日本映画レビュー──1981年
製作:木村プロダクション
公開:1981年1月30日
監督:小栗康平 製作:木村元 脚本:重森孝子 撮影:安藤庄平 美術:内藤昭 音楽:毛利蔵人
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
置き去りにされた人々の現在に思いを馳せる
宮本輝の同名小説が原作。
戦後10年経った昭和30年、大阪・安治川の橋の袂のうどん屋が舞台。
冒頭、荷馬車夫(芦屋雁之助)がトラックを買う話から始まり、日本が朝鮮特需による神武景気で戦後復興を果たし、高度成長に向かっていく時代背景が描かれる。
しかし車夫は事故死。悲惨な戦争をなんとか生き延びた者が復興から取り残され、つまらない死に方をしているとうどん屋の主人(田村高廣)に言わせる。うどん屋の主人もまた満州の生き残りで、妻(藤田弓子)と泥の河=安治川の泡沫のような人生しか送れていない。
そこに登場するのが、うどん屋の対岸に繋留された宿舟=水上生活者の舟で、荷舟の船長の夫を亡くした妻(加賀まりこ)が体を売って糊口を凌いでいるといった、やはり泥の河の泡沫の人生を送っている。
本作は戦後、豊かさを手に入れていく日本社会から取り残されていく人々を、うどん屋の小学3年生の息子ノブチャンの目を通して描いたもので、それから25年後の1980年に、少年の日に置き忘れてきた陰影として追憶される。
それは同時に、高度成長を経て日本がアメリカに匹敵する豊かな国になった今(1981年)、泥の河に置き去りにされた人々の現在に思いを馳せる。それがラストで安治川を下っていく宿舟に住む一家の行く末であり、その舟をいつまでも追い続けた少年の25年後のキッチャンへの思いに繋がる。
キッチャンはノブチャンと同学年の男の子で、11歳の姉とともに学校にも行かず、宿舟で底辺の生活を送る。ノブチャンと知り合い、うどん屋の両親の親切を受け、二人は親友となっていく。
宿舟が廓舟と揶揄される中で、うどん屋の主人は「子供は親を選んで生れてこれないのだから子供に罪はない」「子供は誰の子でもない」と受け入れ、キッチャンの母もまた戦後の復興に取り残された自分と同類だと感じている。
それでも、ノブチャンの一家はその後、おそらく泥の河から抜け出せたのであり、母の売春をノブチャンに見られてしまった一家は、泥の河を流れて行かざるを得ないという終わりとなっている。
キッチャンの天使のような笑顔が印象に残る。 (評価:3.5)
公開:1981年1月30日
監督:小栗康平 製作:木村元 脚本:重森孝子 撮影:安藤庄平 美術:内藤昭 音楽:毛利蔵人
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
宮本輝の同名小説が原作。
戦後10年経った昭和30年、大阪・安治川の橋の袂のうどん屋が舞台。
冒頭、荷馬車夫(芦屋雁之助)がトラックを買う話から始まり、日本が朝鮮特需による神武景気で戦後復興を果たし、高度成長に向かっていく時代背景が描かれる。
しかし車夫は事故死。悲惨な戦争をなんとか生き延びた者が復興から取り残され、つまらない死に方をしているとうどん屋の主人(田村高廣)に言わせる。うどん屋の主人もまた満州の生き残りで、妻(藤田弓子)と泥の河=安治川の泡沫のような人生しか送れていない。
そこに登場するのが、うどん屋の対岸に繋留された宿舟=水上生活者の舟で、荷舟の船長の夫を亡くした妻(加賀まりこ)が体を売って糊口を凌いでいるといった、やはり泥の河の泡沫の人生を送っている。
本作は戦後、豊かさを手に入れていく日本社会から取り残されていく人々を、うどん屋の小学3年生の息子ノブチャンの目を通して描いたもので、それから25年後の1980年に、少年の日に置き忘れてきた陰影として追憶される。
それは同時に、高度成長を経て日本がアメリカに匹敵する豊かな国になった今(1981年)、泥の河に置き去りにされた人々の現在に思いを馳せる。それがラストで安治川を下っていく宿舟に住む一家の行く末であり、その舟をいつまでも追い続けた少年の25年後のキッチャンへの思いに繋がる。
キッチャンはノブチャンと同学年の男の子で、11歳の姉とともに学校にも行かず、宿舟で底辺の生活を送る。ノブチャンと知り合い、うどん屋の両親の親切を受け、二人は親友となっていく。
宿舟が廓舟と揶揄される中で、うどん屋の主人は「子供は親を選んで生れてこれないのだから子供に罪はない」「子供は誰の子でもない」と受け入れ、キッチャンの母もまた戦後の復興に取り残された自分と同類だと感じている。
それでも、ノブチャンの一家はその後、おそらく泥の河から抜け出せたのであり、母の売春をノブチャンに見られてしまった一家は、泥の河を流れて行かざるを得ないという終わりとなっている。
キッチャンの天使のような笑顔が印象に残る。 (評価:3.5)
製作:にっかつ撮影所、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ、ATG
公開:1981年10月24日
監督:根岸吉太郎 製作:樋口弘美、岡田裕、佐々木史朗 脚本:荒井晴彦 撮影:安藤庄平 音楽:井上尭之 美術:徳田博
キネマ旬報:2位
近郊農家の若者の性愛とリアリティを活写する青春映画
立松和平の同名小説が原作。
宇都宮近郊の温室トマト栽培農家の息子(永島敏行)が主人公。農作業が終わると友達の稲作農家の息子(ジョニー大倉)とピンサロに行ったり、団地の若妻(横山リエ)を誘惑したりと自由な毎日を謳歌している。見合いをすることになり、農業のできる健康体が条件と明言する現実主義者で、見合いの日に娘(石田えり)をモーテルに連れ込んでしまう。永島の父(ケーシー高峰)はホステスと同棲、祖母はボケ掛っていて母との仲はすこぶる悪い。そうした中で、娘は躊躇いながらも結婚を承諾する。
一方、友達の大倉は若妻の浮気に本気になってしまい、駆け落ちしてしまう。
本作で描かれるのは農家の後継ぎである若者たちのリアリティであり、第一次産業の閉塞感の中の性愛でもある。日活ロマンポルノ出身の根岸吉太郎は、男女ともに彼らの荒ぶる性欲を等身大の姿で描きだす。一見野放図に見える永島が実際には繊細で心のやさしい若者であることは次第にわかってくるが、登場する個々人物を含め、根岸の人物描写には卓越したものがある。とりわけ婚礼の夜の大倉の長台詞がいい。
ただ惜しいのは、そうした都市近郊の若者たちを見事に活写しながら、その先にあるものを描けていないことで、久し振りに観て確かによい作品だと感じながらも、頑張ってね、幸せにね、以上の感想が出てこない。それ以上のものが描けていれば、★3.5にも4にもなれる作品だった。
原泉(祖母)、七尾伶子(母)、蟹江敬三(人妻の亭主)、藤田弓子(父の愛人)の脇役陣が絶妙の演技。他に森本レオ、江藤潤らが出演している。 (評価:3)
公開:1981年10月24日
監督:根岸吉太郎 製作:樋口弘美、岡田裕、佐々木史朗 脚本:荒井晴彦 撮影:安藤庄平 音楽:井上尭之 美術:徳田博
キネマ旬報:2位
立松和平の同名小説が原作。
宇都宮近郊の温室トマト栽培農家の息子(永島敏行)が主人公。農作業が終わると友達の稲作農家の息子(ジョニー大倉)とピンサロに行ったり、団地の若妻(横山リエ)を誘惑したりと自由な毎日を謳歌している。見合いをすることになり、農業のできる健康体が条件と明言する現実主義者で、見合いの日に娘(石田えり)をモーテルに連れ込んでしまう。永島の父(ケーシー高峰)はホステスと同棲、祖母はボケ掛っていて母との仲はすこぶる悪い。そうした中で、娘は躊躇いながらも結婚を承諾する。
一方、友達の大倉は若妻の浮気に本気になってしまい、駆け落ちしてしまう。
本作で描かれるのは農家の後継ぎである若者たちのリアリティであり、第一次産業の閉塞感の中の性愛でもある。日活ロマンポルノ出身の根岸吉太郎は、男女ともに彼らの荒ぶる性欲を等身大の姿で描きだす。一見野放図に見える永島が実際には繊細で心のやさしい若者であることは次第にわかってくるが、登場する個々人物を含め、根岸の人物描写には卓越したものがある。とりわけ婚礼の夜の大倉の長台詞がいい。
ただ惜しいのは、そうした都市近郊の若者たちを見事に活写しながら、その先にあるものを描けていないことで、久し振りに観て確かによい作品だと感じながらも、頑張ってね、幸せにね、以上の感想が出てこない。それ以上のものが描けていれば、★3.5にも4にもなれる作品だった。
原泉(祖母)、七尾伶子(母)、蟹江敬三(人妻の亭主)、藤田弓子(父の愛人)の脇役陣が絶妙の演技。他に森本レオ、江藤潤らが出演している。 (評価:3)
じゃりン子チエ 劇場版
公開:1981年04月11日
監督:高畑勲 製作:多賀英典、片山哲生 脚本:城山昇 作画監督:小田部羊一、大塚康生 音楽:星勝 美術:山本二三
はるき悦巳の同名漫画が原作。『漫画アクション』の連載で、小学5年生のチエが主人公だが内容は大人向け。TVアニメに先行して公開された劇場版。
博打好きで腕力が特技のどうしようもない父親テツと、ホルモン焼き屋を取り仕切るしっかり者の娘チエを中心に、周囲の大人たちと猫の交流を描く浪速人情物語。
声優陣は、チエの中山千夏、母の三林京子以外は、大阪の漫才・落語の芸人が声を当てていて、関西風の温かみのある独特の雰囲気を醸し出している。テツの西川のりおは決して上手くなく、公開時にも気になったが、改めて観るとその味を含めての演出なのだとわかる。鳳啓助、京唄子、芦屋雁之助、笑福亭仁鶴が上手い。
本作は子供向けやアニメファン向けでない、一般向けとして作品的に成功した初めてのアニメで、その後の高畑勲作品の転換点となった。
漫画原作なので作画的には漫画風だが、小田部羊一、大塚康生の作画のクオリティはずば抜けていて、大阪の下町風景を丹念に描いた山本二三の背景がいい。レイアウトや演出も従来のアニメを超えていて、高畑の作家性が随所に光る。とりわけ、チエがマッチを消すシーン、下駄を突っかけるシーンは、それだけでチエの生活感を感じさせる秀逸なシーン。
全体としては原作のエピソードを繋ぎながら、個性的な一家の家族愛にまとめている。 (評価:3)
ラブレター
公開:1981年8月7日
監督:東陽一 脚本:田中陽造 撮影:川上皓市 音楽:田中未知 美術:綾部郁郎
金子の愛人・大河内令子の話を取材した江森陽弘のノンフィクション『金子光晴のラブレター』が原作。大河内(映画では加納有子)を関根恵子、金子(同・小田都志春)を中村嘉葎雄が演じている。映画にはラブレターは登場しない。
金子53歳の時、34歳年下の大河内を囲ってから死ぬまでの愛人生活を大河内の目を通して描く。金子の不実に悩み、精神病となっていく大河内の愛と哀しみが切なく、日活ロマンポルノ作品でありながら、女性映画の佳作となっている。セックスシーンの描写はソフトで、女性にはお薦め。
この映画で描かれる金子=都志春は気まぐれな上に嘘つき、兎と呼ぶ大河内=有子への愛は独占欲ばかりで自分勝手。そうした詩人の自傷の中から生まれる文学性を垣間見せる。劇中、都志春が初めて有子を抱くときの台詞「ぼくだって怖いんだよ」、都志春が有子は自分だけのものだというのに対して返す言葉「私は都志兄ちゃんのもので、都志兄ちゃんは私のものではありません。だから兎は独りで泣きます。それで目が赤いんです」、有子を悲しませた都志春が書いた詩「ぼくが触るきみの傷口にぼくがいる」が切ない。
世間から認められない男女の中にある、虚飾を剥いだ赤裸な愛の姿を関根と中村が好演する。加賀まりこ、仲谷昇もいい。有子が霊前に向かって吐く「どうしてこんなに早く地獄に行っちゃったの?」が最後に泣かせる台詞。東陽一監督、脚本は田中陽造。 (評価:2.5)
製作:東宝映画
公開:1981年11月07日
監督:降旗康男 製作:田中壽一 脚本:倉本聰 撮影:木村大作 音楽:宇崎竜童 美術:樋口幸男
キネマ旬報:4位
北海道、高倉健、薄幸な美女、舟歌、雰囲気だけは満点
監督は降旗康男、脚本は倉本聰で非常によくできた映画。30年前に同じ感想を持ったはずなのに、再見するまで内容をほとんど忘れていた。観終わった後に何も残らない。
主人公は射撃のオリンピック選手の北海道警刑事(高倉健)で、3つのエピソードから構成される。1967年、刑事は妻(いしだあゆみ)と離婚し、メキシコを目指すが、検問中に同僚(大滝秀治)を指名手配犯に射殺されてしまう。1976年、妹(古手川祐子)が結婚。女を狙う連続通り魔事件が起き、増毛駅前の風侍食堂の店員(烏丸せつこ)の兄(根津甚八)を容疑者として追う。1979年、連続通り魔犯人の死刑が執行され、刑事は墓参りと正月帰省を兼ねて増毛駅に降り立つ。吹雪で欠航が続く故郷・雄冬への連絡船を待つ間、飲み屋の女(倍賞千恵子)と恋に落ちるが、情夫(室田日出男)が帰ってくる。
駅=人々が出会い別れる所、というわけで刑事を中心に様々な人間模様を描いていくが、雰囲気だけで人間が薄っぺらい。犯人にしてもそれに関係する女たちにしても、人間的背景が見えてこない。
北海道の自然、高倉健、薄幸な美女と道具立ては揃っていて、それに八代亜紀の舟歌を被せるという、北の国好きな日本人の心の琴線に触れるようなAマイナーの情感に溢れるが、人間は描けていない。それでも良い映画だと思ってしまう魔法を観客にかけてしまう降旗の演出は上手い。
本作は良くも悪くも健さんの映画で、脚本も演出も健さんの哀愁を引き出すためだけに作られている。これを上手く引き立てているのが、いしだ・烏丸・倍賞の女優陣で、陰ながら根津も頑張っている。
ただ健さんの演技となると別で、黙って立っているだけの哀愁では、刑事の葛藤は演じられない。本作の肝は、スポーツとしての射撃に打ち込んできた刑事が、本来の仕事である狙撃班に組み込まれ、人間を狙撃しなければならないという葛藤。そして実際に犯人を射殺し、家族からは人殺しと罵られ、手を血で染めた刑事の慙愧。それが健さんには演じられない。ただヌボーと突っ立って辞表を懐に入れるだけで、人を殺した悩みが見えてこない。
北海道の自然は夏も冬も素晴らしい。撮影の木村大作に★0.5をあげて、せめて佳作にしてやりたい。 (評価:2.5)
公開:1981年11月07日
監督:降旗康男 製作:田中壽一 脚本:倉本聰 撮影:木村大作 音楽:宇崎竜童 美術:樋口幸男
キネマ旬報:4位
監督は降旗康男、脚本は倉本聰で非常によくできた映画。30年前に同じ感想を持ったはずなのに、再見するまで内容をほとんど忘れていた。観終わった後に何も残らない。
主人公は射撃のオリンピック選手の北海道警刑事(高倉健)で、3つのエピソードから構成される。1967年、刑事は妻(いしだあゆみ)と離婚し、メキシコを目指すが、検問中に同僚(大滝秀治)を指名手配犯に射殺されてしまう。1976年、妹(古手川祐子)が結婚。女を狙う連続通り魔事件が起き、増毛駅前の風侍食堂の店員(烏丸せつこ)の兄(根津甚八)を容疑者として追う。1979年、連続通り魔犯人の死刑が執行され、刑事は墓参りと正月帰省を兼ねて増毛駅に降り立つ。吹雪で欠航が続く故郷・雄冬への連絡船を待つ間、飲み屋の女(倍賞千恵子)と恋に落ちるが、情夫(室田日出男)が帰ってくる。
駅=人々が出会い別れる所、というわけで刑事を中心に様々な人間模様を描いていくが、雰囲気だけで人間が薄っぺらい。犯人にしてもそれに関係する女たちにしても、人間的背景が見えてこない。
北海道の自然、高倉健、薄幸な美女と道具立ては揃っていて、それに八代亜紀の舟歌を被せるという、北の国好きな日本人の心の琴線に触れるようなAマイナーの情感に溢れるが、人間は描けていない。それでも良い映画だと思ってしまう魔法を観客にかけてしまう降旗の演出は上手い。
本作は良くも悪くも健さんの映画で、脚本も演出も健さんの哀愁を引き出すためだけに作られている。これを上手く引き立てているのが、いしだ・烏丸・倍賞の女優陣で、陰ながら根津も頑張っている。
ただ健さんの演技となると別で、黙って立っているだけの哀愁では、刑事の葛藤は演じられない。本作の肝は、スポーツとしての射撃に打ち込んできた刑事が、本来の仕事である狙撃班に組み込まれ、人間を狙撃しなければならないという葛藤。そして実際に犯人を射殺し、家族からは人殺しと罵られ、手を血で染めた刑事の慙愧。それが健さんには演じられない。ただヌボーと突っ立って辞表を懐に入れるだけで、人を殺した悩みが見えてこない。
北海道の自然は夏も冬も素晴らしい。撮影の木村大作に★0.5をあげて、せめて佳作にしてやりたい。 (評価:2.5)
セーラー服と機関銃
公開:1981年12月19日
監督:相米慎二 製作:角川春樹、多賀英典 脚本:田中陽造 撮影:仙元誠三 美術:横尾嘉良 音楽:星勝
赤川次郎の同名小説が原作。
女子高生がある日突然、祖父が死んでヤクザ組長の跡目を継ぐという荒唐無稽な話で、これに父親の死とヘロインの謎が絡むというミステリー仕立てになっているが、物語も謎解きもどうでもよく、本作の見どころは女子高生を演じる薬師丸ひろ子を鑑賞する一点にかかっている。
そうした点で女子高生組長の可愛さを楽しむアイドル映画なのだが、別に美人でもなくスタイルも良くない薬師丸を雰囲気で可愛らしく見せる相米慎二の演出が上手い。リアリティの欠片もない設定とドラマなのに、その不自然さを忘れさせる。
映像的にもリアリティではなくフィクション性を高めるための作為的なカメラワークが多用され、漫画のカット割りやレイアウトを見るよう。校門に居並ぶヤクザや、「カイカン」の白く飛ばしたスローモーション、ラストのビル屋上を俯瞰する、薬師丸と渡瀬恒彦の会話シーンなどが、いかにも相米慎二らしい。
薬師丸ひろ子と同居する女に日活ロマンポルノの風祭ゆき、ヤクザに買収されている刑事に柄本明、極悪なヤクザに三國連太郎、敵対するヤクザ組長に佐藤允、その社長に北村和夫と、配役もよく、この荒唐無稽なドラマの乾いたコミカルさを上手く演じている。
ラストの新宿伊勢丹前の『七年目の浮気』のマリリン・モンローばりのスカートがまくれ上がるシーンは、イモ可愛いアイドル・薬師丸のご愛嬌。 (評価:2.5)
製作:にっかつ
公開:1981年10月23日
監督:神代辰巳 脚本:荒井晴彦、神代辰巳 撮影:山崎善弘 美術:渡辺平八郎
キネマ旬報:5位
ドロップアウトしていく男の虚無を内田裕也が好演
70~80年代にかけて日活ロマンポルノ作品がキネ旬ベスト10入りを果たしていた頃の作品のひとつで、神代辰巳はその代表的監督。
ポルノだからベスト10に選ばれてはいけないというわけではないが、映画が斜陽となり五社体制が崩れた当時の邦画の状況を示している。一つは邦画が混乱期にあったこと、一つは才能ある監督がポルノに流れたこと、そして政治の時代が終わり、映画界でも従来の価値観の崩壊が起きたこと。神代は性を通して人間を描くことに徹した。
本作では主人公のロック・ミュージシャン(内田裕也)には、妻(絵沢萠子)子がありながら愛人(角ゆり子)がいて、トルコで働かせている。しかも女と出会うと手当たり次第に誘惑し、挙句にマネージャー(安岡力也)の恋人にまで手を出すというどうしようもない人間。愛人が接客中に絞殺されると、歌手を止めて、一転、女性相手のトルコで働く。
全編に漂うのは男の虚無感で、営業のためにレコード店回りをし、有線のランキングに一喜一憂し、パンツを下ろして聴衆を熱狂させるステージに歌う意味を見いだせず、女たちを愛せず、女たちに理解されない。そうした自己表現の苦手な男が、死んだ女の陰画となってトルコで女性にかしずく。それが贖罪なのか虚無の行き着く果てなのかは観るものに委ねられるが、器用に生きることができず、ドロップアウトしていく男の姿を内田が好演する。
ライバルでありながら、友達になっていく愛人と看護婦(中村れい子)がいい。 (評価:2.5)
公開:1981年10月23日
監督:神代辰巳 脚本:荒井晴彦、神代辰巳 撮影:山崎善弘 美術:渡辺平八郎
キネマ旬報:5位
70~80年代にかけて日活ロマンポルノ作品がキネ旬ベスト10入りを果たしていた頃の作品のひとつで、神代辰巳はその代表的監督。
ポルノだからベスト10に選ばれてはいけないというわけではないが、映画が斜陽となり五社体制が崩れた当時の邦画の状況を示している。一つは邦画が混乱期にあったこと、一つは才能ある監督がポルノに流れたこと、そして政治の時代が終わり、映画界でも従来の価値観の崩壊が起きたこと。神代は性を通して人間を描くことに徹した。
本作では主人公のロック・ミュージシャン(内田裕也)には、妻(絵沢萠子)子がありながら愛人(角ゆり子)がいて、トルコで働かせている。しかも女と出会うと手当たり次第に誘惑し、挙句にマネージャー(安岡力也)の恋人にまで手を出すというどうしようもない人間。愛人が接客中に絞殺されると、歌手を止めて、一転、女性相手のトルコで働く。
全編に漂うのは男の虚無感で、営業のためにレコード店回りをし、有線のランキングに一喜一憂し、パンツを下ろして聴衆を熱狂させるステージに歌う意味を見いだせず、女たちを愛せず、女たちに理解されない。そうした自己表現の苦手な男が、死んだ女の陰画となってトルコで女性にかしずく。それが贖罪なのか虚無の行き着く果てなのかは観るものに委ねられるが、器用に生きることができず、ドロップアウトしていく男の姿を内田が好演する。
ライバルでありながら、友達になっていく愛人と看護婦(中村れい子)がいい。 (評価:2.5)
製作:松竹
公開:1981年9月12日
監督:新藤兼人 製作:赤司学文、中條宏行 脚本:新藤兼人 撮影:丸山恵司 美術:重田重盛 音楽:林光
キネマ旬報:8位
老いてからの田中裕子の貧乳ヌードは余計
矢代静一の同名戯曲が原作。
葛飾北斎(緒形拳)と滝沢馬琴(西田敏行)の交遊を軸に、貧乏浮世絵師の生涯を描くが、モデル・お直(樋口可南子)との関係が中心となるため、全体には春画などのエロスを中心とした話になっている。
公開時、『蛸と海女』の画題として樋口可南子と大蛸が絡み合う予告編が話題となったが、新藤兼人には珍しい全体にはコメディタッチでポルノチックな作品となっていて、北斎漫画そのものを期待すると芸術論は全くないので肩透かしとなる。
見どころは樋口可南子のヌードと蛸との喘ぎに尽きるとも言ってよく、娘・お栄を演じる田中裕子が15歳から70歳までを演じ、これまた貧乳のヌードを披露する。
15歳のヌードは貧乳ゆえに少女の体に見えるが、田中の演技もイケていて、本物の少女に見える。途中、それなりに歳を取った女の演技となり、最後は馬琴に惚れていたということでベッドインするが、どう見ても老婆の体ではなく、「生娘だから肌もつやつや」という台詞をもってしても無理がある。
最初に貧乳ヌードを見せているのだから何もここで脱ぐ必要もなかったんじゃないかと思われるが、新藤なりのサービスだったのか?
北斎の評伝なり芸術論なりを求めなければそこそこ楽しめる内容だが、北斎・馬琴・お栄が老いてからの特殊メイクが不気味なくらいに下手糞で、北斎の妖怪画のパロディかと思えるくらいだが、本当にそうだったのかもしれない。
浮世風呂のシーンから始まり、式亭三馬(大村崑)・十返舎一九(宍戸錠)・歌麿(愛川欽也)も登場するが、配役を見ると端から喜劇を狙っていたのか。 (評価:2.5)
公開:1981年9月12日
監督:新藤兼人 製作:赤司学文、中條宏行 脚本:新藤兼人 撮影:丸山恵司 美術:重田重盛 音楽:林光
キネマ旬報:8位
矢代静一の同名戯曲が原作。
葛飾北斎(緒形拳)と滝沢馬琴(西田敏行)の交遊を軸に、貧乏浮世絵師の生涯を描くが、モデル・お直(樋口可南子)との関係が中心となるため、全体には春画などのエロスを中心とした話になっている。
公開時、『蛸と海女』の画題として樋口可南子と大蛸が絡み合う予告編が話題となったが、新藤兼人には珍しい全体にはコメディタッチでポルノチックな作品となっていて、北斎漫画そのものを期待すると芸術論は全くないので肩透かしとなる。
見どころは樋口可南子のヌードと蛸との喘ぎに尽きるとも言ってよく、娘・お栄を演じる田中裕子が15歳から70歳までを演じ、これまた貧乳のヌードを披露する。
15歳のヌードは貧乳ゆえに少女の体に見えるが、田中の演技もイケていて、本物の少女に見える。途中、それなりに歳を取った女の演技となり、最後は馬琴に惚れていたということでベッドインするが、どう見ても老婆の体ではなく、「生娘だから肌もつやつや」という台詞をもってしても無理がある。
最初に貧乳ヌードを見せているのだから何もここで脱ぐ必要もなかったんじゃないかと思われるが、新藤なりのサービスだったのか?
北斎の評伝なり芸術論なりを求めなければそこそこ楽しめる内容だが、北斎・馬琴・お栄が老いてからの特殊メイクが不気味なくらいに下手糞で、北斎の妖怪画のパロディかと思えるくらいだが、本当にそうだったのかもしれない。
浮世風呂のシーンから始まり、式亭三馬(大村崑)・十返舎一九(宍戸錠)・歌麿(愛川欽也)も登場するが、配役を見ると端から喜劇を狙っていたのか。 (評価:2.5)
近松心中物語~それは恋~
公開:1981年11月
演出:蜷川幸雄 脚本:秋元松代
近松門左衛門の『冥途の飛脚』と『ひぢりめん卯月の紅葉』『跡追心中卯月のいろあげ』を組み合わせたオリジナルで、蜷川幸雄氏が演出した舞台のライブ映像。帝国劇場で上演された。
『冥途の飛脚』を中心にした映画では内田吐夢監督の名作『浪花の恋の物語』(1959)があるが、本作は2組のカップルが登場して、やや分裂気味。平幹二朗・太地喜和子が演じる忠兵衛・梅川は、『冥途の飛脚』とは異なり心中するという結末になっている。
『ひぢりめん卯月の紅葉』と続編『跡追心中卯月のいろあげ』は、菅野忠彦・市原悦子が演じる与兵衛・お亀が片生きの心中に終わる話で、こちらはコミカルに描かれていて、それぞれの役者が芸達者なこともあって、楽しめる芝居になっている。
ただ、2つの心中ものが並行して描かれるために一本の作品としては分裂気味で、クライマックスが二つに分かれてしまい、作品全体としてはまとまりを欠く。
森進一の演歌を主題歌にし、劇場も帝劇とあって新派風の演劇に近く、客受けするような演出もあって安心して見ていられるが、演劇に芸術テイストを求める向きには不満かもしれない。
蜷川らしさは冒頭とラストのモブシーンや、主役以外の動きを止め絵にする演出、動きのスピード感などにあって、忠兵衛・梅川が心中する吹雪のシーンがド派手。与兵衛・お亀の心中シーンでは水槽を使った川に飛び込んで意表を突くなど、エンタメとしてはサービス精神満点。
ただ、男女の恋の儚さは希薄で、近松ものとしては若干期待外れ。森進一の演歌が近松ものにはどうにもそぐわなくて、森進一が好きでないとかえって趣向を損なう。 (評価:2.5)
製作:松竹、今村プロ
公開:1981年03月14日
監督:今村昌平 製作:小沢昭一、友田二郎、杉崎重美 脚本:今村昌平、宮本研 撮影:姫田真佐久 音楽:池辺晋一郎 美術:佐谷晃能
キネマ旬報:9位
両国橋オープンセットと姫田真佐久がええじゃないか
幕末の両国が舞台。物語は見世物小屋で働く桃井かおりと夫の泉谷しげるを中心に進むが、地場を取り仕切る露口茂、刀を捨てた武士の緒形拳、琉球出身の船頭・草刈正雄等々、町人・商人・武士が織りなす群像劇となっている。そのために名カメラマン・姫田真佐久のカメラは常にフルショットからロングショットの客観視点。テレビ的なアップに見慣れた目には違和感があるかもしれない。
主観視点のドラマに比較して群像劇というのは感情移入がしにくいために失敗に終わることが多い。この作品が失敗作だといわれるのは、この点が大きい。実際、この映画は幕末の人間模様を写し取っただけで、世相と人間のサガを切り取ることには成功しているが、何を見せたかったのかが曖昧。
誰もが自己本位で平気で人を裏切る。とりわけ変革の時代に、その流れに器用に乗れる者(露口茂・河野洋平)と乗れない者(緒形拳)がいて、他の多くはその間で右往左往する。ええじゃないか踊りで両国橋を渡るも、幕府の鉄砲を前に引きさがる。そんな庶民のふがいなさを描きたかったのか? 土俗的で人間の嫌らしさを描き出すのに長けた今村昌平だが、群像劇に仕立てたために淡泊になっている。
今村昌平を始め故人となっている俳優も多い。緒形拳・小沢昭一・伴淳三郎・三木のり平・河原崎長一郎・高松英郎など個性的な面々が懐かしい。政治家で元自民党総裁の河野洋平が水戸藩士・原市之進役で出ているのもネタ。
撮影のために水元公園に作ったという両国橋のオープンセットも見どころ。姫田真佐久のカメラがいい。 (評価:2.5)
公開:1981年03月14日
監督:今村昌平 製作:小沢昭一、友田二郎、杉崎重美 脚本:今村昌平、宮本研 撮影:姫田真佐久 音楽:池辺晋一郎 美術:佐谷晃能
キネマ旬報:9位
幕末の両国が舞台。物語は見世物小屋で働く桃井かおりと夫の泉谷しげるを中心に進むが、地場を取り仕切る露口茂、刀を捨てた武士の緒形拳、琉球出身の船頭・草刈正雄等々、町人・商人・武士が織りなす群像劇となっている。そのために名カメラマン・姫田真佐久のカメラは常にフルショットからロングショットの客観視点。テレビ的なアップに見慣れた目には違和感があるかもしれない。
主観視点のドラマに比較して群像劇というのは感情移入がしにくいために失敗に終わることが多い。この作品が失敗作だといわれるのは、この点が大きい。実際、この映画は幕末の人間模様を写し取っただけで、世相と人間のサガを切り取ることには成功しているが、何を見せたかったのかが曖昧。
誰もが自己本位で平気で人を裏切る。とりわけ変革の時代に、その流れに器用に乗れる者(露口茂・河野洋平)と乗れない者(緒形拳)がいて、他の多くはその間で右往左往する。ええじゃないか踊りで両国橋を渡るも、幕府の鉄砲を前に引きさがる。そんな庶民のふがいなさを描きたかったのか? 土俗的で人間の嫌らしさを描き出すのに長けた今村昌平だが、群像劇に仕立てたために淡泊になっている。
今村昌平を始め故人となっている俳優も多い。緒形拳・小沢昭一・伴淳三郎・三木のり平・河原崎長一郎・高松英郎など個性的な面々が懐かしい。政治家で元自民党総裁の河野洋平が水戸藩士・原市之進役で出ているのもネタ。
撮影のために水元公園に作ったという両国橋のオープンセットも見どころ。姫田真佐久のカメラがいい。 (評価:2.5)
の・ようなもの
公開:1981年9月12日
監督:森田芳光 製作:鈴木光 脚本:森田芳光 撮影:渡部眞 美術:増島季美代、伊藤羽 音楽:塩村宰
森田芳光の商業映画第1作。若手落語家の世界を舞台にした青春群像劇で、タイトルは落語「居酒屋」から採られている。
物語は、一門の仲間が金を出し合って、童貞だという主人公の志ん魚(伊藤克信)をトルコ風呂に送り出すところから始まるが、和風トルコだというのに相手をするトルコ嬢の源氏名がエリザベス(秋吉久美子)というのが端から人を食っていて、本作が落語の世界そのままに描こうとしていることがわかる。
トルコ風呂という懐かしき名称からも知れるように昭和の哀愁が漂う青春映画で、落語界のみならず、出てくる女子高生も落研、主婦は団地妻という、今から見れば100万光年彼方の異星の物語になっている。
たまり漬けで有名な栃木県出身の志ん魚は栃木訛が抜けず、その朴訥さがエリザベスに気に入られて友達になる。エリザベスはパトロンのつもりだが、鈍感な志ん魚はそれに気づかず、落研の女子高生(麻生えりか)をガールフレンドに。傷心のエリザベスは雄琴に移籍し、志ん魚は女子高生の父親(芹沢博文)の前で落語を演じてダメ出しされ、夜中に堀切から浅草までトボトボ歩いて帰ってくる。
先輩の志ん米(尾藤イサオ)の真打ち昇進の祝賀会の中、自らと落語界の将来に不安を感じながら下げとなる。
森田の趣味の世界をスケッチしただけに終わっていて、パッチワーク的な散漫な印象を与え、まさしく地に足のつかない浮遊する80年代を感じさせる。
二つ目の落語家とはいえ、演じる俳優たちの落語が下手すぎて、世界観に入っていけないのもマイナス。
芸人を始め、将棋棋士の芹沢博文、漫画家の永井豪とゲスト出演者が賑やかなのも昭和っぽいが、若き日の楽太郎、6代目三遊亭円楽を見られるのが収穫か。
見どころは秋吉久美子の豪華トルコ嬢の体当たり演技。 (評価:2.5)
日本の熱い日々 謀殺・下山事件
公開:1981年11月7日
監督:熊井啓 製作:佐藤正之、阿部野人 脚本:菊島隆三 撮影:中尾駿一郎 美術:木村威夫 音楽:佐藤勝
朝日新聞記者・矢田喜美雄の『謀殺・下山事件』が原作。
1949年7月に起きた下山国鉄総裁列車轢断事件の真相を追う新聞記者の実録で、戦後混乱期にGHQが左翼勢力を叩くために行った謀略説に立った物語構成になっている。
この手の作品でいえばケネディ暗殺事件を扱った映画などがあるが、仮説に立った真相解明ものとしてはほぼ同じ。あとは、その仮説が正しいかどうかを観る側が検証することになるが、本作ではサンフランシスコ条約から日米安保条約に至る戦後史が並行して描かれていて、占領下の日本で革命勢力が弾圧されてきた戦後史の視点も強調され、これまたそれを認めるかどうかが観る側に委ねられる。
ただ矢田がモデルの新聞記者・矢代(仲代達矢)については、多少探偵ごっこ的なところがあって、証言者や情報提供者は胡散臭くて真実性に乏しく、予断と憶測に基づいた仮説の検証には独りよがりな強引さがあって、説得力に欠けるところがある。
それからいえば、「謀殺・下山事件」よりも「日本の熱い日々」の方がタイトルには相応しく、新聞記者の熱血ぶりを描くノンフィクション・ドラマとなっている。
同僚記者に浅茅陽子、警察に山本圭、平幹二朗、稲葉義男、検事に神山繁など。怪しい連中に小沢栄太郎、大滝秀治、伊藤孝雄。 (評価:2.5)
さよなら銀河鉄道999
公開:1981年08月01日
監督:りんたろう 脚本:山浦弘靖 作画監督:小松原一男 音楽:東海林修 美術:椋尾篁
大ヒットした前作『銀河鉄道999』(劇場版)の2年後に創られた続編。松本零士の同名漫画が原作。
テーマは前作と同じ、強い父への憎しみであるオイディプス‐コンプレックス。前作がマザコンの克服(実際には獅子の子落としの如く、メーテルに突き放される乳離れ)だが、本作では父の克服、ギリシャ神話通りの結末となる。
機械化人と闘うレジスタンスに参加する鉄郎は、メーテルのメッセージで再び999の旅に出る。タイトル通りアンドロメダが終着駅で、いわば敵の本丸に招待され、最終決戦をする。ハーロック、エメラルダスも登場し、新キャラ黒騎士ファウストに江守徹が出演しているのも聴きどころ。
オリジナル脚本のため、物語は前作よりも良くできている。作画的にも2年の差とは思えぬほどクオリティアップしていて、りわけ不満だった999のシーンが格段に良くなっている。前半、地球を飛び立つ999の姿は時間をかけて描かれ、中盤以降も手を抜いていない。コンテのレイアウトも当時の『インディー・ジョーンズ』張りでアクション的にも斬新、色抜きやストップ、スローや光学処理を効果的に使っている。前作が子供の観客を意識していたのに対し、本作ではそれを払拭。但し、どちらが良いかは別の問題。
ハーロック、エメラルダスにもおざなりでない見せ場を作り、映画として成立する作品になったが、後半からは親子の湿っぽい話になり急減速、ラストシーンでは説明しなくてもわかる少年の旅立ちのテーマがしつこくて、蛇足が3回繰り返される。 (評価:2.5)
男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎
公開:1981年8月8日
監督:山田洋次 製作:島津清、佐生哲雄 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純
寅さんシリーズ第27作。マドンナは松坂慶子。
プロローグは浦島太郎のパロディで、乙姫様に松坂慶子が扮する。松坂のヒット曲「愛の水中花」からの連想で、劇中、寅さんが大阪のバイで水中花を売っているのも押さえどころ。
マドンナとは瀬戸内海で出会い、大阪で再会し、今回は大阪がメインの舞台となる。松坂は芸者の役で、芸者仲間に正司照江・花江、寅が逗留する安宿の主人に芦屋雁之助、松坂の弟が勤めていた会社の社員に大村崑と、大阪の芸人が出演するため、草団子ではなくタコ焼きテイスト。大阪弁に囲まれて、江戸弁の渥美清のノリも今ひとつ。
松坂が子供の時に別れたきりの弟探しが中心エピソードで、脂の乗った頃の松阪の魅力に溢れた作品で、主人公を喰う勢い。全体にやや湿っぽい話が続くが、悲しみから酔った松坂が寅の部屋に泊まり込むシーンが、真面目な山田洋次らしく中途半端なのが残念。
松坂が寅と一夜を共にしたかったのは置手紙ではっきりするが、どこまで求めていたのかが曖昧。シナリオも演出もぼかされている。この中途半端さのため、結婚する松坂が別れを言いに寅に逢いに来るシークエンスでの松坂と渥美清の演技が上手くかみ合っていない。
寅の惚れられパターンだが、松坂の演技力不足なのか、松阪が美人過ぎるためなのか、タコ焼きに当てられた渥美の演技に精彩がなく今ひとつ。演出を含めて切れが今ひとつの作品となっている。
満男役に吉岡秀隆が初登場するが、子役ながら上手い。 (評価:2.5)
男はつらいよ 寅次郎紙風船
公開:1981年12月29日
監督:山田洋次 製作:島津清、佐生哲雄 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第28作。マドンナは音無美紀子で、テキヤ仲間の未亡人。年増マドンナを若手の岸本加世子でアシストする。
九州のテキヤ仲間(小沢昭一)を病床に見舞った寅は、死後、妻と結婚してくれるように頼まれる。死後、妻は上京し本郷の旅館で仲居となり、遺言を真に受けた寅はすっかりその気になって、所帯を持つために就職活動を開始。マドンナにその気がないことを知って旅に出るというパターン。
冒頭のエピソードでは寅が小学校の同窓会に出席して邪魔者扱いされ、遺言を無視され、就職試験に落ちるという散々な人生の落伍者を演じる。ダメ人間ではあっても自由な生き方が憧憬である寅次郎が、ここまで貶められると、寅次郎の惨めな姿しかなく、『男はつらいよ』とは方向性の違う『家族』3部作のような社会派シリアスになってしまう。
山田洋次の悪い癖が出てしまった、あまり気持ちの良い作品ではないが、九州で同宿となる家出娘の岸本加世子の天然ぶりと、その兄の地井武男の豪胆さが、その暗さを救っている。
寅の小学校の同級生に前田武彦、犬塚弘、東八郎。前田武彦は『男はつらいよ 私の寅さん』(1973)からの同役での再登場。
タイトルは冒頭で満男へのお土産の紙風船からだが、象徴的意味か、あるいは山中貞雄の『人情紙風船』(1937)へのオマージュか、本編には全く関係しない。 (評価:2.5)
スローなブギにしてくれ
公開:1981年3月7日
監督:藤田敏八 製作:角川春樹 脚本:内田栄一 撮影:安藤庄平 音楽:南佳孝 美術:渡辺平八郎
片岡義男の同名小説が原作。
野良の子猫を連れた少女(浅野温子)を拾った中年男(山崎努)と、彼に再び野良猫のように放り出された少女を拾って同棲する青年(古尾谷雅人)の二人が、少女に翻弄される姿を描くが、小説同様、空虚さと福生やムスタングといった70年代的風俗の道具立ての雰囲気だけで、何を描きたいのかよくわからない作品。
単純化すれば、野良猫は少女を仮託したもので、12匹出てくるが子猫しか登場しない。少女も捨てられ拾われ一人でふらつく野良の子猫ちゃんなわけで、その可愛くわがままな子猫ちゃんに手を焼き振り回されながらも後を追い続ける二人の男という、ただそれだけの話。
多少時代的な意味を与えれば、豊かさを手に入れた日本人が、目標とすべき価値を失い、陥った空虚感、村上春樹的喪失感の中で、男たちには目指すべきものがなく、あてどなく日常を漂って、子猫に安らぎを見出すという物語になる。
山崎の中年男は妻子のいる幸せなマイホームを手に入れながらも、その家を出て男2人女1人の奇妙な同棲生活を送り、それでも満たされずに町の女を求めてムスタングを走らせる。古尾谷の青年も鬱屈した生活の中で目標もなくバイクを走らせる。そうした中で、古尾谷は少女へ回帰していき、山崎は自己破壊=自殺願望を持つが死にきれないという形で終わる。
・・・で? というところでエンドマークとともに観客は放り出されてしまうのだが、ニヒリズムだけを見せられてもマスターベーション的に自分を慰撫するのがせいぜいという、とっても虚しい映画になっている。
藤田敏八監督作品としては今一つの出来で、むしろ南佳孝の主題歌の方が大ヒットした。
原田芳雄、石橋蓮司なども出演しているが、バーのマスター役の室田日出男がなかなかいい。 (評価:2.5)
魔性の夏 四谷怪談より
公開:1981年5月23日
監督:蜷川幸雄 製作:宮島秀司、織田明 脚本:内田栄一 撮影:坂本典隆 美術:芳野尹孝 音楽:千野秀一
鶴屋南北の歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』が原作。
冒頭、伊右衛門と遊び仲間、岩が海辺で遊ぶという四谷怪談らしからぬシーンから始まり、蜷川色を出そうとするシナリオと演出が続くが、映画的なカメラワークがあったり、舞台風なシーンがあったり、さらにはシュールな美術や演出があったりと、どうにも腰が定まらない。
梅など気が触れているように見えるくらいにキャラクターが誇張され、蜷川・四谷怪談を創ろうという意識ばかりが先走っているが、一見、寺山修司の映画の二番煎じで、寺山ほどには昇華されてなく、前衛の真似事に終わっているのが残念なところ。
各カットは映画的なシークエンスを構成できてなく、5幕11場のような舞台のシーン(場)の繋ぎ合わせのようなパッチワークになっていて、やや整合性の欠けたシナリオになっている。
伊右衛門に萩原健一、岩に関根恵子、妹の梅に夏目雅子、夫の与茂七に勝野洋、直肋に石橋蓮司、宅悦に小倉一郎、梅に森下愛子という青春映画の布陣で、新鮮な配役と青春・四谷怪談的なノリが見どころといえば見どころだが、演技が全体に今一つなのは演出のせいか? (評価:2)
魔界転生
公開:1981年6月6日
監督:深作欣二 製作:角川春樹 脚本:野上龍雄、石川孝人、深作欣二 撮影:長谷川清 音楽:山本邦山、菅野光亮
山田風太郎の同名小説が原作。
寛永十五年、島原の乱で打ち首となった天草四郎(沢田研二)が悪魔の子として甦り、細川ガラシャ(佳那晃子)、宮本武蔵(緒形拳)、宝蔵院胤舜(室田日出男)、伊賀の霧丸(真田広之)、柳生宗矩(若山富三郎)を魔物として現世に転生させ、神に代ってキリシタンたちの復讐を果たすために討幕を謀るという物語。
前半は魔物たちのリクルート、中盤はガラシャを大奥に送り込み、将軍・家綱(松橋登)を魔界に引きずり込もうとする。正気の残っている霧丸が無垢な村娘に惚れて脱落。リクルート候補だった柳生十兵衛が魔物たちの正体を見破り、村正(丹波哲郎)に請うて妖刀を打ち、失火から炎上する江戸城に乗り込んで魔物たちを断つ。
天草四郎は十兵衛に再び首を刎ねられるが、悪魔の子は滅びず、自分の首を小脇に抱えて炎の中に消えていくというラスト。
辻村ジュザブローによる天草四郎の煌びやかな衣装、魔物たちの妖艶なメイキャップで、深作欣二がアバンギャルドな時代劇を演出するのが大きな見どころ。
もっとも魔物たちの行動はバラバラでエピソードも散発的。ストーリーは纏まりを欠き、これといったテーマがあるわけでもなく、内容的には見るべきところはない。
そのため終盤の紅蓮の炎に包まれた江戸城での十兵衛と魔物たちの戦いをクライマックスにしているが、外連味しか残らない。 (評価:2)
製作:フォーライフ、東宝映画
公開:1981年10月10日
監督:市川崑 製作:馬場和夫、黒井和男 脚本:日高真也、大藪郁子、市川崑 撮影:長谷川清 音楽:石川鷹彦、岡田徹 美術:村木忍
キネマ旬報:6位
子供で泣かせる安っぽい父子家庭ドラマにした失敗作
エド・マクベインの87分署シリーズ"Lady, Lady I Did It"(邦題:クレアが死んでいる)が原作。
脚本がひどい。金田一耕助シリーズと同じ台詞回しで演出しているが、金田一は戦後間もない時期の旧家が舞台のために非現実的な効果を生んでいる。対して本作は現代の普通の家が舞台でそうした効果がなく、リアリティのない台詞の棒読みでしかなく、市川がどのような効果を狙ったのかが不明。
それに輪をかけているのが水谷豊の作った口調の演技で、永島敏行もそれに合わせているためにまともな演技になっていない。
練れていない台詞も相当にひどいが、ニューヨークがモデルの原作の舞台を東京に置き換えた翻案の無理が祟って物語そのものに魅力がなく、水谷演じる刑事の父子家庭ドラマにして体裁を整えているが、子供を使って泣かせる安っぽいシーンや台詞のオンパレードに辟易する。
脚の悪いはずの市原悦子が立ち上がるシーンなど、わざとらしいシナリオと演出が数多く見られ、加藤武の「よし、わかった」など、金田一のパロディで受けを狙うなど、市川作品としては減点0.5で★1.5にしたいところ。 (評価:2)
公開:1981年10月10日
監督:市川崑 製作:馬場和夫、黒井和男 脚本:日高真也、大藪郁子、市川崑 撮影:長谷川清 音楽:石川鷹彦、岡田徹 美術:村木忍
キネマ旬報:6位
エド・マクベインの87分署シリーズ"Lady, Lady I Did It"(邦題:クレアが死んでいる)が原作。
脚本がひどい。金田一耕助シリーズと同じ台詞回しで演出しているが、金田一は戦後間もない時期の旧家が舞台のために非現実的な効果を生んでいる。対して本作は現代の普通の家が舞台でそうした効果がなく、リアリティのない台詞の棒読みでしかなく、市川がどのような効果を狙ったのかが不明。
それに輪をかけているのが水谷豊の作った口調の演技で、永島敏行もそれに合わせているためにまともな演技になっていない。
練れていない台詞も相当にひどいが、ニューヨークがモデルの原作の舞台を東京に置き換えた翻案の無理が祟って物語そのものに魅力がなく、水谷演じる刑事の父子家庭ドラマにして体裁を整えているが、子供を使って泣かせる安っぽいシーンや台詞のオンパレードに辟易する。
脚の悪いはずの市原悦子が立ち上がるシーンなど、わざとらしいシナリオと演出が数多く見られ、加藤武の「よし、わかった」など、金田一のパロディで受けを狙うなど、市川作品としては減点0.5で★1.5にしたいところ。 (評価:2)
製作:ATG、プレイガイドジャーナル
公開:1981年7月4日
監督:井筒和幸 製作:林信夫、佐々木史朗 脚本:西岡琢也 撮影:牧逸郎 音楽:山本公成
キネマ旬報:7位
ガキがガキに見えないのが残念な、ただの不良映画
1967年の大阪が舞台。島田紳助・松本竜介が主演し、島田紳助が少年院から出てきた所から物語が始まるが、島田自身の経歴を彷彿とさせ、不良ぶりも堂に入ってセミドキュメンタリーと錯覚するような演技ぶり。『ウエスト・サイド物語』風にキタの北神同盟、ミナミのホープ会というような不良少年グループが登場して、ゴーゴーホールや喫茶店を舞台に喧嘩をする。
紳助らは無派閥の不良だが、少年院仲間・高が暴力団配下の北神同盟に入って会長に出世し、紳助は壊滅させたホープ会を吸収したピース会の会長となって、巨大組織化して北神同盟から衣替えした梅田会と喧嘩する。この喧嘩で高と松本竜介が死ぬといった、どうでもいい物語。
在日朝鮮人の不良も多数登場して、それなりに大阪の底辺社会の事情も出てくるが、単なる味付けにしかすぎず、『ウエスト・サイド物語』のような不良たちの背景となるマイノリティ問題は描かれない、ただの不良映画。
出演時、紳助・竜介25歳で、どう見ても高校生に見えず、出演者全員が不良少年というよりも立派な大人のチンピラで、タバコを吸って酒を飲んでも違和感ないところが、作品的には違和感のあるところ。
暴力団の兄貴に上岡龍太郎、紳助の父に夢路いとしと吉本興業も協力している。 (評価:2)
公開:1981年7月4日
監督:井筒和幸 製作:林信夫、佐々木史朗 脚本:西岡琢也 撮影:牧逸郎 音楽:山本公成
キネマ旬報:7位
1967年の大阪が舞台。島田紳助・松本竜介が主演し、島田紳助が少年院から出てきた所から物語が始まるが、島田自身の経歴を彷彿とさせ、不良ぶりも堂に入ってセミドキュメンタリーと錯覚するような演技ぶり。『ウエスト・サイド物語』風にキタの北神同盟、ミナミのホープ会というような不良少年グループが登場して、ゴーゴーホールや喫茶店を舞台に喧嘩をする。
紳助らは無派閥の不良だが、少年院仲間・高が暴力団配下の北神同盟に入って会長に出世し、紳助は壊滅させたホープ会を吸収したピース会の会長となって、巨大組織化して北神同盟から衣替えした梅田会と喧嘩する。この喧嘩で高と松本竜介が死ぬといった、どうでもいい物語。
在日朝鮮人の不良も多数登場して、それなりに大阪の底辺社会の事情も出てくるが、単なる味付けにしかすぎず、『ウエスト・サイド物語』のような不良たちの背景となるマイノリティ問題は描かれない、ただの不良映画。
出演時、紳助・竜介25歳で、どう見ても高校生に見えず、出演者全員が不良少年というよりも立派な大人のチンピラで、タバコを吸って酒を飲んでも違和感ないところが、作品的には違和感のあるところ。
暴力団の兄貴に上岡龍太郎、紳助の父に夢路いとしと吉本興業も協力している。 (評価:2)
天使のはらわた 赤い淫画
公開:1981年12月25日
監督:池田敏春 脚本:石井隆 撮影:前田米造 美術:菊川芳江 音楽:甲斐八郎
石井隆の劇画『天使のはらわた』が原作の映画第4作で、監督は池田敏春。脚本を石井隆が担当。
軽いバイトのつもりがビニ本のモデルにされてしまった、デパート・ガールの名美を泉じゅんが演じる。そのビニ本で名美に恋心を抱くアパートで独り暮らしをする男が村木。
村木はストーカーのように名美を追い回し、ついに告白してデートを約す。一方の名美はビニ本が会社にばれ失業。やり直しのスタートに村木とデートすることにするのだが、村木はアパートの隣家に暴漢と間違えられて猟銃で撃たれてしまう。
遅れてデートに現れた村木は、そのまま倒れ込んで、おそらくは死んでしまうというラスト。
村木を演じる阿部雅彦が役不足だったのか、池田の演出不足か、はたまた石井の脚本が悪かったのか、本作はこれまでのシリーズに比べると、ポルノ映画らしいポルノ映画。赤い糸で結ばれた運命の男女が結びつこうとする間際に、二人が結びつくことのできない悲運=陰画を描きたかったのだろうが、作品はそこまで深まっていない。
オナペットとしての泉じゅんのポルノシーンはポルノとしてはよくできていて、それが目的のロマンポルノとしては十分だが、「天使のはらわた」シリーズとしては物足りない。 (評価:2)
製作:シネマ・プラセット
公開:1981年08月21日
監督:鈴木清順 製作:荒戸源次郎 脚本:田中陽造 撮影:永塚一栄 音楽:河内紀 美術:池谷仙克
キネマ旬報:3位
よくいえばトリップ、実際にはカオスを体験する映画
泉鏡花の同名小説が原作。『ツィゴイネルワイゼン』に続く鈴木清順の作品で、わけのわからなさは前作以上。これを難解と表現するか、独りよがりと捉えるかは、商業映画に対する考え方による。
劇作家の男(松田優作)が女(大楠道代)の病院の見舞いに付き添うが、女が持っていたのは墓場の花で、後に明らかになる見舞い相手は正妻(楠田枝里子)。松田は大楠から女の魂ともらったホオズキを飲み込む。このホオズキが最後に鍵となるが、大楠の旦那は松田のパトロン(中村嘉葎雄)で、松田はそのことを知らずに大楠に近づく。一方、楠田が病死し、松田はこれとも交霊する。大楠に呼び出された松田は金沢に行き、パトロンからも心中を期待されるが、結局生きて帰る・・・といった、怪奇といえば怪奇、不可解といえば不可解な物語。
その怪奇のために脚本・演出・映像のすべてが断片化され、モザイク模様のように再構築されるが、精神分裂的な演出、ストーリー性の無視、連続性のない演技を見せられる観客は、よくいえばトリップ、実際にはカオスを体験することになる。
こうした精神分裂的な映画を60歳を前にして作った鈴木清順はいろいろな意味で凄いが、このような映画を前衛だとか感性だとかで評価してしまっていいものか?
見どころを挙げるとすれば、映像の色彩感覚と大楠道代の人形振り、松田優作が龍平の顔とダブることくらいしかなく、美術的には『ツィゴイネルワイゼン』に劣り、おそらく9割方の人は見て後悔する。 (評価:1.5)
公開:1981年08月21日
監督:鈴木清順 製作:荒戸源次郎 脚本:田中陽造 撮影:永塚一栄 音楽:河内紀 美術:池谷仙克
キネマ旬報:3位
泉鏡花の同名小説が原作。『ツィゴイネルワイゼン』に続く鈴木清順の作品で、わけのわからなさは前作以上。これを難解と表現するか、独りよがりと捉えるかは、商業映画に対する考え方による。
劇作家の男(松田優作)が女(大楠道代)の病院の見舞いに付き添うが、女が持っていたのは墓場の花で、後に明らかになる見舞い相手は正妻(楠田枝里子)。松田は大楠から女の魂ともらったホオズキを飲み込む。このホオズキが最後に鍵となるが、大楠の旦那は松田のパトロン(中村嘉葎雄)で、松田はそのことを知らずに大楠に近づく。一方、楠田が病死し、松田はこれとも交霊する。大楠に呼び出された松田は金沢に行き、パトロンからも心中を期待されるが、結局生きて帰る・・・といった、怪奇といえば怪奇、不可解といえば不可解な物語。
その怪奇のために脚本・演出・映像のすべてが断片化され、モザイク模様のように再構築されるが、精神分裂的な演出、ストーリー性の無視、連続性のない演技を見せられる観客は、よくいえばトリップ、実際にはカオスを体験することになる。
こうした精神分裂的な映画を60歳を前にして作った鈴木清順はいろいろな意味で凄いが、このような映画を前衛だとか感性だとかで評価してしまっていいものか?
見どころを挙げるとすれば、映像の色彩感覚と大楠道代の人形振り、松田優作が龍平の顔とダブることくらいしかなく、美術的には『ツィゴイネルワイゼン』に劣り、おそらく9割方の人は見て後悔する。 (評価:1.5)
製作:喜八プロ、ATG
公開:1981年12月19日
監督:岡本喜八 製作:岡本喜八、佐々木史朗 脚本:岡本喜八、利重剛 撮影:加藤雄大 美術:小方一男 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:10位
ヤマタイ国で遊ぶ頭でっかちな大人のおままごと
岡本喜八の『肉弾 』(1968)を思い出させる観念的作品だが、前作『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979)では岡本の気持ちは伝わらないと考えたのか、より観念的な上に滑りまくるコメディ、奇抜な設定が渾然一体となり、混迷を深めた作品となってしまった。
井上ひさしの『吉里吉里人』が発表された時期でもあり、設定的には吉里吉里国がヒントになったのかもしれない。
物語は婦女暴行未遂で留置場に入れられた少年がヤマタイ国の人々と出会い、失踪した父が提供していた家作に彼らが国家を築いていたというもの。少年の母はヤマタイ国に立ち退きを迫るが、少年がヤマタイ国の一員となるや保険金をかける。ヤマタイ国に警察・ヤクザが乗り込んできて戦いとなるが、運命の8月15日、家作の下に眠る不発弾が爆発して、領土を失ったヤマタイ国の人々は少年の父の運転するバスで放浪に出ると・・・というのが大筋。
これに婦女暴行未遂の被害者カップルと慰謝料の話などが絡むが、12月8日、8月15日、ヤマタイ国の閣僚、先の大戦の話などの意味深な言葉が飛び交い、その意味を考えているうちに眠くなる。
タイトルのチャールストンについては、先の大戦の頃にアメリカで流行ったという台詞があり、これまたヤマタイ国を大戦中の日本に類比する意味深な言葉として登場する。
ヤマタイ国の首相に小沢栄太郎、陸軍大臣に田中邦衛。ほか閣僚に殿山泰司、千石規子、堺左千夫、岸田森、刑事に財津一郎、殺し屋に寺田農と個性的な配役だが、どこか頭でっかちな大人のおままごと的なものがある。 (評価:1.5)
公開:1981年12月19日
監督:岡本喜八 製作:岡本喜八、佐々木史朗 脚本:岡本喜八、利重剛 撮影:加藤雄大 美術:小方一男 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:10位
岡本喜八の『肉弾 』(1968)を思い出させる観念的作品だが、前作『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979)では岡本の気持ちは伝わらないと考えたのか、より観念的な上に滑りまくるコメディ、奇抜な設定が渾然一体となり、混迷を深めた作品となってしまった。
井上ひさしの『吉里吉里人』が発表された時期でもあり、設定的には吉里吉里国がヒントになったのかもしれない。
物語は婦女暴行未遂で留置場に入れられた少年がヤマタイ国の人々と出会い、失踪した父が提供していた家作に彼らが国家を築いていたというもの。少年の母はヤマタイ国に立ち退きを迫るが、少年がヤマタイ国の一員となるや保険金をかける。ヤマタイ国に警察・ヤクザが乗り込んできて戦いとなるが、運命の8月15日、家作の下に眠る不発弾が爆発して、領土を失ったヤマタイ国の人々は少年の父の運転するバスで放浪に出ると・・・というのが大筋。
これに婦女暴行未遂の被害者カップルと慰謝料の話などが絡むが、12月8日、8月15日、ヤマタイ国の閣僚、先の大戦の話などの意味深な言葉が飛び交い、その意味を考えているうちに眠くなる。
タイトルのチャールストンについては、先の大戦の頃にアメリカで流行ったという台詞があり、これまたヤマタイ国を大戦中の日本に類比する意味深な言葉として登場する。
ヤマタイ国の首相に小沢栄太郎、陸軍大臣に田中邦衛。ほか閣僚に殿山泰司、千石規子、堺左千夫、岸田森、刑事に財津一郎、殺し屋に寺田農と個性的な配役だが、どこか頭でっかちな大人のおままごと的なものがある。 (評価:1.5)
野菊の墓
公開:1981年8月8日
監督:澤井信一郎 製作:高岩淡、相沢秀禎 脚本:宮内婦貴子 撮影:森田富士郎 美術:桑名忠之 音楽:菊池俊輔
伊藤左千夫の同名小説が原作。3度目の映画化。
松田聖子は本作が初主演で、共演の桑原正ともども学芸会のような演技が初々しい。
澤井信一郎はこれが初監督で、初々しいというかアイドル映画という難題を与えられてたどたどしい。冒頭、松田聖子のピンナップ映像から始まり、聖子ちゃんファンにでも楽しめるようにという過剰な演出がアダとなり、文芸作品としての趣はゼロ。ただただ結ばれない若い男女の安手のメロドラマになっている。
最悪なのがシナリオで、木下惠介の『野菊の如き君なりき』(1955)を真似た老年の政夫(島田正吾)が故郷にやってくる冒頭シーンが、ラストで回収されてないのが痛い。アイドル映画と割り切れば冒頭シーンは不要で、入れた以上は回想を完結させて視点を老年の政夫に戻すべき。
もう一つのクリティカルエラーは、政夫が舟に乗って民子と別れるシーンが今生の別れとなっていないこと。二人を分かつ象徴としての川の意味がなくなり、舟は単なる交通手段でしかない。これでは、冒頭シーンの意味もなければ、桟橋での別れの意味もない。
結果、今生の別れとはならず、政夫が民子の婚礼の行列を襲うという、とんでもないシーンまで登場してしまうという、なんとも情けない作品になってしまった。
政夫の家の設定を醤油醸造の商家にしているが、まるで大農家のように広い茄子畑や綿畑があるのも違和感がある。改変した設定の粗も多く、取り敢えずのアイドル映画にしかなっていない。 (評価:1.5)