日本映画レビュー──2003年
製作:アスミック・エースエンタテインメント、IMJエンタテインメント、関西テレビ放送、エス・エス・エム、博報堂
公開:2003年12月13日
監督:犬童一心 脚本:渡辺あや 撮影:蔦井孝洋 美術:斎藤岩男 音楽:くるり
キネマ旬報:4位
壊れ物だったジョゼが一人立ちしていく物語
田辺聖子の同名小説が原作で、下半身不随の娘と大学生の短い恋を描いた作品。
ジョゼは、主人公の少女の愛読書、フランソワーズ・サガンの『一年ののち』の主人公の名から採られたもので、少女が名乗っている通称。
ジョゼが知り合ったばかりの青年に小説の次の一節を読んで聞かせるシーンがあり、それが本作のテーマであり、物語の結末であることが示される。
──"いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう"とベルナールは静かに言った、"そして、いつかぼくもまたあなたを愛さなくなるだろう"
「われわれはまたもや孤独になる、それでも同じことなのだ。そこに、また流れ去った一年の月日があるだけなのだ……」
"ええ、わかってるわ"とジョゼが言った。
冒頭、スナップ写真とともに大学生の恒夫(妻夫木聡)のナレーションが被り、これが切ない回想の物語であることを示す演出が効果的。ここでも、ジョゼを過去形として語っていて、むしろその結末への過程を見せることが主眼であることを示すという手法が、ラストシーンの余韻を際立たせている。
物語は、恒夫とジョゼ(池脇千鶴)との出会い、ジョゼの祖母(新屋英子)の死、二人の恋の発展、別れというステップを描き、それに恒夫の卒業から就職にかけての過程、ガールフレンド(上野樹里)との三角関係が絡む。 タイトルの虎は初デートでジョゼが見たかったもので、健常者の世界に入る恐怖の象徴であったと語られる。恐怖を取り除かれたジョゼは恒夫との関係を深め、恒夫の両親に会いに行くことになる。
その途上、ジョゼを背負った恒夫が、歳を取ったら背負えなくなるから車椅子を買おうという。それを聞いてジョゼは海を見たいといって帰省できなくするが、この時、ジョゼの心では『一年ののち』の結論が現実のものとなる。
旅行に出る前、近所の子どもたちに壊れた車椅子を恒夫に直してもらえと言われて、壊れたものは直らないとジョゼが答えるシーンがある。それは自らのことであり、車椅子の代わりになると考えていた恒夫もいつかは自分を支えきれなくなって、二人の関係が永続できないことでもあった。
ジョゼは水族館が閉館日だったことに「魚は泳げるのだから、そっちから泳いで来い」と、身障者である自らの限界に怒りを表す。
ジョゼは水族館の代わりに魚の館というラブホテルに入ることを要求、ヴァーチャルな魚や貝が泳ぐ照明の中でジョゼが深海から浮上できたことを告白し、再び深海に沈んでいくことを予言する。
これが、タイトルの魚たちで、ジョゼは一時魚になって自由に泳ぐことが出来たが、結局は照明の魚同様にヴァーチャルな魚でしかなく、魚になることはできず、これが二人の恋の絶頂でしかないことを悟る。
祖母はジョゼを壊れ物と称し、壊れ物には壊れ物の分があるという。ラストはまさしくジョゼが壊れ物の分に収まってしまうが、ガールフレンドと復縁した恒夫が決して幸せそうには見えず、独りに戻ったジョゼにむしろ力強さを感じるラストシーンとなっている。
恒夫との出会いを通して、壊れ物だったジョゼが自立していく物語で、恒夫はジョゼの踏み台だったという描かれ方がいい。限界を抱えていたのはむしろ健常者の恒夫で、結局は自立したジョゼから逃げて凡庸な健常者の生活に戻ることしかできない。
脚本も演出もよくできていて、妻夫木も好演しているが、とりわけジョゼを演じる池脇の演技が光る。 (評価:3.5)

公開:2003年12月13日
監督:犬童一心 脚本:渡辺あや 撮影:蔦井孝洋 美術:斎藤岩男 音楽:くるり
キネマ旬報:4位
田辺聖子の同名小説が原作で、下半身不随の娘と大学生の短い恋を描いた作品。
ジョゼは、主人公の少女の愛読書、フランソワーズ・サガンの『一年ののち』の主人公の名から採られたもので、少女が名乗っている通称。
ジョゼが知り合ったばかりの青年に小説の次の一節を読んで聞かせるシーンがあり、それが本作のテーマであり、物語の結末であることが示される。
──"いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう"とベルナールは静かに言った、"そして、いつかぼくもまたあなたを愛さなくなるだろう"
「われわれはまたもや孤独になる、それでも同じことなのだ。そこに、また流れ去った一年の月日があるだけなのだ……」
"ええ、わかってるわ"とジョゼが言った。
冒頭、スナップ写真とともに大学生の恒夫(妻夫木聡)のナレーションが被り、これが切ない回想の物語であることを示す演出が効果的。ここでも、ジョゼを過去形として語っていて、むしろその結末への過程を見せることが主眼であることを示すという手法が、ラストシーンの余韻を際立たせている。
物語は、恒夫とジョゼ(池脇千鶴)との出会い、ジョゼの祖母(新屋英子)の死、二人の恋の発展、別れというステップを描き、それに恒夫の卒業から就職にかけての過程、ガールフレンド(上野樹里)との三角関係が絡む。 タイトルの虎は初デートでジョゼが見たかったもので、健常者の世界に入る恐怖の象徴であったと語られる。恐怖を取り除かれたジョゼは恒夫との関係を深め、恒夫の両親に会いに行くことになる。
その途上、ジョゼを背負った恒夫が、歳を取ったら背負えなくなるから車椅子を買おうという。それを聞いてジョゼは海を見たいといって帰省できなくするが、この時、ジョゼの心では『一年ののち』の結論が現実のものとなる。
旅行に出る前、近所の子どもたちに壊れた車椅子を恒夫に直してもらえと言われて、壊れたものは直らないとジョゼが答えるシーンがある。それは自らのことであり、車椅子の代わりになると考えていた恒夫もいつかは自分を支えきれなくなって、二人の関係が永続できないことでもあった。
ジョゼは水族館が閉館日だったことに「魚は泳げるのだから、そっちから泳いで来い」と、身障者である自らの限界に怒りを表す。
ジョゼは水族館の代わりに魚の館というラブホテルに入ることを要求、ヴァーチャルな魚や貝が泳ぐ照明の中でジョゼが深海から浮上できたことを告白し、再び深海に沈んでいくことを予言する。
これが、タイトルの魚たちで、ジョゼは一時魚になって自由に泳ぐことが出来たが、結局は照明の魚同様にヴァーチャルな魚でしかなく、魚になることはできず、これが二人の恋の絶頂でしかないことを悟る。
祖母はジョゼを壊れ物と称し、壊れ物には壊れ物の分があるという。ラストはまさしくジョゼが壊れ物の分に収まってしまうが、ガールフレンドと復縁した恒夫が決して幸せそうには見えず、独りに戻ったジョゼにむしろ力強さを感じるラストシーンとなっている。
恒夫との出会いを通して、壊れ物だったジョゼが自立していく物語で、恒夫はジョゼの踏み台だったという描かれ方がいい。限界を抱えていたのはむしろ健常者の恒夫で、結局は自立したジョゼから逃げて凡庸な健常者の生活に戻ることしかできない。
脚本も演出もよくできていて、妻夫木も好演しているが、とりわけジョゼを演じる池脇の演技が光る。 (評価:3.5)

製作:赤目製作所
公開:2003年10月25日
監督:荒戸源次郎 製作:河津秋敏、石川富康、村山治、橘秀仁 脚本:鈴木棟也 撮影:笠松則通 美術:金勝浩一 音楽:千野秀一
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
死神に取り憑かれた寺島しのぶの魔性に呑み込まれる
車谷長吉の同名直木賞受賞作が原作。
本作は純粋に文芸作品で、完成度としては高い。ただエンタテイメント作品ではないので、この私小説的世界なり登場人物、テーマを受け入れられるかどうかで評価が割れる。
主人公(大西滝次郎)は原作者の車谷自身を投影した青年で、人生に生きる意味を見いだせずに大学中退、小説家となるも行き詰って堕ちて行った先が、尼崎。その前が釜ヶ崎で、人生と社会のどん詰まりにいることがわかる。焼鳥屋の女将(大楠道代)の世話になり、木賃アパートで黙々と焼き鳥の串を刺す毎日を送る。
彫り師に売春婦と、アパート住人たちのエピソードが描かれるが、「あんたはここに住む人間じゃない」と女将に言われるように、最下層の人々に同化することもできず、かといって元の世界に戻ることもできない袋小路にいて、結局のところどこにも生きていける場所がない。
同じ状況に置かれているのが青年が魅かれている女(寺島しのぶ)で、前科者の兄に4000万円で売り飛ばされそうになっていて、逃げれば兄がコンクリート詰めにされると言いながらも、青年を心中に誘う。
近松の心中物の現代版ともいえ、この道行きがどうなるかというのが本作後半の最大の見せ場になっている。 タイトルからもわかるように道行き先は今宮の森ではなく、赤目四十八瀧。青年は女に誘われて道行きに同意するが、人生に絶望しながらも死を決意することのできない中途半端さを女に見透かされたかのように、心中は未遂に終わる。
もっとも女にとっては道行きそのものに意味があって、真似事に終わっても青年が同行してくれたことで目的は達成しているのかもしれない。
兄のためと言って途中下車した女の行く先が、はたして福岡なのかどうかということを含めて、いくつかの解釈の余地を残すが、逆にそれがすっきりしない感情を残すという恨みがある。
三重県の山中をただ歩くだけのシーンでの寺島しのぶの演技力は見もの。近松でいえば死神に取り憑かれた遊女である、寺島の魔性の演技を見るだけでも十分な作品となっている。
人生不可解なりと華厳滝に飛び込んだ藤村操以来、知性と豊かさの中に苦悩する主人公の青年と、その対極に無知と貧しさの中で地虫のように生きていかなければならない人々を対置させた作品で、テーマ的には古典だが、寺島の演技に圧倒されながら、主人公同様にその魔性に呑み込まれていく。
映像的には赤目四十八瀧の自然を美しく描きながら、人物を遠景に置いたレイアウトやアパートシーンでのクレーンなど人物の心理描写を狙ったカメラワークも上手い。青年の心象風景として、アゲハチョウを捕まえようと追いかけて、捕まえることのできない虫取り少年のシーンもリリカル。 (評価:3)

公開:2003年10月25日
監督:荒戸源次郎 製作:河津秋敏、石川富康、村山治、橘秀仁 脚本:鈴木棟也 撮影:笠松則通 美術:金勝浩一 音楽:千野秀一
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
車谷長吉の同名直木賞受賞作が原作。
本作は純粋に文芸作品で、完成度としては高い。ただエンタテイメント作品ではないので、この私小説的世界なり登場人物、テーマを受け入れられるかどうかで評価が割れる。
主人公(大西滝次郎)は原作者の車谷自身を投影した青年で、人生に生きる意味を見いだせずに大学中退、小説家となるも行き詰って堕ちて行った先が、尼崎。その前が釜ヶ崎で、人生と社会のどん詰まりにいることがわかる。焼鳥屋の女将(大楠道代)の世話になり、木賃アパートで黙々と焼き鳥の串を刺す毎日を送る。
彫り師に売春婦と、アパート住人たちのエピソードが描かれるが、「あんたはここに住む人間じゃない」と女将に言われるように、最下層の人々に同化することもできず、かといって元の世界に戻ることもできない袋小路にいて、結局のところどこにも生きていける場所がない。
同じ状況に置かれているのが青年が魅かれている女(寺島しのぶ)で、前科者の兄に4000万円で売り飛ばされそうになっていて、逃げれば兄がコンクリート詰めにされると言いながらも、青年を心中に誘う。
近松の心中物の現代版ともいえ、この道行きがどうなるかというのが本作後半の最大の見せ場になっている。 タイトルからもわかるように道行き先は今宮の森ではなく、赤目四十八瀧。青年は女に誘われて道行きに同意するが、人生に絶望しながらも死を決意することのできない中途半端さを女に見透かされたかのように、心中は未遂に終わる。
もっとも女にとっては道行きそのものに意味があって、真似事に終わっても青年が同行してくれたことで目的は達成しているのかもしれない。
兄のためと言って途中下車した女の行く先が、はたして福岡なのかどうかということを含めて、いくつかの解釈の余地を残すが、逆にそれがすっきりしない感情を残すという恨みがある。
三重県の山中をただ歩くだけのシーンでの寺島しのぶの演技力は見もの。近松でいえば死神に取り憑かれた遊女である、寺島の魔性の演技を見るだけでも十分な作品となっている。
人生不可解なりと華厳滝に飛び込んだ藤村操以来、知性と豊かさの中に苦悩する主人公の青年と、その対極に無知と貧しさの中で地虫のように生きていかなければならない人々を対置させた作品で、テーマ的には古典だが、寺島の演技に圧倒されながら、主人公同様にその魔性に呑み込まれていく。
映像的には赤目四十八瀧の自然を美しく描きながら、人物を遠景に置いたレイアウトやアパートシーンでのクレーンなど人物の心理描写を狙ったカメラワークも上手い。青年の心象風景として、アゲハチョウを捕まえようと追いかけて、捕まえることのできない虫取り少年のシーンもリリカル。 (評価:3)

製作:ランブルフィッシュ
公開:2003年12月6日
監督:黒木和雄 脚本:松田正隆、黒木和雄 撮影:田村正毅 美術:磯見俊裕 音楽:松村禎三
キネマ旬報:1位
美しい日本の日常の延長線上にある戦争を描く
黒木和雄の実体験を基にした映画で、1945年8月の終戦直前の数日間が宮崎県の農村を舞台に描かれる。
主人公は黒木がモデルの旧制中学の少年で、柄本明の息子・柄本佑が演じる。満州にいる両親の下を離れ、霧島を望む祖父(原田芳雄)の家で暮らすが、病弱のため学徒動員も免除され、日陰者の身。家には厳格な祖父と祖母(左時枝)、奉公人のなつ(小田エリカ)、はる(中島ひろ子)がいる。
なつの実家は近くにあるが、戦争未亡人の母(石田えり)は田植えも村に頼らざるを得ず、食糧を得るために駐屯する兵士(香川照之)を家に引き込んでいる。これにはると傷痍軍人(寺島進)の結婚話、主人公の叔母(牧瀬里穂)の恋人の特攻兵などのエピソードが絡むが、終戦間際とはいえ淡々とした日常話なので、ドラマ的にはメリハリのないやや退屈感のある物語となっている。
もっとも、本土決戦を控えながらも平々凡々とした日常が、悲惨な戦争物にはないリアリティを醸し出していて、戦争の実像という面では、価値のある証言となっている。その悲しいまでに平凡な日常がえびの高原の美しい田園風景の中に描かれ、戦争というものが決して日常から断絶したものではなく、日常の延長線上にあり、日々の暮らしの中に萌芽が潜んでいることを教えてくれ、それが黒木の意図であったことがわかる。
主人公の少年は空襲で同級生を救えなかった悔悟があり、孤児となったその妹に許しを乞うと、妹は兄の敵を討つことを願う。聡明な主人公は、無意味だとわかっていた竹槍を握り、進駐軍に突進する。
戦争に対して無力な自分に自暴自棄になる少年を描きながらも、黒木は兄の敵を討ってほしいという願いが、この映画の制作であることを示唆する。
宮下順子、入江若葉など演技陣も手堅く、何よりもタイトル通りに映像が美しい。 (評価:2.5)

公開:2003年12月6日
監督:黒木和雄 脚本:松田正隆、黒木和雄 撮影:田村正毅 美術:磯見俊裕 音楽:松村禎三
キネマ旬報:1位
黒木和雄の実体験を基にした映画で、1945年8月の終戦直前の数日間が宮崎県の農村を舞台に描かれる。
主人公は黒木がモデルの旧制中学の少年で、柄本明の息子・柄本佑が演じる。満州にいる両親の下を離れ、霧島を望む祖父(原田芳雄)の家で暮らすが、病弱のため学徒動員も免除され、日陰者の身。家には厳格な祖父と祖母(左時枝)、奉公人のなつ(小田エリカ)、はる(中島ひろ子)がいる。
なつの実家は近くにあるが、戦争未亡人の母(石田えり)は田植えも村に頼らざるを得ず、食糧を得るために駐屯する兵士(香川照之)を家に引き込んでいる。これにはると傷痍軍人(寺島進)の結婚話、主人公の叔母(牧瀬里穂)の恋人の特攻兵などのエピソードが絡むが、終戦間際とはいえ淡々とした日常話なので、ドラマ的にはメリハリのないやや退屈感のある物語となっている。
もっとも、本土決戦を控えながらも平々凡々とした日常が、悲惨な戦争物にはないリアリティを醸し出していて、戦争の実像という面では、価値のある証言となっている。その悲しいまでに平凡な日常がえびの高原の美しい田園風景の中に描かれ、戦争というものが決して日常から断絶したものではなく、日常の延長線上にあり、日々の暮らしの中に萌芽が潜んでいることを教えてくれ、それが黒木の意図であったことがわかる。
主人公の少年は空襲で同級生を救えなかった悔悟があり、孤児となったその妹に許しを乞うと、妹は兄の敵を討つことを願う。聡明な主人公は、無意味だとわかっていた竹槍を握り、進駐軍に突進する。
戦争に対して無力な自分に自暴自棄になる少年を描きながらも、黒木は兄の敵を討ってほしいという願いが、この映画の制作であることを示唆する。
宮下順子、入江若葉など演技陣も手堅く、何よりもタイトル通りに映像が美しい。 (評価:2.5)

製作:バンダイビジュアル、TOKYO FM、電通、テレビ朝日、齋藤エンターテイメント、オフィス北野
公開:2003年09月06日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:柳島克己 音楽:鈴木慶一 美術:磯田典宏
キネマ旬報:7位
おちゃらけた座頭市が新鮮なエンタテイメント剣劇
子母沢寛の『座頭市物語』が原作だが、キャラクター造形の主だったものは勝新太郎の座頭市シリーズに負っている。
座頭市といえば勝しか考えられなかった中で、北野がそれに挑戦したという点では画期的であり、おちゃらけた新たな座頭市像を生みだしたという点でも成功している。ショートコントのモザイクのような北野作品の中でも全体的な調和がとれており、残酷シーンを除けば比較的良質なエンタテイメントに仕上がっている。お座敷で行われる芸や踊り等は浅草芸人出身の北野らしく、ショーアップした映画に仕上がっている。
宿場町を牛耳る非道なやくざの一家と過去に家族を殺された姉弟、用心棒を務める浪人、そしてその町にやってきた市のそれぞれの物語がやがて1本にまとまっていく。冒頭の百姓が畑に鍬を入れるシーンからすでに戯画化されていて、リズミカルな音楽とも相まって挿入されるコントも自然で、コミカルな座頭市を演出する。ただ1カ所、盲目の座頭市が紙で目を入れるシーンだけは悪ふざけが過ぎ、止めた方がよかった。
北野の座頭市で一番よかったのは照れ屋で寡黙なところなのだが、ラストで饒舌になり、実は目明きだったというのはいただけない。盲の方が世の中がよく見える、だから盲になって世の中をよく見ろというテーマが唐突で、それまでのエンタテイメントの興趣を削ぐ。テーマは差別的とも受け取られかねず、紙の目同様にすっきりしないものを残す。
北野の映像感覚は優れていて雨のシーンや傘のシーンなど、はっとさせられるシーンが多く、全体的にも美しい。とりわけ、姉の三味線で弟が舞う現在と幼少期のカットバックと一連のシーンは抒情的で秀逸。
大楠道代、岸部一徳、柄本明と芸達者が脇を固めている。ヴェネツィア国際映画祭監督賞受賞。 (評価:2.5)

公開:2003年09月06日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:柳島克己 音楽:鈴木慶一 美術:磯田典宏
キネマ旬報:7位
子母沢寛の『座頭市物語』が原作だが、キャラクター造形の主だったものは勝新太郎の座頭市シリーズに負っている。
座頭市といえば勝しか考えられなかった中で、北野がそれに挑戦したという点では画期的であり、おちゃらけた新たな座頭市像を生みだしたという点でも成功している。ショートコントのモザイクのような北野作品の中でも全体的な調和がとれており、残酷シーンを除けば比較的良質なエンタテイメントに仕上がっている。お座敷で行われる芸や踊り等は浅草芸人出身の北野らしく、ショーアップした映画に仕上がっている。
宿場町を牛耳る非道なやくざの一家と過去に家族を殺された姉弟、用心棒を務める浪人、そしてその町にやってきた市のそれぞれの物語がやがて1本にまとまっていく。冒頭の百姓が畑に鍬を入れるシーンからすでに戯画化されていて、リズミカルな音楽とも相まって挿入されるコントも自然で、コミカルな座頭市を演出する。ただ1カ所、盲目の座頭市が紙で目を入れるシーンだけは悪ふざけが過ぎ、止めた方がよかった。
北野の座頭市で一番よかったのは照れ屋で寡黙なところなのだが、ラストで饒舌になり、実は目明きだったというのはいただけない。盲の方が世の中がよく見える、だから盲になって世の中をよく見ろというテーマが唐突で、それまでのエンタテイメントの興趣を削ぐ。テーマは差別的とも受け取られかねず、紙の目同様にすっきりしないものを残す。
北野の映像感覚は優れていて雨のシーンや傘のシーンなど、はっとさせられるシーンが多く、全体的にも美しい。とりわけ、姉の三味線で弟が舞う現在と幼少期のカットバックと一連のシーンは抒情的で秀逸。
大楠道代、岸部一徳、柄本明と芸達者が脇を固めている。ヴェネツィア国際映画祭監督賞受賞。 (評価:2.5)

製作:ヴァイブレータ製作委員会(シー・アイ・エー、ハピネット・ピクチャーズ、日本出版販売、シネカノン、衛星劇場)
公開:2003年12月6日
監督:廣木隆一 製作:高橋紀成 脚本:荒井晴彦 撮影:鈴木一博 美術:林千奈 音楽:石川光
キネマ旬報:3位
男女の孤独よりも長距離トラックの生態が面白い
赤坂真理の同名小説が原作。
都会で暮らす孤独な女が、コンビニで見かけた長距離トラックの運転手にスキンシップを求め、新潟までの道中の道連れにしてもらう話。トラック運転手もまた一人で車を運転する孤独な存在で、孤独な男女が行きずりに互いの孤独を慰め合い、孤独であるがゆえに互いを受け入れる優しさを持つ。
その過程を静かに延々と描いていくが、女を演じる寺島しのぶの抜群の演技力が95分のドラマを引っ張っていく。対するトラック運転手の大森南朋もその演技に(溝口健二風にいえば)よく反射していて、単なる棚ぼた男から優しさに溢れた男を好演する。
一つのロードムービーで、牽引車からのカメラで延々と運転席を映し続けるだけの映像だが、流れる景色が結構退屈しない。
行きずりの恋は行きずりだけに終わるのもよく、癒された女は再び日常の孤独に帰っていく。もっとも孤独そうに見えるトラック運転手はアマチュア無線で見知らぬドライバーたちと繋がっていて、女と同質の孤独な存在とはいえないのが甘いところか。
本作の面白さも男女の孤独よりも長距離トラック運転手の生態にあって、全体の単調さを救っている。
タイトルは、直接には駐車しているトラックのアイドリングの振動のことで、おそらく心の振動といった暗喩。 (評価:2.5)

公開:2003年12月6日
監督:廣木隆一 製作:高橋紀成 脚本:荒井晴彦 撮影:鈴木一博 美術:林千奈 音楽:石川光
キネマ旬報:3位
赤坂真理の同名小説が原作。
都会で暮らす孤独な女が、コンビニで見かけた長距離トラックの運転手にスキンシップを求め、新潟までの道中の道連れにしてもらう話。トラック運転手もまた一人で車を運転する孤独な存在で、孤独な男女が行きずりに互いの孤独を慰め合い、孤独であるがゆえに互いを受け入れる優しさを持つ。
その過程を静かに延々と描いていくが、女を演じる寺島しのぶの抜群の演技力が95分のドラマを引っ張っていく。対するトラック運転手の大森南朋もその演技に(溝口健二風にいえば)よく反射していて、単なる棚ぼた男から優しさに溢れた男を好演する。
一つのロードムービーで、牽引車からのカメラで延々と運転席を映し続けるだけの映像だが、流れる景色が結構退屈しない。
行きずりの恋は行きずりだけに終わるのもよく、癒された女は再び日常の孤独に帰っていく。もっとも孤独そうに見えるトラック運転手はアマチュア無線で見知らぬドライバーたちと繋がっていて、女と同質の孤独な存在とはいえないのが甘いところか。
本作の面白さも男女の孤独よりも長距離トラック運転手の生態にあって、全体の単調さを救っている。
タイトルは、直接には駐車しているトラックのアイドリングの振動のことで、おそらく心の振動といった暗喩。 (評価:2.5)

製作:「阿修羅のごとく」製作委員会(東宝、博報堂、毎日新聞社、日本出版販売 東宝映画)
公開:2003年11月08日
監督:森田芳光 製作:本間英行 脚本:筒井ともみ 撮影:北信康 音楽:大島ミチル 美術:山﨑秀満
キネマ旬報:5位
セピア色の家族の肖像を描く向田的ファンタジー
1979年にテレビドラマ用に書かれた向田邦子の脚本が原作。
4姉妹の女同士の心の綾を描く物語で、似たような設定の谷崎潤一郎『細雪』を連想させる。女が3人集まれば姦しく、4人姉妹ならば阿修羅となるが、本当の阿修羅はもうひとりの女、母であったというオチ。
基本はホームドラマなので、それ以上のものはない。時にコミカルで、風刺も利いていてそれなりに楽しめる家族劇だが、テレビサイズに書かれたものを映画にすることが良かったかどうかは疑問。
後家の長女(大竹しのぶ)は生け花の師匠をしながら人(桃井かおり)の亭主(坂東三津五郎)を寝取っている。二女(黒木瞳)は一男一女を持つ専業主婦で、夫(小林薫)は会社の秘書(木村佳乃)と浮気。三女(深津絵里)は図書館司書のコミュ障の行き遅れ。四女(深田恭子)は新人ボクサー(RIKIYA)と同棲中。三女が父(仲代達矢)の浮気(紺野美沙子)を目撃し、探偵(中村獅童)に調査依頼して姉妹に打ち明けたことから、それぞれの阿修羅が蠢くという話。いつも笑顔のお母さんに八千草薫、二女の娘に長澤まさみ。
中村獅童の演技がわざとらしい以外は、4姉妹を始めとしてそれぞれがそれぞれの阿修羅を上手く演じている。向田の世界観を生かした古き良き東京、古き良き時代を森田芳光は日本映画の伝統的演出と、割れた卵の黄味、足許のアップといった客観と主観のカメラワークの切り替えを駆使して、日本的情緒の心憎いまでの映像を見せる。舞台は昭和50年代だが、向田が理想として描く日本家庭の実像は昭和30年代で、浮気はしても娘を愛する大黒柱というファザコン的男性観とそれを取り巻く菩薩から阿修羅までに変化する愛すべき女たちという女性観。
セピア色の家族の肖像としてはノスタルジーで、遠い幻影となった戦後プチブル的家族観に、これは向田の描くファンタジーなんだと本作を見て思ふ。 (評価:2.5)

公開:2003年11月08日
監督:森田芳光 製作:本間英行 脚本:筒井ともみ 撮影:北信康 音楽:大島ミチル 美術:山﨑秀満
キネマ旬報:5位
1979年にテレビドラマ用に書かれた向田邦子の脚本が原作。
4姉妹の女同士の心の綾を描く物語で、似たような設定の谷崎潤一郎『細雪』を連想させる。女が3人集まれば姦しく、4人姉妹ならば阿修羅となるが、本当の阿修羅はもうひとりの女、母であったというオチ。
基本はホームドラマなので、それ以上のものはない。時にコミカルで、風刺も利いていてそれなりに楽しめる家族劇だが、テレビサイズに書かれたものを映画にすることが良かったかどうかは疑問。
後家の長女(大竹しのぶ)は生け花の師匠をしながら人(桃井かおり)の亭主(坂東三津五郎)を寝取っている。二女(黒木瞳)は一男一女を持つ専業主婦で、夫(小林薫)は会社の秘書(木村佳乃)と浮気。三女(深津絵里)は図書館司書のコミュ障の行き遅れ。四女(深田恭子)は新人ボクサー(RIKIYA)と同棲中。三女が父(仲代達矢)の浮気(紺野美沙子)を目撃し、探偵(中村獅童)に調査依頼して姉妹に打ち明けたことから、それぞれの阿修羅が蠢くという話。いつも笑顔のお母さんに八千草薫、二女の娘に長澤まさみ。
中村獅童の演技がわざとらしい以外は、4姉妹を始めとしてそれぞれがそれぞれの阿修羅を上手く演じている。向田の世界観を生かした古き良き東京、古き良き時代を森田芳光は日本映画の伝統的演出と、割れた卵の黄味、足許のアップといった客観と主観のカメラワークの切り替えを駆使して、日本的情緒の心憎いまでの映像を見せる。舞台は昭和50年代だが、向田が理想として描く日本家庭の実像は昭和30年代で、浮気はしても娘を愛する大黒柱というファザコン的男性観とそれを取り巻く菩薩から阿修羅までに変化する愛すべき女たちという女性観。
セピア色の家族の肖像としてはノスタルジーで、遠い幻影となった戦後プチブル的家族観に、これは向田の描くファンタジーなんだと本作を見て思ふ。 (評価:2.5)

ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS
公開:2003年12月13日
監督:手塚昌明 製作:富山省吾 脚本:手塚昌明 撮影:関口芳則 音楽:大島ミチル 美術:瀬下幸治
ゴジラ第27作、第3期ゴジラ第5作。前作『ゴジラ×メカゴジラ』の続編で、監督は引き続き手塚昌明。
海に去ったゴジラの再来に備え、メカゴジラ機龍を修復中という設定。メカゴジラのDNAに引き寄せられるゴジラの脅威をなくすには、メカゴジラを海底に沈めるしかないと、なぜか突然モスラの小美人が現れて託宣する。代わりにモスラが現れてゴジラと戦うが、命尽き、小笠原に産んでおいた幼虫が戦いを引き継ぐ。一方、託宣に従わない首相(中尾彬)はメカゴジラを出動させる。
前作では機龍隊の釈由美子が主役だったが、今回は機龍のメカニック(金子昇)が主人公というのがミソ。単なるヒーロー・ドラマにならず、ラストで金子がゴジラともどもメカゴジラを海に戻すシーンはロボットと人の心の繋がりを感じさせて、ちょっと感動的。
主人公のライバルに機龍隊のトップガンが登場するが、遠隔操作のロボットにトップガン? と若干鼻白むが、シリーズの中ではよくできた作品。併映の『とっとこハム太郎』に合わせて男児も登場するが、モスラを呼び寄せる役に徹して妙な絡み方をしない。
本作の目玉は『モスラ』(1961)の学者・小泉博が43年後の姿として主人公の伯父で出演していること。小美人の一人に長澤まさみ。釈由美子も顔を出す。
ゴジラは再び品川に上陸し、東京タワー、国会議事堂を破壊。 (評価:2.5)

踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
公開:2003年07月19日
監督:本広克行 脚本:君塚良一 撮影:藤石修 音楽:松本晃彦 美術:梅田正則
TVシリーズの劇場化第2作。いかりや長介のシリーズ出演最終作品で、事実上、本作をもって『踊る大捜査線』は終わった。
吸血鬼事件、親子スリ事件、経営者連続殺人事件が起きるが、前2件は添え物で殺人事件が主軸。リストラされたサラリーマンたちがヨコで繋がり、タテ社会にタテ突くという話で、当時の世相を反映しながら組織論をテーマに強く押し出す。
TVシリーズが本店対支店という対立構図でサラリーマンの悲哀を描いたという点で、本来のテーマに戻ったといえるが、これをコメディタッチに笑い飛ばすのが本シリーズの良さであったのに、これをメインに押し出すといささかシリアス過ぎる。ラストでヨコ組織を否定し、よいリーダーがいるタテ組織が理想だという優等生的回答に、公開時、若干白けた記憶がある。
自由業の君塚良一とはいえ、やはりフジテレビが製作する映画で組織を否定できないわな~、と。製作の村上光一はフジテレビ社長に、プロデューサーの亀山千広も本シリーズ成功の功績で映画事業局長に昇格していた。
本来、タテ組織にタテ突く青島が人気だった本シリーズが、真矢みき演じる女性上司の前で撃沈し、彼女だけが悪者になって溜飲を下げ、組織は温存されるという構図は社会にはよくあって、君塚がこのような脚本でお茶を濁したことにがっかりした。青島は反骨のお株をすっかりリストラサラリーマンに奪われてしまった。
女性上司を悪代官にして、これを痛い目に合わせるという通俗ドラマとしての君塚の脚本は上手く、前作と違って、すみれも真下もいかりやも活躍の場が与えられて、個々のキャラクターもきちんと描かれる。飽きないストーリーで楽しめるが、見終わって青島と君塚が組織に敗北した虚しさが残る。
冒頭のシージャック模擬訓練は見ていて楽しい。この調子で全編を引っ張れなかったのか。
吸血鬼に岡村隆史、スリ親子の長男に神木隆之介。小西真奈美も出演。 (評価:2.5)

製作:日本の原風景を映像で考える会
公開:2003年10月4日
監督:恩地日出夫 製作:金蔵法義、伊藤満 脚本:渡辺寿 撮影:上田正治 美術:斎藤岩男 音楽:猿谷紀郎
キネマ旬報:8位
貧困話は食傷するが四季の自然、とりわけ雪景色が美しい
村田喜代子の同名小説が原作。
『楢山節考』同様の東北を舞台にした棄老話で、舞台は江戸時代の東北。その年の春、60歳を超えた者は山の上の蕨野に住み、畑を作ってはならず、鳥獣を殺生してはならずというキツイ縛りの中で、昼は乞食となって里に下り、仕事を手伝って食べ物を貰い、夕には蕨野に帰るという毎日を繰り返す。
やがて足腰が立たなくなった者は土に還って翌年蕨となって生まれ変わる。冬になれば雪が降って山の上り下りもできなくなり、やがて飢えて凍えて蕨となるという、民話というよりはファンタジー。
主人公の老婆を市原悦子、その嫁を清水美那が演じるが、物語は二人の往復書簡のようなナレーションを主体に進行する。
このナレーションと登場人物の台詞が文語調で語られるのが特色で、昔語りの民話というよりは今昔物語を読んでいるような空気を醸し出すが、文章ならともかく映像でこれを聞かせられると違和感が大きい。
とりわけ俳優たちが文語調の台詞を言いこなせてなく、ぎこちない。一人、市原悦子だけが不自然に感じさせないのは『まんが日本昔ばなし』の語りの賜物か?
その年は冷夏で凶作となり、里人たちの困窮ぶりを含めて、東北の農村の貧しさとそこから生まれる棄老がテーマとなるが、老人が蕨に生まれ変わるという設定がファンタジーなだけに、この手の貧困話もいささか食傷する。
ラストでは、老婆がやり残したことがあると言って、蕨にはならずに息子夫婦の赤子として生まれ変わるという救いで締め括られるのがせめてもの明るさだが、老人問題へのアプローチは特になくて食い足りない。
『四万十川』(1991)同様、日本の自然を映し出す恩地日出夫の映像は素晴らしく、四季を巡る農村風景や川の水の流れ、とりわけ雪景色が美しい。 (評価:2.5)

公開:2003年10月4日
監督:恩地日出夫 製作:金蔵法義、伊藤満 脚本:渡辺寿 撮影:上田正治 美術:斎藤岩男 音楽:猿谷紀郎
キネマ旬報:8位
村田喜代子の同名小説が原作。
『楢山節考』同様の東北を舞台にした棄老話で、舞台は江戸時代の東北。その年の春、60歳を超えた者は山の上の蕨野に住み、畑を作ってはならず、鳥獣を殺生してはならずというキツイ縛りの中で、昼は乞食となって里に下り、仕事を手伝って食べ物を貰い、夕には蕨野に帰るという毎日を繰り返す。
やがて足腰が立たなくなった者は土に還って翌年蕨となって生まれ変わる。冬になれば雪が降って山の上り下りもできなくなり、やがて飢えて凍えて蕨となるという、民話というよりはファンタジー。
主人公の老婆を市原悦子、その嫁を清水美那が演じるが、物語は二人の往復書簡のようなナレーションを主体に進行する。
このナレーションと登場人物の台詞が文語調で語られるのが特色で、昔語りの民話というよりは今昔物語を読んでいるような空気を醸し出すが、文章ならともかく映像でこれを聞かせられると違和感が大きい。
とりわけ俳優たちが文語調の台詞を言いこなせてなく、ぎこちない。一人、市原悦子だけが不自然に感じさせないのは『まんが日本昔ばなし』の語りの賜物か?
その年は冷夏で凶作となり、里人たちの困窮ぶりを含めて、東北の農村の貧しさとそこから生まれる棄老がテーマとなるが、老人が蕨に生まれ変わるという設定がファンタジーなだけに、この手の貧困話もいささか食傷する。
ラストでは、老婆がやり残したことがあると言って、蕨にはならずに息子夫婦の赤子として生まれ変わるという救いで締め括られるのがせめてもの明るさだが、老人問題へのアプローチは特になくて食い足りない。
『四万十川』(1991)同様、日本の自然を映し出す恩地日出夫の映像は素晴らしく、四季を巡る農村風景や川の水の流れ、とりわけ雪景色が美しい。 (評価:2.5)

雲の上
no image
製作:空族公開:劇場未公開
監督:富田克也 脚本:富田克也、高野貴子、井川拓 撮影:高野貴子
山梨県の三つ峠の麓の町が舞台。傷害事件の仮出所で帰宅したチケン(西村正秀)が、家も家族も町や友人も変わってしまい、今浦島の疎外感を感じる中で、ヤクザとなった幼馴染のシラス(鷹野毅)だけが昔のままでいることを知る。
幼い頃の冒険でチケンが逃げ出したことへの見返りにシラスの仕事を手伝うが、実は覚せい剤取引で、今度はシラスが逃げ出し、チケンが過去の代償を負わされるという物語。
これに竜神伝説や風俗嬢のエピソードが絡むが、ラストのビデオ撮影以外は8ミリフィルムで撮影されていて、幻想的な雰囲気を醸し出す。もっともぼやけた映像同様にストーリーや人物像も曖昧としていて、見終わって何の話だったのか、何を描こうとしたのかよくわからない。
土地の呪縛から逃れられない主人公、という雰囲気だけは伝わってくるのだが、テーマを咀嚼できないままに、あるいは観念を作品に落とし込めずに迷走した感があり、4年の制作期間というのも頷ける。
富田克也の処女作で、シナリオや演出にアマチュアっぽさを残しながらも可能性を感じさせるという作品。8ミリの使用は予算の関係もあったようだが、羽仁進の8ミリの名作『午前中の時間割』(1972)ほどには活かせていない。 (評価:2)

製作:「ドッペルゲンガー」製作委員会(東芝、ワーナー・ブラザース映画、日本テレビ放送網、アミューズピクチャーズ、日本テレビ音楽、ツインズジャパン)
公開:2003年9月27日
監督:黒沢清 製作:平井文宏、加藤鉄也、宮下昌幸、吉岡正敏、神野智 脚本:黒沢清、古澤健 撮影:水口智之 美術:新田隆之 音楽:林祐介
キネマ旬報:9位
映画自体が自らのドッペルゲンガーに悩まされている
ドッペルゲンガーを材料にした物語だが、もちろんオカルト映画ではなく、分身、人間の持つ二面性をテーマにした作品。
介護ロボット開発者の男(役所広司)が自分のドッペルゲンガーに付き纏われるようになるというのが物語の発端。弟のドッペルゲンガーを見る女(永作博美)と知り合い、完成した介護ロボットを新潟のハイテク会社に売るために運ぶというのが大きな流れ。
前半は過労とストレスのための幻覚のようにも思われ、ワーカーホリックの当人と、ケ・セラ・セラな性格のドッペルゲンガーとの二つの人格を対比して描くが、自分が死ぬどころかドッペルゲンガーを消滅させて、新潟に運ぶ段になると、話の中身はがらりと変わって開発を手伝った助手(ユースケ・サンタマリア)、元同僚(柄本明)とのロボット争奪戦に転じてしまう。
この争奪戦というのがコミカルというかスラップスティックというかハチャメチャな上に、タイトルのドッペルゲンガーはどこかに吹き飛んでしまう。売るのをやめてしまうラストも訳が分からず、強引に制作意図を推し量れば、介護ロボット=分身=ドッペルゲンガーで、肉体的分身を作るために精神的分身とに分裂してしまった男が自己克服し、分身の意味に疑問を持ち、単一な自己を取り戻す、つまり分身はあくまで分身に過ぎず自己同一化は図れないというアンチ・テーゼということになる。
しかし、物語もテーマも途中から空中分解していて、映画自体が分裂した自分のドッペルゲンガーによって収拾がつかなくなっている。あるいは、それこそが黒沢清の制作意図だとすると余りにシュール。
冒頭に登場するドッペルゲンガーが幽霊にしかみえないが、気味が悪くて怖い。後半はサスペンス、アクション、コメディの三つに分裂して訳が分からない。
役所広司の演技も類型的で幅がなく、分裂する自己との葛藤を演じきれていない。 (評価:1.5)

公開:2003年9月27日
監督:黒沢清 製作:平井文宏、加藤鉄也、宮下昌幸、吉岡正敏、神野智 脚本:黒沢清、古澤健 撮影:水口智之 美術:新田隆之 音楽:林祐介
キネマ旬報:9位
ドッペルゲンガーを材料にした物語だが、もちろんオカルト映画ではなく、分身、人間の持つ二面性をテーマにした作品。
介護ロボット開発者の男(役所広司)が自分のドッペルゲンガーに付き纏われるようになるというのが物語の発端。弟のドッペルゲンガーを見る女(永作博美)と知り合い、完成した介護ロボットを新潟のハイテク会社に売るために運ぶというのが大きな流れ。
前半は過労とストレスのための幻覚のようにも思われ、ワーカーホリックの当人と、ケ・セラ・セラな性格のドッペルゲンガーとの二つの人格を対比して描くが、自分が死ぬどころかドッペルゲンガーを消滅させて、新潟に運ぶ段になると、話の中身はがらりと変わって開発を手伝った助手(ユースケ・サンタマリア)、元同僚(柄本明)とのロボット争奪戦に転じてしまう。
この争奪戦というのがコミカルというかスラップスティックというかハチャメチャな上に、タイトルのドッペルゲンガーはどこかに吹き飛んでしまう。売るのをやめてしまうラストも訳が分からず、強引に制作意図を推し量れば、介護ロボット=分身=ドッペルゲンガーで、肉体的分身を作るために精神的分身とに分裂してしまった男が自己克服し、分身の意味に疑問を持ち、単一な自己を取り戻す、つまり分身はあくまで分身に過ぎず自己同一化は図れないというアンチ・テーゼということになる。
しかし、物語もテーマも途中から空中分解していて、映画自体が分裂した自分のドッペルゲンガーによって収拾がつかなくなっている。あるいは、それこそが黒沢清の制作意図だとすると余りにシュール。
冒頭に登場するドッペルゲンガーが幽霊にしかみえないが、気味が悪くて怖い。後半はサスペンス、アクション、コメディの三つに分裂して訳が分からない。
役所広司の演技も類型的で幅がなく、分裂する自己との葛藤を演じきれていない。 (評価:1.5)

あずみ
公開:2003年5月10日
監督:北村龍平 脚本:水島力也、桐山勲 撮影:古谷巧 美術:林田裕至
小山ゆうの同名漫画が原作。
上戸彩の太腿を見るための映画と言った人がいたが、まさに至言でそれ以上の作品ではない。もっとも後半は、小幡月斎(原田芳雄)と井上勘兵衛(北村一輝)、加藤清正(竹中直人)との戦いのシーンが中心で、あずみ(上戸彩)もやえ (岡本綾)に女装させられてしまい、太腿の出番が少なくなるのが寂しい。
関ケ原の合戦後、豊臣方の武将を抹殺するために月斎がテロ集団を率いるという物語で、10人の孤児を集めて暗殺者に教育する。その一人があずみで、行動開始前、非情さを養うために仲間同士で殺し合いをさせるというエピソードが凄い。
あずみはその非情さと、テロする相手が本当に悪者なのかと疑問を持つが、月斎はそれを許さず、命令に従うだけのテロリストになることを求める。
正義と暴力についてのテーマ立てはそこまでで終わってしまい、あとは斬り合いと太腿を見るだけになる。
シリアスな設定の割には、ロリコンの佐敷一心(遠藤憲一)、女装の美女丸(オダギリジョー)といった漫画的なキャラクターが登場するため、内容的にはコメディというよりは学芸会で、作品的にはほとんど破綻している。アクションを除けばシナリオも演出も素人同然で、下手な芝居を演じさせられる原田芳雄、伊武雅刀らベテラン俳優が可哀想に思えてくる。
爆薬を使ったアクションシーンとCGが映像的には良く出来ているが、見どころはやはり太腿に始まり太腿に終わる。 (評価:1.5)

製作:「ぼくんち」フィルムパートナーズ(オメガ・ミコット、東映京都撮影所、小学館、衛星劇場、テレビ東京、TOKYO FM、アスミック・エース エンタテインメント)
公開:2003年4月12日
監督:阪本順治 脚本:宇野イサム 撮影:笠松則通 美術:小川富美夫 音楽:はじめにきよし
キネマ旬報:10位
会話を中心としたギャグはことごとく滑っている
西原理恵子の同名漫画が原作。
水平島という架空の島が舞台で、二人の男児を家に残し育児放棄した母(鳳蘭)が5年ぶりに歳の離れた姉を連れて帰ってくるところから物語は始まる。母はすぐに家を出て行ってしまい、3人の姉弟の共同生活が綴られていくが、貧しく荒んだ島人たちの生活を西原理恵子らしいギャグで描く。
本来なら人情とペーソスをギャグを交えて描くコメディ作品になるところだが、阪本順治はこの手のコメディが苦手なのか、はたまた役者たちが下手なのか、会話を中心としたギャグはことごとく滑っていて、一片の面白さもおかしさもない。
そうなるとストーリーとドラマがすべてになるが、「貧乏です」と言えば銭湯も食堂もタダになるという社会主義的共同体がテーマでもなく、少子化で廃校になった過疎化や貧困社会といった将来の日本の姿を描いているわけでもなく、ただ空しくエピソードが通り過ぎていくだけ。
末弟が姉の子供だったというのが最後に明かされても、母子の愛情ドラマは空疎なだけで、それぞれが自立して生きていくという家族の別れも、現実味がない。
姉を演じる観月ありさは、母親が逮捕された直後の出演で、清純イメージを振り捨て、ピンサロ嬢で未婚の母役。フェラチオの真似をしたり、マンコという台詞にも果敢に挑戦して頑張っているものの、演技力不足が全体の足を引っ張り、シナリオと演出の不出来もあって、意味不明の作品になっている。 (評価:1.5)

公開:2003年4月12日
監督:阪本順治 脚本:宇野イサム 撮影:笠松則通 美術:小川富美夫 音楽:はじめにきよし
キネマ旬報:10位
西原理恵子の同名漫画が原作。
水平島という架空の島が舞台で、二人の男児を家に残し育児放棄した母(鳳蘭)が5年ぶりに歳の離れた姉を連れて帰ってくるところから物語は始まる。母はすぐに家を出て行ってしまい、3人の姉弟の共同生活が綴られていくが、貧しく荒んだ島人たちの生活を西原理恵子らしいギャグで描く。
本来なら人情とペーソスをギャグを交えて描くコメディ作品になるところだが、阪本順治はこの手のコメディが苦手なのか、はたまた役者たちが下手なのか、会話を中心としたギャグはことごとく滑っていて、一片の面白さもおかしさもない。
そうなるとストーリーとドラマがすべてになるが、「貧乏です」と言えば銭湯も食堂もタダになるという社会主義的共同体がテーマでもなく、少子化で廃校になった過疎化や貧困社会といった将来の日本の姿を描いているわけでもなく、ただ空しくエピソードが通り過ぎていくだけ。
末弟が姉の子供だったというのが最後に明かされても、母子の愛情ドラマは空疎なだけで、それぞれが自立して生きていくという家族の別れも、現実味がない。
姉を演じる観月ありさは、母親が逮捕された直後の出演で、清純イメージを振り捨て、ピンサロ嬢で未婚の母役。フェラチオの真似をしたり、マンコという台詞にも果敢に挑戦して頑張っているものの、演技力不足が全体の足を引っ張り、シナリオと演出の不出来もあって、意味不明の作品になっている。 (評価:1.5)

バトル・ロワイアルII 鎮魂歌
公開:2003年7月5日
監督:深作欣二、深作健太 脚本:深作健太、木田紀生 撮影:藤澤順一 美術:磯見俊裕 編集:阿部亙英 音楽:天野正道
高見広春の同名小説が原作。
監督に深作欣二がクレジットされているが、クランクイン直後に癌で病死していて、実質的にはほとんど関わっていない。深作欣二の作風とは明らかに異なっていて、前作とは別物。
ストーリー上は前作の続編で、生き残った藤原竜也がアフガンでゲリラとなり、日本に戻って「すべての大人」を敵に回したテロ戦を指揮するという、荒唐無稽以上に相当無理な設定。BRで生き残った子供たちとともに無人島を本拠とし、新たなBRはこの無人島に上陸して藤原の首を取るという目標設定。
中盤、業を煮やしたアメリカが島にミサイルを撃ち込むという話が出てくるが、藤原が日本のみならず世界中の大人を敵に回したテロリストだったということにも驚くが、それ以上にアジトが分かっていて、大した武器も持っていないんだから、爆撃すれば簡単に殲滅できてしまうのに、と思えてしまう設定の貧弱さ。
新BRに召集されるのが落ち零れ用の学校でラグビーをやる中3生という設定だが、贔屓目に見ても高3にしか見えない。もっとも落ち零れの割には友情に厚い良い子ばかりで、新BRに選ばれるというのも腑に落ちず、今ひとつ制作意図がわからない。
冒頭は前作を踏襲するものの、その後は戦争ごっこで、生き残った連中が藤原のメンバーに加わり、アメリカの怒りを恐れる日本政府が軍隊に命令して総攻撃。生き延びたテロリストたちはアフガンに行き、前回ヒロインの前田亜季と再会をはたす。
前半はよくある荒唐無稽なアクションもの、後半は急に反米・反戦メッセージが強くなり、アメリカが全世界で起こした戦争で一番の被害者は子供たちで、だから子供たちは世界から戦争を失くすために連帯して大人たちと戦わなければいけない、というテーマが台詞でわかりやすく語られる。
前半・後半は作品として完全に遊離していて、しかもバイオレンス場面の多いアクションから、急にアフガンの子供たちの笑顔に変わる平和ぶりに肩の力が抜けてしまうが、改めて深作欣二がメガホンを取ったらどういう映画にしたかったのか? どういう映画になっていただろう? と想像するのも一興。
おそらくは深作の戦時体験を基に、子供の視点から見た、戦争とは何か? を描きたかったのかもしれない。
映画は誰が撮っても映画にはなるが、作品は誰にでも撮れるわけではないということを教えてくれる。 (評価:1.5)
