海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1933年

キング・コング

製作国:アメリカ
日本公開:1993年9月14日
監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック 製作:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック 脚本:ジェームズ・アシュモア・クリールマン、ルース・ローズ 撮影:エドワード・リンデン、ヴァーノン・ウォーカー、J・O・テイラー 特撮:ウィリス・H・オブライエン 音楽:マックス・スタイナー

キングコングを使ったアニメーションが最大の見どころ
 『キングコング』のオリジナル版で、2005年のリメイク版はこのオリジナル版に準拠して制作された。
 未確認生物との遭遇を映画にするために南海の島に航海する撮影スタッフが、島の神で巨大な類人猿キングコングに遭遇。ニューヨークでスカウトした貧しい主演女優が攫われて、コングが美女に恋し、恐竜の島のジャングルでの救出劇を経て、コングを見世物にするために連れ帰る。
 初公開の劇場で、カメラマンたちのフラッシュに暴れたコングが鎖の頸木を外し、恋する美女を手にエンパイアステートビルの天辺に登るという有名なシーンがクライマックス。哀れ、飛行機に銃撃されたコングは墜落死する。
 本作の最大の見どころは、キングコングを使ったアニメーションで、とりわけ恐竜島でのコングの動きにはリミテッドながら細かい演技と動きがつけられていて、特殊撮影のウィリス・オブライエンの手腕には感心する。チラノや大蛇との格闘シーンは目が離せず、現在のCGを見慣れた目にはむしろ本作の方がデジタルにない肉感的なリアルな迫力を感じる。
 もう一つはよくできたシナリオで、冒険譚の前半が若干たるいが、終盤ニューヨークに場面を移してから、コングが最期を迎えるまでの悲劇が本作を単なる冒険物語には終わらせていない。
 スマトラ島近くの島にもかかわらず、出てくるのは黒人ばかりというのはご愛嬌だが、70年後のリメイクに耐えるだけの作品性を今も持ち続けている。 (評価:4)

製作国:フランス
日本公開:1933年4月
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:モーリス・ジョーベール
キネマ旬報:2位

戦前のパリ下町の雰囲気を伝えるモンマルトルの急階段
 原題"Quatorze Juillet"で、7月14日の意。
 モンマルトルの裏通りに面して向かい合うアパルトマンに住む、青年ジャンと娘アンナの少女漫画のような恋物語。
 巴里祭前日、街は飾り付けに忙しい。タクシー運転手のジャン(ジョルジュ・リゴー)は同棲していたポーラ(ポーラ・イレリ)に逃げられたばかりで、向かいの窓の家のアンナ(アナベラ)を夜の野外ダンスに誘う。
 アンナはレストランの花売り娘で、酔った金持ちの老紳士(ポール・オリヴィエ)を叩いたためにクビになる。アンナはジャンと広場のダンスに行き、二人は意気投合。愛らしい恋の蕾が開き始めるが、ジャンが部屋に戻るとポーラがいて喧嘩に。
 翌朝、ジャンが仕事に出かけた後にアンナが部屋を訪ねると、ベッドにはポーラの服が散らかっていて、早くもアンナとジャンの仲は終わる。  家主に評判の悪いポーラを部屋に入れたジャンはアパルトマンを追い出され、ポーラに誘われて窃盗グループの仲間入り。
 一方、アンナは小さなバーに職を見つけるが、偶然ジャンが仲間とバーに盗みに来て、騒ぎになったところを逃がしてやる。それで再びバーをクビになり、花売り娘に戻ってレストランに行くと件の酔っ払い紳士がいて、銃を振り回すのを宥めて外に連れ出し、紳士に大金で花を買ってもらい、それを元手にワゴンで花を売るようになる。
 ある日、タクシー運転手に戻ったジャンとワゴンがゴッツンコ。再会した二人に恋が戻るという、フランス的オシャレなラブストーリーだが、幾分にもご都合主義。
 他愛ないストーリーはバカバカしいが、コメディ仕立てなので何とか見ていられる。可憐なアンナを演じるアナベラの可愛らしさで持っているところがあって、乙女チックな初恋ロマンスを盛り立てる。
 隠れた功労者は酔っ払い紳士を演じるポール・オリヴィエで、絶妙な演技が作品を引き立てる。タクシー運転手を演じるレーモン・コルディがもう一人のアクセントで、この二人にもう少し活躍して欲しかった。
 子供たちが遊ぶモンマルトルの急階段が、戦前のパリの下町の雰囲気を伝えてくれるのが嬉しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1933年12月
監督:スティーヴン・ロバーツ 製作:ルイス・D・ライトン 脚本:グローヴァー・ジョーンズ、ウィリアム・スレイヴァンス・マクナット 撮影:ヴィクター・ミルナー
キネマ旬報:6位

幸せは金や美貌ではなく愛にあるという冴えない人向けの佳作
 原題"One Sunday Afternoon"で邦題の意。ジェームズ・ヘイガンの戯曲が原作。
 ある日曜日の午後、ビフ(ゲイリー・クーパー)の営む歯科医院に、旧友のヒューゴー(ニール・ハミルトン)が治療にやってくる。ヒューゴーはかつての恋敵。ビフが口説いていた金髪美人のヴァージニア(フェイ・レイ)と結婚し、父の会社を引き継いでハイソな身分。一方のビフはヴァージニアに逃げられて、成り行きから同じ日に彼女の冴えない友達エミー(フランセス・フラー)と結婚。
 二組の男女の馴れ初めから結婚までをたどり、舞台はふたたびある日曜日の午後となり、ビフは恋敵ヒューゴーを治療にかこつけて殺害しようとする。そこにヴァージニアが現れるが、贅沢に荒んでかつての面影はなく、ビフは正気に返って殺害を思い留まる。そして初めて心優しき妻エミーの価値に気づくというハッピーエンド。
 結婚前のビフはハンサムを鼻にかけ、自分になびかない女はいないという自信家の嫌な奴。そんなビフに思いを寄せ続けるエミーの一途な女心を演じるフランセス・フラーがいい。
 欠点だらけの性格の上に、本当に好きなのはヴァージニア、成り行きで結婚しただけで自分を好きなわけでもない。それでも子供の頃に好きになって、ただその思いだけでビフを愛し続けるという冴えない女を巧みに演じ、最後は年相応に愛するが故の小煩い女になってはいるが、初めてビフに愛していると言われて喜ぶ姿が可愛い。
 幸せは金や美貌ではなく、愛する心にあるという冴えない人たち向けの佳作。 (評価:2.5)

製作国:オーストリア
日本公開:1935年3月
監督:ヴィリ・フォルスト 脚本:ヴィリ・フォルスト 撮影:フランツ・プラナー 音楽:ウィリー・シュミット=ゲントナー
キネマ旬報:4位

抒情的な悲恋ドラマよりは音楽映画としてよくできている
 原題"Leise flehen meine Lieder"。シューベルトの歌曲集『白鳥の歌』の『セレナーデ』の冒頭の句で、私の歌は静かに請うの意。
 「セレナーデ」は、シューベルト(ハンス・ヤーライ)が伯爵令嬢カロリーネ(マルタ・エゲルト)の音楽教師となったレッスンで歌われる。
 貧しい助教諭兼作曲家のシューベルトがキンスキー侯爵夫人の音楽界に招かれ、作曲中のロ短調交響曲を披露。ところが即興演奏中にカロリーネが笑い声を上げたことから演奏を中止してしまう。
 カロリーネは謝罪のためにシューベルトを音楽教師として招き、二人は恋に落ちるが、身分違いの恋は成就せず、カロリーネの結婚式で完成したロ短調交響曲を披露しようとする。ところが、二人が出会うきっかけとなった中断箇所まで来ると、カロリーネは泣き出して再び中断。結局、シューベルトは残りの譜面を破り捨ててしまい、ここにロ短調交響曲が未完成のままになるという、『未完成交響曲』誕生秘話だが、もちろんフィクション。
 『未完成交響曲』誕生秘話に絡めて、二人の悲恋をロマン派の作曲家らしく抒情的に描いたところが日本人の琴線に触れ、曲ともども有名な作品となった。
 ラストの「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」という文句が上手いが、カロリーネが演奏中に笑った理由がきちんと説明されないのが、抒情で誤魔化しているようで最後まで引っかかる。
 本作はむしろ音楽映画としてよくできていて、『未完成交響曲』『セレナーデ』の他、『菩提樹』『軍隊行進曲』『アヴェ・マリア』などが演奏される。マルタ・エゲルトの歌声とハンガリアン・ダンスがいい。 (評価:2.5)

餓ゆるアメリカ

製作国:アメリカ
日本公開:1934年2月
監督:ウィリアム・ウェルマン 脚本:ロバート・ロード、ウィルソン・ミズナー 撮影:ジェームズ・ヴァン・ツリーズ 音楽:レオ・F・フォーブステイン

共産主義者も所詮は拝金主義の唯物論者という描写が可笑しい
 原題"Heroes For Sale"、販売用の英雄たちの意。
 第一次世界大戦から大恐慌時代までを描いた社会派ドラマで、ヘイズコード以前の自由で過激な社会批判がされている。
 主人公トム(リチャード・バーセルメス)は運に見放され、周りは碌でもない人間ばかり。
 西部戦線では目的のためには平気で兵士を捨て駒にする上官。特攻したトムは瀕死の重傷でドイツ軍捕虜となったのに、特攻しなかった弱虫のロジャー(ゴードン・ウェストコット)が代わりに英雄に祭り上げられる。
 戦争が終わりロジャーの父が経営する銀行に就職したものの、痛み止めのモルヒネ中毒で解雇。医療施設を経て安アパートに落ち着き、ルース(ロレッタ・ヤング)と知り合い結婚。ランドリーで働き順調に昇進、共産主義者のマックス(ロバート・バラット)考案の全自動洗濯機をランドリーに導入して会社は大儲けするが、労働者は首を切られ、その暴動でルースは頓死。
 トムは刑務所に入れられ、出所すると世は大恐慌真っ只中。服役中に全自動洗濯機のパテント料で稼いだ大金を、失業者の食糧配給に使うが、共産主義者と思われて町を追われホーボーとともに流浪する。
 そこで出会ったのが大恐慌で銀行が潰れホーボーとなったロジャー。戦争の英雄も今じゃ同じ浮浪者とトムが笑う。
 慈善事業を続けるトムはニューディール政策の成功とアメリカの未来を信じ、正しい英雄であり続けるというラスト。
 我欲に走る軍人、銀行家、資本家を無慈悲な人々として描くが、一方で共産主義者のマックスも所詮は拝金主義の唯物論者で、資本家と変わりがないという揶揄も込められている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1933年12月
監督:フランク・ロイド 製作:ウィンフィールド・シーハン 撮影:アーネスト・パーマー 音楽:ルイ・ド・フランチェスコ
アカデミー作品賞

女にとっての戦争と国家に対する静かな告発の映画
 原題"Cavalcade"で、オンパレード(on parade)、事柄や物がずらりと並ぶことを意味するフランス語。ノエル・カワードの同名戯曲が原作。本邦初公開時の邦題は『大帝国行進曲』。
 1899年から1932年まで、ロンドンに住む上流階級の家族の物語。19世紀末から20世紀にかけてのイギリスの出来事とともに、歴史に翻弄される家族の姿をジェーン・マリヨット夫人(ダイアナ・ウィンヤード)の目を通して描く。
 1899年、夫のロバート(クライヴ・ブルック)と召使のアルフレッド(ハーバート・マンディン)が、南アフリカ第二次ボーア戦争に出征。1901年、ヴィクトリア女王崩御。1902年、ロバートとアルフレッド帰還。アルフレッド独立してパブ開業。1912年、長男エドワードがタイタニック号の新婚旅行で死亡。1914年、第一次世界大戦でロバートと次男ジョーイ出征。1918年、戦争終結するもジョーイ戦死、とカヴァルケードは進む。
 この間、独立したアルフレッドが自堕落になり、時世の流れが人を変えてしまうとか、その娘ファニーが人気歌手となりジョーイと婚約するエピソードが絡むが、女王への忠誠の名のもとに夫や息子を戦争にとられ、国家に振り回されるジェーンの悲しみを中心に据えた、女にとっての反戦映画となっている。
 ラストでは、婚約者を国に奪われてしまったファニー(ウルスラ・ジーンズ)が悲しみを込めて「20世紀ブルース」を歌い、2人の息子を失った老いたマリヨット夫妻が、新年を迎える街頭の「蛍の歌」を聞きながら、過ぎていった時の流れ、カヴァルケードに思いを馳せて終わる。
 戦争に息子や恋人を奪われた女たちの悲しみ、そうした国民の犠牲の上に成り立ち、国民を不幸に陥れる国家に対する静かな告発の映画となっている。
 なお、劇中1900年を新世紀としているが、正確には20世紀は1901年から。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1934年3月29日
監督:ジェームズ・ホエール 製作:カール・レムリ・Jr 脚本:R・C・シェリフ、フィリップ・ワイリー 撮影:アーサー・エディソン 美術:チャールズ・D・ホール

包帯を取った部分だけが透明化する特撮がユニーク
 原題"The Invisible Man"で、目に見えない男の意。H・G・ウェルズの同名小説が原作。
 イギリスの寒村の宿屋に顔を隠した男(クロード・レインズ)がやってくるという始まりで、実は自らが開発した薬を飲んだら透明人間になってしまい、ラボを抜け出して元に戻る薬を作るために宿屋に陣取ったという訳ありの科学者グリフィン。
 宿屋の女将(ウナ・オコーナー)と主人(フォレスター・ハーヴェイ)が部屋に籠る男を怪しみ、追い出そうとすると、いきなり服を脱ぎ捨てて透明人間になり暴れ出す。
 自棄のやんぱち、それとも人格破綻者、それとも薬の副作用? やってきた警官も何のその、姿が見えないのをいいことに狂暴化に拍車がかかる。ラボに戻ると、秘密を知る同僚が、恋人(グロリア・スチュアート)を手に入れようと警察に通報したために殺害。雪の中を逃亡して農家の納屋に隠れる。
 姿は見えなくても鼾は聞こえてしまい、警察に通報され、火を放たれる。逃げ出したものの雪に足跡が残り、敢え無く射殺される。
 追ってきた恋人に見守られながら、不可侵の領域を侵したことを後悔。死と共に漸く透明な体が元に戻る。
 科学と倫理がテーマという時代を先取りした作品だが、衣服を脱ぎ捨ててから先の物語そのものは、大して面白くない。
 宿屋の中で包帯を取った部分だけが透明化するという特撮部分がユニークな、アイディア勝負の作品。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1935年5月
監督:ジャック・フェデー 脚本:ジャック・フェデー、シャルル・スパーク 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:ハンス・アイスラー
キネマ旬報:2位

消したい過去が使い込みとビッチな恋人ではかっこ悪い
 原題"Le Grand Jeu"で、大いなる遊戯の意。
 贅沢三昧で会社の金に手を付けたドラ息子ピエール(ピエール・リシャール・ウィルム)がパリを放逐され、その際に恋人フローランス(マリー・ベル)を誘うが、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに断られて傷心、モロッコの外人部隊に入るという物語。
 ピエールが宿屋の女主人(フランソワーズ・ロゼー)に目をかけられ、カード占いをしてもらうとその通りに事が運び、フローランスそっくりの歌手イルマ(マリー・ベルの二役)と出会い恋人とするが、彼女を巡って宿屋の主人(シャルル・ヴァネル)を殺してしまう。そんな折、伯父の遺産が手に入り、除隊してイルマとフランスに帰ろうとするが、フローランスと再会。消えていた恋心に火が付き、イルマひとりをフランスに送り出してフローランスとよりを戻そうとするが、アラブの富豪の女となっていたフローランスに再び断られ、失意のあまりイルマも放り出したまま外人部隊に戻る。
 なんて奴だという結末だが、宿屋の女主人のカード占いはピエールの死で、それを悟ったピエールが戦場に向かうところでfinとなる。
 ピエールの行動が刹那的というよりも他人の気持ちなど考えない場当たり的我儘で、二人の恋人との関係にも葛藤など存在しない。時にイルマをフローランスと妄想することからも、ピエールにとってイルマはフローランスの代替品でしかなく、だから簡単に捨ててしまえるというのが、ピエールを一途な男というよりは薄っぺらい男にしている。
 すべてはカードの占い通りに事が運ぶという運命論的な話で、人間臭さのないところがスタイリッシュともいえるが、裏を返せば人間は記号でしかなく、シナリオで決められたレールの上を走るだけの無機的な駒ではドラマにはならない。
 外人部隊の親友(ジョルジュ・ピトエフ)が戦死して、彼は過去を消したがっていたとピエールが遺品をすべて焼却するシーンがある。どうやら宿屋の女主人だけは彼の過去を知っていたようだが、それが外人部隊の掟とピエールがスタイリッシュに決めても、消したい過去が使い込みとビッチな恋人では何ともかっこ悪い。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1934年4月
監督:エルンスト・ルビッチ 製作:エルンスト・ルビッチ 脚本:ベン・ヘクト 撮影:ヴィクター・ミルナー 美術:ハンス・ドライヤー
キネマ旬報:9位

ビッチ女をM.ホプキンスが爽やかに演じる
 原題"Design for Living"で、邦題の意。ノエル・カワードの同名戯曲が原作。
 列車で知り合った広告デザイナーのジルダ(ミリアム・ホプキンス)、劇作家志望のトム(フレドリック・マーチ)、駆け出しの画家ジョージ(ゲイリー・クーパー)の3人が意気投合し、パリで共同生活を始めるという物語。
 トムとジョージが2人ともジルダに惚れるのはともかく、それを知ってジルダが2人を両天秤に掛け、セックス抜きの協定で3人で暮らし始めるというのが何ともいえない。そんなドロドロした話をルビッチはコメディタッチで嫌らしくならないように見せるのだが、それだけに白々しくて不自然で、むしろドロドロした話のままに描いた方が良かったのではないかと思える。
 このジルダがデザインした常識外れの共同生活がタイトルの"Design for Living"で、したたかなジルダはマネージャーとなって2人を売り出そうとする。
 トムの戯曲を売り込んだジルダは、トムを演劇の本場ロンドンに送り出すが、あとはちゃっかりジョージと同棲生活。ジョージを肖像画家として人気者にして、高級アパルトマンで優雅な生活を送るが、ジョージの留守にトムがロンドンから帰ってくると、誘惑して部屋に引き込むというビッチぶり。そこにトムが帰ってきて紳士協定破りとどっちもどっちの喧嘩が始まると、ジルダは逃げ出してマンハッタンにいる広告会社社長(エドワード・E・ホートン)と結婚してしまう。
 マンハッタンに乗り込んだトムとジョージはジルダを取り返し、パリに戻って元のセックス抜きの共同生活に戻ることを宣言するというオチ。
 ビッチ女をホプキンスが爽やかに演じるが、ビッチ女の不道徳がウリという以外にこれといった見どころはない。 (評価:2)

我輩はカモである

製作国:アメリカ
日本公開:1934年1月
監督:レオ・マッケリー 脚本:バート・カルマー、ハリー・ルビー 撮影:H・シャープ

よく言えばアナーキー、別の言い方をすれば支離滅裂
 原題"Duck Soup"で、直訳すれば鴨スープ。俗語で、簡単にできること。
 マルクス兄弟によるナンセンス・コメディ映画。基本はヴォードヴィルの寄席芸をストーリーで繋いだもので、歌あり漫才あり踊りありといった舞台を見ている感覚にさせる。それだけにバラエティ豊かだが、散漫で核になるものがないのが映画としては食い足りない。
 フリードニアという自由を標榜する架空の国が舞台。内閣は財政破綻からティーズデール夫人(マーガレット・デュモント)に援助を求めるが、代わりに出された条件で夫人お気に入りのファイアフライ(グルーチョ・マルクス)が宰相に就任。
 一方、隣国シルヴェニア大使トレンティーノ( ルイス・カルハーン)はフリードニアを手に入れようと、革命を扇動し夫人と結婚しようと考え、情報を得るためにチコリーノ(チコ・マルクス) とピンキー(ハーポ・マルクス)をスパイとして送り込む。
 トレンティーノはファイアフライを挑発し、2人の関係は悪化。チコリーノとピンキーは戦争計画書を手に入れるためにファイアフライに変装してティーズデール夫人宅に行くが、バレて裁判にかけられ、ついに開戦となるが、その後の狂乱を含めナンセンスすぎて訳が分からない。
 よく言えばストーリーもセリフもアナーキーだが、別の言い方をすれば支離滅裂。それについていけるかどうかで評価も変わる。
 マルクス兄弟の末弟ゼッポ・マルクスはファイアフライの秘書官役。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1934年6月
監督:G・W・パブスト 脚本:ポール・モーラン 撮影:ニコラス・ファルカシュ、ポール・ポルティエ 音楽:ジャック・イベール
キネマ旬報:6位

観客も主人公の狂気に付き合わされる迷作
 原題"Don Quichotte"で、セルバンテスの"El Ingenioso Hidalgo Don Quixote de la Mancha"(独創的な貴族ラ・マンチャのドン・キホーテ)が原作。
 騎士道物語の本ばかり読み耽っていたドン・キホーテ(フェオドール・シャリアピン)が、ついには本を買うために畑まで売り払うという狂気に陥り、世の中の不正を正すために隣家のサンチョと痩馬ロシナンテと遍歴に出るという有名な物語だが、シナリオが悪かったのか、はたまた演出が悪かったのか、それともドン・キホーテを映像化することに無理があったのか、あるいは既知の物語ということに胡坐をかいたのか、冒頭の影絵風のアニメーションを除けば、見るべきところがないばかりか、物語もキャラクターも破綻していて、わけがわからないままに主人公が死んでジ・エンドとなる。
 そもそもドン・キホーテが狂気に陥った理由が描けてなく、変人なのかマニアなのか頭がおかしいのか主人公だけでなく観客も精神錯乱に陥る。劇中の芝居に乱入するのも正気なのか狂気なのか勘違いなのかよくわからず、乳搾り女をドゥルシネーア姫だと思い込むのも羊の群れを巨人と思い込むのも唐突過ぎて、理解不能になる。
 こうしたドン・キホーテ以上に説明のつかないエピソードと演出が繰り返されるため、しまいにはどうでもよくなってしまうが、風車や焚書のエピソードなどの原作の見せ場をストーリーに無理矢理登場させているのは果して褒めるべきなのか。
 風車に突っ込み、一緒に回るシーンは映像的にはスペクタクルで、このシーンだけを切り取ればよくできている。
 時々歌が入るというオペラ的中途半端さも、迷作として捨てがたい。 (評価:1.5)