海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──2000年

製作国:アメリカ
日本公開:2001年4月28日
監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、マーシャル・ハースコヴィッツ、エドワード・ズウィック 脚本:スティーヴン・ギャガン 撮影:ピーター・アンドリュース 音楽:クリフ・マルティネス
キネマ旬報:1位

解決しない麻薬問題を描くが希望の光を宿す
 原題"Traffic"で、輸送・往来・取引の意。ここでは麻薬取引のこと。
 1989年のイギリスのテレビシリーズの翻案で、オリジナルはアフガニスタン・パキスタンの麻薬製造、ドイツの密輸組織、イギリスの密売市場の3つの物語が並行するが、本作はメキシコとアメリカが舞台。原作同様にメキシコの麻薬カルテル、カリフォルニアの密輸業者、アメリカ東部のエリート判事の家庭の3つの物語が並行して描かれる。
 メキシコの麻薬カルテルは実在の組織・人物がモデルとなっている。
 3つの物語はドキュメンタリータッチで描かれ、ニュースフィルムを見ているような臨場感が見どころ。メキシコシーンは黄色、アメリカ東部シーンは青色、カリフォルニアシーンはノーマルだが強い色彩の映像に加工されているため、エピソードが錯綜する割には混乱なく見ることができる。
 麻薬カルテルに関わる軍の将軍や警官への賄賂が横行するメキシコで、カルテル撲滅に立ち向かう麻薬取締警官。麻薬の密売で巨万の富を得るカリフォルニアの密輸業者を摘発するものの、有能な弁護士と密告者の抹殺で敗北する麻薬取締捜査官。麻薬撲滅担当大統領補佐官に任命されるものの、娘が麻薬中毒となっていることを知る東部のエリート判事。
 3つの物語は直接には絡まないものの、1本の糸で繋がっていて、輸出業者・密売業者・消費者の3つの相を浮き彫りにし、それぞれの場で麻薬撲滅に立ち向かう人間を描く。
 社会派ドラマにありがちな安易な正義感を前面に押し出すことなく、それぞれの立場から苦闘する姿を描き、社会に巣食う麻薬と、解決の難しさも併せて描きながら、それでも3人の主人公がそれぞれの立場から不屈の精神を示して物語は終わる。
 麻薬問題の根深さと同時に、希望への光を宿すラストが秀逸。
 とりわけ、同僚を失い、裁判に失敗し、密売業者に完敗しながらも盗聴器を仕掛けて復讐戦を挑むカリフォルニアの麻薬取締捜査官がいい。
 メキシコの麻薬取締警官を演じたベニチオ・デル・トロがアカデミー助演男優賞。監督賞・脚色賞・編集賞を受賞した本格作品。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2001年3月17日
監督:キャメロン・クロウ 製作:キャメロン・クロウ、イアン・ブライス 脚本:キャメロン・クロウ 撮影:ジョン・トール 音楽:ナンシー・ウィルソン
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

70年代の甘酸っぱさが漂う良質の青春映画
 原題は"Almost Famous"。映画の中心となる売り出し中のロックバンドのツアー名で、字幕では「スター街道驀進中」と訳されている。
 ロックとドラッグとセックスという1970年代アメリカの青春を回顧する映画と書くと通俗的だが、とても良質な青春映画に仕上がっている。監督・脚本のキャメロン・クロウは主人公の少年同様に15歳でローリング・ストーン誌の記者となっており、その経験がグルーピーの女の子である通称ペニー・レインと、彼女がオッカケるロック・ミュージシャンの3人の織りなす甘酸っぱい等身大の青春を温かい目で描くことができたのかもしれない。アカデミー脚本賞を取っている。
 この映画の中で、当時の曲がカバーされているのも聴きどころ。サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」に始まって17曲。邦題のペニー・レインは1967年のビートルズの曲で通りの名、ノスタルジーを感じさせる上手いタイトル。 (評価:3.5)

製作国:イギリス
日本公開:2001年1月27日
監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:グレッグ・ブレンマン、ジョン・フィン 脚本:リー・ホール 撮影:ブライアン・テュファーノ 音楽:ブライアン・テュファーノ
キネマ旬報:3位

子供の時からゲイ…さすが社会に根付いたイギリス
 原題は"Billy Elliot"で、主人公の少年の名前。
 1984年のイングランド北部の炭鉱町が舞台。劇中にも出てくるが当時の首相はサッチャーで、イギリス経済を立て直すために労働組合と激しく対立し、多くの失業者が出た。イギリスに限らず先進国では、炭鉱は時代遅れの産業となっていて、劇中でも炭鉱の価格よりも人件費の方が高いという話が出てくる。本作を見る際にはそのことを念頭に置く必要がある。
 主人公の少年11歳は、炭鉱夫の父と兄、祖母との四人暮らし。母の形見のピアノを爪弾く。父にボクシングを習わされる少年は、バレエに惹かれて密かに習うが、父に見つかり断念させられる。少年の才能に気づいたバレエ教師は個人レッスンをしてロイヤルバレエのオーディションを受けさせようとするが、兄が警察に捕まってオジャン。それでもやめられない少年が踊っているところを父に見られ、その真剣さに打たれた父は自ら息子にオーディションを受けさせる。
 ここから先は、観客の期待通りに話は進むが、時代に取り残された一家が、少年の未来に希望を見い出す物語。話そのものは前向きで、古い殻(炭鉱・ボクシングが男の象徴)を捨てて、新しい服(バレエは女の象徴)を着ることで価値観も変わり、国も個人も新しくなれるというもの。そこまで政治的ではないにしても、サッチャーによって新しいイギリスは生まれ変わることができた。
 ただ残念なのは、少年だけでなく父も兄も変わるべきなのに、俺たちは古い人間、変わることなんてできないと鶴田浩二のように諦めて、坑道に入っていくこと。少年だけでなく、二人にも新しい未来を提示しなければいけなかった。
 男しか愛せない少年の親友が出てくるが、さすがゲイが社会に根付いたイギリスらしい。
 イギリスの俳優は馴染みが薄いが、父・ゲアリー・ルイスがいい。バレエの先生・ジュリー・ウォルターズは『ハリー・ポッター』のモリー・ウィーズリー小母さん。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年6月17日
監督:リドリー・スコット 製作:デヴィッド・H・フランゾーニ、ブランコ・ラスティグ、ダグラス・ウィック 脚本:デヴィッド・フランゾーニ、ジョン・ローガン、ウィリアム・ニコルソン 撮影:ジョン・マシソン 音楽:ハンス・ジマー 美術:アーサー・マックス
キネマ旬報:8位
ア​カ​デ​ミ​ー​作​品​賞 ゴールデングローブ作品賞​

ローマは剣闘士の死に値するほど立派な国か?
 ​原​題​は​"​G​l​a​d​i​a​t​o​r​"​で​古​代​ロ​ー​マ​の​剣​闘​士​の​こ​と​。
​ ​古​代​ロ​ー​マ​帝​国​の​五​賢​帝​の​一​人​、​第​1​6​代​皇​帝​マ​ル​ク​ス​・​ア​ウ​レ​リ​ウ​ス​の​死​の​直​前​か​ら​第​1​7​代​皇​帝​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​の​治​世​(​1​8​0​-​1​9​2​年​)​が​舞​台​。​1​0​0​年​ぶ​り​の​嫡​子​へ​の​帝​位​継​承​だ​っ​た​と​い​う​点​を​押​さ​え​て​お​く​と​作​品​理​解​が​深​ま​る​。​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​の​姉​ル​キ​ッ​ラ​は​マ​ル​ク​ス​・​ア​ウ​レ​リ​ウ​ス​の​共​同​皇​帝​だ​っ​た​ル​キ​ウ​ス​・​ウ​ェ​ル​ス​の​未​亡​人​。​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​は​元​老​院​と​対​立​す​る​暴​君​で​、​史​実​で​は​暗​殺​さ​れ​て​い​る​。
​ ​主​人​公​の​将​軍​マ​キ​シ​マ​ス​(​ラ​ッ​セ​ル​・​ク​ロ​ウ​)​は​架​空​の​人​物​。​賢​帝​ア​ウ​レ​リ​ウ​ス​(​リ​チ​ャ​ー​ド​・​ハ​リ​ス​)​に​忠​誠​を​誓​う​が​、​父​帝​を​暗​殺​(​史​実​で​は​な​い​)​し​た​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​(​ホ​ア​キ​ン​・​フ​ェ​ニ​ッ​ク​ス​)​に​処​刑​さ​れ​そ​う​に​な​る​。​処​刑​は​免​れ​る​が​、​妻​子​を​殺​さ​れ​、​深​手​を​負​っ​て​奴​隷​に​。​剣​闘​士​と​な​り​、​ロ​ー​マ​市​民​の​英​雄​と​な​っ​て​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​に​復​讐​す​る​ド​ラ​マ​。
​ ​コ​ロ​ッ​セ​ウ​ム​を​始​め​と​す​る​C​G​が​話​題​に​な​っ​た​ス​ペ​ク​タ​ク​ル​・​エ​ン​タ​テ​イ​メ​ン​ト​で​、​単​な​る​復​讐​劇​に​見​え​る​が​、​リ​ド​リ​ー​・​ス​コ​ッ​ト​は​深​遠​な​テ​ー​マ​も​用​意​し​て​い​て​、​マ​キ​シ​マ​ス​の​死​後​、​ル​キ​ッ​ラ​は​彼​の​死​に​値​す​る​ほ​ど​ロ​ー​マ​は​立​派​な​国​か​と​問​う​。
​"​I​s​ ​R​o​m​e​ ​w​o​r​t​h​ ​o​n​e​ ​g​o​o​d​ ​m​a​n​’​s​ ​l​i​f​e​?​ ​ ​W​e​ ​b​e​l​i​e​v​e​d​ ​i​t​ ​o​n​c​e​.​ ​ ​M​a​k​e​ ​u​s​ ​b​e​l​i​e​v​e​ ​i​t​ ​a​g​a​i​n​.​ ​ ​H​e​ ​w​a​s​ ​a​ ​s​o​l​d​i​e​r​ ​o​f​ ​R​o​m​e​.​ ​ ​H​o​n​o​r​ ​h​i​m​.​"​(​ロ​ー​マ​は​良​き​男​の​命​に​値​す​る​の​か​?​ ​か​つ​て​そ​う​信​じ​た​が​、​も​う​一​度​信​じ​さ​せ​て​ほ​し​い​。​彼​は​ロ​ー​マ​の​戦​士​だ​っ​た​、​栄​誉​を​)
​ ​物​語​に​描​か​れ​る​マ​キ​シ​マ​ス​は​賢​帝​同​様​に​勇​気​と​英​知​を​備​え​た​人​物​で​、​元​老​院​や​ル​キ​ッ​ラ​を​含​む​政​治​家​た​ち​が​コ​ン​モ​ド​ゥ​ス​に​服​従​す​る​の​に​対​し​、​ロ​ー​マ​の​自​由​の​た​め​に​暴​君​と​戦​う​。​そ​れ​に​対​し​、​ル​キ​ッ​ラ​は​彼​の​命​と​引​き​換​え​に​す​る​ほ​ど​の​価​値​が​ロ​ー​マ​に​あ​る​の​か​と​問​う​。​こ​の​問​い​は​現​代​の​社​会​に​も​通​じ​る​普​遍​性​。
​ ​ラ​ス​ト​近​く​の​マ​キ​シ​マ​ス​と​ル​キ​ッ​ラ​の​キ​ス​シ​ー​ン​は​ハ​リ​ウ​ッ​ド​の​定​番​だ​が​不​要​。​む​し​ろ​テ​ー​マ​を​ぼ​や​け​さ​せ​た​。
​ ​ラ​ッ​セ​ル​・​ク​ロ​ウ​は​ア​カ​デ​ミ​ー​主​演​男​優​賞​を​受​賞​。​視​覚​効​果​賞​は​C​G​だ​け​で​な​く​、​自​然​の​美​し​い​カ​メ​ラ​ワ​ー​ク​も​見​ど​こ​ろ​。​冒​頭​と​ラ​ス​ト​に​描​か​れ​る​、​引​退​し​て​農​民​と​し​て​家​族​と​平​和​に​暮​ら​す​つ​も​り​だ​っ​た​マ​キ​シ​マ​ス​の​心​象​風​景​、​小​麦​畑​の​穂​を​撫​で​て​歩​く​シ​ー​ン​が​印​象​的​。
​ ​ほ​か​に​衣​裳​デ​ザ​イ​ン​賞​、​録​音​賞​。 (評価:3)

製作国:メキシコ
日本公開:2002年2月22日
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ・ホルダン 撮影:ロドリゴ・プリエト 美術:ブリジット・ブロシュ 音楽:グスターボ・サンタオラヤ
キネマ旬報:10位

生理的な感覚を伴ったバイオレンスで描く3つの愛の物語
 原題"Amores Perros"で、犬の愛の意。
 3つの愛の物語のオムニバス形式だが、『バベル』同様に交差点で起きた自動車事故でそれぞれの糸が絡むように構成されている。
 それぞれに犬が重要なモチーフとなっていて、犬をメタファーとして、それぞれの愛の形が描かれる。
 第1話は、兄嫁を愛してしまった青年のエピソード。兄は暴力男だが、兄嫁はそれでも別れることができず服従している。弟はその相談相手、良き理解者で、駆け落ちを持ちかけるが、兄嫁は夫が銀行強盗で撃ち殺されても弟の愛を受け入れない。
 兄嫁と同様な存在が獰猛な飼い犬で、これまた世話をするのは弟。弟は犬を闘犬に出場させて荒稼ぎをするものの、揉め事を起こして犬は重傷を負う。これが元で交通事故を起こし、犬は青年のもとを去る。
 第2話は、広告デザイナーと愛人のトップモデルのエピソードで、男は妻子を捨て、女に愛の巣を用意する。ところが女が第1話の交通事故に巻き込まれ、不具者となり、それまでの栄光を失ってしまう。
 女はペットの犬を飼っているが、これが床下に潜って出られなくなってしまい、籠の鳥となってしまった女を象徴する。
 第3話は、娘には死んだことになっている元テロリストのエピソード。乞食同然の生活ながらパトロンに家を与えられ、ヒットマンで暮らしを立てている。娘を見守るうちに部屋にまで不法侵入。何匹も犬を飼っているものの、第1話の猛犬を引き取ったために殺されてしまい、失意のまま、娘に存在を知らせるメッセージを残して猛犬とともに荒野に旅立つ。
 愛を得ることができず、孤独な存在とならざるを得ない男に、同じ運命の犬を投影させる。
 全体を貫くテーマのもう一つは暴力で、能動的にしろ受動的にしろ、それが人を破滅させ、愛を破壊してしまう。暴力描写は嫌悪感を催すほどにリアリティがあり、単なる記号としてのバイオレンスではなく、生理的な感覚を伴ったバイオレンスとなっているのが出色。
 とりわけ自動車事故の描写は真に迫る。
 イニャリトゥの長編第1作で、生硬さはあるものの、『バベル』に繋がるアイディアの萌芽が見られ、イニャリトゥの原点を知ることができる。 (評価:3)

ショコラ

製作国:アメリカ、イギリス
日本公開:2001年5月28日
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:デヴィッド・ブラウン、キット・ゴールデン、レスリー・ホレラン 脚本:ロバート・ネルソン・ジェイコブス 撮影:ロジャー・プラット 音楽: レイチェル・ポートマン

魔女の甘いチョコに騙されて佳作だと思い込まされる
 イギリスの女性作家ジョアンヌ・ハリスの同名小説が原作。
 フランスの田舎の村にやってきた流れ者の母娘が、チョコレート店を開き、その魔力で村人たちを虜にしていくというメルヘンチックな物語。これは魔女もので、媚薬チョコもあれば惚れチョコもある。対するは敬虔・謹厳な村長で、村人を堕落させる魔女に立ち向かう。中世の魔女の鉄槌を現代に置き換えた話ともいえるが、無論火炙りはない。
 魔女はシングルマザーで無神論者。村人たちを旧習や男性中心主義の考えから解き放ち、女性の自立と精神の自由を伝道する。リリスのように背教的で、悪魔のジョニー・デップとの恋もためらわない。
 このジェンダーフリーのテーマを本作はオブラートではなく、甘いチョコレートで包みこむ。魔女が作るチョコレート菓子は美味しそうで、観ていて食べたくなる。そして魔女の誘惑に負けて騙されそうになる。村人ではなく、観客が。
 しかし、保守的な村長はすべて間違っているのだろうか? 彼は快楽主義を戒め、自制・自律を説き、倹約と質素な生活を求める。それに耐えられなかった妻は家出して男と浮気をする。村長は妻に暴力をふるう男に懺悔させ、宗教的な生活を送ることを求める。村に不道徳を持ち込む者を排除する。行き過ぎた面はあるにせよ彼は心から村と村人たちを守ろうとする。
 一方の魔女はガリガリの教条主義者で、村の守旧派と話そうともしなければ、教会に足を向けようとしない。思い込みだけで行動し、糖尿病の老婆を死なせ、村長のプライバシーを罵倒する。村にいられなくなると、泣いて嫌がる娘を強引に連れて行こうとする。
 魔女が村に持ち込んだのは、自己中心主義と無責任な自由。彼女の姿は、昔キリスト教を世界に伝道し異教を排除した宣教師と変わらない。
 チョコレートの甘い香りと人の好さそうなジュリエット・ビノシュに騙されそうになるが、チョコはやっぱり悪魔の菓子。(個人的には悪魔の菓子は大好きだが)
 ジュディ・デンチが好演。ジョニー・デップは魔女の色男でほとんどお飾り的な役。 (評価:2.5)

製作国:香港、フランス
日本公開:2001年3月31日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ウォン・カーウァイ 脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル、リー・ピンビン 音楽:マイケル・ガラッソ、梅林茂 美術:ウィリアム・チャン
キネマ旬報:2位

プラトニックな不倫という大人のメルヘン
 花様年華は劇中にも出てくる歌『花様的年華』から採られていて、花のように華やかな時間の意。転じて女性の魅力的な年頃を指す。英題は"In the Mood for Love"(恋の気分の中で)で、ストレート。
 物語の舞台は1962年の香港。たまたま同じ日に同じアパートに2組の若夫婦が引っ越してきたことが発端。新聞記者の主人公(トニー・レオン)と隣室の商社マンの妻(マギー・チャン)はバッグとネクタイからそれぞれの妻と夫が不倫関係にあることに気づき、それをきっかけに二人は逢瀬を重ねるようになる。次第に二人の間に愛情が芽生えるが、一線は踏み越えない。二人の関係は大家の知るところとなり、レオンは香港を離れる。チャンには子供が生まれアパートを去る。すれ違ったまま、レオンはカンボジアで過ぎ去った恋を追憶する。
 ロマンティックで、プラトニックな不倫という大人のメルヘン。しかし、それぞれの配偶者はどっぷり不倫に浸かっているのだから、なぜ操を立てて二人が離婚しないのかがよくわからない。それとも、メルヘンにリアリティを持ち込むのは野暮? そういった作為は随所に感じられて、互いの配偶者は画面に登場しないし、ストーリーも細かいカットが続いて説明不足。それを想像で補うのがメルヘンということか? もう一つ、レオンもチャンも配偶者に不倫されてしまうという可哀そうな人たちなのだが、美男美女の組み合わせだけに説得力がなく、この二人を袖にするのはいったいどれほどの美男美女? と想像が膨らむ・・・が出てこない。
 大人の恋というからには、性的関係を忌避したプラトニックな愛というのはあまりに幼児的で、性的関係を踏まえてこその真のプラトニックな愛なのではないかと文句をつけたくなるが、カーウァイは大人になってもピーターパンであり続ける少年少女のような男女のメルヘンを描きたかったのだろう。
 低予算映画ながら映像は詩的でいい。これだけをもってキネ旬の評論家たちは2位に選んだのかもしれない。チャンのチャイナドレスはセクシーで必見。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:2002年9月14日
監督:フランソワ・オゾン 製作:オリヴィエ・デルボス、マルク・ミソニエ 脚本:フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム、マリナ・ドゥ・ヴァン、マルシア・ロマーノ 撮影:アントワーヌ・エベルレ、ジャンヌ・ラポワリー 音楽:フィリップ・ロンビ
キネマ旬報:5位

互いに気を病んでまで愛する姿にさらに感動
 原題は"Sous le sable"で、砂の下の意。
 熟年の夫婦が南フランスで休暇中、妻が砂浜で寝そべっている間に夫が失踪してしまうという物語。観客に対しては溺れたのではないかという推測のまま、妻のその後の生活となるが、部屋には夫がいて、やがてそれが彼女の幻想なのだということがわかる。妻に言い寄る男がいて、妻の心が揺れ動き、初めての不倫をするが、それを優しく見つめる夫の幻影を振り切れないまま、女は男を「あなたには重みがないのよ」と言って別れる。
 夫の溺死体が上がり、妻は検視に立ち会うが、夫ではないと頑強に否定し、思い出の浜辺で再び夫の幻想にめぐり合えるというシーンで終わる。
 死んだ夫をどこまでも愛し続けるというラブストーリーで、フランス映画となれば、ロマンチックでファンタジックな物語をただ受け入れるしかないが、映像がまたおフランスなほどに美しく、特に遠くにいる夫に向かって砂浜に足跡を残しながら遠ざかっていく妻の後姿のラストシーンは、心憎いほどに甘く切ない。
 この熟年の愛らしい女を『愛の嵐』のサスペンダー女、シャーロット・ランプリングが円熟の演技で好演する。
 夫の死は鬱病による自殺で、それを知らなかった妻を夫の母がなじるが、実は女が夫の幻影を見るのも精神病で、それが夫の死の原因なのではないか、と深読みすると、互いに精神を病んでまで愛する姿にさらに感動が深まる。
 それとは別に、フランスでは夫婦がほかに恋人を持つのは普通なのかしらんと思わせる台詞もあったりするが、54歳のランプリングが衰えもなくセックスする姿にある意味感心したりもする。 (評価:2.5)

製作国:韓国
日本公開:2001年5月26日
監督:パク・チャヌク 製作:イ・ウン、シム・ジェミョン 脚本:キム・ヒョンソク、チョン・ソンサン、イ・ムヨン、パク・チャヌク 撮影:キム・ソンボク 音楽:チョ・ヨンウク
キネマ旬報:5位

ストーリーは面白いが人間ドラマにはなっていない
 原題"공동경비구역 JSA"で、共同警備区域JSAの意。JSAは、Joint Security Areaの略で同義。
 板門店のJSAが舞台。韓国兵士イ・スヒョク(イ・ビョンホン)が偵察中に38度線を越えて北の地雷を踏んでしまう。そこへ北朝鮮兵士オ・ギョンピル(ソン・ガンホ)がやってきて信管を外し助けてくれ、それ以来二人の秘密の文通が始まり、スヒョクはギョンピルを兄貴と慕う。ある日、スヒョクがギョンピルを訪ねて北朝鮮監視所に現れ、ギョンピルと同僚ウジン(シン・ハギュン)、さらにスヒョクの同僚ソンシク(キム・テウ)が仲間に加わる。
 ある日、4人が歓談していたところにギョンピルの上官が現れ、撃ち合いとなって、上官とウジンが死亡。この事件を巡ってスヒョクは北朝鮮に拉致された、ギョンピルは韓国が攻撃を仕掛けたと真実を隠す。
 物語は、真相を究明するべくスイス軍美人士官(イ・ヨンエ)が中立国監視委員会から派遣されてくるところから始まるが、この美人士官の父親が朝鮮戦争時に人民軍幹部で、停戦後外国に亡命したという設定になっている。
 南北朝鮮の融和がテーマの作品で、民衆同士は兄弟になることができるというメッセージが織り込まれているが、エンタテイメント性を意識しているために、スイス軍の美人士官といういささか違和感のある設定が盛り込まれている。この美人士官が語り手となり、美人であるがゆえに主要人物として配置され、名探偵コナンよろしくミステリー仕立てにもなっているが、銃弾を使ったミステリーはわかりにくい上に面白くもなく作品としては不要。
 物語そのものの主人公はスヒョクとギョンピルだが、スヒョクがなぜギョンピルを慕うのか、なぜ停戦ラインを越えてまで会いに来たのかという理由は最後まで判然としない。テーマとストーリー上必要な設定であることが優先され、人物の心理まで掘り下げられていないため、物語としては面白いが人間ドラマにまでは昇華されていない。 (評価:2.5)

メメント

製作国:アメリカ
日本公開:2001年11月3日
監督:クリストファー・ノーラン 製作:ジェニファー・トッド、スザンヌ・トッド 脚本:クリストファー・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター 音楽:デヴィッド・ジュリアン

時系列を遡って物語を完成させていくジグソーパズルのドラマ
 原題"Memento"で、記憶を留めておくものの意。クリストファー・ノーランの弟ジョナサン・ノーランの短編"Memento Mori"(死を想え)が原作。
 殺害現場のポラロイドの画像がだんだん薄らいでいくという、?となるプロローグで始まるが、これがフィルムの逆回転だとわかると、因果関係の果から始まる時間を逆行するドラマだと気づく構成が上手い。
 果から因へと時系列を遡っていくストーリーを破綻なく見せるシナリオがよくできていて、過去の過去をモノクロ映像で描くなど、ストーリーのトリックを楽しみながら謎をとくミステリーになっている。
 思考力と集中力を要求するので見ていて疲れるが、脳の損傷で10分の記憶しか保持できない主人公に同化して、失われた記憶をジグソーのピースを繋ぎ合わせるように絵を完成させていく過程がパズルのように楽しめる。
 物語を時系列で説明すると、妻(ジョージャ・フォックス)をレイプされた保険調査員のレナード(ガイ・ピアース)が犯人に復讐をする話で、犯人との格闘の際に脳を損傷、記憶を10分しか保てなくなる。それを心的障害と疑う妻は持病の糖尿病の注射で試そうとして事故死。レナードはそれを架空のサミー(スティーヴン・トボロウスキー)と夫人の保険金詐取話に創作してしまう。
 担当刑事のテディ(ジョー・パントリアーノ)はレナードにレイプ犯ジョン・Gへの復讐を許すが、レナードは殺害したことを忘れてしまい、新たなジョン・Gへの復讐を繰り返し、テディをジョン・Gと思い込んで殺すところがプロローグ。以下、映画では時系列を遡っていく。
 記憶を保持できないレナードが、ジョン・G探しのためのメモを体に入れ墨していくというのがミソで、復讐を遂げてもそれを忘れてしまうために、体のメモを見て再び復讐を始めてしまうという、永遠の復讐鬼になってしまったというのがオチ。この刺青がタイトルのMementoということになる。 (評価:2.5)

散歩する惑星

製作国:スウェーデン、フランス
日本公開:2003年5月3日
監督:ロイ・アンダーソン 製作:フィリップ・ボベール 脚本:ロイ・アンダーソン 撮影:イシュトヴァン・ボルバス、イェスパー・クレーヴェンオース 音楽:ベニー・アンダーソン

面白いわけでもないのに不思議な世界に引き摺り込まれる
 原題"Sånger från andra våningen"で、2階からの歌の意。
 北欧風のある街を舞台に脈絡のないストーリーと人物たちの織り成す風景を点描していく不条理ドラマ。
 会社のリストラ、人捜しの末の暴力被害、手品師に胴を切られた男、人々が同じ場所を目指すが故の交通渋滞と世界観の説明と暗喩が示された後、自分の店に放火した男カールの話になる。
 すべてを終わらせるつもりだったカールは、保険会社の人間に株価が下落し限界を超えたと訴え、通りではデモ隊が投石を始める。タクシー運転手のカールの長男は客の悩み事を聞いているうちに自閉症で入院。カールが神父に相談に行くと、神父は家が売れなくて困っていると嘆く。
 神も当てにできないカールは、商売人からイエスの十字架を仕入れると100倍で売れると聞いて購入。結局売れずにいると、自殺した友人、ドイツ軍に処刑された青年、大人たちに騙されて穴に突き落とされた少女の幽霊が現れて、カールを責め立てるという流れ。
 行き詰まった世の中を背景に苦悩する男を様々な暗喩を基に描いていくが、特に面白いわけでもないのに不思議な世界に引き摺り込まれてしまうのは、CM界が長いロイ・アンダーソンのなせる技か。
 「慈しむべきは座らせる者」などペルーのセサル・バジェホの詩が繰り返し引用されていて、政治、宗教、経済、教育など、理念や倫理が失われ、混迷と不信が取り巻く中で、生きにくい世の中で逼塞する人々の姿に妙に共感を覚える。 (評価:2.5)

チャドルと生きる

製作国:イラン
日本公開:2002年8月31日
監督:ジャファル・パナヒ 製作:ジャファル・パナヒ 脚本:カンブジア・パルトヴィ 撮影:バラム・バダクシャニ
ヴェネチア映画祭金獅子賞

イラン女性が置かれた状況の理解のための説明が欲しい
 原題"دایره"で、サークル(円)の意。
 イランの女性の置かれたさまざまな状況をリレー方式で描いていく構成で、ソラマス・ゴラミという女の出産から始まり、刑務所を仮出所した3人の女、脱走した刑務所仲間の女、その友人の看護婦、捨て子をする女、娼婦とバトンされ、娼婦の入れられた留置所で、ソラマス・ゴラミの名が呼ばれるというサークルを成す。
 1日の出来事で、期待された男の子ではなく女の子を産んだソラマスがその晩、なぜ留置所にいるのかは語られないが、リレーする女性たちはイラン社会からドロップアウトした女たちで、煙草を自由に吸えず、単身ではバスの切符が買えず、自由にホテルに宿泊することもできない。
 女たちがそれぞれどのような理由から刑務所に入ったのかという理由は説明されないが、おそらく戒律に反して社会から弾き出され、街角に立ち、子供を捨てざるを得ないような女たちが、イスラム原理主義の国イランにもいるという事実が興味深い。
 手持ちカメラの多用によるドキュメンタリータッチの作品で、対象が次々と変わり、それぞれのエピソードの説明と起承転結がないために、当初は話の流れがつかみにくい。イランの女性を取り巻く状況を俯瞰していくことに力点が置かれているが、その状況への観客の理解を深めるためには、もう少し説明がほしいところ。
 ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞作。 (評価:2.5)

製作国:中国
日本公開:2002年4月27日
監督:チアン・ウェン 製作:チアン・ウェン 脚本:チアン・ウェン、ユウ・フェンウェイ、シー・チェンチュアン、シュー・ピン、リウ・シン 撮影:クー・チャンウェイ 音楽:リウ・シン、リー・ハイイン、ツイ・ジェン
キネマ旬報:3位

鬼子は日本兵か、八路軍か、それとも人間の業?
 原題"鬼子來了"で邦題の意。
 終戦の年の旧正月を挟む華北地方の大河沿いの村が舞台。主人公(姜文)の家に何者かが日本兵(香川照之)と中国人通訳を置き去りにするところから物語は始まり、鬼子の日本兵と村人たちとの交流が描かれていく。
 始めは理解し合えない両者もやがて敵味方を越えた庶民同士・人間同士の関係に変わっていくところが見どころで、最後は二人を日本軍に届けるのだが、虜囚となった日本兵の扱いが終戦とともにこの村に影を落とす。
 日本兵や日本軍の描写など不自然さも多いが、村人たちの多くがノンポリで、長い物には巻かれろ、政治よりは生活、損得勘定優先という農民気質に描かれているのがある種リアルで、抗日映画になってはいない。
 全体はほのぼのとしたコメディタッチで描かれるが、後半、日本を背負う隊長によって村は殲滅され、終戦とともにやってきた連合軍・中華民国軍は裏切り者の中国人通訳を殺す。また村を殲滅された恨みから収容所の日本兵を殺害した主人公が、助けた香川に処刑されてしまうという、個人から国家の争いに変わってしまう。
 そうした点では国家と個人という、やや使い古されたテーマなのだが、本作が中国で創られたということに意味があって、カンヌ映画祭審査員特別グランプリなどで評価された。もっともそうした評価自体が政治的と言えなくもない。
 そうした事情を映すように、本作に八路軍は登場せず、悪者になるのは日本軍・中華民国軍・連合軍だけで、八路軍はアンタッチャブルとなっている。
 そこで最初に登場する「私」は何者かということになるが、合理的に考えれば八路軍しかなく、日本軍に占領されながら媚びを売る村に、禍を放り込んで村人たちを試したとすると筋が通る。
 普通にはタイトルの鬼子は、この禍の種である日本兵だが、あるいは八路軍、あるいは「私」自体が超自然的な神だったとも考えられ、その場合、鬼子は戦争や人間の業そのものとなる。 (評価:2.5)

製作国:デンマーク
日本公開:2000年12月23日
監督:ラース・フォン・トリアー 製作:ヴィベケ・ウィンデレフ 脚本:ラース・フォン・トリアー 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ビョーク
キネマ旬報:9位
カンヌ映画祭パルム・ドール

一片の楽しさもないミュージカルを作る意味
 原題"Dancer in the Dark"で、暗闇の中のダンサーの意。
 遺伝的に視力を失っていく病気を抱えたアメリカのチェコ移民の女セルマ(ビョーク)が主人公のドラマ。
 セルマには一人息子がいて、将来的に失明する息子のための手術代を貯めるために、町の板金加工工場で働いているが、失明しかかっているための失敗から失業。彼女の生き甲斐であるミュージカルの主役も降りなければならなくなる。
 トレーラーハウスの大家ビルがセルマの目の悪いのをいいことに預金を着服。それがきっかけで、ビルを殺害、裁判で絞首刑となる。
 このドラマのわからないのは、セルマが移民で無知だからなのか、それとも知能が低いからなのか、不合理な態度を取り続けて、わざわざ自分を死に追いやっていること。さらには、目が悪く非力な彼女にビルが殺せたのか、ビルの経済状況などの証拠から有罪が立証できるのかなど、シナリオの不合理さも気になる。
 形式はビョーク主演のミュージカルで、演舞がセルマの空想という点でミュージカルにありがちな唐突さがなく、ドラマと上手く融合させていて、工場内や列車シーンでの演舞がユニークで見どころ。もっともセルマの生き甲斐となる劇中劇の『サウンド・オブ・ミュージック』が単なるエピソードでしかなく、セルマのドラマに活かされていないのが物足りない。
 ミュージカルとしても中国の文化大革命時代の革命演劇のようなプロレタリアート感が漂っていて、一片の楽しさもないミュージカルを作る意味って何なんだろうと考えてしまう。
 絞首後に残す言葉"They say it's the last song/They don't know us, you see/It's only the last song/If we let it be"が意味深で、字幕では「これは最後の歌じゃない分かるでしょう? 私たちがそうさせない限り、最後の歌にはならないの」と意訳されているが、今一つ意味が分かりにくい。
 直訳すれば、「みんなは最後の歌だと言うけれど、私たちのことを知らないのよ、そうでしょう? そのままにしておいたら最後の歌になるだけなの」となり、テルマの死刑を最後の歌に譬えているように見える。
 移民の境遇がテーマなのか、死刑制度廃止がテーマなのか、虐げられた女性がテーマなのか、今一つ何を描きたかったのかわからない作品だが、ビョークが主人公のミュージカルであることに意味があったのかもしれない。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞。 (評価:2.5)

ハンニバル

製作国:アメリカ
日本公開:2001年4月7日
監督:リドリー・スコット 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス 脚本:デヴィッド・マメット、スティーヴン・ザイリアン 撮影:ジョン・マシソン 音楽:ハンス・ジマー

ジョディ・フォスターがいないと、ホップを欠いたビールのよう
 原題"Hannibal"で、主人公ハンニバル・レクターの名前。トマス・ハリスの同名小説が原作で、『羊たちの沈黙』(The Silence of the Lambs)の続編。
 前作から10年。精神病院から脱獄したレクターはフィレンツェに潜伏し、図書館で講義をしている。一方、情け容赦なく犯人を殺しまくるクラリスは遺族から告訴され、かつてレクターに顔を潰されて復讐しようとする富豪(ゲイリー・オールドマン)が所在を突き止め、窮地のクラリスをイタリアに派遣する。
 フィレンツェの刑事が懸賞金目当てでレクターに接近するも豚の餌にされるなどレクターも活躍し、やってきたクラリスを拘束するも、逆に手錠を嵌められ、クラリスへの愛ゆえに自分の手首を切って逃亡する・・・というお話。
 まとまってはいるが、前作ほどにはスリルもサスペンスもなく、プラスアルファもない凡庸な続編。とりわけ肩透かしなのは、クラリスがジョディ・フォスターからジュリアン・ムーアに代わったことで、ホップを欠いたビールのように気が抜けている。
 レクターがクラリスへの愛を示すシーンも、結局のところ前作が前提となっていて、本作にはそれを裏付けるシーンが皆無で、続編もジョディ・フォスターでないと説得力を持たない。
 それを補うべくリドリー・スコットは残虐シーンを入れているが、老けた好々爺のアンソニー・ホプキンスと共に迫力不足は否めない。 (評価:2.5)

チャーリーズ・エンジェル

製作国:アメリカ
日本公開:2000年11月11日
監督:マックG 製作:ドリュー・バリモア、レナード・ゴールドバーグ、ナンシー・ジュヴォネン 脚本:ジョン・オーガスト、ライアン・ロウ 撮影:ラッセル・カーペンター 音楽:エド・シェアマー

くだらないと思いつつも1時間半を退屈せずに楽しめる
 原題"Charlie's Angels"で、1976-1981年に放映されたTVドラマシリーズの映画化。
 チャーリー探偵事務所に所属する女性探偵3人の活躍を描く。タイトルの通り、天使のようなお色気たっぷりの若き美女トリオという設定。チャーリーは顔を見せることなく、彼女たちと接するのはボスレーのみ。
 映画でエンジェル3人娘を演じるのは、キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リューで、公開時、ルーシー・リューの起用に、アメリカ人の東洋女に対する美的センスの違いを思った記憶がある。
 声紋認識ソフトとその開発者が誘拐されたという依頼が舞い込み、エンジェルたちが出動するが、実は戦時中にチャーリーに殺された父親の復讐をするための罠だったという物語。
 もっとも物語は付け足しのようなもので、正直稚拙。ただ、本作の目的は3人娘のセクシーな魅力とアクションにあって、それを楽しめない人には駄作でしかない。
 かなりおバカな映画で、アクションは『マトリックス』(1999)をなんのてらいもなくパクっている。ただ、3人娘のワイヤーアクションはかなり頑張っていて、『マトリックス』のパロディだと思えばそれなりに楽しい。
 基本はセクシー・コメディなので、3人娘のお色気を楽しむのが一番だが、キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモアが男装するシーンが結構笑えて、くだらないと思いつつも1時間半を退屈せずに楽しめる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年11月3日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、アンドリュー・ラザー 脚本:ケン・カウフマン、ハワード・クラウスナー 撮影:ジャック・N・グリーン 音楽:レニー・ニーハウス
キネマ旬報:1位

最後まで笑わせてほしかった爺さんたちのファンタジー
 クリント・イーストウッドの監督・主演作品。原題は"Space Cowboys"。
 有人宇宙飛行計画のマーキュリー計画以前に、空軍パイロットチームを宇宙に飛ばすダイダロス計画があったという設定で、猿にその座を奪われ挫折した4人が40年後に、旧ソ連の通信衛星落下の危機を救うためにスペースシャトルで飛び立つという話。爺さんになった4人が、果たせなかった40年前の夢に再挑戦するという、これは老人のファンタジー映画。
 よぼよぼの爺さんたちがNASAの身体検査や訓練を受ける様子がコミカルで楽しいが、宇宙に飛び立ってからは急にシャキシャキして、旧ソ連衛星の謎といったシリアスな展開になって、コミカルさがなくなってしまうのが残念。アメリカのSF映画というのはアクション優先で科学的設定が無茶苦茶なものが多くて興ざめしてしまうのだが、この作品もその例に漏れない。爺さんたちには最後まで笑わせてほしかったし、お涙頂戴の英雄的ラストは安っぽく納得がいかない。老人のファンタジーを最後まで貫いてほしかった。最後は絶対に"Fly Me to the Moon"が流れると思っていると、期待通りなのもベタ。
 冒頭の戦闘機のテストパイロットのシーンは見どころ。タイトル通り、西部劇の宇宙版というスタンスで気楽にみる映画。
 4人組の1人、ドナルド・サザーランドは『24』のキーファー・サザーランドの父親。元上官ボブのジェームズ・クロムウェルは、ジャックの父親。同じく元同僚ジーンのウィリアム・ディヴェインは、ヘラー米国防長官と、『24』に縁が繋がる。 (評価:2.5)

グリーン・デスティニー

製作国:アメリカ、中国
日本公開:2000年11月3日
監督:アン・リー 製作:ビル・コン、シュー・リーコン、アン・リー 脚本:ワン・ホエリン、ジェームズ・シェイマス、ツァイ・クォジュン 撮影:ピーター・パウ 美術:ティミー・イップ 音楽:タン・ドゥン、ヨーヨー・マ
アカデミー外国語映画賞

救いは武侠アクションに頑張るチャン・ツィイー
 原題"臥虎蔵龍"で、臥せる虎、隠れる龍の意。王度廬の同名武俠小説が原作。
 剣の達人リー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)が戦いと修業に疲れ、名剣・碧名剣を人に預けて引退をするが、碧名剣が盗まれてしまう。この事件をきっかけに剣に復帰したムーバイが、師の敵である盗賊・碧眼狐を討つまでの物語。
 もっともムーバイは碧眼狐と相討ちになり、ムーバイを慕う女剣士シューリン(シェール・ヨー)に愛を伝えて果てるという悲劇。
 碧名剣の争奪戦、碧眼狐との戦いと並行して、役人の娘イェン(チャン・ツィイー)が碧眼狐の弟子となるまでが語られるが、ムーバイの死後、武術の聖地へと恋人ロー(チャン・チェン)と向かうが、何を思ったか谷に身を投げるという、今一つスッキリしないWの悲劇で終わる。
 ストーリーはつまらないが、中国の砂漠や山岳地帯の映像と武俠ドラマらしいアクション、それとチャン・ツィイーの美貌が見どころ。
 京劇のような剣舞と見得がいかにも中国映画らしいが、ワイヤーアクションがてんこ盛りで、忍者のように壁を駆け上がり、屋根や水の上を跳びはね、スーパーマンのように宙を飛び、壁キックをする段になると、スーパーマリオのゲームを見ているような気になる。
 見え見えのワイヤーアクションも初めのうちは笑って見ていられるが、度を過ぎれば次第に飽き、アクションと恋愛だけの単純なストーリーに次第に退屈になる。
 チャン・ツィイーが武侠アクションを頑張って演じている姿がせめてもの救いか。
 邦題のグリーン・デスティニーは碧名剣のこと。 (評価:2)

M:I-2

製作国:アメリカ
日本公開:2000年7月8日
監督:ジョン・ウー 製作:テレンス・チャン、トム・クルーズ、ポール・ヒッチコック、ポーラ・ワグナー 脚本:ロバート・タウン 撮影:ジェフリー・L・キンボール 音楽:BT、ハンス・ジマー

スパイの活躍よりは美男美女のラブコメ
 原題"Mission: Impossible II, M:I-2"。1966-73年に放映されたテレビシリーズ『スパイ大作戦』(Mission: Impossible)の映画化第2作。邦題のM:iはミッション・インポッシブル(Mission: Impossible=任務:不可能なこと)の略。
 前作でフェルプスが消滅して、代わりにイーサン・ハントが指令を受けるが、消滅するのはテープではなく眼鏡型端末。前作でフェルプスからの移行は完了し、本作がトム・クルーズ独り立ちの新シリーズの本格的第1作。
 もっとも、冒頭から二枚目トム・クルーズのにやけ顔全開で、何やら気持ちが悪い。にやけ顔イーサン・ハントを新シリーズの売りにするが、どんなピンチも締まりのないにやけ顔を見せられると、余裕を通り越した痴呆に見えてしまい、『スパイ大作戦』のサスペンスフルな雰囲気は微塵も消え失せて台無し。
 冒頭では、休暇中にロッククライミングをしているイーサンに指令が出されるが、ザイルもなしの岩登りに、ヘリからロケットで小包を送るという、荒唐無稽を通り越した漫画ぶりに思わず呆れる。
 指令の内容も、テロリストに奪われた細菌兵器キメラウイルスを取り戻すために、美人の泥棒を仲間にしろという何とも言えないもので、結局のところは007もどきのスパイとお姉ちゃんのラブラブサスペンス。
 これがトム・クルーズ版Mission: Impossibleという触れ込みで、大きな勘違いをしてしまった作品。
 スパイの活躍よりは美男美女のラブコメを楽しむという、ハリウッド・エンタテイメントの王道を行く作品だが、やはりこれではMission: Impossibleとはいいがたい。
 キメラウイルスの解毒剤がベレロフォンというギリシャ神話からの援用も、なんかな~という感じ。 (評価:2)

ファウスト

製作国:アメリカ、スペイン
日本公開:劇場未公開
監督:ブライアン・ユズナ 製作:ブライアン・ユズナ、フリオ・フェルナンデス 脚本:デヴィッド・クィン 撮影:ジャック・ヘイトキン 音楽:シャビエル・カペラス

作品的には駄作だが制作者のB級的心意気だけは買える
 原題"Faust: Love of the Damned"で、ファウスト:永遠に呪われた者の愛の意。トム・ヴィジルとデヴィッド・クィンの同名コミックが原作。
 秘密結社ハンドのM=メフィストフェレスに魂を売った青年ジャスパーズ(マーク・フロスト)は、命じられるままに殺戮の限りを尽くすが、刑事ダン(ジェフリー・コムズ)を前にして怯んでしまう。逮捕されて精神病院に入れられるが、実は警察署長もMの仲間で、Mを連れ去り生き埋めにしてしまう…
 と、ここまではエロ・グロ・ナンセンスのB級ホラー映画で、首は飛ぶわセックスはするわでつまらない映画を観たと後悔するが、ジャスパーズがファウストと記された墓から甦り、マントを翻すダーク・ヒーローとして復活する辺りから、なんでもアリのエンタテイメントとなり、暇つぶし程度には楽しめるようになる。
 ジャスパーズを治療していた真面目そうな女性精神科医ジェイド(イザベル・ブルック)が、封印されていた子供の頃の記憶を取り戻した途端に淫乱に変身したり、SMは出てくるわ、ホムンクルスまででてくるわで、Mも人間なのか悪魔なのかよくわからないままに、善と悪が渾然一体となった展開が続く。
 エロ・グロ・ナンセンスのエンタテイメント描写で強引に引っ張っていくので、見終わればストーリーはともかくアナーキーな気分だけは得られる。
 理由はわからないがジェイドはジャスパーズを好きになったらしく、Mに自らを提供する代わりにジャスパーズとの悪魔の契約を破棄させ、ジャスパーズがMを殺して自らも果てるというB級らしい結末。
 作品的には駄作だが、制作者のB級的心意気だけは買える。 (評価:2)

TAXi2

製作国:フランス
日本公開:2000年8月12日
監督:ジェラール・クラヴジック 製作:リュック・ベッソン、ロラン・ペタン、ミシェル・ペタン 脚本:リュック・ベッソン 撮影:ジェラール・ステラン 美術:ジャン=ジャック・ジェルノル 音楽:アル・ケミア

忍者アクロバットがアクション的な見どころ
 原題同じ。マルセイユが舞台のカーアクション映画の続編。
 ダニエル(サミー・ナセリ)が、恋人リリー(マリオン・コティヤール)の父親でフランス陸軍のベルティノー将軍(ジャン=クリストフ・ブーヴェ)をマルセイユ空港に送ったことがきっかけで、日本の防衛庁長官(平田晴彦)の車を運転することになり、誘拐を企むヤクザとの争いに巻き込まれるという物語。
 妊婦を病院に送り届けるエピソードからベルティノー将軍を空港に送り届けるあたりまでは面白いが、刑事のエミリアン(フレデリック・ディーファンタル)が登場して警察に話が移るとギャグがベタになり、話も定型になって途端につまらなくなる。
 ヤクザとの攻防が中心になるため、忍者アクロバットがアクション的な見どころになる。エミリアンの憧れの君ペトラ警部補(エマ・シェーベルイ)も日本語が話せる上に柔道上級者。ヤクザに対する数々の誤解は大目に見るにしても、アクションだけでストーリーがなく、エピソードにも工夫がないのが辛い。
 カーアクションの見どころは、今回ダニエルのプジョーに翼がついて滑空できるというもので、『007』のボンドカーになってしまうと、カーアクション映画としてはどこか違う。
 終盤はヤクザとのカーチェイスでマルセイユからパリへ。パリ見物も楽しめるという仕掛けになっている。 (評価:2)

製作国:韓国、日本
日本公開:2000年10月21日
監督:イ・チャンドン 製作:ミヨン・ケナム、上田信 脚本:イ・チャンドン 撮影:キム・ヒョング 美術:パク・イルヒョン 音楽:イ・ジェジン
キネマ旬報:10位

因果を遡る構成はアイディアは面白いが企画倒れ
 原題は"박하사탕"で、邦題の意。NHKとの共同制作。
 青年が人生の不幸を呪って自殺するまでの過程を追った物語で、合コンで知り合った女の子との悲恋という形を取っている。
 本作の最大の特徴は、章立てになっていて、時系列を遡っていくという構成になっていること。結果から原因を辿るという因果が逆になっているため、物語としては非常にわかりにくく、2度見なければ理解できないのが大きな欠陥。アイディアとしては面白いが、シナリオ・演出的に成功しているとは言い難く、企画倒れになっている。
 ストーリーを時系列通りに組み立て直すと、河原の合コンで女の子を見染め、おそらく相思相愛になる。おそらくというのは、二人の恋の過程が全く描かれていないため。
 次のシーンでは、青年が徴兵され、少女は駐屯地に逢いに行く。朴正煕暗殺後の戒厳令下のため面会ができず、この時、暴動鎮圧に出動した青年は脚に銃弾を受け、誤って女子高生を銃殺してしまい、脚と心に消えない傷を残す。
 除隊後、暴力刑事となった青年を少女が訪ねるが、元のピュアな人間に戻れない青年は少女を追い返し、プレゼントされたカメラを返す。
 別の女と結婚し子供もできるが、初恋の人を忘れられない。刑事を止めて起業し、浮気も経験した結果、妻も浮気して離婚。事業も失敗し、自暴自棄になった男は銃を手に入れて自殺しようとするが死にきれず、そこへ初恋の人が危篤で会いたがっていると知らせを受け、最期の死に目に愛を確認、かつてのカメラを渡される。
 20年前の合コンの同窓会が同じ場所で開かれると知って、彼女との悲恋を恨んで死に場所に選ぶ・・・というのが大筋。
 韓国の現代史を青年にシンクロさせて、それが原因で青年が破滅への道を歩んでしまったというには、ストーリーが脆弱かつ凡庸で、ほとんど逆恨みに近いのがテーマ的には痛い。
 奇をてらった構成もノーマルではなく、章を繋ぐ鉄路の映像も列車の後方を逆戻しに再生しているのが面白いくらい。
 タイトルは少女が飴工場の女工で、駐屯地に飴を添えてラブレターを送ったという思い出の品から。 (評価:1.5)

製作国:香港、日本、フランス
日本公開:2001年12月1日
監督:ジャ・ジャンクー 脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:半野喜弘
キネマ旬報:7位

いつ終わるとも知れない文化劇団の緩慢な2時間半
 原題"站台"は邦題の意。
 監督・賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の出身地、山西省・汾陽(フェンヤン)が舞台。1980~90年にかけて、汾陽の文芸工作団の男女4人の若者たちの10年間を追う物語で、文革後、開放政策とともに変化していく様子を描く。
 毛沢東を題材に取った情宣活動の芝居を上演するところから物語は始まり、開放政策の始まりによって若者たちの服装もラッパズボン、ワンピースと変わり、外国映画や外国音楽へと変わっていく。古い世代や労働者たちは、そうした新しい文化に眉を顰め、共産党の方針に反する自由な言動に戸惑うが、パーマや化粧、女の子たちの喫煙、ラジカセ、サングラス、ポップスといった開放の波が文化を担う劇団を変えていく。
 そうした中で、劇団も補助金を打ち切られて団長が抜け、自分たちの手で運営せざるを得なくなり地方巡業を始める。演目もブレイクダンスやロック音楽へと変わっていく。一方、男女4人の間にも恋や妊娠、別離といったドラマが展開し、変わっていく若者たちの姿をも描いていくが、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)特有のブツ切れのシーンを説明なしで不連続に繋ぐ演出と編集は、中国の庶民史・風俗史を知らない者には甚だ不親切な上、ストーリー性もドラマ性も皆無で無機質極まりない。
 更に必要以上の長回しの多用は、退屈さに相乗効果をもたらすため、2時間半が苦痛となって、エンディングへのカウントダウンが始まるのが待ち遠しくなる。
 もっともこの緩慢な変化は句読点のない単調さの連続なので、いつ終わるとも予想できず、クライマックスもなく突然にエンドロールが流れ始める。
 見どころはといえば巡業に出てからの各地の風景だが、残念ながらこれも変化に乏しく単調な景色。
 4人の若者にワン・ホンウェイ、チャオ・タオ、リャン・チントン、ヤン・ティェンイー。 (評価:1.5)

レプティリア

製作国:アメリカ、メキシコ
日本公開:劇場未公開
監督:トビー・フーパー 製作:フランク・デマルティーニ、ボアズ・デヴィッドソン、ダニー・ラーナー 脚本:アダム・ギーラッシュ、ジェイス・アンダーソン、マイケル・D・ワイス 撮影:エリオット・ロケット 音楽:サージ・コルバート

あまりに芸がない人喰いワニのパニック映画
 原題"Crocodile"で、ワニのクロコダイルのこと。動物パニックもののオリジナルビデオ作品。
 若者たちが春休みに湖畔のキャンプに訪れ、巨大な人食いワニに襲われるという、ただそれだけの映画。ホラー映画の巨匠トビー・フーパーの監督というのが売りだが、ビデオサイズとしてもあまりに芸がない。
 『ジョーズ』(1975)のサメがワニに置き換わっただけで、迫力もなければ緊迫感もなく、シナリオがつまらなくエピソードのアイディアもない。CGと張りぼての制作費が足りない分、演出に工夫がない。
 興醒めなのがワニに喰われた人間の張りぼてが粗悪なことで、頭部や手首が笑えるほどにチープ。ワニに二つ折りにされる人形が、ポッキリ真っ二つというのも観客を舐めている。
 パニック映画の例にもれず一人ずつ退場していくが、ダラダラしていて思わず早送りしたくなる。
 見どころを敢えて探せば、同じワニでもアリゲーターよりもクロコダイルの方が凶暴で、巨大なものがいることを知るくらいか。
 邦題は爬虫綱(Reptilia)のこと。 (評価:1.5)

インビジブル

製作国:アメリカ
日本公開:2000年10月14日
監督:ポール・バーホーベン 製作:アラン・マーシャル、ダグラス・ウィック 脚本:アンドリュー・W・マーロウ 撮影:ヨスト・ヴァカーノ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

透明人間になれたら痴漢するという超テーゾク映画
 原題は"Hollow Man"で、空洞男の意。邦題は、H・G・ウェルズの小説"The Invisible Man"(透明人間)から採られていて、本作はこれを基にしたオリジナルストーリーだが、邦題の「インビジブル」はウェルズに対して失礼。
 透明になれたらどうする? というのはエッチ漫画の定番で、まさか映画でそんなことはしないだろうというのをやってしまったのが本作。透明になって痴漢行為という時点で見る気を失った。
 薬を注射して透明化する過程はかなりグロテスクで、前半はエロチック・ホラー。透明人間と戦う後半はバイオレンスで、この映画をSFに分類するのは間違い。
 オープニング・クレジットだけは凝っているが、始まってすぐの意味もなく動き回るカメラと、どうしようもない台詞の連続に、本作が駄作であることに気づく。
 それでもこんな映画を見たいという人も考慮しての☆1.5だが、限りなく☆1に近い。 (評価:1.5)