海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1949年

製作:新東宝、映画芸術協会
公開:1949年10月17日
監督:黒澤明 脚本:黒澤明、菊島隆三 撮影:中井朝一 音楽:早坂文雄 美術:松山崇
キネマ旬報:3位

淀橋浄水場や現役の川上哲治を見られる貴重映像
 敗戦後を舞台にした刑事ドラマで、拳銃をスリに盗られた新人刑事(三船敏郎)がそれを取り戻すべく東京中を駆け回る。そうした中で当時の東京の様子が見られるのが大きな見どころとなっている。
 上野公園や日比谷、淀橋浄水場、鶴見線国道駅構内、練馬区など23区内の郊外の緑豊かな田園風景などが出てくる。野球場で拳銃ブローカーを捜すシーンがあって、当時の後楽園球場と現役時代の川上哲治も見られる。
 新人刑事はスリ常習犯の女、拳銃貸しの女、闇ブローカー、レビューの踊り子(淡路惠子)を経て犯人(木村功)に辿りつくが、すでに拳銃は使われていて強盗殺人で主婦が死ぬ。犯人が待合にいるのを突き止めてというところでクライマックスを迎えるが、スピード感のある編集とスリリングな展開が上手く、一級の娯楽作品に仕上がっている。
 そうした中で、先輩刑事の志村喬の家で寛ぐほのぼのシーンが絶妙に緩急の味を出していて上手い。全体には熱血刑事を演じる三船の勢いで見せるが、演技はあまりうまくなく、志村喬の味のある演技が支える。
 戦後間もないこの作品で、黒澤明は単に娯楽作品としてでなく、再建に向けて歩み始めた日本人へのメッセージを込めた。
 主人公の刑事も犯人も共に復員してきて荷物を盗まれてしまう。そうした同じ立場の中で、一人は社会悪と闘う道を選び、もう一人は悪には悪を以て生きる道を選ぶ。国家が犯した戦争によってすべてを失った日本人が、生存のために国家と社会に復讐する道を取るのか、それでも倫理を失うべきではないと考えるのか、当時の日本人が置かれた立場を示しながら、主人公の刑事は反問し、ベテラン刑事は悪は悪だと斬り捨てる。
 このテーマの立て方は、当時を思えば尚更で、しかしいつの世にも通じるテーマで、ベテラン刑事の意見が正当であるとしても、簡単には割り切れない。 (評価:4)

製作:松竹大船
公開:1949年9月13日
監督:小津安二郎 製作:山本武 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

小津の描く日本の知性が伝わってくる
 広津和郎の小説『父と娘』が原作。小津が原節子と組んだ最初の作品。
 その後の父娘ものの原型となるが、静と動を印象的に使ったカット編集やカメラアングルなど、小津スタイルの定着をみることができる。とりわけ、静-静-動というカットの繋ぎは、一見まったりとしたローテンポの演出にも拘らず、見る側を決して飽きさせないばかりか、切り取った絵の情感のタメが効果的で、人物が動き出すシーンで一気に惹き込まれるという、計算つくされた演出に改めて感心する。
 物語は、こうした演出を基に古都・鎌倉を舞台に父娘の情感をたっぷりに描き出す。その父に笠智衆、娘に原節子というはまり役で、29歳の原は当時としては若干行き遅れで、親友(月丘夢路)は既に出戻っている。
 父は妻に先立たれ、娘は父の世話をすることに生き甲斐を感じているが、娘を気遣う父は嘘の再婚話で娘に見合いを承諾させ、嫁に出す。
 本作は父と娘のラブストーリーで、そうした点では娘を持つ父親には夢のような設定で、父を愛する娘は嫁に行かず、父は娘を愛するが故に幸せな人生を掴むように説得する。
 本作以降に作られる小津の作品は、このような父から見た理想的な娘との関係を描いたもので、『東京物語』では父と息子の嫁という形に置き換わる。
 このような小津の一連の作品に共通して見られるのは、小津の鋭い人間観察眼と家族の理想像の追求で、それが小津の知性と教養に裏打ちされたものであることが、本作を見ているとよくわかる。
 カメラの構図や切り取られた静物画、それらは鎌倉や京都の風景から選び抜かれた知性そのもので、誰にでも真似のできるものではない。
 小津の描く日本の知性そのものが世界的に認められたことを、本作で再認識させられる。 (評価:4)

製作:新東宝
公開:1949年10月4日
監督:稲垣浩 製作:稲垣浩 脚本:稲垣浩 撮影:安本淳、岩佐一泉 美術:堀保治 音楽:西梧郎
キネマ旬報:5位

障害児に対する似非ヒューマニズムよりは遥かに人間的
 田村一二の『忘れられた子ら』が原作。
 新任の青年教師が、そうとは知らずに特別学級を担任することになり、手探りで知的障害のある子供たちを育てていく物語。
 当時としては普通だった低能児等の差別的な表現はあるものの、逆に彼らに人間としての尊厳や個性・能力を虚心坦懐に見つめることで、現在の障害者に対する似非ヒューマニズムよりは遥かに人間的で感動的な作品になっている。
 青年教師・谷村(堀雄二)は特別学級を担任することになり、教師としての門出の出鼻をくじられた思いで、低能児である児童たちに物を教えても無駄という姿勢で教育はほったらかし。自分はカンバスに向かって趣味の絵ばかり描いている。
 そんな彼を変えたのは天使の歌声を持った女児で、それぞれの児童にそれぞれの個性や能力を発見した谷村は、歌を作って合唱指導を始め、親にも見放されている子供たちに洗顔や歯磨きの生活指導をし、彼らが社会に出て役立てる人間にしようと考え始める。
 当初は2年間の担当と残りの日々を数えることに慰めを見出していた谷村は、やがてそれも忘れ、満二年が経過して校長(笠智衆)から担任替えの話に、障害児教育に続けることを望むと返事する結末。
 現在の人権感覚からは、知的障害児を抱えた親たちが子供を継子扱いする社会状況が虐待や人非人のように映るが、原作は戦前、映画は終戦後間もなくの制作で、日本人の多くが貧しくて生きていくのに必死で、子供の人権を考える余裕のなかった時代がつい昨日だったことが改めて思い出される。
 そうした中で、見捨てられた障害児たちに同じ人間として手を差し伸べようとする教師、忘れられた子供たちに光を当てようとする映画人の戦後民主主義の息吹が感じられる良心作となっている。 (評価:3)

製作:東宝、藤本プロ
公開:1949年7月19日、1949年7月26日(續 青い山脈)
監督:今井正 製作:藤本真澄 脚本:今井正、井手俊郎 撮影:中井朝一 美術:松山崇 音楽:服部良一
キネマ旬報:2位

戦前から戦後への人間復興を謳い上げる
 ​石​坂​洋​次​郎​の​同​名​小​説​が​原​作​。​5回映画化されている中の最初​の​映​画​化​で​、​主​演​は原節子​・龍崎一郎・杉葉子・池部良​、​監​督​は​今井正​。
 物語は正編の「新子の巻」、続編「雪子の巻」に分かれている。正編は学校と理事会が女​教​師​(原節子​)を吊し上げる前夜まで。
 男女交際を不純と考える東北の町を舞台に、健全な男女交際を是とする戦後の新しい価値観を掲げる女教師が、学校や生徒、町の有力者を相手に奮闘する姿を描く。女教師の応援団に付くのが校医(龍崎一郎)と校医に好意を寄せる町の芸者(木暮実千代)と妹の女生徒(若山セツ子)で、木暮実千代が上手い演技を見せる。
 これまで性を抑圧してきた素人女が性的魅力を振りまく新時代となれば芸者は廃業だが、それが正しい在り方だという木暮の言葉が本作のすべてを表していて、人間性を抑圧してきた戦前の価値観から、人間性を解放する戦後価値観への転換を訴える。
 本作にはそうした人間復興、ルネッサンスの気分が漲っていて、戦後70年を経ても当時の息吹が伝わってくる名作となっている。
 正編は非常にテンポの良い演出だが、続編はやや冗漫なところがあって、上映時間から正続に分けざるを得なかったプログラム・ピクチャー時代の悪弊が出てしまっている。本来なら1本の映画に今井自身が再編集版を作っておいてほしかった。
 町のボス、理事長(三島雅夫)との対決の結果はすっきりせず、事件の発端となった女生徒の反省という八方丸く収まるのも、敵味方相和す戦後民主主義的大団円といなくもないが、それを越えたルネッサンス讃歌となっている。 (評価:2.5)

製作:新東宝
公開:1949年11月8日
監督:清水宏 製作:岸松雄 脚本:清水宏、岸松雄 撮影:鈴木博 美術:下河原友雄 音楽:古関裕而
キネマ旬報:10位

価値観との対立を通して戦後日本の精神の変容を描く
 小原庄助は会津民謡に登場する人物で、本作も会津が舞台か。
 主人公の杉本左平太は村の名家の当主で、唄の通りに朝寝、朝酒、朝湯が大好きなグータラで、村人たちからは小原庄助さんと綽名されている。
 村人たちが困っていれば助けるのは名家の当主の義務と考えているため、頼み事は何でも引き受けてしまい、今や破産寸前。借財は膨れるばかりで、借金の催促にも逃げ回る有り様。
 村長選挙が近づき、近代化の遅れた農村の文化向上を政策に掲げる次郎正から応援演説を頼まれ、保育所など村民の福祉向上を条件に引き受けるが、村人たちからは佐平太が立候補するように迫られ、仕方なく友人の寺の和尚を代理に立てるが落選。ところが当選した次郎正は買収で逮捕されてしまう。
 杉本家はついに破産し、家屋敷・家財一切を手放し、女房までもが実家に引き取られ、左平太は無一文、裸一貫で家を出るが、女房が後を追ってきて、背負う過去がなくなった二人が新しい旅立ちをするというラスト。
 杉本家が没落したのは左平太のせいばかりでもなく、おそらく戦後の農地解放が原因。実利主義に向かう時代の変化の中で、村人を守るのは名家=村役人の役目という、左平太の古い価値観との対立の物語となっている。
 左平太は他人の幸せ、喜捨を喜びとする悟りを開いた仏のような人間で、私利私欲に走る戦後日本の精神の変容に対する、左平太の生き方を通した日本人への問いかけともいえる。
 グータラだが人間的な左平太を大河内傳次郎が好演しているのも見逃せない。左平太の妻に風見章子。 (評価:2.5)

製作:松竹大船
公開:1949年3月9日
監督:木下恵介 製作:小出孝 脚本:新藤兼人 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司
キネマ旬報:6位

人間描写が類型的でシナリオ・演出共に深みがない
 戦後の田舎出の新興成金と没落した上流階級の娘の縁談を描く、ロマンチックコメディ。
 自動車修理工場を営む石津(佐野周二)は、金がすべてという敗戦による時代の申し子で、34歳になるが結婚する気もなく金儲けに励む。そこに降って沸いたのが西片町のお屋敷に住む令嬢・泰子(原節子)との縁談で、美人の泰子に一目惚れ。泰子は一も二もなくOKの返事だが、実は父は詐欺事件で収監中、100万円の借財を抱え、家屋敷は抵当に入っているという金目当ての結婚。
 それでも石津は泰子にピアノを買ってあげたりと尽くすが、泰子の祖母が金のために結婚する泰子が可哀想というのを聞いて結婚を諦め、失意のまま郷里の高知に帰ろうとする。その間、泰子は石津の誠実さに惹かれ、石津を掴まえに東京駅に向かうというラストで終わる。
 戦後の社会構造の転換の中で、アッパークラスもワーキングクラスも金に振り回される世の中を皮肉りながら、心こそが普遍的なものという木下節を聞かせる。
 野卑で拝金主義だが純朴で嫌味のない男を佐野周二がコミカルに演じ、金と心の間で揺れ動く深窓の令嬢を演じる原節子の二人の好演が見どころ。
 コメディとはいえ、泰子の家族の設定と人間描写は類型的で、新藤兼人のシナリオ、木下恵介の演出共に深みがないのが物足りない。 (評価:2.5)

製作:松竹京都
公開:1949年12月1日
監督:木下恵介 製作:小倉浩一郎 脚本:木下恵介、小林正樹 撮影:楠田浩之 美術:小島基司 音楽:木下忠司
キネマ旬報:4位

阪妻も木下恵介のホームドラマは肌に合わない
 裸一貫から土建業で財を成した男とその家族のコメディタッチの物語。
 家長として絶対的な権力を振るうワンマンな父親に阪東妻三郎、その妻に村瀬幸子。父の会社から独立を目指しながらも言い出せない長男(森雅之)以下3男、政略結婚を逃れ画家の青年(宇野重吉)と結婚しようとする長女(小林トシ子)以下1女という田園調布の豪邸に住む家族で、女中に賀原夏子ほか。
 父はいわば戦前のプロトタイプ、保守的で頑迷な権威主義の権化で、家族一同そんな父の言いなりで、頑固親父の雷を怖れる毎日。それに反旗を翻すのが長男と長女で、紆余曲折の挙句、父の権威も会社の倒産という手痛いしっぺ返しを受け、地に落ちる。長男は父のプライドを保ちながら、叔母(沢村貞子)と起業したオルゴール会社に経営顧問として迎え、頑なだった父も戦後民主主義を受け入れて生まれ変わり、長女の自由恋愛も認めるというオチとなっている。
 木下恵介らしい雨降って地固まるのハッピーエンドなホームドラマで、コメディとしても随所に笑わせ所はあるのだが、全体の演出は今ひとつテンポが悪い。
 とりわけ長女の恋愛エピソードが退屈で、宇野重吉の民主主義優等生が型に嵌っていてつまらない。さらにはこの青年の両親(滝沢修・東山千栄子)が、ワンマン男の対照をなすフランスかぶれの自由人として登場するが、あまりに浮世離れしていてファンタジックすぎてついて行けない。
 阪東妻三郎のワンマン親父はそれなりに上手いのだが、ホームコメディでは居心地が悪そうで、沢村貞子のモダンおばさんも今ひとつ迫力不足。どちらも借りてきた猫のように本領が発揮できていない。 (評価:2.5)

春の戯れ

製作:新東宝、映画芸術協会
公開:1949年4月12日
監督:山本嘉次郎 製作:青柳信雄、山本嘉次郎 脚本:山本嘉次郎 撮影:山崎一雄 美術:松山崇 音楽:早坂文雄

善人役の三島雅夫が時々スケベ親父になるのが微笑ましい
 マルセル・パニョルの戯曲"Marius"の翻案で、明治初頭の品川湊が舞台。
 居酒屋を営む金蔵(徳川夢声)は丁髷を結っていて、陸蒸気が通るたびにテーブルが揺れる文明開化の世の中に馴染めずにいる。壁に西洋時計を掛けてはいるが、ゼンマイは息子に巻いてもらわないとならない。
 その息子・正吉(宇野重吉)は陸蒸気で横浜に外国船を見に行く外国かぶれ。いつの時代にも共通する新世代と旧世代の相克を描くが、一連のカットで状況を見せていく演出が上手い。
 外国船の水夫たちが艀で金蔵の居酒屋に現われ、正吉に外国行きを誘う。正吉はたちまち熱を上げるが、金蔵は無論許さない。
 一方、幼馴染のお花(高峰秀子)は越後屋・徳兵衛(三島雅夫)から後添を望まれ、正吉に結婚の決断を迫るが、お花の「子供ねぇ」の台詞通りに少年のような夢追い人の正吉は優柔不断なまま。しかも正吉の愛情を確かめようとするお花と一夜を共にしてしまうという丸出ダメ男。
 愛を確かなものとしたお花は外国への未練を断ち切れない正吉の幸せのためと、金蔵を騙して船に乗せてやるが、送り出すのは徳兵衛の後添を選んだからと勘違いした正吉は、外国から便り一つ寄越さない。
 お花が正吉の子を宿したことがわかり、内密に済まそうと結婚を申し出る徳兵衛の愛情にほだされ、お花は後添に。子供も生まれ幸せの日々のところに正吉が帰ってきて、お花とよりを戻そうとする都合のよさに金蔵が怒り、鳩首協議でお花が正吉に引導を渡し、正吉は一人寂しく船に戻るというお話。
 私も徳兵衛も自分を殺したのだから、今度は正吉が自分を殺す番だとお花が諭す通り、愛とは自分を殺して相手を思いやること。それは時代が変わろうとも変わりはしないというのがテーマ。
 お花演じる高峰秀子の独壇場だが、中盤のラブシーンがしつこくてダレる。人情に厚く道理を曲げない頑固親父の徳川夢声がいい味。とことん善人の三島雅夫が儲け役だが、お花に言い寄る時にスケベ親父の顔になるのが微笑ましい。芯のない男を演じる宇野重吉の影が薄い。 (評価:2.5)

新釈 四谷怪談

製作:松竹京都
公開:1949年7月5日(前篇)、1949年7月16日(後篇)
監督:木下恵介 製作:小倉浩一郎 脚本:久板榮二郎 撮影:楠田浩之 美術:本木勇 音楽:木下忠司

怪談でも復讐劇でもなく木下恵介らしい悲恋ドラマ
 鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談』が原作。
 新釈と銘打っている通り、大筋では『東海道四谷怪談』の流れに沿っているが、かなりの部分が書き換えられていて、戸板返しや伊右衛門が狂乱して梅を殺害するという『四谷怪談』の見せ場のシーンはなく、怪談としての要素はない。
 岩(田中絹代)の復讐劇にはなってなく、失業した伊右衛門(上原謙)が不幸な境遇を脱するため、直助(滝沢修)に騙されて岩を殺害するものの過ちを悔い、気弱な性格から精神錯乱となり、引き離された梅(山根寿子)を取り戻すべく実家に乗り込んだ際に火事となり、漸く正気に返った伊右衛門が岩との幸せな日々の思いを胸に火に包まれるというラストになっている。
 岩と伊右衛門は相思相愛の仲だったが、失業による不遇が二人の間に擦れ違いを生じ、仲を裂いてしまったという夫婦の悲劇で、木下恵介らしい悲恋ドラマとなっている。本作が制作されたのは終戦直後で、戦争によって不幸な境遇に陥った様々な男女に向けた哀歌であったともいえる。
 牢破りから始まるプロローグの移動カメラによる映像が凝っていて、主にロングショットを使った演出がいい。岩が死ぬシーンのカメラ移動によるワンカットの長回し、クライマックスの火事のシーンなど、映像的にも見応えがある。
 もっとも、段取りに沿った芝居じみた演技や台詞が結構気になって、凝った美術や映像に水を差している。
 田中絹代がそっくり姉妹、岩と袖の二役を演じていて、伊右衛門が袖を見て岩の亡霊と勘違いするというシナリオ上の仕掛けになっている。 (評価:2)

深夜の告白

製作:新東宝
公開:1949年6月21日
監督:中川信夫 製作:竹井諒、筈見恒夫 脚本:八木隆一郎 撮影:河崎喜久三 美術:梶由造 音楽:伊福部昭

リアリズムからは遠く離れた社会派人間ドラマ
 戦後。横浜クジラ横町の飲み屋の親父(小沢栄=小沢栄太郎)が、実は戦時中に失踪して死んだと思われていた航空機会社の社長ではないかと気づいた新聞記者(池部良)が、真相を突き止める話。社長の戦死した息子が新聞記者の戦友で、結婚を許されなかった女中との間の子を祖父に会わてやるという人情噺がつく。
 社長は自社製の戦闘機に乗って死んだ息子への悔悟から失踪。軍関係者は横領の濡れ衣を着せる。彼らは社長の生存が表沙汰になる不都合を怖れるが、社長は病死してしまい事件の真相は説明されないままに終わる。
 ミステリーとしては中途半端だが、中川はミステリーよりは社会派人間ドラマにしたかったようで、戦争協力によって息子を死なせた社長の罪と罰の物語。最後は改心してお涙頂戴という展開になっている。
 全体に舞台劇のような芝居がかった台詞や演出が多く、キャラクターの心情を映すズームイン・ズームアウトなど、懐かしくも古臭い。階級差別の悲憤を大袈裟に嘆く元女中のクラブママなど、リアリズムからは遠く離れた作品で、しかしそれが日本伝統の大衆演劇と見れば、新奇さはないが古典的で正統な日本映画といえなくもない。
 ラストはクラブママとパトロンの婚約、新聞記者と木賃アパートの娘のカップル誕生という甘くもヌルい結末。木賃アパートの娘の父を演じる東野英治郎が若い。 (評価:2)

痴人の愛

製作:大映東京
公開:1949年10月16日
監督:木村恵吾 脚本:八田尚之、木村恵吾 撮影:竹村康和 美術:上里義三 音楽:飯田三郎

京マチ子には飼育したいというより飼育されたい
 谷崎潤一郎の同名小説が原作。
 同僚から君子と綽名される会社員が実は美少女を飼育していたという話で、譲治を宇野重吉、ナオミを京マチ子が演じる。京マチ子は美少女というには妖艶すぎて、下着姿も豊満で飼育するには熟しすぎている感じ。
 一方の宇野重吉は変態性が皆無で、学校の先生が発達しすぎの手に負えない女子高生の生活指導で持て余している感じ。真面目教師に少女飼育をさせる配役がミスなのか、ナオミに対するセリフが、成熟した女子高生との世代ギャップに困っている教師の言葉同様、棒読みにしか聞こえないのが痛い。
 大学生上がりのゴロツキ青年の森雅之、三井弘次らも薹が立ったチンピラにしか見えず、場末の女給にしか見えない京マチ子を含め、総じて谷崎の世界からは遠い通俗的な物語になっていて、企画のそもそもが変態的男女の物語ではなく、一般人の男女に遡及した作品にするつもりだったのではないかと、興行に迎合した日和見主義を感じる。
 それにしても京マチ子の均整の取れたグラマラスな肢体は一見の価値あり。少女を飼育したいというよりも、女王様に飼育されたいという気持ちになる。 (評価:2)

流れる星は生きている

製作:大映東京
公開:1949年9月18日
監督:小石栄一 脚本:館岡謙之助 撮影:姫田真佐久 美術:柴田篤二 音楽:斎藤一郎

徳川夢声の医者だけが人情家という満州引揚者の苦労譚
 藤原ていの自伝的小説が原作。夫は作家の新田次郎。
 終戦となり、気象台に勤める夫を満州の残し、妻・けい子(三益愛子)は3人の幼子とともに朝鮮半島を下り、東京に帰ってくる。
 序盤は決死の引き揚げの模様を描き、帰京後は親戚の家を頼るも助けてもらえず、引揚者用の寮を斡旋してもらい、製本所に職を見つけるという満州引揚者たちの苦難を描く。
 長男は靴磨きで家計を助け、同じ引揚者で途中子供を死なせてしまう幸枝(羽鳥敏子)は生きるために女給となり、節子(三條美紀)は才能を生かしてキャバレー歌手となるが、満州に残った恋人が絶望と聞かされて自暴自棄になる。
 次男がジフテリヤを発症し医者(徳川夢声)に駆け込むも金はなく、夫の時計を医者に差し出すが、荒んだ世の中でも人情は枯れてなく、医者の好意で次男は回復するという人情噺も織り込む。
 そんな折、節子の恋人が復員し、けい子の夫の復員も近いという知らせに、一家に希望が甦るという、終戦直後らしい人々を勇気づける物語になっている。
 もっとも、小石栄一の演出は平板で型に嵌った、ストーリーを説明するだけに終わっているのがつまらない。序盤の引揚者たちが川を渡るシーンだけが妙に迫力があって、見せ場は姫田真佐久のカメラを楽しむくらいか。 (評価:2)

風の子

製作:映画芸術協会
公開:1949年2月22日
監督:山本嘉次郎 製作:本木荘二郎、多胡隆 脚本:山本嘉次郎 撮影:植松永吉 美術:松山崇 音楽:古関裕而

農村の古い因習が描かれていることに歴史的価値あり?
 山本映佑の同名作文が原作。映画の冒頭にも本人が登場するが、10歳だった作者が疎開生活を綴った作文(当時は綴り方といった)を同居人で家庭教師の得猪そと子が児童雑誌『赤とんぼ』に投稿。選者の川端康成が推賞し、それがNHKラジオで紹介されて話題となり、映画化された。
 山本嘉次郎、本木莊二郎らによって設立された映画芸術協会の第1回作品として、舞台となる現在の石川県羽咋市酒井町で撮影されたが、このような経緯からもわかるように、当時としては戦後民主主義の息吹の中で優等生的映画であったが、現代では退屈さのほかには見るものはない。
 得猪そと子はいわゆる進歩的女性で、原則論に拘る堅物。そのために保守的な村社会と対立し、一家は窮状に陥っていくが、その主な原因が彼女にあることは、映画からは十二分に見て取れる。
 もっとも作品的には、そうした一家を村八分にした日本の地方社会の後進性を炙り出すのが目的で、都会の民主化運動の立場から、地方を中心に日本が変わらなければならないことを訴えている。
 映画が作られたのがそういう時代だったことを割り引いても、この映画の背景にある鼻持ちならない教条的な青臭さは如何ともしがたい。
 古関裕而の音楽がやや大仰。母に夏川静江、猪そと子に竹久千恵子、一家をいやいやながら住まわせる寺の坊主に進藤英太郎。農村の古い因習が描かれていることに歴史的意義ありか? (評価:2)

製作:大映東京
公開:1949年3月13日
監督:黒澤明 脚本:黒澤明、谷口千吉 撮影:相坂操一 音楽:伊福部昭 美術:今井高一
キネマ旬報:8位

梅毒予防キャンペーンのための保健映画
 菊田一夫の戯曲『堕胎医』が原作。
 三船敏郎演じる軍医が、野戦病院で梅毒患者(植村謙二郎)からスピロヘータをうつされてしまうという物語で、終戦後、父(志村喬)の経営する病院に戻るが、感染を周囲に隠しているという設定。このため6年越しの婚約者(三條美紀)は真実を知らされないままに結婚を先延ばしされているが、見習い看護婦(千石規子)がサルバルサンを打っている三船を目撃したことから、父にだけ告白。
 しかし、理由を知らないまま婚約者は嫁に行き、梅毒患者は妻(中北千枝子)と交渉を持ったために感染・妊娠して、志村の治療を受けるが死産する。
 最後は、新婚旅行先からのはがきを受け取った三船が看護婦に激白する涙のシーンで終わるが、その理由というのが、6年間婚約者を抱くのを我慢してきたのに、梅毒のためにほかの男に婚約者の体を奪われてしまったという鳶に油揚げで、これなら梅毒に感染する前に抱いておけばよかったというのが、なんとも情けない。
 ペニシリンによる梅毒治療に成功したのが1943年で、映画制作時にしても舞台設定の終戦直後にしても梅毒は不治の病ではなくなっていて、それがこの映画の何とも痛いところ。
 ものが梅毒だけに、三船が深刻な顔をすればするほど「梅毒ねえ」とドラマに入っていけなくなる。さらには「なんで婚約者に言わないの。言えば即婚約解消でしょ」との思いもよぎり、それでも婚約者の性格なら治るまで結婚を待つ、という台詞がどうにも説得力を持たない。
 いわばドラマのためのストーリーで、徹頭徹尾「梅毒ねえ」がついて回る。梅毒予防キャンペーンのための保健映画以上のものがなく、なんともしまらない。 (評価:2)