海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1995年

製作:​フジテレビジョン
公開:1995年03月25日
監督:岩井俊二 製作:村上光一 脚本:岩井俊二 撮影:篠田昇 音楽:REMEDIOS 美術:細石照美
キネマ旬報:3位

小樽の景色と酒井美紀がとってもメルヘン
​​ ​岩​井​俊​二​の​初​の​長​編​映​画​。
​ ​少​女​を​リ​リ​カ​ル​に​描​い​た​作​品​が​得​意​な​岩​井​だ​が​、​こ​の​映​画​の​主​人​公​は​男​の​藤​井​樹​。​し​か​も​、​死​ん​で​し​ま​っ​て​い​て​少​年​期​し​か​出​て​こ​な​い​。
​ ​山​で​遭​難​し​た​恋​人​・​藤​井​樹​が​昔​住​ん​で​い​た​と​い​う​小​樽​の​住​所​に​博​子​(​中​山​美​穂​)​が​手​紙​を​出​す​と​、​樹​か​ら​返​事​が​返​っ​て​く​る​。​小​樽​に​は​同​姓​同​名​の​女​の​藤​井​樹​(​中​山​の​二​役​)​が​い​て​、​博​子​は​不​思​議​な​空​想​に​浸​る​が​、​女​の​藤​井​樹​は​悪​戯​だ​と​思​う​。​二​人​の​藤​井​樹​は​か​つ​て​中​学​の​同​級​生​で​、​博​子​が​卒​業​ア​ル​バ​ム​の​住​所​か​ら​女​の​方​に​手​紙​を​書​い​て​し​ま​っ​た​こ​と​は​後​で​わ​か​る​。
​ ​こ​こ​か​ら​は​男​の​藤​井​樹​の​物​語​で​、​彼​が​女​の​藤​井​樹​に​恋​し​て​い​て​、​彼​女​と​よ​く​似​た​博​子​を​好​き​に​な​っ​た​と​い​う​の​が​伏​線​。​非​常​に​よ​く​で​き​た​シ​ナ​リ​オ​だ​が​、​博​子​と​女​の​藤​井​樹​が​そ​れ​を​知​っ​た​か​ら​ど​う​な​る​と​い​う​も​の​で​も​な​く​、​結​局​は​男​の​藤​井​樹​の​物​語​で​し​か​な​い​。​な​ん​と​な​く​糖​衣​に​包​ま​れ​た​岩​井​マ​ジ​ッ​ク​に​抒​情​と​感​傷​に​浸​る​が​、​死​ん​だ​人​間​へ​の​追​憶​の​映​画​で​し​か​な​い​。
​ ​た​だ​、​男​だ​か​ら​こ​そ​の​幻​想​に​満​ち​た​美​化​さ​れ​た​少​女​を​描​い​て​右​に​出​る​者​の​い​な​い​岩​井​の​片​鱗​は​こ​の​作​品​に​も​表​れ​て​い​て​、​女​の​藤​井​樹​の​少​女​時​代​を​演​じ​る​酒​井​美​紀​1​7​歳​が​無​茶​苦​茶​可​愛​い​。
​ ​タ​イ​ト​ル​は​博​子​が​出​し​た​手​紙​で​あ​り​、​女​の​藤​井​樹​と​の​往​復​書​簡​で​あ​り​、​中​学​時​代​の​男​の​藤​井​樹​の​図​書​カ​ー​ド​で​も​あ​る​。
​ ​映​像​的​に​は​手​持​ち​カ​メ​ラ​の​浮​遊​感​と​ソ​フ​ト​フ​ォ​ー​カ​ス​が​、​小​樽​の​景​色​と​も​ど​も​メ​ル​ヘ​ン​。​弦​楽​の​音​楽​も​抒​情​的​。​そ​の​心​地​よ​さ​に​浸​る​た​め​の​映​画​。
​ ​博​子​に​言​い​寄​る​豊​川​悦​司​の​関​西​弁​が​嫌​ら​し​く​て​い​い​。​女​の​藤​井​樹​の​祖​父​を​演​じ​る​篠​原​勝​之​も​い​い​。 (評価:2.5) 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

製作:フジテレビジョン、共同テレビ
公開:1995年8月12日
監督:岩井俊二 プロデューサー:原田泉 脚本:岩井俊二 撮影:金谷宏二 美術:柘植万知 音楽:REMEDIOS

少年たちが花火を見上げる感動的な顔がいい
 1993年にフジテレビの『If もしも』で放送されたTVドラマを再構成した劇場版。
 二人の少年がプールで、『スラムダンク』のコミックスと、美少女なずな(奥菜恵)への告白を賭けて競争する。一方、それを見ていたなずなは、勝った方と駆け落ちしようと心に決める。
 テレビシリーズ『If もしも』のコンセプトは、主人公の選択により、その後のストーリーが2つに分岐することで、選択ではないが、勝敗の結果によって2つのストーリーが示されるという内容になっている。これを知らずに見ると、意味が分からずに混乱する。
 ストーリーの1つ目は、勝った典道が告白する前になずなに逆告白され、二人で花火に行こうと誘われる。典道は男子仲間と花火に行く約束があり、結局なずなの誘いを断り、駆け落ちは不発に終わる。
 2つ目は、祐介がなずなに誘われ、バスに乗って駅まで行くが、なずなの気が変わり、町に戻る。典道は「花火は横から見ると丸か平らか」を確かめに男子生徒たちと灯台に行く。
 なずなの駆け落ちの理由は、両親の離婚による傷心から家出の協力者を求めただけ。誰にも転校を打ち明けないまま夏休みを迎えるが、祐介篇では二人で夜の学校に忍び込み、プールで遊んだあと、「2学期になったらまた会おうね」と言って別れる。
 この物語には3つの賭けがあって、祐介と典道の好きな女の子への告白、なずなの駆け落ち相手の選択、男子生徒たちが「花火は横から見ると丸か平らか」での賭けがある。
 本作のテーマは、番組コンセプトの選択そのものにあって、大人から見れば他愛ない賭けだが、本人たちにとっては真剣な賭け。そうした模索を経て大人になっていくが、岩井は少年期のデリケートな心とノスタルジーをセンチメンタルに描く。
 45分と小品ながら、その後の岩井作品の原点を見ることができる。
 なずながプールで遊ぶシーンに被せる挿入歌はファッショナブルだが、"Stand by Me"ほどには心に響かず、イメージビデオ風な浮ついた印象を与えて却ってマイナス。少年たちと祐介が花火を横と下から感動的な顔で見上げるラストがいい。 (評価:2.5) 

製作:西友、TSUTAYA、堺総合企画、表現社、テレビ朝日
公開:1995年2月4日
監督:篠田正浩 脚本:皆川博子、堺正俊、片倉美登、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:浅葉克己、池谷仙克 音楽:武満徹
キネマ旬報:5位

美的感覚に溢れた歌舞伎と吉原の絢爛たる描写
 謎の浮世絵師・東洲斎写楽の正体を描くという作品で、真偽はともかく、当時の風俗や写楽の時代背景が興味深い。
 物語は江戸後期の寛政3年から始まり、写楽が百数十点の浮世絵を残した寛政6年の10か月間を中心に、版元・蔦屋重三郎の寛政9年の死までが描かれる。
 顔を主体としたデフォルメした絵の特長とデッサンの狂いから、写楽を絵師の修業を積んでいないアマチュアとし、欠点を含む役者の顔をリアルに描いたことから、間近に接する歌舞伎関係者と推定。画力不足、役者絵以外に画題を持たないことで一年で消えたとする。
 そこで設定されたのが稲荷町の十郎兵衛(真田広之)。市川團十郎(中村富十郎)の梯子を支えて足を砕き、おかん(岩下志麻)率いる大道芸一座に拾われる。歌舞伎小屋の書割の片手間に描いたデッサンが蔦屋重三郎(フランキー堺)の目に留まり、自由に描けと言われて描いたのが写楽の浮世絵となる。
 誇張された役者の顔に賛否相半ばする中で重三郎が病に臥せり、写楽に嫉妬する喜多川歌麿(佐野史郎)の謀で花魁の花里(葉月里緒菜)を吉原から足抜けさせようとして失敗。おかんの一座に戻るという結末。
 絢爛たる歌舞伎と吉原の描写は、篠田正浩ならではの美的センスに溢れていて、鈴木達夫のカメラワークも素晴らしい。葉月里緒菜の魔性に輝く花魁姿も女王様のようで一見の価値あり。
 蔦屋に出入りする戯作者・山東京伝(河原崎長一郎)、狂歌師・大田南畝(竹中直人)、鉄蔵=葛飾北斎(永澤俊矢)も、写楽に絡んでくる。
 山東京伝が書いた洒落本が禁令に触れ、重三郎が財産没収となると、歌麿が恩義を忘れて鶴屋喜右衛門に版元を鞍替え。写楽に嫉妬して謀をするなど、佐野史郎によって下衆な男に描かれているので、歌麿ファンには不快なこと確実。 (評価:2.5) 

製作:​深い河製作委員会、仕事
公開:1995年6月24日
監督:熊井啓 製作:佐藤正之 脚本:熊井啓 撮影:栃沢正夫 美術:木村威夫 音楽:松村禎三
キネマ旬報:7位

小賢しいテーマは悠久のガンジスに流されてしまった感
​​ 遠藤周作の同名小説が原作。
 訳あってインドの聖地ベナレスへの旅行ツアーに参加した3人の男女の物語で、タイトルの深き川はガンジス川のこと。
 僧となった学生時代の男友達に会いに来た美津子(秋吉久美子)の物語を軸に、癌で亡くなった妻の転生という少女を探しに来た磯部(井川比佐志)、インパール作戦で戦死した戦友を弔いに来た木口(沼田曜一)のエピソードが絡むが、過去話が終わり現在形になると物語が若干弛む。
 美津子は敬虔なクリスチャンの男友達・大津(奥田瑛二)とからかい半分にセックスし捨てたことがきっかけで、大津はリヨンの修道院からイスラエルのガラリヤを経て、インドでヒンドゥー僧のように暮らしている。
 一方の美津子は浮ついた生き方を見つめ直すために大津に会いに来る。大津は貧乏僧となって貧者の救済に尽くすが、美津子との再会後に事故死してしまう。
 大津の汎神論とイエスの受難、人々の苦悩を受容するガンジスに流れなどが語られるが、要は不器用な大津の生き方に俗物の美津子が感化されてしまうというもので、大津の思想の勝利で終わる。
 もっとも熊井はそれを描き得たかというと疑問で、インドの大地と人々の姿に圧倒されて、それを収めるためにカメラを回すのが精一杯。美津子同様に小賢しいテーマなど、悠久なガンジスの流れに押し流されてしまった感がある。
 「すみません」を連発する奥田の演技が光るが、秋吉の突っ張った演技もオバサンとなっては無理がある。井川と亡妻を演じる香川美子、沼田の演技も渋くて泣かせる。 (評価:2.5) 

製作:東宝、サンダンス・カンパニー
公開:1995年07月08日
監督:平山秀幸 製作:藤峰貞利、高井英幸 脚本:奥寺佐渡子 撮影:柴崎幸三 音楽:Fuji-Yama、諸藤彰彦、山崎茂之 美術:中澤克巳

子供と安心して怖がることのできるファミリー・ホラー
 「トイレの花子さん」「口裂け婆」といった小学生の怪談ブームに乗って創られた映画。ヒットして4作まで作られたうちの第1作。
 終業式が終わり明日から夏休みという日に、小学2年生の女の子がトイレの花子さんに誘われて、使われていない旧校舎に入り込み姿を消す。それを捜しに来た子供たちが次々・・・という、子供向け怪談として非常にわかりやすい導入で、大人も小学生に戻って観ることができるファミリー向けホラー。ただ怖がらせるだけが目的のJホラーよりは遥かに楽しい。
 理科室、音楽室、図工室、保健室といったいかにもお化けが出そうな教室を子供たちがめぐり、結構ゾクゾクする。オーソドックスだが、怪談の定型を踏んだ演出が良い。
 子供向けなので雰囲気で怖がらせはするが、出てくるお化けが決して醜悪でないのもいい。CGのお化けは可愛いし、人体模型はホラーというよりはコメディ。用務員のお化けは、化け物に変化しても親近感が残る。
 ただ残念なのは前半は妖怪の類だったのに、後半はお化けというよりは怪物・クリーチャーで、怪談の雰囲気を損なっていること。最後まで子供向けに楽しませてほしかった。
 ストーリーは突っ込みどころ満載。子供たちは車道を通学するわ、飛び出しはするわで、こっちの方がよっぽどホラー。野村宏伸の先生も、校内にランドセルが置き去りにされていても心配しないという鷹揚ぶりで、この映画には学校批判も含まれていたのかと勘繰ってしまう。 (評価:2.5) 

製作:大映、日本テレビ放送網、博報堂
公開:1995年03月11日
監督:金子修介 製作:池田哲也、萩原敏雄、澤田初日子 脚本:伊藤和典 撮影:戸澤潤一 音楽:大谷幸 美術:及川一
キネマ旬報:6位

見どころは自衛隊軍用車両とミニチュアセットの迫力
 大映が徳間書店傘下に入ってから製作された『ガメラ』第1作。続編2作が製作された。1965年の第1作からは、通算9作目にあたるが、第3作のギャオスが登場する。
 ガメラとギャオスは先史文明に生き残った古代生物で、日本の環境変化によってギャオスが卵から復活。これに対抗するためにガメラが甦ったという設定で、五島列島から福岡・木曽・富士・東京へと戦いの場が移る。
 シナリオはルーン文字・巫女・遺伝子等々盛りだくさんの設定でオタク的。もっともらしい会話が続いても所詮は怪獣映画なので無理が出る。オープンしたばかりの福岡ドームにギャオスを誘いこんだり、ギャオスの周りをヘリがぶんぶん飛んだり、人間の味方のガメラが建物をガンガン壊したり。いくら怪獣映画とはいえ、俳優の演技もひどく、金子はドラマの演出ができないか関心がないかのどちらかでシナリオもおざなり。
 本作の見どころは、全面協力を得た自衛隊の軍用車両や戦闘機のシーンと東京のミニチュアセット。実景との合成もよくできており、とりわけ地上の人の視点からのカメラワークによるあおりの特撮は、それまでの怪獣映画にない迫力がある。
 人間の味方ガメラとはいえ、やはり派手にミニチュアセットを壊してくれないと怪獣映画ではなく、お約束の東京タワーも半壊するが、最終決戦は主役ガメラに委ねられるために人間も自衛隊も殊更無能に見える。このガメラに対する違和感は子供の頃から拭えず、ゴジラも途中からやや正義ヅラをするようになったが、怪獣はやはり悪役でないと面白くない。 (評価:2.5) 

製作:ポニーキャニオン
公開:1995年4月29日
監督:原田眞人 製作:田中迪 脚本:原田眞人 撮影:阪本善尚 美術:丸山裕司 音楽:川崎真弘
キネマ旬報:8位

負け犬の日系ペルー人運転手の乾坤一擲ドラマ
 ビデオ作品として製作された後、劇場公開された作品。
 子供の時にペルーに移住し、日系ペルー人として出戻ってタクシー運転手をしている男(役所広司)が主人公で、政治家(内藤武敏)の隠し金を盗んだ副主人公のチンピラ(高橋和也)を客にしたことから、数日間逃亡の手伝いをする羽目になるという物語。
 逃げ回るチンピラと運転手、途中から女(片岡礼子)が加わり、これを執拗に追いかける政治家のボディーガードをしているヤクザ集団の追っかけのドラマで、東京と伊豆を往ったり来たりする。
 この間にタクシー運転手のキャラクター紹介があって、政治家が特攻隊員だったタクシー運転手の父親の元上官だったことを知る。死を恐れた父を苛め部下を死に追いやった男が、さも自分が生き残り隊員のような顔で政治家となり、ヤクザを利用して悪辣な行為をしていることから、負け犬の運転手は乾坤一擲、チンピラと父親の復讐に立ち上がる。
 最後はカミカゼが吹いて、人の手による復讐ではなく天罰が下って、後味が悪くならないようにしている。
 ロードムービー風の作品で、バイオレンスあり、社会問題ありの原田眞人らしい骨太の作品になっているが、ビデオ用に撮られたということもあってカジュアルで肩が凝らずに楽しめる。
 ミッキー・カーチスがヤクザのボスを演じていい感じ。 (評価:2.5) 

男はつらいよ 寅次郎紅の花

製作:松竹
公開:1995年12月23日
監督:山田洋次 製作:中川滋弘 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:長沼六男、高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純、山本純ノ介

痛ましくて見ていられないフーテンの寅
 寅さんシリーズの第48作。渥美清の体調不良から、これが最終作になるかもしれないと制作された作品で、寅次郎のマドンナにリリー(浅丘ルリ子)、満男の元ガールフレンド・泉(後藤久美子)が再登場。
 寅次郎は奄美でリリーと同居、満男と泉は恋人同士になるという大団円のラストとなった。
 山田洋次は続編を用意していたが、翌夏に渥美が癌で死去。結果的に本作がシリーズ最終作となった。
 寅から寅屋への音信が途絶え、泉の結婚を知った満男がプロポーズできずに徳山での結婚式を妨害、泉は破談になり、自己嫌悪に陥った満男が放浪して奄美の加計呂麻島に来たところ、リリーの家に居候していた寅次郎と再会。満男の居場所を知った泉が島を訪れて愛の告白、施設の母を見舞うリリーとともに4人が柴又に戻り、島に戻るリリーを寅次郎が島まで送る。
 導入で寅次郎がこの年1月の阪神・淡路大震災に遭遇してボランティアをしていたエピソードがあり、ラストでは島を出た寅次郎が神戸を訪れ、リリーとは緩やかな関係を保ちながら渡世人であり続けるというフーテンの寅の基本は崩さないハッピーエンドとなっている。
 シリーズの完結編としてすべてが丸く収まる結末となっていて、リリーファンには腑に落ちる最終作となっているが、本来ハッピーエンドはないという『男はつらいよ』のコンセプトからは外れていて、やや異質な作品となっている。
 阪神・淡路大震災を取り込んだのも山田洋次らしいといえば山田洋次らしいが、『男はつらいよ』としては異質。神戸のシーンを含め、人情喜劇のはずが微塵も喜劇らしさがない。
 病を押して出演する渥美清には敬服するが、出番の少ないシナリオ構成と座ったままの演技だけでなく、顔はやつれ声も掠れていて、寅次郎らしさの影もなく痛ましくて見ていられない。
 そんな渥美清につられたのか、寅屋の面々、とりわけ倍賞千恵子がひどく老けこんでしまった。
 ここまで引っ張るべきシリーズではなかったが、評点は大団円のラストとシリーズ全体へのおまけ。 (評価:2.5) 

製作:大映、日本テレビ放送網、テレビマンユニオン
公開:1995年12月9日
監督:是枝裕和 製作:重延浩 脚本:荻田芳久 撮影:中堀正夫 音楽:チェン・ミンジャン 美術:部谷京子
キネマ旬報:4位

原作を基に映画学校の真面目な優等生が作った映画
 宮本輝の同名小説が原作。是枝裕和の映画初監督作品。
 初監督らしく原作をなぞるようにして丁寧に撮っていて、小津安二郎ばりのレイアウトに凝ったカメラワーク。主人公の女(江角マキコ)の夫(郁夫)が自殺し輪島で再婚(内藤剛志)するまでは、露出の低いくすんだ画面でもぬけの殻となった女の姿を心象風景風に描く。冬が終わり春から夏となり、女が次第に新しい生活を得ていくにつれて、カメラの露出は高くなり晴れた青い海や光とともに画面も明るさを取り戻していく。
 さらには徹底的なロングショットでこの物語を静的に描いていくという非常に教科書的に作られた映画で、全ショットに渡って練りに練ったレイアウトで上手に作られている。
 ただ、全編に力が入りすぎているために観ている側も息の詰まるところがあって、映画学校で真面目な優等生が作った映画を観させられているような息のつけない堅苦しさがある。もっとも、この堅苦しい優等生が作ったような映画というのは、その後も是枝作品に共通していて、彼の原点を本作に見ることができる。
 もう一点、これもその後の是枝作品の特徴となっているのは、作品としての結論を描けないことで、子供も生まれ夫婦仲もよく幸せなはずの夫が突然鉄道自殺し、思い当たることが微塵もないままに、夫の死の原因を引きずる女が、映画では結局その問題を解決できたようには見えない。
 結局女の心の襞を描けずに、原作にもある「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」という台詞だけで、雰囲気で逃げているのが残念。なぜ死んだのかという問題を中心に置きながら、映画の女同様に観客も納得を得られない。
 映像的には再婚同士の子供二人が仲良く遊ぶ描写がよく、特にトンネル内を抜けていくシーンが美しい。ただ、レイアウトに拘るあまり、夕餉のシーンで家族4人が食卓を囲んでいる最中に、義父(柄本明)が一人縁側で煙草を飲んでいるのは不自然。こうしたレイアウトありきの人工的な構図もその後の是枝作品の特徴となっている。 (評価:2.5) 

製作:松竹、アミューズ、丸紅
公開:1995年4月22日
監督:監督:崔洋一 製作:中川滋弘、宮下昌幸、大脇一寛 脚本:丸山昇一、崔洋一 撮影:浜田毅 美術:今村力 音楽:ティム・ドナヒュー
キネマ旬報:9位

謎解きができなくても楽しめる?ミステリー映画
 高村薫の直木賞受賞作が原作。
 謎解きがメインのミステリーだが、話と人物が錯綜するために正直、映画を見ただけでは事件の細部は理解できない。映画を見た後に、「あれ、どういうこと?」「なんで、なんで?」と語り合うための映画で、そうした点では2度楽しめるが、きわめて不親切な映画ともいえる。2時間以上の映画をもう一度見る気にもならないが、公開から20年ぶりに見たら、印象的なシーンと大まかな筋立ては覚えていたが、謎解き部分は見終わっても???だった。
 それでも見通せてしまうのは、緊迫感のある演出と畳みかけるようなストーリー展開のせいで、謎解きができなくても楽しめるミステリー映画ということでは、崔洋一の演出は確かにキネ旬9位に値するのかもしれない。
 粗筋によれば、南アルプスでの親子心中事件で生き残った男の子が精神病院に入院。同室のMARKSの1人に手籠めにされるも、相手が看護人に殺され、MARKSの犯罪を記した日記を手に入れる。青年(萩原聖人)となってこの日記を基に、残りのMARKSのメンバーを恐喝する。
 MARKSはかつて大学山岳部員で内ゲバ事件に関与。発覚を恐れて仲間の1人を北岳で殺害。MARKSは今はそれぞれに社会的地位を得ていて、弁護士(小林稔侍)がやくざに青年の殺害を依頼するも返り討ちに遭い、以後青年はMARKSのメンバーを一人ずつ殺していく。
 これに青年と肉体関係を持つ精神病院の看護婦(名取裕子)、捜査する刑事たち(中井貴一、萩原流行など)が絡むが、それぞれにリアリティを欠く部分が多々あるが、そこはミステリーなので目をつぶってに見なければならない。 (評価:2.5) 

ゴジラvsデストロイア

製作:東宝映画
公開:1995年12月09日
監督:大河原孝夫 製作:田中友幸、富山省吾 脚本:大森一樹 特技監督:川北紘一 撮影:関口芳則 音楽:伊福部昭 美術:鈴木儀雄

第1作のオマージュは福島第一原発事故を予言する
​​ ​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第22作​​​、​​​新​​​生​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第7作​​​。脚本に大森一樹が戻り、再び監督・大河原孝夫+特​撮​・​川​北​紘​一コンビ。
 大森の脚本は一味違う。元祖第1作のフィルムと登場人物を使いながら40年後の後日談に仕上げ、しかも原発をテーマにしたパニック映画になっているのも第1作の反核を継承している。また、ハリウッド・ゴジラの公開を控えて、これが最後のゴジラの意気込みで、制作陣がゴジラ映画の集大成として臨んだことがヒシヒシと伝わってくる。
 もっとも、意気込みと映画の出来は別物で、マンネリ感は拭えず、若干冗長に感じる。  第1作では、​志​村​喬の古​生​物​学​者​・山根と娘の恵美子が出てくるが、本作では恵美子を演じた河内桃子が40年後の恵美子を演じている。その甥(林泰文)と姪(石野陽子)が今回の主人公。当然ながら、40年前の話が伏線となっている。
 第1作ではゴジラを抹殺するために、平田昭彦の科学者が究極の破壊兵器オキシジェン・デストロイヤーを開発、兵器の秘密を抱えたまま自らの命を断つが、本作でその類似研究成果ミクロオキシゲンを得るのが科学者の伊集院(辰巳琢郎)。40年前に東京湾で使用されたオキシジェン・デストロイヤーの影響でカンブリア紀から蘇り、東京湾海底トンネル工事で現れたのが新怪獣デストロイアで、三体合体して巨大化する。描写はエイリアンやジュラシック・パークのラプトルを連想させる。
 物語は前作『ゴジラVSスペースゴジラ』の続きで、ゴジラ親子は離れ離れになっている。ゴジラは初めて海外を襲い、香港での乱暴狼藉から映画は始まる。しかも体内で核暴走が起きていて、体はマグマのように赤い。心臓が原子炉になっているという設定が突然明かされるが、核爆発阻止のためにスーパーXが再登場、冷却レーザー砲でゴジラを凍結させるが、心臓がメルトダウンに向かっていて、対策チームはオキシジェン・デストロイヤーを武器にするデストロイアと対決させて、ゴジラの抹殺を図ろうとする。そこにミニラが成長したジュニアも絡む。
 核暴走するゴジラは3.11の福島原発を想起させ、爆発すれば日本ばかりか地球を破壊するという話になっていて、今日の原発問題を予言したかのような内容。デストロイアと東京で対決させるために、メルトダウンに備えて200キロ圏の住民を避難させるという話も出てくる。
 ミニチュアの破壊は香港・天王洲・羽田・有明・臨海副都心とウォーターフロントが中心。第1作同様、ゴジラはオキシジェン・デストロイヤーによって抹殺されてしまうのか? ジュニアともどもラストらしく戦いに倒れるのか?・・・最後は? となる終わり方。
 高嶋政宏、中尾彬、神山繁、篠田三郎の出演。 (評価:2.5)

静かな生活

製作:伊丹プロダクション
公開:1995年9月29日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:川口直次 音楽:大江光

佐伯日菜子のパンツ大股開きが数少ない見どころ
​​ 大江健三郎の同名小説が原作。
 大江健三郎の妻は伊丹十三の妹で、伊丹が大江の家族をよく知っているという前提で観てしまうので、登場人物やエピソードがフィクションなのかノンフィクションなのかどうにも混乱してしまう。家族の登場する大江の小説自体が虚実が曖昧で、本作中でも大江が小説と一体化した生き方をしているという表現が出てくる。
 それに比べると本作で重要な役割となる新井(今井雅之)にまつわるエピソード、パパ(山崎努)が新井をモデルに小説を書いたというのがパパの作家性と上手く結びつかなくて、伊丹の通俗性ばかりが際立ってしまう。
 山崎努も風貌は似せているものの大江健三郎のイメージとは違和感があり、居心地の悪いままに見ることになる。イーヨー(渡部篤郎)をめぐる障碍児問題が深堀りされているわけでもなく、主人公は妹のマーちゃん(佐伯日菜子)で、マーちゃんがパパに代わってイーヨーと冒険するというどうにも個人的、というよりもマーちゃんに化身した大江の小説と一体化した生き方の物語になっている。
 家族におけるイーヨー(渡部篤郎)の存在意義という大江健三郎と家族の極私的テーマに帰結する物語が、小説ならともかく映画となると、伊丹の通俗性も手伝ってただの風景として流れるだけの作品になっている。
 これまでの金太郎飴的キャスティングを反省してか、山崎努と宮本信子が脇に回ったのが伊丹作品としては新機軸。渡部篤郎のイーヨーの演技と、佐伯日菜子のパンツ大股開きが数少ない見どころ。 (評価:2.5)

製作:近代映画協会
公開:1995年6月3日
監督:新藤兼人 製作:新藤次郎 脚本:新藤兼人 撮影:三宅義行 美術:重田重盛 音楽:林光
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

棺桶に片足を入れないと理解できない作品?
​​ 新藤兼人82歳の作品にして、乙羽信子70歳の遺作。撮影時、乙羽は肝臓癌で余命短く、主人公(杉村春子)が女優であるということからも、本作が新藤の妻であり、かつて愛人でもあった乙羽に対する思いの色濃いものとなっている。
 この年最も評価された作品だが、新藤の個人的な思い入れを一般化して観客に伝えられたとは言い難い。
 本作は終活の物語でもあり、とりわけ演劇界という特殊な世界での終活論で、一般人にそれを説かれても容易には共感できないものがある。
 別荘の庭師の死をきっかけに終活を意識し始める大女優は、管理人の女(乙羽信子)から死んだ夫の愛人で子供まで作っていたことを冥途の土産に言い渡される。築地小劇場時代のかつての友達(朝霧鏡子)が能役者の夫(観世栄夫)に付き添われてやってくるが、妻の認知症を悲観して心中するための別れの挨拶だったことに後に気づく。
 この二人が最後に訪れるのが故郷の直江津で、村人に顔を見られないようにしているが、故郷に錦を飾れなかった負い目からなのか理由がよくわからない。
 大女優を含めたこの3人は、雀百まで踊りを忘れずを地でいき、大女優は管理人の女から死ぬまで芝居のことだけ考えてればいいと最後に言い渡されるが、これが新藤の女優・音羽に対するメッセージなのか、愛人・妻としての音羽への反語なのかよくわからないが、観客にとってはどうでもいいこと。
 冒頭の脱走犯騒ぎは新藤には似合わぬコメディのようでコメディにもなっていないが、中盤の管理人の女の娘の足入れ婚はシュールすぎてこれまた新藤には似合わぬ前衛劇、乙羽信子との女の戦いは橋田寿賀子もどきで、ルポライター・倍賞美津子の登場に至っては訳が分からぬ刑事もの・・・と支離滅裂なシナリオで、何を見たらいいのか全くわからない。あるいは、棺桶に片足を入れないと理解できない作品なのか?
 新藤の演出のせいもあるのか、名優・杉村春子が高慢なだけ女のステレオタイプな演技しかしてなくて、演技力が生きていないが残念。 (評価:2)

製作:海獣シアター
公開:1995年10月21日
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也 撮影:塚本晋也 美術:塚本晋也、小出健、黒木久勝、磯野勇、山口るみ、外山光子 音楽:石川忠
キネマ旬報:10位

なぜか『あしたのジョー』を思い出してしまう
​​ 平凡なカップルとその前に出現した一人の男との愛憎と血と拳のドラマ──というのがキャッチフレーズだが、平凡どころか異常というよりも人格の分裂した破壊的な人間しか登場しない。
 漫画的、劇画的キャラクターさえも超越した人物描写は、合理性を持たない性格と行動様式で、これを受け入れられる非合理な精神と思考を持てるかどうかで、本作に対する評価も決まる。
 ただキャラクターやストーリーに合理性を求めるごく一般の人間からすれば、本作は精神分裂的な作品でしかなく、それを個性的だとか斬新だとかいわれても、ああそうですかと答えるしかない。
 婚約者と同棲する保険外交員の主人公(塚本晋也)のマンションに、高校時代の後輩でプロボクサー(塚本耕司)が現われるが、その理由が共通の友達の女生徒を殺されたために二人でボクサーとなって復讐することを誓い合ったのに、先輩は就職して女と安住しているため、それを思い出させようというもの。
 やがて二人は婚約者をめぐって殴り合い、なぜか女も参戦して三つ巴の戦いとなるが、復讐の件はどこかにすっ飛んでしまって、要は平穏だが暑苦しい飼い殺しの日常に3人が歯向かっていく姿を描く。
 映像的にも演出的にもある種のアナーキーさがあって、わけがわからないなりに飽きずに見ていられるが、さすが終盤になるとアナーキーであること自体に飽きてきてしまい、漫画的、劇画的な顔面の腫れに、なぜか『あしたのジョー』を思い出してしまう。 (評価:2)

製作:ライトヴィジョン
公開:1995年1月14日
監督:市川準 製作:鍋島壽夫 脚本:藤田昌裕、猪股敏郎、鈴木秀幸 撮影:川上皓市、小林達比古 美術:磯田典宏 音楽:梶浦由記
キネマ旬報:2位

妹は豆腐であるというオジサン的ノスタルジー
​​ 藤田敏八の『妹』(1974)同様、妹に対する大きな勘違いから生れた作品で、本作では「妹は豆腐である」というテーゼが提示される。
 冒頭から冷ややっこや豆腐屋のシーンを象徴的に登場させるが、要は白くて柔らかくてプルンプルンしていて壊れやすいというオジサン的嗜好が丸出しで、せめて『男はつらいよ 望郷篇』(1970)の寅次郎の「四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが水臭い」くらいに気の利いた台詞が欲しかった。
 家族がテーマで、小津安二郎を意識した舞台装置やカット割りですぐそれと知れるが、所詮はテーマもストーリーも映像も真似でしかなく、21世紀を控えてこんな兄妹がいるか? というくらいにアナクロニズムに溢れている。
 そのアナクロニズムを演出するための小道具が都電荒川線と雑司ヶ谷鬼子母神、どこにあるのか知れない昭和初期のような大きな木造家屋、古臭いテレビになんとゼンマイ式の柱時計まである。
 夕餉を給仕する妹と座椅子にふんぞり返る兄は、戦前からタイムマシンに乗ってやってきたみたいで、恋人ができて連日デートする妹を父親のように心配するが、小津作品で親身に娘のことを心配する父親の外形だけを真似しているだけで、単なる近親相姦にしか見えない。
 恋人が死んで妹は兄のもとに戻るが、帰宅した兄が足を戻すシーンは意味不明。意味深な勿体ぶった演出で観客の心を宙ぶらりんに弄ぶようでは、小津には遠く及ばず、縄文時代の化石を撫でただけに終わっている。 (評価:2)

製作:東宝、ぴあ
公開:1995年12月16日
監督:橋口亮輔 製作:高井英幸、矢内廣 脚本:橋口亮輔 撮影:上野彰吾 音楽:高橋和也
キネマ旬報:10位

愛に性別は関係ないという青臭い問題提起は10分で済む
​​ 高校生たちが主人公の青春恋愛映画。
 クラスの仲の良い男子生徒・吉田を好きなホモの男子生徒・伊藤、レイプされて転校してきた女子生徒・相原。二人は同じ精神科医に通っていたことから互いの秘密を知ることになる。3人はクラスメートで、吉田が世捨て人風の相原を好きになる。
 こうして変則的な学園恋愛三角関係ドラマが展開し、吉田が「伊藤は男だから愛せないが、相原は女だから愛せる」と言うのに対し、相原は「私が男だったら同じように愛せるのか、つまり吉田が求めているのはセックスにすぎない」というプラトニックな愛について根源的な問いかけをする。
 個人的には、レイプされたことのある女・相原の説得力のある問題提起に思わずたじろぐのだが、でも生理的に女を求めるのはセックスを含めての動物的本能で、愛に形而上学を持ち込まないでほしいと、この青臭い問題提起を否定するが、何やら自分が不純なオジサンに思えてくるピュアな感覚がある。
 同性愛者からすれば愛に性別は関係ないという本作のテーマは的を得ているのかもしれないが、このロジックに対して何かが違うと思う自分は差別主義者なのか?
 この問題が提起される終盤の砂浜のシーンはよくできている。しかし、本作のすべてはこの10分程度に集約されていて、それまでの長い長い会話劇は退屈で不要。
 高校生たちの日常的な会話が延々と続くが、自然な台詞のように見えて、実はこんな会話は絶対しないだろうというくらいに作為的で空疎。その不自然さがリアリティを大きく損なっていて、中二病ともいえる夢見心地なシナリオになっている。
 愛に性別は関係ない、と一言テーマを言ってしまえばそれで終わってしまう作品で、キャラクター造形の浅薄さと併せて説得力のない青臭い問題提起に終わっている。
 相原を浜崎あゆみが演じているのが見どころといえば見どころか。 (評価:1.5)