海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1947年

製作:松竹大船
公開:1947年05月20日
監督:小津安二郎 製作:久保光三 脚本:池田忠雄、小津安二郎 撮影:厚田雄春 音楽:斎藤一郎 美術:浜田辰雄
キネマ旬報:4位

復員した小津が戦後第1作で訴えたかったこと
 終戦から1年半を経て公開された小津の戦後第1作。1946年2月の復員から約1年後。風景からは、公開前の秋から冬にかけての撮影であることがわかる。
 飯田蝶子演じる長屋の小母さんが、捨て子を世話する羽目になるという話で、当初は子供が前に住んでいた茅ヶ崎に連れて行き置き去りにしようとする。その飯田の心境の変化とラストが見どころだが、それは書かないでおく。
 この映画を観るには戦後の状況を把握しておく必要がある。空襲で焼けた東京には多くの戦災孤児がいて、戦争の混乱で親とはぐれた子、捨て子もいた。それが日常の東京で、長屋の住人・笠智衆が子供を拾ってくる。厄介者だが仕方なく世話を引き受けてしまい、やがて「おばさんちの子になっちゃいな」という飯田に昔の下町人情を思い出させる。貧しくても助け合う日本人の心根の美しさ。それを思い出させるのが、敗戦で荒んだ人々に小津が訴えたかったこと。ラストシーンでは上野の山にたむろする浮浪児たちが映る。
 このラストシーンは小津には珍しい強烈なメッセージで、それを直接的だと感じる人もいるかもしれない。しかし、それは時代を経た客観で、帰国して東京の荒廃を目にした小津が、復員後第1作に訴えたかった止むに止まれぬ心情が伝わる。その点でも小品ながら歴史的佳作。長屋の人達も含めて、この映画には善人しか登場しない。それが小津が信じる日本人でもある。
 しかし現代の日本人の姿が、当時小津が目にした荒廃した人々と変わらないことに気がつく時、小津が信じたものが幻想だったのではないかという思いに至る。そうした点からも、小津の映画は現代性を保ち続けている。
 築地本願寺その周辺、茅ヶ崎海岸などが出てくるが、敗戦後の荒涼とした風景であるにも関わらず美しい。そこで気づかされるのは、小津の原点がサイレントであること。構図・小道具・俳優のin/outとポジションを含めて、台詞ではなく絵で語ろうとしていて、その神経の細やかさが小津映画の余韻ある映像美に結び付いている。この映画にはロケシーンが多いが、そうした見どころもある。
 作中で笠智衆が唄うのは覗きからくりの口上も楽しい。 (評価:4)

製作:東宝
公開:1947年12月9日
監督:衣笠貞之助 製作:松崎啓次 脚本:久板栄二郎、衣笠貞之助 撮影:中井朝一 美術:平川透徹 音楽:早坂文雄
キネマ旬報:5位

女優としての須磨子と山田五十鈴が重なって見える
 新劇草創期の女優・松井須磨子と劇作家・島村抱月の関係を中心に描く実話もの。
 文芸協会の演劇研究所1期生となった須磨子が落ち零れながらも、抱月の庇護を受けて演劇界のトップ女優となり、抱月との不倫事件から文芸協会放逐、芸術座の結成、抱月の病死と須磨子の後追い自殺まで。
 病弱を理由に離縁された須磨子が女優を目指して必死に頑張り、自らの経験をもとにイプセンの『人形の家』のノラを演じて、女性たちの喝采を浴びるまでが前半の見どころ。
 後半は抱月とともに家族制度の旧弊と闘い、自由恋愛を標榜して演劇界とも闘いながら二人三脚で芸術座を成功に導くものの、抱月の死によって劇団員に疎外され、死を選ぶまで。
 須磨子と抱月が標榜していた人間解放、女性解放は結局のところ、仲間であったはずの芸術座の劇団員にも理解されず、女だからという理由で座長の実権を奪われてしまう結果が悲しい。
 ラストは単に抱月に去られ、劇団の実権を失ったという失意からではなく、抱月と共に目指していたものが失われたために抱月の下に向ったというものになっている。
 この自我の強い女・松井須磨子を山田五十鈴が演じ、須磨子に劣らぬ名女優ぶりを発揮しているのが最大の見どころ。女優としての須磨子と山田五十鈴が重なって見える。
 衣笠貞之助の演出も端正で緩みがなく、『人形の家』では舞台ではなく、楽屋裏の稽古でノラの女性像を見せていくという演出が見事。
 抱月を土方与志、他に河野秋武、志村喬、進藤英太郎。チョイ役で森繁久彌が映画初出演作している。 (評価:3)

製作:東宝
公開:1947年7月1日
監督:黒澤明 製作:本木荘二郎 脚本:植草圭之助 撮影:中井朝一 音楽:服部正 美術:久保一雄
キネマ旬報:6位

昭和20年代の日本人の清々しい気分が感じられる佳作
『わが青春に悔なし』に続く黒澤戦後第2作。
   敗戦後の貧しさの中で一組のカップルがデートする一日を描く佳作。  当時、労働争議のために主役級の俳優が使えないという状況下で、主役に無名の沼崎勲と中北千枝子が起用されたが、どこにでもいるような平凡なカップルを演じ、作品的には成功している。美人でない中北は、後にプロデューサーの田中友幸と結婚。
 恋人との待ち合わせにシケモクを拾うくらいに貧しい青年は、二人合わせて手持金35円でデートをする。新宿の住宅展示場、木賃アパートを訪ねて愛の巣探しをするが、夢はどんどん萎んでいく。
 子供等と草野球をしても饅頭屋にボールを打ち込んでしまって弁償する始末。戦友が経営するキャバレーではたかり扱いされ、上野動物園でひと時を過ごすも気分は落ち込むばかり。未完成交響楽を聴きに行こうと日比谷公会堂に向かうもチケットはダフ屋に買い占められ、アパートへ。
 ドツボのような状況で青年は「僕が持っているものは君だけなんだ」と娘の体を求める。しかし娘は応ぜずに部屋を出ていってしまい、青年は最後の拠り所さえも失って絶望する。そこに娘が戻ってきて求めに応じようとするが、堪えきれずに泣き出してしまう。
 そうして青年は恋人を思いやる心を取り戻し、喫茶店で代金の代わりにコートを預け、コンサートの終わった公会堂に戻る。
 楽団はいなくても願えば心に音楽は聴こえてくると青年はタクトを振ろうとするが、やはり音楽は響かない。
 ここからが見せ場で、娘は映画の観客に向かって、敗戦で傷ついた多くの貧しいカップルのための応援の拍手を求める。映画と観客が一体となるという実験的な演出で、ここで劇場の観客はスクリーンに向かって拍手を送り、それを受けて二人と観客の耳に音楽が鳴り出すという仕掛けになっている。
 今見ると非常にクサい演出であり、クサい映画なのだが、夢を持てない若者たちへのピュアなメッセージが伝わってきて、昭和20年代の日本人の清々しい気分が感じられる。そうした点では現代に通じるものがあるが、如何せん当時の時代性への理解が必要か。
 脚本は植草圭之助。 (評価:2.5)

製作:松竹大船
公開:1947年9月27日
監督:吉村公三郎 製作:小倉武志 脚本:新藤兼人 撮影:生方敏夫 美術:浜田辰雄 音楽:木下忠司
キネマ旬報:1位

ヴィスコンティほどには響かない華族の黄昏
 華族だった元伯爵家が戦後の農地解放で没落する姿を描く。タイトルは家屋敷を手放すことになった伯爵が最期の宴として開く舞踏会で、これがドラマの主舞台となる。
 新興ブルジョアジーで戦後闇市で財を成した友人・新川(清水将)からの借金で家屋敷が抵当にとられ、今日でいよいよ召上げという日に舞踏会は開かれ、それでも新川の恩情にすがる誇り高き安城家当主(滝沢修)と、元お抱え運転手で長女(逢初夢子)に横恋慕していた遠山(神田隆)に家を買ってもらおうとする次女(原節子)の動きを軸に、新川の娘(津島恵子)と政略結婚しようとする長男(森雅之)のエピソードが絡む。
 どっちに買われても同じようなものだが、遠山だったら便宜は図ってくれるのじゃないかという期待の元に話は進み、遠山と長女との関係修復というラストで、何となくハッピーエンドに終わる。
 元40万石の大名家だったらしく、当主は殿様と呼ばれ、長男は若と呼ばれるのが新鮮。
 民芸の俳優が中心ということもあって台詞が舞台風で生硬なのが興を削ぐが、吉村公三郎の演出もいささか時代がかっていてストーリーも作り過ぎのきらいがある。永遠の処女・原節子の演技が意外と上手く、滝沢修と対等に渡り合うのが見どころ。
 描かれるは華族の黄昏の哀愁で、敗戦による再出発では、誰もが古い価値観を捨て、民主主義の新しいスタートを切らなければならないというメッセージになっているが、ルキノ・ヴィスコンティの描く没落貴族ほどには響かないのは、吉村が元貴族ではないという限界か。 (評価:2.5)

製作:東宝
公開:1947年4月8日
監督:五所平之助 製作:伊藤基彦、本木荘二郎 脚本:植草圭之助 撮影:三浦光雄 美術:松山崇 音楽:服部良一
キネマ旬報:3位

ブルジョワ令嬢とセツルメントの医師の恋愛が嘘っぽい
 高見順の同名小説が原作。
 終戦5ヶ月後に婦人誌に連載された、戦争によって引き裂かれた男女の恋愛を描くという、当時としてはとりわけ共感を呼ぶ物語で高い評価を得たが、ブルジョワ令嬢(高峰三枝子)と貧民のためのセツルメント診療所で働く青年医師(龍崎一郎)の恋というステレオタイプな設定で、今見ると欠点が多く駄作に近い。
 令嬢は青年に感化されて赤化していくが、青年が投獄されたことで恋を諦めて許嫁と結婚。青年が出所し離婚して後を追うも、青年は出奔。生活のためにバーのマダムとなったところで偶然の再会を果たすが、翌日青年は出征。
 戦時中ゆえに互いに明日の命はないものと別れ、生きていれば日曜日毎のお茶の水・ニコライ堂の前での再会を約す。
 復員した青年はニコライ堂の前に立つが令嬢は現れず、軍服が背広姿に変わった或る日曜日、セツルメントの看護婦(中北千枝子)が、令嬢が病気で会いに来れないと知らせに来る。
 ニコライ堂はかつて二人がデートの待ち合わせに使い、同時にすれ違いを演じた場所でもあり、道具立ては菊田一夫原作のラジオドラマ『君の名は』を彷彿させるが、本作の方が先で、あるいは後のヒントとなったのかもしれない。
 階級が違う二人が、ほんの一瞬でお約束ごとのように一目惚れしてしまうのも無理矢理で、令嬢の家を訪ねてみればソファーにふんぞり返る鼻持ちならないブルジョア娘。とても恋愛には発展しそうもなく、令嬢が左翼思想にかぶれるというのも似非っぽく、落ちぶれたのがバーのマダム、一念発起で看護婦になるというの嘘っぽい。
 リアリティに乏しい上に段取りのための段取りが続き、演出までたるいので途中で飽きがくる。本当に愛し合っているのかよくわからない、二人の恋愛ごっこを見せられている感じで、ラストはきっと令嬢が東京大空襲で死んでしまったのだろうと思いきや、生きていて、養生してこれから二人の春が訪れるでは、思わずズッコケてしまう。
 戦後間もない頃のニコライ堂の周囲が広々としていて、思わずどこかと思ってしまう。 (評価:2)

製作:東宝
公開:1947年7月22日
監督:山本薩夫、亀井文夫 製作:伊藤武郎 脚本:八住利雄 撮影:宮島義勇 美術:河東安英 音楽:飯田信夫
キネマ旬報:2位

新憲法の普及を目指したGHQプロパガンダ映画
 新憲法発布記念映画としてGHQの指示で制作された戦争告発映画。
 乗っていた輸送船を撃沈された兵士・小柴健一(伊豆肇)は国民政府軍に助けられるが、東京の妻・町子(岸旗江)には戦死公報が届けられ、夫の親友・康吉(池部良)が妻子を引き取って再婚。
 このプロローグで、果たして夫が復員してきて三者の関係はどうなるのか? という展開になるのが明白なストーリーなので、ネタバレのドラマを見せられている感じになる。
 英霊の妻が簡単に再婚できるわけもないのだが、町子も康吉も少しの迷いも葛藤もなく、町子に至ってはまるで夫の存在など忘れてしまったかのよう。
 さすがに隣組の班長には嫌味を言われるが、日本国憲法の恋愛の自由、結婚の自由を先取りして人権侵害とばかりに我が道を行く 。
 もっとも神様は許さなかったらしく、出征中にPTSDになった康吉は空襲のショックで精神に異常をきたす。不思議なのは健一を簡単に見捨てた町子が、子連れで終戦の混乱を生き抜くのは大変なはずなのに、狂人の康吉の世話を見続けること。
 復員してきた健一を結婚したからと袖にし、息子に実父だとも教えない冷たさ。それでも人の良い健一は潔く身を引くが、突然幸吉が正気に戻り、悪の道に走るという一悶着があって大団円という、なんとも俄か作りの民主主義的な腑抜けの作品となっている。
 終戦直後の制作で、左翼の旗手・山本薩夫と亀井文夫の気負いは十分なのだが、新憲法精神の普及を優先したためか、合理性や人間心理に目を瞑ったご都合主義が目立ち、山本が社会派には向いているが人情の機微を描く人間ドラマには向いていないことがよくわかる作品となっている。
 新憲法のメッセージを代弁するのが主人公の健一で、町子と康吉が結婚したのも、康吉が狂ったのも、康吉が悪の道に走ったのも、みんな戦争のせいで、戦争が起きるのは裏で儲ける資本家のせいだという、ステレオタイプな資本論で締め括られる。
 反戦プロパガンダのシナリオは稚拙だが、焼け跡の東京や戦争孤児たちの生態が興味深い。 (評価:2)

三本指の男

製作:東横映画
公開:1947年12月9日
監督:松田定次 製作:牧野満男 脚本:比佐芳武 撮影:石本秀雄 音楽:大久保徳二郎、古川太郎

ミステリーは不出来だが原節子の眼鏡姿が楽しめる
 横溝正史の金田一耕助シリーズ第1作『本陣殺人事件』が原作。
 旧本陣・一柳家当主賢造(小堀明男)と小作農出の娘春子(風見章子)の結婚初夜、二人が密室で斬殺された事件を金田一耕助(片岡千恵蔵)が解決するという密室トリックもの。
 『鞍馬天狗』など時代劇監督の松田定次と時代劇俳優の片岡千恵蔵が、チャンバラが撮れないというGHQ事情から、戦後『多羅尾伴内』シリーズに続いて手掛けた『金田一耕助』シリーズの第1作。
 松田がミステリーには不慣れなことを証明する作品で、原節子まで投入しながら、ミステリーが主体なのか、千恵蔵のヒーローものなのか、はたまた原節子とのラブロマンスを見せたいのか、狙いのよくわからない中途半端な作品になっている。
 原作を換骨奪胎し、原節子を金田一の助手に設定、鍵になる三本指の男を金田一の変装に変更してエンタテイメント性を高める工夫をしているが、逆に本格ミステリーからは遠ざかり、肝腎の犯人と殺害理由も変更されて臥龍点睛を欠き、、謎解きも台詞で説明する立ち芝居という、不出来な作品に仕上がっている。
 犯人は身分違いの結婚に反対する賢造の弟たちで、GHQによる土地解放、民主主義という時代性を反映。一柳家の封建性を糾弾、最後には封建主義と共に一柳家が崩壊する結末となっているが、あまりに政治的なメッセージ性が強くなっていて、ミステリーとしての興趣を損なっている。
 賢造の母に杉村春子、刑事に宮口精二。原節子の眼鏡姿が楽しめるのが最大の見どころ。 (評価:2)

製作:東宝
公開:1947年8月5日
監督:谷口千吉 製作:田中友幸 脚本:黒澤明、谷口千吉 撮影:瀬川順一 美術:川島泰三 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:7位

冬山なのに春山に見えてしまうお粗末
 谷口千吉の初監督作品で、三船敏郎のデビュー作。
 三船敏郎が志村喬、小杉義男とともに銀行強盗犯として、北アルプスの雪山に逃げ込むという設定で、主役は志村喬。三船は準主役の立ち位置。
 警官隊に追われて、山の温泉宿から逃げ出す途中、雪崩で小杉が死亡。志村、三船の二人が雪山に逃げ込み、山小屋を見つけて逗留。登山家(河野秋武)をピストルで脅して山越えをする途中、内紛から三船が転落死。怪我をした河野を志村が背負って山小屋に引き返し、やってきた警官隊に逮捕されるというのが大筋で、基本的にはそれだけの話。
 山越えの途中、落ちそうになった志村を河野が助けた理由を尋ねると、河野はザイルは放さないのが山の掟だからと答え、連行される志村に、山でまた会おうといって送り出すという山男の物語。山小屋の老主人(高堂国典)は志村は悪人ではないと言い、孫娘(若山セツ子)が涙で見送る日本的ウエットな感動物語。
 雪に閉ざされた山小屋に何で爺と若い娘がいるのだとか、冬山の割にはカメラの方向によって岩肌が露出していたり、背景に雪のない山が見えたりと突っ込みどころは多い。最大の突っ込みどころは、山越えをする際に、わざわざロッククライミングをしていることで、岩山の山頂らしきところに登ったりして、なんでわざわざピークを極める必要があるの?という点。
 雪山らしさを出したいという演出だが、戦後間もないにしてもあちこち粗が見えるのが興を削ぐ。これもシナリオ的にはおかしいが、雪山を登山家と孫娘がスキーで滑るシーンは見せ場。 (評価:2)