海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1993年

製作:シネカノン
公開:1993年11月6日
監督:崔洋一 製作:李鳳宇、青木勝彦 脚本:鄭義信 、 崔洋一 撮影:藤澤順一 音楽:佐久間正英 美術:今村力、岡村匡一
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

在日コスモポリタンの笑うに笑えないコメディ
 梁石日『タクシー狂躁曲』が原作。
 北朝鮮による日本人拉致が問題化する以前の映画で、在日コリアン社会と在日朝鮮人の置かれた状況を偏見なしに見ることができる。在日朝鮮人2世の崔洋一は、この映画の後に韓国籍に変わっている。そういった点からも、この映画に描かれる在日朝鮮の主人公と周辺の人物はリアル。冒頭の結婚式のシーンでは、日本人の知らない隣人・在日コリアン社会の姿を見ることができる。
 金こそが何よりも身を守ると信じ、その金に身を滅ぼされる在日の実業家たち。それでも彼らは祖国の統一を夢想し、祖国に帰国した親族に金や物を送り、それを免罪符として生きていく。日本人にはその姿は滑稽ですらあり、コメディとして楽しむことができるが、それは悲劇の上に成立したものでしかない。
 しかし映画はそれを忘れて、在日コリアン社会に馴染めずに血の頸木を離れて生きるコスモポリタンの主人公のラブストーリーを楽しむことを求めているようでもある。岸谷五朗とルビー・モレノがいいが、岸谷の映画的にカッコつけすぎの台詞がマイナス。
 タイトルは劇中に出てくる迷子のタクシー運転手に配車係が尋ねる台詞。帰る場所のない在日コリアンの道しるべでもある。 (評価:3)

製作:松竹、日本テレビ放送網、住友商事
公開:1993年11月6日
監督:山田洋次 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫、長沼六男 美術:出川三男、横山豊 音楽:冨田勲
キネマ旬報:6位

中年労務者の生徒の問題提起には答えられていない
 荒川区の夜間中学校が舞台。
 様々な事情から義務教育を受けられなかった人のために開設されている夜間中学の話で、西田敏行演じるベテラン教師の担任クラスには、中年労務者(田中邦衛)、朝鮮人の小母さん(新屋英子)、中国残留孤児の息子(翁華栄)、不登校少女(中江有里)、不良少女(裕木奈江)、知的障碍児(神戸浩)、事情の分からない青年(萩原聖人)がいる。
 卒業を控え、担任教師が卒業作文を書かせる中で、それぞれの生徒の事情を回想する形で物語は進行するが、中心となるのは中年労務者のエピソードで、一念発起して夜間中学に入学、女性教師(竹下景子)に思いを寄せながら向学心に燃える一途な姿を田中邦衛が熱演。それぞれが個性的な役を好演する中でも群を抜き、主演の西田敏行も霞んでしまう。
 テーマ的には「学ぶ」とは何か、「学校」とは何かで、憲法26条の教育を受ける権利と共に、憲法13条の幸福追求権へと話は及ぶ。
 中年労務者は過酷な人生の末に体を痛め、念願の学校卒業を前に死んでしまう。その彼が幸福だったのかどうかということが最後に議論されるが、おそらくは教育権=幸福追求権という結論を導き出そうとする中で、いささか曖昧になってしまっている。
 山田洋次らしい糞真面目なテーマの作品だが、田中邦衛の熱演もあって人間ドラマとして感動的に仕上がっている。もっとも、思弁に話が傾きすぎていて、夜間中学そのものの実態が描けているわけではない。
 中年労務者の所詮教師と夜間中学に通う生徒は人種が違うという問題提起には答えられていない。 (評価:2.5)

製作:サントリー、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ
公開:1993年12月18日
監督:石井隆 製作:稲見宗孝、岡田裕 脚本:石井隆 撮影:佐々木原保志 音楽:安川午朗 美術:山崎輝
キネマ旬報:9位

余貴美子のヌードと絡みは人によっては見どころ
 石井隆の脚本・監督で、元劇画漫画家らしいアングラ臭の強い設定とストーリー。好みが分かれる作品。
 主人公の紅​次​郎(竹中直人)は元証券マンのエリートだったが、今は代行屋。脱サラした経緯は語られないが、人の役に立つ生き方がしたいというもの。かつてアジアから出稼ぎにきた女たちが住んでいた廃墟に住む。やってきた依頼人(余貴美子)は次郎を罠にかけて情夫(根津甚八)を殺し、死体処理をさせる。情夫は中学からの腐れ縁で、女に縁談が持ち上がったのが理由という、ありふれた動機。情夫の弟分(椎名桔平)が二人を狙い、すったもんだの挙句、女は死体とともに車で海に身を投げるが、終盤は幽霊話。
 演技派が揃っていることもあって、代行屋、ホストクラブ、歌舞伎町、オカマバーというアングラ的人々の世界が受け入れられれば、割とよくできた作品。特に余貴美子と根津甚八が上手い。今では見られない余貴美子のヌードとベッドシーンも人によっては見どころか。
 エンディングで車が引き揚げられるが、ドアに挟まっているものが物語の鍵となっている。 (評価:2.5)

製作:大映、電通、黒澤プロダクション
公開:1993年4月17日
監督:黒澤明 製作:黒澤久雄 脚本:黒澤明 撮影:斎藤孝雄、上田正治 美術:村木与四郎 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:10位

不幸の影が全く差さないファンタジー
 黒澤明の最後の作品。
 内田百閒の随筆が原案で、主人公の先生は百閒。法政大学の教え子による摩阿陀会、ノラの失踪など、実話に基づく。
 物語は昭和18年の教授辞任から始まり、終戦を挟んで教え子たちによる誕生会・摩阿陀会を軸に百閒の身辺の話が綴られ、昭和37年の17回目の摩阿陀会の後、子供の頃の夢を見るシーンで終わる。
 本作を見ていて不思議なのは、空襲警報や焼け出されて掘立小屋に住むシーンこそあるが、教え子の誰も死なず、その家族を含めて全く戦争の影が感じられないこと。また映画は百閒の妻の死と再婚の前で終わっていて、不幸の影が全く差さない。
 そうした点ではファンタジーであって、百閒の洒脱なユーモアやそれを取り巻く教え子たちの憂いなき笑いや会話は、不気味なほどに気持ち悪い。百閒のつまらない冗談にいい年をしたオッサンたちがヘラヘラ愛想笑いをしているようで、これがキャッチコピーの「今、忘れられているとても大切なものがここにある」だとしたら、まるで戦前の全体主義への懐古趣味にしか見えない。
 黒澤は、戦前から時代に迎合してきたといえなくもなく、遺作となった本作は、現実よりもファンタジーを追い求める、ある意味、黒澤の集大成といえる作品になっている。
 百閒を演じる松村達雄が、つまらない冗談を漫談のように聞かせる話術はなかなか見事。これに腰巾着のように纏わりついて、猿回しの芸よろしく愛想笑いをする悲しき教え子に井川比佐志、所ジョージ。この3人で、何とか持っている。 (評価:2.5)

製作:東映、日本テレビ
公開:1993年8月21日
監督:澤井信一郎 製作:高岩淡、漆戸靖治 脚本:宮崎晃、伊藤亮爾、澤井信一郎 撮影:木村大作 美術:井川徳道 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:8位

曲のエピソードを絡めたセンチメンタル・ラブストーリー
 郷谷宏の同名小説が原作。
 滝廉太郎と同時期のピアニスト・中野ユキが、交遊を通して滝廉太郎の23歳の短い生涯を語るという形式の伝記フィクション。中野ユキはヴァイオリニストの安藤幸がモデルで、幸田露伴の妹。伯母として登場する幸田延は安藤幸の姉。滝の遺作となるピアノ曲「憾」がユキに献呈されたというストーリー上の設定から、ピアニストに変更されている。
 曲のエピソードを絡めたセンチメンタル・ラブストーリーは『未完成交響楽』(1933)のパターン。東京音楽学校で出会った二人はピアノのライバルとなり、ユキ(鷲尾いさ子)が幸田延(檀ふみ)に続く2人目の音楽留学生となる。遅れて3人目の音楽留学生となった滝(風間トオル)はライプチヒで壁に突き当たり、同じく卒業を前にして苦悩するベルリンのユキを訪ねて、力を合わせて苦難を乗り越える。
 そうして二人の間に愛が芽生えるが、滝は結核に倒れて帰国。ユキはコンサート・ピアニストとなって欧州で活躍する。
 留学前に「荒城の月」「花」などの歌曲で作曲家としてすでに認められていた滝は、ユキにピアノ曲をプレゼントすることを約束していて、郷里で療養しながら「憾」を作曲するが重篤となってしまう。欧州にいるユキは滝からの最後の手紙を受け取り、その中に未完の「憾」の譜面が同封されていたというラストで締め括られる。
 滝廉太郎の物語だけに、リストやシューマン、ショパン、ベートーヴェンなどのピアノの名曲が数多く挿入されたシーンが続くため、決して退屈しない。ストーリーもメロドラマなので、楽しめる感動作となっているが、ユキを演じる鷲尾いさ子が下手糞なのが若干ドラマに水を差している。
 本郷の古本屋の親父に藤田敏八、滝の両親に加藤剛、藤村志保と配役もバラエティに富むが、オペラ歌手・柴田環として佐藤しのぶが「荒城の月」を歌うのが見どころ聴きどころ。 (評価:2.5)

月光の夏

製作:仕事
公開:1993年6月12日
監督:神山征二郎 製作:佐藤正之 脚本:毛利恒之 撮影:南文憲 美術:春木章 音楽:針生正男

特攻隊員の生真面目な反戦映画を神山征二郎が抒情的に描く
 毛利恒之の同名小説が原作で、実話を基にしたフィクション。
 生き残った元特攻隊員の苦渋を描いたもので、俳優座系の制作らしい生真面目な反戦映画を神山征二郎が抒情的に描く。
 時は1945年6月。激戦の沖縄海上に出撃する学徒出陣の特攻隊員2名が佐賀の鳥栖国民学校を訪れ、今生の別れにピアノを弾く。立ち会った国民学校の教師・公子(若村麻由美、渡辺美佐子)が45年後、廃棄されるピアノの保存を訴えたことから、このエピソードが新聞・放送で反響を呼び、生き残った隊員の一人・風間(田中実、仲代達矢)を探し出す。
 しかし風間が証言を拒否したことから、生き残り特攻隊員たちが振武寮と呼ばれる陸軍施設に収容され、生き恥を晒した責め苦に戦後も苛まれていることを知るというもの。
 ラストは沖縄の海に散った戦友のために、風間が再生されたピアノで思い出の曲、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」を弾く。
 戦後半世紀も経って制作された作品なので、定型的な反戦教育風の説明とステレオタイプな反戦描写があるのが気になるが、ピアノソナタ「月光」や「乙女の祈り」、「故郷を離るる歌」といった曲や歌が演奏され、神山の抒情によるセンチメントに救われている。
 エピソードを追いかけるラジオ局員に石野真子、ライターに山本圭。山本圭の役柄が何十年経ってもそれらしい。 (評価:2.5)

大病人

製作:伊丹プロダクション
公開:1993年5月29日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:中村州志 音楽:本多俊之

意義のある終末への三國連太郎の演技は圧巻
​​ 癌患者への病名告知をテーマにした作品で、現在では告知が一般的となっているが、ひと昔前までは本人に病名を伝えるのは死亡宣告に近いとされ、告知しないのが当たり前だった。
 そのことを知らないと本作のテーマが今ひとつピンとこないが、こういう時代もあったということと、人間は死を前にして生が有限であるということを実感しないと、充実した時間を送れないということを問いかける意味では、テーマは普遍的ともいえる。
 俳優で映画監督でもある男(三國連太郎)は、ともに癌を罹患した夫婦の映画を制作している。血を吐いたために精密検査を受けたところが胃癌だった。しかし、医者(津川雅彦)は本人には胃潰瘍と偽って病名を隠す。癌であることに気づいた男は癌告知を求め、最小限の治療だけを求め、制作中の映画をクランクアップさせて往生を遂げる。
 それまで男は酒と女に現を抜かしていたが、有限の時間の中で初めて妻(宮本信子)との人生を振り返ることができ、充実した死を迎えることになる。
 『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(1989)や立花隆の『臨死体験』がブームになった頃で、本作中でも男が臨死体験する描写があるが、テーマ的に掘り下げられてなく、流行を追っただけの感があるのが残念。
 黛敏郎のカンタータ「般若心経」の演奏と字幕も唐突で、何となく宗教っぽいイメージだけの演出で、死生観を語るまでにはなってなく浅薄な感じ。
 ただ、三國連太郎は圧巻で、どうしようもない男が死を目の前にして最後に人間らしさを取る戻していく姿がチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を見るようで、定型的ラストながら意義のある終末という点では説得力のある演技となっている。 (評価:2.5)

ゴジラvsメカゴジラ

製作:東宝映画
公開:1993年12月11日
監督:大河原孝夫 製作:田中友幸 脚本:三村渉 特技監督:川北紘一 撮影:関口芳則 音楽:伊福部昭 美術:酒井賢

メカゴジラがゴジラ対戦用搭乗型ロボットで復活
​​ ​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第20​作​​​、​​​新​​​生​​​ゴ​​​ジ​​​ラ​​​第​​​5作​​​。大森一樹が外れ、監督・大河原孝夫+特​撮​・​川​北​紘​一コンビ。
 ゴジラでモスラ・キングギドラ・ラドンを使ってしまったら、もう後はない。旧シリーズの轍を踏むかのようなメカゴジラの登場で、新生ゴジラもマンネリに一歩を踏み出すが、東宝にとってはゴジラはトラの子。ゴジラの子・ミニラも動員して売り上げを守る。
 宇宙人登場ではさすがに時代にそぐわないと考えて、メカゴジラは対ゴジラ戦闘用に国連が開発した搭乗型ロボットという設定。ミサイルで敵わないものがロボットで勝てるのかという点は不問にして、アイディアはまずまず。
 アリューシャンの島で恐竜の卵が発見され、ラドンがそれを守るもゴジラがやってくる。京都の研究チームは卵を持ち帰るが、ラドン、続いてゴジラが引き寄せられる。卵が孵化し現れたのは!
 お子様向けの怪獣対ロボットのプロレスを回避し、人間を搭乗させたのは正解。観客も人間主観で戦いを見ることができ(ゴジラ主観の人もいるかもしれない))、長い戦闘もそれほど退屈しない。ミニラの造形も旧シリーズよりはだいぶ改善されている。新生ゴジラ初登場のラドンの扱いが地味なのが残念。
 ミニチュアセットの破壊は四日市・京都・幕張。京都ではさすがに世界遺産の破壊はない。
 主役は高嶋政宏、佐野量子。原田大二郎、中尾彬、川津祐介。モスラの小美人、今村恵子・大沢さやかが等身大の人間で出演。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎の縁談

製作:松竹
公開:1993年12月25日
監督:山田洋次 製作:櫻井洋三 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫、池谷秀行 美術:出川三男、横山豊 音楽:山本直純

男の側が身を引く瀬戸内男二人旅の嫌味のない作品
​​ 寅さんシリーズの第46作。
 満男(吉岡秀隆)の就活から始まり、どこも決まらずに瀬戸内・琴島へ傷心の旅。心配したさくらが寅次郎を送り出すと、満男は半農半漁の手伝いですっかり島の一員。看護師(城山美佳子)のガールフレンドまでできて島に居つく風情。
 ミイラ取りの寅は、満男の寄宿先の娘・葉子(松坂慶子)に出合ってミイラになってしまうという流れ。二人仲良く金毘羅参りに栗林公園と観光をするが、寅は自制気味で満男が仲を取り持とうとして葉子に怒られ、そろそろ引き際と感じた満男と寅が自主的に島を去る。
 どちらの恋も成就しないという『男はつらいよ』の定石に則り、しかもどちらも男の側から身を引く逃した魚は大きいという結末で、男二人旅の嫌味のない作品になっている。
 寅もすっかり老成した感じで、就職面接を次々と落ちるのも納得の満男の頼りがいのない大学生ぶりがいい。
 3月に笠智衆が亡くなっているが御前様は健在で、娘の冬子(光本幸子)=第1回マドンナが登場して不在の穴を埋めているのも見逃せない。
 同年公開の山田洋次監督『学校』に主演した西田敏行も、併映『釣りバカ日誌』の浜ちゃん姿で寅屋の前を通りがかって応援。 (評価:2.5)

製作:パイオニアLDC、プロダクション群狼
公開:1993年2月19日
監督:柳町光男 脚本:柳町光男 撮影:安藤庄平 美術:木村威夫、竹内公一 音楽:立川直樹、溝口肇
キネマ旬報:7位

東京が仮想なら登場人物も語られる愛も仮想
 東京の郊外を舞台に、したたかに生きる中国人留学生(ウー・シャオトン)と在日華人の恋人(岡坂あすか)、パチンコ店を経営するヤクザ(藤岡弘)の3人の奇妙な関係を描くが、今一つ何を描こうとしたのかよくわからない。
 撮影そのものは茨城県などで行われたようだが、大きな駐車場を持つパチンコ店や牛の屠場など東京とは思えない風景が広がり、留学生たちが口にする東京感がまるでない。
 そうした点では『さらば愛しき大地』(1982年)など、柳町お得意の東京近郊片田舎テイストの作品で、タイトルの「東京」は不要。
 こうした仮想感は随所にあって、そもそも中国人留学生に東京近郊片田舎に育った者の臭いが感じられて外国人としてのリアリティがない。在日華人の娘もわざわざ留学生のフリをして日本料理屋で働く理由がわからないし、パチンコ店を経営するヤクザに至ってはヤクザ関係者が全く登場せず、単に中国人2人に優しいチョイワルのパチンコ経営者でしかなく、ヤクザとしてのリアリティが皆無。
 この3人がそれぞれ互いに打算と愛情を持っているというこれまた仮想的な三角関係を描くが、インポのヤクザはそれぞれ2人を気に入っていて、留学生と娘はヤクザに同じあぶれ者としての親近感を抱くという日中友好的な愛について語られ、テーマそのものの仮想感だけが残る。 (評価:2)

機動警察パトレイバー 2 the Movie

製作:バンダイビジュアル・東北新社・イング
公開:1993年08月07日
監督:押井守 脚本:伊藤和典 作画監督:黄瀬和哉 音楽:川井憲次 美術:小倉宏昌

見どころは高層ビルのガラス壁面だが肩に力が入り過ぎ
 TVシリーズ終了後に制作された劇場版第2作。
 ベイブリッジが正体不明のF16改から発射されたミサイルで破壊され、特科車両課の後藤隊長のもとに自衛隊諜報員が訪れる。依頼は行方不明の元PKO隊員で陸自レイバー小隊長の捜索。小隊長は後藤の同僚・南雲しのぶのかつての教官だった。自衛隊と警視庁は攪乱され、都内施設が戦闘ヘリに破壊される。責任逃れに終始する上層部に業を煮やした南雲と後藤は、元PKO隊員の所在を突き止める。
 映像的には高層ビルのガラス壁面に映る飛行体を舐めていくシーンなど、随所にかっこ良さのある演出だが、ストーリーは話を大きくしすぎて収拾がつかなくなっていて、治安出動から南雲と上層部の対立まで説得力のない話が延々と続き、話の主題が逸れまくって退屈する。
 作品の主人公は篠原と野明だが、本作では後藤と南雲が主人公で、大人の話を目指して台詞にかっこつけをした分、会話が「お楽しみはこれからだ」の連続になってしまって、何を言ってるのか意味不明が多い。
 肩に力が入り過ぎて、『パトレイバー』本来の緩さが失われた感。声優に根津甚八・竹中直人を使ったことにもスタッフの力み過ぎが見て取れる。 (評価:2)

製作:讀賣テレビ放送
公開:1993年3月20日
監督:相米慎二 製作:伊地智啓、安田匡裕 脚本:奥寺佐渡子、小此木聡 撮影:栗田豊通 美術:下石坂成典 音楽:三枝成章
キネマ旬報:2位

最大の見どころはこれが映画界入りとなった田畑智子
 ひこ・田中の同名児童小説が原作。
 別居した両親の間に挟まれて揺れ動く11歳の少女の成長を描くが、起承転までの葛藤はともかく、結に至っては少女がどのように両親の離婚を受け入れたのかが漠然としたイメージでしか描かれず、シーン的にも冗長で退屈する。
 起は父(中井貴一)の別居を翌日に控えた前夜の食卓で、人は良いがだらしないのが欠点で、それが離婚の原因であろう父の性格が描かれる。引っ越し当日、別れ難い仲の良い父との娘の関係と、父と母(桜田淳子)のあまり良好ではない関係を承として、両親の修復を工作する少女と母との対立、そして思い出の琵琶湖畔への家族旅行を娘が画策するのが転。
 どうにも修復しない状況に、祭りの夜を一人で過ごした少女が両親の離婚を受け入れるに至る結がどうにも隔靴掻痒で、おそらくは誰でも一人で生きていかなくてはいけないということが大人になることだと悟るということなのだろう。
 少女ないしは少年が大人への扉を開くというテーマと、それが両親の離婚を契機にするという設定のどちらも凡庸で、設定に独自性があるわけでもストーリーが面白いわけでもなく、相米慎二の好きな1シーン1カットが特別生きているわけでもなく、むしろ機微の変化がなくて冗長だったりする。
 敢えていえば夫婦が変わり者で、とりわけ妻が偏狭な性格で離婚やむなしと思えるくらいで、母娘が和解してハッピーエンドという結末が果たして上手くいくのだろうかと不安を残す。
 少女を演じるのが、これが映画界入りのきっかけとなった田畑智子で、最大の見どころ。桜田淳子も本作を最後に芸能活動を休止し統一教会専従となったのも話題の一つ。
 少女の学校担任に笑福亭鶴瓶だが、今三つ。 (評価:2)

製作:バンダイビジュアル、松竹第一興行
公開:1993年6月5日
監督:北野武 製作:奥山和由 脚本:北野武 撮影:柳島克己 音楽:久石譲 美術:佐々木修
キネマ旬報:4位

浜辺の紙相撲と夜の浜辺で花火水平撃ちの印象派映画
 東京のヤクザが沖縄の組の応援に行くというストーリーの北野武のヤクザ映画。一部で評価されたが理由がよくわからない。
 この映画を見て思うのは、北野映画というのは絵画でいえば印象派。ストーリーはどうでもよく、実際、物語にもなっていない。相手の組を乱射した後、海のきれいな沖縄の民家に隠れるが、ほとんど子供の夏休み。北野が単に沖縄で映画を撮りたいというピクニック映画にしか見えない。
 描かれるのは夏休みの絵日記のようで、柳島克己のカメラが沖縄の美しい海を切り取る。その画面構成はカレンダー写真のようで、その中をロングショットで子供大人たちが遊ぶ。印象派のストーリーボードを繋いだだけの映画で、カットの繋ぎも悪く編集も上手くない。
 それを感覚的だととらえ、印象派絵画の個展を見てセンチメンタリズムに浸れるなら、本作を肯定もできるかもしれない。ただ、この映画は沖縄の美しい自然がなければ成立しないし、印象派にストーリー性は期待できない。
 美術展解説風にいえば、浜辺で紙相撲風に遊ぶ絵と、夜の浜辺で花火を水平に飛ばす絵が印象に残る。タイトルのソナチネは音楽の形式のことで、意味不明。これも印象派的なタイトルということか。 (評価:1.5)