的には転落という言い方がされるが、時は1970年代。ウーマンリブで精神も肉体も解放されることが先進的オンナとされた中で、彼女は最もススんだ女だったのかもしれない。
それが大きなマチガイだったのか、時代が生んだ悲劇だったのかという評価は本作ではなされてなく、ただ事件までの経過を日記風に追うに留まっている。
彼女はウーマンリブの闘士でもなく、女性解放思想を信奉しているわけでもなく、男に捨てられ、淫蕩な姉の影響で時代の風潮を体現してしまった。さらには、彼女が幼い頃にポリオに罹っていて、それが遺伝ではないかと、結婚と出産に躊躇していたこと、家が厳格なカソリックの家庭で、煩い父に反発して家を飛び出していることが背景として描かれるが、掘り下げられてはいない。
彼女が漁る男たちも心や体に傷を持っていて、彼女のポリオ手術の傷跡とシンクロしているようでもあり、男たちの傷の背景にベトナム戦争といった時代の空気も描かれる。
そうした時代の要素が見え隠れし、アメリカ社会における時代の変革と価値観の大きな転換がこの事件の底流に流れていることを示しながらも、その変化の潮流の真っ只中で制作された本作は、それらを整理することも掘り下げることもできず、時代に翻弄された彼女同様、漂流しただけに終わっている。
バーで知り合うドラマーの男、リチャード・ギアが若い。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1978年10月28日
監督:ハーバート・ロス 製作:レイ・スターク 脚本:ニール・サイモン 撮影:デヴィッド・M・ウォルシュ 音楽:デイヴ・グルーシン
キネマ旬報:3位
ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
ハッピーエンドだが続編を作ればきっとGoodbyeされる
原題"The Goodbye Girl"。男にGoodbyeされるのが習い性となっている女の物語。
離婚し、同棲相手に逃げられた女(マーシャ・メイソン)が、成り行きから男(リチャード・ドレイファス)に子持ちで居候させてもらうことになり、やがて恋に落ちるというラブコメ的な女性映画で、同居の経緯と経過がストーリー的に面白くできていてそれなりに楽しめるが、ラブコメ的女性映画のセオリーに則ったハッピーエンドなラストが無理やりで、観ていて気恥ずかしいほど。
女は子持ちのダンサーで、年齢的・体力的にオーディションに落ち続け、同居相手の好意に頼らざるを得ない。一方の男は女の元同棲相手の友人で、借室を引き継いだ貧乏役者。女は強がって生きざるを得ないところがGoodbyeされる原因となっているが、芝居の評判が散々だった男を慰めているうちに愛し合うようになる。
ところが男に映画出演の話が来て撮影に出かけようとすると、例の如くまたGoodbyeされると思い込んだ女だったが、今度こそGoodbyeされないと知ってGoodbye Girlを抜け出すというハッピーエンドのオチ。
ラストがなぜGoodbyeされないと女が信じたのか若干説明不足のところがあり、映画出演を始め急転直下の大団円が如何にもハリウッド的で、いささかうんざりする。
娘が大人顔負けの台詞を吐くなど突っ込みどころもあるが、大人向けラブコメと考えれば気になるほどではない。
一番気になるのは、Goodbyeされないハッピーエンドでありながら、それが確信できないところにあって、続編を作ればきっとGoodbyeされることになるんだろうと予感できてしまうのが残念なところ。
リチャード・ドレイファスはアカデミー主演男優賞。 (評価:2)
日本公開:1978年10月28日
監督:ハーバート・ロス 製作:レイ・スターク 脚本:ニール・サイモン 撮影:デヴィッド・M・ウォルシュ 音楽:デイヴ・グルーシン
キネマ旬報:3位
ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
原題"The Goodbye Girl"。男にGoodbyeされるのが習い性となっている女の物語。
離婚し、同棲相手に逃げられた女(マーシャ・メイソン)が、成り行きから男(リチャード・ドレイファス)に子持ちで居候させてもらうことになり、やがて恋に落ちるというラブコメ的な女性映画で、同居の経緯と経過がストーリー的に面白くできていてそれなりに楽しめるが、ラブコメ的女性映画のセオリーに則ったハッピーエンドなラストが無理やりで、観ていて気恥ずかしいほど。
女は子持ちのダンサーで、年齢的・体力的にオーディションに落ち続け、同居相手の好意に頼らざるを得ない。一方の男は女の元同棲相手の友人で、借室を引き継いだ貧乏役者。女は強がって生きざるを得ないところがGoodbyeされる原因となっているが、芝居の評判が散々だった男を慰めているうちに愛し合うようになる。
ところが男に映画出演の話が来て撮影に出かけようとすると、例の如くまたGoodbyeされると思い込んだ女だったが、今度こそGoodbyeされないと知ってGoodbye Girlを抜け出すというハッピーエンドのオチ。
ラストがなぜGoodbyeされないと女が信じたのか若干説明不足のところがあり、映画出演を始め急転直下の大団円が如何にもハリウッド的で、いささかうんざりする。
娘が大人顔負けの台詞を吐くなど突っ込みどころもあるが、大人向けラブコメと考えれば気になるほどではない。
一番気になるのは、Goodbyeされないハッピーエンドでありながら、それが確信できないところにあって、続編を作ればきっとGoodbyeされることになるんだろうと予感できてしまうのが残念なところ。
リチャード・ドレイファスはアカデミー主演男優賞。 (評価:2)
製作国:イタリア
日本公開:1977年6月25日
監督:ダリオ・ 製作:クラウディオ・アルジェント 脚本:ダリオ・アルジェント、ダリア・ニコロディ 撮影:ルチアーノ・トヴォリ 音楽:ゴブリン、ダリオ・アルジェント
ホラーなのに怖さよりも水着に監督の煩悩が見える
原題"Suspiria"はラテン語で溜め息のこと。19世紀のイギリス作家トマス・ド・クインシーの『深き淵よりの嘆息』(Suspiria de Profundis)を基に脚本化した、ダリオ・アルジェント監督のホラー映画。
当時、女性向けホラーとして宣伝され、それなりにヒットした。個人的には女の子に誘われて見に行ったが、見終わって女の子に「怖かったね!」と興奮気味にいわれ、曖昧にしか答えられなかった思い出深い作品。
針金のシーンと音楽しか覚えていなかったが、見直してみたら、針金のシーンは主人公の女の子ではなかった。
南ドイツのバレエ学校に留学したアメリカ娘(ジェシカ・ハーパー)は、いきなり殺人事件に遭遇する。殺された女生徒は、青いアイリス、秘密、の言葉を残し、ミステリアスな展開となるが、ナイフ・ガラスと血糊、蛆虫という痛くてえぐいシーンが続く。
そもそも冒頭からホラー映画を強調した「怖いぞ~、怖いぞ~」の一本調子な演出で、フランケンみたいな下男、盲導犬を連れたピアニストと、如何にもな安っぽいホラー演出だが、バレエ学校の先生が女子刑務所の女看守かナチの女親衛隊員みたいで、B級ホラーとしてもさらに下を行くイタリアン。
魔女の本場ドイツに相応しく、バレエ学校は実は**の家というオチだが、主人公のアメリカ娘が最初から狙われている理由がよくわからない上に、催眠薬を盛られて肝腎のホラーシーンで寝ているために、折角可愛い子を起用しても少しも怖くない。怖さよりも水着シーンという色気を追求するあたりに監督の煩悩が見える。
おまけに主人公は結構冒険家で、終盤の秘密に迫るシーンも勇気凛凛のために、美少女が恐怖に慄くホラー本来の楽しみが失われているのが残念。
ドイツという舞台設定にこだわり過ぎて、怖さを追求するというホラーの真髄に迫れなかった残念作。但し、ゴブリンの音楽はひたひたと恐怖が迫りくる感じで良い。 (評価:2)
日本公開:1977年6月25日
監督:ダリオ・ 製作:クラウディオ・アルジェント 脚本:ダリオ・アルジェント、ダリア・ニコロディ 撮影:ルチアーノ・トヴォリ 音楽:ゴブリン、ダリオ・アルジェント
原題"Suspiria"はラテン語で溜め息のこと。19世紀のイギリス作家トマス・ド・クインシーの『深き淵よりの嘆息』(Suspiria de Profundis)を基に脚本化した、ダリオ・アルジェント監督のホラー映画。
当時、女性向けホラーとして宣伝され、それなりにヒットした。個人的には女の子に誘われて見に行ったが、見終わって女の子に「怖かったね!」と興奮気味にいわれ、曖昧にしか答えられなかった思い出深い作品。
針金のシーンと音楽しか覚えていなかったが、見直してみたら、針金のシーンは主人公の女の子ではなかった。
南ドイツのバレエ学校に留学したアメリカ娘(ジェシカ・ハーパー)は、いきなり殺人事件に遭遇する。殺された女生徒は、青いアイリス、秘密、の言葉を残し、ミステリアスな展開となるが、ナイフ・ガラスと血糊、蛆虫という痛くてえぐいシーンが続く。
そもそも冒頭からホラー映画を強調した「怖いぞ~、怖いぞ~」の一本調子な演出で、フランケンみたいな下男、盲導犬を連れたピアニストと、如何にもな安っぽいホラー演出だが、バレエ学校の先生が女子刑務所の女看守かナチの女親衛隊員みたいで、B級ホラーとしてもさらに下を行くイタリアン。
魔女の本場ドイツに相応しく、バレエ学校は実は**の家というオチだが、主人公のアメリカ娘が最初から狙われている理由がよくわからない上に、催眠薬を盛られて肝腎のホラーシーンで寝ているために、折角可愛い子を起用しても少しも怖くない。怖さよりも水着シーンという色気を追求するあたりに監督の煩悩が見える。
おまけに主人公は結構冒険家で、終盤の秘密に迫るシーンも勇気凛凛のために、美少女が恐怖に慄くホラー本来の楽しみが失われているのが残念。
ドイツという舞台設定にこだわり過ぎて、怖さを追求するというホラーの真髄に迫れなかった残念作。但し、ゴブリンの音楽はひたひたと恐怖が迫りくる感じで良い。 (評価:2)
アリス・スウィート・アリス
日本公開:2020年8月21日
監督:アルフレッド・ソウル 製作:リチャード・K・ローゼンバーグ 脚本:アルフレッド・ソウル、ローズマリー・リトヴォ 撮影:ジョン・フライバーグ、チャック・ホール 音楽:スティーヴン・ローレンス
原題"Alice, Sweet Alice"で、アリス、甘美なアリスの意。オリジナル・タイトルは"Communion"(聖体拝領)。
ニュージャージー州の町パターソンが舞台。聖体拝領の日、教会でカレン(ブルック・シールズ)が殺害され、問題児の姉アリス(ポーラ・シェパード)に嫌疑が掛けられる。日頃より母キャサリン(リンダ・ミラー)は美少女のカレンを溺愛し、醜女のアリスは精神治療が必要なほどに性格が曲がっていて、黄色いレインコートと不気味なお面を愛用して悪事を繰り返す。
果たして、その後も黄色いレインコートと不気味なお面の人物による傷害事件が続き、犯人と目されたアリスは精神病院に。
ところが事件は続き、アリスの父ドム(ナイルズ・マクマスター)、アパートの大家アルフォンソ(アルフォンソ・デノーブル)、神父トム(ルドルフ・ウィルリック)が殺され、教会の家政婦トレドーニ夫人(ミルドレッド・クリントン)がアリスに見せかけた真犯人であることがわかる。トムと親しくするキャサリンに嫉妬しての犯行で一件落着となるが、カレン殺しは実はアリスだったのではないかという終わり方をする。
アリスとトレドーニ夫人の二人のサイコパスを描くスラッシャー映画で、アリスが少女というのが見どころの一つ。もう一つは、これが映画デビューとなる12歳のブルック・シールズの美少女ぶりだが、出番は少ない。
全体に人物関係とストーリーがわかりにくいのが難で、カルト的人気作とされるが出来はよくない。 (評価:2)
ザッツ・エンタテインメントPART2
日本公開:1977年2月26日
監督:ジーン・ケリー 製作:ソウル・チャップリン、ダニエル・メルニック 脚本:レナード・ガーシュ 撮影:ジョージ・フォルシー 音楽:ネルソン・リドル
原題"That's Entertainment! part II"。
前作の成功を受けて製作された続編で、監督はジーン・ケリー。プレゼンターはジーン・ケリーとフレッド・アステアで、老いた二人が「ザッツ・エンターテインメント」を歌い踊って過去のミュージカルを紹介していくというのが見どころ。
ミュージカルだけでなく、マルクス兄弟などのコメディ、スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーンの一般映画、フランク・シナトラのフィルモグラフィーなど全体に総花的なために統一性がなく、使用映画や俳優の紹介も雑なために、あまり知られていない映画や俳優たちの通り一遍の紹介だけに終わっている印象が強い。
大量に作られたミュージカル映画からは、演技だけでなく歌や踊りなどのレッスンを基本とする現在のハリウッド俳優たちの層の厚さと実力を改めて知らされるが、同時にミュージカル俳優たちが草創期から長足の進歩を遂げていることにも驚かされる。
ミュージカル俳優以外の有名俳優や名画も登場するだけに、もう少し丁寧な説明が欲しかった。 (評価:2)
007 私を愛したスパイ
日本公開:1977年12月24日
監督:ルイス・ギルバート 製作:アルバート・R・ブロッコリ 脚本:クリストファー・ウッド、リチャード・メイボーム 撮影:クロード・ルノワール 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
3代目ボンド、ロジャー・ムーア第3作。原題は"The Spy Who Loved Me"で、邦題の意。シリーズ第10作。イアン・フレミングの同名小説が原作。
イギリス原潜レンジャーと、ソ連原潜ポチョムキンが消息を絶ち、ボンドとKGBスパイのアニヤ(バーバラ・バック)が調査に向かうという物語。
水陸両用のボンドカー、潜水・浮上するする海中基地、原潜を呑み込む巨大タンカーと特撮チック、漫画チックな仕掛けや、敵味方なく次々と飛び出す秘密兵器で、娯楽路線に徹しきった。
さらに勇み足だったのは、1975年の超話題作『ジョーズ』のパロディまで取り込んだことで、途中『アラビアのロレンス』を連想させるシーンや、冒頭では『女王陛下の007』と同趣向のスキーシーンも取り入れている。
敵ボスの差し向ける刺客ジョーズは、鉄製の牙で『ドラキュラ』もどきに噛み殺し、タンカーも『ジョーズ』、ボンドカーが砂浜に上がるシーンも『ジョーズ』そっくりとなると、端からスタッフに『007』のオリジナリティを追求する意思はなく、大掛かりなセットで金をかけただけのB級作品となった。
ストーリーも娯楽シーンを繋ぐだけのシナリオで、原潜追跡システムのマイクロフィルムも、英ソ共同作戦も、アメリカ原潜もきちんと話が繋がってなく、サイレント映画のハイライトシーンだけを見せられている感じがする。
観光映画的にはピラミッド、スフィンクス、カルナック神殿、アブ・シンベル神殿が見どころ。 (評価:2)
北京原人の逆襲
日本公開:1978年3月11日
監督:ホー・メンファ 製作:ビー・キング・ショウ、チュア・ラム 脚本:イー・クァン 撮影:ソウ・フィチイ、ウー・チョウファ 特撮監督:有川貞昌
原題"猩猩王"でオランウータンの王の意。
ヒマラヤの地震で巨大な猿人が目覚めたという設定の香港映画らしいキワモノで、これも香港映画らしく『キングコング』をベースに『ターザン』『ゴジラ』を堂々とパクっている。
内容は至ってシリアスだが、そのパクリ方と、無茶苦茶な演出で思わず吹き出してしまうというシリアスゆえのコメディ映画で、設定の突っ込みどころも満載で香港映画的に楽しめる。
もっとも快調なのは、女ターザンが飛び出してくるまでの30分間で、その後はアッと驚くタメゴローがなくなって、せいぜいが主演の金髪美女がほとんど全裸で香港の町を疾走するシーンくらいしか笑いどころはない。
ストーリー的には、『キングコング』を下敷きに、猿人を捕まえて見世物にしようと香港に連れてくるものの、金髪美女がレイプされそうになるのを目撃した猿人が助けようとしてゴジラのように暴れまくり、最後は高層ビルによじ登って最期を遂げるというもの。
地震で甦ったばかりの猿人が10年以上も遭難した少女を養育していたのも変なら、女ターザンの金髪美人が中国語を話せるというのも変。ヒマラヤに行ったはずがジャングル・ブックのようなロケ地で、ビルを爆破するのに火薬ではなくモービル・ガソリンを使うという、ツッコミ=笑いどころは満載。
日本の特撮スタッフが参加したミニチュア模型と破壊シーンは頑張っているが、ブルー・スクリーンの使われ方が安っぽい。猛獣たちがよく調教されているのと、金髪美女の体で勝負の頑張りが見どころだが、これも香港映画らしい濡れ場を絡ませたのが興ざめで、ラストシーンのアンハッピーエンドもB級映画的にはいただけない。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1977年10月29日
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 製作:ロバート・J・ウンシュ、スティーヴン・フリードマン 脚本:ナンシー・ダウド 撮影:ヴィクター・ケンパー 音楽:エルマー・バーンスタイン
キネマ旬報:6位
暴力を批判しながら暴力で喜ばせる低俗作品
原題"Slap Shot"で、アイスホッケーの平手打ちのように力一杯叩くショットのこと。
全米プロ、マイナーリーグの弱小アイスホッケー・チームの物語。
勝てない上に、町が不況で工場は閉鎖、ホッケーチームも解散という危機を知った選手兼コーチ(ポール・ニューマン)が、フロリダに買収話があるとでっち上げて選手を鼓舞。それまでのクリーンなプレーを捨てて、ラフプレーで人気を盛り上げ、暴力で試合を連破、ついにはリーグ優勝戦まで勝ち進む。
ところが夫が死んでチームを引き継いだ未亡人オーナーから、暴力が嫌いな上に税金対策で損金計上するためのチームで、黒字なら不要と聞かされ、コーチは決勝戦での暴力を封印。
ところが相手チームがラフプレー陣容で臨んできたため、結局元の木阿弥となり、ストリップまで登場して訳のわからないままに優勝してしまう。
タイトル通りのスラップスティックで、ある種ラフプレーが売り物のアイスホッケーを揶揄する内容で、選手やグルーピー、観客の低俗ぶりを描き、悪意すら感じるのがあまり気分良くなく、見終わって爽快なコメディを見た印象は残らない。
軍隊という非人間的なシステムを批判した『マッシュ』(1970)にテイスト的には似ているが、批判の対象がアイスホッケー、ないしは暴力に歓喜する大衆というのが低レベル。
不況の中で意気地を見せる男の物語というには、やっていることがあまりに情けない。
結局、暴力と低俗を批判しながら、映画の観客は暴力と低俗を喜ぶという相矛盾した作品になっていて、ロイ・ヒルが何を考えて撮ったのか不明。 (評価:1.5)
日本公開:1977年10月29日
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 製作:ロバート・J・ウンシュ、スティーヴン・フリードマン 脚本:ナンシー・ダウド 撮影:ヴィクター・ケンパー 音楽:エルマー・バーンスタイン
キネマ旬報:6位
原題"Slap Shot"で、アイスホッケーの平手打ちのように力一杯叩くショットのこと。
全米プロ、マイナーリーグの弱小アイスホッケー・チームの物語。
勝てない上に、町が不況で工場は閉鎖、ホッケーチームも解散という危機を知った選手兼コーチ(ポール・ニューマン)が、フロリダに買収話があるとでっち上げて選手を鼓舞。それまでのクリーンなプレーを捨てて、ラフプレーで人気を盛り上げ、暴力で試合を連破、ついにはリーグ優勝戦まで勝ち進む。
ところが夫が死んでチームを引き継いだ未亡人オーナーから、暴力が嫌いな上に税金対策で損金計上するためのチームで、黒字なら不要と聞かされ、コーチは決勝戦での暴力を封印。
ところが相手チームがラフプレー陣容で臨んできたため、結局元の木阿弥となり、ストリップまで登場して訳のわからないままに優勝してしまう。
タイトル通りのスラップスティックで、ある種ラフプレーが売り物のアイスホッケーを揶揄する内容で、選手やグルーピー、観客の低俗ぶりを描き、悪意すら感じるのがあまり気分良くなく、見終わって爽快なコメディを見た印象は残らない。
軍隊という非人間的なシステムを批判した『マッシュ』(1970)にテイスト的には似ているが、批判の対象がアイスホッケー、ないしは暴力に歓喜する大衆というのが低レベル。
不況の中で意気地を見せる男の物語というには、やっていることがあまりに情けない。
結局、暴力と低俗を批判しながら、映画の観客は暴力と低俗を喜ぶという相矛盾した作品になっていて、ロイ・ヒルが何を考えて撮ったのか不明。 (評価:1.5)
ヒッチハイク
日本公開:1978年11月18日
監督:パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ 製作:マリオ・モンタナリ、ブルーノ・ターチェット 脚本:オッタヴィオ・ジェンマ、アルド・クルード、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ 撮影:フランコ・ディ・ジャコモ、ジュゼッペ・ルッツォリーニ 音楽:エンニオ・モリコーネ
原題は"Autostop rosso sangue"で、赤い血をヒッチハイクするの意。
アメリカをドライブ旅行中のイタリア人夫妻が、強盗犯のヒッチハイカーを乗せたばかりに酷い目に遭うという物語。
イタリア映画らしく、全体のテイストはマカロニ・ウエスタンの現代版といった感じで、ストーリーも登場人物も殺伐としている。
妻を『O嬢の物語』のコリンヌ・クレリーが演じるが、冒頭から必要以上に露出度の高い服装とセックスシーンで、B級感を撒き散らす。ヒッチハイカーの人質になってからは、いつクレリーが犯されるかがストーリーの主軸で、もちろんクライマックスが最大の見せ場となる。
ストーリー的な見どころは強奪した大金の行方で、強盗犯の仲間が奪いに来たりして、『激突』的なカー・アクションもあって退屈はしない。
最後は妻も死んで、すべてを清算した夫が大金の入ったトランクを片手にヒッチハイクするシーンで終わる。
この夫を演じるのが『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロで、音楽はエンニオ・モリコーネ。
とりわけマカロニ・ウエスタン感を高めるのが、西部劇風の荒野のドライブで、一度、ラス・ベガスの看板が見えた後は舗装されていない道を延々と進み、ネバダ砂漠の風景がレイプシーンと並ぶ見どころとなっている。 (評価:1.5)