海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1948年

製作:大映京都
公開:1948年10月18日
監督:伊藤大輔 製作:永田雅一 脚本:伊藤大輔 撮影:石本秀雄 美術:角井平吉 音楽:西梧郎
キネマ旬報:8位

板妻名演の泣かせどころを押さえた浪花節
 戦前の浪花の将棋指し、坂田三吉をモデルにした北条秀司の同名戯曲が原作。
 戯曲によって伝説化した坂田三吉だが、貧乏で無学な草鞋職人が将棋で身を起こし将棋界の第一人者となる浪花節的物語は、よくできた浪花節だけに、阪東妻三郎の名演もあって心に響く作品となっている。
 本作が単に成功物語に終わらないのは、関根第13世名人と東西を分けた実力者でありながら、名人を襲名できなかった悲劇性であり、ボロ服から羽織袴で対局するようになってからも権威ぶらない坂田の庶民性にある。
 関根(滝沢修)に初勝利した対局で、娘(三條美紀)から、負けていた試合を奇手で相手を混乱させてモノにして誇れるのか? 勝つだけの将棋指しではなく名人になるのではなかったのか? と叱責されるのがよくできたシーンで、坂田が勝負師ではなく将棋道を目指していたことを示す。
 娘に教えられた坂田は、名人とは称号ではなく、実力・人格すべてにおいて卓越することだと悟り、名人位を関根に譲る。
 この時点で坂田は、死後に称号を送られることになる名人・王将となったのであり、関根の襲名披露宴に駆けつけて、憎み続けてきたことを謝罪し、関根というライバルがいたからこそ草鞋職人から現在の自分に引き揚げることができたのだと礼を言うラストの独白に繋がる。
 もう一つの浪花節は妻の小春(水戸光子)で、将棋をやめると坂田が燃やした駒から零れた王将を拾い、それを御守として妙見様に祈願し続けたことで、臨終に握りしめていた手から零れる。
 1つだけ燃やされなかった王将の駒に小春が運命を感じ、坂田と二人三脚で手にした王将(名人)という、泣かせどころのラストシーンとなっている。
 伊藤大輔の演出、石本秀雄のカメラ、阪東妻三郎を支える脇役のすべてに職人技が光る。 (評価:3)

製作:蜂の巣映画
公開:1948年8月24日
監督:清水宏 製作:清水宏 脚本:清水宏 撮影:古山三郎 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:4位

戦争孤児を取り上げた当時の社会状況がわかる作品
 戦争孤児たちが復員兵と共に下関から広島へと仕事を求めて旅する物語で、出演する子供たちは清水宏が戦後引き取った戦争孤児たちが演じている。
 子供たちは両親を亡くして大阪や広島などからやってきた孤児たちで、下関駅周辺で片足の傷痍軍人らしき男と共に暮らしている。彼らの生活の手段はヤミ屋の手伝いやたかりで、下関駅で降り立った復員兵と知り合う。
 復員兵・島村(岩波大介)は非行児童更生施設・みかへりの塔の出身者で、帰る家もなく、あてどなく仕事を探そうとしていた矢先。かつての自分の姿を孤児たちに見た復員兵は、見かねて一緒に仕事を探そうと子供たちと東に向けて旅を始めるというロードムービーになっている。
 同じ清水宏監督『みかへりの塔』(1941)の終戦を経ての後日譚ともいえ、戦争孤児たちに向けた清水のやさしさが伝わってくる作品となっている。
 中でも中心となるのが、サイパンからの引揚船で母を亡くした義坊と、下関で知り合った同じように行く当てのない引揚者の娘・弓子(夏木絢子)で、義坊は弓子を母のように慕うが、弓子は義坊と別れて東京に向かう。義坊は瀬戸内の島で病気となって斃れ、母が眠る海を見下ろす丘に埋められる。
 一方、弓子は港町でパンパンになりかかっているのを子供たちに見つかり、島村と共にみかへりの塔に行くというラスト。
 苦難にめげずに真っ当に正直に生きようという清水のメッセージで、『みかへりの塔』に通じるテーマだが、当初塩田で働くはずが成り行きで出て行ってしまい、弓子と義坊が行く先も決まってないのに手紙の交換を約束したりといった、ドラマのためのご都合主義がいささか気になる。
 戦争孤児を取り上げたという点では、当時の社会状況がわかる貴重な作品。 (評価:2.5)

製作:松竹京都
公開:1948年12月6日
監督:木下恵介 製作:小倉浩一郎 脚本:久板栄二郎 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司
キネマ旬報:6位

反差別よりはセンチメンタルに流れる木下恵介劇場
 島崎藤村の同名小説が原作。
 部落解放運動家の松本治一郎が製作顧問に入っており、主人公・丑松の部落差別に対する姿勢に批判のある原作を一部改変したラストになっている。
 明治後期の信州飯山が舞台で、小諸の被差別部落出身であることを隠して小学校の教壇に立つ丑松(池部良)が部落解放運動家(滝沢修)と出会い、その死により学校に出自を明かし、上京して運動家の後継を決意するまでが描かれる。
 原作にある生徒たちに土下座して詫びるシーン、テキサスに逃れる話は削除され、最後に丑松が差別と闘う立場を鮮明にするが、部落民であることの葛藤とともに元士族の先輩教師(菅井一郎)の娘・志保(桂木洋子)とのラブロマンスに苦悶する姿に中心が置かれていて、木下恵介らしいセンチメンタルな作品になっている。
 とりわけ丑松と志保が舟で東京に旅立つシーンは抒情たっぷりの木下恵介劇場。子供たちの別れは『二十四の瞳』のようで、センチメンタルに流されて終わる。
 反差別側に立つ同僚教師(宇野重吉)が、丑松と志保をけしかけるだけで、実行が伴わない人物に見えてしまうのが何とも痛い。学校長の東野英治郎を始め、加藤嘉、小澤栄太郎等が悪代官のようなステレオタイプな悪役に描かれているのも、ドラマを薄くしている。
 丑松が志保に出自を告白しようと巻紙に毛筆で書くシーンがあるが、変体仮名も入る行書体の上、ナレーションが入らないので、若い人が見てもおそらく読めない。 (評価:2.5)

製作:松竹大船
公開:1948年9月17日
監督:小津安二郎 製作:久保光三 脚本:斎藤良輔 、小津安二郎 撮影:厚田雄春 音楽:伊藤宣二 美術:浜田辰雄
キネマ旬報:7位

小津安二郎の失敗作だが田中絹代の自虐ぶりがいい
『長屋紳士録』に続く小津の戦後第2作。
 子供の療養費のために売春した妻を田中絹代、復員してくる夫を佐野周二が演じ、二人の葛藤を描くという小津の異色作。社会派のシリアスな話で、小津のほのぼのとした映画になれた目には相当な違和感がある。小津自身、失敗作と認めているが、その後の『晩春』以降の作品群に続くひとつの転換点となった映画。この作品を契機に小津自身、戦争に区切りをつけることができた。
 小津カラーではないという点を除けば、出来は悪くない。夫への罪悪感というよりも金のために売春したことに自己嫌悪する田中の演技が良く、佐野ならずともその自虐ぶりに追い打ちをかけたくなる。毎日映画コンクール女優演技賞を受賞している。ただ、童顔とはいえ39歳の二重顎の田中が28歳の若妻を演じるのは若干無理がある。
 性描写こそないものの、真夜中に階段を転げ落ちる茶筒のカット以下のシークエンスで象徴するなど、小津ならではのきめ細かな演出が随所に見られる。佐野の反応が拙速でやや粗い印象は残るが、若い売春婦とのエピソードでは小津らしい優しさを取り戻す。ただラストに至ってテーマが前面に出過ぎた。佐野の過去を忘れて未来に向かうという台詞は、日本人の敗戦体験との訣別。最後に小津らしい情緒がほしかったが、題材がシリアスすぎた。 (評価:2.5)

製作:大映京都
公開:1948年3月30日
監督:稲垣浩 製作:松山英夫 脚本:伊丹万作 撮影:宮川一夫 美術:角井平吉 音楽:大木正夫
キネマ旬報:2位

名教師と誉めそやされる男の自慢話を聞かせられているよう
 田村一二の同名児童文学が原作。
 昭和12年の京都が舞台。主人公となる知的障害児の勘太(初山たかし)は、教師にもて余され3度転校していた。それを受け入れてくれたのが新しい学校の教師・松村(笠智衆)で、広い心で教室に勘太を受け入れ、級友たちに仲良くするように教え諭す。
 もっとも松村が何かしているかというとそうでもなく、熟柿主義というかただ時を待つというだけにしか見えず、級長(長門裕之)に勘太の補習をさせるなど、口だけの人間にしか見えないのが残念なところ。
 悪童の転校生・金三(宮田次郎)がガキ大将となって勘太を苛めて川に落としたり土に埋めたりしても、金三が改心するのを待つだけで指導もしない。やがて勘太の純粋無垢なやさしさが伝わり金三が心を入れ替えましたといわれても、教師が勘太にガンジーをやらせてどうすんだという気がしてくる。
 そんな松村先生のおかげで勘太は学校が大好きになり、金三も良い子になり、クラス全員が町内の落書きを消して回るという善行をし、金三が勘太に相撲指南をして、校内対抗試合で活躍。
 卒業式で「仰げば尊し」を斉唱し、障害児や問題児も立派に学校を卒業することができましたといわれても、子供任せで名教師と誉めそやされる男の自慢話を聞かせられているようで、何ともしっくりこない。
 勘太の母の杉村春子が上手い。 (評価:2.5)

製作:東宝
公開:1948年4月26日
監督:黒澤明 製作:本木荘二郎 脚本:植草圭之助、黒澤明 撮影:伊藤武夫 音楽:早坂文雄 美術:松山崇
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

記号化された役柄を観客に丸ごと飲ませる古典的な映画
 醉は酔の旧字体。一般に評価の高い作品だが、なぜ評価されるのかわからない。
 手に銃弾を撃ち込まれたヤクザ(三船敏郎)が町医者(志村喬)を訪ねたところ、結核に罹っていると指摘される。ところがヤクザはそれに腹を立てて医者に殴りかかる…まず、それがわからない。
 一方、殴られた町医者はヤクザを追い返すも、何故かこの男を気にかけて、わざわざ訪ねてまた殴られる。ヤクザをなぜ気にかけるのかも分からなければ、医院は相当暇と見えて、やはり結核の少女(久我美子)以外にほかの患者が登場しない。
 結核だと指摘されるたびに八つ当たりして医者を殴るヤクザもわからなければ、殴られても殴られてもヤクザに会いに行く医者は、ゲイでマゾと思わなければとても理解不能。
 つまりシナリオが相当破綻していて、三船は二枚目の主人公だからどんなに暴力を振るっても理屈抜きに男も女も惚れる。志村は人情家の正義漢だから何をされても三船を助けるという、理屈抜きの男のドラマ。記号化され、固定化された役柄を観客に丸ごと飲ませる古典的な映画を見習っている。
 テーマは漢で、三船と志村は正義なので、それに対抗する悪いヤクザが登場して、三船の女を盗り、志村の説得を受け入れて養生を始める三船にヤケ酒を飲ませ、乗り込んできたところを殺してしまう。悲劇のヒーロー、それを看取る秘めた思いの別の女と、人生の無常を嘆く医者。
 黒澤の映画は基本はエンタテイメントで、『姿三四郎』のヒーロー、正義と悪という構図を本作でも踏襲している。それにヒーローの暴力に対する煩悶という要素を加えて社会派風に味付けする。
 本作でも悪は懲らしめられ、ヤクザも暴力も否定するという道徳で観客を安心させる。これぞ、黒澤流エンタテイメント。で?
 正直、ストーリーもキャラクターも凡庸で、蒲田か川崎のようなヤクザが牛耳る後の『用心棒』(1961)のような町が舞台。警察も普通の人々も登場しない時代劇の宿場町のようで、ヤクザも時代劇のようにステレオタイプ。
 もっとも見どころはあって、メタンガスの吹き出る沼やセットはなかなか。志村が消毒用アルコールを飲むという戦後風俗も押さえていて、三船のシマのバーでメチルじゃないかと確かめるシーンは果たして今の若い人に通じるか?
 タイトルの醉いどれ天使が三船を指すのか志村を指すのかよくわからない。志村は酒好きだが醉いどれにならないし、最後に死んでしまうから三船が天使なのか? でも主役は一応志村で、屑でも見捨てない天使というわけか? (評価:2.5)

製作:松竹京都
公開:1948年5月26日
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 撮影:杉山公平 美術:水谷浩 音楽:大沢寿人
キネマ旬報:3位

溝口の右往左往ぶりが手に取るような戦後社会派映画
 終戦直後の大阪・西成を舞台に、戦争未亡人となり一粒種の息子を病死させて一人身となってしまった女が、売春婦に身を落とし、やがて再起していく姿を描く。
 不幸な身の上の女に同情を寄せる溝口健二らしい作品だが、同じ苦界でも芸妓の女たちを描く日本情緒や粋はなく、パンパンという直截な女たちの物語はあまりに類型的で、敗戦による価値観の転換の中で、溝口が右往左往している様子が手に取るようで、理解できない左翼思想を基に見よう見まねでプロレタリア映画を作った趣きがある。
 そうした点では文学性も芸術性も皆無の単なる社会派ドラマに終わっていて、見所はといえば主人公を演じる田中絹代の堂に入ったパンパンの演技ということになる。
 房子(田中絹代)は病気の子供を抱え未帰還兵の夫を待つが、やがて戦死が確認され、子供も死んでしまう。婚家を出た房子は町の会社社長の秘書兼愛人となるが、焼け跡で妹(高杉早苗)に出会い同居させたところが愛人を奪われ、アパートを出てパンパンとなる。
 妹は姉を捜して再会するが、自分が妊娠と梅毒に感染していることがわかり、姉に連れられ更生ホームに入所するものの死産。
 姉は義妹が私娼になってパンパングループから苛められているところを助け、ともに再起を決意して終わる。
 身を売って食を得るといった戦前の弱き女を脱して、手に職をつけて自立する「新しい女」になれというのがメッセージで、それを台詞で言ってしまうところに本作の凡庸さがある。 (評価:2)

製作:松竹大船
公開:1948年10月2日
監督:吉村公三郎 製作:小倉武志 脚本:新藤兼人 撮影:生方敏夫 美術:浜田辰雄 音楽:木下忠司
キネマ旬報:5位

一番輝いているのは李香蘭転じた山口淑子の美貌
 敗戦から3年。ダンスホールのダンサーとなった節子(山口淑子)が用心棒の沼崎(森雅之)と恋仲になるが、実は終戦前日に閣僚の父を暗殺した青年将校だったという因縁話。悪事の限りを尽くすダンスホールの経営者で暴力団の佐川(滝沢修)を殺し、暗殺のことを節子に告白。タイトルを口にして警察に自首する。
 佐川の悪事を追及する新聞記者(宇野重吉)に、自分のバックには人民が付いていると大言壮語させ、青年将校の沼崎や元検事の節子の叔父・平林(清水将夫)の零落で、戦中の権力者を批判して見せるが、どうにも類型的で新藤兼人の脚本としては不出来。沼崎や平林が佐川の言いなりになるのがどうにも解せない。
 聞けば脚本段階で占領軍、完成後は検察庁から横槍が入ったという話で、沼崎と平林から毒気が抜けてしまったのかもしれない。そういえば、この二人の戦中の悪行や戦後の零落についての説明がなく、甚だ説得力とドラマ性に欠けるストーリーとなっている。
 本作で一番輝いているのは李香蘭転じた山口淑子の美貌で、日本帰国後の最初の映画出演作となっていて、お嬢様からダンサー、愛人に身を落とし、女一人、体一つで生き抜く強い女を好演している。山口淑子のへそ出しルックや森雅之とのキスシーン、ダンサーたちの露出度の高い衣装も、民主化日本の見どころか。
 ヒッチコックのようなサスペンス映画風の演出がどうにも付け焼刃で、オープニングの『スター・ウォーズ』のようにスタッフ、キャストのクレジットが斜めっているのも読みにくく、俄かハリウッドの真似っこが痛々しい。
 過去の罪を潔く認め、新たな戦後を出直そうというのがメッセージか? (評価:2)