海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──2001年

製作国:スペイン、フランス、アメリカ
日本公開:2002年4月27日
監督:アレハンドロ・アメナーバル 製作:フェルナンド・ボバイラ、ホセ・ルイス・クエルダ、パーク・サンミン 脚本:アレハンドロ・アメナーバル 撮影:ハビエル・アギーレサロベ 音楽:アレハンドロ・アメナーバル

イギリスでは幽霊付きの屋敷は人気があるという証明
 原題は"The Others"。物語の舞台となる家の「ほかの人たち」のこと。チャネル諸島ジャージー島はイギリス海峡にあるイギリス王室属領で、劇中の台詞にもあるように第二次大戦中にドイツの占領下にあった。
 この映画を最初に見た時、実は最初の30分で物語の設定に気づいてしまった。ホラーだがミステリー色が強い映画なので、前半早々にネタがバレてしまうというのは痛く、シナリオが甘い、類型的な構造だという批判になる。ただ観客を騙すことだけに血道をあげて、納得のいかない種明かしをされるミステリーが多い中で、むしろこの映画に製作者の誠意を感じる。最初の30分で物語の設定に気づいてしまったのは、製作者が伏線を後から見直しても矛盾なく丁寧に見せようとしたからで、台詞や演出を注意深く見ていると気づいてしまう。一例を挙げれば霧の演出があるが、ルールに反するのでこれ以上は書かない。
 今回、当然結末を知りながら見直したわけだが、きちんとヒントを与えながら話を進めていく姿勢と丁寧な作りには好感が持てる。わかっていても怖いシーンは怖いし、ラストシーンにも改めて感動する。ニコール・キッドマンは美しいし、娘は悪魔的で怖いし、息子は可愛い。こけおどしに血や暴力やメイクで怖がらせるだけがホラーではなく、不条理の恐怖を見せていくというホラーの王道に則った正統派作品。映像もきれいで、30分でネタばれした割には、もう一度見てみたいと思わせる佳作。
 因みに、イギリスでは幽霊付きの屋敷は人気があるそうだが、この映画を見るとイギリス人のメンタリティを理解できるかもしれない。 (評価:3)

ムーラン・ルージュ

製作国:オーストラリア・アメリカ
日本公開:2001年11月23日
監督:バズ・ラーマン 製作:フレッド・バロン、マーティン・ブラウン、バズ・ラーマン 脚本:クレイグ・ピアース、バズ・ラーマン 撮影:ドナルド・M・マカルパイン 音楽:クレイグ・アームストロング、マリウス・デ・ヴリーズ、スティーヴ・ヒッチコック
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

お伽の国と妖艶ニコール・キッドマンの豪華2本立て
 オリジナル脚本のミュージカル映画。ムーラン・ルージュは赤い風車の意味で、フレンチ・カンカンで有名なパリのショーホールのランドマーク。ジドラーらによって1889年に創建されたが、映画は世紀末1899年のムーラン・ルージュを舞台にした作家と踊り子の娼婦との悲恋物語となっている。ベースは『椿姫』だそうだが、安っぽいラブ・ストーリーなので、ストーリー的にはあまり期待しない方がいい。
 この映画の最大の問題点は、ミュージカル映画なのにミュージカル映画ではないこと。ニコール・キッドマンもユアン・マクレガーも吹き替えなしに頑張ってはいるが、主演の二人が歌手として素人なのは否めない。音楽も一部を除けばジャンルもばらばらの既成楽曲の寄せ集めというのも興趣を損なう。舞台がムーラン・ルージュだけにというミュージカルだが、成功していない。
 それでも結構楽しめてしまうのは、キッドマンの美貌によるところが大きい。コミカルな演技もこなし、34歳の妖艶さをたっぷりと振りまき、全編に彼女の魅力が百花繚乱。
 もう一つはパリの街並みのCGとセットのファンタジックな演出。虚構の象徴ムーラン・ルージュをお伽噺の国ディズニーランドのように仕立て、メルヘンな映画にしている。アカデミー衣装デザイン賞・美術賞を受賞したこのシーンは最大の見どころ。カメラワークもうまい。
 劇中のボヘミアンはもとはジプシーのことで、19世紀末のパリでは、社会習慣に縛られない芸術家などの自由気儘な人のこと。 (評価:2.5)

名もなきアフリカの地で

製作国:ドイツ
日本公開:2003年8月9日
監督:カロリーヌ・リンク 製作:ベルント・アイヒンガー、ペーター・ヘルマン、ミヒャエル・ヴェバー 脚本:カロリーヌ・リンク 撮影:ゲルノット・ロール 音楽:ニキ・ライザー
アカデミー外国語映画賞

ドイツを逃れることのできたユダヤ人の物語
 原題"Nirgendwo in Afrika"で、邦題の意。シュテファニー・ツヴァイクの同名自伝小説が原作。
 1938年、ナチの迫害を逃れるためにドイツから父(メラーブ・ニニッゼ)のいる英領ケニアに母(ユリアーネ・ケーラー)と共に渡ったユダヤ人少女の物語で、ヨーロッパで迫害された一般のユダヤ人物語とは視点の違うところが特長。
 弁護士職を捨てて早々にケニアに渡った父は先見の明があり、これが最後のチャンスと家族を呼ぶが、贅沢に慣れた妻は質素で不便な現地の生活に馴染めない。主人公の娘は早速ケニア人の子供たちに溶け込むが、ヨーロッパでの異文化の対立とケニアでの異文化の対立、すなわちドイツ人とユダヤ人の相克をユダヤ人とケニア人の相克に対比させる。
 ケニア人を受け入れられない母はユダヤ人を受け入れられないドイツ人の鏡像で、これを乗り越えていく母の物語ともなっている。
 終戦となり、英軍兵士として復員した父はドイツ復興のために帰国することを決意するが、現地に恋人の出来た母と、すっかりケニア人の心に染まった娘は、ケニアに残ることを希望する。父は一人で帰国しようとするが、イナゴの大群の襲来で足止め。イナゴを撃退した後、母と娘は翻意してケニアを去ることになるが、その理由が説明されないため、今一つスッキリしないラストとなっている。
 ドイツに残った祖父と叔母らはナチの犠牲者となるが、ユダヤ人がヨーロッパで反感を持たれた理由が母の人格を通して理解でき、同時に富裕だからこそドイツを逃れることのできたユダヤ人の物語であることに、複雑な思いに駆られる。
 一家の料理人であり、娘の良き理解者、良き教師、そして良き友となるケニア人のオウア(シデーデ・オンユーロ)が、誰よりも魅力的で素晴らしい人間であることが、本作の最大の見どころ。 (評価:2.5)

A.I.

製作国:アメリカ
日本公開:2001年6月30日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ、ボニー・カーティス 脚本:イアン・ワトソン、スティーヴン・スピルバーグ 撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

キューブリックとスピルバーグの狭間に漂うロボット
 原題は"A.I. Artificial Intelligence"(人工知能)。イギリスのブライアン・オールディスのSF短編小説"Super-Toys Last All Summer Long"が原作。
 本作はセックス・ロボットが登場するなど、スピルバーグ作品としてかなり異質。それもそのはず、原案はキューブリックで、『時計じかけのオレンジ』等を思い起こさせる棘のある設定が随所に見られる。キューブリックの企画をスピルバーグが引き継ぐ形で映画化され、映画のラストにはキューブリックへの献辞が捧げられている。
 本作を見て気づくのは企画はいかにもキューブリックだが、演出はいかにもスピルバーグらしい。キューブリックの先鋭的な角が取れ、スピルバーグらしいハートウォーミングな作品になっていて、それぞれのファンの評価が割れるところ。カメラワークも主観的で感情移入しやすい主人公視点になっており、キューブリックらしい映像的に凝った醒めた視点というのがない。逆にいえば、キューブリックならこう撮っただろうと思えるシーンを想像してみるのも一興で、たとえば母親モニカの前に初めてロボットが現れるシーンや、ブルーフェアリーに出合うシーンは、キューブリックならこのようなオーソドックスな撮り方はしなかっただろうと思える。
 スピルバーグの映画はポピュリズムだが、ロボットの可愛らしさと悲しみ、願望が胸を打つし、ハッピーエンドのラストも決して悪くない。キューブリックならもっと深遠な話になったかもしれないが、スピルバーグの魔術に思わず心地よい涙が流れる。
 物語は未来で、難病の子供が冷凍カプセルに入れられ、代わりに少年のロボットが夫婦の家にやってくる。やがて子供が奇跡の回復によって家に戻り・・・というところで、母の愛を繋ぎ止めたいロボットがreal boy(人間の子供)になることを夢見る。後半はSFファンタジー。劇中にもSuper-Toyという言葉が出てくるがロボットと同義語で、つまり少年のロボットは出来の良い玩具なのかという問いでもあるのだが、キューブリックならおそらくそれがテーマだった。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ、フランス
日本公開:2002年2月16日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:ニール・エデルスタイン、ジョイス・エライアソン、トニー・クランツ、マイケル・ポレール、アラン・サルド、メアリー・スウィーニー 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:ピーター・デミング 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
キネマ旬報:4位

D・リンチの職人芸を堪能できるが、悩みたくない人には駄作
 原題"Mulholland Drive"で、ハリウッドの山間を抜ける道路名。南側にビバリーヒルズと、これを横切るサンセット大通り(Sunset Boulevard)がある。  冒頭、マルホランド・ドライブでの自動車事故からリタ(ローラ・ハリング)がロサンジェルスの夜景を頼りに山を下り、ビバリーヒルズのサンセット大通りに辿りつくが、同じくハリウッドを舞台にした 『サンセット大通り』へのオマージュであることを連想させる趣向となっている。  本作は観客が映画で与えられるジグソーのピースを基に謎解きをするように作られていて、普通のミステリー映画のように観客に合理的な説明をしない。全体に不条理な映画となっていて、物語の解釈は観客に委ねられる。  そうした点では実験的とも観客に対して不親切ともいえ、映画を繰り返し見て謎解きする人には楽しめるが、映画のストーリーや解釈に頭を悩ませたくない人には駄作。ただ、構成と演出は非常によくできていて、展開そのものからは目を離せないし、デヴィッド・リンチの職人芸を堪能できる作品になっている。  本作の謎解きの一助となる『サンセット大通り』は、往年の大女優と新進脚本家との痴情のもつれを描くミステリーで、華やかなハリウッドの裏側と、大きな夢を託す人間の栄光と挫折が背景となる。  本作では主人公が二人の新進女優に入れ替わり、『サンセット大通り』で大女優がやがて妄想のとりことなるように、主人公の女優(ナオミ・ワッツ)の妄想を中心に話が展開していく。リンチは、現実と妄想との違いをわざと不明瞭にして、観客を混乱に陥れる。  大枠は青い箱をキーアイテムに、前半は妄想、後半は実際に起きた出来事が中心となり、主人公が小人を見ることで、彼女が妄想に取り込まれていることを観客に伝える。  女優を目指す主人公ダイアンが、同じ志のカミーラと深い関係になるが、監督とプライベートな関係を築いたカミーラが主役に抜擢され、彼女との関係を断つ。反して端役しかもらえず半ば娼婦に堕ちたダイアンはカミーラを恨み、妄想に取り憑かれた挙句・・・という物語。  ナオミ・ワッツが前半は清純娘、後半は崩れた女を演じて、魅力的。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2001年7月28日
監督:テリー・ツワイゴフ 製作:リアンヌ・ハルフォン、ジョン・マルコヴィッチ、ラッセル・スミス 脚本:ダニエル・クロウズ、テリー・ツワイゴフ 撮影:アフォンソ・ビアト 音楽:デヴィッド・キティ
キネマ旬報:9位

軽いノリのコメディだが、テーマは深い
 原題"Ghost World"で、ダニエル・クロウズの同名コミックが原作。
 タイトルは、原作に登場する落書きで、存在しない町とも、町も人もゴーストと言う意味にも取れ、現代社会への辛辣な批判を含んでいる。
 主人公の女の子イーニド(ソーラ・バーチ)が高校を卒業するシーンから始まり、親友レベッカ(スカーレット・ヨハンソン)ともども当たり前を嫌うひねくれ者であることがわかる。二人は進学する同窓生を見下し、ガールフレンドの出来ないオタク中年シーモア(スティーヴ・ブシェミ)をからかう。
 要ははぐれ者で皮肉屋、社会に馴染めない自分に対し、周りを見下すことで自尊心を保とうという社会不適応者なのだが、二人で共同生活をするためにカフェの女給を始めたレベッカに対し、イーニドは斜に構える性格が災いして就職しても則クビ。
 むしろ気が合うのは同じ社会不適応者のオタク中年で、交際方法を指南しているうちにシーモアに恋人ができ、疎外されるようになって嫉妬する。そうして互いの恋心に気付き、気の進まないレベッカとの共同生活をやめてシーモアの家に転がり込みハッピーエンドになるかに思えると、なんと彼女はバスに乗って町を出てしまう。
 つまり町は巣立ちのための揺籃の器で、町を出るためのバスは廃止になっているが、町を出ることを望む者には迎えに来る。
 他者との関係性や既成の価値観に縛られ、自立して生きていくことに戸惑う人々、あるいは反発して社会不適応者になる人々が集まる架空の町ゴーストワールド。それは悩み多き人間たちが寄り添うこの社会そのものであり、その中での自己の確立を描く物語、ということもできる。
 バス停で来るはずのないバスを待ち続ける老人が象徴的で、彼のためにバスがやってきたことを知って、イーニドもまたバスに乗ることを決心する。
 誰にも頼らずに一人で生きていくことは楽なことではないが、そうしなければ人はいつまでもゴーストワールドに囚われ、そこから出て行くことはできない。軽いノリのコメディだが、テーマは深い。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:2002年10月26日
監督:ロバート・アルトマン 製作:ロバート・アルトマン、ボブ・バラバン、デヴィッド・レヴィ 脚本:ジュリアン・フェロウズ 撮影:アンドリュー・ダン 音楽:パトリック・ドイル
キネマ旬報:7位

見どころはイギリス貴族の生活を裏側から覗けること
 原題"Gosford Park"で、舞台となる貴族のカントリー・ハウスの名。
 1932年、イギリス貴族の夏の館を舞台にした密室殺人ミステリーで、退屈はさせないがアカデミー脚本賞を受賞するほどの内容ではない。
 冒頭の水溜りからカメラを上げると、主人公のメイドの乗る車がインしてくる映像は、いかにもイギリス的情緒に溢れて期待を持たせるが、以降は取り立てて映像的に優れているわけでもない。
 見どころはイギリス貴族の生活を裏側から覗けることで、この館で行われる雉撃ちパーティに参加する一族の面々がみなメイドを従えていて、台所ではメイドたちが集まってそれぞれの主人のゴシップ話に花を咲かせ、それをまた主人にフィードバックする。
 メイドたちはそれぞれの待遇について情報交換したり、互いを本名ではなく、主人の姓で呼び合うというのも面白い。晩餐が始まる前に全員が食堂に集まってまかないを食べるが、まずまずの食事。
 貴族たちも貧窮し始めた時代で、家長である館の主人の脛を齧ろうと一族が集まるものの、家長は冷淡。しかも使用人の女にすぐに手を付けるという男で、誰にでも殺意があるという設定。招待客にはパーティに花を添えるためのハリウッドの人間も招待されていて、物語の単調さを防ぐ工夫がされているが、これがイギリス貴族を主人公にした推理劇の映画の取材ということになっていて、本作自体がその映画であるという入れ子になっている。
 集団劇のため登場人物が煩雑だが、こうした作品の場合、キャスティングにヒントが隠されていて、中心で描かれる人物と俳優に気を付けていると犯人が大体わかるのだが、前半に立てた予想通りの犯人と犯行理由の結末に、もう少し工夫はなかったのかと若干腰砕けになる。
 イギリスの実力派俳優陣ぞろいで、館の主人に『ハリー・ポッター』2代目校長のマイケル・ガンボン、主人公のメイド(ケリー・マクドナルド)の女主人に副校長のマギー・スミス、館の家政婦長にヘレン・ミレンなど。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2002年7月20日
監督:マーク・フォースター 製作:リー・ダニエルズ 脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス 撮影:ロベルト・シェイファー
キネマ旬報:8位

看守一家の3世代が代表する公民権運動の前・中・後
 原題は"Monster's Ball"で、怪物の宴会。劇中では死刑執行前に行う看守たちの宴会と説明される。
 アメリカ南部に住む主人公(ビリー・ボブ・ソーントン)は刑務所の看守で、息子も同じ刑務所で看守をしている。老齢の父親との3人暮らしで、この父親というのが根っからの人種差別主義者。黒人の子供が家に近づくことも許さない。妻はそのために夫を見捨てて家を出てしまい、息子や孫が妥協的な態度をとると母親に似ていると非難するタカ派。
 主人公の息子はそんな祖父と父親を嫌う人道派で、初めて経験する黒人の死刑執行に緊張して吐いてしまう。父親は母親似だとなじり、息子は抗議の自殺。
 傷心の父親は、子供を車に撥ねられた黒人の女を思いもよらず助け、それがきっかけで女の家を訪ねるが、執行した死刑囚の妻だと知り、自殺した息子への償いか、生活に困っている女を扶助。二人は深い関係となり、超保守主義者の祖父を養老院に入れ、同棲を始める。この時、女は初めて男が夫の担当看守だったことを知り、男の"I think we're going to be all right."(ぼくたちは上手くいくと思う)という台詞と、不安気な女の表情でジ・エンドとなる。
 黒人差別がテーマで、差別感情を乗り越えて融和を果たした白人と黒人が、果たしてそのまま共生できるのかという、現在のアメリカの状況と未来への希望を託した作品。ラストは、そうした不安定な状況をそのまま示しているが、60~70年代の公民権運動を経て、黒人差別世代、公民権運動に揺れた世代、公民権運動後の世代と3つの世代を祖父・父・息子に代表させている。
 表面的には人種差別のなくなったアメリカだが、現実には相克は残っていて、テレビドラマも映画もきれいごとで描かれる作品が多い中で、それを包み隠さずに描いたという点で意義のある作品だが、単なる問題提起に終わっているのが残念。
 主人公がチョコレート味のアイスが好物で、女とラストシーンでこれを食べるが、女の子供の好物がチョコボー。邦題はここから採られている。
 ハル・ベリーが魅力的な黒人女を好演して、アカデミー主演女優賞を受賞。看守の息子にヒース・レジャー、祖父にピーター・ボイル。 (評価:2.5)

少林サッカー

製作国:香港
日本公開:2002年6月1日
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー アクション監督:チン・シウトン 製作:チャウ・シンチー、イェング・クウォクファイ 脚本:チャウ・シンチー、ツァン・カンチョン 音楽:レイモンド・ウォン

古典的な直球ギャグをものともしないパワフル・シュート
 原題"少林足球"で邦題の意。
 かつて八百長試合に加担して脚を片輪にされた元名選手が、監督となって少林拳の達人を集めたチームを結成し、大会に勝ち上がって監督の宿敵率いる魔鬼(デビル)との決勝戦で優勝するまでの物語。
 一言でいえば、ワイヤーアクションや特撮をふんだんに使った香港コメディだが、徹底したおバカぶりで笑わせる。ギャグのほとんどは『8時だョ!全員集合』的なスラップスティック・コメディで、バナナの皮で滑って転倒といった古典的な直球ばかりだが、それを白けさせないパワフルさが本作の魅力となっている。
 とりわけ、少林拳法もどきの技を使ったギャグが意表を突くバカバカしさで、少林チームのFWを好きになる饅頭作りの達人の娘が、ラストにチームの窮地を救うべく登場するのがシナリオ的に上手い。
 スラップスティック・コメディのため、ストーリーが弛む中盤が若干退屈だが、試合が中心となる後半は特撮アクションも冴えてぐいぐい引っ張る。
 ヴィッキー・チャオがコメディ女優ばりの演技とメイクをして頑張っているのも見どころ。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:2002年1月19日
監督:ナンニ・モレッティ 製作:アンジェロ・バルバガッロ 脚本:ハイドラン・シュリーフ 撮影:ジュゼッペ・ランチ 音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
キネマ旬報:9位
カンヌ映画祭パルム・ドール

家族の再生を描くも、制作意図のよくわからない作品
 原題は"La stanza del figlio"で、邦題の意。
 精神科医の父親が主人公。公私ともに冷静で患者からは多少冷淡だと受け止められるものの、妻と一姫二太郎の幸せな家庭を築いていて、毎日ジョギングを欠かさない典型的な模範人間。
 その彼の息子が学校でアンモナイトの窃盗事件を起こしてしまい、その調査に乗り出し冤罪を確信する。そうした最中に、息子との絆を強めようと一緒にジョギングする約束をするが、患者から急に呼び出され、その間に海に潜りに行った息子は水死してしまう。
 妻は半狂乱になるが主人公はあくまで冷静。しかし妻と娘が事件から立ち直っていく中で、患者の呼び出しを断れば息子は死ななかったという悔悟が付きまとい、自らがカウンセリングが必要な状況に追い込まれていく。
 治療に専念できなくなった主人公は精神科医を辞めてしまうが、息子にガールフレンドがいたことを知って、彼女に息子の存在を追い求めるようになる。
 彼女が見舞いにやってくるが、新しいボーイフレンドとヒッチハイク中で、深夜に彼女たちをフランス国境まで送り届けると朝がやってくる。
 バスで去っていく二人を見送りながら、主人公は3人になった家族の再出発に思いを新たにする・・・というのが物語の骨子。
 冷静な精神科医でも身に災いが降りかかれば精神病になるという皮肉なのか、自分は大丈夫だと思っていても誰でも精神病になるという啓蒙なのか、家族の再生を描きたかったのか、それとも単なるメロドラマなのか、制作意図のよくわからない作品で、見終わってもどうにもすっきりしない。
 ガールフレンドが一度も家を訪れたことがないのに写真で息子の部屋を知っていて、そこには幸せそうな息子が写っているというのがタイトルの由来。
 親の知らない息子の幸せな姿を胸に抱いて、悲しみを振り切る父親の物語といえば、何とも通俗的なヒューマンドラマの響き。パルム・ドールを受賞している。 (評価:2.5)

ブリジット・ジョーンズの日記

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:2001年9月22日
監督:シャロン・マグアイア 製作:ティム・ビーヴァン、ジョナサン・カヴェンディッシュ、エリック・フェルナー 脚本:ヘレン・フィールディング、アンドリュー・デイヴィス、リチャード・カーティス 撮影:スチュアート・ドライバーグ 音楽:パトリック・ドイル

冴えない女を魅力的に演じるゼルウィガーが可愛い
 原題は"Bridget Jones's Diary"。ヘレン・フィールディングの同名小説が原作。
32歳独身女の恋愛を描く小品だが、生活感あるごく普通の女性をレネー・ゼルウィガーが好演し、楽しめるコメディとなっている。公開時、ジャケットにもなっているキャリア・ウーマン風の前ががみのブリジッドのポスターが印象的だった。
 ブリジッドは出版社宣伝部員だが、ドジな上に酒・たばこに浸かって、友人たちと飲み屋で憂さ晴らしをしているようなどうしようもない女。だから上司(ヒュー・グラント)は遊び相手にしか考えないが、当人はいたって真面目な恋愛願望がある。
 そんなブリジッドを「ありのままの君がいい」と言って追いかけるのが幼馴染みのバツイチ弁護士(コリン・ファース)で、本作はブリジッドに代表される、いい男に恵まれない普通の女のためのシンデレラ・ストーリー。
 本作には、ただのシンデレラ物語と切って捨てられない魅力があって、それは一にも二にも決して美人ではないゼルウィガーの演技の可愛らしさにある。ゼルウィガーはこの役のために13kg体重を増やしたと言われていて、ぶくぶくに弛んだ体を見せてくれる。そんなどこにでもいる冴えない女を魅力的に演じるゼルウィガーが最大の見どころ。
 いい女に飽きた男性と、いい女を演じることに疲れた女性にお薦め。 (評価:2.5)

モンスターズ・インク

製作国:アメリカ
日本公開:2002年3月2日
監督:ピート・ドクター 製作:ダーラ・K・アンダーソン 脚本:ダン・ガーソン、アンドリュー・スタントン 音楽:ランディ・ニューマン

モンスターと子供が仲良くなるほのぼのとした好篇
 原題"Monsters, Inc."で、モンスターズ社の意。
 多種多様なモンスターたちが暮らす世界が舞台で、モンスターズ社は発電会社のようなもの。人間の子供たちの悲鳴をエネルギーにしていて、子供部屋にある扉で人間界と繋がっていて、夜な夜なモンスターたちがそれぞれ子供部屋に出掛け、子供たちの悲鳴をボンベに入れて帰って来る。
 モンスターを友達だと思っている女の子ブーが扉を通ってモンスターズ社に入り込んでしまい、毛むくじゃらのサリーと一つ目のマイクがブーを子供部屋に戻すために大騒動を繰り広げるというのがストーリーの骨子。これにサリーのライバル、ランドールと社長のウォーターヌースの不正が絡み、サリーが二人の悪事を突き止め、ブーを無事子供部屋に戻す。
 この間、お邪魔虫のブーとサリーの間に愛情が芽生え、悲しい別れとなるが、悲鳴ではなく笑い声に10倍のエネルギーがあることがわかり、交流が復活するというハッピーエンド。
 最近は子供たちがモンスターを恐れなくなり、エネルギー不足に陥っているという事情がランドールと社長の不正の背景にあるが、最後はモンスターと子供たちはwin-winで仲良くなれるという、ピクサーらしいオチがほのぼのとさせる好篇。
 サリー、マイクを始め、モンスター・キャラクターのデザインが良くできていて、且つバラエティに富んでいるのが魅力的。ブーもあざとさのない可愛らしさがいい。 (評価:2.5)

ランユー

製作国:香港
日本公開:2004年7月31日
監督:スタンリー・クワン 製作:チャン・ヨンニン 脚本:ジミー・ガイ 撮影:ヤン・タオ チャン・ジェン 美術:ウィリアム・チャン 音楽:チャン・ヤートン

『帰らざる日々』を連想させる性愛というよりは男の友情物語
 原題"藍宇"で、登場人物の名。北京同志の小説『北京故事』が原作。
 1988年から90年代の北京を舞台に、青年実業家チェン(フー・ジュン)と苦学生ランユー(藍宇、リウ・イエ)との出会いから別れまでの同性愛を描いた作品。
 ゲイのチェンが男娼のランユーを買い、互いに愛情が芽生えて同棲。ところがチェンが仕事で知り合った美女リン(スー・ジン)を見染めて結婚。チェンは家を贈ってランユーと別れるが、チャンの結婚生活は続かず離婚。
 10年後に出会った二人は再び元の鞘に収まるが、会社の不正取引でチャンが逮捕され重刑を免れぬことに。ランユーは家を売った金でチェンを釈放するが、直後、ランユーは建設現場での仕事中に事故死する。
 結末の付かない物語を死で終わらせるという安易さはあるが、同性愛映画としては自然体で語られているために情念的でなく嫌らしさを感じない。観終わって、性愛よりは男の友情を描いたように感じられ、『帰らざる日々』(1978)を連想させた。
 1989年の天安門事件も出てくるが、香港返還後の作品ということもあり深入りせず、デリケートに描いている。
 鏡像を使ったり、ゆっくりとした移動など、情感を活かしたカメラワークが見どころ。 (評価:2.5)

製作国:フランス、イタリア、ベルギー、イギリス、スロヴェニア
日本公開:2002年5月25日
監督:ダニス・タノヴィッチ 製作:フレデリック・デュマ、マルク・バシェ、チェドミール・コラール 脚本:ダニス・タノヴィッチ 撮影:ウォルター・ヴァン・デン・エンデ 音楽:ダニス・タノヴィッチ 美術:ドゥシュコ・ミラヴェツ
キネマ旬報:2位
アカデミー外国語映画賞

不寛容と憎悪のナショナリズムの始まりを予想した映画
 原題"No Man's Land"は、戦争で両軍が膠着状態にある無人地帯のこと。
 本作ではボスニア紛争で、ボスニア軍とセルビア軍の間の無人地帯が舞台で、濃霧でセルビア側前線に迷い込んだボスニア軍兵士2人が戦車砲で無人地帯の塹壕に吹き飛ばされる。そこへ セルビア軍兵士2人が偵察に訪れ、倒れているボスニア兵1人を死体だと思い、動かした途端に爆発するようにその下に地雷を仕掛ける。
 もう一人のボスニア兵と撃ち合いになり、セルビア兵1人が死亡。地雷の上の兵士が目を覚まし、残った1名ずつが両軍に白旗を振って救助を求める。国連軍軍曹が駆け付け、事態の深刻さを知って本部に地雷処理班の応援を求めるが、事なかれ主義の上官は戦闘非介入を名目に拒否。この通信を傍受したテレビ記者が軍曹にインタビューして事実を公表し、上官は仕方なく地雷処理班を送る。
 しかし結局、地雷処理ができず、国連軍は搬送したと嘘の公表をして地雷の上の兵士を置き去りにする。
 本作で描かれるのは塹壕の両軍兵士の救いようのない不信と反目、国連軍の無力とおざなりな対応、建前だけのジャーナリズムの商業主義で、パワーポリティクスとそれぞれの利害が優先される中で、置き去りにされる民衆を地雷の兵士に象徴させる。
 本作は泥沼の民族紛争化したボスニアが主題だが、現在の各地で起きている悲惨な民族紛争を眺めた時、どこも肝腎の民衆が置き去りにされた同じ構図であることに気付かされる。と同時に、東西冷戦後のイデオロギーではなく不寛容で憎悪に満ちたナショナリズムの悲惨な民族紛争の始まりがボスニア紛争だったことにも気づかされる。
 国連は変わらず無力で、正義を振りかざすだけのジャーナリズム、絶望的な民族対立といった今日の状況を本作は予想している。
 アカデミー外国語映画賞、ゴールデングローブ外国語映画賞を受賞。 (評価:2.5)

製作国:フ​ラ​ン​ス
日本公開:2001年11月17日
監督:ジャン=ピエール・ジュネ 製作:クローディー・オサール 脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン 撮影:ブリュノ・デルボネル 音楽:ヤン・ティルセン
キネマ旬報:6位

パッケージは不気味だが映画のアメリは可愛い
 ​原​題​は​"​L​e​ ​F​a​b​u​l​e​u​x​ ​D​e​s​t​i​n​ ​d​'​A​m​é​l​i​e​ ​P​o​u​l​a​i​n​"​(​ア​メ​リ​・​プ​ー​ラ​ン​の​素​晴​ら​し​い​運​命​)​。
​ ​神​経​質​な​母​と​冷​淡​な​父​親​の​間​に​生​ま​れ​た​ア​メ​リ​・​プ​ー​ラ​ン​は​心​臓​病​と​誤​診​さ​れ​、​学​校​に​行​か​ず​に​一​人​で​育​つ​。​空​想​ば​か​り​で​コ​ミ​ュ​障​の​ア​メ​リ​は​、​自​室​に​隠​さ​れ​て​い​た​4​0​年​前​の​子​供​の​宝​箱​の​持​ち​主​を​捜​し​て​密​か​に​渡​し​て​、​他​人​と​の​繋​が​り​に​歓​び​を​感​じ​る​。​捨​て​ら​れ​た​ス​ピ​ー​ド​写​真​を​収​集​す​る​の​が​趣​味​と​い​う​青​年​に​恋​し​、​あ​の​手​こ​の​手​で​接​触​を​図​る​が​、​姿​を​見​せ​る​こ​と​が​で​き​ず​、​ア​パ​ル​ト​マ​ン​の​老​人​に​背​中​を​押​さ​れ​て​彼​と​結​ば​れ​る​。
​ ​こ​れ​が​大​筋​の​ス​ト​ー​リ​ー​で​、​登​場​人​物​が​個​性​的​と​い​う​か​変​人​で​、​人​物​描​写​が​シ​ニ​カ​ル​で​面​白​く​、​随​所​に​ブ​ラ​ッ​ク​ジ​ョ​ー​ク​が​織​り​込​ま​れ​る​。​し​か​し​、​こ​う​し​た​刺​激​的​な​シ​ナ​リ​オ​や​演​出​と​い​う​の​は​時​間​経​過​と​と​も​に​マ​ン​ネ​リ​に​な​り​、​と​り​わ​け​ア​メ​リ​の​恋​愛​に​進​む​と​外​形​よ​り​も​内​面​に​描​写​が​移​る​の​で​、​急​速​に​平​凡​な​話​に​な​っ​て​し​ま​う​。
​ ​ラ​ス​ト​は​予​定​調​和​で​、​「​素​晴​ら​し​い​運​命​」​を​手​に​入​れ​た​ア​メ​リ​が​本​当​に​幸​せ​だ​っ​た​の​か​ど​う​か​と​い​う​点​が​描​か​れ​な​い​と​、​た​だ​の​甘​口​の​恋​愛​映​画​。​も​っ​と​も​、​恋​愛​に​勇​気​を​持​て​な​い​女​性​に​対​す​る​応​援​歌​で​は​あ​る​が​。
​ ​パ​ッ​ケ​ー​ジ​は​不​気​味​だ​が​、​映​画​の​中​の​オ​​​ド​​​レ​​​イ​​​・​​​ト​​​ト​​​ゥ​が​可​愛​い​。 (評価:2.5)

ロード・オブ・ザ・リング

製作国:アメリカ、ニュージーランド
日本公開:2002年3月2日
監督:ピーター・ジャクソン 製作:ピーター・ジャクソン、バリー・M・オズボーン、ティム・サンダース 脚本:ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン 撮影:アンドリュー・レスニー 美術:グラント・メイジャー 音楽:ハワード・ショア

フロドの旅の一行から観客の方が抜けたくなる
 原題"The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring"で、指輪たちの所有者:指輪の交わりの意。J・R・R・トールキンの同名ファンタジー小説が原作。
 『指輪物語』3部作の第1作で、冥王サウロンが作り出した、世界を支配する指輪の神話を語るプロローグから始まり、ホビット庄を訪れる魔法使いガンダルフ(イアン・マッケラン)、指輪の所有者ビルボ・バギンズ(イアン・ホルム)の111歳の誕生日の祝宴、『ホビットの冒険』を書くために指輪をフロド(イライジャ・ウッド)に託しての出立、サウロンの下僕の指輪探索、指輪を滅びの山の火口に投げ込んで消滅させるためのフロドの旅立ち、賢者サルマン(クリストファー・リー)の寝返り、裂け谷での旅の仲間の集結と進んでいく。
 テンポの速い展開と敵との息詰まるチェイス、ホビット・魔法使い・エルフ・ドワーフのファンタスティックな世界観、CGやVFXをふんだんに使った豪華な映像で、お伽の国の冒険譚を贅沢に楽しめるのだが、フロド一行が裂け谷を出て、旅を始めてからが途端に物語に締まりがなくなる。
 崖崩れ、雪崩といった試練から、ドワーフの宮殿跡の坑道では蛸のような怪物に襲われたり、オークやトロルも登場するが、戦って逃げる・戦って逃げるの繰り返しで、アクションが単調。ガンダルフが落命して一段落かと思いきや、エルフの女王(ケイト・ブランシェット)との出会いが続き、エルフの森を出て一段落かと思いきや、仲間割れとなり、そこにオークが襲ってくる。それが片付いてフロドが友達のサム(ショーン・アスティン)と二人で舟を漕ぎ出し、ようやくエンディングとなる。
 個々のエピソードやシーンは単体で見ると映像的にもアクション的にも良く出来ているのだが、裂け谷を出るまでの話が長すぎて、その後に似たようなバトル・ステージのエピソードが続くと、今か今かとラスト・ステージを望むようになる。それがいつまでも続くと飽きが来て、フロドの旅の一行から観客の方が抜けたくなる。
 ロール・プレイング・ゲームのようなストーリーに3時間は長い。 (評価:2.5)

I am Sam アイ・アム・サム

製作国:アメリカ
日本公開:2002年6月8日
監督:ジェシー・ネルソン 製作:マーシャル・ハースコヴィッツ、ジェシー・ネルソン、リチャード・ソロモン、エドワード・ズウィック 脚本:クリスティン・ジョンソン、ジェシー・ネルソン 撮影:エリオット・デイヴィス 音楽:ジョン・パウエル

こうあってほしいと願う父娘のファンタジードラマ
 原題"I Am Sam"。サムは主人公の名。
 7歳児の知能しかない知的障碍者サム(ショーン・ペン)は、ホームレスの女との間に生れた女の子ルーシー(ダコタ・ファニング)を男手一つで育てるが、ルーシー7歳の時、養育能力がないと見なされて児童施設に保護されてしまう。
 父娘とも望まないこの決定に、サムはリタ(ミシェル・ファイファー)に弁護を依頼、親権を取り戻すための法廷闘争を始めるというドラマ。結局は裁判に敗れ条件付きの親権となるが、里親となった夫妻が養子縁組を求めたために新たな裁判となる。
 ラストは、サムと里親が和解してのみんながペアレントというオール・ハッピーエンドとなるが、知的障碍者に養育能力はあるかというシリアスなテーマは避けた、ぬるま湯的なヒューマンドラマになっている。
 これを支えるのがショーン・ペンとダコタ・ファニングの仲良し父娘の演技で、前向きな二人の姿が感動的で未来への不安を感じさせないために、それほど現実は甘くないだろうことを感じさせない。
 知的障碍者だから親の資格がないという常識に対置されるのがエリート弁護士リタの崩壊家族で、知性の高い人間でも親の資格があるとは限らないという逆説で、サムの立場を補強する。
 心温まるヒューマンドラマというよりは、こうあってほしいと願うファンタジードラマ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2002年2月9日
監督:ヴィクター・サルヴァ 製作:トム・ルーズ、バリー・オッパー 脚本:ヴィクター・サルヴァ 撮影:ドン・E・ファンルロイ 音楽:ベネット・サルヴェイ

一件落着して終わらない予想外のエンディングのホラー
 原題"Jeepers Creepers"で、劇中に出てくるジャズの曲名、"Jesus Christ"の婉曲表現。"Creeper"は、這うものの意で、気味の悪い人、ストーカー、他人をこっそり観察する人の俗語、劇中で曲と共に現れる怪物の呼び名。
 大学生の姉(ジーナ・フィリップス)と弟(ジャスティン・ロング)が、イースターに帰省するために田舎道をドライブしているシーンから始まり、正体不明のトラックに追い立てられるのが『激突!』(1971)を連想させる。
 トラックは森の中の廃寺の穴に、縫い合わせた人体が入った袋を投棄。それを知らせに寂しそうなドライブインに入ると、なぜか中は気味の悪い村人で満席。女霊能力者(パトリシア・ベルチャー)から"Jeepers Creepers"の曲に気をつけろの電話。何者かに車内を荒らされ、やってきた警官と廃寺に向かうが、カーラジオから曲が聞こえ、現れた怪物に警官は殺されてしまう。
 猫屋敷の老女(アイリーン・ブレナン)に助けるを求めるも、立ち向かった老女は怪物に殺され、怪物は逃げる二人を追いかける。逆上した姉が怪物をひき殺すと、なんと翼の生えた悪魔というお決まり。
 警察署で事情を話していると、死んだはずの悪魔が襲撃。欠損した自分の体の一部を人間から食いちぎることで生き延びていると女霊能力者から教わる。
 最後は悪魔を焼き殺して一件落着と思いきや、弟が空に連れ去られてしまう予想外の結末。悪魔の巣窟に目を繰り抜かれた弟の皮が吊るされ、奥から悪魔の目が覗くというエンディングとなる。
 正体不明→怪物→悪魔と転じていく演出は上手く、ホラー感もたっぷりだが、雰囲気優先で辻褄は無視。悪魔が弟に拘る理由も、姉が本当の狙いは私でしょという台詞も意味不明。
 怪物の正体は悪魔というのもウンザリするが、日本人には怨霊に納得感があるように、悪役は悪魔というのはアメリカ人にとっては安心感があるのかもしれない。
 ジーナ・フィリップスがホラーヒロイン向きのカワイ子ちゃん。女霊媒師と猫屋敷老女も不気味なオバサンで、ホラーのツボは押さえている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2002年9月13日
監督:ジェームズ・アイザック 製作:ノエル・カニンガム、ジェームズ・アイザック 脚本:トッド・ファーマー 撮影:デリック・V・アンダーシュルツ 音楽:ハリー・マンフレディーニ

怖いもの見たさで見る、パロディ版『13日の金曜日』
 原題は"Jason X"で第10作目。コールドスリープしたジェイソンが400年後に宇宙船の中で復活する未来SFバージョン。『13日の金曜日』もさすがに10作目ともなると、マンネリ打破のためにトンデモ設定を持ってくる。もともと1作目からチープな設定だが、ここまでチープな設定だと、怖いもの見たさで宇宙船の中でどんな殺戮を犯すのか見たくなる。ここでいう怖いもの見たさは、ホラーの意味ではなくて見ていはいけないものを見たいという心理。
 期待にたがわず、突っ込みどころ満載の超B級。宇宙船は『スタートレック』のエンタープライズ号並みの技術力。銃はぶっ放すわ、壁は壊すわで、とても400年後とは思えない。しかし、それもこれもジェイソンを暴れ回らせるための非科学的考証で、ホラーよりはコメディとして楽しめる。それにしても宇宙船内で再生したジェイソンは、マスクも体も近代的で、真空でも死なないという無敵ぶり。少しも怖くないジェイソンは、ホラーとしては失敗だと思うが、パロディとしては十二分に楽しめる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2002年3月30日
監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード 脚本:アキヴァ・ゴールズマン 撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:ジェームズ・ホーナー
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

映画的にも精神分裂しているサスペンス+病気感動もの
 原題"A Beautiful Mind"で、シルヴィア・ネイサーが書いたジョン・ナッシュの同名の伝記が原作。ジョン・ナッシュはノーベル経済学賞を受賞した経済学者・数学者。
 ナッシュがプリンストン大学に入学してからゲーム理論でノーベル賞を受賞するまでの半生を描く。
 前半は彼の精神分裂病が伏せられているために、対ソ連テロリストの戦いという妄想を観客が鵜呑みにするようなサスペンスタッチの娯楽作となっていて、後半、精神分裂病が観客に明かされてからは、妻のアリシアに支えられながら闘病する感動物語という、映画的にも精神分裂した構成になっている。
 サスペンスも闘病感動物語もアメリカ人好みで、そうした娯楽伝記として楽しむ分にはまずまずだが、それに相応しく粗も多い。
 冒頭、新入生を迎える数学科の教授の台詞がドキュンで、原爆を開発したのが数学者ならアインシュタインも数学者。ゲーム理論を表現するためなのか、キャンパスでいきなり囲碁に参加するシーンがあるが、流れ的にはナッシュが囲碁のルールを知っていたとは思えず、いきなり打ててしまうのはさすが天才。しかも2度ほど盤面が映るのだが、1回目も? なら、2回目ではルール上石の置けないところに打ってしまうというハチャメチャぶり。せめて、囲碁の分かるスタッフか監修者くらい付けられなかったのかと、ロン・ハワードの杜撰ぶりに舌を巻く。
 その杜撰ぶりが全編にいきわたっていて、プリンストン大学の男子学生は低俗な会話しかできない三流ハイスクールの落ちこぼれ高校生、女子学生に至っては風俗店の淫売姉ちゃんにしか見えない。
 最大のミスキャストはナッシュ役のラッセル・クロウで、マッチョな体は精神分裂病の天才数学者というよりは肉体労働者。本作は伝記ではなく、伝記を使った娯楽作なのだと思うしかない。
 ちなみにソ連テロリストの暗号解読をペンタゴンに依頼されたという妄想はエンタテイメントづくりのための脚色で、一週間ごとに人格が変わっていたらしい。
 彼がなぜ精神を病んだのか? という点をサスペンスでなく描ければ、伝記としてもう少しマシになっていたかもしれない。
 妻役は31歳のジェニファー・コネリー。 (評価:2)

PLANET OF THE APES/猿の惑星

製作国:アメリカ
日本公開:2001年7月28日
監督:ティム・バートン 製作:リチャード・D・ザナック 脚本:ウィリアム・ブロイルス・ジュニア、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール 撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ダニー・エルフマン

猿の惑星だけにTバートン版は猿知恵・猿真似・猿芝居
 ピエール・ブールのフランスのSF小説"La Planète des singes"(猿の惑星)が原作。劇中でmonkeyではなくapeだと怒る場面があるが、apeは類人猿のこと。
 1968年の映画『猿の惑星』が有名なため同作のリメイクと考えられがちだが、シャフナー版とは別作品で、同じラストを期待してはいけない。本作の方がより原作に忠実とされるが、だから面白いというわけではなく、とりわけ科学設定は無茶苦茶。
 相対性原理に代わってワームホールで未来に飛ぶのかと思ったら、磁気嵐で時空を超えるという猿知恵並みのわけのわからなさ。磁気嵐は電磁波をブラックホールのように捕縛しているらしく、過去のテレビ画像が見られたりする。探査機は今は無人が常識なのに、ロボットではなくチンパンジーや人間がポッドに乗り込む。そうしなければ猿の物語にならないというわけか?
 このような不安な始まり方をする映画は大抵が失敗作で、動力は原子炉なのに不時着した沼はガソリンを撒いたように燃え、核燃料を燃やして猿を追い払う場面は、思わず被曝を心配する。惑星のセットも『スタートレック』や『宇宙家族ロビンソン』のTVシリーズ並みで、40年以上昔にタイムスリップした感じ。捕虜が逃げるシーンも猿芝居で、猿のメーキャップにばかり力を注いで、そのほかが疎か。
 1968年版主役のチャールトン・ヘストンが猿役で出ているがメーキャップで良くわからない。ヘレナ・ボナム・カーターの猿の演技も、上手いのかそれとも猿真似なのか判然としない。猿も木から落ちるティム・バートン。 (評価:2)

パール・ハーバー

製作国:アメリカ
日本公開:2001年7月14日
監督:マイケル・ベイ 製作:マイケル・ベイ、ジェリー・ブラッカイマー 脚本;ランドール・ウォレス 撮影:ジョン・シュワルツマン 美術:ナイジェル・フェルプス 音楽:ハンス・ジマー

今更ながらの戦争ヒーロー映画+戦争メロドラマ
 原題"Pearl Harbor"で、真珠湾のこと。
 タイトルから歴史映画と思って見ると期待外れで、『戦場にかける橋』(1957)のような戦争ヒーロー映画、ないしは『慕情』(1955)のような戦争メロドラマといったCG、SFXバリバリながらも20世紀テイストの作品。
 イギリスの対独戦から真珠湾攻撃、ドーリットル空襲までが描かれるが、戦争についての考証はいい加減で、歴史年表を基に創作したフィクション。
 戦争に関しては主人公レイフ(ベン・アフレック)が、ずば抜けた戦闘能力を持つエースパイロットとして描かれ、そのヒーロー性を高める。一方、悪玉としての日本軍がやたらと強くて、勤皇の幟を背負う司令官たちはさながら戦国武将のような描写。アメリカ人のリメンバー・パールハーバーの愛国心を殊更に刺激するように、攻撃を受けるアメリカ軍の被害が延々と描かれ、奇襲というよりは鬼襲という内容になっている。
 3時間に及ぶ長尺ながら、内容は1行で足り、パイロットに憧れる竹馬の友の二人の少年が長じて一人の女を愛してしまい、戦死した友の子を宿した女ともう一人が結婚して、忘れ形見を育てるという友情物語。
 如何にもなアメリカ人の心を鷲掴みにする友情ドラマで、これにナショナリズムのツボを刺激する戦争悲劇が加われば商業映画としては完璧なのだが、前世紀ならともかく21世紀ともなればアナクロニズムが過ぎて、あまり知られていないアメリカ版神風攻撃隊のドーリットル空襲にせめてもの見どころを見い出すしかない。 (評価:1.5)


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