海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1999年

製作国:アメリカ
日本公開:1999年9月11日
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー 製作:ジョエル・シルヴァー 脚本:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー 撮影:ビル・ポープ 音楽:ドン・デイヴィス 美術:オーウェン・パターソン
キネマ旬報:6位

21世紀の映像表現を切り開いた斬新アクションシーン
 原題は"The Matrix"で母胎の意味。本作では仮想現実世界を生みだしているシステムをマトリックスと呼んでいる。
 公開時に話題になった作品で、ワイヤーアクションや特殊撮影などの撮影風景も公開された。TVのバラエティでもマトリックスごっこが流行り、のちの映像作品に与えた影響は計り知れない。今回改めて観直してみても、公開時の斬新さは少しも古びていない。時代を感じさせるとすれば、公衆電話や固定電話が激減してしまったことと、ミニディスクの記録メディアが、今はスティックやカードのチップになってしまったこと。マトリックス世界の20年後、レジスタンスはどうやって侵入するのだろう?
 本作は結末を知っていても楽しめる作品で、むしろその方が理解しやすい。マトリックスのシステムに組み込まれていたハッカーの主人公ネオ(キアヌ・リーブス)が生きている世界に疑問を感じ、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)にシステムから離脱させられて真実を教えられる。そうして真実を知った者は生身の体となってシステムの監視者エージェントに追われることになるが、何も知らずに生きていた方が幸せだと考え、再びマトリックスの住民に戻りたいという裏切り者によって、レジスタンスは危機に陥り、そのピンチを切り抜ける中で、ネオがモーフィアスの信じる救世主として覚醒する。
 マザーコンピュータが世界を支配するという設定はよくあるし、トリニティー(キャリー=アン・モス)がキスで王子様を目覚めさせるという童話の逆バージョンで、柔術・空手の東洋趣味、占いや超能力、救世主ヒーローものという通俗のテンコ盛りで、シナリオ的には目新しさのない作品だが、映像表現がかっこよく、ネオが満身ガン装着で火線を抜けていくシーンは何度見てもわくわく爽快。
 もうひとりの主人公エージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)は『ロード・オブ・ザ・リング』でエルフに転生した。
 アカデミー賞視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響編集賞を受賞。 (評価:4)

製作国:中国
日本公開:2000年12月2日
監督:チャン・イーモウ 製作:チャオ・ユイ 脚本:パオ・シー 撮影:ホウ・ヨン
キネマ旬報:4位

近代化した中国が数十年前に置き忘れてきたもの
 原題"我的父親母親"で、私の父と母の意。英題は"The Road Home"(家路)で、これが一番しっくりくる。パオ・シーの同名小説が原作。
 中国の田舎が舞台。父の葬儀に都会で働いている息子が帰郷するところから物語は始まり、時代遅れとなった葬送を母が望んでいることを村長から聞かされる。それは死んだ町の病院から村まで柩を担いでくるというもので、若者たちが村を出て人手のない今、無理な話だった。しかし、自動車で柩を運んでは、父が帰り道が分らなくなってしまうと、母は拒む。
 そうして、なぜ母がそこまで頑なかという二人の出会いの物語へと時間が遡るが、そこには数十年の時を経て近代化した中国が置き忘れてきたものを予感させるものがあって、秀逸なプロローグとなっている。母の物語の全編を主人公である息子(スン・ホンレイ)のモノローグで語るのも効果的な演出。
 現在をモノクロ映像で、過去の物語をカラー映像で描き、絵画のような農村の美しい風景で対比させる。四季を織りなす映像は、中国が過去に置き忘れてきたものへの強烈な憧憬となっている。
 母の物語は、村に初めてやってきた青年教師と美しい村娘の恋を描くもので、右寄りだと町に連れ戻されるところから、文革が時代背景となっている。失意する娘と、娘との再会の約束を青年が果たすまでがストーリーの中心で、その後は描かれない。想像できる描写は一切カットした無駄のない演出で、娘を演じるチャン・ツィイーの独り舞台となっている。
 これが映画初出演となったチャン・ツィイーは、純朴で一途な村娘を好演し、恥じらう姿や恋に目を輝かせる姿がいじらしく、ほとんどアイドル映画のよう。
 父の遺徳により葬送には教え子たちが自発的に参加し、教師になることを願っていた父のために主人公が1時間だけ村の学校の教壇に立つなど、ラストは若干作り過ぎのきらいはあるが、心地よい感動を与えてくれる。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年3月25日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:アラン・サルド、メアリー・スウィーニー、ニール・エデルスタイン 脚本:ジョン・ローチ、メアリー・スウィーニー 撮影:フレディ・フランシス 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
キネマ旬報:5位

歳を取って最悪なのは、若かった頃を覚えていること
 原題"The Straight Story"。アルヴィン・ストレイトの実話を基にした物語。
 主人公のアルヴィンは、不和が原因で10年会っていなかった兄ライルが、脳溢血で倒れたという知らせを聞き、仲直りをするために兄に逢いに行く決断をする。アルヴィンが住むアイオワ州ローレンスから兄の暮らすウィスコンシン州までは350マイル離れているが、目も脚も悪く、運転免許も持っていない。一緒に暮らす娘も家を空けられず、芝刈機で出かける。
 芝刈機はすぐに故障して中古のトラクターに買い替え、再度出発。さまざまな困難、さまざまな人と出会いながら、6週間の長旅の末に兄に再会するという、ロードムービー。
 これが遺作となったアルヴィンを演じるリチャード・ファーンズワースが秀逸で、人生の旅路の果てに悟った老境を自然に滲みだすように演じている。
 妊娠した家出娘と一夜を共にする場面では家族への信頼を説き、ツーリングの若者たちには若さの残酷さを、喧嘩ばかりしている双子の修理工には血縁の絆を説く。キャンプに訪ねてきた老人には過去の戦争での悔悟を語り、忘れてはいけないものの大切さを語る。
 アルヴィンの語る経験そのものが、彼の人生の旅そのものであり、人との出会いと困難を重ねるトラクターの歩みの鈍い旅と重ね合わされる。そして兄との和解を通して、人生の旅の終わりに贖罪と赦しを得ることになる。
 ツーリングの若者たちに"What's the worst thing about being old Alvin?"(歳を取って最悪なことって何?)と聞かれて返す言葉がいい。
 "The worst thing about being old is remembering when you were young."(歳を取って最悪なのは、若かった頃を覚えていることさ)
 監督のデヴィッド・リンチの他作品とはまったく趣の異なる、味わい深い人生ドラマの佳作。 (評価:3.5)

製作国:スペイン
日本公開:2001年8月4日
監督:ホセ・ルイス・クエルダ 脚本:ラファエル・アスコナ 撮影:ハビエル・G・サルモネス 音楽:アレハンドロ・アメナーバル
キネマ旬報:7位

ストップモーションの少年に自分の姿を見てしまう切なさ
 原題は"La lengua de las mariposas"で邦題の意。
 舞台は1936年スペインの田舎が舞台。仕立屋の喘息持ちの少年が1年遅れて小学校に入学することになるが、教師は怖いものと怯えている。案に反して老人の教師は優しく、保守的な村の少年たちに開明的な教育を施していく。
 少年は教師から知識欲を植え付けられ、自然の脅威と友情、恋愛とリベラルな人間に育っていく。
 時はスペイン内戦前夜。無宗教の共和国政府支持者に対し、教会支持のファシストを中心とする保守派が反乱を起こす。老人教師は少年たちにリベラルの種子を植え付けることができたと信じて引退するが、村にやってきたファシストの共和派刈りで拘束されてしまう。
 共和派刈りを見守る村人たちは、かつての友人や仲間たちをアカ、無神論者と糾弾して自分の身を守ろうとする。そうした中で、共和派支持者であった仕立屋も妻に促されて罵声を浴びせ、少年もまた恩師に罵声と礫を投げるが、その言葉の中に「ティノリンコ、蝶の舌」という言葉が混じる。
 ティリンコはメスへの求愛に花を贈る鳥、蝶の舌は花の蜜を吸う時に伸びると教師に教わった自然の驚異。
 こうして、子供たちに祖国の未来を託して引退したはずの教師が、やすやすと子供たちの反動に遭い、受難のキリストのように礫を投げつけられるというラストがやるせない。
 全体主義に敗れていく人間の悲しさが少年の胸に刻み込まれ、追われていく恩師の姿を瞳に焼き付け、虚ろな表情を凝縮させたままの顔のストップモーションで終わる。
 フランコの独裁体制はその後40年間続くことになるが、これが当時のスペインに限られたことではなく、誰もがこのストップモーションの少年に自分の姿を見てしまう切なさに、見終わって言葉を失う。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年4月29日
監督:サム・メンデス 製作:ブルース・コーエン、ダン・ジンクス 脚本:アラン・ボール 撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:トーマス・ニューマン
キネマ旬報:6位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

漂流する家族たちのアメリカの美を描く
 原題"American Beauty"で、「アメリカの美」の意。植物の品種名にもあって、劇中では薔薇の品種として象徴的に登場する。
 物語は、冒頭で主人公であるパパ(ケヴィン・スペイシー)が殺されることが明示され、時間軸が遡って殺されるに至るまでの過程が描かれる。当初は娘の嘱託殺人で、実行犯はそのボーイフレンドであると思わせるが、物語が進むうちに容疑者が複数浮上し、最後は意外な犯人だったという結末になる。
 基本はコメディだが、ストーリー的には殺人ミステリー。しかし、ドラマ的にはかつてテレビのホームドラマで描かれた中流アメリカ人の幸福な家族観が崩壊し、伝統的価値観やモラルに縛られずに家族の個々が漂流していくさまを描く。
 パパは家族に君臨する父親としての威厳と地位を失っていて、失業した挙句に娘の友達に邪な心を抱くという自分の欲望に素直な男。その娘は父を軽蔑していてビデオで自分を隠し撮りする隣家の少年をボーイフレンドにしてしまう変わり者。不動産業を営むママは、成功した色男の不動産屋に接近し、頼りないパパをぬれ落ち葉のように感じて不倫までしてしまう。
 パパが恋する少女は高校生とは思えぬ色香で、ヤリマンであることを公言し、変態中年男のパパに興味を持ってしまう。娘の隣家のボーイフレンドは家でも大佐と呼ばれている軍隊上がりの権威的な父親の下、殴られながら服従し、泣いてばかりで頼りない母親にも守られず、ストーカー行為を平然とするメンヘラになっている。
 ドラマはこの6人を中心に話が進むが、実はそれぞれが愛すべき人間で、現代社会のストレスからかそれぞれに曲がったり、逃避したり、無理に背伸びしたりしながらもそれぞれに悩みを抱えている。
 ヤリマン少女は実のところは処女で、彼女と淫行しようとしていたパパもそれを知って急に理性に戻る。ストーカー少年も代行殺人する割には優しい少年で、その父親もアメリカの父親像を演じているだけの実は**で、というところでこの善き人々の屈折した人間模様は意外なラストを迎える。
 そうした点では、彼らは古きアメリカの美に疲れながらも、彼ら自身の新しい美を見出そうとしていて、それが現在のアメリカの美であるともいえる作品となっている。  (評価:3)

ファイト・クラブ

製作国:アメリカ
日本公開:1999年12月11日
監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:アート・リンソン、シーン・チャフィン、ロス・グレイソン・ベル 原作:チャック・パラニューク 脚本:ジム・ウールス 撮影:ジェフ・クローネンウェス 音楽:ザ・ダスト・ブラザーズ

現代社会の中で抱える不安や喪失、自己破壊への衝動を描く
 原題"Fight Club"で、喧嘩クラブの意。劇中の秘密結社の名。チャック・パラニュークの同名小説が原作。
 結末から言えば二重人格者の物語で、基本人格であるジャック(エドワード・ノートン)の一人称で語られる。ジャックは保険会社の調査員で不眠症に悩まされていて、睾丸ガン患者など、より大きな苦しみを抱えている者たちのサークルに参加するうちに、出張の飛行機で石鹸のセールスマン、タイラー(ブラッド・ピット)と知り合う。
 このタイラーがジャックから解離した人格で、ジャックの高級アパートが爆破されたことから、二人の奇妙な共同生活が始まる。ジキルとハイドのように人格が入れ替わるのではなく、二人が共存しているとジャックが錯覚するのがミソで、観客には終盤までタイラーが実在しているかのように見せる。
 タイラー(実はジャック)が始めたファイト・クラブに仲間を誘い、全米各地に秘密結社を作って破壊活動をし、クレジット会社を爆破することで資本主義社会に打撃を与えようとする。
 エリートであるジャックは物質的充足の中で精神的欠損を訴え、解離した人格タイラーを生む。タイラーは物質主義を否定し、喧嘩=破壊によって人間存在を認識しようとする。
 最後は、タイラーが交代人格であることに気づいたジャックが、自殺することで解決を図ろうとするが、未遂に終わって交代人格が消滅。一方、高層ビル群は崩壊するという、どういうハッピーエンドなのかよくわからないラストとなる。
 潜在意識に訴えるサブリミナルの話も出てきて、現代社会の中で人々の抱える不安や喪失、自己破壊への衝動を描く、不思議に魅力的な作品となっている。
 ジャック同様の精神的不安を抱え、自己破壊の象徴として出てくる女マーラにヘレナ・ボナム=カーター。  (評価:3)

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

製作国:アメリカ
日本公開:1999年7月10日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:リック・マッカラム 脚本:ジョージ・ルーカス 撮影:デヴィッド・タッターサル 美術:ギャビン・ボケ 音楽:ジョン・ウィリアムズ

両剣のライトセーバーで戦うダース・モールがカッコいい
 原題"Star Wars: Episode Ⅰ The Phantom Menace"で、副題は見えざる脅威の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第4作。時系列のエピソード1。
 旧3部作から16年後、人気のあったダースベイダーの生い立ちを描く新3部作第1作として製作された。ダースベイダーはルークとレイア姫の父となるため、時系列としては旧3部作の前日譚となる。
 関税を巡り共和国元老院と対立する通商連合が、惑星ナブーを支配しようと企み、調査に訪れた2人のジェダイ、クワイ=ガン・ジン(リーアム・ニーソン)とオビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)を暗殺しようとするところから物語は始まる。
 2人はナブー女王パドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)を救出し、宇宙船の修理のために訪れたタトゥイーンで奴隷の子供アナキン・スカイウォーカー(ジェイク・ロイド)を並外れた才能を持つジェダイの卵としてスカウト、ジェダイ評議会のヨーダに引き合わせる。途中ドロイドのR2-D2、C3POを仲間に加えて、旧3部作の役者が出揃う。
 新3部作の敵シスはジェダイと相対するダーク・フォースを操る者たちで、黒幕となるのがダース・シディアス(イアン・マクダーミド)。ナブー代表議員パルパティーンとして正体を隠し、元老院議長に選ばれる。
 クワイ=ガン、オビ=ワンはアミダラとともに通商連合と戦うためにナブーに行くが、シスのダース・モール(レイ・パーク)との戦いで、クワイ=ガンが落命。オビ=ワンが倒してナブー解放のどんちゃん騒ぎでラストとなる。
 16年経って特撮技術は格段に進歩。CGも一部に取り入れられている。
 VFXの最大の見どころは、タトゥイーンでのポッド・レースで、『ジェダイの復讐』(1983)の森の中を駆けるスピーダー・バイクのチェイスを遥かに上回る迫力あるスピードレース。
 新登場の両剣のライトセーバーで、ダース・モールが戦うシーンも殺陣の見どころ。アミダラの影武者をキーラ・ナイトレイが演じるが、出番は少ない。  (評価:3)

製作国:中国
日本公開:2000年7月1日
監督:チャン・イーモウ 製作:ツァオ・ユー 脚本:シー・シャンシェン 撮影:ホウ・ヨン 美術:ツァオ・ジュウピン 音楽:サン・バオ
キネマ旬報:3位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

国や社会に批判に目を向けさせないチャン・イーモウの限界
 原題"一个都不能少"(個都不能少)で、一人でも欠くことはならないの意。施祥生の『天上有个太阳』(天上有個太陽、空に太陽がある)が原作。
 中国の寒村が舞台で、小学校の代用教員の少女ミンジが、母親の病気で出稼ぎのため学校をやめて都市に働きに出た男の子ホエクーを探しに行く物語。
 ミンジは13歳で、村に一人しかいない教員が1か月休職する代わりに雇われる。報酬は50元で、子どもたちが一人も退学しなければ更に10元というのが条件。ミンジがホエクーを連れ戻そうという理由もそこにある。
 まともな代用教員も雇えないくらいに貧しい村で、ホエクー捜索のためのバス代を子どもたちが煉瓦運びで捻出しようとするが、バイト代の計算をするうちに少女が知らず知らず実践的な勉強を教えているというところがミソ。この間、子供たちがバイト代で初めてコーラを飲むというエピソードもあって、貧しくも純朴で心豊かな子どもたちの姿が描かれる。
 やがてみんなの心は一つになり、街へ出たミンジもホエクーを心配して捜すという目的に変わっていく。これが原題の「(子どもたちの)一人でも欠くことはならない」に繋がっていく。
 後半はミンジが街でホエクーを捜す話になるが、寒村と都会との経済格差を描きながら、テレビ局の協力で見事ホエクーを発見、二人は無事村に帰り、義援金によって教材の購入や校舎の建て替えまでできました、めでたしめでたしというハッピーエンドとなる。
 心温まる美談で、貧しい村の子供たちの教育に手を差し伸べましょうというメッセージで終わるが、経済格差どころか、共産国家でありながら義務教育の最低保証さえ出来ていないという点は素通り。人々の善意だけを描いて、国や社会に批判に目を向けさせないところに、チャン・イーモウの限界が出ている。
 ホエクーに食事を与えてやるのはレストラン経営の裕福なオバサンで、ホエクー探しに愛の手を差し伸べるのもおそらくは地方政府のテレビ局の局長。
 一方、ホエクー捜しにカネを要求するのは貧しい女労働者で、カネに汚いのは貧しい庶民ばかり。規則を盾にテレビ局の局長への面会を謝絶するのも受付のオバサンや警備員という庶民。
 裕福な市民やエリートだけが善意に溢れ、悪者は貧しい庶民。ミンジへの報酬を渋った村長が義援金を懐に入れずに校舎を新築したという結びも嘘くさく、プロパガンダ的偽善臭の漂う中で、胸に嫌なものが残る。  (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1999年10月30日
監督:M・ナイト・シャマラン 製作:フランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ、バリー・メンデル 脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:タク・フジモト 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
キネマ旬報:10位

幽霊でもそんなにショックなの? とちょっと白ける
​ 原題"The Sixth Sense"で、第六感の意。本作での第六感は、霊感のこと。
 本作最大の見どころはラストシーンの大どんでん返しにあるが、途中で不自然さに気付き、少年の「僕には死人が見える」で予想される結末。要は結末を知りながら再鑑賞に堪えられるかどうかが、本作の本当の出来を決めるが、やや心許ない。
 伏線の張り方が最後のどんでん返しに向けたものばかりで、一つの作品として見た場合に、どんでん返しの意外性以上のものを提示できていない。
 主人公の児童心理専門の医者(ブルース・ウィリス)が冒頭銃で撃たれ、1年後にシックス・センスを持つ少年を診ることになる。少年は霊感を持つゆえに友達や教師からも遠ざけられ、霊視して見える死者たちに怯える。死者たちは少年に伝えたいものがあって、その話を聞いてあげることで慰霊になると医者にアドバイスされ、少年は死者たちの怨念を取り除く・・・
 なんだか日本の幽霊みたいで、ゴーストの恨みつらみとそれを解決することで成仏させるという思想は洋の東西を問わないことが興味深い。
 そうしてラストのネタばらしに繋がっていくが、結末を知っていると楽しめるのはゴーストのホラー・シーンしかなく、それはそれで結構怖いのだが、映画の本筋はラストに向けてのミステリーなので、どうにも中途半端な映画への入り込み方しかできないのが難。
 全体はそれなりにまとまっていて決してつまらなくはない。少年を演じるハーレイ・ジョエル・オスメントは『A.I.』でもロボット少年で名演技を見せるが、その可愛いさが映画を退屈にさせていない。
 ラストシーンで医者が真実を知って動転するが、え? **でもそんなにショックなの? とちょっと白ける。  (評価:2.5)

風が吹くまま

製作国:フランス、イラン
日本公開:1999年12月4日
監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アッバス・キアロスタミ 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:マームード・カラリ

自然と調和して生きる人々の原風景が心に残る
 原題"باد ما را خواهد برد‎"で、邦題の意。
 葬儀の奇習があるというテヘランから北へ700キロ離れた山村シダレに、百歳を超える老婆が死にそうだと聞いてテレビクルーがやってくる。
 村人たちには電話技師だと嘘をついて今か今かと待ちわびるうちに2週間が過ぎ、テヘランからは撤収命令。村人たちにも取材の目的がバレてしまうが、知り合いになった墓掘りの男が生き埋めになってしまい、ディレクターが救出に協力。事故をきっかけに老婆の死を待っていたことを反省し、老婆を医者に見せてやり薬も届ける。
 痺れを切らしたクルーはテヘランに帰ってしまい、ディレクターが撤収の仕度を始めると、皮肉にも老婆が死んで、ディレクターは葬列を写真に収めただけで村を去る、というお話。
 わかりやすいテーマの教訓話で、物語そのものに共感できればそれでよし、そうでなくてもシダレのピュアな村人たちを見ているとそれだけで心洗われ、ディレクター同様に自らの穢れた精神を見直すことになる。
 本作の見どころはこの一点に尽き、とりわけ祖母思いで、勉学と家の手伝いにも励む素直な少年がいい。シダレに至る高原の風景、山肌に張り付くように固まるシダレの村の家並みなど、自然と調和して生きる人々の原風景が心に残る。  (評価:2.5)

グリーンマイル

製作国:アメリカ
日本公開:2000年3月25日
監督:フランク・ダラボン 製作:デヴィッド・ヴァルデス、フランク・ダラボン 脚本:フランク・ダラボン 撮影:デヴィッド・タッターサル 音楽:トーマス・ニューマン

お涙頂戴だが、『トップ・ハット』でダラボンのツボにはまる
 原題"The Green Mile"。スティーヴン・キングの同名小説が原作。
 タイトルについては冒頭で「死刑囚監房は通常ラストマイルと呼ばれるが、ここではグリーンマイルと呼んでいる。床が色褪せたライム色をしているからだ」と説明されている。死への最後の道程という意味。
 死刑囚監房の看守長が主人公で、2人の少女強姦殺害で入所してきた黒人死刑囚コフィーとの交流の物語となっている。映画は64年後の回想の形をとっていて、コフィーが超能力者というスティーヴン・キングらしい設定だが、冤罪でイエスのように人間の罪を負う神の使いで、従来の超能力ものとは一味違う感動もの。
 ストーリーそのものはお涙頂戴的ヒューマンドラマで通俗だが、非常によくできた構成で、監督のフランク・ダラボンのツボを押さえたシナリオと演出で心地よく楽しめる作品となっている。
 看守長役のトム・ハンクスをはじめ、副看守長のデヴィッド・モース、黒人死刑囚のマイケル・クラーク・ダンカン、鼠を飼うフランス人死刑囚マイケル・ジェッターら、俳優陣の演技もよく、とりわけ鼠のミスター・ジングルスの名演技が光る。
 無実と知りながらどうすることもできずにコフィーを処刑する前夜、看守たちが最後の希望を聞くと、コフィーは"I ain't never seen me a flicker show."(フリッカー・ショーを見たことがない)と答え、刑務所内の映写室でフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが踊るミュージカル『トップ・ハット』(1935)を見せる。
 64年後に老人ホームのテレビで『トップ・ハット』を見て元看守長は涙を流し、友人に昔話をするのだが、映写室でのダンカンの演技が感動的で最高のクライマックスとなっている。
 ラストでは死んだはずのミスター・ジングルスと元看守長の長生きの秘密が明かされる。" I think about all of us walking our own Green Mile, each in our own time...We each owe a death, there are no exceptions, but sometimes, oh God, the Green Mile is so long..."(誰もが自分のグリーンマイルを歩いている・・・死は例外なく避けられないが、しばしば、神よ、グリーンマイルは長すぎる・・・)という元看守長のモノローグで終わるが、それが無実のコフィーを死に追いやった報いとして、コフィーの代わりに悲しい人の世を見つめる務めを元看守長が負わされたのではないかという示唆とともに、グリーンマイルを歩む人生の大切さを説く。
 通俗的なストーリーと月並みなテーマだと思いつつ、ダラボンの用意した感動のツボに上手くはめられてしまう。  (評価:2.5)

製作国:スペイン
日本公開:2000年4月29日
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル 撮影:アフォンソ・ビアト 編集:ホセ・サルセド 音楽:アルベルト・イグレシアス
キネマ旬報:2位
アカデミー外国語映画賞

哀れなオトコオンナの娼婦を演じるのは男?それとも女か
​ 原題"Todo sobre mi madre"で、英題"All About My Mother"に同じ。劇中に登場する映画『イヴの総て』(All About Eve )のオマージュとなっている。本作では劇中劇として『欲望という名の電車』も演じられる。
 プロローグでは、シングルマザーに育てられた息子が父親について教えてもらう寸前、交通事故死してしまう。ここまではタイトル通りに息子の視点で語られるため、それ以降は幽霊となって語るのかと思うが、そうならないのが残念。
 母(セシリア・ロス)は息子の死を知らせるためにマドリードからバルセロナに向い、父親を探す。最初に出会うのがゲイの娼婦で、父親もまたゲイらしいことがわかる。もっともこの二人は豊胸手術をしただけの両刀遣いで、生物学的な女、男から変身した女、オトコオンナを愛する女、女を演じる女と、さまざまな女たちが描かれていく。
 そうした点で、本作は「母の総て」であると同時に「女の総て」の物語で、女であるとはどういうことか? 女とは何か? がテーマではあるが、正直、女はやっぱりよくわからない、という結論しか導き出せず、試みとしては面白いが、作品として成功しているかどうかは疑わしい。
 母は『イヴの総て』同様、息子の事故死のきっかけとなった女優(マリサ・パレデス)の付き人となり、女優の恋人で相手役の女の代役で舞台を演じて成功する。伏線として、実はかつてアマチュア劇団にいた時にこの劇『欲望という名の電車』を演じていて、相手役の男優の子を身籠った。
 これが事故死した息子なのだが、淫乱な父(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)はエイズとなり、修道女(ペネロペ・クルス)を孕ませ、その赤ん坊を息子を亡くした母が引き取って終わる。
 淫乱な父の名はエステバンで、死んだ息子と赤ん坊の名もエステバン。つまりは、男は聖母マリアの腕に抱かれて育ち生きるという、何となく母性信仰の結論で、設定が突飛なのがアルモドバルらしいところ。
 女になりたいと願うエステバン1世も聖母になることができず、罪だけを垂れ流す存在だが、哀れなオトコオンナの娼婦がキャラクター的に際立っていて、これを女優のアントニア・サン・フアンが演じて上手い。  (評価:2.5)

マグノリア

製作国:アメリカ
日本公開:2000年2月26日
監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作:ジョアンヌ・セラー 脚本:ポール・トーマス・アンダーソン 撮影:ロバート・エルスウィット 音楽:ジョン・ブライオン
ベルリン映画祭金熊賞

罪と後悔を宿命づけられた人間の懺悔のヒューマンドラマ
 原題"Magnolia"で、モクレンの意。含意は不明。
 ロサンゼルスを舞台にした群像劇で、バラバラに進行するエピソードがそれぞれの人物関係の中に収斂していくという構成。ジグソーのピースを繋ぎ合わせるように進んでいくため若干とっつき辛いが、完成した絵は人間の罪と後悔を描いたパノラマになっていて、最後は出エジプト記8章の蛙の禍で幕を閉じる。
 TVのクイズ番組"What Do Kids Know?"を核に、司会者ジミー(フィリップ・ベイカー・ホール)、ジミーの娘クローディア(メローラ・ウォルターズ)、クローディアに一目惚れする警察官(ジョン・C・ライリー)、天才クイズ少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)、初代天才クイズ少年ドニー( ウィリアム・H・メイシー)、死にかけている元プロデューサー・アール(ジェイソン・ロバーズ)、アールの後妻(ジュリアン・ムーア)、アールの看護師( フィリップ・シーモア・ホフマン)、そしてアールの息子フランク(トム・クルーズ)のそれぞれのエピソードが進行する。
 それぞれの罪は姦淫、麻薬、堕落、家庭放棄、金目当ての結婚、色欲といったもので、スタンリーだけが大人たちの罪の犠牲になっている。
 それぞれが贖罪を請いながら許されず、神が天から降らす蛙の雨に恐れ慄くが、エピローグはそれぞれが"save me"を歌い繋いで終わる。出エジプト記ではエジプト王に対する神の禍の後、解放されたイスラエルの民がモーゼに導かれて神との契約に臨む。
 プロローグは20世紀初頭の驚くべき偶然が重なった3つの死から始まる。人智を超えた不可思議、それがラストの空から降る蛙の雨に照応するのだが、神の仕業というスーパーナチュラルよりも、償うことのできない罪とその後悔を宿命づけられた人間の懺悔のヒューマンドラマとなっている。  (評価:2.5)

サイダーハウス・ルール

製作国:アメリカ
日本公開:2000年7月1日
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:リチャード・N・グラッドスタイン 脚色:ジョン・アーヴィング 撮影:オリヴァー・ステイプルトン 美術:デヴィッド・グロップマン 音楽:レイチェル・ポートマン

自律的ルールを主張しながら近親姦のルールを犯すのが居心地悪い
 原題"The Cider House Rules"で、サイダー製造所の規則の意。ジョン・アーヴィングの同名小説が原作。
 生まれた時から孤児院で育ち、外の世界を知らない青年ホーマー(トビー・マグワイア)が孤児院を出てリンゴ園のサイダー製造所で働き始めるという物語。初めて見る海、初めての労働、初めての恋と青年の世界は広がっていくが、孤児院で医術を教えてくれた医師ラーチ(マイケル・ケイン)が死んだことから、孤児院の医者となって帰ってくるまでが描かれる。
 第二次世界大戦中のニューイングランドが舞台で、当時アメリカでは堕胎が禁止されていたが、ラーチは望まぬ妊娠をした女性のために手術を行っていた。ラーチの助手を務めるホーマーは自らが望まぬ出産の結果であり、中絶されていれば存在できなかったことから、自己否定に繋がる堕胎に反対していた。
 リンゴ園では黒人の季節労働者とサイダーハウスで共同生活をして働くが、宿舎の壁には禁煙等の規則を欠いた紙が貼られている。文盲の黒人には意味のない貼り紙で、リーダーのアーサー(デルロイ・リンドー)は、サイダーハウスのルールを作るのは働く自分たちで、他人が作ったルールは知る必要がないと無視する。
 違法な堕胎をするラーチの信条も、ルールよりは女性や子供たちの未来の優先で、ホーマーも父親の子を宿してしまったアーサーの娘ローズ(エリカ・バドゥ)の堕胎をすることで法を破る。
 そうしてルールは自分が決めるべきものと悟ったホーマーは、無資格医、ニセ医者として孤児院に帰ってくるが、自律的なルールを主張するアーサーが、近親姦という人としてのルールを犯し、娘に刺されたのを自殺と偽るのをヒロイックに描くのが、どうにも居心地が悪い。
 孤児として育った無垢なホーマーが、憧れた外の世界の現実を見て、無垢な故地に戻ってくる成長譚と見れば、清々しいヒューマンストーリーで、彼を外の世界に連れ出してくれた恩人で、傷痍軍人として復員するウォリー(ポール・ラッド)に、恋人キャンディ(シャーリーズ・セロン)を返してあげるのもホーマーなりのルールと、天使のような優しさに触れた気になる。  (評価:2.5)

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

製作国:ドイツ、アメリカ、フランス、キューバ
日本公開:2000年1月15日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ライ・クーダー、ジェリー・ボーイズ 撮影:イェルク・ヴィトマー、ロビー・ミュラー、リザ・リンスラー

何を目指したドキュメンタリーなのかが不明確
 原題"Buena Vista Social Club"で、アメリカのギタリスト、ライ・クーダーがキューバの老ミュージシャンたちと結成したビッグバンド名。
 ビッグバンドを結成して音楽アルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を1997年にリリース、グラミー賞を受賞してから2年後。メンバーをキューバを再訪するライ・クーダーに同行して、BVSCのメンバーや彼らの音楽を紹介するドキュメンタリーで、アムステルダム・ニューヨークで行われたワールドツアーやスタジオ録音の映像も使われている。
 インタビューによってメンバー個々の生い立ちが紹介されるが、キューバ音楽や彼らの音楽性をイメージできるほどには掘り下げられていないのが残念なところ。BVSCの楽曲も過去の音楽シーンを断片的に使用しているだけなので、各曲とも尻切れトンボで音楽映画としてはフラストレーションが残る。
 ドキュメンタリーとしてもBVSCを知っていることが前提になっていて、キューバ音楽やBVSCの音楽についての解説や、ビッグバンド結成の経緯についても説明不足で、全体に何を目指したドキュメンタリーなのかが不明確。ボーカルのイブライム・フェレールらメンバーのキャラクターに寄り掛かっただけの作品になっている。  (評価:2.5)

イースト/ウェスト 遙かなる祖国

製作国:フランス、ロシア、スペイン、ブルガリア
日本公開:2001年11月10日
監督:レジス・ヴァルニエ 製作:イヴ・マルミオン 脚本:セルゲイ・ボドロフ、ルイ・ガルデル、ルスタム・イブラギムベコフ 撮影:ローラン・ダイヤン 美術:ウラジミール・スヴェトザロフ 音楽:パトリック・ドイル

ソ連版帰国事業で妻を不幸にさせた男の地道な戦い
 原題"Est-Ouest"で、東西の意。
 1946年、スターリンに赦免され、第二次世界大戦後の祖国再興のために帰国船に乗った、白系ロシア人一家の運命を描くドラマ。
 歓迎されると思っていた白系ロシア人たちは、船を降りた途端に役に立つ者とそうでない者に仕分けされ、自由と人権を奪われるという圧制下の祖国の苛酷な現実に直面する。
 アレクセイ(オレグ・メンシコフ)の一家はキエフの共同住宅の一室を与えられるが、フランス人妻マリー(サンドリーヌ・ボネール)は耐えられずにフランスへの帰国を懇願。
 赤旗工場の医師の仕事を与えられたアレクセイは長期戦を覚悟し、共産党に忠誠を尽くすことで出国のチャンスを掴もうとする。
 一方、マリーは共同住宅の屋敷のかつての所有者の孫で、亡命を願う水泳選手のサーシャ(セルゲイ・ボドロフ・ジュニア)とともに脱出の途を探す。
 しかしサーシャの亡命を手伝った廉で強制収容所送りとなり、6年後に釈放。共産党幹部となったアレクセイの努力によって息子と共に漸く脱出を果たす。
 ソ連に残ったアレクセイは、ゴルバチョフの時代になって漸く出国するが、妻を不幸にさせた男の長く地道な戦いを描く愛のヒューマン・ストーリーとなっている。
 かつての北朝鮮帰国事業を連想させるが、その内実は中国やその他の独裁国家にも共通していて、今もなお歴史の教訓となっている。
 マリーの脱出に協力するフランス女優ガブリエルにカトリーヌ・ドヌーヴ。  (評価:2.5)

ロゼッタ

製作国:ベルギー、フランス
日本公開:2000年4月8日
監督:リュック=ピエール・ダルデンヌ、ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影:アラン・マルクーン 美術:イゴール・ガブリエル
カンヌ映画祭パルム・ドール

20世紀末ながら底辺ものの新作に思えてしまうのが悲しい
 原題"Rosetta"で、主人公の名。
 ベルギーの工業都市リエージュで暮らす少女が主人公の、格差社会の最底辺で生きる人々をテーマにした社会派作品。
 ロゼッタ(エミリー・ドゥケンヌ)は、アル中の母とトレーラーハウスのキャンプ場で暮らしているが、職は安定せず、理由もわからず工場を解雇される。仕事を探すものの職歴の乏しい彼女を雇ってくれるものはなく、キャンプ場の管理人に春をひさいで暮らす母を尻目に、近くの川に罠を仕掛けて鱒を密漁しているという悲惨な状況。
 そんな彼女がようやく見つけたのがワッフルスタンドの裏方で、販売員のリケ(ファブリッツィオ・ロンギーヌ)と親しくなり、部屋に泊めてもらったり親切にしてもらうが、経営者の息子に彼女の仕事を奪われてしまう。
 そんな時にリケが川で溺れてしまい、放置すればリケの代わりに仕事が貰えると心の中の悪魔に囁かれるが、結局は助ける。それでも背に腹は代えられず、リケが内緒で自分が作ったワッフルをスタンドで売ってることを知って経営者に密告。リケはクビになり、リケの代わりの仕事を得るが、良心の呵責に耐えられず退職。
 母と心中を図るものの果たせずにリケを前に涙を流すという、弱者同士の哀しい争いを描くが、密漁や生理痛、自殺などわかりにくいシーンが多い。
 20世紀末に制作されてカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した底辺ものだが、21世紀になっても新資本主義によって格差社会は変わらないどころかより亀裂が深まり、『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)、『ノマドランド』(2020)同様の底辺ものの新作に思えてしまうのが悲しい。
 もっとも、これら底辺ものが悲しい現実を突きつけるだけで何も解決策を見い出せないのと同様で、社会や政治に対する義憤と虚しさしか残さないのが、心底虚しい。  (評価:2.5)

トイ・ストーリー2

製作国:アメリカ
日本公開:2000年3月11日
監督:ジョン・ラセター 製作:ヘレン・プロトキン、カレン・ロバート・ジャクソン 脚本:アンドリュー・スタントン、リタ・シャオ、ダグ・チャンバーリン、クリス・ウェッブ 音楽:ランディ・ニューマン
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

捨てられても子供と遊んでこそ玩具というテーマ
 原題"Toy Story 2"で、命を持った玩具が主人公のファンタジー・シリーズ第2作。CGアニメーション。
 前作より4年が経ち、アンディも成長。要らなくなったペンギン人形ウィージーをガレージセールに出したことがきっかけで、間違ってウッディーが玩具のコレクターに持ち去られてしまう。堅い友情を誓うバズ以下、アンディの玩具たちがウッディーの救出に向かうというストーリーで、集団で道路を渡ったり、リフトで上り下りしたり、大型玩具店で大量の仲間たちに出会ったりというシーンが印象的でアクティブ。
 コレクターは『ウッディのラウンドアップ』というモノクロ時代のテレビの人形劇のキャラクターグッズを集めていて、主役のウッディだけが手に入らなかったという設定で、ウッディは職人の手で新品同様に修復され、日本のおもちゃ博物館に売却されることになる。
 この時、知り合うのがカウガールのジェシー、馬のブルズアイ、爺さんのプロスペクターの人形で、玩具はやがて捨てられる運命なのだから一緒に博物館に行こうとウッディを引き留める。それに対し、やがて捨てられても子供と遊んでこそ玩具、玩具はコレクターのものではなく子供のものとウッディが語るのがテーマとなっている。
 公開当時は、玩具などがコレクターやマニアのためのグッズになり始めていた時期で、そうした風潮に対するアンチ・テーゼだったが、その傾向が衰えることはなかった。
 劇中、『スター・ウォーズ』のパロディもあったりして、本作自体が子供向けというよりは若干大人向けに作られているところもあって、アニメも玩具同様に本来は子供のものという観点からは、自己矛盾を抱えた作品になっている。
 バズの仇敵ザーグも登場し、『インディー・ジョーンズ』に似たスリリングな展開で、飛行機に乗せられて間一髪脱出するというのもどこかで見たアクション映画風。
 ラストは、ジェシーを新しい仲間に加えてアンディの家に帰還してメデタシメデタシとなる。  (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年9月23日
監督:スパイク・ジョーンズ 製作:マイケル・スタイプ、サンディ・スターン、スティーヴ・ゴリン、ヴィンセント・ランディ 脚本:チャーリー・カウフマン 撮影:ランス・アコード 音楽:カーター・バーウェル
キネマ旬報:7位

パペットの操演と人形の艶めかしい表情・演技が見所
​ 原題は"Being John Malkovich"で、ジョン・マルコビッチであることの意。
 7と1/2階にあるオフィスの壁の穴を抜けると、俳優のジョン・マルコビッチに脳の中に15分間だけ入りこめることを偶然発見した男(ジョン・キューザック)が、同じ階の女(キャサリン・キーナー)とそれを商売にするという奇想天外な話。男の妻(キャメロン・ディアス)が試しに試みて男であることに快感を覚え、マルコビッチに入り込んでキーナーと心はレズ、肉体は男女というセックスをする。キーナーに惚れた男は、ディアスと偽ってマルコビッチに入り込み、その体を借りてキーナーとセックスする・・・と書くと、如何にもいかがわしい作品に思えるが、軽いコメディとして楽しめる。
 男は売れない操り人形師で、人を操るのではなく人形の体となって自分自身の人生を操りたいと考えている。そして実際にマルコビッチの生身の体を手に入れ、俳優から人形師に仕事替えをして成功を収める。しかし、所詮は借り物の体、手放してしまえばただの自分に戻ってしまう。  そんな思わせぶりなテーマも味付けになっていて、ただの下半身的願望叶えます映画ではないが、難しいことは考えずに素直に奇想天外なストーリーを楽しむのが正解。
 7と1/2階は『ハリー・ポッター』の9と3/4プラットホームを思い出させるが、欠番の13階はよく使われるネタで、実際に天井が半分の高さしかないというのが笑える。
 ジョン・マルコビッチは実際の俳優で、『チェンジリング』の牧師を演じている。本作も本人。劇中のパペットの操演と人形の艶めかしい表情・演技が見どころ。  (評価:2.5)

007 ワールド・イズ・ノット・イナフ

製作国:アメリカ
日本公開:2000年2月5日
監督:マイケル・アプテッド 製作:マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ 脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ブルース・フィアスティン 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:デヴィッド・アーノルド

ソフィー・マルソーのベッドシーンに感慨もひとしお
 原題"The World Is Not Enough"で、劇中では「世界だけでは足りない」と訳されている。石油王の娘が" I could have given you the world."(あなたに世界を与えることができたのに)というのに対して、ジェームズボンドが答える。
 会話は"Foolish sentiment."(バカげた考えね)"Family motto."(家訓だよ)と続く。
 5代目ボンド、ピアース・ブロスナンの第3作(シリーズ第19作)。
 本作の見どころは2点あって、一つは冒頭のテムズ川でのボートレース。MI6本部から始まりテムズ川を下るが、途中ボンドがショート・カットするために、蛇行部で運河から道路をボートで滑走するシーンが傑作。
 もう一つは石油王の娘役で登場するソフィー・マルソーで、『ラ・ブーム』(1980)から20年、13歳のデビューなのでまだ32歳だが、ボンドとベッドシーンを演じるまでに成長したかと思うと、感慨もひとしお。しかも、ついこの間までは処女だったという設定に、さすが元世界の清純派アイドル、なんでもやり放題の『007』プロデューサーさえ、イメージを尊重しなければならない扱いに感心してしまう。
 物語は、石油王が暗殺され、元KGBのテロリストから娘(ソフィー・マルソー)を守るために、ボンドが護衛する。ロシアから中東を経由するパイプラインの建設中で、テロリストを追っているうちにカザフスタンの研究所からプルトニウムが盗まれ、それに石油王の娘が絡んでいたことがわかる。娘はかつてテロリストに身代金目的で誘拐されたことがあり・・・という中で、M(ジュディ・デンチ)まで誘拐される。
 『ロシアより愛をこめて』からのQ役、デスモンド・リュウェリンの引退エピソードもあって、公開直後、事故死してしまうという因縁のある作品。  (評価:2.5)

製作国:フランス、スペイン、アメリカ
日本公開:2000年6月3日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:ロマン・ポランスキー 脚本:ロマン・ポランスキー、エンリケ・ウルビス、ジョン・ブラウンジョン 撮影:ダリウス・コンジ 音楽:ヴォイチェフ・キラール

オカルトだがジョニー・デップの普通の演技が見られる
 アルトゥーロ・ペレス=レベルテのスペイン小説『呪いのデュマ倶楽部』が原作。
 ジョニー・デップという俳優を初めて意識した作品だった。その後、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロウが当たり役となり、『チャーリーとチョコレート工場』などカリカチュアされた個性的なキャラクターを演じることが多くなるが、この映画では比較的ノーマルな人間を演じていて、その演技力に惹かれた。もっともラスト近くで床から首を出して身動きできないシーンでの表情は、ジャック・スパロウを先取りした演技。
 映画はホラーというよりはオカルトなので、この世界観をいかがわしいと感じる向きには面白くない。ポランスキーといえば『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)で、傾向としては似ている。翌年シャロン・テート事件が起き、本作を観ていてもそのことが気になって、30年経ったとはいえ、よくこのような作品が撮れたもんだと感心する。
 映画はポランスキーらしく緊迫感とアクションのあるテンポの良い演出で、映像的にも悪魔の書である伝説の稀覯本を巡る古色蒼然とした雰囲気が出ている。ジョニー・デップの好演もあってなかなか良い出来なのだが、問題はラストが不可解ですっきりしないこと。観終わってから謎解きを楽しむ人には良いが、そうでないと不満が残る。
 デップへの依頼人についても、常に先回りしていてデップに調査を依頼する必要性が感じられない。そういった物語的な破綻が多く、この映画の最大の謎は、なぜポランスキーがこの原作を映画にしたのかという点。稀覯本を開きながらの煙草の吸いすぎも気になる。
 デップを守護する天使のような、魔女のような妖艶な女エマニュエル・セニエは、ポランスキーの3人目の妻。  (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2000年2月26日
監督:ティム・バートン 製作:スコット・ルーディン、アダム・シュローダー 脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー 撮影:エマニュエル・ルベツキ 美術:リック・ハインリクス 音楽:ダニー・エルフマン

クリスティーナ・リッチの不気味可愛さがいい
 原題"Sleepy Hollow"で、静かな谷間の意。ワシントン・アーヴィングの短編『スリーピー・ホロウの伝説』が原作。
 ニューヨーク近郊の民話で、開拓時代のドイツ人騎士が殺されて首なし幽霊となり、馬に乗って森の中で人々の首を刈るというのがモチーフで、映画では1799年が舞台となっている。
 ジョニー・デップ演じるインテリだが腰抜けの捜査官が村にやってきて、南北戦争でHeadless Horsemanとなった騎士の事件を解決する。実は村には魔女がいて、復讐と財産獲得のためにHeadless Horsemanを操っていたというのが骨子。
 ティム・バートンの演出も冴えて、ファンタジックな映像ともども楽しめるホラー・エンタテイメントに仕上がっている。
 ジャック・スパロウ以降のコミカルなキャラクターに繋がるジョニー・デップの演技の原型を見ることができるが、ヒロイン役のクリスティーナ・リッチの『アダムス・ファミリー』ウェンズデーの面影を残した不気味可愛さがいい。
 アカデミー美術賞受賞の幻想的な森の風景も見どころ。首切りのシーンの思い切ったエグサも見どころか。  (評価:2.5)

ジャンヌ・ダルク

製作国:フランス、アメリカ
日本公開:1999年12月11日
監督:リュック・ベッソン 製作:パトリス・ルドゥー 脚本:リュック・ベッソン、アンドリュー・バーキン 撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:エリック・セラ

人間主義と合理主義に立ったジャンヌ・ダルク論
 原題"The Messenger: The Story of Joan of Arc"で、使者:ジャンヌ・ダルクの物語の意。
 神の啓示を受けたジャンヌ・ダルクが、フランス軍を率いてイングランドとの百年戦争を戦い、シャルル7世の戴冠に貢献、ブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、異端審問を受け処刑されるまでが描かれるが、1948年版『ジャンヌ・ダーク』との違いは、冒頭でジャンヌの少女時代が描かれていること。
 聖女ジャンヌの伝記的色彩が強かった1948年版に対し、本作はジャンヌの人間性に焦点を当てている。
 ジャンヌは少女の頃から幻視を見ていて、姉がイングランド軍に殺害されたことが原因で、復讐心から幻視を神の啓示と信じ込み、フランス軍を率いてイングランドと戦う動機になったという前提に立っている。
 タイトルは神の使者を意味し、常に告解を求める信仰心の厚いジャンヌは、戦争に必然の殺人の罪への忌避感が強い。矛盾への煩悶を常に抱えながら、心の深層にある姉の復讐戦を戦い続け、イングランドとの妥協を許さず、悲劇へと突き進む。
 ジャンヌは矛盾の中で内なる信仰心の幻影に問い続け、最後は神の使者ではなく、復讐であったことを神への告解とする。
 人間主義と合理主義に立ったジャンヌ・ダルク論で、自然を描写する映像も美しく、一少女の物語として違和感なく楽しめる。
 ジャンヌ・ダルクを演じるミラ・ジョボヴィッチが適役。ジャンヌの幻視として登場する老人は、ダスティン・ホフマン。シャルル7世(ジョン・マルコヴィッチ)の異様なヘアスタイルの伯母にフェイ・ダナウェイ。
 男たちがみんなかりあげクンなのが可愛い。  (評価:2.5)

ボーン・コレクター

製作国:アメリカ
日本公開:2000年4月15日
監督:フィリップ・ノイス 製作:マーティン・ブレグマン、ルイス・A・ストローラー、マイケル・ブレグマン 脚本:ジェレミー・アイアコン 撮影:ディーン・セムラー 美術:ナイジェル・フェルプス 音楽:クレイグ・アームストロング

ご都合主義を忘れるとホラーミステリーとして楽しめる
 原題"The Bone Collector"で、劇中に登場する古いホラーミステリーの書名。ジェフリー・ディーヴァーの同名小説が原作。
 ニューヨーク市警の元科学捜査部長と新人の女性捜査官が、猟奇的な連続殺人事件を解決するという物語で、ご都合主義な設定がいくつもあって、ミステリー物に知的リアリズムを求めるとその粗が気になるが、それを忘れて見ると楽しめるし、またそうして楽しむように作られている。
 姿を現さない犯人と美人捜査官アメリア(アンジェリーナ・ジョリー)の捜査はホラーミステリーのような行き詰まる展開で、雑害現場が貨物鉄道構内、蒸気管の通る古い地下通路、夜の港の桟橋と暗い画面と相まって結構ゾクゾクする。
 脊髄を損傷した元部長リンカーン役のデンゼル・ワシントンが、ベッドに横たわっただけの演技というのが映画的には物足りないが、これも設定なので仕方がない。
 リンカーンが少年課巡査アメリアの才能を見込んで科学捜査部に引き抜くが、リンカーンの指示に従って目となって動いているだけで、美人以外にとりわけ優秀には見えないのも物足りない。
 タクシー運転手を偽った犯人が複数被害者を襲い、その猟奇的な犯行から力持ちの怪物を想像してしまうが、真犯人が意外と柔な感じで拍子抜け。リンカーンへの仕事上の恨みから知的ゲームを仕掛けた犯行というには、人物的に物足りない。  (評価:2.5)

ブルー・ストリーク

製作国:アメリカ
日本公開:2000年1月22日
監督:レス・メイフィールド 製作:トビー・ジャッフェ、ニール・H・モリッツ 脚本:マイケル・ベリー、ジョン・ブルメンタール、スティーヴン・カーペンター 撮影:デヴィッド・エグビー 音楽:エドワード・シェアマー

『ビバリーヒルズ』の3番煎じだが、そこそこ楽しめる
 原題"Blue Streak"で、青い線条、電光の意。
 黒人と白人の刑事コンビといえば、『ビバリーヒルズ・コップ』(1984)で『ビバリーヒルズ・コップ3』(1994)まで続く。
 この組み合わせの2番煎じが『メン・イン・ブラック』(1997)で、さらに同じ組み合わせで刑事コメディとなれば3番煎じは免れないが、そこそこ楽しめる内容になっている。
 設定は、黒人のニセ刑事・マイルズ(マーティン・ローレンス)が、白人の新米刑事カールソン(ルーク・ウィルソン)とコンビを組んで『ビバリーヒルズ・コップ』張りの活躍をするが、マイルズの目的というのが、窃盗で手に入れたダイヤモンドを逮捕直前にビルのダクトに隠したところ、出所後にそのビルが警察署になっていて、ダイヤを取り戻すためにニセ刑事になるというもの。
 取り戻す機会を窺うものの、仕事を命じられてカールソンと外勤の捜査ばかり。泥棒の経験を生かして事件解決に大活躍してしまい、最後には麻薬捜査中に目当てのダイヤが押収した麻薬に紛れ込んでしまい、それを奪ったマイルズの元窃盗仲間を追ってメキシコ国境へ。
 元窃盗仲間への恨みを晴らしてダイヤはめでたくマイルズのものとなるが、ならもっと早くに彼への恨みを晴らすチャンスはあったのになぜ躊躇したのかというツッコミどころはある。
 ニセ刑事の正体はバレるものの、相棒刑事と署員の友情からメキシコ国境に逃れるというハッピーエンドはやや微妙。
 タイトルのブルー・ストリークはお宝のダイヤモンドの名前だが、ブルーは黒人、警官の意味を含んでいるかもしれない。  (評価:2.5)

トゥルー・クライム

製作国:アメリカ
日本公開:1999年12月15日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、リチャード・D・ザナック、リリ・フィニー・ザナック 脚本:ラリー・グロス、ポール・ブリックマン、スティーヴン・シフ 撮影:ジャック・N・グリーン 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:レニー・ニーハウス

年甲斐もなく恥ずかしい役柄のC・イーストウッド
 原題"True Crime"で、犯罪実話の意。アンドリュー・クラヴァンの同名小説が原作。
 カリフォルニアの新聞記者が主人公で、翌日に執行を控えた死刑囚の無実を証明するために活躍するタイムレースを描く。ラストはもちろん死刑執行直前で助かるという予定調和が何ともいえない。
 この新聞記者を演じるのがクリント・イーストウッドで、敏腕というよりも老練という言葉が似合うよぼよぼ。『マディソン郡の橋』(1995)同様の老いてなお下半身が元気なモテモテ爺さんのカッコマンという年甲斐もなく恥ずかしい役柄で、セクハラ・嫌煙の風潮に反発する青臭い老人というアナクロニズム。会社の同僚・上司の妻に片っ端から手を出し、妻子ある家庭も崩壊寸前。
 そんな爺さんが、無実の死刑囚(イザイア・ワシントン)のために事件を再調査するが、唯一の武器は直感で、新証拠は相当に杜撰で探偵ものや冤罪ものとしては低レベルな筋立て。
 主役のミスキャストは歴然で、ストーリーも凡庸なら作品も凡庸だが、それでも爺さんの頑張りと演出でそこそこに楽しめてしまうのが不思議。  (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1999年7月31日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:スタンリー・キューブリック 脚本:スタンリー・キューブリック、フレデリック・ラファエル 撮影:ラリー・スミス 音楽:ジョスリン・プーク
キネマ旬報:8位

キッドマンの下着姿と美女乱交シーンが乱舞
​ ​原​題​は​"​E​y​e​s​ ​W​i​d​e​ ​S​h​u​t​"​で​、​直​訳​す​る​と​「​大​き​く​閉​じ​た​目​」​。​原​作​は​オ​ー​ス​ト​リ​ア​の​小​説​家​ア​ル​ト​ゥ​ー​ル​・​シ​ュ​ニ​ッ​ツ​ラ​ー​の​"​T​r​a​u​m​n​o​v​e​l​l​e​"​(​夢​小​説​)​。
​ ​キ​ュ​ー​ブ​リ​ッ​ク​の​遺​作​と​な​っ​た​作​品​で​、​ト​ム​・​ク​ル​ー​ズ​と​ニ​コ​ー​ル​・​キ​ッ​ド​マ​ン​演​じ​る​夫​婦​間​の​愛​が​テ​ー​マ​と​な​っ​て​い​る​。​愛​と​い​う​茫​洋​と​し​た​概​念​を​突​き​詰​め​る​と​、​男​女​間​で​は​セ​ッ​ク​ス​の​存​在​が​大​き​く​、​し​か​し​セ​ッ​ク​ス​が​必​ず​し​も​愛​を​必​要​条​件​と​せ​ず​、​し​か​も​他​の​男​女​に​対​し​て​は​寛​容​で​は​な​い​た​め​に​嫉​妬​を​伴​う​と​い​う​、​動​物​的​本​能​と​人​間​的​理​性​の​狭​間​で​揺​れ​る​非​常​に​難​し​い​命​題​と​な​る​。
​ ​そ​れ​を​キ​ュ​ー​ブ​リ​ッ​ク​が​曲​が​り​な​り​に​も​テ​ー​マ​と​し​て​観​客​に​提​示​で​き​た​か​と​い​う​と​、​大​方​は​本​作​を​失​敗​作​だ​と​評​価​し​た​。
​ ​前​半​で​、​キ​ッ​ド​マ​ン​が​ト​ム​に​、​美​人​と​セ​ッ​ク​ス​す​る​た​め​に​私​と​結​婚​し​た​の​か​、​と​問​う​。​そ​こ​で​ト​ム​は​、​愛​し​て​い​る​か​ら​だ​と​い​う​不​確​か​な​答​え​を​す​る​が​、​結​局​一​夜​の​夢​物​語​を​経​験​し​て​、​そ​れ​を​知​っ​た​キ​ッ​ド​マ​ン​が​最​後​に​い​う​台​詞​が​、​"​B​u​t​ ​I​ ​d​o​ ​l​o​v​e​ ​y​o​u​.​ ​A​n​d​,​ ​y​o​u​ ​k​n​o​w​,​ ​t​h​e​r​e​'​s​ ​s​o​m​e​t​h​i​n​g​ ​v​e​r​y​ ​i​m​p​o​r​t​a​n​t​ ​t​h​a​t​ ​I​'​m​ ​w​i​l​l​i​n​g​ ​t​o​ ​d​o​ ​a​s​ ​s​o​o​n​ ​a​s​ ​p​o​s​s​i​b​l​e​.​.​.​F​u​c​k​.​"​(​で​も​、​あ​な​た​を​愛​す​る​わ​。​す​ぐ​に​し​な​け​れ​ば​な​ら​な​い​大​切​な​こ​と​が​あ​る​の​・​・​・​フ​ァ​ッ​ク​)​と​い​う​、​キ​ュ​ー​ブ​リ​ッ​ク​に​し​て​は​、​あ​ま​り​に​お​粗​末​な​オ​チ​だ​っ​た​。
​ ​キ​ュ​ー​ブ​リ​ッ​ク​が​テ​ー​マ​を​う​ま​く​料​理​で​き​な​か​っ​た​た​め​か​、​出​演​当​時​夫​婦​だ​っ​た​ト​ム​と​キ​ッ​ド​マ​ン​は​2​年​後​に​離​婚​し​て​し​ま​う​。​フ​ァ​ッ​ク​だ​け​で​は​上​手​く​い​か​な​か​っ​た​の​か​も​し​れ​な​い​。
​ ​物​語​は​、​娘​の​い​る​円​満​な​医​師​夫​婦​が​ク​リ​ス​マ​ス​パ​ー​テ​ィ​ー​に​参​加​す​る​と​こ​ろ​か​ら​始​ま​る​。​こ​の​パ​ー​テ​ィ​の​主​催​者​ジ​ー​グ​ラ​ー​を​演​じ​る​の​が​映​画​監​督​の​シ​ド​ニ​ー​・​ポ​ラ​ッ​ク​で​、​そ​れ​ぞ​れ​が​誘​惑​さ​れ​た​り​で​前​半​は​ち​ょ​っ​と​退​屈​。​物​語​が​展​開​す​る​の​は​、​ト​ム​が​夜​遊​び​を​始​め​て​仮​面​パ​ー​テ​ィ​ー​に​潜​入​す​る​と​こ​ろ​か​ら​で​、​こ​の​パ​ー​テ​ィ​で​起​き​た​こ​と​の​真​偽​は​夢​物​語​で​ラ​ス​ト​ま​で​は​っ​き​り​し​な​い​。
​ ​R​-​1​8​で​、​ぼ​か​し​も​入​る​全​裸​オ​ン​パ​レ​ー​ド​。​乱​交​シ​ー​ン​も​あ​っ​て​、​キ​ッ​ド​マ​ン​も​か​な​り​の​シ​ー​ン​を​透​け​透​け​の​下​着​姿​で​演​じ​る​。​そ​れ​が​見​ど​こ​ろ​と​い​え​ば​見​ど​こ​ろ​だ​が​、​ポ​ル​ノ​映​画​で​は​な​い​の​で​あ​ま​り​期​待​し​な​い​方​が​よ​い​。  (評価:2)

製作国:中国
日本公開:2001年4月7日
監督:フォ・ジェンチイ 脚本:ス・ウ 撮影:ジャオ・レイ 美術:リィウ・ミンタイ、ディン・ライウェン 音楽:ワン・シャオフォン
キネマ旬報:4位

少数民族のトン族が村踊りを披露するのが大きな見どころ
 原題"那山、那人、那狗"で、「あの山、あの人、あの犬」の意。彭見明の同名小説が原作。
 1980年代初期、中国湖南省の山岳地帯の郵便配達人の物語。
 郵便配達人の父が、脚が悪くなって郵便配達人の仕事を息子に譲ることになる。仕事は公職だが、山岳地帯の配達は徒歩で、何十年勤めても役職に就くこともできず、1枚の感謝状で用済みとなってしまう。もっとも、父はそれさえも自分で自分に配達するのは嫌だと言って拒むが、感謝状さえ郵便で済ます中国の官尊民卑が透けて見える。
 仕事に明け暮れ、家を空けがちだった父を息子は認めずに、あの人と呼ぶが、引き継ぎの郵便配達に同行してもらい、父が山岳地帯の村人たちにいかに愛されていたかを知る。お義理の感謝状よりも村人たちの笑顔が父にとっての宝物だということを知って、息子は初めて父さんと呼ぶ。
 これが大筋のヒューマンドラマだが、徹頭徹尾ウエットな挙句に『一杯のかけ蕎麦』的な道徳観の押しつけがましさがあって、少々辟易する。息子と山岳少数民族の娘との間に恋が芽生えるが、同じ境遇だった母がいつも山を恋しがっていたからという理由で息子は結婚を拒む。故郷が恋しいのは誰だって同じで、だから結婚に躊躇するというのは作り過ぎで、ナイーブというよりもシナリオの思い込みが過ぎる。
 そうした話に付き合わされて、感情移入できれば感動的だが、感情移入できないとベタベタしすぎでウザい。その結果は、息子は父への尊敬を得て、山の郵便配達に邁進しましたとさという、国家側からすれば都合のいい人民教育テキスト。
 少数民族の侗(トン)族が登場し、村踊りを披露するのが大きな見どころ。中国は広い、と改めて感じさせてくれる。 (評価:2)

リプリー

製作国:アメリカ
日本公開:2000年8月5日
監督:アンソニー・ミンゲラ 製作:ウィリアム・ホーバーグ、トム・スターンバーグ 脚本:アンソニー・ミンゲラ 撮影:ジョン・シール 音楽:ガブリエル・ヤーレ

『太陽がいっぱい』ほどには輝けない通俗映画
​ 原題は"The Talented Mr. Ripley"で、​才​能​の​あ​る​リ​プ​リ​ー​氏の意。​ア​メ​リ​カ​作​家​パ​ト​リ​シ​ア​・​ハ​イ​ス​ミ​ス​の同名小説が原作。1959年にルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演で『太陽がいっぱい』(​"​P​l​e​i​n​ ​s​o​l​e​i​l​")のタイトルで映画化されている。
 本作は『太陽がいっぱい』に比べてより原作に近い話となっているが、原作に忠実なら面白くなるというわけではなく、クライマックスのない冗長な作品となっている。
『太陽がいっぱい』は原作の面白い部分を上手くまとめ、換骨奪胎したクライマックスと結末を用意したという点で優れているが、本作の監督アンソニー・ミンゲラにはその慧眼がなく、『イングリッシュ・ペイシェント』や『コールド マウンテン』同様に、ズルズル・ダラダラと物語ってしまう。
 主人公のトム・リプリー(マット・デイモン)は模造・模倣の天才で、金持ち息子ディッキー(ジュード・ロウ)の友人に成りすまして、イタリアから息子を連れ帰るようにディッキーの父親に依頼される。ディッキーの放蕩に巻き込まれながらホモセクシュアルな感情を抱くが、それが基でディッキーを殺害してしまう。
 ディッキーに成りすましたリプリーは、上流の生活を手に入れるが、嘘を弥縫するために二重生活を強いられ、疑うディッキーの友人を殺してしまう。その破綻のきっかけとなるのが最初の船旅で知り合った上流娘(ケイト・ブランシェット)で、ここからは『太陽がいっぱい』にはないストーリー。
 不自然なくらいに都合よくことが進み、『太陽がいっぱい』の悲劇的ラストもなく、もう一人殺してめでたしめでたしとなるが、サスペンスタッチのこの部分が冗長。
 貧しき青年の身分違いのために起きた悲劇の同性愛物語というには、何が悲しいのかよくわからず、『太陽がいっぱい』ほどには輝けない、セレブに憧れる青年の俗っぽい犯罪物語でしかない。  (評価:2)

イグジステンズ

製作国:カナダ、イギリス
日本公開:2000年4月29日
監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作:ロバート・ラントス、アンドラス・ハモリ、デヴィッド・クローネンバーグ 脚本:デヴィッド・クローネンバーグ 撮影:ピーター・サシツキー 音楽:ハワード・ショア

最初に二人が逃走を始めた時にオチが予想できてしまう
​ 原題"eXistenZ"で、劇中のヴァーチャルリアリティーゲーム名。existence(実存)からの造語。
 人間の背中に開けたバイオポートにケーブルを接続し、脊髄を通してVRゲームをするという近未来SF。そのお披露目イベントに招かれたゲームの女神アレグラ(ジェニファー・ジェイソン・リー)以下、12名が初プレイをすることになる。
 ところがライバル会社のテロリストが乱入。撃たれた女神とともに宣伝マンのテッド(ジュード・ロウ)が逃避行をするという物語。この時、新作ゲームに工作されたという設定で、二人はそれを取り除くためにゲーム内に入る。ゲーム内では現実主義者と反現実主義者の戦いがあって、どちらが味方なのかわからないままゲームストーリーをクリアしていくが、ゲームのシナリオに沿わないと先に進めないというのが、まあ面白い。
 ゲームをしているうちにどこまでゲーム(非現実)なのか現実なのかわからなくなってしまうが、映画そのものはヴァーチャルリアリティが人間精神に混乱をもたらすという警鐘がテーマになっていて、それが二人を巡る現実主義者と反現実主義者の戦いという二項対立になっている。
 タイトル通りのテーマがいささか陳腐な上にシナリオが青臭く、有意義な考察や材料が得られるわけでもなく、誰でも思い付きそうな問題提起に終わっている。
 最初に二人が逃走を始めた時に予想した通り、すべてがゲーム内の出来事だったというオチに工夫がない。  (評価:1.5)