海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2020年

製作:疾走プロダクション
公開:2021年11月27日
監督:原一男 撮影:原一男
キネマ旬報:5位

結論はまさに、水俣病にハッピーエンドはない
 最後の献辞にもあるように、水俣を撮り続けた土本典明のドキュメンタリーの続編であり、原一男のドキュメンタリー作家としての集大成でもある作品。半世紀以上に渡る水俣病問題を総括し、6時間12分という長尺でありながら緩みなく一気に見せる。
 映画は2004年の最高裁判決から始まり、水俣病被害者たちの現在までを3部に分けて追う。
 第1部・病像論は、2004年の最高裁判決を引き出した、熊本大学教授の水俣病の医学的研究を中心に追い、有機水銀の汚染土の現状などを客観的に見せる。
 第2部・時の堆積は、水俣病の歴史を振り返り、被害者たちの人生を現在・過去と時間軸を前後しながら描いていく謂わばヒューマンドラマで、重度の障害が残る小児性水俣病患者、逆境を生き抜いた漁師、家族の尊厳を守るために国を相手に闘ってきた人々が登場し、人間らしい顔を見せるが、やはり半世紀前の子供たちの姿が映ると痛々しい。
 第3部・悶え神は、今も終わらない被害者たちの苦悩を描くと同時に、行政の不作為による二次的加害を炙り出していく。
 イノセンスな者が人生を破壊され、その犠牲が国益の下に正当化されるならば、国益とは何かという疑問に至る。その国益を代弁する官僚や役人、政治家たちの公人を理由にして言い逃れる姿は、会社のためと称して犯罪を犯す経営者や幹部社員同様に醜く、原のカメラは冷徹に写し取っていく。
 個人と国家だけでなく、医学界、介護問題等のさまざまなテーマが盛り込まれ、まさに水俣病を中心とした曼荼羅となっていて、NHKの番組をめぐるドキュメンタリー論も出てくるが深入りはしていない。
 原一男らしいどこにも収斂しないドキュメンタリーとなっていて、悲しいかな水俣病患者たちの未来は見えず、国と県、官僚、役人、政治家たちは変わらず、虚しさだけが残る。
 被害者に寄り添ってきたはずの医師さえ、水俣病は研究のための人体実験だったのではないかと思わせるシーンがある。漁師は検査をしようとする医師、それをドキュメンタリーに収めようとする原を共に拒否する。本作を観る我々を含め、被害者の側に立っていると思う人は、はたして当事者と同じ地平に立っているのか? 共感しているだけの観察者に過ぎないのではないか? ドキュメンタリーの題材に過ぎないのではないのか?
 おそらく本作は最後に、作り手も見る側もそれを問われている。結論はまさに、水俣病にハッピーエンドはないということかもしれない。 (評価:3)

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

製作:映画「三島由紀夫vs東大全共闘」製作委員会
公開:2020年3月20日
監督:豊島圭介 撮影:月永雄太 音楽:遠藤浩二

制作者も登場人物の誰も、三島を超えられていない
 安田講堂攻防戦から4か月後の1969年5月、東大全共闘が駒場キャンパスに三島由紀夫を招いた討論会を振り返るドキュメンタリー。
 冒頭に当時の時代背景の説明が入るが、すでに歴史の一コマを見るようで、客観視はされているが熱気や空気、時代性といったものは伝わって来ず、博物館の古写真を集めて過去を構築しているような、空々しさのようなものを感じてしまう。
 もっとも全共闘を抜きにすれば、優れて三島由紀夫の人物像を死後半世紀を経て甦らせていて、三島を回顧する人々も、三島を評論する人も、三島を描こうとする制作者の意図も凌駕して、50年前の映像からは三島自らが示す圧倒的な存在感とメッセージが迫ってくる。
 そうした点で、制作者たちも登場人物たちの誰も、三島を超えられていない。
 討論会での三島は、実に真摯であり誠実であり、言霊を持って若者たちに思いを伝えようとする。その思いは左右の壁を超えた人間としての繋がりで、人と人の精神の絆を信じ、求めているように見える。
 三島は日本人としての精神の自由、人としての精神の自由において、全共闘の若者たちと同じ地平に立っていると訴え、手を差し伸べる。
 タイトルに示される真実とは何かが曖昧模糊としていて、制作者たちが何を描きたかったのかが今一つ見えてこない。そのために尻すぼみ、尻切れトンボの感は否めず、結局のところ亡霊のように甦った三島が暴れ回っただけに終わる。
 三島は人を殺せば犯罪なので自決すると語り、1年半後に自決してしまうが、では三島が刺し違えた相手は何だったのか? 本作は答えられていない。
 権力と刺し違えることの出来なかった全共闘は、三島の問いにどう答えるのか?
 本作が三島の遺した言霊を捉えることができず、言葉が世の中を変革できるとお茶を濁していること自体、三島の信じていた言霊が力を持っていた時代が遠くなったと感じさせる。 (評価:2.5)

製作:バンダイナムコアーツ、東京テアトル、集英社、カラーバード
公開:2021年2月26日
監督:岨手由貴子 製作:川城和実、太田和宏、瓶子吉久、宮前泰志 脚本:岨手由貴子 撮影:佐々木靖之 美術:安宅紀史 音楽:渡邊琢磨
キネマ旬報:6位

少子化対策に手詰まりな人たちに推薦したい映画
 山内マリコの同名小説が原作。
 医者一家のハイソな家庭で育った令嬢が結婚を通して成長する物語で、結婚・出産の伝統的な女の生き方と、人生に目標を持って独身のまま自活する道とどちらを選ぶかという、現代の女性の葛藤を描く。
 両者の狭間で悩み揺れる女性たち、その前に立ちはだかる硬直した社会の保守性を政治・社会・経済の支配層=貴族に代表させたのがアイディアで、女性たちが生きにくい世の中と結婚しない女性たちの背景描写がリアル。
 独身層の増加の一つの、しかし大きな理由が描かれていて、少子化対策に手詰まりな人たちに推薦したい映画となっている。
 ストーリーの骨子は、上流階級に属している華子(門脇麦)が、夫(高良健吾)の女友達で自分に忠実に生きている美紀(水原希子)と出会い、上流に身を委ねるだけの自分の存在に気づき、独身のヴァイオリニストで友人の逸子(石橋静河)とともに階級を脱して自分に忠実な生き方を始めるというもの。
 美紀は華子に対置されるもう一人の主人公で、田舎育ちの苦学生。華子の夫にぶら下がり惰性に生きているが、学友だった里英(山下リオ)に誘われて起業。こちらも目標を持った人生を目指す。
 ハイソを地で行く映画なので、ロケ地もハイソ。椿山荘に始まり、庶民には縁遠いハイソなロケ地が気になる。 (評価:2.5)

製作:ABEMA、東映ビデオ
公開:2020年11月27日
監督:武正晴 製作:藤田晋、與田尚志 脚本:足立紳 撮影:西村博光 美術:新田隆之 音楽:海田庄吾
キネマ旬報:4位

負けても輝くことができるという負け犬たちへのエール
 劇場版とABEMA配信版が同時制作されたもので、劇場版は3人のボクサーをめぐる前後編の物語。配信版は登場人物のサイドストーリーになっている。
 主人公(晃=森山未來)は元日本ライト級1位で、チャンピオンの夢を果たせず、かといって引退もできずにズルズルとボクシングを続けている人生の負け犬(underdog)。デリヘル店の運転手をして生活費を稼ぎながらのジム通い。妻子は別居しているが、息子は父に憧れている。
 前編は、売れないお笑い芸人(瞬=勝地涼)の挑戦を受けるというテレビのバラエティ番組企画に乗って八百長試合をするが、解説を務めたかつてのライバル(海藤=佐藤修)から二度とボクシングをするなと言われるまで。
 瞬はタレント二世で、芸能界引退を懸けて臨むが、その真剣さにジム関係者も観客も心を打たれるというもので、中途半端な晃との対照が描かれる。勝地涼の好演もあって瞬が一番に輝いて見える、感動的なクライマックスとなっている。
 負けても輝くことができるというのが本作のテーマで、後編で新人ボクサー(龍太=北村匠海)がタイトルマッチで負けた晃を評した言葉。前編では輝けた瞬と輝けなかった晃という二人の負け犬が描かれる。
 前編ではデリヘル店で働く子持ちの女(明美=瀧内公美)と得意客の車椅子の青年(田淵=上杉柊平)と、登場するのは負け犬ばかり。晃の所属するジムも潰れかかっていてと徹底している。
 田淵が障碍者になった原因に龍太が絡んでいるという示唆もあって、負け犬ばかりの中で如何に輝けるか? という後編に繋がる。

 後編は前編の続き。
 売れないお笑い芸人(瞬=勝地涼)との八百長試合でボクシングへの情熱を失った元日本ライト級1位のプロボクサー(晃=森山未來)は、妻(佳子=水川あさみ)からも三下り半を突きつけられ、父を尊敬する息子(太郎=市川陽夏)からは再びチャンプを目指すように諭される。
 連戦連勝の新人ボクサー(龍太=北村匠海)の妻(加奈=萩原みのり)から、龍太が養護施設育ちで、ボクシング指導に来た晃に殴られたことから、晃に勝つためにボクサーになった話を聞かされる。
 一方、車椅子の青年(田淵=上杉柊平)に復讐された龍太は目を傷め、ボクサーとしての将来を断たれる。
 龍太から最後の試合を申し込まれた晃は受けて立ち、龍太は引導を渡す覚悟で晃にとっても引退を懸けた試合となる。
 二人が猛訓練で試合に臨む真剣勝負。パンチの応酬の末に龍太の手が上がるが、チャンプになれよと晃に声を掛けるというラスト。勝つことを目指すその姿が負けても輝くことができるという、多くの負け犬へのエールとなっている。
 後編の負け犬に、デリヘル店の店長(二ノ宮隆太郎)、デリヘル老嬢(熊谷真実)。負け犬だらけの物語の中で、それぞれが、それなりに輝きを取り戻すという作品になっている。 (評価:2.5)

製作:「すばらしき世界」製作委員会
公開:2021年2月11日
監督:西川美和 脚本:西川美和 撮影:笠松則通 美術:三ツ松けいこ 音楽:林正樹
キネマ旬報:4位

「見上げてごらん夜の星を」を歌う梶芽衣子が隠れた見どころ
 佐木隆三のノンフィクション小説『身分帳』が原案。
 13年の刑期を終えて旭川刑務所を出所した元殺人犯・三上(役所広司)が、更生して再出発するまでの苦悶・苦闘の日々を描くヒューマンドラマ。
 三上は前科10犯の元ヤクザで、少年院を含めて人生の半分を塀の中で過ごしてきた。今度こそはと更生を誓い、身元引受人の弁護士(橋爪功)とその妻(梶芽衣子)、ケースワーカー(北村有起哉)、スーパー店長(六角精児)、テレビ取材の津乃田(仲野太賀)らに励まされながら、アパートで生活保護を受けながら仕事探しを始めるが、前科者の三上に対する世間の風は冷たく、思うに任せない。
 硬骨漢の三上は、善良な市民がチンピラに絡まれているのを見かけると見過ごすことができず、思わず暴力を振るってしまう。それでは世間を渡っていくことはできないと諭された三上は、ようやく就職の決まった介護施設で、職員同士の苛めに見て見ぬふりをしてしまい、その夜、持病の高血圧で急死してしまう…という物語。
 更生を望む前科者を受容しない社会を中心のテーマに、三上の母親捜し、妻子との出会いなど、三上の人物像に迫っていくが、犯罪者を生み出す家庭環境、興味本位で偽善的なマスコミとテーマの詰め込み過ぎで、若干散漫になっている。
 三上がチンピラを半殺しにするのを見て逃げ出した津乃田に、プロデューサーの吉澤(長澤まさみ)が、「喧嘩を止めるか、それができなければカメラを回して世間に伝えるか。逃げるのが中途半端」と傲慢に叱責するシーンがあるが、吉澤こそが西川美和の投影か。刑務所長との会話、裁判シーン、三上の死等々、エモーショナルに描きすぎていて、佐木隆三の冷静とは一線を画す作品。前作『永い言い訳』(2016)で一皮剥けたかと思ったが、女であることに拘る子宮感覚に先祖帰りした印象を受ける。
 三上を演じる役所広司の熱演が見どころ。「見上げてごらん夜の星を」を歌う梶芽衣子が隠れた見どころ。 (評価:2.5)

製作:NHK、NHKエンタープライズ、Incline、C&Iエンタテインメント
公開:2020年10月16日
監督:黒沢清 脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清 撮影:佐々木達之介 美術:安宅紀史 音楽:長岡亮介
キネマ旬報:1位

サスペンスに重きが置かれて人間ドラマとしては薄味
 NHK BS8Kで放送されたTVドラマを劇場用に調整したもので、ヴェネチア映画祭に出品されて銀獅子賞(監督賞)を受賞した。
 舞台は1940年の神戸。貿易商を営む優作(高橋一生)が満州で731部隊の細菌兵器用の人体実験を目撃してしまったことから、その研究資料をアメリカに持ち出し、アメリカ参戦を誘って日本を敗戦させ、残虐行為を食い止めようとする、仮想歴史サスペンス・ドラマ。
 これに優作の妻・聡子(蒼井優)が協力することになるが、当初は夫の売国行為を聡子に好意を寄せる憲兵・津森(東出昌大)に密告…と思いきや、実は優作の協力者の甥(坂東龍汰)を身代わりにして夫から憲兵の目を逸らすためで、夫と共にアメリカへの密航を企てる。
 優作は憲兵の目を欺くためと夫婦別々の密航を計画。ところが聡子の密航を憲兵に通報して目を逸らし、資料は自らが持ち出して上海、ボンベイ経由で渡米する。渡米が果たせたかどうかは不明で、結果的にアメリカが参戦。精神病院に入れられた聡子は、私は正気で狂っているのは国家だと凡庸な台詞を吐き、敗戦後、優作を追って渡米するというラスト。
 優作と聡子、狐と狸の化かし合いというサスペンスに重きが置かれていて、脚本の濱口竜介お得意の人物描写がなく、二人の愛情と心の機微が描かれていないのが残念なところで、黒沢清調の薄味なドラマになっている。研究資料に絡む文雄(坂東龍汰)と弘子(玄理)のエピソードが台詞だけで簡単に済ませられているのも、ドラマを薄くしている。
 歴史ドラマというよりは、731部隊、スパイ、日米開戦のキーワードを繋げたライトな仮想歴史エンタテイメント。
 解説によれば、1940年代の日本映画を意識した台詞回しということだが、蒼井優は口調を真似ただけで当時の俳優のような演技になってなく、台詞を棒読みしているだけのように聞こえてしまうのが残念。 (評価:2.5)

製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会
公開:2021年1月29日
監督:土井裕泰 脚本:坂元裕二 撮影:鎌苅洋一 美術:杉本亮 音楽:大友良英
キネマ旬報:10位

純愛は悲恋に終わるのが美しいという技巧的なシナリオ
 テレビドラマ『東京ラブストーリー』(1991)の坂元裕二のシナリオで、出会って5年間の同棲生活を送る男女の心の機微を描く恋愛物語になっている。
 カップルを演じるのは菅田将暉と有村架純で、2人の演技が全てという作品。出会いから別れまでの心の動きを好演している。
 合コン、インスタ、スマホ、漫画、アニメなどの若者風俗を巧みに取り入れ、リアリティを醸し出すが、就活をするまで2人の学生生活やバイトシーンが描かれず、ただのプータローにしか見えないのが難。
 小説好き、映画好きが共通点で、ブログを見ているという昭和の香りのする、時代と逆行する古典的文学青年というのも、若干リアリティを欠く。
 そうした新旧が混ざり合いながら、純愛をテーマに物語が進行し、卒業を境に現実に取り込まれていく男と、純粋な生き方を貫こうとする女の心が離れていく様子を描く。
 恋愛には賞味期限があり、初々しい純愛もやがては廃れてしまうという現実を描き、だからこそ純愛を守るために2人は別れなければならなくなるというファンタジーで、純愛は悲恋に終わるのが美しいという『ロミオとジュリエット』のエッセンスがセンチメントを誘うという仕掛けで、技巧的なシナリオがよく出来ている。
 ラストシーンで、2人がそれぞれ新しい相手とデートしているところで偶然出会うが、恋愛の賞味期限を知って別れた2人が、新しい相手とどんな関係を築けるのだろうか? というのが疑問として残り、結局のところこの物語が愛の神話でしかないという限界を示す。
 どういうわけか押井守がゲスト出演しているのも見どころか。 (評価:2.5)

製作:「朝が来る」Film Partners
公開:2020年10月23日
監督:河瀬直美 脚本:高橋泉、河瀬直美 撮影:月永雄太、榊原直記 美術:塩川節子 音楽:小瀬村晶、アン・トン・タッ
キネマ旬報:3位

2時間余りの長大なプロローグに胃腸薬が欲しくなる
 辻村深月の同名小説が原作。
 養子縁組を巡る生母と養母のドラマで、それぞれに母とは何かがテーマになっている。
 原作はミステリー仕立てだが、映画は原作をなぞりながらも前半は養母、後半は生母の物語になっていて、ミステリー色は薄い。
 前半は子の出来ない夫婦(永作博美、井浦新)の葛藤のドラマで、さまざまな事情から生母が育てられない赤ん坊を養子縁組するNPOの存在を知り、子を授かって幸せな家庭を築くことになる。
 親が子を選ぶのではなく、子が親を選ぶという高邁な理念を掲げるNPOだが、養親は専業主婦家庭に限るというのが今一つ腑に落ちない。
 子供が幼稚園に通うようになった頃、突然実母(蒔田彩珠)から「子供を返してほしい」という電話が入り、以下、中学生で出産して家庭内で孤立し、家を出て神奈川にやってくる生母の流転の物語となる。
 現在から過去へと因果関係を丁寧に説明しているのでストーリーはわかりやすいが、前半と後半で主人公が変わり、養親のテーマから幼い性へとテーマが移るためにドラマの方向性を見失ってしまい、作品としては二つに分断されてしまう。このため中盤、若干ダレる。
 ラストは生母の気持ちを理解した養母が子供を引き合わせるが、本来はそこから物語が始まらなければならず、2時間余りの長大なプロローグを見せられただけで、消化不良のモヤモヤした感じしか残らない。
 幼稚園で起きたジャングルジム事故の結末も描写不足で、養子を育てる親の葛藤がなく、エピソードを入れた意味が感じられない。
 逆光を多用したカットや心象風景を描いた映像が美しく、編集も効果的。NPOの代表の浅田美代子もいい。 (評価:2.5)

子供はわかってあげない

製作:アミューズ、日活、ポニーキャニオン、ベンチャーバンクエンターテインメント、イオンエンターテイメント、TBSラジオ
公開:2021年8月20日
監督:沖田修一 脚本:ふじきみつ彦、沖田修一 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 音楽:牛尾憲輔

競泳着姿まで晒して頑張る豊川悦司の演技がいい
 田島列島の同名漫画が原作。
 水泳部の女子高生・美波(上白石萌歌)が同じアニオタをきっかけに書道部の昭平(細田佳央太)と親しくなり、幼い頃に実父(豊川悦司)が出奔したという身の上話から、探偵の兄(千葉雄大)が美波の実父の居所を突き止め、水泳部の夏合宿を利用して実父を訪ねるという物語。
 実父が新興宗教の教祖だというのがミソで、合宿に来ない美波が拉致されたんじゃないかと昭平が駆け付けるが、能力が衰えて教祖をクビになった実父としみじみ・ほのぼのとした交流をしていて、最初はお父さんと呼べなかった美波が帰る時に初めてお父さんと呼ぶシーンが感動的。美波と昭平が互いに告白するシーンで、ひょっとして美波に実父の能力が発現したんじゃないかと思わせるラストもいい。
 漫画原作らしくコミカルにできていて、冒頭はアニメで始まり、長回しのシーンなど映像的な見どころも多い。挿入カットなど編集も上手く、全体に弛みのない演出力が光る。
 美波役の上白石萌歌と実父役の豊川悦司が好演していて、とりわけ競泳着姿まで晒して頑張る豊川悦司の演技が作品全体を左右するほどの出来。
 小説家の高橋源一郎が古書店店主を演じている。 (評価:2.5)

サマーフィルムにのって

製作:「サマーフィルムにのって」製作委員会
公開:2021年8月6日
監督:松本壮史 製作:今野義雄、小西啓介、多湖慎一、川瀬賢二、篠田学 脚本:三浦直之、松本壮史 撮影:岩永洋、山崎裕典 美術:飯森則裕

映画への情熱が溢れた映画好きに刺さる好編
 映画部所属で時代劇オタクの女子高生(伊藤万理華)が偶然出会った少年(金子大地)に直感を得て、学園祭用に時代劇を撮るという青春コメディだが、『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)のような映画への情熱が溢れていて、映画好きに刺さる好編となっている。
 高校生の映画作りとしてはスマホ以外の録音機材や衣装が揃い過ぎていたり、殺陣が上手すぎたり、未来人が登場したりするという非現実的な設定だが、その不自然さをカバーする自主製作映画的な雰囲気や熱気といったものがあって、嫌味のない作品になっている。
 それを支えているのが伊藤万理華の熱演で、映画オタクぶりが堂に入っている。
 青春恋愛映画ばやりの風潮に否定的な主人公が、未来からやってきた少年を好きになるというのは『時をかける少女』(1983)のオマージュ。そのストーリーに則って最後は別れとなるが、やはり映画部で恋愛映画を撮っている少女(甲田まひる)への対抗心が、同好の士との融和に昇華するのもいい。
 『座頭市物語』など過去の時代劇に触発される若者を通して、映画は過去から現在に、そして現在から未来へ繋ぐバトンだというのがテーマになっていて、一方で刹那的なネット動画やストーリーだけを追う映画の倍速視聴に、映画文化が失われていく危惧を持つ。
 それが映画のオールドファンではなく、監督の松本壮史を始めとする若いスタッフや俳優たちだというのが、映画のオールドファンには嬉しい。 (評価:2.5)

製作:「罪の声」製作委員会
公開:2020年10月30日
監督:土井裕泰 脚本:野木亜紀子 撮影:山本英夫 美術:磯見俊裕、露木恵美子 音楽:佐藤直紀
キネマ旬報:7位

被抑圧者の暴力をヒューマニズムで否定するプチブル正義感
 1984~5年に起きた一連のグリコ・森永事件をモチーフとした、塩田武士の同名ミステリー小説が原作。
 グリコ・森永は、本作では架空のギンガ・萬堂に置き換えられ、ギン萬事件として描かれるが、事件そのものはグリコ・森永事件を踏襲。犯人グループは元マル暴刑事を接点に新左翼活動家、暴力団組長ら、反警察の雑多な集合体で、犯行動機は株価操作説と元暴力団説を組み合わせたものになっている。
 事件そのものはすでに時効で、新聞社が未解決事件の調査報道のために取材班を組織することで真相解明へと動き出す。主人公となるのが社会部をお払い箱になった文化部記者の阿久津(小栗旬)。
 もう一人の主人公は、父の遺品の中から、犯行に使われた6歳男児の録音テープと手帳を見つけたテーラーを経営する曽根(星野源)で、テープの声が自分のものであることに気づき、犯行に加担していたことを知って罪の意識から真相を突き止めようとする。
 二人が手がかりを追った先で出会うことになり、以下協力して事件の真相を解き明かしていく。ストーリーそのものはグリコ・森永事件を覚えている者には面白いが、そうでないと事件そのものの描写が薄いため、ミステリーとして楽しめないかもしれない。新左翼絡みや雑多なグループという設定も若干ファンタジーに映る。
 タイトルにもあるように制作者の主眼は、曽根とほかに犯行テープに声を使われた姉弟が、事件の加害者に利用されたことによって受けた心の傷を描くことにあり、反警察の犯人の正義という名の不正義を問う内容になっている。
 実際、犯人の自己満足のために子供を利用する卑劣さという点はその通りなのだが、それに新左翼という思想集団を絡ませると、被抑圧者の暴力をヒューマニズムによって否定するというプチブル的正義感に見え、急に底の浅さを感じてしまう。
 その新左翼活動家というのが曽根の叔父(宇崎竜童)と母(梶芽衣子)で、これまた反権力的なイメージの二人のキャスティングに思わず笑ってしまう。 (評価:2.5)

製作:名古屋テレビ放送
公開:2020年10月9日
監督:深田晃司 脚本:三谷伸太朗、深田晃司 撮影:春木康輔 美術:定塚由里香 音楽:原夕輝
キネマ旬報:5位

踏切のラストシーンは振り出しに戻るネバーエンド?
 星里もちるの同名漫画が原作。
 30分10話のテレビシリーズを編集したものだが、二人の出会いからプロポーズまでの他愛のないラブストーリーでは、二部構成の4時間弱は長すぎて、もっとコンパクトにできなかったものか。
 同じ年に製作された類似のラブストーリーに土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』があるが、こちらは約2時間で良くまとまっている。
 手を差し伸べて上げたくなるような頼りない女、しかも素性もわからず謎めいていて、優しくされれば簡単に男について行く。そんな女に出会った誰にでも優しい青年が、彼女の魔性に取り憑かれていき身を滅ぼしてしまう。
 谷崎潤一郎や太宰治なら悲劇で終わるが、本作ではそれぞれが求める相手だと気づき、ハッピーエンドとなるのが現代風か。
 もっとも主人公の辻(森崎ウィン)は、博愛主義の優等生ゆえに女でも仕事でも相手の言い成りというわかりやすいキャラで、成り行きから浮世(土村芳)の保護者となる。
 一方、浮世は「すみません」を連発することで相手の赦しを乞うてその場を切り抜け、女の弱さを見せて同情を誘うが、それを意図せずにできるという才能の持ち主。平気で嘘をつくのも女の弱さで、いわば支配できる弱き女を求める男の理想像となっている。
 そんな二人が、曲折を経て互いに相手を必要としているという愛の幻想を掴むまでが描かれるが、それが弱き者同士の同情と互助にすぎないことに気づかないのが、作品が今一つなところ。
 踏切のラストシーンが辻の気を引く浮世の大芝居、という振り出しに戻るネバーエンドに見えてしまう。 (評価:2.5)

製作:「アルプススタンドのはしの方」製作委員会
公開:2020年7月24日
監督:城定秀夫 脚本:奥村徹也 撮影:村橋佳伸
キネマ旬報:10位

見終わって一抹の寂しさが残る敗者への慰め
 籔博晶の戯曲が原作。兵庫県立東播磨高等学校演劇部による全国高等学校演劇大会の最優秀賞受賞作。
 夏の高校野球全国大会に駆り出された高校3年生4人が、甲子園アルプススタンドの端で仕方なく応援する様子を描く。
 野球のやの字も知らない演劇部の女子2人、野球部を辞めた男子、勉強しか能のない女子の4人で、これに熱心に応援する吹奏楽の女子と新任教師が加わる。
 演劇部のあすは(小野莉奈)は昨年自作脚本で演劇の高校地方大会に臨んでいたが、ひかる(西本まりん)のインフルエンザで断念。全国大会は2年がかりのため諦めている。藤野(平井亜門)は控えの投手で、登板機会がないために退部。他に取り柄もなく、3人3様の挫折した青春。
 そうした中、藤野同様にベンチウォーマーの矢野がピンチヒッターで送りバント。得点に絡むことができる。
 輝く者たちを応援・助力することにも意義があるというのがテーマで、努力は結果のためではなく自分のためという、輝けない者たちのための応援歌になっている。
 高校演劇としては素晴らしいテーマなのだが、敗者への慰めともいえ、見終わって一抹の寂しさが残るのも事実。社会人となった彼らが再び、プロ選手となった矢野を応援するために思い出のアルプススタンドに集まるが、青春の夢を胸に凡人となったというラスト。
 バント要員の矢野が努力の結果プロになれたというのは、青春映画としてのご愛嬌。勉強しか能がないから優等生になったという宮下(中村守里)と、何でも中庸だから部活・勉強・恋愛に頑張ったという久住智香(黒木ひかり)の2人が輝けない仲間というのも無理があり、久住に至ってはどちらかといえば勝者で、台詞が相当に嘘臭い。
 前半の敗者3人の台詞と演技が面白いが、後半の予定調和な優等生的展開が青春が遠くなった者には若干鼻白む。 (評価:2.5)

ミッドナイトスワン

製作:CULEN
公開:2020年9月25日
監督:内田英治 脚本:内田英治 撮影:伊藤麻樹 美術:我妻弘之 音楽:渋谷慶一郎

『白鳥の湖』の悲劇をなぞるセンチメンタルなラストシーン
 ニューハーフのショークラブで働くトランスジェンダーのナギサ(草彅剛)が、母のネグレクトを受ける少女イチカ(服部樹咲)を預かったことから母性愛に目覚め、完全なる母親となるべくタイで性転換手術を受けるが失敗して命を落としてしまうというストーリー。
 イチカはバレエの才能に恵まれ、ナギサの懸命な助力によりイギリスのバレエ学校に入学するという話が並行するが、全体のモチーフとなっているのがチャイコフスキーの『白鳥の湖』で、悪魔の呪いで白鳥に姿を替えられたオデットが人間の姿に戻る夢を叶えられず、王子とともに湖に身を投げる。
 本来女であるべきナギサが男として生まれために女に戻ろうとし、それが叶わず死んでしまう姿を白鳥に象徴させ、その願いを叶える存在としてのイチカもまた海に身を沈める。
 センチメンタルな『白鳥の湖』を追うように、本作もまたセンチメンタルな結末となるのだが、設定上のいくつかの粗さは別として、草彅剛の熱演もあって白鳥になぞらえるトランスジェンダーの苦悩が伝わってくる作品となっている。
 本作のもう一つの見どころは小学生の時に数々のコンクールで入賞したという服部樹咲のバレエで、登場時からバレエ歩きをするのが本格的。『白鳥の湖』のオデッサをはじめ、可憐な姿で踊るバレエのシーンは作品を離れて楽しめる。
 ニューハーフ・クラブのママに田口トモロヲ、イチカの母に水川あさみ。
 タイトルは、オデッサが夜の間だけ人間の姿になれることから。 (評価:2.5)

おらおらでひとりいぐも

製作:『おらおらでひとりいぐも』製作委員会
公開:2020年11月6日
監督:沖田修一 脚本:沖田修一 撮影:近藤龍人 美術:安宅紀史 音楽:鈴木正人

田中裕子の演技がすべてだがそれ以外は中身が薄い
 若竹千佐子の同名の芥川賞受賞作が原作。タイトルは宮沢賢治の詩『永訣の朝』の「Ora Orade Shitori egumo」から採られたもので、賢治の早逝した妹の別れの言葉、「私は私ひとりで行きます」の意味の岩手弁。
 映画では、夫を数年前に亡くして孤独になった老女・桃子が、それまで二人で生きることしか知らなかった妻に、一人で生きる機会を夫が与えてくれたと、前向きに考えるようになっていく変化を描く。
 桃子が新しい女を目指し、縁談を断って上京したものの結局は男に従属してきた過去が語られるが、若い時の桃子を演じる蒼井優が底の浅い月並みな女しか演じられていないので、新しい女を目指したという言葉が説得力を欠く。
 対して老齢の桃子の田中裕子が屈折した女の深みのある演技で、ほぼ一人芝居となっている。
 桃子の内面の声を擬人化した濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎が楽しく、シリアスな内容をコミカルにしている。
 田中裕子の演技がすべての作品だが、桃子が一人で生きていく決意をしてからの描写が蛇足気味でダラダラとしていて、折角の名演を損なっている。
 老齢の桃子が地球の歴史に惹かれていく理由も不十分で、プロローグのアニメーションを含めて生きてこない。
 各エピソードも類型的で、とりわけ蒼井優と夫の東出昌大のシーンは雰囲気だけで中身がなく、テーマに対して描写が表面的になっている。 (評価:2)

製作:「MOTHER マザー」製作委員会
公開:2020年7月3日
監督:大森立嗣 製作:河村光庸 脚本:大森立嗣、港岳彦 撮影:辻智彦 美術:大原清孝 音楽:岩代太郎
毎日映画コンクール大賞

事件の掘り下げが浅い異常性だけを追う再現ドラマ
 実話を基にした17歳少年による祖父母殺人事件の顛末を描く、少年犯罪ドラマ。
 定職に就かず、パチンコやゲーセンの遊興に明け暮れる母(長澤まさみ)と、その母に連れられて家を転々とし、学校にも通えずに成長した少年(奥平大兼)が、窮乏生活の末に母の指示で祖父母の家に行き、無心の末に強盗殺人を犯すというもの。
 母は共謀を否認して執行猶予付きの懲役、少年は12年の実刑となり、本作を見る限りで少年の生い立ちや母との関係性を考慮すれば不当な判決に見えるが、おそらく実際の事件では少年の悪質性が優っていたのだろう。
 そうした点では本作は少年を被害者として描いていて、子の母に対する無条件な愛情をテーマとしている。
 もっともそれが描けたかというとそうではなく、あばずれ女とセックスシーンに果敢に挑戦した長澤まさみは、児童虐待のステレオタイプな母親像しか演じられていない。
 これは母に妹を孕ませる遊び人の阿部サダヲも同様で、実話ベースながらもリアリティが感じられず、不快感しか残らない。
 それぞれが自己の分身として相互依存する母子の心理への掘り下げが浅く、事件の異常性だけを追う再現ドラマに終わっている。 (評価:2)

製作:映画「由宇子の天秤」製作委員会
公開:2021年9月17日
監督:春本雄二郎 脚本:春本雄二郎 撮影:野口健司 美術:相馬直樹
キネマ旬報:8位

社会派なのかエンタメなのか中途半端な作品
 性暴力と報道がテーマ。由宇子(瀧内公美)はテレビのドキュメンタリー監督で、関係を持っていたとされる高校教師と女生徒がともに自殺した事件の真相を追っている。教師は学校が教師を退職させるためにスキャンダルを捏造したという遺書を残して自殺。遺族から教師の潔白の証言を引き出し、マスコミ報道が自殺に追い込んだというストーリーで番組を制作するが、テレビ局の横槍で学校のみを悪者とすることを強要される。
 由宇子は父親(光石研)が経営する学習塾の講師も兼ねていて、女生徒(河合優実)が父親と関係を持って妊娠したことを知る。この事実が公になれば由宇子のドキュメンタリーはお蔵入り、塾は閉鎖、事実を知られたくない女生徒も傷つくことになり、極秘裏に女生徒を堕胎させようとする。
 これが由宇子の天秤で、事実を追求しなければならないドキュメンタリー監督が事実と隠蔽を秤にかけることになる。
 どちらの事件も事実誤認で、自殺した教師は女生徒をレイプ。塾の女生徒も売春していたというどんでん返しになるが、物語の意外性に重きを置くという、社会派なのかエンタメなのかよくわからない制作姿勢が、すっきりしないエンディングとなる。
 どんでん返しが主眼なら、ドキュメンタリーなんて真実とは限らないという結論になるし、それに情熱を傾けるシリアスな由宇子が阿呆に見える。
 タイトルからは性暴力と報道の天秤がテーマなのだろうが、テーマ立てがありきたりな上に、どんでん返しによって天秤が報道の信憑性にすり替わってテーマを曖昧にし、中途半端な作品にしている。
 演出もかなり冗長で、テンポが悪く間延びしていて、行間で人物の内面を表現しようとしている意図だけが伝わる、独りよがりで不自然なものになっている。とりわけラストの長回しなど余韻を引っ張りすぎていて意味不明。エンドマークが待ち遠しくなる。 (評価:2)

風の電話

製作:ジャングルドラム
公開:2020年1月24日
監督:諏訪敦彦 脚本:狗飼恭子、諏訪敦彦 撮影:灰原隆裕 美術:林チナ 音楽:世武裕子

震災も風の電話も消化できず情緒に流されて終わった
 三陸・浪板海岸にある風の電話をテーマにした作品で、東日本大震災で家族を亡くして1人ぽっちとなった大槌町の少女の8年経っても癒されない心の傷を描く。
 風の電話そのものは、死者に想いを伝えるという趣旨で設置されたものだが、広島の叔母に引き取られた主人公のハル(モトーラ世理奈)は、叔母の入院をきっかけに故郷の大槌町の家を訪ねる旅をするが、風の電話の存在を知るのは終盤、それも偶然で、物語上のテーマにはなっていない。
 そのためテルが両親への想いを一方的に伝えるだけの情緒的な道具にしかなってなく、そもそも彼女がなぜ故郷を訪ねたのかという根本的な疑問にも答えられていない。
 とにかくハルが絵に描いたように暗い。17歳になったハルは、毎朝叔母にハグしてもらわなければ学校に行くこともできず、演技が下手だからセリフがないのか、自閉症だから寡黙なのかよくわからないシーンが続く。
 叔母が倒れ、入院して一命を取り留めるが、そこからのハルの行動が謎で、孤児であることを嘆いて失神したところを三浦友和に助けられ、老婆からピカの話と命の虚しさを聞き、なぜかヒッチハイクで大槌町を目指す。
 普通なら長距離トラックを探すところを短距離移動の乗用車ばかりに乗り、2代目の車が都合よく福島ナンバーの埼玉に行く西島秀俊の車と、ほとんどショートカット状態。埼玉では故郷を失ったクルド人家族の話を聞き、元原発職員の西島と福島の空き家に行き、実家の父・西田敏行の恨み節を聞く。
 要は故郷と家族を喪失した人たちの羅列で、そこから先がない。挙句は失った家族の記憶を引き継ぐために生きていきますでは、8年後に映画を作った意味がない。
 次のステップに進めないほどに心の傷が深いということを描きたいなら別の描き方があったはずで、震災も風の電話というキーアイテムも消化することができず、情緒に流されただけに終わっている。 (評価:1.5)

製作:HIGH BROW CINEMA
公開:2020年10月23日
監督:青山真治 脚本:青山真治、池田千尋 撮影:中島美緒 美術:清水剛 音楽:長嶌寛幸
キネマ旬報:9位

流行歌の歌詞のようにイメージだけで空虚というよりは空々しい
 小竹正人の同名小説が原作。
 青山真治がなんでこんなつまらない映画を撮ったんだろうと思ったら、EXILEの芸能事務所が製作した作品だった。原作がEXILEの作詞家なら、主人公が憧れるアイドルもEXILEのメンバー、エンディングに流れる主題歌もJ SOUL BROTHERS。
 それでも話が面白ければいいのだが、浮ついた設定に浮ついた登場人物、浮ついたストーリーで正に空に浮かぶよう。劇中のアイドル、時戸森則(岩田剛典)の夢が地に足が着くことと言っているように、作品そのものが地に足が着いてなく、空に浮かぶようなファンタジーなのだが、それも中二病から抜けられない若者の人生論を聞いているようで、正に空に住むよう。
 物語は、主人公の直実(多部未華子)が両親を交通事故で亡くし、叔父夫婦が渋谷に所有する投資用タワーマンションの40階の部屋に引っ越してくるシーンから始まるのだが、ここですでに少女漫画のように非現実的。タイトルに引っ掛けているのが判り易すぎる。
 直美が勤めるのが多摩川を渡った出版社なのだが、これまた鎌倉にありそうな日本家屋の大邸宅で現実離れした挙句、文芸・人文書の良書しか出さない中小出版社というには編集者が多すぎ。
 直美はタワマンに住む時戸とエレベーターで知り合い、すぐに部屋に引き入れるという文芸書の編集者とは思えない軽薄ぶり。そこで互いの心の空疎を埋め合うが、空疎な人間同士では何も埋まらない。
 そんな空疎な人間の哲学書を出そうというのもよくわからないが、インタビューも中身がなさすぎて、とても本に纏まりそうにない。
 空虚な話を穴埋めするように、ペットの猫の病死と同僚の不倫出産で直美の空疎に何かが埋まったように描くが、まるで流行歌の歌詞のようにイメージだけで何が埋まったのか意味不明。
 叔父夫婦もバブル期の象徴のように軽薄、空疎なのも流行歌のようにステレオタイプで、終始セリフも空を飛び交うように軽く中身がなく、作品テーマは空虚というよりは空々しい。 (評価:1.5)


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