海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1994年

製作:G・カンパニー、東亜興行
公開:1994年12月17日
監督:高橋伴明 製作:元村武、大谷清通 脚本:剣山象 撮影:栢原直樹 美術:望月正照 音楽:山崎ハコ、かしぶち哲郎
キネマ旬報:9位

大人になって生きるということはかように辛いこと
 島本慶・荒木経惟の同名ルポルタージュが原作。
 SMクラブの女王様のバイトをしている劇団員レイコ(鈴木砂羽)と、医者の卵を騙して玉の輿に乗ろうとしているホテトル嬢アユミ(片岡礼子)の物語で、出会いから不思議な友情へと進んでいく様子と、二人を取り巻く人々を描く。
 途中、荒木経惟の撮り下ろしの鈴木砂羽のヘア・ヌード写真とレイコの幼い頃のホームムービー映像が度々挿入され、作品全体に不思議な雰囲気を醸し出している。
 ストーリーを追えば、レイコが劇団員たちと順番にセックスするのも、女王様で悩める男たちのカウンセリングをするのもすべて芝居の勉強で、台本が上がり、公演の成功に向けて劇団員たちと力を合せ、公演が終わればまた次の公演に向けて再出発する。
 芝居、結婚と彼女らなりの夢を目指して繰り返される遅々とした人生の営み。
 風俗嬢とその世界を追う、ただそれだけの作品でありながら、見終わって切なさと妙な感傷が湧くのは、彼女たちが特殊な世界に生きているだけのごく普通の人々の写し絵であり、そこに人生にもがき続ける我々自身の姿を見るからだ。
 荒木経惟のモノクロスチールに写るのは心身ともに裸のレイコであり、汚れを知らない幼い頃の映像と合わせて無垢な姿が描き出される。
 レイコに鞭で叩かれる男たちも、アユミを買う男たちも日常の仮面を剥いで素顔を晒すのであり、それを見守るレイコもアユミも仮面を被って生きている。
 無垢だった子供もいつか大人になり、大人になって生きるということはかように辛いことで、ラストで裸になったレイコとアユミが海に入って子供のようにはしゃぐ姿が、エンディング・クレジットの幼い頃の映像へと変わっていく演出が見事。
 荒木経惟、杉本彩、宮藤官九郎、武田真治、哀川翔、大杉漣などの出演陣も見どころだが、SMクラブ常連のヤクザを演じる萩原流行が好演している。 (評価:3) 

製作:徳間書店、日本テレビ放送網、博報堂、スタジオジブリ
公開:1994年7月16日
監督:高畑勲 製作:徳間康快、氏家齋一郎、磯邊律男 脚本:高畑勲 作画監督:大塚伸治、賀川愛 美術:男鹿和雄 音楽:紅龍、渡野辺マント、猪野陽子、後藤まさる、上々颱風、古澤良治郎
キネマ旬報:8位

四半世紀を経て多摩ニュータウン興亡期の序章となった
 多摩ニュータウン開発を題材に、自然との共生をテーマにした作品で、多摩丘陵の狸たちが開発阻止に立ち上がるも、人間に敗れる姿を描く。
 多摩ニュータウンの開発は高度経済成長期に始まり、本作制作時には鉄道の開通、大学・企業の移転、テーマパークの開園等で最盛期を迎えていた。
 抵抗運動をする狸たちにも強硬派と穏健派がいて、成田三里塚での空港反対派の実力行使を髣髴させるものがあり、開発の前に敗れていく民衆の悲哀という点では、単に多摩丘陵開発の問題に収まっていない。
 そうした重いテーマを高畑勲は民衆を狸になぞらえて、アニメではなく「漫画映画」として戯画化し、コミカルに描いていくが、民衆もまた自然との共生を放棄した都会人に化けてしまうのであり、狸のように人間に化けられない野兎やイタチなどの野生動物たち、すなわちそうした近代合理主義についていけない者たちは何処で生きていけばいいのか? と最後に問いかけて物語は終わる。
 公開から四半世紀が経って本作を振り返ると、多摩ニュータウンに往時の勢いも華やかさもなく、住民の老齢化と町の老朽化の進行からは、狸たちがニュータウンに見る里山の幻影がやがてこの町に訪れる未来を予見しているように見える。結局人間が自然を支配できるのは一時でしかないとすれば、本作は多摩ニュータウン興亡期の序章に過ぎない。
 スタジオジブリでの『火垂るの墓』(1988)、『おもひでぽろぽろ』(1991)とシリアス作品が続いた後に監督した狸を擬人化した久々のギャグアニメで、大人向けのテーマではあるものの高畑の本領発揮した楽しい作品に仕上がっている。
 もっともギャグには高度なものが多く、民話や古事・伝承等に引っかけたものもあるので、ある程度の文化的な知識がないとおかしさがわからないというのがインテリ・高畑らしく、ANIMEとしては海外に輸出しづらいものになっているのが難といえば難。
 狸の二形態変化や人間に変化する際のCGアニメーションも見どころ。 (評価:3) 

製作:松竹
公開:1994年10月22日
監督:深作欣二 製作:櫻井洋三 脚本:古田求、深作欣二 撮影:石原興 音楽:和田薫 美術:西岡善信、丸井一利
キネマ旬報:2位

マーラーをバックにした幻想的ラストシーンは必見
 『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』の設定を併せたオリジナル作品。鶴屋南北は『仮名手本忠臣蔵』の外伝として、赤穂藩士(歌舞伎では塩冶藩)・佐藤与茂七(モデルは矢頭教兼)が義姉・お岩の仇を討つ『東海道四谷怪談』を創作し、中村座で『仮名手本忠臣蔵』と併せて初演された。
 本作はそれを再現しながら、物語と設定は大幅に作り変えていて、塩冶藩士の娘・お岩は映画では湯女、お梅は吉良家臣の孫娘、田宮伊右衛門も幽霊ながら討ち入りに参加する。
 二つの物語を併せているので若干無理があり、忠臣蔵なのか四谷怪談なのか焦点が定まらない。内蔵助の津川雅彦の演技も深みに欠け、伊右衛門の佐藤浩市も主役の演技力に欠け、キャラクター性がはっきりしない。深作の意欲作だっただけに残念。
 お岩の高岡早紀は巨乳も弾ける体当たり演技で、ファンタジックな幽霊を好演する。見逃せないのはお梅の荻野目慶子と祖父・石橋蓮司、乳母?渡辺えり子の妖怪トリオで、本作の幻想性を際立たせる演技を見せる。
 演出的には前半の忠臣蔵はリアルだが、四谷怪談に入るとファンタジックになり、場面転換やメイクアップも舞台的になる。討ち入り後は幻想性が高まり、仇討後に吉良邸の前で伊右衛門の琵琶の音に魂を奪われた表情で立ち尽くす四十七士が名シーン。マーラーの交響曲1番に合わせたミュージックビデオのようなフィルム編集が秀逸。オープニングのカルミナ・ブラーナも上手く使っている。
 テーマ的には時代を変えると意気込んだ男が、時間の経過とともに惰性に生きて日和ってしまう。挫折し、それでもなお思いだけは初志を貫こうとするが、一度ドロップアウトした者は変革者とはなれずに、ひたすら生き続けるしかない、ということか。深作がなにを伝えたかったのか不明。 (評価:2.5) 

製作:疾走プロダクション
公開:1994年9月23日
監督:原一男 製作:小林佐智子 撮影:原一男、大津幸四郎 音楽:関口孝
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

フィクションも癌の前にリアリティを創作しえなかった
 井上光晴の晩年を描いたドキュメンタリーで、テーマは二つある。一つはタイトルにもなっている小説家としての生き様であり、もう一つは撮影開始後まもなく発覚した癌との闘病である。
 もっともこの二つは密接に絡んでいて、虚構の中に小説家としての自分を造り上げた井上が、癌という虚構に取り込めない現実に直面する。両者はコインの裏表の関係にあって、癌は井上の肉体だけでなく虚構もまた侵食する。
 冒頭、井上がフィクションとリアリティについて語るシーンがあり、フィクションが井上の小説の中だけにあるのではなく、井上という存在そのものがフィクションであり、そこに井上のリアリティがあるということが描かれていく。実際、前半では井上の小説のリアリティは井上の体験に根差していると説得されてしまうが、後半それが真っ赤な嘘だったことが明らかになる。
 井上の虚言癖、妄想癖は小説家としては天分で、井上はまさに嘘の中にリアリティを描き出していたということを解明した点で本作は非常に優れた作品となっている。
 ただ、井上光晴という小説家についての作家研究とするには、その作品性からもさほど知名度は高くなく、井上の特殊性を小説家一般に敷衍できるほどでもない。そうした点で、作話を天分とする小説家の一個人を描いたという以上の普遍性はなく、あるいは虚言癖を持つ人間一般の心理や深層に迫っているわけでもない。
 謎なのは、原一男がドキュメンタリーの制作を始めた当初から井上の虚言癖を知っていて、井上と彼の小説の虚構の一体性を描くつもりだったのかということ。
 それが癌の発覚により、癌だけは都合の悪い事実として葬ることができなかった現実に井上が立ち往生したのだとすれば、井上のフィクションも癌の前にリアリティを創作しえなかったということになる。 (評価:2.5) 

天使のはらわた 赤い閃光

製作:ビ​デ​オ​チ​ャ​ン​プ​、​キ​ン​グ​レ​コ​ー​ド​、​テ​レ​ビ​東​京
公開:​1​9​9​4​年​0​9​月​1​0​日
監督:石井隆 製作:酒井俊博、池口頌夫、小林尚武 脚本:石井隆 撮影:笠松則通 音楽:安川午朗 美術:山崎輝、金勝浩一

根津甚八が渋い男を演じるサイコホラー風ミステリー
 ​劇​画​家​兼​監​督​の​石​井​隆​の​天​使​の​は​ら​わ​た​シ​リ​ー​ズ​第​6​作​。​前​5​作​は​日​活​ロ​マ​ン​ポ​ル​ノ​作​品​だ​っ​た​が​、​本​作​は​R​1​5​指​定​。
​ ​カ​メ​ラ​マ​ン​の​土​屋​名​美​(​川​上​麻​衣​子​)​は​、​過​去​の​レ​イ​プ​事​件​で​男​性​恐​怖​症​。​バ​ー​の​マ​マ​(​速​水​典​子​)​と​ス​テ​デ​ィ​な​関​係​に​な​り​、​酔​い​潰​れ​た​と​こ​ろ​を​男​に​ラ​ブ​ホ​に​連​れ​込​ま​れ​、​ビ​デ​オ​に​撮​ら​れ​る​。​し​か​し​目​覚​め​て​み​る​と​男​は​血​ま​み​れ​で​・​・​・​と​い​う​と​こ​ろ​か​ら​サ​ス​ペ​ン​ス​な​展​開​と​な​り​、​果​た​し​て​犯​人​は​誰​か​?​ ​と​い​う​サ​イ​コ​ホ​ラ​ー​風​ミ​ス​テ​リ​ー​。
​「​天​使​の​は​ら​わ​た​」​的​に​は​、​冒​頭​で​ア​ダ​ル​ト​ビ​デ​オ​の​撮​影​シ​ー​ン​、​マ​マ​と​の​濃​厚​な​レ​ズ​シ​ー​ン​が​あ​り​、​フ​ァ​ン​・​サ​ー​ビ​ス​は​忘​れ​て​い​な​い​。​も​っ​と​も​ス​ト​ー​リ​ー​に​は​あ​ま​り​絡​ま​な​い​の​で​、​退​屈​な​ら​早​送​り​も​可​。
​ ​編​集​者​役​の​根​津​甚​八​が​、​敵​か​味​方​か​良​く​わ​か​ら​な​い​男​を​渋​く​演​じ​て​い​る​。​結​末​で​わ​か​る​犯​人​は​そ​れ​ほ​ど​以​外​で​も​な​い​が​、​犯​人​が​わ​か​っ​た​後​の​揉​み​合​い​は​い​さ​さ​か​冗​長​。​ハ​ッ​ピ​ー​エ​ン​ド​の​後​に​思​わ​せ​ぶ​り​な​シ​ー​ン​で​終​わ​る​が​、​や​や​定​番​な​演​出​か​。 (評価:2.5) 

製作:サントリー、テレビ朝日、東北新社、キティ・フィルム
公開:1994年10月29日
監督:渡邊孝好 製作:稲見宗孝、古川吉彦、中川眞次、伊地智啓 脚本:田中陽造 撮影:藤澤順一 美術:稲垣尚夫 音楽:梅林茂
キネマ旬報:3位

居酒屋らしくホロリと酔える人情噺
 山本昌代の同名小説が原作。
 後妻を娶った居酒屋の主人が、死んだ先妻の幽霊に祟られるというコメディで、先妻の幽霊を演じるのが室井滋なので、少しも怖くない。
 余命幾許もない妻に尋ねられて再婚する気はないと断言した気弱な亭主(萩原健一)に、病死した妻が言い遺した言葉が「再婚したら化けて出てやる」というもので、後妻が山口智子となれば、室井が嫉妬するのも無理はないというベストなキャスティングが功を奏して、楽しめるドラマになっている。
 山口が女将さんとなった居酒屋が繁盛するのも道理で、しかも室井が化けて出るのは店が引けた後の新婚夫婦の閨という、商売の邪魔はしないという元女将なりの配慮。
 店に集う常連客に魚屋の八名信夫、博打好きのマンションの大家・三宅裕司、酒屋の西島秀俊で、端役の西島が若い。
 そこにふらりとやってきた蒸発男の橋爪功が加わり、グランドホテル形式で物語は進行。三宅が逃げた女房(余貴美子)の借財のために、巨神戦の野球賭博に有り金をはたくのを見た主人が、先妻に霊力で試合結果を教えてくれるように頼む。
 教えれば二度と化けて出ることが出来ないと断るものの、そこは気のいい室井の幽霊。山口が後妻となったのも訳ありで、出所した元夫(豊川悦司)に付き纏われているのを知って呪い殺し、亭主に試合結果を教えて霊界に身を引くという美談に仕上がっている。
 嫉妬から成仏できなかった室井が、功徳を積むことで煩悩を離れて成仏するというのがミソで、蒸発男も家族のもとに帰り、居酒屋らしくホロリと酔える人情噺となっている。 (評価:2.5) 

製作:讀賣テレビ放送
公開:1994年03月12日
監督:相米慎二 製作:伊地智啓、安田匡裕 脚本:田中陽造 撮影:篠田昇 音楽:セルジオ・アサド 美術:部谷京子
キネマ旬報:5位

ヒューマニズムで子役と三國連太郎の名演が台なし
 原作は湯本香樹実の同名児童小説。
 独り暮らしの老人が死ぬのを見張る3人の小学生が、老人と心を通わせ、死を看取るまでを描く。老人の戦争体験、離れて暮らす妻の話が絡む。
 この手の児童文学にありがちな胡散臭いヒューマニズムは人によって好みが分かれる。老人と子供たちの交流はほのぼのとはしているが、夏休みを返上して老人のほとんど廃屋を甦らせるというボランティアはまるでリアリティがない。修繕のための材料費だけでも相当掛かりそうだが、ファンタジーなので素通りする。
 それだけなら老人と子供のファンタジーで済ませられるし、子供3人と名優・三國連太郎の演技はリアリティを超えた説得力がある。相米の長回しとクレーンを使って俯瞰に撮る映像も彼らを温かく見守るようでなかなかいい。ただ、老人の戦争体験・妻の話が出始めるあたりから雲行きが怪しくなり、ヒューマニズムで感動を取ろうという作為が目立ち始め、予定調和的な老人の死を迎える。
 葬式の場面でのやりとりも作劇が目立って前半の三國の名演を帳消しにしているし、子供の友達がビデオを回す演出的意図がわからない。
 子役3人よりも下手な戸田菜穂の演技が痛い。 (評価:2.5) 

製作:パイオニアLDC、サンダンス・カンパニー
公開:1994年6月11日
監督:金子修介 製作:藤峰貞利 脚本:金子修介 撮影:柴崎幸三 美術:及川一 音楽:大谷幸
キネマ旬報:10位

拒否した組織と集団主義に立ち戻ってしまうラスト
 大島弓子の同名漫画が原作。
 登校拒否の中学生の娘(佐伯日菜子)と出社拒否の義父(佐野史郎)が、何でも屋を起業して成功するまでの物語で、モラトリアムを学校の夏休みに譬えて、ひと夏の間の娘の成長を描く。
 娘が登校拒否になった理由は、苛められていたクラスメイトを助けたら、逆に自分が苛められるようになったというもの。義父の出社拒否の理由は、仕事第一主義と会社の人間関係が煩わしくなったらしいがよくわからない。
 とにかく組織と集団主義を拒否した父娘が二人でハートフルな何でも屋を始めて、悪意ある世間の常識や価値観に立ち向かって行くが、ラストは話を収拾しなければならず、何でも屋は成功して会社組織となる。結局、組織と集団主義に立ち戻ってしまうのだが、そこは素通りしてナレーションで強引に娘の成長物語にしてお茶を濁す。
 この二人に振り回される可哀想な母(風吹ジュン)は、見栄と常識と余暇に生きる平凡な専業主婦だが、夫と娘には同化できず、夫は先妻(高橋ひとみ)との思い出に立ち返ってしまい、最後はストーリーから放り出される。先妻のエピソードについても話は収拾できていない。
 演出的には台詞棒読みなどでキャラクターから人間臭を取り除いて戯画化し、現実離れしたストーリーをファンタジーにして漫画テイストにすることには成功している。 (評価:2.5) 

製作:ユニタリー企画、ティー・エム・シー、ヒ―ロー
公開:1994年10月1日
監督:神代辰巳 製作:豊島幹久、末吉博彦、大谷隆一郎 脚本:神代辰巳、伊藤秀裕 撮影:林淳一郎 美術:澤田清隆 音楽:小田たつのり
キネマ旬報:4位
ブルーリボン作品賞

ハードボイルドな世界に入り込めないと退屈を感じる
 北方謙三の同名小説が原作。
 鉄砲玉として利用され、棒のように生きるだけのヤクザだと自嘲する男・田中(奥田瑛二)が、組長の跡目相続を巡って反骨する話で、棒のように感情を出さず半ばストイックに生きる姿をハードボイルドに描く。
 ハードボイルドなので男は独り言をボソボソ言う以外は寡黙で、ストーリーが説明不足で若干わかりにくい。冒頭、竹中直人がバーテンをするカジノバーで暴れるシーンがあるが、おそらくはみかじめ料を取るための嫌がらせというのがよくわからない。別の組に寝返ろうとした若いモンの話や、覚醒剤を巡る抗争、女たち(永島暎子、高島礼子)との関係なども曖昧で、若頭(白竜)との跡目を巡る自作自演の狂言も主人公視点で描かれ客観がないため、そんなんで本当に騙せるの? という疑念が湧いてしまう。
 匕首で刺された傷を黙々と自分で縫うというようなシーンを始めとして、引き籠り的なヒロイズムばかりが延々と続き、それによって描かれるハードボイルドな世界に感覚的に入り込めないと、テンポとメリハリのなさだけが残り、退屈を感じてしまう。
 結局、自作自演の芝居が奏して田中は跡目相続に成功するらしいが、雰囲気だけで結論を見せないというのがハードボイルドで、制作者自身がハードボイルドに酔っているだけの印象を受ける。
 田中の舎弟に哀川翔。永島暎子39歳の肉体共に崩れた情婦ぶりがいい。 (評価:2) 

四十七人の刺客

製作:東宝、日本テレビ、サントリー
公開:1994年10月22日
監督:市川崑 製作:高井英幸、萩原敏雄、稲見宗孝 脚本:池上金男、竹山洋、市川崑 撮影:五十畑幸勇 音楽:谷川賢作 美術:村木与四郎

豪華キャストが好き勝手に演技をするバラエティ忠臣蔵
 池宮彰一郎の同名小説が原作。市川崑の作品としては観るべきものがほとんどない失敗作。
 失敗の最大要因は2つあって、1つは大石内蔵助に高倉健を起用したこと。完全なミスキャストで、赤穂藩筆頭家老の風格も藩士を束ねていく指導者としての存在感もなく、討ち入り計画を遂行する策士ぶりも聡明さもない。健さんは鉄道員のような市井の朴訥とした庶民を演じるとハマるが、演技が下手なので内蔵助のような役には合わない。かる・宮沢りえとの交情も含めて何を考えているのかわからず、成り行きのまま討ち入りに進んでしまう。  2つ目は肝腎の討ち入りのシーンで、吉良邸がスーパーマリオのダンジョンと化していて、現代風なカッコよさを狙ったのだろうが、壁キックの見せ場もなく興ざめする。
 浅野内匠守が吉良上野介に斬りつけた真相を探るミステリーというのが本作の売りだが、結末は肩透かし。殺陣も迫力がなく、討ち入りまでの緊迫感もない。
 本当に市川崑が演出したのか? と思える点はいくつもあるが、役者の演技の不統一には目を覆う。両極を見ると、柳沢吉保の石坂浩二は大時代的な演技で、高倉健は現代劇の台詞回し。この間に、段階的にそれぞれの俳優の演技があって、それぞれに好きなように演技させている感がある。そういった意味ではそれぞれが個性を発揮していて、井川比佐志と浅丘ルリ子が上手い。 (評価:2) 

製作:松竹、テレビ東京、イメージファクトリー・アイエム
公開:1994年11月5日
監督:竹中直人 製作:櫻井洋三、小林尚武、市村将之 脚本:筒井ともみ、宮沢幸夫、竹中直人 撮影:佐々木原保志 美術:斎藤岩男 音楽:忌野清志郎
キネマ旬報:6位

消防士たちに退屈な作品を救う活躍はできていない
 『無能の人』(1991)に続く竹中直人監督第2作。
 竹中直人より上手い俳優を使わずに、オリジナル脚本でコメディを作ったのが失敗で、使い古しのあざといギャグを連発するが、失笑しか起きない。
 演出も演技も定型的で、不自然なくらいに演技的。まるで素人芝居のようだが、それが漫画的演出なのか、はたまたクソが付くくらいに教科書的なのか判別がつかない。
 シナリオがつまらないので、段取りに合わせてカットを繋いでいるだけに感じられ、次第に退屈してくる。
 そもそも喜劇の出来ない俳優に無理にギャグをやらせているので、演技の硬さだけが目立ってしまう。
 西伊豆と思しき海辺の小さな町の消防士たちの話で、酒とカラオケと女くらいしか生き甲斐のないところに東京から失意の美女(鈴木京香)がやってきて、たちまち男たちを虜にしてしまう。
 その一番が、看護婦に失恋したばかりの石井(赤井英和)で、最後に美女に相手にされていなかったことがわかるが、それまでは誤解しても仕方のないような美女の態度で、石井の恋情を弄んでいるだけの嫌な女なのだが、鈴木京香の美貌に救われている。
 結局美女が心惹かれたのは隊長で寡夫の津田(竹中直人)で、互いに好意を持ちながらもそれぞれの居るべき場所に帰って行くというセンチメンタルなエンディングとなる。
 ひと夏の思い出。しかも恋は実らない淡いラブストーリーという類型で、しかも生々しくなるのを避けるためか、心を癒しに東京から逃げてきた美女の失意の背景が語られず、雰囲気だけで終わる。
 119はタイトルだけで消防士の話にはなってなく、火事も起きない平穏な町に相応しく、消防士たちにこの退屈な作品を救う活躍はできていない。 (評価:2)

ゴジラvsスペースゴジラ

製作:東宝映画
公開:1994年12月10日
監督:山下賢章 製作:田中友幸、富山省吾 脚本:柏原寛司 特技監督:川北紘一 撮影:岸本正広 音楽:服部隆之 美術:酒井賢

ゴジラをバラエティと勘違いした芯の抜けた失敗作
​ ​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第21作​​​、​​​新​​​生​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第6作​​​。よせばいいのに続編をまた作ってしまうという、旧シリーズの失敗に学べない製作。
 ゴジラの細胞が宇宙に飛散してブラックホールを抜けてなんちゃらという、小学生でも腹を抱えて笑いそうな無茶苦茶な科学設定で宇宙怪獣スペースゴジラが誕生してしまう。一方オリジナルゴジラを手懐けようとテレパシーでコントロール実験を始めるが、メンバーの一人(柄本明)がかつてゴジラに親友を殺されたという恨みでゴジラを抹殺しよう血液凝固剤の弾丸を銃に込める。
 ゴジラの島に現れたスペースゴジラがミニラを誘拐。それを取り返そうとするゴジラとの戦いが福岡のミニチュアを破壊して行われ、最後はもちろんスペースゴジラを退治してゴジラは海に去る。
 小美人コスモスの化身フェアリーモスラも登場し、メカゴジラに代わる変形戦闘ロボ・モゲラがウルトラ警備隊よろしく両ゴジラと戦うが、一体どっちが敵なのかよくわからず、ゴジラ同士の戦いも単調。新制作陣が旧シリーズの失敗の原因を検証できていない。柄本明の演技もキャラクターの通俗スタイルばかりに拘る単調な演技で、戦闘シーンを退屈にしている。
 特撮シーンも実写映像にブルースクリーンの怪獣をはめ込むという手抜きで、再びゴジラの名を貶めている。
 シナリオは突っ込みどころ満載。エンタテイメントなら適当な設定も許されるという勘違いと、再びミニラでお子様の歓心を買おうとする芯の抜けた場当たり主義。小堺一機・松村邦洋の出演もバラエティ番組の延長。 (評価:2)

男はつらいよ 拝啓車寅次郎様

製作:松竹
公開:1994年12月23日
監督:山田洋次 製作:櫻井洋三 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫、池谷秀行 美術:出川三男、横山豊 音楽:山本直純

Wマドンナで話もかみ合わないどっちつかずの物語
 寅さんシリーズの第47作。寅次郎のマドンナはかたせ梨乃、満男のマドンナは牧瀬里穂。
 寅次郎は旅の途中、満男は学生時代の先輩に呼ばれて、琵琶湖のほとりでそれぞれのマドンナに出逢う。
 かたせ梨乃は夫婦生活に飽いた妻で趣味の撮影旅行中、足を挫いて寅次郎の世話になるが、知らせを聞いて夫が迎えに現れ、無理やり連れ帰ってしまう。
 寅次郎は単にマドンナの身の上話を聞いて同情するだけの関係で、ラストシーンでは満男と2人、鎌倉に住むマドンナの家の前まで行くものの遠目に何事もない暮らしを確かめるだけに終わる。
 満男のマドンナは先輩の妹で、家業を継ぎたくない先輩が妹の婿養子にと画策するが、こちらは一旦はダメになるものの、妹が柴又に訪ねてきてよりを戻し、続編が作れるようにして終わる。
 第42作からエピソードを満男中心に切り替えたものの、それではシリーズを維持するには難しく、やはり寅次郎のマドンナとの恋は必要ということで、それぞれにマドンナを立てた結果、話が絡み合うこともないどっちつかずの物語になってしまって、制作者の迷いがそのままに作品に出てしまい、シナリオ的にもシーン的にも特段の見所もないという失敗作に終わっている。
 そろそろ幕じまいが必要となったことを予感させる作品で、次が結果的に最終作となった。 (評価:1.5) 

製作:サントリー、ポニー・キャニオン、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ
公開:1994年7月9日
監督:廣木隆一 製作:稲見宗孝、田中迪、岡田裕 脚本:加藤正人 撮影:栢野直樹 美術:山崎輝 音楽:富田素弘
キネマ旬報:7位

性とスポーツを描けばそれが青春という低レベル
 川島誠の小説『800』が原作。
 陸上800メートル走の男子高校選手2人と、女子高生2人をめぐる青春ドラマで、副題はトラック400メートルを2周走ることからで、800メートル走選手の意。
 陸上競技の物語かと思いきや、4人の性愛が中心で、冒頭主人公の龍二(野村祐人)が休憩時間に体育館で女生徒とセックスをしているシーンから始まり、いきなりズッコケる。この後、女子ハードルの選手(有村つぐみ)、自殺した伝説のランナー(袴田吉彦)の恋人(河合みわこ)、ライバルの健治(松岡俊介)の3人が加わったセックスシーンが、そんなことしてないで学生らしく真面目に走れ! と言いたくなるくらいに随所に入る。それにしてもストーリーに全く関係のない冒頭のシーンは、一体何だったのか? 高校生の男の子は穴があったら入れたくなるくらいに性欲が強いということを描きたかったのか? 話が進むにつれて陸上の話はどっかにすっ飛んでしまう。
 性とスポーツを描けばそれが青春だと言わんばかりの低レベルの展開に、伝説のランナーが何で自殺したのかもよくわからず、伝説のランナーと健治がホモだったりとか、近親相姦っぽい妹(白石玲子)とか、龍二はテキヤの息子だとか、道具立ても通俗的な青春映画らしくて、見ていて途中でバカバカしくなってくる。
 おまけに舞台は川崎が中心なのに、説明なしに切り替わるシーンは高校には不釣り合いなグラウンドだったり、突然の湘南の海だったり、わけのわからない道路だったりして、統一感のないロケ地に廣木隆一のこだわりのなさを感じる。
 見ていてこれほど恥ずかしくなる青春映画は、滅多にお目にかかれない。
 どうでもいい役で唐十郎が出ているのが、せいぜいの見どころか。 (評価:1.5)