海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1928年

製作国:アメリカ
日本公開:​1​9​2​8​年​3​月
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:ローランド・H・トザロー
キネマ旬報:3位

チャップリンの魅力がすべて詰まった失恋物語
 ​原​題​"​T​h​e​ ​C​i​r​c​u​s​"​の​サ​イ​レ​ン​ト​映​画​。
​ ​放​浪​者​の​チ​ャ​ッ​プ​リ​ン​が​巡​回​の​サ​ー​カ​ス​団​に​ス​カ​ウ​ト​さ​れ​、​団​長​の​娘​を​好​き​に​な​る​が​娘​は​ハ​ン​サ​ム​な​綱​渡​り​師​に​恋​し​・​・​・​と​い​っ​た​片​思​い​の​ラ​ブ​ス​ト​ー​リ​ー​。​チ​ャ​ッ​プ​リ​ン​ら​し​い​笑​い​と​ペ​ー​ソ​ス​に​溢​れ​た​作​品​で​、​恋​す​る​女​の​幸​せ​を​願​っ​て​綱​渡​り​師​と​の​間​を​取​り​持​ち​、​二​人​を​祝​福​し​て​サ​ー​カ​ス​団​を​去​る​と​い​う​ラ​ス​ト​が​泣​か​せ​る​。​み​ん​な​に​は​最​後​尾​の​車​に​乗​り​込​む​と​思​わ​せ​て​、​去​っ​て​い​く​サ​ー​カ​ス​の​車​を​見​送​る​シ​ー​ン​は​名​場​面​。
​ ​政​治​的​な​主​義​・​主​張​の​な​い​作​品​な​の​で​純​粋​に​サ​イ​レ​ン​ト​・​コ​メ​デ​ィ​と​し​て​楽​し​め​、​か​ら​く​り​人​形​の​真​似​を​す​る​シ​ー​ン​な​ど​は​チ​ャ​ッ​プ​リ​ン​の​真​骨​頂​を​見​せ​る​。​本​物​の​ラ​イ​オ​ン​の​檻​に​入​る​シ​ー​ン​は​調​教​さ​れ​て​い​る​と​は​い​え​命​が​け​で​、​綱​渡​り​シ​ー​ン​も​命​綱​を​付​け​て​る​と​は​い​え​体​当​た​り​の​演​技​で​、​高​い​運​動​能​力​が​必​要​。​ギ​ャ​グ​の​ア​イ​デ​ィ​ア​力​だ​け​で​な​く​、​チ​ャ​ッ​プ​リ​ン​の​演​技​力​、​運​動​能​力​と​い​っ​た​す​べ​て​の​魅​力​を​確​認​す​る​こ​と​が​で​き​る​。
​ ​水​槽​の​掃​除​を​し​な​が​ら​、​中​の​魚​を​鷲​掴​み​に​し​て​雑​巾​で​拭​く​シ​ー​ン​は​思​わ​ず​吹​き​出​す​。 (評価:4)

蒸気船ウィリー

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ウォルト・ディズニー 製作:ウォルト・ディズニー 

ミッキーマウス初登場のディズニー・アニメの原点
 原題"Steamboat Willie"で、邦題の意。同じ年に公開されたサイレント映画『キートンの蒸気船』(Steamboat Bill, Jr.)のパロディで、主人公の名ウィリーからタイトルが採られている。
 ミッキーマウスの初めて登場する7分の短編アニメーションで、ウォルト・ディズニーの初トーキー作品。劇中のすべてのキャラクターの声を当てているのはウォルト自身で、劇中で音楽に合わせてミッキーが演奏を行っているが、SEを含めてアニメーションと見事にシンクロさせているのが見どころ。
 演奏される曲は"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥)で、フォークダンスの「オクラホマミキサー」に使われる曲。
 ミッキーが口笛を吹きながら調子よく蒸気船を操舵していると、船長のピートがやってきて追い払われる。船は港に着き、ミッキーがクレーンを操作して家畜を積み込むが、遅れたミニーが船に乗り遅れてしまう。そこでミッキーがクレーンを使って無事ミニーを乗せるが、彼女の持っていた楽譜と楽器を山羊が食べてしまい、ミニーが山羊の尻尾を回すとオルゴールになって"Turkey in the Straw"のメロディーが流れだす。
 曲に合わせてミッキーが動物たちを楽器代わりにして演奏。怒ったピートにジャガイモの皮剥きを命じられ、鸚鵡に笑われるがジャガイモをぶつけて外に放り出し高笑い、というミッキーの決して優等生ではない悪ガキぶりが楽しい。
 カトゥーンのギャグやデフォルメした動き、音楽との融合など、ウォルト・ディズニーの原点ともいうべき必見の作品。 (評価:3)

製作国:ソ連
日本公開:1929年9月
監督:フェオドール・オッエップ 脚本:フェオドール・オッエップ 撮影:アナトーリー・ゴロヴニャ
キネマ旬報:5位

教会の鐘と正義の女神テーミスをシンボルに表現主義的に描く
 原題"Живой труп"で、邦題の意。レフ・トルストイの同名戯曲が原作。
 トルストイの戯曲らしく、モスクワを舞台にした哲学的なドラマで、テーマは法と自由。戯曲が描かれた当時は未だロシア帝国で、ロシア正教会が法の代弁者で、近代自由精神から見た宗教法への批判となっている。
 ソ連映画らしく、重いテーマを教会の鐘と正義の女神テーミスをシンボルに表現主義的に描いていくが、台詞が少ないためにやや説明不足で冗長なサイレント作品になっている。
 議論となるのはロシア正教会によって認められていない離婚で、例外は夫婦のどちらかが5年間行方不明、あるいは肉体的欠陥がある、姦通が証明された場合の3つに限られる。
 主人公のフェージャ(フセヴォロド・プドフキン)は、妻リザ(マリア・ヤコビニ)がカレーニン(グスタフ・ディースル)と愛し合っていることを知り、離婚して二人を娶せることが、それぞれの自由と幸せになると考えて教会にいくが、司教から3条件以外を拒否される。
 妻の姦通を訴えるわけにはいかず、悪党のアルチェミエフ(ドミトリ・ヴェデンスキー)の誘いに乗って娼婦との情事をでっち上げようとするが実行できず、家出してロマの集落に紛れ込むが、リーザとカレーニンが迎えに来る。
 死神のような男から拳銃を渡されるが自殺できず、モスクワ川への入水自殺を偽装。ロマ集落で出会った娘マーシャ(ナタ・ワチナゼ)と別れて、スラムで暮らすようになる。
 ところがアルチェミエフに見つかり、逮捕されて法廷に。宗教法の非人間性を訴えるが勝ち目はなく、喪が明けてカレーニンと幸せな家庭を築く重婚罪のリザとシベリア流刑になることに絶望。拳銃自殺で果てるというラスト。
 法と人間主義のどちらが尊重されるべきかという問題を投げかける。
 妻の幸せを願って身を引こうとする、善人でヒューマニズムに溢れた聖人のようなフェージャが気の毒だが、リザの母親が婿のフェージャを邪魔者のように扱うのが不条理で、そちらの方がもっと可哀想。 (評価:2.5)

製作国:ソ連
日本公開:1930年10月
監督:フセヴォロド・プドフキン 脚本:オシブ・ブリーク、イワン・ノウォクショーノワ 撮影:アナトリ・ゴロフニヤ
キネマ旬報:(無声映画)2位

チンギス・ハーンの血が嵐を呼ぶ勧善懲悪のエンタテイメント
 原題"Потомок Чингисхана"で、チンギス・ハーンの後裔の意。
 1918年のモンゴルが舞台で、主人公はチンギス・ハーンの後裔のモンゴル人というのが、連邦成立後のソ連映画らしい。
 猟師の息子ティムウルは銀狐の毛皮を売りに市場に行く。ところが白人の毛皮商人に安く引き取られ、争いになって相手を傷つけてしまう。ティムウルはツンドラを越えてロシア山中に逃げるが、侵略軍と戦うパルチザンに合流。
 一方、法王ラマと友好を結ぶ侵略軍はモンゴル人を搾取し対立するが、捕らえたティムウルの御守からチンギス・ハーンの後裔であることを知り、傀儡の蒙古王に祀り上げてモンゴル人を支配しようと画策する。
 無為な日々を送るティムウルは、かつての毛皮商人が現れたことを知って騒動となり、逃げてきたモンゴル人が射殺されたことが重なって、遂にチンギス・ハーンの血が目覚める。
 ティムウルは蒙古軍を率い、天地も嵐のように吹きすさび、侵略軍を一掃する…という、アジア人には気持ちの良いクライマックスとなる。
 毛皮商人と侵略軍を象徴として、労働者・民衆を搾取するブルジョアジーと帝国主義に対して、世界の人民に決起を促すコミンテルンのプロパガンダ映画として制作されているが、主人公がモンゴロイドという人種を超えたコミンテルンの理想に沿った作品で、欧米の白人主義からは生まれなかった映画という点で評価される。
 しかもプロパガンダ映画というよりは、勧善懲悪のエンタテイメントなアクション・ヒーロー映画になっていて、ソ連映画ということを忘れて観れば、サイレントながらも楽しめる。
 タムチンスキー・ダツァンで撮影された、チベット仏教の舞踊、儀式、僧院なども見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1929年1月
監督:ウィリアム・A・ウェルマン 脚本:ベンジャミン・グレイザー 撮影:ヘンリー・ジェラード
キネマ旬報:3位

これがきっと愛ってもんなんだな、と泣かせる悪党
 原題"Beggars of Life"で、生きるための物乞いたちの意。ジム・タリーの同名自伝を基にしたマックスウェル・アンダーソンの戯曲"Outside Looking In"(外側からの眺め)が原作のサイレント映画。
 物乞いに入った家で、乱暴しようとした養父を射殺した少女ナンシー(ルイズ・ブルックス)に出会った浮浪者の青年ジム(リチャード・アーレン)が、二人でカナダへ逃避行するという物語。
 指名手配された二人は、浮浪者たちの一団に加わって貨物列車で逃亡を図るが、警官隊に追い詰められてしまう。その窮地を救うのが野卑でナンシーを手に入れようとしていた悪党オクラホマのレッドで、愛し合う二人を見て初めて愛というものを知り、自らが犠牲となって二人を逃がしてやる。
 "I've heard about it-but I never seen it before. It must be love!"(俺はそれについて聞いたことがある、今まで見たことはなかったけどな。これがきっと愛ってもんなんだな)というレッドの台詞がいい。
 ウェルマンらしい安定した演出で、サイレントでも十分にストーリー展開が楽しめる。ドラマだけでなく列車のアクションシーンも迫力があり、ルイズ・ブルックスも体当たり演技で頑張っている。
 男に変装して逃げていたナンシーに、レッドが警察を欺くために逆に女の格好をさせて逃がすのがストーリー的にはポイント。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1928年12月
監督:フランク・ボーゼージ 脚本:マリオン・オース、フィリップ・クライン、ヘンリー・ロバーツ・シモンズ 撮影:アーネスト・パーマー 美術:ハリー・オリヴァー 音楽:エルノ・ラペー
キネマ旬報:6位

くどさを超越したジャネット・ゲイナーの熱演が見もの
 原題"Street Angel"で邦題の意。劇中では娼婦の暗喩で、主人公のアンジェラ(Angela)と天使(Angel)を引っ掛けている。
 モンクトン・ホフの戯曲"Lady Cristilinda"が原作のサイレント映画。
 アンジェラ(ジャネット・ゲイナー)は、病気の母の薬代を得るために街頭に立つが客がつかず、他人の金に手を出したところを警官に見つかってしまい、刑務所送りとなる。母を案じて脱走するが母は亡くなっていて、匿ってくれたサーカスの団員に。
 そこで知り合うのが絵描きのジノ(チャールズ・ファーレル)で、骨折を機に二人は退団。才能が認められて寺院の壁画の依頼を受けたジノが、生活の目途が立ったとアンジェラに結婚を申し込んだ夜、警官が現れて収監されてしまう。
 アンジェラが理由も告げずに消えたためジノは仕事が手につかず壁画もキャンセル。隣に住む娼婦(ナタリー・キングストン)からアンジェラが消えた理由を聞かされ、失望したジノはアンジェラのような天使の顔をした邪悪な魂の女を描くために娼婦がたむろする波止場に出掛け、アンジェラに再会。
 礼拝堂まで追いかけて恨みを晴らそうとするが、祭壇にかつて自分が描いたアンジェラの肖像画が天使の絵として掛かっているのを発見。アンジェラの清浄に気づき許しを請うてハッピーエンドとなる。
 前作『第七天国』(1927)同様のボーゼージらしいヒューマン・ドラマで、アンジェラとジノの別れの晩餐、礼拝堂の復縁が、これ以上はないほどにセンチメンタルに描かれる。過剰ともいえる演技と演出だが、くどさを超越したジャネット・ゲイナーの熱演が見もの。
 冒頭シーンの長回しなど演出的にも見どころは多く、サーカスで見せるゲイナーの脚線美も隠れた見どころか。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1929年10月25日
監督:カール・テオドール・ドライエル 脚本:ジョゼフ・デルテーユ、カール・テオドール・ドライエル 撮影:ルドルフ・マテ
キネマ旬報:7位

表現主義の傑作だが知識がないと話がわからない
 原題”La Passion de Jeanne d'Arc”で、ジャンヌ・ダルクの受難の意。
 ジャンヌが宗教裁判にかけられて焚刑になるまでの過程を描くが、サイレントで字幕しか説明がないために、ジャンヌの事績と裁判についてある程度の知識がないと話が全くわからないという、敷居の高い作品。
 シナリオは実際の裁判記録をもとに書かれていて、ジャンヌと審問官との会話を中心に進むが、すべてに字幕が付けられているわけではなく、観客の推測で補わなければならないものも多く、字幕もジャンヌと審問官のどちらの台詞か瞬時に判断できなかったり、字幕の台詞も脈絡がなかったりして、両者のやりとりを理解するのは結構辛い。
 数ヶ月にわたった裁判記録を1時間半の映画に繋げたと知れば、会話が断片的なのも致し方のないことか。
 要はジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)が大天使ミカエルから直接啓示を受けたのかどうかが問われていて、それが神の代理人である教会にとって不都合なため、ジャンヌに撤回を求めるというもの。
 ジャンヌは焚刑を恐れて一度はミカエルの啓示を否定するが、ミカエルの意志に背きクリスチャンとしての務めを果たせないことから撤回、焚刑の道を選ぶ。
 話の分かり難さとは別に、クローズアップを多用したジャンヌと審問官の表情で語らせるサイレントならではの演出は画期的で、ほぼ全編、この心理で見せる演出法が取られている。
 クローズアップ以外のショットもほとんどがバストから全身で、場の空気を表現するためにアオリやパースをつけたアングルとコンポジションのカメラワークが秀逸。模範的な映像による表現主義の作品となっている。
 話のわかりにくさを置いて映像と演出だけ見れば、歴史的にも価値ある傑作。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1929年1月
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 脚本:ジュールス・ファースマン 撮影:ハロルド・ロッソン
キネマ旬報:1位

好いちゃいけない陸の女に恋する海の男の純情物語
 原題"The Docks of New York"で、邦題の意。ジョン・モンク・サウンダースの"The Dock Walloper"が原作のサイレント映画。
 ニューヨークの波止場に寄港した貨物船の罐焚きが身投げした娼婦を助け、好いちゃいけない陸の女に恋してしまうという海の男の物語。
 助けられた女メイ(ベティ・カンプソン)は腕っぷしが強く汗臭い海の男ビル(ジョージ・バンクロフト)に惚れ、ビルも若く儚げな美人のメイに心奪われ、酔った勢いで牧師を呼んで結婚してしまう。
 翌朝、正気に返ったビルは一夜の夢とメイに別れを告げるが、ビルが失敬してメイにプレゼントした服が発端で、メイが逮捕されてしまう。それを知ったビルは出航した貨物船から泳いで港に帰り、裁判所に自首してメイの無罪を晴らすが、代わりに60日の禁固刑に。
 ビルは海の男を捨て、出所後のメイとの暮らしを約してエンドとなるという、ちょっとかっこいい話。
 罐焚きを差配する三等航海士と妻の痴話喧嘩、さらにはこの三等航海士がメイに傍惚れして妻に殺されるエピソードが挟まるが、基本はビルの男気と対をなす純情が見どころとなっている。 (評価:2.5)

製作国:ドイツ
日本公開:1930年4月
監督:ヨーエ・マイ 製作:エリッヒ・ポマー 脚本:フレッド・マヨ、フリッツ・ヴェンドハウゼン 撮影:ギュンター・リター
キネマ旬報:(無声映画)3位

女たらしの戦友に妻を寝取られる可哀想な男のドラマ
 原題"Heimkehr"で、邦題の意。レオン・ハルト・フランクの小説"Karl und Anna"が原作のサイレント映画。
 第一次世界大戦のロシアとの東部戦線で、捕虜となったドイツ兵二人の友情と悲哀の物語。
 ドイツ軍捕虜のリヒャルト(ラルス・ハンソン)とカール(グスタフ・フレーリッヒ)は、シベリアで渡し守をさせられているが、リヒャルトが妻恋しさのあまりカールと逃亡を決意。途中、疲労で倒れ、カールが水汲みに離れたところをコサックに見つかり、鉛鉱に送られてしまう。
 リヒャルトが捕まったことを知ったカールは逃亡を続け、ハンブルクに到着。リヒャルトの留守宅を訪れ、リヒャルトを待つ振りをしてそのまま居座ることになる。早速、リヒャルトの妻アンナの籠絡に掛かり、アンナもその気になったところで、独露間の講和が成立。リヒャルトが帰宅し、仲睦まじい二人に出会ってしまう。
 まだファーストキスだからというカールの理由にならない理由はともかく、アンナの心変わりを知ったリヒャルトはカールを殺そうとするが、逃亡中に行き倒れそうになったところをカールに助けられたのを思い出し、二人を許して去って行くという男のドラマ。
 サイレントなのでカールとアンナの心情は精確には伝わらないが、リヒャルトの生死が不明なのをいいことに平然と留守宅に押しかけ、居座った挙句に妻を寝取ろうとするカールはあまり感心の出来ない男で、リヒャルトの消息を知らされないアンナもまた、帰りを待たずに男を乗り換えるという尻軽で、男の引き際とばかりに格好つけて二人を許してしまうリヒャルトも腰抜けで、どこが男のドラマなのだろうと惨めなリヒャルトに同情するばかりだが、サイレントなので声を掛けて慰めることもできない。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1928年10月
監督:E・A・デュポン 製作:E・A・デュポン 脚本:E・A・デュポン
キネマ旬報:10位

何があってもステージで客を喜ばせる踊子の悲哀を描く
 原題"Moulin Rouge"。
 ムーラン・ルージュの踊子パリシア(オルガ・チェホーワ)とその娘マーガレット(イブ・グレイ)、その婚約者のアンドレ(ジャン・ブレイディン)の恋愛模様を描くサイレント映画。
 マーガレットがアンドレを母に紹介するために3年ぶりにパリに戻ってくるところから物語は始まる。マーガレットの母がムーラン・ルージュの看板だと知ったアンドレは、一目でパリシアの虜となって熱を上げてしまう。
 この時、イギリス生まれのイブ・グレイ26歳。31歳の妖艶なロシア美人のオルガ・チェホーワが母では娘に勝ち目がなく、アンドレはあろうことかパリシアに愛を告白してしまう。
 娘を愛するパリシアが相手にするはずもなく、結婚式前日を迎えてアンドレは死を決意。自分の車のブレーキに細工をして父を迎えに行き事故死するつもりが、直前になって寝不足からか眩暈を起こして気絶してしまうというマヌケ。代わりにマーガレットが迎えに行き、真相を知ったパリシアがアンドレに追いかけさせるが、二人とも事故を起こしてマーガレットは危篤に。
 このカーチェイスシーンがブルースクリーンながらも迫力満点。もっとも爆音の中で会話をしたり、高速で並走して乗り移るという俳優よりも監督の無茶ぶりが際立つが、そこは大目に見る。
 マーガレットの救命治療中も、看板の踊子はつらいよとばかりにパリシアはムーラン・ルージュのステージに立ち、客を喜ばせるというのが本作最大の泣かせどころで、主役はマーガレットではなくパリシアだというのが明確になる。
 マーガレットの命が助かり、パリシアの叱責の下、アンドレはマーガレットとの新しい人生を歩み出す。新婚旅行に旅立つ二人を見送れないのも踊り子の辛さで、今日もムーラン・ルージュのステージで客を喜ばせる哀しい姿で幕を閉じる。
 ストーリーは相当に安易だが、ムーラン・ルージュのステージを再現したショーが見どころ。ラインダンスだけでなく、本当か嘘か日本の時代劇や京劇、エジプトのショーなど異国情緒の出し物もあるのが面白い。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1929年2月
監督:パウル・フェヨシュ 製作:カール・ラーミル 脚本:エドワード・T・ロウ・Jr. 撮影:ギルバート・ウォーレントン
キネマ旬報:10位

音と映像技術を駆使したアミューズメントなサイレント映画
 原題"Lonesome"で、独りで寂しいの意。
 ニューヨークで恋人もなく、独り寂しく暮らしている労働者の若い男女が出会うラブストーリー。
 ジム(グレン・トライオン)は工場労働者、メアリー(バーバラ・ケント)は電話交換手という、当時の典型的な職業で、独立記念日に二人が寂しさを紛らわすためにコニーアイランドに行き、カーニバルでメアリーを見染めたジムが声を掛け、意気投合した二人が海水浴、遊園地で親しく遊ぶというステレオタイプなストーリーで、特に工夫はない。
 見せ場は遊園地でジェットコースターなどのアミューズメントが臨場感たっぷりで、今ならディズニーランドの疑似体験映画といった感じ。
 基本はモノクロ・サイレント映画だが、着色によるパー・トカラー、オーバーラップや合成など映像技術を駆使したところも見どころ。パート・トーキーもあって、映画そのものがアミューズメントになっている。
 二人がそのままゴールインでは流石に芸がないと考えたのか、遊園地内で二人がはぐれてしまい再会できないままに各々ワンルームに帰宅する。
 もちろんアミューズメント映画にバッドエンドはなく、実はアパートの部屋が隣同士だったという、これ以上ない安直な結末に力が抜けるが、これまで隣同士で顔を見たこともなかったのか? というツッコミは野暮か。
 二人がロンサムなのは、内向的というか精神的というか哲学的というか、要は異性と遊ぶことしか考えない通俗的な同僚たちとは違うという自意識が、実は単なる負け惜しみのようなもので、そんな寂しい二人が僕たちは他の連中とは違うんだと慰め合い、惹かれ合うのだが、コニーアイランドで遊び呆けている姿は微笑ましいというよりは、他の連中と大差のない通俗で、相手の見つからなかった男女が運よく出会い、めでたくカップルになりましたというだけの話に過ぎず、映像と遊園地のアミューズメントを楽しむ以外は中身がない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1928年11月1日
監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム 製作:P・A・パワーズ 脚本:エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ハリー・カー 撮影:ハル・モーア、ベン・レイノルズ、ビル・マッギャン、ハリー・ソープ、ロイ・クラフキ 音楽:J・S・ザメクニック、ルイ・ド・フランチェスコ
キネマ旬報:9位

悲恋物語だが『金色夜叉』のようにどこか不純な印象
 原題"The Wedding March"で、邦題の意。
 1914年のウィーンが舞台。サラエボ事件が起きた年で、ハプスブルク帝国末期のウィーン貴族の退廃を背景に、没落貴族のプリンスと平民の少女の恋を描く。
 シュテファン大聖堂の聖体祭の行列を見にきていたミッツィ(フェイ・レイ)は、騎兵隊のニッキー(エーリッヒ・フォン・シュトロハイム)に見染められる。
 もっともニッキーは退廃した貴族の例に漏れず、女なら見境なしのプレイボーイ。祝砲にニッキーの馬が驚いて暴れ出し、ミッツィが怪我をしたことが運命の出会いとなり、病院に見舞ったニッキーとの逢瀬が始まる。
 ミッツィには婚約者のシャニ(マシュー・ベッツ)がいるが、野卑で好きになれず、ニッキーとの交際を知ったシャニはこれに嫉妬。
 一方、ニッキーはミッツィこそが最良の女と結婚を約すが、両親を助けるために新興ブルジョアの娘との縁談に同意。結婚式当日、教会前でミッツィを認めるが涙の別れとなる。
 ハッピーエンドとはならない悲恋物語だが、『金色夜叉』のようにどこか不純な印象。黄昏のウィーンの退廃が二人の間に影を落としていることから、今ひとつすっきりしない。
 結婚と恋愛は別物というこの時代には一般的な価値観がテーマとなるが、不実な結婚に教会のオルガン弾きが骸骨に重なるという演出がわざとらしい。不幸を運ぶ鉄の男という象徴も、不純な悲恋物語の前ではどこか的外れ。
 ミッツィ役のフェイ・レイは『キング・コング』(1933)の美女で、本作公開時21歳で可憐な少女を演じるが、ニッキー役のシュトロハイムは公開時43歳の助平そうなおじさんで、レイと釣り合いが取れない。 (評価:2)

アンダルシアの犬

製作国:フランス
日本公開:2017年12月23日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:ルイス・ブニュエル 脚本:ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ 撮影:アルベール・デュベルジャン

どこが傑作なのか理解できないシュールリアリズムの傑作
 原題"Un Chien Andalou"で、邦題の意。
 17分の短編サイレント映画。シュールリアリズムの傑作とされるが、歴史的価値を除けばどこが傑作なのか理解できない。
 「昔々ある所に…」の字幕から始まり、男が剃刀を研ぐシーン、続いて月が現れて女の眼球を切り裂くシーンとなって、字幕はいきなり8年後。自転車男が転倒して歩道の角に頭をぶつけて死亡、女がベッドに衣装を並べると、ドアの前に掌に蟻を飼う男。
 道端で千切れた手首を棒で突く娘、それが車に撥ねられ、窓から眺めていた男が女を襲う…というように脈絡なくシーンが続く。
 そこからはさらにハチャメチャで、男が部屋のピアノをロープで引っ張るとロバのような動物の死体が載っていて、寝室に逃げ込んだ女はベッドに先程の衣装を着た男が寝ているのを見る。
 午前3時の字幕と共に来客が訪れ、男を壁に立たせると16年前の記憶に。16年前の自分を射殺すると場面は野原。死体が運ばれ女の部屋、海岸へと場面転換し、時間も空間も飛び越えて男女二人が結ばれて春となり、砂に埋もれた二人の死体でfinとなる。
 剃刀のシーンは衝撃的だが、解説によれば当時人気のあったフロイトの自由連想法による物語ではなく夢の論理を用いた表現だそうで、アバンギャルドであるという以外に面白味はなく、物語性に慣れた目からはただの自己満足な実験映像にしか映らず、これをもって評価する人々の精神性には付いて行けない。 (評価:2)

十月

製作国:ソ連
日本公開:1969年12月28日
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ 脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ 撮影:エドゥアルド・ティッセ 美術:ワシリー・コヴリーギン 音楽:ドミトリ・ショスタコーヴィチ

橋の先端に引っかかった馬が川の中に落ちるシーンが圧巻
 原題"ОКТЯБРЬ"で、10月の意。
 1917年の2月革命から10月革命までの道程を描いた、10月革命10周年記念のサイレント。
 2月革命による帝政ロシアの崩壊、自由主義者・社会主義者からなる臨時政府の樹立、労働者・兵士らによるペトログラードでの7月蜂起、コルニーロフの反乱、レーニンを中心とするボリシェヴィキの武闘路線への転換などをドキュメンタリー風に描いていくが、冒頭10月革命の忠実な再現記録だという説明があって、群衆を使った市街地でのロケシーンなど、革命の進行を再現した大掛かりな撮影は見どころ。
 ただ忠実な再現記録だという割には、臨時政府やブルジョア階級を醜悪に誇張して描いたり、メンシェヴィキなどのボルシェビキ以外の革命勢力を否定的に描いていて、レーニンを中心とするボリシェヴィキ革命政府のプロパンダ映画であることには変わりない。
 7月蜂起のデモ隊と臨時政府との武力衝突では、機銃掃射された労働者らが労働者地区に追い払われ、川に架かる開閉橋が上がるのが、『戦艦ポチョムキン』(1925)のオデッサの階段シーンと並ぶスペクタクルシーン。人や死んだ馬が橋に乗ったまま持ち上げられ落下していくが、橋の先端に引っかかった馬が最後に川の中に落ちていくシーンが圧巻となっている。
 クライマックスとなる10月の武装蜂起では、臨時政府を制圧するためにボリシェヴィキに扇動された労働者・兵士が冬宮殿に突入するが、1000室あるという豪華絢爛たるエルミタージュの撮影当時の様子を見られる。 (評価:2)

製作:アメリカ
公開:1929年9月
監督:F・W・ムルナウ 脚本:ベルトホールド・ヴィアテル、カール・マイヤー、マリオン・オース 撮影:アーネスト・パーマー、L・ウィリアム・オコンネル
キネマ旬報:2位

 原題"4 Devils"。フィルム現存せず(サイレント)