海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2022年

製作:メ~テレ、朝日新聞社、ハピネットファントム・スタジオ、ザフール
公開:2022年12月16日
監督:三宅唱 脚本:三宅唱、酒井雅秋 撮影:月永雄太 美術:井上心平
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

観る者も目を澄ませなければならない静謐な佳作
 小笠原恵子の自伝『負けないで!』が原案。
 生まれつきの聴覚障害者のケイコ(岸井ゆきの)の物語で、耳が聞こえず、ゴングもレフリーのカウントダウン、セコンドのアドバイスも聞こえないというハンディを負いながらも、ボクシングジム会長(三浦友和)の熱心な指導の下、プロボクサー試験に合格する。
 ケイコがボクシングを始めた理由は、子供の頃から苛められてきたことで、喧嘩に勝つためだと会長は推測する。
 無口で大人しいケイコだが、逆境に耐えてきた精神力は人一倍で 二戦目で顔を腫らしても、翌日にはホテルの清掃の仕事をこなし、母に心配をよそに次の試合のために黙々と練習を続ける。
 ところが会長が脳梗塞のためにジムを畳むことになり、別のジムを紹介されるもアパートと職場からは遠く、何より二人三脚で歩んできた会長の指導とサポートを受けられないことから、ボクシングを続けるかどうかのピンチに立たされる。
 そんな状態で迎えた第三戦でKO負け。ジムも閉鎖されて荒川河川敷で一人座り込んでいると、第三戦の試合相手が近づいてきて対戦のお礼を言う。その言葉でケイコは気を取り直し、ランニングを始めるラストシーンとなる。
 ケイコがほとんど声を出さないために、全体が静謐でケイコの内面の葛藤に焦点が当たるようになっていて、観客もケイコ同様の声のない世界でケイコの心を読んでいかなければならない。
 そうした点で、観客もまた目を澄ませることが要求されるが、人は皆、人生の幾つもの壁を乗り越え、逆境に耐えて独り強く生きていかなければならないというメッセージになっている。
 ケイコの母に中島ひろ子、会長の妻に仙道敦子。 (評価:2.5)

Dr.コトー診療所

製作:フジテレビジョン、東宝
公開:2022年12月16日
監督:中江功 製作:大多亮、市川南 脚本:吉田紀子 撮影:星谷健司、大野勝之 美術:あべ木陽次 音楽:吉俣良

20年を経て進歩した高解像度とドローン撮影の与那国島が美しい
 山田貴敏の同名漫画が原作。
 架空の島・志木那島の診療所が舞台で、離島医療がテーマ。2003年から放映されたテレビシリーズの20年後を描く。ロケ地は与那国島。
 コトー先生(吉岡秀隆)は診療所の看護師・彩佳(柴咲コウ)と結婚。彩佳は妊娠中で、新看護師の那美(生田絵梨花)が加わっている。
 そこに大病院の御曹司・判斗(髙橋海人)が研修医としてやってくる。離島医療に一生を捧げるコトー先生が急性骨髄白血病であることがわかり、島の人々の命と自らの命を秤にかけることに。
 本土で治療を受けるべきだという彩佳。無医村にはできないというコトー先生。コトー先生に代わることはできないという判斗。善意で支えられてきた離島医療の矛盾が明らかになる。
 そうした中、台風で怪我人・病人が続出。無理を押して治療するコトー先生が倒れてしまう。
 冒頭、大怪我をした漁師の剛利(時任三郎)、医科大学を中退した剛洋(富岡涼)の親子が、それぞれに再起を図り、切迫早産の彩佳の子が無事に生まれて歩き出す映像に代り、果たして診療所に残ったのはコトー先生、それとも判斗か? と気を持たせるラストシーンとなり、逆光の中に子供を抱え上げるコトー先生が浮かび上がる。
 それが実際の未来の姿なのか、それともコトー先生の臨死体験だったのか、と解釈を観客に委ねているが、いずれにしても未来に希望を託すという結末となっている。
 特に目新しくもない定番のヒューマンストーリーだが、手慣れたシナリオと20年の歳を重ねた俳優陣の演技が心に残る。
 明らかに進歩したのは高解像度とドローンを使った撮影技術で、俯瞰で眺める海と与那国島の自然、比川浜のコトー診療所を海から映す映像が美しい。 (評価:2.5)

東京2020オリンピック SIDE:B

製作:International Olympic Committee
公開:2022年6月24日
監督:河瀬直美 音楽:藤井風

オリンピックがもたらした日本社会の分断を映す
 SIDE:Bは舞台裏(backstage)、あるいは背景(background)の視点から見た東京2020オリンピックで、開会式の演出陣の交替、コロナによる延期、女性差別発言による森喜朗組織委員会会長の辞任などを巡る、トラブルを中心に描く。
 その一方で、開催のために力を尽くす料理人や新国立競技場の芝生の整備員といった裏方、慶良間諸島や福島などの聖火リレーにさまざまな思いを託す人々、そして開催に反対する人々、出場できなかった南スーダンの選手も登場し、日本と世界、オリンピックの現在を映す鏡ともなっている。
 とりわけ印象的なのが、森喜朗を中心とする組織委員会のメンバー、IOC会長のバッハらの、選手たちの若さとは対照をなす老齢ぶりで、ドアップを多用するカメラが老醜とも見える顔の皺を刻む。
 河瀬直美の意図とは別に、SIDE:Bが結果として描いたものは、オリンピックがもたらした日本社会の分断であり、オリンピック精神が目指す世界の人々の統合・平和への求心力とは正反対の、人々の分散・遠心力だったことを示している。
 オリンピックは選手とスポーツ関係者、オリンピックに意義を見出し支える一部の人々のものであって、オリンピックに意義を見出さない、あるいは意義は失われたと考える人たちとは、決して交じり合わない。
 そうした点では、制作者の意図を離れて、まさしくドキュメンタリーとなっていて、レニ・リーフェンシュタールのベルリン大会がナチの台頭と戦争への予兆を、市川崑の1964東京大会が第二次世界大戦からの脱却を示したように、本作はオリンピックの幻想の終焉を記録している。
 ただ内容が多岐に渡り、一部競技者視点も入り混ざっているので、雑駁な印象は否めず、時に纏まらなくなると子供の映像に逃げていて、顔のアップによる感情表現や情緒的な描写が、河瀬らしいといえば河瀬らしい。
 公開後、元電通の組織委員と公式スポンサーをめぐる汚職が明らかになったが、河瀬にはオリンピックの後日談(continuation)を描くSIDE:Cをぜひ作ってほしい。 (評価:2.5)

東京2020オリンピック SIDE:A

製作:International Olympic Committee
公開:2022年6月3日
監督:河瀬直美 音楽:藤井風

2020年オリンピックを不十分ながらもスケッチしている
 SIDE:Aは選手(athlete)の視点から見た東京2020オリンピックで、開催までのプロローグ以外は各種競技の選手を追う形をとっている。
 中心に取り上げられるのはカナダの女子バスケットのママさん選手、イランの亡命柔道選手、日本柔道界、ソフトボールなどで、選手個人からのオリンピックを通したドラマを描こうとしている。
 もっとも試みが成功しているとは言い難く、焦点が絞り切れていないためにエピソードがバラバラで散漫な印象を受ける。
 プロローグでは、コロナによる延期、選手の去就、反対デモ、来日、無観客試合などが断片的な映像で繋がれているが、説明が一切ないために経緯を知らないと何の映像かわからない。延期をめぐるトラブルなどのフォローも一切なく、選手視点としては競技に参加できるかどうかで、オリンピック開催の混乱に対しては傍観者ですらないというよそ事になっている。
 市民のスポーツシーンがイメージ映像として挿入されるのも、映像的には美しいものの空々しい。
 始めと終わりに登場するカナダ人のママさん選手が、オリンピック選手はモンスターではなく普通の人間なんだと主張する。これと対比されるのが出場を断念した日本人のママさん選手で、子連れ参加をねじ込んだカナダ人選手の帰国の際にスゴイという感想を口にする。この言葉に称賛とともに普通の人間ではないモンスターだという二重の意味を感じてしまうが、全編を通して、超人だという点を含めて選手が別世界に生きるモンスターだという印象を受ける。
 とりわけ日本柔道の元選手たちが口にする精神論が、江戸時代か明治に生きているようで異様。ソフトボールの選手が感想を求められて、競技者にしかわからないと答えるのも我々を突き放している感があり、オリンピックとそれを支えるスポーツ界のムラ社会を映している。
 河瀬直美がSIDE:Aで何を伝えようとしたのかは不明だが、コロナ下の開催、現代を映す新種目、女性選手の権利、難民問題と、2020年オリンピックを確かにスケッチしていて、公式記録映画としては正しい制作姿勢といえる。
 全体には説明不足のために解説が必要というのが大きな欠点となっているが、SIDE:Bを併せて、ナレーションを入れることで客観性を失うことを回避していることがわかる。 (評価:2.5)

製作:『PLAN75』製作委員会
公開:2022年6月17日
監督:早川千絵 脚本:早川千絵 撮影:浦田秀穂 美術:塩川節子 音楽:レミ・ブーバル
キネマ旬報:6位

死を選ぶ葛藤や心情が伝わらず、ただ暗いだけの作品になっている
 75歳以上の高齢者が安楽死を選べるようになった…という近未来ディストビアで、高齢者はいない方がみんなのためというPLAN75のきっかけとなる殺害事件から始まる。
 これは2016年の相模原障害者施設殺傷事件に着想を得たもので、最近マスメディアが対立を煽る高齢者vs現役世代の構図に置き換え、PLAN75が高齢者と現役世代の双方に幸福をもたらすというものになっている。
 登場するのは当然、生活の豊かでない老人たちで、倍賞千恵子演じるミチはホテルの客室清掃員として働く78歳の独居老人、アパート暮らし。失業して住むところを失い、仕事を探すも見つからず、生活保護を受ける気にもならず、ようやく夜間の交通整理員の仕事を得る。
 友人たちも孤独死を遂げ、遂に自活の道を諦めてPLAN75を申請。サポートの瑤子(河合優実)に頼んで亡夫のとの思い出の場所を巡る。瑤子に最後の別れを告げ、安楽死施設のベッドに横になると、隣で息を引き取ろうとしている幸夫(たかお鷹)を見て思い直し、施設を後にするというストーリー。
 サイドストーリーとして、建設現場を渡り歩く人生だった幸夫とPLAN75職員の甥(磯村勇斗)の20年ぶりの再会、安楽死施設の職員となった外国人労働者マリア(ステファニー・アリアン)のエピソードが絡む。
 全体にPLAN75や関係者、老人の外形説明に終始して、それぞれの人物像が描けていないために、ミチが安楽死を中止するに至る葛藤や心情が伝わって来ず、ラストが曖昧。情緒と雰囲気に逃げている印象を受ける。
 邪魔者の排除やパイの奪い合いの発想から生まれる不寛容な社会、それに諾々と従う国民というだけでは、表層を描くに留まり、生と死の選択を通した人間の尊厳というテーマには至らない。
 ミチも幸夫も、選択した死が自らの意思ではなく選ばされた死であり、瑤子も甥もそれに気づくから煩悶するのだが、残念ながら描写が情緒に流されていてそれが伝わらず、ただ暗いだけの作品に終わっている。
 タガログ語を知らないと、マリアの母国がわからないのも不親切。 (評価:2)

あちらにいる鬼

製作:カルチュア・エンタテインメント、ハピネットファントム・スタジオ、ホリプロ、毎日放送
公開:2022年11月11日
監督:廣木隆一 製作:中西一雄、小西啓介、津嶋敬介、池邉真佐哉 脚本:荒井晴彦 撮影:桑原正 美術:丸尾知行 音楽:鈴木正人

寺島しのぶが絶品だが文学論にも文学映画にもなり得ていない
 井上荒野の同名小説が原作。原作者の父・井上光晴と瀬戸内晴美(寂聴)の不倫を基にしたドラマ。
 小説家の白木篤郎(豊川悦司)、その妻(広末涼子)、小説家の長内みはる(寺島しのぶ)の関係を中心にそれぞれの心の機微を描いていくが、三角関係に陥った時に夫、妻、愛人がどのように対処すれば良いかという一例に過ぎず、しかも婚姻よりも欲望に忠実に生きることを糧に小説を書いてきた二人と、それを小説家の妻の宿命と受け入れるという特異な関係性の中に築かれたものなので、そこから導き出される処世術はほとんど参考にはならず、また人生論として参考にすべきものもなく、瀬戸内晴美と井上光晴に興味のない人にはどうでもいい不倫ドラマになっている。
 女ならば誰でも口説いてしまう上に虚言癖のある破綻した人間である井上光晴と、家庭を捨てて男に走る欲望に忠実な瀬戸内晴美を演じる豊川悦司と寺島しのぶが全ての作品で、とりわけ寺島しのぶが絶品の演技を見せるのが見どころだが、作品的には深みを欠いていて、二人の小説家の文学論にも文学映画にもなり得ていない。
 広末涼子も頑張っているが、人物像の輪郭が曖昧で、何を考えているのかわからない一番謎な人物になっている。
 荒井晴彦的脚本の妙に60~70年代的な背景描写もなぜ必要なのかわからない。
 井上光晴については原一男監督のドキュメンタリー映画『全身小説家』がよく出来ていて、合わせて観ると参考になるかもしれない。 (評価:2)

マイ・ブロークン・マリコ

製作:ハピネットファントム・スタジオ、KADOKAWA、エキスプレス
公開:2022年9月30日
監督:タナダユキ 脚本:向井康介、タナダユキ 撮影:高木風太 美術:井上心平 音楽:加藤久貴

タイトルがブロークンならすべてがブロークンな作品
 平庫ワカの同名漫画が原作。
 主人公の個性的な娘シイちゃんを永野芽郁が頑張って演じている以外には見どころのない映画で、タイトルがbrokenならストーリもbroken、エンディング曲もbrokenという、すべてがbrokenな作品。
 タナダユキのテーマのためならストーリーやリアリティはどうでもいいという制作姿勢は相変わらずで、シイちゃんが子供時代からの唯一の友人マリコ(奈緒)の遺骨を抱いて、マリコと一緒に行くはずだった海に散骨するまでの道程を描く。
 マリコは父親(尾美としのり)の性的虐待を含むDVの犠牲者で、そのために男を見る目がなく、突然自殺してしまう。
 シイちゃんは中学で喫煙を始めた不良で、今はブラックな会社の外販セールス。自殺を知ってマリコの家に殴り込みをかけ、遺骨を奪って逃走。成り行きから散骨し、最後の手紙を読むまで。
 二人の友情物語だが、かなりウザいマリコとなぜ共生するまでの仲になったのか、なぜ同棲しなかったのか、子宮で考えないとわからない。
 さらには海辺で出会った青年(窪田正孝)が、なぜシイちゃんに無償で奉仕するのかがわからない。
 登場人物がそれぞれに記号化され、ただその役割を担っているだけにしか描かれない。
 それを唯一救っているのが、はぐれ娘を演じる永野芽郁で、西部劇の孤高のガンマン、時代劇の一匹狼といった役どころがカッコいい。 (評価:2)