海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1936年

製作国:アメリカ
日本公開:1937年5月13日
監督:フリッツ・ラング 製作:ジョセフ・L・マンキウィッツ 脚本:バートレット・コーマック、フリッツ・ラング、ノーマン・クラスナー 撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ 音楽:フランツ・ワックスマン
キネマ旬報:10位

ネット炎上が当たり前の現代人のための温故知新
 原題"Fury"で、邦題の意。
 ノーマン・クラスナーのストーリー原案のタイトルは"Mob Rule"で、群衆のルール、すなわち群衆による私刑のこと。
 婚約者の住む町にやってきた青年ジョー(スペンサー・トレイシー)は、幼女誘拐犯と間違えられて留置。取り調べの地方検事の到着を待っていると、ジョーを犯人と決めつける町の人間が暴徒と化して留置所を襲撃、放火する。
 ジョーの焼死体は見つからず行方不明となるが、どっこいジョーは生きていて、死んだふりをして弟2人に襲撃の首謀者22人を第一級殺人罪で告発させる。
 有罪となれば死刑となるため、首謀者たちは町の人間に偽証させて罪を逃れようとするが、TVのニュースフィルムが動かぬ証拠となって有罪の判決言い渡し中、ジョーが出廷して彼らを免罪にする、という物語。
 殺されかけて九死に一生を得、復讐に燃えるジョーを改心させたのは婚約者のキャサリン(シルヴィア・シドニー)で、首謀者たちを死刑にすれば一生死んだ者として生きねばならず、幸せにはなれないと諭す。そして"I can't help thinking we'd be better off if you hadn't escaped."(あなたが生き延びなければ良かったと考えずにはいられない)と告げる。
 ラストのジョーの弁明で、彼らは殺人者であるにもかかわらず、私が生きているから法は裁けない(They're murderers. I know the law says they're not because I'm still alive.)と言う。実際には何らかの罪に問われそうだが、歴史的に私刑が正当化されてきたアメリカ社会の病巣を告発するとともに、ラングがオーストリア出身のユダヤ人で、ナチズムを逃れてアメリカに渡った最初の作品でもあり、群衆にナチズムの影を見ることもできる。
 ネットでの炎上等の私刑が当たり前のように受け入れられている現代社会にとって、温故知新の作品といえる。
 もっともシナリオには大きな穴があって、保安官も町の人間も犯人が捕まって一件落着となっているが、肝腎の誘拐された幼女を探そうとしない。
 スペンサー・トレイシーとシルヴィア・シドニーの演技が見どころ。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1938年2月9日
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:ロリー・トザロー、アイラ・モーガン 音楽:チャールズ・チャップリン
キネマ旬報:4位

初めて肉声を披露する不思議外国語の歌
 原題"Modern Times"で、現代の意。機械化による人間性喪失と失業者増加をテーマに資本主義社会を批判した作品。
 全体は87分で、サイレントで見るには少々長い。ギャグのシークエンスで全体を繋ぎストーリー性を持たせているために、現在の観点からはテーマが散漫な印象。
 工場労働者として効率化を求められたチャップリンが精神に異常を来して、工場を操業不能にする。失業して共産党員と間違えられて刑務所にぶち込まれたり、浮浪児の娘と知り合ったり、住処を手に入れるために求職したり、キャバレーで働いたりするが、最後は娘と逃避行・・・といった塩梅。
 工場で歯車の如く働いたり、デパートの夜警となってのローラースケート、初めて肉声を披露する不思議外国語の歌のシーンが有名だが、チャップリンの多彩な表情での演技や運動能力の高さに改めて驚かされる。
 近代資本主義の中のプロレタリアートの貧困を描くが、同じ労働者階級からバナナを盗んだりといった犯罪を正当化している面もあって、貧者・弱者を描いているからといってすべてが共感できるわけではない。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1937年11月23日
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール、シャルル・スパーク 撮影:F・ブルガース、ジャック・メルカントン 音楽:ジャン・ウィエネル
キネマ旬報:3位

ウォッカに気の抜けたシャンパンを混ぜたハイブリッドな作品
 原題"Les Bas-fonds"で、底辺の意。マクシム・ゴーリキーの戯曲"На дне"が原作。
 見どころは主人公の泥棒ペーペルをジャン・ギャバンが演じ、原作にはない男爵(ルイ・ジューヴェ)が登場して、最下層から抜け出そうとするペーペルと、ギャンブル依存から最下層に落ちてくる男爵の対照を描いたことで、格差社会は固定的なものではなく、上層から下層に堕ちる者もいれば、下層から抜け出すこともできるという希望ある結論に導いている。
 もっとも社会のどん底にいる人々は、貧困の牢獄から抜け出せないというゴーリキのプロレタリアート性は薄まり、ルノワールのプチブル的な抒情と退廃というフランス人好みの教訓話になっていて、名前はロシア風だが、キャラクターはフランス風という、ウォッカに気の抜けたシャンパンを混ぜたような奇妙なハイブリッド作品に仕上がっている。
 ペーペルが情婦ワシリーサ(スージー・プリム)と組んで、その夫で貧民が暮らす木賃宿の主人(ウラディーミル・ソコロフ)を亡き者にしようとするが、ワシリーサの清純な妹ナターシャ(ジュニー・アストル)に恋してしまい、一騒動の後にナターシャと二人、新しい人生に向かってどん底を抜け出す。
 ジャン・ギャバンの板に付いた悪役ぶりもいいが、ルイ・ジューヴェの自堕落な貴族ぶりが良く、最後はどん底に心地の良い居場所を見い出すという退廃ぶりが絵になっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ロバート・Z・レオナード 製作:ハント・ストロンバーグ 撮影:オリヴァー・T・マーシュ、ジョージ・J・フォルシー、カール・フロイント、メリット・B・ガースタッド、レイ・ジューン 音楽:ウォーター・ドナルドソン、ハロルド・アダムソン、コン・コンラッド、ハーブ・マジッドソンアーサー・ラング、フランク・スキナー
アカデミー作品賞

レビューシーンの出来、不出来も史実に忠実?
 原題"The Great Ziegfeld"で、ジーグフェルドは20世紀初頭のアメリカ・レビュー界のヒット・プロデューサー。
 1893年のシカゴ万博での怪力男の興行から始まり、フランス女優アンナ・ヘルドのアメリカでのプロデュースの成功と同棲、代表作となる"Ziegfeld Follies"、スターの創出、アンナとの離別、再婚、凋落、世界恐慌による破産、死までを描く。
 見どころはジーグフェルドのレビューを再現したショーのシーンで、モノクロ画面ながらその華麗さが伝わってきて、カラー映画でなかったのが惜しまれる。
 3時間におよぶ大半を歌やショーのシーンが占めるためミュージカル作品といっても過言ではないが、ジーグフェルドの盛衰に合わせてレビューシーンが挿入されるため、落ち目になってからのレビューシーンがやや退屈というのも、ある意味、ジーグフェルドの生涯に忠実といえる。
 "Ziegfeld Follies"の大仕掛けな演出は見ていて溜め息が出るほどで、バベルの塔のような螺旋階段の舞台装置にレビューの美女たちが並んだ映像は圧巻。桝に並んだベッドでのダンサーたちの踊りの見事な統一感など、ダンスシーンも第一級の演出で、いかにもアカデミー受賞作品らしい。
 ジーグフェルドにウィリアム・パウエル、ライバルで親友のプロデューサーにフランク・モーガン。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1937年11月
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:シドニー・ハワード 撮影:ルドルフ・マテ 美術:リチャード・デイ 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:4位

バカでクズな女を演じるルース・チャタートン最高の映画
 原題"Dodsworth"で、主人公ダズワースの姓。シンクレア・ルイスの同名小説が原作。
 自動車会社の経営者がリタイアし、夫婦で第二の人生を歩み出そうとヨーロッパ旅行に行くが、ライフスタイルに相違を生じ離婚してしまうという物語。
 もっとも最初の10分で妻(ルース・チャタートン)の方はクズ女と分かり、夫(ウォルター・ヒューストン)が我慢に我慢、譲歩に譲歩を重ねた挙句、妻を見限るという展開なので、時代劇や任侠映画の如くラストでカタルシスを得る、勧善懲悪ものの定型を踏んだドラマとなっている。
 二人はアメリカ中西部の地方都市で長年暮らしてきた田舎者。夫は仕事人間で視察と観光旅行を楽しんだ後は娘夫婦の待つ地元に戻りたいという模範的アメリカ人。一方、妻は退屈な田舎暮らしから憧れのヨーロッパ社交界でボヘミアンな毎日を過ごしたいと考えるパリピ。
 一度はアメリカに帰った夫は、恋愛ごっこに勤しむ妻を連れ戻しにパリに戻り、恋愛が趣味のフランス男(ポール・ルーカス)と別れさせるが、妻は若いオーストリア男爵と婚約してしまう。
 傷心の夫はイタリア在住のアメリカ人未亡人(メアリー・アスター)と親しくなり結婚を決意。一方妻は男爵の母の反対に合い、夫とよりを戻してアメリカに帰ろうとするが、責任転嫁に堪忍袋の緒が切れた夫は未亡人を選んでしまうという結末。
 欧州のセレブに憧れるバカ女を演じるチャタートンと、ピューリタンな心を失わない哀愁を帯びた未亡人を演じるアスターがどちらも好演で、喧しいだけの単調な演技のヒューストンが、魅力のないただの朴念仁に見える。
 妻のクズ女ぶりもあって、糞の役にも立たない作品なのだが、新世界の田舎者と自認するアメリカ人にとっては、ヨーロッパの退廃文化には気をつけよという、ピューリタンな心に突き刺さる教訓話なのかもしれない。 (評価:2.5)

真珠の頚飾

製作国:アメリカ
日本公開:1936年6月
監督:フランク・ボーゼージ 製作:エルンスト・ルビッチ 脚本:エドウィン・ジャスタス・メイヤー、ウォルデマー・ヤング、サミュエル・ホッフェンスタイン 撮影:チャールズ・ラング 音楽:フレデリック・ホランダー、レオ・ロビン

痒いところまで手が届くディートリヒ&クーパーの洒落た映画
 原題"Desire"で、欲望の意。ハンス・ツェケリーとR・A・シュテムレの戯曲が原作のドイツ映画”Die schönen Tage von Aranjuez”(アランフェスの素晴らしい日々)のリメイク。
 詐欺師のマドレーヌ(マレーネ・ディートリヒ)が220万フランの真珠のネックレスをまんまと詐取。パリからスペインへ国外逃亡し、窃盗グループに渡そうとする話。
 道中出会った自動車会社の技術者、トム(ゲイリー・クーパー)に惚れられ、付き纏われるが、国境越えの際にトムのスーツのポケットに盗品を隠したために、マドレーヌも取り戻すのに四苦八苦するというロマンティック・コメディ。
 マドレーヌもトムに恋してしまい、すべてを明かし、盗品を持ち主に返して自首するが、仮釈放され無事結婚式を挙げるというハッピーエンドになっている。
 エルンスト・ルビッチ製作、監督はフランク・ボーゼージというロマンティック・コメディには最高の組み合わせで、痒いところまで手が届くよく出来たシナリオをマレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパーが演じ、洒落た楽しめる映画になっている。
 マドレーヌの仲間カルロス(ジョン・ハリデイ)が手品でネックレスを取り戻すくだりがスマート。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1936年5月21日
監督:フランク・キャプラ 製作:フランク・キャプラ 脚本:ロバート・リスキン 撮影:ジョセフ・ウォーカー 音楽:ハワード・ジャクソン
キネマ旬報:3位

キャラは面白いがピューリタンが鼻につく
 原題"Mr. Deeds Goes to Town"で、ディーズ氏、町に行くの意。クラレンス・バディントン・ケランドの短編小説"Opera Hat"が原作。
 田舎町に住んでいたディーズに伯父の遺産が転がり込み、ニューヨークの豪邸に移り住むという物語。財産管理の弁護士からオペラ協会、伯父の愛人等々、金目当てに群がる人々がいて、ディーズは早速人間不信に。
 イエローペーパーの話題の材料となり、スクープをモノにすべく美人記者が正体を隠して接近。理想の女性と思い込んだディーズが彼女に惚れるが、田舎者のディーズは恰好のカモとなってスクープを提供。彼女の正体を知ったディーズは全財産を貧者救済事業に使い、田舎に帰ることを決心するという、キャプラらしいピューリタニカルな物語。
 当てが外れた弁護士が愛人と組んでディーズを禁治産者にしようと画策。ディーズの余りの善人ぶりに罪悪感転じて愛情を抱いた美人記者が、裁判所の審問でディーズを弁護。ピンチを脱し、弁護士をぎゃふんと言わせて留飲を下げるという、これまたキャプラらしいハッピーエンドとなる。
 テンポの良い展開もキャプラらしいが、ディーズが天然な変わり者で、怒ると相手を撲らずにはいられない実直で個性的に男に仕立てられていて、キャラクターで楽しませる作品になっている。
 もっとも、実直な田舎者のピューリタンなドラマというのも若干鼻につくところがあって、天から降って湧いた遺産というのも類型過ぎて物語としては今ひとつ。
 主人公をゲイリー・クーパー、美人記者をジーン・アーサーというのも型に嵌り過ぎて破綻がない。 (評価:2)

ピクニック

製作国:フランス
日本公開:1977年3月26日
監督:ジャン・ルノワール 製作:ピエール・ブラウンベルジェ 脚本:ジャン・ルノワール 撮影:クロード・ルノワール 音楽:ジョセフ・コズマ

印象派の映画なのでストーリーは無きに等しい
 原題"Une Partie de Campagne"で、田舎のひとときの意。モーパッサンの初期の同名短編小説(邦題、野遊び)が原作。
 40分の作品で、パリの一家と娘の婚約者が田舎に遊びに出かけるというだけの物語。娘が村の青年との火遊びを楽しむが、数年後、婚約者と結婚した娘が二人で思い出の場所を訪れると、青年もまた娘とのひとときの思い出に生きていたという、甘酸っぱい恋の物語。
 その抒情を、オーギュスト・ルノワールの息子ジャン・ルノアールが印象派風に描く。撮影は甥のクロード・ルノワール。
 切り取られたシーンの数々はオーギュスト・ルノワールの絵を見るように、柔らかな光と木々の緑、川の水のきらめきに満ちていて、シルヴィア・バタイユもオーギュスト・ルノワールの絵画の美少女のようで、ブランコを漕ぐシーンが印象的。
 もっとも、印象派の映画なのでストーリーは無きに等しく、環境ビデオかPVを見ているつもりにならないと、退屈に思えるかもしれない。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1939年3月
監督:サッシャ・ギトリ 脚本:サッシャ・ギトリ 撮影:マルセル・リュシアン 美術:ピエール・メネシエ 音楽:アドルフ・ボルシャール
キネマ旬報:9位

フランス小噺の積み重ねでストーリーの盛り上がりに欠ける
 原題"Le Roman d'un Tricheur"で、詐欺師の小説の意。サッシャ・ギトリ自身の小説”Les Mémoires d'un tricheur”(詐欺師の回想)が原作。
 スタッフ・キャストの紹介から始まり、初老の男(サッシャ・ギトリ)がカフェで自伝を執筆しながら、少年時代からの40年間をモノローグで振り返るという形式。
 13歳の時、家の金を盗んで夕食を食べさせてもらえなかったのが幸いして、他の家族全員が毒キノコに当たって死亡。天涯孤独となり叔父の家に引き取られるも、遺産だけ盗られて虐待を受けて家出。
 レストランのボーイを振り出しに、様々な体験を経てイカサマ師となり…という話が続くが、要は各エピソードがフランス小噺になっていて、個々はそれなりに面白いのだが、全体としては小ネタのエピソードの積み重ねに過ぎず、ストーリーに山場がなく、モノローグ方式の催眠効果もあって次第に眠くなる。
 イカサマで大儲けした男が戦争で命を救ってくれた戦友に再会。彼の誠実さに触れてイカサマから足を洗うが、イカサマをしない賭け事の魅力に憑りつかれ、最後は一文無しになってしまうという寓意で終わる。
 戦友以外の登場人物はモラルに掛けた人間ばかりで、男の童貞を奪ったおばさんに再会、悪事に誘われるが、イカサマ師転じて刑事という、これまた定型的なフランス小噺のオチで締め括られる。
 邦題ほどにはカードゲームは出て来ないが、オープニングのめくられたカードがタイトルに変わっていくのが、フランス風で小粋。 (評価:2)

ランジュ氏の犯罪

製作国:フランス
日本公開:劇場未公開
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール、ジャック・プレヴェール 撮影:ジャン・バシェーレ

サスペンスのないノワールが、いかにもルノワール
 原題"Le crime de Monsieur Lange"で、邦題の意。
 フィルム・ノワールというには拍子抜けする、正義漢から人を殺しちゃった男の話で、タイトルから連想する犯罪映画というには、サスペンスなところがないのが、いかにもルノワールらしい。
 プロローグは、フランスの国境の町の宿屋の食堂に警官が現れ、殺人犯が逃げていると告げて去る。すると早速、殺人犯と女のカップルが現れ、女が食堂の連中に正体を教えるというネタバレから始まる。
 あとは殺人犯=ランジュ(ルネ・ルフェーヴル)がなぜ殺人に至ったかという女=ヴァランティーヌ(フロレル)の回想譚となるが、これがサスペンスフルでもなんでもなく、他愛ない艶笑話が延々と続くので、次第にダレてくる。
 殺人の動機そのものはシンプルで、小説家志望のランジュの勤める出版社の社長(ジュール・ベリー)がただの女好きの山師で、苦し紛れにランジュのつまらない連載小説で雑誌を創刊したものの、出資者に責め立てられて夜逃げ、列車事故で死んでしまう。
 残された社員たちは協同組合を作って会社を継続、どういうわけかランジュの小説が大ヒットして成功する。そこに死んだはずの社長が舞い戻り、会社を取り戻そうとしたためランジュが殺害。ヴァランティーヌとともに国外逃亡を図るというもの。
 シナリオに捻りがなくて、サスペンスもなく、犯人に意外性もないので、ネタバレの回想譚が面白くもなんともない。
 最後は、ヴァランティーヌの話に同情した宿の連中が、二人の海外逃亡を見逃すというもの。二人が浜辺を歩いて去って行くラストシーンが映像的で、ようやくルノワールが監督だったことを思い出す。 (評価:2)

サボタージュ

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:マイケル・バルコン 脚本:チャールズ・ベネット、イアン・ヘイ 撮影:バーナード・ノールズ 音楽:ルイス・レヴィ

何のためにテロをしているのかわからない
 原題"Sabotage"で、破壊工作のこと。冒頭、語義が説明されるが、日本では怠業の意味で使われる。ジョセフ・コンラッドの小説"The Secret Agent"(間諜)が原作。
 ロンドンの映画館主ヴァーロック(オスカー・ホモルカ)は、テロ組織の一員で、指令を受けてピカデリーサーカスに時限爆弾を仕掛けるというサスペンス劇。ヴァーロックをテロ組織の一員と怪しんた刑事(ジョン・ローダー)が、隣の果物店に店員として潜り込み、監視したために犯行当日外出できず、そうとは知らない妻(シルヴィア・シドニー)の弟(デズモンド・テスター)に爆弾を運ばせるが、寄り道して遅れ、乗っていたバスもろとも爆死する。
 真実を知った妻が過って夫を刺殺し、刑事に自白するが、映画館を訪れたテロ仲間が警察に見つかり、ヴァーロックの死体もろとも自爆。心優しい刑事は妻を庇って刺殺をもみ消すが、実は妻に惚れていた・・・というオチが余計。
 ヒッチコックらしくサスペンスフルだが、テロ組織の正体についての説明がなく、何のためにテロをしているのかわからないのが画竜点睛を欠く。
 冒頭シーンではヴァーロックが大停電を引き起こすが、自分の映画館まで停電してしまい、払い戻しを求める客に妻が応じようとしない時代センスが面白い。妻の弟がバスに乗ろうとしてフィルムは可燃物だからと一旦断られるのも、フィルムが燃えやすかった時代性を映している。
 少年がフィルムを運ぶ"Bartholomew the Stranger"(字幕では『絞殺魔』)という映画は不明。 (評価:2)

来るべき世界

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:ウィリアム・キャメロン・メンジース 製作:アレクサンダー・コルダ 脚本:H.G.ウェルズ、ラホス・ビロ 撮影:ジョージ・ペリナル 特撮:ネッド・マン、エドワード・コーエン 音楽:ミュア・マシースン

AIに人類の未来を委ねている現代にも通じるテーマ
 原題"Things To Come"で、これから起こることの意。H.G.ウェルズの短編"Shape of Things to Come"(邦題:来たるべき世界の物語)が原作。
 H.G.ウェルズ自身による脚本で、架空のイギリス都市Everytown(あらゆる町)が舞台。1940年から始まり、ナチスを髣髴させる独裁者に支配された町は20年間の戦禍と疫病によって文明が荒廃、そこに訪れた自由都市のパイロットがきっかけとなって、指導者は死亡、町は理想的な科学都市に生まれ変わる。
 2054年、地上から月へと進出しようとする町に、進歩は人々に幸福をもたらさないと反対する守旧派が現れ、月ロケット発射を阻止しようとするが、ロケットは発射され反乱は未然に終わる。
 科学の進歩こそが人間の自由と平和、幸福をもたらすというのが全体のトーンで、科学万能主義に依拠しているのが如何にも制作当時の科学崇拝を示しているが、一方でラストに科学の進歩への懐疑的な見方を示しているのがH.G.ウェルズらしい。
 結果として、科学が進歩だけでなく原爆を生み出し、未来都市の描写としてはいささか類型を免れないが、現代のIT都市を連想させる未来図を提示したウェルズの先見性には舌を巻くが、ストーリーと演出は単調で退屈。
 月に飛び立った人類の未来が〇なのか×なのかについては示しておらず、それでも科学は進歩をやめないというのがウェルズの結論だとすれば、同じことはAIに人類の未来を委ねている現代にも通じるテーマなのかもしれない。 (評価:2)