海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1989年

製作:今村プロダクション、林原グループ
公開:1989年5月13日
監督:今村昌平 脚本:今村昌平、石堂淑朗 撮影:川又昂 美術:稲垣尚夫 音楽:武満徹
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

原爆症の娘に田中好子の闘病の姿が重なって見える
 井伏鱒二の同名小説が原作。
 叔父の日記による実話を基にした物語で、二次被爆した娘が原爆症で死を直前にするまで。ラストシーンは、叔父が病院に搬送される姪の回復を願って、空に虹が架かるのを祈るという余韻のある終わり方になっている。
 娘が二次被爆したのは黒い雨を浴びたことが主因で、それがタイトルになっている。
 モノクロフィルムと特撮を使った被爆のシーンは、黒焦げの死体やゾンビのように水を求めて徘徊する人々などの地獄絵を今村昌平らしいリアリズムで描き、残酷という概念を通り越した原爆の悲惨さを再現する。とりわけ、娘が船上で黒い雨を浴びる海上から見たキノコ雲は、広島市全体を覆い尽くすスケール感が表現されていて秀逸なシーン。
 爆心地の様子や原爆症で人が次々死んでいく物語を、感情に流されず客観的に淡々と描く今村昌平の制作姿勢は、情緒に流されやすい同種の作品に比べ、本作をより感動的なものにしている。
 アメリカは戦争を終わらせるためだったというが、それならなぜ東京ではなく広島に原爆を落としたのだろう? と今村は小沢昭一に語らせるが、それ以上は深追いせず、むしろ娘との縁談を中心に内なる被爆者への差別が語られ、人間の醜さと悲しさに今村は焦点を当てていく。
 そうした中で、今村作品には珍しい聖母のように穢れなき乙女を田中好子が好演する。弟を小児がんで亡くした田中にはどことなく薄幸の影があって、本作で今村はそれを上手く引き出している。結果的に田中自身が病に倒れて早逝したが、闘病から死に至る田中の姿が本作の娘に重なって見えて、改めて感慨深い。
 村人の小沢昭一を始め、叔父役の北村和夫、叔母役の市原悦子、祖母の原ひさ子らも好演。広島市の地獄絵とは対照に、美しい田園風景に心が和むとともに悲しみが深まる。
 娘の友人となる石造彫りの青年は、井伏の短編『遙拝隊長』からの借用。 (評価:4)

製作:荒戸源次郎事務所
公開:1989年04月29日
監督:阪本順治 製作:荒戸源次郎 脚本:阪本順治 撮影:笠松則通 音楽:原一博 美術:丸尾知行
キネマ旬報:2位
ブルーリボン作品賞

昇華された男の魂が砕け散るボクシング映画
 浪速のロッきーと呼ばれた元プロボクサー赤井英和の自伝的映画。
 ボクシングの試合で頭を強打し、死線を彷徨った主人公(赤井)は二度とボクシングのできない体になる。ボクシングジムを興すがうまくいかず、ボクシング以外に道を見いだせずに再びリングに立つという物語。どつくことしかできない男がボクシングに命を懸ける話で、その心情は一般人には理解不能。ただそれだけの映画だが、ボクシングきちがいの映画と切って捨てられない不思議なものをこの作品は持っている。
 一つには致命的な傷を負い、二度とリングに立てない赤井自身が主人公を演じ、迫真のボクシングの演技を見せること。そこには理屈を超えた、昇華された男の魂のようなものがある。
 もう一つは赤井自身意識不明に陥った試合の対戦相手・大和田正春(イーグル友田役)や、ミドル級チャンピオンの大和武士(清田さとる役)が実際に演じているため、非常にリアルなボクシング映画となっていること。赤井を始め、この二人の演技は決してうまくはないがそれを超えたものがある。
 彼ら演技は素人のボクサーたちの周りを固めているのが、原田芳雄、麿赤児、相楽晴子の俳優陣で、とりわけ元ボクサー役の原田がいい。
 赤井の俳優デビュー作であり、阪本順治の監督デビュー作でもある。ブルーリボン作品賞受賞。 (評価:3)

製作:マックスダイ、ピー・エス・シー
公開:1989年11月18日
監督:大林宣彦 製作:川鍋兼男、大林恭子 脚本:石松愛弘 撮影:長野重一 美術:薩谷和夫 音楽:根田哲雄
キネマ旬報:6位

天安門事件と共に1989年で葬られた残念な作品
 1980年代初め、中国人留学生のために身上を潰して日中友好の懸け橋となった船橋の八百屋の主人の実話。
 貨幣価値の大きく違った当時、彼らのために捨て値で野菜を提供し、さまざまな便宜を図ってあげたために家業は傾き家庭不和となるが、主人が病気で倒れると留学生たちが八百屋を手伝ってくれて、1987年、帰国した彼らに夫婦で北京に招待されるという美談。
 しかし、八百屋の主人にハイエナのように集る中国人留学生と、家族を顧みない自分勝手で人の良すぎる八百屋の主人を見ていると、いかにも大林宣彦が好みそうな偽善的ヒューマンストーリーに見えてしまう。
 この中国人留学生のための無償の努力が今の日中友好に役立ったかどうかは、30年後の中国の大国主義を見ていると否定的になる。
 少なくとも、留学生たちが現在、中国のエリートとして日中友好のために八百屋の主人のような努力をしていれば、この主人の努力も報われようが。
 日中友好のために制作された本作は、1989年6月の天安門事件で北京パートの撮影を中止することになり、方向転換せざるを得なくなる。
 北京パートは日本で撮影したことを劇中で明かし、ドラマともドキュメンタリーともつかない編集が行われ、その思いを37秒の空白シーンに託したと後日、大林は述べているが、公開当時はともかく、時間が経てばその思いは伝わらず、意味のない空白シーンでしかない。
 天安門事件を空白シーンに象徴するのではなく、事件に触れるべきであったのであり、それが今の観客に伝われば本作も時間の経過を長らえることができたが、残念ながら天安門事件と共に1989年で葬られた。
 そうした背景がわかれば、ラストシーンの撮影に参加した留学生たちが、血塗られた故郷に思いを馳せながら流す涙の意味も理解できる。
 帰国した彼らは今どうしているのか、あるいは国外に去ったのか。このわかりやすい美談は完結していない。
 八百屋の夫婦にベンガルともたいまさこ。 (評価:2.5)

機動警察パトレイバー the Movie

製作:バンダイビジュアル・東北新社
公開:1989年07月15日
監督:押井守 脚本:伊藤和典 作画監督:黄瀬和哉 音楽:川井憲次 美術:小倉宏昌

押井守の極私的引き籠り世界観を描くロボットアニメ
 ​も​と​は​ビ​デ​オ​用​ア​ニ​メ​(​ス​タ​ジ​オ​デ​ィ​ー​ン​)​と​漫​画​(​ゆ​う​き​ま​さ​み​)​の​メ​デ​ィ​ア​ミ​ッ​ク​ス​で​1​9​8​8​年​に​制​作​さ​れ​た​作​品​。​原​作​は​メ​イ​ン​ス​タ​ッ​フ​で​構​成​し​た​ヘ​ッ​ド​ギ​ア​。​ゆ​う​き​の​ほ​か​、​メ​カ​デ​ザ​イ​ン​・​出​渕​裕​、​キ​ャ​ラ​デ​ザ​イ​ン​・​高​田​明​美​、​脚​本​・​伊​藤​和​典​、​監​督​・​押​井​守​が​メ​ン​バ​ー​。​後​に​本​作​の​映​画​と​T​V​ア​ニ​メ​が​制​作​さ​れ​た​。
​ ​レ​イ​バ​ー​(​労​働​者​)​と​い​う​搭​乗​型​工​作​ロ​ボ​ッ​ト​が​建​設​工​事​に​利​用​さ​れ​る​近​未​来​東​京​で​、​レ​イ​バ​ー​が​暴​走​す​る​ト​ラ​ブ​ル​が​多​発​す​る​。​プ​ロ​グ​ラ​ム​を​設​計​し​た​技​術​者​が​自​殺​し​、​捜​査​を​始​め​た​特​科​車​両​課​隊​員​・​篠​原​は​男​が​ウ​イ​ル​ス​を​仕​組​ん​だ​の​で​は​な​い​か​と​疑​う​。​篠​原​は​レ​イ​バ​ー​を​製​作​し​て​い​る​篠​原​重​工​社​長​の​息​子​。​特​科​車​両​課​は​レ​イ​バ​ー​を​改​造​し​た​警​備​車​両​パ​ト​レ​イ​バ​ー​の​部​隊​。​主​人​公​の​野​明​と​死​ん​だ​男​の​野​望​を​阻​止​す​る​た​め​に​・​・​・
​ ​東​映​動​画​系​の​マ​ン​ガ​映​画​や​東​京​ム​ー​ビ​ー​系​の​コ​ミ​ッ​ク​ア​ニ​メ​と​は​全​く​異​な​る​劇​場​ア​ニ​メ​の​ニ​ュ​ー​ウ​ェ​ー​ブ​を​歩​ん​だ​押​井​の​初​期​作​品​。​本​作​で​も​押​井​は​、​『​う​る​星​や​つ​ら​』​や​『​攻​殻​機​動​隊​』​の​よ​う​に​元​の​作​品​を​換​骨​奪​胎​し​て​、​自​分​の​世​界​観​を​押​し​つ​け​て​し​ま​う​。​映​画​青​年​だ​っ​た​押​井​の​テ​ー​マ​は​哲​学​的​で​、​そ​れ​を​ア​ニ​メ​で​や​る​こ​と​は​あ​ま​り​観​客​に​期​待​さ​れ​て​い​な​か​っ​た​が​、​ア​ニ​メ​の​可​能​性​を​示​し​た​と​い​う​点​で​評​価​さ​れ​て​い​い​作​品​。
​ ​死​ん​だ​犯​人​の​動​機​を​探​り​な​が​ら​、​都​市​の​近​代​化​と​非​人​間​性​と​い​う​も​の​に​懐​疑​を​示​す​が​、​そ​れ​は​商​店​の​並​ぶ​下​町​や​バ​ラ​ッ​ク​と​い​っ​た​風​景​と​近​代​化​さ​れ​る​都​市​の​対​比​と​し​て​描​か​れ​る​。​刑​事​二​人​が​謎​を​追​っ​て​歩​く​再​開​発​の​街​並​み​を​、​映​像​の​ト​ー​ン​を​白​く​飛​ば​し​て​、​白​日​夢​の​よ​う​に​演​出​す​る​。
​ ​全​体​は​コ​ミ​カ​ル​な​S​F​ロ​ボ​ッ​ト​も​の​だ​が​、​環​境​や​反​戦​・​愛​・​友​情​・​成​長​と​い​っ​た​一​般​受​け​す​る​ア​ニ​メ​の​テ​ー​マ​で​は​な​い​、​押​井​の​極​私​的​引​き​籠​り​世​界​観​が​展​開​す​る​。 (評価:2.5)

製作:パルコ
公開:1989年10月7日
監督:高嶺剛 製作:山田晶義 脚本:高嶺剛 撮影:田村正毅 美術:星埜恵子 音楽:上野耕路
キネマ旬報:4位

沖縄独立論で挫折した年寄りの恨み節でしかない
 琉球の民話に登場する義賊・運玉義留(うんたまぎるー)を主人公に、本土復帰前夜の沖縄の村を舞台に描いた民話風の作品。
 沖縄の森の精霊キジムナーや豚の化身の美女、ニライカナイなどが登場して、自然と一体となった沖縄の神話的世界が繰り広げられ、その中にアメリカ軍高等弁務官や佐藤首相訪米のエピソード、そして米軍軍事物資などを奪って義賊ウンタマギルーが本土復帰でも現状維持でもない沖縄独立を目指す。
 沖縄の神話的世界と1969年の状況とは上手く融合されていて、薩摩支配下の琉球と米軍施政権下の沖縄のアナロジー、その中で民衆のために立ち上がる義賊ウンタマギルーの存在に違和感はない。
 民話的世界観を描くためか、サトウキビの製糖作業や農村風景・売春窟が1969年にしてはいささか前近代的。会話は琉球語が主体となっているが、これも当時としては琉球語を話せるのは年配者だけで若者が話すのはいささか不自然。琉球語の会話には字幕が入るが、外国映画のように意訳・要約になっていて、琉球語の雰囲気が伝わらないのが極めて残念。
 本作で一番残念なのは、アメリカでもヤマトでもない沖縄の独自性がテーマとなっていて、本土復帰運動の中での沖縄独立論が描かれているのだが、1969年時点のものを20年後の1989年に描く意味と意図が理解できない。
 沖縄独立論を提示するのであれば1989年における沖縄の現状を前提とすべきで、本作は本土復帰時の沖縄独立論を懐古しているだけにしか見えず、これでは沖縄独立論で挫折した単なる年寄りの恨み節でしかない。
 民話調ゆえにテンポがいささか冗長。主役のウンタマギルーに小林薫、その妹に戸川純。NHKの朝ドラ『ちゅらさん』でおばぁを演じた平良とみを始め、沖縄出身で周りを固めた俳優陣がいい。 (評価:2.5)

製作:東映
公開:1989年06月10日
監督:舛田利雄 脚本:松田寛夫 撮影:北坂清 音楽:宇崎竜童 美術:内藤昭、柏博之、松宮敏之
キネマ旬報:9位

他の俳優陣が霞む緒形拳と江守徹の名優対決が見どころ
 新聞社を舞台にした松田寛夫のオリジナル脚本。監督は舛田利雄で本格的なストーリーを安心して楽しめる作品。
 昨今の映画監督はみんな小粒で、カンヌやヴェネツィアで話題を作るしかないような四畳半的映画しか撮れなくなった。かつては海外のエセ芸術映画賞など眼中になく、観客を楽しませるだけを考えた大作の撮れる職業的映画監督が何人もいて、舛田もその一人。
 映画そのものは新聞=マスコミ批判をテーマに据えて、新聞社が拡販競争にしのぎを削り、報道よりも経営を優先する姿を描く。四半世紀たってこの映画を見ると、テーマが少しも古びていないことに驚く。ストーリーは多少誇張があって、経営陣がこれだけガタガタしていて外部に漏れないわけはないが、内省することのない新聞の内部構造と体質がわかる。
 物語は社長派(報道)と会長派(営業)の内部抗争を軸に、社長の社葬を任された中間派の取締役(緒形拳)が翻弄される姿が描かれる。叩き上げで胆力もあるが、家庭ではただの夫で、女の尻ばかり追いかけ、情けなくも人間味のある主人公を名優・緒形がコミカルに演じる。友人で野心家の常務をこれまた名優・江守徹が演じ、この二人を軸にストーリーが展開するため、他の俳優は霞んで見える。
 緒形の恋人に十朱幸代、妻に吉田日出子、社長に高松英郎、会長に若山富三郎。ほかに船越英一郎、根上淳、小松方正、芦田伸介、野際陽子、加藤武、北村和夫、中丸忠雄ら。
 若手で佐藤浩市、井森美幸が重要な役を演じるが、駆け出しの演技にしか見えないところに、この映画の厚みが窺える。 (評価:2.5)

ゴジラvsビオランテ

製作:東宝映画
公開:1992年12月12日
監督:大森一樹 製作:田中友幸 脚本:大森一樹 特技監督:川北紘一 撮影:加藤雄大 音楽:すぎやまこういち 美術:育野重一

大森一樹のゴジラ第1作。フランケン高橋幸治も見所
​ ​ゴ​ジ​ラ​第​1​7​作​、​新​生​ゴ​ジ​ラ​第​2​作​。
 監督・大森一樹+特撮・川北紘一のコンビで、演出も特撮も旧来の怪獣映画からグレードアップし、エンタテイメントとして特撮ファン以外にも楽しめる映画に仕上がった。まともな監督が撮れば、映画はお子様ランチやテレビの着ぐるみとは違うということを如実に示した作品。35年目にして、ゴジラ第1作の原点にようやく立ち戻った。
 ビオランテは新怪獣で、薔薇と娘とゴジラの細胞を遺伝子操作によって結合させた生命体で、巨大化して芦ノ湖に居座る。前半は前作の続きで新宿で暴れ回ったゴジラの残した細胞の争奪戦。ゴジラ細胞の特長は不死の再生能力と核エネルギーの摂取。前者は砂漠の緑化、後者は抗核エネルギーバクテリアへの利用。争奪戦のさなかに三原山のゴジラを目覚めさせてしまい、ビオランテとの対決後、若狭湾の原発に食事に向かう。
 今回のミニチュア破壊は大阪が舞台。カメラはローアングルも狙ってパニック映画らしくなっている。抗核エネルギーバクテリアを使ってゴジラを退治するという新しい発想が出てくるが、最後、ゴジラがどこに向かうのかわからずに終わってしまうのが、中途半端。
 白神博士の高橋幸治が存在感あり過ぎで主役に見えてしまうが、マッドサイエンティストぶりが良い。雨のシーンの実験室などフランケンシュタインを思わせる。
 主役は三田村邦彦、田中好子で安心感がある。東宝シンデレラガールの沢口靖子は登場後すぐに変身してしまうので、ボロを出さずにすんでいる。他に高嶋政伸、小高恵美、久我美子。目立たない役の21歳の鈴木京香が、群を抜いた美人ぶりで目立つ。 (評価:2.5)

製作:勅使河原ブロダクション、松竹映像、伊藤忠商事、博報堂
公開:1989年9月15日
監督:勅使河原宏 製作:山内静夫、峰村永夫、渡邊一夫 脚本:赤瀬川原平、勅使河原宏 撮影:森田富士郎 美術:西岡善信、重田重盛 音楽:武満徹
キネマ旬報:7位

日本の心とわかりやすさを追求した大衆演劇
 野上彌生子の『秀吉と利休』が原作。豊臣秀吉の茶頭として仕えた千利休を描くもので、秀吉の不興を買って切腹に至るまでが描かれる。良好だった秀吉との関係を割いたのが石田三成という設定で、朝鮮出兵に慎重な利休の影響力を排除するための主戦派という描かれ方。
 ストーリー的には一つの歴史ドラマという点では面白いが、秀吉の田舎者としての描き方がステレオタイプで誇張が多く、こんな阿保な小者ではとても天下はとれまいというくらいに戯画化されていて、リアリティがないのが辛い。
 この田舎者を山崎努が演じ、大政所の北林谷栄の田舎者ぶりがとりわけ秀演だが、この母親が天下人を育てたのかと思うと、演技を褒めるべきか悩む。
 阿保な秀吉と陰謀家の光成、茶の道に命を賭す利休と、それぞれを際立たせたキャラ作りは大衆演劇としてはわかりやすいが、主題が茶道だけにいささか俗っぽい。
 見どころとしては、戦国武将たちと数寄屋坊主の関係が面白いが、利休のわび茶の現象面は描かれても、当時の茶の湯が果たした役割について、掘り下げられているわけでもなく、わび・さびの日本の心を愛でるだけの歴史ドラマでしかないのが寂しい。
 利休を演じる三國連太郎はそれなりの好演。信長・松本幸四郎、家康・中村吉右衛門、三成・坂東八十助とNHK大河ドラマ的布陣。
 台詞のない茶々にモデルの山口小夜子。観世栄夫、岸田今日子、財津一郎の個性派に、織田有楽斎の細川護煕と話題性だけは豊富。 (評価:2.5)

製作:西友
公開:1989年10月07日
監督:能井啓 製作:山口一信 脚本:依田義賢 撮影:栃沢正夫 音楽:松村禎三 美術:木村威夫
キネマ旬報:3位

こんな解釈もあった千利休・死のミステリー
 井上靖『本覺坊遺文』が原作。当時、西武百貨店を中核にしたセゾングループは美術館や出版などの文化事業に進出し、映画の配給・制作事業も行った。2年後に経営難のキネマ旬報を買収するが、キネ旬3位はセゾングループのイメージ戦略が映画評論家に好感されたのかもしれない。
 千利休の死の謎を弟子の本覺坊と織田有楽斎が解き明かしていくというミステリー仕立ての物語。ただ本覺坊遺文なるものは実在せず、原作は完全なフィクション。夢と現実が交錯しながら時間軸も前後して進行する幻惑的な構成で、それに歴史ファンタジーを感じるか、わかりにくいと捉えるかは微妙なところ。千利休の茶道が武将たちの死とともにあったという視点は面白いが、その窮みとミステリーの答えが死にあったというのはやや牽強付会。
 見どころは京都の寺や自然の美しさ、そして茶室の中のカメラワーク。千利休を演じる世界のミフネは相変わらずの一本調子で、口も上手く回っていないし、やはり武将の役が合っていたのではないかという気がする。織田有楽斎の萬屋錦之介も過剰な演技が鼻に付くし、本覺坊の奥田瑛二も貧相なだけで茶人の風格には遠い。手堅いのは加藤剛・芦田伸介・黄門様の東野英治郎で、上條恒彦が意外にいい。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞している。 (評価:2.5)

赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道

製作:日本アニメーション
公開:2010年7月17日
監督:高畑勲 脚本:高畑勲、千葉茂樹、磯村愛子、神山征二郎 作画監督:近藤喜文 美術:井岡雅宏 音楽:三善晃、毛利蔵人

女同士の争いにはじき出される男の三人三様が人間らしい
 1979年にフジテレビで放映された世界名作劇場のTVアニメ『赤毛のアン』の第1~6話を再編集した劇場版。L・M・モンゴメリの"Anne of Green Gables"が原作。
 モンゴメリの原作に忠実だとされていて、終始ウザいほどにアンがしゃべりっぱなし。ああ言えばこう言う、叱られても過ちを決して認めず言い返すという手の焼ける女の子。実際にいたら張り倒したくなるような女の子を肯定も否定もせず、ありのままに描こうとする高畑勲のリアリズムがいい。
 アンの態度が素直なのか虚勢なのか、本心なのか演技なのか、下心があるのか素のままなのか、一切が混沌としていて、複雑でナイーブな乙女心と肯定的にも、女は生まれながらにして小悪魔と批判的に捉えるかは観客に委ねられる。
 舞台はカナダのプリンスエドワード島で、島の緑の自然を描く背景美術が美しい。
 アンは孤児院からカスバート老兄妹の家に引き取られに来るが、カスバートが求めていたのは農場の働き手となる男の子。手違いからアンを孤児院に送り返そうとするが、アンの情実を絡めた残留工作が幼い頃からの女の逞しさを感じさせて、思わず微笑む。
 アンの下心を見抜く同性の妹マリラ・カスバートとの応酬が面白く、結局は情にほだされたのか、はたまたアンを引き取るというブルエット夫人への対抗心か女の意地か、結局アンを養女にしてしまい、アンが勝利を収めて本作は終わる。
 そうした老若の女同士の戦いが見どころだが、一人マシュウ・カスバートが人の良いお爺さん、というか小娘アンに手玉に取られる間抜け男で、それを好々爺と取るか主体性のないボケ老人と取るかも観客次第。女同士の争いに男だけがはじき出されるが、三人三様でそこはかとなく人間らしいのが良い。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎心の旅路

製作:松竹
公開:1989年8月5日
監督:山田洋次 製作:内藤誠 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

ウィーンでは寅次郎の自由が薄ぺらく見える
 寅さんシリーズの第41作。マドンナは竹下景子で、3回目のマドンナ。ウィーンに暮らす旅行ガイドの役で、山田洋次のお気に入りぶりがわかる。
 シリーズ最初で最後の海外ロケで、寅次郎が面倒を見たエリートサラリーマンの自殺未遂男(柄本明)に慕われ、人生を旅とするための憧れのウィーンに同道することになるというストーリー。
 現地で同じく失意からウィーンに渡った娘(竹下景子)と知り合い帰国を促すものの、現地の恋人に引き留められ、寅次郎がフラれて? 寂しく帰国するというオチ。
 冒頭、満男が浪人して、宮仕えの人生よりも寅の自由に憧れるという導入があり、自殺未遂男、マドンナ含め、個人よりも硬直した組織の論理に縛られる日本社会へのアンチテーゼの形で自由人寅次郎が示されるが、日本を離れた寅次郎が意外にも自由闊達さを失ってしまうのが、制作者の意図に反して面白い。
 その一方で、楽しそうにウィーンの人々と交流する自殺未遂男や、日本を離れた娘の方が寅次郎よりも遥かに自由人に見えてしまい、ストレスを持たない寅次郎の自由が薄ぺらく見えてしまう。寅次郎を海外に連れて行ったことが、却ってこのシリーズのテーマにとっては仇となった。
 ウィーンの観光案内もあり、協力のKLMのために最後にアムステルダムの観光シーンも入れるなど、配慮の行き届いた撮影だが、シナリオ的には嫌味のない程度に上手く処理されている。
 ウィーンの日本人マダム(淡路恵子)の死んだ亭主というのがスパイで、部屋に夫のポートレートとして『第三の男』のオーソン・ウェルズの写真があるのが笑わせる。 (評価:2.5)

鉄男

製作:海獣シアター
公開:1989年7月1日
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也 撮影:塚本晋也、藤原京 美術:塚本晋也 音楽:石川忠

眼鏡のOLが男を追いかけるシークエンスが見どころ
 カルト映画なので、通常の映画の感覚からは何を描いていたのか良くわからないままに67分が終わる。
 合理的な筋書きはなく、精神分裂的なイメージ・カットで繋ぐため映し出される事象を単に追いかけるしかないが、解説には一応ストーリが説明されている。
 強靭な肉体を得ようとしてやつ(塚本晋也)は太腿にボルトを埋め込んで肉体改造を試みるが、腐って蛆が湧く。驚いて外に飛び出すと車に撥ねられる。この時、頭に金属が刺さり、NEW WORLDの力を得る。
 やつは得た力で撥ねたサラリーマンの男(田口トモロヲ)を金属化。更に眼鏡のOLを操って男を襲うが返討ちに遇う。
 男の金属化が進行、ペニスがドリルになり恋人を引き裂いてしまう。男は自身の金属化の原因が、車でやつを撥ねた上に、同乗していた恋人と山林に埋めたことへの復讐だと知る。遂にやつが男の部屋に現われ最終決戦となるが、二人は合体してしまい、世界鋼鉄化を叫ぶ。
 コマ落としやストップモーション・アニメ、合成などを多用したサイバーパンク・ホラーで、眼鏡のOLが金属化しながらサラリーマンの男を執拗に追いかけ、操り人形のように奇妙に体を動かすシークエンスが見どころ。
 金属化のビジュアル・イメージはタイトル同様に『AKIRA』(1988)の鉄雄に連想させ、ペニス等のエロチックな描写は『妖獣都市』(1987)等のアニメーションを想起させるなど、当時流行っていた映像を取り入れていて、本作のアイディア自体には目新しさはない。 (評価:2)

製作:徳間書店、ヤマト運輸、日本テレビ放送網
公開:1989年7月29日
監督:宮崎駿 製作:徳間康快、都築幹彦、高木盛久、脚本:宮崎駿 作画監督:大塚伸治、近藤勝也、近藤喜文 美術:大野広司 音楽:久石譲
キネマ旬報:5位

飛行シーンは見応えがあるが地上のドラマは退屈
 角野栄子の同名児童小説が原作。  魔女の少女は13歳になると魔女のいない町に行って定住しなければならないという決まりにより、キキが家を出て一人立ちするという自立の物語。
 自立するのが少年ではなく少女だというのが如何にも宮崎駿らしいが、自立の方法は箒で空を飛べるという魔女の特技を生かして宅急便を始めるというもので、しょぼいエピソードばかりで大した自立の物語にはなっていないのが痛い。
 生意気な孫娘へ不味そうなニシンのパイの配達を頼んだ老婦人の思いやり、落ち込んで魔力を失ったキキを元気づける絵描きの少女、キキに思いを寄せる少年と、周囲の「やさしさに包まれたなら」自立できるかもしれないという他人本願。
 飛行船事故に遭った少年を助けようとして失った魔力を回復したのが成人の通過儀礼では、本作を見た少年少女に一人立ちの意味は伝わらず、尻切れトンボのラストで誤魔化される。
 テーマに対する掘り下げが浅いのは宮崎作品に共通だが、それでも感動した気にさせる甘ったるい糖衣菓子風の作品作りはさすがで、風でキキのスカートをはためかせてズロースを見せたり、着替えのシーンまで入る。
 極めつけはオープニングの荒井由実の歌で、当時、おしゃれだけれど中身のないニューミュージックと言われたが、本作もそれにあやかっている。
 糖衣を支えるのがキキの声優の高山みなみで、優しい老婆役の加藤治子が絶妙の演技で味付け。
 宮崎が本作の企画に乗った理由は明らかで、空飛ぶ魔法少女の物語で飛行シーンが中心になること。ラストでは飛行船まで登場させ、確かに飛行シーンの演出は見応えがあるのだが、対照的に地上のドラマを退屈にさせている。
 冒頭、強風に波立つ湖面と草原の草、流れる空の雲のシーンは大きな見どころ。 (評価:2)

製作:東宝映画、フイルムフェイス
公開:1989年11月03日
監督:降旗康男 脚本:中村努 撮影:木村大作 音楽:朝川朋之 美術:村木忍
キネマ旬報:10位

世の中の善意だけを信じる女のためのファンタジー映画
 向田邦子の同名テレビドラマ、同名小説を経て死の8年後に映画化された。
 日本が戦争に向かっていく昭和初期を背景に、妻(富司純子)と夫(板東英二)との夫婦愛、夫の友人(高倉健)とのプラトニックラブ、夫と友人の男の友情という、奇妙な三角関係の物語。佐藤春夫が谷崎潤一郎の妻・千代を譲り受けたという昭和初期の「細君譲渡事件」がヒントだったのか。
 妻が夫からもその友人からも愛され、しかも夫と友人は友情で結ばれ、三者が上手くいくという虫のいい関係は、生涯独身で父に愛され続けた向田のファンタジーであって、現実の男にも男女関係にも疎かったのではないか。  本作には男は善人しか登場せず、唯一の悪人のスリ(三木のり平)も憎めない男でいかにも向田らしい。富司と高倉は絶対に男女の関係には進まず、安心感のある三角関係のホームドラマだが、嘘くささは拭えない。
 高倉はもちろんだが、日本アカデミー最優秀助演男優賞を受賞した坂東の演技も上手くはない。高倉が坂東の部下の使い込みの穴埋めに金を渡したり、神楽坂で遊興させたり、芸者に入れ込むのを防ぐために身請けしたりと、それが男の友情だというのも底が浅い。極めつけは坂東の人格を否定する高倉の発言で、友人同士では有り得ない捨て台詞。本作が説得力を持たないのは、二人の演技のせいばかりではない。
 ラストシーンで恋人が徴兵されたことを知った坂東の娘(富田靖子)に「俺が責任を持つから朝まで帰ってこなくていい」とけしかける高倉も無責任なら、それを唯々諾々と見送り感涙する坂東と富司にも呆れる。男はみんな天使で、世の中は善意だけで成り立っているという女のためのファンタジー映画。
 三木のり平の演技がいい。山口美江の芸者も色っぽい。 (評価:2)

男はつらいよ ぼくの伯父さん

製作:松竹
公開:1989年12月27日
監督:山田洋次 製作:内藤誠 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

風来坊の男の旅路から青春ラブストーリーへ変質
 シリーズ第42作。
 渥美清62歳で体調不良もあり、本作を最後に年間2本から1本の制作に移行した。
 出演者の高齢化による制作内容の模索が続いてきた中で、明確な方針転換が示されたのが本作で、ストーリー上の主役は寅次郎から甥の満男(吉岡秀隆)へと移り、それがタイトルにも表れている。
 満男の恋人・泉として後藤久美子が登場、以降最終作の48作まで、寅次郎の失恋物語から満男の恋物語が描かれることになる。
 このため、檀ふみが従来のマドンナ的立ち位置で登場するが、寅との間にロマンスは生れない。
 満男と泉のラブストーリーが中心になる以上、寅が満男の後見人の役回りとして後方に退くのは仕方がないが、『男はつらいよ』シリーズの実質的な看板の掛け替えとなれば、これはもう寅さんシリーズではない。
 浪人中の満男が佐賀に転校した恋人を追って、バイクでツーリングをする物語は一見、寅のフーテン旅に相似するかのように見えるが、これは風来坊の男の旅路ではなく、好きな彼女をひたすら追いかける青春ラブストーリーでしかない。
 満男の乗るバイクが高速道路や国道を失踪しても、商売道具の入ったカバンを下げてローカル線に乗る寅とは別物のツーリングで、何の感激もない。
 そうして変質した旅のシーンを延々見せられても退屈以外になく、山田洋次・朝間義隆のカビの生えた青春論を語られても気恥ずかしくなるだけ。コメディとも言い難い青春映画の中で、つま弾きにされた寅屋の下町人情が妙な違和感を放っている。
 冒頭の列車の老人のイッセー尾形が『男はつらいよ』らしいのが救い。 (評価:2)

キッチン

製作:光和インターナショナル
公開:1989年10月29日
監督:森田芳光 製作:鈴木光 脚本:森田芳光 撮影:仙元誠三 美術:今村力 音楽:野力奏一

原作へのリスペクトなのか揶揄なのかわからない作品
 吉本ばななの同名連作短編集が原作。
 祖母を失って天涯孤独となった少女・みかげ(川原亜矢子)が、性転換した父親・絵理子(橋爪功)を母に持つ雄一(松田ケイジ)に誘われて同居生活を始めるという、現実離れした設定の物語。
 これを少女漫画風ファンタジーに仕立て上げたのが本作で、函館の豪華モダンハウスでの暮らし、ダイニングキッチンというよりはキッチンの中にリビングがあるという、原作に対する森田の解釈がリスペクトなのか揶揄なのかよくわからない作品になっている。
 キッチンのタイトルでありながら生活感はまったくなく、原作では重要なモチーフとなる親子丼もプロローグに登場するだけに終わる。作る料理も初めはお茶漬けながら、あとはフランス料理と中華料理という豪華さ。
 初めは単なる同居人だったみかげと雄一の関係も、みかげが独立して料理研究家(浜美枝)のアシスタントとして働くようになって、恋愛関係へと発展していくという定番の展開。
 先生からのヨーロッパ料理修業への誘いを断り、雄一との結婚を選ぶという、あくまで瞳キラキラ、背景に花びらが舞うという少女漫画へのこだわりを捨てない。 (評価:2)

座頭市

製作:三倶、勝プロモーション
公開:1989年2月4日
監督:勝新太郎 製作:勝新太郎、塚本ジューン・アダムス 脚本:勝新太郎、中村努、市山達巳、中岡京平 撮影:長沼六男 美術:梅田千代夫 音楽:渡辺敬之

主食ばかりのビュッフェのようで胃腸薬が欲しくなる
 子母澤寛の『座頭市物語』が原案。勝新太郎主演の最後の『座頭市』作品。
 勝新太郎自身による監督だが、『座頭市』に懸ける思い入れと監督としての力量は別物で、座頭市の数々の見せ場をデパートのように陳列する勝の座頭市愛はこれでもかというくらいにたっぷり見せてくれるが、満腹の上に無理やり食べさせられると吐きたくなるのと同じで、終盤は胃腸薬が欲しくなる。
 関八州の宿場町を中心とする一帯が舞台で、賭場を荒らした座頭市(勝新太郎)を恨んだ極道の五右衛門(奥村雄大)が、座頭市を亡き者にせんと追いかけ回すというのが物語の骨子で、五右衛門の叔父殺し、座頭市と女親分おはん(樋口可南子)との色事、五右衛門と赤兵衛(内田裕也)一家の抗争、八州の悪徳取締役(陣内孝則)、孤児を集める娘(草野とよ実)、座頭市と親しくなる浪人(緒形拳)、同じく親しくなる前科者(片岡鶴太郎)のエピソードが絡むが、シナリオが無茶苦茶な上にエピソードが脈絡なく語られ、ストーリーとしては辻褄の合わないままに殺陣ばかりの見せ場が続き、予想通りの浪人との一騎打ちもクライマックスとは言い難いほどに呆気なく片が付いてしまう。
 殺陣が主体、ストーリーは間に合わせで繋いだといってよく、樋口可南子はヌードと座頭市との濡れ場のために登場しただけ、緒形拳も雰囲気づくりのためだけの使い捨てで、贅沢というよりは可哀想なキャスティング。
 五右衛門役の奥村雄大は勝新太郎の息子で、無名の息子を世に出すために親子で主演という親バカ作品。撮影中に奥村が真剣で俳優を斬って死なすという事故を起こしたオマケもついた。
 個々のシーンのカメラワークはそれなりに凝ってはいるが、山場ばかりで起伏がない、つまりは平坦で退屈。メインディッシュばかりで箸休めやデザートがない、主食ばかりのビュッフェのようで、仕舞いには飽きる。 (評価:1.5)

製作:松竹富士
公開:1989年08月12日
監督:北野武 製作:奥山和由 脚本:野沢尚 撮影:佐々木原保志 美術:望月正照
キネマ旬報:8位

凡庸なストーリーの習作の域を出ない教科書的作品
 北野武の初監督作品。プロデューサーの奥山和由が先頭に立って斜陽の松竹の方向転換を探っていた時期の映画。奥山は当時副社長で後に社長となる奥山融の次男。融の社長就任により、取締役・専務に抜擢されるが、1998年に親子ともども解任されて松竹を追放された。
 初監督ということで、監督補に天間敏広、監修に黒井和男とPTAがついたが、黒井は当時キネ旬社長として雑誌を挙げて本作をバックアップ。評価もたぶんに政治的な印象。そのキネ旬は経営不振でセゾングループに買収されていた。
 本作は初監督ということもあって習作の域を出ていない。後の北野作品に比べると非常にオーソドックスで教科書的な作りになっているのはPTAのアドバイスの賜物かもしれない。演出は全体に硬く、演技もぎこちない。北野が廊下を歩くシーンなどは演技になっていない。
 野沢尚の脚本は原形をとどめていないと言われるが、ストーリー自体が面白くなく、演出もそれを型通りになぞっているだけ。刑事と妹という組み合わせは野村芳太郎の佳作『昭和枯れすすき』(1975)の高橋英樹・秋吉久美子にあって、いずれも妹が問題児。警察内部のヤクザとの癒着はハリウッド映画にも大阪府警にもあって、それだけでは珍しくもない。手垢のついた物語の唯一の見どころが暴力シーンという荒んだ映画で、公開時には不快感しか残らなかった。人間に内在する暴力願望を描いたと評価する人もいるが、ただキレルだけで深みがない。
 橋を渡るシーンに使われている曲はサティのグノシェンヌのアレンジで、本作で一番印象的。 (評価:1.5)