海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1987年

製作:疾走プロダクション
公開:1987年8月1日
監督:原一男 製作:小林佐智子 撮影:原一男
キネマ旬報:2位

戦争の罪業を引き摺った元兵士たちの人間ドラマ
 1969年に昭和天皇パチンコ狙撃事件を引き起こした奥崎謙三を主人公にしたドキュメンタリー。
 昭和天皇の戦争責任を糾弾し戦友の慰霊を続ける奥崎のドキュメンタリー撮影中に、所属連隊で敗戦後に処刑があったことを知り、一転、真相を解明するために関係者を訪ね歩く奥崎を追うことになる。
 銃殺に関わった下士官や命令を下した中隊長の家にアポなしで押しかけ、時に暴力を振るいながら問い質すうちに、事件の真相が見えてくる展開がなまじのミステリーよりも迫力があり、奥崎の行動の是非を別にして引き付けるものがある。
 ニューギニアで餓死寸前に追い込まれた日本軍部隊が、米兵や現地人の人肉を食べて飢えを凌いだこと、更には籤引きで仲間を食料にした事実が明らかになる。
 ルポルタージュとして、これほど衝撃的で予期せぬ事実解明に成功した作品は少なく、戦争というものの実相を描き出したものはない。
 とりわけ、真相を隠そうとした証言者たちが奥崎に恫喝されながらも、最後には観念して包み隠さずすべてを語るリアリティと、その自白によって浄化された表情に変わるドラマ以上にドラマチックな姿は、感動的ですらある。
 撮影は1982年から1983年にかけて行われたが、同年暮れに偽証した中隊長宅を訪れて息子に発砲、殺人未遂で逮捕され、フィルムはお蔵入りとなるが、奥崎の妻の死後に編集されて、収監中に公開された。
 30年ぶりに改めて見直すと、奥崎の唯我独尊とカメラを意識した暴走ぶりが際立つが、それ以上に、引き出された戦争の生々しい証言の中に戦争の罪業を引き摺った元兵士たちの人間ドラマを見ることができ、今となっては得られない貴重な歴史映像となっている。
 奥崎に強制的に証言させられた元兵士たちのうち、最後に真実を述べた人たちは本作によって人間としての名誉を回復することができている。
 タイトルの神軍は、奥崎が自ら神軍平等兵を名乗ったことから。 (評価:3.5)

製作:小川プロダクション
公開:1987年12月1日
監督:小川紳介 製作:伏屋博雄 撮影:田村正毅 美術:辰巳四郎 音楽:富樫雅彦
キネマ旬報:3位

牧野村という場を中心とした一つの宇宙観
 蔵王山の麓、上山市牧野村に移住した小川紳介が、13年間に渡って撮影したドラマを含むドキュメンタリーで、小川らが行う稲作の記録フィルムと民話で交互に構成される。
 民話は、千年前の灌漑の伝承、それに関係する堀切観音の民話、山の神と道祖神のエピソード、縄文遺跡の発掘、五巴神社の祭神となった一揆の歴史など。
 三里塚から転身した小川紳介が、人間の営みの基本、農業と土地という原点に立ち返り、日本の農業の根本である稲作に取り組むが、稲の開花の撮影、水捌けと病気・収量の相関、改良方法、気温・日照と受粉・生長の関係など、科学映画の趣があって興味深い。
 同時に、稲作と関連した千年前の灌漑の伝承、さらには土地と農民の結びつきからの民間伝承などは遠野物語を髣髴させ、牧野村という場を中心に民俗学・考古学・地誌にまで広がっていく様子が、一つの宇宙観を呈している。
 畑にある縄文遺跡の発掘で神を起こしたと農民がお祓いをする宗教性が、農業と自然信仰の今も変わらぬ結びつきを示していて嬉しい。
 残念なのは方言がやや理解しにくいことと、民間伝承が民話の域を出てなく検証に至らないことで、伝承の事実や背景の説明がなく、稲作の科学性に比べると隔靴掻痒の感がある。
 ドラマには土方巽、宮下順子、田村高廣、河原崎長一郎、石橋蓮司らも出演しているが、牧野村の素人演技の方が土地者のリアリティがある。 (評価:2.5)

製作:伊丹プロダクション、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ
公開:1987年2月7日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰、細越省吾 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:中村州志 音楽:本多俊之
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

芦田伸介の凄みのあるヤクザが本作最大の見どころ
 女性税務署員が国税局査察部に抜擢され、古巣の税務署管轄内の脱税事件を摘発するという物語。
 正義対悪という対立構図を描くある種の刑事ものだが、脱税捜査で査察官が女という設定が斬新で話題となり、この年の映画賞を総なめしたが、それほど突出した出来かというと、話題性に踊らされた感がある。ただ、その後、続編やミンボーの女などが制作されて、女が正義の主人公という、その後の社会派テレビドラマの一つの形式をつくったという点では、画期的だった。
 本作で描かれる脱税事件では、ラブホテル王(山崎努)がターゲットで、現金商売の上、客が領収書を受け取らないという、脱税の構造をわかりやすく説明する。これに対するのが宮本信子演じるマルサの女だが、冒頭の商工業者に対する税務調査ではいささか型に嵌った税務署員を演じていて、それほどリアリティはない。
 本作はリアリティを追求している作品ではなく、刑事ドラマの多くが娯楽性を優先した虚構であるように、エンタテイメント性を追求したあくまでも虚構の犯罪ドラマになっている。
 ラブホテル王の脱税方法や脱税した金をどこに隠したのか、それを査察部チームがどうやって解明・発見するかというサスペンスに主眼が置かれていて、むしろ俳優陣の演技が見どころとなる。
 山崎努は当然として、宮本信子が主人公だけど冴えないバタ臭い女を頑張って演じ、津川雅彦も査察チームのリーダーを如何にも公務員風に演じているのがいい。
 本作でピカ一なのが芦田伸介のヤクザで、交通事故の傷を生かした凄みのある演技は見もの。
 ラブホテル王の脱税の動機が、本当か嘘か息子に財産を残してやることしか自分にはできないというもので、それよりも愛情の方が大事だとマルサの女に諭され、ラブホテル王が改心してすべてをゲロするラストとなるが、本筋からは大きく外れていて、テーマの付け足し感が拭えないのが残念。 (評価:2.5)

製作:松竹
公開:1987年8月15日
監督:山田洋次 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純
キネマ旬報:6位

重量級俳優陣による異色な『男はつらいよ』特別編
 寅さんシリーズの第38作。マドンナは竹下景子で2回目。北海道の獣医の娘で駆け落ちした出戻りの役。
 獣医役に三船敏郎という力の入った作品で、豪快だが朴訥という三船の十八番のキャラクターの存在感が凄い。そのため、喜劇出の渥美清が圧倒されて影が薄くなってしまうのが残念なところ。
 さらに三船の思い人で飲み屋のママを演じる淡路恵子が加わると、物語は完全にこの二人に持っていかれてしまい、年増マドンナに恋する朴訥男の『男はつらいよ』になってしまった。
 単体の作品として見た場合は、これはこれでアリで、とりわけ淡路恵子の演技力に圧倒される。
 寅次郎はこの二人の仲を取り持つ役回りで、善人の寅さんが主役になれずいささか物足りなく、マドンナ・竹下景子への思いも霞んでしまう。
 獣医とママが結婚することになれば寅次郎の役目も終わりで、出戻り娘と二人で家に残るわけにもいかず旅に出る結末になるが、失恋せずに二人の仲を噂されて怒って寅が出て行くというのが今までにないパターン。
 これを知った竹下が同じように怒るという幕切れで、二人の間に恋心があったのかなかったのか不明のままに余韻だけを残すシナリオが洒落ている。
 舞台のほとんどが知床で、柴又の虎屋の面々も霞んでしまうが、重量級俳優陣による異色な『男はつらいよ』特別編。 (評価:2.5)

製作:東宝映画
公開:1987年1月17日
監督:市川崑 製作:田中友幸、市川崑 脚本:新藤兼人、日高真也、市川崑 撮影:五十畑幸勇 美術:村木忍 音楽:谷川賢作
キネマ旬報:5位

溝口健二を演じる菅原文太が本作の見どころ
 新藤兼人の『小説・田中絹代』が原作。新藤監督の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)と対をなす作品で、田中絹代が女優としてデビューする大正14年から、『西鶴一代女』で二人が再起を果たすまでが描かれる。
 女優・田中絹代にスポットを当てた伝記で、新藤主観に基づく伝記という点で小説=フィクションになっていて、一部、田中に関わりの深い人物たちが仮名となっているが、溝内健二や五生平之肋、城都四郎といった仮名にもならない仮名が言い訳くさく、潔さに欠ける。
 映画界の大御所に対する腰の引けた中途半端さが非常に残念で、三國一朗のナレーションによる映画史と田中モノローグによる伝記とが並行するという中途半端さにも繋がっている。
 とりわけ中途半端なのが、田中の出演作のシーンが田中役の吉永小百合によって撮り直されてことで、映画史的記録性が押し出されているために、甚だしく違和感を感じる。『伊豆の踊子』に至っては、吉永自身の出演作品もあるだけに、一瞬どちらのヴァージョンかと困惑してしまう。
 話自体は田中の男性遍歴と女優観、溝口との関係が興味深いが、演じる吉永にどうしても田中の姿をだぶらせることができない。頑張ってはいるが、吉永は吉永小百合しか演じられない女優で、基本的な部分でミスキャストであったと思われる。一方で溝口を演じる菅原文太が上手く、二人が喧嘩を始めると、どうしても溝口に正当性があるように思えてしまう。
 演出論を含め、人間的な長所、欠点を持った映画人・溝口を説得力をもって演じる菅原文太が本作の見どころで、この部分だけを見ると、女優・田中絹代よりも、むしろ監督・溝口健二を描いた映画になってしまっている。
 前半の説明調な台詞はやや興ざめ。逆光を使ったり、褪せたカラーシーンは市川らしいが、使った意味がよくわからないのも市川らしい。 (評価:2.5)

製作:東映、今村プロダクション
公開:1987年9月5日
監督:今村昌平 脚本:今村昌平、岡部耕太 撮影:栃沢正夫 美術:横尾嘉良 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:7位

棄民がテーマだが今ひとつすっきりしない今村節
 明治後半から昭和にかけて、東南アジアで娼館を経営し女衒などをしていた村岡伊平治の半生を描く作品。
 貿易商の夢を抱いて島原から香港にやってきた伊平治は、日本領事館の上原大尉に皇国のためと説き伏せられて対露密偵として満州入りする。同郷の娼婦を情報提供者に仕立てたものの惨殺され、上原は伊平治を置いて逃げるが、この時の上原の教えがその後の伊平治の行動原理となる。
 娼婦たちは帝国のアジア進出の捨て石となる先兵というもので、娼婦のアジア輸出もまた貿易なりと伊平治は貿易商の志との一致を図り、国営娼館の設立を領事館に働きかける。
 伊平治の思い込みを通して、国家と国民の関係を炙り出そうというのが今村の狙いで、国家のために働いたつもりの伊平治は、領事に蔑まれ、近代国家としての体裁を重んじる政府の方針転換によって見捨てられ、落ちぶれてなお報国の志を捨てないという哀れな男の末路を今村節で描く。近代日本のアジア進出の負の役割を担いながら、国家によって棄民される人々がテーマ。
 娼婦たちも、転んでもただでは起きない逞しい女たちというのが今村節だが、それを強調するあまりに娼婦たちの境遇や悲劇は描かれない。赤線や娼婦に対して一種の美化に近いノスタルジーを抱く人たちがいて映画人にも少なくなく、『サンダカン八番娼館 望郷』等に描かれる負の側面を無視しがちだが、戦争に付随する娼婦についても今村節もこれに倣ってしまう。
 そうした思いがついて回るのと、伊平治を演じる緒形拳が女衒の親分としては若干線が細く、倍賞美津子の娼館の女将の人物像が描き切れていないのと併せて、今ひとつすっきりしない作品になっている。 (評価:2.5)

製作:ディレクターズ・カンパニー、フジテレビジョン、ソニービデオソフトウェアインターナショナル
公開:1987年11月21日
監督:根岸吉太郎 製作:三ツ井康、岸栄司、宮坂進 脚本:内田栄一 撮影:川上皓市 美術:寒竹恒雄 音楽:野力奏一
キネマ旬報:4位

映画そのものが自分探しの旅に出ている感がある
 佐藤正午の同名小説が原作。
 結婚する理由は安定した公務員だからと婚約者から告げられた宏(時任三郎)が市役所を辞めて、自分探しの旅に出るという物語。
 競輪場で出会った良子(大竹しのぶ)が車券のラッキーガールと知って付き合い始めるが、良子もまた「好きだ」と言われたことのない出戻り。
 こうして自分が見つからないモラトリアムの男女が同棲を始めるが、自分は1/2で、自分の知らないもう1/2=分身がいると感じている宏が、自分とそっくりだが無口で悪人な正反対の性格の陰画のような修治という男の存在を知り、その姿を追い求める。
 修治に逃げられた女子高生・いづみ(中嶋朋子)のために修治を演じるが、それが分身ではないことに気づき、良子とともに自分探しの旅を終えるというストーリー。
 もっとも最後まで宏の自我も分身像も曖昧で、自分探しの旅は永遠に終わらないというのが結論なので、見終わっても胸のつかえが降りない。
 良子は津田塾卒のインテリでモーツァルトや文学好きだというのも、大竹しのぶがインテリ女に見えず嘘くさい。同棲をやめた途端にモーツァルトが嫌いになるというのも似非っぽく、28歳の出戻りにしては少女のような演技でカマトト臭がする。
 九州が舞台の割には地方感がなく、東京近郊のような空気が漂うのも嘘っぽくてリアリティがない。
 コミカルな展開なので作品そのものは楽しめるが、細部のツメが甘くて映画そのものが自分探しの旅に出ている感がある。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎物語

製作:松竹
公開:1987年12月26日
監督:山田洋次 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

『次郎物語』+『母を訪ねて三千里』では人情喜劇にならない
 シリーズ第39作。マドンナは秋吉久美子。
 下村湖人の小説『次郎物語』をもじったタイトルで、次郎ならぬ秀吉という少年が登場、寅次郎とともに母を訪ねて三千里の旅物語となる。
 秀吉の名づけ親は寅次郎。渡世人仲間の秀吉の父が死んで見なし子となり、DVから失踪した母親の消息を追って、和歌山、吉野、志摩を巡る。吉野で知り合うのが秋吉久美子で、全国巡回の美容師。秀吉が肺炎となった際に、看病を手伝ってくれる。
 この時の医者に2代目おいちゃんの松村達雄がゲスト出演。失踪した母に五月みどりの配役となるが、寅さんも59歳。マドンナの秋吉も33歳で、今更の恋愛騒動にもならず、失恋して傷心の秋吉が甘える程度の関係にしかならない。
 倍賞千恵子もすっかりオバサンで、寅屋にも若さが必要ということで、タコ社長の娘として33作から登場の美保純も、これが最終作となる。
 マンネリに加えて、レギュラーの年齢が上がったことによる停滞期の作品で、それでも斜陽の松竹の要請に応えてシリーズを続けなければならないという苦労が滲み出ていて、シナリオも出演者も良い演技をしているにも拘らず、肝腎の寅さんの精彩がない。時折、ギャグをかますものの、『次郎物語』+『母を訪ねて三千里』の母子ものでは湿っぽい話にしかならず、お涙頂戴の人情ものとしてはそこそこの出来になっているものの、人情喜劇が核心の『男はつらいよ』としては楽しめない。
 天王寺の交番のおまわりさん役にイッセー尾形。 (評価:2.5)

ゴンドラ

製作:OMプロダクション
公開:1987年10月12日
監督:伊藤智生 脚本:伊藤智生、棗耶子 撮影:瓜生敏彦 音楽:吉田智

小児性愛者の影がチラついて清浄な目で見られない
 監督の伊藤智生が、主演の小学生・上村佳子と出会ったことから生まれた自主製作映画で、学校の友達とも家庭の母とも馴染めない少女が、たまたま自宅マンションをゴンドラで窓拭きしていた青年と知り合い、母と喧嘩して青年のアパートに転がり込む。夏休みとあって、青年は少女を連れて下北に里帰り。田舎の生活と美しい自然の中で、少女の心を開かせるという物語。
 窓拭きの青年も都会の孤独にいて、ビルの窓ガラスの内側の世界、高層ビルから見下ろす豆粒のような地上世界から隔絶されている。
 そうした二人だけが互いの心を理解し合えるというものだが、二人とも寡黙で自身の物語を含めて観客に対する説明はなく、二人の間にドラマがあるわけでもない。
 与えられる手掛かりは、少女の両親は離婚していて、作曲家である売れない父がくれた譜面だけが心の拠り所で、同居する母からも疎外されている。
 飼っていた小鳥が死んでしまい、それがきっかけで青年と知り合うが、亡骸を手許から離すことができずに持ち歩く。そうして青年の郷里の海を見て漸く心を開くことができ、小鳥を箱舟に乗せて海へと送り出す。
 少女と青年の行動をカメラは延々と追うだけで、むしろ映像で物語ろうとする。ゴンドラから見た景色、廃墟、鉄路、海などの風景とコンポジションは凝っていて、絵で見せるという演出の意図は成功して、最後まで見せきる。
 もっとも青年がなぜに少女に興味を持ったかという点は不自然で、『ペーパー・ムーン』(1973)などの疑似父娘ものと比較しても、青年に小児性愛者の影がチラついてしまい、美しい下北の海ほどには清浄な目で見られない。 (評価:2.5)

製作:東宝映画、日本テレビ放送網
公開:1987年10月31日
監督:市川準 製作:小倉斉 脚本:内館牧子 撮影:小林達比古 音楽:板倉文 美術:市川敏明
キネマ旬報:8位

人形振りで頑張る富田靖子の姿が痛々しい
 市川準の初監督作品。脚本は内館牧子。タイトルは主人公の女子高生の性格ブスから。
 母とうまくいかない少女(富田靖子)が上京して叔母の置屋を手伝いながら高校に通う。ネクラでコミュ障のため、クラスでも置屋でもうまくいかない彼女が文化祭の出し物「八百屋お七」を引き受けることから殻を抜け出していくという物語。
 内向的な少女の極めて内向きな映画であるためテーマが一般化されず、ネクラでコミュ障な人、又はそのような人を身近に抱えていれば共感できるが、そうでない人にはどうでもいい話。
 舞台設定が置屋というのもシュールで、浅草なのか神楽坂なのか、もっと海沿いなのか判然としない。渋谷から浦安まで撮影場所はバラエティに富むのだが、CMのように絵になる背景だけを求めているので生活の場が判然とせず、少女の日常はまさに浮草のように漂う・・・というよりシーンが繋がらない。少女が置屋の老人と仕事中に八百屋お七の墓を訪ねるシーンがあるが、白山近辺に花街はなく、都合の良いシナリオに白ける。
 文化祭の出し物が八百屋お七で、しかも少女の一人舞台というのもシュール。櫓のセットやお七・黒衣の立派すぎる衣装があって、とても高校の文化祭とは思えない。高校には珍しいボクシング部が文化祭での試合とか、ご都合主義も極まっている。
 シナリオ的にはお七の舞台はアクシデントで失敗するが、お七の情念が乗り移ったかのように少女はキャンプファイヤーに火を放つ、といったようにいささか観念的。翻れば、市川が映画にしたかったのは櫓のお七で、物語はそこから発想されたように思える。
 櫓のお七はこの極私的映画の中の見どころだが、人形振りで頑張っている富田靖子の姿が痛々しい。 (評価:2)

私をスキーに連れてって

製作:フジテレビジョン、小学館
公開:1987年11月21日
監督:馬場康夫 製作:三ツ井康 脚本:一色伸幸 撮影:長谷川元吉 美術:和田洋 音楽:杉山卓夫

バブル期の軽佻浮薄を絵に描いたお気楽映画
 若者たちがマイカーを所有し、猫も杓子も軽井沢のテニスと苗場のスキーに出かけた、日本がバブル景気に沸いた真っ只中に制作されたのが本作で、そうした軽佻浮薄をまさに絵に描いた作品。
 主人公は商社マンの矢野(三上博史)。週末のスキーに熱を上げ、担当の仕事はテキトー、他部署のスキー商品SALLOT販売のために残業するという趣味人間。高校時代のスキー仲間とクリスマスに志賀高原焼額山スキー場に行き、ゲレンデで出会った優(原田知世)を見染めてしまう。
 これが偶然にも同じ会社の秘書課の女の子で、以下は2人のラブストーリー。バレンタインに仲間達と志賀高原横手山スキー場に出かけるも、同じ日に矢野が手伝っていたSALLOTのお披露目会が万座温泉スキー場であって、妨害から商品が届かず、急遽自分たちが使っていたSALLOTを届けるというストーリー。
 基本はアイドル映画なので、ストーリー性やシナリオの整合性は気にせず、スキーウェアを始めとした原田知世の着せ替えシーンを楽しむのが正しい鑑賞法。併せて当時の若者風俗をマックス描くため、スキーの滑走シーンとスタントに近い雪道ドライブシーンが見どころで、それらを楽しむためのお気楽映画といえる。
 最大の見せ場は横手山から万座に至るスキーツアーコースの夜間滑走だが、映像を見ると出発と到着以外のシーンは実際のコースでは撮影されていない。 (評価:2)

製作:ヤングシネマ’85共同事業体、大映、ディレクターズ・カンパニー
公開:1987年10月24日
監督:相米慎二 脚本:田中陽造 撮影:長沼六男 美術:小川富美夫 音楽:三枝成章
キネマ旬報:9位

バブルの狂った時代に制作された映画に相応しい80年代的シュールな作品
 小檜山博の同名小説が原作。
 北海道から熊みたいな大男が裸足に半裸で上京し、台場の埋立地を歩いているとゴミの山の上でオペラを歌っている女がいて、ゴミの山の裾には伴奏するピアニスト…というゴダールか寺山修司もどきの80年代的シュールな作品。
 オペラ女・芳乃(秋吉満ちる)にゴリラと形容される大男・仙作はプロレスラーの武藤敬司で、尻内(すまけい)が経営するデスマッチクラブで格闘試合に出場。
 このクラブがバブルの頃を象徴するような見世物小屋的デカダンスで、格闘技にオペラ、演歌に大衆舞踊とごった煮。狂った時代に制作された映画に相応しく、半世紀後には時代遅れの近未来映画を見ているようで尻がムズムズする。
 ディレクターズ・カンパニー作品ということで、肩に力が入りすぎ、空回りしている感があり、要は北海道から上京した娘や若者が、バブルな都会に毒されて腐敗していくという一行で済むような内容。中盤からは蛇足に蛇足を重ねる相当に退屈な時間が流れる。
 都会の毒の象徴が尻内で、仙作の婚約者・栗子(安田成美)をシャブ漬けにして離れられない体にする。その栗子を仙作は北海道に連れ戻そうとするが断られ、故郷に戻る。
 大衆舞踊の女形・赤沼(出門英)も北海道の元漁師で、尻内に首を切られ、失意のままに焼身自殺。それを仙作と勘違いした栗子も自殺未遂で半身不随となり、精神を病んで死亡。
 上京して尻内への復讐を遂げた仙作は、人々を浄化する天使の歌声の芳乃と共に北海道に戻り、自然と動物と農業のユートピアな生活を始める…というバブルの時代を鏡に映したような作品になっている。 (評価:2)